衣織の恋檻
どこにでもあるような恋愛で、どこにも見つからない愛を。
【野崎 衣織】
けたたましい音を立てる目覚まし時計。時計上部のボタンを勢いよく叩くと、ジギッと嫌な音を立てた。6時0分10秒。
「衣織、ご飯よ。」
衣を織るという名に相応しくない、汚らしく絡んだ髪を手櫛で直す。
「今行きます。今日のご飯は?」
「フレンチトースト。早くおいで。」
よだれの跡がないか、ごしごしと口元を拭いながら階下へ降りる6時5分3秒。いつも通りの、私の朝。
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「それじゃ、行ってきます。」
家を出る6時21分47秒。学校へ向かう道とは全く逆方向のその道を駆け抜ける。学校にはいつも、大好きな空と一緒に行く。谷山空。同じクラス。男の子。頭がいい。運動ができる。優しい。かっこいい。そんな空は、私の彼氏なのだ。ちょっと天邪鬼でお寝坊な彼のために、私は毎日彼の家へ迎えに行く。でもいつも彼は、先に家を出ようとする。
「あ、空!迎えに来てあげてるのに先に行こうとしないでよ!」
「…ああ。」
無口でちょっと不器用。だけど本当は優しいことを知ってる。
「許してあげる!一緒に行こ!!」
彼の横に立って一緒に歩く。お互い何も言わず、隣にいる。それがとてつもなく心地よい。
彼と合流する6時31分14秒。私のいつも通りは、いつもここで数分ずつズレる。付き合ってすぐは6時40分くらいだった。でも、あるとき急に38分に出るようになる。37分。36分。すこしずつ早くなっていく。そろそろ家を出る時間もずらさないといけない。
「ねえ、なんでいつも置いて行こうとするの?私も大変なんだよ?」
「いつ出ても付いてくるじゃねぇか。俺は気分で家出てんの。」
「そうなんだぁ」
でも、早く出るために目覚まし時計ちょっとずつ早めてるのも、毎晩ちょっとずつ早寝してるのも、知ってるんだよ。本当はわざと早く出てるって、知ってるんだよ。
「うん、そっかぁ。ごめんね困らせて!」
そう、知ってるんだよ。最初の頃は学校に着くと、結構な数の生徒が既に登校してた。だんだん、その数は少なくなっている。そんな不器用な言葉と態度でしか、2人きりになりたいって言えない空のこと、知ってるんだよ。
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「今日は、学年で12番目かぁ。私たちが一緒に学校に来た初めての日は、80番目くらいだったよね」
「そうだな」
空は素っ気なく言う。靴を脱ぐ。上履きを履く。私もそれに続く。
「あ、空、バイバイ!また帰りにね!」
返事もせずに机にリュックを降ろす。でも、目だけはいつも一瞬だけ合わせてくれることを、私は知ってる。
「あ、衣織おはよう!今日も早いね!」
「おはよう!みっちゃんも早いね!…ねえみっちゃん、いつも何時くらいに来てる?」
「うーん、学校に着くのは6時50分くらいだよ。」
「いつも早く来て何してるの?」
「宿題。ていうか、衣織もでしょ!」
空の家は学校まで30分くらいかかるから…あと10分以上早く出ないといけないのか。
「えへへ、数学の宿題多すぎなんだよね」
まあ、壁は高い方が燃えるもの。時刻は7時7分5秒。もうちょっとで7が揃ったのに、という悔しさを感じながら、数学のワークを開いた。
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「それでは帰りの会を終わります…こら衣織さん、まだ立たない。」
