伝説の少女



 普通と呼ばれる人生を送る人はいない。
 アルベルト・アインシュタインの言葉だ。
 でもわたしは自分を普通だと思ってきた。わたしの父は普通の勤め人で、わたしの母は普通の主婦でパート勤めだ。結果わたしは普通の子どもになる。夏休みになれば海外旅行に行くマコちゃんちみたいなお金持ちでもないし、たとえば内戦で街がめちゃめちゃになって明日の食事もままならないような外国の子どものように困ってもいない。
 困っていることと言ったらわたしの住んでいるところは市の上下水道が通ってないから生活用水は地下水で、テレビのアンテナは共同受信で、バスの停留所もない田舎だということだろう。
 歩いてコンビニに行けるさよちゃんが羨ましいと思う、わたしはごく普通の子どもだ。そしてこれからもこれまで通り、普通にごはんを食べて普通に学校に行って普通に友だちと遊び、普通に同じのクラスのゆうすけ君にドキドキするような、そんな普通の毎日が送れると思っていた。
 けどやっぱり、偉い人は的はずれなことは言わないとわかってしまった。

 それは先月の秋祭りが終わった頃だった。
 父は普通に会社に行き、母は普通にパートに行き、わたしは普通に学校に行った。ちなみにわたしは一人っ子だ。そこに中国の政策のような取り決めが両親たちの間で交わされたわけではなく、単純に年齢と経済事情というわかりやすくそして重大な問題が解決できなかったからだ。
 わたしはいつものように近所に住むたった一人の同級生のかなこちゃんのうちに遊びに行き、母はいつものようにパートの帰りにかなこちゃんのうちに寄り、母の運転する軽自動車で一緒に帰った。
 最初にそれに気づいたのは母だった。二階の窓が開いていてカーテンが揺れていた。そこは母たちの寝室で、わたしの部屋はそのとなりだ。
「あれ?窓が開いてる。おかしいな、戸締まりちゃんとしたんだけどな」
 母は見上げて首をかしげた。
「もう。しっかりしてよ。ドロボーに入られたらどうすんのよ」
 わたしはオバサンみたいな口調で大袈裟に肘で母の大きなおしりをつつく。
「ぷっ。バカ言っちゃいけないよ。マコちゃんちじゃあるまいし。そんな心配してたらキリないよ」
 そう言って母もわたしをつつき返し、玄関の鍵を開けた。その光景にわたしたちは言葉を失った。そしてわたしは思った。
 キリはある、と。
まず目に飛び込んできたのは割れた窓ガラスの破片だった。小さな子どもがかんしゃくを起こして積み木をバラバラにしたような割れ方だった。その向こうに干してあるわたしのイチゴ柄のパンツが寒そうに洗濯ばさみに引っ掛かっていた。
 なんで障子が破れていないんだろ?
 わたしはパンツの心配よりも障子が破れていないことの方が気になった。
わたしの家は入ると横に廊下が伸び、右側がお風呂、キッチンの水回りとダイニングとリビング。左側が父の書斎、正面が二間続きの和室になっている。その和室の向こうにテラスをつけてそこに洗濯物を干しているのだ。その和室の吐き出しの窓ガラスが割られていた。
「何これ」
 呆気にとられている母にわたしは
「ドロボーだよ、絶対」と、母は女であるといった当たり前のことを少し声を強ばらせて言った。
「ドロボー?」
母はその言葉を合図にまるでムチをいれられたウマのような勢いで携帯電話を取りだし、警察に電話をした。
 第一声が「うちにドロボーが入ったんだよ」という慌てぶりでわたしは恥ずかしくなり、電話を替わりたくなった。
どうにか伝えるべきことを伝えた母はそのあと父に電話をした。やっぱり第一声は「うちにドロボーが入ったんだよ」だった。「誰が?」とか「ウソ?」とか「なんで?」とか、とにかくこっちが答えられない質問を繰り返す父の声が母の携帯電話から漏れ聞こえてきた。父の地声は大きいのだ。
「だからすぐ帰ってきてよ」
 母は急に父の親戚が来ることになったかのような感じで電話を切った。歓迎できないのはこっち方がはるかに上だけど。
 父は本当にすぐ帰ってきた。警察よりも早かった。
