ドッジボール (中)
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
# 8
「傘持った? さっき天気予報で、雨降るって言ってたよ」
玄関で母に言われた。
「そうなの? ヤフーの天気予報じゃ、くもりってなってたけど」
「知らない。あんたがそう言うならいいけど」
母は少し不機嫌そうに答えた。
「やっぱ、小さい折りたたみ傘持っていくよ」
下駄箱に常備してある傘を鞄に入れた。鞄がぎゅうぎゅうだ。
「じゃあ、行ってきます」
志波ちゃんに連れられ、ドキドキしながら、公民館の多目的室へ入る。
「おはようございまーす。皐月ちゃん連れてきましたよー」と、志波ちゃんが呼びかける。
「おっ」
長身の男性が、こちらを振り向いた。
くるくるのパーマに、面長の顔立ち、幅広の二重。
ああ。後藤さんてこの人か。文化祭か何かで会ったことあったわ。有名な俳優さんに雰囲気が似ているから、印象に残っていた。
「お久しぶりですー。団長兼演出の、後藤です。今日は来てくれてありがとうございます」
後藤さんは丁寧に挨拶する。
「こちらこそ、急にお邪魔してすみません。よろしくお願いします」
私は頭を下げた。
部屋の端に座って台本を読んでいた男性が、顔を上げた。
「中村さんじゃん」
この人はよく知っている。3個上の先輩、黒河内さんだ。
緑のキャップと、黒の細いフレームの眼鏡は、まさか学生のときと同じものなんじゃあ。逆三角の顔が、余計に強調される気がするのだが。
「よろしくお願いします」
挨拶をすると、黒河内さんは、イヤホンを片耳だけ取って「よろしくー」と言って、また台本に目を戻した。
「おはよーございます」
凛としたアニメ声が、後ろから響いた。
振り返って驚いた。声の主は、見た目もアニメから飛び出てきたかのようだった。猫耳パーカーに、音符柄のスウェットパンツ、パーカーの下のTシャツには、大きく「天使」の文字が入っている。
けれど、その格好が痛々しくないほど可愛らしい。目がくりんとしていて、本当に猫みたいだ。
「志波ちゃん、その子が、マーシャ演るって子?」
見た目とは対照的に、ニコリともせず、彼女は訊いた。
「あっはい、中村です。よろしくお願いします」
声を掛けられたのは志波ちゃんなのに、そしてまだ演ると決めた訳じゃないのに、思わず私は頭を下げた。志波ちゃんという呼び方と、予想外のタメ口に混乱する。
「ふぅん、星川ですー。よろしくー」
アニメ声だけども冷ややかな声でそう返すと、彼女は私の横を通り過ぎて、部屋の中へ入っていった。
志波ちゃんは、圧倒されている私が面白いのか、笑いを堪えるように私を見て、声を潜める。
「あの人が声優さんね。黒河内さんのひとつ上の代」
黒河内さんのひとつ上?
ってことは、30歳!?
信じられない……
「あっ、中村さん、お久しぶりです」
続いて部屋に入ってきた、黒髪ロングの女性は、私を見ると会釈した。
3つ下の後輩、田中さんだ。そうか、彼女も、もうOBなのか。私が知っている限り、サークルでは衣装担当で、舞台に載ってはいなかったが、彼女もメンバーなのか。
室内を見回すと、あとは知らない男性が2人。1人は多分30代位で、長髪を後ろで束ねている。もう1人は、このなかでは特徴の薄い、会社員風の男性。40代位だろうか。
後藤さんは部屋のドアを閉めて、みんなに呼びかけた。
「高取は遅れるとのことで、宮坂さんは今日お休みなので、ぼちぼち始めてきまーす」
宮坂さんというのは、田中さんと仲のいい宮坂さんのことかな。彼女も裏方だった筈だ。2人一緒に入団したのかもしれない。そういえば、女が足りなくて、裏方総出で出演するって話だったっけ。2人とも、元は裏方のつもりだったのかも。
それ以外はもう来ているということは、全員で9人か。思っていたより小規模だ。
「じゃあ準備体操始めるので広がってー……じゃなくて、その前に、中村さん紹介しないと」
後藤さんは、私のことを素で忘れかけていたようだ。もっと歓迎されるかと思ったのに。
「11月公演マーシャを演っていただける……で、いいのかな? の、中村さんです」
で、いいのかな? のとき、後藤さんは私の顔を伺うように覗き込んだ。
ただの見学の筈だったのに。もう私が演る方向になってしまっているじゃないか。
私は苦笑いで「よろしくお願いします」とだけ言った。
見学だけの筈だったが、体操や発声くらいは一緒にという空気だったので、久しぶりに身体を動かし、声を出す。
そして、読み合わせを最後まで通すからマーシャの箇所を読んでほしいと言われ、台本を渡される。
他のみんなは、既に台本を読み込んでいるのに、そこに初見で加わるとは。とはいっても、台詞少ないからいいか。
「あなたは……自分がどれだけ、たくさんの人を傷つけてきたか、分かってないのよ」
「俺は、人を傷つけてなんていない!」
「まだそんなことを言うのね。ねえ、この前、セナに会ったの……まだあなたのことを許せないって」
「セナ?」
「忘れたの? あなたのせいで、この町を出て行ったのよ」
「ああ。まだ子どもの頃の話じゃないか。セナもお前も、物覚えがいいもんだなあ」
