家畜の檻

1

「ねえ、私たち、美味しいお肉になれるかな?」
 楽しそうに、少女は言う。
 ゆったりとした袖から伸びる腕は白くふっくらとしている。張りのある皮膚の下を私は想像する。乳白色の皮下脂肪。艶やかな桃色の筋肉組織。甘くて柔らかそうな肉だ。同い年の私の肉も、彼女のように綺麗だろうか。そうだといいな、と私は思う。
「そりゃあ、僕たちが手塩に掛けて育てたんだから。健康的な良いお肉に決まってるよ」
 私たちの世話係のミヤジマが、木の床を丁寧に掃きながら朗らかに答える。水色の帽子とマスクで顔は隠れているが、目尻には優しげな皺が見えた。作業服に身を包んだ顔の見えない彼らが、私たち家畜の部屋を清潔に保ち、食事を運び、健康状態をチェックしてくれている。彼らのお陰で私たちは健康でストレスなく育ち、この農場の外に暮らす人々に提供する食用肉となることができる。だから私たちは皆、彼ら世話係のことが好きだ。中でも家畜ともよくお喋りをしてくれるミヤジマは特に人気があった。
 私たちの暮らす大部屋には、他に二十人ほどの男女がいる。皆同じ白い服を着て、春らしく澄んだ窓辺の陽だまりや藁のクッションの上で思い思いにくつろいでいる。一様に肉付きは良く、穏やかな顔をしている。全員、「肉」になるためにここに生きている。
 家畜であることは私たちの誇りだ。
 動物の肉を食べることが禁じられたこの国で、「食用肉」となるのは私たちだけ。動物の福祉のためだとかつてミヤジマが教えてくれた。人間のために動物を殺すのは認められない。人間のために必要なら、動物に頼らず人間自身で賄うべきなのだと。その通りだと、私も思う。食肉は良質なタンパク源であり、その美味しさは生活の彩りともなる。体に入った後は血となり肉となって誰かの中に生き続ける。それはとても尊いことで、外の人たちも私たちを敬い、感謝していると聞く。良質の食肉を生産することが私たちと農場で働く人たちの共通の目的だ。私たち以外の誰にも達成できない目的だ。
 それに、ここでの暮らしは快適だ。清潔で温度管理の行き届いた住まいがあり、決まった時間には広い草原で遊ぶこともできる。仲間たちは皆温厚だし、二人の優しい世話係もいる。
 確かに私たちの命は短い。しかしいずれ訪れる死も定めとして受け入れている。私たちの大半は農場で生まれた純粋な家畜だが、働き、争い、傷付き合うよりも、尊い贄となることを選んだ祖先に感謝している。不満などない、はずだったのだが――
 周囲に人がいないことを見計らい、少女はミヤジマに近付いた。
「ね、私、もうすぐ『肉』になるんでしょ?」
 耳打ちされたミヤジマは、目元だけで困ったような悲しそうな表情をした。
「ぽっぽちゃん。君がこの先どうなるかはまだ決まっていないよ。決まっていたとしても、そういうことは本人たちには教えられない決まりなんだ。だから――」
「ううん、わかってるの。私、体も小さいし、神経質なところがあるから。産み親にはなれない。体が育ち切ったら役目は終わりなの」
 ミヤジマは俯いて手にしていた箒を握りしめた。背中が曲がっていて、小柄な少女――ぽっぽよりもさらに小さく見える。これが衰えるってことなのかな、と私は思う。外の人たちは、老いや病気の恐怖に苛まれながら、長く先細りの人生を生きるのだ。可哀想に。
 ぽっぽは私に目配せし、ミヤジマに気付かれないようにいたずらっぽく微笑んだ。私は彼女に薄く微笑み返した後、ミヤジマの耳元に囁いた。
「ぽっぽは死ぬことも肉になることも受け入れてるんだよ。だからそんな悲しそうな顔しないで。ただ……一つだけ、お願いがあるんだけど」
 ミヤジマは顔を上げ、黄色っぽく潤んだ眼で私を見返した。
「一度でいいから、ぽっぽに外の世界を見せてあげたいの」
 紙のような質感のミヤジマの目蓋が持ち上がり、驚愕の表情を形作る。
「ね、お願い」
 ぽっぽは細い指でミヤジマの袖を掴んだ。
 ミヤジマはこれ以上ないほど眉尻を下げて、おろおろと私たちを交互に見るばかりだった。

