アトランティスの王女 第二部。
ユリアはエジプトのサイスの街に向かう。 そしてツタンカーメンにあう。
壮大すぎる物語。第二部スタート。
この作品は、小説家になろう。以来二度目のお目見えです
アトランテイスの王女 第二部。
『サイスの街の神官』
中村新一(ペンネーム)の作品。
プロローグ。
彼の名はソロン。 ギリシアの賢者だった。
彼はアテナイで、後世にソロンの改革と呼ばれる、多くの改革を行った。
民主主義の父とも呼ばれる。
彼は改革の後10年程アテナイを離れ、エジプトのサイスという街を訪れた。
サイスはソロンの生きた時代のエジプトの首都だった。
古典復興の時代で、フアラオの巨大な墳墓(ピラミッド)の調査や補修、歴史文献の整理等が行われていた。
文献の殆どはパピルスだった。
粘土板と異なり保存が難しい。貴重な資料だ。しかし、ソロンの名声はエジプトにも轟いていて、大歓迎を受けた。
歴史的、文化的にはエジプトがギリシアの師だったにもかかわらず、エジプト人はソロンに極めて好意的だった。
その中には女神ネイトに仕える神官達がいた。
ギリシアのアテナに相当する、知恵の女神である。
サイスの神官ソンキスと、ヘリオポリスのセノフイスは、どちらも老人だったが、ソロンにとっておきの話をした。
サイスの街に9000年(?)も前から伝わる伝説を。
最初、ソロンの話を聞いていたが、二人はソロンを嗜めた。
「ソロン、君たちギリシア人は子供だなあ。老いたギリシア人はどこにもいないではないか」
ソロンはどういう意味か問い直した。ソンキスは答えた。
「君たちの精神が若いのだよ。 君たちギリシア人には昔の伝説に基づく古い考えも、古い学問も無いからだ。
大洪水は今まで何回もあったのに、君たちはその中のたった一つしか覚えていないでは無いかね?
そもそも君たちの住むアテナイには、現在(西暦紀元前570年頃)から9000年も前に、人類の中で、 最も美しく、最も勇敢で、最も偉大な種族が住んでいた。
彼らは大洪水で滅びてしまったが、君達アテナイ人こそ、この最高の種族の末裔なのだよ。
自分達の遠い御先祖の偉業も知らない君達は、まったく子供としか言いようが有るまい」
老神官ソンキスの話に、ソロンは非常に驚いた。
もっと詳しく知りたいと望んだ。
「よろしい、ソロンよ、君のためにも君たちの国アテナイのためにも話そう」
ソンキスによればアトランテイスは、へラクレスの柱の西の彼方にあった、巨大な島であった。
そこにはとてつもない強大な王朝があり、島の向こうのもっと大きな大陸に自由に航行できたばかりか、 エジプトを除く地中海沿岸とイタリア半島の西北部、 エトルリアあたりまで支配していた。
アトランテイスの侵略者から立ち上がったのが、アテナイ人の先祖と、アテナイを盟主としたギリシア本土のグループだった。 戦いはアテナイ軍の有利に進んだが、しかし!!
巨大な地震と洪水が度重なり、アトランテイス島は一日と一夜のあいだに海の深みに沈んだ。
そしてアテナイの戦士たちも海に呑まれ、運命を共にした。
大災害はアトランテイスとギリシア本土を同時に襲ったのだ・・・。
ソロンは非常に驚き、この話をギリシア語に翻訳して叙事詩にしようと決意した。
老神官たちはエジプト人達がアトランテイスを知っていただけではなく、 現実にこの島とエジプトに広範な交易関係があったと保証した。
そうでなければエジプトにアトランテイスの記録が残る筈が無い。 自分達に関係の無い話に感心を持つほどエジプト人は物好きではないのだ。とも言った。
しかし叙事詩を書く時間は無かった。
ソロンは政治家であると同時に優れた詩人でもあったが、しかし、計画を実現する前に亡くなった。
紀元前640年生まれ、紀元前558年没。享年82歳。
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
「ふーん?ソロンねえ?」ヒッポリュテーは面白がった。
「あたしも驚いたわ」とユリアも同意した。
ミネルヴァ女史は説明を始めた。
「ソロンがエジプトから持ち帰った書付は友人のドロピデスの家に残された。 ドロピデスの曾孫はクリテイアス・・ クリテイアスはプラトンの母の従姉弟だった」。
ヒッポリュテーは、 「つまり、伝聞の伝聞、そのまた伝聞、というわけかい?」と問い直した。
ミネルヴァ女史は、 「ええそうよ。プラトンはこの話を晩年の対話編に書いた。
『テイマイオス』と『クリテイアス』に、 かくしてアトランテイスの伝説は有名になった。
西暦紀元前355年頃の話よ。12年後、紀元前343年頃プラトンは老衰で死去。その3年後、プラトンの弟子のアリストテレスは、アトランテイスの実在を断固否定し、 『これは一種のユートピア物語であって、何の真実も反映していない。 プラトンはアトランテイスを海に沈めて、 話の辻褄を合わせただけだ』とまで言い切った。
しかし、その他の人々はアリストテレスの意見に耳を貸さず、アトランテイスを捜し求めた」
ユリアは、「別に悪い事じゃないと思うけど?」
涼子は、「そうだ。トロイの都も、キリスト教化されたヨーロッパの人々によって、オリンポスの神々と同じくフアンタジーにされてしまった。 プロテスタントの牧師の息子シュリーマンがトロイを発見したのは歴史の皮肉だ」。
フレイヤが、「確かシュリーマンはクノッソス宮殿の場所を突き止めていたはずだわ」と述べた。
「その仕事を完成させたのは、アーサー・エヴァンス。KTフオレストはその助手だった」と涼子。
「アトランテイスはクレタ島だと主張した人ね」ユリアはKTフオレストに感情移入していた。
ミネルヴァ女史は、「フオレストがアトランテイス=クレタ説を発表してから3年ぐらい経って、1912年10月、パウル・シュリーマンという怪人物が名乗りを上げた。
祖父のハインリッヒ・シュリーマンはアトランテイスの場所を突き止めていた。 トロイの都を発掘中に、フクロウの頭を持つ壷を発見した。 その壷にはフイニキュア文字で、 アトランテイス王クロノスの名が刻まれており、祖父はトロイ、ミケーネ発掘の後、アトランテイス探索に乗り出すはずだった。 とね」。
ヒッポリュテーは、「それは興味深い。あたしが、あんたたち未来人から聞いた限りでは、 シュリーマンとかいう人は、 トロイの後はクレタ島のクノッソス宮殿を発掘するつもりだったんじゃないかい?」と指摘した。
ユリアは、「クレタ語は基本的に、フイニキュア語なのよ」 と指摘した。 しかしそうなると・・・
「パウルは、アトランテイス発見の栄誉は、エヴァンスでもなければフオレストでもない、祖父ハインリッヒ・シュリーマンのものだ。と言いたかったんだな!」
ヒッポリュテーは鬼の首でもとったように喜んだ。
涼子は、「パウルは手記の続きを発表せず、姿をくらました。 後の調査でシュリーマン家には、パウルという人物はいなかったとされる。 正体不明の人物だ」
ヒッポリュテーが、「そんなの偽名に決まってるじゃないか」。
ユリアは、「ペンネームってやつかしら?」
涼子が、「たぶん、シュリーマン家の誰かが偽名を使ったのだ。それが妥当な解釈だ」。
ヒッポリュテーは、「だろうね。フクロウの壷はでっち上げだと思うよ」と述べたが、ユリアは、
「それじやあ、つまんないわ」
「いいじゃないか。アトランテイス=クレタ説の有力な根拠のひとつだ」涼子は話を締めくくった。
「クレイトーがネイトを生んだ時の話をしよう」
第一章。 .新しい命。
ミネルヴァ女史は医師ではないので、産室の外にいた。
クレイトーは激しい陣痛に襲われる筈だったが、実際には何の苦痛も感じなかった。 神経遮断機はクレイトーの意識を半分麻痺させていた。
「産道が狭いね。帝王切開するよ」
「了解」 クレイトーの下腹部は切開され、あっと言う間に新生児が取り出された。
「オギャー」
涼子は、「おめでとう元気な女の子だよ」
ユリアは、「やっぱり女だったのね」
王家の人々にとって別に驚きではなかった。涼子はクレイトーが女の子を孕んでいると、ユリアに説明し、王家の全員が信じたのだ。
そして、義父のミノス王、テア、ユリアなどが、赤ん坊と対面した。
「名前は決めてあるの?」
「もう決めてあるわ。ネイトよ」
ミネルヴァ女史は驚いて、涼子と顔を見合わせた。
「エジプトの知恵の女神の名前ね。ギリシアならアテナ、ローマならミネルヴァ。つまり私と同じ名前だわ」
レダは、「未来人に敬意を表しているのですわ」
女官長テアは、「ミネルヴァ様がいなかったら、ユリア様は勿論、カリスト島の住民は全滅、クレタ人の多くが死んでいましたよ」
ユリアとアトルは赤ん坊に眼を細めた。
「賢い女の子になりますように」
ミネルヴァ女史は、 「私の両親はそのつもりでミネルヴァと命名したのよ。 両親の期待を裏切らずに、タイムトンネルを造ったりしたけど」
涼子が、「この子の眼の色は、大部分のクレタ人と同じ様に黒ですね。灰色の眼ならアテナに相応しいのに」
と余計な事を言ったが、ミネルヴァ女史は、
「ネイトなら、エジプトの女神だから、眼が黒でも不自然ではないわ」と答えた。
涼子は、「アテナとネイトは同じ女神だと、ヘロドトスやプラトンは書いている。 それにしても、眼の色の違いが分かっていたのかな?」
ユリアは、「細かい事は、気にしない、気にしない」
「相変わらず、アバウトだね、君は・・」
涼子はクレイトーとネイトを、他のドクターに任せると、ミネルヴァ女史を誘って宮殿の外に出た。
クノッソスは殆どが潰れたり、焼失したりしていたが、それでも多少は使える使える処もあって、 クレイトーはそこで出産したのだ。
涼子は口を開いた。「惨憺たる有様ですね」
「火山灰と軽石だらけね。 クレタ島に火山が無いのに軽石が取れるのは、後世の地質学者の悩みの種になり、アトランテイス=クレタ説のヒントになるのよ」
「知ってます。しかし、もっと恐ろしい事が起きます」
「わかっているわ。それを止める為には充分な食料が必要だけど、手配済みよ」
「ならいいけど」
37世紀人は、20世紀末に考古学者コリン・マクドナルド博士(実在の人物)によって発見された、痛ましくも猟奇的な恐ろしい実話を忘れない。
マクドナルド博士はクノッソス宮殿の近くで、幼い子供の死体5人分を発見した。 明らかに撲殺されており、骨の傷跡からみて、ナイフで人肉を切り取った形跡があった。 人肉を収めた壷もあり、食用の蝸牛と、食べられる野草、保存料代わりの塩も入っていた。 マクドナルド博士は強いショックを受けた。
(これは紛れも無く史実です。念の為。作者の声)
「ユリアにこんな話は聞かせられないですね」
「人類の歴史は悲劇と愚考の連続だけどね」
「クレタ人に人道援助を行うとしても、ギリシア本土の侵略を撃退するほどの、国力を与えるわけには行かない。
歴史がガラッと変わってしまう」
「うーむ?」とミネルヴァ女史がうなった。
「クレタ人の流出は歴史上の事実です。 東地中海にはクレタ人の居留地があって、 親戚や友人の伝を頼って出国していく者が後を絶たない。 それ自体は史実の通りで、結構な話なのですが、 ユリアを如何するかが問題です。
ユリアの性格からして、自分だけが5000年後の世界で、安楽な暮らしを送りたいとは思わない筈です。
全てのクレタ人を未来に連れて行くか、自分も人民と共に旅に出るか、二つに一つでしょう。
僕たちは、王女ユリアをこの時代で守ってあげられるでしょうか?」
ミネルヴァ女史は、「うーむ?」
「ユリアは未来のアイテムがあれば、魔法使いの女戦士に化けられます。しかし僕たちの便利なアイテムを絶えず与えられるという、条件つきです。それがなければユリアは只の小娘です」
「ユリアには王族に求められる、 敵に対する非常さが欠けている。 女戦士という柄ではない。 37世紀で一市民として生きるには好ましい資質では有るけどね」
その時、涼子の携帯情報端末(電話兼用)から呼び出しがあった。「ドクター高野、救護センターに急患です。10歳ぐらいの男の子です」
涼子をドクターと呼ぶのは、同じ37世紀の看護婦である。
(私は女性看護師なんて言葉は使わないぞ。作者の声)
「症状は?」
「明らかに、食中毒と思われます」
水害の後は伝染病が、特に消化器系の病気が発生する。あれだけ消毒したのに、完璧ではなかったのだ。
「いつもと同じ処置をしなさい」
すなわち、浣腸と胃洗浄、抗生物質の投与である。古典的なやり方だが、薬は進歩しており、あっと言う間に治る筈だ。
涼子以外にもドクターは大勢いるのだし、そちらに任せれば、涼子が手抜きでいい加減な仕事をした事にはならない。
もしも、涼子以外にドクターがいないのに、電話だけで診察したなら、職務怠慢で医師法違反だ。 20世紀の日本の医師法は、通信機器の発達を予想できず、医師が患者を直接診察せずにあれこれ指示することを禁止していて、遠隔操作によるロボット医師の登場を想定していなかった。
37世紀の医師法ならある程度、合法だ。
「古典的と言えば、産辱熱だってこの時代なら、妊産婦の死因のトップだったけど、ハンガリーの医師イグナツ・ゼンメルヴァイスが1840年代に提唱し、後にフランスの生化学者、ルイ・パストゥールが実証したように、念入りに手指を消毒すれば死者は激減できる筈です」涼子は、ぼやいた。
「ふたりの業績を剽窃したことになるのかしら?」
ミネルヴァ女史は思案する。 その時ミネルヴァ女史の携帯情報端末のアラームが鳴った。発信者はユリアだった。
「はい、ミネルヴァです。え?何?墓参り?」
「そーなのよ。孫が生まれた事を御先祖様に知らせるの。」
ユリアはいつもの通りのアバウトな喋り方で、キャッキャッと喜んでいた。 若い娘だが兄夫婦に女の子が、自分から見て姪だが、生まれたのが嬉しくて堪らないのだ。
「同行してくれますわね? ミネルヴァ様?」
「勿論よ。ミノア王家の墓を見たいわ。涼子も同行するわ」
