鬼の手

第一章

 来客を知らせるブザーが鳴り、探偵は机の上に広げていた書類を手早くしまった。扉の前の階段を上がる靴の音が近づき、ためらいがちに細く扉が開く。
 女が一人おどおどした様子で室内を見回し、探偵の姿を認めると
 「あの……ご相談をしてもよろしいでしょうか。」
 蚊の鳴くような声で言い、(うつむ)いた。
 扉が開くと蝉の声が増幅して耳の奥で反響する。今日もうだるように暑い真夏日だ。
 探偵は柔和な笑みを浮かべて立ち上がり
 「どうぞ。
 立ち話するようなことではないでしょうから、どうぞおかけください。」
 女を応接室の椅子に誘う。
 女は探偵に勧められた椅子に腰掛け、膝に置いたハンドバックの紐をぎゅっと握り締めながら硬い表情のまま(うつむ)く。
 探偵は開襟シャツの袖をめくってしきりに扇子で扇いでいたが、女は葬式の帰りかと思わせるような真っ黒いワンピースを着て、汗一つ浮かべず青白い顔で麦茶の氷が融けるのをじっと見つめている。見たところ女は二十歳くらいで、青ざめた顔をしているが瞳が大きく、小動物のような愛らしい面立ちをしている。
 カラン
 麦茶の氷が融けてグラスに当たる音が響き、女はびくっと肩を震わせて探偵を見た。
 しかし、探偵と目が合うと、何かに怯えているように視線を外す。
 探偵は一つため息をつき、
 「私は霊能力者や占い師ではありません。
 相談事があるのなら話していただかなければ。じっと黙り込んでいるだけでは何の解決にもなりませんよ。」
 諭すように話しかけた。
 「さようでございますね……」
 女は麦茶を一気に飲み干すと、意を決したように探偵を見つめ、震える声で語り出した。

 「私は本田子爵のお屋敷に幼い頃よりご奉公しております。
先週ご当主の春彦様がお亡くなりになったことは新聞にも載りましたからご存知でございますわね。」
 「もちろん、存じ上げていますよ。」
 探偵は大きく頷いた。
 女の名前は青木保子といい、本田子爵の屋敷には五年前から奉公している。先週亡くなった当主である春彦氏は本田家の嫡男ではない。本田家の長女の夫。つまり婿養子だ。
 春彦氏は洋食器の輸入事業で成功した資産家で、経済的に逼迫していた本田家の家名をいわば金で買ったと結婚当時口さがない人々が噂していたという。
 「では相談というのは、ご当主が亡くなられた件についてですか?」
 華族の問題となると、相談内容によってはひどくやっかいだ。探偵は断る理由を探そうと手帳をめくって予定が書き込まれていないかチェックした。
 だが、手帳は探偵をあざ笑うように数ヶ月間にわたって真っ白なページが続いている。
 「はい。
私は春彦様を殺しました。」
 保子は時候の挨拶でも述べるような何気なさで「春彦様を殺した。」と発声した。
 「……は?」
 探偵は彼女が何を言ったのか理解できず「殺した?」と鸚鵡返しに訊ねた。
 「私が春彦様を殺したのでございます。」
 保子は探偵の目を見つめて、はっきり言い放った。
 探偵は先週読んだ新聞の紙面を思い出しながら
 「ご当主の春彦氏は、確か持病の心臓病の発作でお亡くなりになったと新聞で読みましたが。」
 「さようでございます。」
 「病気でお亡くなりになった方をあなたは殺したと仰るんですか?」
 「はい。」
 探偵は肩をすくめると
 「自首なさるなら、警察に行かれるのがよろしいでしょう。
どうぞお引取り下さい。」
 席を立ち、大股に戸口に向かい扉を開いた。
 「待ってください!」
 保子は慌てた様子で立ち上がり、
 「もちろん警察には伺いました。
でも、他殺ではないからと言って私の話を聞いてくれないのです。
お願いですから私の話を聞いてくださいまし。
そうでないと私、良心の呵責に苛まれて……辛くて。」
 膝から崩れ落ちるように蹲り、両手を合わせて懇願する。
 探偵はため息をつき「話を聞くだけですからね。」と念押ししながら席に着いた。
 保子はほっとした様子で椅子に腰掛け、静かな声で語り出した。
 「私が春彦様を殺したのは紛れもない事実でございます。
 春彦様がお亡くなりになった日……
 あの日は曇り空で、今にも雨が降りそうな天気でした。そんな空模様ですから私は洗濯をとりやめてお屋敷内の掃除をすることにいたしました。
 本田家敷地内には古くから代々続いている日本家屋のお屋敷と、春彦様がいらしてから建てられた洋館とがございます。私は洋館のお手伝いをする機会が多く、その日も洋館の中を掃除しておりました。洋館内は贅を凝らした作りで春彦様の事業が食器の輸入ということもあり、壁に取り付けられたランプシェードに至るまで精巧な細工が施された磁器で作られています。
 掃除をする時は上のものから。とご奉公に上がったときから教え込まれておりましたので、私は壁に取り付けられたランプシェードの埃を拭いながら廊下を移動しておりました。
 ちょうど春彦様の書斎の前を通りかかったとき、私はなにか柔らかいものを踏んだ気がいたしまして、ぎょっとして足を退けますと……小さな手が廊下に落ちていたのでございます。」
 保子は恐ろしいものを思い出したように小声で「あれはきっと鬼の手なのでしょう。」と言い、唇を噛んだ。
 「手……ですか。」
 探偵は理解しがたいと言わんばかりに眉根を寄せて腕を組む。
 「はい。その手は小さな赤子の手くらいの大きさで、柔らかい掌を上に向けてどこからともなく降ってまいります。例えて言うならば“椿の花が花びらを散らすことなく花ごと地面に落ちる様子”と申しましょうか……小さな手も手首から先がぽとり落ちたように突然屋敷内に現れるのでございます。
 打ち明けますが、私が小さな手をお屋敷内で見かけたのはあの時が初めてではございません。ご奉公に上がりだした当初から数ヶ月に一度の頻度でお屋敷内に小さな手が落ちているのを見かけておりました。
 初めて見つけたときは驚きましたし不気味に思いましたから人を呼んだりもしたのですが、人が来る前に自然と消えていて……不思議なことにその手は私の前にしか現れませんでした。
 小さな手が床に落ちているだけで特に何事もありませんから、そのうち私もお屋敷内で手を見かけても気にならなくなったのでございます。」
 「ふむ……
一つ伺いますが、その手とやらをお屋敷以外の場所で見かけたことはないのですか?」
 「はい。
お屋敷の外で見たことはございません。」
 保子はなぜそんな質問をするのかと怪訝そうにこちらを窺っている。
 「失礼しました。どうぞ話を続けてください。」
 探偵は頭から可能性の一つを消しながら話の続きを促した。
 「害がないとはいえ、奇妙な物に違いはないのですから、直接その手に触れたことはございませんでした。
 しかしあの日はランプを拭う為、上を向いて歩いていたので足元に落ちている小さな手が目に入らなかったのです。踏んでしまっても小さな手は相変わらずふっくらとしていて、潰れたり、血がにじんだりはしていませんでした。
 私は屈んで小さな手を拾い上げました。
 その時、書斎から春彦様が出ていらっしゃったのです。私は慌てて小さな手をどこかへ仕舞おうと辺りを見回しました。
 春彦様は怪訝な顔をなさって私の仕草をご覧になっていましたが、小さな手を持っている左手を目にした途端『あっ!』と叫んで尻餅をつきました。
 私は急いで春彦様の傍に駆け寄り『春彦様、大丈夫ですか?』と声をかけましたが春彦様は私が持っている手をじっと見つめたまま青白い顔をなさっています。
 春彦様のご様子を拝見いたしまして、この手はとんでもないものなのかもしれないと俄に恐ろしくなり、手をその場に落としてしまいました。
 小さな手は絨毯の上にぽとりと手の甲を上にして落ちると……小さな五本の指がもぞもぞ動き、あたかも意思を持っているように春彦様の体に取り付いたのでございます。
 春彦様は腰を抜かしたまま後ずさりなさいましたが、小さな手は春彦様の体を伝って胸の辺りまで這い上がりました。そして左胸の上で大きく手を開き、服の上からぎゅっと春彦様の胸を掴んで、音もなく消えたのでございます。
 その仕草は、まるで春彦様の心臓を鷲掴みにして握りつぶしたように見えました。
 春彦様は『うう。』と低くうめいて胸を押さえて苦しそうに、見えない手を引き離そうと胸をかきむしっています。
 私は手の動きに驚いて一瞬立ちすくんでいましたが、ふと我に返り、人を呼ぼうと大声を出しました。」
 保子はその時の様子を思い出したように身震いすると、ハンドバックからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
 「春彦様は蒼白なお顔をなさって息も絶え絶えになっていらっしゃいます。
私はお背中をさすりながら、人がくるのを待ちました。
 しばらくすると、執事の片岡さんが『何事ですか?』と早足でいらっしゃって、春彦様のお顔の色を見ると胸ポケットからお薬を取り出し手早く春彦様のお口に含ませました。そして『私は春彦様をひとまず客室に運びますから、お医者様を呼んでください。』と春彦様を支えて立ち上がりました。
 お医者様を呼ぼうと電話の置いてある本宅へ通じる渡り廊下を急いでおりますと、ちょうど玲子お嬢様が愛犬をお連れになって散歩から戻られたところでした。中庭で愛犬を優しくブラッシングしながら私に目を止め、ただならぬ様子を感じられたのか『何かございましたの?』とお尋ねになりました。『春彦様のご容態が……』と申し上げますと、廊下の手すりを身軽に乗り越えて『お父様はどこにいらっしゃるの?』とお尋ねになり、返事をする前に駆け出していました。私は玲子様のお背中に向かって『一階の客室にお運びしています。』と声をかけ、本宅へ急ぎました。
 本宅でお医者様を呼んだ後、客室に参りますと春彦様のベッドの傍らで玲子様が春彦様のお手を取って心配そうにお顔を覗き込まれていました。
 春彦様はまだ息が荒く苦しそうになさっていましたが、玲子様のことはお分かりになるらしく、じっとお顔を見て何か物言いたげなご様子でした。
 私は片岡さんにお医者様を呼んだことを申し上げて退室いたしました。
 それからほどなくしてお医者様がいらっしゃいましたので、客室にご案内しながら、春彦様が倒れた時の状況をお話しました。」
 「春彦氏が倒れた状況と言いますと、医者に小さな手の事も話したんですか?」
 「いえ、お医者様には『何かに驚かれたように倒れられた。』とだけ申し上げました。
小さな手の事を今お話しても不審に思われるだけだと言うことは存じておりましたし、お医者様は春彦様が倒れられた状況を説明して欲しいとお尋ねになっただけでしたので。
事件の後、あの手についてお話ししたのは警察の方だけです。
警察の方はまともにとりあってくださいませんでしたが……。」
 保子は不安そうに探偵を見やり、ため息をついた。
 探偵に話したところで、どうにもならないことは彼女自身よく分かっている様子で。彼女の瞳には諦めと絶望が色濃く映し出されている。
 探偵は保子の話を聞きながら、いくつかの可能性を見つけていた。
 「では、警察と私以外に手の事を知っている人はいないのですね。
……分かりました。続きを聞かせてください。」
 「はい。お医者様が診察をされるので、私と片岡さんは退室いたしました。
 玲子様が春彦様のお傍を離れずに看病すると仰いましたので、片岡さんは寝椅子を客室に運ぶ準備をするため、土蔵へ行かれました。
 私は診察か終わったお医者様をご案内するよう言い付かっておりましたので、診察が終わるまで廊下でお待ちしていました。廊下の窓からお庭を見ますと、土蔵の扉を開けて片岡さんが庭師さんと一緒に大きな寝椅子を運び出している様子が見えます。
 30分ほど経ちまして、お医者様が診察を終えられたので玄関ホールまでご案内いたしますと、ちょうど外で片岡さんが寝椅子の埃を叩き落としていました。
 私とお医者様の姿を認めて、こちらへ来て私に寝椅子を磨くよう言いつけますと、お医者様と深刻な顔で話し込んでいました。私はすぐ布巾を取りに水屋に参りましたので、春彦様のご容態など、込み入ったお話は何も伺っていません。
 寝椅子を客室に運び込みますと、玲子様が少し弾んだお声で
 『お父様。同じお部屋で寝るのは随分久しぶりですわね。』と仰いました。
 春彦様はお医者様の薬で随分お楽になられたご様子で微笑んでいらっしゃいます。お顔の色も良くなって、本当にあの時はこのままご回復されるかと思いました。

 少し遅めの昼食をお運びしている時、曇り空から大粒の雨が降り出してあっという間に辺りが暗くなってしまいました。激しい雨が降り注ぎ、こころなしか、遠くで雷の音も聞こえる気がいたします。
 庭師さんが手早く雨戸を閉める音が屋敷内に響き渡りました。
 私は雷が苦手でございますから、雷が近くならなければいいのにと思っておりましたが、夕方頃にはいっそう激しい雷雨となりました。普段は夕食の片づけをいたしましたらお暇させていただいているのですが、激しい雷雨でお屋敷から出ることもままなりません。
 他の使用人の方の中にも雷雨に足止めされた方がいらっしゃいましたので、私もその日はお屋敷に泊めいていただくことにいたしました。
 雷雨はなかなか収まらず、私は恐ろしくて居間から動けずにいました。
 片岡さんは起きていらっしゃいましたが、他の方は控え室で休まれていました。
 午後10時頃でしょうか、やっと雷が遠のきましたのでほっと胸を撫で下ろしまして控え室に下がって休むことにいたしました。
 控え室に向かうため廊下を歩んで客室の前を通りかかりますと、お部屋からなにやら苦しげなお声が聞こえてまいります。
 また発作を起こされたのかと心配して扉を開きますと、玲子様が春彦様の傍らの椅子にお掛けになったままうとうとなさっています。
 ベッドに横になった春彦様は安らかな寝息をたてながら、ぐっすりとお休みになられて苦しそうな様子など微塵も感じさせられません。
 苦しそうな声が聞こえたのは空耳だったのだとほっと胸を撫で下ろして、椅子でお休みになられている玲子様がお風邪を召されてはいけないと思い、私は玲子様のお肩を軽く叩いて起こし、寝椅子に移動していただきました。
 玲子様はとろんと夢見心地なご様子で寝椅子に横たわると、すぐにお休みになられました。
 サイドテーブルに置かれていた紅茶が冷えてしまっていましたのでお下げしようとした時、私の目に信じられないものが映りました。
 あの小さな手が、テーブルの上に乗っていたのです。
 春彦様が倒れられた原因もこの手にございますので、私は手をどこかに捨てなければと思い、手を持って早く退室しようといたしました。
 戸口に立ったとき、春彦様がお目覚めになったご様子で『水が欲しい。』と仰いました。
 私は手を後ろ手に隠し『すぐにお持ちいたします。』と断って、部屋を出ようといたしました。
 すると、春彦様が半身を起こされて『その手は何だ?』とお尋ねになったのです。
 私は咄嗟に『なんでもございません。』と首を振って後ずさりいたしました。
 春彦様はひどく怯えた様子をなさっていましたが、途端に声を荒げると
 『なんなんだその手は!
 お前は“あれの手”を持って来て、私に復讐するつもりなのだろう!』と仰いました。
 私はひどく混乱しながら、ただ『申し訳ございません。』と震える声で言い、その場を離れようといたしました。
 『瞳!……私を置いていかないでくれ。』春彦様は昔お亡くなりになられた奥様の名前を呼んで私を引きとめようとなさいました。おそらく、病に侵され朦朧とした意識の中で私を奥様と見間違えたのでしょう。
 私は振り返りました。
 春彦様は安堵した表情で『瞳、どうか傍にいてくれ。』と仰いました。私は戸惑いながらお傍に寄り、春彦様のお手を握りました。その……亡くなられた奥様と思っていらしても、春彦様が安心してお休みになられるのなら、お傍にいようと思ったのです。
 春彦様の御加減はずいぶん悪そうで、お顔の色も優れず、心が夢と現の間を彷徨っておられるように見受けられました。
 しかし、近くで私の顔をご覧になった途端、春彦様は血相を変えて手を振りほどき、私を平手打ちになさいました。私は頬の痛みに一瞬我を忘れて春彦様を突き倒しました。
 春彦様は驚いた表情でこちらをご覧になりましたが、きっと睨んで今にも掴みかかろうとなさいます。
 私は咄嗟にずっと握り締めていた小さな手を取り出して春彦様に見せました。
 春彦様は大きく目を見開いて恐怖にひきつった表情をなさって『瞳……』とかすれた声で仰いました。
 私の中で、殺意と言うべきものが芽生えたのはその瞬間でした。
 私は哀れな病人の胸の上に小さな手を置きました。
 彼は低く呻いて目を閉じました。
 私はふと我に返って自分の行いにおののき、逃げるように退室したのです。