 外の世界が見たいというのは嘘ではない。けれども、私たちはただ見たいだけではなかった。外の世界の一部になりたい。外の人間として暮らしたい。――つまり、私たちは脱走を企てたのだ。
 ここから逃げ出すという考えをもたらしたのは、ぽっぽや私と同じ年齢の、「みみ」と呼ばれている少年だった。
 三人は物心付く前からずっと一緒だった。生まれ年が同じ子供は他にいなかったから、いつも三人で遊んでいた。
 しかし、十歳になる頃に別れは訪れた。この農場には、妊産婦と乳飲み子たちの部屋、乳離れした幼児と子供たちの部屋、種親と産み親たちの部屋と、その他の家畜たちのための大部屋がある。ぽっぽと私は、幼児用の部屋から大部屋に移った。大部屋にいる子供たちと肉用の大人たちの中に、みみの姿はなかった。彼は食用にはならない、特別な存在なのだと、その時世話係から初めて聞かされた。
 食肉用の雄は、幼いうちに去勢される。そうしないと肉が獣臭くなってしまう。
 例外は、食肉用の子供たちの父親になる「種親」と、その候補者だけだ。去勢されていないみみは、種親候補だった。かつてもう一人候補がいたらしいが、彼は世話係に乱暴を働いたせいで処分されたらしい。私たちが生まれる前の話だ。次世代の種親が新たに必要となり、みみが選ばれたのだ。
 種親は、今は一人しかいない。カンザキと呼ばれている年配の男だ。ここで生まれる子供は皆カンザキの子だ。大きくて逞しいカンザキが、発育の良い、きめ細かな肉質の子供を産ませるのだ。
 私はよく知らないが、カンザキは元々外の人間だったらしい。だから名前があるのだ。
 私たちには基本的に名前がない。ぽっぽ、みみ、それから私のめめという名前も、ただのあだ名に過ぎない。
 農場の人間は、両耳のタグに書かれた番号で私たちを管理している。みみはCP-02600157-K、ぽっぽはCP-02600168-K、私はCP-02600161-N。番号では呼びづらいから、家畜たちの間では適当なあだ名を付ける。耳が大きいからみみ、目が大きいからめめというように。ぽっぽは、小さい頃に鳩の真似をして「ぽっぽ! ぽっぽ!」と鳴いていたことから付けられた。
 こんな簡単な名前でも、困ることはなかった。健康的な食事を摂り、適度に運動し、小声で語り合うだけの緩やかな日々に、そもそも名前など必要ではなかった。必要になることもないと思っていた。三日前、成長したみみが深刻な顔で現れるまでは。
「俺、聞いちゃったんだ。ぽっぽは、子供を産むのには向いてないって。あと一年か二年で肉にするって――」
 ミヤジマに頼み込んで真夜中に大部屋に入れてもらったみみは、息だけで言葉を発してそう告げた。家畜たちは自然光で暮らしているから、部屋の中は暗くて顔はわからなかった。窓から差し込む月明かりに浮かび上がったみみの輪郭は、十歳で離ればなれになった頃よりもずっと大きく、張り出した骨でごつごつとしていた。身体からはかすかに荒々しい匂いがした。嗅ぎ慣れない、獣の匂い。
「それが――それが、どうしたの? わかってたことじゃない」
 私は周りの仲間たちの気配を伺いながら、低い声でみみを諫めた。子供たちは穏やかな寝息を立てていたが、年かさの数人が聞き耳を立てているようだった。
「なんだよ……。めめは、ぽっぽがいなくなってもいいのかよ。死んじゃってもいいって言うのかよ」
 口調を荒げると、みみの喉の奥から低い唸りが漏れた。声も、大人の男のそれに変わっていたのだ。
 ぽっぽは俯いて、短く切り揃えられた爪を意味もなくいじっていた。
 農場の家畜は、大人になると同時に屠畜場に送られ、食肉に加工される。産み親の女たちでさえ例外ではない。彼女たちも年を取って子が産めなくなれば食肉になる。私もぽっぽも、自分が産み親になるかどうかは知らされていなかったが、どちらでも大した違いはないと思う。十年か二十年かわからないが、死ぬまでの無為な時間が延びるだけだ。出産はとても苦しいと聞くから、むしろ若いうちに食肉になったほうが楽かもしれない。
「やっぱり――嫌なんだ。三人でここから逃げよう。ずっと一緒にいよう」
 みみは右手で私の腕を、左手でぽっぽの手を掴んだ。汗ばんだ、硬い手だった。
 私はみみから目を逸らした。
「ぽっぽはどうなの?」
「よくわかんない、けど……試してみても、いいかも」
 ぽっぽはみみの手をそっと握り返した。
 そうして私たちは脱走を決意した。
 計画などなかった。鍵の掛かった扉や電気の通っている柵を突破する方法も思い付かなかった。どうにかして世話係に取り入る他に手はなかった。
 ターゲットにはミヤジマを選んだ。私とぽっぽのいる大部屋に出入りする世話係は二人いるが、もう一人の世話係であるスドウは私たちと関わることを避けている。ミヤジマが情に絆されてくれることに賭けるしかなかった。
 そして今、私たちの思惑通り、ミヤジマの心は揺らいでいる。
「私と、みみと、めめと。三人で最後の思い出を作りたいの。ミヤジマさんしか、頼める人がいないから……」
 ぽっぽがさらに駄目押しした。
「わかった……。上の人に掛け合ってみるよ」
 ミヤジマの老いた瞳が力強くぽっぽを見つめた。