クレタでは初期青銅器時代のかなり早い時期から、一つの家族で同じ墓に葬り続ける風習があった。
それだけなら、例えば日本の墓(火葬)と変わらない。
しかしクレタは土葬で、しかも円形の石積みの墓に、何世代にもわたって葬り続けるのだ。
「紀元前14世紀でミノア王家の墓を見るなんて、もしもアーサー・エヴァンスや、KTフオレストが聞いたら、羨ましくて地団太を踏みますね」と涼子が言った。
涼子は大量の花を積み込んだジープ(20世紀のジープとは少し違うが、ジープと呼ぶのが妥当)をクノッソスに廻して貰い、運転手からキーを受け取ると、自分が運転を引き受けた。 ユリアとアトルがジープに乗り込み、ミノス王は後から来ると言う。後部シートでユリアが何気なく発言した。
「5000年後の人間に不可能は無いの?」
ユリアの問いにミネルヴァ女史は、「それはいくらでもあるわよ。どんなに努力しても、全宇宙より大きい果物は作れないわね」と答えた。
「全宇宙?」
「星空まで含めたこの世のすべてよ」
「この世の全てより大きい? 悪い冗談だわ」
「だから自由意志を持ってしても、論理的に不可能な事は絶対に出来ない。物理の法則が許さないのよ。
20世紀の、私達から見て1700年前のプリンストン大学の哲学者、デビット・ルイス(実在の人物)が、タイムパラドックスの分析で指摘したの。
『自分が魔法を使えるとして、この場で全宇宙より大きな果物になりたいと願っても、それだけは不可能だ。だからあなたがタイムマシンで過去に旅立っても、あなたが生まれる前に、あなたの両親を、あなたの手で殺すことは絶対に不可能だ』 とね」
そこでアトルが疑問を投げかけた。
「ちょっと待ってくださいよ、しかしそうなると、例えば僕に悪意を持つ第三者で、血の繋がりの無い人物が、僕の過去に入り込み、僕の生まれる前に僕の両親を殺したら、僕やユリアはどうなるんですか?」
「いい事に気がついたわね。あなたたちは消えてしまう。 でも犯人は無事で済むわね」
「そんな?」
「死んだ筈の人間がタイムトンネルによって救われ、新しい命が与えられるなら、逆もまた真なり。よ」
「死んだ肉親に会えますか?」
「タイムトンネルを見た人間が一度は口にするわね。確かに可能よ。あなたたちだって、37世紀から見れば、過去の亡霊みたいなモノだから」
「できるんですか?」
「できるわ」
「母に会いたいです」
「そのうちにね」
涼子は半自動操縦でジープを進めた。道端ではクレタ人達がジープに向かって、手を合わせていた。 『神様扱いされている。 下手をすると、クレタ島のフレスコ画に残るわね。それはマズイわ』
不自然で場違いな異物を残さないのは、タイムトラベラーの鉄則だ。しかしそれでも、オーパーツはしばしば発見されている。
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
「オーパーツ?なんだそりゃ?」ヒッポリュテーの問いに涼子が、「場違いな発掘品の事だよ」と答えた。
「場違い?」 涼子はタッチパネルでビデオを操作した。
「20世紀の考古学者を悩まされた、オーパーツのひとつに碍子があった。ビデオに写っているこれだ」
スクリーンに電柱の映像が写ったが、ヒッポリュテーには、何が何だかわからなかった。
「20世紀の電信柱に取り付けられていた。電線を支える絶縁器具だった」
「だった?」
「37世紀では使われていないということだ」
「現物が見たい」
「そう言うと思った。ここにあるよ」
テーブルの穴からにゅっとトレーが出てきて、その中に碍子があった。
「これが、碍子?」
「これは復元した模型だが、本物と同じだ。 焼き物で出来ている。 これが極端に古い地層から出土した実話があった。 誰かが深い穴でも掘って埋めたのだろう。位にしか思わなかった。ところが、プラスチックのボタン、衣服に付いているこれが、(涼子は自分のボタンを示して見せた。)古い地層から出土したり、金銀の鎖が数億年前の石炭を割ったら出てきたり、更に50万年前の地層から、内燃機関のシリンダーが出土した例もあった。
問題のシリンダーは金属ではなく、特殊陶磁器、 セラミックで作られていた。発見当時、1960代はセラミックのシリンダーは発明されておらず、『何だこれは?』と言うのが大方の反応だった。
しかし後年、セラミック製の内燃機関のシリンダーが発明されたとき、発見者は戦慄した・・・」
ここでフレイヤが割り込んだ。
「5億年前の地層から、三葉虫がブーツで踏み潰された足跡が、化石になって出てきたことがあったわよ」
「化石?」
「その近くに、人間の子供の足跡があったりしたわね」
「足跡?」
ミネルヴァ女史は、「オーパーツは悪質な悪戯として無視するのが考古学者の慣わしだった」と言った。
ヒッポリュテーは、「あんたらの仕業か?」
涼子は、「故意じゃない。事故だよ。 タイムトンネルを発明したのはミネルヴァ女史だけど、 過去の世界に遺物を残したのは、僕たちから見て未来の人間だ」
「そもそも、あんたたちは、何の為に時間を超えて過去の世界にやってきたんだ?」
「歴史の調査。絶滅した動植物の保護。失われた文化財の回収。死ぬ筈の人間を未来に連れて行く」
「未来に?」
「僕やフレイヤだって、37世紀の人間ではない。もっと古い時代の人間だ。未来世界で教育を受ければ石器時代人でも、インテリになれる。フレイヤのように」
「あたしは涼子と違って医師じゃないけどね。それでも一通りに教育を受けている。工学博士号もある」
「博士ねえ?」ヒッポリュテーは不審そうな顔をした。
「話を戻そう」
第二章。 御墓の前にて。
「さあ、着いたわよ」
ユリアはミノア王家の墓を未来の友人に紹介した。
トロス墓と呼ばれる、この形式の墓はギリシア本土にもある。 ミネルヴァも涼子も、37世紀では飽きるほど、この手の遺跡を見たが、 さすがに5000年も時間を遡ると新品同然だ。 地震で崩れた墓は多少は修復されていた。
ユリアとアトルは墓に話しかけた。
古代から中世ではしばしば見られる光景である。
20世紀でもベトナム戦争の戦没者の慰霊碑の前で、戦死した米兵の遺族が語りかける風景があったが、
37世紀人はそんなことはしない。そもそもタイムトンネルがあれば、死人に会いにいけるのだ。
「孫が生まれたよ、母さん」
「この方達の御蔭よ」
涼子たちはいるはずの無い、死者に紹介された。
そもそもミネルヴァ女史がタイムトンネルを造らなければ、ユリアもクレイトーとアトルも死んでいて、 しかも、この御墓に入る事も出来なかった。
もっとも旅行先で客死すれば、 故郷に埋葬される見込みは、この時代は殆ど無い。 更にこの時代は、出産の事故は勿論、幼児死亡率が異常に高い。
しかしユリアはクレイトーの身を全然心配していない。
自分自身の体験とは言え、未来人の医療技術に絶大な信頼を寄せてくれるのは、非常に嬉しい。
ユリアはジープからサフランの花を降ろして、墓を花だらけにした。 ユリアの母がサフラン好きだったのは最近になって知った。 少し遅れてミノス王が馬車でやって来た。
ジープよりも優雅だ。最後のミノス王(ミノア王家の王)は亡き妻と先祖に子供達と同じ様に話し掛けた。
「カリスト島とクレタの人民は、この方に救われた。未来から来た救いの神じゃ」
涼子は37世紀の英語で、ユリアに聞こえ無いように、
「どうせ救いの神なんて比喩ですよ。気にしない。気にしない」と言った。
ミネルヴァ女史は形式とは言え、ギリシア正教の洗礼を受けており、古代人に神様扱いされれば、モーゼの十戒に抵触する恐れがあったのだ。
しかも、 モーゼは勿論、旧約聖書の全ての聖人や、イエス・キリストにだって、会おうと思えば会えるのだ。 実在の人物である限り、と言う条件付ではあるが。
例えば、エゼキエルは実在しても、ダニエルが実在したかどうかは疑わしく、アダムとイブや、ノア、その他のキャラクターはなおさら疑わしい。
しかしそれでも、ヘブライの預言者モーゼが実在した事は、疑う余地は無かった。
たとえ、モーゼの実像が聖書からどれほどかけ離れていたとしても・・・。
37世紀人は本気で神を信じないが、それでも、モーゼは偉大な思想家で、倫理学者で聖人だった。
「ミネルヴァ様? 何をボーツとしていますの?」
「あ? ごめんなさい、ちょっと考え事をしてたの」
「考え事?」
「この時代の聖人の事をね」
「聖人?」
「キリスト教の大本になった教を説いた人よ」
「そんな立派な方がこの時代にいるの?」
「そのうちユリアも会えるわ」
「そんな立派な方なら、きっと素敵な方なんでしょうね」
ユリアは少々、うっとりした顔になった。
そのときユリアの携帯情報端末のアラームが鳴った。発信者は女官長テアだった。
「はい、ユリアです。え?パーテイの準備がすんだ?」
ネイトの誕生祝いである。 食材は37世紀人が用意し、調理はクノッソス宮殿の召使の腕の見せ所だ。
ミノス王は、「では引き揚げましょう。わしの可愛い孫が、クレイトーとネイトが待っている」
一行は墓参りを切り上げる事にした。そして墓に別れを告げた。
第三章。 パーテイ会場にて。
クノッソス宮殿の大部分は破壊されていたが、それでも一部は人が住めた。 清掃された大広間に電気が煌々と輝き、音楽が演奏されていた。勿論、オーデイオ機器である。
「電気の明かりに慣れたかい?」涼子の問いに、
「雷の力を薄めて使いこなしていると言うけど、物凄いの一語に尽きるわね」とユリアは答えた。
「電気を使うのはクレタ人には奇跡だろうけど、時間を飛び越えるのに比べたらささやかな物だよ」
「確かに」
アトルは食事を取りながら、発言した。
「クレタ人民の多くが、エジプトやシリア、 カナン(パレステイナ)の地に流出しています。 未来人が助けてくれるのに、嘆かわしい話です」
ミネルヴァ女史はやんわりと反論した。
「クレタ人の流出は歴史上の事実なのよ。止めようが無いわ。火山灰がソフトになるには、最低50年はかかるしね。それまでは農産物もろくに育たない。
だから出国したい者は勝手に出国させ、未来に行きたければ、どんどん連れて行きたいわ」
5000年後の生活・・・。ユリアは自分が死なずに済んだのは、未来人の御蔭だと理解している。 エジプトのどんな名医も涼子には太刀打ちできない。
別に涼子が日本人だからエジプト人よりも優れている、というわけではなくて、未来人ゆえの有利さである。
(この時代の日本人に、ピラミッドなんか造れる筈が無い)
エジプトの名医には近隣諸国の王族の主治医になる人もいたが、(本当)トロイにはエジプト人の医師はいなかった。 しかし古代エジプト人の外科医は切り傷を縫うぐらいの事はできたが、(本当)彼らに虫垂炎や、腹膜炎の患者を救命させるのは、16世紀の学者にいきなり水爆を作らせるような話でまず不可能だ。(笑えない)
それにエジプトで客死していたら、 エジプトの流儀でミイラにされていた筈だ。
ヘロドトスの、『歴史』二巻(二章)90節には、
客死した外国人はエジプトの流儀でミイラにする。それが絶対的な義務である。と書かれている。
もっとも、古代エジプトの医師は専門分野が細分化していて、自分の専門以外の仕事はまずしないし、そもそも、ミイラ職人と外科医は全然別の職業ではあるのだが・・・。
アトルはミネルヴァ女史に質問した。
「クレタはどうなるんですか?」
ユリアは涼子の顔を見た。 その場にいる全てのクレタ人の疑問だった。 ミネルヴァ女史は少し間を置いて答えた。「ギリシア本土に屈伏させられる。王朝の交代も起きるのよ」
その場に衝撃が走った。 死の病の宣告に等しかった。
「ミノア王家の王女達は戦利品として、本土の王や王子の妾や妻にさせられるわ。さあ、どうする?未来に移住する? それともこの時代に残る?」
ユリアは「5000年後はどんな世界ですか?」と聞いた。
ミネルヴァ女史は、「世界は政治的にひとつになっている。ギリシアもエジプトも地域でしかない。クレタはギリシアの一部とされる。 あなたたちが37世紀に来れば、ギリシアに本籍を持つ地球人よ。 本籍地を本土にしようと、クレタにしようとあなた達の自由だし、ギリシア系白人として他の人から扱われるでしょう」と答えた。
「ギリシア人という概念があっても、クレタ人という概念が無い?」
「別に変じゃないでしょう。 エジプト人はアカイア人とクレタ人を区別せず、ひとまとめにして、ケフテイオウと呼んだのだから」
アトルとミネルヴァ女史の会話を聞きながら、ユリアとレダが涼子に問い掛けてきた。
「地球人って何?」
「地球の人間という意味だよ」
「別の星に人間がいるの?」
「地球から移住した人間の子孫だよ」
「別の星に地球人の子孫?何か凄いわ」
レダは、「本土の王族の戦利品になりたくないですわ」
涼子は、「とかなんとか言いながら、未来世界でギリシア人扱いされたくないんだね?」 と聞き直す。
アトルは思案していた。が、やがて決断した。
「王族の身分を失わず、本土に屈伏しないで済むには、断腸の思いではありますが、 国土を捨ててエジプトあたりに行くしかないと思います」
「本気なの?」
「人民が国土を去るなら、王族も運命を共にするのが筋です。そうだろう?ユリア?」
ミネルヴァ女史は、「いいわ。私も同行するわ。この時代の出来事で研究したい事は山ほどあるしね。 異議は無いわね? 涼子さん?」
「ユリアがそれで構わなければ」
ユリアは、「では決まりね。ネイトがもう少し大きくなったら、エジプトに行きましょう」
「もう少しってどれぐらい?」
「来年の春、生後4ヶ月ぐらいになったらね」
現在は年末で冬至の直前である。
「生後4ヶ月なら大丈夫だね」
「金目の物を集めておきましょう。アカイア人がクレタ占領にやって来たときに、何も残っていないようにするのよ」
パーテイはここでお開きになった。4ヶ月をかけて旅の準備を整える事になるのだ。
(ここで、マザーシップのシーンに戻る)
「それで? クレタ島から逃げ出したって?」