 控え室の布団に入ってもなかなか寝付けず、何度も寝返りを打ちながら漸く浅い眠りについたころ、廊下を大勢の人が慌ただしく走る足音が聞こえて目が覚めました。
 身支度を整えて部屋を出ますと、客間の扉が開いて人が出入りしています。部屋の中から玲子様が『お父様!』と泣きながら呼んでいらっしゃるお声が聞こえてきます。
 そのご様子から春彦様の身に何かが起こったことは確かでした。私は廊下に立ちつくしました。
 もしかしたら、あの手を置いたことによって春彦様のご容態が悪くなったのかもしれないと思いますと、不安な気持ちと罪悪感に苛まれます。
 ガラリと引き戸が開く音がして、片岡さんが本宅との渡り廊下から屋敷に上がり、こちらを向きました。その悲しみに満ちた表情を見た時、私は恐れていたことが最悪な形で現実になってしまったと予感しました。
 彼は私に気付くと足早に近づいて『今しがた春彦様がお亡くなりになりました。』と厳かに告げ、客室に向かいました。
 その言葉を聞いた瞬間、手足が氷のように冷たくなり目の前が真っ暗になりました。全身の力が抜け、その場にへたへたと座り込んでしまいました。」
 保子は青ざめた顔で唇を震わせ、両手で顔を覆った。
 「……それからのことはよく覚えておりません。
春彦様のお通夜や告別式のお手伝いは致しましたが、もう、ぼんやりしてしまって。
ただ、私があんなことをしたから春彦様のお命を縮めてしまったのだということだけは確かなのでございます。」
 保子は両手を解くとハンカチで目元を拭い
 「探偵様、あの小さい手の正体を調べて、どうか私の罪を立証してください。」
 探偵の目をまっすぐ見据えて言った。
 なにもかも打ち明けたことですっきりしたらしく、その瞳に迷いはない。
 人の話を聞いていると時間の感覚がなくなりがちだが、応接室の窓から西日が差し込んで机の上に長く伸びている様子から、思った以上に長時間話し込んでいたことに気付く。
 探偵は手帳をゆっくりと閉じると
 「ご自分の罪を証明して欲しいと依頼されたのは初めてですよ。」
 半ば呆れたように肩をすくめ
 「あなたの話を伺ううちに、この依頼を受ける気になりました。
これが事実ならば大変な事件ですよ。
ただ、あなたの話だけでは不明な点が多い。
こちらでもいくつか調べたいこともありますから、今日のところはお引き取りください。
近日中に調べたことも含めてご報告いたしますので、連絡先だけ伺っておきましょう。
おっと、その前に……」探偵は胸ポケットから名刺を取り出し
 「申し遅れました。
私は桧垣探偵事務所の桧垣努と申します。」
 名刺を手渡した。
 「桧垣探偵さんですわね。」
 探偵は軽く手を振り
 「これから先、外でお会いする機会もあるでしょうから、状況によっては探偵と呼ばれると困ることもあります。
桧垣とだけ呼んでください。」
 「まあ、本などで目にする探偵さんと同じですわ。」
 保子は瞬きをしながら微笑むと
 「では桧垣さんとお呼びしたのでよろしいですね。」
 ハンドバックから万年筆を取り出し、連絡先を記入していく。
 探偵業ほど、本に書かれているものと現実とが乖離している職業はないだろう。華々しく活躍し、犯人をピタリと言い当てて逮捕することもなければ、毎度名推理が浮かぶわけでもない。
 実際、私立探偵には警察のような捜査権限もありはしない。地道に手がかりを探ったり、時には人に嘘をついてでも情報を入手しなければならない職業である。
 「君はペテン師に成り下がったわけだ。」桧垣が開業した時に元同僚が言った言葉だ。
 だが、一般の人にとって本に書かれている探偵のイメージは強いらしく、面白半分に無理な依頼をしてくる人が多いのも事実だ。
 桧垣は皮肉な笑みを浮かべながら几帳面な字が並んだ用紙を受け取り
 「では、こちらの住所に連絡するようにしましょう。
これから調査をする上で、私のかわりに助手がお話を伺う機会が多くなりますのでご紹介いたします。」
 失礼、と断ってから桧垣は席を立ち、窓を開けて大きく伸びをすると一、二と掛け声をしながらラジオ体操を始めた。
 保子は桧垣のラジオ体操を見ながら唖然としている。
 「あの……助手の方をご紹介いただけるのでは?」
 「ええそうですよっ!一、二!」
 桧垣は上体を回しながら答える。
 「どうも腑に落ちないのですが、その体操は、助手の方を呼ぶためなのですか?」
 保子は使いの者が外にいると考えたらしい。窓際に寄り、ぐるりと周囲を見渡した。だがそれらしき人影は見当たらず、窓から離れて体操を続けている桧垣を見て、ふたたび口を開こうとした時、応接室の扉が勢いよく開いて一人の少年が駆け込んで来た。
 「おじさま!ご用ですか?」
 人懐っこい笑顔を浮かべはきはきと威勢よく発声する。
 動きやすそうな膝丈の短パンに白い麻地の半袖ブラウス。小麦色に日焼けした肌が映えて、いかにも活発そうな少年だ。
 「やあ。君が来るのが遅いものだから、このご婦人は私の頭の具合がおかしくなったのではないかと心配していたようだよ。」
 桧垣は軽口を叩きながら少年を見て笑う。
 少年は保子の姿を認め、あっと息を飲むと耳まで真っ赤になりながら
 「お客様でしたか。」
 帽子を取ってぺこりとお辞儀をする。
 桧垣は微笑みながら少年に
 「青木保子さんだ。」
 と紹介すると、少年はまたぺこりとお辞儀をした。その様子を見ていた保子は自然と表情をほころばせ
 「よろしくお願いします。」
 丁寧にお辞儀した。
 桧垣は少年を手招きすると保子に向き直る。
 「この子が私の助手の瀬尾勝実君です。
私の代わりにあなたに接触する機会があるかもしれませんのでお見知り置きください。」
 「はい。」
 「では、調査状況を一週間以内にご連絡いたしますので、今日のところはお引き取りください。」
 「はい。よろしくお願いしたします。」
 保子は深々と頭を下げ、戸口で一礼すると退出した。

 桧垣は窓から彼女が大通りを歩く姿を確認すると、勝実に椅子にかけるよう促した。
 「さて、今のご婦人なのだが……」
 勝実は背筋をピンと張って膝をきちんと揃えて椅子にかける。
 「先生。久々に事件ですね!」
 行儀よくしているが、うきうきと胸を高鳴らせ、桧垣の話を聞くのが待ちきれない様子が見て取れる。
 勝実は桧垣の姉の子だ。普段はくだけた調子で桧垣の事を「おじさま。」と呼ぶが、探偵の仕事を手伝うときは「先生。」と呼ぶように言い聞かせている。
 「そう。事件だよ。
 詳しいことはまだ話せないが、少し大きな事件だからね。君にも協力してもらわなければならないようだ。
君、本田子爵は知っているだろう?」
 「はい。先週お亡くなりになった方ですね。
 ええと、私の友達の姉が本田家の玲子嬢の友人で、本田子爵の告別式にも参列したと聞いたことがあります。玲子嬢はお父上を亡くされて随分ふさいでいらっしゃるご様子だったとか。」
 「ほう。よく知っているね。」
 「はい。彼女は玲子譲と親しくさせていただいていることをいつも自慢していますから。」
 勝実は友達から聞かされる自慢話にややうんざりしている様子で顔をしかめる。
 「その友達と言うのは?」
 「倉田さんと言います。父親が陸軍に勤めているそうです。」
 「なるほど……」
 勝実が通っている学校は有名な私立の学校で華族をはじめ、軍の上層部や資産家など上流階級のご子息やご息女が多い。
 だが華族の中で子爵という階級はそれほど高くもなく、宮様がいる学級さえあるこの学校で勝実の友人が玲子嬢と親しいと、殊更に自慢するのが解せない。
 「ふむ。倉田さんはどうして玲子嬢と親しくしていることが自慢なのかな?」
 「先生、ご存じないのですか?
 玲子嬢はとてもお美しい方で、学校主催の芸術祭の表紙に写真が載るくらい華やかな方なんですよ。」
 「皆の憧れの的だった訳だ。」
 「はい。倉田さんは『玲子様を見ていると女の私でもうっとりしてしまう。』と口癖のように言っています。」
 「芸術祭といえば、玲子嬢は何か芸術活動をしているのかい?」
 「確か……声楽をされているそうです。
(まばゆ)い朝の心地よい目覚めを促す小鳥のさえずりのようなお声。』と、これまた倉田さんがうっとり話していました。」
 「倉田さんは随分詩的な表現をする友人だね。」
 「ええ。彼女は文芸部ですから。」
 「声楽か。」
 桧垣はふと何かを思いついたように軽く頷くと、時計を確認し
 「おや、もうこんな時間だ。
お迎えが来る頃だろうから、教室に戻ったほうがいい。」
 勝実を連れて探偵事務所を出た。
 探偵事務所が面している大通りとは反対側のやや狭い通りを抜け、斜め向かいにある二階建ての建物に向かう。建物の入り口には小さく『桧垣音楽教室』と書かれた看板がかけられており、中からたどたどしくバイエルをおさらいするピアノの音が聞こえてくる。
 桧垣音楽教室は桧垣と妻の香がピアノやバイオリンを教えている教室だ。
 勝実はピアノとバイオリンを習いに週に二回、この音楽教室に通っている。香曰く、真面目で熱心な良い生徒だそうだ。
 勝実は桧垣に軽く一礼すると、メトロノームがリズムを刻むような正確な歩調で廊下を歩み、ピアノの音が響く部屋に姿を消した。

