午前零時を過ぎて
青春ものの比較的短いお話です。
午前零時を過ぎて、僕は動き出す。それは誰にも言えない、僕の秘密の時間。
週末の午前零時を過ぎると、僕は動き出す。
早く寝るふりをしてもぐり込んだベッドから抜け出して、まずはクローゼットを開ける。真冬の時期をとうに過ぎたとはいえ、この時間ではまだずいぶんと寒い。真冬に使っていた厚めのコートを着て、冷たい風をガードしきれない短い髪の毛の頭にはニット帽、首にマフラーも巻いて、でも手袋ははめない。これで、とりあえず僕の完全装備。ここまでを完全に無音でこなさなければならない。クローゼットの扉を開閉する時のガチャという音、パジャマを脱ぎ捨てる時のパサという音、服を着る時の衣擦れのガサゴソという音。何一つ音は立てない。これは意外と神経を使う作業。だが、毎週やっていることなので最近はだいぶ慣れて、着替え終わるまでの時間がずいぶん短くなった。
次の作業はベッドメイクだ。まずはベッドを抜け出した際に乱れたシーツと毛布を整える。完全に寝る前の状態に戻したら、今度は一旦毛布の上半分を下に折り曲げ、マットの上にクッション、半分に細く折った座布団、足りない部分にパジャマなどを使って細かい隙間を埋め、あたかも僕自身が寝ているような形のダミーを形成。それから折り曲げていた毛布を戻す。ただし今度は枕まで被るように上に引き寄せ、一見すると僕が布団の中に潜り込んでいるかのような状態を作って終了。僕のいないこの部屋のドアを、もしも誰かが何かの拍子に開けたときのための対応策だ。もちろんここまでの一連の作業でも、完全なる無音でなければならない。何度も毛布をめくったり人形を作っている時のパフボフドサボンそんな類の音は一切ご法度だ。この作業も、もう慣れた。
要は、本来の静寂の空間にどれだけ同化できるか、ということだ。
これだけ徹底して無音の作業を課すのは、もちろん隣の部屋で眠っているはずの両親を起こさないためだ。人間はどんなことで目を覚ますかわからない。普段ぐっすり眠っていても、ひょっとしたら今日たまたま眠りが浅くてわずかな物音で目を覚ましてしまうかもしれない。その可能性はいくら十四年間一緒に暮らしてきた親子といえども完全にゼロとは言い切れないものだ。だから、せめてその可能性を少しでも低くしておくための対策としてこの行動は欠かせない。
準備が完了したらあらかじめ机の上に用意しておいた五百円玉を一枚と、両親が共働きのため常に預かっている合鍵をコートのポケットに突っ込んで部屋を出る。もちろん、静寂に紛れて。
***
扉を開けて廊下へ出ると、マンションの十一階からの夜景が見えた。かなり遠くの方にはそれなりに高いビルやマンションが他にもあるが、この辺りではここが一番高い。周囲を見下ろしてみると週末ということもあってか、まだ明かりのついている家や道路を走る車のライトも多く見えた。
エレベーターで一階のロビーまで一気に下り、外に出ると思っていたよりも寒かった。敷地の外に出た途端に風が吹きつけてきたせいかもしれない。マフラーを巻いてきたのは正解だったと自分の判断を褒めた。地上に立つと、そこはすでに静寂の空間ではなかった。だいぶ離れた場所からではあるが、車やバイクの排気音が聞こえてくる。週末の夜は、たいていどこもこんなもの。ただうちの家が両親の仕事の性質上、それに合わせた生活リズムのせいか週末の夜は早々に明かりが消える。だから僕は毎週末、家の明かりが消えてしばらく、午前零時を過ぎて動き出す。
家を抜け出した僕は河川敷へと向かう。家と僕の通う中学校のちょうど中間辺りを二分ように流れている浅い川。一番深いところでも膝くらいまでしかない。川幅はだいたい二十メートルぐらいで、河川敷を含めても対岸の道までの距離は五、六十メートルぐらいの大して大きくもない川で、徒歩で十分ぐらい。僕はそこに行く。