 数日間は、何も起きなかった。
 いつものように朝陽と共に目覚め、ご飯を食べ、草原を散策し、暗くなれば眠った。少しずつ日が長くなるのを感じ、春の花が咲くのを眺めた。米やおからや野菜が中心の食事に、好物のサツマイモが入っていたりいなかったりで一喜一憂した。晴れの日があり、雨の日があった。他には何の変化もなく、あれから何日経ったのかさえわからなくなった。
 私は既に諦めかけていた。いくらミヤジマが味方してくれても、外に出る許可が得られるはずがなかったのだ。ミヤジマが独断でこっそり連れ出してくれないかと期待したが、そういう気配もなさそうだった。
 ここから出たいと思った時の熱は時間と共に冷め、あの夜のみみの記憶は色とりどりの花々や暖かな日差しに溶けつつあった。
「ぽっぽは、まだ外に行きたいと思ってるの?」
 放牧中、二人きりになった隙に私は訊いてみた。二人のいる場所は放牧地の境界を示すフェンスのすぐ近くで、ちょっとした丘になっている。天気は快晴で、農場のある山を下った遥か彼方に街のビル群がきらきらと輝いている。
「うーん、わかんなくなってきちゃった」
 ぽっぽは暖まった岩に腰掛け、細かな紅い花の付いた草の穂をぷちぷちと千切った。
「みみに言われて、昔みたいにみみとめめと三人で楽しく過ごせるならいいかもって思ったんだけど。よく考えたら、ここから出ても行く当てもないし。あの計画だって、子供騙しっていうか。うまく行く気がしなくなってきちゃった」
「私も。夢を見ていただけだったような気がしてる……」
 目を凝らすと、遠くの街は蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる。あの街も夢物語の中にあって、本当は存在しないのかもしれない。同じことだ、私たちにとっては。
 二人してしばらくぼんやりしていたが、草をかき分ける足音で我に返った。フェンスに沿って青い人影が向かってくる。世話係のミヤジマとスドウだ。もう一人、私たちと同じ白い服を着て他の二人に隠れるように歩いているのは、紛れもなくみみだった。世話係の二人よりも大きくなっているし、伸ばし放しの長髪の裏の顔は彫りが深くなっていたが、幼い頃の面影は確かに残っていた。
「許可が下りた。来い」
 近くまで来たスドウが面白くなさそうに告げた。まだ若さの感じられる目が、ようやく腰を上げた二人をマスクの上から冷ややかに見下ろす。スドウの視線を避けるように、ぽっぽはそっと私の背中に後ずさった。
「街までドライブするだけならいいってさ。車からは出してあげられないけど、外の世界を見られるよ」
 ミヤジマが目を細めた。みみは、緊張した面持ちでじっとこちらを見つめていた。
 二人の世話係に連れられてのっぺりとした居住棟の建物に入り、正面玄関から出ると、すぐ前に小型の白いトラックが停まっていた。後部の入り口からコンテナに導かれ、三人を中に残して外側から鍵が掛けられた。コンテナの中にはいつも生活している部屋と同じように藁が敷いてあり、裸足に伝わる金属の冷たさを和らげていた。側面には水平に細長い窓があり、ガラスの代わりに鉄格子が嵌められている。昼下がりの日差しが差し込み、内部を優しく照らしている。前面にも四角い小窓があり、運転席のスドウと助手席のミヤジマの後頭部が見えた。
「この車って……」
 私が呟くと、みみは硬い表情で小さく頷いた。耳たぶの真ん中に付けられた台形の黄色いタグが、首の動きに合わせてことりと動いた。
「輸送車だろ。家畜を屠畜場に運ぶ……」
 解体される時期を迎えた仲間たちは、皆この車で運ばれていったのだ。初めて自動車に乗り、初めて農場を出て、彼らは何を思ったのだろう。その胸に満ちていたのは諦観か、絶望か。それとも世話係たちの言葉を素直に信じ、使命を全うできる喜びに身を委ねていたのか。知る由もない。皆、もう死んでしまったのだから。
 会話が聞こえたのかミヤジマがちらりと振り返ったが、出発するよとだけ言ってまた前に向き直った。みみとぽっぽは少し青ざめて見えた。私の顔もきっと強張っていただろう。
 ぶるんと唸りを上げて、コンテナ全体が細かく振動し始めた。車が動き出すと、私たち三人は耳を真ん中にして左側の窓の前に並んで陣取った。窓はぽっぽの顔の高さにあり、背の高くなったみみは背をかがめて外を覗き込んだ。
「ね……、これから、どうするの?」
 一番後ろ側に立つぽっぽが、みみの身体に隠れるようにして訊いた。
「大丈夫――俺が何とかしてみせる」
 みみはぽっぽの右耳に顔を寄せて囁いた。私は少しだけ嫌な気持ちになって、窓の外の景色に集中した。
 吹き込んでくる心地良い風が長い髪を散らし、両耳のタグをはためかせる。私は近付いてきているはずの街の姿を見ようとしたが、木々の緑に遮られてどちらの方向を探せばいいのかさえわからなかった。
 トラックはくねくねと蛇行する山道を進み、やがて唐突に視界が開けた。みみが隣でごくりと唾を飲み込むのが聞こえた。道のすぐ脇は崖で、眼下には木の代わりに人口の建造物が林立していた。小さくて天辺が傾斜した建物や、農場にある居住棟に似た四角い建物。血管のように張り巡らされた黒い道を、たくさんの車が流れている。行き交う人々はてんでばらばらに色とりどりの服を着て、競うようにせかせかと歩く。私たちの知っている緑と静寂の世界とはまるで違っていた。眩しくてくらくらした。
 前部座席からミヤジマの声がした。
「見えるかい? 外の人たちが暮らしている場所だよ。農場と違って賑やかだろう」
 私たちもいつかあの場所に行く。バラバラの肉となって、あの忙しそうな人たちのお腹に収まることになる。だが、今日ここで逃げられれば話は別だ。
 夢中で外を見ていたぽっぽが声を張り上げた。
「ミヤジマさん、私、もっと近くで見たい。真ん中の、おっきな建物がたくさんあるところ!」
 ミヤジマとスドウはぼそぼそと何か相談しているようだった。
「街の中心まで行ったら引き返して農場に帰る。それでいいな」
 スドウが私たちに向けてぶっきらぼうに言った。
 スドウの言葉通り、トラックは街の中心部へと向かった。徐々に建物の密度が高くなり、人も車も増え、やがて道路は車でいっぱいになって私たちの乗るトラックも止まった。
 トラックの脇を通るピンクや黒や黄色の服を着た人々は、私たちに気付いて目を丸くする。それからすぐに目を逸らし、何事もなかったかのように歩き去る。小さな子供だけは、口を開けて私たちを見続けていた。
 トラックの前方にある車の列をちらりと確認すると、みみが動いた。胸を押さえて膝を突き、うう、ううと呻き声を上げる。
「みみ! どうしたの!?」
 すぐにぽっぽが屈み込み、みみの顔を覗く。私も急いでみみのそばに寄ると、思いのほか冷静な目に出会った。みみは私を見ながらトラックの前方に向けて小さく顎をしゃくった。私は彼のしようとしていることをだいたい察した。
 私は運転席側の小窓に駆け寄った。
「こっちに来て! みみが苦しそうにしてる!」
 ミヤジマは血相を変えて小窓からコンテナを覗き込んだ。
「どうした? 気分が悪いのかい?」
 ミヤジマの問い掛けには答えず、みみは苦しいと呻いた。私の目から見ても嘘くさい。私はできるだけさり気なく小窓の前に立ち、ミヤジマの視線を遮った。
「とにかく、こっちに来て診てあげて……」
 私が頼み込むと、スドウに目配せをしてミヤジマは助手席から降りた。
 ミヤジマの足音がトラックの後部に回り込んでくる。ぽっぽは不安そうにみみを見下ろしていた。
 コンテナの扉が薄く開き、ミヤジマの顔が半分見えた次の瞬間、うずくまっていたみみが弾かれたように飛び出し、勢い良く扉を開けて向こう側にいたミヤジマを弾き飛ばした。
「二人とも、早く!」
 道路に飛び出したみみが叫ぶ。
 泣きそうな顔でおろおろしているぽっぽの手首を掴み、私はみみを追って駆け出した。
「つ、捕まえてくれ! 脱走だ!」
 ミヤジマの怒号が追いかけてくる。
 人波の合間に、みみの姿が見え隠れする。みみが通り過ぎた後には、人々の顔に当惑や恐怖の色が浮かぶ。その顔が私たちに向けられる。私は彼らを意識から閉め出した。道行く人々はただのカラフルな障害物になった。足裏の痛みと、ぽっぽの手の柔らかさと、前方に翻る服の白さだけを頼りに私は走り続けた。

