曇天

曇天

 その朝、あなたが目を覚ますと、空が見えた。どんよりと曇った灰色の空だ。
 だが、なぜ部屋の天井ではなく、空なのか? まだ眠い頭で思い出そうとするが、思い当たることはない。昨夜も仕事が遅くなり、ぎりぎり終電に飛び乗って帰宅し、アパートの部屋に帰り着くなり、そのまま力尽きるように眠ってしまったのだった。少なくとも途中で野宿したなどということはないはずだ。
 では、この空は何だ? あなたは起き上がって周囲を見回し、そして驚いた。
 なんと、部屋の天井部分がすっかり、壁の上の方から削り取られたように無くなっているではないか。寝ている間に一体何が起こったのか? 大きな物音も聞こえなかった……いや、疲労困憊で泥のように眠りこけていたから、気づかなかっただけかもしれないが。
 立ち上がって見渡すと、外の風景はいつもと変らない。アパート二階の部屋の窓から見る、いつもの見慣れた風景だ。ただこの部屋の天井だけが無くなっているだけで、それ以外は何もおかしいところはない。
 いや、そんなことよりも早く会社に行かねば。今、何時だろうか? あなたは慌てて時計を見ると、七時三五分だった。少し寝過ごしてしまったが、すぐに会社に行けばまだ間に合う。幸か不幸か、昨夜帰ってきたときのままなので、着替える必要もない。頭もぼさぼさだし、他にもいろいろあるが、会社優先だ。あなたは鞄(これも昨夜床に放り出したままだ)を取り上げると、天井の謎はさておき、大急ぎで飛び出した。

 東海道線の快速に飛び乗って金山で地下鉄に乗り継ぎ、矢場町の駅で降りて会社に着いたのが八時四〇分ごろ。だが、何か様子がおかしい。
 あなたはいつものようにエレベータに乗ったのだが、ボタンが九階までしかない。このビルは十二階建てで会社のオフィスは十階だったはずだが、何かの間違いだろうか。ためしに階段で九階まで上がり、そこから階段であがってみようとしたが、九階の階段は下りしかないようだ。困惑したあなたは、警備員室で会社のことを尋ねてみた。しかし、
「いや、このビルは九階建てです。どこか別のビルとお間違えではないでしょうか」
 と言われたのだった。
 いずれにしても、今日の仕事を何とかしなければならないので、会社に電話をかけてみた。しかし呼び出し音すらなく、全くつながらない。あたかもこの電話番号が使われていないかのようだ。会社は消えてしまったのだろうか? 次にあなたは上司や同僚にも電話をかけてみたが、つながらなかった。
 何かのっぴきならないことが起こっているのだろうか。
 あなたは、これでは昨日の続きの仕事ができない、困ったと思う反面、仕事をサボれる不可抗力の理由ができた、ラッキーとも思える、そんなアンビバレンスな感覚にとらわれた。それと同時に、ついに自分は過労で何らかの精神疾患にやられてしまったのかもしれないとも思った。まずは休もうと考え、家に帰ることにしたが、そこで天井が消えていたことを思い出した。先にその問題をどうかしなければいけない。

 あなたは再び地下鉄に乗ったが、ここでまた違和感を感じた。
 いつまで経っても次の駅に着かない。もう十分以上走っているのだが、これはどうしたことだろうか。運転手に尋ねようか、非常停止ボタンを押そうかと思ったとき、不意に窓の外が明るくなった。地上に出たのだ。だが、この路線に地上区間はなかったはずだ。それに、気づくと乗客は自分ひとりだけで、さらに車両も地下鉄の車両ではなく、路面電車のような車両になっていた。
 窓の外を見ると、あなたの全く知らない風景だった。周囲は草原が広がり、ところどころに小さな林が見えた。建物や道路は見えず、人気もない。空は曇っていて太陽も見えないため、方角はわからない。右手前方のはるか遠くに海のようなものが見える。

 やがて電車は停まった。どうやらここが終点の駅のようだったので、あなたは降りる。そこは駅舎もない小さな無人駅で、ホームの片隅に物置小屋のような待合所があるだけの粗末な駅だった。駅には時刻表もポスターや案内表示も、駅名表示すら見当たらなかった。あなたの他に人は誰もおらず、周囲には何もないが、駅から右手前方の海の方に向かって、狭い舗装道路が真っ直ぐ伸びていた。
 電車に何かヒントになるような表示がなかったかと思い、もう一度見たがいつの間にか電車は消えて無くなっていた。スマホを取り出してみるが、案の定「圏外」だった。あなたは他にどうすることもできず、とにかくその道を往くことにする。