第二章

  真夏の日差しを遮ってくれる緑の遊歩道を抜けると本田子爵の邸宅が姿を現す。威容を誇る日本家屋の少し奥に瀟洒(しょうしゃ)な洋館が佇んでいる。年代を感じさせるどっしりとした日本家屋と真新しい洋館。言葉にすると異質な取り合わせだが、実際に目にすると洋館が控えめに建てられているため、双方のバランスが上手に取られておりどちらも見劣りすることなく美しい外観を保っている。
 桧垣は建物の全体が見える位置で足を止めると「ほう。」と感嘆のため息をもらした。
本宅を回り込む小路を辿って洋館の玄関に着く。呼び鈴を鳴らし、現れた女中に要件を伝える。女中は「お待ちしておりました。」と頷き談話室に案内した。
 桧垣は胸ポケットから懐中時計を取り出す。懐中時計の長針は約束の時刻の15分前を指している。談話室はひっそりと静まり返りこの部屋の主はまだ姿を現さない。一緒に連れてきた勝実は行儀よく姿勢を正して椅子にかけ、やや緊張した面持ちで膝をそろえた。
 桧垣は立ち上がると談話室の中央に置かれたグランドピアノに近付き、磨き上げられた漆黒のピアノに触れようとした。その時、後ろで勝実がはっと息を飲む音が聞こえ、勝実が視線を向けている方向を見ると人が出入りできそうなほど大きい窓が半開きになっている。窓に手をかけて、一人の少女がこちらを向いて微笑んでいるのを桧垣の目が捉えた。白いワンピースに包まれた華奢な身体の上にフランス人形のように整った愛らしい顔が乗っている。白昼夢でも見ているような感覚に襲われて、桧垣は暫しの間、言葉を失った。
 少女はにっこり笑うとひらひらのスカートを器用にたくしあげて窓枠をまたぐ。
 「こんにちは。」
 透明感のある澄んだ高音で歌うように挨拶し、談話室の絨毯の上にふわりと着地した。
 少女は幻ではなく生きている人間だ。桧垣はほっと息をつくと少女に近づき「玲子お嬢様ですね?」と優しく尋ねた。
 「はい。あなたは新しい伴奏の方ですわね。」
 桧垣は軽く頷き、玲子をピアノの傍にエスコートする。
 勝実が手早く譜面を広げ、玲子に会釈した。
 「この方は?」
 「私の生徒で、瀬尾といいます。
本番の時に私の脇で譜面をめくる助手を務めますので、今日は紹介も兼ねて連れてまいりました。」
 「そう。」
 玲子は鷹揚に頷くとピアノの前に立った。
 「コンサートで歌う演目はご存じですわね?“アレルヤ”からお願いいたします。」
 「はい。」
 桧垣はピアノ椅子に浅く腰かけ、注意深く一つ一つの音を丁寧に奏でる。優しく柔らかなピアノの音色を聴きながら玲子は祈るように胸の前で手を組み、儚げで繊細な高音で歌いはじめた。
 玲子が練習しているのは、来月催されるチャリティコンサートの演目だ。年に一度催されるこのコンサートで玲子は毎年数曲の歌を披露している。桧垣はコンサートが近々開催されることを知り、伴奏を担当していた知人に頼み込んでその役を代わってもらったのだ。
 一通りコンサートで歌う曲を練習し終わったのを見計らって、談話室の扉が開き執事の先導で女中の恰好をした保子が焼き菓子と紅茶が載ったワゴンを押してきた。保子は桧垣と勝実の姿を見つけて一瞬身を固くしたものの、俯いてテーブルにお茶セットを並べていく。
 テーブルの脇で執事がこちらに向き直り一礼する。
 「お茶をご用意いたしました。休憩にどうぞご歓談ください。」
 「ありがとう。」
 玲子は執事が引いた椅子に腰かける。桧垣と勝実もそれぞれの椅子に着席し、焼き菓子に手をつけた。
 「お茶の時間があるとは、さすが貴族のお屋敷ですね。」
 「我が家にイギリス式のアフタヌーンティーを取り入れたのは父ですわ。」
 「さようでございますか。
……失礼。お父上がお亡くなりになったことは存じ上げております。誠にご愁傷さまでございました。
楽しいお茶の時間にこのような話をしてしまって、申し訳ないことでございます。」
 桧垣はついうっかり口を滑らせてしまったという風に慌てて付け加えた。
 玲子は顔色一つ変えず
 「ここは父の屋敷ですもの。話題に父が登場してしまうのは仕方のないことですわ。
例えば今回の演目に入っているアヴェ・マリアは父が大好きな歌でしたし、今度のコンサートは父の慰霊の思いも込めて歌わせていただくつもりです。」
 にこやかに言い放った。
 玲子の華やかな微笑みの仮面の内にどんな思いが潜んでいるのか、桧垣には窺い知ることができない。
 「天国のお父上もお喜びになることでしょう。
伴奏を務めさせていただく私も一層気が引き締まる思いです。」
 「まあ、大げさなことを仰いますね。
伴奏の方が変わるとお話を聞いた時にはどうなることかと心配もいたしましたが、桧垣さんの伴奏でしたら私、気持ちよく歌わせていただけますわ。」
 「光栄でございます。」
 玲子は澄ました顔で紅茶を飲み干すと、勝実に目を止め
 「瀬尾さんと仰いましたね。焼き菓子はお口に合いませんか?」
 と心配そうに尋ねる。
 勝実は先ほどから何にも手をつけず行儀よく座っている。玲子に怪訝そうに尋ねられると、きまり悪そうに俯き、小声で「あの、お手洗いをお借りしてもよろしいでしょうか?」 と脇に控えていた保子に救いを求めるように言った。
 「これは、気付きませんで申しわけございません。」
 執事が保子に案内するよう指示する。
 桧垣は頭をかくと、玲子に向き直り
 「何分年端も行かぬ子供の事で……お手を煩わせまして申し訳ございません。」
 軽く頭を下げた。
 玲子はなんでもないという風に笑いながら
 「構いませんのよ。
育ち盛りの年頃なのに、焼き菓子がお口に合わないのかしらといらぬ心配をいたしましたわ。」
 「慣れない所に来たものですから緊張しているのでしょう。
なに、そのうち慣れてしまって咎めなければならないことばかりになるやも知れません。」
 桧垣は苦笑交じりに肩をすくめる。
 「あのくらいの年頃ですと、私なら庭を駆け回って遊んでいますわ。
随分大人しい方だと感心していましたのよ。」
 玲子は幼い頃を懐かしむように目を細めて大きな窓に視線をずらす。
 「それにしても立派な庭ですな。」
 桧垣もつられて窓の外を見る。
 窓の外では庭師が中庭にあつらえられた薔薇のアーチを手入れしている。脚立の上に座り、器用に薔薇を刈り込んでいる庭師の手並みはなかなかのものだ。中央の花壇にも薔薇が何本も植えられ、大輪の花を咲かせている。
 ほどなくして勝実が帰ってきた。
 着席すると「先程は失礼いたしました。」と頭を下げる。
 「いえ、どうぞお気になさらず。紅茶が冷めてしましましたから淹れなおしますわ。」
 玲子が合図すると保子が新しいカップに紅茶を注いで差し出す。勝実は申し訳なさそうに受け取り、焼き菓子を頬張ると「とても美味しいです。」目を輝かせて言った。
 玲子は勝実が夢中で焼き菓子を食べる姿を満足そうに見ながら
 「私にも、本当は弟がいましたの。」
 ぽつりと呟いた。
 「本当は……と言いますと?」
 「生きていたなら、ちょうど瀬尾さんくらいの年頃でしたわ。
弟は十三年前に亡くなりましたの。死産でしたから。
死産の数ヵ月後、母も弟の後を追うようにあっけなく亡くなりましたわ。
私はそれからずっと父と二人きりでしたのよ。
父も亡くなってしまった今、瀬尾さんくらいの年頃の方をお見かけすると、ふと弟が生きていたなら……などと、とりとめもないことを考えてしまいます。」
 玲子は目を伏せて一瞬表情を曇らせるが、すぐに顔を上げて辺りに満ちた重苦しい空気を振り切るように微笑む。
 「ごめんなさい。
おかしな話ばかりしてしまって……私少し疲れましたわ。今日のレッスンはこのくらいにいたしましょう。
 片岡、桧垣さんと瀬尾さんをお送りして。」
 執事は深々と礼をすると「桧垣様、車でお送りいたします。」桧垣に声をかけながら案内に立った。
 「お手数をおかけします。
今日は有意義なレッスンでした。では、失礼いたします。」
 桧垣は上着に袖を通し、出口に向かった。勝実は手早く譜面を大きな手提げに入れると、桧垣の後を追って退室しようとする。
 「待って。」
 玲子は勝実を呼び止めると「次回のレッスンも桧垣さんとご一緒にいらしてね。」寂しそうに微笑んだ。
 「はい。先生と一緒に伺います。」
 退出の挨拶もそこそこに勝実は小走りで桧垣の背中を追った。
 玄関には高級車が横付けされ、運転手が後部座席のドアを開けて頭を下げる。桧垣と勝実は後部座席に乗り、片岡が助手席に乗り込んだ。
 「桧垣音楽教室までお送りしたのでよろしいでしょうか?」
 桧垣は頷くと「片岡さんもご一緒にいらっしゃるのですか?」怪訝そうに尋ねた。来客を送迎するだけならば、運転手だけで事足りるはずだ。
 片岡は前を向いたまま背中を緊張させて言った。
 「少し、お話がございます。
お送りする時間をお借りしてもよろしいでしょうか。」
 「構いませんとも。」
 「今お嬢様が仰ったご家族に関する話なのですが、他言なさらないようにしていただきたいのです。」
 「なるほど。」
 「お嬢様はまだお父上を亡くされた悲しみから立ち直れていないのです。
一人きりになってしまったという孤独感から、ひどく情緒不安定になられて先ほどのようにご家族の話をなさることがございます。」
 「やはりお心の傷は深いのですね。」
 「はい。私共も絶えずお嬢様に目を配って一日も早く立ち直っていただきたいと願っているのですが……」
 「分かりました。
ここで見聞きしたことは他言いたしません。」
 「ありがとうございます。」
 片岡は前を向いたままほっとしたように背中を緩める。玲子の精神状態によほど気を使っているのだろう。
 「片岡さんは、家事のことを取り仕切っていらっしゃる執事なのですか?」
 「はい。」
 「ほう……」
 「どうかいたしましたか?」
 「執事と言えば、老紳士というイメージがあったものですから。」
 片岡は執事という重い役職についているにしてはまだ若々しく、30代前半に見える。しかし夏場にも関わらずきちんとタキシードを着込んで汗一つ浮かべない姿は清々しく、執事という職業に誇りを持っている様子が見て取れる。
 「本宅は私の父が取り仕切っています。私は新しく洋館を建てられる際に執事の役を仰せつかったのです。」
 「そうでしたか。」
 車は大通りを抜け、桧垣音楽教室の前に停車した。運転手がドアを開けるのを待たず、桧垣は下車する。
 片岡も車から降り
 「お時間をいただいてありがとうございました。
次回のレッスンから運転手の藤原がお迎えにあがりますので、よろしくお願いいたします。」
 運転手と並んで深々と礼をする。
 「伴奏者の私ごときに送迎までしていただいてありがとうございます。」
 片岡は頭を上げると柔和に微笑み
 「桧垣さんはピアノのコンクールで数々の賞を受賞なさっている腕前をお持ちの方。私共といたしましてもおもてなしをするのが筋でございます。」
 と言い残して車に乗り込んだ。
 桧垣は遠ざかる高級車を勝実と並んで見送りながら「なにもかも承知の上……か。」と呟く。
 「先生が探偵をしていることも?」
 勝実が桧垣を見上げて首を傾げる。
 「そうだろうね。」
 桧垣が大学の音楽科でピアノを専攻していたこと。いくつかのコンクールで賞を取っていることは今となっては遠い昔の話であり、一部の関係者しか知らない。
 桧垣の過去もある程度調べが付いているということは、表向きは音楽教室を開いていても探偵業を営んでいることくらい知られているだろう。
 「先生が探偵をしていると知っていたら、先生が伴奏を請け負ってお屋敷に行くことを不審に思ったりしないのでしょうか?」
 勝実が疑問を抱くのも尤もだ。
 「探偵をしているからといって何もかも疑われてはたまらないな。」
 片岡の柔和な笑みを思い浮かべる。敏腕執事は事情を承知の上で探偵が屋敷内をうろつくことを容認している。あの微笑みは何もやましいことはないという自信の表れなのだろう。
 桧垣は苦笑すると勝実の肩をぽんと叩き、音楽教室の脇の階段で二階に上がる。
 二階は桧垣夫妻の住居になっており、桧垣は勝実を居間に通した。
 「さてと、中座した時に直接現場を見せてもらったんだろう?」
 「はい。」
 勝実は頷くと語り出した。
 「保子さんが最初に手を見つけた現場は一階の晴彦氏の書斎の前だそうです。書斎の扉の両横に大きなランプがあって、保子さんはそのランプを磨いていたそうです。手は、廊下の中央付近に落ちていたそうです。」
 「晴彦氏の書斎は本宅と繋がっている渡り廊下に近いのかな?」
 「いえ、渡り廊下と書斎は随分離れています。渡り廊下は玄関ホールから入って一番左奥にあります。書斎は右奥の部屋ですから……お屋敷の両端になりますね。」
 「なるほど、晴彦氏が運び込まれたのは客室だそうだが、客室はどの辺りにあった?」
 「客室は玄関ホールから向かってすぐ左の部屋です。」
 勝実は鞄からノートを取り出して分かりやすいように本田邸の図を書いた。本田邸は正面玄関から入ると吹き抜けの玄関ホールがあり、まっすぐ奥に談話室、ホールから左右に伸びてそれぞれの部屋がある配置のようだ。玄関ホールから左手に入ると、客室、居間、食堂、階段、階段の向かいに渡り廊下の並び。右手に入ると、手洗い、使用人控室、書斎、階段の並びになっている。二階に風呂や寝室があり、一階は主に客人をもてなすように作られているらしい。
 「二階を見て回る暇はありませんでしたから、一階の間取りだけです。」
 勝実は本田邸の見取り図を桧垣に渡して「次回は二階も案内してもらいます。」と言った。
 「ありがとう。今のところ一階の見取り図だけで構わないよ。
二階に上がろうとして家人に見咎められたら言い訳できないだろうし、無理に探索しなくてもいいだろう。
君は優秀な探偵助手だよ。ご苦労さん。」
 桧垣は勝実に労いの言葉をかけた。
 「次回のレッスンは来週だ。
玲子お嬢様は君を気に入っているみたいだし、また一緒に来てくれ。」
 「勿論です。」
 勝実は得意そうに鼻を掻くと立ち上がり、一礼した。
 「それじゃ先生。そろそろ迎えが来ますから教室に戻ります。」
 「うむ。」
 桧垣は考えに沈みこみながらひらひらと手を振って勝実を見送った。
 緊張に疲れた体と思考が駆け巡る頭を落ち着かせようと熱いコーヒーを淹れる。
 自室の机の前に座り、勝実が描いてくれた図面を眺める。桧垣は図面の上に指を置いて保子の行動を再現するように書斎の前の廊下、渡り廊下、本宅、客室、居間、客室、使用人控室、と順番に指を滑らせる。書斎と客室の間には何部屋もあり、人目に触れず小さな手が移動できる距離ではなさそうだ。
 手を運んだのはいったい誰なのだろう?少なくとも保子の証言では、保子自身に取りついていたわけでもあるまい。晴彦氏の胸を掴んだまま、手は客間まで移動したのだろうか?心臓が悪い晴彦氏の胸に取りついていたのではいくらなんでも目立ちすぎる。
 桧垣は指で何度も客間と書斎の位置をなぞった。この指が全ての謎を解いてくれると信じているように注意深く。
 一息つきながらコーヒーに手を伸ばす。
 今日の調査ではさしたる収穫はなかった。一度の調査ですっきり謎が解けることなど皆無に等しい。桧垣は悲観する風でもなく見取り図を鞄に大切にしまうと窓を開けて外の空気を吸った。
 どのくらいの間、外の景色を見ていただろうか。車の微かなエンジン音が聞こえて通りに目をやると、ちょうど音楽教室の前に勝実の迎えの車が停車したところだった。背の高い運転手が無駄のない動きで車を降り音楽教室に入って行く。
 元気のよい挨拶が聞こえて勝実が姿を現す。運転手は恭しく勝実を後部座席に乗せると運転席に回ってこちらを向いた。一瞬、窓際に立つ桧垣と視線が合う。運転手は桧垣を諌めるように鋭く一瞥すると車に乗り込んだ。
 桧垣は肩をすくめ「お目付役は川上か……」と呟き、車が通りへ出て行くのを見守った。
 勝実が探偵助手をしていることは家の人に知らせていない。最初に勝実が助手をしたいと申し出た時、桧垣は即座に断った。いくら利発で機転が利くとは言え勝実はまだ年端も行かぬ子供だ。両親とて勝実が探偵助手をして依頼人と接触したり、なんらかの犯罪に誤って巻き込まれるかもしれないような危険な仕事をすることを快く思うはずもない。
 素っ気なく断られたにも関わらず、勝実は桧垣に会う度に助手をしたいと言い募った。なかなか引きさがらない様子の勝実に根負けして桧垣はいくつかの問題を用意し、全て解けたなら助手にしても良いという条件を出した。
 ……それがいけなかったのだ。勝実は桧垣が戯れに出した問題に真剣に取り組み、全ての答えを導き出してしまったのである。
 とうとう断る口実がなくなった桧垣は勝実を助手にすることにした。
 晴れて探偵助手になった勝実は巧みに両親の目をかいくぐって、桧垣音楽教室に通うというもっともらしい理由をでっちあげ、探偵業を手伝うようになった。
 しかし、両親の目は誤魔化せても毎回迎えに来る使用人の目は誤魔化せない。どうやらお目付役の川上は勝実が桧垣の仕事に関わっていることに感づいている様子だ。
 彼が表だって桧垣に抗議してこないのは、勝実が尻尾を出さずに良い子にしているからに他ならない。だが、たとえ事実が露見して両親が抗議をしたとしても、玲子のコンサートの伴奏を桧垣が請け負ってその助手を務めていると言えば十分な言い訳になるだろう。
 言い訳……か。
 俺はいつも何かに対して言い訳じみた事ばかり考えている。
 彼は椅子に腰かけると、すっかり冷めきって苦みが増したコーヒーをぐいと飲み干した。