退屈な授業。やっと6個全部終わった。掃除も放課も、空がいなかったら全部全部退屈で仕方ない。空、空。空に会いたい。会いたいよ、空。
「はい、じゃあ、さようなら。衣織さんはいつも焦ってるので、事故に遭わないようにほどほどに落ち着いて帰りましょうね」
大丈夫よ、先生。帰りはいつもゆっくり帰ってるから。
急いで教室を出て、門を潜る。肌にぶつかってくる風は、すぅっと体に染み込んで心を冷やしてくる。うう、寒い。でも、空に会えれば、こんなのなんとも。
「空ぁっ!!!もう、遅いって!」
「ん…。」
こちらを一瞥して、すっと横を通り過ぎていく。みんなの前だから恥ずかしいんだよね?なんて可愛いんだろう。
「…今日もついてくるの」
もちろんだよ、空、私の空。これ以上早く学校に行くのは辛いもん。そうだよ、帰りならいつでも2人きりになれるんだよ、空。
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「そろそろ周りに誰もいないよ」
「え?あぁ」
…え?それだけ?見つめてみるが、空はそれ以上何も言わない。そのまま無言で歩いて、空の家に着いてしまった。
「…早く帰れよ」
「待って、空、私____」
「あ、待って。」
そう言って俯いて、しばらく何かを考えた後、ばっと顔を上げた。
「あのさ。言いたいことがあるんだけど」
うん、分かってるよ。素直になってもいいんだよ。手を繋ぐ?ハグする?それとも、キスしちゃう?
「隣のクラスの、衣織、で合ってる?そろそろ迷惑だからさ、やめてくれない?」
「え?えっと…何を?」
「何をって…登下校の時についてくるのとか」
「あ…あ、そっか」
うん、まあ人目に触れたら恥ずかしいもんね!大丈夫、知ってるよ。空は恥ずかしがり屋なんだもんね。
「うん、分かった!じゃあね空!…一緒に学校には行かないから、でも明日の朝、会いに行くね!絶対!うん、また明日!」
ああもう、頭ぐちゃぐちゃだ。一気に色々言ったけど、もう既に何を言ったか覚えてないや。…これからもう、朝にしか会えないんだ、辛いよ…。
「おい、待てって!!」
「…え?」
「まだ話終わってねえから。あのさ」
そうだよね…!空も寂しいよね…!悲しさで溢れそうになった涙が、今度は嬉しさで溢れそうになる。
「…関わりもないのにそういうことされても、その。正直…ウザい。」
「え?」
「ていうか、気持ち悪い。なんで俺の家知ってるの?なんでそれだけ早く登校しても付いてくるの?お前、気持ち悪いよ」
「どういうこと?私たち、付き合ってるじゃん!」
「…俺はお前のこと知らない。付き合ってるわけないだろ。」
「ちょっと冗談キツイよ…」
「それはこっちのセリフだから。…もう二度と、恋人ごっこだか知らないけど、ああいうことはしないで。」
「ねぇ、待って、空、空!!!」
必死に呼びかけた。叫んだ。全身ががくがく震えて、立っていられなくて座り込んだ。それでも叫んだ。泣き叫んだ。
返事は、ガチャンという無機質な音だった。
【谷山 空】
けたたましい音を立てる目覚まし時計。時計上部のボタンを勢いよく叩くと、ジギッと嫌な音を立てた。6時20分だ。
「兄ちゃん、早く起きて!」
妹の海が叫んでいる。
「はいはい。何?」
「今日は私が作ったおにぎりなの!」
ああ、嬉しい。でも俺は、ある理由のせいで、ほかほかのおにぎりを食べることはできない。6時25分、急いで支度をする。
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「それじゃ、行ってきます。」
家を出る6時30分。できるだけ急いで扉を閉め、庭から出る。あとは、走るだけ…!