2

 人気の少ないほうへと走り続け、人の目が途切れたところで金網を乗り越えて木立に入った。
 木はまばらに生えているが、森ではなかった。すぐそばには四階くらいまである白くて四角い建物がある。窓はあるがカーテンが閉まっていて、気付かれる心配はなさそうだった。建物の向こうは何もない平らな土の広場が広がっている。遠くでがやがやと人の声がしていた。
 私たちは金網に沿って移動し、一際大きな木と隣の建物の壁に挟まれた薄暗い一角で一息ついた。
 みみとぽっぽは頬を上気させて興奮していた。
「すごいすごい、本当に外に出たんだ……」
 ぽっぽが声を震わせる。みみは呼吸を整えながら、やったぞ、やったんだと繰り返した。私も何だかふわふわと高揚して落ち着かなかった。
「これからどうしようか。みみ、どこか行く当てはあるの……?」
 私の問いかけにみみは首を横に振った。
「とにかく脱出することしか考えてなかった。俺だって外の世界のことはよく知らない。出てから考えるしかないと思ったんだ……」
 みみの言い方が言い訳がましく聞こえたので、私はとりあえず謝った。
 三人とも喉が渇いていた。農場ではいつでも水が飲めるようになっていたが、外の人はどうしているのだろう。道の端に溜まっている泥水を飲む訳でもあるまいし、きっとどこかに水飲み場があるはずだ。それに日が傾いて気温が下がってきていた。春といっても夜はそれなりに冷え込む。一夜を越せる場所も必要だった。
 まずは水と暖かい場所を探しに行くと方針は決まったものの、今度は格好が問題になった。街で見た人たちの服装を考えると、三人お揃いのゆったりした白い服に裸足では目立ってしまうことは確実だった。しかも両耳には黄色いタグが付いている。
「髪で隠せば大丈夫だよ。ほら」
 ぽっぽは耳に掛けていた長い黒髪を下ろした。小ぶりな耳はすっぽりと隠れた。近くでじっくり見られなければ何とかなりそうだった。
「俺は無理だ……どうしたって出ちまう」
 みみも髪を顔の横にやったが、平たい茸のように突き出た耳は隠しようがなかった。もちろんタグもはっきりと見えた。
「どうにかして取れないのかな?」
 ぽっぽが切なそうに眉根を寄せた。
「ミヤジマさんは、このタグは丈夫な素材でできてて刃物でも簡単には切れないって言ってたけど……」
 私が呟くと、みみはゆっくりと頷いた。
「俺もその話は聞いた。タグが切れないんだったら、耳を引き千切って取ってやるよ……」
 途端にぽっぽが泣きそうな顔になった。
「やめて、お願い。他に方法を探そうよ」
 押し問答していると、近付いてくる足音と話し声が聞こえて私たちは口をつぐんだ。
 とっさに隠れ場所を探したが、間に合わなかった。
「なあ……何だ、あれ」
 私たちに気付いた少年が声を上げた。揃いの黒っぽい服を着た、五、六人の集団のうちの一人だ。全員同じくらいの年代で、私たちより少し年下――十四、五歳くらいだろう。あどけなさの残る顔の裏に、みみと同じ獣臭さが透けて見えるような気がした。
「見ろよ、あの耳。家畜のアレじゃね?」
「ああ、屠畜場の見学で見たやつだ。ってことはこいつら家畜かあ。なんでこんなとこにいんだよ」
 屠畜場の見学、という言葉に私は反応した。私たちの仲間が殺されるところを、彼らは見たのだ。私たちの知らないこと、知ってはいけないことを、彼らは知っている。
「……屠畜場って、どんなところだった?」
 思わず私は訊いていた。いま訊かなければ、大切な何かを捕り逃すような気がした。
 少年たちの間に動揺が走った。
「あいつら、喋れんのかよ……」
「獣みたいなもんじゃなかったのか?」
 一際体格の良い少年がいち早く余裕を取り戻した。
「どんなところかって……? そりゃあ残酷な殺戮の場だったぜ。頭をガツンとやって麻痺させて、それから喉を切り裂くんだ……」
 少年はせせら笑いながら足元の小石を拾い、私に向かって投げつけた。石は私のふくらはぎに当たった。それほど衝撃はなかったが、擦り傷ができて血が滲んだ。
「おい、やめとけよ」
 別の少年の忠告を大柄な少年は跳ね除ける。
「別にいいだろ? どうせ人間じゃねーし、人権なんてねーんだから。タダ飯食って丸々太りやがって。何も考えずに牧場でぬくぬく育ってきたんだろ。社会の厳しさってもんを教えてやるよ」
 少年はさらに小石を投げつけた。今度は先ほどよりも強く。
 他の少年たちも、手近な石を拾って投げ始める。にやついた顔、憎々しげな顔、少し怯えたような顔。皆、私たちの敵だった。
「馬鹿にすんな!」
 立ち向かおうとするみみの袖をぽっぽが必死に引く。
「駄目! 逃げよう!」
 みみとぽっぽが争う。
 私は――嫌な気持ちになった。
 駄目だ、ストレスを感じては。肉質が悪くなってしまう。
 今の私の肉は、きっと色の抜けただらしない肉だ。締まりのない、不味い肉だ。
 肉の価値が下がることは、私自身の価値が下がることだ。
 嫌だ。
 その時、建物のほうから声がした。
「おーい! お前ら、何やってる!」
 少年たちの攻撃がぱたりと止んだ。
 一回の角にある窓から、緑色のセーターの筋張った男が頭を突き出していた。
「せんせー、校内に家畜が侵入してるんですけど」
 少年の一人が悪びれる様子もなく男に答える。
「家畜……? そうか。しかし、そいつらだって僕らと同じ人間だ。乱暴はやめなさい。さあ、後は僕に任せてさっさと下校しろ」
 少年たちは面白くなさそうにだらだらと引き揚げていった。
 私たちが身を寄せ合って互いの傷を確認していると、先ほどの男が建物から出てきた。私たちから少し距離を置いて立ち止まり、軽く両手を挙げる。
「僕は君たちの味方だ。――ここにいると目立つ。とりあえず僕の家に来なさい」
 私たち三人はちらちらと視線を交わした。みみは怒ったように険しい目をして、ぽっぽは不安そうに自分の肩を抱いていた。言葉はなかった。相談するまでもない。このまま闇雲に逃げ回っても消耗していずれ捕まるだけだ。男の言葉に従う他なかった。

 自動車――今度はトラックのコンテナではなく乗用車の後部座席――に乗せられ、私たちは怯えた獣のように張り詰めた静寂を纏って運ばれていった。
 車を運転しながら、男は一人で話した。ノダという名前であること、学校という場所で教師という仕事をしていること、これからノザキの家に向かい、しばらく私たちを匿ってくれるつもりであること。人間を食用の家畜にすることには反対していること。教師というのは、子供たちにものを教える仕事だそうだ。先ほどの少年たちにも何か教えたのだろうか。私たちを嫌いになるような何かを。
 後部座席に三人並んで座り、一番右側の席で私はノダという男の体臭を嗅いだ。酸っぱいような、喉の奥がイガイガするような匂いだ。肉にもきっと臭みがあるのだろう。硬くて筋の多い、木材の切れ端のような肉を私は想像した。年齢はスドウよりも上、ミヤジマよりも下だろう。出荷の年齢はとっくに過ぎている。
 ノダの住処は、木でできた二階建ての古そうな建物だった。人の目に触れないよう急いで裏口から中に入ると、足の下で床がギギギと音を立てた。室内の空気は何となく湿っていて、老いた匂いがした。
 擦り減った階段を上がってノダは私たちを二階へ連れて行った。ひんやりと薄暗い廊下の左右と突き当りに扉があり、私たちは左手の部屋で待つように言われた。
 壁際にはたくさんの服が掛けられ、足元には所狭しと箱が置かれていた。床はやっぱり木でできていて、歩く度に軋みながら少し沈んだ。このまま床が抜けて一階まで落ちはしないかと私は心配になった。
 階下からはノダが誰かと言い争っているような声がする。相手は女のようだ。内容までは聞き取れないが、女が怒り、ノダがなだめているように聞こえた。
 やがてノダが私たちのいる部屋に戻ってきた。
「どうにか君たちがしばらくここにいられるように妻を説得してきたよ。お袋と娘もいるが――まあそっちは何とかなるだろう」
 ノダはちょっと照れ臭そうに笑った。
 どうやら安全な寝床が確保できたらしいとわかり、みみとぽっぽもほっとしたような顔をした。
「さっき下で話してたのが、ツマっていう人なの?」
 ぽっぽが無邪気な声で訊くと、ノダは何だか困ったように首を傾げた。
 私たちがそもそも「夫婦」という仕組みを知らないらしいと察したノダが説明してくれたところによると、外の世界では、一人の男と一人の女がパートナーになり、二人で子供を育てるものらしい。先ほどノダと言い争っていた「ツマ」がノダのパートナーで、子供と一緒にここに住んでいる。ノダの母親も一緒に暮らしているが、世話係のようなものはいない。夫婦で自分たちの子を育て、その子供もやがて誰かと夫婦になり、ここを出て新しい家に住み始める。
 私たちにそんな習慣はない。女たちは皆、種親の子を産む。子供は世話係がまとめて育てる。そこには何の選択肢もないし、それが当然だと思っていた。
 もし、みみが「夫婦」になる相手を選ぶとしたら――彼は迷わずぽっぽを選ぶだろう。
 ノダに飲み水を持ってきてもらった後、ノダ一家の夕食が終わるまで身を寄せ合ってひそひそ話をしながら待った。とっぷりと日が暮れてから、ノダが私たちにも食事を運んできてくれた。魚というものを初めて食べたが、焦げてスカスカとしていてあまり良いものではなかった。農場では滅多に食べられない真っ白の米が甘くて美味しいと思った。ノダは自分用にビールというものを持ってきていた。飲むと気分が良くなる、大人だけの楽しみなのだとノダは言った。
「外の人たちは、みんな私たちの屠殺を見に来るの?」
 食事をかき込んだ後、私は気になっていたことを訊いてみた。ノダが不審そうな顔をしたので、私は昼間の出来事を話した。少年たちが石を投げながら屠殺の様子を語ったことを。
「あの悪ガキども、そんなことを……」
 ノダはやれやれと溜息を吐いた。
「俺たちが殺されるのを見て楽しいか」
 みみが吐き捨てるように言った。
「楽しい楽しくないの問題じゃない。君たちを利用している以上、僕たちにはそれを知る義務があるんだ。まあ、僕個人としては人間の家畜化自体やめるべきだと思っているがね。世間での生活を捨てて、望んで農場に入る人は今でもちらほらいるが、君たちはそうじゃないだろう。この国の独立の過渡期にあって、食肉になることを選んだ人たちが、君たちの祖先だ。生まれた時から農場で生きることが運命付けられている。自分でその道を選んだ人はいいが、その子供たちが無条件に自動的に食肉用の家畜になるのは人道的に許されるべきじゃない。せめて教育を受けさせて、農場に残るかどうか自分で選べるようにするべきだ」
 ノダは言葉を切り、理解度を探るように黄色い眼で私たちをねめつけた。ぽっぽは桃色の唇を開いたままぽかんとしていた。
「その――自分から農場に入った奴らってのは何なんだよ。意味わかんねえよ」
 みみは床の木の裂け目をなぞりながら呟いた。ノダは缶のビールをぐびりと呷り、昔話を始めた。
 昔、ここは「日本」という国だったのだそうだ。六十年ほど前に分裂していくつかの小さな国家になったという。
 六十年というのがどれくらいの長さなのか、私にはよくわからなかった。自分が十六歳くらいだから、自分のこれまでの人生よりずっと長い。親の親か、その親が生きていたくらいの時代だろうか。種親であるカンザキを除けば、周りにいた家畜は二十代~三十代までの命だったから、それ以前のことを直接知っている人はいなかった。親は顔も見たことがない。きっともうこの世にいないのだろう。いたとしても、六十年も前のことを知っているはずはない。
 だから六十年前の出来事は遠い遠い昔話、おとぎ話と同じだった。
 分裂の際、この地域には先鋭的な考えの人が多く集まっていたらしい。特に動物愛護に関する方針はかなり厳しく、動物にも人間と同等の権利が認められた。例えば隣国では動物を「ペット」などと呼んでおもちゃのように店で売っているが、この国の国境の内側では許されない。この国でも動物と共に暮らすことは認められているが、「飼育」ではなく「養子縁組」、つまりペットではなく我が子として迎えられる。動物を殺して食用にするなんてもってのほかだ。しかし、いきなり全く肉が食べられなくなるなんてことは、当時の人々には我慢できなかった。苦肉の策として、人間は人間で自給自足することにした。
 そうして、食べる人間と、食べられる人間が生まれた。
 食べられる人間は、あくまでも本人の自由意思でそうなることを選択した。それは緩やかな自殺だったが、自殺を禁止する法律はこの国にはなかった。
「みんな狂ってやがる。人が人を食うなんて世も末もいいところだ」
 そう言ってノダはまたビールを口に含もうとしたが、缶の中身は既に空で、ノダは音を立てて名残惜しそうに滴をすすった。組んだ膝の脇には数本の潰れた空き缶が転がっていた。ノダは赤い顔をして、熱でもあるみたいに目を潤ませていた。それがビールというものが与えてくれる幸福だとしたら、何だか哀れだ。
「僕はね、近々隣国に移住しようと思ってるんだ。君たちも一緒に来るといい」
 ノダは乾いた声を上げて一人で笑った。
 夜も更けてぽっぽが舟を漕ぎ始めた頃、ノダはようやく自室へ引き揚げていった。私たちは布団というものを借りて床に並べた。最初はひんやりとしていた布団はしばらくすると体温で温かくなり心地良かったが、四角く区切られている感じがして落ち着かなかった。
「ここは安全だ。しばらくここで休んだら、今度は別の国に行くんだ。そこでなら俺たちは人間として暮らせるんだ」
 みみが自分に言い聞かせるように囁き、ぽっぽが半分夢の中でうんと相槌を打った。
 疲れているのに私はなかなか寝付けなかった。昼間のことを思い出すと、脚の擦り傷がじんじんと痛んだ。