 翌週、定刻ちょうどに迎えに来た車に乗り、桧垣と勝実は本田邸へ赴いた。
 前回と同じように談話室に通されると、玲子はピアノの脇に立ってメトロノームの規則的な音に耳を傾けていた。
 「こんにちは。
本日もよろしくお願いいたします。」
 桧垣が挨拶をすると勝実も一緒に頭を下げる。
 玲子はメトロノームの針を止めるとこちらに向き直り
 「ようこそいらっしゃいました。」
 大輪の薔薇のように艶やかに微笑んだ。
 「今日はあまり天気が良くないので喉の調子が今ひとつですの。」
 「季節の変わり目は寒暖の差が激しいですからね。」
 「日ごろから体調には気を付けているつもりですのに……全く、情けない話ですわ。」
 「今日のレッスンは軽めになさいますか?」
 「いえ、先日はひととおりしか歌えませんでしたから、今日はしっかりお稽古しなければ。
歌わないと喉もこのとおり、錆ついてしまいますわ。」
 「かしこまりました。」
 桧垣はピアノの前に座り、勝実は鞄から譜面を手際よく取り出す。
 玲子は少し離れた場所に立ち、静かに目を閉じた。
 ピアノの包み込むように穏やかな前奏が響き渡る。
 玲子は母親の胸に抱かれているように安心した表情で緩く瞳を開けると、高らかにアリアを歌いだした。
 喉の調子が悪いなどと言うのが嘘のように澄み切った高音。音楽を信じる者特有の純粋な眼差しで遥か遠くを見つめる。
 桧垣は優しく心を込めて伴奏し、玲子の声の魅力を引き出す。
 曲の合間にタイミング良く譜面のページをめくる勝実の指が小刻みに震えている。桧垣のピアノ伴奏と玲子の声は相性が良かったのだろう。
 レッスンが終わり桧垣は軽く疲労を覚えつつ玲子を見ると、彼女もこちらを向いて最高の笑顔で頷いた。音楽に真剣に打ち込んだ二人の間に余計な言葉はいらない。
 勝実は茫然と立ちすくんだまま感動に我を失っている様子だ。
 さっきまで鳴り響いていた美しい音の余韻を壊すのが憚られるように誰も口を開かない。
 時間さえも止まっているような静けさの中、桧垣はふわりと漂ってきた甘い香りに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 「瀬尾君。君の好きな洋菓子の匂いがしてこないか?」
 カタカタと廊下をワゴンが走るが聞こえ、片岡が保子を先導してお茶のセットを部屋に運びこんだ。
 玲子は勝実を見て優しく話しかける。
 「瀬尾さんもお疲れ様でした。長い間立ったままで楽譜を捲るのは大変だったでしょう。
そろそろお茶の時間にいたしましょう。」
 彼女も歌の間立ちっぱなしだったにも関わらず優雅な仕草で席についた。桧垣と勝実も片付けを終えると席に着く。
 保子がチョコレートケーキを切り分けて配った。深い焦茶色のチョコレートケーキを前にして、勝実が瞳を輝かす。
 保子が紅茶を淹れている隣で片岡が皆に頭を下げる。
 「どうぞお召し上がりください。」
 「はい。」
 勝実は嬉しそうにフォークを手に取り、チョコレートケーキの一端を崩した。
 その時。
 「青木さん。またお紅茶の種類を間違えているわ。」
 玲子は眉をひそめて出された紅茶の匂いを嗅いでいる。
 勝実に紅茶を差し出そうとしていた保子はびくりと全身を震わせると、勝実の膝の上に紅茶を取り落としそうになった。
 「危ない!」
 咄嗟(とっさ)に勝実はケーキを放り出して、ソーサーを受け取った。幸い熱い紅茶が膝に振りかかることもなく、桧垣はほっと胸を撫で下ろした。
 「も、申し訳ございません。」
 保子はおろおろしながら勝実と玲子、どちらに頭を下げたら良いのか迷っている風に何度も両方に頭を下げる。
 「もういいわ。」
 玲子は呆れたように言い放ち、勝実に向きなおった。
 「あら、お召ものにチョコレートクリームがついてしまっているわね。」
 見れば勝実の半ズボンにチョコレートが茶色の染みを作っている。保子は口を手で覆い、布巾で勝実のズボンを拭おうとした。
 「拭っても逆に染み込んでしまうだけでしょう。」
 玲子は保子に冷ややかな視線を向け
 「瀬尾さん、いらっしゃい。
あなたくらいの年頃に私が来ていた洋服がいくつか残っていますからお貸ししましょう。」
 席を立つと勝実を連れて部屋を出る。
 保子はうなだれている様子だったが片岡に「汚れたお召ものをすぐに洗いなさい。」と言われ、はっとしたように頭を上げると玲子の後を追った。
 談話室には桧垣と片岡が残った。
 「粗相をいたしまして、誠に申し訳ございません。」
 片岡は律義に頭を下げる。
 「なに、紅茶がこぼれなくて幸いでした。」
 桧垣は特に気にする風もなく紅茶をすすり、ふと首を傾げる。
 「先ほど玲子お嬢様が、“紅茶の種類が違う”とご指摘なさっていましたが、何か厳密に取り決めのようなものがあるのですか?」
 馥郁(ふくいく)とした紅茶の香りとすっきりした味わいは桧垣の好みだ。
 「いえ、厳密な取り決めなどはございませんが。
お嬢様はこの談話室の窓から庭を眺めながらローズティーを飲まれるのがお好きなのです。」
 「なるほど……薔薇を鑑賞しながらその花びらが入った紅茶を味わう。
素敵な習慣ですね。」
 「お嬢様はこのお庭をこよなく愛していらっしゃいますから。」
 片岡は目を細めて優しく微笑む。
 「そういえば先ほどお嬢様は“また間違えた”という風に仰っていましたね。あの女中さんはお若いのによく物を間違えるのですか?」
 片岡は困ったように眉をひそめる。
 「玲子お嬢様に叱られて随分しおれておいでだったので、少し心配になりまして。」
 片岡は玲子達が近くまで戻ってきていないことを確かめるように耳を澄まし、桧垣に近づくと小声で言った。
 「このようなことお客様に申し上げるのは(はばか)られるのでございますが、青木はよく物を見間違えるのです。」
 「視力が悪いのですか?」
 「いえ、遠くのものも見通せるようですし、日常生活には差し障りがないのですが、よく似た物をうっかり見間違えることが度々ございます。
 お嬢様にはいつも紅茶の茶葉の形、香りも全く異なるに分からないのかとお叱りを受けているようです。」
 「そうでしたか。間違いは誰にでもあることです。気になさらないようにと彼女に伝えておいてください。」
 「お気遣い恐れ入ります。」
 この話題はここまでと言わんばかりに片岡は慇懃(いんぎん)に礼をすると元の位置に戻り、居住まいを正した。
 扉の向こうから玲子の弾んだ声が聞こえる。執事は玲子の気配を察して音もなく扉に近づき、静かに扉を開いた。
 先頭に玲子、その背中に隠れるように入ってきた勝実の姿を見て桧垣は瞠目した。
 勝実はなんと、玲子が幼いころに着たであろうフリルが付いて袖が膨らんだ水玉模様のワンピースを着せられていたのだ。
 「勝実さん、とてもお似合いでしょう?」
 玲子は晴れやかな笑顔で桧垣に勝実の姿を見せる。
 「ふむ。勝実君のスカート姿を見るのは何年振りだろうね。」
 桧垣は感心した様子で勝実に話しかけると、彼女は不本意そうに横を向いてスカートを扱いにくそうに広げながら椅子にかけた。
 「レディはスカートの扱いにも長けていなければなりませんよ。」
 玲子はすっかりお姉さん気取りで優雅に腰かける。
 「そのワンピース。私にはもう合いませんし、あなたに差し上げますわ。」
 上機嫌でしきりに勝実に話しかけながら玲子は淹れなおされたローズティを満足した様子で口に運んだ。
 勝実の前にも新しいケーキと紅茶が並ぶ。勝実は困ったように片岡を見ながら「あの、私の服は?」と尋ねた。
 「瀬尾様には不自由をおかけして誠に申し訳ございませんが、お召しものは綺麗に洗って次回のレッスンの時にお返しいたします。」
 片岡は深く頭を下げる。
 「先生、どうしましょう。」
 勝実の困惑をよそに桧垣はローズティに口をつけた。ローズティは薔薇の甘い香りと深い味わいが贅沢な紅茶だ。豊かな味わいを楽しみつつ、桧垣は最初に淹れられていた紅茶の方が好みだと思った。
 「ちゃんと洗って返してくれるそうだし、いいじゃないか。」
 勝実は持っていない服を着て帰ると家の人が訝しがるのではないのかと心配しているのだろう。どのみち探偵の助手をしていることも、本田邸に出入りしていることも知られる日が来ると予想していた桧垣は慌てる風でもなく悠然と構えていた。
 勝実は落ち着き払っている桧垣を軽く睨むと、諦めたようにケーキに手を伸ばす。
 「ところで玲子お嬢様。最初に淹れられていた紅茶はどの銘柄なのですか?」
 「あれはアールグレイです。今お召し上がりになっているのがローズティですわ。」
 「玲子お嬢様がローズティを愛飲なさっていることは先ほど片岡さんに伺いました。
とても香りのよい贅沢な紅茶ですね。玲子お嬢様は薔薇の花がお好きなのですか?」
 「ええ。薔薇は私の母が大好きだった花です。庭に植えてある薔薇も母が苗木から選んで
栽培していたのですよ。」
 「さようでございますか。」
 「私も幼い頃、母と庭で薔薇の苗を植えたり、母が薔薇の手入れをするのを見ながら土で遊んだりしていましたわ。」
 「お母上の思い出の庭なのですね。」
 「ええ。」
 玲子は愛おしいものを見るように優しく庭に視線を向けた。
 夕日が、綺麗に手入れされた庭を美しく彩っている。桧垣はつと時計に目を止めると、時計の針が随分進んでいることに気付いた。
 「今日は思いがけない出来事につい長居をしてしまいました。そろそろお暇いたします。」
 「ええ。次回のレッスンまでに喉の調子を整えておきますわ。今日はありがとうございました。」
 片岡が案内に立ち、静かに扉を開く。勝実は戸口に立つと、振り向いてまた庭に目をやっている玲子に「素敵なワンピースをありがとうございました。」と礼を言うとぎこちなく膝を折って挨拶する。
 玲子は嬉しそうに笑い、ゆっくり頷いた。

 桧垣音楽教室に着いたころには日もとっぷりと暮れて駐車場に勝実の迎えの車が主を待つ様にじっと(うずくま)っている姿が見えた。やはり迎えが来る時間までに間に合わなかったか……桧垣はちらりと視線を向けると、車内から運転手の川上が素早く下りてやってきた。
 「勝実様、こんな遅くまでどこにいらしていたのです?」
 勝実の格好を訝しげに見ながら桧垣に非難めいた視線を投げかける。
 「すまないね。勝実君には今度コンサートで演奏する時に譜面をめくってもらう役目をお願いしているのだよ。今日はそのレッスンに本田子爵邸にお邪魔していたのさ。」
 桧垣は鋭い視線を軽くかわしながら飄々と答える。
 「勝実様はここにピアノのレッスンに通っているはずです。努様の所用を手伝わせるのは他の生徒でも事足りるはずです。」
 川上は詰問するように迫ってくる。
 「川上、控えなさい。」
 勝実は見かねたように川上を制し
 「先生は私の為をお考えになってレッスンに同行させてくださったのです。今日のレッスンも大変素晴らしいものでしたし、良い経験をさせていただいていると、先生に感謝しております。他の所ならいざ知らず、本田子爵邸に上がれるという名誉なことを、あなたは先生が私を雑用係にでも使っているように言うのですか?それは随分と軽率な考えですよ。」
 毅然(きぜん)とした態度できっぱりと言い放ち、川上を睨む。
 「そ、それは……
しかしお嬢様。そのお召ものはどうなさったのです?」
 川上は勝実に叱りつけられて目を白黒させながらも疑わしげにワンピースを見る。
 「これは玲子お嬢様にいただいたものです。」
 勝実は少しはにかんだ様子で目を伏せる。持ち主の玲子に(あつら)えられたであろうワンピースは上等な生地で仕立てられており、とても美しい。普段は動きやすさ重視の軽装でも、勝実も女の子だ。この素敵なワンピースを内心気に入っているのだろう。
 「玲子お嬢様は勝実君のことを気に入ったようでね。お茶の時間に勝実君のズボンにケーキが落ちてしまった時、ご自分のお召ものを与えてくださったのさ。なに、心配することはない。今日着て行っていた服は来週のレッスンの時にきれいに洗って返してくれる。」
 川上はそれでもなお桧垣の言葉を信用していない様子だったが、勝実に「本当に早く帰らないとお母様が心配してしまう。」と急きたてられてしぶしぶ引き下がった。
 勝実を乗せた車がいつもより早いスピードで敷地内を出ていくのを見送ってから、桧垣は二階の住居に上がった。
 「おかえりなさい。今日は随分遅かったようですね。」
 香が夕食をテーブルに並べながら桧垣を労う。
 「ああ。勝実君の秘密もご両親に知られてしまうかもしれない。」
 「そうなんですか。」
 「川上に随分しぼられたよ。」
 苦笑する夫を気遣わしげに見やりながら香は暖かいお茶を淹れた。
 「それは、さぞかしお疲れになったことでしょう。」
 香は探偵の仕事には一切口出ししない賢い妻である。しかし、勝実を探偵助手にする時には一言「勝実さんに危険な仕事はくれぐれもさせないでくださいね。」と心配そうに言っていたのを思い出す。未だに子宝に恵まれない桧垣夫婦にとって姪の勝実は本当の娘のような存在だ。香は黙っているが、勝実が助手をしているのが明らかになった今、両親が音楽教室に通うのを禁じてしまうかもしれないことも知っているはずだ。
 「すまない。」
 香が勝実にピアノを教えるのをなによりも楽しみにしていることを知っている桧垣は思わず香に頭を下げてしまった。
 「一番に謝らなければならないのは勝実さんのご両親に、でしょう。」
 香は冷静に桧垣を諌めると「さ、お夕食が冷めてしまわないうちに召し上がってくださいな。」と桧垣に夕食を勧めた。