ヒッポリュテーの皮肉にユリアは、「これもクレタ人民の為よ」と反論した。
涼子が、「ユリアは3300年後の、西暦19世紀のギリシア人に同族意識が持てるかい?」と聞いた。
「どういう意味?」
「西暦1829年にギリシアはオスマン・トルコ帝国から独立したが、クレタはなかなかギリシアに返還されなかった。 クレタ人はギリシア本土への帰属を求めて、 反トルコの抵抗運動を行なうんだ。 もしもユリアがその時代に行ったとして、古代の異教徒でミノス王の息女と認められたら、反トルコ闘争のヒロインになれるのだろうか?」
「あたしは構わないけど?」
ミネルヴァ女史は、「無理無理、ギリシア正教徒じゃないから。それに歴史を必要以上にいじらないわ」と言った。
フレイヤは、「シュリーマンが生きていたときは、クレタはトルコの占領下にあった。 クノッソスの発掘に失敗したのは、トルコ人地主との交渉に失敗したからだが、エヴァンスがクノッソスを発掘したのは、クレタがギリシアに返還されたからよ」と指摘した。
涼子は、「そのときはシュリーマンは死んでいたけどね」
ユリアは、「どうせなら、シュリーマンにクノッソスを発掘させてあげたかったわ」と非常に残念がった。
ヒッポリュテーは、「ここに連れてくればいいじゃない?」 と言った。
しかしミネルヴァ女史は、「それでは歴史が大きく変わってしまう」
「どうせユリアを救った時点で、歴史は変わっている筈でしょう?」
涼子は、「後で帳尻を合わせなくてはならない」
「帳尻?」
「シュリーマンの記憶を消して、元の時代に戻す」
「そして死ぬ?」
「自分がミノス王の娘に会った事を忘れて」
「それは悲しい」
「でも仕方ない」
フレイヤは、「ミネルヴァ女史は本業は物理学者であって、歴史家は副業だけど、自分がタイムトンネルを作っただけでは満足せず、超古代までやって来た。
女史がやった事は、ロシアのロケット工学者、セルゲイ・ コロリョフが、ガガーリンの代わりにヴォストーク1号に乗ったり、フオン・ブラウンがアームストロングの代わりに、 アポロ11号に乗って月に行ったような快挙だ」と述べた。
涼子は、「話を戻そう」と言った。
「そうね。戻しましょう」ミネルヴァも同意した。
第四章。 旅立ち。
翌年の春、四月頃、ユリアとその一行は、クレタの東端のザクロス港に集合していた。ユリアが去年トロイの都から、クレタに戻るのに使った戦艦は、津波で破壊されていた。クレタの南側の船は多少は傷んでいたが、修理すれば使えた。 積み込めるだけの財宝を積んで、エジプトへと向かうのだ。
今回もワームホールは使わないとミネルヴァは決めた。
多数のクレタ人が砂漠に唐突に出現するような、 文字通りの奇跡など起こしたくないのだった。
クレタ人のガレー船など、37世紀人から見れば児戯にも等しいが、しかしこの船でもクレタとエジプトは、4日か5日で到着する。
ユリアはザクロス港から西の方角を、クノッソス宮殿の方向を見た。故郷を捨てるのは忍びないし先祖の墓参りが出来なくなるが、未来人は時間を操作できるのだから、墓に拘る必要は無い筈だ。
トロイの都で病死した筈のユリアは新しい命を与えられた。故に全ての死者を蘇らすことは可能な筈だ・・・。
テアの声がした。「姫様、出発の準備が整いました」
そこには仲間がいた。 クレイトーとアトル、姪のネイト、従妹のレダ。37世紀の友人もいた。
「さあ行くわよ」
朝日を浴びながら、何の緊張感も無く船は出発した。
ユリアは船首で両手を広げて深呼吸していた。
レダが、「次はあたくしが立ちますわ」と言い、
ユリアが、「もっと船首にいたいわ」と言う。
涼子が笑い出した。「ユリア、この船が氷山に激突しても知らないよ」
「氷山って何?」
「悪い冗談だよ。忘れてくれ」
ユリアとレダは首を傾げた。
「未来人との会話は、意味不明の言葉が多くて困りますわ」
「同感ね」
フレイヤが話に割り込んだ。
「そのうちにいろんな映画を見せてあげるわよ。映画にちなんだ表現がいろいろとあるんだから」
「映画ってのは、つまり、演劇の事?」
「まあそんなところね。スクリーンで大画面で見るのが本来のあり方なんだけど、ビデオでも見られる。むしろその方が多いのよ」
涼子は、「映画には作り話もあれば、史実を脚色した話もあるんだよ。史実をモチーフにした話は、予備知識が無いと解らないだろうな」
フレイヤが茶々を入れた。
「ケネデイ大統領を知らない人間が、『ダラスの熱い日』や、『JFK』を見ても、何が面白いのか理解できないわね」
涼子は急に怒った。
「フレイヤ!!嫌な事を思い出させないで!!あなたも1963年のダラスに行ったでしょう!!」
「おお怖い。可愛い顔が台無しよ」
何だろう? とユリアは思った。『何か涼子たちの過去の失敗に関係があるらしい? あたしの方からは聞いてはいけないのだわ。フレイヤが教えてくれると好都合なんだけど・・』 ユリアが思索に耽っていると、レダが言葉を掛けてきた。
「ユリア様はスポーツだけではなく、演劇も好きですわね」
「確かに。 野外劇場で芝居を見るのは好きだったわ」
「フレイヤ様が、他の未来人と変な話をしていましたわ」
「変な話?」
「ユリアは女ゴリアテだとか、デリラだとか?」
「何の話だか?」
「さあ?」
「デリラがどうしたって?」
「涼子様、」 レダは哀願するような顔をした。レダはゴリアテの意味を知りたいのだ。
涼子は黙ってレダの質問を聞いていたが、やがて答えた。
「クレタ人が旧約聖書の中で、ペリシデ人と呼ばれているのは前に話したね。ゴリアテは少年時代のダビデ王に殺されたペリシデ人の巨人の戦士で、勿論男。
デリラはヘブライ人の士師、怪力サムソンの愛人として知られる。絶世の美女だが、サムソンを裏切る。
どちらも現在から400年か500年ぐらい後の時代の、恐らく実在の人物だ。 映画や演劇で有名だし、古くから絵画の絶好のテーマだ。 フレイヤたちがユリアをペリシデ人の有名なキャラクターに擬えたのは、それなりに筋が通っていると思うよ」
「美人なの?」
「え?」
「デリラは本当に美人なの?」
「美人だよ。 美女の代名詞だ。『クレオパトラか楊貴妃か、』と言う表現があるけど、デリラも美人だ」
「それは、嬉しいわね。ゴリアテは不愉快だけど」
レダはケネデイ大統領の事を聞こうとしたが、ユリアはそれとなく制止して、話を逸らした。
「エジプトをテーマにした映画もあるんでしょうね」
レダは、「ギリシア神話の映画とやらを見たいですわ」
「ギリシア神話?」
「あたくしたちの時代ですわ」
「君たちから見て未来の話もあるんだよ」
ユリアは「神話の時代が終わっていないの?」
涼子は「そんなところだ」と答えた。
フレイヤが、「エジプト王と言えば、ツタンカーテンが有名ね。黄金マスクは37世紀で知らぬ者がいないわ」
「ツタンカーテン? ほんの子供よ?」
涼子が説明を始めた。「ツタンカーテンは、西暦紀元前1378年頃の生まれで、紀元前1369年、つまり今年に即位して、その後亡くなった。死後3200年以上経過した西暦1922年に、ツタンカーテンのミイラは、王家の谷で発見された」涼子は言葉を区切り、ユリアの反応を見た。
「膨大な副葬品は墓荒しにもあわずに発見された。その後、関係者が23人も変死、怪死を遂げて、ミイラの呪いとして有名になったんだ。実際には病死自然死とされるんだけどね」
「ミイラの呪い?」
レダは若いギャルらしく、素っ頓狂な声を上げた。
フレイヤは、「そう言えば、ミイラの祟りなんてのは、ブラム・ストーカー以降の怪奇小説の定番だったわね」
ユリアは、「そのブラム・ストーカーって誰なの?」
涼子は「吸血鬼テーマを好んで書いた作家だよ。吸血鬼テーマとは別に、ピラミッドという小説も書いたんだ。 ピラミッドは1980年頃映画化されている。
主人公の考古学者を演じたのは、当時のベテラン俳優、チャールトン・ヘストン。
そのうちビデオライブラリーで見せてあげるよ。ラストが怖いんだ」
レダとユリアは顔を見合わせた。
「ピラミッドって何?」
「ピラミッドを知らない?」
ミネルヴァ女史が割り込んだ。
「現地の言葉でムルとかメルとか呼ばれているあれよ。 ピラミッドという言葉はギリシア本土の人間によって、 紀元前7世紀つまり現在から700年後に命名された。
その由来はギリシア人が食べていた、三角形のパンの名前 『ピラミス』。メルは本当なら四角錐だけど、横から見たら巨大な三角形なので、ピラミスに因んでピラミッド」
「へえー」レダは感心していた。
涼子は更に説明した。
「日本語には不滅の金字塔と言う表現があるけど、それもピラミッド、じゃなかった、ムルに由来するんだ」
「金字塔?」
そこで涼子は『金』という字を書いて見せた。
「これは中国から日本に伝わった文字で、横から見ると、あれにそっくり」
ユリアは金の字を眺めた。 レダがエジプトに行くのは初めてだが、ユリアはエジプトで見たことがあった。
「これが中国語の金(ゴールド)なのね?確かに似てるわ」
涼子は、「現在の時点(紀元前1369年)では、この文字は発明されていないけどね」と言ったが、しかしフレイヤが、
「それを言うなら、アルフアベットだってこの時代には無いわよ。 あれはフイニキュア人の発明だわ。そうなると、英語で書かれた書類を、この時代の人たちに見せても構わないのかしら?」
涼子は、「うーむ?」
ミネルヴァ女史は、「フイニキュア人が、アルフアベットを発明したのは、紀元前1200年頃。 つまり現在から170年後の筈ね」
レダは、「タイムパラドックスですわ」
(ここでマザーシップのシーンの戻る)
「パラドックスねえ」 ミネルヴァ女史は考え込んだ。
ユリアは、「考えてみると、あたしたちの行動はパラドックスばかり引き起こしていたわね」と指摘したが、涼子は、
「確かに。相手を選んだとはいえ、未来のメタ情報をばら撒きましたね」と同意した。
フレイヤが、「あたしたちがサイスの街で執った行動こそ、アトランテイスの伝説を造り出したのかしら?」
「うーむ?」全員が考え込む。
「僕たちがこの時代に来るまでは、ユリアはトロイで病死していてしかも、アトランテイスの伝説は成立していた。しかも、ユリアの行動がアトランテイスの伝説を生み出したふしがある」
涼子の言葉にレダは、「文字通りの、タイムパラドックスですわ」
ユリアは、「パラドックスと言えば、真空というのも不思議ね。空気と言うのは解るけど、空気が無いというのだから」
涼子が、「空気が理解できるの?」と問い直したので、
ユリアは、「わかるわよ。風が理解できれば、空気も理解できる。 真空というのは解りかねるわ。 何も無いものがあると言うんだから、さっぱりだわ」
「アリストテレスも似たような事を言っていたわね。自然は真空を嫌う。とね」とミネルヴァ女史。
「真空は無ではない。実体がある。ワームホールは 真空に穴を開けるのよ。真空が完全な無なら、ワームホールも作動しない」とフレイヤが言った。
フレイヤは工学博士の学位がある。
レダは展望台の外を見た。
「太陽と星が同じ夜空にあって、おまけに星が瞬かないのだから、不思議ですわ」
涼子は、「慣れればどうってことは無い。深く考えるな。習うより馴れろだよ」
「話を戻しましょう」ミネルヴァ女史が促した。
第五章。夜の星々を眺めて。
夜になりユリアは星空を見上げていた。
鷲座のアルフア星、アルタイル(彦星)と、琴座のアルフア星、ヴェガ(織姫)を見上げていた。(アルフア星とは、その星座で一番明るい星という意味)
「あれが日本の伝説に登場する星なの?」
「そうだよ。と言っても中国起源の伝説だけど」
「ローマ神話だって元はギリシア起源でしょ?」
フレイヤが茶々を入れたが、涼子は無視してユリアに七夕伝説を説明した。ユリアは黙って聞いていた。
ユリアは、「その伝説では、中国ではヴェガ星が天の川を渡ってアルタイル星に会いに行き、日本ではアルタイルがヴェガに会いに行くのね?」と聞くので涼子は、
「そうだよ、日本の男は案外女の子に優しいのかもね」と答えた。
「ねえ?本当に星が動くの?」
「まさか!只の言い伝えだよ。 太陽より大きな星が一日に何十光年も動く筈が無いだろう。 固有運動は別だけど、何万年もかかって一光年を動くんだから」
「何十光年?固有運動?また知らない言葉だわ?」
ユリアは、37世紀の基準なら、科学マニアの小学生程度の知識も持っていないのだ。
西暦13700年になれば、ヴェガ星が北極星になるが、ユリアに春分点の歳差を説明しても理解できないだろうし、混乱するから言わなかった。
西暦13700年なら、涼子が教育を受けた時代よりも、10000年も未来だし、涼子もそこまで遠い未来を訪れたことは無い。
ユリアが37世紀を怖れるように、涼子も138世紀を恐れていた。
「でも何故あれを天の川と呼ぶの?あれはミルキーウエイ。女神へラの乳房から迸る母乳よ?」
涼子はニヤリとして天体望遠鏡を取り出した。 それほど大きな物ではない。それでも西暦17世紀にガリレオが発明した史上初の望遠鏡よりは、遥かに高性能だった。
「どうぞ御姫様、星々を見てください」
「おお?これは!?」
「何?何?」レダも覗き見た。
そこには星々が密集していた。巨大な河のように。ユリアとレダは古代ギリシア人として初めて、宇宙の秘密を垣間見たのだった。
涼子は、「天の川は密集した星々だよ。そして星は遠い彼方の太陽なんだ」と教えた。
レダが、「もっと近い星も見えるの?」と問い直した。
「ではアレス(ローマ名はマルス。つまり火星)でも見るかい?」 望遠鏡を火星に向けると、二人は跳びついた。
そこには37世紀人なら誰でも行った事がある、紅い星があった。「アレスに行ってみたいわ」
「そのうちに連れてってあげるよ。できれば5000年後に移住してからの方がいいと思うけど」
「涼子さんは別の星に行ったことがあるの?」