「小さい頃から気が弱かったセナにとって、それだけ辛いことだったのよ」
「あーあーあー、何だよ急に。俺よりセナちゃんが大事かぁ?」
「あなたが大事だから、言ってるのに!」
「よけーなお世話だぁ! ほっといてくれ!」
「もう、あなたなんか知らない! 北の魔女にでも、呪われればいいわ!」
「いや、カイはチンピラじゃないんだから」
後藤さんの指摘で、我に返る。星川さん演じるアンナと、長髪の男性(名前は聞きそびれた)が演じるカイとのやり取りに、圧倒されていた。自分が読み合わせに参加しているということも忘れ、観客の立場で聞き入っていた。
「『あーあーあー』って威嚇するんじゃなくて、『あーあ。』くらいの感じでいけるかな。語尾も伸ばさない」
後藤さんの指示も鋭い。素人目には、完璧だと思っていた演技の、少しの粗をも見逃さない。
「じゃあ、次」
サークルのノリかと思ったら、みんな真剣そのもの。私、もしかしたら、とんでもないところに紛れ込んでしまったんじゃあ。
「私はどんくさくて何をやってもうまくいかない。小さい頃カイくんに毎日のように言われた通りだわ。学校に行けなくなって転校しても、何もかもうまくいかなかった。もう生きていてもしようがない、ん? しょうがない?」
「そうだね、しょうがないの方が自然かな」
あっ、こういう人もいるんだ。照れ隠しのように笑う田中さんを見て、私は安心した。
田中さんは、台本を読むときも、少し緊張しているようだった。私から見ても、抑揚がいま一つ足りない。
まあ、そりゃあそうだよね、もともと裏方だったんだから。
少し気が楽になる。
「うーんそうだよなあ、どの言葉が人を傷つけるか、分かったもんじゃないからなあ。そうだ! じゃあ、まずは、関わりの浅い異国人で試してみたらどうだ」
自分の台詞が近づき、そわそわしてくる。
「俺ならどうせ、どうにかして元の世界に戻ってみせるから、何を言っても怖くない。そうだろう?」
“カイ”は、長台詞も難なくこなす。
「身近なお兄さんやおばあさんならともかく、俺がどう思うかなんて気にすることないじゃないか。俺はすぐに元の世界に戻って、君のことなんて忘れてやるよ」
もうすぐだ。
「だから怖がらないで、君の声を聞かせて」
つぎだ。
「これが私の声よ」
うまくやれているだろうか? 不安そうに周りを見ると、“カイ”が、本当に数年振りに声を発した少女を励ますような笑顔で、親指を立ててくれた。
「おつかれさまでした。今日は、ありがとうございました」
「おつかれさまー。どう、乗ってくれる気になった?」
帰り際に挨拶をすると、後藤さんにそう返された。
「えっと……仕事で、稽古もあんまり来られないですし……」
「いーのいーの、何とかなるって」と後藤さん。
「そうそう、気楽に来てくれればさ」
志波ちゃんが肩をポンと叩く。
私は困ったように笑って、首を縦にも横にも振らなかった。
でも、気持ちはもう決まっていた。
# 9
自分の台詞が少ないからといって、台本を読まなくていいという訳ではない。
他の役がどんな掛け合いをし、そのなかで自分がどのような気持ちで、どう振舞うのか。それ以外にも、例えばカイは、マーシャと出会うまで、どんな経験をし、何を考えて生きてきたのか。ひとつひとつの台詞を読み解き、想像した。
それに、そんなことを抜きにしても、この台本は読み物としてもおもしろい。ただのファンタジーかと思っていたが、メッセージ性が強く出ている。
思ったことを何でも口にして、周りの人を傷つけてきたカイ。大人になって初めて、自分の言葉が周りの人、さらには恋人までをも傷つけていたことを知る。そんな彼に魔女が呪いをかけ、見知らぬ異世界へと飛ばす。そこで出会ったのが、人を傷付けるのを怖れて声を発せなくなってしまった少女、マーシャだ。マーシャは、裏表のないカイに勇気付けられ、声を取り戻す。そして、カイは、マーシャから、呪いを解くヒントを教わる。無事に元の世界に戻ったカイは、いままでの行いを皆に詫び、恋人と永遠に結ばれる……。
これが、現実世界の会社やら学校やらを舞台にした話だったら、とても見ちゃいられなかっただろう。
さて、そろそろ用意しないと。
時計を見て、現実世界に戻る。今日は、15:00からのシフトだ。
「ここのところ、休みないねえ」
出かけようとすると、玄関まで見送ってくれた母が、責めるような口調で言った。
休みがないように見えるのは、稽古の日に、仕事だと言って出てきたからだ。
「人足りないから、しょうがないよ」私は答える。
「そんなに忙しいんだ。……ねえ皐月ちゃん、本当にいまの仕事でいいの?」
「何言ってるの。もう、行くね」
私は苦笑して、家を出た。
店に着くと、谷店長がコーヒーメーカーの掃除をしていた。
またか。挨拶をしながら、笑いそうになった。谷店長は暇さえあれば、コーヒーメーカーの手入れをしていて、店員の間でもよく話題になっている。
谷店長は、東京にカフェを開くのが夢で、東北から上京してきたそうだ。その筈が、紆余曲折あって、いまの仕事に落ち着いている。カフェを開く夢は諦めたものの、イートイン付きの店内で、ゆっくりくつろげる空間を作りたいとか。
まあ、駅前の回転率の高いこの店じゃ無理があるだろうし、おまけに隣には、有名チェーンのカフェがある。身の程をわきまえてもらいたい。