 数日後、桧垣はとある喫茶店にいた。蓄音機からジャズの物悲しいバラードが小さく聞こえてくる。ボックス席は光源を絞ったランプが一つ薄暗く灯っているだけだ。
 ウェイトレスにコーヒーを注文する。挽きたての豆の香ばしい匂いがするコーヒーが運ばれてくると、桧垣がコーヒーを口に運ぶ前に、影のように静かに、向かいの席に背の高い男が腰かけた。
 「桧垣の旦那、お久しぶりですね。」
 男は親しげに桧垣に挨拶をするとパナマ帽を取って額の汗を拭く。
 桧垣は軽く頷くとコーヒーを口に運び、短く言った。
 「調べてほしいことがある。」
 「なんです?」
 「十三年前の出来事なのだが、本田子爵の奥方が亡くなった当時のできるだけ詳細な記録が欲しい。」
 「十三年も前ですか?」
 「ああ。十三年前、奥方の瞳さんは第二子を死産し、数ヵ月後に亡くなっている。出産前後と亡くなる前の彼女の様子など、どんな小さなことでもいいから詳しく知りたい。」
 男は顎に手をやり、しばし沈黙した。
 「ふむ……。
時間はどのくらいいただけるんです?」
 「一週間で調べてほしい。」
 「分りました。」
 男は桧垣が差し出した封筒を無造作に受け取るとさっと出て行った。
 桧垣はゆっくりコーヒーを味わう。
 調査に情報屋を使うのは久しぶりだ。今出て行った男は桧垣が古くから付き合っている腕利きの情報屋だ。私立探偵を一人でしていると人手が足らない事態に陥る。そんな場合には信用できる情報屋に依頼すると、裏事情に詳しい彼らは調べたい事柄以上の情報を持ってきてくれる。
 桧垣はコーヒーをテーブルの端に置くと、保子宛に近いうちに探偵事務所に寄ってくれるよう依頼の手紙を書いた。喫茶店を出て近くのポストに|投函|《とうかん》する。保子にも、少し辛いだろうが過去について語ってもらわなければならない。
 探偵の仕事をしていると、人の暗部を嫌でも目にする機会が多い。桧垣もこの稼業に就くとき覚悟していたつもりだが、若いご婦人の口を割らせるのは毎回気が重い。彼は帽子を目深にかぶると、足早に探偵事務所に戻った。
 探偵事務所のデスクの前に座り、引出しから一通の手紙を取り出す。それは、先日勝実が話をする間もなく帰らされたため、前回のレッスンで調査できたことを(したた)めた手紙だ。
 手紙には二階の間取り図と、玲子の部屋についても詳しく書かれている。二階は主に玲子と晴彦氏の私室と寝室、浴室とトイレがあるだけのシンプルな造りになっている。
 玲子の部屋は内装や家具は豪華なものの、整然と物が片付けられており、さっぱりとした部屋だ。クローゼットの中には色とりどりの華やかな服があふれていて、クローゼットだけで4畳くらいの広さがある。天蓋付きの広いベッドと大きな鏡、小さな本棚と机が並び、大きなガラス張りの収納ケースの中にはフランス人形が何十体も並べられている。
 調査の内容は淡々と見たままを書き記しているが、最後に私見として『玲子様は沢山の人形や服に囲まれて、本物の人形のようになられたのではないでしょうか?私は何十体もの人形と玲子様に囲まれていると、薄ら寒いような気さえしました。』と結んでいる。
 調査内容の報告とは別に、桧垣の手伝いで本田邸に行ったことを母親に話し、今後も桧垣の手伝いをする許可を貰ったらしい。そのかわり、母親はコンサートに呼んでくれと希望しているようだ。
 勝実が今後も助手をしてくれることを知り、桧垣はほっと胸を撫で下ろした。勝実は思っていた以上に優秀な助手だ。
 桧垣は調査内容を記した手紙を資料用のバインダーに綴じ、手帳を開いた。コンサートは再来週に迫っている。来週のレッスンで最終的な調整を行い、再来週の本番を待つ。コンサートが終わると、本田邸に出入りすることもなくなるだろう。それまでにこの事件を解明してしまわなければならない。
 今までの調査で調べなければならないことの要点は大まかに把握できた。この事件の根は過去に遡り、ずいぶん深いところにあるようだ。この結果を意図した犯人でさえ、神に見えない糸で踊らされているのかもしれない。
 見えない糸。それを紡ぐ者の正体を捕えるため、桧垣は行動に移ることにした。

第三章

 「香、この辺りで薔薇の花が沢山植わっている公園を知らないか?」
 夫は帰ってくるなり突然不思議な質問を投げかけてきた。香は探偵業を営んでいる夫の少々突飛な質問には慣れている。
 「薔薇が沢山植わっている公園ですか。なかなか見かけませんけれど、薔薇が綺麗なお庭なら存じております。」
 「人様の庭に勝手に侵入するとまずいだろう。」
 香は口の端に笑みを浮かべる。
 「確かに、他人様のお庭に勝手に入ると叱られてしまいますわね。でも、私が知っている庭は、あなたも親しい方がいらっしゃるお宅の庭ですわ。」
 夫は訝しげに首を傾げている。普段園芸などに関心がない夫は訪問した家の庭に植えてある花の種類など目にも留めないのだろう。
 「知っているなら教えてくれないか。」
 香の持って回った言い方に焦れた様子で問いただした。
 「瀬尾さんのお宅ですよ。」
 夫は瀬尾の名前を聞いたとたん苦虫を噛み潰したような顔をした。姪の勝実は可愛がる癖に、夫は義姉夫婦に遠慮している節がある。義姉と香の仲は良く、月に数回、女同士で勝実も交えて食事やお茶をしていることを夫は知らない様子だ。前回一緒にお茶をした時も義姉に「たまには夫婦でいらっしゃい。」と声をかけられた。リビングから見える庭にはたくさんの種類の花が植わっていたが、薔薇の花も特別に花壇を作って数株植えられていたように思う。これをきっかけに瀬尾家に足を向けるのも良いのではないかと香は夫を誘った。
 夫は「ああ。」と曖昧(あいまい)な返事をしながら宙を睨む。彼の頭の中は事件のことで一杯なのだろう。事件に携わっているときは普段以上に考え込んだり、険しい表情をすることが多い。香が黙りこくった夫の前にコーヒーを差し出すと
 「勝実君を貸してもらっている挨拶もまだだしな……今度の日曜にでも伺おうか。」
 夫はつと眉を開き、色よい返事を寄こした。
 「ええ。ではお義姉さんに日曜日空いているか伺ってきます。」
 夫の気が変わらないうちに段取りをしてしまわなければならない。香は電話が置いてある一階の音楽教室に降りて行った。

 保子が桧垣探偵事務所に現れたのは、手紙を出してから二日後の昼過ぎであった。
 「突然呼び出して申し訳ございません。」
 桧垣は微笑みながら応接の椅子を引く。
 「事件について何か、分かったのですか?」
 保子は席に着くなり上目遣いで不安そうにこちらを窺う。
 桧垣は紅茶を淹れた。
 「今日お越しいただいたのは、あなたにいくつか伺いたいことがあったからです。」
 「はぁ…」
 保子は怯えたようにか細い声でうつむき視線を机の上に彷徨(さまよ)わせる。机の上には良い香りを立ち上らせる紅茶と瑞々(みずみず)しいレモンの輪切りがのったお皿、少し離して黄色いレモンがいくつか籠に盛られて置いてある。
 「そんなに緊張なさらなくとも、お茶でも飲んでリラックスしてください。私は紅茶を飲むときにはレモンを浮かべるのが好きなんですよ。」
 桧垣は保子に紅茶を勧めながら、紅茶にレモンを浮かべた。その様子を見た保子もつられてレモンを紅茶に浮かべる。
 「レモンティーはすっきりとした飲み口で美味しゅうございますね。」
 紅茶を口にして保子はほっとした表情を見せた。
 「では、本題に移ります。
先日から私が本田邸に伺っていることは、何度も顔を合せましたからご存じですね。」
 「ええ。桧垣さんがあんなにピアノの演奏がお上手だとは、前回こちらに伺った時には露ほども存じ上げませんでした。」
 保子は初めて屋敷で桧垣の姿を見かけた時の驚きを思い出したように笑う。
 「私はあまり公の場では演奏しないものですから。しかし、この事件に携わるようになって、道楽ではじめたピアノ演奏もあながち捨てたものではないと思いましたよ。」
 桧垣は軽口を叩いて笑いかける。
 「この間のレッスンの時ですが、とんだハプニングが起こってしまいましたね。」
 「あの時は本当に申し訳ございませんでした。」
 「いえ、あなたの粗相を責めているわけではありません。お陰でこちらも勝実君を通していろいろな情報をもらえましたし、災い転じて福となすとはこのことですよ。
それで、あの時に玲子嬢に随分叱られておいででしたね。」
 保子は眼を伏せると「私は玲子様に嫌われているのです。」扇形に広がる長い睫毛を震わせながら悲しそうに言った。
 「なぜそう思うのですか?」
 「私は昔から要領が悪く、うっかり間違いをしてしまうことが多いから……。」
 「そうです。私が聞きたいのは昔の話なのです。あなたがこのお屋敷に御奉公にいらした時のことを詳しく伺ってもよろしいですか?」
 保子はハンドバックからハンカチを取り出すとそのハンカチを心の拠り所にしているようにぎゅっと握りしめながら桧垣を見て頷いた。
 「昔のことは本来ならば前回お伺いしたときにお話ししなければならないことでございました。話さなければならないと心の中で思いながらも、なかなかお話しする勇気がなくて、桧垣さんのお手を煩わせてしまい、誠に申し訳ございません。」
 桧垣はとんでもないという風に首を振る。
 「一度会っただけで何もかも他人に打ち明けるというのはなかなかできることではありません。デリケートな話題ですから、何度もお会いしながらじっくりお話しさせていただきたいと思っていたのです。ただ、コンサートが終わってしまうと調査することもままならなくなるのも事実です。時間が限られてしまい、性急に問いただすような真似をして申し訳なく思っています。」
 保子は昔のことをどこから話していいのか考えあぐねている様子でしばらく沈黙したが、やがて決心したように口を開いた。
 「私が御奉公するようになったのは、母が他界してしまったからです。私は母と二人で暮らしておりましたので、他に身寄りもなく途方に暮れていた時に晴彦様から屋敷に来ないかとお声をかけていただいたのです。私は父親の顔を知りません。物心ついた時には母と二人で暮らしていました。母は水商売をしておりましたから、私を育ててくれたのは祖母でした。一家の大黒柱が母親だったので、母は私に構う暇もなく、ただひたすら働いていました。古くて狭い借家に母と祖母と私の三人で暮らしていた当時は大変貧しく、お腹を満たすことばかり考えていたように思います。
 そんなみじめな生活に明かりが射し込んだのは十年前でした。母が急に引っ越すと言い出したのです。いよいよ生活が苦しくなって今よりもひどい所に引っ越すのではないかと内心怯えておりましたのを察したのか、母は『保子、これからはもっといい服が着れるし、ちゃんと学校にだって通えるようになるんだよ。』と明るく言って笑いました。
 私たちは荷物をまとめて借家を後にしました。もともと貧しかったのでほとんど持つものもないような寂しい状況で私と祖母は母が教えてくれた場所に向かいました。母は先に行って待っていると言い残して引越しの手伝いもせずに出て行ってしまいましたので、私たちは母に見捨てられたのではないかと思い、祖母と暗い瞳を合せて溜息をつきました。思っていることを口にしてしまうと現実になってしまうようで、怖くて心細くなりながら祖母の手を握って必死に歩いたのを覚えています。
 借家から出て二時間ほど歩いたでしょうか、老人や子供の足で歩くにはやや遠すぎる場所に母が新しい家を構えていました。その家は、騙されたのではないかと我が目を疑いたくなるほどに綺麗な一軒家で、小さな庭までついています。
 私と祖母が玄関先で戸惑っておりますと、中から母の鼻歌が聞こえてきました。母は機嫌が良い時にはよくお店で歌う歌を口ずさみます。玄関を少し開けて『お母さん?』と呼ぶと、母は誰かに『娘と母が参りました。』と断ってからいそいそと玄関口にやってきました。私は母の姿を見たとたん、思わず祖母の後ろに隠れました。母はお店に行く時に来て行くような派手な安物のドレスとは大違いの、ゆったりとしたシルクの部屋着を身にまとっていて、良家の奥方のような格好をしていました。
 『母さん、保子、よく来たわね。』
 母は上機嫌で私と祖母を家にあげると、母の後ろから影のように現れた女中さんを私たちに紹介しました。
 『この方はお清さんといって、家事を手伝ってくれる女中さんよ。』
 お清さんは母よりは年上で、控え目で地味な人に思えました。彼女は私たちに礼をすると荷物を受取って『お部屋にご案内いたします。』と言って先導しました。
 母は私たちの後ろ姿を見送りながら『着替えが済んだら紹介したい方がいらっしゃるからこの奥の部屋に来てね。』と意味ありげに笑いました。
 私は綺麗な屋敷の中を夢心地で歩きました。お清さんは祖母と私を広い座敷に通して『こちらがあなた方の部屋でございます。』と頭を下げ、箪笥から綺麗な洋服を取り出して並べると『部屋着を用意しておりますので、お着替えくださいませ。』と言い残し、しずしずと退室しました。
 私と祖母は狐につままれたようにぼうっとしておりましたが、母が紹介したい人がいると言っていたのを思い出した私は、祖母を急きたてながら着替えを済ますと母が待つ部屋に向かいました。
 私と祖母が奥の部屋に近づくと、襖がさっと開いて母が顔を覗かせました。
 『これから紹介する方は今後の生活を支えてくださる方なのだから、失礼のないようにしてちょうだい。』
 小声で囁くとにっこり微笑みながら私と祖母を部屋に通しました。部屋の中は客間になっていて大きな長い机と奥に床の間が設えられています。その床の間の前にすらりとして様子のいい男の人が座っていました。母は男の人に近寄り、少し鼻にかかった声で『私の娘と母でございます。』私たちを紹介すると、男の人は『よくいらっしゃいました。』と優しい声で仰いました。そして手に持っていた箱を私に差し出して『君が保子ちゃんだね。お母さんからよく話に聞いていたよ。お近付きの印に、私からのプレゼントだ。』と綺麗な包み紙に包まれた箱をくださいました。
 『ありがとうございます。』
 私はおそるおそるその箱を受取って膝に鼻の頭がくっつきそうなくらい深くお辞儀をしました。母が嬉しそうに『良かったわね。』と大げさなくらい弾んだ声で私に話しかけます。男の人に『開けてごらん。』と促され、私は綺麗な包装紙を丁寧に外して、箱の中身を確かめました。箱の中には、綺麗なフランス人形が入っていました。
 お人形など近所の友達が持っていたのは見たことがありましたが、そのフランス人形はどの友達のものよりも美人で、つんと澄ました表情をしていました。昔から綺麗なお人形が欲しかった私は胸の高鳴りを抑えきれず、思わず涙をこぼしてしまいました。
 『あら、この子ったら……』
 母は私の様子を見て顔をしかめると、早く出て行くようにと祖母に目配せしました。祖母はそれを察して私の手を引き部屋を出ました。
 ……それが私と晴彦様の出会いです。
 桧垣さんもお察しのとおり、私の母は晴彦様の愛人でした。ですから、母を亡くして私が身寄りもなく心細い思いをしていた時、晴彦様は私を引き取ってくださったのです。」
 保子は一気に話し終えると少し冷めた紅茶を飲み干した。ハンカチを持つ手が小刻みに震えている。
 「そうでしたか。お母様が晴彦氏の愛人だったというのならば、それを知った玲子嬢にあなたが嫌われてしまっても仕方がありませんね。」
 桧垣が得心したという風に頷くと、保子は即座に頭を振って否定した。
 「いえあの、私が玲子様に嫌われているのは母のことだけではありません。私自身も……御奉公にあがるようになってから晴彦様と関係を持つようになってしまったからだと思います。」
 桧垣は紅茶を淹れなおす手を一瞬止めると、ゆっくり保子の方に振り向いた。
 「私たちは親子揃って愚かなことをいたしました。」
 保子は青ざめた顔で項垂れ、その場から消え去りたいという風に椅子の中で体を縮めている。
 「私が晴彦様を手にかけてしまったのも、きっと罪の報いを受けるためなのです。」
 桧垣は紅茶を淹れなおすと保子の前に差し出し、優しく口を開いた。
 「何も、あなただけが悪いわけではありません。殊に男女の関係というのは罪深いことが多いものです。
 お茶でも飲んで少し落ち着かれてはいかがですか?」
 「はい……」
 桧垣は席に着くと淹れなおした紅茶の香りを楽しみながら、レモンの皿に手を伸ばした。
 「おや、レモンがなくなっている。」
 空になった皿を傾けて呟くと、籠の中からレモンを持ち上げた。
 「余談ですが、このレモンは私の実家から毎年大量に送られてくるのです。レモンを使った料理というのは限られていますから、妻はいつも大量のレモンを前に頭を抱えていますよ。」
 そう話しながら保子の前でレモンを宙に放り投げては器用に片手で受け止める。
 「さようでございますか。しかし、いくら沢山あるからと言って食べ物を投げたり、粗末な扱いをなさるのは感心いたしません。」
 保子は桧垣をとがめるように眉をひそめる。
 「これは失礼いたしました。」
 桧垣はレモンを受け止めると、立ち上がって給湯室にレモンを切りに行くそぶりを見せ、テーブルから少し離れた場所に移動すると、さっと振り向いて大きく腕を振りかぶり、レモンを壁に思いっきり叩きつけた。
 保子は口に手を当てて小さく叫ぶ。
 レモンは壁に叩きつけられて無残に潰れるかと思いきや、勢いよくバウンドして桧垣の手の中に収まった。桧垣は保子の様子を見ながら軽く笑うと着席する。
 「失礼。今のは悪い冗談でした。あることを確認するために、あなたに簡単な実験をしたのです。」
 保子は驚いた表情のまま「実験ですか?」桧垣の様子を覗っている。
 「これは何に見えますか?」
 桧垣は片手を上げると、レモン色の球体を保子の前に置いた。保子はじっと球体を凝視しながら「レモンです。」と答える。桧垣はふっと息を吐くと、籠の中からレモンを取り出して並べた。
 「よくご覧ください。今取り出したのは本物のレモンです。
 こちらに並べているのは、色や形はややレモンに似ていますけれど全く違う物ですよ。」
 保子は二つ並んだ球体を見比べてあっと息を飲んだ。
 「これは……ボールですか?」
 「そう。テニスボールです。
 あなたは少し、視覚に障害があるようですね。この間、お茶の銘柄を間違われたときにピンと来たんですよ。もしかして、あなたはよく似た物をしばしば間違って認識しているのではないかと。」
 保子は気分を害しているように桧垣を睨む。
 「確かに、私はよく物を見間違えてしまいます。でも、こんな実験をするなんて少し冗談が過ぎます。私が視覚に障害を持っていることを確認したところで、どうなさるおつもりなのですか?」
 「驚かせてしまって申し訳ございません。まさか本当にこのボールをレモンと思い込んでしまうとは思わなかったものですから。誤解のないようあらかじめ断っておきますが、私は決してあなたを笑っているわけではないのです。
 少し、考えてみてください。小さな手は本当に実在するのでしょうか?あなたが晴彦氏の書斎の前で見かけた手と、後に寝室で見た手は全く同じものでしたか?」
 桧垣に聞かれたことを理解したのか、保子は不安そうに視線をレモンとテニスボールの間に迷わせながら自信を失ったように頭を抱えた。
 「よく覚えておりません。私はあの手を違う何かと見間違えたのでしょうか?仮に桧垣さんが仰る通り二つの手が全く別の物だったとしても、私には到底見分けがつかないのです。」
 心の奥の闇を思い出したのか、保子は自失したようにだらりと両手を下ろすと疲れ切った表情で「私、これからどうすれば良いのでしょう。」虚ろな瞳で桧垣を見返した。
 「保子さん、しっかりなさってください。何度も言うようですが、あなただけが悪いのではありません。まだ推測の域を出ませんが、あなたはある人物に踊らされていた可能性があります。今日思い切ってお話ししてくださったことやあなたの障害を確認して、その人物の影が色濃くはっきりと見えてきました。」
 「私が……誰かに踊らされているのですか。」
 保子は信じられないという風に目を見開いた。
 「はい。証拠がありませんから今は何も申し上げられませんが、私の推理が正しければおそらく……ここから先は私の仕事です。今後何があってもあなたは毅然としていてください。
 今日はいろいろ話しづらいことを伺って申し訳ございませんでした。お疲れでしょうから今回はここまでにいたしましょう。調査が進みましたら追ってご連絡いたします。」
 保子はふらふらと立ち上がり「お願いします。」と一礼するとその場から逃げるように退出した。
 桧垣はカップと皿を片づけるとデスクに向かう。鬼の手はただの小さな掌ではないようだ。保子が廊下で目にした手は動く物なのだろう。つまり動物だ。次に客間のテーブルに置かれていた手は動かないものだったようだ。二つの手が同じような形をした全く違うものである可能性は大きい。例えばテニスボールとレモンのように……。
 桧垣は机の脇に積まれた分厚い本の中から一冊の本を取り出し、栞を挟んでいるページを開いた。
 そこには、一見小さな赤子の掌のように見える生き物の写真が載っていた。

