太平洋、血に染めて(3)
第三話「黒い背ビレ」
今日も空は蒼く、そして日差しも強い。大五郎は空母乗組員のキャップを被って舳先に座り、釣り糸を垂らしていた。そのよこで、ヨシオが仁王立ちになって腕組みをしている。いつものように、じっと水平線を見つめているのだ。
「よう、ぼうず。景気はどうだい?」
声にふり向くと、渋色のくたびれたカウボーイハットの男が立っていた。釣竿を肩にかつぎ、葉巻をプカプカとふかしながら、眩しそうに目を細くして笑っている。
「あっ、かうぼーいのおじちゃん!」
ハリーである。
「なんだ。まだ一匹も釣れてないのか?」
「うん。ぜんぜんつれないや」
「なあに、もうすぐ釣れるさ」
「どうしてわかるの?」
「そろそろお昼だからさ」
そう言って大五郎のとなりに腰をおろすと、彼はさっそく釣り糸を垂らしはじめた。
「さかなも、ひるごはんをたべるじかんだね」
「そういうこと」
ハリーが葉巻をくわえたまま大五郎にほほ笑んだ。でも、ハリーはいつも眩しそうな顔をしているので、笑っていても大して表情は変わらなかった。
「あんたは釣らないのかい? 大将」
正面を向いたままハリーが言った。彼はヨシオに訊いたのだ。しかし、ヨシオは応えない。彼には、ハリーの声が聞こえなかったのだろうか。
「オレは、あんたに訊いてるんだぜ」
ハリーが大五郎越しにチラリとヨシオの顔を見上げた。怪訝そうにマユをひそめ、カウボーイハットの下から静かにヨシオの顔をにらんでいる。だが、ヨシオはハリーを無視しながら、じっと水平線をながめているのだった。
「ムダなおしゃべりはハラが減るだけ、か」
ハリーが苦笑混じりに鼻を鳴らした。彼は水平線に視線を戻して「やれやれ」というように何度か小さく首をふった。
海は静かだった。風もなく、波も穏やかである。しかし、いまだ魚の釣れそうな気配はない。
「やっぱり、つれないね」
大五郎のハラの虫が鳴いた。
ハリーが手首を回して腕時計を見る。
「やれやれ。一時間ねばって収穫なし、か。泣けるぜ」
泣けるぜ。それがハリーの口癖だった。だが、実際にハリーが泣いているところを、大五郎はまだ見たことがなかった。
ハリーは陽気に鼻歌を交えながら、甲板に片ヒザをついて竿を片づけはじめた。そして、大五郎も竿を片づけようと思ったときである。
「魚料理は当分お預け、ってわけか」
ふいにポツリとつぶやき、ヨシオがほくそ笑んだ。ハリーの手が止まる。彼は、無言のままカウボーイハットの下からヨシオをにらみ上げていた。ヨシオは仁王立ちで腕を組み、水平線に目を向けたまま肩をゆらしている。ハリーは口に葉巻をくわえたまま、冷たい視線をヨシオのよこ顔に向けている。彼は鼻とくちびるの隙間からゆっくりと紫煙を吐きだしながら、ばかばかしい、というように首をふった。
しばし不愉快そうな顔でヨシオをにらみつけると、ハリーは竿をもって立ち上がった。
「食堂に行く。ぼうずも来るか?」
ハリーが大五郎に笑顔を向けて言った。
「いく!!」
大五郎も笑顔で手を上げながら応えた。
「あんたは、来ないのか?」
ヨシオに背を向ける格好でハリーが訊いた。しかし、案の定、ヨシオは答えない。ハリーはうんざりしたようにため息をつき、首をよこにふっていた。
「おじさん、さきにいってるよ?」
大五郎も声をかけたが、彼は返事をしなかった。やはり、この男はイカレてるのかもしれない。大五郎もハリーの真似をして首をふった。
大五郎はハリーとふたりで左舷のタラップに向かって歩きはじめた。そのとき、ふいに遠くで叫ぶ人の声のようなものが大五郎の耳に聞こえてきた。
「あっ!」
大五郎は左舷正面の海を指差した。
「なにかくる!」
「ボートだ。人が乗ってるぞ」
カウボーイハットの鍔をもち上げながらハリーが言った。
それは小型のカッターボートで、乗っているのは年配の男がひとりだけだった。
