光景
一
最初は強風の話をしていたんだった。
雨がバタバタとガラス戸を叩いて,ベランダが一面,真っ黒になる日は,記録的な強風が吹いていて,休日なのに遊びに行けなかった。僕はカーペットの上に寝転がって,マンガを放り投げて,天井を見ていた。大音量を注意された弟が,部屋から持ってきたヘッドホンを使って,夢中になっている海外ドラマを画面の最前線で観ていて,ママは自室で本を読み,電話があったパパは,止まってしまった電車の代わりに,同僚の人の車にどうにか乗せてもらって,とっても気を付けて帰って来ている途中のはずだった。だから強風にガタつくガラス戸以外,立っている音が無かった。僕もずっと黙っていた。ゴロ,ゴロっと寝転がっていた。それも限界だった。僕はふっと起き上がって,ガラス戸の向こうを見た。遊園地の観覧車が回っていた。くるくる回っていた。面白そうなぐらい。怖そうなぐらい。
へぇー,とリアクションが薄い,鉄道の整備に携わる従兄弟のお兄さんは,固定する方が危ないからな,と僕に教えを授けるような顔をして,せんべいをかじってクズをこぼした。合間,合間にお茶をすすり,せんべいを食べ終わると,お兄さんは手を伸ばして,山積みになったミカンを何個か落として転がして,クシャミをしながら皮をむいて,目をこすった。こたつの中で悔しくなった僕は,温めた両手を出して,平たいスマホのロックを外しながら,お兄さんに鉄道に関する怖い話を教えてよ,とお願いした。酸っぱい,甘いを味わっていたお兄さんは,僕の方をチラッと見て,そうだなーと言って,とっておきの話をしてくれた。整備している車両の電気が点いたり消えたりする話,降りてくれない乗客の話,反対に,その日初めて走り出したのに誰も乗っていない車両の話,終電を迎えた車両に閉じ込められた話,持って来たのに見当たらなくなった道具が,落し物として届けられていた話,見えないはずの運転手の顔がはっきりと見えた話,風の強い日にコンタクトレンズを見つけた話。あ,あと,と最後にしてくれた話は,しゃっくりが止まらなかった車内アナウンス。けたけたけた,と笑い転げた弟に,ムスッと膨れた僕の話。
空っ風が吹いていた午後,睡眠に入ったみんなの間を踏んで,飛んで,カタタと鳴るガラス戸のところに到着した僕は,ガラス戸の向こうの,ベランダを覗いた。従兄弟のお兄さんがタバコを吸うために,そこにいた。僕はガラス戸を開けて,残り一足のサンダルを履いて,そのままそこに座った。お兄さんはチラッとこちらを見て,鼻から煙を出しながら,見もしないで,観覧車のことを指差した。休園日のためにピッタリと固定されて,その日の天気がまる見えだった。僕はお兄さんに言った。いい天気だね,けれど,お兄さんは違う話をし始めた。あれな,俺の初デート場所。思い出の地なんだよ。へぇー,と返事をした僕は,あの日の回転を思い出して,ジェットコースターと比べて,どっちがスリル満点なのかな,ということを考えていた。あのカゴまで回りそうだから,やっぱり観覧車?いやいや,怖さを目的にした分だけ,ジェットコースターなのかも。その観覧車の方を見たお兄さんは,お兄さんの方を見ない,僕の好きな人のことを訊いた。いないよ,と僕が答えると,じゃあ気になる人は?と続けて訊いた。それに僕が答える前に,お兄さんは,俺はな,と答えようとした。僕はそれをさえぎった。ねえ,お兄さん。男同士の恋バナなんて,盛り上がらないと思わない?言われた方のお兄さんは,わはは!と大きな声で笑って,言えてる言えてる,と二回続けて言った。言った方の僕は,バレないように,唇を曲げて笑いをごまかしていた。笑っているお兄さんは,それに気付いていなかった。お兄さんはずっと笑っていた。僕のはそこまでじゃなかった,けど声に出さずに笑うところまでになっていた。収まるまでに時間がかかる話題だった。骨組みが目立つ観覧車になっていた。知らない名前はけっこう並んだ。肘でつつこうとするお兄さんがウザくて,届かない距離を僕は十分に保った。おかげで,なにをしてるのー?と弟に尋ねられたとき,説明は上手に出来なかった。意地悪なお兄さんは笑っていた。
ベランダから中を覗くと,弟以外はまだ眠っていたから,どの部屋からだって誰一人,出てくることはなかった。僕も出る,と言って弟が玄関の方に走っていった。代わりに僕が部屋の中に戻るよ,と言うタイミングを逃してしまって,弟は角を曲がって,姿を消した。弟がまた角から姿を見せるまで,僕はイヤでも待たなきゃいけなくなった。僕の後ろからお兄さんも顔を出してきて,バタン,タタタと聞こえてくるまで,二人して,前を見つめないけなくなった。幸せを呼べるなら,苦笑いでも何でも浮かべる覚悟を持っていた。テレビで何かが祝われていた。
多分,観覧車はネオンですっかり彩られていた。
光景