 日曜日、桧垣夫妻は瀬尾家にお邪魔していた。薔薇の花がよく見える場所でという桧垣の希望を聞き、姉は昼食後テラスでお茶をする予定だと穏やかに笑った。
 瀬尾家の庭の一角に薔薇の花壇は設えられていた。姉夫婦と香が和やかに歓談している間、桧垣と勝実は庭に出て何気なく散歩している風を装いながら薔薇の花壇の前に並んで立った。
 「本田子爵のお庭ほどではありませんが、我が家の花壇もなかなかのものでしょう?」
 勝実は大輪の薔薇が咲いている辺りを指差して嬉しそうに笑う。せがんでもなかなか遊びに来てくれない叔父が久しぶりに訪れてくれたことに喜んでいる様子だ。
 「そうだな。」
 桧垣は薔薇の花には目もくれず、薔薇の葉の裏側や花弁の真ん中辺りを仔細に調べている。
 「おじさま、薔薇の花を観賞しにいらっしゃったわけではないのですか?」
 勝実は桧垣を不思議そうに見やり、自分も指先でちょっと葉を裏返してみる。
 「ああ。ちょっと探し物をしているのさ。」
 桧垣は熱心に一株ずつ薔薇の苗木を調べながら徐々に勝実の元から離れていく。
 「探しものって何ですか?」
 勝実は桧垣に追いついて見よう見まねで花弁の真ん中を覗きこんだ。
 「あっ!おじさま、この蜘蛛(くも)……。」
 「見つけたか?」
 桧垣は静かに近づいて花弁の真ん中を確認すると「間違いない。」と呟きながら背広の内ポケットから小さな瓶を取り出し蜘蛛をそっとつまんで瓶の中に落とした。瓶を大事に仕舞いこむと、振り返ってテラスの瀬尾夫妻と香の様子を確認した後、勝実を伴って庭の入口の階段に腰かける。テラスに向かって軽く手を上げると、香と姉が白い歯を見せながら手を振った。
 階段の脇に植えられた常緑樹が日差しを遮り、心地良いそよ風が吹いてくる。
 「手紙を受け取ったよ。君のおかげで調査は順調に進んでいる。」
 「そのようですね。」
 勝実は目を細めながら桧垣を見上げる。
 「この蜘蛛が、保子さんが言っていた手の正体なのですね。確かに赤子の掌のように見えなくもないですけれど。彼女はこの蜘蛛を掌と見間違えたのですか。そうだとすれば、やはりこの事件は保子さんの見間違えと思い込みによるものなのでしょうか。」
 「そうとも。蜘蛛が屋敷内に現れることはそうそうないだろうからね。この蜘蛛は薔薇の花に付く虫を食べて生きているんだ。だから薔薇が沢山植わっている本田邸のお屋敷内に紛れ込んでしまっても不思議じゃない。」
 「しかし、どうして晴彦氏は蜘蛛を怖がったのでしょう?」
 「さあね。誰にでも苦手なものの一つや二つあるものだよ。それに、蜘蛛は見ていて気持ちがいいものでもない。蜘蛛が嫌いな人は沢山いるだろう?」
 「確かに。」
 「とにかく、この事件の謎は解けた。保子さんには追って連絡をするつもりだよ。君の協力には感謝している。ありがとう。」
 桧垣は勝実の背を軽く叩き、家族が待つテラスに戻る。
 姉は笑顔で「うちの薔薇はいかがでしたか?」とおどけた調子で問う。
 「大変素晴らしかったですよ。」
 桧垣は大げさに感嘆のため息をついて姉の機嫌を取る。
 「あなたと勝実さんが並んで座っている姿を見ているとまるで恋人同士みたいでしたよ。香さんが悋気(りんき)を起こしてしまったらどうしようかと気を揉んでいたのです。」
 姉は香と目配せをしながら悪戯っぽく微笑む。
 「勝実君に僕のような悪い虫が付いたら、義兄さんが黙っていないでしょう。義兄さんの大目玉は御免こうむりますからね。僕はそろそろ失礼します。」
 桧垣は「おお、怖い。」と震える仕草をしながら席を立つ。
 「今日は楽しかったわ。また近いうちにいらっしゃい。」
 姉は機嫌よくころころと笑いながら桧垣夫妻を見送った。

 レッスン最終日は霧雨が降る少し肌寒いくらいの陽気だった。
 談話室に通されると玲子は蓄音機から流れるシャンソンに耳を傾けていた。
 「こんにちは。今日もよろしくお願いします。」
 桧垣と勝実が挨拶をすると、針を止めて振り返る。
 「今日がレッスン最終日ですね。こちらこそよろしくお願いします。」
 玲子はタイトな黒いドレスに身を包み、華奢な肩をあらわにしている。髪を緩く纏めて立つ姿は大人びていて、最初に会った時の可憐な少女と同じ人物とは思えないほどだ。
 「シックな黒のドレスもよくお似合いですね。」
 「ありがとうございます。」
 玲子は優雅に膝を折って礼を言う。
 「今日はリハーサルのようなものですからコンサートの時に着る衣装で練習いたします。どの衣装が良いか随分悩んだのですけれど、スマートな桧垣さんに演奏していただくのですから、私も少し背伸びをして雰囲気だけでも合わせようとこの衣装を選びました。」
 「私に合わせるなど、とんでもないことでございます。主役の玲子お嬢様に合わせなければならないのはこちらの方です。」
 桧垣は恐縮した様子で頭をかく。
 「音楽に主役も脇役もありませんわ。すべての音は調和するものです。コンサートに出演する時に、調和しなければならないのは音だけではありません。私だけ目立った恰好をすると後で皆様に笑われてしまいますわ。」
 「さようでございますか。」
 「それとも、この格好は不自然でしょうか?」
 玲子は桧垣と並んで立ち、大きな窓ガラスにぼんやり映る全体像を見ようと目を凝らす。
 「私が意見することではございませんが……玲子お嬢様の格好、とても素敵です。それに、先生と並んでもしっくりくる感じがします。」
 勝実は玲子に憧れの眼差しを向けながら頬を染めた。
 「勝実さん、ありがとう。」
 玲子はぱっと顔を輝かせ、勝実に笑いかけた。
 玲子がリハーサルと称したようにレッスンは歌の最終調整と当日の軽い打ち合わせで終了した。恒例のアフタヌーンティの席に着くと、片岡が勝実に紙袋を差し出した。
「先日お預かりししたお召ものでございます。」
 先だってはご迷惑をおかけいたしました。と頭を下げる。勝実は紙袋を受け取り、中を確認しながら「これは?」と赤いチェックのリボンがかかった小箱を取り出した。
 「ご迷惑をおかけしてしまったお詫びのしるしに、勝実さんが好みそうなお菓子を入れてみましたの。」
 玲子が微笑みながら、開けてごらんなさい。という風に手を広げる。勝実は素直に「ありがとうございます。」と礼を言い、小箱のリボンを解いてそっと蓋を開けた。
 「これは……マカロンですね。」
 箱の中には色とりどりのマカロンが入っている。勝実は中から鮮やかなピンク色のマカロンを取り出すと、物珍しそうに掌の上にのせて眺めた。
 「気に入っていただけましたか?」
 「はい。マカロンを食べるのは初めてです。今、いただいてもよろしいですか?」
 「どうぞお召し上がりください。マカロンと紅茶はよく合いますもの。私もよくお茶の時間にマカロンをいただきますの。」
 勝実はマカロンを一口食べると「美味しい。」と瞳を輝かせて言った。玲子は勝実の様子を優しく見守りながら桧垣に話しかける。
 「勝実さんは本当に素直で可愛らしい方ですね。コンサートが終わってしまうと会えなくなるのが残念ですわ。」
 「玲子お嬢様は私より君のことをいたくお気に入りの様子だね。」
 桧垣は残念そうに首を振りながら勝実に話しかける。
 「まぁ、桧垣さん。勝実さんに妬いていらっしゃるの?」
 玲子は楽しそうに明るく笑う。
 「もちろん、桧垣さんとお会いできなくなるのも寂しいのですよ。数回のレッスンでしたがあなたの柔らかなピアノの音色に包まれて、素直な気持ちで歌わせていただきました。次回のコンサートの時もお体が空いていらっしゃるようでしたら伴奏をお願いしたいと思います。」
 「次回のご予約までいただけるとは思ってもみませんでした。私でよろしければいつでもお声をかけてください。」
 桧垣は居住まいを正して礼をする。そしてやや言いにくそうに切り出した。
 「一つ、お願いがあるのですが聞いていただけますでしょうか。」
 「どんなお願いでしょう?私に協力できることでしたらなんなりと仰ってください。」
 玲子は怪訝な顔をしながら尋ねる。
 「折り入って玲子お嬢様にお話したいことがございます。コンサートが終わってからで結構ですので、少しお時間をいただけませんか?」
 「今、この場ではお話しにくい内容なのですね?わかりました。コンサートの翌日の今の時間帯においでください。」
 「ありがとうございます。」
 玲子の承諾を得て、桧垣は慇懃に礼をした。
 片岡が警戒するような様子でこちらを見ているが、その視線に気づかないふりをしながら桧垣は話題を変える。
 「玲子お嬢様はシャンソンもよくお聴きになるのですか?」
 蓄音器が置かれている方向に視線をやる。蓄音機の脇にはレコード盤のラベルが並んでいる。談話室に通されたときに玲子が聴いていたシャンソンの調べを思い出しながら桧垣は尋ねた。
 「はい。シャンソンは好きでよく聴きます。」
 さようでございますか。と返しながら桧垣は立ち上がってピアノの前に座る。鍵盤の上に優しく両手を置くと、有名なフランス映画のタイトルにもなっている“巴里の屋根の下”をつま弾いた。玲子は目を閉じて耳を澄ませていたが、ピアノの脇にすっくと立ち伸びやかな声で巴里の情緒たっぷりに歌い上げた。
 窓の外に目をやれば、細かく霧のように煙る雨と薄暗い空の色が見える。水気を含んで重く濡れているような空気がシャンソンの調べに震えてすっぽり体を包みこむ。
 玲子は歌い終わると長い溜息をつき、瞳を薄く開く。
 「シャンソンも弾けるのですね」
 「少し、ナイトクラブで演奏していた時期がありまして。久々に弾いてみると音を忘れていないかやや不安でしたが、玲子お嬢様が一緒に歌ってくださったおかげで記憶が蘇りましたよ。」
 玲子は少し屈んで鍵盤の上に置かれた桧垣の指先に手のひらでそっと触れ「忘れていたと思っていても体は覚えているものですわ。」と微笑む。
 桧垣は玲子のほっそりとした手を眺めながら、さりげなく手首に巻かれたブレスレットに目を止める。ブレスレットを境目にして掌だけぽとりと落ちる様子を想像し、桧垣は軽く身震いした。屋敷内の温度がいつもより冷えているように感じるのはどうやら天候のせいだけではないようだ。
 玲子はさっと身を起こし「素敵な演奏をありがとうございました。コンサート本番もよろしくお願いいたします。」と丁寧に礼をした。
 「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
 桧垣は腰を上げると勝実に目配せをして暇の挨拶をする。勝実は譜面が入った鞄と衣服が入った紙袋を両手に抱え、まるで家出少年のような格好になっている。桧垣はさっと手を差し出して譜面が入った鞄を持ち、並んで退出した。