「たすけてくれー!」
こちらに向かって両手をふりながらボートの男が叫んでいる。
「エンジンが故障したか。あるいはガス欠か」
足もとに落とした葉巻をふみ消しながらハリーがつづける。
「とにかく、このまま見殺しにしたんじゃあ寝覚めがわるい」
「たすけるの?」
「ああ」
そう言ってひとつため息をつくと、ハリーは舳先に立つヨシオをふり返った。
「あんたも手をかしてくれ。ロープを探すんだ」
ヨシオは肩越しにハリーを一瞥し、無言でブリッジのほうへ歩きはじめた。右舷中央にそびえる大破したブリッジ。その根元にころがるヘリコプターの残骸を目指しながら、ヨシオが歩いてゆく。ハリーは彼に視線を向けたまま、静かに口もとで笑った。
ハリーが左舷に転がる残骸を漁りはじめた。大五郎も、ハリーと一緒にロープを探した。
左舷後部の縁に備えつけられていた縄梯子は、もう使えなかった。潜水艦の攻撃を受けたときに被弾した戦闘機の燃料をかぶり、そこに炎が引火して焼き切れてしまったのだ。
ボートが潮の流れに乗って空母に近づいてくる。ときどきやってくる高い波が船底をもち上げ、ボートが大きく浮き沈みする。
「おーい! たすけてくれー!」
「まってろ! いま助ける!」
ハリーがボートの男に向かって叫ぶ。
ボートは、もう空母のすぐそばまでやってきていた。白い船体の船首部分には黒い塗料で「K・G・B 1564」という番号が大きく描かれている。乗っている男の齢は、だいたい七十ぐらいだろうか。いささか神経質そうな顔をした〝バーコードハゲ〟の男で、どことなくハゲタカにそっくりだ、と大五郎は思った。
「あっ、ろーぷだ!」
大五郎はブリッジのほうを指さした。ヨシオだ。ヨシオが救助用のロープを肩にかついで歩いてくる。
「でかした、大将」
ハリーがよろこんだときである。
「ぎゃーっ!!」
男の悲鳴だ。
「あっ!」
大五郎が悲鳴にふり向くと、男のボートがひっくり返っていた。空母のすぐよこで、ボートが転覆している。そして男は、ボートのそばで溺れているのであった。
「なんてこった」
ハリーが舌打ちした。
まもなく大五郎の傍らにヨシオがやって来た。
「どうやら、このロープでは海まで届きそうにないな」
ヨシオが海を見下ろしながらつぶやいた。
海面から甲板までの高さは、少なくとも三十メートル以上はあるだろう、と大五郎は思った。
「よし、エレベーターで降りよう」
ハリーが左舷後部のデッキサイド式エレベーターに向かって駆けだした。大五郎もヨシオと一緒にエレベーターに向かった。
航空機用のデッキサイド式エレベーターの幅は、だいたい二十六メートルで、奥行きが十六メートル。格納庫の外側に設置されていて、普段はいちばん上まであがった状態になっていた。エレベーターが格納庫の床の高さまで下がっていると、甲板の端の一部が欠けた状態になる。この大きな変形五角形のエレベーターは、甲板の一部を利用した装置なのである。
エレベーターを動かすための操作盤は、甲板の淵の足場のところにあった。その操作盤のよこにあるタラップは、下の格納庫へ通じていた。
「下げるぞ」
ハリーがエレベーターのスイッチを入れた。一瞬、フワッと体が浮く感じがしたかと思うと、あっという間に甲板が見えなくなった。そして甲板が見えなくなると、すぐに格納庫が視界に広がってきた。格納庫の搬出入口には扉もなく、カベもない。エレベータの幅に合わせて、船体側面にぽっかりと空いた楕円形状の大きな口。その口を半分ほど沈むと、こんどは格納庫の向こうに海が見えてきた。反対側の、後部右舷エレベーターの搬出入口である。この空母には、合計四基のデッキサイド式エレベーターがある。しかし、艦首右舷のブリッジ前方に設置された二基のエレベーターは故障しているので使えなかった。