「あ、空!迎えに来てあげてるのに先に行こうとしないでよ!」
「…ああ。」
…今日も、来た。
「許してあげる!一緒に行こ!!」
何を許されたのか分からないし、俺はこの女が誰なのかも知らない。
この女と合流した6時30分過ぎ。俺のいつも通りは、いつもここで狂わされる。最初の頃は6時40分くらいに現れていた。だから、少しずつ家を出る時間を早くしていった。37分。36分。それでもあいつはついてくる。恐怖と、どうしようもできない怒りで、今にも狂いそうだった。でも正気でいないと。狂ったら、この女と同じ狂人だ。
「ねえ、なんでいつも置いて行こうとするの?私も大変なんだよ?」
「いつ出ても付いてくるじゃねぇか。俺は気分で家出てんの。」
「そうなんだぁ」
嫌味のつもりで言ったのに、少し嬉しそうにうんうんと頷くその女に、更に怒りは募った。
「うん、そっかぁ。ごめんね困らせて!」
爆発しそうだった。不意に感じた鉄の味で少し冷静になり、黙り込む。困ってる。困っているよ。なんでついてくるの。なんで?早く家を出てるのに?どうして?
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「今日は、学年で12番目かぁ。私たちが一緒に学校に来た初めての日は、80番目くらいだったよね」
「そうだな」
ああ、最悪だ。こんなに早く来てどうしろと言うんだ。
「あ、空、バイバイ!また帰りにね!」
返事もせずに机にリュックを降ろす。最後についあの女をちらりと見てしまう。するといつも気味の悪い笑みを浮かべられる。しまったなと思う。
「あ、衣織おはよう!今日も早いね!」
隣のクラスから、会話が聞こえる。最初の頃はあの友達とーーー美玖とーーー会うためにある程度早く登校してて、偶然会うものだとばかり思っていた。しかし、時間を早めても早めてもついてくるし、何よりあの女の家から俺の家は、学校とは逆方向らしい。
「えへへ、数学の宿題多すぎなんだよね」
衣織と呼ばれたあの女は、いかにも普通の女子生徒のように笑っていた。もしあの女が狂っていないと仮定したら…。嫌な考えが頭をよぎった。ぶんぶんと頭を振ってかき消し、その感情そのものに蓋をするように、もかもかと妹のおにぎりを口に放り込んだ。
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「それでは帰りの会を終わります…こら空、まだ立つんじゃない。」
ああ、早く帰らなきゃ。帰りもあの女はついてくる。衣織。気持ち悪いあいつのことを考える。あいつの行為が心にさくさくと刺さって、全身を寒気に支配される。
「はい、じゃあ、さようなら。気いつけて帰れよ。」
本当にそう思ってるなら、俺と一緒に、俺のことを守りながら帰ってくれ…。心の中でつぶやいて、荷物をまとめた。
玄関から出ると、ぶるりと震えた。寒い。早く帰ろう。そんで、コタツで温まろう。ぬくぬくの、いつも通りの日常。
「空ぁっ!!!もう、遅いって!」
「ん…。」
…邪魔だ、この女が。いつも通りの日常。その中に、この衣織はいないはずだ。
「…今日もついてくるの」
決着だ、衣織。今日でこんなくだらないことはやめてもらう。ついてこい、ストーカーらしく。真実を伝えてやるから。
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「そろそろ周りに誰もいないよ」
「え?あぁ」
俺が何か言おうとしたこと、察してる…のか?気持ち悪い。とことん気持ち悪い。
「…早く帰れよ」
「待って、空、私____」
「あ、待って。」
やっぱり、察されてる。それなら逆に、ぶちまけてやるよ、その何かを。
「あのさ。言いたいことがあるんだけど」
ああ…傷つくだろうか。いくらストーカーという軽犯罪者予備軍だからと言って、人を傷つけるのはできれば避けたいが…でも…。俺だって限界なんだ。ごめんね。
「隣のクラスの、衣織、で合ってる?そろそろ迷惑だからさ、やめてくれない?」
「え?えっと…何を?」
「何をって…登下校の時についてくるのとか」
「あ…あ、そっか」
…悪いことしてる…っつか、そういう自覚が、ないのか?どうして…?