3

 ノダの家での生活にも私たちはすぐに慣れた。風呂やトイレ以外は物置部屋から出ることをノダから禁じられていたが、カーテンの隙間から家の前を通る人を眺めたり、部屋に積まれた「本」というものやカラフルなおもちゃの類を手に取ってみたりするだけでも、私たちにとっては十分に刺激的だった。特に絵本は私たちを惹きつけた。文字は読めなかったが、物語が描かれているらしいことはわかったから、これは何だと言い合い、適当な台詞を付けては三人でくすくすと笑い合った。お腹が空くと、前日にノダから渡された菓子パンやおにぎりを分け合って食べた。どれも美味しいと感じたが、塩辛くて少し疲れる味だった。
 服を着替え、三人とも伸ばしっ放しだった髪はノダに切ってもらって外の人に近い外見になった。私は肩まで、みみは春に生えたての草の感触がするくらいまでばっさりと切られた。ぽっぽは短くするのを嫌がったので前髪だけ眉毛の高さまで短くした。自分たちがひどく幼く見えるようになったことに驚き、軽くなった頭を振ったりお互いの髪をいじったりして、心まで子供に戻ったみたいにはしゃいた。
 耳のタグも切り取ってもらおうとしたが、傷が付いただけで切断できる気配はなかった。「国境の外側に行ってから何とかすればいいさ」とノダは肩をすくめた。
 ノダが部屋に来るのはたいてい夜遅くなってからだった。家にはノダと、ノダの母親と妻、それに娘がいるようだが、昼間はノダの母しかいないようで、時折一階から物音が聞こえるだけだ。日が傾いた頃にノダの妻と娘が前後して帰ってきて、玄関から「ただいま」の声が聞こえる。ノダはすっかり外が暗くなった後に帰宅し、しばらく一階で過ごしてから、食べ物を持って私たちのところに来る。私たちは少し冷めた白米や煮物をつつき、ノダは酒を飲みながら思い付くままに世の中のことを説くのが日課だ。ただ、私たちがあまりに何も知らないのでひどくやりにくそうな顔をすることもあった。
 ノダの家に来てから十日ほど経った。季節が冬に逆戻りしたかのような寒い日が数日続き、みみとぽっぽは朝から食欲がなかった。額に手を当てると少し熱い。私は逡巡したが、階下にいるはずのノダの母に助けを求める勇気は結局出せず、布団に潜り込んだ二人が咳き込んだり鼻をぐずぐずいわせたりするのを聞きながらそわそわと日暮れを待った。いつも通り物置部屋に来たノダは待ち構えていた私を見て驚き、みみとぽっぽに体の具合を訊き、二人を暖房のある隣の部屋に移動させた。
「ここんとこ寒かったから風邪でも引いたんだな。清潔な環境で育ってきたから免疫がないんだろう」
 君も体を冷やすなよと言い残し、ノダはいつもの世間話をせずに戻っていった。
 私は暗い物置部屋に一人取り残されてしまった。
 思えば、周りに誰もいないのは初めてだった。農場では生まれてからずっと同年代の家畜たちと一緒に育ってきたし、外の世界に出てからもみみやぽっぽと一緒だった。会話はなくとも誰かの気配を感じ、息遣いを聞きながら生きてきた。
 しんと静まり返った部屋に、外からの騒音が微かに響く。乱雑に置かれた人形や絵本の表紙の人物が、笑顔のままで冷たい視線を向けてくる。裸で外に放り出されたように心が寒かった。布団を頭まで被っても、胸に隙間風が吹き込むようだった。

 翌日、珍しくまだ昼にもならないうちにノダが物置部屋にやって来た。
 布団の中でぐずぐずと朝寝の余韻に浸っていた私を見てノダは戸惑ったように眉を上げたが、すぐに笑みを浮かべて誤魔化した。
「久しぶりに丸一日休みが取れたんだ。部活は副顧問に任せてさ。君らを連れ出してやろうと思ってたんだが……どうだ? 一人でも行くかい?」
 連れ出す、という言葉に私の胸は高鳴った。この部屋の中だけでも目新しいものはたくさんあるとはいえ、それだけでは私たちの好奇心は満たしきれなくなってきていた。毎晩ノダの語りを聞く度に、外の世界への空想がもやもやと広がるが、私たちにとってそれはおとぎの国でしかない。怖いけれど、自分の目で見て、手で触れて確かめたい。
「行く。行きたい」
 私は布団の上に座ったまま思わず身を乗り出した。ノダは壁にもたれ、そうかそうかと言いながら笑った。
「どこか行きたいところはあるかい? ショッピングモールで買い物でもしてみるか? 大した物は買ってやれないが……」
「……肉を、食べてみたい」
 ノダはゆっくりと右手を上げ、ぼさぼさの硬そうな髪をがしがしとかき回した。
「それは、しかし……いや……」
 私は息を詰めてノダの返答を待った。やがてノダは諦めたように溜息を吐いた。
「まあ、君たちは肉に対して特別な思いを持っていても不思議じゃないか……。わかった、動物の肉を食べに行こう。一応この国じゃ違法だが、国境付近では牛や豚を出してくれる店がまだあるんだ」
 顔の皺を濃くして探るような眼をしているノダに向かって、私はにっこりと微笑んで見せた。
 外を出歩いても不自然でないように、ノダが服を準備してくれた。膝までしかない赤いスカートに、つるつるした素材の薄緑色のシャツ。慣れない留め具に苦労したが、ノダはドアの外に出てしまい手伝ってくれる様子はなかったので、どうにか自力で何となく格好が付く程度にした。むき出しの脚にすかすかと風が当たって心細いし、何だか自分が自分じゃないような感じがしたが、これが外の人間の服装なんだと自分に言い聞かせる。最後に毛糸の帽子をすっぽりと被り、耳のタグを押し込んで隠した。
 私に呼ばれて物置部屋に入ってきたノダは、私を頭から爪先まで眺めた後、不意に目を逸らした。
「帽子がちょっと暑苦しいが……、案外似合ってるんじゃないか。これなら怪しまれることもないだろう」
 それからノダに促されて軋む階段を下り、生まれて初めて靴を履いて玄関から外に出た。久々に浴びる太陽の光が目に痛かった。