バックヤードに入ると、奥の事務所にオーナーがいた。机に向かう、黒いスーツと、ウェーブのかかった髪型。後ろ姿でも誰だか分かる。
ちょうどいい。どちらに先に話すか、悩まなくて済む。舞台に出るなら、公演当日の2日間の休みは確保しないといけない。週1回の稽古の日も、毎回とはいかなくても、なるべく休みを貰いたい。これを上司に言わない訳にはいかない。
正直、実際のシフトを作っている店長に言うのは気が引けるが、オーナーなら、芸人志望の盛田くんみたいに、夢を追ってアルバイトをしている人たちに理解があるし、多少は言いやすい。その後、オーナーの前で店長に話せば角が立たなそう。
「おはようございます」
「おっ。おはよう。今日はこの時間か」オーナーは振り返って答えた。お店のコンピュータも、オーナーのノートPCもロック画面のまま、机の上には業界雑誌を広げている。いまなら話しかけてもよさそうだ。
「あの、オーナー、少しだけご相談が……」
私は手短に経緯を話した。
「……と、いう訳で、なるべく仕事に支障が出ないようにはしますので……」
「いいじゃん、頑張ってね」
オーナーの返事は、あっさりしていた。
「11月の、26と27だね」オーナーは、手帳に書き込みながら続けた。
「俺も観に行っていいの?」
「ええっ、それは……」
私は慌てて両手を前にかざした。オーナーは、はははと笑った。
「その後も、練習とか続けるの?」
「いや、今回限りのピンチヒッターです」
そう即答した直後、自分でも心配になった。大丈夫だよね? 次も出てなんて言われないよねえ。
「谷には言った?」
「いや、これから……」と言いかけた瞬間、店長が事務所に入ってきた。ちょうどいいタイミングだ。
店長へ同じ話をすると、オーナーは、「応援してあげて」と続けてくれた。
# 10
「じゃあ、今日団長から告知するね」
志波ちゃんからのメッセージに、パンダが「お願いします!」と言っているスタンプを返す。
志波ちゃんとのやり取りはLINEに変わっていた。今日の稽古の後、ゆーとぴあのグループLINEも教えてくれるという。
「中村さんが、正式に11月公演に出てくださることに決まりましたー!」
稽古の最初、みんなの前に立って、改めて紹介を受ける。紹介する後藤さんは、ちょっとテンション高め。
やったー、と声をあげたのは、カイ役の朝倉さん(LINE見て名前覚えた)だ。他のみんなも拍手をしてくれた。私は少し安堵した。
体操と発声が終わり、5分後に稽古開始。今日から立ち稽古だ。
男性たちは喋りながら椅子を運んでいる。手伝おうと思ったが、それほどの数ではない。田中さんと宮坂さんは、スマホを見ながら2人で盛り上がっている。ちなみに、やっぱり宮坂さんは田中さんと仲のいい宮坂さんで間違いなかった。
志波ちゃんは飲み物を買いに行っている。
私は手持ち無沙汰なまま、体育座りをしている。
隣では、星川さんが、同じく床に座って、台本を眺めている。今日は骸骨というか、胸の辺りに人の肋骨の絵が書いてあるTシャツに、左右で色の違うサルエルパンツだ。
「あっ、改めて、今日からよろしくお願いします」おそるおそる、星川さんに話し掛ける。
「いいえー、こちらこそ」
冷ややかなアニメ声で、星川さんは答える。
「なかなか、仕事とかで来られないときもあるんですけど、頑張ります」
「忙しいんだー。お仕事は何してるの?」
これはなるべく答えたくない質問だ。相手がうちの大学の人なら尚更。自分から「仕事」というワードを出しておいて言うのもなんだが。
私は苦笑混じりに答えた。
「コンビニ店員です。うちの大学出てコンビニかよって感じですけどね」
「コンビニかよ、って……私もコンビニ店員だけどね」
あっ……。
ていうか、星川さん、声優さんが本業な訳じゃないのか。まあ、そうか。そうだよね。ていうかやばい、この空気なんとかしないと。私はつとめて明るい声を出す。
「そうなんですねー! 同業だったんですね! 私ネイバーマートなんですけど、星川さんはどこのチェーンですか?」
「ウェルカム」
あっ、ネイバーマートが買収したところだ……。
そこに稽古開始の声が掛かったのが救いだった。
「もう、生きていてもしょうがない」
多目的室の前半分、舞台に見立てたスペースの真ん中、田中さん演じるセナが、椅子の上に立つ。本番では、上からロープが吊るされている設定だ。
「やめろ! やめるんだ!……くそっ!」
“カイ”は必死に止めようとするが、身体が動かない。迫真のパントマイムだ。
「はい、暗転」と後藤さん。
田中さんは、椅子から下りると、思い切り椅子を蹴飛ばす。そして、転げた椅子をそっと抱えて“舞台袖”にハケる。
カイが1人、舞台に残る。
「くそっ、俺はただ、口にしただけだ……思ったことを……」
上手側を向いて、カイは両手を床につき、がっくりと項垂れる。彼の正面から、“魔女”がゆっくりと近づき、彼の首筋に触れる。
「誰だっ!」カイは弾かれたように立ち上がる。
「やっと分かったか、自分のしたことが」
「誰だアンタ……まさか、アンタが北の魔女か?」
「北の魔女? 好き勝手呼んでくれるわ。人間なんて所詮、自分のことしか考えないんだからなあ」