「職場が近いっていいな」と場違いなコメントを発した父は母から白い目で見られていた。
 それから小一時間とまではいかない時間が経って警察がやってきた。ちらりと外を見るとスクーターが一台、黒い乗用車が一台、白い軽自動車が一台だった。
 なんだ、パトカーじゃないんだ。わたしも場違いにがっかりした。でも学校にくる交通指導のお巡りさんとは違った緊張感が出ており、わたしはやっぱり場違いにドキドキした。
 やってきた警察官は六人だった。坊主のいかついおじさん、白髪頭の気のやさしそうなおじさん、それと眼鏡をかけた若いおじさん、それと本当に若いスポーツマンみたいな爽やかなおにいさん、それとおばさんと呼ぶには早く、おねえさんと呼ぶにはちょっと抵抗がある年格好の婦人警官の計六人、全員制服を着ていた。
「では現場の方を見させてもらいます」
 いかついおじさんがそう言い、父が「どうぞ」と言う前に上がり、和室に入って「ほう」とか「むう」とか言ったあと、他の五人の警察官にあれこれと指示を出していた。どうやらこの人がリーダーらしい。
 でもわたしとしてはその前に何か一言欲しかったな、と思った。
 わたしたちは警察官が来るまでずっと玄関の上がり口で待っていたのだから。父が「あれこれ触んない方がよくないか?」と言ったからだ。待たされた方としては「ごめんね」とまではいかなくても「大変だったね」くらいは言って欲しいのである。
でもそれを言えないけど。わたしは臆病な女なのだ。
 ともかく警察官は動き出した。やさしそうなおじさんが父たちから話しを聞き、おにいさんとおねえさん(おばさんと呼ぶのは気が引けるのでそう呼ぶ)は外に出てうちの敷地を確認しに行った。どうやら書類に必要らしい。残ったいかついおじさんと若いおじさんはテラスと和室を行ったり来たりして意見を言っている。わたしは邪魔にならないよう、かといって置き去りにされぬよう、和室の隅に座っていた。
 いかついおじさんはサッシに残ったガラスと飛び散ったガラスを交互に見ている。若いおじさんはその写真を撮っている。わたしは障子のことが気になってたまらず、勇気を出していかついおじさんに訊ねてみた。
「すみません、訊きたいことがあるんです」
「なんだい?」
 意外にもいかついおじさんの声はいかつくない。威張っていない。わたしはホッとした。
「障子なんですけど」
「障子?」
「はい。何で破れてないのかなって。外からガラスを割ったなら障子もめちゃくちゃになっていると思うんですけど」
「ほう」
 いかついおじさんは何やら嬉しそうに目を細くした。
「障子が開いていたんじゃないのかい?」
「閉めてあったと思います。外から丸見えだし、畳が日に焼けちゃうって母が言ってたんで」
「その通り。正解だよ。障子は閉めてあった。じゃあなんで障子は無事だったと思う?」
 いかついおじさんの声はやわらかい。
「わかりません」
 わたしは素直に言った。
「来てごらん。足元気をつけて」
 いかついおじさんは手招きし、わたしは忍者みたいにそろりそろりと近づいた。
「ほら、ここ」
 いかついおじさんが指したのは壊されたクレセント錠だ。その部分の回りにはガラスが残っていてそこにガムテープが貼られていた。
「犯人はね、最初ここだけガラスを割って鍵を壊して障子を引いたんだ。ほら、その部分だけ障子が破れているだろ?」
「ホントだ」
 こちらから見て裏側になる障子の一枚の一部分が破れていた。ちょうどクレセント錠の位置と重なる。
「だけどね、それじゃ開かなかったんだよ。下、見てごらん」
「下?」
サッシの下についているマッチ棒くらいの長さのつっかえ棒だった。左側を押すと右側が上がり、サッシが開かなくなる。わたしもよくこれを忘れて「あれ?窓が開かない」と一瞬戸惑う。
「犯人はこれを知らなかったんじゃないかな。開くと思っていたら開かなかった。で、頭にきたのか引っ込みがつかなかったのかこれでガラスを割ったんだよ」
