太平洋、血に染めて(4)

太平洋、血に染めて(4)

 
 
 

         第四話「トリトン」

         第四話「トリトン」

「おい、あれを見ろ!」
 舳先(へさき)のほうで、だれかが叫んだ。艦首右舷(うげん)船縁(ふなべり)でヨシオと一緒に海を眺めていた大五郎は声にふり向き、男の指差すほうを見やった。空母のおよそ三百メートルほど前方に、赤い、大きな柿の種のようなものが浮かんでいる。
「あかいクジラだ!」
 赤い物体を指差しながら大五郎は叫んだ。
「いや、あれは軍艦だ」
 静かな口調でヨシオが言った。
「でも、たいほーがついてないよ?」
「ひっくり返ってるから見えないのさ」
 そうつぶやくと、ヨシオはゆっくりと舳先のほうへ歩きはじめた。大五郎も、ヨシオのうしろをついて行った。
 カタパルトオフィサーのイエロージャケット、そして、おなじくカタパルトオフィサーのヘルメット。しかし、この空母の乗組員でヨシオのことを知る者は、ひとりもいない。いったい、ヨシオは何者なのか。ヨシオは、なぜそんな格好をしているのか。大五郎は不思議そうにヨシオの背中を見つめながら思うのだった。
 舳先に立つと、ヨシオは腕組みをして軍艦の赤い船底をにらみつけた。転覆している軍艦の全長は、海面に出ている部分だけでもこの空母の三分の一ぐらいはありそうだ。ヨシオのよこに立ちながら、大五郎はそう思った。
「まずいぞ。このままじゃあ、ぶつかっちまう!」
 空母の乗組員らしき男がうろたえている。舳先のほうに、野次馬たちがぞろぞろと集まりはじめた。
「おお、あれは!」
 うしろのほうから強引に人混みをかき分けるようにして長老がやってきた。
「シーサーペントじゃ!」
 長老は大五郎のよこに立つと、赤い船底を杖で指示しながら叫んだ。
 転覆した軍艦のそばに、大きな黒い影が浮かんでくる。
「モーガウル……いや、チェッシーか」
 差し迫った表情で長老がなにかつぶやいた。ハゲた頭頂部を汗できらきらと輝かせ、カッと見開いた眼は血走り、まるで生まれたての仔馬のようにガクガクブルブル震えている。この老人は、その名の通り、以前は小さな村の長老だったのだ。中東の、小さな村だ。しかし、その村はもう存在しない。世界は核の炎で焼き尽くされ、長老の村も消滅してしまったのだ。
「む!」
 ヨシオのメガネが強く光った。
「あっ!」
 指差しながら、大五郎も声を上げた。現れたのはシーサーペントなどではない。いつぞやのクジラだった。クジラは潮を噴きながら、軍艦のまわりをゆっくりと泳ぎはじめた。いったい、これからなにがはじまるのだろうか。ヨシオのズボンを右手でぎゅっとにぎりしめながら、大五郎はじっとクジラの様子をうかがった。
「あっ、(ふね)に体当たりしたぞ!」
 舳先の隅で、だれかが叫んだ。
 艦尾の方向から軍艦に体当たりしたクジラは、そのままあたまを押しつけるようにして泳ぎはじめた。
「あっ、ぐんかんをおしている! ぐんかんをどかそうとしてるんだね、あのクジラ」
 大五郎はクジラを指差しながらヨシオを見上げた。ヨシオは腕組みをしたまま、だまってクジラを見つめている。
 みんなも不安げな表情で静かにクジラを見守っている。クジラは大きな尾ビレを上下に動かしながら、必死に泳いでいる。しかし、軍艦はなかなか動かない。赤い船底は、すでに空母の前方、およそ百メートルのところまで迫っていた。
「だめだ。やっぱり、オレたちはここで死ぬんだ」
 ひとりが弱音をもらすと、にわかに甲板中が悲観的なムードに染まりはじめた。
「どうせ救助は来ないんだ。遅かれ早かれ、こうなる運命だったのさ」
「助かったところで、もう帰る場所はないんだ。これ以上地獄を見るぐらいなら、死んだほうがマシだ」
 そのときである。
「いいかげんにせぬか!!」
 長老が杖を甲板に突き立てながら声を荒げた。