「そうか、分かったぞ! いまのもアンタが見せた幻だな?」
「幻だって? 自分の行いの結果が、まだ分からないか」
「俺は何も悪い事なんかしちゃいない……何も……」
じりじりと後退りするカイを追い詰めるように、魔女はカイとの距離を詰めていく。オーラを纏ったような迫力を、志波ちゃんから感じる。
志波ちゃんは、すごいなあ。
ふと隣を見ると、田中さんが私と同じ顔をして、志波ちゃんを見つめていた。
「つぎは、48ページ、カイとマーシャのところから」
前半の見せ場といえるシーンを終えたと思ったら、随分と先に飛ぶ。油断していた。今日のうちに、私の喋るシーンまで行くと思っていなかった。
私は、カイと一緒に、舞台に立つ。
目の前に、パイプ椅子に座った後藤さんがいる。
後藤さんの合図で、芝居が始まる。しばらくはカイの台詞が続く。自分の台詞が近づくほど、鼓動が速くなる。
「俺はすぐに元の世界に戻って、君のことなんて忘れてやるよ。だから怖がらないで、君の声を聞かせて」
「…………これが、私の声よ」
本当に、数年振りの声を確かめるように、台詞を絞り出した。うまく伝わっているだろうか。
「きれいな声だ」
「ありがとう」
「なあ、マーシャ、このきれいな声を、他の人に聞かせないとは勿体ない! お兄さんたちのところへ行こう! いますぐに」
カイに手を引かれ、“舞台袖”までハケたところで、後藤さんの指摘が入る。
「中村さん、『これが私の声よ』は、間を空け過ぎだな。数年間溜めていた言葉が、堰を切ったように溢れ出てくる、そんなイメージかなー」
演出としての指示。ついさっきは、ハイテンションで私の参加を歓迎してくれていたのに、芝居のこととなると、扱いは他の団員と同じだ。
馴れ合いのサークルとは違うんだ。
けれど、台本読んだときの自分のイメージと違う。それに、読み合わせのときは、何も言われなかったのに……。
「分かりました」
「じゃあもう1回いまのところから……」
稽古は続く。
足を引っ張らないようにしないと。
# 11
稽古の後、どうやら恒例らしい飲み会に付き合ったはいいが、抜け出すタイミングを逃してしまった。大人しく下座側の端っこに座ったのに、わざわざ後藤さんが隣に来て、終わらない演劇トークを繰り広げたからだ。
結局、終電の時間を過ぎてしまった。
「こんなこともあろうかと、今日は車なんだ」と言う志波ちゃんに甘えさせてもらうことにした。あ、志波ちゃんは飲んでないよ。
「大丈夫、引いてない?」夜遅くの、空いている道路を走らせながら、志波ちゃんが尋ねる。
「なにが?」と私。
「すごかったでしょ、飲み会。特に団長」
「ああ……。でも、楽しそうでいいなって思った」
「そっか。皐月ちゃん、サークルでもあんまり飲み会とか来なかったから、ああいうの苦手かなって思って」
「そんなことないよ」
信号待ちで、車は停まった。私たちの会話も停まった。
その沈黙を破るように、着信音が鳴った。志波ちゃんはポケットからスマホを出すと、訝しげに見つめた。
「……出ないの?」
信号待ちとはいえ、運転中の通話を勧めるのもよろしくないかなと思いつつ、私に気を遣う必要はないと伝えたくてそう言った。
「あー……」
志波ちゃんは、面倒臭そうに唸りながら、スマホを耳に当てる。
電話の向こうから聞こえてくる声は、若い男の人のようだ。
「はあ? いまは無理」と志波ちゃんは気だるそうに答える。
何だろう。もしかして私、邪魔しちゃってる?
「は? いま何時だよ。いまどこ」
「……なんでそんなとこいるんだよ」
「ばかじゃねえの」
うわー、志波ちゃん、結構キツイこと言う。それとも、それだけ言える仲の相手かしら。私は少し居心地の悪さを感じた。
「いや、私いま友だち送ってるところなんだから」
あ、それ、私のことだよね? やっぱり、邪魔しちゃってる?
「いや、いまは……」
信号が青になっても、志波ちゃんは、そのまま話し続ける。
おいおい、事故らないでよ。でも、出るよう促したのは私か。
「ちょっと待って」
志波ちゃんは、携帯を置いて私に話しかける。
「あのさ……ほんっと申し訳ないんだけどさ……」
うんうん。大丈夫。私のことはここで置いてっていいから。彼のこと優先してあげて。私はもう首を縦に振りかけていた。
「うちの馬鹿な弟がね」
え、弟?
「いま常葉園にいてね」
なんと、私の地元に。
「終電逃したって言っててね」
ああ、終電早いからね。
「迎えに来てくれって言われてね……拾ってってもいい?」
ああ、もちろん。私の家は常葉園駅の北側にある。ここから私の家に向かって、さらに北にある志波ちゃんの家に向かうなら、それが自然だ。
「全然大丈夫。だって通り道だし。素通りする方がおかしいし」
「ほんっとごめんね」志波ちゃんはそう言うと、スマホを口元に持ってきて「ヒロキ、そこで待ってろ」とだけ答えた。
「姉貴ー! 待ってたよー!」
駅前のロータリーに車を停めると、志波ちゃんの弟さんは早速、車に飛び込んできた。
「ちょっと!」志波ちゃんは、お姉さんらしくたしなめる。
「まずは、心の広ーいお友だちが、お前も乗っていいよって言ってくれたんだから、挨拶しな」
え、私?