 車での移動中、私はずっと窓から外を眺めていた。初めは物置部屋から見ていたような家並みが続いているだけだったが、次第に道幅が広くなり、緑が増えた。
「ほら、あれが国境だ。あの川の向こうはもう外国なんだぞ」
 ノダが顎で示した先で、水面がきらめいていた。大きな川の両側には青々とした草原が広がっているだけで、壁も何もない。農場の内と外を区切る境界よりも、国と国の境界のほうが薄かった。
 水面には数羽の鳥たちがのんびりと浮かんでいた。農場にも鳥はいた。フェンスがあるせいで動物はネズミやイタチくらいしか見たことがなかったが、空を飛べる鳥たちは自由に農場に出入りしていた。そうだ、幼い頃、やたらと人懐こい鳩が一羽迷い込んだことがあった。その鳩を追い回して真似をしていたから、ぽっぽはぽっぽと呼ばれるようになったのだ。鳩は何日か農場にいたはずだが、不意に姿を消した。
「トリさん、いなくなっちゃった」
 幼くたどたどしいぽっぽの声、泣き出しそうな顔を私は覚えている。
 彼女がずっと追いかけていた、あの鳩はどうなったのだったか――
「着いたぞ」
 ノダの声が私の回想を遮った。
 車は黒い建物の前に停まっていた。入口を囲むように写真や私には読めない文字が躍っている。車を降り、ノダに続いて建物の中に入ると、「らっしゃーせーっ!」と勢い良く声が飛んできて私は立ち竦んだ。
「2名様で?」
 入口の近くに立っていた黒いエプロンをした若い男がノダに声を掛ける。ノダはそうだと答え、私の腕を引いて男に案内された椅子に座らせた。
 目の前のテーブルの真ん中には丸い穴が空いていて、金属の網が被されていた。穴の真上には奇妙なパイプが口を開けている。同じ構造のテーブルと椅子がずらりと並び、半分ほどの席には人が座っている。勢いよく飛び交う声、立ち込める煙の匂い、エプロンの男が持つ白い皿の上には、紅い――肉。何もかもが異様で、私は目に映るもの一つひとつに心を奪われた。
 ノダが男を呼び止め、何事か告げる。またエプロンの男たちの咆哮がひとしきり続いた。
「牛に豚に鶏、全部頼んだぞ。せっかくだからいろんな肉を食べろ」
 私は気もそぞろなままノダに頷いた。
 エプロンの男がやって来てテーブルの下で何か操作すると、網の下に小さな火が灯った。火の揺らめきに見入っていると、やがて男が私たちにも皿に載った肉を運んできた。綺麗なピンク色の肉。それから、たれのかかった紅い肉。ノダが箸で一切れずつ網に載せると、その度にじゅっ、と小さく音を立てて白い煙が生まれた。肉が焼ける香ばしい匂いが本能に訴えかけてくる。私はいても立ってもいられなくなり、椅子の上で何度も座り直した。
「もう少し待ってろ。鶏肉はしっかり火を通さないとな」
 ノダが肉をひっくり返すと、裏側はすっかり色が変わって軽く焦げ目が付いていた。じりじりしながら待っていると、ノダが焼けた白い肉を私の前の小皿にぽいと載せた。
「そいつはニワトリの肉だ。食ってみろよ」
 返事をするのももどかしく、肉の欠片を口に放り込む。あまりの熱さに吐き出しそうになるのを堪え、恐る恐る歯を立てる。跳ね返されるような弾力。ほのかに甘い肉汁。柔らかな脂。――美味しい。
 恍惚とするほど美味しい。でも私は不意に胸がざわつくのを感じた。
 何かおかしい。
 私は――この味を知っている。食べたことがある。
 いつのことだったろう。
 あの時――
 そう、あの鳩は、カンザキが――
 大きな手で捕まえて、絞め殺して、鋭く光るガラスの破片で切り裂いた。
 夜の放牧地でのことだった。
 幼い私は岩陰から見ていた。
 カンザキは羽をむしった鳩の体に小枝を刺し、火にかざして焼いた。
 初めて見る「種親」は、満月の光を背中に浴びて、老いた樫の木のように大きく恐ろしかった。不意に私のほうに向けた顔は真っ暗だった。
 私は恐ろしくて身動きできなかった。大きな手で私の首をぼきりと折って、あの鳩と同じように――
 しかし、私に掛けられた声は深くて暖かかった。こんがりと焼けた鳩を差し出され、私はその肉にかぶりついた。
「美味いだろう」
 そう言われたような気がする。
 やがて世話係が走ってきて、私は自分の居室に連れ戻された。きっとあれはカンザキの放牧の時間だったのだろう。私はこっそり抜け出して、たまたま居合わせたのだ。
 翌日、私はカンザキがいた丘を探してみたが、骨や燃えカスは見つからなかった。世話係や仲間たちに話しても、夢でも見たのだろうと取り合ってくれなかった。やがて私自身も夢だったのだと思うようになった。
 でも、あの出来事はやっぱり現実だったのだ。
 鳩を殺して焼いて食べるなんて残酷だ、可哀想だと思う一方で、もっともっとと求める自分がいる。生きている。私は、どうしようもなく生きている。
 カンザキと会ったあの夜にそのことを知ったから、私は自らの肉を捧げることに納得していたのだろう。その欲望を知っていたから、誰かを満たしてあげるのも悪くないと思って、上等の肉を自らの体の中に育てることを目標に生きていたのだろう。
「どうした? 気分でも悪くなったか?」
 ノダが私の顔を覗き込んでいる。私は首を横に振り、小皿に追加された肉を口に運んだ。
 かつて食べられる側にいた私は、今こうして肉を食べる側に立っている。外の人間として生きられる今、私は何を目標にすれば良いのだろう。外の人たちは、ノダたちは、何のために生きているのだろう。

 ノダの家に戻ると、急に疲労がのしかかってきた。外出中は初めてのことばかりで力が入りっぱなしだったようだ。
 足を締め付けていた靴を脱ごうとするが、紐がほどけずに手間取る。
「あんた、なんであたしの服勝手に着てんの?」
 靴に近づけていた頭の上に、棘のある高い声が降ってきた。見上げると私と同じくらいの年頃の少女が一段上の廊下から私を睨み付けていた。
 私は――竦んで動けなくなった。
「汚い。最低。ケモノ以下のくせに」
 少女の顔に浮かぶ嫌悪と軽蔑。私は多分呆けたような顔をして、少女の細面をまじまじと見つめることしかできなかった。
「別に良いじゃないか。その服、最近着てるところ見たことないぞ」
 先に上がっていたノダが少女の背後から私に助け舟を出した。憎悪の視線の先がノダへと移る。
「お父さんがあんなの拾ってくるのが悪いんだから。お母さんだってそう言ってる。大っ嫌い」
 少女は踵を返して廊下の奥の部屋に入り、ばたんと大きな音を立てて扉を閉めた。突っ立ったままの私にノダは憐みの視線を送った。
「僕もすぐ行くから、部屋に戻っていなさい」
 私は脚を引きずって言われた通りに物置部屋へ戻った。背中に石を積まれたように身体が重かった。