 いかついおじさんはテラスにあるツルハシを指して言った。
「うわ。なにそれ」
「君んちのじゃないよね?」
「はい。そんなのうちにはありません」
 ツルハシはずいぶん汚れていて鉄の部分は錆びていた。
「だろうね。物干場にツルハシを置くうちはないしね」
 いかついおじさんは憎々しげにツルハシを睨む。
「まあ、そういうことなんだよ。謎は解けたかい?」
「はい。ありがとうございました」
 わたしはぺこりと頭を下げた。警察官ってスゴいな、と素直に思った。そして子どもがかんしゃくを起こしたみたいって思った自分もスゴくない?と思ってしまった。
 それから写真を撮っていた若いおじさんが現場検証を始めた。指紋をとったり足型をとったりする刑事ドラマでよく観るあれだ。まさにそのまんまのことが目の前で行われており、わたしはやっぱりドキドキしてしまった。
 それが一段落してようやく父と母は被害の確認をすることができた。二時間くらいは経っていた。わたしのお腹が「ぐうう」と鳴った。
 結果とすると、我が家の貴重品はあらかた盗まれてしまっていた。
 ダイヤの婚約指輪。結婚指輪。真珠のネックレス、イヤリング。ダイヤのネックレス。腕時計。カメラ二台。ビデオカメラ。電子辞書。ギター。予備の財布。バック。母の着物が三十着。そしてわたしのポータブルゲーム機とそのソフト全部だった。二階のカーテンは犯人が換気のために開けたようだった。幸い、というか何というか、現金とか通帳とかは父と母は持ち歩いていて無事で、家の権利書なども無事だった。
しかしわたしと母はへなへなと腰が抜けてしまった。そりゃあダイヤの婚約指輪にはかなわないけど、わたしはゲーム機をとっても大事にしていたのだ。泣き落として買ってもらったかわいいカバーと専用のポーチも一緒に盗まれてしまった。明日からともだちとも遊べなくなってしまう。仲間はずれにされたらどうしよう。ていうかゲームまだクリアしてないのに。わたしは途方に暮れた。
「酷いことするわよね」
 婦人警官のおねえさんが不憫を全面に押し出しわたしを慰めてくれた。でもわたしは余計に辛くなり、そして沸騰前のお湯みたいに怒りがぷくっと湧いて出てきた。それはもちろん犯人に対するものだ。
 それからいかついおじさんの指示により、被害届を書くことになった。といっても書くのはおねえさんで、わたしたちはそれが正しいかどうかの確認作業だった。
 届け出人は第一発見者ということでようやく母になった。ようやく、というのは父が「なんで俺じゃダメなんだ」と文句を言ったからである。父はこういう時に「家の主」というプライドを出すタイプなのだ。こんな時は男の俺でしょ?みたいなことをいかついおじさんに言い、いかついおじさんはこんな時はたいてい第一発見者がなるもので男も女も関係ない、みたいなことで応じていた。
 わたしはこんな時だからどっちでもいいと思ってやり取りを聞いていた。うっかり「わたしも第一発見者みたいなものだからなんならわたしにしたら?」と口を滑らしそうにもなった。
 二人のやり取りの頃合いを見計らっておねえさんが間に入り、父を説得した。
「やっぱり家の中のことは奥様が一番よくわかっていますから」
 この一言が効いたらしく「まあ任せているからな」と、やっぱり家の主のプライドを出して父は折れた。
 ぶっちゃけ父は爪切りがどこにあるのかもよくわかっていないのである。わかるのは自分が飲むビールのストックくらいなのだ。
「あれ?ダイヤのネックレスなんてあったっけ?」
 さっきぼそっと言った一言を聞き逃さなかったおねえさんにわたしは、器量が良いとはこういうことだ、と思い、大きく感心した。
 そして被害届の作成に取りかかった。器量が良いおねえさんは順序立てて事件の経緯を母にしゃべりながら書類に書いていった。誰が読んでもわかるように書くというのはなかなか大変なことで、またわたしはおねえさんに感心してしまった。
 その間父はしつこく「お前はもう寝なさい」とわたしに言い続けた。わたしはそれを断り続けた。「わたしだって家族の一員だ。のけ者はイヤだ」と。