助手席から振り返ると、彼は笑顔で答えた。
「志波大貴です。いつも姉がお世話になってます。今日はお二人のところ、お邪魔してすみません」
志波ちゃんへの態度とは打って変わって、礼儀正しい挨拶に恐縮する。
こっちが却って口ごもってしまい、「いや、こちらこそ……」とごにょごにょと言葉を濁してしまった。
さすがは志波ちゃんの弟だ。大きな瞳に高い鼻。髪形は、パーマなのかワックスなのか、ふわっとした毛束がいろんな方向を向いている。典型的なイケメンだ。
「お友だちってことは、もしかして姉貴と同い歳ですか?」と、大貴くんは続ける。
私は、戻しかけてた首をまた後ろに向ける。
「はい、そうですけど……」
「えー! お綺麗なので、もっとお若いのかと思いました」
突然のおべんちゃらに困惑していると
「ばか、お前、ねーちゃんの友だちまでナンパするんじゃないよ」と志波ちゃんが一蹴した。
「いやー、でも運命感じちゃって。姉貴呼んだら、こんな美女が一緒にいるなんて」
ちょっと待って。美女って私のこと!?
「今日も、こんなところまで女の子送ってって、ワンチャンあるかと思ってたのに、部屋にもあげてくれなかったんだよ? で、駅戻ったら電車ないしー」
うわー。本当にそういう男の人いるんだ。
「大貴、いいかげんにしろ。毎週毎週、遊び歩きやがって」
「いーじゃん。こんな遊び歩けるなんて、人生でいまだけだよ」
「うっせ、口答えすんな」
「ねえ、いくら弟だからって、この人ひどくないですかあ?」大貴くんは、私の座っているシートに両手をかけて言った。
こういうときは、大貴くんに合わせて軽くノッておくべきか、志波ちゃんに合わせて叱っておくべきか。迷っていると、志波ちゃんが
「皐月ちゃん、無視していいよ」と言い放つ。
うーん、確かに志波ちゃんも、ちょっとキツいなあ。けど兄弟って、そんなもんなのかなあ。
そうこうしているうちに、車は家の前に着いた。
「え、皐月さん、もう帰っちゃうんですか」
大貴くんは、いつの間にか私の名前を覚えていた。
「う、うん」何と返していいか分からず、私はぎこちなく頷いた。
「もっとお話ししたかったのに。そうだ、LINE教えてくださいよ」
「大貴っ!」すかさず志波ちゃんが大貴くんを睨みつける。そして、私に向かって笑顔で手を振った。
「ほんとごめんね。また今度の稽古で」
「う、うん。おつかれさまっ」
私は車を降りた。振りかえると、大貴くんが、車の中から手を振っていた。
別にLINEくらいよかったのに……。
「って、何考えてるの、私」
3日後。
仕事を終えると、見覚えのないアカウントから、LINEのメッセージが届いていた。
名前は「ひろたん」。うそでしょ、と思いながらトーク画面を開く。
「姉貴のスマホ、侵入成功! 笑」
「サツキさんですよね。先日お会いした志波大貴です! よろしくです」
驚いたというか、呆れたというか。
さて、何て返そうかな。考える私の口元は多分、少しにやけていたと思う。
# 12
仕事を終え、食事を取って帰ると、夜10時近くになっていた。大貴くんにLINEを返して、ゆーとぴあのLINEの未読を消化して、お風呂に入って、髪を乾かすと、もう11時半。
それでも、寝る前に少し台本を読んでおきたい。本当は、今日は稽古の日だった。毎週休みをもらうわけにもいかず参加できなかったが、遅れは取り戻したい。
後藤さんから指示があった箇所を振り返る。
やっぱり、自分としては納得できない。
マーシャは、数年間、声を発することができなかったんだ。
見ず知らずの青年に心を開いたとしても、「君の声が聞きたい」の一言で、堰を切ったように言葉が溢れ出す筈がない。迷い、戸惑いがあって、それでも勇気を出して振り絞った一言が、この台詞じゃないのだろうか。
それまでのマーシャのシーンを読み返す。マーシャは何を考えて生きてきたのだろう。
台詞がない分、推測で補うしかない。
そんなことを考えながら台本を読んでいたら、なんと1時を過ぎていた。
翌朝。
ほんの一駅の移動の間にまどろみかけ、慌てて電車を降りる。
店に入ってから、気がついた。今日は日曜日。店長は休みだ。精算も弁当の発注もすべて自分でやらないといけない。上司がいないのはある意味気楽だが、仕事量が大違いだ。
昨日夜更かししている場合じゃなかったよ。
その日の仕事は散々だった。
精算は、1万円金額が足りなくて、散々紙幣を数え直したのだが、原因は自分の単純な足し算の間違いだった。
そこに時間を取られたせいで発注がまったく進まないまま、昼間のラッシュ、交代での休憩、弁当の納品の時間がバタバタと過ぎていく。それが終わると、15時からは、勤務3回目の新人がシフトに入る。人員的に、ずっと新人につきっきりという訳にもいかず、レジの回転も遅くなる……。
「勤務時間」の終わった18時、絶望的な気持ちで発注端末を起動させた。
20時半。駅に着いたが一本前の電車にはギリギリ間に合わず、次の電車は15分待ちだった。これならもう少し職場でゆっくりしてくればよかった。いや、何か起きて帰れなくなるくらいなら、駅で待った方がいいか。
しーんとした待合室に入る。LINEを開くと、ゆーとぴあの未読が溜まっていた。ぼんやりと画面を眺めていると、その間にも未読は増えて行く。多分、稽古の動画が上がったんだろうな。
そちらは開かずに、その下の、大貴くんからのメッセージを開いた。
「やば。起きたら昼だった」
「皐月さんは今日もお仕事ですか? がんばってー」
その後に、パンダが両手をあげて応援しているスタンプが続く。
「仕事やっと終わったよー」
とだけ返した。
すぐに既読がつくときもあるが、今日はそうではなかった。LINEを閉じて、返信を待つ。
どういうつもりか分からないが、「ひろたん」の突然のLINEから数日、こんなやり取りが続いていた。なんてことない、日常のやり取り。
どうせ相手は、出会う女の子に片っ端から声を掛けているに違いない。それでも、自分が「女の子」の範囲に収まっているなら、悪い気はしない。
そういえば。前に付き合っていた人とも、最初はそんなノリだったなあ。
ゼミの追いコンで、それまでほとんど関わったことのない後輩と隣になって、Facebookを交換した。それ以来、写真を上げれば「かわいい」とコメントされ、軽い人なのかと思いきや、仕事の悩みを書いたら、メッセージで相談に乗ってくれたり。はじめて遊びに誘われたときは、冗談かと思ったけど、会う回数を重ねるごとに、好かれていると確信することができた。
何回目かのデートで告白され、1年ちょっと付き合ったけど、自分が相手に依存してしまって、終了。
思えば、あのときから、好きなタイプは変わってないのかもしれない。
さすがに、何があっても志波ちゃんの弟とどうこうなることはないけれど。
「お疲れさまですー
今日はシフト長かったんですね」
スマホを見ると、返信が来ていた。
「シフトは18時までだったけど、要領悪くて仕事終わらんかった」
そう返すと、すぐに返信が来た。
「それは大変ですね。でも残業代がっぽりですね(笑)」
ああ。
大貴くんは大学4年生。そりゃそう思うよね。
「『管理職』だから残業代はつかないんだ。でも、私が要領悪いだけだから」
「うわー、ブラックですね。。。」
「うん。。。まあマネージャーだし」
「うーん、皐月さんは、今の仕事でいいんですか?」
唐突な質問にドキッとした。親に訊かれることはあっても、それ以外の人に問われるとは。
「あら、こう見えてこの仕事、結構やりがいあるのよ(笑)」
なんて返そうか少し迷った結果、冗談っぽく答えた。
「えー、それ、役割とかやりがいとか言って、まんまと乗せられてるだけじゃないですか」
みぞおちの辺りが、熱い空気が送り込まれたように、かあっとなった。
でも、その通りだ。
「そうね。だから私も、いつでも抜け出せる準備はしてるんだ」
電車が来る。
台本やLINEを見ている時間が長くなって、つい後回しにしていたテキストを、そろそろ開かないといけないな。
そう思いながら、待合室を後にした。
# 13
仕事の日、いつもはワイシャツの上に、ジャケットやパーカーなどの上着を羽織り、店に着くと上着を脱いで、ワイシャツの上に制服を着る。仕事を終えると、反対に制服を上着に替えて、行きと同じ格好で帰る。下は1日中スラックス。
けれども今日は、仕事が終わったら着替えるためのTシャツとジーパンを用意してきた。
今日は、待ち遠しかった、2週間ぶりの稽古参加だ。
かなり時間に余裕のある電車に乗り、スマホを開くと、志波ちゃんからLINEが入っていた。
「今日は稽古だよね。おつかれさま~
私は友だちの結婚式で行かれないけど、よろしくね!
あ、団長には連絡済です」
その後に、なぜか知らない新郎新婦の写真が添付されていた。
そうか、今日は、志波ちゃんは来ないのか。何となく心細い。
いやいや、稽古することに変わりはないんだから、がんばらなきゃ。
そう思った瞬間、ハッとした。慌てて鞄の中を探る。
探したって、ある訳がなかった。2、3日前に読み返してから、机の上に置いたままだったのだから。台本は。
やってしまった。仕事の後に稽古に行くのは分かっていて、着替えを持ってくることは忘れなかったのに、「台本を忘れないようにしなきゃいけない」ことに結びつかなかった。
どうしよう。家に取りに戻るだけの時間はある。
でも、今日は朝から夜遅くまで仕事をしていることになっている。親が家にいる限り、取りに戻るという選択肢は、私にはない。
せめて志波ちゃんがいてくれたらなあ。
いっそ仕事が延びたとか言って、休んでしまおうか。
どうしようか考えているうちにも、電車は進んでいった。
稽古場に着くまでに考えた最善策は、誰か最初に会った人に、台本を借りて、公民館のコピー機でこっそりコピーさせてもらうことだった。いっそ、グループLINEでおおっぴらに言ってしまって、誰かに助けてもらおうかとも思ったけど、やっぱり気が引けた。
乗り換えの駅で少し時間調整して、公民館に着いたのは、稽古開始20分前。誰が来ているだろう。
多目的室のドアを開けると、いたのは星川さん1人。他に誰もいない部屋で、白い脚を晒して、ジャージを履こうとしているところだった。
「あっ……すみませんっ!」
慌ててドアを閉めかけたが、
「いーのいーの、上にスカート履いてるから」と星川さんが止めた。
けれど、そのスカートだって、どこかの女子高生並みの短さだ。私は目をそらしながら、部屋に入った。
部屋の隅に荷物を置き、横目で星川さんの方を見る。着替えは終わったようだ。今日は、セーラー服みたいなパーカーに、下は星柄のジャージ。
星川さんとは、この前のこともあって、余計に気まずい。ましてや、台本のコピーなんて頼みづらい。
でも、星川さんには何も言わないで、この後来た人に頼みごとをするのも、それはそれで失礼な気がする。思い切ってお願いしてみることにした。