海面から十メートルぐらいのところでエレベーターが止まった。大きさの割に動作は速く、だいたい十秒前後で移動できた。
「大将、はやくロープを」
ハリーが格納庫のほうから駆けてきた。
「たっ、たすけてくれぇーっ!」
海面に突きだしたあたまが叫んでいる。しかし、ヨシオは一向にロープを投げようとしない。丸めたロープを肩にかついだまま、エレベーターの淵から無言で〝あたま〟を見下ろしていた。
「はやく投げろ、大将。ここからならギリギリ届くはずだ」
ヨシオのよこであたまを指さしながらハリーが言った。
エレベーターの右前方。距離は、約十メートル。男は逆さまになったボートの船底にしがみつきながら、ヨシオのロープを待っている。
「おーい! わ 私は大統領だ! 礼は十分にする。だから、たっ……たのむ。たすけてくれぇーっっ!!」
なんということでしょう。おどろくことに、ボートの男の正体は大統領だったのです。
「聞いたか、大将。太平洋のド真ん中で、まさかこんな大物が釣れるとは思わなかったぜ」
ハリーが冗談めかして笑った。しかし、ヨシオの顔色は変わらない。男を見下ろす彼のメガネが、陽の光を受けて白く輝いている。その輝きから、大五郎は殺気のようなものを感じていた。
「なにをしている。なぜロープを投げないんだ?」
ハリーが怪訝そうな目をヨシオのよこ顔に向ける。すると、ヨシオはハリーをジロリと一瞥し、ようやく海に向かってロープを投げるのであった。
「あ!?」
大五郎はハリーと一緒に声を上げた。ヨシオはロープを投げたのではない。投げ捨てたのだ。ロープはボートの手前に落ちて、螺旋状にほどけながら、ゆっくりと海の底へ沈んでいった。
「なにをする!」
とがめるような口調でハリーが言った。だが、ヨシオは答えない。無言のまま、じっとボートのほうに目を向けている。
「なぜだ。なぜロープを捨てたんだ。いったい、どういうつもりなんだ」
ハリーが戸惑った表情でヨシオの横顔に問いかけた。しかし、やはりヨシオは答えなかった。彼はハリーを無視して、ゆっくりと格納庫のほうへ去ってゆくのであった。
ハリーは遠ざかってゆくヨシオの背中を唖然とした表情で見送っていた。
いったい、なぜヨシオはロープを捨てたのか。大五郎もハリーのよこに立ちながら、格納庫の通路の奥に消えてゆくヨシオの背中を呆然と見送っていた。
「おーい!」
大統領の声だ。大五郎は格納庫に背を向け、海に向きなおった。
「はっ、はやく! はやくたすけてくれぇーっ!」
大統領がボートにつかまったまま波に流されてゆく。しかし、大五郎たちにはどうすることもできない。大五郎たちがまごついてる間に、大統領は見る見る空母から遠ざかってゆくのだった。
「あっ、またなにかきた!」
大五郎は大統領にせまる三角形の黒い背ビレを指差した。
「まずいぞ。あれはサメだ」
ハリーが絶望的な表情でつぶやいた。
海面から突きだした三角形の黒い背ビレは、溺れる大統領のまわりをぐるぐると走りはじめた。
大五郎は「はっ」とした。もしや、ヨシオはサメの気配に気づいていたのではないか。だから、彼はロープを捨てたのだ。大五郎は、そう確信するのであった。
「あっ!」
大五郎は思わず声を上げた。大統領の姿が消えたからだ。
ボートのよこで、海面が大きな渦を巻いている。
「くわれた!」
大五郎はゴクリとつばをのんだ。
「逃した魚は大きい、か。泣けるぜ」
ため息混じりにつぶやくと、ハリーは渦に背を向けて格納庫のほうへ去っていった。
「おいらも、ひるごはんをくおう!!」
大五郎も格納庫の通路を駆け抜けて食堂に向かった。
第三話「黒い背ビレ」
おわり
太平洋、血に染めて(3)
映像特典
https://www.youtube.com/watch?v=kgh0RK6RWS8
https://www.youtube.com/watch?v=NoIff4G0XjY