「当然。アレスは勿論、ゼウス(ジュピター木星)や、クロノス(サターン土星)や、ウラノス(天王星)や、 ポセイドン(ネプチェーン海王星)さらに、ハデス(プルートー冥王星)にも行ったよ。もっともアレスとハデス以外の星は、固い地面が無くて降りられなかったけどね」
「ウラノス?ポセイドン?ハデス?そんな星は知らないわ?」
「遠い未来に発見されるんだ。ウラノスは1781年。ポセイドンは1846年。ハデスは1930年だよ」
「現在はいつだっけ?」
「紀元前1369年」
レダは、「気が遠くなりそうですわ」と言った。
太陽系の惑星はローマ神話の名前をつけるのが慣例だが、天王星だけはギリシア名である。(ウラノスのローマ名はカイルス)しかし37世紀人たちは、この時代の人々が理解できるように、すべてギリシア名で惑星を呼んだ。
「遠い未来にも、時間を超えてひとっ跳びに行ける。宇宙の旅より凄いと思わないかい?」
「確かに・・」とユリアが同意したが、レダも、「未来世界を見て見たい気持ちは、ありますわ。
でも、タイムパラドックスが怖いですわ」
「この時代に留まっても、パラドックスはあるさ」
ユリアは、 「未来人によって死から救われただけではなく、未来の秘密も垣間見た。 自分達がいかに幸福であるか、オリンポスの神々に感謝しなくちゃね」
涼子は無神論者だが、ユリアの気持ちは理解できた。
第六章。 エジプト到着。
船旅は4日間続いた。その間ユリアは、レダや涼子と共に、昼は眠り、夜は星空を眺め、おしゃべりを楽しんだ。
勿論、船の操縦はプロ任せだが、そもそも青銅器時代の船乗りは、夜は船を進ませないで船を休ませるのである。
紀元前7世紀に航海術が著しく進歩を遂げるまで、帆船が風に逆らって進む事はできなかった。
青銅器時代の航海は危険が大きい。沿岸航海が一般的で地中海を横切って、3日あるいは4日というのは、少々命懸けだった。 勿論、危険を承知の上でクレタ人とエジプト人は付き合っていたわけだが、今回は未来人と一緒だから、何の不安も無かった。 かくして一行はエジプトに到着した。
クレイトーが声をかける。
「ユリア、エジプトに着いたわよ」
ユリアは太陽を見上げて、
「あによお!!朝じゃないのお!!も少し寝ていたい」
「夜更かしして星ばかり眺めているからよ。少しはシャキッとしなさい。大莫迦わがまま王女!!」
涼子は軍用コーヒーを差し出した。 カフェインが通常の3倍も入っている、ミルクも砂糖もたっぷり入っている。
コーヒーそのものは西暦15世紀の発明だが、古代人の食生活を変えないために、関係者以外は飲ませない方針だ。
「エジプトの役人に見つかる前にコーヒーを飲み干してちょうだい」慌しく食事を済ませて一息ついたところで、エジプトの役人が入って来た。
船長は、「この船にはクレタの王族が乗っている」と告げた。
エジプトの役人は、「よくぞエジプトに来られました」
慇懃な口調だが、涼子は慇懃無礼なモノを感じた。
エジプトにクレタ難民が大勢やって来て、エジプトが迷惑を被ったのは事実だが、火山の噴火は天災であって、クレタのミノア王家の責任ではない。
「今後の御予定は?」
ユリアは、「クレタの同胞を慰問して、サイスの街まで行って見たい。女神ネイトに仕える神官にも会いたいです」
「サイスには大勢のクレタ人が居留しています。一回で済みますよ」
クレイトーが話しに割り込んだ。「それから、フアラオに謁見しないと」さすがにクレイトーの方が分別がある。
エジプトの役人は不味い物を食べたような顔をした。
「フアラオは亡くなられました。 幼ない王子ツタンカーテン(メンではない。この時点では)様が新しいフアラオです」 ミネルヴァ女史は念の為に確認した。
「亡くなられた先帝様は、確かイクナートン(アクナテン)陛下でしたわね?」
「アメンホテプ4世です!!」
エジプト人は気色ばんで訂正した。イクナートンは嫌われ者なのだ。別に恐怖政治をしたわけではないが、ある意味それ以上の事をした。
その為に20世紀までその名が消されていたのだ。
英国の考古学者ハワード・カーターが、1922年にツタンカーメン(最初はツタンカーテンと言う名前だった)の墓を発見するまでは、どんな偉い歴史家も、誰もイクナートンもツタンカーメンも知らなかったのだ。
エジプト人は腐った食物を吐き出すような勢いでまくしたてた。「先帝アメンホテプ4世は太陽神アテン(アトン)以外は総て偽りの神であるとして、神殿を閉鎖せよとの命令を発しました。忌々しいことに!!」
ユリアは平然として、「別に女神ネイトの神官が皆殺しにされたわけでは無いでしょう? 関係者が生きているなら御会いしたいわ」と言った。
「では御自由に。でも最後にアケトアテンまで行って、先帝の未亡人ネフエルテイテイ様に御会いしてください」 ユリアは役人から通行証を受け取り、全員で取り敢えずサイスの街へと出発した。
ラシッド(ラゼッタ)の港からサイスへ!そして内陸の奥深くへ!馬車で川上に向かうのだ。
エジプトでは全ての重要な遺跡はナイル河沿いにあるので旅は楽だ。道に迷う事はあり得ない。
涼子はギャルのようにはしゃいだ。
「やったー!!サイスの街に行けるう!!」
いつもの優等生ぶった振る舞いからは想像もつかない、はしゃぎ振りだった。
ミネルヴァ女史はさすがに呆れて、「私達は物見遊山に来たわけではないのよ。 歴史の研究の為に来たのだから」
「でも先生、サイスの街のネイト神殿は、西暦の初め頃ローマ軍に破壊され、後世に殆ど資料を残さなかったんですよ? 神殿がこの眼で見られるんだから、うれしいです」
「カリスト島でもこんなに感激しなかったくせに」
ユリアはクレイトーに小声で話し掛けた。
「涼子さんも、普通の人間だったのね」
「しっ、聞こえるわよ」クレイトーはユリアを制した。かくして一行はサイスに向けて出発した。
携帯情報端末を取り出し、デジカメ機能で、あちこち撮影しまくる涼子。
「ねえ?ユリア?あれは何?」涼子は次々と質問した。
レダも負けじと質問する。 何しろレダはエジプトに来るのは初めてなのだ。
ユリアは二人の質問に逐一答えた。 観光客とガイドのように。
「エジプトはナイルの賜物。 エジプト人はナイル河の氾濫は複数の神々が関与していると信じていた。
河の水が湧き出るのは女神イシス、河の水がスムーズに流れるのはハピ神、うまく氾濫するのはクヌム神という具合よ。
おまけに一人の神がいくつもの仕事をする事もあるの。
例えばイシスはナイルの水源だけではなく植物の実り、子供が健やかに育つ、国の繁栄というようにね」
ユリアの説明は更に続いた。
「エジプトの神々は殆どが善人なの。悪を司る神は殆どいない。 例外はセト神。 セトは天界から人間界に初めて送られた4人の神々、オシリス、イシス、ネフティス、セト、のうちの一人だった。ところが兄であるオシリスに嫉妬し、二回も兄を殺してしまう。ところが妹であり、妻であるイシスが二回ともオシリスを救って、生き返らせてしまうので、セトの居場所が無くなってしまうのよ。笑っちゃうでしょ?」
そこでミネルヴァ女史が発言した。
「でもフアラオの名前に何回か使われているわね。 完全な悪者ではなく時代によって認められているわ。
面白い事に、太陽は一つなのに、エジプトの太陽神はいろいろいるわね。最高神ラー、アメン、後世にアメンとラーは同一視されてアメン・ラーと呼ばれた。
二枚の羽を持つ青色の人物として表される。
ところが、アテンには具体的な姿が無く、一枚の円盤として表現される。アテン信仰は物凄く古いけど、唯一絶対の神には何の姿も無い。と主張するイクナートンには、アテンは好都合だったわね」
涼子も「アテンは朝日と言うより夕焼けだった。柔らかい、日輪の輝き。朝日は直視できないけど、夕焼けは何とか見られる。 イクナートンは、アメン・ラーを迫害したけど、アテンそれ自体は平和的で温和な神だった」と述べた。
ユリアが、「なーんだ。みんな知ってたの」
涼子は、「それはそうだよ。全員未来人なのだから」
フレイヤが、「ところで夕日と言えば、夕方までにサイスに着くかしら?」と言うので、ミネルヴァ女史は、
「何とか間に合うわ。今夜はサイスに泊まれる筈よ」
涼子は涼子で、「砂漠の夜空に輝く月が見られますね」と呑気な発言をした。
ユリアは、「37世紀にも砂漠ぐらいあるでしょうに?」
「残念でした。殆ど緑地化されて田畑になっているんだ。 ナイル河の淡水は農業用水にのみ使われている。 小舟を浮かべて川遊びなんて夢のまた夢だよ。
少なくとも中東や北アフリカではね」
「ふーん?」ユリアはレダにヒソヒソ声で話しかけた。
「37世紀に行ってみたい?」
「ちょっと怖いですわ」
ミネルヴァ女史は腕時計で時刻を確かめた。
「昼食にしましょう」全員が馬車から降りた。
後続のクレイトーとアトルも馬車から降りた。
そして楽しい食事になった。
ユリアはサンドイッチやハンバーガーが好きだが、エジプト人に見られたくなかった。そこでエジプト風のサンドイッチにした。すなわち、エジプトの丸くて薄いパン、ナンと呼ばれるパンに副食物を乗せて、ロールパンか巻き寿司のようにして食べるのだ。 サンドイッチ伯爵もそれ程独創的な人物でもなかった。
「このパンは37世紀の小麦粉で作ったのね?」
「エジプトの粉は質が悪いから、仕方ない」
そして食事を終えて再び馬車に乗り、サイスに向かって再スタートしたのだった。
第七章。 サイスの街の神官。
「サイスに着いたわよ」ユリアの声を聞いて、
「やれやれ、日没には間に合ったわね」などと言いながら、一行は馬車を降りた。
そして一行は、眼を見張った。 トロイのような、大袈裟な城壁は無いものの、街の規模は相当な代物だ。
エジプトは古代から人の住める土地が少なく、同じ土地にずーっと何千年も前から人間が住んでいる。
だから西暦3000年の地層の下に20世紀、その下に中世の街、その下に西暦の初め、その下に・・・
と言う具合に、街の遺跡が重なっているのだ。
未来人たちが見ているのも、37世紀なら超近代都市の地下に埋もれた残骸でしかない。
これと似た話はイタリアの首都ローマにもあった。
涼子は、「女神ネイトの神殿はどこかな?」と聞いたが、ユリアは、「すぐにわかるわよ」と、素っ気無く答えた。
900年後にソロンはサイスでネイトの神殿を訪問しているのだ。そしてユリアは見覚えのある顔を見つけた。
カリスト島の貴族で、物好きにも、アマゾネスから息子の嫁を取ろうとした男である。
「小父様!!」
「おお、御姫様。久しぶりですね」
「久しぶり?まだ一年も経っていないのに」
「ユリア様と涼子様の御蔭でカリスト島の私の家族は命拾いをしました。 多少の貴金属を残して全財産を失いましたが、家族の命には替えられるものじゃないですしね。
クレタの私の親族も、友人を頼ってエジプトまで来ました」
「で、他のクレタ人はどこにいるの?」
「女神ネイトの神殿の近くです」
「ちょうどいいわ、連れてってちょうだい」
「かしこまりました」
しばらく一行が歩くと、そこに女神ネイトの神殿があった。
涼子は眼を見張った。「これはまた凄いね」
巨大な神殿の近くに難民キャンプが在り、クレタ人がエジプト人の援助を受けながら暮らしていた。
「ユリア様!!」クレタ人がどっと集まってきた。
「みんな元気してたあ?」とユリアが愛想を振りまいた。
フレイヤは、「この娘は王女というより、ギャルね。良く言えば、鷹揚。 悪く言えば軽薄な娘だわ。
この身分に捕らわれないアバウトな人柄なら、37世紀で一市民として生きられる筈だわ」と述べた。
「危ない薬に手を出さなければ、ベストだけどね・・」
37世紀には大麻なんか無い。 大麻草は無毒大麻しかない。それでも涼子には、一抹の不安があった。 睡眠薬遊び、なんか覚えなければいいけど・・・。
クレタ人達の騒ぎを聞き付けて、女神ネイトの神官がやって来た。
神官は来るが早いか、「この方はどなたですかな?」と質問した。
「ミノア王家の王女様です」涼子はユリアをエジプト人に紹介した。そこで一瞬奇妙な空気が流れた。
目の前のエジプト人が、ソロンにアトランテイスの伝説を教えた人のような気がしたのだ。しかしそんな筈は無い。
ソロンのエジプト訪問は900年後だ。絶対に違うとは言い切れないが・・・。
女神ネイトの神官はユリアに話し掛けた。
「あなた様のお噂はかねがね伺ってますよ。クレタ島のミノス王の息女で上背のある、大喰らいの美女がいるとね」
ユリアは少々傷ついた。 レダの失笑が洩れた。
しかし楽天性のユリアは立ち直りが早い。
「あたしのような美人はエジプトにも余りいないでしょう。 あたしは美しいだけではなく、神々の加護があるのです」
そしてミネルヴァ女史を紹介した。ミネルヴァ女史の顔を神官がまじまじと見た。
灰色の少し青みがかった眼は神々しい雰囲気さえあった。
『この女性は本当に女神なのだろうか?』
勿論、嘘っぱちである。しかし生身の人間とは言え、魔法や奇跡としか思えない力の持ち主なのだ。
「あなた様が王女ユリアを救い、カリスト島とクレタの住民を救った。そうですな?」
「良く御存知ですね?」
「クレタからの避難民に伺ったのですよ。クレタ島に神々のお告げを受けたカリスト島の出身者が駆けつけて、クレタの北岸から内陸に避難させたとか、トロイの都で死に掛けた王女が、黄色い肌の女神だか、天女だかに救われたとか、話に尾鰭が付いて、どこまで本当だかわからないくらいです」
ミネルヴァ女史は、「大体正確ですね」とだけ答えた。
「ギリシア本土とクレタは余り友好的では無かった。そうですな?」
そこでユリアは、「そのとーり!!」と苦々しく答えた。
「せっかく海の大洪水がクレタだけではなく、本土も襲うと警告したのに、馬鹿どもはクレタに攻め込もうとして、海に飲まれたんです」
「しかしそれ以前から敵対していたわけでしょう?」
「ええ・・まあ・・」
「そしてクレタから逃げてきた?」
「そうです」
「もし逃げなければ?」
「そのうち本土が侵略して来て、あたしは本土の王族の戦利品にされたでしょうね」 未来なら立派な戦争犯罪だ。
