編纂


湖を眺める女の人は,ここに髪留めが沈んでいるの,と幼い私に話した。細工された鼈甲のものは他にも持っていたから,不便はなかったけれど,あのデザインと同じものは二つと無かったから,時間が経つにつれて悲しみが増したの,と。ボートを漕ぐ人がいた。私たちがいる岸から遠く離れた所にいた。大声で呼んでも届きそうにないし,ボートの人がこっちに気付いたとしても,私たちがそれに気付けないな,と幼い私は思った。女の人は手を振ろうとして,それをやめた。同じ事を考えて,同じ事を思ったのかもしれない。それに,ここの湖は見た目より深いんだよ,と私は教えられていた。大きなトカゲがゆっくりと泳ぐ姿を何人かが目撃したんだ,という噂が信じられるぐらい。幼い私が女の人に,トカゲは何を食べるの?と訊いたら,女の人は,さあ,少なくとも髪留めは食べないんじゃない?と答えてくれた。私は嬉しかった。私が言おうとしていた事を,女の人が分かっていてくれたから。私は女の人の手を取って,ブンブンと振って,見える方の耳を見上げた。絵に描いたように,きれいな形だなーと思っていたら,女の人がこっちを向いて,私は少しがっかりした。それを見たから,女の人は困った顔をした。困った顔をして,もう一度,湖の方を眺め直してくれた。私は握った手を振った。手を振って,背も髪も,もっと伸びたらいいのになー,と羨ましがった。そのうちね,と女の人が優しく言ってくれた。きっと,私にしか聞こえなかった。


胡桃を割ったら,その殻を空いた缶に捨てる作業は,無駄なおしゃべりをし続けないと成し遂げることは難しい。それは少なくとも,この作業に取り掛かる,僕と叔父さんとの間でぴったり一致した見解だった。胡桃はざる一杯に入っていて,そのざるが複数ある。これに伴い,缶だって複数ある。いや,この作業を僕たちに命じた人物に対して,缶が足りないと報告したら,必要以上の補充が直ちになされたことから考えると,缶に関してはもっとある。僕たちはこの任務を果たさなければならない。果たさなければ,僕たちは何もできない。僕たちはだから手を動かした。手を動かすために,口を動かして,お互いを心から楽しませる努力をした。僕たちは笑い合った。胡桃を割った。みるみるうちに,ざると缶をいっぱいにした。そのおかげで,見えなかった終わりが見えてきた。僕たちはお互いを讃えたった。讃えあって,手を動かした。誤算があったのは,似たような話しか思い付かなかったので,僕も叔父さんも黙ってしまったことだった。慣れてきたとはいえ,胡桃の作業は胡桃の作業。その影響は,目に見える結果として表れ始めた。正直に言って,飽きてきた。僕たちは手を止めて,背筋を伸ばして,そこにある天を仰いだ。限りの見えない青が澄んで,隠れようのない明かりがそこかしこに落ちて届いて,照らしていた。手元が見えなくなる,なんて奇跡は訪れそうに無かった。僕たちはそれを素直に諦めた。諦めて,再び口を動かした。先に叔父さんがどうでもいい話をした。次に僕が, 叔父さんの話よりは身のある話として,明日のお昼にありつけるご馳走の予想を披露した。反論に応じた修正,あるいは自主的な訂正によって,少なくとも僕たちにとって,可能な限りのラインナップを完成させることに成功した。僕たちは心から満足し,目を輝かせ,目の前のものを片付けていった。希望に満ちていた。
砕けた殻のひと欠けらだって,見逃しはしなかった。


黄金色の毛並みの犬がその大きな一歩一歩を踏み,のんびりとした飼い主のことをリードする。傍目からはそのことが分かりにくい。なぜなら,犬は必要最小限の力でそれを行い,飼い主はこれに必要な限度で応えるに止めるからだ。間にあるリードは弛まず,引っ張られる。飼い主は密やかな抵抗を感じている,なのに澄まし顔。犬は自分のために引っ張る。だから当たり前。だから,この散歩はちょっと前のめり。着くのが早くなるのだろう。お家にだって,訪ねた先にだって。


休みの日の郵便屋さんに話しかけている男の子に,立ったまんまの郵便屋さん,郵便屋さんの上着の裾を掴んで離さない女の子。


テーブルの上に重なった手と手に,聞こえてこない会話は,たった二人でも実行可能な降霊術の儀式みたいに意識されて,飲み物に用いる食器類の何ひとつなく,しかし座る所に浅く座っていない様子から,すぐに去ることはないんだろう。
見ようによっては,そうして今を堪能している。し尽くされた会話のすべてを浪費している。勿論,お互いがそれぞれ,このことを了解済みであればの話ではあるが,全くあり得ない話じゃない。少なくとも,トカゲよりは。それが大きく泳いでいても,いなくても。
けれど,その全部を使い切るまでに至らない日中の残りの時間は,ひらひらと飛んでき蝶々を招き寄せて,翅を閉じて開き,閉じて開きを繰り返して,テーブル上の関心を呼ぶ。その口の動きは,ゆっくりと学術名を暗唱しているみたいに,長く,長い。小さくて黄色い邪魔者の時間。
きれい,と動いた方から救われるかのように,赤みがさして,温かくなっていった。

編纂

編纂

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted