矯激の宇宙
それはまだ宇宙についての存在が何も解明されていなかった時代。
世界地図が想像で描かれていた時代。
文明の利器と呼ばれる道具が殆どない時代。
この世界は大昔から空の殆どを雲が覆い尽くしていた。
異世界へ
私は普通。
特殊能力も何もない。
勉強も大して出来ない。
どこにでもいる、つまらない人。
行って見たかった。何かが変わる世界へ。
こんな毎日がなんだか嫌だった。
だから私は異世界転移した。
というか、目が覚めたら違う世界だった。
いつもと同じベッド。
父も母も変わらない。
剣も魔法も使えるようにはならない…。
でも確かに何かが違う。
私が行った世界は何も変わらないはずだった。
普通の世界と何もかも。
私の異世界物語が始まる。
起源
ルカ「不思議……」
夜、私は空を見上げている。
なんの変哲もない空。
ルカ「…………?」
何かが浮いている…。雲のすき間からちょっとだけ見えている。
大きい。
何メートルくらいあるんだろう…?
丸い。
光っている。
私の体を、足元を照らしている。
ルカ「なんで……浮いてるんだろう…?」
ルカ「何…してるんだろう…?」
どれくらいの高さがあるのか、どれくらいにあれが浮いているのか…分からない。
浮いている…?
あれは浮かぶほど軽いもの?
違う、あれは…ただの物体。
決して…軽くない。
はじまり
父の声がする。
みんなが楽しく笑ってる。
みんなの声がする。
楽しい…。
ルカ「はっ………」
目が覚めても、何も変わっていない。誰かがかけてくれた毛布を蹴飛ばしていた。
汗でぐっしょり。
気持ちいい夢を見たはずなのに…。
母 「ルカ…ご飯よ」
台所から声がする。母はまだ元気だ。
私の好きなシチュー。
温かくてとても美味しい。だから私はいつもシチューを頼む。
私は汗で濡れたベッドをばれない様に、そっと台所へ向かった。
あれが…窓から見えていた。
ルカ「お母さん…カーテン閉めて」
カタカタ…。
テーブルの上のフォークが揺れる。
外の木や鳥たちがざわついている。
何かが…来る。
ドンッ…。
嫌な音がした。庭の方に…何かが落ちたんだ。
ルカ「お父さん…見てきてよ…」
かなり大きなものが落ちた。そう思った。
ルカ「手…つないでて……」
怖かった。
何が起こるか分からない。知らない。
だから、つらかった。
恐る恐るドアを開ける。
父の背中がどんどん小さくなる。
私は家の中にいて、父は落ちたそれを見に近づいてる。
母と私はくっついて、父を見ている。
窓の外のそれはなくなっている。
何かが…潰れている。
1日目 朝
晴れ渡る空にまた日が昇る。
さあ…人の潰れる時間の始まりだ。
父 「ルカ知ってるか?」
ルカ「?」
父 「この一面の雲はな、晴れる時があるんだぞ」
昔そんな話をされたのを思い出した。
そしてこの風景が広がっている。
ルカ「晴れる?……晴れるって何?」
父 「晴れるっていうのはあの雲が無くなることを言うんだ」
ルカ「え!あの曇って無くなったりしちゃうの?」
ルカ「それじゃあここはどうなっちゃうの?」
父 「どうにもならないさ。恐らく今よりも明るくなると思うよ」
父 「どうやって?」
父 「なんで明るくなるかはまだ分からないんだ」
父 「きっと雲の向こうにある何かが光を作っているんだと思うけど…」
ああそうだよ…その向こうにあるのが作ってるんだよ。
おかげで大地は明るいよ。
その無駄話は続く。
ルカ「行ってみたいけど……ダメ?」
父 「父さんが行けるようにしてやるぞ」
ルカ「やったー!」
そんな訳あるか。
何がやったーだ。
父も死んだわ。
熱い。
もう嫌だ。
あれが熱を作っているのか…明るい分だけここは熱い。
父が真面目な表情で語り出す。
今はまだ肩車されてるけどこれをどんどん積み上げて高くしていくんだ。
その内に雲も突き抜けてその向こう側まで行くんだ。
そんな夢物語を本気で実現できると信じていた。
バカな親だ。
何が向こう側まで行くだ。
くだらない。
そんなみじめなことを言ってるから最初に潰れるんでしょ?
人類で初めてあれに潰された人間。
とても名誉なことじゃん…今頃あの世で喜んでるよ…。
ルカ「ハハ…」
喉が渇く。
あまり笑わない方がいい。
何も考えまいとしてボーッとしていると昔のことが思い出される。
~回想~
ルカ「ルカはねお父さんみたいな人を積み上げて雲の向こう側を見に行くんだ」
父 「そうか、それは相当なバランス感覚が必要になるな」
「お父さんとお母さんだけで足りる?」
「二人だと少ないなあ。母さんもそんなにジャンプ力ないし」
「ルカも入れば三人だよ?」
「そしたら誰が見に行くんだい?」
「あっ……そうだよね」
「それよりルカは熱くないかい?」
「熱い……」
着こみ過ぎたせいで汗を掻いてしまった。
コートの下に来ていた服がじめじめしていて気持ち悪い。
「熱いよ……じめじめする」
「早く帰らないと跡が残って大変になるぞ?」
「それは大変だ。早く帰らなくちゃ」
「そうだな、早く帰ろうな」
こうなるともう雲の事も何もかも忘れて着替えの事しか頭にない。父の頭も乗り心地の良い椅子くらいにしか思っていない。
「ルカ…………ルカ?」
「zzz」
「寝たのか?」
「疲れたんだし……しょうがないか」
「…………疲れてないもん」
「涎を垂らすなよ……眠たいんなら寝とけ」
「うーん……。私が……向こうまで行く」
父に肩車されて手を伸ばす。
寝ぼけたまま伸ばした手は空を切る。掴めるはずなんかないのになった気分になる。
「?」
「ルカは可愛いな」
「!」
満足げな顔を父に見られて恥ずかしくなる。慌てて涎を拭く。でももう殆どが父の頭の上に足れていて意味はなかった。
ルカ「お父さんキライ」
父「涎を垂らしながら言うな」
ルカ「zzz、うーん……。反省していませんね…」
私は手をグーにして父の頭をぽかぽか叩く。
当時の私は一生懸命やっても寝ぼけたままで疲れていたので痛くもかゆくもない。
「痛いよルカ」
「嘘つくんじゃありません」
さらに父の髪を両手一杯握って引っ張る。最初は父も笑っていたがその内同じところばかり引っ張り過ぎてごそっと抜けてしまった。
手にはまだ新しい父の髪の毛。
手を広げると風になびいて消えていく。
「…………」
「ごめんね、お父さん」
「今日晩ゴハン抜き」
「えー!嫌だよ。ごめんなさい」
「もうやらないでおくれ。髪の毛が無くなってしまう」
「そう?じゃあ頭皮のケアもしっかりしましょう」
私は頭を項垂れて反省する。父の頭をナデナデする。優しい刺激が髪の毛にも良いと思ったからだ。
「そうだな、それくらいにしておいてくれ」
「うん」
父の頭皮をじっと見つめる。父から許されることを期待して髪の毛を引っ張る準備をしておく。
「ルカはもう連れてってあげない」
「えーそんな。また生えてくるよ」
そう言って私は父の頭をポンポン叩く。
髪の毛が抜けるのが父はそんなに嫌なのか。もう結構抜けていて今更気にしてもしょうがないような気はした。また引っ張ると怒られそうな気がするのでこの辺で止めておく。
笑顔の私とため息交じりの父。
何の悪意もない。
「中々生えてこないんだよ……分かってくれよルカ」
「色々な薬にも手を出してみたんだが、結局良いのは見当たらなかった」
「今ではそっとしておくのが一番だと思ってる」
「……ごめんなさい」
「でも今こうしてルカに遊んでもらって嬉しいよ」
深刻そうにため息をつくので悪いことをしたと思った。ションボリして父の頭に両手を付く。私の手を目一杯広げても父の頭の方が広い。
「うわ」
「どうした?」
「……何でもない」
自分の手がまだ小さいことを今知った。こんなことも出来ないちっぽけな人間。それが今の私。これくらいの頭を覆い尽くすことも出来ない。何だかびっくりして、そして急に悲しくなった。
「うっ……うっ」
「……泣いてるのか?」
「泣いてない」
「そうか、泣いてないか。じゃあそう言う事にする」
「うん。泣いてないの」
どうでも良いことで泣いてると思う。でもこういうのが今の私のちっぽけなプライドでもいい。出来なくても私には夢がある。
あの向こうへ跳んでいく。
それをするには毎日こうして雲を見上げる。そうするとちょっとした違いでも目に入って来る。そういう所から自分の嗅覚を育てていく。
「本当にいくんだもん」
「ルカに出来るかな?」
「できるもん……たぶん」
「ルカが大きくなってもそう言う事言ってたら、お父さんも応援するぞ」
「本当?」
「ルカに嘘はつかないよ」
「帰ったらお母さんにも言ってみるね」
「んーとね、美味しいものをいっぱい作って欲しい」
「それは分からないな。夢はあっていいけど」
「家族が増やしてほしい」
「これは頑張らないとな」
「私がもっと大きくなる」
「それは母さんに頼んでご飯を増やしてもらわないとな」
「お父さんもお願いしてね」
いつかは本当に私にも出来ると思った。
不安たっぷりの顔をしている私。私は見落としている。やらなければならないことをまだ見ていない。でも今はこれが必要。そこまでする必要はない。だから本当に掴んでその先に行けるんだと思っていた。その日見た雲は一面に広がって今まで何も変わることはなかった。
~回想終わり~
バカ「ウオオオオオオオオオオオ~~~~」
バカ「オホオホ~~~~~オホホ」
遠くでバカが喚いている。
頭が湧いてしまったようだ。
もうどうしようもない。
助かりようもない。
早く死んだ方がいい。
十年という時間は何もしなければあっという間に経つ。
そうだ…父の肩に乗せてもらって空を見上げた時から…10年。
私は下らないことに時間を使っていたようだ。
人間はみーんなみんなあれに潰される。
潰されるんだ。
今は浮かんでいるけどその内落ちてくる。
また浮かんだんだ。
昨日父を潰したところからまた浮かんでいる。
あれは浮かぶことが出来る。
私は知らない。
あんなものが浮かんでいいなんて。
でも私の目の前には確かにある。
確かに浮かんでいる。
だから死ぬ。
みんな死ぬ。
~回想 昨日~
あの頃と同じように窓から見上げても何も変わらない。
私はそれ以来父の部屋には入っていない。
ここに座って何もしない日が増えた。
変えられないのだ。
私一人がどうこうしたって何も変えられない。四季が巡っても雲は消えてはくれない。何かの偶然で雲が晴れて全てが見渡せるようになってほしい。
冷めた気持ちで窓の外を見つめる。
ルカ「数十年……」
一体どういう計算をしてそんな結果が出たのか不思議だった。どういう理由なのかを父に見せてもらったけどその理由は分かりやすいものだった。
父「それだけの厚さがある」
一番薄い部分の測定でこの結果。
これから技術が発展していけば違う結果が出るかもしれないが、私はもうどうでもよかった。視界はぼやけてはっきりと物事を捉えようとしない自分がいた。
物事の分別が付かない頭で雲を見上げていた。
父「…………」
なんなら写真の一枚でも取るのかと思うくらい。
遠くで母がこそこそしている。長い髪の毛がドアの隙間から覗いていた。
父「母さんも入って来いよ」
母「あら、通りかかっただけよ」
そう言ってさも忙しそうに強がる母だが横目でチラチラ何度も見ていた。
そして不思議そうな顔で近くまでやって来る。
ルカ「どうしたのお母さん?」
じっくりこのセーターを眺めた後、私を向いて呟く。
母「こんな可愛いセーター誰が作ったのかしら?」
特に返事を聞くこともなく来た道を戻っていく。小さい体を跳ねさせながら部屋に戻っていく。やっぱり可愛い。
ルカ「汚れてもいいし誰にも見られないし」
母「あの頃からもう着るの嫌がってたのにね」
そうだっけ?まあそうだから奥の方に閉まっていたのかもしれない。
ポツンと遠くに佇んでいた母がまたやって来る。
母「今度はどんな柄が良いの?」
「ルカ好みに仕立てあげてあげるわ」
鼻息荒立てて私に聞く。
ルカ「シンプルなのでオネガイシマス…」
そう言うと母は不思議そうな顔をしている。細い腕を胸の前で組んで唸った後、頭の上に豆電球が浮かんだ様な顔をして、
母「ああ、私に遠慮しているのね。腕に振るいを掛けてお父さんにも手伝ってもらわなくちゃ」
あーあ、早く帰りたい。
この水田から家までは田舎の小学生が家から学校まで往復するぐらいの距離はある。出てくる時期を間違えた蝉がやかましく鳴いている。
弟をおんぶしながらあぜ道を鎌と手拭いを持って歩く。最近は重くなって来たから自分で歩いてほしい。けど昔の怪我が響いてまともに歩けない。
父「じゃあちょっと休憩にしようか」
母「そうしましょう」
私の様子を察したのか、母は背負っていたお弁当を広げようとしている。母の背負っていたのは私たちのお弁当で母の半分の大きさはある。それを母は一人で軽々持ち上げている。
「最近運動してなかったしね」
そのためなのか、他の道具も持とうとしている。そんな母を持とうと父が追い回している。
「昔はルカも可愛かったわね」
「そうだな今も可愛いけど昔はもっと可愛かったな」
「お父さん?そんなことでルカからの好感度は上がらないわよ?」
「上げないよ」
「そうだな、あれはルカが丁度お饅頭くらいの時だったな」
「私そんなに小さくなかったと思うけど……」
~回想2 ルカ4歳~
「私ね、将来はアイドルになるの!」
「それでねこの世界中で歌を歌ってみんなを喜ばせるの!」
「そう、きっとルカなら出来るわ。頑張ってね」
「そしたらね、お母さんも聞きに来てね!」
「あら、何処にいても聞けるんでしょ?」
「うん。世界中に届くくらい私も大きくなるの!」
「そうすればお母さんが何処にいても私の歌が聞けるでしょ?」
「その時はお友達も沢山呼ばないとね」
「うん。私ね友達たくさん作っておく!」
「私ならいっぱいいっぱい作れるの!」
その子は歌やダンスがとても得意で将来はアイドルになりたいという。
「私、もっともっと高いところまで行ってみたい!見てみたい!」
「ルカはそんなに行きたいの?」
「うん!雲の向こうへ行ってみたい!」
私はことあるごとに母の元へ駆け寄り逐一起こったことを報告していた。
母は私のワガママに似た気持ちをちゃんと受け止めてくれる。
「そうか、その気持ちがあるならきっと行けるな。ルカは強い子だからな」
「うん!ルカは強い子!」
母と手を繋いでそんな事を話していた。
宇宙。
それは雲の向こうに広がる不思議な世界。
そんな場所に行きたいとは誰だって思う。それに雲の向こうがどうなっているのかに興味を持つのはごく自然なことで他のみんなもそうやって来たと思う。
「宇宙…………」
「!……ルカ、何処でそんな言葉覚えたの?」
「どうしたのお母さん、そんな怖い顔して」
「早く答えて、ルカ」
「なんだか怖いよ……ごめんなさい」
いつになく真剣な母が私の肩をいつもより強く掴む。
「ごめんねルカ、別に起こっている訳じゃないのよ。ただ気になっただけ」
「えーとね、学校のみんなが言ってたの。雲の向こうは宇宙って言う場所なんだって」
「だから私はそんなことないって言ったんだけど、見たことあるのかって言われて……」
「ルカ……」
「だからごめんなさい」
「いいのよルカ。そうね……隠していても仕方ないわね。ルカにも教えるわ」
「いいの?」
「ええ、変な勘違いをされても困るし……ルカが知りたいって言うんだから」
そう言い、一言おいてから母は話し始める。
「宇宙って言うのは雲の向こうの世界の事よ」
「じゃあみんなが言ってたことは本当なんだ!」
「そうね。ただ宇宙という場所には誰も行ったことはないの」
「どうして?」
「みんななんとなく感じているの……雲の向こうは行ってはいけないって」
私の知らない、母の表情。
「お母さんも?」
「そう、お父さんもそう思っているわ」
「だから詳しいことは分からない。
私たちの住んでいるこの世界とも全く違っていて、見に行ってはいけないの」
「おんなじこと言ってるよ?」
「ごめんなさいルカ……お母さんも本当の事は分からないの」
「じゃあ私が行ってみるね!」
「でもね、これはお母さんの勝手な思い込みなんだけど……昔の人で見たことがある人はいると思うの」
「でもね……そのことを周りの人に伝えようとする人もいないわ」
「誰も?」
「そうね……もしかしたらそもそも誰もいないのかもね」
「?」
でも、それだけはダメだと周りの大人から怒られる。
でも私には何で怒られるのかよくわからない。
「なんでお母さんはあんなに怒るんだろう?」
「私はそんなに変なことを言っているのかな……」
本当に全て知らなかった。
父や母が言っていることにも耳を貸さなかった。
毎日当たり前に食べていけると思っていた。
だからあれはその延長線上の話。
現実味のない話。
そう仮定しての話。
だから面白かったのに。
まだ一日目。私はまだ確かに生きてます。
「まだその時はルカが小さかったから……」
「お姉ちゃんってそんな感じだったんだ」
「そうだぞ。お前よりバカだったんだから」
「怒ると図星なんて言われるから私は怒りませんよ、ええ」
「わーいお姉ちゃんが怒ったー」
「お姉ちゃんは照れ隠ししてるだけなのよね」
「そうなのか?可愛いなルカ」
「……お腹空いたな」
1日目 昼
昨日、母と一緒に作ったから中身が何か知っているけどとても美味しそうに見えた。広げた中には私達で父も別に作っていた。
いつの間につくったのだろうか。
母の握った倍くらいの大きさのおにぎりが鎮座している。
「いや~こんなに美味しそうだと食べ過ぎちゃうな」
「早く食べましょう?」
「ああ待って。しまってから」
「どれから食べる?」
「自分で作ったのを交換しましょう?」
「私のは美味しいわよ」
母のはみんなと比べて小さめ。父のは大きめ。弟のはぐちゃぐちゃ。私のはしょっぱい。
「いただきます」
「いただきます」
「ああ~こんなに食べたら太りそう…」
「「!」」
弟がつぶやく。彼に何の意図もない。でもその言葉に私と母は思わず反応してしまう。確かに昨日作りながらそれは思っていた。やっぱりそうだよね。まだついてもいないのにお昼食べるなんて。確かに朝ごはん食べていないけど。
「……」
「先を急ぎましょう。運動してからでも遅くないわ」
母が何もなかったかのように立ち上がって歩き始める。ちょっと急ぎ足でお腹に付いた余分な肉を燃やそうとしている。そのまま私の所までやってきて
たまに村まで降りる時は友達の家に遊びに行く。そこで流行りの遊びを教えてもらったり学校に付いて行ったりする。私は父から教わっているのでむしろ授業は分かりやすかった。
「」
そのためか友達はあまり学校には連れて行ってくれなかった。何回か一人で村の中心部まで行ったこともある。その時は母が私の恰好をして父を誤魔化していた。誤魔化せていると思った。
「おーい、ルカ」
「何、オトウサン?」
何故か固まったままの父。ルカのような人。
「……」
「……」
「オトウサン、ダ―イスキ」
「…………」
「ワタシのこと忘れちゃったの?」
「…………」
「まだ続けるの?」
「……」
「大分ぎこちないなあ。何でバレないと思ったんだよ」
「しょうがないじゃない、ツケが残っているんだから……」
このためだけに作ったカツラと衣装を脱ぎ捨てる。蒸れていたのか、頭皮に少し汗を掻いていた。
「お風呂に入ってくるわ」
「ルカの事は弟にお願いしているから心配ないわ」
後になって聞くと全部バレていて私の後を弟に尾行させていたとか。でも楽しそうにカツラを作る母を見ていたら止められなかったとのこと。
「恥ずかしいわ、言ってくれれば」
「」
なんだか弟の方がしっかりしていて嫌だった。ちょうどその頃に背も抜かれたし、口を聞いてあげなかった。でもそれは母から怒られて反省した。
「」
自分でも大人げなかったと思う。そんな弟も今は腕っぷしが強くなりこうして作業を一手に引き受けている。腕相撲なんか今やったらもう勝てない。
私と母は父と弟が刈り取った稲を乾燥させる場所まで運ぶ。
弟に追い越されてからはあまり言ってほしくなかった。
収穫した稲を乾燥させるため竹で作った物干しに吊るす。去年も新しく作り直したのにそれでも足りなくなっていた。稲を持っていくだけでも大変なのに物干しが足りないのではどうしようもなかった。
昼過ぎに父が一旦家に戻って持ってくることに。
「今日はあの日だからな」
「お父さんも気にしてるの?」
「当たり前だろ。前ほど関わってないにしても興味はある」
「また始めたりとかはするの?」
「それはないかな。少なくともルカ達が独り立ちしてくれるまではこうして働いてないとな」
「それは……ありがとう」
「それはもっと大人になってからでも遅くはないぞ」
父は上擦った声で静かにそう言った。その言葉に私は少なからず反応した。村のみんなの雰囲気でなんとなく察していたけどこうして実際に影響が出てくると実感が湧いてくる。
「雲が晴れわたるんだよね」
「普通に捉えていればいいさ。今日は村でお祭りもある」
「みんなも来てるのかな?」
出来るだけ平静を装う。
「気になるなら寄ってみればいい。
村の方では祭りやってるから。父さんと母さんは家でゆっくりするよ」
「そうだね」
「ついに今日か。ルカも小さい頃はあんなに興味津々だったのに」
「最近はどうなの?」
父が遠い目をして呟く。
「今も昔も変わらないな」
「そう?そんなことないと思うよ」
「村の人も話していたぞ、ルカが心配って」
「ええ?」
「仕事で村まで降りることがあるんだけどな、ルカちゃんはいつも窓の外見上げて友達もあんまりいなくて大丈夫かしらって」
「そんなことないよ。いつも弟と遊ぶし友達だって」
「まあルカがそれで良いんならそれでいいけどな」
ちょっとニヤニヤしている父。
「何の話?」
後の方を歩いていた母が追いついてきた。私の様子を察してかニコニコしながら私を励ます。気配り上手の八方美人。母は私の事をなんでも知り尽くしている。流石の母。
「母さんな、ルカが友達が少なくて困ってるんだよ」
「あらまあ、それは大変ね。どうしたものかしら……村の人に野菜でも配って回ろうかしら」
「それだけはやめて」
「ルカの似顔絵なんかも付けるといいわね。ちょっと描いてくるわ」
「お母さんはそう言って逃げ出さないでよ……終わらないんだから」
「ごめんなさいルカ。でも大丈夫、安心して」
「お母さんだけは最後まで友達でいてあげるから」
「……ありがと」
ついにこの年がやって来た。
大昔からの予言で今年の最後には雲が晴れるという。
あの一面に広がる雲が晴れていく時がやってくる。
そう言われていた。
いつもどんな時も空には雲がずっと続いていた。その雲が晴れる。父も母とゆっくりとその日を迎えたいと言っていた。後片付けを始めている母にそのことを告げる。
「ルカはどうするの?」
「私は弟と祭りに行くことにするよ」
「お願いね」
母は目線もくれずに作業を続けている。一つの事に集中すると周りが見えなくなるタイプ。
父は元々体がそんなに丈夫な方ではないはずだけど背が高く力持ちだった。私の三倍ほどの稲を背負って隣を歩いていた。父の陰に隠れるとちょっとだけ涼しい。日差しが傾いてきているようだ。転げまわって泥まみれの弟を捕まえる。少し開けた場所で母が風呂敷を広げる。そこに4人で囲むように座る。
「いただきます」
「いただきまあす」
一段落付いたお昼過ぎ。この広い水田の端に出来た場所で休む。こうして見ると作業の進み具合が良く分かる。立っている時と比べて座ってみると稲がより近く見える。
「頑張った甲斐があったね」
「今年は豊作だな」
「お父さんそれいつも言ってるよ」
「こういうのは気持ちの問題だ。口に出して言うのも大事だ」
「そうよルカ。シラけていてもだめよ」
春先にみんなで植えたあの小さな苗がこんなに美味しそうになって。おにぎり何個分だろうか。
田んぼの隅に御座を敷いてみんなで手を合わせた。
第三次性徴期
第三次性徴期。
それは誰の体にも起こり得る現象。
自分の夢や、心がそう言う事に敏感になって来る時期に起こる。
自分の願いのために体が徐々に大きくなっていく現象。
これは誰にでも起こり、大抵直ぐに収まる。
「ルカの成長が微笑ましいわ、最近はアイドルになりたいなんて言い出したのよ」
「それは良い事じゃないか、応援してやれ」
「でもね、もう一つ報告があるのよ……ルカに入れ知恵したでしょ?」
「うっ……雲の向こうの話か……まあそれなりにしてしまったかな」
「宇宙って言葉も使ったの?」
「そこは言ってない。そういうはっきりとは言わなかったが……まあ言ったも同然か……」
「あの子がそういう言葉を使うようになってきて、私にはまだ整理が付かないわ」
「母さんだってそうだったろ?人の事は言えないだろ」
「そんな呑気でいられるあなたが羨ましいわ」
「でもまあ……そうね、ルカがやりたいんならいいのかもね」
「やりたいことを見つけるってのはいいことだしな」
その内その子はこのまま大きくなって宇宙にまで行ってみたいと思うようになる。
「お母さん、お話があるんだけど……」
「どうしたの?今日もそんな怖い顔して」
「お母さんはあの雲の向こう側ってみたことあるの?」
「!……そうね、お母さんは見たことないわよ?それがどうしたの?」
「ルカはそこを見てみたいって思ったの」
「雲の向こうがどうなっているか知りたいの……だめ?」
「ルカ……それだけはやめなさい」
「どうして?今まではいいっていってくれたのに」
「ダメなものはダメ。今のルカにはまだ早いわ」
「じゃあもっと大人になったらいいの?」
「その時にはルカにも色んな事が分かる様になるわ。その時に自分で考えてみるのも大事よ」
「うーん……分かったような分からない様な……」
「今日はもう寝た方が良いわ。一緒に歯磨きしましょう?」
「はーい」
「お姉ちゃんって可愛かったんだね」
「でも一番可愛かったのは……性徴について聞いてきた時ね」
第三次性徴は別に珍しい事ではなく誰にでも起こりうること。
「ねえお母さん、私、体が大きくならないの」
「あらどうしたの?そんな深刻そうな顔して」
「大きくなっても直ぐにしぼんじゃうの」
「あら、ルカの体に今起こっているのは第三次性徴っていうのよ」
「だいさん……?」
「それは誰にでもルカくらいの時には起こる事なの」
「そうなの?じゃあお母さんにもこう言う事があったの?」
「そうね、ルカほどひどくはなかったけど、私や私のお母さんもそうだったわ」
「ええ!お母さんのお母さんも!すごい!」
「だからルカもそんなに心配することはないわ。直ぐに慣れるわ」
「本当?一人でトイレに行けるようになる?」
「大丈夫よお母さんが付いてるわ。早く行ってきなさい、漏らすわよ」
「うん!」
「流石お姉ちゃん。可愛いね」
「そうよ、ルカは10歳までは私と一緒にお風呂に入っていたわ」
「お父さんが一緒に入ろうとしても嫌がったりな」
「そんな事今更言わないでよ……」
「恥ずかしがることないよお姉ちゃん。僕まだお姉ちゃんと一緒にお風呂に入りたいよ?」
「……ありがとう」
「それにしても美味しいね……これ誰が作ったのかしら?」
私が作るとなんでも美味しいと言ってしまう母。
誰が作ったのか分かっているくせにそんなこと言っちゃう母。
少し大きめのおにぎりを両手で握って口元にご飯粒を付けたまま頬張る。ちょっと塩を入れすぎちゃったけどそれでもやっぱり嬉しい。
というか母は中々の味覚オンチで私といい勝負。
「やっぱりルカの作るおにぎりだね。お母さんのも美味しいでしょ?」
「そうだね。このちっちゃいのがお母さんの?」
「そうよ。きっとおいしいわ」
母のおにぎりは私のより一回り小さくて可愛らしい。でも最近は安心して食べられる。昔ほどおにぎりの味もひどくない。
父もニヤニヤしながら食べている。
「おいこぼしてるぞ」
「あら本当?」
リスの様に両方の頬に一杯詰め込んでモシャモシャしている。こぼした分を父が拾う。ちょっとしかめっ面をする。直ぐに水で流し込む。
食べた後の休憩。
体を横にすると雲が見える。空を見てもつまらないからお昼寝。遠くの方で弟が走り回っている。父は母と話し込んでいる。
蝉が鳴いている。
手拭いを目に被せて眠ることにする。私はそんなキツイ作業やっていないけど弁当の準備で早起きしたから眠かった。山の上の方から見たここの景色は圧巻だった。
一面の水田。
山から山へ駆けずり回るだけでも楽しい。虫を集めたりもした。夏場は虫取りで忙しかった。その頃の暑さが今も抜けきっていないのか。
「ごめんな、ルカ」
「!?」
誰かにそう言われた気がした。いつもより低い目線で私より大きな人から頭を撫でられて。ホコリくさい部屋の中で泣きそうになっていた――。
~回想 ルカ5歳~
その日の父は朝から優しかった。私が母の声真似をして入れてもらうまでもなく扉が開いていた。
「鍵も閉めないで……誰か入ったらどうするの?」
「……ルカか」
父の部屋に入りながら呟く。ばれない様に恐る恐る忍び込む。父は机に座って私を待っていた。いつも見ている本とも違う、新しい書類の束をめくっていた。
「結果が届いたんだ」
「?」
「まああんまり詳しく言うとこんがらがっちゃうからな。
一つずつ教えるよ。だからこっちにおいで」
「?」
分からないことばかりだったが特に不思議がることもなく父の元まで駆け寄る。近くには色んな書類の束が散乱している。中には私が散らかしたせいで何処に行ったのか分からなくなったものもあった。父は近くの書類を一枚手にするとそれを私に見せてくる。
「これが何か分かる?」
「?」
「ルカの気になっていたものだよ」
「?」
「ルカ、雲の向こうへ行ってみたいかい?」
「うん。行きたい!」
「やっぱり、正直他の事を言われたらどうしようかとヒヤヒヤしたよ」
「?」
「ルカが知りたいだろうと思って調査してもらったんだ。その答えがさっき届いた」
「それってさっきお母さんが郵便受けから取って来たもの?」
「そうだよ。それをルカが父さんの部屋まで届けてくれたんだ」
「ふーん。で、その紙には答えが書いてあるの?」
父はそのさっき届いたのであろう書類を机にしまうと、自分の伝書鳩に何やら書いた紙を括り付ける。
「どうだったの?」
「そうだね、勿体ぶっていてもしょうがないしね」
「正直に言うと……」
「…………」
私は父を見つめる。
父の瞳は奥に深い黒がある様で吸い込まれていく。
どんどん父に近づく。
「ルカの夢は叶わない」
「……え?」
「叶えるのは難しい」
私は反射的に父から遠ざかる。
自分にご飯を食べさせてくれないと分かって一人で食べて行こうとする鳥の様に。
私は父から離れる。
「誤魔化してもしょうがないし、ルカには現実的に色んなものと向き合って欲しい。だからはっきり言うことにするよ」
「……なんで?」
私には分からない。
私はこうして欲しいって事があるのに、それを言っているのに父は叶えてくれない。
父の言葉は難しい。
「早く嘘って言ってよ……」
「ルカ、父さんの言葉をちゃんと受け止めるんだ」
「お父さん?」
「落ち着いてくれ」
「落ち着いてるよ、早く」
私はそわそわしながら本当のことを言うのを待っている。何を言われてもいいから早く。
そんな気分。
今にもお腹が空いている人に餌を与えるかのように。きっと色々言った後に実は何とかなると言ってくれる。
言って欲しい。
「ルカ、これを見てくれ」
「何?」
「これはあの雲のことが沢山書かれた紙なんだが」
「あの雲がルカが生まれた頃からあるのは知ってるかな?」
「うん」
「あの雲はな、実は父さんが生まれる前からずっとああなんだ」
「ずっとずっと前からあるってこと?」
「そう。だから今まで晴れたことなんかないんだ」
「それどころかどんどん分厚くなっていく。父さん達が生まれた頃より光が差さなくなっている」
「…………」
父の話を私はにわかに信じられない。というか、幼心に信じたくなかった。でも真剣な眼差しは嘘とは思えない。父は直すどころか私から目を逸らさない。今父が言っていることは本当なのか。今日は嘘をついて良い日でもない。
いつもより父が大きく見えて少し怖かった。
「本当?」
「本当だよ。ルカには嘘をつかないよ」
昔から何も変わらない雲。どこまでも続く雲。時間の経過というのは早いものだ。三十分以上立ち尽くしていた。父のそばまで駆け寄って何とかならないかお願いする。
「お願いお父さん。私何でもするから」
「ルカは優しいな。でもそう言う事はあまり言うなよ」
「どうして?」
「ルカが嫌な思いをすることもしなくちゃいけなくなるぞ」
「うーん……。それはイヤ」
「そうだね。ルカはそう言う事もちゃんと言っていかないとね」
「うん。だから何でもは出来ないけどやれることはやるよ?」
「ルカ……」
「お父さん……?」
「父さんだって信じたくないさ。だから色々と確認していた。これでやっとルカに全部教えられる」
「全部、教えてくれるの?」
「なんだと思う?」
「分からないから聞いてるんだよ」
「そこは自分で考えて欲しいな」
「うーん。分かんないよ。教えて」
「一回しか言わないからちゃんと聞くんだぞ」
「うん」
そう言って私は父にすり寄る。別に離れていても部屋が小さいから十分聞こえるのに前に前に出ていた。
「あの雲は向こう側へ抜けるのに数十年かかる」
「っ……」
その一言は父から言われた最後通達。私は言葉に詰まる。声が裏返って変な声が出てしまう。
「それだけ分厚いから向こう側に行くのは難しいんだ」
その事実は私を一気に現実に引き戻させた。夢ばかり追いかけて雲を突き抜けることばかり考えていた。
数十年。今ある道具で一番早いものを使ったってそれくらいかかると言われた。その時の私の顔はどんなだっただろうか。
5歳だった私にとって早めに訪れた事実だった。
「お父さん……嘘は良くないよ、私が鬱陶しいの?」
「嘘じゃないしルカは鬱陶しくない。時間は掛かったがこれで私の研究は終わりだ」
「父さんはこの事実が分かって満足だよ」
「本当?」
「本当さ。ルカにもいつかこういう風に熱中出来るものが見つかるといいな」
「じゃあルカも満足する。バンザーイ」
私は両手を目一杯掲げて喜ぶ。
その時に父の後ろの窓から見えた雲に、私は何も感じなかった。
「ルカも熱中出来て楽しかった」
「だから私はもっと熱中してみたい」
「ルカは大人だな」
「今すぐに見つけるのは難しいかもしれないけど、お父さんも手伝おうぞ」
頭をナデナデされる。父の手はゴツゴツしているがゆっくり撫でてくれるので痛くない。だがそんな父の目は死んでいる。
生きる目標をなくした人間というのはこんな顔が出来るのか。
とても子供と一緒にいる時の顔とは思えなかった。最後に高い高いされる。私を簡単に持ち上げてしまう。父は背が高かったので空を飛んでいる気分になれる。
「ルカも確認してみるか?」
「どうせ分かんないよ」
「……そうかもな、ごめん」
私は黙ったままで何も言えない。ふて腐れている時は何を話してもダメだって父も知っていたから何も話してこない。
父の体は温かいけど居心地は悪い。
「ルカ……泣いて良いんだぞ?」
「泣かない」
「…………」
「泣かないもん。私は強いもん」
自分で自分を慰める。父の腕の中で一生懸命強がる。父の胸の中は温かかった。
「ごめんな、今日は何が食べたい?母さんに頼んで美味しい料理を作ってもらうぞ?」
「いい」
「ルカ……これだけじゃないんだ、今からもっと沢山の事を知っていくと良い」
「…………」
「上手く励ましてやれなくてごめんな」
「~~~~」
私は泣いた。
父の腕の中で思いっきり泣いた。鼻水もお構いなしで泣いた。父の匂いに包まれて何だか安心した。今まであんなところに本当に行けるのか、自分でも分からなかった。だから無理だって言われた時は正直、安心した。そんな場所に行けないって知って、諦めることが出来たような気がした。今までは夢とか言いながら本当は怖かった。いくら父が肩車しても届くわけない。
「ルカ?いつか大きくなったら一緒に色んな所を見て回ろうな」
「まだ実感は湧かないかもしれないけど、世界はもっともっと広いんだ」
「ルカが夢中になれる何かもきっと見つかるさ」
「お父さん……」
当時の私には父の言っていることはあまり分からない。分かりたくもない。でも父が嘘をついているようにも思えない。だからこれは信じるしかないのだ。私の中のよく分かっていないこともそれはそれとしてやっていくしかない。だから私は一言だけ伝える。
「ありがとう」
「どうした?」
「別に。何でもない。それよりもっと褒めて」
「それはルカが何かお手伝いをしてくれたらな」
「じゃあお母さんにも伝えてくる」
「お願いするよ」
私は父の手からすり抜けて母の元まで駆け抜ける。ただ伝えに行くだけ。それで褒められてお菓子を貰う。たったそれだけなのに。
私はこの事を忘れられずにいた。
父と私と弟
「そんなこともあったな……」
ふと思い出す。
あの頃と父は特に変わった。
段々拭抜けていくようになった。家事をきちんとこなし、毎日必ず家族みんなで食事を済ませる様になった。仕事も農作業をこなして自給自足をしている。でもそう言う事じゃない。
父からは雲の研究をしていた頃の覇気がなくなっていた。
もちろんそれは生きていくうえで必ずしも必要なものというわけではない。だから心配するようなことなんてないのだが…。
雲が動いている。
空一面に広がる雲だけどずっと見てきた私だから流れが見える。向こうの方に流れていくのを感じる。目を閉じて横になっていると体への感じ方がよりはっきりしてくる。
「お姉ちゃん?」
はっきり言ってくる父をよそに弟の方に目をやる。おにぎりだけでは足りなかった弟が泣きついてくる。なんとなく言いたいことは分かった。
「お腹空いたんだけど……どうしたのお姉ちゃん?」
「いや、別に」
「ねえお姉ちゃん、お腹空いた」
「今食べたばっかじゃん」
弟の訴えかけてくる目からは逃れられない。そんなにキラキラしていたのか……。原因は私にあるんだから無下には出来ない。
「でも……そうだよね」
「うーん。でももう残ってないし帰るまで我慢できる?」
「お姉ちゃんは何か持ってないの?」
「もうないよ」
「分かった。探してくる」
「……?」
母親譲りで頬に一杯詰め込んでモシャモシャしている。とりあえず口元に付いたままのご飯粒を食べさせる。美味しそうに味わう弟を見ていると何だか私もお腹が空いてきた。
「お姉ちゃんはお腹空かないの?」
「もう……」
そのせいか昔の余計なことまで思い出す。ひもじい時は何を食べていたか分からなかった。思い出すだけでお腹が痛くなってくる。
最初の頃は何も食べることが出来なかった。
他のことでごまかしている内に気が付くと吐き気が込み上げて、今まで食べようとも思わなかったものを口にするようになっていた。その頃からかもしれない。好き嫌いをしないようになったのは。
「いらない」
そう言うと向かいに座って食事をしていた母が不思議そうに私の顔を覗き込んでくる。
「もうお腹いっぱい?」
「後で欲しいって言ってもあげないからね」
「……」
「…………」
「やっぱりいる」
そういうと母はにっこり笑って私のお皿に多く盛り付けてくれた。隣にいる弟がこっちを見てくるけど気にしない。
食事は母の担当で何が出てきても弟と半分こすることが多い。
その頃私は一日一食くらいしか食べてなかったから今より痩せていた。みんなで食事をしたくなかったのかもしれない。でも一人だと何も食べる物がないから家の周りに咲いている野草を図鑑で調べて食べていた。父と母からは反抗期くらいに思われていたらしい。
あれはいい思い出だ。可愛かった頃の私の思い出。
そして今、弟も私の通った道のりを進もうとしている。目の前の弟は取って来た獲物を私の前に並べていく。そしておもむろに手を合わせる。
「いただきます」
「待って」
「手なら洗ったよ?」
私の方を向いてキョトンとしている。確かに弟の手は綺麗で爪の間の汚れも取れている。
「じゃなくてそれ食べるの?」
弟は鎌で掘り返したダンゴムシを食べようとしている。お腹が減っているのか、それとも暑さでおかしくなったのか。食べ足りない弟の探求心は止まらない。
「…………」
もしかしたら意外に美味しいかもしれない。小さい頃に一度だけ食べたことのあるチョコレートみたいな味がするかも。
「おーーい!」
そっと手に取ろうとして父が私達を呼ぶ声にハッとした。手の中に虫を握りしめている弟を追いやる。
「とにかくそれを戻してきなさい」
私がそうさせようとしても弟は中々言う事を聞いてくれない。渋って私を見つめてくる。
「ええ、じゃあ……」
「?」
「お母さんにあの事言っちゃうからね……」
「お父さんにあの事言っちゃおっかな~?」
「うう……」
そう返すと打つ手がなくなったように小さくなってもじもじしている。
「…………」
「お父さんには黙っててね……」
懇願してくる弟を無下には出来ない。
「早く戻してきなさい」
走っていく弟は可愛らしさの中にあどけなさも残っている。
だからか、何だか突き放す気にもなれない。というか母に似たのか、小さくまとまっている雰囲気が可愛い。背丈は私と同じくらいだけど猫背なのも相まってそう見えている。
朝。
明け方で私の体もまだ半分寝ていた。でも頭は起きたままだった。というかほとんど寝ていなかった。
今日はあの日なのだ。
まともに眠れる訳もない。遠足の前の日の小学生みたいに楽しみで眠れなかった。いい香りの元を辿って台所まで降りていく。
「あ~暖かい」
「おはよう、ルカ」
「おはよう」
台所には先客がいた。こんな朝早くから父がコーヒーを啜っている。白い歯が覗いているいい笑顔。
「ルカもいるか?」
「私が飲めないの知ってるでしょ」
確かに私はコーヒーは飲めないけどこの香りは結構好き。淹れたての良い香りが辺りに広がっている。換気のために窓を開けると冷たい風が吹き込んでくる。
「こんなに早起きして珍しいな」
「いや、これから寝るとこ。夜には起こして」
「ルカも夜更かししていたのか」
「ルカも?じゃあお父さんも……」
「だからお母さんに起こしてもらえ」
「ええ、お母さんじゃ一緒に寝ちゃうよ……弟に起こしてもらうか」
「……そんなに楽しみか?」
「お父さんこそ」
いつもと全然違う。
あんなに優しい顔をする父は初めてだ。その父を見て母も嬉しそうだ。今日は普通の日ではない。
「まあこんな日にする話でもないんだが……」
父は言いづらそうにその話をする。私も父と目線を合わせないようにする。持っていたコーヒーを置いて流しに置いて腕組みをしていた。
「ここは村とも距離があって最近の情報は全く入ってこない」
「みんなの事を知りたいとかはないのか?」
父ははっきり見てる。
私の方を向いて話をしている。私だってちゃんと答えなきゃいけないのにこういう時に目線を逸らしてしまう。
いつだってそうだった。
こうなる前からも私はそうだったし、父と母が色々やってくれるから今がある訳で。みんなに迷惑が掛かっているのは薄々気付いてた。
その時は昔の友達が連れ立ってくれるので不安はない。
「今日はいいじゃん。その話。」
「まあでも弟がいたらふがいない姉ちゃんでごめんねって言うんだろうけど」
「…………」
弟がそんな質問をしてきた時についそう言ってしまった。弱音を吐いてしまう。
コーヒーの香りで我に返る。
「早く飲まないと冷めるぞ」
父はもう飲み終わって流しに自分のマグカップを浸けている。
「まあ、父さんもそうだったし母さんもそんな感じだったからな」
遠き日の事を思い出したのか、私の顔に母の面影を思い浮かべている。
「それと後でお前に聞いておいて欲しい事がある」
「何々?私の話?」
「気にするな。後で言う。それより今の内に寝ておけ」
父は足早に部屋の方に戻っていく。
隣から自分の分を持つと手に僅かに温かさが伝わってくる。さっき入れた砂糖が底の方でダマになっている。コーヒー自体もぬるくなり始めていた。
母の話
母視点↓
夜。
私は居間でポツンと一人。
朝方作ったコーヒーを手元に置いて昨日のあまりものを突っつく。
「……これはあんまり美味しくないわね」
夜は自分の舌が普通になるからちゃんと味が分かる。味オンチも猫舌も頑張って直したけどそれは夜の間くらいにしか機能しない。
でもだからこうして一人の晩酌は楽しい。
私はお酒が飲めないからいつもコーヒー。ブラックが好き。
お父さんも色々部屋に閉じこもっていつも何かやっている。
でもたぶん私もそれなりに気にはなっている。
こんなことが本当にあるだろうか。私も私の両親だって見たことはないのだ。気分がフワフワして、辺りを見渡した時、お父さんが私の方を見ていた。
「母さんか……まだ起きてたのか」
「あなたこそ……私と話なんかしてて大丈夫なの?」
「準備なんかもうとっくの昔に終わったさ。後は寝るだけさ……」
「雲が晴れるんだ。ルカ達も嬉しそうだったぞ」
「ええ、みんな知ってるわ」
昨日も今日も明日も一週間後もずっと曇り、そんな毎日が変わる。
私が生まれた時からずっと変わらない。でもついにやってくる。
何百年かに一度の晴れる瞬間。
「中々寝付けないのね、分かるわ」
「母さんも寝付けないのか?早く寝た方が良い。身体に悪いぞ」
「あなたに言われたくないわ」
「「…………」」
「もう寝る」
「待って」
「何だ?」
「お休みなさい。ちゃんと言わなきゃだめよ。子供達が真似したらどうするの?」
「…………」
「お休み、母さん」
「おやすみなさい、あなた」
ルカ視点↓
「どうなの?ルカは他の事にあまり興味なさそうだけれど」
台所で食器を洗っていた母が顔を出す。でも特に何も言わない私の顔を不思議そうな顔で見つめてくる。こういうのが母は得意だ。自覚がないにしても結構グイグイ来るから引きずり出されてしまう。
「?」
だから嘘なんかつくと直ぐにばれてしまう。
このくりくりした目には大抵のことは見透かされてしまう。
「私だって興味あるよ。色んなこと知りたいって思うし。弟もそうだと思うけど」
「母さんはルカが色んな事に興味を持とうとしているだけで嬉しいわ」
「…………何?」
「まだ何か隠してるでしょ?」
「っつ……そんなことは……」
「じーっ」
「ふあ……今日はもう寝るわ。先に戻ってる」
「誤魔化すの?何か隠してるでしょ?」
弟は寝る時も嬉しくてずっと窓の外を見ていた。いつもなら直ぐに寝てくれるのに窓に噛り付いて離れようとしない。
「明日は何が食べたい?」
「シチューなんてどうかしら?体もあったまっていいと思うんだけど」
「ああ、いいんじゃないか?」
「本当!?じゃあ昼間の内にお肉をさばいておいてくれないかしら」
「……ああ」
何故か弟は食欲のない感じがした。
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ。それより明日ね、雲が晴れるんだよ」
「だからもうちょっと……」
「まだ見えないわ。それより明日寝過ごす方が大変よ?」
「そりゃそうかも。お姉ちゃん、早く寝よ?」
「ルカと一緒に寝れば?ルカはあったかいわよ?」
「お母さんがそう言うなら……弟、こっち来て」
「じゃあ、お休み。二人とも」
「うん。お母さんもお休みなさい」
どこか浮かない顔は晴れない。それでも嬉しそうに自分の知識をひけらかしている。私も勉強なんかロクに出来ないけど文字の読み書きや簡単な計算はお父さんから教わった。
「ルカはやっぱり……」
未だに信じられない。
小さい頃からずっと言われてきた事が現実になるのだ。まだ誰も見ることが出来なかった世界。そしてその日から見ることが出来る世界。
嫌なことも忘れたい思いもあったかもしれない。私の村は前の晩からお祭り騒ぎだった。父も母も普段は中々見せない顔をしている。私は弟と二人でダラダラしていた。そこへ何の用事もなさそうな顔をした母がやって来る。
「…………」
「あら、私はお邪魔だったかしら?」
「そんなわけないでしょ」
「うーん……ルカが無理やり連れてきてるの?」
「そうじゃないけど。やる事ないなら一緒にいよって言ってるだけ」
「それにしてはいつもルカに付いて回ってるわね……弟は昔からそうだったっけ?」
「そうだよ。小さい頃から私にべったりくっ付いて回ってたよ」
「それはルカが連れまわしていただけでしょ?」
「どっちでもいいの」
言われてみると確かにずっと一緒なのかもしれない。それこそ生まれた時から――。
~回想 ルカ5歳 弟 まだ喋れない~
弟が当時の私と同じぐらいの歳になった時、丘まで肩車をして登った。
今ではすっかり父の仕事を手伝ったりしているが、当時はまだ小さかった。私より小さかったかもしれない。その日は寒くないのに弟は全然外に出たがらない。でも私は直接見てほしいと毛布に包まったままの弟を引っ張り出して外へ出る。
「寒い……早く行こうか」
「う~」
外に出た後、すぐに肩車して丘まで向かう。毛布を着たままの弟が背中をよじ登ってくる。そんな弟が体を震わせながらそう言っていた。ご飯を食べたばかりで眠くなっているのかもしれない。
「う、う~」
「寒いの?もう一枚着てこようか」
確かに私の頭の高さは今の弟には寒いのかもしれない。でもこれくらいの方が眠気覚ましにはちょうどいいかもしれない。
「う?」
弟は私の頭をがっちり掴んで恐る恐る空を見上げる。
その日はいつもより日が差していた。合間合間から日が差すことが合ってもその向こう側は見えた事がない。でも見える、そんな気がしてちょっとは期待する。私も弟が出来てからはまた外に出るようになった。
「ありがとね」
「う?」
弟はきょとんとした顔をしている。そこに母の作ったシチューが置いてあるかの如く嬉しそうな顔になる。思わず食べようとしてくるので口元のよだれを拭く。
「どう?見える?」
「う~」
口を尖らせて唸っている。寒さを我慢して毛布を剥いでもやっぱりそのまま。見えなくて機嫌が悪いのか、私の髪を引っ張る。
「うう~」
見た目は小さな手をしているが遠慮がないので結構持って行かれる。
返事をする時は髪を引っ張って、そうじゃない時は引っ張らない。力加減していないので結構強い。昔の自分の事を思い出して簡単な返事で済むように話す。
「私が飛べたら良かったね」
「うん!」
本当に嬉しそうに頷く。母には良く見せる笑顔でも私の前では中々見せない。
でもその言葉は嘘じゃない。
「弟が先に生まれたら良かったのにね」
私の中の願望も含まれていて。
最近は父のやっていることにも理解が出てきたから余計にそう思う。昔からずっと窓の外を眺めていたけど、その向こう側に行きたいと思うのは至極当然の事だと思う。
「あれもこれも弟のお陰か……」
弟が出来てからまた父に手伝いをさせてと頼む様になった。私は母が諸々の準備をしたりしている間にみんなのご飯を作るくらい。それからご飯作りが当番制になった。
結局、昔は言っていたころから今になるまで改めて入ったことはない。父が何を考えているのか。普段は私や母とも普通に話すのに部屋には誰も入れさせない。
「うう~」
「はっ……ごめん」
髪を弟に強めに引っ張られて目が覚める。
目をキラキラさせて、まるで昔の私みたいに興奮している。肩車して弟が手を伸ばす。
「綺麗……」
空に向かって両手を伸ばす。
前かがみになるのを私が支える。何かを見出された子供が空に向かって羽ばたく準備をする様に。選ばれた子供がそこへ向かうかの様に。
まるで見えないはずの向こう側を見ているみたいだった。
「それ」
「うう~」
そんな弟にちょっかいを出すとプンプン怒り出す。顔を真っ赤にさせて頭を叩いてくる。でもその力は強くないからマッサージくらいにしか感じない。気持ちいいからついやってしまう。
「うう~」
母に似たのかもしれない。泣き顔は私に似ている。でも怒った感じはどことなく母の雰囲気もある。伝統を受け継いで弟も自分の子供にやったりするのかも。風が出てきたので今日はこれくらいにする。
「う~……」
お腹のなる音がする。弟はお腹が空くと低めの声で泣く。泣き顔もいつもより苦しそうになる。私の顔がシチューに見えて仕方なくなるらしい。かじられない様に早めに歩く。
「お腹空いたね、早く帰ろうね」
帰り道の間、弟は泣き止んでいた。でも家が近くなると何故かまた泣き始める。今度はお腹が空いている時とは違う泣き声だ。
「おかえり」
「ただいま」
そんな弟に母が駆け寄ってくる。私は急いで弟を呼び止める。でも遅い。こういう時の母はすばしっこい。あっという間に弟の元まで駆け寄りあやしている。弟は泣きべそを掻きながら母の腕で抱かれている。
「待ってよ~」
「うんうん、よしよし」
「うう~」
「そうね、お姉ちゃんがいじめるのよね」
頷きながら母が話を合わせる。
弟に目線を合わせると頭を撫でながら話を聞く。しゃがんだ母は普段よりもっと小さくなってなんでも話せちゃう雰囲気が出ていた。そんな雰囲気に弟は包まれて泣き顔もいつもの顔になる。つたないながらも覚えたての言葉を話す。しゃがんだ母は弟より小さくて小さな声で話しかけている。
「そうよね、結局はお姉ちゃんなのよね」
「う~」
「お姉ちゃんは昔から我慢が出来なくてね」
一つ一つ丁寧に話していく弟をせかすことなく聞いている。弟が泣き止んだところで既に鼻と耳が真っ赤になっている弟に話しかける。
「しょうがないのよ」
「うー……」
「ルカはあなたの事が好き過ぎておかしくなっちゃったの」
弟は直ぐには意味が分からなかったらしいが、ちょっとすると赤くなって俯いた。顔を両手で覆って隠そうとする。
「う~」
そのまましゃがみ込む。
もはや顔全体が真っ赤だった。指を合わせてさっきよりもじもじしている。お腹が空いた時も私にああいう仕草を見せる。私に何か言いづらい事があるという事なのか。そういう時は蚊の鳴くような声で呟く。
「どうする?お姉ちゃんを懲らしめようか?」
そう言いながら弟の頭をナデナデしている母。自分が夕飯の当番の時の母は強い。母のご機嫌を損ねると食べ損ねるからみんな当番の人には気を付ける。昨日は父だったから代わりに私が作って貸しにしておいた。もちろん弟は当番とは違うが料理に興味を持ち始めている。弟は元々鼻が利くので食材選びが得意なのだ。そんな弟は指を加えながらもやがて
「う」
困った様子でそう頷いた。よしよしされて私の方を向いてくる。?の字になった眉に充血した目。よだれが垂れている口元。私の顔をまるで新しいお菓子を見つけた様にじっと見つめてくる。
「やっぱり可愛い!」
「う~」
私は居てもたってもいられなくなって走り出す。それを見た弟は驚いて恥ずかしそうに後ずさる。私はじりじりと距離を詰めていく。袖口にコメが固まったまま引っ付いている。私には美味しい獲物に映る。
「う~~」
「…………ルカ?」
母が真顔で私の行く手を阻む。
母の目に光が灯っていない。
我に返って立ちすくむ。怯える弟をもっと見ていたいが、背後から母の視線を感じた。家での母は最高権力者。夕食抜きなんて朝飯前。私だって今日は何だかいつも以上にお腹が空いている。これ以上やると大変なことになりかねない。
「部屋の掃除でもしよっと」
そそくさとその場を退散したのだった。
~回想終了~
そんなこともあった。
再び美味しそうな匂いに我に返る。あれから自分の部屋に戻ってそのまま寝て、そして一日が終わろうとしている。台所から料理をしている音が聞こえる。今日の当番は母だった。
「………いい匂い」
元を辿っていくと母が台所でシチューを作っている。
「おはようルカ。よく眠れた?私が何回起こしたと思ってるの?」
「おはようお母さん……朝は弱いから」
「今は朝じゃないでしょ……取り敢えず準備して」
もう夕ごはんの時間だった。
「まあ少し話しましょう?」
「そうだね……最近のお母さんは何だか可愛くなってるね」
最近の母は乙女に戻っているような気がする。
父に対して可愛く見られたいとか美味しいって言ってもらいたいとか。シチューを煮込んでいる時にそんなことを聞いた。父から面と向かって愛しているなんて言われたらどうにかなっちゃいそうだってフワフワしながら言っていた。
私もこんな風になりたい。
いつまでも乙女とは言わないけどパートナーをずっと尊敬出来たら良いと思う。
「あれ?お母さん指輪しないの?いつもしてたと思ったんだけど……」
「あああれ?まあ、今日はそういう日だけど私の指に合わないのよ」
母の左手の薬指にはめられた指輪。
結婚指輪のはずなのにサイズが合わなくなっている。
太くて入らないんじゃなくて指輪が大きすぎて抜けちゃう様になった。年々母は小さくなってきているし若くなっているように見える。平気で姉妹に見られる。その度に照れくさそうにしている母を見るとホントに妹に見えてくる。
「だからってあげないわよ」
「いらないよ……」
台所の方は隙間風が酷かったのにいつの間にか塞がっている。
「お父さんが直してくれたのよ」
母がニコニコしながら私に自慢してくる。腰に手を当てて鼻息荒く語る母はいつもより一層可愛らしく見えてちょっかいを出したくなる。
「そのマフラーちょうだい?」
母の首に巻かれたマフラーモフモフしていて母が埋もれている。暖かさとは違う温もりを母の顔には映っていた。
「これはダメ。お父さんの手作りなの」
それは知らなかった。
てっきり父に贈る分の失敗したのを着けていたと思っていたのに。
「贈ったのにお父さん中々着けてくれなくて」
そういった母はどこか寂しそうで顔に一つ暗めのトーンが掛かっていた。
「お父さんたち遅いね」
「いつものことだよ」
いつもより笑顔でそう呟く母。家の中は暖房で暖かくなっていた。
その中で私と母の二人きり。
「ごめんね。お父さんも中々頑固な所があってね」
「それ、みんな思っているよ」
母は微笑む。この笑顔に父もやられたのだろうか。
「昔からああだったの?」
「そうね、昔はもっと内気で守ってあげたくなっちゃうのよ」
母が遠い目をしながら昔を思い出す。
「あれはもう何年前になるかな。初めて此処に越してきた時。あの頃はまだ若かった。お互いに夢を持ってて結局それぞれを大切にしていきたいってことで、子供は作らなかったの。」
「村の小さな下宿を二人で借りて共働き。貧しいけど楽しかったわ」
「そしてあなたが生まれた」
「生まれてからは一人の人としてじゃなくそこから家族になったの」
「私が子供を育てるなんて、って思ってたけどあなたと一緒に私も親になっていったわ」
「あなたと私は一緒に成長したのよ」
母は強い。
妹みたいに可愛くて子を育てて、逞しい人だと思った。
「お母さんには敵わないな」
十年くらい前に木で建てられて夫婦と二人の子供を見守ってきた。
部屋の隅の植木鉢には拾ってきたどんぐりが植えてある。弟が毎日水を欠かさずにやっているが芽が出る気配はない。テーブルに手を付けて椅子を傾けながら台所の母を見る。ランプの明かりが部屋を包む。それでも隅の方は暗い。大きな鍋でコトコトとシチューを煮込んだのか。大切に汚れをふき取って長持ちしている。
「この鍋も買い替えなきゃ」
食べ終わった後に入るため、お風呂も焚いている。煙突から湯気が伸びていく。
「あの煙突も設置するの大変だったの」
「でも結局お父さんが一日でやっちゃって」
私の家の周りには足跡はあまりない。
家族以外で家がある山まで登ってくる人は少ない。それでも各地にある山には自給自足をしている人が住んでいるのだ。探し物をしながら暇を潰そうとしている母。この母と大柄な父がこの家を半年かけて建てたのか。母にとっては荷物運びが精いっぱいだったかもしれない。でも母の頑張る姿を見ると父は人一倍元気になるのだ。でもそのせいか余計なことまで母にさせようとするから困り者だ。母のそんな姿には私も元気になる。両親の部屋と私たちの子供部屋で区切ってある。今度また新しい家を建てようかと計画中である。
プルプル震える母の肩を抱く。
母の手は意外と冷たい。
本当に妹みたいで気が付くと抱きしめていた。
「突然どうしたの?ちょっと離れててよ」
「私、温かいでしょ?お母さん冷えてるからこれで丁度良くなるよ」
「私は心が温かいからしょうがないわ」
「…………」
「ルカはさっきまで寝てたからでしょ?私はこの寒い中一人で料理してるからなの」
「そんな言い方されたら……ごめんお母さん」
「ルカはあったかい。もう元気になったわ」
「お母さんはまだ冷たい」
「さっきまで外にも行ってたから。私にも準備はあるのよ」
「そりゃまあそうだろうけど……それにしても冷たいね」
「今日はみんな集まるのかな」
「こんな大きなお祭りは中々ないから普段こういう所に行かない人でも行くでしょうね」
「他の家の子もこんな気持ちかな?」
「それは分からないけど楽しみにしてる人は多いわ」
「私も早く済ませちゃうから」
「そう言えば丁度このくらいの時期だったね……弟が生まれたのって」
「…………そうね」
~回想 弟~
弟が出来た。
その日私は自分の部屋でその瞬間をドキドキしながら待っていた。ドアにぴったりと耳をくっつけて体育座りしていた。
「頑張って下さい。もう少しです」
「…………」
その日は冷え込んでいて中々出産が開かなかった。いくら温めようとしても体の震えは止まらず子宮口が開いていなかったらしい。
いつまでたっても寒いままだし、この時間はずっと続くし……。
私だって寒かったんだから母はこれより寒い思いをしたんだと思う。
「お父さん遅いな……」
始まって大分時間が経つというのに父が現れる気配はない。そのまま時間だけが過ぎていき、そして――。
「生まれました」
隣の部屋から聞こえる産声に急いで扉を開けた。そこには生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて微笑む母の姿があった。赤ちゃんをとりあげたこともある人に手伝ってもらって何とか赤ちゃんは生まれてきた。家の周りには隣の山に住む人も赤ちゃん見たさに詰めかけている。
「ルカ、こっちに来て」
母に呼ばれて赤ちゃんのそばまで駆け寄る。
母は生まれたばかりの赤ちゃんをそっと抱きかかえていた。憔悴している様ではあったが、あやすその姿は普段とはまた違った優しさを兼ね備えていた。
「ルカも抱いてみる?」
私は頷いた。
触ってみたかった。母から差し出された赤ちゃんには重さを感じた。この重さには命が詰まっている。髪の毛もまだあまり生えておらず手も本当に小さい。
思わずうっとりしてしまった。
ほっぺをぺたぺた触る。柔らかく弾力があって跳ね返してくる。父と母の遺伝子を半分ずつ貰って生まれてきたこの子はどんな子に成長するのだろう。この子がお父さんみたいに大きくなることもあるかもしれない。呼吸をする度に胸が上下に揺れる。母は優しい目で私たちを見ている。
「元気に生まれてくれてありがとう」
ぽつりとそんなことを呟く。
その時の母の表情は今後中々見られないかもしれない。
母がハッとして台所の方に目をやる。父はまだ生まれたことに気付いていないのかも。
「ねえルカ……お父さんは?」
「…………」
「今、呼んでくるよ」
「お願いね」
そう言った母の顔は早く見せたいという気持ちで溢れていた。私はバタバタと父を呼びに行く。その私の表情から赤ちゃんが生まれたことに気付いたようだ。慌てて中に入る。
「生まれました」
「ありがとな、母さん」
普段は雲の事ばかり考えてあまり家族の方には手出ししないと思っていたが、こういう時にしっかり喜べる父。
父の目は光るものが浮かんでいた。
疲れた母は赤ちゃんと一緒に横になる。父はベッドの縁に腰かけて二人を眺めていた。
私もお母さんみたいに子供を産んだりするんだろうか。誰かと結婚して子供を育てていく。新しい家族の誕生。純粋に嬉しかった。
~回想終了~
「そんなこともあったわね」
「特に大きな怪我もなく素直に育ってくれて……ルカもそう思う?」
「…………ルカ?」
「今日、弟が向こう側へ行きたいって」
「あの子ももそう言う年ね……まあ仕方ないわ。ルカはどう思うの?」
「あの子の自由にさせた方が良いと思う?」
「私の時もそうだったね……お父さんもお母さんも反対だったんでしょ?」
「あなたの時はまだ小さかったから……」
これは割とあり得る話。
第三次性徴が弟の身にも起こって際限なく大きくなる。そんな話をしなければならない。
「誰にだって起こるって言うし、好きにさせて欲しいって思っちゃう」
「そう、ルカはそう思うのね。でも私は止めたいって気持ちが大きいわ」
「やっぱりそうか……」
「私が嫌だったから」
「嫌?」
「今なら止めなきゃいけないってそのまま思えるけど、私の時は家族が止めてくれなかったの」
「お前の好きにしなさいって。何が起こってもお前の責任だぞって……」
「私は何か悪い事でもしたのかなって……だから私はこんな扱いなのかなって」
「無視されたような気がして嫌だったわ」
「だから私はちゃんと受け止めてあげたいの。結果として反対するとしても」
「……お母さんらしいね」
みんなと時間がずれるからご飯も一人で薄暗い中食べている。その時を見計らって私と母は父を問い詰める。
「母さんにルカか……こんな時間になんだ?」
「お父さん。これはどう言うこと?私にはよく分からないよ」
「……今はこういう時期が必要なんだ」
「あなた、ルカの質問にはちゃんと答えて下さい」
「そうだな……自分でも愚かな行為だと思うよ。お前達とゆっくりできる場所を求めて此処に家を建てたのに今はみんなを避けている」
「でもいつか必ず身を結ぶ日がやって来る。だから今はそっとしておいてくれ」
「お父さんの行動は体が大きくなるのと何か関係があるの?」
「…………」
「お父さん……弟が出来た時もこんな感じだったよね」
「!」
父の表情が変わる。
食べかけのシチューを溢しそうになる。口に入れたシチューを飲み込むのも忘れて母を食い入るように見つめる。
「母さん……」
「お父さんがそんなだからそれを中々言えなくて」
「その時だって立ち合いには来たけどそれだけで……不安で一杯だったのに」
「お父さんはお母さんのこと何も分かってないの?」
「私はそんなお父さん見たくないよ」
「だから答えてよ!」
「ルカ……それは違うわ」
隣で静かに聞いていた母が私を止めに入る。母は体を大切にしてほしい時期に父がこんなになってるなんて。
「お母さんは何でそんな……」
「私があなたのことを分からないと思っているの?」
「可愛い一人娘のことだってちゃんと分かるわ」
「でも最近は自分の事もちゃんとしないといけないから疎かになってしまっていたけど」
「今だってあなたが何を思って、何をしてほしいのか。全部分かるわ」
「でもルカの言いたい事もちゃんと聞いておいて欲しかった」
「母さん……」
「お父さんはそれでいいの?」
「私はあんまり分かってないよ」
いくら母に言われても父が何を考えているのか分からなかった。父はどうしても向こう側へ行きたくて、その気持ちだけで動いている。そうとしか思えない。
何が起こってもだいたい母が納めてしまう。料理も母が一番美味しいし、みんなの言っていることを正しく聞き取って行動できる。だからそんな母には今の私が見えない何かが見えているのか。
「そこまで思ってしまうものにあの人は出会った」
「それがあの分厚い雲だった」
「…………」
「私には良く分からないけど……ルカになら分かる日がくるんじゃない?」
「…………」
「お母さん……」
「弟、どうしたの?」
「お父さんちょっと待ってて」
「?」
テーブルに置かれたシチューは少し冷め始めていた。静かな部屋に時計の音だけが響く。その内に弟に連れられて台所まで戻る父。
「お父さん……」
ちょうど冷めない様にシチューに蓋をしようとした時だった。母が贈った長めのマフラーを着けて少し照れくさそうにしているが良く似合っていた。
「……」
「とっても…似合っているわ」
「ごめんよ母さん。変に照れちゃって……」
「結婚17年目、おめでとうございます」
「ありがとうルカ、弟」
父も母も若い頃に戻ったようだ。
でも昔はもうちょっと痩せていたかな。母の贈ったマフラーを着ける父。手入れしていないマフラーはパサついていたが暖かさには変わりない。着けてみると父には小さい感じだが母の大きな愛情で包まれていた。母の目にはどう映ったのだろうか。中々着けてくれなくて不安になったかもしれない。突然のことで少し惚けている様子だったが想いが言葉に出ていた。父と弟を呼んで4人で食卓を囲む。
「いただきます」
母が合掌する。母のいただきますはどんなにイライラしていてもなんだかほっこりしてしまう。味付けは全て父好みで合わせた。
「弟、がっつきすぎ」
弟が昼間さばいた肉に食らいつく。暑いと言ってマフラーを外してシチューを美味しそうに食べる父。
「……やっぱり旨いな」
「フフッ♪」
母は自分の分を食べるのも忘れてみんなが食べる様子をニコニコしながら見守っていた。
「お母さん食べないの?」
いつもの母も楽しそうだが今日の母はそれ以上だった。
このシチューの味も何だか甘く感じた。
「後で食べますよ……あの晩みたいね。あの時もこうしてみんながお祝いしてくれたわ」
「あの晩?」
「ああ、私が宇宙まで言った日の事よ」
祭(1日目 夜)
「忘れ物はない?」
いつもと違う音が村から聞こえてくる。
「そういうのもういいから。早く早く」
村までの道からはいつもより色めき立っている。村が大きな光に包まれている。下っていく途中でお祭りの音が響く。
食べ終わった後に母から外出用の手袋を受け取る。母が編んでくれたマフラーを弟と一緒に巻いた。外は家の中とは違って凍えるほど寒い。今度は耳あても作ってもらおう。
一生に一度のお祭り。
その日は丁度結婚記念日でもあった。
二人だけにするために近くの丘まで弟を連れ出すことにした。
「迷子にならないでね。危ない人に気を付けるのよ」
「分かっているよ」
「楽しそうね……私も付いて行こうかしら」
いそいそと母が家の中からマフラーを取ってこようとした時、一気に夜風が吹き込んだ。
「ああ!?寒い……。やっぱりやめるわ、楽しんできてね」
「行ってきます」
そういうと戸を閉めた。開け閉めするたびに軋む音がする扉。帰ったら父に直してもらおう。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
あーあ、気持ち悪い。
私も弟も寒さで顔が赤くなってしまっている。
これからに期待してこうなっているのもある。
他の村の人ともすれ違う。この日は辺りの村からも人が集う。山に点在している農家の人もほとんどが降りてきていた。
「どうしたのお姉ちゃん?いつもと違う顔して」
「普段私が頭使ってないみたいに言わないで……さっきの事思い出してたの」
「お母さんが宇宙に行ったことあるって話?」
「そう。弟はどう思うの?」
「とってもすごい事だと思うよ!お母さんはやっぱりかっこいいね!」
「自分も行きたいとかは思わないの?」
「行ってみたいよ、とっても」
「だったら」
「でもそれとお母さんの話は別じゃん。素直にかっこいいって思うだけ」
「……そう。弟はちゃんとしてるね」
「?」
~さっきの話(前回の続き)~
「私も宇宙まで行った事があるわ。随分昔だけどね」
「え……宇宙に?」
「第三次性徴。ルカの体にも少なからず起こっていると思うけど。
それが私の時はひどくて、最悪死にそうになったわ」
「へ、へえ~そうなんだ」
「でも宇宙はとっても綺麗だったわ。私のこの指輪なんかよりもずっと輝く物体が沢山見えた」
「本当に綺麗だったわ……」
「…………」
麗しい母の横顔。
どこか憂いを帯びていながらも昔を懐かしむ顔に悲哀は感じられない。むしろすっきりしている。
母の一言一句が私の燻っている気持ちにもう一度明かりを灯した。
向こうはどうなっているのだろう。
どんな奴がいてどんな場所が広がっているのか。一番身近にいたはずの母でさえ見たことがあるのだ。母が遠い存在に思えてくる。母はちょうど第三次性徴の時にそうなったと聞いた。一気に体全体が膨れ上がりそのまま雲を突き抜けて宇宙を垣間見たという。いくら体が大きくなるとはいえ、直接見たことのある人はほとんどいない。
正直、今まで聞いたことも無かった。
でも母は違う。母は私が持っていない経験を持っている。
私なんかとは、違う。
~回想終わり~
「みんな綺麗ね」
「うん」
鼻の下の伸びた弟をひっぱたく。それでもニヤニヤしている。もう祭りは始まっているので先を急ぐ。
「案外早く着いたね」
「人スゴッ…」
あちこちに人が集まり独特の化粧をした人がそれぞれ伝統の踊りを舞っている。何処にそんな人がいたのかと思ってしまうくらい賑わう。はぐれない様にしっかり手を握る。
「あっち!」
弟が指さした先では各々の家畜の大きさを競わせたり、渡来品の展示なんかもやったりしている。
「あれ食べたい!」
「ちょっと待って、あっち見ていこう?」
一際目立つ大きな集まりで女の人が装飾品の施された衣装で踊っている。艶やかで多くの人がその踊りを見つめた。その人は小さい体で大人顔負けの踊りを披露している。衣装の羽が本物の様に動いている。
ほとばしる汗。
「綺麗…」
さっきの踊りの所で足が止まっていた。
「お姉ちゃん早く行こうよ」
「もう少しだけ」
異様な熱気に包まれていた。
つまらない二度とつかわないような玩具なんかも買ってしまう。歩けば歩くほど音も匂いも空気も何もかもが違って見えてくる。人の熱をすれ違う度に感じる。結局人混みに押されてゆっくり見ることが出来なかった。
「二人にも何か買っておこう」
「じゃあ選んでくるね」
「ここで待っているから」
マフラーまで出すことはなかった。屋台で囲まれた狭い道を所狭し人が通る。
ここまで大きなお祭りは早々開催されない。村の端の方まで人で埋め尽くしている。みんな楽しそうだ。暑いとか足が痛いだとか色々聞こえてくるけど笑顔が多い。これから起こることにワクワクが止まらないのだろう。
そんな瞬間を知り合いと一緒に見たい。
そんな思いが伝わってくる。みんなの気持ちが高揚し、祭りが最高に盛り上がる。世界が終わるなんて騒ぐ人もいた。家の中に閉じこもる人の気持ちが分からない。丘まで行く途中にいくつも人の集まりが出来ている。母に手を引かれて来た時と何も変わっていない。いつものおじさんとからかってくる変態オヤジ。匂いにつられて寄り道したけど普段は中々食べられないものがたくさん売っている。お姉ちゃんとしてかっこよくしたかったけど気が付けば弟よりはしゃいでいる。祭りで売られている物はちょっと高いけど気にしない。一つ残った饅頭に手を伸ばそうとして鉢合わせになる。
「あれ?ルカじゃん」
聞きなれた声に顔を上げるとそこには見知った人がいた。食べ物を両手に抱えて口にもくわえながら立っている友人。数年ぶりの再会だった。
「弟ちゃんもこんなに大きくなって」
「言うこと聞かなくて困ってんのよ」
頭をポンポンされる弟はどこか嬉しそうだった。私がする時にやたら嫌がるくせに。友人に抱き付く弟。それを受け止めグルグル回していた。いつも会う時にはやっている。食べ物をいくらか分けてもらい開けた場所に座った。
「今何やってんの?」
「忙しくてさ……今日も一通り見て回ったらまた現場」
「今の内に体力付けとかないと」
彼女は腕っぷしが強いだけでなく肝っ玉が据わっている。
「ふーん、危険なトコで働かされるかもしれないしね」
「私まだ入ったばかりだから」
「あんまりそういうとこには連れて行ってもらえないんだ」
肉マン食べながら身の上話を始める友人。ホカホカの肉マンは湯気が立っていて火傷しそうなほど熱い。辛子を乗せて戴く。熱い分だけ肉のうまさが際立つ。
「そういえば大きくなったね」
「そう?」
彼女を見渡す。いつも大変な現場にいるせいか体が鍛えられている。
頑丈な体が目立つ。
「ああでも…そうでもないかも」
段々顔を下に向けている。目線が体の真ん中あたりで止まった。
あれ、前に会った時より……。
「目線下にするのやめてくれない?」
「……気にしているんだから」
「……ごめん」
そう言ってため息をつく友。
こんな彼女でも心は乙女。さっきより一段と縮こまって見えた。昔はコンプレックスとか言っていたのに。仕事に必要のない部分は無くなっていくのかもしれない。謝るしかなかった。
弟は友と一緒に居る時は必ず友の方に行く。
なつき方がおかしい。
何か特別な餌を与えられているのか。こいつにとってはこれも祭りの醍醐味ということか。口元に付いている辛子を気にすることなく焼き魚を食べ始める友。それぞれ三袋分ぐらいは買ってある。
「僕の分もあげるよ」
「ホント!?(´▽`)アリガト!」
「う、うん……」
そう言って友は弟の頭を撫でる。照れている弟は可愛い。弟も一緒に忙しそうに食べる。ありがたいけどこんなには食べられない。まだ買ってこようとする友を必死で止める。
こんなに嬉しそうな弟は久しぶりだった。
ふと顔を上げている人を見つける。一人、また一人と上を向く。ああ、もうその時間か。同じように私も顔を上げる。
「じゃあ私たち、あの丘まで行ってくるから」
「おう。私はここで待ってるから感想ヨロシク」
「バイバイ、お姉ちゃん」
「弟ちゃんもまた後でな」
古傷に寒さが染みる弟をおんぶして空が一番綺麗に見える丘まで走った。空が透き通っている。首が痛くなる。
弟の鼓動がだんだん早くなる。
つられて私も早くなる。擦り傷に風が染みる。昼間の作業で出来てしまっていた。いつもは動くことすら無い雲がどんどん流されていく。いつも以上に冷え込んでいたけど気にならなかった。
弟も私も分厚い雲が途切れる瞬間を誰よりも早く見てみたかった。心なしか走るペースもどんどん速くなっていった。
宇宙という世界をこの目に焼き付けようとした。
坂道に入っても全く疲れが出てこない。後で一気に出てくるのだろうけどそんなのは気にしない。グングン丘を登っていく。足元の小石を蹴飛ばしながら走り抜ける。
こんなに楽しいのはいつ以来だろうか。
「気持ちいいね」
「姉ちゃんもっと速く走って」
「分かってるって。しっかり捕まっててよ?」
弟が生まれた時に似ているかもしれない。初めて抱きあげた時は真っ赤なお猿さんだったのに。いつの間にこんなに大きくなったのだろう。私より大きくなった時は口をきいてあげなかったっけ。今では何だか頼もしい。
女王視点↓
「暑苦しいな……」
飾りの衣装を脱ぎ捨てる。羽のついたヒラヒラした裾が体に張り付いて蒸れる。丘まではそれほど遠くなかった。それまでに衣装の殆どを脱ぎ捨て楽になる。
「やっぱりいいな、服なんて着るもんじゃない」
さっきのあの子も肉マンを頬張っていた人も誰もが固唾を呑んで見守る。会場全体が静けさに包まれる。静かになってからどれくらいの時間が経っただろうか。それは何の音もなく始まった。何十年と何の変化も無かった雲が動き始める。
ついに動く。
「始まったのか……」
「リーダー、ここに長居するのはお止め下さイ。後の状況は追って知らせますのデ」
「何処にいてもあの物体の前では変わらないさ。それに私は自分の目で見たことしか信じないからな」
「私の言葉だけでは足りないデスカ?」
「お前は言葉だけで自分が受けた感動をそのまま伝えることが出来るのか?」
「それに私はずっと見てみたいと思っていたんだ」
この目に焼き付けねば。
眼孔を見開く。
徐々に雲が晴れていく。空に切れ目が出来ていく。それが広がる度に会場に歓声が起こる。夜だというのに会場は明るくなっていた。その隙間に光り輝くものが見えた。
「宝石みたイ……綺麗デス、リーダー」
「…………凄い」
語彙力の低い私から何とか出た表現。いくつかの言葉しか頭の中で出てこなくて。言葉にすることが今はどうでも良くて。雲が明けていく。
空が次々と広がっていく。
「やはり宇宙は存在していた。父の言っていたことも間違ってはいなかった……」
「そうデスネ……」
作り話くらいに思っていた。
目の前に広がる世界を宇宙と呼ぶのかどうかまでは分からない。だが興味はそそられる。これからこんな世界が待っているのか。子守歌の中で母が話していたくらいと思っていた。
「この目に焼き付けるのだ……漆原」
「ハイ、リーダー」
隣にいる漆原も肩を震わせながら立ち尽くしている。受けている思いを見ているだけで伝わってくる。
小さい頃に父の頭に乗っかったまま眠ったこともあった。ここが一番高いと思っていたから。しがみ付いて離れなかった。今では分からないけど怖くて離れられなかった。自分の名前より早く覚えたかもしれない。
「それと漆原、今日はもう一つ良いものが見れそうだ」
「?」
そして雲が晴れていった。
ルカ視点↓
昔からずっと考えていた答えが目の前に置いてあった。
雲が明けた先は空気が透き通っていて何処までも見わたせた。どこまでなら見渡せるのだろう。限界を感じない。空のその先も見える気がした。
「綺麗……」
空に浮かぶ光り輝く点。
一個一個の点は一体何を示しているのか。一つ答えが分かってもまた次の疑問が浮かんでくる。雲はグングン晴れていく。
そこで気付く。
一つや二つではない。数えきれない程の光の点が空には浮かんでいた。
ただただ綺麗だった。
それが何なのか分からなくても。私が憧れたそのままの世界だった。何者にも縛られることのない開けた世界。辛かったり苦しかったりしたことが全部吹き飛んでいくようだった。
「生きてて良かった」
このまま何もしないでずっとこうしていたかった。体を横にして、ただ何もせず大地に身を委ねていたかった。草木の揺れる音がする。こんなに気持ちいい風は久しぶりだ。まるで天の恵みを喜んでいるようだった。あまり光の届かないところまでも照らし通す。私にもこんな瞬間がやってくるのか。
「……行きたい」
いつか行ってみたい。
触れてみたい。
近くで見てみたい。宇宙という世界はなぜかとても明るかった。
「……」
「…………?」
こんなに明るいのかと少し疑問に思った。そして私はそれを初めて見た。
「……何だろう」
でも私はそれに直ぐに気付く。
お祭りに来ていた誰もが気付いているだろう。空に光る点の中でも一際大きな点があった。もはや点ではなく物体だった。光り輝く球体が空に浮かんでいる。
何かが浮かんでいる。
鉄の塊のようなものが悠然と空間に静止している。表面に凹凸があり丸い形をしたそれはゆっくりと上下左右に動いたりしている。私達とそいつはどれほどの距離が離れているのだろうか。そいつは真ん丸で白のような灰色のような色をしていた。こんなに明るいのにその物体自体はあまり光らない。
ただそれだけ。
ただそれだけなのにその球体には違和感があった。
そこには物体がある。そして浮いている……浮く?この世に浮くなんてことあるのか。それだけじゃない。
動いている。
小刻みに動いている。そこに気付いたのは私だけなのか。みんな平然としている。誰も声を上げない。隣の二人は肉マンを食べ始めている。何もなかったかのように祭りが再び始まる。
「…………」
あの物体はまだ震えている。
さっきからずっと震えている。それでも何も起こらない。二人は踊りにヤジを飛ばしている。
「…………」
三十分くらい経っただろうか。時間の経過がやけに長い。汗が滲む。なぜ誰も声を上げないのか。体調が悪いように見えたのか、弟が駆け寄ってくる。
「お姉ちゃんどうしたの?もう家まで戻る?」
「……大丈夫」
周りにいた人たちも心配して声を掛けてくれる。でも私たちで相談をしても誰も何の答えも持たないだろう。おそらくこの村の人間では説明は出来ない。答えを示されても理解は難しいだろう。
疑問が私の中をグルグルと駆けている中。
弟が友達と話をしている中。
父と母が家でゆっくりしている中。
「え…………?」
体が突然熱くなる。その場に倒れ込む。体中から熱が噴き出る。
第三次性徴。
それは私が夢見たことを叶えるための現象。
そんなことないと思っていたのに。最近は興味も失せたと思っていたのに。何を見ても何をしていても普通で特に感じることはなかった。それでいいと思っていたのに。
「お姉ちゃん!」
「ルカ!」
「始まった……」
ため込んでいた想いが爆発する。
知りたくて、でも分からなくて。そんなぐちゃぐちゃの気持ちが、実際に目にしたことで一気に膨れ上がってしまった。その思いがそのまま体に反映される。膨らんだ気持ちごと
「気持ちを抑えてくれ!落ち着くんだ、ルカ!」
「お前にはそんなことは出来ない!今すぐヤメロ!」
「祭りを壊すな!出ていけ!」
「ルカ…………」
「ごめんみんな……でも止まらないんだ」
周りに色んな人が集まって来る。私の第三次性徴を止めようと厳しい言葉を投げかけてくる。そんな怒号の間に母の声が混じっていた。
母視点↓
想いが強くなればなるほど、心も体も大きくなる。というか、意外とお父さんと二人きりになると話すことがない。お父さんもコーヒーばかり啜っている。
「美味しい?」
「ああ」
「……思いの大きさで自分の体も大きくなっていく」
「宇宙へ行くためにはどれほど強く思わなきゃいけないのかな……」
「それは人それぞれだろう。ルカみたいに内側に強く思っている人もいれば俺みたいにダラダラと過ごすだけの奴もいる」
「でもね、それは誰にだって起こるんでしょ?」
「だから君が行きたくなくても思いが強くなればなるほど反応していくんだよ」
「それは誰でもだな」
「そう。誰でも……起こる」
老い先短い老人にも第三次性徴期が起こる。
「私はね……ああはなりたくない」
「あんな惨めな格好になってまで宇宙に行きたいなんて思わない」
「それに他の人のそういう姿を見てきたからああはなりたくないって思ってる」
「そう。ならそれが良いわ」
私は村の方が気になって見に来ていた。
もうルカの性徴は始まっていた。体中から蒸気が噴き出ている。
「ルカ……」
「お母さん……私はああはなりたくないからこの気持ちをずっと抑え込んできた」
「それがどうだよ……実際に見たせいでどんどん膨れ上がっていくんだ」
「私は今、この気持ちを抑えられないよ」
「ルカ……」
「もっと知りたい。こんな真っ暗で何も見えない世界で死にたくない」
「私の一生をこんなところで終えたくない……私はまだ死にたくない」
「ルカみたいにこの世界の向こう側を見てみたい!雲の向こうへ行ってみたい!」
「私とお母さんの違いは何!?何で私には起こらなかったの?」
「ルカ、落ち着いて!?」
「お母さんは見てきたからそんな事が言えるんだよ!?私はどうしても見てみたい」
「私だって行ってみたかった……でも私には起こらなかった」
「強く願ったよ?毎日向こう側へ行きたいって思ってた」
「そんな時にお父さんに教えてもらった」
「ルカはため込んじゃうタイプなんだよね。私は見ていてそう思った」
「そんなルカだからこそ起こせたんだよ」
「でもお母さんも結構ため込んでると思うよ」
「そうだよね。だからこんなところで爆発しちゃってるんだけど」
「私は自分の気持ちに正直に生きたい」
「でもお母さんほどため込むことも出来ない」
「だからこんな風になっちゃって、上手くいかなくて……」
「ルカは悩んでいるんだね……私もそうだった」
「それを母に受け止めてもらって……それであの時に上手く爆発して……それで」
「だから私も最初から上手く行ったわけじゃなくて」
「あの日に変なこと考えちゃっただけで」
「それはみんな訳の分からないこと考えたと思うよ。ルカだけじゃない」
「お母さんはそう思わなかったの?」
「!……私は……そうかもね。私もルカみたいになったんだ」
「でもルカほど真剣に考えられなかった……どうでも良いって思ったんだ」
「その結果がこれだよ。私とルカの差」
「もういいんだよ……落ち着いた?」
「ルカは本当はどっち?行きたいの?行きたくないの?」
「お母さん……ありがとう、結構落ち着いた」
「良かった。早く戻りましょう」
「今はもう、行きたくないかな。正直怖くなってきた」
「落ち着けば大丈夫だから……焦ったりしないでね」
「うん、分かってるよお母さん。私は大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
「ルカ……?」
「…………」
「……なんでなんだろうね、ルカ。今になって疑問が止まらないよ」
「何であんなものが浮いているの?どうしてこんなことになっちゃったの?」
「なんで?ねえお母さん、教えて?」
「何も考えちゃだめよルカ。私の目を見て……ルカ?」
「お母さん……なんでこの世界は……こんなのかな?」
ドクンッ――始まる。
「始まった……」
「え……嫌だ……止めてよお母さん。私嫌だよ。勘弁して」
「もう二度と宇宙に行きたいなんて考えませんから。お願いします許してください」
「お母さん……助けでお願いもう変なこと言わないからお願い」
「ルカ落ち着くのよ……大丈夫。私の目を見て?」
「…………いやああああああ」
ルカの体が増大する。
体中の細胞が増殖していく。
止まることはない。
留まることなくその体は大きさを増していく。あっという間に雲を突き抜ける。
「ヴオオオオオオオ…………」
辺り一帯に腹の底に響く声が鳴る。
私の耳を突き抜けて中に入って来る。ルカの巨大化は止まらない。どんどん大きくなる。
第三次性徴期は中二病とかと同じで本人の思いがなくなれば自然と元に戻る。
潰されてきた人間の叫び。
何人死んだかなんて知らないけど…こんなとこで薄気味悪いことしてる奴らよりは死んだ。
私の分はその分の叫び。
私は力を振り絞って、それでも大きな声を出す。
「ルカだめだ!気を確かに!」
雲の先で正気に戻る。
それは空間上で元の大きさに戻るという事。
そんな事になったら班長は二度と戻ってこれない。
でも私のそんな心配は杞憂だった。
そもそもルカが戻ってくることはなかった。
「あの丸いものはお月さまといってお空に浮かぶ天体だから、私達を襲ってきたりしないんだよ」
そのまま体はどんどん大きくなる。
止めどなく大きくなっていく。
今まで私と同じ目線で話していた人がすごく小さく感じる。どんどんちいさくなっていって、その分私の体はどんどん大きくなっていって。
さっきまでいた祭りの会場なんて踏みつぶしてしまうほどの大きさ。本当に踏みつぶさない様に場所を変える。その間にも体の方の成長は止まらない。雲を突き抜けて体の大きさはついに向こう側まで行った。頭が向こう側へ抜けた。
ルカ「これが向こう側……」
私は薄ら寒い気持ちを雲の向こう側を目にしている。それでも光る物体やらはどんどん近くなる。どんどん大きく見えるようになる。その内息をするのも難しくなる。なぜか呼吸の苦しさを覚えながらも体の大きさは限界まで達した。
「おお…………」
今私は足元の今までいた場所を跨いでいる。周りには確かにあの光る物体が存在している。
夢描いた綺麗な物体が色んな所にある。でもそれだけでは終わらなかった。
私は雲の先へ出た。
今まで宇宙と呼ばれていた場所に体を突き出している。
そこには色んな光るものが存在していた。本当に跨げるくらい大きくなった時、不思議な気持ちになった。
「…………?」
気付かれた。
さっき見えていた光る物体の内の一番大きな点。さっきでもかなり大きく見えたが宇宙からだと本当に大きい。見ているだけで吸い込まれそうになる。
その物体が動いた。まるで私に気付いてこっちを向くかの様に動いた。近づいてくる。
周りに近づいてくる。
それぞれの場所にいた物体たちは動いている。
私の周りや私の立っている場所を見ているかの様に。その内の一番近い一つは明らかにこっちに来ている。今まで全く関係ない場所をうろうろしていただけなのに。
「ああ……そうなのか」
今までずっと見上げてきた。ああでもない、こうでもないと
そもそも宇宙とは生物が生きていける環境などではなかった。
呼吸も出来ない。肺に取り入れられるものが何もない。エラも意味はない。
そこで人類が目にしたのは見たくない光景だった。
いっぱいいた。
私たちの生活をぶち壊した物体がたくさん存在していた。
どこを向いてもいた。大きさもバラバラで私たちの目の前の奴なんてむしろ小さい方だった。そして何よりの驚きは私たちが生きていた場所もそいつだった。
同じ物体でただ大きさが違う奴の中で生きていたのだ。
信じたくない。
私たちは恐ろしいと思っていた奴の中に暮らしていたのだ。
このことを誰かに知られたくない。
でもただの事実で隠しようもない事。
そもそも帰ることが出来ると思っていたことがおかしかった。
奴らは生きているのだ。
この空間で確か動いている。
自分の縄張りの中に別の生物が入り込んできたかの如く迫ってきた。
ゴミを退かすだけの作業なのだろう。
質量も存在も何もかもが違いすぎる。そもそもあの物体は生きているのだろうか。もしそうだとしたらなぜ生きていられるのだろうか。何もかもが違って、でも確かに存在する。知らなきゃ良かった。むしろ滅んでいた方がよっぽど楽だった。
意味が分からない。
全く意味が分からない。
でもはっきり言えるのはこの世界は私たちがまだ知らないことがあったと言う事。
こんな物体がこの宇宙にはたくさんいる。
宇宙はこの物体たちの世界だった。
一つの物体の中で偶然発生した命。
その命が何十億年の時間を経て進化した命。それが人間。
そしてまた環境の変化に晒されている。進化しようとして新たに開拓した場所がもう既に他の物体に奪われていた。
とてもじゃないがここで生きていけるとは思えない。
でも元の場所に戻っても生きていけるとは限らない。
少なくとも今宇宙へ出た人間は全員死ぬ。
誰一人として生きて帰ることは出来ないだろう。だからこそ同じ失敗を何度も繰り返してしまう。無駄に多くの人が死んでいく。
そのまで気付いた時にはもう私の体は縮小を始めていた。
まずいことをしたかもしれない。
背中に嫌な汗が滲む。
私が跨いでいた場所から元いた場所に戻っていく。
私は二度と巨大にはなれない。
落下の間もずっと縮小が続く。
そのまま現実に戻る。身体は一気に冷めていき、縮小が始まる。そのままの勢いで元いた場所へ放り投げられる。その途中に目に入った色んな物体を見なかったことにする。
目を瞑ったままでこの宇宙という場所から逃げ出す。
体は地面にぶつかった衝撃で完全に元の大きさまで戻った。
ぶつかった痛みよりも今見てきた光景の方がよっぽど響いた。
こんなの、見なきゃよかった。
ルカ「ごめんなさい……みんな」
私が雲から顔を出してしまったせいで……近くにいた物体が気付いたのだ。
私たちの存在に。
あ、えーと、お邪魔しちゃった感じなのかな。
あの物体の場所を私たちが。
私のせい。
私のセイ。
ワタシの……。
人間が死ぬ。
全てが潰されていく。
答えは降って来た。
何のためらいもなく落ちてきた。
真っ逆さまに、一定の速度を保って。
私の視界は一気に使えなくなった。何が起こったか確認する暇も無く嫌な予感がした。何処に誰がいるか分からない。何も見えない。でもそれ以上に嫌な予感がした。弟と友を探す。でも見つからない。何が起こったのか分からず辺りにいた人も混乱している。
音。
怒号。
私の耳には最初の部分しか聞こえなかった。それだけで私の耳はダメになった。
何も聞こえない。
何も見えない。
祭りで使われていたランプの明かりが目に残っている。
ルカ「…………」
今頃弟は泣いているのだろう。
探そうとしてもこんな状態では動けない。もしかして、こんなことは私だけで周りの人は何ともないとかだったり。
やはり答えを出されても理解できなかった。
空という場所の光り輝く物体。
音もなく落ちてくる。
当然その下にいる人は潰される。
何が起こったのか理解する間もなく広がる怒号。でもそれは当然のことだった。
?「当然の事じゃないか」
何の疑問も起こりえない。何も不思議なことはない。
私達とその塊のあいだに何もないのだから。
ああ、間違えてた。
見えたら終わりじゃないか。
大きさが違い過ぎる。どこでどんな風に生きていればここまで大きくなるのか。もうダメじゃないか。見えた時点で終わり。どれだけ大きいと思っているんだ。後何回かぶつかるだけでもう死ぬ。
本当にごめんなさい。
私が興味本位で宇宙に顔を出してしまったせいでこんなことになって。この場所で生きている全ては間もなく潰される。
何も残ることなく潰される。
必ず死ぬ。
生きれるわけない。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬんだ。死ぬ。終わる。嫌だ。死にたくない。
生きていたい。
まだやりたいこと沢山ある。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
何だこの大きさは。
どれほどの偶然で私は生きているのだろうか。
むしろなんで生きているのか。生きていけるわけないじゃないか。どれだけ大きいんだ。
もう嫌だ。秒読みじゃないか。
あいつが落ちてきてまた浮かんでいく。
私たちと同じくらいの速さで動いているんだ。逃げる?馬鹿なことを言うな。動かない方が安全なくらいだ。みーんな死ぬ。ただ時間がずれるだけ。
偶然だ。
ただの偶然。
まぐれ。もっと遅くに生まれてくれば。嫌だよ。死にたくないよ。やっぱり嫌だよ。泣きたい。
父と母を恨んだ。
なんで生んだんだって。
むしろ風は起きない。肌を撫でるくらい。
村が潰れたなんてかわいいものだ。地形なんてあったもんじゃない。
こいつらはなんで生きているんだ?
ああ、ただの偶然か。
こいつらが頭の良い人間とは限らない。バカとも限らない。
ただ運が良いのは確かだ。私もその内の一匹。
グヒヒ…。
でもホントに運がいいんだろうか。ただ死ぬ時間が数分変わるだけ。
これが私への罰。
母に嫉妬し、弟に拗ねて、父の話をロクに聞かない。興味本位だけで宇宙を見てしまった私。
誰に決められたわけでもないルール。でもそれは守らなければいけなかった暗黙の了解。
今にみんな終わる。
みんな死ぬ。
今日この日で人間という生き物は死ぬんだ。髪の毛が白くなっていく。耳を塞いでも腹の底で響く。
上は当然だが前を向いても見える。
下を向いても地平線のすれすれで見える。
地面を潰しているのが見える。空が真っ黒になる。昼間でも夜になる。よく考えたら最初に見えた時はかなり遠くに位置していたのだろう。近くに来るだけで夜になる。そうなったら後は死ぬかどうかを待つだけ。違う世界に迷い込んだみたいだ。
その間に何もないから落ちる。
だから落ちてくるのは当然だ。
それが何なのかは分からないけど。落下地点は全て潰された。もしかしたらそいつは少し柔らかいのかもしれない。食い込んでいたそいつは何事もなかったかのように宇宙へ戻っていく。何の感情もなくあいつが浮いている。
浮いているというよりそこに存在しているだけ。
それに私たちが気付かなかっただけ。
突然速くなったり止まったり。
えーと、間違えた?私たちが生きている場所を。
もしかしたらここは私たちが生きているとか、そういう場所では無かった?
雲の先に行かなきゃいけなかった?
それとも雲の上も下も、あの物体の、あいつの場所?だとしたら、
なんで生まれてすぐに気付かなかったんだろう。
人間の生きて良い場所とそうでない場所というのがあったのかもしれない。
私は知らなかった。
あいつは生き物?あいつが雲を退かしたんだろうか。
何を考えてもまとまらない。失敗した。
ルカ「あーあ」
生まれてこなきゃ良かった。
確率(二日目 朝)
肌を切る風が体中の細胞を逆撫でする。
吐いた息は白くなって辺りを漂う異臭と共に消えていく。
走る度に口の中に砂が混じる。
私のペースに着いていけない心臓が不規則な周期を描く。
火事場の馬鹿力とは思った以上に出るものだ。
目の前はただ真っ暗。何も見えてこない。
私はひたすら走り回った。
やっと夜が明けた。
みんなの潰れる声が煩わしかった。
どうせなら黙ってみじめにどうしようもなく死んでいけばいいのに。
あーあー煩い。
大きな声で歌ってる奴もいた。
バカじゃん、死ぬ前だからって何しても良いってわけじゃねえだろ。
静かに死んで行けよ。
ああ、やっぱり。
また潰れた。やっと落ち着いてきたと思っていたのに。やっと何とかなると思っていたのに。
もはや壁。
穴が開くとかじゃなくて壁が迫ってきて、真っ暗になってそのまま死ぬ。
クソみたいな世界。
みんなのことを否定した世界。
ずっと続いていくものだと思っていた。
少なくとも私が生きている間はそんなことないと思っていたのに。
こんがらがった頭では答えは見つからない。
息が切れて苦しくなる。
呼吸する事さえキツイ。
私の生きているこの全ての空間に響いている音。激しい音。みんながどこにいるのかさえ分からない。
こんなのすぐ死ぬじゃん。
教えてよ。分からないよ。どんだけ嘆いても大音量の鳴き声にかき消される。子供が泣いている。あやしてくれる大人はいない。隣で潰れている男性がそうだろうか。
「どうして?どうしてお父さんは死んじゃったの?」
「誰か助けてよ……」
「誰のせいでこんなことに……」
村の人の声が聞こえる。
私はもう、あそこには戻れない。
あいつらは何をしているんだ?
みんなが潰れていく中でよく誰かと一緒にいようという気になる。
隣の誰かがいたら逆にそいつを殺すことで私だけは生き残ったり…とか考えてしまう。
でもそんなに不思議なことじゃない。
多分普段の恨みがたまっている奴を殺したりしている奴もいる。
どうせ殺さなくても殺される。
そんな世界。
みんながぐちゃぐちゃにされる。
ふざけるな。何処で生きていけばいいんだ。私たちが住めなくなる。
もうやめてくれ。
気付いた時には体が動いていた。生物的な感情なのかもしれない。当の昔に息切れしていた。喉もカラカラで声も出ない。行く宛も頼れる人もいない村を駆け抜けた。今までは沢山いたはずなのに。沢山あったはずなのに。
もう誰もいない。
私が数えただけで一日のうちに260回落ちてきた。
私が数えることが出来たのはそこまでだった。それより後は鼓膜が破れて上手く聞き取れなかった。逃げ続けるには十分な数字だった。本当は逃げることもあまり意味はないのかもしれない。一か所に留まって静かにその時を待っている人もいた。その人達には悪いけどただ茫然と生きているようにしか見えずそういう生き方を選ぶことが私には出来なかった。人が潰れる時は音にならない音がしていた。あの物体が落ちた場所で生きている人間はいなかった。
やはりあいつが宇宙という世界の住人なのだろうか。だとしたら今まで彼らはどこで何をしていたのだろうか。今まさに落ちてきている所を目の当たりにした時は冷や汗をかいた。
私は前を向いて進んでいるつもりだったが今どこにいるのか分からない。
でもそんなことはどうでもよかった。あいつは宇宙と地上を行ったり来たりしている。その間に、お前が地上にぶつかる度にどれだけの人間が死んだと思っているのか。どれだけの人間に被害を与えたと思っているのか。人の気も知らずにあいつは勝手に動いている。
一人で泣く。
シクシク泣く。誰も見えない。ダメになった靴を持って涙を腕で抑える。
早く殺してよ。
吐きそうになって嗚咽交じりの口。弱音しか出てこない。何処かも分からない。足も痛い。でもこれからもっと痛い瞬間がやってくる。
必ずやってくる。
後何分だろうか。自分の番ももうすぐだ。弟にはもう起こったのだろう。むしろなんで生きているの?今頃宇宙にでもいるのかもしれない。顔をぐしゃぐしゃで鼻水も垂れる。身体が言うことを聞かない。
歩けないよ。
私の足でどこまで行けっていうんだ。どこまで行けばいいか分からないのに、真っ暗なのに、何にも持ってないのに。泣きながら、ゼイゼイ息をしながら。
普通の世界じゃない。
弟も家族も、みんな捨てて逃げた。足の痛さなんて気にしなかった。怪我をして血が噴き出す。走っていないと気が済まない。でも気が付く。
意味がないって。
逃げるというのはつまり真っ暗な中を彷徨うということだ。真っ暗闇を彷徨ってどうする。転んだりしたらもう最悪だ。暗い。ただ暗い。そして臭い。死んだ臭いと、これは宇宙の匂いだろうか。自分が今何を言っているのか分かっていない。四つん這いになって地面に泣き叫ぶ。怒号でかき消される。耳がおかしくなる。当の昔に鼓膜は破れている。
破れた耳を両手で抑えると血が流れだす。手の中が暖かい液体で包まれる。私の体の中で唯一あったかい。そのまま耳を押さえてその場に跪く。
「もう動けない……」
嗚咽が走る。私の体の中で逃げ出したい衝動と死に急ぐ衝動が拮抗する。でもそのどちらも選べなくてこの場に崩れ落ちる。抑えていた頭はもうどっちでも変わらなくなった。いつこの頭が上下から潰されるのか。横になった体は中々動こうとしてくれない。自分の頭で動かさないといけないのに上手く命令が出ない。この指を恨む。弟の手を放していたこの体を恨む。
後何回聞いたら死ぬのかな。
なぜこの世界に生まれてきたのだろうか。
心臓の鼓動と同じくらいであの物体は落ちてきては宇宙に戻るのを繰り返している。いつも暗い。ずっと暗い。死ぬ瞬間もきっと暗い。これからこの場所はずっと暗い。音もしない。聞き取れない。
落ちた場所にいればその時点で死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。ただ死ぬ。
「もうやめて!!!」
私が悪かったから。生まれてきた私が悪かったから。途方もない大きさで途方もない回数を繰り返す。何秒に一回で落ちてくる。何千kmと離れているのに見える。落ちてきている様子がはっきりと。ここから。目を開ければ視界に入り込んでくる。そらというのは間違いでもはやあの物体しか見えない。ここからかなり近い場所にいるようでかなり離れているのだろう。ここは普通に生きていくには難しいような気がする。私たち人間がどれだけ考えてもあと何年も生きることが出来るとは思えない。それどころか何時間後にまだ生きている生物がどれだけいるのか。
私はあと何分生きているのか。
暗い世界。
こんなことになると思わなかった。
もっと楽しい日になると思った。ゴハン食べて弟とお祭りに行って、友達とかに会って。いい思い出になると思っていた。それがもうみんなとも話せないなんて。
そいつの速さが変わった。
今までよりも速く動いて宇宙へ戻っていき始めた。
走る。
走り続ける。逃げる。目の前がただ真っ暗になる。
まだ二日目。神様…助けて下さい、私だけでも。
もう頭が狂いそうです。
一週間なんて無理です。
だれか……殺して下さい。
女王視点↓
足元がはねた泥で汚れる。
一寸先は闇。
彼女の息はか細い。元々体が弱いのだろうか。体を寄せ合っているため湿気と共に余計に背中が湿る。風邪を引かない様に急がないと。
倒れていた彼女を拾った。着るものを持っていなかったので体を温めるのに丁度良い。辺りは一段と薄暗くなっていた。雲が明けたというのに前よりも一段と暗さが増していた。彼女を担いでひたすら走る。なるべく水たまりは避けたいところだがそうは言っていられない。怪我など目立った外傷は見当たらないが鼓動が速くなりつつある。微かに声が聞こえる。何かを伝えようとしている。さっきまでは元気に見えたけど体が濡れて熱も出ている。辺りには体を休めそうな場所はない。近くの休める場所を探そうとして彼女が呟いている声が大きくなる。
「弟……」
この子にも家族がいるみたいだ。近くの生き残っている人達がいる場所を知っているようだ。小さな声に耳を傾けながら足元もロクに見えない中を進む。自分の足が暗闇に吸われているようだ。
「お前も見ただろ。……あれは何だと思う?」
「私には分かりませんよ……」
体調が少しは回復したのがさっきよりも大きな声で話しかけてみる。さっきまでの様子が嘘のような回復の速さだ。
「あの性徴はお前なのか?」
「何の事ですか?今の私は色んな事がどうでも良いんですよ」
「何かお前の中で残るものがあるんじゃないのか?」
「助けてもらっておいてなんですけど……おろして下さい」
「ダメだ。私が寒い」
「知りませんよそんなこと」
彼女の顔が耳元まで近づく。その声は思ったより彼女の中に響いたのだろう。引っかかるものがあったのだろう。答えがあるなら知りたい、死ぬ前にそこまでは知っておきたい。向こうに行った時、みんなに話したい。そうじゃないと死んだ時、面と向かって話が出来なくなる。
「そんなことを思っているんだろ?」
「何なんですかあなた……私がどう思おうが勝手です」
何度も聞こうとした。唇が勝手に動いて言ってしまえば楽なのに。喉元で引っかかる。そして口にしてみる。
「……知りたいか?」
私が質問の意図を分かっていないようだったので彼女が言葉を変えた。もし彼女の中に何らかの仮説があるのならこれから生きていくためのヒントが見つかるのだろう。こいつにだって父も母も、弟も、そんな奴らがいるはずだ。そのみんなに手向ける言葉が見つかるのだろう。でも彼女は彼女自身で、私は私で考えるしかない気がした。
「…………」
彼女は私の返答を待っている。それまでは絶対に喋らない。私の首に回した彼女の腕が徐々に締まっていく。首元に突き付けられた爪に血が滲む。その血が汗と共に服の中へ落ちていく。
「知りたくない」
そう出ていた。口が動いて喋ったのはその言葉だった。私の顔は見ていなかった。
「そうか」
それだけ告げると彼女は私の体から降りて一人で歩き始めた。張りつめた背筋に小さななで肩。多くの経験がその後ろ姿に染み込んでいた。私よりも背が低いのに。言葉もなく歩く。
「あいつらはどこへだって動ける」
「え……?」
「これは私の独り言だ。気にしなくていい」
「……あなたも見たことがあるんですか?」
「どうやって雲の向こうまで行ったんですか?第三次性徴が起こったんですか?」
「お願いします教えて下さい。このままじゃ気になって死ねません」
「いつ死ぬか分からないじゃないですか、知ってることだけでいいので教えてください」
「「…………」」
「そうですよね……独り言ですからね。……寝ときます」
「…………」
「私はその時ちょうど良いくらいの年齢だった。だから興味を持つのはごく自然の事だった」
「!……その時はどうでしたか?」
「父がそういうのに詳しかったから助かったよ」
「でも、雲の向こう側までは見えたよ……そこからの想像だ」
「ちょっと見えただけで直ぐに体は引っ込んだ。縦横無尽に駆け巡るあの物体がいたんだ」
「大きさも色も違う。でも全ての物体は自由に動いていた」
「そんなのを見た私は直ぐに我に返った。気付いたら父に介抱されていたよ」
つまらない昔の失敗を思い出してションボリしている。この子も何だか萎れている。何処へ行っても関係ない。好きな時に行きたい場所へ向かう。そこに何か決まったものはない。いくらでも動いていくらでも変わっていく。
宇宙へ出た者はそれを目撃する。
自分の足元には自分が今までいた場所がある。でもそこよりも途方もなく大きい。簡単に飲み込まれる。そういう人は戻ってきても普通に暮らしていくのは難しい。
何も知らない人間とそれらを見てきた人間。
そこの違いは大きい。埋まることのない溝を抱えて両者が共に生きていくのは難しい。地上の人もおずおずしていられない。
潰される。
とにかくこの世界に生まれたことに対して思うことが沢山ある。
でもここは私たちが生まれた世界。
どうしてもこの元々の部分が変わってくれることはない。
そうじゃない世界というのを信じて暮らしていくものもいる。そうじゃないんだ。もっと生きやすい世界なんだって、全ての事に蓋をして知らないままで生きていく。
それこそがあの雲。
何十年も続く雲はこういう人たちにとっては嬉しい事だった。
「なんでこんな世界なの……?」
どこからでも近づいてくるし何処へでも行く。ふとした拍子にあの物体と私たちのここがぶつかってみんな死ぬ。死ぬ。死ぬことはもはや不思議ではない。今まで生きてこれたことの方がよほど不思議である。
「なんで生きているの?」
「なんで生きていられるのか……不思議でしょうがないよ」
そんなことを考えてそして一日が終わる。もう私の体に第三次性徴が起こることはない。もうああいうことは起こらない。だからある意味安心して考えられる。本当に父には感謝だ。どうしてなのか。
せめて何か答えが欲しい。深く考えられるということは色んな事が見えてくることになる。見たくないことも知ることになる。そして、恐らく答えが見えてくることもない。大げさに考えれば私はずっとこのことにたいして考えていくことになる。ずっと、ずっと。私が
どこか決まった場所に留まることはない。どんどん変わっていく。
「余計な詮索はしなくていいぞ……寝ていろ」
「今この瞬間にでもぶつかって来る事があるかもしれないってことですか?」
「そう言う事もあるだろうな」
「私たちは潰されて、この場所も吹き飛ばされたりすることもあるんですか?」
「あるだろうな」
「じゃあこんなとこで……え?……どうしたら……」
「あまり思いつめるな……深く考えることはない」
「不思議ですね……なんであなたは冷静何ですかね?」
「気にするな……気にしても死ぬまでには何も分からないさ」
「結構冷めてるんですね」
「どうでもいいだろ……それよりもうすぐキャンプ地に着く」
「この辺りは昔住んでいたんだ。だから迷ったりすることはない」
雨の音と水の跳ねる音が聞こえた。ただ静かだけど、気分は穏やかだった。
「静かでいいところだ……もう誰も住んでいないがな」
辺りには人が住んでいたと思われる民家が立ち並んでいた。それぞれの家には家具が散乱しており壁にはツタが張っている。柱が折れており近づくのも危険に感じた。
「此処にはお前くらいの年の頃まで住んでいた。何も無かったし辛かったけどそんな毎日がただ茫然と過ぎていった」
「ここは私のそんな時間が詰まった場所だ。ようこそ、私の集団へ」
少し先の方にぼんやりと電灯の明かりが見える。多くの人が作業をしている音がする。
ようやく集団のキャンプ地まで辿り着くことが出来た。
男と女(二日目 夜)
ふと、遠くの方で声がした。
珍しい、そう思った私は吸い寄せられる様に近づく。
男と女…と思う。
あんなに引っ付いて離れないから…多分そう。
一人はまだ若くてこれからがある女。引く手数多の顔。
一人は行き詰ったオジサン。どうしようもない無精ヒゲを髪を束ねることでしっくりくるようにしている。
変な奴。
私はそんな二人の近くを通った。
女「ねえ、どうしよっか?」
女「此処でいいの?それとも向こう?」
男「そうだな、こっちでもいいかもな」
どうでも良い会話をしている耳に入ってきて煩わしい。
でも、聞く。
女「あ、あそこにも人がいるよ?」
男「ホントだ、でも一人だね」
女「そうだね」
うるさい。
こんなところでそんなこと言われたくない。サッサと何処かへ行ってくれ。
女「私たちのことどう思ってるのかな?煩わしいとでも思ってるのかな?」
男「そうだろうね、だって一人だし」
男「一人で、どうやって生きていくんだろうね」
それこそ余計なお世話だ。あなたたちに気にしてもらうようなことじゃない。
自分の人生くらい自分で何とかする。
男「此処は暗いねえ、でも向こうも暗かったしね」
女「向こうに行く?」
男「そうだね、私たちも宇宙へ行こうか」
どうやって行くつもりなんだ?
あの物体に潰されようものなら惨めに潰されて終わりなのに___どうやって、
女「私が先に行くから、あれに聞こえない様に殺して?」
私にも聞こえた。
心の奥がザワザワする。
変な感じ。
あの人たちの答えを見せられた気がして。
見捨てられた大地。
でも確かに、愛を見た。
蝋燭。
灯篭。
小さな家の中。
10人近くの人たちが固まっている。私もその中の一人。
潰される内の一人。
?「もうすぐ私たちの番ね」
誰かがそう言う。
良く通る声だ。
?「私たちも連れて行ってもらいましょう」
外では悲鳴や叫びが響いている。
これは誰の声だろうか?知っている人のそういう声はあらかた聞いてしまった。
残っているのはもう、私くらい。
グシャ…グシャ…。
あの物体が、外を潰している。
私の耳にも届く。まだ届く。
あんなものがどうして雲の向こうなんかに…。あんな大きな物体が何にも支えられずにいたら、こうなるに決まってる。
何であんなものが…。神のイタズラ?それともあれが神?
男「美味しい?」
男「喉が渇いたろう…ジョボボボ……」
自分の分の水。
あまりないはずなのに、何のためらいもなく流している。
死んだ友への手向け。
男「そっちはどうだ?噂だと息が出来ないって聞いてるけど…」
男「まあもう死んでるお前には関係ないか」
その人は近くの工場で働いていたらしい。
村の片隅にあったのをよく覚えている。
あの日、私が巨大化した時にそのまま降ってきて、それで死んだ。
落ち着かなくなったのか、男は騒ぎ立てる。
男「なんで死んだんだよ……なんで…」
男「なんであんなものが雲の向こうにあるんだよ!」
男「神様は何を考えてるんだよ…・・わしらに死ねというんか!」
リーダー「落ち着いて下さい……あの物体に聞こえますよ?」
リーダーに静止されてもなお、気の収まらない男はそのまま声を荒げる。
男「じゃあお前さんはどうするっていうんか?」
男「このままこの大地に這いつくばって、あれに潰されるんを待てって言うんか?」
男「神様はわしら人間の事を何だと思ってるんか?」
男「ワシらはこの大地の覇者ぞ!この地上で一番の生き物なんぞ?」
男「何でそんなわしらが、惨めに潰されなあかんのじゃ!!」
怒号。
誰も返す言葉もない。
その通りだ。
なんでこんな目に合わなければ。
この地上だけじゃなかったのか。この大地で、自然界の食物連鎖というシステムの下で一番を誇っただけでは足りないというのか…。
リーダー「…………」
漆原「雲の下で一番だったのでしょう……」
その男は口にした。
考えてはいけない、言葉にしたくない現実を。
漆原「あくまで私たちが今まで生きていたのは雲の下で」
漆原「その向こうにはまだ見ぬ生物が猛威を振るっていた……ただそれだけですよ」
男「兄さんや…。わしらはどうしたらええんかのお?」
必死に何かを掴もうとして、答えを知りたがる、男。
でも、そこには何もなくて。
漆原「私たちの物差しではこれ以上どうしようもないです……」
漆原「あの物体が、この世界の王だったんですよ…私たちはその生贄です」
漆原「誰が死ぬとか死んだとか関係ないですよ……」
漆原「みんな潰れるんです。王の元に」
漆原「宇宙という世界も含めた、全ての覇者に」
男「ははっ……じゃあわしらは負けたんか?」
男「雲の下でいいって思ったんかのお……祖先は」
男「雲の下で一番ならそれでいいって思ったんかのお……?」
漆原「…………」
男「ワシらが死ねば……それは次につながるんかのお、子供たちはどうなるんかのお…?」
男「みんな潰れるか……ははっ」
男「うおおおおおお!!」
男は飛び出していった。
この小さな家の扉を蹴飛ばして、王のひざ元まで。
潰されに行った。
漆原に王と呼ばれたその物体は、私たちの頭の上に浮いている。
途方もない大きさで浮いている。
あまり光らずに震えている。
漆原「あれは生きていて……確かに息をしている」
変な集団に来てしまった。
早く抜け出そう。
私はおいてあったパンを袋に詰めて、そそくさと小屋を後にした。
生きた。
ルカ視点↓
生きた。
何故だろう。
私は許されたのだろうか。生き残ってしまった。そんな死に損ないのためのキャンプ。明日の晩までのキャンプ。この瞬間だけの集まりでしかない。ここに居るこいつらの食料を求めて彷徨する集団。大義名分を作り食料の強奪。この世界では光。明かりを灯す術を持つ人が優位に立つ。破れた鼓膜の修復も必要。食料を掻き集めてくる人も必要。体を癒す場所も必要。そうしてこの世界が出来上がっていく。でも大抵は上手くいかない。志半ばで死ぬ。そういった行為を行う必要がなくなるのだ。生き残った集団の統率を取る。ていうか、私はなぜまだ生きているのか。でもあれからまだ一時間もたっていない。立ったそれだけの時間でこうして世界は造り替えられていく。
何を食べたのかも味もほとんど覚えていない。でもお腹に詰め込む。鶏肉と野菜のスープ。塩と素材自体の旨みだけの質素な味付け。もし近々死ぬとしたらこれが最後の晩餐になるのだろうか。なんて味気ない。それでも食べられなかったなんて思うよりはマシだ。
温泉。
体を癒せるこの場所は嫌いじゃない。
このお湯はみんなに包まれている気がして気持ちいい。染みわたる。お湯の表面は揺れる度に違う場所に光が当り反射する。すくい上げたお湯はとろみを帯びてお肌に優しい。思わず塗り込みたくなる。でも外の空気は寒い。今こうして多くの班員が利用したお風呂に私も入っている。テントで休んでいる人が多くいる中、お湯に浸かったり、道具の整理をしたり。
みんな生きている。
生きているんだ。この同じ場所で一緒の時間を過ごす。離れ離れじゃない。同じように生きて互いを必要としている。体を洗ったりみんなで話し合ったり。全員が同じ感情ではないけど。生きていきたいからみんな一つになっている。これから何をする時も必ずここに居る誰かと過ごす。小さな枠にぎゅうぎゅう詰めで寄り添う。隣の人も後ろの人もみんな生きている。どうなるか分からないけどこの思いもみんなと同じ。
ここの景色は違っていた。
「綺麗……」
「どうだ?頑張った甲斐あったか?」
「リーダーはこれをみんなに見せたかったんですか?」
「それもあるな。みんなで胸襟を開いて話せる方が良いと思ってな」
「何だか女王らしくないですね」
「それはお前たちが勝手に呼んでるだけで。私はそう呼んでとは一言も……」
「あの時はすいませんでした。変に突っかかっちゃって」
「ああ、お前もそうだったのか。ああいうのは本当に多くてな。正直覚えてないんだ」
「そうなんですか、さすが女王ですね」
「その言い方は嫌味が入っているような気もするが……」
「女王は一々覚えてないんでしょ?」
「もういい加減女王って言うのはヤメロ」
「じゃあなんて呼べば良いですか?」
「いつもリーダーと呼んでるじゃないか」
「ていうか、リーダーは何て名前なんですか?」
「そうだな……必要がなかったから言ってなかったが……」
「何だと思う?」
「ええ、教えて下さいよ」
大きな岩を丸く並べて作られたこの露天風呂では多くの班員が利用している。肩まで一気に浸かる。ため息がどっと出る。でもこれが良い。肺の中の空気を一度出すことで全身にリラックス効果が出てくる。口元も緩む。初めて会った人とでも会話が弾む。
温かい空気がそれぞれのテントから流れ出ている。食べ物のいい香りもする。それぞれの班員が休むテント。そこを抜けた所には温泉があった。
源泉かけ流しのお湯が体に染み込む。
しばらく寒いところにいたせいで足先の感覚がなくなっていた。この前入ったばかりなのに久しぶりの気がした。指先に徐々に感覚が戻っていく。ようやく怪我をしていたことにも気づいた。痛みを伴うが温泉が傷口に染み込んでいく。
「極楽~」
人だけじゃなく猿もお風呂に入りに来ていた。気持ちよさそうにしている。大きな岩に体を預ける。よく見ると私から血が染み出していた。慌てて隠す。さっきの女の子も入っていた。
「気持ちいいか?……私の家の温泉なんだ。父は経営していたが亡くなってからからは私が切り盛りしていた」
お酒を持って顔も赤い。かなり出来上がっている。だがとても上機嫌でさっき聞けなかった名前の話も聞けそうだ。
「もうのぼせているんですか?」
「違う、酔ってるだけだ」
盆の上に置いたお酒はもう無くなっている。
「私もお前くらいの時は色々思い悩んだけどな」
「まさかリーダーの口から思い悩むなんて単語が聞けるとは……」
「多分お前よりも深刻そうな顔してたな」
「私そんな顔してますか?」
「見てるこっちが心配になるくらいはあるな」
「知らなかった……でも心配してくれるのならこれでもいいかも」
「お前が良いなら良いんだが」
リーダーの顔にも柔らかさが出ている。
「あの時のお前の言葉には私も言葉が出なかったな」
「私もそうですよ。思ったより暖かいお言葉が飛んできましたからね」
「フフ……ああ、頭が重い。先に上がるよ」
「フラフラですけど大丈夫ですか?」
「うっ……。大丈夫じゃない……」
「一旦上がりましょう。肩を借りますよ」
「ふへへ…ブクブク」
フラフラで頭までお湯に浸かってしまっている。上体を起こすと我に返り顔をプルプルしている。
「ぷは……済まない……」
「いつもこうなんですか?」
「酔うと大変でな。だからいつもはお湯の中までは持ってこないことにしているんだが」
「髪を整えてくれないか?一人だと大変なんだ」
「いいですよ」
リーダーの髪は意外と痛んでいる。触るといくつかに分かれて行き、軋んだ毛先は枝毛になっている。
「最近手入れしてないんですか?」
「それだけ忙しいってことなんだよ。その辺はあまり気にしないでくれ」
「そうですか」
母にもやっていたのでたいして時間は掛からない。母のも細かったがリーダーの髪の方がより細い。絹の糸を触っている様で柔らかかった。
「それよりここはどうだ?」
「とてもいいと思いますよ。嫌なことも忘れられて」
「そうだな。いっそ忘れた方が良いのかもしれないな」
目を細めたリーダーはあの光景をどう見ていたのか。あまり分からなかったけど、恐らくこのお湯で体の匂いも取れている。しつこく染み込んできた腐ったような匂いはお湯に溶けて無くなっていた。
「あと三年したら一緒に呑めるな」
「そうなるといいですね」
期待も何もない気持ち。そんな言葉。
「まあ、そうするのだがな」
リーダーもそう思っているのだろうか。
「ここはな、私が作ったんだよ」
「そんな昔じゃないけどな。当時は混浴にしてた」
「分かります。しそうですよ」
「色々言われたけどやって良かったよ。常連客も増えたし」
「一緒に入ればなんとかなるさ」
そんな思いでこの温泉を作ったのだろうか。へこたれて帰って来た班員が癒される場所。帰りたいと思える場所。ただそれだけなのかもしれない。生き残りたいとか何かを成し遂げるわけじゃない。みんなが集団で確実に生きる自給自足の仕組み。誰が欠けてもいけない。逃げられる場所。
「昔話を一つしよう」
リーダーが話してくれたのは、リーダーもまだ生まれる前の話。
「今夜が最後の晩かもね」
私とその人は元の場所から離れたところに居る。焚火だけがぱちぱちと音を立てている。ここは洞窟。元々人間が住むような場所ではない。でも今生き残っている人は此処に居る。早くこんな事が終わってくれ。濡れてない枝を拾い集めて焚火をする。でも決して静かというわけじゃない。いつもどこかでずっとなっている。ずっと大地を潰しているのだ。もう父も母も潰れたのだろう。この目の前に居る人にも家族が知っている人がいるのだろう。そしてその人も恐らく潰されている。今は服が乾いているがさっきまで濡れていた。そのせいか体が冷えて風邪気味なのを否めない。
「へっくしょん」
思い切り風邪を引いている。クシャミの先に居る彼も茫然と焚火を見ている。今、この地上にはどれくらい人間が残っているんだろう。どれくらいの生物が私たちみたいに生き延びて身を寄せ合って過ごしているのだろう。
怖さ。
自分が死ぬんじゃないかという感覚から、子供を残したいという思いは生える。身体が火照る。熱い。でもこれは自分では抑えられない。間違いなく死ぬ。生き残ることはない。このロクに話もしたことない人で解消するか。彼も同じことを思っているかもしれない。
私たちはアダムとイブだ。
私がイブで彼がアダム。新たな生命を誕生させることで新たな人間の世界へと一歩になるかも。今夜がその記念日。新しい西暦。もう誰も残ってないのだろうから何をするのも決めるのも全て私たち。
「何をしている!」
気付かれた。他に人がいたのか。まだ生き残っている人がいたのか。焦って変なことしなくてよかった。
「お前たちも生き残りなのか」
その人は私の母くらいの背丈をしている黒髪ストレート。あどけなさの残る整った顔からはとても年上とは思えなかった。私たちは挨拶の握手を交わす。彼女たちの所も色々人が集まってきて今ここに居るらしい。
その夜の焚火はひどく幻想的で妖艶にも見えた。
生物は死ぬ時に子孫を残そうとする。
それは自分という種を絶やさないためであり、生物の本能と言える。
そのため、相当数の新たな命が母親の中に宿ることになる。それは生きていくために必要な事。生まれてきた命の中には直ぐに絶命してしまう者も少なくない。
もはや普通の人間が生きていける状況ではないのだ。呑気にご飯を食べる余裕も寝る時間もない。
夜。
恐らく夜なのだろう。やはり悶々として眠ることが出来ない。今頃父と母はどこでどうしているのだろう。
次の日、私は生き残っている最後の人間となった。
「と、ここまでが昔話。お終い」
「ええ、良く分からない所で終わっているんですけど……」
「深く考えたら負けだよ、ルカ。ああ、頭痛くなって来た、ちょっと寝るわ」
「好きにして下さい」
彼女が作りたかった空間が此処にあった。
「ふあ……お休み」
「あくびしないで下さい。こっちにも映るんですから」
細い腕を岩の上に置いて瞼を閉じている。こんなに安心して寝ているリーダーは初めてだ。
「zzz……」
辿り着いて良かった。長い髪を束ねると横に置いてあったペンダントに気付く。近づこうとすると彼女が腕を振るいあげる。またすぐに眠りに付く。なんだかのぼせているのか酔っぱらっているのか分からなかった。
女王(三日目 朝)
ここにいる私に芽生えた、小さな幸せの時間。
水が気持ちいい。
小さな明りが灯った水面。体が浮かぶ。外の冷たい空気を顔で受け止める。水面が程よく揺れて岸の方まで誘われる。前髪を掻き分けると自分の体の傷がはっきりと見えた。昔の事の様でついさっきできた傷。その傷に水が染みてヒリヒリする。岸の方に頭を付けて体を任せる。隠れるというのは難しい。その間に何も分からないまま潰されるかもしれない。耳に入る水も気持ちいい。母のお腹の中の様だ。
何一つ安心出来ない。
みんなのことは一つも分からない。ここがどこなのか、家からどれだけ離れたのかも検討が付かない。というか、地形が変わり過ぎてもう何処がどこなのかも分からない。
逃げ出した。
この音が鳴りやむことはない。鼓膜を直してもまた直ぐに壊れる。そうしてすぐに問題に直面する。
逃げ出した私が助かる。
真っ向から直面した人が潰される。
水面から顔を上げた時には物体は何事もなかったかのように宇宙の方に戻っていった。なぜあの物体が動いているのか分からなかった。震えを抑えて岸まで泳いだ。暖を取っている暇はなかった。濡れた体のまま探しに行こうとするのを彼に止められた。
「やっぱりここにいたか」
「…リーダー」
やっぱり。この足音を私が忘れるわけない。すり足なのかちゃんと歩けてるのかいまいちわからない歩き方。リーダーの付けている香水は私も欲しかった。でも付けると今度は私をリーダーと間違える人が出るので止めた。
ザッ……ザッ……。
綺麗な土踏まずを持っているのに歩き方自体はそうでもない。今日は雪が積もっているせいか余計にそこが目立った。
「「…………」」
高圧的でも献身的でもない。手が届く距離にリーダーがいる。私からは何もしなくていい距離。リーダーからも何もしてこない距離。
「この寒い中こんなところにいるんじゃない。迷惑をかけるな」
そこにいたのは女王だった。髪を掻き分けながら入り組んだ場所にあるこの泉に姿を現す。
既にバレていたのだ。
「気付いてないと思ったのか?帰るぞ」
「何処にですか?家はもう何処にあるかも分からなくなって……それで」
「甘えるな。私たちが帰るのはキャンプ地だ。家になんか二度と戻れないと思え」
「そんな甘えたことは言うんじゃない」
「……はい」
親に手を引かれる子供の様に集団のキャンプ地まで戻る。濡れた体を布切れで拭き取る。よく見ると体中に独特のアザが刻まれていた。時間が経つとはっきり出てきて水が徐々に中に染み込んでいく。
「……」
笑うだけでいい。喋りはいらない。
まるで肩をすくめるようにして笑っていた。
第三次性徴期には個人差があるため、いつ起きるか分からない。
「お前はもうなったのか?」
「はい。私は丁度雲の開けた日に」
「そうか……あの日に第三次性徴が起こっていたのはお前だったのか」
「父に何とか止めてもらって……それで」
「と言う事はお前は見てきたのか、宇宙を」
「お前の目にはどう映ったんだ?」
「ええ、想像とも違った世界でした」
「私たちはきっと飼われているんですよ……」
「どういうことだ?」
「気にしないで下さい。ただの私の思い込みですから」
「……ところでお前の名前はなんて言うんだ?」
「宮原瑠香子です。ルカって呼んで下さい」
「そうか……。ルカ、お前はあまり自分を出さないんだな」
「?」
「臭いな……取り敢えず体を拭け」
リーダーは羽織っていた毛布を捲った。昔テントで使っていたのと同じ柄だ。こんな模様中々売ってないだろうし相当物持ちが良いな。
というか背中のは毛布だったのか。私が受け取った毛布の上に水滴が落ちる。一つ、また一つと落ちてシミになる。
「……どうした?」
自分でも分からない。ただ、どうしてリーダーがここにいるのか、ここまで来てくれたのかを考えていたら込み上げるものがあった。
「…………っつ」
泣いている。涙がこぼれている。私はつくづく良く泣いていると思う。小さい頃からそんなに泣き虫でもなかったけど泣くことが多い。そういえば足元にもこんな色の染みが出来ていた。体を動かさなかったからこんなことになっていた。
「お前、冷たいな」
「…………」
「何かいるか?」
檻の中にリーダーの手が入って来る。伸びてくる。これは救いの手なのか、はたまた。そして私の頬に軽く当たる。柔らかいけどその実しっかりしている。芯が通っているのを感じる。2,3回当たったその手は何十に重ねた毛布よりも暖かかく感じた。
「……」
「何も食べていないのか?」
「……」
直ぐに言葉が出ない私から特に返事を待つわけでもない。でもその素振りの一つ一つが私を見ている。私の元に動いている。彼女は私の事を忘れてはいなかった。近くには紙袋も置いてある。辺りの雪が無くなっているから恐らく中には温かいものが入っているのか。その中にはおかゆが入っていた。取り出されたおかゆは湯気を漂わせ真ん中には梅干しが一つ置いてある。作りたてなのだろう。ここの近くに調理出来る場所があったのか。
「はい、あーん」
「…………」
「ちゃんと口を開けろ。食べさせてやらないぞ」
「……あーん」
「よしよし、それで良い」
小ぶりの器からレンゲですくい上げゆっくりと私の口元まで運ばれて来る。空腹はやっぱり最高の調味料。おかゆ自体の優しい味と梅干しのアクセントが体に染みてくる。二口目にはまともに言葉が出るようになった。熱々でホカホカで食べるだけで元気が出てくる。三口目にはリーダーからレンゲを借りて自分で食べ始め、直ぐにおかゆはなくなった。
「良く食べるな。案外元気じゃないか」
「私は半分も食えないかと思っていたんだが」
器を見て感心する。口の中がまだ熱くて言葉が出ない。その分美味しさが舌の上に残る。こんな美味しいのを食べられるのなら食べないのも悪くはない。ひもじくて肌も荒れて匂いも強くなるけど。
「はい、飲み物」
「……ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
おかゆを食べたせいか体のかゆい部分が自分でも分かる様になってくる。いかに体を洗っていないのか思い知る。身体を掻こうにも目の前にはリーダーが座っている。別にいいんだけど今のリーダーの前だと何もする気が出てこない。私とリーダーが強烈に比較されているみたい。今の私はまるで試されているかの如く薄ら寒い。どこでこんな差が付いてしまったのだろう。
「まだ食べるか?一週間分くらいはあるけど」
「他の味も作って来たぞ」
「あの……着替えもお願いします」
「はいはい」
紙袋の中から材料を取り出す。何でも出てくる不思議な紙袋。紙袋をゴソゴソしていてもリーダーはかっこいい。それは昔から変わらない。でも今はそこに優しさも加わっている。私が着替えを欲しているのを見透かされているみたいで嫌だったから自分から言った。
「……あと見た目の事は気にしないで下さい」
「今更かよ……分かってるよ」
「ほら、着替え」
そういうとリーダーは袋を傾けて中を見せてきた。中には数日分の着替えが詰め込まれていた。恐らくリーダーのお下がりで少し小さいだろうけど今の私には喉から手が出る程欲しかった。
「私じゃ入らないかもしれません」
「いいから着てろ。文句言うな」
無意味な強がり。でもリーダーはお構いなしに私を着替えさせる。黙々とやってくれているがあの頃のような無表情という訳でもない。
「重ね着すればそんなに寒くないだろ?」
「そんな汚い毛布に包まってないでさっさとこっちに来てくれ」
「というか、来い」
差し出された手は力強い。柔らかさを感じさせるより前に強さを芯から感じる。
「リーダーはどうなんですか?」
「ここに来たと言う事はやっぱりそれなりの事があって……」
「詮索するな。深追いするな。」
「漆原がお前のことを心配していた」
「…………」
「お前はあいつと同じくらいに入ってきて丁度辛い時期だったろうからあいつもお前の事を気にしてる」
「お前がしているのと同じように」
「私は別に……」
不思議な縁だ。あの時ばったりあったあの人がリーダーとこんな関係になっている。向こうも不思議がっているだろう。私の鼻もまだ捨てたもんじゃないな。
「そのお礼って意味もあった。今あいつは手が離せないから」
覗き込んできた彼女の顔は思ったより整っている。思わず見とれてしまう。だが咄嗟に顔を離し距離を取る。
「お前と出会ったことには感謝しているよ」
突然のその発言。私は意表を突かれて上手く反応が出来ない。固まったままの私。明らかに女王の方が一枚上手だった。
「彼は……具体的に何をしているんですか?」
「掃除や洗濯、追加のテントの設営。その他私の身の回りの全てだ」
「それなら別で人に頼めばいいんじゃないですか。何も漆原さんでなくても」
私はいまいち拭い去れない疑問を聞いてみる。彼ならそういう雑用を喜んでやってしまいそうだが。私ならほとんどまかせっきりになってしまう。率先してこなす彼とどんどん何もしなくなる私。私がただのダメ人間になり下がるだけだ。隣に座ったリーダーは足を組み直して私の質問に答える。
「確かに今話した部分はそうだが、彼には私が不在の時に集団の指揮を執る役割がある。そしてそれは彼にしか出来ない」
「それに……」
「他にもまだ何かあるんですか?」
「一杯あるさ。数え始めたら終わらないくらいだが」
「本当に漆原さんの事をよく見ているんですね」
「あいつには助けてもらっているしな。その恩は返さないと」
深刻そうな表情。一回大きく俯いた後に体を仰け反らせる。彼女なりの背伸びなのだろうか。机には丸めた書類が散乱している。上手くいかないことが残っているとその机が物語っていた。手作りの机。何かあった時のために食べられる素材で作ってある。お湯を掛けると美味しそうな匂いがするらしい。リーダーはそのまま上を向いて言葉を続ける。
「あんなに純粋に飛んでみたいと言ってきた奴はあいつが初めてだった」
「純粋に……飛んでみたい」
「力がなくてもそれを願ってやろうとしたんだ」
「漆原の真っ直ぐな目を見ているとこっちまでほだされそうになるよ」
「……ルカはどう思う?」
「普段と違ってリーダーらしくないですね」
「そうか?これでもお前にはいつも変わらず接していたと思ったんだが」
「それはまあ、受け取り手次第ってことで」
飛ぶ。
そもそも人間には備わっていない力。今まで不要だったから私たちの体には残っていないから付けるのだ。多くの人が雲の向こうへ行くことを望む中で様々な道具が開発されてきた。それでも分かって来たのはどうやっても雲は抜けられないという事実だった。雲を現行の最高速度で突き抜けたとしても数十年かかるという事実。それ以降そう言った開発は姿を消した。それなのに雲の上まで行くことを諦めない人は多い。
「それはそうとして、あいつの瞳には曇りも迷いも無かった」
「漆原さんですか?」
「この世界でも彼は一人前に生きている」
「…………」
「……何ですか?」
「ルカはどうなんだってことだよ」
「今のお前はおかしいぞ。こんな場所でうす汚い恰好をして、体も洗ってないだろ」
「まあ、そうですけど」
「まともに暮らしてないだろ。投げやりに時間を潰しているだけだろ?」
「それがどうしたっていうんですか。この世界に生まれた時点で失敗したようなもんでしょ」
「屁理屈を言うんじゃない」
「それなら漆原はどうなる?あいつはお前みたいになっているか?」
「それは私には分かりませんけど」
「それに加えてどうだ?お前の目は腐っているぞ」
「気にしないで下さい」
「気になるから言ってるんだ」
「そんな目では自分の事もまともに見れないじゃないか」
「私の事はちゃんと見えているのか?私は誰だ、言ってみろ」
「答えられないですよ…」
集団
ルカ視点↓
蜘蛛の巣。温かさ。入り口に掛けたシーツを捲ると見えてくる。それと同時に肌寒い風が吹き込んでくる。寒さで体を震わせながら同じ班の人を起こす。取り敢えず自分の寝袋をたたむ。昨日使った時よりもゴワゴワしていて小さくはまとめられなかった。取り敢えず隅の方に置いてさっき開けた入口の方に顔を向ける。途中色んなものが目に入るが気にしない。
暗い。
何度確かめても朝になっているのにまだ暗い。もう怒号は聞こえないけどまだ揺れている。私が目を覚ましたのもそのせい。結局ほとんど眠れずに朝になる。でもいつもこの時間で起きていたから起きたくなくても目が覚める。外に出て回っても恐らく夜泣きする声が響いているのだろう。何も聞こえないのはその点便利が良い。
寒い。
体が冷えてきた。さっきから吐く息が白くなりつつある。ふと弟とそんなことをして遊んでいたのを思い出す。しかし一回寝ると大分違うものだ。ついさっきまで私に起きていたことを遠目で見ることが出来る。熱くなって色んなことを思っていたのも思い出す。膝を抱えてうずくまる。隣で寝ているこの子もたまたまここまで生き長らえて今こうして寝ているのだ。
「こうやって寝られるのが最後かもしれないと思うと…」
「気にするな。そんなことは忘れろ」
寝る前に彼女が言っていたことを思い出す。確かにそうかもしれないが私たちは寝られるだけましなのかもしれない。寝袋があるだけ良いのかもしれない。まあそんなことを全部持っている今の私がいうことでもないけど。昨日の私なら言うかも。顔を胸に埋めると眠気が襲う。私に残っている時間はあとどれくらいだろう。こんなことしていていいのだろうか。食料を集めると言ったってあと何日の命かも知れないのに。でも全員分の何日分の食料がある訳でもない。結局はそうするしかないのだ。
隣の彼女がモゾモゾと動き出す。
「うう…う」
起きるのだろうか。そういえば私もトイレに行ってなかった。重い体を動かしてテントを出ると昨日の朝とは大分違っていた。ここぐらいの高さならどこまでも一面見渡せたのに全部同じ。同じ景色。あの物体がそうした。今が本当に朝なのか不安になるくらい暗い。まだ焚火をしている人もいる。
「目が覚めたか……?」
「リーダー……いつの間に起きたんですか?」
「細かいことは気にするな……それより足元に気を付けろ、まだ片づけてない分がある」
気付かなかったが一歩歩くと下には知らない人が死んでいた。思い切り踏んでしまった。
「ごめんなさい……」
そういう人もいる。
この世界がそうさせた。
温泉に朝入ることは出来ない。朝は見張りの人が入るため、他の人が見張りをする。そう割り切って焚火で身を温めることにした。
「……」
「これからどうなるんですか?」
「取り敢えず先を急ぐ。供給源が絶たれる前に山を越える」
「え……それって」
「私はもう行く、深くは考えるな」
温かいというよりかは熱い。部分的に温められて背中は冷たいまま。凍えた背中を丸める。彼女は関係者から女王と呼ばれている。それはあだ名でもあり誰も本当の名前を知らないからだ。その女王はこうして態度がなっていない奴を見かけると黙っては居られないのだ。
女王視点↓
何も始まらない。
この集団は時間の使い方が上手い。ほんのちょっとの時間でこれからやる事も決めてしまう。
何をしていてもずーっと鳴っている。ここはどこなのだろうか。昨日と何が違うのか。私はどうしてこんなところで。
冷たい。
体がドンドン冷えていく。立っても座っても寒くてもうここに居たくない。配られたコートだけでは厳しいものがある。厳しい顔をした人が貧乏ゆすりをしながら座っている。
小さめの体にフィットするように白のコートと紺のロングブーツを着ておいた。私が足を組んで座ってから会議が始まる。その横で真っ黒のコートの上にマフラーと手袋を付けた漆原が立っている。私と比べると見ているこっちまで暑くなりそうだ。私を中心として有志を募り古びた長方形のテーブルを囲む。出た意見を書記の漆原がノートに書き留める。
「では報告から始めてクダサイ」
漆原の仕切りで進んでいく。
「昨日から他の集団との合流を果たし規模を拡大しつつありますが、周囲の点検のための設備が今ある施設では足りなくなりそうです」
「それよりも食糧調達の方がよっぽど問題だ」
「集団としての規律を乱す者も後を絶たない」
特に目立った成果は見られない。よれよりも問題点の方が多そうだ。
「まて」
ようやく班員たちも重い腰を上げる。
「まず我々とコンタクトを取れるのか、そうでないなら我々の攻撃手段であの物体を排除することは可能なのか」
「あの物体だけとは限らない。宇宙には他にも存在している可能性もある」
凛々しく唾を飛ばしていて熱弁を振るう。こんなムダに思えるようなことでもやらなければならない。ただ漠然と逃げてそこに安住を求めるだけではその先が続かないのだ。頑張ってそこに何があるかは分からない。全て潰されるかもしれない。努力も親も、そういうもの全部。それでも訳の分からない集団を継いだのは生きていたいと思ってしまったからだ。
仇を取る。
そんな概念はあるのだろうか。もしやる事が出来るのならば参加したいと思うのだろうか。そんなことが頭の中でグルグル回っていた時、誰かの声が響いた。
「……誰がこんなことを引き起こしたノカ」
会議がざわつく。腕を組んで考え込んでいた人もハッとして顔を上げる。うつむき加減で聞いているのかよくわからない感じの女王も視線を元に戻す。会議で書記として紙に黙々と議事録を付けていた漆原の発言。
明らかに今までと反応が違う。他の人も気にしている。
何も見ていない、私は知りません的な態度を取りつつこうやって発言している。
「原因に関する情報を持っている方はいらっしゃいマスカ?」
漆原が改めて発言する。姿勢を正し、背筋を伸ばして全員の方を向いて問いかける。それは私たちにとっての希望。前向きになれる素材。その人間が特に何かできるとは思わない。でも現状を何かしら変えてくれるはずだ。だが誰も有力な手がかりを持っている者はいない。隣の人に耳打ちをしている人もいるが聞いていた方も思わず苦い顔をする。
「誰か質問はありませんか?」
「はい」
誰も返事をしようともしていないこの中で一人だけそう言った。そして自分の発言を続ける。
「なぜこんなものが作られているんですか?」
一人が手を上げてはっきりとそう言った。その人は何の覚悟があってそんなことを言っているのか。そう思いながらでもその人をもう一度よく見る。あいつは私の母くらい小さい。髪も腰まである黒髪のストレート。というか、あいつは私が拾ってきた奴だ。
「お願いします。答えて下さい」
「答える義務がない、それにそんな時間もない」
私は彼女に向かってそれだけ告げると次の準備をし始めた。何事もなかったかのように過ぎていく時間。彼女の横顔。そこに見えるのは落胆でも意気消沈でもない。
でも焦ってはいない。隣の人と話をしている。軽くあしらう流れが出来てきている。それでも彼女はグイグイ詰めていく。何か思う所でもあるのだろうか。今まではあんなに前に出るタイプでもないし今までそういった所を見たことはなかった。彼女の気迫はこっちまでくるものがあり、気軽に止めなよと話しかけづらかった。
「おい、何をしている」
そいつの方を向き直して問い詰める。怠けている態度の様に見えて気になった。それまでの何か考えている風ではなくはっきりと私だと分かる様に発言した。冷静な声で全く笑っていない顔がこっちを向いた。持っていた書類を置き議事録も中断。
決意の表情。
一回や二回ではへこたれないタフな顔。あいつと私は同い年ではない。ここはどんな人でも受け入れる姿勢でやっているから彼女もその口だと思う。そうはいっても起こした問題は全て自己責任で処理しなければならないため、彼女は私たちから遅れるわけでもない距離をつかず離れず付いてきている。小ぶりな体はさっきの表情からはあまり想像しにくい。
「何か言いたいようだな」
私は腰まである黒髪を揺らしながら小さな体でルカの元に向けてくる。ピンと張った背筋で小さい歩幅ながらも直ぐに詰め寄ってきた。たった何歩か歩いただけで私と彼女との距離は縮まった。詰め寄られた彼女の体は距離を置いて見ている時は大違いで存外に大きく見えた。
「あの物体をxと仮定する、私はそう考えてみようと思いました」
「漠然とした想像だけでは何も見えてこない。ただのおまじないです」
「グダグダ話し合うことに何も見えてこなかったから」
「言ってくれるな……まあ何も考えないよりはマシだろう」
「何か分かったら教えてくれ」
「それと、雲の向こうがどうなっているか」
それは暗黙の了解であり言わずと知れた聞いてはいけないことである。わざわざ質問するような奴はいない。彼らも彼女らもみんな分かっていてここにきているのだ。本当は聞きたいと思っている人もたくさんいるのは事実だ。私は漆原に目配せをしてその場を後にする。
「ではこれで会議を終わりマス。皆さんありがとうございまシタ」
そう言って軽く会釈をした漆原をよそにルカはずっと私の方を見つめていた。
ルカ視点↓
荒野。
辺りを乾いた風が吹き抜けていく。私たち集団は今荒野に立っている。誰もが疑問を拭いきれない表情をしている。でもそんなのみんな分かっている。
丸見え。
逃げるところも隠れるところもない。そんなのが意味を成さないなんて知っているけど、そんな気休めもない。そもそも意味とかそういう問題ではない。私の気の問題。そうであった方がまだやっていける。実際には何の意味もないことにすがって生きている。
なぜこんなところに来たのか。
「先に出た者からの連絡はない」
女王はポツリと呟いた。私の中の疑問がドンドン膨らんでいく。拭いきれない不安を抱えたまま女王を見つめる。彼女の一句一動が私の明日を決める。
無表情。
何時もと何ら変わらない。自分の中に生まれた色んなものを受け止めてくれる表情ではない。これは決定事項。自分が死なない保証だってないのによくこんな判断が出来るものだ。
落ちてくる。
吹き荒れる荒野の向こう側。今まさに落ちてきた。ほんの数ミリずれていたら集団は直撃を免れなかった。なんだこの世界。私はあまりにも嫌になって声を荒げる。
「もうやめましょう!」
嫌だ。
やっぱり嫌だ。
なんでこんなところを選んだのか。頭に浮かんだのはただそれだけ。自分が知っていることは何もない。連れてこられて、今までいた場所からどんどん離れて。
そして潰される。
久しく忘れていた感覚。
でも彼女は違った。
やっぱり無表情。そして進む方向を指し示すために腕を上げた。それは集団が進む方向と同時に今すぐ潰れるかもしれないという方向。でもリーダーの顔に何の迷いもない。傍らにいる漆原さんもいつもと変わらない表情。
集団が辿り着いたのは何もない荒れ果てた荒野。彼はこの荒野を延々と突き進むと言った。
「我々はここを進む。行くぞ」
リーダーの言うことが素直に私に入ってこない。聞きたくない。それでも集団は移動を開始する。リーダーの命令は絶対。私たちに逆らう権利はない。後数時間の命。それをこんなにも無残に無くしていくのか。食べるものもないしそもそも生きているものが何もない。既に潰された後。全員の表情も固い。おかしくて笑っていた人の事を思い出す。今からここに居る人もああなるのだろうか。
荒野。
「私たちは今からここを通る」
「私がいいと言うまで前進」
言葉を理解したくないからか、体が言う事を聞かない。耳を閉ざそうとしてでも、体はさっきの言う事を聞いて。
矛盾。
途中で食べ物が得られることもない。ここから逃げてきた人もいるだろう。みんな知ってる匂い。潰れた後の人間の匂い。嗅いだ瞬間、体を反対方向へ向けてしまう。身につまされる思いで声を出す。
「何を言っているのか分かりません」
「手を挙げて発言しろ」
「はい」
「ルカ」
「リーダーのおっしゃる意味をよく理解できません」
「ではもう一度言おう。ここを抜ける、それだけだ」
「無理についてくる必要はない」
当たり前のような返し。彼女にとってはその質問はよくあることでそれに対してありきたりな返答をしただけ。そこの言葉が覆ることはない。周りからの嘲笑の目。こいつらはもう目が腐ってる。みんな諦めているのか。
シチュー(三日目 昼)
前提も想定も、全て間違っていた。
そいつの動きは何の常識も何の概念も通用しない。
そいつだけの概念。そいつが何を考えているのか私には分からない。
止まる。
ずっと空中で止まっている。止まったまま。あいつが次にどう動くのか予想できない。何も分からない。なんでこんなものが私たちの住む世界にいるのか。早くどこかに行ってくれ。
止まったままだった。
そのままだと思ったのに。降ってくる。容赦なく降って来る。そのまま落ちてくる。
「こんな茶番は終わりだ」
「私たちがこうやって生きていることを茶番というのですカ?」
「こんな世界はもう終わった」
「暮らしていけた世界は終わったんだ」
リーダーは何を言っているのか。自分の発言が周りから人をなくすかもしれないのが怖くないのか。
今日は何が食べられるだろう。
この世界での希望……それはごはん。
お昼だけ食べられる。
というか朝や夜なんてお腹にご飯を入れる気分じゃない。
だから…とっても楽しみ。
昨日は糞を食べた…じゃなかった。何か他のを。
パサパサしていて、美味しくなかった。
落ちていたから。
美味しそうに見えたから口にした。
口の中でそれを噛んで頭の中で味を想像する。
実に美味しい。
こんな先に未来はない。
でも美味しい。
リーダーは一つの推測を離し始めた。
「何十億年も前に地球を捨てて宇宙へ旅立った生物がいた」
宇宙という場所にはあのような生物が多数存在し、私たち人間はその内の一つに偶然生まれたに過ぎない。偶然生まれて、たまたま今まで生き長らえてきただけ。でもそんな事、雲が晴れるまで誰も知らなかった。別に知らなくてよかった。知る必要も無かった。
この人は何を言っているの?でも彼女の顔は真剣だった。私に嘘を吹き込む顔じゃない。
「それが答えなんですか?」
「可能性があるというだけだ」
それがあの物体だった。その生物は果てしない進化を遂げていた。私たち人間は井の中の蛙ということなのか。
勘弁してくれ。
そんなこと言われても私にどうしろっていうのだ。足掻いたって何をしたって意味がないじゃないか。逃げ出してもしょうがないじゃないか。本当なら人類は発生することも出来ないはずだった。
そうだ。
「なんで……」
でも偶然生まれてしまった。
「なんですか、それ」
ふざけるな。
答えになっていない。どんな確率で太古の昔に突如として発生した人間がここまで生き残ったというのか。
彼らは生きている。何億年も前から命を紡いでいる。彼らにとっては自分の縄張りに別の動物が入ってきたのと同じなのだろう。
「何も知らない私たちが失礼をした……」
何も知らずに他人の家に土足で入り込んだ私が愚かだった。そしてそこでのうのうと生きていたのだ。逃げ続けることに何の意味もなかった。
「それじゃ何ですか、さっき死ぬのも今死ぬのも変わらないってことですか」
「そういう世界ってことですか」
「お前たちが何を思って何を考えるのかを私は正確には分からないからはっきりは言えない部分もある」
「だが少なくとも私の言ったことは正しいと思う」
「その通りだ」
その話はみんなを凍り付かせた。
誰もが知りたかった事実。この理不尽でどうしようもない現実から一筋の光を見出すための切り札。でもその切り札は誰も幸せにはしなかった。
「聞かなきゃ良かった」
「俺先に戻ってるわ。もういらない……何も」
一人、また一人と班のテントに戻っていく。口に出さなくても悲壮感を漂わせる顔になっている人もいた。誰も口を開こうとしない。こいつらの中でどれだけの人がこの話を鵜呑みにするのだろう。どれだけが聞かなかったフリをするのだろう。そのどちらでなくともそういう瞬間は必ずやって来る。どこまでか逃げうせたとしてもここにとどまっている以上自己満足の領域を出ない。
「どういうことだ?」
「私はリーダーの推論を聞いてからずっと不思議でした」
「なんで自分が今生きてるのかって」
「不思議で不思議でたまらなくても何でかまでは分からなくて……それで」
「ようやく気付いたんですよ。そもそも今生きていることがおかしいって」
「お前は何を言っているんだ?」
「これは戯言ではありません。近いうちに直ぐそうなります」
「私たちのここもあれと同じなんですから」
「技術の発展を待っていられる場合ではない。それはこの世界が今後変わることなくずっと安定している前提の話」
「そんなのは綺麗ごと。会話をしている暇もない」
「お前や私が安心して暮らせるのも、お前の父がそんなものを考えられるのも全てこの世界があるお陰だ」
「その内全てが終わる」
「みんな死ぬ」
「ここもあいつみたいに動き出す」
「私たちが住んでいた場所は一時の仮住まいでしかない」
「動いている。確実に動いている」
「これから私たちはどうなるんだろうか。今までやって来たことも特に意味はない」
「そもそもこんなとこで暮らせると思った私たちがおかしかったのか」
「こいつ自体が動けば私たちがどうなるかの保証はない」
「リーダーが死に物狂いで戻って来た場所にまた出てしまうこともある」
「というかここに居られると思うことの方が甘い考えだろう」
「今こいつがどこにいるのかも分からない」
「あの時私が見た物体は他にもあった」
「何が起こるかも分からない」
「今度は潰れるだけでは済まないかもしれない」
「今までと違って他の物体とぶつかった時に私たちがここに立っていられるとも限らない」
「潰れた衝撃で宇宙まで行ってしまうってことですか……?」
ああ、今までの方が楽だったってことなのか。今までも逃げてきたけどもう何処にも逃げられない。本当に生まれてしまったって感じだ。前向きに捉える奴もいるのだろうか。確かにこれからは逃げる必要もなくなる。逃げなくてもあと何時間もせずに死ぬ。
結局意味は無かったのだ。
逃げてはみたものの人間は残らず死ぬ。私たちはまだそういう環境で暮らしていける程の進化はしていない。遅かったのか。もし何らかの偶然で生き残った人がいるとしたら、その時はもっと暮らしやすい環境をつくって欲しい。さっき言った夢のような世界が出来れば良いと思う。リーダーは立ったままみんなを見渡たす。みんなとの距離は近いようで遠い。
改めて見ると痩せたな。まあ私が言えたことじゃないけど。
「今まで付いてきてくれて本当にありがとう。無茶な願いなんかも聞いてくれて」
復帰したリーダーはそういうとみんなにお辞儀をした。やつれた顔に治らない火傷の跡。増えた白髪は気苦労の象徴なのかそれとも……。
「私が使っていた装置をみんなにも配る。気休めにしかならないがないよりはましだ」
漆原さんが奥から何やら取り出してくる。それはあの時のもの。彼の手にはここにある呼吸に必要な何かが入った袋。
「これを使うんですか?」
「一人一つずつ貰って下さい」
いつの間にこんなに造っていたのか。でもこれはあくまで何秒間の衝撃の吸収と呼吸の手助けをするもので宇宙に出られるというわけではない。もう手はない。文句ばかり言ってもどうしようもない。総出でやっていた作業がここに繋がっていたのか。
本当に気休めだな。
自分で造っておいて嫌気がさす。何が雲を抜ける装置だ。一体いつになったら完成するんだ。もう時間なんかないんだよ。今すぐにでも完成しないとどうしようもない。
「でも……」
体は動かない。取り掛かろうとしない。
そんなの今まで散々見てきたわ。あの時にも目にした。それを今更になって実感させられる。
「我々は情報収集に徹する……正直、今できることはそれくらいしかない」
「今日はもうこれくらいでいいだろう。夕食の準備をするからみんなも手伝ってくれ」
その晩は久しぶりに肉が出た。
この世界では目や耳が余り役に立たない。その代わり嗅覚が発達する。死体の匂いが強く残る場所からは離れるようになる。だからこんな近くでいい匂いを嗅ごうものなら、どうにかなってしまいそうだ。
「今日はご馳走だゾ。ルカも一杯食べロ」
「漆原さん……」
一人で離れた場所に座っていた私に声を掛けてくる。いつもと変わらない表情。それが強がりだと分かっていてもありがたかった。
「さっきはカッとなってすいません。途中で止めちゃって」
「リーダーもありがとうって言っていたヨ。気にしなイ」
「遠慮せずに一杯食べなヨ?」
漆原さんが肉を掲げる。
「ありがとうございます。先に行ってますね」
そう言って足早にその場を去る。漆原さんには悪いけどやっぱり一人になりたい。
「今から切り分けますヨー」
「欲しイ人は並んで下さいネ」
私でも知っている有名な産地からの牛数頭を副リーダーが惜しげもなくみんなの分をさばいていく。慣れた手つきで普段からやっていることが良く分かる。彼の後ろ姿から伝わる風貌はどことなく父に似ていた。みんなの分を切り終えた漆原さんを女王がねぎらう。
「今日はありがとう」
「いエ、それほどでモ」
「リーダー、本当に大丈夫なんですカ?」
「リーダーは本当は……」
何気なく肩に置かれた手。その手が震えているかどうかはここからでは確認できない。
「正直私も不安だよ。不安しかないよ」
「だったら僕ガ……」
「お前にさせてどうなる。お前は……漆原は絶対に帰ってこれる自信があるのか」
「たとえどれだけ不安でも私はやるしかないんだ」
「見くびらないで下さイ。僕だって同じくらいの気持ちはありまス」
「リーダーの手助けをしたいという気持ちもありまス」
「そのために僕を選んでくれたじゃないですカ」
「漆原、ありがとう。でもお前にしてもらう訳にはいかない」
「これだけは私がどうしてもやらなきゃいけないんだ」
「僕では……ダメなんですカ?」
「違う。お前にはお前のやる事があるだけだ」
「私が宇宙に行って見えなかったことを見てくるよ」
「リーダー……お供したいです」
「私は準備をしてくるよ。お前も後で来い」
いつもの様にお辞儀をする漆原さん。でもリーダーが去っていくその背中をいつまでも目で追っていた。その彼の頬には感謝の思いとはまた違った感情が移っていた。
「ルカ?」
私の事に気付いて振り返る。表情も直ぐに切り替えられている。あの頬の赤みはもうない。私は彼に歩み寄って聞いてみた。彼は愛想よく私の方を向いて耳を傾ける。
「何を話していたんですカ?」
「お手伝いしますと伝えただけでス」
いつもの顔。でもそれさえ強がりにしか見えてこない。みんな強がっているから今だけはみんなの気持ちが分かる。
「ルカも色々教えてくれてありがとうございまス。流石デスネ」
「漆原さんこそ」
今まで女王にコキ使われて来ただけある。ちょっとした動作だけで彼女が次にしたいことが分かる。そんな漆原さんが彼女の気持ちを分からないはずはない。女王が伝えたかったことはこの人にしか伝わらない。
私と漆原さん。二人で並んで座る。彼の手にはさっき捌いたばかりのお肉が盛られていた。
「ルカも食べル?」
「いただきます」
当たり前だけどやっぱり美味しい。噛む度に肉の美味しさが内側から溶け出してくる。口全体に広がるのを待って飲み込む。
「ちょっとショッパイですネ」
「そんなことないですよ」
「ルカは濃い目の味が好きなんだネ」
そういえば自分で作る時は濃くなっている。ちゃんと味見もしているのに。もしかしたらそれが原因なのかも。
「ルカも心配ですカ?」
「そりゃそうですよ。結局リーダーはどうするんですかね?」
「それはリーダーにしか分からないけど……僕は宇宙へ行くと思うよ」
彼の顔は自信たっぷりにそう言う。口元にはお肉に付けたタレがまだ残っていた。それを袖口で拭いている。照れ笑い。私は塩で食べていたから何も付いていなかった。
「宇宙には……何があるんでしょうね」
答えなんて欲しくない。そういうために呟いたわけじゃなかった。ただ口に出して頭の中から外しておきたかった。
「それを知るためにリーダーは行くんじゃないですカ」
「でも……リーダーは」
「知りたいなら自分で行くしかないと思いますよ」
「リーダーは強い人でス。僕では敵わなイ。ルカも強イ」
それが私の言って欲しかった答えなのか。それがどうかまでは分からなくても頭の片隅に残る言葉。
「リーダーもきっとそうでス。口ではああ言ってますが行きたくてしょうがなかったんですよ。でも自分のやる事をやらなくちゃいけなくて」
「そんな時にあなたと出会ったんです」
「私?」
「だからリーダーは今回宇宙に行く決心が付いたんですよ」
「リーダーにも思う所があったでしょうけド結局は行くしかないんでス」
「行ってしまうんでス……僕も説得したんですけどネ」
そう言いながら頭を掻く。どこかおぼつかない様子で目線も定まらない。立ち上がって後片付けをしに行こうとするが立ちくらみで頭を抱える。
「漆原さん、もしかして……」
「早く行かないと無くなりますヨ?」
私の言葉を彼は遮る。かなり食い気味で出たその言葉は私に夕飯の事を思い出させた。
「今行きますよ」
ご飯をもらいに行く方が先だった。段々遠ざかっていく彼が視線から隠れるようにしている。最初から分かっていないと彼がどこに居るのか見失ってしまう。もしかしたら一人で抱えている思いもあるかもしれない。でもそれを受け止めるのは私ではない。
家から持ってこれた数少ない器を握りしめて列に並ぶ。その戦闘部分ではどこから持ってきたのか、大きな鍋で具材を一気に調理している。唐突に彼の事を思い出して振り向く。余計なお世話とは知っていても聞いておく。
「漆原さんの分も取ってきますよ」
離れていたので聞こえないと思ったが十分に声は届いた。ごはんを待つみんなは大人しい。彼はバッグからいくつかの食べ物を取り出す。水なしでも美味しく食べられる携帯品だ。あの晩私も食べたからその味は知っている
「ボクにはこっちの方が合ってるかラ」
漆原さんは手に持った物を袋から取り出すと、美味しそうに頬張る。
「向こうが足りなくなったラ困るシ」
「分かりました」
漆原さんには悪いけど私にはあの味は慣れない。他のも取り出そうとバッグをまさぐっている彼をよそに列は進む。隣をすれ違う人の器から、良い匂いが漂う。特に近くを通られると強烈。お腹の減りは加速する。空に浮かぶ煙と共に良い匂いがしてくる。
「いいな、私も多くして貰えないかな」
さっきの人の量は少ないわけじゃなかったけどよく食べる私には足りない。弟に負けられないと、よく食べるようになった。でも一向に体が大きくならないのは心配だったけど、こういう時には役に立つ。お腹の余分なお肉を減らしてくれれば幸いだ。
「やっぱりシチューか……」
近づくと鍋の中が良く見えた。
この地方の伝統料理。
みんなが好きでどこの家でも作られていた。でもお腹は空くから結局食べる。自分もそう見えているんだろう。
「もう少しもらえませんか?」
「列を見てくれ。これが限界なんだ」
あんなの貰っても腹の足しにもならない。私にとっては舐める程度にしか思えない。その人はトボトボと後ろに下がる。確かにかわいそうだけどそんなこと言ってられない。沢山ほしかったら活躍するしかないのか?
一方その頃。
目線をそらすとここから離れた向こうの方では多くの人が炭火焼でステーキを作っていた。漆原さんもなぜか混じっている。
滴り落ちる肉汁。
豪快に肉が焼けるその姿は食欲をそそる。目線を元に戻す。大分前の方まで来たので継いでいる人が見えた。シチューのつぎわけをやっていたのは女王だった。いつもと変わらない眉間にシワが寄せた表情で黙々とシチューを注いでいる。そんな嫌そうにやらなくても。その内私の番がやって来る。しょうがないから器を差し出す。
「お願いします…」
叩き割ったりしないよね?私の時だけ少なくするなんてやめてよね。
「……」
特に何を言うわけでもなくシチューを注ぐ。でも直ぐに渡してくれない。気になった私は思わず鍋の中を覗き込んだ。すると鍋の中ではシチューがかなり残っていた。私はいつも以上にお腹が鳴っていた。
「グ~」
これは完全に聞かれた。覗き込んでいたから体が前に出ていた。恐る恐る顔を上に上げる。
「…………お前、腹減ってんのか」
リーダーはまたもや黙々と話し出す。それでも手は止まったまま。
「はい。さっきから良い匂いがしてて」
正直に分かりきったことを話す。なぜかリーダーは渡してくるわけでもなく止まったまま。
「……この後どこかに配り歩いたりするんですか?」
思わず聞くと、リーダーは我に返ったように器を再度握りしめる。
「余計なことは気にしなくていい。この瞬間に亡くなる人もいる」
「出来る時にやれることをやっておけ」
いつもの様に饒舌に戻って私に色々言ってくる。返してもらった器からはずっしりと重さが伝わって来た。シチューにしては中々重い。
「ありがとうございます」
私がそういうと不思議そうに私を見る。それはまるで珍しいものでも見ているようだ。
「なんですか?」
「いや」
満更でもない様子で女王は言葉を続ける。
「その器には普段のお前への感謝も入ってんだよ」
はあ、そんな事も言うんですか。ていうか、
「そう言う事言える人だったんですね」
「なんだよ」
私は素直に感心していた。こんなこと中々ない。私も不思議そうな顔をしてみた。
「…………聞かないんだな」
やっぱり聞かれた。まあこれだけ人がいればそうなるだろうけど。
「聞いてほしいんですか?」
「今まで配った奴全員に聞かれたんだよ。だから不思議になっただけだ」
みんな考えることは同じなのか。急に親近感が湧く。こういう席ではよくあることだ。近くに座った奴と一緒の班になることも珍しくない。
「?」
改めて彼女の顔を覗き込む。今度はさっきより体を出して。やっぱり整っている。するとしかめっ面じゃない優しい顔になった。これもいつもと違う表情。身体を元に戻して向き直る。
「行きたいんなら是非行って下さい。応援しますから」
嘘をつかない様にいった言葉。間違ってはいない。
「言われなくても分かってるわ」
でもまた元に戻る。
「早く向こうまで行け、お前にだけ構ってられないんだよ」
「私の方こそ感謝しています」
思わず何度も言ってしまったけど、言いすぎることはない。列はまだ後が詰まっているので後ろの方まで下がる。ホカホカのシチューは見ているだけでどんどんお腹が空いてくる。漆原さんと一緒に食べることにした。ついでにお肉も貰うつもりだ。彼は自分でさばいた分があるから多めに手に入ったはずだ。卑しい考えで頭が一杯になるが仕方ない。お腹が減っている時なんてみんなこんなものだ。
肉の美味しさを噛みしめることが出来る。昔はそんなにお肉は好きではなかったけど今はすごく食べたい。というか、ぜひ食べたい。
逃げ続ける気力なんてもう残っていなかった。逃げるというか、もうそれが生きているから、逃げるんじゃなくてただ生きているだけになってきている。
「いただきます」
それでも肉なんていつ以来だろうか。目の前に置かれたお皿と器が目に入って涎が止まらない。速く食べたいけど食べたら無くなってしまう。当たり前のことだけどなぜか悩んでしまう。意味のない悩み。行為。早く手を付ける。そんなことをその日はみんながみんなに優しかった。私のよだれを見て隣に座っていた人がハンカチを貸してくれた。
「ありがとうございます」
「気にしないで」
彼女は班行動の時によく一緒になる人だった。遅刻とかで遅れていたのが印象に残っている。
「私一回しか遅刻してませんよ?」
「あれ?」
普段ちゃんと良く来ていたからこうなってしまったのだろうか。変なところで苦労している人なんだなと、勝手に感心してしまう。
私もお返ししなくちゃなんて柄にもないことを考えていた時、ふと思い出した。
あの日にみんなで食べたのもシチューだった。最後の晩餐だと思って美味しくいただいた。四人で手を合わせたことを思い出す。美味しさよりも思い出がよみがえる。そういう思い出で頭がいっぱいになる。埋め尽くされて幸せになる。でも直ぐに目を覚ます。何も出来ていない私を思い知る。三人の元にもう一人が到着するにはまだかなり時間が掛かるだろう。
「ご馳走様でした」
今日の夕食は本当に美味しかった。味が体に染みた。溶け込んでいくようだった。器の中にさっきまで残っていた、入っていたシチューに想いを馳せる。もうシチューはどこにもいない。私のお腹の中。
きっかけなんて本当にどうでもいいことなんだ。もしかしたらここにいる彼らと恋をするかもしれないし、明日死ぬかもしれない。でも、正直もうどうでもよかった。その宴は夜更けまで続いた。
「ルカ、お味はどうデスカ?」
「うん。美味しかったよ」
「あの日のスープも美味しかったよ」
「(´▽`)アリガト! ルカ」
班長
「いつ死ねるのか」
思わずそう声が出た。あの日から環境は大変わりした。それまでは各地に点在していた村の殆どが遊牧民となっていた。地を這うようにしてほんの少しの天の恵みを探し回る。大きな振動を近くで観測した場合に家ごと移動することで少しでも被害を免れようとした。毎日が必死であの日のこともあまり覚えていない。あれから一度も性徴は起こらない。というか、あれ以来、一度も見かけていない。見上げるとそれはいつも浮かんでいた。もしかしたらと思って見上げても結局は何も変わらない。
「あとどれくらい生きられるのかな」
そう呟いていた。
疲れた体は自然とテントの方へ向かっていた。近くまで来ると隙間から光が漏れているのに気付いた。中から紙が擦れる音がする。班長がトランプを切りながら私の戻りを待っていた。
「おう、遅かったな」
配属されたばかりの新人には班行動を取ることになる。班決めは月に一度の交代でメンバーが入れ替わる。集団全体の人数は入れ替わりが激しく詳しい人数ははっきりしない。やむを得ない事情で抜ける者もいれば行方不明になる者。私がこの集団に入ったのは1週間ほど前で漆原とかいう外国人の雑用をさせられている。班は本来4人で動くのだが、配属された初日に他の2人が行方不明となって今に至る。通常4人班でする作業を2人で行わなければならないため、規定の時間内に終わらないことも多かった。その場合は雨風しのげる場所で一晩を過ごすこともあった。それでも入って日が浅い私にとっては経験になった。外の寒さで手が悴んでいた。
「おかえり」
温かい。
芯まで冷えていた体は徐々に解きほぐされていく。暑すぎないで丁度いい。ほっとため息をつくと顔が緩んでいく。横になったらこのまま寝てしまいそうだ。
「ただいま」
2人班は悪い事ばかりじゃない。テント自体は4人用だが私たちの班は2人なので寝る時など広く使える。事前に配られた数日分の食料や雨具、それぞれの服や暖房器具が所狭し並んでいた。着の身着のままで合流した者がほとんどで各々の荷物はあまりなかった。2人班でも狭いくらいなのだから他の班はどうしているのだろうか。
「外に出しているんだよ」
布団から顔だけを覗かせてボソボソと呟く班長。彼女が風邪を引いている間は私が班長をやっているがそう呼ぶ方がしっくりくる。入り口の布をどけて顔を出すと確かに荷物がそれぞれのテントの傍らに置かれていた。中には外で寝泊まりしようとする奴もいた。紺の大きめの寝袋の中であくびをしている金髪、漆原さんだった。
「女王と同じテントだからしょうがないよ」
確認事項が山ほどあるので同じテントの方がスムーズに進むらしい。
「今日のお仕事お疲れさま。ちゃんとできた?」
「まあね。そっちこそちゃんと寝てた?」
「…………」
「…………」
「寝てなかったんだ」
「寝てたよ」
そう言って私に抱き付いてくる変態。彼女が私たち2人班の班長だ。今日一日風邪でテントにいたせいか班長は本当に暖かい。風邪がうつるかどうかは自己責任なので移されると大変だ。抱き付いてきた彼女の体はいつもより重たい。風邪のせいか足元がふらついてもたれ掛かってくる。重さに耐えきれなくなった私の体がそのまま前のめりに倒れこむ。
「(゜-゜)」
風邪が十分に治っていないのかもしれない。彼女の体を押しのけようとすると私の手を取り自分の谷間に入れようとする変態。
「体温計~」
彼女が私より全てが大きい班長だ。目の前にある顔は今にもはちきれんばかりに真っ赤に実っている。明日は私が風邪を引く番かもしれない。細かい事もやってくれて頼りがいのある存在だけど自己管理が甘い彼女。大好きなはずのトランプがぐちゃぐちゃになっている。
「明日から情報収集が始まるね」
ババ抜きをしながら思い出したように呟く。集団が本格的に活動を開始すればこうした時間も無くなる。しんみりした気分でジョーカーを班長に引かせる。
「うわ!また負けた」
「……」
「…………」
ペラッ。
「カードに細工なんかしてないよ」
班長は手持ちのジョーカーとにらめっこしている。そして今度は自分で切るとばかりに散らかっている分を集め始めた。
「ねえ、班長?」
「ん?」
「他のテントの奴らなら同じ様にトランプやってんだろうよ」
「特に他に支給品もないし変な気も起きないし」
「でも時間だけはあるし」
「みんな同じなんだよ」
「そうじゃなくて」
「?」
「何か食べる物持ってない?お腹空いちゃって」
「それもみんな同じだよ。我慢しなよ」
「だよね」
擦り切れたトランプにも飽きて身の上話をすることになった。他の人の事情を詮索するのは良くないと分かっていても聞きたくなる。それにこれから一か月は一緒にいるのだから少しくらい話しても悪い気はしない。そうさせてくれる空気を班長は持っていた。何を言っても笑顔で受け止めてくれる存在というのはいろんなものを忘れさせてくれた。
「ルカの家族はどんな感じ?」
それまで寝そべって手を顎に置いていた班長もおもむろに座りなおす。何だか私も気持ちを正される思いで顔を彼女の方に向ける。
「楽しかったよ」
そう一言呟く。でもそれはちゃんと班長に届く。黙っているようだけどそれは班長が考え込んでいる時の様子。さっきから視線を外さずに私を覗く。
「弟が私に色々ちょっかい出してきて」
弟の姿が思い浮かぶ。顔を右上の方に向けて思い出そうとする。綺麗な思い出。楽しい思い出。思い出したくない思い出。
「それにお母さんが加わって」
顔を上に向けたまま続ける。班長もそのまま。その情景に母が加わる。母は弟とじゃれ合う。そしてそんな景色を壊そうとする。ぶち壊そうとする。だからそれを否定する。私の中から排除しておく。
「そんな私たちをお父さんがまとめるの」
そこに無理やり加えた父。母と弟が走り回るのを後ろから捕まえる。
でもやっぱり壊される。潰される。そんな瞬間を頭の中でもう一度経験する。
「…………ぁ」
言葉にならない声。班長の眉が反応する。何かを喋ろうとしてやっぱりやめる。その口は開かない。身体も俯く。
「…………」
「…………」
喋れない。あんまり上手くまとめられない。でも色々と思い出す。もっともっと続くと思っていた日々。もう少し続いてくれると思っていた。いつか私が誰かと結婚することになった時、花嫁としての姿を二人に見せたかった。
「あぁ……楽しかったなあ」
思わず声に出る。目頭が熱い。私が今まで当たり前だと思っていたことはそうじゃなかった。簡単に崩されるものだった。目尻にためた涙が頬を伝おうとした時、
「…………」
「…………」
我に返る。ハッとする。急いで涙を拭く。でも班長はずっと見ていたからあまり意味はない。こんなこと班長に話してる。どうしたんだろ、私。
「ごめん、そんなしんみりならないでよ」
平静を取り繕うとするが班長は微動だにしない。
「ありがとうルカ、話してくれて」
瞼をそっと閉じ静かにそう呟いた。
「……」
「……」
「写真とかないの?」
班長は私のバッグをそれとなく指さす。その指の先にはいろんなものが詰まっている。弟に食べさせるはずだった食料も残っている。だからそのバッグを開けるというのはそれらを見つめると言う事。でも身体を動かしたい気分だったのでありがたい。バッグを手元まで引き寄せるとその重さに少し慄いた。私はこんな重さを背負って今まで走っていたのか。もう少し冷静な対応というものが求められたのかもしれない。でも今は上手く言葉には出来そうにない。バッグの中を少しまさぐるとそれはあった。
集合写真。
父と母と弟と、そして私。みんな笑顔。今の私の目に浸みる。振り向くと班長は未だ微動だにしない。真剣に聞いてくれている班長のためにも見せることにした。班長はそっと受け取るとみんなを見つめる。
少しの沈黙。
「父は自分の部屋に籠ってばかりで……でも私ともよく話はしていたんだけどね」
「この人はどんな人?」
「父さんはずっと雲を超えるための研究をしてた。実際に外に出ることもあったからよく連れて行ってもらってた」
「これがその父から貰った装置」
「装置?」
「雲を超えるためのね。まだ完成はしていないんだ」
安っぽいと思う。こんな事当時から誰もやっていなかったから協力者がいなかった。でも体を浮かすことくらいはもう出来る。これが完成すれば自分から向こう側へ行くことも出来るはずだ。
父から初めて受け取った時はドキドキした。
「ルカならきっと出来る」
「私ならもっと簡単だわ」
いつも割って入って来る母。でも実際に色々分かるのが母でありその辺は有りがたかった。
「…………」
母の後ろから指を加えて見ている弟。頭だけ母から出ている。
静寂。
班長はとやかく言ってこないからみんなも話しやすいんだと思う。
「……?」
そして班長は何かに気付く。おもむろに右端に映った父の顔を指さしてきた。
「その人さ、そのお父さん。」
「父がどうかした?」
私は班長の顔を覗き込むようにして尋ねる。彼女の顔は真剣そのもの。そしてポツリと呟いた。
「見たことあるかも……」
「…………え?」
思いがけない一言だった。私はどうしていいか分からない顔をしていたのかもしれない。
「此処に合流する直前。だからルカと会った日」
「ここの近くだったと思う」
あの日。
でも班長の顔に嘘偽りはない。
正直、今すぐにでも会いに行きたかった。もしかしたらなんて思っていたけど見た人の話を聞けて嬉しかった。
「まだ生きている……」
思わず声に出る。
「生きているかもしれない」
それをすかさず班長が訂正する。
会いたい。
どうしても会いたい。あって一回話がしたい。そんな気持ちが顔に出ていたのかもしれない。私の顔をじっと見つめていた班長。今度は私を指さした。
「行ってきなよ、誤魔化しておくから」
「班長……」
「これは優しいとかじゃない。ルカの為に必要だから」
班長は自分のバッグから羽織るものやら、携帯出来る食べ物なんかを取り出してきた。そのどれもが今の私にはないもの。そんな必需品も持たずにここまで来ていた。
「ルカ、お前持ってないだろ」
さっきバッグの中を見られたのか。何だか恥ずかしい。辺りのテントは次々と消灯する。就寝時間は決まっていて一人でも守れないと次の日の食べる物がなくなる。激しく体力を消費するこの毎日で一日メシ抜きがどういうことか知らない訳じゃない。でもそれがないとやっていけない。班長から有りがたく受け取る。
「今度おごれよ?」
「分かってるよ」
そんなちっぽけな返事が私を安心させる。班長の言葉は何かと私の気持ちが見えているような選び方。この時間からテントの外に出るのは一週間分くらいで足りるかな?結構班長は食べる方だからな……。
「……ありがとね」
初めてまともにこんな言葉を言ったかもしれない。咄嗟に我に返って恥ずかしくなる。伏しがちだった目線を元に戻すと班長はいつも以上にニヤニヤしていた。冷静を装って問いかける。
「……どしたの?」
「ルカちゃんの素直なありがとねいただきました……ご馳走様☆」
さっさと出てテントの入り口の布を乱暴に閉める。班長のあの顔が脳裏に焼き付く。私も何かそういうのがあった方が良いかも。
辺りは真っ暗で目が慣れるまで時間がかかった。ここからこの道を真っ直ぐ行く。この時間帯は各班が交代で見張りを行う。抜け出したり食料を盗んだりする輩が多いからだ。それぞれのテントにまだ明かりがついていることから今日はまだ巡回していない様子だった。
「お父さん……」
班長が見たという場所はここからあまり遠くない場所だった。しかしまた現れるのだろうか。その時と同じ時間に来ては見たもののまた現れるとは限らない。遠くへ行ってしまったのかもしれないしそもそも何をしに現れたのだろうか。吐く息が白くなって消えていく。寒さは昨日からあまり変わらない。父は弟や母のことを知っているのだろうか。まだ探し回っているかもしれない。もしそうなら母とおそろいの子のマフラーに気付くかもしれない。でも会って何を話せばいいのだろう。もう全然違う人になっているかもしれない。私だって少しずつ変わっているつもりだ。良い意味でも悪い意味でも。
「お父さん?」
後ろ姿でそう感じた。思わず駆け寄る。まだ生きていたんだ。いろんな話がしたい。話さなきゃいけないこともあるし、話したいことも。私の存在に気付いたのかその人が反応する。
「……え?」
だが、一度も振り向くことなく走り去ってしまった。追いかけようとするが早すぎて追いつかなかった。
「なんで?私は会いたいよ」
「なんで…………お父さん?」
突然止まる。まるで私が追いかけてくるのを待っているかのように。背格好は間違いなく父だ。別人だったら後で謝ればいい。そのまま駆け寄った。
「待っててお父さん!」
駆け寄ってそのまま抱き付く。思った以上にゴツゴツしていて苦労したのが見えてくる。
「お父さん……不安だった」
「一緒に死んでくれない……?」
「…………班長?」
咄嗟のことで振り返ることが出来ない。でも声は確かに班長。それにかなりの力で締め付けられる。班長の息遣いが近い。かなり息が荒い。
「……痛いよ、班長」
「怖かったんだよ私。いつ死ぬのか分からなくて自分じゃ分からなくなった時にルカが現れたんだ」
「ルカは私にとっての天使。もう何処にも行かせない」
「班長……?」
抱き付かれているので首だけを回す。目と鼻の先くらいの距離に班長がいる。でもいつもと恰好が違う。それにこれは見覚えがある。
「さっきの人って……もしかして」
「そう、私。どう?似てた?まあ後ろ姿だけじゃ分からないか」
「……ダマしたの?」
「もう遅いよ」
班長はさっきよりも強い力で締め付けてくる。とてもじゃないが逃げられそうにもない。そのまま何もしない時間が流れる。汗が垂れる。
「ルカ?」
「…………何?」
「ルカは何時までここで生きるの?辛くないの?」
「ここに居ても家族には会えないよ?」
「あんな寂しがり屋のルカが一人で生きていけるとは思えないな」
「ルカ……ねえルカ?」
「…………」
「勝手に決めつけないでくれない?」
彼女の顔を確認しない。振り返らない。それでも班長の耳に届く声で。
「寂しがり屋の私は色んな事があって混乱してる」
「今はただ必死に逃げてるだけ」
「隠れてるだけ」
「…………」
「そのものじゃなくても班長の怖がっているものは伝わってくるし私も怖い」
「でも私は目を逸らしたくない。ちゃんと向き合いたい」
「私が向き合わなかったからみんな死んじゃった。もう戻ってこない」
「昔の私には戻りたくない。ここで折れたら戻っちゃう」
「だからまだ死ねない。宇宙には行けないよ」
「「…………」」
「ルカは強いね……ぎゃ!」
「ルカ!そいつから離れろ!」
「!?」
誰かの声が聞こえてくる。班長の力が緩んだ隙に飛び出す。振り返ることなく走る。ある程度来たところでリーダーが目に入る。
「ルカ、こっちだ」
「待ってよルカ!私を置いてかないで!お願い!」
「ルカ?何処にいるの?」
「…………」
「ルカ…………」
「私、一足先に待ってるから」
「班長…………」
「キャハハ…………」
走り出す班長。テントとは全く違う方向に全速力で走っていく。髪を振り乱しながら遠くに消えていく。
「!?」
息遣いまで聞こえてきそうな顔。一瞬だけ見えた形相。強張る体を咄嗟に抑え込む。さっきのを体が思い出して自分を守ろうとする。身体の震えが治まってようやく周りに目が行く。
「落ち着け。彼女はもういない」
「?」
雨に足元をすくわれる。これからどうなるのだろう。鼻に付く臭いが立ち込める。この臭さは忘れられない。足元の汚れも目に残る。この日の事を私は思い出す。何度も思い出してより深くなっていく。家族と同じくらい忘れられない存在になっていく。だからあそこで私が行かなくても、連れて行かれなくても残り続ける。ずっと班長は私と一緒。実体はなくとも死んでも一緒になる。これが私と班長。おそらく実際に彼女ともう一度会うことなんてない。またあのテントに戻って来るとも思えない。もう二度とは帰らない私の班生活。
目の前に立っているのは班長ではない。そこにいるのはリーダー。中腰になって私の顔を覗き込む。雨に濡れた髪の毛が頬に張り付いている。そこから口の中に雨水が入り込む。
「激しくなって来たな。テントに戻ろう」
リーダーが私の体を引き上げる。片手で私の体を抵抗なく引き上げる。かなりの力を腕に付けたのだろうか。足元に付いた泥を払おうとして思い出す。
「…………あぁ」
「忘れろ。引きずっても仕方ない」
「…………はい」
歩く。とぼとぼ歩く。私がフラフラしているから速く行けない。やがてテントが見え始める。その内私たちの班のも見えるはずだ。
「あれか」
私たちのテントは周りのと大きさは変わらない。強く引っ張ったせいか入口の布が取れかかっている。
「無理に戻る必要はない」
「今日くらい私が野宿に付き合ってやる」
女王の優しさが浸みる。でも体の寒気が止まらない。やがてクシャミも出始める。
「ごめんなさいリーダー。私どうやら風邪引いたみたいで」
「……そうか」
モタモタ歩いていたから体が冷えている。寒くて視界もフラフラする。連れられて中央のテントに連れて行かれる。
「あの……班長は」
「彼女は行方不明だ。それにこの天候では捜索に出ることは出来ない」
「……そうですか」
生死の確認が出来ない。暗闇の中に走り去る班長が目に焼き付いている。こうなることも覚悟していたのか。
「…………」
「あいつは精神が腐った化け物だ」
リーダーが呟く。腐った化け物。でも人間。私たちでもいつああなるのか分からない。もしかしたらもう化け物になっていてそれを自分でも気づかないのかもしれない。それを先に気付いたのが班長で私たちはそれで向き直らないといけないのかもしれない。
「~~~~」
声がする。この声は勘違いでなければ恐らく班長。班長の声だと思う。けど何処から?何の悲鳴?
「気にするな」
「…………」
「ルカ」
「…………」
「私行きます」
そういうとそのまま走り出す。冷えて風邪を引きそうで力が上手く入らなくてもそれでも走る。わき目もふらない、自分の足跡を頼りに走る。雨でぬかるみが出来て跡が消えている場所もある。それでも走る。
戻りたい。
また休みたい。私は結局何もしていないじゃないか。こんな事許されるのか。班長の悩みに何も答えていない。正論をぶちまけて否定して。それで傷を負った班長が……って考えればほとんど私が殺したも同然ってことで。それで自分だけぬくぬくしているのはなんか納得いかなくて。それでリーダーの腕をすり抜けてここまで戻って来たけど、別に何もなくて何も分からなくて。一目散にもといた場所まで戻る。
「班長……?」
探そうとしてももういない。見つけることは出来ない。逃げ出した私の自己満足。ここにきて班長がまだ残っていて結局何を話すというのか。あの中を見つけに行くことは出来ない。見つかりはしない。リーダーの鼓動が聞こえる。おそらく私のも聞こえている。近づいて互いの鼓動が収まるのを待つ。
退屈
女王視点↓
こうなることは分かっている。分かっていてこんな道を行く。これは賭けでもあった。隣にいる
「これくらいきつく締めておかないと気持ちが緩むからな」
「ナルホド、流石リーダー」
「気持ちが緩んで一気に崩れた集団もよく見かけたからな」
「現実逃避という事ですカ?」
「第三次性徴は誰にでも起きる。そして起きたら最後。雲の向こう側、俗に宇宙と呼ばれる場所に捨てられて帰ってこない」
「リーダーは……マダ?」
「ここで生きている奴はみんなそうだ。死にたくなくて、親からの言いつけを守って自分を押し殺してきた奴ばかりだ」
「でもそうしてきたからこそ、今生きている」
「いかに早く自分の心を殺すかが大事だ。腐ったら負けだぞ、気持ちを切らすな」
ルカ視点↓
臭い。
吐き気がする。もう帰りたい。でも帰れる場所なんて私にはない。私だけじゃない。ここにいるほとんどの人間がそんな場所を持ち合わせていない。この状況でそんなことを言うのか。
「悪魔だ……」
「ルカ、あんまり言うと聞こえるよ」
「ごめん班長。でも班長が大きいから前までは届かないよ」
「そうなの?……でもルカの言っていることはあんまり嬉しくないな」
「私は褒めてるよ?」
「うーん、ルカが良いならいいけど」
声に出していた。声に出ていた。それは女王にも聞こえたかもしれない。というか、聞こえてほしかった。思わず出た言葉は自分では面と向かっては出ない言葉だから。振り返るとでも何も変わらない無表情。その顔に期待できるものは何もない。
「班長は疲れないの?」
「もうとっくに疲れてるよ。でもこれくらいは余裕」
「私の分も持ってもらってごめん」
班長には私の荷物を少し持ってもらった。
大昔に繁栄した生物はこうやって滅んだのだろうかなどと思わされた。集団が生き残るために生贄を選び、檻に入れたこともあった。こういった行為は各地で行われていた。
これから何が起ころうとどうしていようといつか死ぬ。何をしようがいつか必ず落ちてくる。目がかすんでも、腰が曲がっても、白髪になっても。もう嫌だ。なんでこんなことになったのか。私も檻に入った方が良いのかもしれない。こういう奴はよくいる。現実を憂い集団に付いていけなくなる奴。周りの目線はそういった好奇心からの視線だった。みんな気になっていた。次に誰が脱落するのか。そうすれば自分の分の食料は増えることになる。
潰れる。
あの時の感触が蘇ってくる。
信じられない。
みんなを殺すのか。私も殺されるのか。彼女は方向を指示するため腕を振り上げる。言葉を出さずとも誰一人として逃げ出す者はいない。彼女の逆光の顔が目に焼き付いた。
彼は選んだのだ。
「潰される……もうすぐなのかな」
「落ち着いて、ルカ。そんなこと考えたって何の良い事もないよ」
「でも今ここに降ってこないなんて言えないよね」
「それはそうだけど」
「だったらそう言うこともあり得るわけじゃない」
「今すぐここでもろとも潰れることも十分あり得るわけで」
「だから集団で生活しているんだけどね。それに死ぬ時は諸共。私も一緒に死ぬから大丈夫。ルカは心配し過ぎだよ」
「ありがとう、班長」
班長の手は温かい。私の肩に置かれた彼女の手にすら、私はより所を求めている。居場所が欲しいだけで、私を班長は受け止めてくれる気がした。
「リーダーは偶然って言ってたけど」
「そうだよ、偶然だと思う」
「……こうやって移動するのにも何か意味はあるのかな」
「考えたら負けだよ。今はただ食らいつくことで精一杯で。置いてけぼりにされたら生きていけないもん」
「ルカは意外と淡泊だね」
「班長はもっと淡泊だと思う」
生きていくための選択。このままではどうしようもない事実。誰も頭なんて働かせていない。重い荷物を背負ってぬかるんだ地面に足を取られながら暗い道を歩く。
私にはこの女が悪魔に見えた。
道は長い。
中々出られそうにない。
集団から遅れを取っていた私たちは最後尾にいた漆原さんと合流し、森の中で一晩を過ごすことに。
漆原さんはバックパッカーを始めたばかりでその最初の地としてここを選んだとか。行き倒れていたところを私と出くわしたと。辺りが薄暗くなって来た。日が暮れそうなので一旦暖を取る。
「此処にしよう」
少し開けたその場所は大きな切り株が鎮座していた。私が生まれるよりも前に切り倒されたであろう巨木の切り株。全体に苔が生えていて周りに生い茂る植物の養分となっているらしかった。根が腐っていく途中で風化した表面は色あせてボロボロになっている。座ろうとして表面を手で払うと中から小さな芽が出ていることに気付いた。本当に小さな芽だった。外部の手を加えられ得なければ生きていけないような芽。それが朽ち果てたこの巨木の答えなのだろうか。見た目では分からなくても次の世代へのバトンを渡しているのか。私は自分のバッグから受け取った支給品を取り出す。途中、奪われるかと思って彼の方を向くと彼は静かに立ちすくんでいた。
彼は空を見上げていた。
私が一番嫌いな行為。
私が一番怖い行為。
「漆原さんは空を見上げるのが好きなんですか?」
「やっぱり普通じゃないカナ?僕は結構好きなんだけド……」
「班長サンもどうですカ?」
「私も遠慮しときます」
「ルカ、彼ってどういう人?」
「この集団の副リーダー。最後尾にいたけど、私たちが遅かったから見に来たんだと思う」
「集団から離れてまで来るものかね?」
「そういう人なんじゃない?」
自分からは出来ない。もう二度と昔の様には出来ないだろう。それを彼は平然とできる。無表情のままただじっと見つめている。今は夜だ。恐らく見上げればあいつが煌々と輝いていることだろう。
あいつがこっちを見ている。そんな気がする。
何処に体をぶつけようかと考えているのだろうか。
「ルカも見上げてごらン?」
「私はいいです」
「空はとってもキレイだヨ?」
「いくら綺麗でも見たくない人もいるんですよ」
「ルカや班長さんもそうなのかイ?」
「そうですけど……それにしても何で漆原さんは見上げるのが好きなんですか?」
「聞きたいかイ?」
「そりゃあ、まあ」
「忘れないためだヨ。この地に来て起こった全てのことを風化させないためニ」
「ボクは物忘れがひどいからネ」
「漆原さんは忘れたいとか思わないんですか?」
「それは他の人からも聞かれるネ……でもそんなことは思わないヨ」
「…………」
「ボクは絶対に忘れなイ……ルカにもないかイ?」
「私はもうなくしてしまいましたから」
「これからまた見つければいいサ」
「そんなこと言われたって……時間も何もないんですよ?」
「この世界は広いサ、ルカが思っている以上にネ」
「はあ」
彼が提案してくる。しばらくの沈黙。拾い集めた木の枝が燃えている。私が遠くの方まで探そうかと提案すると彼は喜んだが結局戻ることは叶わなかった。足先や手が温まる。火にかけておいたスープを器に盛りつける。味付けが塩だけのスープを3人で囲む。支給品のパンを彼と弟で3等分する。そのまま食べても美味しいし浸しても旨い。
「ルカ、ちゃんと食べろ」
「あんまり食欲がなくて……」
食欲があまりない私に班長はパンをちぎって食べさせる。体力がないとこれから持たないかもしれない。本当はあの男には上げたくなかったけど目をキラキラさせてよだれを垂らしているのを見せられるとあげないわけには行かない。というかスープや調理器具は彼のものだからどの道分けていたんだろうけど。彼はまた空を見上げている。その場所はそんなに見たくなるのか。班長は傷を庇うためか猫背が酷くなっていた。火を消した後は切り株の上で横になる。私と班長で一枚の毛布を分け合う。相変わらず寒いままだったが疲れた体はもうまともに動かない。寝返りを打とうとして我に返る。
空を見上げる。
そんな難しい事とは思わなかった。目の端に映り込んだあいつから必死で逃げる。少し被っただけで汗が滲む。なるべく上を向かないようにする。目の前では班長が反対側を向いてスヤスヤと寝息を立てている。今日は本当に疲れた。自然と瞼が重くなる。寝返りを打ってこっちを向いた時、班長は泣いていた。声を押し殺して泣いていた。すすり泣いた彼女の顔には不安が映る。全然眠ってなんかいなかった。
不安。
私と班長とでやっていけるのだろうか。毛布から出た彼女の体を引き戻す。寒さからくる震えなのかそれとも。豪快ないびきを立てて男が眠っている。同じ大きさの毛布のはずなのになぜだか小さく見える。あと何日生きられるのだろう。あの男の顔は何も考えていないとも、全てを覚悟しているとも取れた。ああいう風になれたらいいのに。何一つ覚悟もせずに家を飛び出した数時間前。あの時の私にもっと慎重な行動をとか、言いたいことは山ほどあっても聞く耳を持つわけはないだろう。目を瞑ろうとしてもひょっとして朝起きたらあの男に荷物を取られているかも。そんな被害妄想が止まらない。自分の呼吸が早くなるのを感じる。胸が苦しい。体の緊張が長く続いたのか体調を崩すかもしれない。風邪なんか引けば面倒だ。意識がボーッとする。
このまま家にでも帰るつもりだった。またシチューをみんなで囲む予定だ。弟の分は少し多めにしておこうか。そろそろダイエットも始めないと。油断していると海に行けなくなる。いつも弟をおんぶしているからたまにはされるのも悪くない。そんなに重くないはずだ。そうしたら母とおそろいの服を着てまた屋台で色んなものを食べよう。母の笑顔が忘れられない。ずっと続くんだ。この時間は永遠なんだ。
我に返ってきて思う。どれだけの時間が経っていたのだろうか。辺りはまだ暗い。このまま寝過ごせれば良かったかも。横にいる班長もいつの間にか寝てしまったようだ。上半身だけ起こして頭を揺さぶる。急に体を動かすと軽い眩暈が出てきた。少しは出ていた風が心地良かった。胸に手を当てると心臓がバクバクしている。あの夢で逆に緊張が高まっていた。腰の辺りが湿る程寝汗を掻いてひどく寝心地が悪かった。さっきの夢は黄泉の川を渡るということだったのだろうか。首が凝り固まっている。頭の中は未だごちゃごちゃしている。どれだけ頭の中で妄想しても何も変わらない。目の前の課題は山積みのまま。前に落ちていた袋で自分がどういう状態だったのか分かる。咄嗟に近くに袋があったから少しは楽だったけど。視界がグルグルする。未だに落ち着かない。女のカンというのか、第六感というのか横になるのが不安だった。どこか身を隠す場所を探していた。
ガサガサッ―――。
辺りの風や草木の揺れ具合が一段と強くなる。何かがやってくる予感がした。そんなの私の中では一つしかなかった。直ぐに班長を起こそうとする。あの男にも告げようとする。でもそう思った時にはもう来ていた。
一瞬辺りが真っ暗になる。草木の揺れが一瞬だけ止まったような感じになり、ここだけ空間が切り取られた様でさえあった。彼らは未だ起きない。自分だけが存在しているような、呼ばれているような。何が起こっているかなんて分かっていた。
絶対に上は見ない。
見ない。
絶対に。
そう思っていたのに。自分を信じていたのに。そんな自分で決めたような信条はあっさりと破られる。
まさに、そいつはいた。
辺りの空間を支配してここに居る。吸い寄せられるように首が上を向く。それは本当に一瞬の出来事だったようで、次の瞬間には何もなくなっていた。通常の森の夜に戻っていた。止まっていた呼吸が再開する。
「プハッ…ハァハァ」
頭が痛い。全身の血液が猛烈に体中を闊歩している。汗を掻いて体温を無理に下げる。もう寝よう。嫌な夢を見た。それで良い。明日の朝には全て元通りだ。昔付けた日記帳を思い出す。無理やり目を閉じた。いつもの最後の夜の確認。幻想の世界に逃げ込めば全て終わる。さよなら、今日の私。そして明日は今日よりもいい日になりますように。
朝は直ぐにやって来た。
というか昨晩目を瞑った時点でもう軽く夜が明けていた。寝不足の体を揺り起こして今日が始まる。漆原さんは私よりも早く起きて地図を確認していた。隣を見ると班長ももう起きていた。案外直ぐに森は抜けられた。
木漏れ日が目に優しかった。呼吸が安定する。カサカサとした優しい音が私たちを包む。もう少しでもこうして生きていたい。前を行く弟とあの男。名前をなんて言っていたっけ。漆何とか。そうそう、漆原。なんだかんだ言って彼もまた被害者なのだ。偶然私と鉢合わせてしまっただけで。なんやかんや彼のおかげで今もこうして生きているのだ。顔には出せないけどいつかちゃんと感謝の言葉を伝えよう。班長を助けてくれてありがとって。そんな彼女は元気になったのかグングン前を進んでいく。置いてかれそうだ。たくましくてお姉ちゃんは安心する。一夜明けただけなのに不安いっぱいの心は軽くなった。このままならもっと先まで行けそうだ。なんだかんだ言って班長も漆原さんと仲良くなってきている。気分が良くなったせいか視線を不安定にしてしまったせいか。
突如としてあいつは現れる。
「やっぱり……」
真っ黒な世界。
視界が閉ざされる。この物体はどれだけの範囲をせしめているのか。可能な限りの範囲。
何も見えない。ここはどこなんだ。だが距離があるためか、最初よりかは部分的で限られた。弟と漆原さんはどこへ行ってしまったんだ。いや、そうじゃない。気が抜けていただけなのだ。体調が不安定になってしまったせいで意識がちゃんとしていなかったのかもしれない。我に返った時はまた現れたくらいにしか思っていなかった。空気がピリピリと膨張する。常に私たちの上に居たはずなのに。
目の前に降ってきた。
避けるも逃げるも無かった。ただ落ちてきて、私たちの当たり前を壊した。私の目の前に落ちたんだからそれがどう言うことかなんて確認するまでもなかった。でもそんなの考えもしなかった。頭の中で言い訳ばかりが浮かんでくる。こんなにあっさり終わるものなのか。こんなにあっさり死を迎えるものなのか。それで人間という生き物は納得できるのか。
「どうしたんだルカ。行くぞ」
「ああ、ごめん班長」
物思いに耽っていると足が止まっていた。突っ立ったままになっていた。慌てて隊列に戻る。出来なかった分が自分の夕飯から差っ引かれるからたまったものじゃない。質よりも量が大事なのだ。
私はただこうした偶然がなければどうなっていたか想像に難くない。でもそれでもよかった。
女王と私
「勝手なことはするな」
「私に余計な心配をかけるな」
「もういないんだよ。具体的に言わなきゃ分からないか」
「あいつは潰れたんだよ!死んだんだ!」
「だから戻ったっていないさ。今頃宇宙だよ!」
「お前が一人で宇宙に行ったってどうしようもないんだよ」
「目を覚ませ。もうお前がそんなに心配する必要のある誰かはいない」
「彼女は精神的に問題があった。把握していなかったこちらのミスだ」
「お前が報告してくれればもう少し対処の仕様もあったかもな」
「「…………」」
「すいません。例え一時でも彼女との時間は楽しかったです」
「楽しくて、それで甘えてました……戻ります」
「お前がそういうならいいが……」
「彼女は今頃宇宙でしょうか?」
「宇宙からは私が見えたりするんでしょうか?」
「引き寄せられたとでも言うのだろうか?」
「まるで吸い寄せられるように近づいてしまった。あれでは死にに行くようなものだ」
集団は直撃を受けたのだ。
集団行動も出来ずにバラバラになっていた。でも逃げることなんて許されない。
その犠牲者の一人が班長だった。
無念。
そうとしか言いようがない。じっと止まったまま動かなくなった。
ルカ視点↓
リーダーと私。二人きり。
「出来ると思ってた」
女王の口元は緩い。今日は何だか雰囲気も柔らかい。私と同じくらいの慎重で私と同じ様な境遇で。自然と彼女に入り込む。風が良く吹く。その度に彼女の髪が揺れて視界を遮る。自分の髪を手に取ってみる。私の長さではこうはならない。切らなきゃ良かったかな。
「リーダー……」
リーダーは向こうの方を向いている。時々髪を耳元で掻き上げながらどこかを見つめる。その先には何もない。
「ルカ。私には夢があるんだ。どうしてもかなえたい私の夢」
横顔が私にも見える。まだ火傷の跡のついた頬。張り付いていた証拠であり、その何秒間は彼女の価値観をも変えた。
「まだお前にも話してなかったんだがな」
「宇宙へは行ったじゃないですか?」
「そもそもこれで行ったと言えるのかってとこはあるけど」
リーダーは口元を緩めて話している。お酒も入っていないのに目はトロンとしている。
「もう一つあるんだよ」
上の方を向いてあれじゃないこれじゃないと呟いている。息もどこか酒臭くて頬も赤みを帯びている。奥の方に隠してあるのだろうか。向こうを覗こうとするとリーダーが思い出した。
「技術を発達させて、みんなが対抗できる措置をもって……生きたまま宇宙に行く」
「結局宇宙に行くんじゃないですか」
「まあな」
酔っているのか沸点が低い。言葉が続かず笑い出す。
「~~~~」
声も出さずにお腹を抱えて震えている。悪いものでも食べた様にも見える。しばらく震えた後、また座り直す。肩や腕に付いたホコリを叩く。
「そんな夢が私にもあった。そういう時代が来ると信じてた」
「…………」
「信じたかった」
彼女の願いはかなわない。
だから何も言えない。私には何も持ってない。もうかなうことはない。ここはもう今までではなくなる。いつ何処にぶつかるか分からない。こうしている間にも他の物体が近づいているかもしれない。
「信じたかったのに」
「…………え?」
泣いている。リーダーが泣いている。声を殺すわけでもなく静かに泣いている。辛さを吐き出すように涙を浮かべる。
「すまんな。変なものを見せて。もう行くよ」
「リーダーしかいませんよ」
「…………」
「残念ながらリーダーの願いをかなえられるのはリーダーしかいません」
「私はあなた程の意思の強い人を他に見たことありません」
「…………」
「あなたが頑張らなくてどうするんですか。あなたは人類で初めて宇宙に行ったんですよ。これは他の誰も真似することの出来ない偉業です」
「あなたに何かあったら私が駆け付けますから」
「宇宙でもか?」
「もちろん」
「だから次に何か起こすとしたらあなたしかいないと、私は思っています」
「…………」
「ありがとう」
「まあお前の言ったことは気休めにしかならないけどな」
「私も色々聞いてもらって済まない」
「だからもう忘れてくれ」
「今日までだ」
「こうして集団として一緒なのはここまでで良い」
「もう後は時間の問題だ。手に負えるものではない。私はまだやる事がある」
「でももう付き合う必要はない。お前もこの時間を好きに生きろ」
「リーダーこそお元気で」
「さようなら」
翼(四日目 夜)
あれの下でフラフラ。
雲が抜けた先にいるあれの下で。
何日経っただろうか?
多分動かなくていいんだろう。
いくら歩いてもあれとの距離は変わらない。
もう一回体が大きくなればいいのに。
あの雲を抜けて。
そしたら少なくとも私だけは死なないのに。
他の奴らなんてどうでもいい。
這いつくばって生きてろ。
でも動いてしまう。
怖くて怖くて…明日死ぬのが本当に怖くて。
死にたくないよ。
それで足が止まらないの。
憑りつかれた感じで必死に動く。私の体よりも先にこの世界から抜け出そうとするみたいに。
食べてないのに…本当に良く動く。
本当はこんなことしなくてもいいだろうに。
足が痛い。
捻ってしまった。
靴をこれ以上すり減らすまいとしたせい。
なんでも美味しそうに見える。
だからこそこのパンだけは離さない。
いつか食べるんだ…でもまだその時じゃない。
だから取っておく。
ルカ「…………?」
ルカ「…………輝いてる…」
その翼は輝いていた。私も思わず持っていたパンを落としてしまう。
夜の世界。
どうしようもない暗闇の中でそれは…十分に輝いていた。
こんな光があったんだ。
明日なんか見えないと思ってた。
でもこの翼なら見つけてくれる。
見つかる。
見た者をそう信じさせる説得力が、その翼にはあった。
あれだって空に浮いてるけど…私たちだって飛べる。
同じじゃないかもしれないけど、浮かんでる。
何も分からない世界での希望。
?「落としたぞ…」
そう言われて足元のパンに気づく。多少ホコリが付いても私の大好きなパン。
ちゃんと食べてあげないと。
ルカ「…………」
科学とか、そういうのがよく分からない私にとって未知の経験だった。
?「…………」
翼が邪魔にならない様に折りたたんである。
その人も女の子で優しい顔をしている。
勝手に私に似ているって思った。
?「大丈夫ですか?ケガはありませんか?」
優しい顔をしている。本当に相手を心配しての声かけ。
ルカ「あ…ありがとうございます」
食べ物をもらった時以来の言葉。私がそういうことを普段言ってないことに気づく。
?「この辺りに他に人はいませんか…?いたら是非一緒に…」
救いの手。
ルカ「あ、あの…母と弟がまだ…」
?「それは大変…探してきますから待っていて下さい」
バッ…。
グ~。
私のお腹は無節操だ。こんな時にもお腹が減る。安心したからだろうか?
私は彼女がいなければ助からないのだろう。
だからこそみじめだ。
ルカ「ガブッ」
汚れたパンに噛り付く。
とっても美味しい。
とっても。
宇宙
女王視点↓
だからこそ私は提案する。
「そして我々はそれを確かめるために宇宙へ向かう」
「「………………」」
ついに言った。ついに言われたのだ。そこは未知なる世界。誰も見ることが出来なかった。でも宇宙に行くための何かがある様には思えない。今もあの物体の音は聞こえる。もういい加減に潰しつくしたとも思うが、そもそもそう言う事ではないのだろう。
あいつらには何もない。
法則どころか私たちに決められている枷もあいつらには存在しない。この視界が奪われるのはいつだろうか。こうして言葉を発せられなくなるのはいつだろうか。
「宇宙…………」
「あの日から3日間が経った。知っての通り既にこの地上は生きていくには難しい環境に変わりつつある」
「沢山の者がいなくなり、沢山の者が死んだ」
「今、我々が生きているのはただの偶然だ」
「我々が合流した時を考えるとあと数日も持たないだろう」
「最初に謝っておく。潰れてしまったら済まない」
まぎれようもない事実。私たちが必死に逃げてきて袋小路に追い詰められたということ。ここで発言する者はいない。だから生き残って来たのだろうか。こういう消極的な部分が命だけは繋いできたのだろうか。
「次に死ぬのは私か、私の隣か」
みんな薄々気付いてた。紙一重の違い。私たちの苦労も流した汗も全て無駄になる。後に残る人がこれでは意味を成さない。彼らの悲鳴が聞こえる。無念の悲鳴。こうして怖気づいて有志が提供した場所に我が物顔でふんぞり返る。
「気休めもしない。はっきり言おう」
「もうすぐ死ぬ」
その有志の代表に突き付けられる。寝るところも食べ物も与えられて私は彼らに何も返していない。この見渡す限りの安全も彼らがいてこそのもの。ここから出る力も今はまだない。出た瞬間に私は死ぬ。もちろんここでも死ぬ。ここに落ちてこないという保証はどこにもない。一人で死ぬかみんなと一緒に死ぬかの違い。もう一人で死ぬのは嫌だし見るのも嫌だ。だからただ食い付いて付いてきている。
「みんなまとめてかもしれないしバラバラになる方が良い場合もなる」
「口に出すことで楽になることもある」
分かってても口には出さなかったのに。どうせそうなるのだからそれまでの時間を寄せ集まっているだけ。それぞれで体をくっつけあっている人もいる。もうすぐとなるとそういう気分にもなるのだろうか。それとも単純に寒いだけなのだろうか。辺りを見渡してみると案外そういう人は多かった。中には複数で寄せ集まっている人もいる。
「だが私はここで終わりたくない」
「私はこの世界が何なのかも知らずに死にたくない」
「父を殺したあの物体に一矢報いるまで死ぬことは出来ない」
中には何処から持ってきたのか飢えを我慢できずに干し肉をそのまま食べている人もいる。その人の息と肉の温められた匂いが伝わる。この匂いがダメな人は思い切り鼻を塞いでいる。そんなことはお構いなし。
「私のために集まってくれたお前たちには申し訳ない」
「判断に迷うのは当然の事だろう」
「今の私にはお前たちを励ますことも出来ない」
「その代わり一つの選択をしてもらう」
さっきの干し肉も地面に捨てられている。みんな私を見る。私の言う事を見守る。自分達に選択肢がないと分かっていても私の話に耳を傾ける。そこに話される内容は聞いておきたいのだ。
私の目に映る景色はどこへ行っても変わらない。
変えられることもなければ誰かが変えてくれるものでもない。
燃え上がる炎に自分が映る。
私の顔を自分でも嫌になる。
「みんな聞いてくれ」
ようやく彼女の声が聞こえてくる。遅れて届く声。ようやく彼女の顔が私の目に映る。
連絡事項を伝える時の声色。でも顔は引き締まっている。風に炎があおられて顔の前まで火の粉が飛んでくる。女王にとっては当たり前のことで前から思っていたことなんだと思う。だからそう言ったのだ。
「私は宇宙へ行く」
「宇宙という場所がどんな場所で何があるのか、私には分からない」
「事前に予想を立てて行動したって上手くいかないかもしれない」
その通りだ。私にはここの炎が肌に合わない。火傷してしまう程の痛さ。もはや熱さではなく痛さ。さっき食べたシチューの甘味がまだ口の中に広がっている。
この後を引く甘さは嫌いじゃない。私も最初は嫌いだったけどいつからか好きになった。でもこの甘さを感じるのも後何回か。何回かでここからいなくなる。
「お前洗うの早いな」
リーダーが感心したように私の洗い終わった鍋を覗き込む。頭を目の前まで来られると髪の毛の匂いがした。鍋に付かない様に手で覆っている。リーダーの髪はかなり柔らかそうだ。それに比べて私の指には洗った時のコゲが指の間に挟まっていた。さっきの質問に返す。
「家でいつもやっていたので。こういう大きいのもあったりしたので」
「大家族なのか?」
「いえ、お父さんとの二人暮らしです。父が良く食べるので作り置きしてるんです」
「今日のは美味しかったか?」
「美味しかったです。リーダーが作ったんですか?」
「私は材料切ったりしただけだ。ほとんど漆原にやってもらった」
「あいつはこういうの得意だからな。他にも色々出来るぞ」
「漆原さんは流石ですね」
流水が手に当たる。後で歯も磨いていかないと。鍋を洗い流す度に染みついていたシチューの匂いも落とされていく。洗い終わる頃には元々の鍋に戻っている。手で直接触ってみても汚れはつかない。完全についてしまっている分はやっぱり落ちない。無理にこそぎ落とそうとするとそのまま持って行かれるかもしれないのでやめておく。家のを洗っていた時もそう言う事があったりした。
「行かなきゃよかったって思うかもしれない。というか思う」
「それでも私は行きたい。行ってみたいんだ」
「今日はそれを伝えたかった。それだけだ」
言いたい事だけ言ってくれちゃって。あんたの言葉で左右されるのは私たちなんだからもうちょっと穏便なことを言って欲しい。とも思うけどそれは見当違いな考えで。夢見がちな私だからあまり現実的に捉えられていないのか。
それだけ言うと彼女は壇上から降りてそのままテントの方へ戻っていく。彼女にはまだこれからもやる事が詰まっている。そんなことを彼女はしている。
それは途方もない判断。リーダーが一気に遠くに感じた。
「色々思う所があるだろう。今日はここで解散する」
「そもそも今日初めて私の顔を見るという人もいるだろう」
「そういう人をテントまで案内してくれ」
漆原さんは待ってましたと言わんばかりにリーダーのそばからみんなの元へ駆け寄って来る。彼の作業は女王の雑用係なので幅広くなんでもこなす。
「私が案内しまース」
時間を置く必要があると判断して皆に休憩を取らせる。漆原さんがみんなを案内する。案内に付いて行くのは何人かで彼らの当時の私を彷彿とさせた。
「お願いします……」
色んな人がいる中で服を着ていない人もいた。逃げ出してくる人とここから出ていく人。私はそのどちらになるのだろうか。今のところではどちらとははっきり言えない。
それぞれの心中は複雑だった。隣の人の心の中も分からない。脱走する人も数知れずといった所だろう。リーダーはああいう性格だから今日の発言は正直分かってた。その上でみんながどう出るのかを知りたかったのだろう。顔色からはどうか分からない。
それは決断。
選ばせるための時間。
誰もが必死の思いでここまで生き抜いてきた。今生きているのは偶然かもしれないが、生きていないと思っているのは事実だ。そんな私たちだからこその判断。
「みんなで過ごしたこの世界を捨てるのは心苦しいです」
「私はここに残りたい」
「此処には何もないけどそれでも育ってきた場所だし、離れたくないなって」
声に震えが混じっている。長い髪の毛の彼女は俯きながら要件を喋る。自分の手を自分自身で抑えながら震えを隠している。何かを我慢しているようにも見える。口元にはさっき食べたであろうシチューが残っている。周りに指摘されて直ぐに腕でふき取る。あまり綺麗とは言えない服で口元を思いっきり擦っている。私が言えたことじゃないけど。人の振り見て我が振り直せというがその通りだ。私も改めなければならない。可愛い顔をしていても色々苦労しているのか。彼女はありのままを伝えている。そしてそれを女王はありのままに受け止める。来るもの拒まず去るもの追わずの精神。
「そうか」
「どう捉えるかも本人次第だが、あくまでも自分の判断で動いてくれ」
女王は腕を解いて彼女に近づく。こういう時は笑っている。
「まだついてるぞ」
そういうとポケットからハンカチを取り出して彼女の口元を拭く。何をされるか恐れてギュッと目を瞑っている。ふき取っているだけと分かると恐る恐る目を開けている。
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げようとする。そしてまたリーダーにぶつかる。思わず鈍い音が聞こえてきそうな当たり方。これが彼女にしてはいつもの事なのだろうか。彼女の服にはこぼれたシチューが染みついている。今気づいたのか擦って拭き取ろうとしている。無理にすると服がちぎれそうになるのをリーダーが止める。見た感じは親子の様だがリーダーの昔はどうだったのだろうか。綺麗に拭いたおかげでハンカチはシチューまみれになっていた。
「最終的には自分が選んだことで動くしかない」
「私の言葉はあくまで私の考えだ。強要はしない」
「私は私、リーダーはリーダー?」
「そういうことだ」
ぽかんと口を開けて聞いていた彼女だったが彼女なりに納得して列を後にする。見た目をみすぼらしくしているが自分の匂いには敏感で他の人とも区別している。常に暗闇で鼓膜が破れている人もいる。そういう人は代わりに鼻が利く様になったりもする。
「クンクン……こっちは危ない」
お供は裸足で来ていた。時々つま先立ちで岩や固いものを避けて歩いている。見ているこっちもヒヤヒヤする。というか、元々履いていた靴がダメになって代わりのものがなくて、それで裸足で歩いている。そのため何度も転びそうになるが何とか自分の足で歩いている。途中、美味しそうな匂いに釣られそうになるが我に返って戻っていく。
「失礼します」
そんな彼女を見たリーダーは次の人の対応に追われている。額には汗を浮かべ疲労の色が見えている。目の下の隈は何かの模様かと思うくらいはっきり付いている。椅子から立ち上がろうとして立ちくらみを起こしている。近くの漆原さんが支える。小さい体のせいか漆原さんに持たれるとちょっと浮いてる。
「大丈夫ですか?」
「続けろ。私の代わりはいないからな」
女王の余裕とでもいうのか。
愚痴を溢すわけでもない。こぼすわけにもいかない。彼女を慕って付いてきた人は一人や二人じゃない。沢山の人の象徴にならなければならない。
それは死への選択。選ぶか選ばないかで私がどうなるか決まる。リーダーが一人でそれぞれのテントを回り意見を募る。逃げ出すとしても夜が明けた後だからリーダーとして都合が良いのだろう。
「それは悪かったな。私も気付かなかった」
「いえ、そんなことないですよ」
自分の判断が周りにも影響することを良く知っているはず。その上での発言。集団が一つにまとまるとはとても思えない。ここにきてずっと反対していた人もほだされていく。
「女王の考えには及ばないな」
「お前だって十分働いてくれたさ」
私はそこにお供として付き添いで一緒に回る。
リーダーに身の危険が迫った時のためとか言っているが、実際は私の方が危ないくらいだ。何のために漆原さんは私をこんなところに。というか、テントの中に入らせてくれてもよさそうなものを。
「すまんな。このテントこれ以上入れないみたいだ」
「大丈夫です。ここで待ちます」
「心配するな。逃げ出そうとする奴は匂いで分かる」
「匂い?」
「私は鼻が利く方だからな。会っただけで何となく感じるんだ」
「お前はそういう奴じゃない。時間は掛からないさ」
いくら女王の人望や手腕に惹かれて人が集まっていると言ってもかなり減るのでは。とは中々言えない。それもこれもリーダーの手腕。中にはリーダーみたいに匂いでこの人だと思ってきている人もいるのか。つくづく人というのは見ただけでは分からない。
それでも彼女は行きたいのか。宇宙という場所にはそこまで人を引き付ける何かがあるのか。
ぐちゃぐちゃに潰れたみんなが宇宙へ飛んでいく。
「一番近くに落ちてきた時が最も危険で最も確率が高い」
「最初に私がやる。みんなはその後で選べばいい」
「おそらく宇宙に行けるのは数秒間だろう」
「それを私がこの目で確かめたい」
「上手くいかなかったらその時は逃げるしかない」
「リーダーならやれますヨ。頑張りましょウ」
「…………どうしたんだお供?」
私の様子を察してかリーダーが声を掛ける。それに私は返事をするわけでもなく独り言の様に呟く。
「……多分上手くいきますよ。でもその後が問題ですよ」
「何か、忘れてるような気がします。何か見落としてはいけないような」
「確かにそうだろう。でもそれは今ここで分かることじゃない」
「何だかリーダーらしくないですね」
「私が実際に行ってそれでようやく分かることだと思う」
「私が誰よりも早く宇宙に出るよ」
正直私は不安で仕方なかった。何が待っていてどんな事が起こり得るのか、何一つ予想が立たない。なぜリーダーはこんなにも力強いのか。というか、強がっている様にも見える。
宇宙への進出。
やり方は実に簡単。あの物体にしがみ付くだけ。
「当然しがみ付くだけでは振り落とされるのが関の山なので、体を固定する道具を用意します」
そう言って私は用意しておいた道具を取り出す。事前に此処に運び込んでおいたものを持ってきてもらう。中には重いものもあるので私も手伝って運び入れる。行くつかの部品で分かれており、リーダーの体に合う様に調整してある。
「これはある方から引き継いだものなんですが……」
私はそう言って取り出す。身体を固定するための道具と離されないようにするための加速装置。内部に入った液体を勢いよく噴射させることで浮力を得る道具。それを一つずつ手に取る。
「これがそのロープです。自分の体ごと物体に食い込ませることで固定が完了します」
「最悪固定した部分だけでも宇宙へ行くことが出来ます」
「お供、私がこの目に焼き付けたいと言ったら?」
「頭を固定させるという事か?」
「それも可能です。頭は胴体と首の固定で何とかなります。それと四肢も同時に磔にすることで安定させます」
「可能性としてはどれくらいなんだ?」
「この方法だとほぼありません。死にに行くようなものでしょう」
「だろうな……」
「改めて考えても恐ろしいと思います。やっぱり私はお勧めできません」
「いや、今までずっと空を見てきたお前が言う事だ。無下にはしない」
「だったら……」
「でもそれとこれとは違う。それにお前らにも見てもらいたい。宇宙に行く私の姿を」
「それはリーダーの最後を目に焼き付けろと言う事ですか?」
「まあ死ぬだろうな」
「そもそもいくら固定したとしても衝撃に耐えられるとは思いません」
「やっぱり……」
ここまで発言して私はようやく気付く。彼女の言っていることに何一つおかしなところはないことに。そもそも私の予想が間違っていたことに。
「リーダーは死ぬつもりなんですね」
「お供!?それは本当デスカ?」
「…………」
「そもそもリーダーは方法なんてどうでもいいんですね。ただ宇宙へ行きたい。ただそれだけなんでしょ?」
「お供……」
「私たちを見捨てるんですか?」
「あなたがいなくて誰がこの集団をまとめるっていうんですか。目を覚ましてください」
「そこへ行ったってあなたは死ぬだけだ。何も良いことはない」
「お供!!」
女王が声を荒げる。周りの人の目も笑っていない。私は体から熱が逃げていくのを感じた。
「そんなの、今更聞いてどうするんだ?」
「お供は私が生きて帰れるとでも思っていたのか。そんなのお前だけだぞ。お前こそ目を覚ませ」
「方法を提案してくれてありがとう。そのまま使わせてもらうよ。わざわざ私の大きさで用意してくれて助かる」
一気に畳みかけられる。返し刀はない。
遺書
夕食後。
食べ終わった満腹感と一日の疲労感がまじりあう中で彼女はそう宣言した。言葉足らずな部分を漆原が補う。
副リーダーの彼は驚くほど日本語が上手になっていた。流暢な日本語は聞いていて違和感がない。背の高さは父と同じくらいあり女王と並ぶと親子ほども背丈が離れている。彼女に日本語を教わっていたようだがいつの間にこんなに上達したのだろうか。喋り方が女王に似ているのはそういう影響なのか。もはや私とあまり変わらなくなっていた。宇宙という空間がまだどんなものなのかも分からないのに、その宇宙にある生物に脅かされている。そのために自分から近づく。
「それから遺書を書いておけ」
「色々思う部分もあるだろうがこれは作業の一環だ。変に考えることはない」
重たい口を開いてそれだけ告げると大テントの方へ戻っていった。
一枚の紙。
真っ白な紙。
焚火が紙越しに揺れている。火の粉が飛んでくる。期限は一週間後。その日までに漆原が全員分を預かる。私の右手に持っているのはその旨を書くための用紙。全員に一枚配られた。何処にこんな真っ白な紙を作る技術があるのだろう。向こう側の火が透けて見える。みんないなくなったここで一人佇む。
誰に残すのだろう。
この遺書は書いたところで受けとる人もいない。みんなそうだ。受け取った紙をその場で燃やした人もいた。でも私は出来なかった。
静かな空間。
くべられた木が燃える音だけがしている。この広場は真ん中で火を作り、そこを中心にグルッと一周して食卓を囲む。
書くとしたら誰に向けて書くのだろう。別に家族でなくてもいいのだろうか。
漆原視点↓
「順調か?」
「リーダー……」
突然、此処にやってきていた。確かにリーダーは大きな収穫を得た。あれのお陰で分かったことも数知れず。その代わり大きな代償を払わされることになった。
「もう体はボロボロだよ。ルカは大丈夫なのか?」
「それより自分の体の心配をして下さイ。動いて大丈夫なんですカ?」
「馬鹿言え。動かなきゃ体が凝り固まっちまう。だからこうやって歩き回ってるんだよ」
「今作業中なのデ。用がないなラ……」
「お前、全然進んでないんだろう?」
「そういうのは苦手なのか。今更自分に合わないなんて言うなよ」
「そんなこと言う奴はとっくの昔に死んでまス」
「なんで進まないんだ?素材が足りないのか。時間が無いのか?」
「もちろん全部足りませんけド……強いて言うなら技術でス」
「そもそもこれは今の時代に完成するじゃありませン」
「だからどうしても時間が足りませン」
「「…………」」
「今更そんなことを言うのか」
「許されるとでも思っているのか。どれだけの人間がお前のために死んでくれたと思っているんだ」
「中にはお前が殺した奴もいるんじゃないのか?」
「……どうでしょうネ」
「早く完成させるんだ。言い訳は聞きたくない」
「分かってますヨ……」
「こんなガラクタ……」
付けた所でその時だけ安心してそれで終わりだ。恐らく役には立たない。見え見えでも、分かり切っていてもみんな装着する。さっきより少し前向きになれる。ああ、本当にもう終わるのか。寄せ集まって体を持って行かれない様にしている人もいる。
動き出す。私たちがいるここも。
ルカ視点↓
その数時間後。
「誰も来ない……」
一日の中で唯一の楽しみと言っていい夕飯を食べに来ないものが続出した。大量のスープが鍋の底に余っている。
「戻ってくるのカナ?」
「それはないよ」
恐らく彼らの顔をもう一度拝むことはない。私は話したことのある連中くらいしか頭にないが、みんなの顔を覚えている女王にはより伝わってくるのだろう。炎に紅く照らされた横顔に何を思うのか。
「…………」
「あいつらが生きているのかどうかまでは分からない。でもその可能性は十分にある」
でも話を聞いてる内に私には一つ引っかかる事があった。
「どうしてリーダーは生きているんですかね?」
「いくら容器を持っていたとはいえ不思議でたまりません」
「それはさっき説明した通りだと思うが……」
「だったら何であの物体は宇宙空間で動いているんですかね?」
「あいつらは生きているかどうかも分かりません」
「でももし生きているとしたら、どこかで呼吸をしていると思うんです。でも毎回の衝突のタイミングではしているとも思えないし……」
「もしそうだとしてもそうじゃない物体はどうなるんですか?」
「もし生きているのなら他の物体もどこかで呼吸しているはずです」
「でも聞いた所によると宇宙にはここにある呼吸に必要なものがないかもしれない」
「それなのにまるであいつらは生きているように動いている」
「たとえ枷があるここでも宇宙と変わりなく動いている」
「それが不思議です」
「ルカの言う事は確かに不思議だな……それが分かれば糸口が見えるかもしれない」
「それにしても誰も来てくれないな」
人が集まらないという怖さ。この地方ではある言い伝えがある。
「一人になったら潰される」
これは最初、集団の規律を乱す者を減らすために使われていた。だが実際にそうなった集団の生き残りが他の集団に合流することで一気に広まっていった。
「それどころじゃないかもしれませんね」
「その時は私一人でも行く。お前たちは自分の分を入手しておけ。私は試作品を使うがお前たちは持っていないだろうから奪ってでも手に入れておけ」
リーダーの顔に迷いはない。けど、宇宙へ行く前に私たちは潰される。そんな悪い雰囲気が漂っていた。
その言葉はあながち間違いではない。此処に来るまでにそういう人を何度も見たし、残された人がその後どうなったかを誰も知らないのだ。もしかしたら知っている人も含めて全員そうなったのかもしれない。あいつが死に逝く者には笑顔に見えるという話だ。逃げ出す者が後を絶たなかった。恐らく彼らは当てもなく彷徨うしかない。この言い伝えを知っていても自分が安心できる場所へ逃げ出したくてたまらないのだ。
飛ぶ。
「奪うんだよ!死にたいのか!?」
決死の形相のリーダー。鋭い声が響く。彼女の本気さは私の耳にも届いた。身体の上手に動かない私がいる。土砂降りの雨。みんな考えることなんて一緒なんだ。最初で最後の千載一遇のチャンス。リーダーの半身には血が掛かっている。返り血を浴びている。今まで生きていた人が動かなくなる。
「さっさと身に付けろ、待っている時間はないぞ!」
「クッ……」
重い。
こんなに重くしてあっただろうか。これでは逃げるどころか飛ぶことにだって支障をきたす。
「死ぬ…………」
もう時間はないんだ。
迷っている時間も何もかも。ここに居られる暇はない。宇宙へ行かなければならない。ここではもう暮らせない。
「助けて……」
重すぎる装置を背負って何とか飛び立つ。燃費も悪く、おまけに天候も最悪。大雨が降る中、さっきから霧も出始めた。辛うじて前を行くリーダーの翼が見えるくらい。寒さと体中に当たる雨で動かなくなる。いらない物はすべて置いてきた。何の未練もない。もう私には何もない。手足の感覚も大分前からなくなっている。寒さを感じなくなる。私の体に対してこの装置は合わない。大きさの違いで十分に力を発揮できていない。正直、リーダー以外の他の人が何処にいるのかも分からない。誰が一緒に来ていたかも忘れてしまった。
「なんで……こんな事……」
心が折れそうになる。このままエンジンを切って落ちてしまいたい。そのままここで死んでいく。でも行かなきゃ。そこには家族も待ってる。絶対行ってみんなともう一度会うんだ。
「弱音を吐くな!あの雲を抜けるまでは生きるんだ」
「そうじゃないと死んでも死にきれないぞ!」
「本気で宇宙に出れると思っているんですか?」
「あり得ません。ここに残った方がよっぽどマシです」
「この環境がいつまでも続くとは思えない」
「宇宙というのは死んだ人間が行く場所なんです。そこへ我々が生きたまま行くとどうなるか分かりません」
「リーダーは宇宙へ行きたいだけでは?」
「もちろん自分の判断でいい。ただ、いつか必ず選ばなきゃいけなくなるぞ」
「それは分かってますよ」
「残ると判断したものの中から新しいリーダーを選んでくれ。私は自分の準備をしたい」
「私が代行を務めましょウ」
「漆原さんは残るんですか?」
「ハイ。束ね上げて見せまス」
意外だ。一番宇宙に行きたいと思っていてもおかしくはないのに。
「ルカはどうするんですか?」
「私も残ります。宇宙へは行きたくないです」
「好きにするがいい」
あんなことを話していたのが懐かしい。結局私は宇宙へ行きたかったんだ。この世界を飛び越えて全く違う場所へ。そんな変化が、刺激を強く欲していた。
「私は宇宙へ行きます」
言ってることが二転三転していて定まらない。でも今こう感じているのは確かなことだ。ただの気分屋なのだろうけど。
まだ感触は手には残っている。でもそれも時間と共に抜けていく。頭は自分が思い描いてたよりも冷静でここを捨てて羽を付ける。跳ねた泥水が口の中に入り込む。なぜか息切れをしている。振り返ると倒れ込む班員の姿が。体力の限界なのかもしれない。あんなに何度も振り下ろしていたから体が持たなかったのだろう。でも直ぐに起き上がる。
「絶対に上がる……!」
強さを秘めた良い目をしていた。易々とはまね出来ない表情。不屈の意思を感じた。私ものんびり息を整えているわけにもいかない。分からないことだらけでもひたすら進む。次第に眼下に今まで立っていた場所が広がる。
「振り向くな」
声は聞こえたがリーダーは特にこっちを振り返る様子はない。いつの間に気付かれたんだろうか。直ぐに前を向き直る。何とか羽を羽ばたかせて飛んでいく。ここから抜け出したい一心で。知ってしまったからもうここにはいられない。羽を無理やり動かしてよじ登っていく。名前とは裏腹にごつごつした羽は強く握り過ぎると食い込んで手の方が痛くなる。かといって力を緩めると下に落ちているあの人みたいになる。羽を上手に風に引っ掻けて体を押し上げる。
「痛っ!」
節々の痛みの限界が近づく。皮膚の間から血が滲む。体中が悲鳴を上げる。もう私の体では苦しいのかもしれない。だからこそこれが必要。もうこんなところになんていていられない。何人死んだと思っているのか。目や口にも泥水が入り込む。羽の表面を伝って流れ込む雨水は美味しくない。この表面に風をへばりつけて昇り続ける。上へ、上へ。ひたすら上る。宇宙との境までやって来る。持っていた力を使ってこじ開ける。
「落ちるな!何としてもここを抜けろ!」
体が焼ける様に熱い。ここまでくるとどうなっているんだ?同じ羽を持った人が次々と落とされていく。落ちた先は何もない場所。誰も待っていない場所。死んだ後でも宇宙にも行けない人。これを選んだ以上行くしかない。そこに何があるか分からなくても戻れないのだ。
「ダメですリーダー!これ以上は!」
「耐えるんだ!」
「リーダー!!」
落ちていく。
翼を持った者が宇宙まで届かずに落ちていく。真っ逆さま。誰も彼を救う暇はない。
「振り返るな!」
「みんなで、宇宙まで行こうな」
「私が行かなくても他の誰かが……」
「お前が行かなくてどうするんだ。他の誰がこの翼を使いこなせる?」
「この世界に希望を見せてくれ」
そんな彼女の願い。リーダーはつくづく私に甘いと思う。突き放されてもおかしくないのに。私に思う所も沢山あるはずなのに。
「私は先に行ってるからな」
まさかこんな日が来るとは思っていなかった。共有できるとは思わなかった。多くの人の上に私たちは立っている。そうして飛んでいる。身体を空にあずけて上がっていく。
「お父さん、私も連れて行ってよ!」
こんな感じの事を私も思っていた。いつも窓から見ていた。でも今日は違う。お前を開ける手段が無いからこうしてなんとか中に入れてもらう。それは全て自分が生き残りたいがため。他の何者でもない。
「絶対に行く!」
私は今どんな顔をしているのだろう。人に見せられる顔ではない。でも見られてもいい。それが今の私の本当の気持ち。嘘偽りのない思い。よく母に似ているとか言いながら走り回っていた。腕に力が入る。もうこんな寒い所にはいたくない。雨で全身が濡れている。でも周りの環境は熱くなっていく。霧が晴れても雨は止まない。
「気持ち悪い……」
こんな原始的な行為をしているのは私くらいだろうか。どれだけ必死に逃げようとしているのだろうか。宇宙へ向かうとか言えば聞こえはいいが、所詮ここを捨てて逃げているだけだ。色んなものを捨てて逃げてきた私たちには何が待っているのだろう。
ギギッ……。
少し羽の開く音がする。隙間から中に雨水が入り込んでくる。でもこれくらいで羽を閉じようとすると体が挟まって上手く飛べない。だからいつも以上に慎重に行かなければならない。
「まずい……」
「気にせず進め、飛べないわけじゃない」
「私はまだ大丈夫だから前を行く」
「ゆっくり飛ぶんだ」
そこへリーダーもやって来る。さっき体に付いていた返り血は雨で流されている。目はさっきから死んだままだ。私はもっと酷いだろう。もう一つのバールを渡すと勢いよく叩き始めた。辺りにさっきの様な鈍い音が鳴る。何度目かで今度ははっきり開いてしまう。
「落ちる!」
「背面飛びに変えろ!」
リーダーの声が響く。内部にこれ以上雨水が入り込まないよう背中を上に向ける。身体をひねって翼を下に置くことで幸いにも中の機能に異常は見られなかった。一命は取り留めた。もう少し判断が遅かったら危なかった。真っ逆さまで落ちていたかと思うと身震いがしてくる。
ここはリーダーの出番。目に怪我を負ったリーダーの代わりに私が記載されている文字を読み上げる。それに付いてリーダーが私に指示を出す。その内起動音と共に内部が明るくなり始める。活動再開するにあたって発生する熱をこうして放出している。本当は耐熱スーツを着るものなのだがそうでなくても操縦には問題はない。メインの操縦はリーダー。私がその間のつなぎとして操縦する。私の方が体力を使う部分を担当する。体力に自信がある訳でも有り余っているわけでもないが、やるしかない。
「ついに宇宙へ出る。この装置を付けろ」
見えてくる。此処とは違う場所。そこは物体が多くいる場所。私たちはこの物体から宇宙へ出ようとしている。そしてその先には他の物体が存在している。
「新しい場所で生きていくんだよ」
その先に新たな住処を求めている。そこで生きていければ幸いだが、恐らくそんな環境はない。だからこその宇宙。被害を察知して事前に行動。そして免れた後に再びあの物体の中に戻る。これが確立されれば私だって生きていける。生きる場所が生まれる。思った以上に体力を使うものだ。でもこれは必要なこと。
私は生きてる。生きてるんだ。
胸に手を当てる。確かに鼓動を感じる。ここはもう私たちが暮らしていた世界ではない。それとはまた別の世界。眼下には青い世界が広がる。私たちもあのどこかで暮らしていたのだろうか。今の私とはまだ違った頃の私があそこにはいるんだ。
ドクンッ――。
始まる。
再び始まる。強烈な嫌な予感が私の体中を駆け巡る。そう時間は掛からなかった。
再びあの物体がぶつかって来た。
あの日と同じように。
その時に私の羽が溶けた。
ルカと漆原
グシャ……グシャ…。
物体が地上を潰している。
どこで間違えたのか、あれと人で。
人間は雲の下でいいと思った。
ここで生きていこうと思った。
あの物体はそれじゃダメだと思った。
だから宇宙まで出ていった。
その差。
研究も何も進んでいないこの世界で、どうやって生きていこうというのか。
二人。
私と漆原さんだけ。
ルカ「あの……」
漆原「特に会話はいらない……あれが落ちてきたら報告だけしてくれ」
ルカ「はあ……あの」
漆原「どうした?」
ルカ「他の方と合流しないんですか?固まって動いた方が…?」
漆原「そう思わない奴もいる…それだけだ」
「何処を進んでいるは分かっている。はぐれない様に付いて行けばいい」
ルカ「あの……恨まれたりしないんですか?」
漆原「そうだな……いづれお前にもそう思われる。だから今はそっとしておいてくれ」
潰れた。
私の目の前で、みんなが、一瞬で。
ルカ「漆原さん!……来ましたよ?このままじゃ……」
漆原「ああ、そうだな……潰れるな」
ルカ「みんなを助けないと……」
漆原「それはいらない。もう必要ない」
ルカ「……?」
声を出す暇もない、そんな一瞬で死んでいった。
一瞬で、人じゃなくなった。
まだ、頭の上に浮かんでる。
漆原「上を見るな、動じるな。このまま進むぞ」
ルカ「翼を……翼を使いましょう…少しでもここから」
漆原「逃げたければお前だけで逃げろ……お前の命はお前のものだ」
潰される。
また一人、死んでいく。
ルカ「漆原さん……どうやって生きていこうって言うんです?」
「こんなのさらし者になっていますよ?あの物体から丸見えじゃないですか?」
漆原「だからどうした?気にせず進めばいい……翼はいらない」
ルカ「漆原さん……もうたくさん死にましたよ…漆原さんはみんなを殺したいんですか?」
「潰れた仲間の声が届かないんですか?」
漆原「……フフフ………すべて必要なんだよ、翼なんかに頼るからこんなことになる」
ルカ「……は?」
漆原「このまま地上に這いつくばっても意味はない。だったらここで生きていけるようにするしかない…それが進化だ」
「人間は今までもそうして生きてきたんだ」
「今は無駄な死かもしれない……だがいずれこの環境に適応した種が突然変異として生まれるんだよ」
ルカ「…………くだらない…バカなんじゃないですか?それを誰かにちゃんと言ったんですか?誰が賛成するんですか?」
漆原「それが私のやろうとしていることだ、文句があるなら他へ移れ」
「ルカ……私は本気だ」
「人は変われる…変わるんだよ」
ルカ「私には……分かりません」
「リーダーがいたらなんて言うんでしょうね……」
漆原「…………」
ルカ「残念です」
それだけ言って私は元の場所まで戻る。ちょうど漆原さんも見えなくなって、翼を外そうとした時、
母親「………誰か!!」
子供「…………あうあう」
子供が集団からはぐれている。はぐれて、それに気付いているのは母親だけ。
彼女には恐らく、翼は使えない。
このままじゃ…あの子は潰れる。
ルカ「……!!」
私は考えるよりも早く漆原さんの許可を得ずに飛び出していた。
漆原「…………」
「………リーダー、あなたはどう思うのでしょう……笑いますか?」
「こんなくだらないことにみんなを巻き込んだ私を、愚かにお思いになりますか?」
「…………」
「そうですよね……もう、何も答えてくれないですね……」
「ここに何度も足を運んで……私もバカですよね……」
「でも、潰れた仲間の事を思うと……あなたに会いたくなります……」
「何故、亡くなったんですか……?」
「もっと……生きていて欲しかった……」
「あなたはもう……」
「よく似た子にルカというのがいまして……これが中々に厄介で……」
「でも……あなたとは違います」
「何もかも」
「見た目じゃないんですね……」
足元の石を優しくなでる。
「あの物体にしがみ付きましょうか…?」
「そうすればどこまでだって行ける……」
「そうすれば…………」
「…………ルカ?」
遠くで声がする。
?「家族は?」
子供「すごい遠くまで行っちゃったからもう覚えてない」
「この辺り一帯はみんなあれにやられたよ」
「そしてそのまま戻っていったよ」
ふと、その子が上を指差す。
「ほら、浮いてるじゃん」
気が付くとすっかり離れてしまっていた。漆原さんも何処にいるのか分からない。集団に戻る道も分からない。
あの子は助からなかった。
私が行くのと同時に潰された。
翼は、あの子まで届かなかった。
また別の子が空を指差している。その子が指さした先には私が助けるはずだった子が、潰れて物体にくっついたままになっている。
その子の言う通り、物体が良く見える。
助けるはずだった。
助かるはずだった。
でも私にはもう力は残っていない。
ルカ「…………!?」
目の前一杯に物体が広がり、それ以外のものは目に入らなくなる。
限界まで近づいている。
これに今から潰される。
贖罪。
助けなかったから、助からない。
?「………ル……カ…」
遠くの方で声がする。
良く知っている声。
一緒にシチューをつついた人。集団の中でリーダーと班長と後それから他の誰かより、そんなものより何より一番近くにいた人。
家族じゃない。
私の家族は目の前に広がる遠くの世界へ行ってしまった。
私ももうすぐ近づける。
彼らの元へ。何もしてやれなかったあの子と同じ場所へ。
漆原「ルカは渡さん!!」
嘘みたいだった。
それは私の父のアイデア。
性懲りもなく母に怒られながらも部屋に籠って何年もかけて完成させた物。
誰が使うとも知らないのに夢中で机に噛り付いて出来上がった物。
ただのおもちゃ。
ずっとそう思っていた。私は父の事を、夢ばかり追いかけてバカみたいに一生懸命でって、そう思っていたのに。
翼。
人の革新を求めて作られた願いの結晶。
父の愛が詰まっている。
根っこのところまで腐っちゃいない。
誰でも本当の答えを見つけるまでせめて信じていたいから。
そんなんだから周りが見えなくなるんだよ、でも…今こうやって助けられてるよ…お父さん。
翼を纏った人間。
私に与えられた可能性とは違う、新たな答え。
潰されるだけとは違う、もう一本の牙。
こんな事されちゃ信じてあげるしかないじゃん。
もう何も見えなくなったって知らないから。
漆原「大丈夫か…?」
ルカ「……遅いですよ……もう」
あんなこと言ってたのに。
翼なんかもういらないって。
あんなものにしがみ付いてちゃダメだって、呪文のようにずっと言ってたのに。
誰かに向けてずっと言ってたのに。
でも彼女は答えが見つかる前に宇宙へ行ってしまった。
もう帰れない。
戻ってこない。
結局、彼女の答えを知らないまま。雄弁なその答えを聞かないまま。
その誰かさんはもういないよ、私でごめん。
漆原「このままじゃまずい……お前の翼も修理しないと…集団の所まで戻るぞ」
「少し飛ばすからちゃんと捕まってろよ」
ルカ「……はい」
昔のリーダー
父視点↓
雨。
ただ、雨。
全身に降り注ぐ。
ああ笑ってるよ。
ああああああああ…。
こいつに顔なんかない。恐らく何かを思い悩むことも無い。でもそう見える。そうにしか見えない。俺はこれから死ぬ。この世にある言い伝えの通りだ。こんなに近くに居る。こいつにぐちゃぐちゃにされた人間がどれほどいるか。くそったれ。
集団から離れてどれくらいたっただろうか。今は外。外で雨に打たれている。中々風呂にも入れないから今はこうして体を洗っている。雨で汚れを流すのも中々悪くない。倒れたままの恰好で全身に雨を受け止める。
今朝から降り続いたこの雨は今日一日中止むことを知らない。体を起こすのもだるい。今は雲が出ているから、空を見上げられる。そこには何もない。ただの雨雲。雲が出ている方が落ち着く。乾いた喉は雨粒で潤す。古傷にも雨は入り込んでくる。足を曲げると沿って雨粒が落ちていく。
「お前にあの時あんなことを言わなければ良かった」
言われたって思った。当時は気が動転してて落ち着いてなんかいられなかった。落ち着いているふりをして最低なことを言っていた。もう戻れない。戻りたくない。何が待っているかを私は知らない。そうやって生きていくしかない。一人だけの世界。
「どうしたんですか、大丈夫ですか?」
「あなたは……?」
倒れたままでその辺の遺体と区別が付かなくなってきていた。匂いも強烈で目にも泥が混じってきている。そんな人間にその人は話しかけてきた。
「私は柳崎静と言います。柳崎と呼んで下さい」
振り落とされた。
引きずられた体。
「生贄……?」
「そうだ。あの集団は人柱を探していた」
「その中で私は最年長だったこともあって選ばれたんだ。」
「元々体力もなく足手まといだった私にはむしろ都合が良かった」
「大変だったんですね。」
「やってくれませんか?」
「あの物体に捧げる大切な生贄……これであの物体が鎮まる……」
「そんな何の根拠もないことを平然と放り込まれても私には理解できません。私は自分の目で見た物しか信じられないので」
「まあ、あの集団からの生贄は俺で最後だろうけど」
「もういないんですか……そうですか。私も人柱やってみたかったです」
「あんた……いい根性してるね」
「そうですね☆」
「…………」
「……どうしたんですか、黙っちゃって。さっきの普通の何でもない話の続きをして下さい。私、年上と話したことなくて敬語も楽しいです!」
「案外めんどくさいんだな……」
「良く言われます。もはや褒め言葉です。もっと言って下さい」
集団はかなり先まで行ってしまっている。戻る可能性は見えないしもはや戻る意味もない。喋る度に髪が口に入り込む。もう何か月も切ってない。体を動かす。家にいた頃にやっていた狭い場所でも出来る運動を続ける。
目的がある訳でもない。でも動かしていないと気が済まない。家に戻るのだ。鉄格子で囲まれた柵。次の生贄は俺だった。
「その長い髪どうにかした方が良いと思いますよ。なんなら私が切りましょうか?」
「上手なのか?」
「やったことないです。でもあなたの髪は試し切りに丁度よさそうです!」
「じゃあやめる。そしてさっさと行くわ」
「それもいいかもしれませんね」
集団全体の決定は一人では覆すことは出来ない。全体の意思が集団の行く末を左右する。個人の感情に左右されてはならない。今まで散々見てきた。あの顔。忘れるわけない。死にたくなくて此処に来たのに、助けてもらった人に殺される。鍵を閉める瞬間、彼彼女の命は途絶える。直ぐに死ぬわけではない。ただ潰されるのを待つ時間があるのだ。鉄格子ごと潰されるため宇宙へ行くことはない。死んだ時のサンプルが取れるというわけだ。
「この鍵なら、私持ってますよ?今開けますね」
「…………」
でも俺は生贄をする必要はない。生贄は本来関係のない人間が行っても自分達には影響を与えない。そのため俺ではやる意味が無いため生贄をしなくていい。というか、生贄なんて真面目にする人間はいない。集団からはずれたい奴がそうなる。
「だから気にしなくて良いですよ☆」
「そ、そうですか……」
「早く行きましょう。私は中々忙しいですから」
不思議な人だ。言ってることは滅茶苦茶なのにこっちはむしろ安心できる。こういう人が集団のリーダーを務めたらそこは長持ちするだろう。
潰される(五日目 朝)
ここが何処かも分からない。
宇宙を目指して飛び立った人間達の羽は焼かれ、バラバラになる。
そしてそして誰もがもう一度この地上の空気を吸うことになる。
みんないなくなった。
みんなどこかへ飛ばされた。吹き飛んでいく時に見える顔はやたらと残る。一瞬しか見えていないのに表情まで見えてくるものだ。私も前みたいに叩きつけられる。生き残った人がどれだけいるのだろうか。地面に雨が落ちて水たまりが出来始めている。
案外すぐにこんな私にも幸運は訪れた。
私は自分の目の前に何かしらの熱量があることを感じた。直ぐに体を動かす。その物体をまさぐる。何から何までついさっき手を放してしまった弟と同じだった。その柔らかい手を握りしめる。
思わず潰してしまいそうな程、強く。
楽しい思い出がほしい。
ふと、そう思った。
どうせ死ぬ。
もうそれは変わらない。
だからいっそここに生まれて良かったって思える何かを…。
「お姉ちゃん……?」
弟の声を聞き漏らすまいと耳を押し当てる。そこからは微かに弟の声を感じた。まだ生きているということを実感した。
「そうだよ……お姉ちゃんだよ。今まで元気だった?」
「大丈夫だよ。僕たちも色んな人に助けてもらっていたから。お父さんとお母さんは家にいるよ」
「…………そう」
弟も私の声をしっかり聴いている。真っ暗な中でも確かに触れた。生きてた。まだ、何とかなった。
「お姉ちゃん、会いたかったよ」
弟の腕は私を支えた。私は全身の力を抜いて寄りかかる。身体は腕に埋もれていく。安心感。安堵。
唐突に襲う不安。
安心からか、少し何かが聞こえてくる。激しい音。音。音。音。音の連続。ああ、そうか。
もう近いんだ、お迎えが。中々短かったと思う。
「いた……」
思わず声が漏れた。思わず安堵した。嬉しくて寂しかったけど、弟と出会えてよかった。無事が確認できてよかった。
声も聞こえない。真っ暗で視界も働かない。それでも触っただけで分かった。田んぼの隅の方でうずくまっている弟に触れる。弟も私と同じように泣きはらしているのだろう。そっと後ろから声を掛ける。震えが収まらない体を咄嗟に抱き寄せる。二つの鼓動が近くなってまだ生きていることを実感する。弟も私もまだ生きている。この涙は今までとは違う。嬉し泣きだと思う。緊張のし過ぎで意識が途切れた。でも直ぐに引き戻される。
何も変わらない。
弟がいても、ここでは何も変えられない。でも見えない、何一つ日の光が当たらないのはいいかもしれない。恐らくそこら中に潰れた人が転がっているのだろう。見知った人も中にはいるのだろう。
何処に隠れてもそれごと潰していく。
弟が言葉も出さずむせび泣いている。目も耳も役には立たないけど触れた感触で伝わる。指先に滴が垂れる。そっと両手で包み込む。弟の暖かい肌に比べて私の手は冷たい。抱きよせると微かに声が私の中で響く。身長も私とたいして変わらないはずなのに。温かい。私の冷えた手が温められていく。これで後悔することが一つ減った。足の方がやたらと暖かい。濡れている。顔を近づけると血液が流れ出ていた。急いで服を引きちぎって止血する。足から出血しているので歩けそうにない。
あいつに声は聞こえるのだろうか。聞こえるなら私の代わりに弟の声を聴いてほしい。あいつの体にはどれだけ潰した人間が張り付いているのか。もしかしたら宇宙はこういう所だったのだろうか。だとしたらなぜ今なのだろうか。こんな瞬間はずっとなくて良い。怪我をしている弟の体を背負う。おんぶした弟の体は思ったよりも重かった。頼もしくも感じる。弟に触れている部分は血が滲む分暖かかった。昨日の夜は寝不足だったのかもしれない。弟はか細い息でフラフラしていた。首筋に感じる息遣いが弱い。そんな弟の手を離さない様にギュッと握りしめた。
「もうちょっとだからね」
「もうちょっとで家に帰り着くからね」
「戻ったらお母さんに傷を見てもらおうね」
「お父さんがきっと守ってくれるよ?」
その間もずっと弟は泣いていた。あちこちで泣いている声がして本当は私も泣きたかった。中にはただ笑っている人もいた。さっきの祭りで見かけた顔だった。下種な笑い声が辺りに響き渡る。聞こえなくても直近の衝撃で頭がやられたのだろうか。落ちている首に話しかけようとしている。恋人だったのだろうか。骸骨の様にこけた頬が妙に艶やかな首を持ち上げる。その首を見てようやく弟が泣いている理由に気付いた。
その首は友人だった。
最初、見間違いかと思った。何かの間違いかと。でも間違いなかった。口元に残る饅頭の跡がついさっきまで生きていたことを感じた。
「え…………友?」
走り出そうとする弟を押さえつける。こんなところで道草を食っている暇はない。弟の声が響いて聞こえる。
「どいてよ姉ちゃん!」
「ダメ!死にたいの!?」
「だって……だってお姉ちゃんが……お姉ちゃんの友達なんでしょ、悲しくないの?」
「悲しいよ!辛いけどあんたを死なせるわけにはいかないんよ」
「あんたまでああなったらお父さんとお母さん悲しむよ?」
「………………」
「………………うっ、お姉ちゃん」
「行くよ」
潰される。
足からは滑らかな感触が伝わってくる。顔を下に向けると私の足は誰かの左手を踏んでいた。その腕の先はどこかに行ってしまっていた。まだ生暖かさがあり付け根からは今も血が溢れ出ている。こんな場所でこんなものを見るとは思わなかった。
今まで家族と一緒にいた場所。
多くの人が仕事の帰りに使っていた道。
私が村へ行く時にも使っていた道。
もう二度と見たくない道。
息が切れて地べたにへたり込んだ時、私たちの家が見えた。まだシチューの匂いが微かに残っていた。
潰される。
良かった。
本当に良かった。顔がぐちゃぐちゃになるくらいの嬉し泣き。もう足に力入んない。
怖かったよ。
死んじゃうかと思ったよ。
でも弟だけは連れて帰ったよ。二人の宝物だもんね。今もまだ生きてるよ。息してるよ。早く会わせたい。家までの道は体が覚えている。坂道がつらくない。辺りの小石を掻き分けて走る。
潰され
る
。
何故私はこんなことをしているのか。残り数秒の命が長く感じる。
開け閉めする度に音が鳴るドアが今は懐かしい。
私はみんなと一緒に家に隠れた。
潰される。
ずっと続く。すぐ終わるのに中々終わらない。
震える母を父が抱きしめていた。
「お父さん……お母さん……?」
父と母は元からこうだったのだろうか。なぜかおかしく感じた。見えない。聞こえない。本当に彼らは父と母なのだろうか。息遣いが変わっているからなのか、あの坂道は一本隣だったのか。
「ちゃんと弟連れて帰ったよ?」
「弟の怪我が激しくて……手当てをしてほしいんだけど」
「…………?」
おかしい。
もしかして彼らも私たちが誰か分かっていない……?。でも二人だけより落ち着くから安堵しているだけなのだろうか。
「どうなってるの?」
私はどこへ来たのだろう。
帰ってこれて良かった。安堵した。離れ離れにならない様に家の隅で抱きしめあった。その間、父が家の周りを見回ることにした。
なんでなのだろう。
今は家に居るのに何一つ安堵できない。
確かにそこには父と母がいる。声が聞えずとも顔が見えずとも、確かに感じる。のに……。
潰される。
間違いなく潰される。父という人がまた戻ってくることはない。
「私が守ってあげるからね」
「お母さんは今まで大丈夫だった?」
「…………」
「どうしたの?なんで返事くれないの?」
「…………」
「…………」
「疲れてるでしょ?安心して寝なさい」
母が私たちを包み込む。
潰される。音が聞こえない代わりに感じる。この日常は突然終わる。それでもこの母という人は安心して送り出す。
どれくらいの時間が経っただろうか。辺りはさっきより静かになった。弟の息遣いが聞えてくる程の静けさ。
助かった…?
辺りは静かなままだ。またあの怒号が聞こえてくることはない。地べたにへたり込む。体の力が抜ける。内心ホッとした。
「痛いよ…」
思わず爪が食い込む程に弟を握りしめていた。直ぐに爪が当たらない様に腕を回り込ませた。私と母は家を片し始めた。
そんな中でか細い声が私の耳まで届く。
「どこ…?」
その小さな声の元を探す。衝撃だけで家は崩壊した。見る影もなくなっていた。崩れて来た瓦礫で今どこにいるのかも分からない。棚が倒れて中の食器が散乱している。弟は棚の下敷きになり足を動かせなくなっていた。無理に引っ張り出そうとすると返って傷が深く刺さる。私がモタモタしている内に母の声が聞こえなくなっていた。更に家が崩れ始める。弟を置いて離れようか。迷っている時間はなかった。
「引っ張るけど我慢してね?」
弟の体を思いっきり引っ張る。筋肉が引きちぎれる音がする。弟が歯を食いしばって痛みを堪える。思わず力が抜けそうになるがそれでは間に合わない。目一杯引っ張るととうとう弟が泣き叫ぶ。聞こえないふりをして体を引っ張り出した。数十秒がとても長く感じた。かろうじて息をしている弟をおんぶすると急いで反対側へ向かった。母は衝撃で吹き飛ばされて反対側の家の壁に飛んで行ったのかもしれない。最後に見た時に身に付けていたマフラーを目印に探す。直ぐに弟が見つけた。
「お母さん!?」
先の出来事で母は両目を怪我していた。母は左手を支えにして四つん這いになり足元に落ちたマフラーを右手で探していた。上下左右に動かしても中々マフラーは見つけられない。途中でバランスを崩した母は右腕の肘を強く打ち付ける形で倒れこんだ。
「はあはあ……お母さんもう無理みたい……」
体をまともに制御できていない。手足がフラフラしている。まっすぐ歩けず壁に体をぶつけている。息が荒い。父が体を支えて呼吸を整える。
「大丈夫。肩貸して」
「ごめんね、ルカ」
そんなわけない、そんなことあるはずがない。
どこかで自分の家族だけは大丈夫と思っていたのかもしれない。ああやって潰されていくのは、母の事を馬鹿にした村人たちで、父の事を頭のおかしい人と揶揄した隣人で。
私たちは違う。そう思っていたのに。
母の目は見えなくなっていた。
もしかしたら怪我ではなく精神的なものなのかもしれない。ふらつく母を支えてくれた手は今ここにはない。これも私への、私の家族諸共の罰なのか。
直ぐに外から地響きが聞こえてきた。駆け寄ろうとしても崩れてきた瓦礫が邪魔で身動きが取れない。辺りからは声にならない声も響いていた。だが父の声はしない。父の身に何かあったのだろうか。知り合いの声が聞こえたような気がして気付いた時には耳を塞いでいた。
「ぎゃああああああああ!」
「お母さん!」
流れ出す血。母の体から赤い液体が流れ出ている。手に付着した液体は拭いても落ちないし、鉄の味がする。
「痛いよ……痛いよ、ルカ」
「ごめんなさいお母さん。私が……外の世界を見たいって思っちゃったから」
「痛い……痛い」
擦れた声で絞り出した懺悔の言葉は母には聞こえない。母はそれどころではないというのに私は自分の罪悪感を少しでも消したくて、そのために母を利用する。自分に都合のいい時だけは猫なで声で母を利用する。私は周りの人を何かの道具くらいにしか思っていないのか。
音だけが辺りを掻き立てる。空間がざわつく。血が辺り一面を染める。父はまだ戻ってこない。弟は駆け寄れないほど弱っている。
そんなわけない。
つい数時間前まで ここは 私の 家 だった 。
母は体を出すのが難しい。
弟は体が出ている。
「ルカ……聞こえる?」
「うん、聞こえるよ」
「父さんの研究を継いで欲しい。いつか役に立つ時が来るから……」
「お母さん。待ってよ、こんな時まで父さんの心配するの?」
「ルカ……。あなたはやれる子なんだから。いつか必ず……」
「お母さん!弱気になってどうすんのよ!」
「もうお別れよ……元気にやるのよ」
「待ってて、弟連れてくるから!」
走り出す。
「…………」
「…………」
「…………色々言っちゃってごめんね、向こうに言ったら……もう少し大人しく……してみるね」
「さよなら、ルカ」
私が弟を連れて母の元に戻ろうとした。私は家から離れた。足の不自由な弟をおんぶして走った。前しか見ていなかった。振り返ることをしなかった。
そして私の家が潰された。
これらは全て夢だろうか。
何一つ信じられない。むしろそうじゃない方がいい。偶然とでも運命とでも言うのだろうか。ガラスを引っ掻くような音が響く。潰れた家の下で潰れた人が呼吸をしている。一瞬で殺してくれた方が楽かもしれない。そんなものは初めて見た。弟の背中を擦って吐かせておいた。
母は死んだ。
正確にはまだ今は死んでいない。でももうどうすることも出来ない。私が弟を地面に下ろすと弟の体が冷えて体温が下がっていく。これ以上、下がると私も危険となる。
「此処にいよっか?」
弟からの返事はない。私も別に待たない。辺りに母の付けていた香水の匂いがする。ついさっき見たマフラーが飛び出していた。最後の時を母と一緒に過ごす。私は何かしていたか?母はまだ此処にいる。大丈夫、ほんの少しずれるだけ。直ぐに私たちも向こうに。
「お母さんじゃなきゃ嫌だよ……」
「文句言わないの」
その先は繋がっていなかった。母は家ごと潰された。母の強張った体を無理やり動かすことは出来なかった。母よりも弟を選んでいた。もしかしたら家の中に父がまだ残っていないか探していたのかもしれない。父も同じように母を探すために残ったままだったのかもしれない。
でももう誰もいない。
「姉ちゃんなんでこんなに暗いの?」
「なんで寒いの?」
「なんでお母さんは死んじゃったの?」
「何で……」
何も答えられない。
何も知らない。
あんなに毎日見ていたのに。私はただ見ていただけだった。弟に聞かれたことに一つも答えられない。弟の思いにも答えられない。私はただ茫然と見ていただけだった。母の手当てもしてやれない。ただ今は弟を背負って逃げているだけ。家族と一緒にいた場所から逃げ出して、ただ走っている。
何も見えない。
何も見えてこない。
これからどうしていけばいいのかも分からない。ただ雲が晴れればいいって。晴れてくれたら嬉しい、そう思っていた。
再び物体が動き出す。
ただの気まぐれ。法則も理論も何もない。こんな巨大な生き物が宇宙という世界で生きている。戻っていく時に押しつぶされた屋根が張り付いたままに。辺りにもう一度吹いた強風が肌を撫でるようにしか感じない。少しだけ浮いたそいつ。そこにはもう人間は残っていなかった。どれが母なのか分からなかった。
母だったものは物体に張り付いたままになっていた。どれだけ離れていてもはっきり見えた。弟の目を覆うことも忘れて釘付けになっていた。
母はこのまま宇宙へ行く。
「もういないんだ」
本当にここからいなくなる。近くにまだいるなんて感じててでも連れて行かれる。
あんなに憧れた世界。村の人間誰もが一度は行ってみたいと願った世界。今母は天へと召されていく。宇宙という得体の知れない世界へ。私は母を埋葬することも出来ない。もう二度とあの笑顔を見ることは出来ない。
「待ってよ、置いて行かないでよ」
「まだ言いたいことがいっぱいあったんだよ?」
「何もまだ出来ていないのに」
もうここに居ても意味ないんだ。
もう誰かが待ってくれていることもない。宇宙へ行ってしまった。帰ってくることはない。母はどうなってしまうのか。
そいつは浮かび上がるのを止め、また違う場所に体をぶつけ始めた。最初に見た時からおかしいと感じた。でもそれが何なのか分からなかった。生まれてしまった違和感はずっと拭えないまま残り続ける。
答えが欲しくても茫然としているわけには行かない。またあの物体が降ってくるかもしれない。あいつは何なのだろうとか、どうしてこんなことになんて何にも出てこなかった。ここにいると衝撃で瓦礫に当たるかもしれない。だからといってどこに逃げるのだろうか。空からあんなものが落ちてくるなんて知らなかった。私の些細なことに手を叩いて喜んでくれた母はもういない。
ルカ「行くよ!」
弟の手を握って走り出す。よろめく弟の体を支えるように反対側に回り込む。軽く咳き込んでいる様で咳にも血が混じる。
何処へ?
もう家はない。
何も残らない。ちっぽけな感じ。私たちの生活も暮らしてきた場所も、家族の人生も何も意味はなかった。あの毎日も。私の17年も。村の人も生きている。生きていた。両親も。弟も。けどそこに価値を見出すのは違っていた。彼らはこの世に生を授かってから一生懸命生きてきて色んな道を進んでいく。全員違っていて一人として同じ道はない。その全てが否定された。人間が生きてきたその全てを否定された。
生まれた時点で間違い。
失敗。生まれてきた時は嬉しくて泣くはずなのに。さっき失ったのによく平気で忘れられるものだ。今まで家があった場所は何度も何度も落ちてきてぐちゃぐちゃになっている。私が今から行ける場所で動いて意味があるのだろうか。ごくわずかで生き残るということなど有り得るのだろうか。ここから見える風景は様変わりした。私たちの部屋の近くまで行ってみると手編みの服が散乱していた。手荷物と辺りに散らばったお札をあるだけ拾って走り続けた。私の家はどうしようもなかったので誰もいなくなった家から食べ物を手に入れた。まだ使えそうな服を私の分のマフラーを弟に巻き付けて体を温めさせる。少しは震えが治まったようだ。
何しに?
宛は?
何にもない。何もないのだ。生きていく場所も食べる物も確保できていない。
それでもただ、行くしかない。
ここにはもう私の居場所はなかった。
どこかから巨大な音が迫ってくる。途中の風景はここが見る影もなくなっていた。早く終わってくれと願った。早く今日という日が来てほしいと願った過去の自分を呪った。
「お姉ちゃん?」
もうどれだけ歩いたか分からない。何もなくなった世界を歩く。何回も何回も、ぶつかってくる。
「お姉ちゃん、ここどこ?」
「…………」
「寒いよ。それになんでこんな暗いよ……」
「…………」
私たち以外にも多くの人が瓦礫の山に殺到しておりそれらはなくなりつつあった。背中で弟の息が次第に静かになっていく。腰の方に生暖かい感触が増えていく。行くしかなかった。
「なんだか怖いよ……」
「…………」
「お姉ちゃんどうしたの?何か答えてよ……」
「……ごめん。ボーッとしてた。何?」
「なんでもない……」
「そう……」
弟の言葉で我に返る。お互い血だらけの体だけでも洗いたかった。
「お姉ちゃん頑張って取って来るから」
「頑張ってね、お姉ちゃん……応援してるから」
「ありがとう。それだけでも頑張れるよ」
みんな状況は同じなのだ。だからみんな必死になる。もはや人間に見えなかった。弟を木の影に寝かせる。
見知った顔などどこにもいない。私の村も、その周辺の山も、もう見知った風景は見えてこない。
全部潰れた。
死ぬ(六日目 朝)
きちんと受け止めないといけない。
私が死について考え出したのはつい最近。
ひたすら逃げてきたけど…もう逃げきれない。
だからせめて…キチンと受け止めないと。
「これだけしか取ってこれなかったけど」
私は判断が遅かったのかもしれない。最初にあの人だかりを見た時、正直ためらってしまった。少しの包帯と毛布、いくつかの食料。そしてランプ。2回に分けて取って来たので時間がかかってしまった。乱闘騒ぎの中をかいくぐった。落ちていた毛布や食料を拾い集めた。二回目の時にはもう人は半分くらいになっていた。顔にもいくつか傷が出来て未だヒリヒリしている。木の影になっている所に残してきた弟の元へ戻る。足に包帯を巻くと出血は止まったようだ。額に掻いた汗を拭きとる。
「美味しい?」
「…………」
「お腹が空いてたらもっと食べていいんだよ?」
「でもそれお姉ちゃんの分でしょ……流石に食べられないよ」
「……ありがとう」
暗闇の中。
怒号が響く中。
私の耳がおかしくなっているのか、弟の体力が無くなってきているのか。
食料を分け与える。弟と私は怖さで震える肩を抑えて食べる。これは冷えるからなのか、自分の未熟さに対しての愚かさなのか。もらった毛布に二人で包まる。
「寒いね……」
「ごめんね。もう少ししたら温かくなってくるから」
「もうちょっとそっちに行ってもいい?」
「いいよ」
ランプを顔の高さまで上げてそう呟いた。目線の先ではあいつが豪快に地面を潰している。
手に入れた食べ物をそのまま食べさせようとしても呑み込めず吐き出してしまう。私がある程度柔らかくしてから食べさせる。体はかなり冷たくなっていた。最初は上手く呑み込めなくても徐々にコツをつかんでどんどん食べていく。疲れが一気に出たのか毛布に包まって寝息を立て始める。
今思えば弟の様子はおかしかったのかもしれない。元気になったのではない。もうダメだって気付いたのかもしれない。
専門家でもない私たちで何とか出来るレベルを超えていた。私のせい。お前のせい。
オマエノセイ。
そう聞こえた気がした。
ただの幻聴dじぇrだ。木にsふぁwするふぁうぇf声rとはない。自分でも何を言っているのか分からない。バッグが落ちている。まさか漆原さんも死んだのだろうか。これからの世界に憧れながら潰れたんだろうか。ようやく声が出る。
「あ…あぁ…あ」
弟がいない。
私の手からすり抜けてどこかへ行ってしまった。消えてしまった。目の前のこいつが弟を潰したんだろうか。
……なんで?
なんでそんなことするの?
弟はあなたに何かしたの?
悪かった所があったならそうする前に私に行ってほしかった。
言葉が通じるとは思えない、そもそも生きているとも知れないこの物体。今までの人もこういうことだったんだろうか。やるせなさが心を支配する。再び物体が動き出す。張り付いた弟が目に焼き付く。
一瞬で消えた。
目の前から消えた。さっきまで近くで聞えていた声はどこからも聞こえてこない。こんな一瞬で亡くなるものなのか。
何の言葉も声もかけてあげられなかった。他の人もこんな感じだったんだろう。
次は私の番。
恐らくそうだろう。取り戻そうとして体がすくんだ。やっぱり怖い。どうしようもない私。そいつが動く度に体が仰け反る。そのままグングン昇っていく。
母と同じだ。
弟も母と同じ場所へ連れていかれる。宇宙という場所へ。そこは人間が死んだ後に行くところなのだろうか。弟の身に起きたことを冷静に整理しようとした。でもただ亡くなったとしか分からない。手の届かない場所で家族が待っている。小さい頃の様に手を伸ばしてもやっぱり届かない。いなくなった後をただ茫然と眺めていた。
私達がこうして森を歩いている間にもあいつは浮かんでいる。今は静かだけどもう少ししたらまた始まる。遠くの方で響いている。恐らく何人かそれか何十人かの方。その人達が亡くなったのだろう。音がする度に亡くなったと思い、私は今生きていると感じた。しばらくしてうとうとし始めた時、空が真っ暗になった。私の頭の上をあいつが通っていったのだ。そして少し行った所で直角に落ちていった。
目が覚めた。
脂汗が流れ出る。鼓動が速いまま収まらない。落ちていた袋で過呼吸を抑える。
死んだと思った。
これからもこんなことが続くのだろうか。気が付くと夜が明けていた。
直ぐにそんな時間は終わった。
一瞬の出来事だった。ゆっくりと辺りに衝撃と粉砕された破片が飛んでくる。目の前にあいつが落ちて来た。表面はザラザラで青白い色をしていた。潰れた衝撃で張り付いている人間がいた。こんなに人の顔を近くで見せつけられて焼き付いてしまう。もう見たくない。何処に目を向けても見たくないものが見えた。
そいつはじっと動かない。
ただそこにいたままになっている。いつ動き出すかも分からない。早く消えてくれ。ここからいなくなってくれ。目の前にそいつがいるのが耐えられなくてグッと目を瞑った。
もう一度明けた時には私は弟の手を放してしまっていた。
直ぐに何処にいるのか分からなくなった。私の目の届かないところに行ってしまったのか。自分が何をしていたかも思い出せない。また私の手からすり抜けていく。探そうとして振り返った時、案外直ぐに見つかった。
弟は潰れていた。
正確には弟のようなものが見えた。この亡骸は弟じゃない、弟は運よく逃げ出した。既に相当の重傷で最初からまともに動ける体ではなかった。
弟じゃない。それでも必死に隠して私に付いてきていた。
違う子供だ。亡骸を見て気付いた時にはもう遅かった。
弟じゃない。あの涙は辛さや寂しさではなく弱音を吐くまいとする強さの証だった。
弟じゃない。そこに気付かない愚かな姉と力を持たず逃げる術もなく死んだ弟。
弟を探そうとして喉を枯らす。空が晴れたおかげで私の叫ぶ声は辺り一面に響き渡り地平線の向こうまで届くほどだった。でもそれは地平線の向こうまで行っても弟はもういないことを示していた。本当は分かっていた。これだけ探して見つからないならもうそういうことだって。この亡骸が喋る事なんてない。何の恩返しも出来ずに先に逝かれてしまった。私が普段から良いお姉ちゃんをしていなかったから素直に言えなかったのだろうか。どれだけ考えても答えが出ることはない。
私は生まれる時代が間違っていたのだ。
もっと技術が進歩して普通に生きていける世の中になってから生まれてくればよかった。酷い悪臭で持ってきた食べ物も食えたものではなかった。弟の残骸を抱きしめながら無念を後悔して必死に言い訳している自分を取り繕った。私たちはこの雲に隠された世界で無知なまま過ごしていた。何もかも壊したくて思いつく限りの言葉を叫ぼうとしても声が出なかった。何も知らなかった私が悪いのだ。いつも父が口を酸っぱくして言っていた。普段から外のことに興味を持つべきだった。準備や覚悟をしていたかどうかで全然違う。宇宙には私が理解し得ない物体が潜んでいた。
もう嫌だ。
逃げ出そう。こんなのどうしようもない。何処に行ったって空を見ればそこにいる。あの物体は確かに佇んでいる。逃げられる場所はどこにもない。そういう場所で最後を迎えるのもいいかもしれない。気が付けばついさっき落ちてきた場所へ向かっていた。亡くなった方の体を踏むこともあった。自分の足がその人の腕の骨をへし折っている。小さい遺体を見る度に体が反応して仰け反ってしまう。
声が凍る。
あれからどれほど歩いただろうか。辺りは薄暗くなっている。明るいうちは良かったが肌寒さが一層増して肌身に突き刺さる。吐いた息が汚い白にすり替わる。辺りそこら中に穴が開いている。凹んでいる。あーあ、早く暖を取りたい。彼らから奪った服ではまだ寒い。違う、奪ったんじゃない。もう使わないだろうから借りただけだ。すぐ返すよ。もうすぐ私もそっちに行くから。親や身寄りを無くしてただ泣いている子供がいる。いや、よく見るとそこら中で溢れ返っている。子供だけ残して親はどうしようか。一人で生きていく能力がない生物が取り残されたら、それは同じ道を辿るということ。もう彼らも長くはないのだろう。悲壮の表情で鎮魂歌を歌う。辺りに響いたその歌は亡くなった親や友達を想ってだろうか。私も歌おうか。
でも誰に?何のために?
歌った所で弟は戻ってこない。せめて漆原さんでもいればこれからの指針も立ったというのに。膝が笑っている。足に力が入らない。武者震いと自分に言い訳してその場にへたり込む。グルグル……。お腹が鳴る。たった一日でこんなにお腹が空くものなのか。バッグの中に残された食料に手を付けようか。でもこれは…。これはもし、万が一、まだどこかで生きていたら、運良く生き残れていたら。そのためにも絶対に手を付けられない。これに手を付けたら私は堕ちる。何処までも落ちていくだろう。嫌なにおいがする。バッグを開いてみると、食べ物は既に腐っていた。一日しかたっていないと思っていたら、もう一週間近く歩いていた。その間私はずっと同じ場所をグルグル回っていた。ただずっと彷徨っていた。もしかしたら弟がまだ…そんなことを考えてしまって離れられなかった。でもようやくメドが付いた。もう弟はいないのだ。死んだ。
弟は死んだ。
目頭が熱くなる。
一週間かけてようやく事実を目の当たりにする。自分の呑み込みの悪さを実感した。これは悲しさだろうか、悔しさだろうか。自分でも分からない。声を出すのを嗚咽が拒む。気が付くと痛くなるほどお腹が空いてもう動くことは出来なかった。ここから後どれくらい行けば食べる物が待っているのか。辺りには何もない。
ある訳ない。
ぜーんぶ潰れた。
食い物も人も動物も。植物も何もかも。どれだけの無念がこの地上には渦巻いているのだろう。どれだけの人が逃げようとして潰されたのだろう。その瞬間にどれほどの恐怖や痛みが詰まっているのだろう。隣になんていようものなら目と鼻の先でそれを目撃する。自分にも液体を被ったりするだろう。そうして潰れていった人は数知れず。そうして消えていった人々も数知れず。
私はどこへ向かって歩けばいいのだろうか。
何処へ行けば生きていけるのだろうか。ここには今何もない。とても誰かが昨日まで生きていたとは思えない。昨日まではみんな笑っていた。恋をして毎日を忙しなく過ごしていた。息をしていた。
それがこうなった。
今のこの広場で何をすればいいのか。何をすれば生きていけるのか。立ち上がる気力も出てこない。明日にはこの景色もまた変わるのだろう。今度は此処にいることすら危険になる。あの物体が一日で何回落ちてきていると思っているのか。もう見えるだけでは何も思わなくなる。雲が晴れる前にはこんなことはなかったのに。こうして座っていると気付かない内に潰されたりするのだろうか。歩いている時とは違って座ると違った景色が広がる。多くの折り重なる人。埋まる人。潰れたであろう跡だけが残る場所。地平線の彼方こんな景色が広がる。どこでも同じ。雲があるのとないのとでなぜこんなに違うのか。ここから宇宙まではどれくらいの距離があるのだろうか。どれほどの場所からあいつはやってくるのか。今この世界で何が起こっているのか分からなかった。この地上でそれが分かる人がどれほど居るのか。明日どうして生きればいいか分からない。安息を求めて行く場所でも恐らくこの景色は変わらない。私が生きている間ずっとこれが続くのだろうか。一年後も十年後も同じ景色。他の事が変わってもこの景色とあいつは変わらない。毎日降ってくる。きっと十年後も。いつ当たるのか。当たる確率は少ないのだろうか。歩いていたらある日突然潰される。認識が薄れて来た頃に潰される。それまで築き上げてきたものを残して。その時は宇宙へ運ばれるのかもしれない。宇宙から見るこの世界はどんなものなのか。記憶は覚えることが出来なくてもこの体は見ることが出来るのか。白髪になりそうだ。パサパサの髪にガサガサの肌。腰砕けになって倒れこむ。地面と直に触れ合う。こんなもろい砂で大地は出来ている。私もこの砂へと還るのか。砂へと戻り大地を支える。
ここまでなのだろう。
私としては何かなせるものが出せたろうか。何か。失意と敗北感が体中を支配する。底なし沼に引きずり込まれているようだ。少しずつ暖かくなる。眠気が体を取り込んで、瞼を静かに下ろしていく。ここで見えるこの世界はどんな色をしているのか。少しだけ反抗して瞼を開けたままにしておく。
ふと一人の子供が目に入った。
立ちすくむ者。逃げ惑う子供。ほとんどは子供程の背の高さをしていてみんな同じだと思っていた。ぐちゃぐちゃになった人と心。潰されなくても目の前というのは心がダメになる。その子の周りは落ちてきた痕跡が見当たらなかった。焦点の合わない私の目を擦って良く見えるようにする。
鳥肌が立った。
唯一、たった一人逃げずにずっと留まっていた。体が動かなくなっていると思った。私と同じと思っていた。私と同じようになっていくと思っていた。
だがそれは違った。
ただの一つも合っていなかった。
その子はそこを動かずひたすらそいつを見つめていた。その目で捉えて離さなかった。体がこわばって動かせなかった。
恐怖した。
食われる、殺されると思った。それが私の彼女への第一印象だった。でもそれはあまり間違っていないのかもしれない。彼女はあの物体を、あいつを殺すつもりなのかもしれない。そうかもしれない。
いや、そうであってほしいと願った。
それは私には届かない思想、発想。今の此処にいる人の希望が彼女を見せているのかもしれない。でもなんど確認してもこれは本当の事だった。彼女は実在している。私たちの前で毅然とした態度であいつと向かい合っている。偶然町で出会ったアイドルにサインを求めるファンの様に私は自分の体を揺り起こした。今までより自然と力が出ていた。意識しなくても動き始めていた。今の私に出来ること。しておきたいこと。後であれこれ考えたくない。そうして体をあの子に向かって一気に動かす。
雲が明けた先をただじっと見つめている彼女を、突き飛ばす。
その子の顔を確認する間もなく
すぐそばであいつが落ちてきた。やはりためらいはなく。躊躇なく。急いで良かった。出来て良かった。彼女を必要としている人はこれから増えるだろう。
その日のためにも。
回想
ルカ視点↓
何処にいても見られる。
私が何処にいてもどこまで逃げてもあいつには見えているのだ。隠れる意味も必要もない。
私は息を整えようとして走るのが段々遅くなる。足も重たくなっている。次第に歩きに変わってその内立ち止まる。膝に手をついて肩で息をする。
「ッ……ハァハァ」
中々息が整わない。それどころか酸欠が段々酷くなってきてその場に膝から崩れ落ちた。頬から伝う地面がひんやりしていて気持ちいい。
「ハァハァ……」
整わない息を気にしつつも寝返りを打つ。そこに何があるのか分かっていても見るしかなかった。
あの物体。
名前も素顔も分からない奴に私は翻弄されている。あいつが何なのか一つでも分かれば大分違ってくると思うのだけど。額を腕で覆う。熱いわけじゃない。これは心理的なものだ。自分を隠したいと思うのに似ている。隠れたって隠したってどうにもならない。私が転がっているこの地面。あの物体。
大丈夫だ。
いつも通りやればいい。
私は這いつくばった状態から体を引きずってここまでやって来た。こんないい場所があるとは思わなかった。さっさと立って来いと思うけどひんやりした地面が気持ちよかった。
いつか死ぬ。分かりきっていたことだ。その怖さから一足先に逃れられる。冷たくて気持ちいい。
私が今いるのは鉄で出来た牢。此処になぜかあった。広すぎず狭すぎず私の体に丁度いいくらいの広さ。その中に体を投げ入れる。でも正直顔を上げるまでは気付かなかった。
鉄格子の間からその物体が見えている。
「綺麗……」
煌々と輝いていた。あいつにどれほど悩まされたか、そしてこれからどれほど悩んでいくのか。憂いを帯びた私の顔とは大違い。鉄は地面よりもひんやりしているが直ぐに温まるので顔をずらす。
何処へ逃げても意味はない。意味はなかったんだ。顔を半分だけ上げてみる。すごい場所だ。なぜこんなところにこんなものがあるのか分からない。
「私の言葉をどうとらえるかは受け取り手次第だ」
リーダーはそう言った。間違いではない。ただ私のやり方と若干違うだけで。口論や言い争いは決して悪いことじゃない。お互いの考えを発展させられる。
「絶対に最後まで生き残る」
私が言い返すのもそう言う理由がある。こうやってじっとしていると色んなことを思い出す。掘り起こしたくないものも出てくる。
三人が私の目の前に立っていく。痛みも辛さからも解放された、救われたような顔。三人は手を繋いで私の方を見ている。
「姉ちゃんが僕を殺した」
「ルカが私を見捨てた」
「ルカはどこかへ行ってしまった」
その表情は喜怒哀楽を次々と表現していく。奥にはあの時のシチューが置いてある。美味しそうな匂いが私の元に届く。ずっと暗いままだったので今までよりも敏感になっている。三人の匂いを押しのけて私の中に入って来る。お腹が空いてきて誰が誰なのか区別が付かない。
「いいんだよ、ずっとそこにいれば」
「私たちを助けなかった」
「お前だけ、ルカだけどうして生き残ったの?」
「ルカは優しい」
「私たちと一緒が嫌なの?」
悪魔を目の前にしたような表情で母が喋る。三人とも同じ気持ちで違う表情。優しい事を真顔で言う弟。きついことを泣きながら言う父。シチューは父に蹴飛ばされてひっくり返っていた。
「何か違うものが見えていたりしないか」
リーダーに付いて私は頑張れると思った。頑張らなきゃいけないと思った。落ち込んでいる暇なんかない。引き締まった表情とたるんだ私。耳に痛い言葉を自分で自分に語り掛ける。
「これからも生きていかなくちゃいけない」
それが私にとっては重荷になっていた。生きている内は全てをこなしていかなければならない。一つ狂うと私の様になる。思い出したくなくて何もかも我慢する。
「……ルカ?」
私の目の前に再び死んだはずの家族が現れる。そして私に丁寧にお辞儀をしている。鼻しかまともに利くものがない私にこんな幻想が見える。これはこの世界で一人になった私への罰なのか。弟も母の真似をしている。
「ありがとうルカ、見捨ててくれて」
「おかげで昔から行ってみたかった雲の向こう側に行けたわ」
「本当にルカがいなきゃ死ぬこともなかったな」
みんないい笑顔。口の奥の歯には血が混じっている。爪の間にも血が混じっている。いつものみんなの匂いじゃない。血液の混じったきつめの匂い。どんどん体から血が溢れてくる。
「宇宙って凄いね。お姉ちゃんのお陰で僕はここにいるよ」
その見た目とは裏腹にはっきりと喋る。こんなにも自分の気持ちを表現できる。これは私が作りだした幻想なのか、そうじゃないのか。そんな区別もつかなくなってくる。
「ルカ」
頭を両側から強く抑えられるみたいでうずくまる。これが私の名前なのか。言葉の意味が崩れていく。血の匂いしかしないからその内に鼻がダメになる。
「ルカ」
耳を塞ぐ。底冷えする寒さで手には感覚がない。口だけを開けて呼吸をする。すると母が私の耳元に口を近づける。
「……やめて。それ以上言わないで」
何かを言われるのを恐れて体を抱える。私と母は近い。こんなにも直ぐ近くにいるのに。あんなにも会いたいと思っていたのに。
「みんな感謝してるわよ」
「……お母さん」
母の目は優しい。可愛い弟は昔のままだ。父もまだ若い。みんな私を見ている口をそろえて話しかける。
「ありがとうルカ。殺してくれて」
「グアッ!」
突然後ろから誰かに抱きつけられる。強い力で押さえつけられて骨が折れそうだ。恐らく殺されている。体中に血が滲む。嗅いだことのある臭い。振り返る。
「ルカ?元気にしてた?」
血まみれの班長が満面の笑みを浮かべていた。ああそうか、見捨てたみんなへの罰。足元が緩くなる。次第に体が飲み込まれていく。自分の体が熱い。お風呂に入っているみたいだ。温もりが広がる。痛みはなくなっている。班長が私の首筋に噛みついている。首の下まで沈んだ時、三人の足元が見えた。それぞれ色も大きさも違う。
「せーの」
でもタイミングは一緒。みんなでわたしの顔を踏みつけてくる。私はその勢いで沈んでいく。鼻は潰れていて目も見えない。耳は班長に塞がれている。次第に息が出来なくなってそのまま沈む。もう帰ってこなくていい。
父親
ルカ視点↓
我に返る。
全身に汗を掻いている。さっきと違って辺りには誰もいない。鼻もちゃんと利く。自分の匂いを嗅いで確かめる。
「?」
口の中が切れて血の味が舌に広がる。内側から血の匂いが抜けていく。吐き気を催すような匂い。
きっといつか報われる。
誰に言われたわけでもない楽がしたいがための思い込み。私たちが安心して生きていける世界がやってくる。一種の信仰みたいなものだ。信じていないと動けない。目の前で潰れた人達。彼らの大半はそのまま宇宙へ行く。死後を宇宙という世界で過ごす。
「………………」
空は死んだ人が逝く場所。
これは思い込みじゃない。この目で見た。でも私の方がよっぽど死んだような顔をしている。死人が死人に話しかけていたようなものだった。
今こうして生きているのがもう不思議。
なぜ今まで怖さを感じなかったのか。感じることが出来なかったから今こうなっている。誰一人として私の中に残らない。これから起こることが見えてなかった。
「…………宇宙」
そこにみんないる。死んだ人間がここからあそこへ運ばれる。それこそが宇宙。そこには何がいるのか。私たちのこの世界から一歩出ればそこは死の世界。あの雲の先は死んだ人が運ばれる死後の世界。そこにみんな送られていく。ここにいる人は潰されるのを待っている。生きようともしない。死んだら向こうへ運ばれる。雲の向こうはそういう世界。運ばれたら最後。生きていようが死ぬ。もう二度と戻ってこない。戻って来た人はいない。
色んな人を見てきた。飛び交う破片。誰かの叫び声。死にたくない人間の悲痛な叫び。悟った人間が自分の考えを披露している。うずくまって言い訳ばかり呟いている人。何が起こっているのか呑み込めていない者。そんな人を叱咤激励して目を覚ます人。私は格子の隅でうずくまっていた。
もう嫌だ。
体が動かない。何処にも行きたくない。自分の匂いがどんなものなのか、自分でもよく分かる。こんなになるまで体を動かさなかった。鼻が利くから余計にきつい。私の耳には潰れた音が鉄と共鳴して響く。耳鳴りのような頭に響く音。視界には虫の死骸と鉄製の冷えた床。お尻から冷たさが全身をめぐる。私の体温は次第に下がっていく。これが脳まで届くとどうなるか分からない。自分がどうなっていくのかの分別が付かなくなる。ずっと暗い。暗いまま。
安息の地を求めてひたすら旅をしたあの日々は一体何だったのだろうか。もう見たくない。外にいるとあの物体に見られているような気がして耐えられない。手の震えを抑えようとしてももう一方の手も震えが止まらない。指を見た時にいつぞやかに爪の間の汚れを取ったことがあった。今もまだ爪は汚いまま。誰かが取ってくれるわけでもないし、自分で取ろうと思えない。
私が弟を殺したのだ。
この手で。この指で。この爪の間にはそういうものが挟まっているのだ。弟の泣き叫ぶ声が聞こえる。父の嘆く声が響く。母が痛みを堪える顔が思い浮かぶ。それらを私の中でなかったことにしてきた。関係ないみたいに思ってきた。もしかしたらウザいとか思っていたのかもしれない。
体が臭い。
足にカビでも生えているみたいだ。もう何日もお風呂に入っていない。私にお迎えはいつ来るのだろうか。もうここでしか生きられない。床に穴が開きそうだ。
ザッザッ…。
誰かの足音が響く。人がやって来た。
怖い。
知らない人が私の牢に入る。何を言われるんだろうか。見たくない。どこかへ行ってくれ。
私が返事をためらっていると、どんどん近づいてくる。中々咄嗟には声が出ないものだ。まるで居るのを分かっていると言わんばかりにその鍵は開け放たれた。咄嗟に目を瞑る。でもその人は何も言わない。そこには見覚えのある人が立っていた。
「久しぶり」
その声の主を忘れるはずもない。恐らく私の中ではそれなりに占めている人だ。恐る恐る目を開ける。
この世界での数時間というのはとても長い。人に比べて犬や猫は平均寿命が短いのと同じでここにいる人たちも短くなる。というか私も結局はその一人なんだが。どれだけ考えても意味がない。私はこの世界にいてただ死を待つのみ。それだけは変わらない。だから私が良い考えを浮かんだとしても、その力はないのだ。実行する前に潰されてしまう。そもそもここでやる気を見せる方がおかしい。どうせすぐに潰れるのは分かっているのになぜみんな頑張ろうとするのだ。頑張った先に何が待っているというのか。潰されるだけじゃないか。今まで何人がそうなってきたのだ。阿保らしくなる。そうなって私の前からいなくなったというのか。
その間にどれほどの範囲が潰れたのか。もう地上にはそもそも人があまり残っていないかもしれない。
ブーツを履いている時の様な深い足音がする。リーダーはもう来ないはずだからそうじゃない誰か。雪が降り積もっている。この鉄の柵にも雪が付いている。握ると体温で溶け始めてそのうち消える。水は私の袖口に吸われる。
そもそも人間かどうかもわからない。聞き間違えることもよくある。
その人は背の高く、コートを羽織っていた。
「見覚えがないとは言わせないぞ」
「…………は?」
「ルカもしばらく見ない間に随分大きくなったな」
「いや、そんなに変わらないか。父さんの思い出の中で勝手に美化されてただけだ」
忘れるわけがない。忘れるはずもない。今度鉄格子の前に立ったのは、リーダーではなく父だった。あの日から白髪が増えている。何日という時間は人間を一気に老けさせる。正直、服装が違ったら分からない。
「久しぶりだな、ルカ」
「……お父さん」
「まさかこんなとこにルカがいるとは」
「また何かやらかしたのか?」
「それとも自分から入ったのか?」
「……何?」
「相変わらず食えない奴だな」
「……お父さんには言われたくないよ」
「まあ、ルカはお母さん譲りなとこもあるからな。そういう部分も残るのか」
「お父さんも結構そういう部分あると思うけど」
「確かに父さんには敵わないだろうな」
「敵わなくていいよ。……それよりどうしたの?」
「お父さんこそこういう所には来ないと思ったんだけど」
「普段は来ないさ。ただ、お前がいるって聞いたからな」
「誰から?」
「柳崎さんからだ」
「柳崎……?」
「さっきお前の所に来ていた人だよ。あの女の人、ルカは見覚えないのか?」
「リーダーって柳崎って言うんだ。知らなかった……」
今まで結構一緒にいて知る機会がなかった。というかずっとリーダーって呼んでいたから名前を知らないことで都合が悪くなることも無かった。でもあの集団の中でリーダーが柳崎という名前で呼ばれているのを聞いたことがない。漆原さんでもリーダーって呼んでいたし。もしかしたらあの集団、誰もリーダーの名前を知らなかったのか。だとしたら名前も知らない人たちを集団生活をしていたのか。
「ルカは柳崎さんと知り合いなのか?」
「うん。……お世話になったから」
「そうか、あの人になら安心だ」
「お父さんはリーダーを信頼してるんだね」
「ルカほどじゃない」
「え?」
さも当たり前のことの様に言ってくる父。今の私のどこからそんな事が分かるのか。まあでも持ってきてもらった服や食べ物を見るだけでも分かるか。
「それよりこの中に入って何か分かったのか?」
「別に……何も」
「ルカは無駄な行動を取るような人ではないと思ったんだが」
「本当に何もないって」
「…………」
この17年いろんなことでお世話になった、育ててもらったその人。私の父親。傷ついている大きな手で柵に触れる。
「牢というのは本当に冷たいものだな」
「触ると手に跡が残るよ」
「父さんの手は既に汚いから関係ない」
「汚いくらいがちょうどいい」
「そう」
「…………煙草臭い」
「最近吸い始めたんだ。旨いぞ」
「そんなこと言わないで。お父さんは変わったの?」
「変わったところもあればそうじゃない部分もある」
喋るときに吐いた息は白くなってすぐ消える。父の息は煙草臭くなっていた。今まで一度も吸ったことなかったのに。喋る度に煙草が鼻に付く。
「お前の恰好……汚いな」
「これでも着替えたんだよ。それで格好も……」
「そういう問題じゃない。ルカは腐ってる」
「……やっぱり言うの?」
「柳崎さんにも言われたんだろ。あの人そういうの見極めるのは早いからな」
「あの人にそう言われたんならそう言う事だ。」
父。
久しぶりに見る。
変わった。
私の目にはだいぶ映っていなかった。でも何年も前のことじゃない。あの日以来。私に聞こえやすいように体を屈めて話しかける。そこら辺はリーダーと同じ。
「やっぱりリーダーの所を離れたのは間違いだったってことかな……」
「間違いだって言うんならそれは昔のお前の判断が甘かったってことかな」
「判断……」
「全部甘かったんだよ、きっと」
「だから今こうして腐ってきている」
「まあ、父さんはルカが生きているだけで十分だがな」
色んな思いが込み上げてくる。言いたいこともたくさんあるけどでもやっぱり嬉しい。そんな父に私は声を掛ける。
「お父さん…………でも、もう決めたんだ」
「?」
父の疑問を浮かべたままの表情が残る。でも父は最後まで聞こうとしている。少し離れていただけなのに二人の距離は縮まらなくなっている。そしてかねてから頭の隅に転がっていた想いを口にする。
「私ね、宇宙に行くことにするよ」
「…………ルカ」
宇宙。
口に出したのは久しぶりかもしれない。あの場所へ自分から行こうという判断。こんなことを言っているのはこの地上では二人目かもしれない。私の中に芽生える思いは結局これしかなかった。
「寂しいんだ。母さんや弟がいなくなって」
「でも宇宙という所に行けばもう一度会えるかもしれない」
「それに宇宙へ行くという判断を私は自分でしたい」
「誰かに言われたからじゃなく自分自身の為に」
口に出すと実に浅はかな考えだと言う事が分かる。顔を上げることが出来ない。
「宇宙に行っても母さんはいないぞ」
目の前にあった父の表情は硬い。バカげたことを自分の娘が言い出したのだから仕方ない。コートのポケットに手を突っ込んだまま白い息を吐く。煙草の匂いは残ったまま。死んだ目をしていながら私からは目線を外さない。
「今のルカが何にすがっているのかは知らんが一つだけ言っておく」
「そんな場所に行ったって母さんはいない」
「もちろん弟もいない」
「二人とも、もう何処にもいないんだよ」
「…………」
「そんなことばかりほざいているから何時まで経っても出られないんだろ」
「弟が見たらどう思う?」
「多分、見損なうだろうな」
「……………」
「……ルカ、お前と会うことはこれが最後かもしれない。だから今の内に言っておく」
「……何ですか」
私の中に詰まった思いはぐちゃぐちゃになって嫌になる。言葉になんか上手くできない。でもしなきゃ自分の思いを上手く相手に伝えられない。
「俺に言いたいことがあるならはっきり言え」
「……………」
「…………クソ」
「帰って下さい、クソ親父」
「母を助けなくて今さら何をほざいてるんですか」
「あなたはあの時何をしていたんですか?」
「その翼は飾りですか?」
「こんな私を見たら弟は笑うかもしれませんね」
「でもそれでもいいんですよ。あの場から逃げ出したあなたよりマシです」
「もう二度、私の前に現れないで下さい」
息継ぎをするのを忘れて呼吸が苦しくなる。過呼吸にならない程度に息を整える。これで少しは胸のしこりが取れた。
「「…………」」
「……そうだな」
「ルカが今言ったことは正しい。だが一つだけ違う所がある」
「…………」
「俺はあの日逃げ出していない」
「?」
言い訳にしか聞こえない。まだ何か言うのか。またもやもやが出てくる。
「あの時俺は潰れていたんだよ」
「…………は?」
消えると思っていたもやもやはそれどころか増える一方だった。それでも父は言葉を続ける。
「俺は瓦礫に潰されてもはや時間の問題だった」
「けどそこに天使が舞い降りた」
「俺は目を疑ったよ」
「俺にとっての天使は母さんだった」
「でも、お母さんはあの時もう……」
「人の力の底知れなさを痛感したよ。俺と同じ様に潰れていたはずなのに」
「動くのが難しいはずなのに…………」
「あなたの声が聞えたから」
「どうしてかしら、体が動いちゃって」
「そんな声出さないで頂戴。ルカ達に聞かれたら恥ずかしいですよ」
「今引っ張り出しますからね、待ってて下さいね」
「あの時の母さんは天使に見えたよ」
「…………」
「母さんには感謝してもしきれない」
「でも長くはなかった」
「あなた、そんな顔しないで下さい」
「ちょっとの間、離れるだけですから」
「あなたの研究はこの日のためにやって来たんじゃない」
「まだまだ、こっちでやる事があるんでしょ?」
「そして母さんを見届けた」
「亡くなった瞬間に一気に重さが伝わったよ」
「俺は母さんと出会って本当に良かったと思っている」
「ルカ達が生まれてきたことも良かったと思っているよ」
色々言って父はすっきりしたのかもしれない。ああ、そうだったのか。
「だから俺はお前たちを探して家を離れた」
「そして潰れかけていたお前を見つけた」
あの時の事だ。やはりあれは父だったのか。
「結果として俺は母さんと弟を見捨ててしまった」
「でもお前だけでも生きてくれていて、父さんは正直安心してる」
「お父さん……」
「ルカ、お父さんは別にやる事がある」
父はそう淡々と語った。昨日食べた物を話しているだけの様に。言葉に感情を込めるわけでもない。私に最低限聞こえる声で話していただけだった。
その言葉は私の心底冷えた体を一層冷たくした。私がいかに独りよがりだったか、周りが見えていなかったのか。今まで私に関わった多くの人がいる。自分の事しか考えていなかった。私がしたことでその人達がどう思うか分かっていなかった。知らないフリしていた。それで良いと思っていたのだろう。
でもちゃんと受け止めたい。言い訳したくない。終わった時に後悔したくない。ちゃんと言おう。今の自分がやりたいことを。
漆原
ルカ視点↓
彼にしかできない――。その言葉は重くて彼女にしか言えない言葉だった。そして漆原さん
に対してかなりの信頼があるということだ。普段私たちの前では仕事の話ばかりで仲が良
いというイメージはあまりなかったけど。……そういえば前にご飯食べた時に彼、結構見ていたかも。
コンコン…。
部屋の空気がピリピリしている。彼は以前より眉間のシワが増している。私を睨み付けている。
「何かね……」
低く静かにそう呟く。彼にとっては集団の人間とのコミュニケーションなんてもうどうでも良かった。私の身振り手振りの後、彼は顔の前で手を組んだ後、動かなくなった。少し項垂れる彼。外からの光が差し込む。
彼はもはや鬼だった。
「相変わらずですね……少しは集団の人と話したらどうなんですか?」
「ルカには関係ない。それより何か用があるのか?」
「リーダーが抜けてから変わりましたね」
「表に出していなかっただけで昔からこうだ。それにあの人がいなくなった穴を私が埋めねばならない」
「こういうことになっているんです。集団を動かしてください」
私は手元の資料を元に彼の前まで詰め寄る。それでも彼は書類から目を離さない。目を通した書類にサインや判子を押している。書類の束は山積みなっていて今日中に終わりそうにない。
「確かにお前の話は聞き捨てならない」
彼は突然話し始めた。顔を上げるわけでもなくそのままの状態で続ける。判子を押す位置もずれていない。
「だが状況証拠しかない以上、私は集団を動かすことは出来ない」
「私の立場も理解してくれ。それだけでは今後に支障をきたす」
「あなたの言葉が必要なんです」
彼の手が止まる。押し続けていた判子も位置がずれている。特に表情を変えるわけでもなく私の方に顔を向ける。しばらくお風呂にも入れていないのだろう。整えてはいてもボサボサの髪が光に当たって目に入る。
「ルカ」
「何ですか?」
「お前の意見は聞いた。その代わりに私の話も聞いてほしい」
「いいですよ、話して下さい」
「進化」
「それが、それだけは私の目標であり、やらなければならないこと」
だが、誰がどうしても、どんな進化を遂げようとしても結局は潰される。行為の最中に潰さ
れる者もいる。その瞬間に命が失われる。これから生まれるための準備を始めようとした矢先に、いきなり潰されたのだ。
「だから人間はのんびり進化している暇などない。早急に発展していかなければ間に合わない」
「そのために彼女の力は必要だった」
「そのために女王に近づいたんですか?」
「彼女の前向きな姿勢には感服した。この志の先に必要な進化が待っていると思ったんだ」
「必要?」
「それは宇宙への進化だ」
「あの環境に適応した人間がいなければもうどうにもならない」
宇宙への移行。もうそれしか方法がなかった。追い詰められた人類は宇宙へと進出する。その進化の可能性を持った者がルカだった。他の誰でもない彼女だけがまだ進化していないのが何よりの証拠だった。背中に翼を生やし、空へと飛び立った。燃え尽きる者も数多くいる。その中で飛び出せた者。新たな世界への挑戦。
「そこへ行くためには一つ一つ達成していかなければならない」
「たとえどんな場合でも人は生きていく」
これで人類は滅ばない。
生きていくために完全に成熟していなくても体外へ出て一人で立つことが出来る。受精後、数時間で細胞分裂が完了する。宇宙へ行くために背中の骨を鳥のそれに類似した形状に変形させた。実際に飛ぶために不要な筋肉は削ぎ落した。
卵。
赤ちゃんを胎児として母親の体の中で育てる方法は個体の生存率を上げることが出来るが、この世界では一分でも長く多くの人類が生きていく必要に迫られており、長く生き残るよりも数を残す必要があると判断した。
意識。
どんな環境に置いても平静を保つ訓練。
水陸両用。
一分でも生き延びるため、生きていける環境を少しでも増やすための苦肉の策。
「なんでもする、その姿勢がこれからの人類にたりないものだ」
生きていくためなら何でもすると決めた人類。強烈な決意の元に変異する為の時間までも短縮させた。異常なまでの生への執着。あくまでこれが本能であり全人類の希望。我らが生きる意味。
へこたれない。絶滅しない。その精神だけで神が啓示を下さった日、神託の御子が生まれたのだ。我ら人類はどんな事が起ころうとも滅ぶことはない。確かにそれは今すぐに達成することは難しいだろう。だがどれほどの時間を掛けようと、途方もない時間を無駄にしようともそれでも生きていく。
宇宙への適応。
宇宙空間上で一度も呼吸をしない。地上の空気を肺の中で凝縮してそのまま宇宙へ持って行く。酸素が足りなくなると一緒に行った奴から口移しで酸素を貰う。多少の犠牲を通してもここで生きていく。
「ルカ……これが私の頭にある物だ。理解しなくてもいいがとどめておいてくれ」
「漆原さん……」
名前で呼ばれるのはいつ以来だろうか。少なくとも漆原さんがこうなってからは一度もない。はっきりと言葉で否定してくるわけではなかった。だが頭を左右に振って出来ないことをアピールした。そして再び書類に目を通す。
「本当に出来ないんですか?」
「私を疑うのか?」
「それで本当にいいんですか?」
「精神論ならいくらでも言えるぞ。何が言いたいんだ」
彼は真っ直ぐ向いてそう答える。
彼が選んだやり方では今の私とは違っていたと言うことか。
「失礼しました」
それでも忙しい中時間を作ってくれた彼に感謝はしていた。扉を閉める時も音を立てずに出ていく。そうしてドアノブを掴もうとした時、カーテンを閉める彼がいた。振り返った先にはさっきとは違う表情の漆原さんが立っていた。
どうやったらあそこまでまっすぐな目が出来るのだろう。もう彼に話せることはなかった。
彼はおもむろにピンバッジを外す。
「集団は動かせないが私個人としてなら出来ることはある」
「漆原さん……」
それは彼にとって判断のしづらいものであるのは違いない。お願いした私が言うのもなんだが。
「よろしくお願いします」
イカロス
ルカ視点↓
「私は死んだことにして、家族に申し訳ないから」
本音。
私じゃない。
ただそれだけが頭の中で響いた。
みんな必死で頑張ってたんだと思う。私は働いたりしたことなんかなかったけど、それでも知るようにはしてた。自分から行けなかっただけ。
自分じゃない。
輝いてた。
彼らはずっと輝いて、私なんかよりもずっとずっと輝いて見えた。
「みんな違うんだから」
その通りだ。
同じになる必要なんかない。
でも悔しい。どこかにチャンスがあったのなら、なんで気付かなかったんだろう。私がこうしている間にも生き残っている人は頑張っているのだろうか。明日何しようかとか、どうやって生きていこうとか…。
私じゃない。
みんな知っている。努力の差も、私と彼ら彼女らの違いも。それは才能?その二文字なんかで片づけていいの?
みんな努力してたんだ。
そうだ、きっとそうに違いない。その先に行ける。きっと私も。
何で違うの?
私だって頑張ったよ?頑張れって言うから、他のやり方を知らないから。生きたいさ、生きていたいさ。生きて普通の人生をちゃんと歩みたいさ。
頑張ってみたさ。他の人に文句言われないくらいはやったよ?そんな行ってくるくらいは触ったよ。触っただけで深くは行かなかったのかもだけど。
生きたい。
こんなところで終わりたくない。
生きてやる、生きて生き抜いてやる。みんな潰れちゃったんだもん。仕方ないじゃん。あんなになったんだよ、班長も。
みんな、そう。
みんなあれに潰されて一緒になる。
だから私もそこへ行く。
天に召される。
くだらない。
こんなのはもっとだ。
「逃げろ!!そっちの方へ来るぞ!!」
遠くで声が聞こえる。新しく指揮をしている謎のおっさん。班長の代わりにどこからともなくやってきた禿のジジイ。意味わかんねーし、どこへ逃げるっていうんですか。
死ぬのが数分ずれるだけでしょ。
バカバカしい、寝よ。
「____ルカ」
私の名前。
別に呼ばれたくもない。でも自分の事だから、唯一嫌いでも自分のものだから、私は返事をする。
「__はい?」
そこにいたのはさっきのおっさんじゃなかった。
「つまらなくないの?そこにずっといるの」
「そんな誰も聞いてない思いを抱え込んで、どうするつもり」
生意気。
私と大して変わらないような奴。多分、女。髪が短くて、背はリーダーよりも高くて、物怖じしないその喋り方は誰かさんに似てて。
「私はね、そういう所が嫌い。もっと日に当たっていたい☆」
「もっと色んな所へ行って色んなものが見てみたい、あなたもそう思わない?」
「ねえ、どうしてるの?どうしてそんなところにいるの?」
「…………違う」
私とこの人は違う。
確かに同じ種類だけど、二足歩行で同じような顔をしているけど、確かに違う。
彼女は私にはまぶし過ぎる。
私の目には彼女をとらえられない。
とても速く動いて、どこへ行くにも全て明るくて、みんなを思わず動かす、多分そんな感じ、だと思う。
「どうしてそんなつまらなくても平気なの?寂しくないの?」
「翼をつければ、あなたも飛べる」
入って来る。
私には分からない。
「もっと遠くまで、あんな物体なんか見えなくなるくらい」
喋らないでほしい。
私を一人に___。
「そんな世界へ行きたくないの?」
イカロス視点↓
また言った。
同じ言葉。いつだって最後はこう。色々言うつもりでも心までは届いてない。くだらない押し問答の先には何もない。
「イカロス、どうだったんだ?」
「ダメだった…………漆原さん、その時計」
「ああ、壊れてたからな」
時間。
時計でしか分からない、人間が勝手に決めた物。私にはくだらない。
「こんなものを見なければ、今自分がこの世界でどれだけ過ごしているのか分からない」
「ルカの時計は壊れたままにしてあったな…」
「あの子……」
ルカ視点↓
世界。
行きたい。
行ってみたい。
みるだけじゃない、あこがれるだけじゃない、確かにそこにあるってことを知りたい。あんなのに潰されて終わりだなんて絶対にいや。
こんなジメジメしたところで終わりたくない、潰れたくない。
班長みたいには__。
「…………」
確かにそう、そうだけど。
あの日、お父さんが潰れた。
あっという間で、目に焼き付いて離れなかった。しがみ付いた弟の熱が伝わってきていた。決して寒くない、あの日。
私は人の生きて良い場所とそうでない場所とを知った。
「お父さん……?」
ぐしゃぐしゃになった父はそのままその物体に張り付いて宇宙まで連れて行かれる。
とても弟に見せて良いものではなかった。
見たいものでもなかった。昨日まで一緒に食事をしていた人が、何の悪いことをしたわけでも無かったろうに。
潰される。
でもそれは私たちの頭の上にあるから当然。何の支えもなく浮かんでいるんだから、落ちてきて当然。おかしくない。
あの日、逃げた。
転んでもただ、弟を離さない様にと、逃げた。
私の知らない世界。
知っていたら……生まれてこなかった。だからって産んでもらったことにどうこういうつもりはない。ただ、知らなかっただけ。
途方もない大きさの物体が浮いている。
大きさは数百mくらい。見上げてなんとなくそう思った。あまり光らずに震えてる。次に誰を潰そうか、そんな事でも思っているのか。
翼があって、何処まで逃げれるっていうのか。
父の作った物だけで、何処まで頑張ろうというのか、人間は。
私は犠牲になる道なんか自分からは選びたくない。でもじゃあ選んじゃった人は?選ばされた人は?もうその景色を見れないんだよ?
せいぜい肉塊になって宇宙を漂うくらい。
その一片。
その一片に班長達も。
「…………」
でもなんで?
望んだから?
行きたいと、違う世界へのあこがれが強すぎたから?その見せしめとして死んだの?じゃあ私たちは今何をしてるの?
「ルカ____それは違うよ」
「確かに彼らは世界を望んだ。そんなのになりたくないってのもあったと思う。でもそれより、それ以上にそうしなきゃいけないって感じたんだと思う」
「じゃあ……あなたも?」
希望を見せる。
光を見せて、でもそれだけじゃなくてそれを自分でも確かに実践して。
「ルカみたいな子は今までも沢山いたよ、それこそ沢山」
「でも救い出せたのはほんの一握りだった。___みんな私より優しかった」
「むしろ私の心配をして、自分の事を置き去りにして」
「だから死んだ、私が殺したも同然」
「ルカは__どうなの?」
「もう時間ないよ?」
すごい。
でもだからこっちに来ないでほしい。
潰れたんだ、だから私も潰れる。それでいい。
「……おい」
顎を持ち上げられた。
正確には彼女の翼の先で私の顎を持ち上げていた。
「お前はそんなこと言っている場合なのか?下を向いている時間なんかないんだ」
「そんなのは死んでからでいい」
「私の仲間も何人も死んだ。もちろん救えなかった命もある」
「前を向け」
「もうこれ以上、私の目の黒いうちは誰も死なせない」
「あんな存在に……私の仲間は殺させない」
「私を信じてくれ」
「お前の分だ、壊れているんだろう?」
そう言ってさっきの人は真新しい時計を私に差し出す。裏に調査団の翼が彫り込まれていた。
「ありがとうございます……あの」
「……イカロスだ、行くぞ」
「…はい」
「もし星なんてない、星という概念が存在しなかったら、あの空にあるものは一体何なんだろう」
星という概念が存在しない
宇宙には多くの謎がある。
そしてそれが沢山の人々の好奇心をそそり、宇宙というものを解明してきた。
その中でも、月という存在は比較的身近なものとして知られている。古くから月というのは信仰の対象として崇められ、子供に読み聞かせする絵本にも登場する。何もない真っ暗な夜空に煌々と輝くその姿は、ある種の神秘的なものを感じるのだろう。
星という概念が存在しない。
引力も暗黒物質もそもそも星というものすらない。
そもそも宇宙というものは一体何なのだろう?
私たちは一体今まで何を見てきたのだろう?
星という概念が存在しない。
私たちが今まで月だと思っていたxという存在は思ったよりも小さかった。
でも私は教科書でしか見たことなかったから、それが正しいかどうか分からなかった。何の躊躇もなく私達が住んでいる場所の頭の上に降ってきた。
数百メートルくらいの鉄の塊に見えた。
引力なんてものがあると思っていて、それはあの鉄の塊にも通用すると思っていたけどなんか違った。まるで何か別の生き物の様に、ゴムのボールの様にこの地上を跳ね回っていた。
もし星という概念が存在しなかったら、俺たちは今、何の上に立っているのだろうか?
星という概念は存在しない。
宇宙の写真が正しくなかったら
星という概念は存在しない。
そもそも宇宙というものが我々の思っているものとは違っていたら
星という概念は存在しない。
xというものを考える
星という概念は存在しない。
xというものが空に浮かんでいる。
星という概念は存在しない。
そのxという物体は夜になると空に出てくる。
あまり光らない為、空をよく見ないと見つけられない。色は白のような灰色のような色をしている。毎晩必ず真ん丸の姿で出てくる。それまでは月と呼ばれる天体が出ていたが、ある晩から突然そのxという物体に変わった。
昼間は地上で横になっており、夜になると空に上がる。
星という概念は存在しない。
夜になると人間は建物の中に隠れる。目が合ったものに近づいてくる。
星という概念は存在しない。
太陽系の惑星全てがこのxに置き換わっていた。
星という概念は存在しない。
それぞれの星の名前を使用している。←それを星の名前だと思わなくなる。
クレーターが少ない。
漆原「なんでもいいから、生きるんだ」
夜。
ルカ「死にたくない………死にたくないよ」
女王「…中へ入ろう…ここじゃあれが見える……潰れた人を見てあげるのも良くない」
ルカ「そうですね…」
テントの中。
ルカ「後何日かで死ぬんですかね…私?」
女王「一日に数十人くらいが潰れて、その内の何人かが宇宙へ行く」
女王「まあ、みんなそんなこと思ってるんだ…改めて口に出すな」
女王「明日は早いぞ、今日はもう寝ろ」
女王「寝ている間に潰された時はその時だ。痛みなく死ねたと喜べばいい」
ルカ「…………まあ、そうですよね」
朝。
女王「今日は南へ向かう。そこに補給地点が備えてある。みんなには申し訳ないが頑張ってくれ」
女王「良く寝れたか?」
ルカ「ええ、まあ。朝食よく食べましたね?」
女王「食べた物が消化しきれない内に潰されたら気分悪いからな、それまでは絶対生きる」
ルカ「結構……冷静なんですね」
女王「潰されなければ普通の世界と何も変わらない。健康に生きていれる」
女王「それに潰された場所は土地が平らで耕作向きだ」
女王「悪い事ばかりじゃない」
ルカ「…………そうなんだ」
女王「まあそう思わないとやってられないだけかもな」
ルカ「父親や母親の事、聞いてもいいですか?」
女王「いたよ…元気だったさ。まだどこかで生きてるといいけど」
女王「他の奴らの言ってることも聞いてみるといい、色んな事が聞けるさ」
ルカ(聞きたかった人はもうどこかへ行っちゃいました…)
ルカ「ザッザッ……」
漆原「…………」
夜、森。
親爺「食べてみろ…美味しいぞ、ハフハフ」
ルカ「じゅるり……ていうか誰なんですか、あなた?」
親爺「俺か?俺はその辺をフラフラしてるだけの奴さ。あんなインチキ臭い集団なんか付いて行けるか」
ルカ「グ~」
親爺「食べてみろって、旨いぞ~」
ルカ「…………」
親爺「なんだ?お前もあの集団の一味なのか?だったらこの肉はやらねえぞ?」
ルカ「いえ…違います。彷徨ってただけです」
親爺「そうかそうか、そりゃあかわいそうに。これをくれてやろう。ささ、こっち来い」
ルカ「ありがとうございます」
親爺「わしゃあ酒臭いけどよ、勘弁してくれよ」
ルカ「臭い人はキライです」
親爺「ガーン…」
親爺「フフ……一杯食べろよ。酒も飲ませてやる」
ルカ「ハフハフ……ガツガツ」
親爺「美味しいか?」
ルカ「バクバク」ウンウン。
親爺「そうか…」
ゴゴゴ……。
?「あの物体が来たぞ!」
親爺「…………ここもか…」
親爺「集団の方からやられてるの…」
ルカ「…………」
親爺「ワシはこんなだから…女の子で近づいてくるのは中々いなくての…」
親爺「だから嬉しかった…ありがとな」
親爺「お前は集団に戻れ。若い衆がお前を守ってくれる」
ルカ「………おじさんは?」
親爺「ワシもまた生きて朝を迎える。じゃからお前さんはさっさと戻れ」
バッ。
漆原「ルカ!!」
ルカ「…漆原さん!」
親爺「頼んだぞ…」
漆原「…………」
漆原「行くぞ」
翌朝。
ルカ「親爺さんが……いない」
ルカ「昨日までこの辺にいたはずなのに…」
漆原「…………」
女王「何してるんだ、ルカ?早く行くぞ」
漆原「ルカ……もう行く。みんな待ってる」
ルカ「漆原さん……」
漆原「あの人はこの辺では有名。みんなに酒を振る舞ってる」
漆原「この世界で見えなくなったってことはそう言う事。もういない」
ルカ「知ってんですね…」
漆原「雲の向こうからルカの事見てくれてる。だから」
ルカ「私が飛べていたら…大きくなれていたらってことなんですかね?」
漆原「……」
漆原「生きていたらもしかしたらってこともある」
漆原「だからまた会える日までルカは生きてなきゃいけない」
ルカ「漆原さん…」
漆原「なんでもいいから、生きるんだ」
矯激の宇宙
登場人物紹介
宮原瑠香子(女)
156㎝.
ルカと呼ばれている。
元々の髪質が明るめの茶髪.
父と母と弟の四人で暮らしている。
17歳.
作中設定紹介
雲
この世界を覆い尽くす雲。
空全体を覆い尽くしており、その向こう側を見た人はいない。
第三次性徴
体が大きくなっていく現象。
気持ちの度合いでその大きさが異なって来る。
物体
宇宙にいくつも存在する。
その内の一つがルカ達の場所にぶつかって来る。