「みなの気持ちはよくわかる。ワシも、故郷を……あの生まれ育った村は、もう思い出の中に消えてしもうた。じゃが、まだ消えずにのこっている物が、ひとつだけある」
 長老はいったん言葉を切ると、赤い船底にゆっくりと向きなおった。
「それは……希望、じゃ」
 静かに、だが、力強い口調で長老がうなずいた。みんなも神妙な面持ちで長老の話に耳をかたむけている。ヨシオは聞いているのかどうかわからないが、落ちついた表情で腕組みをしながらじっと赤い船底をにらんいた。
 長老も赤い船底をにらみながらつづける。
「まだ死ぬと決まったわけではないのじゃ。最後の最後まで、希望を捨ててはならんのじゃ。あきらめてはいけないのじゃ。見るがいい、あのクジラを」
 長老が杖の先でクジラを指し示すと、みんなが「あっ」と声を上げた。
「うごいた!!」
 大五郎も赤い船底を指さしながら叫んだ。はじめはゆっくりだった。そして、動きはじめると徐々に勢いがつき、赤い船底は見る見る空母からはなれてゆくのであった。
「希望……か」
 ヨシオがポツリとつぶやいた。
「やった! 助かったぞ! オレたちは助かったんだ!」
 青空にひびき渡る歓喜の声。ようやくみんなの顔に笑顔が戻った。だが、長老だけは、なぜか複雑な表情をしていた。
「野生の動物たちは、一瞬一瞬を全力で生きているのじゃ。真剣に生きておるのじゃ。自ら命を断とうとするのは……人間だけじゃ」
 ひとつため息をついてうつむくと、長老は何度か首をよこにふった。
「あっ、クジラもよろこんでるよ!」
 大五郎は笑顔でクジラを指さした。
 クジラは軍艦を押しのけると、まるでみんなを励ますかのように空母のまわりを一周するのであった。
「……ありがとう、トリトン」
 クジラを見つめたまま静かな口調でヨシオが言った。
「ありがとう!! トリトン!!」
 どういう意味なのかよくわからないが、大五郎もクジラに向かって叫んだ。すると、トリトンは大五郎に応えるかのように空高く潮を噴き上げながら、ゆっくりと海の中へ帰ってゆくのであった。
「あっ、にじだ!」
 トリトンが噴いた潮が虹になった。
「おじさん、トリトンがにじをつくったよ!」
 大五郎は虹を指差しながらヨシオの顔を見上げた。しかし、ヨシオはやはり返事をしなかった。この男は、いたい何者なのか。そしてなにを考えているのか。それを知る者はだれひとりとしていなかった。
「さよなら、トリトン!!」
 水平線の向こうにとどくぐらい大きな声で大五郎は叫んだ。
 太陽がまぶしい。水平線には夏雲が浮かび、空はどこまでも青く晴れ渡っている。そして蒼い海には、大きな虹の橋がかかっていた。
「きれいだね、おじさん」
 ヨシオは腕組みをしてだまっている。でも、きっと胸の中では返事をしているにちがいない。ヨシオのメガネに映る虹の橋を見上げながら、大五郎はそう思うのであった。

第四話「トリトン」
 
        おわり

太平洋、血に染めて(4)

次回、「ばるす!」

        おたのしみに!!


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映像特典
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太平洋、血に染めて(4)

第四話「トリトン」

  • 小説
  • 掌編
  • 冒険
  • アクション
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-31

Copyrighted
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  1.          第四話「トリトン」
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