 喫茶店のボックス席に桧垣は座り、運ばれてきたコーヒーに口をつける。情報屋は今日も影のように音もなく向かいの席に着いた。
 「もう蜩が鳴いている時期だというのにまだまだお天道さまは夏気分ですね。こう暑くっちゃかなわない。」
 情報屋はハンカチで汗を拭いながら分厚い封筒をテーブルの上に乗せた。
 「ああ。空は随分高くなっているのだがな、そろそろさやかな風が吹いても良い頃合いだ。」
 桧垣は世間話をしながら封筒の中身をあらためる。
 「ふむ。十二分すぎるくらい調べてくれたようだな。」
 「ほかでもない旦那の頼みですからね。」
 桧垣は内ポケットから報酬が入った封筒を取り出すと情報屋に手渡した。
 「ありがとうございます。」
 情報屋は封筒を押し頂きながら「旦那、こりゃ大変なヤマですね。あたしがとやかく言うことではありませんが、気をつけてくださいよ。」言い置いてさっと席を立った。
 「わかっている。」
 桧垣は小さく呟くと、疲れた様子で背中を丸めた。さらりと書類に目を通す。ほぼ推測していた事実がそこに記されている。否、推測の域を超えた出来事が十三年前に起こっているようだ。桧垣は重い頭が乗った首をぐるりと回して体をほぐすと、腰を上げた。
 外にでると一瞬目がくらむほど眩い太陽がギラギラと照りつけ、歩みだした桧垣のうなじを焼く。まっすぐ探偵事務所に戻った桧垣は冷たい麦茶を呷り、気持ちを落ち着けるように一つため息をつくと机の上に今しがた受け取った資料を広げた。
 
・本田瞳、享年23歳。死因は衰弱死。
・当時入院していた産婦人科の看護婦の証言。
 「瞳様は予定日よりも一月も早い時期に産気づかれまして、病院に運び込まれた時にはすでに赤子の頭が確認できる状態でした。未熟児で生まれ落ちた赤子はか細いながらも呼吸をしていましたので、私達も最善を尽くそうと延命措置を施していました。
 その時、処置室の扉が乱暴に開かれ、晴彦様がお見えになりました。晴彦様は『生まれたのか。男か?女か?』と主治医に性急に問いただすと、『男のお子様です。』との返事に満足した様子で瞳様の傍へ行き『よくやった。』と声をかけ『赤子はどこだ?』と不思議そうに辺りを見回しました。
 そして、あの哀れな未熟児に目を止められたのです。
 『これが、私の息子なのか。』
 晴彦様の目に絶望が色濃く映し出されました。
 未熟児でお生まれになったご子息は両手の手首から先が未発達なままだったのです。か弱く、泣き声をあげることさえできないご子息の姿を目の当たりにして、晴彦様はがっくりと膝をつきました。
 私達はその場に凍りついたようになって晴彦様が涙を流されるご様子を固唾を飲んで見守っていました。
 『……これは私の息子ではない。』
 嗚咽の中から思わず耳を疑いたくなるような言葉が晴彦様の唇から紡ぎだされ、彼は立ち上がって赤子を高く持ち上げると、乱暴に床に叩きつけました。ぐしゃりという生々しい音をたてて赤子は固い床に落下し、首をあらぬ方向に捻じ曲げて耳から血を流すとひくひくと痙攣をした後、完全に動きを止めました。
 それは一瞬の出来事で、私は目の前で何が起こったのか分からないような気がしました。いえ、厳密に言うと今起こった出来事から目を背けたい気持ちでいっぱいだったように思えます。そんな私の臆病な心を正気に戻したのは、瞳様の悲鳴でした。瞳様は寝台の上で半身を起し、目をかっと見開いて耳をつんざくような悲鳴をあげられたのです。
 瞳様は晴彦様の足もとで無残に壊れてしまった赤子に手を差し伸べるように身を乗り出して寝台から転落しました。私は慌てて瞳様の傍に駆け寄り助け起こそうとしましたが、差し出した手を物凄い力で振り払い、瞳様は這いながら赤子の元へ向かおうとなさいました。
  晴彦様は瞳様の苦しそうなお声を耳にしてびくりと全身を震わせて振り返ると、うろたえたように1、2歩後ずさりしながら激しく首を振り、子供の亡骸を跨いで逃げるように立ち去られました。
 晴彦様が立ち去られた後、主治医の橋本先生が赤子を拾い上げ、暗い表情で首を振りました。確かめるまでもなく、赤子の命は儚く消え去っていたのです。橋本先生が首を振ったのをご覧になり、瞳様は全身の力が抜け落ちたように弛緩しました。
 私達は親が子を殺す惨劇をはっきりと目撃いたしました。しかし、誰一人としてこの事実を語りませんでした。皆、貝のように口を噤んで何もなかったことにしてしまったのです。
 病室に引き上げて落ち着かれた瞳様に橋本先生は『残念ながら奥様。ご子息は生まれた時にはもう、お亡くなりになっていたのです。』と告げました。瞳様は虚ろな視線を宙に据えたまま『私がいけないのです。主人になんとお詫びしたらいいのか……。先生、私のお腹の中にはまだあの子の両手が残っています。私はなんとしても両手を産んであげなければ。あの子はこれから不自由するでしょう。』悲しげな表情で俯くとすすり泣かれました。
 先生が『お子様は亡くなられたのです。』と諭しても瞳様はその言葉を信用なさいませんでした。そして少しでも目を離すと、赤子の両掌を出そうといきんで大量に出血なさいました。
 晴彦様は毎日幼い玲子お嬢様を連れて瞳様の見舞いにいらっしゃいましたが、瞳様が『合わせる顔がない。』と仰ってさめざめと涙を流される姿を見ることに耐えかねるのか、だんだん足を運ばれる回数が減ってゆきました。
 何度目かの大出血の後、瞳様は夢と現も分からないような状態に陥りました。昏睡状態を確認した橋本先生は急いで晴彦様にご連絡をなさいました。ところが晴彦様は商談の為に出張なさっていて帰るまで丸一日かかってしまうとのことでした。瞳様は明日をも知れぬほど衰弱しきっておいでです。このまま身寄りが来ないまま瞳様は寂しくお亡くなりになってしまうのかと、他人の私でさえも瞳様の身の上を案じて辛い気持になった時。
 『お母様。元気を出して。』
 愛らしい声を発しながら玲子お嬢様が病室にいらしたのです。傍らには苦渋(くじゅう)に満ちた表情を湛えた年配の男性が立っています。その老人こそが、瞳様のお父上でございました。橋本先生は老人の姿を認めると、顔色を変えて『御前様がお越しくださったのですか。』と深々と頭を下げました。
 御前様は橋本先生が顔を上げるのを待ってから『婿が間に合わぬようなのでな。』と短く仰いますと『玲子の前では瞳の病状について聞くこともままならぬ。別室で詳しく聞かせてくれ。』と橋本先生を促し病室を後になさいました。
 玲子お嬢様はあどけない表情で母親の寝台の横に設えられた椅子に腰かけて『お母様。お父様がまた新しいお人形を買ってくださったのです。』とにこにこ笑いながら腕に抱いたフランス人形を見せて話しかけています。私はそんな無邪気な玲子様のお姿を見ているうちにいたたまれなくなり、母娘を残して退室いたしました。
 一時間くらい経ったころ、御前様が橋本先生との話を終えられて病室にいらっしゃいました。娘の顔を覗き込んで『顔色が良くなったみたいだな。』と仰いました。瞳様は玲子お嬢様とお話をされて少しご回復なさったのか、微笑んで『お父様、ご心配をおかけしました。私はこの通り役目を果たせましたので安心して休むことができます。』と仰いながら枕元に置かれた小さな手をご覧になりました。御前様は眉を(ひそ)めてその手をご覧になりましたが『おお。それは良かった。後はゆっくり休んで早く回復するのだぞ。』と言い置いて玲子お嬢様の手を引いて病室を出て行かれました。玲子お嬢様はお人形を両手でぎゅっと抱きしめて俯いたまま『さようなら。』の挨拶もなさらずに出て行かれました。
 瞳様がお亡くなりになったのは翌日の昼でした。出張先から車を飛ばして駆け付けた晴彦様の姿をお認めになると瞳様は満足したように微笑まれて、そのまま息を引き取られました。昨日枕もとに置いてあった小さな手は知らないうちに跡形もなく消えていました。」

 桧垣は看護婦の証言に目を通した後、同封されていた写真を取り出した。写真はやや色あせているが本田家の家族写真のようだ。向って左が晴彦氏、その隣に玲子嬢を膝に抱いた奥方が並んでいる。何かの記念に写真館で撮影したのだろう。改まった格好でやや緊張した面持ちの晴彦氏と、他に関心を惹かれているのか、カメラに焦点が合っていない玲子嬢、娘を膝に抱いて優しく微笑む奥方の姿が写し出されている。
 こうして並ぶ姿を見ると、玲子嬢は間違いなく父親の晴彦氏の面影(おもかげ)を色濃く宿している。母親も美しい人だが、しとやかで奥ゆかしい大和撫子という印象だ。
 桧垣は写真の奥方の顔をじっと見つめると、立ち上がって棚の中から今回の事件に関する資料を入れてあるファイルを取り出した。特に急ぐ理由もないのにせわしなく資料を漁り、古ぼけた写真を取り出す。暗い所で撮影されたもので、写真は不鮮明で目を凝らさないと何が写っているか分からないが、写真を手に入れてから何度も目にしている桧垣は目的の人物の顔をすぐに見つけ出した。そして家族写真の横に古ぼけた写真を置いて見比べると「間違いない。」と呟いて宙を睨んだ。
 保子の告白で彼女の母親が晴彦氏の愛人だと知った桧垣は、その事実の裏付けを得るために彼女の近辺を調査した。保子は母親が遺した妾宅に今も住んでいるので、近所の噂好きな主婦に尋ねれば母親の勤めていた店はあっさり調べることができた。今はキャバレーとして流行っているその店に足を運び、店主に「雑誌の取材で古き良きダンスホールの時代の記事を書く。」と、少々嘘をついて当時の店内の様子を写し出した写真を入手した。保子の母親はその店で一二を争うほどの人気だったそうで、店主は懐かしそうに目を細めながら嬉々として当時の話をしてくれた。
 「茜ちゃんはね、歌が上手でお客さんによく指名されて歌っていたものさ。いいパトロンがついてこの店を辞めることになったけれど、今でも元気にしてるといいがね。」
 「ほう。その茜さんという方は、この写真に写っているのですか?」
 「ああ。ちょっと見づらいが……この子だよ。」
 店主が指さした女は今風に言うとコケティッシュな表情をした愛らしい女性だった。
 茜の写真と瞳の写真。見比べてみると表情は随分違うが、二人の顔立ちはそれとなく似通っている。そして、保子も母親の面影を宿している。否、保子のほうが瞳により一層似ているように思える。最愛の妻を失った晴彦氏が束の間の心の安らぎをこの母娘に求めてしまったのも想像に難くない。
 保子が晴彦氏の死の直前に目撃した“動かない手”は看護婦の証言の最後に出てきた手と同一のものである可能性が高い。保子が手を持っている姿を目にした晴彦氏が錯乱しながら「お前は“あれの手”を持って来て、私に復讐するつもりなのだろう!」と叫んだのも、瞳が赤子の手を持って復讐に現れたように錯覚したからだと考えると合点がいく。
 瞳の心を安らかにした仏のような手。
 保子の前に現れた不思議な手。
 晴彦の心をかき乱した鬼のような手。
 同じものなのに、手はまるで意志を持っているようにタイミング良く現れる。なにもかも見透かしたように手を操ることができる人物は一人しかいない。その人物がどのような意志を持って手を使ったのだろうかと想像した時、桧垣は言いようのない深い哀しみを感じて目を閉じた。

 コンサート当日。
 チャリティーコンサートが催される会場は客席との距離が近い小規模なホールだった。玲子は慣れた様子で他の出演者に桧垣を紹介し、ステージで位置を下見した後、楽屋に戻った。
 「勝実さん。そのワンピース、とても良くお似合いですよ。」
 玲子は緊張で強張(こわば)っている勝実の隣に座り、優しく話しかける。勝実も晴れの舞台なのでいつもの半ズボンという訳にもいかず、きちんとワンピースを着こんでいる。
 「出番までの待ち時間が一番嫌ですわ。」
 「どうしてですか?」
 「だんだん出番の時間が迫ってくると、緊張で胸が苦しくなりますもの。」
 「玲子お嬢様でも緊張なさることがあるのですね。」
 勝実は腕を組んで壁にもたれている桧垣の方を向いた。
 「先生も緊張なさるんですか?」
 「私だって舞台に上がる時は緊張するさ。」
 「そんな風には見えませんけれど。」
 「私や玲子お嬢様はそれなりに場数を踏んできているからね。表面に出ないだけで緊張しているのは君と同じだよ。」
 「そうなんですね。」
 勝実は安堵したように息をつくと、少し表情を緩めた。
 いよいよ出番となり、打ち合わせ通り演奏前に中央に進み出て一礼をする。中ごろの席に瀬尾夫妻と香が掛けている姿が見える。桧垣がピアノを奏でだすと場内は水を打ったように静まり返った。玲子の伸びやかで澄み切った声がホールの隅々まで響き渡る。聴衆は静かに耳を傾け、演奏が終わると惜しみない拍手を送った。
 コンサートは盛況のうちに幕を下ろした。玲子は満足した様子で桧垣と勝実に労いの言葉をかけると、楽屋の前で待ち受けていた人々の輪の中に入っていた。