「――は? 台本忘れた?」
「すみません……」
「何しに来たの?」
「すみません、仕事場から直接来たもので……」
「私もさっきまでそこのコンビニで働いてたけどねー」
うっ……。
結局、渋々という感じで、台本を貸してもらえた。変な折り癖がつかないよう、慎重にコピーを取る。
星川さん演じるアンナの役名には、ピンクのマーカーで印しがしてあり、余白には鉛筆で細かい指示が書き込まれている。
すごい。やっぱり声優さんなだけあって、意気込みが違う。それに比べて私は、何をやっているんだろう。本当に、こんな人たちと一緒に舞台に乗っていいのだろうか。
そんなことを考えながら、コピーを続けるが、マーシャの登場するシーンを目にした瞬間、手が止まった。
マーシャの役名には、黄色のマーカーが引いてあった。その上の余白には、同じく鉛筆での書き込み。
登場人物みんなの動きを細かく把握しているのだろうか。そうではない。他のキャラクターの箇所は真っ白だ。
台本を最後のページまでめくる。最後まで、アンナにはピンク色、マーシャには黄色のマーカーがしてある。
そして、2つの役は、舞台上で一時も交わらない。ピンクのマーカーが続いた後に、しばらく主人公と魔女のシーン。そして、黄色のマーカーが続いた後に、主人公と友人のシーン。その後に、主人公とアンナが結ばれるシーン。
ヒロインと、他の役の、一人二役。普通ならあり得ないことだが、役者が足りないこの状況だ。
アンナ役の星川さんなら、物理的に可能なはずだ。
もちろん、能力的にも。
きっと、私が来なくても、舞台は成り立っていたんだ。
「君の声が聞きt……」
「これが私の声よ」
台詞を発してから、しまったと思った。朝倉さんも、一瞬びっくりして素の顔に戻った。
けれども演出の指示があるまで芝居は終わらない。カイは台詞を続ける。
「きれいな声だ」
「ありがとう」
ちっとも感謝の気持ちなんてこもっていなかったと思う。
「なあ、マーシャ、このきれいな声を、他の人に聞かせないとは勿体ない! お兄さんたちのところへ行こう! いますぐに」
舞台袖にハケるなり、後藤さんは苦笑交じりに言った。
「中村さーん、いまのはさすがに早すぎるよぉー」
「すみません」
私は眉間に皺を寄せて、申し訳なさそうな顔を作った。身体がカーッと熱くなり、うっすらと汗ばむ。
「じゃ、もう1回、いまのとこ」
「はい……」
「ああ、戻ったのね! カイ……! 会いたかった……」
星川さんの声は、凛として美しい。
声だけでなくて、身のこなしも。両手を大きく広げて、全身で喜びを表現する。
本当に、好きな人と再会を果たした少女のような、幸せに溢れる表情。
「うん。もう、あんまり言うことないなあ」後藤さんは、くしゃくしゃの頭を掻きむしりながら笑った。
私は、体育座りをしながら、それを眺める。
田中さんと宮坂さんが、台本を見ながら、ヒソヒソと話している。
私は居心地の悪さを感じた。今日は調子が悪い。早く今日の稽古の時間が終わってほしかった。
「中村さん、来週また来られないなら、最後にもう1回48ページやっとこうか」
来週また来られないなら。その言葉に、心なしか刺を感じた。毎回来られなくてもいいって言ったのは、そっちなのに。
すでにあちこちのシーンで動きまわっていた朝倉さんも、一瞬、不機嫌そうな顔を見せた。けど、定位置に着くと、役の顔になって、長い台詞を言いはじめた。
ごめんなさい。私のせいで同じところばかりやらせてしまって。
「……俺はすぐに元の世界に戻って、君のことなんて忘れてやるよ」
もうすぐだ。間を空け過ぎず――
「だから怖がらないで」
――けど食い気味にならないように……
「君の声を聞かせて」
…………
しまった。
身構え過ぎて、声が出てこない。
朝倉さんも、後藤さんも、こっちを見ている。
ああもう駄目だ。ここは思い切り頭を下げるか、笑ってごまかすか……
そう思った瞬間。
「これが私の声よ」
左から、凛とした声が響いた。
星川さんだった。
私もみんなも、彼女を見た。
「ごめんなさい、つい」
星川さんは、笑って首を傾げた。
つぎまでには何とかしてきます。その私の言葉に、後藤さんも、もう一度やり直そうとは言わなかった。
もういいや。稽古が終わると、誰とも目を合わせずに、足早にその場を去った。
駅からの人の流れと逆方向に、周りにぶつからないよう気をつけながら、帰りを急いだ。
# 14
店員のプライベートに何があっても、コンビニは24時間365日営業している。
今回はそれが逆に助かる。昨日の出来事を忘れられるようにと、仕事に没頭した。
今日は調子が良い。弁当類の検品と品出しもスムーズに終わったし、スタッフの休憩も遅れなく回せた。
店長は私がテキパキ動くので安心したのか、レジに入りながら、ずっとコーヒーメーカーを掃除していた。
無事1日が終わって帰ろうとしたとき、店長に呼び止められた。
店長は、声を潜めて言った。
「盛田くんが、九州のご実家に帰るとかで、再来週で辞めることになった」
「えっ」
それは困った。真っ先に心配したのは、土日のシフトだった。盛田くんがいるから、土日を任せて自分も稽古に行けたのに。
「まだみんなには言ってないけど、そういう状況だってことは一応知っといて」
いや。
もうそれも気にしなくていいのか。むしろ丁度いい。
「あの、実は今日ご報告しようと思ってたんですけど……」