 いつものように食事と酒を持って、ノダは物置部屋にやって来た。普段と違うのは、みみとぽっぽがいないことと、私がいつになく沈んでいることだ。重い空気を打ち消すためか、ノダは酒を呷りながらよく喋った。
 今日の主な話題は家族の愚痴だった。妻と娘が徒党を組んで僕を馬鹿にする。妻からは母親の悪口を、母親からは妻の悪口を大人しく聞かなければならない。いっそのこと妻と別れてしまいたいが、子供がいるからできない。この国の思想には反対なので隣国に移りたいが、この国は教育や福祉面では他の国よりも良いから、家族はここを出ることに反対している。仕事は薄給な上にろくな休みも取れず、疲弊して将来のことを考える気力も奪われつつある。どうしようもない。袋小路。
 結局、ノダも捕らえられて動けずにいるのだ。窮屈で棘だらけの家庭に縛り付けられ、見えない壁に阻まれて。ここも農場と同じ、檻の中だ。
 ノダは酔ってぐずぐずと汚らしく崩れていく。だらしなく脚を投げ出し、据わった眼で虚空を睨む。なぜあんなものを飲んでいるんだろう。毒ではないのだろうか。酒が好きなのだとノダは言うが、いくら飲んでもちっとも幸せそうじゃない。外の世界の法則は農場よりずっと混沌として、無駄が多くて、悪意に満ちている。
「お前まで、そんな眼で僕を蔑むのか……」
 いつの間にか、ノダの濁った視線が私に据えられていた。
「僕に逆らうとどうなるかわかっていないようだな。僕がお前を見放せば、お前は農場に連れ戻される。元の農場ならまだ良いが、法律すれすれの経営をしてる悪徳農場に売り払われてみろ。狭いところに大勢押し込められて、効率的に大きくするための食事を取らされるんだ。味なんて知ったこっちゃない、毎日同じものだ。世話だって行き届かないだろうから、小汚い暮らしをすることになるだろうな。それだけじゃない――」
 ノダは舐めるように私の全身を眺めた。
「職員の奴らのお楽しみに使われるかもな」
 視線が胸の膨らみに注がれる。汚い視線が。
「さすが、発育が良い。僕を誘ってるんだろう。無防備にしやがって」
 私のシャツの裾を捲って、熱い手が侵入してくる。左の胸に、汗ばんだ掌が触れる。
 私は反射的にノダを突き飛ばした。ノダは砂袋のように鈍く緩慢に倒れて仰向けになった。
「何だよ。お前らを養うのだってタダじゃねぇんだ……これくらいの見返り、あって当然だろ」
 ゆっくりと起こした顔の真ん中で、死んだような瞳が虚ろに揺れた。私は全身の毛が逆立つのを感じた。少し遅れて軽い吐き気がこみ上げる。ノダの腹の底では、抑圧された欲望がどろどろに腐っているのだ。その腐臭が、脊髄を通り脳を通り、こうして目から発散されているのだと私は思った。
 この男の肉は、生きながらにしてねっとりと爛れているに違いない。
 農場にはこんな雄はいなかった。種親にならないことが決まっていれば幼い内に去勢される。彼らは純粋で、純潔だった。去勢されない種親は――農場中の女という女は、残らず彼のものだ。だから農場にこんな饐えた性欲が入り込む隙は――
 違う。みみがいる。
 一人で隔離されていた若い雄が。
 かつてはやんちゃでよく笑う子供だったみみも、こんな濁りを腹の中に抱えていたのだろうか。
 何となく、悲しくなった。
 私は震える膝に何とか力を入れて立ち上がり、ノダを避けて壁沿いに扉へ向かい、薄暗い廊下へ出た。ノダは追ってこなかった。私のほうを見ようともしなかった。
 隣の部屋に入ると、みみとぽっぽは布団から半身を起こした。
「私、帰る。農場に帰る」
 二人はぽかんと口を開けて私を見上げた。それからみみの顔が徐々に紅潮する。
「約束しただろ? 三人で、外の世界で、自由に生きるって。もう少ししたら隣の国に出られる。食べられるために生まれるなんて狂ってる。めめだって、そう思ったから一緒に逃げて来たんじゃないのか?」
「外の人は自由なんかじゃない。外の世界は汚い。私は農場のほうが良い」
 受け入れさえすれば、農場の中にいても心は自由でいられる。農場の仲間たちは不満も不自由も感じているようには見えなかった。定めを受け入れた、優しく穏やかな人たち。彼らは自らの意思であの場所に留まっている。閉じ込められてなんかいない。守られているのだ。
「死にたくない」
 ぽっぽはぽつりと呟いてみみに寄り添った。雌の貌をしている、と私は思った。
「一人で、帰るから。二人とも……元気でね」
 みみは真っ赤な顔をしたまま俯いた。めめの大きな瞳から一粒の涙が零れ落ちた。二人とも私を止めなかった。
 私は部屋から飛び出し、階段を駆け下りた。一階の部屋の中で先ほどの少女が目を丸くしているのが見えたが、もう気にならなかった。所詮、私と彼女は違う世界の存在なのだ。
 裸足のまま玄関を抜けて道を走った。走りながら、左胸を何度も強くこすった。真っ赤になって、痛くて、でもやめられなかった。ノダの手から染み出た何かが皮膚に染み込んでいるような気がした。いっそ触られた部分の肉を削ぎ落してしまいたかった。

4

 奥の扉から、目隠しをされ、両手を縛られた少年と少女が連れてこられる。二人の背を押しているのは、いつものように水色の作業着に身を包んだスドウだ。
 目隠しされた二人――みみとぽっぽは、灰色をしたコンクリートの部屋の中央まで歩かされ、それぞれ奇妙な板状の器具に頭と導体を固定された。みみが歯をむき出して何か叫んだ。だが、ガラスの壁越しに眺めている私には、彼の声は届かない。
 スドウがみみに歩み寄った。薄青色のマスクが微かに動いているから、何か言葉を掛けているのだろう。
「スドウ君は、自分からこの役を志願したんだよ」
 私の隣でミヤジマが囁く。
「君たちを外に連れ出すことに賛成したのはスドウ君なんだ。短い人生なんだから、せめてできる限り希望を叶えてやりたいって言ってね。だけど結果的にこんなことになってしまって、彼はひどく後悔していた。だからこれは、彼なりの責任の取り方なんだね」
 ミヤジマは遠い目をして、見学用の廊下からガラス越しに屠畜場のスドウを見つめた。スドウはみみのこめかみに黒い物体を押し当てた。みみの身体は一度びくんと強張った後、だらりと弛緩した。同じようにしてスドウはぽっぽも気絶させた。
「スドウ君はさ、あれで結構優しい人なんだよ。情が移ると辛くなるから、君たちとはあまり親しくしないようにしてるだけなんだね。仲良くしておいてしれっと屠畜場に送り出す僕なんかのほうが冷たい人間なのかもね」
 スドウの手に、銀色に鈍く光るナイフが握られている。みみの背後に回り、喉を切り裂く。朱い鮮血が飛び散り、身体を伝い、床を染めていく。それから、ぽっぽも。
 視界がゆっくりと暗転し、足元がふらついた。目を閉じて深呼吸し、辛うじて耐えた。穏やかなミヤジマの声が聞こえる。
「大丈夫だよ。彼らは余すところなく人々の血肉となる。尊いことだ。これは、育成期間が終わり、本来あるべき姿になるための通過儀礼。彼らがどうしても農場での生活に戻ろうとしないから、予定よりも早くなってしまったけど……決して悲しむようなことじゃないんだよ」
 スドウの他に数名の作業員が加わり、二人の身体を逆さまに吊るし、胴を裂いて解体していく。流れ出た血は水で綺麗に洗い流される。部位ごとにきちんと切り分けられ、彼らは生き物から食材に変わった。あれが私の、私の子供たちの将来の姿だ。悲しくはなかった。辛くもなかった。私はただ、空虚な諦めの穴の底で闇に目を凝らし続けるだけだ。

 屠畜場から農場に戻った後、私は放牧地に放された。初夏の太陽も、今を盛りと枝葉を伸ばす草木も、今の私には眩し過ぎた。
 小さな丘の中腹に、がっしりとした男が半ば草に埋もれて座っていた。カンザキだ。子供の父親になるべき男。
 私はカンザキに寄り添うように腰を下ろす。男は何も言わない。私も何も言わなかった。
 しばらく静寂を分け合った後、カンザキは私の肩を抱いて引き寄せた。

家畜の檻

家畜の檻

家畜として育てられた少年少女が農場から逃げ出します。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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