「うん、分かった!じゃあね空!…一緒に学校には行かないから、でも明日の朝、会いに行くね!絶対!うん、また明日!」
必死に訴えるその女を見ていた。キィンと不快な高音が脳内に響く。なんだ。なんで。俺が悪いのか?この女は俺を知っているのか?
「おい、待てって!!」
「…え?」
「まだ話終わってねえから。あのさ」
どう言うべきなんだろうか。お前は誰だ?なんで俺を知っているんだ?と、問うべきなんだろうか。この女がもしかして知り合いかもしれないと、必死に痛む頭を回転させるが、痛みが増すばかりだ。…そうだ。敢えてきつく言おう。それなら、もし知り合いなら、『何言ってんの?私たちは…』と関係を明かしてくれるはずだ。
「…関わりもないのにそういうことされても、その。正直…ウザい。」
「え?」
「ていうか、気持ち悪い。なんで俺の家知ってるの?なんでそれだけ早く登校しても付いてくるの?お前、気持ち悪いよ」
「どういうこと?私たち、付き合ってるじゃん!」
…ちょっと、待て。
「…俺はお前のこと知らない。付き合ってるわけないだろ。」
「ちょっと冗談キツイよ…」
いくらなんでもそれはないだろ?付き合ってるってことは、彼氏彼女ってことだろ?知らない相手が彼女?そんな、ことは。
「それはこっちのセリフだから。…もう二度と、恋人ごっこだか知らないけど、ああいうことはしないで。」
ない。はずなのに、どうしてこんなに頭が痛いんだろう。もしかしたらこの女を知っているのだろうか?無意識下の別世界や、前世での関わりが?非現実的だが、この頭の痛みはどう証明すればいいんだろう。
「ねぇ、待って、空、空!!!」
なんだ、なんだ。朝とは違う恐怖と、どうしようもない怒りが、脳細胞をぐちゅぐちゅと握りつぶしてくるようだ。あの女を知ってるのか?知ってるならなぜ思い出せないんだ?
とりあえず落ち着こう。家に入ろう。卒業アルバムとかも見てみよう。それで知り合いだったら、付き合ってないにしてもとりあえず謝ろう。知らないなんて言ってごめんって。でもやっぱり付き合ってはないと思うから、そういうのはやめてくれって改めてちゃんと言わなきゃ。ドアノブに手をかける。扉を開ける。中に入る。まだあの女の泣き声が聞こえる。でも、思い出す前は相手しちゃダメだ。今はとりあえず…ごめん、放置する。
ドアを閉める。ガチャン、と無機質な音がして、痛かった頭がさらに痛くなる。高音と一緒に、ガチャンという音が頭の中で響く。
カチャン。
頭の中で、それらとは別の音が、一回だけ鳴った。その瞬間他の音も止んだ。代わりに夥しい量の映像が流れ込んできた。
その映像の中の小さな衣織が、俺に向かって微笑んだーーー
【吉野 空】
「やっぱり空ちゃんには、水色が似合うわ」
そう言って、30代半ばくらいに見えるその女性は、ひらひらした服を渡してきた。
「お母さん、俺は…」
「もう、女の子なんだから、俺なんて言っちゃだめでしょう?」
そうだ、お母さんだった。お母さんは、女の子が欲しかった、っていつも言ってた。
「うん、ばっちり!スカートならもっと可愛いと思うのに、なんで履いてくれないの?」
「お、お友達と鬼ごっことかしたいし!」
「あら…まあ、いいわ。小学生だもの」
なんで忘れていたんだろう。うちは父1人、俺、妹が1人の3人家族。この母とは離婚した。
「それじゃ、外で遊んでくるね!」
でも、なんで、離婚したんだっけ…??