「何?」
「先日お話しした、舞台に出るって話、なくなったんです」
「本当?」心なしか少し嬉しそうに、店長は聞き返す。
「うまく一人二役で回せそうってことで、私が出なくても済んだので。なので、次から土日どんどん入れてください」
「大丈夫? 無理してない?」あまりのタイミングの良さに、店長も心配気味のようだ。
「大丈夫ですよ」私は笑って答えた。「最初から、今日その話しようと思ってたんです」
「そっか。助かるよ」
翌日、盛田くんとシフトが一緒で、上がりの時間も一緒だった。
素知らぬふりをしていたら、本人の方から報告があった。
「相方が、彼女に子どもできたって言うんですよ」
そうだったのか。そういえば、本人から話を聞くまで、シフトの心配ばかりで、盛田くんの事情には考えが及んでいなかったことに気付いた。申し訳なさから、もう少し話を聞いてみることにした。
「九州に戻って、どうするの?」
「実家の農家手伝います。僕、次男坊なんですけど、兄貴の方は会社でうまくいってるみたいなんで」
「もう、お笑いはしないの? ピンでやったりとかは」
「僕、もともと、相方に誘われてお笑い始めたんですよ。相方が辞めるってなったときに、自分1人でとか、他の相方探してまでとか、そういう気になれなかったんですよね」
「そっかー」
「結局、お笑いやってたのも、自分の意志じゃなかったんだなって」
「……そっか」
さて。何て言おう。
出演を断るなら、早めがいいと分かってはいるものの、気が重い。
正直、志波ちゃんには、言い出しづらい。せっかく誘ってくれた志波ちゃんに対して、申し訳なさすぎる。いや、それ以上に、私が辞めると言ったときの、志波ちゃんのリアクションを見るのが怖い。
志波ちゃんは優しいから、もしかしたら、無理に誘ってごめんね、なんて声を掛けてくれるかもしれない。そうしたら、ますます居たたまれなくなる。志波ちゃんは悪くない。悪いのは私だ。実力もないのに、妙にプライドだけ高くて、そのくせ自分がない。
それに。そもそも志波ちゃんは、前回の稽古に来ていない。どんな様子だったか、見ていない。
あの現場を見ていれば、私が辞めると言い出しても納得できるだろう。だからといって、何も知らないでいた志波ちゃんに、自分の醜態を事細かに説明したくはない。
直接後藤さんに言ってしまった方が、気楽かもしれない。
方便ならできたばかりだ。仕事で人が足りないと言えばいい。
――などと考えているうちに、3日が経ってしまった。
今日こそは連絡しないといけない、そう思った仕事帰り、スマホを開くと、大貴くんからのLINEに交じって、後藤さんからLINEが来ていた。
「中村さん、最近ゆーとぴあのLINEあんまり見てないみたいだけど、忙しいのかな?
この間はつい熱くなってしまって、いろいろ言ってしまいました。僕の悪い癖です。
そだ、知らないかもしれないけど、安西さんって女優さんが、同じように、喋れん役やってて、ブログにいろいろ書いてたから、よかったら参考にしてください」
その後に、ブログのURLが貼ってあった。
リンクは開かずに、文章を打ちはじめた。
「LINEありがとうございます。
でも、せっかくブログとかも教えてくれたのにすみません。実はここ数日、職場とも相談していたのですが、退職者が出たため、休みを取って稽古に出続けるのが、かなり厳しい状況です。
自分のレベルで、ろくに稽古も出られないのに舞台に乗るのは、失礼と思っています。一度やると答えてしまったのに大変申し訳ないのですが、今回の件は、辞退させてください。
よろしくお願いいたします」
3回読み直して、送信した。すぐに既読がつく。
でも、返事はなかなか来ない。
私は何を期待しているんだろう。本番当日出られなくなったとか何とか、もっと決定的な理由で断ればいいものを。引き止められるとでも思っているのだろうか。
家に着いて、スマホを見ると、返信が来ていた。
「お仕事、大変なんですね。ご無理言ってすみません。
ただし、『自分のレベルで』と言われるのは心外です。皆中村さんに期待しているし、頼りにしてます。
日程的な面がご不安ということであれば、極力調整したいと思っています。中村さんが平日の方が都合よければ、平日稽古に出られるメンバーもおりますし。
どうにか、考えてもらえませんか」
後藤さん、自分で言った通り、熱い人なんだな。
期待されても、頼りにされても、自分の都合に合わせられても、尚更困る。そうじゃない。言いようのない不快感で、そのままスマホを投げ捨ててしまいたい衝動に駆られた。
やっとの思いで、丁寧な断りの文章を送った。
しばらくして、残念だが了承した旨の返事が来た。
私は、ふーっと、長い溜息をついた。
例えば、落とさないように、落とさないようにと気を張り詰めながら運んでいたグラスを、落としてしまった瞬間。
例えば、走って、走って、あと少しだけ急げばギリギリ間に合いそうな電車が、出発してしまった瞬間。
もうこれ以上、気を張らなくていい。急がなくていい。頑張らなくていい。そんな、諦めるときの快感。
保険の仕事を辞めたときもそうだった。
支店長の、残念そうな顔を思い出す。
不思議と、申し訳なさはなかった。私が辞めた方がみんなの為になる。むしろ私は、善いことをした。そう確信していたのだった。
~ドッジボール(下)に続く~
ドッジボール (中)
2017.4.16 表記の揺れ、矛盾点等を一部修正しました。