もっともミノア王家だって、本土や地中海の属国から強引に手に入れた美女を妻妾にしていたし、 先祖に美人が大勢いたから、ユリアは絶世の美女なのだ。
ネイト神官は「もう一度クレタ島の事を確認しましょう。クレタ島は小アジア(トルコ)とリビア(北アフリカ)の間に有る巨大な島だった。そこには強大な王朝があり、
周辺の大陸に自由に航行できた。そうですね?」
「そうです」
「ギリシア本土とクレタに紛争があった?」
「ありました」
「ギリシア本土がクレタに攻め込もうとして、クレタを襲った洪水に飲み込まれた?そうですね?」
「そうです。でも本土の方が傷は浅かった筈です。 カリスト島とクレタの間には小島は無い。しかし、カリスト島はキュクラデス諸島の南端にある。
それゆえに、キュクラデス諸島は本土を海水の洪水から守る防波堤になった筈です」
「王女様の言われる通りですな」
エジプト人のネイト神官は、「小さな島が海中に沈み、大きな島が大被害を受けた。 それで間違いないですね?」
「そうです」 ユリアは同意した。
アトランテイス!!ここで涼子は、この話がアトランテイスの伝説そのものだと気付いた。 自分達はソロンが900年後に出くわす歴史を作っているのである。
ネイト神官は、「さて、カリスト島の周りはどうなりました?何も残っていないのですか?」
ミネルヴァ女史は、「そんなことは無い。周辺は多量の石化泥土で海が埋まっているわ。少なくとも現時点では航行不可能で、尚且つ調査不能よ」
「では、記録にそのむね残しましょう。」
『これでいいのかなあ?』涼子は釈然としない。
そして一行はネイト神殿の中に入って行った。
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
「そうかそんな事があったのか」とヒッポリュテー。
涼子は、「アトランテイスの伝説を作ったのは僕たちだったのかもしれない」と言い、ミネルヴァ女史は、
「相手を選んで未来の情報を与えたけどね」と言う。
レダは、「タイムパラドックスですわ」
フレイヤは、「いちいち気にするな」と言い放った。
ヒッポリュテーは、「あたしもネイト神殿を見たかったな」と言ったが、しかし涼子は、
「いつでも見られるよ。 西暦の初め、ここから1400年ぐらい未来までは見られる。 プラトンの死後50年ぐらい経った紀元前300年、クラントルという学者が、 ソロンが聞いた話の根拠を直接確認すべく、エジプトを旅し、サイスの街でネイト神殿を訪れた。 クラントルはプラトンの著作に注釈を加えた最初の人物だが、アトランテイスの物語はあらゆる点で正確だと確信した。勿論、僕達はプラトンの記述が必ずしも正確ではない事を知っているけどね」
ミネルヴァ女史は、「プラトンを無視してSF的なアトランテイスを唱える、トンデモ作家達がいたけどね」
「どんなでたらめな話を書いたんだい?」
ヒッポリュテーの問いに涼子は、「多すぎて答えるのが大変なくらいだ」
「一番酷いやつを教えろ」
「そうだねえ」 涼子は慎重に言葉を選んだ。
「南極説。というのもあったっけ」
「南極?」
「南の果て」
「一年中暑いのか?」
「氷漬けの世界さ」
涼子はタッチパネルでビデオを操作した。ヒッポリュテーは南極の映像を見て驚いた。
「これが南の果て?北の果てじゃないのか?」
「この氷の下にアトランテイスがある。というんだ」
「そんな莫迦な?」
「だからトンデモ本なんだ」
ミネルヴァ女史が話を引きついだ。
「南極大陸は六十万年以上前から氷に覆われていた。
プラトンの話より遥かに古い。 絶対に反証されないと思っていたなら、考えが甘い。 南極の氷が途轍もなく古い事実は疑問の余地が無く、完璧に立証されている。
アトランテイスはゼウス(ジュピター)の神罰で海底に沈んだとプラトンは述べているが、どこかの誰かが、20世紀に出かけて行って、『アトランテイスは木星(ジュピター)の液体水素の海に沈んでいる』 なーんて本を書けば、トンデモ系のアトランテイスマニアから英雄扱いされる。これは確実よ。もっとも、私が、タイムトンネルを作ったから、37世紀のトンデモ作家の世界でも、このテーマは滅びたけど」
「なんとまあ」ヒッポリュテーは呆れ返った。
涼子は、「話を戻そう」と言った。
神殿の壁には、イクナートンの命令で破壊された筈の、女神ネイトの壁画が復元されていた。
腕には弓を構えて、髪は一本だけ巻き毛で、蜜蜂の触角の象徴。蜂の姿に変身する戦争の女神・・・
涼子は、「アテナなら知恵の女神で、戦いの神でもあるけど、蜂の姿には変身しないね」
ユリアは、「外国の神々を自国の、良く似た神の名で呼ぶ習慣があったのよ。たとえ完全に同一でなくてもね」
「インドのヒンズー教の神々が、日本に伝わると、名前が変化して仏様になったようにかな?」
「何の話?」
「あとで教えるよ」
さて、過去に取り憑かれ、神聖な古文書を守る事にのみ、生甲斐を見出すエジプトの歴史家達は、クレタ島の大災害の記録を作成し始めた。涼子は神官に意見した。
「パピルスより石板に碑文を刻んだ方が良いと思うけど」
「ではパピルス版と石碑版を別々に作って、保存しておきましょう」900年後にソロンが見たのは、多分石碑の方だな。そうでなければ900年も保存できる筈が無い。
豪奢な宝物殿は興味深い宝物や記録文書でいっぱいだった。
涼子は好奇心丸出しで辺りを見回した。
「神々でもこういう物に興味が有りますか?」
「心配無用。盗んだりしないよ」
あえて教えないが、この神殿は1400年後にローマ軍によって、徹底的に破壊されるのだ。そのときには財宝を37世紀に持ち帰れる。未来人は望むなら、どの時代にも行けるのだ。
「アメンホテプ4世が宗教改革なんかしなければ、もっと、もっと、多くの宝物が見られたのですよ」
「どんな?」
「宝石と貴金属でピカピカに作られた神像です」
「大体想像がつくよ」
「アメンホテプ4世が主張したのは、知られているような神々は人間が勝手に作った偶像に過ぎない。と言うものでした。 だから神像なんかぶっ壊してしまえ。とね」
「そういう事を言う人間は後の時代にも出てくるよ。重要な美術品が爆破されるんだから」
「爆破?」
「失礼。 破壊だよ。破壊されるんだ」
「アメンホテプ4世は、太陽は人間が作れない。だから太陽は真の神だ。と主張していました」
『ネイト神官に未来を教えるな!!』と命令されていたが、37世紀では本物の恒星を建造できるのである。
さすがにパラレルワールドに丸々一つ、宇宙を建造するのはもっと遠い未来になると思うが、決して不可能ではない。
「太陽が神だと言うなら、アメン神でも差し支えない筈です。そうでしょう?」
「うーん??」
「世界は平らで、太陽は一日一回世界を廻り、神々には全て人間の眼に見える姿がある。そうでしょう?」
「ああ、その通りだね」
涼子は適当に調子を合わせて周囲を見回した。
ヘロドトスによると、サイスの街のアテナ(ネイト)神殿の書記がナイル河の水源を知っているという。
ここから900年後に大著、『歴史』の2巻28節に書いている。 彼の記述は細かくて回りくどいが、紀元前5世紀のエジプトの地理学者も、エチオピア高原の青ナイルは知っていたようだ。しかしアフリカ中央の巨大な湖から流れる白ナイルは知らなかったのだ。 ここにその証拠はあるのだろうか?
それとも、もう少し後の時代の知識なのだろうか?
涼子は神殿を散策し、ベランダから日没の夕日を見た。
強烈な昼間の太陽とは異なり夕日は柔らかい。
37世紀では砂漠というものが無い。超近代化した都市と、古ぼけた遺跡と、緑化した田畑しかない。
故に涼子は、37世紀では砂漠を写真かビデオでしか見た事が無い。実物は格別の美しさだった。
20世紀の古い歌謡曲で、『月の砂漠』というのがあった。
日本人なら、知らぬ者がいない程の名曲だ。
「駱駝がいれば、あの歌の歌詞にそっくりだな」
月面に行けば、御月見ならぬ、地球見ができる。月から見た地球は、地球から見た月よりも4倍以上も大きい。
しかし月面は、37世紀には人工建造物だらけで、スペースオペラの宇宙要塞みたいになっている。
「未来では月が無いのですか?」レダの声がした。
レダは背後から涼子に声をかけたが、涼子はそのまま月を見上げて、「未来では月面の様相が変わっているんだよ。 元々月面は荒地なのに、『月の自然を残せ!!!』
なんて信じられない、環境保護運動があるんだから」
「それは面白いわね」とユリアの声。「月面はバビロニアの砂漠みたいなのに、緑化してるのかしら?」
涼子は、「少し違うんだけどね」と答えた。
アポロ11号が月面に降りる前の月と、37世紀の月の違いを知ったら仰天するだろう。もっともそれを言うなら、火星だって金星だって地球化している。
人間がテラフオーミングする前の金星など、行きたくは無いだろうが、37世紀なら住んでみたい筈だ。
「君達が37世紀に来るなら、間違いなく、面白いものがいっぱい見られるよ」
「この時代にも面白い物はいっぱいありますわ」
しかし、レダのこの言葉が現実になり、涼子が古代世界の虜になるとは、さすがの涼子も予想できなかった。
やがて夜が明けた。 東の空から太陽が昇ってくる。
ホメロス風に言えば、薔薇色の指をした夜明けが・・・。
砂漠は夜は寒いが、太陽が昇ると暖まり精気が満ちてくる。
太陽が万物に生きる力を与えている。
涼子は無神論者だが、世界中で太陽が様々な形で信仰されていたのが何故であるかが理解できた。
「呆れた。一晩中起きてたの?」フレイヤが眠そうな顔でやって来た。「あたしなんかグーグー寝ていたのに」
「古代エジプトのビールをがぶ飲みするからだよ。いくらアルコール度数が低いからって、あんなに飲むことないのに」
「この時代のビールはホップが入っていないけど、以外に美味しいのよ。ワインは最高!!イスラム化された後世のエジプト人が気の毒だわ。」
「ユリア以上にアバウトだな。これで工学博士だと言うんだから、信じられない」涼子はぼやいた。
エジプト人たちはパンを焼いて持って来てくれた。
ヘロドトスはエジプト人をパン食い人と呼んでいた。
パンそのものは美味しいが細かい砂が入っていた。
石臼で麦を挽くときに麦を細かくする為に砂を入れて効果をあげる。それはまあ良いとして篩の目が粗く、パンに砂が入って歯を痛める。 だからエジプト人は虫歯が多く、アメンホテプ3世も虫歯で死んだ。 王族の死因のトップは、虫歯に黴菌が入って感染症を起こすことだった。
「少しジャリジャリしてるわね」とユリアが言ったが、涼子は、「仕方ないさ。虫歯になっても楽に治せるよ。だから我慢して食べよう」
レダはパンを食べながら、「大人の歯を生え変わらせるなんて、神業ですわ」
「21世紀中頃の、古いテクノロジーさ。22世紀には歯科医師の免許が廃止されて、普通の医師免許に統合された。歯科医師の仕事は、歯を抜いて再生する事だけだ」
ミネルヴァ女史は、「これからアケトアテンまで行くけど、長旅になるわよ」と言った。
しかし涼子は、「適当な所でワームホールを使ったらどうでしょう?この時代には通信機は無いし、異常に早く着いても怪しまれないと思います」
ミネルヴァ女史は、「その手もあるわね。でも通過点は立ち寄るわよ」
レダが、「ちょっと待って涼子様、あたくしはエジプトは初めてですわ。いろいろ見たい所が有りますわ」
フレイヤは、「ではギザまで船で行き、その後はアケトアテンまで行きましょう。ツタンカーメンに会えるわよ」
涼子は、「わくわくするね」と軽薄な事を言った。
一行はサイスのネイト神殿の神官に別れを告げると、ガレー船に乗って、ナイル河を遡り、ギザに向かった。
エジプトはナイルの賜物と言うが、ナイル河自体が最大の交通機関なのだ。 この時代は全ての市町村がナイル河沿いにあるのだ。37世紀は勿論違うが。
ガレー船の中で涼子たちはぐっすり眠った。ネイト神殿で寝ていなかったのだから、当然だ。
ギザに着いたのはお昼過ぎだった。クレイトーとアトルがエジプトの役人と交渉している間に、涼子たちはギザの三大ピラミッドを眺めていた。
ガイドは例によってユリアである。
「クフ王の父親であるスネフイル王は、5つのムルを造ったの。クフ王は大小合わせて6つも造ったのよ。何とも、物凄いわね」
「それにしても? 何で墓をそんなに造る必要が有ったんだろう?」
「さあ?」
「墓なんかひとつ造れば充分なのに?」
涼子の問いにユリアは答えられない。
涼子は、「これが日本なら、分骨という習慣があるけど、ここはエジプト、ミイラを作り丸ごと葬る。エジプトの神話でオシリス神が弟のセト神によってバラバラにされ、ナイル河とその周辺に捨てられたという物語があったね。
その後、妹であり妻である女神イシスが、バラバラの体を全て集めて、縫い合わせて元に戻した。 あの世に行くには完全な体でなくてはならない」
ユリアは、「セトが捨てたオシリスのペニスは、ナイルのナマズに食べられて不完全な体になった。と言う落ちが有ったわよ」
「知っている。去勢された宦官もミイラにして埋葬するときは青銅の男性自身を、しかるべき場所に取り付けていた。しかし37世紀なら、体の一部を失っても再生できるよ」
ユリアは、「未来人は神々以上ね」と言った。
「何故クフ王はピラミッド、 じゃなかった、ムルを6つも造ったんだろう?」
「さあ?」ここでレダが口を挟んだ。
「ねえ?涼子様?クフ王は自分の家族や親戚の為に、お墓を建てたのかもしれませんよ?」
「あ!!その解釈面白いね。案外正解かもしれないよ」
ユリアも負けてはいない。「お墓とはちょっと違うけど、バビロニアにはジグラット、という塔がやたらとたくさんあったわね。 あれは神々が降りてくる神殿だと言われたわ。 となると、ムル(ピラミッド)も単なるお墓では無く、あの世とこの世を繋ぐ門のような物で、神々に捧げる為に、 やたらと造ったのかもしれないわ」
涼子は驚いた。ユリアがここまで考えるとは?