 コンサートの翌日。
 桧垣はレッスンと同じ時刻に本田邸を訪れた。玲子はここで最初に会った時と同じ白いワンピースに身を包み、談話室のソファーにゆったりと腰かけて本を開いていた。
 「こんにちは。」
 桧垣は音を立てないようにそっと彼女の傍に近寄って挨拶をする。
 「ああ……もうお約束の時刻でしたか。」
 玲子は本の世界にやや気を取られた様子で顔を上げると、向かいのソファーに掛けるよう示した。
 「昨日はお疲れさまでした。みなさん桧垣さんの演奏を口々にお褒めになっていましたよ。」
 柔らかな木漏れ日のように眩く微笑みながら本に金細工製の凝った作りの(しおり)を挟み込んでテーブルに置く。
 「恐れ多いことでございます。」 
 桧垣は玲子と向かい合って座ると恐縮した様子で頭をかいた。
 「さて、単刀直入に御用の向きを伺いましょうか。」
 玲子は笑顔を崩さぬまま、桧垣の目をまっすぐ見て言った。
 「実は私、音楽教室の他にも生業がございまして。」
 桧垣は背広の内ポケットから名刺を取り出した。
 「桧垣探偵事務所……。桧垣さんは探偵もなさっているのですか?」
 玲子は名刺を凝視したまま驚きを隠せない様子だ。
 「はい。今回、さる筋からお父上の晴彦様について依頼を受けております。私なりに色々と調べさせていただいたのですが、どうしても分からないことがございまして、大変不躾かと存じますが、玲子お嬢様にいくつか質問をさせていただきたいのです。」
 「さる筋…という、あなたに調査を依頼した方のことも伏せたままで、私に父について教えてくれと質問されても、そう簡単に何でもお答えするわけにはまいりませんわ。」
 「玲子お嬢様の仰る通りでございます。ただ、私も質問だけして答えをいただいたら「はいそうですか。」と帰るつもりもございません。質問をさせていただく前に、私がこの依頼を受けた経緯から今までの調査の結果をかいつまんで説明いたしましょう。それを聞いていただいた上で、玲子お嬢様が私の質問に答えても良いと思われるのならば、お答えいただきたいのです。」
 「私が質問に答えるのが嫌であれば?」
 「お答えいただかなくても結構でございます。」
 玲子は考え込むようなそぶりを見せて沈黙したが、やがて決心したように顔を上げた。
 「あなたが受けた依頼について、伺いましょう。」
 「ありがとうございます。」
 桧垣は丁寧に礼を述べ、頭を上げると「この場に青木さんを呼んでいただいてもよろしいでしょうか。」と願い出た。
 「どうして……。」と玲子は言いかけてはっと息を飲む。
 「あなた、父について調べていると仰いましたわね。保子さんについても御存じなのですか?」
 眉を顰め、低く冷たい声で問いかけてきた。
 「はい。色々と調べさせていただきましたから。」
 桧垣は眉ひとつ動かさず、落ち着いた声で答える。
 玲子は溜息をつくと呼び鈴を振り、現れた女中に保子を呼んでくるよう命じた。
 「……失礼いたします。」
 叱られた子供のように打ちひしがれた様子の保子が消え入りそうな声で談話室に入ってくる。所在なさげに扉の近くに控えて立った保子は、こちらに来て話を聞きなさい。と命じられ、俯いたままのろのろと近づいて桧垣が掛けているソファーの横に立った。
 「では、話をはじめたいと思います。
 私が受けた依頼の内容ですが、晴彦氏がお亡くなりになったことについてです。晴彦氏が心臓の病が篤くなってお亡くなりになったと言うことは紛れもない事実ではございますが、後日、そこに控えていらっしゃる青木さんが警察に『自分が晴彦氏を手にかけた。』と言って自首なさったそうですね。
 しかし、調べてみると晴彦氏の死因は他殺ではなく紛れもなく発作による心停止となっているのですよ。」
 「当然ですわ。父が亡くなった日、私が同じ部屋で看病しておりましたもの。仮にお父様を手にかけた人がいるならば、同じ部屋に居合わせた私が気付かない筈がありません。」
 玲子は呆れたという風に保子を一瞥して言った。
 「これは他殺ではない。と警察も青木さんの話には取り合わなかったそうですね。
ただ、依頼人から晴彦氏の調査を請け負っている私としましては青木さんの行動は見過ごす訳にはまいりません。私はさっそく彼女にお会いして詳しい話を伺いました。すると、青木さんのお話の中に不思議な小さな手が度々現れるのです。
 彼女の証言をかいつまんで説明いたしますと、晴彦氏が最初に心臓発作で倒れられた時、廊下で掃除をしていた青木さんは廊下の真ん中に現れた小さな手を目撃しています。その手を見た晴彦氏はひどく取り乱して倒れられたそうです。
 次に小さな手を目にしたのはその日の夜中のことです。雷雨が激しくて帰宅できなかった青木さんは就寝前に晴彦氏とあなたがおいでになっていた客間に寄り、空になっていた食器を下げようとしました。その時、あなたは晴彦氏のベッドの脇の椅子でうたた寝なさっていたようですね。あなたを揺り起して寝椅子に移動させた後、サイドテーブルに小さな手が置かれていたのを発見されたようです。物音を耳にして目覚めた晴彦氏は小さな手を目にして更に錯乱したようです。」
 「馬鹿馬鹿しい。度々現れる小さな手に、私の父はとり殺されたとでも仰いますの?」
 玲子は憤慨した様子で席を立とうとした。
 「お待ちください。ここで青木さんが目撃したという小さな手を私なりに推測してお持ちいたしましたのでご覧いただきたいのです。」
 桧垣は鞄から小瓶を二つ取り出すと、テーブルの上に並べた。玲子は小さな手の正体に興味を惹かれたらしく、ソファーに掛け直すと小瓶の中を覗き込んだ。桧垣は保子にもよく見えるように二つの瓶をテーブルの端に寄せる。保子は二つの瓶の中を見つめると、何度も頷いた。
 「青木さん。これらはあなたが目撃した小さな手に間違いありませんね?」
 桧垣は瓶を玲子の前に置き、一方の瓶を取り上げると静かに言った。
 「こちらの瓶に入っているのは蜘蛛の一種です。薔薇の花に付く虫を食べる蜘蛛です。」
 そしてもう一方の瓶を持ち上げる。
 「こちらに入っているのは、人形の手を切断したものです。」
 玲子は人形の手を見たとたん、大きく目を見開いたまま両手で口を覆った。玲子を鋭く一瞥した後、桧垣は保子に振り返って二つの瓶の中身を指し示した。
 「青木さん。あなたにはこの瓶の中に入った物が同じ“小さな手”に見えていますね。」
 「……はい。」
 玲子は保子の顔を睨みつけると「これが同じものに見えるですって?!」信じられないという風に首を振る。
 「おや。玲子お嬢様も青木さんがよく見間違いをする。否、視覚に障害を患っていることはご存じではありませんか。」
 桧垣は落ち着いた様子で腕を組むと、説明を続けた。
 「最初に廊下に現れた手はおそらくこちらの蜘蛛でしょう。薔薇の花が庭に沢山植えられていますからね。小さな蜘蛛の一匹くらい屋敷内に侵入しても不思議ではありません。」
 「どうしてそのように断言できるのですか?」
 玲子は鋭く聞き返す。
 「これは、説明不足で申し訳ございません。最初に廊下に現れたという小さな手は、動いたんですよ。動く小さな手によく似た動物。と言えばこの蜘蛛くらいでしょう。」
 保子は伏せ目がちに佇んでいたが、気になることがあるように桧垣を見つめた。
 「あ、あの。私が目撃したのがこの蜘蛛だったとしても、晴彦様の胸元まで這い上がってそこからふっと消えてしまったのが不思議でなりません。」
 ためらいがちに質問する。
 「ふむ。小さな生き物ですからね。蜘蛛は糸を出して飛ぶこともできるんですよ。それに、晴彦氏が倒れられた事実に動転しているあなたが、蜘蛛のことをじっと観察していた訳でもありますまい。この大きさですから……あるいは晴彦氏のシャツの胸ポケットに落ち込んだのかも知れませんね。」
 「そう、ですか。」
 保子は小瓶に入れられた蜘蛛に視線を落とす。
 「では、話を続けましょう。
 次に青木さんが晴彦氏のサイドテーブルの上に載っているのを見つけたのは、おそらくこの手です。」
 桧垣は人形の手が入った瓶を持ち上げる。
 「おや、この小さな蜘蛛がお父様に取り付いたままサイドテーブルに載っていたとは考えられませんの?」
 玲子は落ち着きを取り戻したらしく、人形の手を見ながら質問する。
 「理由は二つあります。
 一つ目、青木さんは『この時目にした小さな手は動かなかった。』と証言しています。
 二つ目、これが決め手となる重要な理由なのですが……この人形の手はまるで意志を持つようにタイミングよくあちこちに出没しているのですよ。」
 桧垣はそう言って、玲子の顔を見つめた。
 「不思議な手ですこと。桧垣さん、そんな怖い目でご覧になっても私は何も存じませんよ。」
 玲子は悠然と微笑んだまま桧垣を見返す。桧垣は眉を広げて表情を緩めると、話を続けた。
 「私が調べた限りでは、この手は三度、人前に現れています。
最初にこの手が現れたのは、十三年前です。あなたのお母上が亡くなられる直前に現れました。お母上の枕もとに両手揃えて置かれているのを看護婦が目撃しています。
 次に現れたのは、青木さんがこのお屋敷にお仕えするようになった時です。
 最後に現れたのは、晴彦氏がお亡くなりになる直前です。
 私は、この手が現れたタイミングを分析しました。この手は本田家のご家族の生死に関わる時に現れるようですね。ただ、三回中、一度だけ人の生死に関わらない時に現れています。」
 「保子さんがいらした時。ですわね。」
 「ええ。青木さんがここにお仕えすることになって、この手を操っている人物は何かを感じ、それを誰かにこの手を使って伝えようとしたようです。私は、その人物が手を見せたかったのは青木さんではないと思います。確かに青木さんはこの手を目にしましたけれど、本当に見せたかったのは、晴彦氏ではないでしょうか?」
 玲子は心持ち首を傾げながら不思議そうに尋ねた。
 「お父様にこの手を見せたら、一体何が伝わるのでしょうね。」
 「さあ……。私にはこの事件を引き起こした人物の心は分りません。ただの悪戯なのかもしれませんし。玲子お嬢様なら、もしやその辺りの事情も御存じなのではないかと思ったのですが……。」
 桧垣は困ったように背もたれに体を預けると、額に手を当てた。玲子は桧垣の様子をじっと見つめていたが、一つため息をつくと首を振った。
 「残念ながら、私はあなたの質問にお答えすることはできませんわ。でも、私なりに推測して一つだけ言えるのは、この手を使おうと使うまいと、お父様は何一つ変わらなかったであろう。ということだけです。お父様は保子さんに夢中でしたから……。」
 玲子は昔を思い出したように憂いを帯びた瞳を伏せる。保子は玲子の言葉を聞いて冷水を浴びせられたように体を震わせると床に崩れ落ちた。
 「青木さん、しっかりなさい!」
 桧垣は保子を支えながらソファーに座らせた。保子はぐっしょりと汗をかいて真っ青な顔で荒い息をしている。玲子は女中に水を持ってこさせると、彼女に差し出した。
 水を一気に飲み干して息を整えると、保子は玲子に頭を下げたまま「申し訳ございません。」と小声で言い、桧垣に向きなおった。
 「桧垣さん、私嘘を吐いていました。私が見た手は全て幻です。」
 桧垣はつと目を細めて保子を見ると、彼女は震えながら頭を振った。その様子から、もう十分だ。という意思が伝わってくる。
 「あら。全部嘘だったの。面白い話だったのに残念ね。」
 玲子は明るい声で言うと、無邪気に笑った。
 「では、お父様がお亡くなりになった事実に疑いはなくなりましたね。
今日は大変興味深いお話をしていただいて楽しかったですわ。私、これからお友達と約束がございますの。準備がありますのでこれで失礼します。」
 玲子は話を切り上げると、本を手に談話室を後にした。
 桧垣は玲子の後ろ姿を茫然と見送った後、保子に向き直り「これでいいのですか?」と尋ねる。
「はい。手の正体も分かりましたし、私なりに納得できました。もう、十分でございます。」
 保子は桧垣が差し出したハンカチで額の汗を拭きとると、微かに微笑んだ。

終章

 大きな病室。白いシーツの上に衰弱しきった母がいた。彼女は思い出したように「手を、産んであげなければ。」とうわ言を呟きながら体を丸める。
 私は、母が弟を産んだ時、父が開いた扉の前で一部始終。何もかも見ていた。
 弟が父に壊されてしまうところ。
 母が正気を失ってしまうところ。
 目をそらす人々。
 私は父に手を引かれてその場を離れるまで、瞬きもせず、じっと見ていた。
 今、目の前で母は弟を五体満足に産んでやれなかった自分を責めている。弟には手首から先、両手が無かったように見えた。だから、母は手を産みたいと思っているのか……。
 母が成し遂げられないことならば、私が代わりにしてあげよう。叶わぬ願いを込めて、私は椅子の傍らに置いたお気に入りのフランス人形を持ち上げる。花切り鋏を手にして、人形の両手を切り落とした。それは壊れやすい赤子の手によく似ていた。母に小さな両手差し出すと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。そして、一時正気を取り戻して私の手を強く掴んで言ったのだ。
 「私が血を分けた正当な後継者はあなた一人です。あなたには本田家を守る責任がある。お家に仇なす者を許してはなりません。」
 それが、母が私に遺した最後の言葉だった。

 保子が屋敷に仕えるようになった時、彼女があまりにも母親に似ているので、確かめるつもりで彼女に手を見せた。しかし、彼女はふいに現れた手を怖がって触れようともしなかった。あの子は私のお母様じゃない。そう思いながら部屋に戻って窓から外を見下ろす。父が保子を車に乗せて屋敷を出て行った。
 成長するに従い、父と保子の関係を知るようになった。金も権力も持っている父に愛人の一人や二人はいても構わない。ただ、保子が母に似ているのがどうしても許せなかった。
 数年前、保子が妊娠した時、父は私に保子が男を産んだら自分の跡を継がせると言い出した。私は父が何を言っているのか理解できなかった。本田の血を継いでいるのは私だ。
 心の中に母の遺言が生々しく蘇る。「お家に仇なす者を許してはいけない。」実の父親なれども、私にとって父は家に仇なす憎い敵になった。
 幸い保子は体調を崩して流産し、子供が生まれることはなかった。

 私は母の遺言を守ってきた。頑ななまでに……。
 だから、私のしたことは正しいんだよね?
 おかあさん。


 片岡は静かに階段を上って玲子の部屋の前に立った。軽くノックをしてから扉を開く。
 「失礼いたします。」
 玲子は窓の縁に腰かけて物思いに沈んだ様子で外を眺めている。窓から半身を乗り出している姿は、まだあどけない少女のように儚げで、今にも飛び降りて壊れやしないかとはらはらさせられる。
 「お嬢様。そのようなところに上がられると危のうございます。」
 玲子はゆっくりこちらを振り返った。
 「片岡。私がしたことは間違っていませんね。」
 自分に言い聞かせるように低い声で静かに問う。
 「はい。」
 玲子は長い溜息をつくと、何かを決意したように意志を秘めた強い視線を窓の外に向けた。
 「私、もう幼い子供ではありませんもの。一人でも生きていけますわ。父の仕事だって立派に継いで見せます。
そして、本田の家をもっと栄えさせます。」
 空の彼方に行ってしまった家族に聞かせるように決意表明をすると、窓枠から降り、晴れ晴れとした顔で振り返った。
 「片岡、これから忙しくなりますよ。」
 そこには未来に挑もうとしている若き本田子爵の姿があった。

鬼の手

鬼の手

  • 小説
  • 中編
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-01-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章
  2. 第二章
  3. 第三章
  4. 終章