 父はこの手のセリフに弱い。浪花節が大好きなのだ。
 というかこんなことは滅多に起きないのだから不謹慎にもわたしの好奇心はもくもくと夏の雲みたいに大きくなっていて、とてもじゃないが寝られやしない。だいたいわたしは腹ペコなのだ。
 かくして一時間以上かけて被害届は無事完成した。手間取ったのは被害金額だった。
 被害金額は買った値段ではなく、売ったらいくらか、だからだ。
 母は几帳面な、というか捨てられない女なのでそれら盗まれた全部のレシートと取扱い説明書、期限の切れた保証書、そして箱もとってあった。もちろんわたしのゲーム機のものもあった。
 だがら買った値段はすぐわかるのだが売った値段となると「う~ん」と真面目に頭を悩ませたのだ。
 どんぶり勘定の父の「だいたいでいいじゃねえか」という横やりも「あんたは黙ってて」とピシャリとはねのけて母はひとつひとつ丁寧に考え、答えて言った。
 母は真剣そのものだった。怒りと悲しみがごちゃ混ぜになった顔をしていた。それは戦う人の顔だと思った。それが魔法の呪文であるかのように、それが唯一の武器であるかのように、母は質問に答えていく。
わたしは母のこんな顔を見たことがなく、また犯人への怒りが湧いてきた。
 そうして警察のみなさんが帰ったのは今日よりも明日が近い時間だった。わたしたちは口々に「疲れたね」や「腹減った」などを言い、ともかくみんなでカップラーメンを食べ、それで各々分担を決めて作業に取りかかった。
 父はガラスの片付け、母は掃除、わたしはお風呂を洗う係りになった。
 お風呂場にいても父と母の罵る声が聞こえてきた。それはもちろん犯人に対して。父は分厚いペアガラスに対しても罵っていた。母はそんな父に対して罵っていた。
 お風呂の掃除が終わったわたしは二人を手伝った。父の言う通りガラスは重く、これを割った犯人の切羽詰まった感を想像してわたしは少し怖くなった。母は「周りに家がないから気兼ねなく夜中に掃除機まわせるわ」とわたしに気を使うように言った。そうでも思わなきゃやってられない、といった顔をしていた。
 それでようやく一段落ついたのは今日が昨日になっていた時間だった。こんな時間に起きているのは大晦日くらいのわたしは何やら急に不安になった。明日、というか今日は学校だからだ。
学校、休んでもいい?と父に訊くと「ダメだ」と道路を横切るネコみたいな素早さで返事が返ってきた。
「病気でもねえのになんで学校休むんだよ」二匹目のネコが横切った。
 父は少々の風邪でも休ませず「風邪はな、誰かにうつせば治りが早いんだよ」と平然と言う男である。それで自分はちゃっかり有給で休むのだ。大人はズルい。
「ほれ、早くお風呂入んなきゃ。学校、遅刻しちゃうよ」
 母も父の意見に乗っかってきた。我が家では母の意見は時に多数決をひっくり返す力があるので母がダメと言えばそれはダメなのである。母の「こんなことがあったんだから明日は学校休ませたら?」を期待したわたしの目論みは見事に砕かれた。
わたしはまた不安になってきた。わたしは睡眠時間が短いと安心できないのだ。わたしは焦ってお風呂に入り、お湯を出さずに水でシャワーを頭にかけ「ひゃあああ」と悲鳴を上げた。
それもこれもみんな犯人が悪い。

「おはよう」
わたしは寝不足でふらふらになりながらもかなこちゃんのうちにきた。わたしたちの学校は集団登校であるので集合場所まで一緒に行っているのだ。集団、といってもわたしの地区にはわたしとかなこちゃんを含めて四人しかいないけど。
「おはよう。大丈夫?」
 かなこちゃんが心配そうにわたしに駆け寄ってきた。
「うん、平気。ちょっと夜更かししちゃって」
「そうなんだってね。大変だったよね」
 かなこちゃんは心配顔を崩さず、うんうんと頷く。わたしはそれに眉をよせた。
「え?なんでかなこちゃん、わたしが夜更かししたって知ってるの?」
「だってドロボーが入ったんでしょ?」
「なんで知ってるの?」
