アップルパイ
『ごめん』
「許さない」
息を切らせた僕に、彼女はぴしゃりと冷たく言い放った。
ちらりと見た腕時計は、約束の時間から二時間後の現時刻を指していた。
『本当にごめん。悪いと思ってる。』
「あーあ。楽しみにしてたのになぁ、二十代最後の誕生日ディナー、限定フレンチのコース。」
『ス、スミマセン』
僕たちの周りを包む空気は、軽快なジャズが流れるカフェとは思えないほど重く、走ってきたときにかいた汗は冷や汗に変わっていた。
ゆるく巻かれた髪、繊細で長い睫毛、細い腕でつく頬杖、もう六年もの付き合いになるはずなのに、彼女を作る全てが僕には魅力的に映ってしまう。
そんな彼女を永遠に閉じ込めていたいと思う気持ちはずっと変わらなくて、それは物理的な意味ではなく、どんな瞬間ですら心の中に止めておきたい、ということだ。
“「あなたは、私がいなくちゃだめなんだから」”
そう言いながら優しい笑みを浮かべて抱き締めてくれたあの夜から、僕の中には彼女しかいないのだから。
「……ポラダのバッグ」
『はい』
「…フラガモのお財布。長財布ね?」
『…はい』
「ルプタンのハイヒール」
『……はい』
窓の外に向けていた顔を僕に向けると、「嘘よ」と笑顔を見せる。
その笑顔の心理を読み解こうとするが、全く分からなかった。
『……どこからですか』
「さぁ?」
自分で考えなさいと言わんばかりの笑顔は、先程と変わらないが、些か黒いオーラのようなものを感じた気がした。
にこにこと楽しそうな表情は、僕を試していると分かっていても、可愛いと思ってしまう。
やはり僕は重症なのだろう。
飲食店のコンサルト会社を起業して五年、なんとか軌道に乗り、収入もそれなりに経営者として安定してきている。
自分が作る立場でも良かったが、マネジメントに回ったのは譲れない理由があったからで、それは現場に立つよりも大変なのは重々承知だった。
『お嬢様、アップルパイなどはいかがでしょうか?』
彼女の笑顔の明暗が変わる。
「あら、それはいいこと。どこのお店のかしら?」
『……僭越ながら、私の手作りでございます。』
「それは楽しみ。一番好きなの、そのアップルパイが。」
僕は彼女の機嫌を直す方法をこれしか知らない。
冷めても香るシナモンが効いたアップルパイは、昔からの彼女の好物だ。
彼女の存在こそ僕の原動力で、僕の作ったアップルパイを頬張る彼女の姿を想像しただけで、幸せな気持ちになる。
「楽しみにしているわ、シェフ。
言い訳はその時にでも聞いてあげる」
あの頃と変わらない笑顔の彼女の前に、手を差し出す。
彼女は膝にかけていたショールを羽織ると、僕の手の上に白くて小さな手を重ねた。
アップルパイ
年上彼女に掌の上で転がされる年下彼氏。
やっぱり好きだなぁ、妖しく笑うお姉さん系彼女。