河川敷へ向かう途中で、僕はコンビニに立ち寄る。週末の夜はコンビニの人口密集度も高い。コンビニの前にはいつものように意味もなくヤンキー風強面グループがたむろしている。店内には居酒屋帰りなのか顔を真っ赤にさせて目尻の下がったおじさんや、そのまますぐに布団に潜り込めるような超ラクそうな格好の少し怖い顔をした兄ちゃん、派手な化粧と格好の姉ちゃん。いつもと変わらない顔ぶれのみなさんが、雑誌を立ち読みしたり夜食やビールを物色したり、レジで一番安い肉まんを注文したり。そしてまたそんな客の方々に応対している金髪ツンツン頭の若い店員の兄ちゃんは決まって愛想が悪く気だるそうにしている。銀色の鼻ピアスは浅黒い肌によく目立っていて、お釣りは客の手の少し上から落とす。ありがとうございましたの言葉にはまったく抑揚がないから、ありがたくもなんとも思っていないのが見え見え。僕は毎週この時間にここに立ち寄るから、店員さんはいつも同じで、顔も声も覚えてしまっていた。向こうは僕のことなんかかけらも覚えていないだろうけど。
僕は雑誌や弁当のコーナーには目もくれず、ペットボトルのドリンクコーナーへ向かう。そこで一通り見回して、今日は温かいココアとミルクティーをチョイスした。そしてお菓子コーナーでポテトチップスを一袋手に取り、計三点の商品をレジへ運んだ。他の客とまったく変わらない無愛想な応対をしてくれるレジの兄ちゃん。一枚だけポケットに突っ込んで持ってきた五百円玉で支払う。お釣りを受け取る時、一瞬だけ目が合った。僕はすぐに目をそらしてしまったけど、僕のことを覚えているとも思えないし、笑顔の片鱗を見せるわけでもなかったから、たぶん何こっち見てんだこのガキは、とでも思ったのかもしれない。そんなことは特に気にとめることでもなかったから、僕はもらったお釣りをレジ前の募金箱に投入して店を出た。
お釣りを募金するのはいつものことで、別にそれは慈愛の気持ちからではなくて、ただ細かい小銭をポケットに入れておくのが面倒だから。そういうことを人に言うとよく金持ちだねって冷やかされる。でも僕は決して金持ちなのではなくて、毎月の小遣いは三千円でクラスの友達と大して変わらない平均的な月収だ。だけど僕はそのお金の使い道を知らないのだ。CDもマンガも買わないし、買い食いもしない。おしゃれなんていう言葉自体に興味がないから洋服やアクセサリーを買うこともほとんどない。毎週この時間に五百円で買い物をする以外に、お金を使うことがない。そもそも僕には物欲というものがないのだと思う。
買い物が終わって、全ての準備が完了した。僕はそこから急に早足になって河川敷に向かう。ところで僕は河川敷に用はあるが、それは義務ではないし約束というわけでもない。簡単に言えば、僕が毎週勝手に行っているだけ。待たせているわけでもない。だから毎週この時間にそこにいるからといって、今日も必ずいるとは限らない。でも僕は毎週そこへ向かうし、今日も行く。今日も、いつものようにそこにいると信じている。
彼女が、そこにいると。
***
彼女と初めて会ったのは、二ヶ月ほど前。
その日は友達の家に泊まりに行っていて、食料がなくなったためにジャンケンで負けた僕が近くのコンビニに買い出しに行くことになった。買い出しの帰り、両手いっぱいのコンビニ袋をぶら下げて橋を渡ろうとした時、どこからか誰かの咳をする音が聞こえた。周りに誰の姿も見えなかったから何となく気になって探してみたら、橋の下、陰になっているところに彼女の姿を見つけた。彼女は何をしているわけでもなく、ただ座っているだけだった。僕は近づいて話しかけてみたが、彼女は何も答えなかった。何度聞いても口を開こうとしなかったし、しかたなく諦めて僕はビニール袋の中からジュースを一本取り出し、彼女の横に置いてその場を去った。思えば、その時の気持ちは僕が小学校の時、公園の片隅でじっと座っている野良猫に給食の残りのパンを置いて帰ったのと同じ気持ちだったのかもしれない。僕は友達の家に戻っても、何もなかったように彼女の話は一言も口にしなかった。
二度目はその次の週。僕は彼女のことが気になって、同じ時間に同じ場所に行ってみた。するとやはり彼女はそこにいた。同じように、ただ座っているだけ。僕はすぐに引き返してコンビニに行き、その日は特に寒かったから温かい飲み物と食べ物を買った。また近づいて、でも彼女は何も話してくれないと思ったから、僕は彼女の側にビニール袋ごとそっと置いて、どうぞと言った。すると、意外にも彼女はこちらを向いて、ありがと、そう言った。
何度か会って話して、彼女のいろいろなことを知った。彼女は中学二年生で僕と同じ歳。でも学校はこの近くではあるけれど、僕の通う中学校とは別の学校だった。僕は最初、彼女が親とケンカして家出でもしているのかと思っていたが、実際はもっと大変だった。彼女は父親から暴力を受けていると言った。まくりあげた袖の下から、スカートの下の太ももから、どす黒い紫色のあざを見せられたが、それがあまりに痛々しくて、僕は思わず顔をしかめた。けれど彼女は淡々とした口調でもう慣れた、と言って平然としていた。
彼女は昼間は学校に行って夕方に帰ってくる。彼女の母親は夜の仕事をしているから、昼間は家にいて夕方に仕事に出かけて夜中に帰ってくる。そして彼女の父親は仕事をしていないから、時々仕事を探しに出て行くがたいていは家にいる。彼女が暴力を振るわれるのは母親が仕事に出かけて父親と二人きりになった時。だから彼女は、学校から帰るとすぐに家を出る。そして母親が帰ってくる時間まで、外にいると言った。彼女の母親はこのことを何も知らない。彼女は何も言うつもりはないと言った。父親の暴力が始まったのは父親が仕事を無くして、たぶんそのストレスが原因で、だから新しい仕事が見つかればそれも終わる。彼女はそう信じていた。そして彼女はそんな父親でも、やっぱり好きなんだと言った。
僕は彼女に何かしてあげたいと思った。だけどどんなに考えてみてもたいしたことはできない。彼女をうちに泊めてあげることはできないし、彼女の父親に仕事を探してあげることもできない。それに、やっぱり僕は週末の夜しか家を抜け出せない。僕たちは携帯電話なんて便利なものは持っていなかったから、普段家にいない彼女とは何の連絡も取れない。僕と彼女の唯一の接点は、週末の午前零時過ぎ、この場所だけなのだ。だから僕は次の約束はしない。もしも何か突然に僕が行けなくなった時、僕は約束を果たせずに彼女をずっと待たせてしまうことになるからだ。彼女が毎週僕が来るのを待っているかどうかは知らない。だけど約束さえしなければ、もし僕が親に見つかって行けなくなっても彼女は裏切られたことにはならない。そう思っている。
僕が彼女にしてあげられることは、延々と続く彼女の苦しみの中で、せめてこの時だけ、彼女を休ませてあげることぐらいなんだろうと思った。
***
河川敷に着いたころには、僕の足はいつのまにか小走りになっていた。少しだけ息が乱れている。吸い込んだ空気が身体の中でひんやり冷たい。僕は周囲に通行人や車の存在がないか気を配った。誰もいないのを確かめて、僕は橋の下におりる。そこにいつものように、彼女がいた。
「やあ。……元気?」
僕は彼女に近づいて声をかけた。彼女は僕の方を向いて、うなずいた。
「うん、元気。どうしたの。何か声、震えてるよ」
落ち着いていて明るすぎない彼女の声。大きくはなく、ビニール袋のガサガサという音がなければ聞き取れるぐらいの必要最低限の声量で。いつものように。
「心配してたから。今日も生きてるかなって」
言いながら、僕は彼女の隣に座った。
「生きてるよ、なんとかね」
彼女はくすっと笑った。
「ちゃんと食べてる? 今日もろくに家に帰ってないんでしょ」
そう言いながら、僕はビニール袋の中からココアとミルクティーを取り出してどっちがいい? と尋ねた。ココア、と答えた彼女にそれを渡し、ポテトチップスの袋を開いて二人の間に広げた。
「食べてるよ。お母さんがちゃんと毎日ごはんの代わりにお金置いていってくれるから。ま、元々あたし少食だからほとんど食べなくても大丈夫だし」
彼女はココアを一口飲んで答えた。
「ちゃんと栄養もとらなきゃダメだよ」
「何それ、お母さんと同じようなこと言わないでよ」
彼女は笑いながら言った。こんな時は楽しそうで、少し声のボリュームも上がる。
「聞いてよ、この間さ、数学の小テストで九十点取れたんだよ。久しぶりに」
「すごいじゃん。あたしはいっつも満点だけどね」
僕の自慢げな話。彼女のもっと自慢げな話。僕はショックを受けたリアクションをして笑う。