 わたしは履いているパンツの柄を当てられた気分になった。
「わたしだけじゃなくで村中のひとが知ってると思うよ」
 かなこちゃんは臆面もなくここを「村」と表現する。そりゃそうなんだけどわたしはやっぱり「村」にはなんとなく抵抗がある。
「みんなが?」
 わたしはピンときた。言いふらしたのは新聞配達のおじさんだ。ここでは新聞配達は近所のおじさんがやっている。おじさんは朝早く新聞配達をしてそれから農作業をする働き者だ。わたしはおじさんを常々立派だと思っている。口が軽くなければいいのに、とも。
 その口が災いする典型的なタイプのおじさんに言ったのが父に違いない。父とおじさんの息子は同級生で子どもの頃より、そしていい大人になった今でもお互いの家に泊まり合う仲なのである。ツーと言えばカーなのだ。それはつまりその親ともイコールだ。
 父のヤツめ。わたしはぎりりと歯軋りする。ここの情報伝達スピードは時にインターネットすら越えるスピードで駆け抜ける。それも背びれと尾ひれがくっついた状態で。つまり正しくない。
 この間も丘の上に住むじいさんがイノシシに襲われたと伝わったが、なんと言うことはない、ハクビシンが目の前を横切って腰を抜かしただけだった。
 ここはそういう所なのである。昨夜我が家に起きた事件がどのように伝わっているか、想像は易しい。
 わたしとかなこちゃんは歩きながらしゃべる。
「ひどいよねえ。おばさんの指輪とかみんな盗まれちゃったんでしょ?」
「うん。わたしのゲームも」
「そうなんだってね」
 それからあれこれとしゃべったが全部合っていた。みんな知られていることよりもそっちにわたしは目を丸くした。
「でもおじさんスゴいね」
「は?なんで?」
「だっておばさんの指輪新しいの買ってやるって言ったんでしょ?カッコいいなあ」
 かなこちゃんの能天気な言葉でわたしは自分の誤りに気づかされる。
 おじさんに言ったのは母だ。
 将を射んとすればまず馬を射よ。
 学校で習ったことわざが浮かぶ。
 母め、なかなかやるではないか。ついでにわたしのも買ってくれないかな?

 今朝の登校の話題はもちろんドロボー事件だった。他の二人ももちろん知っており、「すげえな」と「怖いね」が飛び交っていた。
 わたしたちは毎朝徒歩三十分かけて登校し、同じ時間をかけて家に帰る。とにかく学校は遠い。通学路の土手沿いをてくてく歩き、途中にあるお地蔵様にみんなで手を合わせるのが日課だ。別にしなくてもいいのだけど、しないと何となく落ち着かない。伝統行事とはこんなものではないかとわたしは勝手に思っている。三体ある石のお地蔵様はどれもやさしい顔をしているのでわたしはつい「お父さんが新しいゲームを買ってくれますように」とお願いしてしまった。
 最近は子どもが犠牲になる痛ましい事件が多いので毎朝日替わりで先生が校門の前に立つようになった。校門にくすの木のようにそびえ立っているジャージ姿の男性が見えた。今日はわたしたちのクラスの担任の山田先生だ。もっか花嫁超募集中の先生の「おはよう」というダミ声がサイレンのように拡散している。
「おはよう。おい、昨日は大変だったな」
 先生はわたしを目に止めるとわたしに、というより周囲にわからせるように大きな声で言ってきた。しかしこれが先生には普通の声量なのだ。先生の地声は大きく、隣のクラスの先生が授業に差し支えると苦情を言いにくるほどだ。
「えっ?先生も知っているんですか?なんで?」
「そんなことはどうでもいい。こんな卑劣な犯罪はまったく許せん」
 わたしの素朴で単純な質問は先生の鼻息に吹き飛ばされた。ちなみに先生は柔道黒帯だ。
「大丈夫だ。貧乏人の米びつに手を突っ込むような輩はすぐに警察に逮捕されてしかるべき罰を受けるからな」
 先生の熱血ぶりは時に相手にやけどを負わす。本人に悪気はないが、デリカシーもない。それが良いことだと思っているから始末が悪い。
 わたしの周りの大人の男はこんなのばっかりでイヤになっちゃう。

 人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そしてまさか。
 昔の総理大臣の言葉だ。それを今日思い知ることになろうとは。まさに「まさか」だ。
 授業の前に臨時の全校集会が開かれたのだ。体育館の壇上に立つツルッパゲの校長先生が昨日の事件に危機感を募らせたようだった。というかただ単にみんなの前でしゃべりたいだけのような気がする。校長は無類のお説教好きだから。
 匿名を前置きしたがそれがわたしだということはみんな知っており、わたしは恥ずかしくてずっとうつむいていた。他のみんなは退屈でうつむいていた。親切と余計なお世話は紙一重なのだとつくづく思った。わたしって男運がないのかしら。
 校長先生の話しは長い。古いエンジンはかかりが悪いしあったまるまで時間がかかる。同じだとわたしは思った。
 校長先生は「割れ窓理論」なるものを引き合いに出してきた。それはアメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングなる人物が考案したものらしく、「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」というものだ。つまり些末な犯罪を取り締まることが大事だ、ということみたいだ。
 ホントに窓が割れてるうちはどうなるんだ。
 わたしはこっそりツッコんだが校長の話しはあまりに長く、寝不足がたたって居眠りをしてしまったわたしはそこからあとの話しはわからない。そのあとわたしは居眠りが山田先生にバレてしまいこっぴどく注意されてしまった。
 それもこれもみんな犯人が悪いんだ。

 校長先生のお経のように長くつまらない話しがみんなの熱を奪っていったかどうかはわからないけどわたしのドロボー事件はひとまず落ち着きをみせた。話題の中心に自分がなるというのは意外に疲れるものだとわかった。芸能人ってスゴいな。
 と、まあこんなことを給食のときに自分から話せるまでになっていた。
「でもさ、犯人誰なんだろね」
 隣のゆきちゃんがうさぎみたいにもぐもぐさせながら言った。
「ホントだよな。ケーサツ、捕まえられるかな?」
 向かいのたけしが豪快に牛乳を一気飲みした。
「難しいかもね。たぶん」
 その隣のともあき君がパンをちぎりながら冷静に言った。わたしの給食班はこの三人だ。
「なんでだよ」
「空き巣犯は滅多なことで証拠を残していかないからね。そうじゃないか?」
 訊かれてわたしは「うん」と頷いた。確かに現場検証をしていた若いおじさんの様子ではこれといった収穫がないことが伝わってきた。
「それに彼らは入念に下調べをしているはずだよ。周りに家がなくて日中は不在がちで犬がいなくてすぐ近くに線路や高速道路がある。そんな家をね」
 わたしの家はそのすべてに当てはまっていた。目の前に新東名高速があるのだ。父は未だに「もうちょっとこっちにきてくれれば儲かったのによう」と未練がましく言っている。
「よくそんなこと知ってるね、ともあき君。やっぱ頭いいね。足が速いだけのたけしと違うよ」
「うるせえな」
 たけしはかけっこのようなすばやさでゆきちゃんにツッコむ。
「相手のことがわかるためにはまず相手の立場になって考えないとね」
 とても同い年とは思えない大人びた言い回しをするともあき君に
「じゃあ犯人は捕まえられないの?」と、わたしは訊いた。するとともあき君は度の強いメガネをくいっと押し上げてまっすぐわたしを見て言った。
「そんなことはない。難しいといったのは捜査での逮捕さ。彼らを逮捕する方法は二つある。うちの人に見つかるか、売ったものから足がつくか、だよ。彼らは盗みに味をしめて繰り返しているからそのうち必ずボロが出る。たいていは捕まるんだよ」
「なんだよ、それ。相手が転ぶの待つしかねえってことかよ」
「それじゃ盗まれたものも戻ってこないよね」
 ゆきちゃんがたけしに乗っかる。
「悔しいけどね。だから自分の身は自分で守る意識を持たないと。校長先生も言ってただろ?」
「なにっ?お前ハゲの話し聞いていたのか?俺なんて速攻寝ちまったぞ」
「わたしも違うこと考えてて聞いてなかった」
 やっぱりゆきちゃんはたけしに乗っかる。そうして三人はやいのやいのと盛り上がる。でもわたしはともあき君とたけしの言ったことでちょっとしたアイデアみたいなものが浮かんで輪に入ることはなかった。
 転ばせることはできないものか、と。

 うちに帰ると三つのことを伝えられた。
 ひとつは新しい窓ガラスは一週間経たなければこないこと。ガラスは注文を受けてから加工するからこのくらいの日数はかかるんだそうだ。
「まあ、雨戸はあるし支払いは家財保険で何とかなるからいいけどよ。けど一週間は長いよな」
 父は鼻毛を抜きながらわたしに告げた。
 ふたつめはうちがホームセキュリティ契約をすることだ。金額は父の晩酌のビールのサイズをひとつ落とせばいい額だそうだ。父はしぶったらしいが母が即断したのだ。
「だってさ、一回こんなことあったら怖いじゃない?お母さんは勤めにでなくちゃならないし、ここらに引っ越してくる人なんていないしだいたい家も簡単に建てられないし。農家なんてちょっとしかいないのに何のための農地法かねえ」
 母は国の政策にぼやきながらわたしに告げた。
 三つめは昨日のお昼前、不審なスクーターが我が家の勝手口付近に停められていたことだ。
「昨日かなえと散歩していたらさ、あんたのとこに見たことないスクーターがあったんだよ。ひょっとしたら犯人だったかもって思ってさ」
 わたしが帰って来る前に訪ねてきた近所のやえばあさんが父たちにそう告げたのだ。ちなみにかなえは犬である。それを聞いて父たちは色めきだった。そのスクーターのナンバーがわかれば犯人逮捕に繋がるのは塩がしょっぱいくらい明らかである。それを興奮気味に訊いた父にやえばあさんは「そんなの見ているわけないじゃん」とあっさり答えたのだそうだ。
「まったくやえさんは肝心なところを見てねえんだもんなあ」と父は大層悔しがったが、わたしはうわさにならぬよう、本人たちだけに告げにきたやえばあさんの優しさに心打たれたのだった。
 父はああ言ったがやえばあさんはとても重大なことを教えてくれた。わたしはお風呂に入りながら昼間浮かんだアイデアを計画してみた。つまり犯人を捕まえるプランである。
 相手を知るには相手の立場で考える。ともあき君が言った通りにしてみる。
 手がかりはスクーターだ。なんでスクーターなのか。小回りがきいて逃げやすい、というのもあるだろうがこんな田舎ではかえって追い付かれて捕まるのがオチである。ということは犯人は車を持っていないのではないだろうか。父いわく車は値段も高いが税金や車検や保険など維持費がかかるのだ。駐車場だっている。つまり犯人は貧乏だ。働いていないかもしれない。ツルハシを使うくらいだから男である。
 当然盗んだものを売るだろう。どうやって売るか。わたしは買い取り店だとあたりをつけた。あのガラスの割り方からしてネットオークションなどいう小洒落た方法はしないに違いない。
 ではどこに。ポイントはスクーターである。スクーターということは当然行動範囲は限られてくる。でも市内ではないとわたしは思った。そんな度胸はない印象を受けたのだ。これは女の勘というやつだ。となれば市外の街中だ。たぶんひとつの店でまとめて売るに違いない。こっちには盗難品という証拠があるのだ。店の人に言えばなんらかのアクションはかえってくるはずだ。何といっても盗難品なのだから。
 そのまで考えてわたしは行き詰まる。どうやって店を特定するのか。しらみつぶしにするしかないが、わたしは子どもで学校がある。父がああいうポリシーなのだからずる休みは難しい。大人の助けがいる。誰に言おうか。警察のいかついおじさんかしら。
 ここでわたしの推理は止まってしまう。お風呂でのぼせて鼻血が出てしまったからだ。
 もう、これも犯人のせいだ。

