一日
一
ベンチの上に座るクロに,ぼくが「すごいね,クロ。もう真っ暗なのに,クロはまだ見えるんだね」と言った。元々耳が立っているクロは,ぼくが言ったことをより注意深く聞けるようにして,その両方をさらに動かして,ぼくにもう一度,同じ事を言わせた。そして,まるでヒトがするように,赤い舌をチロっと出して,ぼくをバカにした。
当たり前だろ,そこにほら,灯りがあるだろ。あれがこの辺りを照らしてるんだ。だから見えるんだ。本当に真っ暗だったら,自分の姿も見えないんだぞ。オレだけじゃない。この,木で作ったやつも見えないんだ。そこの道路も,そこの手すりも,そこの海も。もっと言えば,ほら,あの丸いやつだって,もっと広い所を照らしてるんだ。あの昼のやつを,反射か何かをしてるんだ。だから見えるんだ。黒いオレだって例外じゃない。お前だって例外じゃない。ほら,この舌だって見えてるだろ?オレからは,ムッとした顔したお前が見えてるぜ。分かったか?分かったら黙って見てろ。オレが合図をしてやるから。
クロはいつもそうやって,沢山しゃべって,ぼくの世界をでこぼこにした。登れないぐらいの高い場所を作ったし,覗けないぐらいに低い場所をあちこちに作った。ぼくはその間をすり抜けながら,安心安全に進んでいったし,手も使って届きそうな,くぼみを見つけたら,クロに内緒でぶら下がって,勢いつけて,目をつむってジャンプして着地した。バン!という大きな音がして,隠れていたトリを飛び立たせて,新しい道を発見させた。狭い道に広い道,壁に落書きがされた面白い道に,前にも後ろにも何もないつまらない道,雲が走る道,雨がたまる道。風に戻される道もあったし,遊んで行きなよ,と誘われる道もあった。迷子にもなった。ぼくは泣いたりしなかった。下手に動いたりもしなかった。ぼくの世界のでこぼこは,クロがしゃべればでこぼこになる。だからそんな時,ぼくはクロのことを探した。クロクロクロ,とクロの名前を沢山呼んだ。クロはヒゲを動かすから,周りの声や音がどこからきているのかが分かる。そういう仕組みなんだとクロが言っていた。だからクロはいつも来てくれた。でこぼこの,高い所からひょこっと顔を出してくれた。ぼくはそれを見上げて,見つけた。お昼の明るいとき,空いた手を頭の上に広げても,クロはやっぱり真っ黒だった。ぼくはクロに言った。クロはやっぱり真っ黒だ。それを聞いたクロは大きくて,でこぼこに響く声で言った。
当たり前だろ。ほら,上にあれがあるだろ。で,ほら足下を見てみろ。そこのお前だって同じだぞ。カゲだカゲ。黒いカゲだ。そんなことより,また迷ったのか。お前の好奇心は良いものだと思うけど,帰り方ぐらい考えとけ。迷子はママが嫌うんだ。お前のママだぞ。オレのじゃないぞ。分かったら考えとけ。遅くなっちゃった理由。あと,面白いものを見つけた話だ。ヒトってやつは,そういうのが好きだからな。怒ってるママを笑わせてみろ。オレも傍で手伝ってやるから。お,ほらほら,でこぼこがまた動いたぞ。オレがしゃべったおかげだ。うん?そうそう,お前が聞いてくれるおかげだ。オレがそう言ったんだからな。間違ってないぞ。泣くことはないぞ。
クロはよく散歩をしていたから,道に迷うことがなかった。だからいつもぼくの先を歩いて,道案内をしてくれた。ありがとう,とぼくはクロに思っていた。クロはそれを知っていた。そう思っているぞ,とぼくに言ったことがあるから,クロはそれを誇りに思っていた。ぼくはそれを嬉しく感じていた。クロとぼくは仲良しだった。ぼくとクロは特別だった。
ぼくが大きくなるにつれて,ぼくの一歩一歩が,クロのものより大きくなった。そのために,クロの後ろを付いて歩くぼくが,クロを追い越しそうになることが多くなった。気付かないうちにお尻をふんで,涙目のクロに怒られたりした。ぼくはクロの後ろを歩けなくなった。クロとぼくの間に,ふわふわの綿菓子が出来上がっていった。ぼくはそれを頬張って,クロにもあげようとしたけど,クロはさっさと散歩に出かけていった。ぼくの世界から,クロがいなくなることが多くなった。ぼくもそれに慣れていった。ぼくの世界は丸かったから,ぼくは眠って,起きての一日を元気に過ごした。ぼくは大きくなった。クロはますます居なくなった。
だから珍しかった。夕ご飯のあとで,ぼくの部屋に入って来たクロがどこにも出かけることなく,ぼくのベッドの上に寝そべって,ぼくの言うことを何ひとつ聞かないで,何も話さずに眠り続けた。ママやパパに文句を言って,ママやパパに言われたとおり,クロがどいてくれるのを,待っていたぼくが同じように眠ってしまって,クロに起こされた。久しぶりにぼくに話してかけてくれたクロは,ぼくに着替えるように言って,忍び足を上手に教えてくれて,ぼくとクロはお家の玄関まで,無事に着いた玄関ではクロが履く物を選んでくれて,静かに閉めたお家から,誰もいない世界へと,クロが先に走って,案内してくれた。ぼくも急いでそれを追いかけた。わくわくした気持ちが隠しきれなかった。口を開けて,電信柱の裏っかわを覗いたりして,クロに怒られていた。
こら,早くしろよ。見れなくなるだろ。遅れちゃうだろ。
クロが座ったベンチは海が見える公園にあった。ぼくはそこに一度座ったけど,お尻が冷たくなったから,立ったり座ったりして,落ち着かなかった。クロも何も言わなかった。ぼくも何も言わなかった。もくもくと綿菓子,でも,ぼくにはクロが見えていたし,クロにもぼくが見えていた。クロがぼくにそう言った。見えてるぞ,見えてるだろ?ぼくはうんと言って,クロの隣に座った。クロは動いていなかった。風が真横から吹いて,もくもくとした綿菓子が飛んでいって,見えなくなった。あれ,美味しいのか?とクロがぼくに訊いたから,「うん,まあまあ」と答えて,どんな味なのかということを,クロに話していった。クロはその全部を聞いてくれていた。ぼくとクロは仲良しだった。
ベンチの上に座るクロに,ぼくはもう一度訊いた。クロは黒いんだね。クロは,今度は舌を出さないで,ぼくに言った。そりゃそうだ。クロだからな。次に,クロがぼくに訊いた。迷子になるのは減ったか?うん,とぼくが言った。鉄棒で回れるようになった,とも言った。鉄棒って何だ?とクロが首をかしげて,ぼくに訊いた。こんなの,とぼくは指を伸ばして説明した。それじゃ分からないぞ,ちゃんと説明しろ,とクロに注意された。えーとね,とぼくは説明し直そうとして,説明し切れなかった。何で鉄棒があるんだ,というクロの質問が難しくて,腕組みをしなきゃいけなくなったからだった。うーん,とうなった。
ぼこっと世界が動いた気がした。でこぼこっと,形が変わった気がした。
ぼくはそのままクロと過ごした。そのうちに眩しくなって,目の前が広く広く光った。声も出さずに見ていると,クロがぼくの上に飛び乗って来て,耳を立てていた。ぼくも,その真似をした。行ったり来たりの音がした。風が吹いたら,大きくなった。ぼくは上を見上げた。飛んでいるものを探した。
白い一羽が飛んでいた。
一日