「今日の給食、僕の一番嫌いなグリンピースご飯でさぁ、最悪だったよ」
「えー、あたし結構好きだけどなぁ。好き嫌いはよくないよ?」
ちゃんと栄養とらなきゃ、とさっき僕が言ったことをそのまま返された。そんなことを言っているくせに、実は彼女は人参が嫌いだってことを知っている。
「友達から聞いたんだけどさ、ワカメをタオルで包んでつるつるの頭に巻くと三日で髪の毛が生えてくるんだって」
「いや、それはないから」
たまにはありえないような冗談も言ってみる。対する彼女のツッコミはけっこうキレがある。タイミングも申し分ないし、全然おもしろくないネタにも笑ってくれるし。
いろんな話をする。彼女が笑ってくれる。僕にも彼女のために何かができたみたいで、嬉しい。
ポテトチップスを食べ終わって、ひとしきり話がすんだら、僕たちは地面に寝転がる。橋の真下の地面はアスファルト。ゴツゴツと固くて、ひんやりと冷たい。目に映るのは橋の裏側。鉄の作り物は何とも殺風景で、できればきれいな星空が見えたらロマンチックでいいのだけれど、人に見られると面倒だから我慢する。
寝転んだ僕は彼女の手を握る。出会って何度目からか、僕はこうするようになっていた。ずっと外にいた彼女の手は冷たい。僕の手も、手袋をしていなかったから冷たい。だけど彼女の手を握った時、僕は自分の手が手袋をしている時よりもずっと暖かくなっていくような気がした。
握り返してきた彼女の手。いつもより少し強い力で握られている気がした。
「……今日、お父さんに何かされたの」
僕は彼女にそう尋ねた。
「……うん。背中、蹴られた。ちょっと、痛かった」
僕はわかるようになっていた。彼女が僕の手をいつもより強く握り返してきた時、それは彼女が今日辛い目にあったサイン。たぶん、彼女は無意識だと思う。気づいてほしくてやっているのなら、もっと強く握り返してもいい。そのサインはそんな意図は感じられないほどとても微弱な変化だったけれど、でも僕はわかるようになっていた。彼女の体温が、わずかな指先の動きが、脈が、鼓動が、その全てが彼女の心を教えてくれていた。僕にとっては赤ん坊が泣くよりもはるかに簡単に、彼女の抱える心の痛みを知ることができる。
僕はぎゅっと強く彼女の手を握り返した。僕の心がちゃんと彼女に伝わっているかどうかはわからない。けど僕は、握ったこの手に精一杯の気持ちを込めている。
彼女はそのまま静かに眠りに落ちていく。彼女の寝息がゆっくりと同じリズムで聞こえる。この場所には車やバイクが走る雑音が届いてきて決して静寂の空間ではなかったけど、彼女の寝息はそれらと別の世界に存在しているみたいにずっと大きく聞こえた。
僕はこれから彼女が目を覚ますまで一睡もしない。彼女はいつも日が昇る前に目を覚まし、そして家路につく。それからいつもと同じ時間が始まる。僕の知らない、彼女だけの時間が。僕はそれまで眠らずに待つ。握ったこの手を離さずに、目を覚ますまで僕は彼女を守っている。彼女が少しでも安心して朝を、これからを迎えられるように。
僕にできることはどんなに考えても結局たいしたことじゃないと思った。だから僕はせめてこの時だけでも、彼女を守りたい。目が覚めたら優しく送り出したい。そして彼女が歩き出す時、僕は彼女の苦しみがどうかこれ以上彼女を傷つけないようにと願っている。
午前零時を過ぎて
このお話に興味を持ってくれた方、本文を最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。中学生の僕にとって午前零時を過ぎた真夜中の時間というのは特別な時間のように思えます。その特別な時間を一緒に過ごした相手というのも、学校で普段一緒に遊んでいる仲の良い友達とはまた違った意味での特別な存在になるのではないかなーと思っています。ふとしたことで知り合う彼女、僕にとって彼女との時間は他の誰にも言えない秘密になっています。辛い現状に身を置く彼女と、それを知り守りたいと思う僕。この時間はいつまで続くのか、2人の関係に変化は訪れるのか……いつか続きを書いてみたいなと思っている作品です。