 歩き始めて気がついた。ほぼ休みなく終電近くまで仕事する日々が、ずっと前から何年も続いてきたことで、かなり疲労が蓄積しているため、あまり歩けないのではないかと思っていたのだが、不思議なことにけっこう歩ける。しかも、歩くごとに体力が少しずつ回復してゆくような気すらする。

 三十分も歩いただろうか、その間ずっと道幅も変らず真っ直ぐだったが、徐々に周囲の風景が変ってきた。草木が徐々に減り、荒地の様相を呈してきて、空気の中にかすかに潮の香りが感じられるようになった。そして列車からは見た風景と異なり、周囲に起伏のある地形が見えるようになってきた。徐々に緑が減り、岩場が増え、岩の間のちょっとした切り通しのようなところを抜けると、急に視界が開けて海が見えた。
 海は外海のようで波が高く、波の音があたり一面に響いている。海岸は砂浜が広がっており、人気はない。海には船も鳥も見えず、空は相変わらずどんより曇っている。ふと時計を見ると、もうすぐ正午になろうとしていた。だが、不思議なことに、久しぶりにこれだけ歩いたのに空腹感もなく、疲労もほとんどなかった。
 あなたはあてもなく海岸を左の方に向かって歩く。歩き始めて間もなく、百メートルほど先を黒い影のようなものがすばやく横切った。一瞬のことではっきりとはわからなかったが、人影のようだった。その人影が行った方向にあなたも行ってみる。さっきは見えなかったがそこには岩場があり、岩の隙間に下って行く隙間があった。さっきの人影がつけたと思しき足跡があり、その隙間へと続いていた。あなたもその足跡をたどって岩の隙間に入って行く。
 その隙間の先は人が普通に立って歩けるほどの洞窟になっていた。隙間から差し込む光を頼りに中に入ってみる。洞窟はすぐに行き止まりになったが、その少し手前の右側に別の通路があり、そちらから足音が聞こえてきた。先ほどの人影だろうか。あなたはその右側に入り、そしてその光景に絶句した。

 そこはあなたの自宅アパートの部屋だった。朝出てきた時と全く同じで、天井が無いのもそのままだった。だが、周囲の風景だけ違っていた。見慣れたアパートの周囲の風景ではなく、南に砂浜と海、北には荒地が広がっていた。そして、部屋の一角にさっきの黒い人影が見えた。あなたが今目の前ではっきり見ているにもかかわらず、その人影はぼんやりとしており、年齢も性別もわからず黒い靄のようだったが、どことなくあなた自身に似ているようでもあった。
 影の表情はわからないが、あなたの方を見てしたり顔で頷いたようだった。そして、おもむろにこう言った。
「あなたは今朝からのことを不思議に思っているだろう、だがこの謎にはわけがある。それを知りたくはないか」
 知りたいと答えると、次にこう言った。
「あなたは重要な仕事を多数抱えており、少しでもこなさなければならない。一刻も早く仕事に戻りたいはないか」
 戻りたいと答えると、さらにこう言った。
「あなたはその反面、絶え間なく降りかかる仕事にそろそろ倦み疲れてきた。その苦行ともいえる日々から解放されたくはないか」
 解放されたいと答えると、扉を指し示しながらこう言った。
「あなたに三つの選択肢を示す。
 一つはあの玄関扉から外に出る。先ほどの道を駅の方に戻れば、やがてあなたと同じくこの不思議の謎を探る者たちに出会うだろう。あなたはその者たちと共に協力して謎解きに立ち向かうことができる。だが、二度と元の世界には戻れなくなる。
 二つ目はこのキッチンの扉を開ける。今だけこの扉があなたの会社につながっており、ここから会社に行くことで昨日までと同じ生活に戻って仕事を続けることができる。だが、今朝からの一連の不思議は永遠に謎のままとなる。
 第三はそのクローゼットの扉を開ける。今だけその扉から五年前に解体されたはずの、今はなきあなたの生家に行くことができる。そこであなたは全ての思い煩いから開放されて休息を得る。だが、その刺激も起伏もない休息に飽きて退屈したとしても、そこから抜け出ることはできなくなる。
 さて、あなたはどれを選ぶか」
 考えるまでもない。最初からもう、あなたの選択は決まっていた。

 迷うことなくノータイムで、目指す扉をあなたは開けた。

曇天

曇天

“あなた”が朝起きると曇り空が見えた。部屋の天井ではなく、空が見えた…

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-30

CC BY-NC-SA
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