「さすがだね。ジグラットを知ってるの?」
ユリアは、「あたしは外交使節団のリーダーとして、あちこち旅行したのよ。うらやましい?」
「この時代ではたいしたものだよ。 普通、古代人は旅行なんかしなかったからね。ちょっと尊敬するよ」
(注、ユリアとレダの意見は作者の私見。もっともどこかで似たような学説があったかもしれないが)
そこでレダはスフインクスを見詰た。ユリアも見た。二人は、涼子は未来人だから、スフインクスを知り尽くしているだろうとでも言いたげだった。
「スフインクスには、不可解な人という意味があるんだ」
ユリアは、「あれは石を積み上げたんじゃなくて、一つの石を削って造ったのよ。 相当古いものらしいけど、エジプト人もその言われを知らないわ」
涼子は双眼鏡を取り出した。「スフインクスの表面を見てごらん。水で浸食されているのがわかるかな?」
「わかるわよ」
「見えますわ」
「20世紀後半、1973年頃、フランスの数学者シェクレ・ド・リュビック(実在の人物)がスフインクスのライオンの体は頭部を除いて水による浸食の痕がある。と言い出した。1990年になると、ボストン大学のロバート・ショークは、スフインクスや付属建造物の浸食は確かに水によるものだ、と述べた。そうなると、スフインクスはエジプトの第一王朝よりも、途方も無く古いかも知れない?と言う解釈も成り立つ。エジプトは砂漠の国だから」
レダは、「そんな筈はありませんわ」と言った。
「エジプト考古学庁は変な映画の見すぎだと抗議したよ。」
ユリアは、「エジプトは元々は緑が多かったのよ。 少なくともナイル河沿いはね。金(ゴールド)や青銅を精錬する為に木々を伐採しなければ、砂漠化しなかったわ」
「それでいいんだ。 それが妥当な答えだよ。スフインクスがどんなに古くても、エジプト第一王朝より古い筈が無い。スフインクスが建造された頃は、降雨量は多かったに決まっているよ」
涼子はユリアとレダが以外に聡明な事を知り、感心した。
クフ王のピラミッドは、建造されて1000年以上経過していたが、まだ白い化粧石で覆われていた。
あと2000年もすると、エジプトを征服したアラビア人のイスラム教徒が石を剥がして、イスラム寺院の建造に使うのだ。 近現代人が写真で知っている、クフ王のピラミッドは階段状にギザギザになっているが、残念ながら元々のピラミッドとは少し異なっているのだ。イスラム教の極端に厳しい教で、イスラム以前の文化は無価値とされたのだ。
ピラミッドが破壊されなかっただけでも、儲けものだ。涼子は化粧板で覆われたピラミッドを眺めて感激した。トロイの都を訪問してユリアに会った時の様に。
そこでクレイトーとアトルが戻ってきた。
「通行証に押印をもらってきたわ。あとはアケトアテンに行くだけよ」
印章とか印鑑と呼ばれる物は古代のバビロニアで発明された。エジプトにも伝わっていた筈だ。
「ではアケトアテンまで行きましょう。ワームホールとフォゲッターを使うわよ」
とミネルヴァ女史は指示を出した
涼子たちはナイル河のど真ん中まで船を進めると、ワームホールを作動させた。何十人かのエジプト人が眼を丸くして見詰る中、一行は丸い穴に吸い込まれて、一瞬にして消え去った。 しかしエジプト人たちはフォゲッターによって、すぐに忘れてしまった。 そして一行はアケトアテンに到着したのだった。
第八章。アケトアテンにて。
「アケトアテンに着いたわよ」
ミネルヴァ女史の声で全員が我に帰った。いつもの事だが余りに呆気ない。
船の櫂を漕ぐエジプト人の漕ぎ手は、フォゲッターで記憶をいじられて、自分達は船を漕いだと信じている。
目的地の正確な座標は判明しているので、楽にたどり着けた。
「これは?何とも美しく、物凄い―」
涼子とレダが同時に同じ言葉を発し、そして、
「都だね!」
「都ですわ!」と締めくくった。
ユリアは、「黄金と光の都市ね」と言う。
東西5キロ。南北20キロ。長方形の都市だ。何も無い所から完璧な都市計画の元に造られたのだ。
「美しいね。トロイよりもクノッソスよりも派手でギラギラしている」
涼子の何気ない一言にユリアのプライドは傷付けられたようだが、増改築を繰り返したクノッソスよりも、計算づくで造られたアケトアテンの方が、すっきりしている。事実だから仕方ない。
アトルとクレイトーは通行証や身分を証明する書類、勿論パピルス製だが、を持っていた。
「喜べ!ツタンカーメンと、ネフェルテイテイが会見してくれる」
ミネルヴァ女史は、「それは良かった」と言った。
ピカピカの北の宮殿の奥にネフェルテイテイがいるのだ。
晩年のイクナートンによって別居させれたネフェルテイテイは、人生の後半をそこで過ごし、やがて彼女はアケトアテンを去るのである。
もっともいつこの都を去ったのかはハッキリしない。その前に会えたのは幸運だった。
そして37世紀人は5000年の時空を超えて感激の対面をしたのだ。 もっともネフェルテイテイは相手が未来人だとは夢にも思っていないのだが。(当然!)
「そなたがクレタ島のミノア王家の王女ユリアかえ?」
ネフェルテイテイは芝居がかった話し方をした。
未来人は、『この方が王妃ネフェルテイテイ・・・』と感銘を受けた。
この人の胸像は20世紀初頭に発見されていた。
イクナートンは、神々や女神の像を破壊せよと命じたが、人間の顔をリアルに表現する事は特に反対はしなかった。
イクナートン以前よりも後の方が、人の顔は正確に表現したのだ。 写真が無かった時代には貴重な資料だった。
ユリアは、「御会いできて光栄です」と礼儀正しく応対した。少し前なら『うん、ありがとね』と言うところだ。
『少しは成長したね、ユリア』涼子は感心した。
ネフェルテイテイはふうっ、と溜め息を吐いた。
「この美しい都も・・・ もうすぐ打ち捨てられた廃墟となる運命だわ」
「悲観する事は有りません。クノッソスも滅びた。形あるものはいつの日か崩れ去る運命です」
『本人は慰めているつもりなんだろうけど、フエローになっていないよ、ユリア』と涼子は思った。
「今更ミタンニに出戻りもできないし・・・」
この人がエジプト人ではなく、ミタンニの出身である事は、37世紀人なら当然知っている。しかし本人に身の上話をさせてみるのも面白いだろう。
「わらわはミタンニの出身でそなた(ユリア)ぐらいの年でアメンホテプ3世の側室になった。 3世は若い頃ミタンニ国王シュタルナの王女ギルヘパを側室にしていたが、晩年になって後代の王、トウシュラッタの王女の、わらわを側室にした。 多額の金品を結納にして念願を果たしたのだ。
老人の側室になどなりたくなかったが、これも母国の為だと諦めた」
『そのミタンニもあと100年で、陰も形も無くなる。勿論、教えないけど』と涼子は思った。
「その頃アメンホテプ4世は父と一緒にミタンニを訪問し、わらわを見初めていた。 その時点で4世は10歳ぐらいだった」
涼子は、「え?10歳?」と聞き直した。
ユリアは、「生活の心配が無い王族は早婚なのよ」
「それにしてもねえ?」涼子は呆れた。
「4世は、自分が見初めたわらわを、父が側室にしたことで父を怨んだ。3世が亡くなったとき、4世は12歳ぐらいだったが、17歳のわらわを早速正室にした」
父の後妻を自分の正室に!!知ってはいたが、改めて聞くとショックだった。義理の母だろうに?
「3世は年老いて病気がちだった。 老人の側室よりは、若い新しい王との結婚のほうが、わらわには好ましかった」
「わかります。」とユリア。
「わらわは4世と結婚して三年の間に、三人の娘を産んだのだ。娘達はメリタテン(アテンの娘)とか、 マケタテン(アテンに守られる者)とか、 アンケセパーテン(アテンを通じて生きる者)と名づけられた。3世が敬意を払っていたアテン神に因んだ名を付けたのだ」
ユリアが、「3世の生きていた頃から、アテン信仰があったのですか?」と問い直した。
「わらわも詳しい事は知らん。アメン信仰はエジプト第一王朝の頃からあった。アテンも同じくらい古い。
ひょっとしたら、人間がこの世に現れた頃から、アテンという名前が無くても日輪を拝んでいたのかも知れん」
イクナートンが日没の太陽を、神の玉座と信じたように・・・。
「4世とわらわはアメン神の神官団の横暴に悩まされた。 歴代のフアラオも手を付けられ無かったが、4世はアメン信仰を止めて、アメン神官団の権力を取り上げようと決意した。 太陽神のひとりの筈のアテンを唯一絶対に神と宣言し、他の全ての神々を認めないとした。 治世4年目に4世は新しい都、アケトアテンを完成させた。それがここだ」
ネフェルテイテイは大袈裟なそぶりで周囲を示した。
「4世はイクナートンと改名。 都の完成いらいイクナートンのアテン信仰は狂信的になり、テーベではアメンの像が無くなり、ヒエラクンポリスでは禿鷹の女神ネベクトが、ヌビアではミンの神像が破壊された。サイスの街ではネイト神殿が閉鎖された」
ネフェルテイテイは夫の所業に忸怩たる思いがあった。
「やがてエジプトじゅうで叛乱が起きた。おまけに悪疫が大流行した」悪疫と言う言葉に涼子は顔をしかめたが、ユリアとレダは涼子に絶大な信頼を寄せていたので、特に恐れていなかった。
「そして悪疫の原因をめぐって神学論争が起きた。保守派はイクナートンに対する伝統的な神々の祟りだと言い、イクナートンはエジプトのインチキな神々に対するアテンの神罰だ。と主張した」
「それで?」
「エジプト全土から在留外国人に国外退去が命じられ、イクナートン派も追放された」
「で?イクナートンは処刑されたんですか?」
「逃げた?」
「え?」ネフェルテイテイは忌々しそうな顔をした。「わらわと娘達を捨てて逃げた」
ミネルヴァ女史が割り込んだ。
「先帝様は、死んだのでは無いのですか?」
「イクナートンは死んだ事にしてしまえ、と無名の王族の死体を身代わりにして、ミイラと墓を作ったのだ。 イクナートンはミイラ作りを禁じたのだから、それも当然だ。本人の死体があってもミイラは作らなかっただろう」
ミネルヴァ女史が問い直した。
「エジプト王室に、モーゼという王子はいませんでしたか?」
「モーゼ?そんなの知らん」
「本当に知らないのですか?」
「モーゼというのはよくある名前だ。 エジプト語で子供と言う意味だ。自分の信じる神の名にモーゼと名付けて、トウト・モーゼで『トトメス』とか、ラー・モーゼで、ラムゼス』とか。しかしモーゼだけでは答えようが無い。イクナートンはアテン以外の神の名を使わせなかった」
ミネルヴァは混乱した。 全ての37世紀人が混乱した。
宮殿内の客室で涼子は頭を抱えた。
「どういう事なんだ? イクナートンが死んではいない、というのは?」
ユリアは、「ネフェルテイテイが、イクナートンは死んではいない。と言うならきっと本当なのよ」
フレイヤが、「クフ王のミイラも未発見だし・・・」と言うので涼子は、
「クフ王は関係ないと思うけど」と答えた。
「イクナートンのミイラが、別人の死体だというのは間違いない」とミネルヴァ女史。
(注。別人説の真偽は何とも言えないが、この小説では別人のミイラにしておく。別人説は確かにある。作者)
フレイヤが「しかし、モーゼを知らないというのは以外だわ。何がなんだか、さっぱり訳が判らないわね」
客室で途方にくれる涼子たちに、幼ない王子が会いに来た。ツタンカーメンだ。虚弱そうな王子は杖を突き、不自由な足を引きずりながら、護衛の衛兵とやってきた。
「義母上から客人に可愛い女の赤ん坊がいるから、会ってこい。と言われました」
「ネイトよ。可愛いでしょう?」とクレイトー。
その場にいる37世紀人全員が緊張した。
「僕の顔に何か付いていますか?」
「いや、別に」
涼子が、「ねえ?王子様?ミイラの呪いって聞いた事がありますか?」と質問した。
「知らないね」
「本当に?」
「先帝様は、魔法や神秘主義のような話には、 徹底的に反対していました」
「では、先帝様の、イクナートンの宗教改革の前の、古い信仰では?」涼子はしつこく食い下がった。
しかしツタンカーメンは、「あまり聞かないな。そんな話は」とだけ答えた。
「夕食の準備が終わったら呼びますから、来てください」「え?ええ。ありがとう」
涼子とユリアは礼を言い、ツタンカーメンが衛兵と立ち去るのを見送った。涼子は不思議そうに、
「何なんでしょうね?ミイラの呪いを知らないとは?」
ミネルヴァは、「涼子さん?あなたは医師なのに、ミイラの呪いなんか信じていたの?」
「まさか!何か例の変死怪死事件のヒントでもあるかと思ったんだけど」
レダが、「変死って何ですの?」
「ツタンカーメンのミイラが発見されたときに、関係者が23人も怪死したんだよ」と涼子。
「死者の祟り?」
「死者にそんな力は無い事が、20世紀に証明されている。 ただし変死の原因は明らかになっていない。 全員が高齢だったし、ツタンカーメンのミイラを発見する前から病気がちだったけど、どうにも理解に苦しむケースもあったね」
ユリアが、「理解に苦しむケースって何なの?」と聞いた。
「あの坊やは、1922年にミイラとなって発見される。その翌年、発堀チームの指導者で英国貴族の、カナーヴォン卿が怪死した」
「怪死・・」
「カナーヴォン卿の歯は、二、三日に一本、欠けるか抜け落ちるかしていた。不思議な病気で死んだのだよ」
「涼子さんの時代なら、怪死から1700年も経っているのだから、病名はわかるでしょう?」
「水銀中毒だね」
「なにそれ?」
「液体金属だよ」
「もっと詳しく」
「有用で使い道が多いけど、人間には猛毒なんだ」
「レダ、あなた水銀の事を知っていた?」
「この時代の人間は純粋な水銀を知らない?化合物なら知ってるかな?」
ここでフレイヤが会話に割り込んだ。
「化学の発祥の地は古代エジプト。 錬金術という原始的な化学を発明していた。 墓荒しから墓を守る為に水銀化合物を仕掛けておいた。と考えられるわね」
涼子は、「さすが、工学博士」
フレイヤは続けて、「墓荒しが変死したら祟りだと思うし、墓荒しに対する抑止になるわね。水銀は独立した元素で、化合物は分解しても水銀そのものは、3000年どころか、3000億年の未来までも分解しないわ」
レダはホッとして、
「あの坊やが妖怪の類でなくて良かったですわ」
ユリアも、「同感」
ミネルヴァ女史が、「それにしても、変死者の死因が全員異なっているのが気になるわね。23人全員が水銀中毒だったわけでは無かったし」
ユリアは、「元々病気がちだった。と言わなかったっけ?」
レダは、「体が弱って病気が悪化する毒物?」
涼子は、「あ!?その解釈面白いね。 案外いい線行ってるかも知れないよ」
レダは、「あたくしは、あの坊やが化け物や悪鬼の類だと思いたくないだけですわ」
そこに、ツタンカーメン本人がやって来た。
「夕食の準備が整いました。義母上がお呼びです」
そこで一行は大広間まで行ったが、御馳走を前にして怖じ気付いた。眼の前の料理に遅効性の毒物が入っているような気がしたのだ。 「まさかねえ?」
ユリアは非礼を覚悟の上で、「王子様、お先にどうぞ」
「では乾杯」 ツタンカーメンはシチューやパンを食べ始めた。涼子は毒物の検出キットを使ってみた。
「何も反応しない」
「では大丈夫なの?」とユリア。
「いまのところは、僕たちを毒殺する意図は無さそうだ」
ネフェルテイテイは召使に命じて、次々と料理を運んでこさせた。 ネフェルテイテイというのはエジプト語では、『やってきた美女』と言う意味で確かに美人だ。
本名は、タドウヘぺという。
35歳ぐらいで、ミネルヴァの歳に近い。
身長は140センチしか無くて、痩せ過ぎている。
ユリアが180センチを超えて、 ナイスバデイなのとは対照的だ。
三女のアンケセパーテン、後にテンをメンに改名、(アテン信仰をアメンの戻したから)は後にツタンカーメンの王妃となる。
ツタンカーメンは、イクナートンの子と考えられているが、アンケセパーテンの腹違いの弟である。(ツタンカーメンはアンケセパーテンより年下)
この娘は夫と同じく不幸な最後を遂げるのだ。
アンケセパーメンはクレイトーに声をかけた。
「クレイトー様の娘のネイト様は可愛らしいですね」
「え?ええ。ありがとう」
クレイトーはミネルヴァに目配せした。 何を聞きたいかは言わなくてもわかる。 この娘の運命を知りたいのだ。
でも教えられない。 ツタンカーメンの墓に収められていた二体の胎児のミイラは、間違いなくアンケセパーメンの子だなんて!
ユリアがそれを知ったら、37世紀人にツタンカーメンの子供を救ってくれ!と言うに決まっている。
しかし気の毒だが、それは出来ない。
ツタンカーメンは、フオード劇場のエイブラハム・リンカーンと同じく、見殺しにしなければならない。 死ぬべき人間は死なねばならない。
ツタンカーメンの母親は、ネフェルテイテイではなく、イクナートンの姉か妹とされる。
王子は、王位継承権を持つ王女、自分の姉妹と結婚しなければならない、さもないと廃嫡される。というエジプトの悪習で、兄妹婚が二代も続いた結果、重い障害児が死産したのだ。ツタンカーメンの足の障害も、恐らく近親結婚の結果だ。 フアラオの正妃は従姉妹よりも血縁が近い、姉妹でなければならない! とんでもない悪習だ。
イクナートンはネフェルテイテイを愛していたが、廃嫡されない為に、姉か妹を第二夫人にしたのだ。
ミネルヴァ女史は、女官の一人に質問した。
「ところで宰相のアイはどこにいるの?」
「ここにはおられません。出張でダハシュールにいる筈です」そして女官は変な顔をした。
「あなた様は、ギザからここまで来るまでの間に、会わなかったのですか?」
「え?ええ」
「ダハシュールはギゼに近いのに?」
「ちょっとした行き違いよ」女官は不審そうな顔をした。
ミネルヴァ女史は、これは失敗だと思った。 全ての重要拠点を残らず立ち寄るべきだった。
この時代には電話も電報も無いから、途中を省いてもどうって事は無い。などと考えたのが大間違いだった。
「私達は重要な客人よ。詮索は無用です」
「失礼いたしました」 女官は立ち去った。
ミネルヴァ女史の懐で、マナーモードの振動があり、携帯端末の画面に『メールの着信あり』の表示があった。
それを開こうとすると涼子が、「先生!非常事態です!」
と言ってきた。全員の携帯に同一のメールがあった。
『宰相アイが、出張ついでにサイスまで行って、クレタ難民の金銀を略奪。エジプトの官憲も、山賊や海賊と変わらない。
クソッタレ!!。 ダイアナより』
フレイヤは、「ダイアナも頭に血が昇っているわね」
そこへユリアがやって来た。
「どうしたの?涼子さん?ミネルヴァ様も様子が変よ?」
「どーしたもこーしたも無い。サイスの難民キャンプが、エジプト軍に略奪されているんだ」
「えっ?」
「悪辣な宰相アイが、恥知らずにも、エジプトとクレタの1000年の友情を裏切ったんだ」
「クソジジイ!!」王女とは思えない悪態だ。
「ユリアはその糞爺、じゃなかった、アイに会ってるの?」
「あたしは会っていないけど、どうせ糞爺よ」
「気持ちはわかるが、下品だよ」
フレイヤが、「略奪の阻止はあたしたちでやるの? それとも別の37世紀人がやるの?」と言った。
ミネルヴァ女史は、「私達でやりましょう。ただし殺さないわよ」
ミネルヴァ女史は全てのクレタ人と37世紀人を集合させた。ツタンカーメンは何が起きるのか不思議そうな顔をしている。 ネフェルテイテイはユリアに何か言おうとした。 しかし、空間にいきなり丸い穴が開いた。
「な!?!」エジプト人は声にならない声を発した。
「少しアイを脅かしに行くわ。 クレタ人に危害を加えたら天罰が下るわよ」とミネルヴァ女史。
そして全員が消えた。後には腰が抜けたエジプト人が残った。
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
「そうか、エジプトの宰相が裏切ったのか」
ヒッポリュテーは忌々しそうに呟きながらコーヒーをすすった。赤毛のオペレーター、日系カナダ人のダイアナは、自分もコーヒーを飲みながら、「この時代に法も正義も無いわよ」とぼやいた。
涼子は、「クレタ人には何の罪科も無かった。アイは財貨が欲しかったのだ。 忌々しい事に」
ダイアナは、「罪科と財貨。日本語なら立派な駄洒落になるわね。ギリシア語やエジプト語なら無意味だけど」
涼子は、「日本語の細かい語彙を知らない人にそんな話をしても、理解できないよ」
同じ日系でも、ダイアナと涼子は印象がまるで違う。
涼子は完全無欠な日本人。ダイアナは、日本人の血は四分の一ぐらいしか入っていない。でも日本語は完璧に話せる。
ヒッポリュテーはダイアナの駄洒落を無視した。
「強欲な宰相アイをどうやって懲らしめたんだ?」
「アイを殺さない方が難しかったよ」
「どうせ楽勝だったんだろう?」
レダは、「あたくしはアイを殺したかったですわ」
ミネルヴァ女史は、「話を戻しましょう」と言い、
涼子も、同意した。
第九章。再びサイスの街にて。
夜のサイスの街は騒乱状態になり、エジプト軍が次々とクレタ人を逮捕していた。
罵声が聞こえる。かなり汚い言葉だ。
「この仕打ちは何だ!!」
「長年の友情を裏切るのか!!」
「没落した人間には用は無い。金だけよこせ」
惨いことを言う。もっとも人間なんてこんな物だ。
19世紀や20世紀だって、没落した王族や貴族は国外に逃げても冷たい仕打ちを受けたのだ。
「お前ら、官憲と言うより、山賊や海賊の類だのう」
ミネルヴァ女史は故意に年寄り臭い話し方をした。
「クレタ人に理不尽な仕打ちをすると、オリンポスの神々の神罰が下るぞよ」
「ほーっ?どんな?」
女史は右手を高く掲げ、無意味な呪文を唱え始めた。勿論ハッタリである。しかし古代人には効果がある。
右手中指の指輪から閃光が煌めき、石塔が吹っ飛んだ。 エジプト人は何が起きたか理解できなかった。
雷でも落ちたのだろうか? 女史は右手で拳を作り田畑に閃光を放った。
作物は一気に燃え上がり、もうもうたる煙があがった。
「おおっ?」
クレタ人とエジプト人が同時に驚きの声をあげる。
涼子はフォローした。「それで撃たれたら、灰も残らないしミイラも作れないですよ」そして拳を作って見せた。
フレイヤも甘い声で、「さあ、生きたまま火葬されたいのは誰?」金髪碧眼の美女が、甘い声で恐ろしい事を言うと迫力がある。涼子は拳を振り回す。
「ミイラを作らないと、霊魂が残らないんじゃないんですか? 僕は霊魂なんか信じないけどね」
涼子は故意に無感情な淡々とした話し方をした。
涼子の指輪は只の指輪である。医師である涼子は、職業倫理上殺人が許されない。 例え敵であっても・・
「逃げるな。 逃げたら生きたまま火葬します」
これでは逃げられない。エジプト兵は竦みあがった。
ミネルヴァ女史は、「アイを殺してはいけない」
レダは、「何で?」
「歴史上重要なキャラクターだから。 とにかくアイを殺してはいけない」
レダはぶつぶつ言いながら、ライトを点灯してみせた。
エジプト兵たちはパニックになり、レダにひれふした。
「どうか殺さないでくださいませ!!!」
「面白いですわ」レダは無邪気に喜んでいた。
ユリアが、「アイが重要なキャラクターというのは、どういう意味なの?」と聞いたので涼子は、
「王位に就いてからのツタンカーメンは、アイを最も信頼のおける側近として扱い、アイはアイで、ツタンカーメンを実の息子のような態度で接した」と説明した。
「そんなの普通よ。 あたしだって女官のテアを実母のように慕ったわ」
「とにかくアイを殺してはいけない」
「わかったわ。あたしはクソジジイを殺さないわ」
ユリアは糞爺を連発し、自分は殺さないと誓った。
やがて、ひとりのエジプト兵が連行されてきた。
ユリアは、「何故ぐったりしているの?」
「麻酔銃だよ」涼子は細い針を抜いて見せた。ユリアは阿片や芥子を知っていた。
フレイヤが、「自白剤でも使おうか?」と言ったが、
涼子は、「馬鹿言わないで。自白剤は麻酔薬に近いんだよ。 過剰投与で死んでしまう。この男を殺すつもりか?」
レダが、「殺しましょう」と横槍を入れた。
ユリアが、「何で?」と問い直す。
「このエジプト人は、どうせ、歴史上の重要人物ではありませんわ。殺しても平気、平気」
「レダ、あなた私の従妹にしては、性格悪過ぎるわね」
「敵に不寛容に為り切るのも、王族の勤めですわ。ユリア様は甘ちゃん過ぎるんですわ」
ミネルヴァ女史は、「殺さなくてもいいわよ。ユリアに人殺しをさせたら、こちらの寝覚めが悪いわ」
さて、それから半日余り、サイスじゅうで宰相アイの捜索が行われた。そして朝になり、正午頃にアイは捕えられた。
フレイヤが、「こいつがアイ?」
「壁画で見たけど、イメージ通りだね。ハリウッド映画のフアラオみたいだ」涼子も好き勝手な事を言っている。
朝から鱈腹食べて、ゴロゴロして、でっぷり太った中年・・・。映画のフアラオはそういうイメージらしいが、実在のフアラオは政務が忙しくてそんな暇は無いのだ。 という事をユリアは知っている。 フアラオは現人神なのだ。神事と政治を掌るのだから。 アイが太っているのは宰相であって、 フアラオではないからだ。
未来人たちは、どうせ37世紀の言葉などアイに解る筈がない。 というので万能翻訳機のスイッチを切り、37世紀の言葉で話し合った。 しかしユリアは自分の翻訳機のスイッチを切っていなかった。
そこにいた未来人の会話は、この時代の言葉でなくても、ユリアにだけは理解できた。そこには恐ろしい真実が・・・・
涼子は、「アイは極悪人だよ。ツタンカーメンの死はアイの謀略説があった。 アンケセパーテンはアイとの結婚を嫌っていて、ヒッタイトの王に手紙を送り、ヒッタイトの王子を夫に望んだが、ヒッタイトから送られた王子は途中で殺され、アンケセパーメンはアイと仕方なく結婚するが、急死して何の痕跡も残さなかった。三人ともアイに殺されたと考えられるんだよ」
ミネルヴァ女史は、「とは限らない。ツタンカーメンが頭を打ってから、少なくとも二ヶ月、あるいはそれ以上の時間生きていた。と信じるだけの根拠がミイラに残されているわ。この時代の戦車から落馬した。と考えるのが妥当ね」
「ちょっと待ってよ」とフレイヤ。
「暗殺者はツタンカーメンの頭を殴ってから、止めを刺そうとしたが、護衛の返り討ちに遭った。とも考えられないかしら? アイの死後、アイの墓からはフアラオが来世を生きるための副葬品が無くなっていた。たいして価値の無い物まで。つまりアイは憎まれていた証拠だわ」
「しかし」ミネルヴァ女史はアイを弁護する。
「アイの墓が墓荒しに遭ったからといって、特別アイが憎まれていた。とは言えないわ。墓荒しなんて珍しくも無い。」
「でもでも」と涼子「ツタンカーメンが急死して得をしたのは何といってもアイなんだから、疑うのは当然だよ」
遂にユリアは会話に割り込んだ。
「で?ツタンカーメンが死ぬのは何年後なの?」
「ユリア!!!!」
「あなたいつから聞いていたのよ?」。
「最初からよ」
「やれやれ知られてしまったか」 ミネルヴァ女史は愚痴をこぼした。
ユリアはしつこく食い下がった。「ツタンカーメンは何年後に死ぬの?」
「あと10年以内ね20歳になる前に死ぬのよ」
「そんな?」
涼子は、「本当だよ。ミイラの人骨の解剖学者や病理学者の所見は、ツタンカーメンが18歳から20歳の間に死んだのは確実だ。 となっている。 その根拠を説明しても、ユリアにはチンプンカンプンだろうけど」
「根拠なんかどうでもいいわ。10年後に死ぬのね?」
「そうだよ、後頭部の首の付け根を強打して、脳の中に血腫が溜まり、二ヶ月ぐらいで死ぬんだ」
「何故?何故、頭を強打するのよ?」
「戦車から落馬した。とも、暗殺者に頭を殴られたと言われているけど、現時点では不明だ。10年後まで行けば真相がわかるはずだ。歴史の謎が解ける」
「真相なんかどーでもいいわ。 あの坊やを、ツタンカーメンを助けてあげて」
「歴史が狂うわ」とミネルヴァ女史。
「あたしを助けたのに?」しかしミネルヴァ女史は、
「あなたは何の痕跡も残さずに、トロイの都で病死した。だから助けても支障は無かった。でもツタンカーメンは違う。大物すぎるのよ。たいした業績は無いくせに、知名度は高い。 クフ王やイクナートン以上に有名だ。だから助けられない」
「そんな?」
「それが真実よ。真実は残酷なのよ」
涼子はミネルヴァ女史とユリアの会話に割り込む。
「僕たちは、リンカーンを見殺しにしたり、JFケネデイをダラスで救おうとして失敗している。 だから歴史を改変する事の難しさや、無意味さを知っているんだ」
「リンカーンやケネデイなんか知らないわ」
「後で教えてあげるよ」
ユリアはしつこく食い下がった。
「もしもあたしが、この場でアイを殺したら、ツタンカーメンは救われるのかしら?」
「事故死の可能性も否定できない」
「そうなると、無意味な殺人で、あたしが人殺しになるだけ?」
「仮にアイがツタンカーメンの暗殺犯だとしても、犯罪が行なわれる前に犯人を殺すのは無意味だよ」
そこでフレイヤが茶々を入れた。
「リー・ハーベイ・オズワルドを、ケネデイ暗殺の前に殺そうと言い出したのは、どこの誰だったかしら?」
「う、うるさいね、フレイヤだって1963年11月22日のダラスにいただろうっ!そもそもオズワルドを殺そうとして失敗したのは、フレイヤだろうがっ!!」
ユリアは、「いったい何の話だか?」と聞いたが、涼子に、「何でもいいだろっ!!」と言われただけだった。
アイが口を開いた。「わしをどうしょうというのじゃ?」
ユリアが、「御仕置きをするのよっ!!」
「クレタ人だって、あちこちに攻め込んだくせに」
「けっ!!強盗が何をぬかす!!」
ユリアはアイを許せなかった。 未来を知る者には苦悩が付きまとう。リンカーンやケネデイが何者かは、この時点ではユリアは知らないが、それにしても、涼子やミネルヴァ女史が、トロイの都でユリアに会う前に、どこかで味わった苦悩が何なのかは、漠然と理解できた。
クレイトーが背後から話しかけてきた。
「ネイト神殿の神官たちが、アイの解放を求めて交渉に来たわよ」 見ると、あの二人の神官が遠巻きにこちらを見ていた。 「これはマズイわね」とミネルヴァ女史。
「この事件がネイト神殿の記録に残ったら、SF的なアトランテイス伝説が残るわよ」とまで言う。
ユリアは、どうでもいいじゃないか、と思ったが、未来人には、そうではなかった。
「アイ様を解放してください」
「いろいろと厳しい条件があるよ」
「何なりと」