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「う…っ」
昔の映像が少しだけ流れ込んできた。小学生、の頃だろうか。小学生の頃の記憶、思い出そうとしてもどうにも思い出せない。印象的な出来事が一つもなかったんだな…なんて片付けられることじゃないくらい、全く、ごく一部も、思い出せない。
「野崎…衣織…」
口に出す。唇に触れる。どこか懐かしい動きで、懐かしい響きだった、ような気がした。
「……衣織…ちゃん…?」
…衣織ちゃん。衣織ちゃん。そうだ、衣織ちゃん。そんな子が小学校にいた気がする。
他に誰がいたっけ、と思い出そうとした。どうやらそれは、タブーだったらしい。
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「……ちゃん!!」
女の子の、声。
「………空ちゃん!!」
「…衣織…ちゃん?」
幼い少年の声が聞こえた。それは間違いなく自分から発されていたものだったが、自分が意図して発したわけではない。
「目、覚めた…あいつら、頭殴るなんてやりすぎだよね!!」
頭…殴られたのか?確かに頭は痛いが、先の耳鳴りと共に襲って来た頭痛との区別がつかない。
「うう、衣織ちゃん、俺、なんでこんなひどい目にあうのかな…。」
「空ちゃんのお母さんが、女の子みたいな服着せるからだよ…!」
ひどい目に遭っていた?記憶にない。頭を殴られたことなんて一度もない。お父さんと妹と、のほほんと暮らして来た記憶しかない。
「衣織ちゃん、俺…」
「あ!!いた!!オカマがいたぞ!!」
幼い頃の俺が何を言おうとしたのかは分からないが、だいたい状況をつかんだ。俺は、お母さんに女の子みたいな服を着せられ、それが原因でいじめ…に近しい感じの状況だったらしい。
「あんた達、そんなに寄ってたかって1人をいじめて楽しいの!?」
「うるせえ!衣織は関係ないだろ!」
「あるよ!空ちゃんいじめられたらかわいそうだもん!」
「うるせえ!!」
いかにも小学生という感じの感情的で単調な会話をした後、坊主軍団の1人は衣織に飛びかかった。
「や、痛い、痛いってば!!」
「女なんか髪引っ張ったらすぐ泣くもんな!お前もそうだろ、空!!」
「うっるさい!じゃああんた達は泣かないの!?」
「い、いだあああああ!!何すんだこの暴力女!」
いじめられている俺を、衣織は守ってくれていた…のだろうか。
「せ…せんせぇーーーーー!!」
叫んだのは、自分だった。駆けつけた先生によって、お役所仕事な仲直り(ほら謝りなさい、握手しなさい、って奴だ)をさせられ、無理やり教室に向かわされた。
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「でさー…あっ、最悪、オカマ帰ってきた」
「雰囲気悪くなるから学校来ないで欲しいんだけどー」
「ていうか衣織が助けなきゃ絶対もう不登校になってるよね、衣織うざぁい」
「ほんとにね、2人とも学校来なきゃいいのに」
「…あ、見た?今衣織こっち睨んだよ」
「うわぁ、うっざー」
教室に戻ると、ひそひそと囁かれる悪口が聞こえた。いじめを助けるといじめられっ子側になり、先生がそれをひたすら無視してお役所仕事な対応しかしない。そういうよくない態勢の小学校だなと感じた。
「お…女の子…みたい…な…」
その時だった。自分が、ぼそりと呟いた。
「え?あいつなんか言った?」
「え?うっざぁー」
「…女の子みたいな服着て何が悪いんだ!!別にお前らに何も迷惑かけてねえだろ!!」
うわ、俺、正論。
「俺だって着たくて着てるわけじゃない!お前らだって自分で選んでる服よりお母さんに買ってきてもらったから着よう、って感じだろ!?俺はたまたまお母さんの趣味がちょっと女性寄りだっただけで…!」
自分の顔は自分で見えないけど、多分必死な顔をしているのだろう。自分が女の子として無理やり育てられても、その母親の悪口を言うでもなく、あくまで好きな服を着る権利を主張できる。というか、そうしないと、自分が望まれていないことを認めてしまう。そんな俺は、多分側から見れば理屈っぽくて、服装とか関係なく嫌なやつで、それで嫌われていたとしてもおかしくない。
「う…うるせえ!!!」
さっき衣織の髪を引っ張っていた坊主が、俺に向かって椅子を振り下ろした。うるせえじゃなくて、言葉で反論しろよ、低脳。…多分、俺があの時、そうやって一回一回言い返す勇気があれば、嫌われはしても、いじめられはしなかったのだろう。
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「空。」
「…父さん?」
家だ。と言っても、今の家ではない。さっきお母さんに女の子の服を着せられていた、あの家だ。
「クラスのお友達…衣織ちゃんだっけな?その子に話を聞いた。…母さんのせいで、辛い思いしてたんだな。お前は相談してくれなかったし、それに、おにごっこをするとか言って家を出て行くから、友達がいて普通に過ごせているものだと思っていたが…」
空白で、空白だったことにすら気づかなかったその穴に、どくどくと記憶が注ぎ込まれている。図書館で本を読んだりしていた。公園で1人で遊んだりしていた。
「空、言ってくれよ、辛い時は。もちろん、何かができるわけじゃないし、学校に乗り込むなんてことも俺にはできないけど、でも……母さんと別々に暮らすことくらいなら、俺はできるんだから…!」
「…暮らしたい。別々で。俺、もう嫌」
俺の声は、ひどく冷たくて、無感情だった。椅子で殴られて、何かの糸が切れてしまったのか、ただ疲れてしまったのか。
「小学校のみんなとお別れだけどいいのか?」
「その方がいい。…待って、衣織ちゃんだけは、お別れ言いたい」
「じゃあ父さん、学校に電話するから。その間に行ってこい。」
「…うん」
ベビーベッドの中の妹が、「ばいばい」と、手をぶんぶんと振っている。きっと海にも、この頃の記憶はないんだろうな。
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ピンポーン。という音。野崎の表札。なんで俺の家を知ってるんだといつも思ってたけど、俺もこいつの家を知ってたのか…
「空ちゃん?どうしたの、珍しい」
「衣織ちゃん、俺ね、」
次の言葉は、明日でお別れなんだ、とかだと思っていた。でも、違った。
「衣織ちゃんのこと、ずっと好きだった」
「…私も空ちゃんのこと、好きだったの」
「衣織ちゃん、俺と付き合ってくれる?もしよかったら、俺のこと、呼び捨てで呼んで。」
「…空…空…!!」
「…ありがとう…衣織…それじゃあね」
「うん、また明日…空!」
そんな、それじゃ、俺と衣織は…?
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「空、引っ越す前に、お医者さんのところ行こうな」
「え?なんで?」
「うーん…新しい家が病気の菌だらけになったら嫌だろ?」
「…嫌だ。…海はいいの?」
「海はいいんだ。まだ小さいから」
「…小さいと病気にならないの?」
…そんなわけない。どこに連れていかれたんだろう。…でも、想像はつく。
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「君が空くん?」
「はい」
「…この炎、じいっとみてね」
「病気を燃やすの?」
「まあ、そうだよ」
暗い部屋で、揺れるライターの炎をじいっと見た。見て、いた。
「ちょっと学校のことについて話せる?」
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「これで記憶は消えました。」
「ありがとうございます、お医者さん」
「…きおく?なんのこと?」
「キオクっていうウイルスなんだよ。だって空くん、思い出の方の記憶はあるだろ?」
「うん。これはお父さん。妹、海。」
学校についての記憶が消されたんだ。というか、封じ込められたんだ。
カチャン。
さっき鳴った、あの音は。
「本当にありがとうございました」
「いえ、いいんですよ」
ライターの蓋の、閉まる音だったんだ。
衣織の恋檻
初投稿です。
このまま視点や時間を少しずつ変えて書いていきたいと思っています。もしよければアドバイス等お願いします。