別の神官が、「エジプトの金銀を全部差し出せ。と言われたら、それでも要求を呑みます」
「金銀なんか、元素変換で簡単に作れるよ」
「元素変換?」
「錬金術さ」
「ではどんな要求です?」
「クレタ人の正当な財産を返してあげて」
「それだけ?」
「クレタ人を安全に出国させる」
「他には?」
「今回の事件を記録に残してはいけない」
「では、クレタ島の大災害も?」
「それは構わないよ。 ソロンの為に900年後まで残しておいて欲しいね。あるいはプラトンの為に、と言ってもいいかな。 プラトンもサイスに来た筈だよ」
「どうも良く話が見えないんですが?」
「クレタ島の大災害の物語は、アトランテイスの伝説として残しておいて欲しいんだ」
「何がなんだか解らないけど、言われた通りにします」
「最後にもう一つ」
「何です?」
「このまま忘れてしまいなさい」
「忘れる?」
「記憶を操作してあげる。だから素直に忘れなさい」
「何だか解らないけど、できると思います」
「よろしい」 涼子たちはアイの身柄を押さえたまま、クレタ人を出国させる手筈を整えた。
しかし、ユリアは納得しない。
「ねえ?教えてよ。あの坊やは、ツタンカーメンはどんな死に方をするのよ?」
「わからない。時間をずらして10年後に行くしかない」
「じゃあ10年後に連れてって」
「苦しむよ」
「構わないわ」
フレイヤとミネルヴァ女史も議論に加わった。
「絶対に歴史に手を加えないと約束して。 それなら10年後に連れて行くわ」
「喜んで同行するわ」
「喜ぶどころじゃ無いわ。 助けられないのよ」
「仕方ないわ」
そしてユリアはタイムトンネルに入ったのだった。
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
「そうかツタンカーメンの死の真相を見たのか」
ヒッポリュテーはユリアの話を聞きながら、黄金マスクのビデオ映像を見ていた。
「納得したかい?」
「納得したけど、悲しかったわ」
「ミイラの呪いはどうなった?」
涼子は、「呪いじゃないね。20世紀まで行って見ないと解らないが、呪いではない」と断言した。
「行けばいいのに?」
「後のお楽しみだよ」
フレイヤが、「ヒッポリュテーが20世紀に行ったら、どう見てもロシア人に見えるわね。自分はロシア人だと名乗ると良いわ」と言った。
「人種概念で言うなら、アマゾネスはロシア人に違いないんだけどね」とミネルヴァ女史。
「自分の夫でもない、ただ一回あっただけの、年下の赤の他人の死を悲しむんだから、ユリアも甘ちゃんだな」
涼子は、「善人であることは、良い事だよ」
「話を戻しましょう」ミネルヴァ女史は、ユリアと涼子が、ツタンカーメンの死の真相を確かめたときのビデオを、 ヒッポリュテーに見せようとした。
「10年後で何を見たか、教えてあげるわ」
第十章。 10年後にて。
ユリアは10年後の世界で砂漠に片隅に立っていた。
19歳ぐらいのツタンカーメンは、戦車に乗って颯爽と走ってくる。 ツタンカーメンにユリアは見えない。
全身をシールドで包み、透明化している。
戦車に轢かれないように遠くから見守っていたが、万一に備えてバリアまで使っていた。
まさに魔法や奇跡と区別がつかない、恐るべきテクノロジーだった。
ガラガラと音をたてて疾走する戦車。
虚弱なツタンカーメンも、かっこよく見える。
しかし思いがけない災難がツタンカーメンを見舞った。
馬が石に足を捕られたのだ!!馬が転倒すると、ツタンカーメンの二輪戦車は勢い余って馬に乗り上げた。
青年となった若きフアラオ、ツタンカーメンは戦車から落ちて行った。
「危ない!!」しかしユリアの声は聞こえない。
ユリアは遠くから双眼鏡で見ているだけなのだから。
ツタンカーメンは手で地面をキャッチしようとしたが、
余りの勢いで、ゴロゴロと転げて、後頭部の付け根を石で強打したのだ。
「ああっ、神様!!」ユリアの言葉はその場の全員の言葉だった。 エジプト人はアメン・ラーに、ユリアはゼウスに祈った。 涼子は、『神頼みなんか無駄だ』と普段からユリアに教えているが、それでもユリアは祈った。
「ああ、余は生きているよ。心配ない」
生きている!!即死じゃない!!
しかし頭の傷は重そうだった。
ユリアは自分と同じく、透明化シールドに包まれた涼子のほうを見た。
ユリアには涼子の位置が解る。涼子はすぐ近くにいたが、何も言わず、顔に苦悩の色を浮かべていた。
自分なら助けられる。 自分なら・・。しかし涼子はツタンカーメンを見殺しにしろ!!と厳命されていた。
助けようと思えば助けられるのに、それでも成り行きに任せなければならない。この苦悩・・・。
ツタンカーメンは王宮に戻り、その日から闘病が始まった。
時間をずらして前進していくと、ツタンカーメンが頭痛と意識の混濁に悩まされているのが判明した。
涼子は、「アイが故意に、ツタンカーメンを殺したわけでは無かったんだな。 謎が解けた」
ユリアは、「事故でも暗殺でも、たいした違いは無いわ。あの坊やが死ぬのが、あたしには耐えられないのよ」
「自分の夫でも無いのに?」
「一度会っただけでも、友人よ」
「一期一会だね」
ユリアは一期一会の意味を涼子に尋ねた。一期一会は未来の日本語だが、その意味は理解できた。
行きずりの相手でも大事な友人として持て成すのだ。
「ツタンカーメンを助けてあげて!5000年後の医療技術なら充分可能でしょう?」
「できないんだよ」
ユリアは涼子の苦悩に満ちた顔を見ながら、涼子がトロイの都で自分に会う前に、どこでどんな苦悩を味わったか、何となく理解できた。
更に成り行きを見守っていると、王宮の医師たちはツタンカーメンの髪を剃り、頭の腫れの正体を突き止めようとした。 しかしこの時代の医師にはお手上げだった。
更に時間を前進すると、三ヶ月目にツタンカーメンは死んだ。享年19歳。
「な、何と言うことだ。あの坊やが死んだ」
ユリアは自分の夫でもない、一度会っただけの男の子と、その妻の為に泣いた。
ツタンカーメンはエジプトの作法に則り、ミイラになった。
ユリアは涼子と共に時間の中を前進しながら、ツタンカーメンの葬儀を見守った。
しかし涼子は、葬儀よりも別の事に感心があった。
ツタンカーメンの墓に毒物を仕掛けたのは、何者なのか?
西暦1923年4月5日の早朝、第五代カナーヴォン伯爵、エドワード・スタンポープ・モリニュークス・ハーバート、 なんとも長ったらしい名前の英国貴族が、カイロのグランドコンチネンタル・ホテルのベットで亡くなった。
この事件はミイラの呪いと言われたが、実際には水銀中毒だったらしい? というのは、20世紀末から言われていた。
カナーヴォン伯爵の友人、アーサー・クラッテンデン・メイスは、カナーヴォンと同時に健康を害したが、メイスの死因が砒素中毒だったのは、ほぼ確実とされる。
しかし!!ツタンカーメンの墓には、エジプト人は誰も毒物を仕掛けなかった。
驚くべき大発見だった。
ツタンカーメンの死が暗殺ではなく、事故だった! という以上の驚きだった。
では、カナーヴォンとメイスの死は何者の仕業なのか?
ツタンカーメンの墳墓の発掘によって不利益を受けるのは誰?
涼子はすぐにでも1923年に行きたくなった。
しかし現在はツタンカーメンの葬儀が重要だった。
墓の玉座には、ツタンカーメンとアンケテパーメンが浮き彫りになっているが、太陽円盤が発する光を浴びている図柄から、二人がアテン信仰を完全には捨てていなかったと思われた。 葬儀では、アメン・ラーの神官たちが、死者を来世に送る経文を唱えていたが、まるで本人がキリスト教徒なのに、仏寺で仏式の葬儀をしているみたいだな?
と涼子は思った。豪華な副葬品と共に、パピルスや粘土板の文書が収められた。
涼子はそれを見逃さなかった。
あれは何?カーターの発掘品のリストには、あれは無かった。涼子はすぐにでも、あれを回収したかった。
しかし涼子があれを回収するという行為が、あれが公式に発見されていない原因とも考えられる。
手を出さない方がいいかも知れない。
やがて葬儀は終わった。更に時間を前進すると、恐るべき真実が明かになった。宰相アイが、アンケセパーメンに結婚を迫ったのだ。 恥知らずなアイは、ツタンカーメンを暗殺したわけではなかったが、主君の不幸な死を最大限に利用したのだ。 未亡人アンケテパーメンはヒッタイト帝国に私信を送り、王子の一人を婿に送って欲しいと願った。
ヒッタイトは最初は悪い冗談だと思ったが、アンケテパーメンが本気だと知ると、王子ザナンザを送った。
しかしアイはホルエムヘブ将軍に命じて、国境警備隊を使って、王子ザナンザとその一行を全滅させた。
表向きはベドウインの盗賊団の仕業とされたが、しかし、アイが真犯人であることは確認した。
ユリアは余程腹に据えかねたのだろう、悪態を吐き出した。
「ええ!!この糞爺!!因業爺!!」
涼子も同感だった。こんなジジイは磔にでもしてやりたい。
もっともこのジジイと同格では、イエス・キリストや、暴君ネロに殺されたキリスト教徒が、気の毒だ。
やがてアンケテパーメンは糞爺のアイと結婚し、アイにフアラオの称号を与えた。やがてアイに殺されて墓も残らず、アイはたった4年だけ王位に就いて、自然死した。
大悪人が安らかに死んだのだ。
アイこそは鬼畜のレベルを通りすぎて、鬼が怒って名誉毀損で訴える、超極悪非道の人非人だった。
ユリアは怒髪天を突いて怒り狂った。
「こんなの不公平だわ!!これほどの大悪人が心安らかに死ぬなんて!!アイは地獄に落ちたんでしょうね? ねえ?そうでなければ不公平だわ!」
不公平!!そうだ、不公平だが、死後の生は存在しない、
天国も地獄も無い!!と言うのが37世紀の恐るべき真理なのだ。生前にどんな善行をしようが、悪事を行おうが、行き着くところは同じ虚無の世界。 どんな聖人君子も、ヒトラーやスターリンも、ホロコーストの被害者も、虚無の世界に行く。
アンネ・フランクが天国に行ったわけではない。
ヒトラーが地獄に落ちたわけでもない。
悪人はやり得・・・。
どうしても、と言うなら、アイの人格をコンピューターにダウンロードして,ハードデイスクの中でバーチャルな地獄で責め立てる事は可能だ。 一人の人間、百歳まで生きた人間の全人格、総ての記憶を再現するには、驚くほど少ない情報量で足りるのだ。というのは、20世紀末に証明されていた。 10の15乗ビット、1000兆ビットだ。 これだけで人間の霊魂がつくれる。
スーパーコンピューターの中で責め立てるのだ。
しかしそれは無意味だ。同じ霊魂をいくつでも複製できるからである。
すなわち、悪人の霊魂を地獄で苦しめ、同じ記憶を持った霊魂を天国に送り、被害者の霊魂(の複製)を地獄に送れるのだ。一人の霊魂の複製は一つしかつくらない、という保証が無い限り、バーチャルな来世は不公平なのだ。
それなら来世なんか無い方が遥かにマシだ。
それゆえに死者の人格を再現する事は禁止されている。
「アイは地獄に落ちろ!!ツタンカーメンは天国に行け!!そうよね?涼子さん?ミネルヴァ様」
何と言って慰めてあげれば良いのやら・・・
そして一行は元の時間に戻った。
まだツタンカーメンが生きていた時間に・・・
「何てことだ、ツタンカーメンはこの時点で生きている。
あの坊やが生きている」ユリアは呻いた。
これがタイムトラベラーの苦悩だ。 不幸な人間がいて、救えても救えない。 救ってはいけない。 後世への影響を考慮して、影響が大きい人間は救えない。37世紀人が1865年のフオード劇場で味わった苦悩だ。 全員がリンカーンを見殺しにした。
しかも1963年のダラスでJFKを救えなかった。
JFKを救うための総ての努力が頓挫した。
37世紀人たちは、トロイの都でユリアを救い、クレタ人を救い、何とか埋め合わせをした。
王女ユリアは37世紀人のトラウマを克服するために、救われたようなものだった。
しかしそのユリアがツタンカーメンの為に苦悩している。
何と言う皮肉だ。 ユリアはアイを睨みつけた。
しかし、アイを殺しても何の解決にもならないのだ。
一時の感情でアイを殺せない。
怒りと墳りに満ちたユリアは、忌々しそうにアイに背を向けて、その場を立ち去ったのだった。
第十一章。 ギザのスフインクスにて。
涼子たちはギザの街でスフインクスを見上げていた。
プラトンの時代から、ある根強い伝承があった。
ギザのどこか、スフインクスの下部かピラミッドの内部に大きな空洞があり、アトランテイスの財宝があるというのだ。
そこには金銀だけではなく、古代の知識が含まれていたと言う。 しかもスフインクスの下部には、右前脚の下に大きな空洞が有る事が、20世紀末には確認されていたが、21世紀の中頃の(注、作者がこの小説を書いてから、ずっと後の設定。つまり作者の法螺です) 調査では何も無かった。
それもその筈、この伝説は37世紀人が流したデマなのだ。
史実通りの伝説をでっち上げる為に・・・。
エジプトの墓荒しは何とかしてこの財宝を見つけようとするだろうが、発見は不可能だ。最初からそんな物は無いのだから。 仮にその空洞まで掘り進んだとしても、
何も無い穴まで行って失望するだけだ。
実際に21世紀中頃の調査でも考古学者は失望している。
37世紀人の罪と言えばそれまでだが。(笑えない)
ユリアは南の空を、アケトアテンの方を見ていた。
本人は何も言わないが、何を考えているかは、言わなくてもわかる。
ツタンカーメンの事を考えているのだ。
何の痕跡も残さずに、トロイの都で病死した自分が救われ、
ツタンカーメンが救われない事に、 何とも割り切れないものを感じているのだ。
しかし!ユリアが何と言おうと、ツタンカーメンは見殺しにしなければならないのだ。
ユリアは一度会っただけの、自分の夫でもない少年王とその妻に思いを馳せ、アケトアテンに背を向けて、未来人の友人と共にエジプトを去った。
(第二部終了。第三部の、『ユリアと砂漠の預言者』へと続く)
アトランティスの王女 第二部。
この作品にはツタンカーメンの呪いの話が載ってます。
ただし、読者には燃え残りがあるかもしれません。
まだ未発表の第二シーズン、第五部のお楽しみです。