 トントン拍子という言葉がある。物事がサクサク進む意味合いだ。まさに今日のわたしにはその軽快なお囃子が聞こえてくるようだった。
 お昼休みの時、それとなくみんなにわたしの推理をきいてもらうと、たけしが
「あ、それなら俺のねえちゃんがそういう所でバイトしてるぞ」というナイスな返事がかえってきた。その店は通うには遠いと思ったがそこは「ああ、その辺りでオトコと住んでいるからさ」というぐうの音もでない理由からだった。たけしのお姉さんは去年成人しており、年は離れているのだ。
「たけし、お姉さんは今バイト?」
ともあき君が訊ねた。
「と、思うよ?」
「じゃあ電話してみようよ」
「は?」
 わたしたち三人は一斉に間抜けな声を出した。
「お前なに言ってんだよ。電話ねえじゃん。職員室にいくのかよ」
「あるよ」
 どこかで聞いたセリフを言ったあと、ともあき君は机からスマホを取り出した。
「おいおいおい。なんでそんなもん持ってんだよ」
 たけしがエッチな本が出てきたかのように辺りをキョロキョロとうかがった。
「ん?ぼく結構忙しいから。お母さんが持っていいって」
 はああ、とわたしたちはまた三人一斉にため息をついた。ともあき君のお父さんは建設会社の社長でともあき君は週七日習い事をしているのである。ともあき君はたぶん父より忙しい。
「先生も知っているから。さあ、かけてみようよ」
 タヌキに化かされたような顔で受け取ったたけしはお姉さんのところに電話した。
「あ、ねえちゃん?たけしだけど。ん?学校だよ、そりゃ。いいじゃん別にそんなことは。これ?ともだちのだよ。ともあきの。そうそう。そんでさ、ところでねえちゃん今バイト?そう、店なんだね?あのさ、つかぬこと聞くけど昨日とか今日、男が大量になにか売りにきた?着物とか」
 うん、うん、うん、という返事をするたけしをわたしたちは固唾を飲んで聞いていた。時おり驚いたように「ウソ?」とか言っている。
「わかった。うん、そうだね、そうするよ。ありがとう」
そういって電話を切ったたけしにわたしたちは詰め寄った。
「どうだった?」
 わたしたちはやっぱり一斉に訊いた。
 たけしは何やら放心状態で「信じられねえ」と言った。
「何が?」
 またわたしたちは声を揃える。
「ねえちゃん、結婚するんだってよ」
「はあ?」
 もうわたしたちはコーラスグループのようである。
「お前、バカ。今はそんなことじゃないだろ」
 珍しくともあき君が声を荒げると、
「そうよ。今はドロボーのことでしょ」と、ゆきちゃんはやっぱり乗っかる。
「そっちじゃねえよ」
 たけしはそう言ってしだいに赤らめていく頬をわたしに向けて続けた。
「昨日ねえちゃんの店で着物を売りにきた男がいたんだってよ。他に指輪とか。たぶんお前んとこのものだよ。ラインで画像送ってくれるってよ」
「ウソ?」
 コーラスグループとラインの着信音が同時に奏でられた。
「見ろよ」
 たけしの差し出してきたスマホには集合写真で自分を探すくらい見間違えようもないものが写っていた。目をこすってしっかりと見た。
「わたしのゲームだ」
 わたしの声は自然に震えた。
「ホント?」「マジで?」「間違いないのか?」
 三人がそれぞれ言ってわたしたちはスマホを覗き込んで輪になった。
「わたしのゲームだよ」
 わたしがもう一度、今度は三人を見回しながら言った。
 その瞬間、四人で作った輪が弾け、歓喜の渦になった。
 やった、すげえ、信じられない、などわたしたちはハイタッチをするくらい興奮した。教室の他のみんなが不思議な目で見ていたけど、わたしたちはまったく気にしなかった。宝くじが当たったようなものだった。
「すげえな、これ。こんなことってあるんだな。ともあき、こういうのって何て言うんだ?」
「天網恢恢疎にして漏らさず、かな」
 普段はクールなともあき君も興奮してメガネがずれている。
「なんだ、そりゃ」
「こういうことだよ」
 でもこれは三人の仲間のおかげだとわたしは思った。そしてお地蔵様にも帰りにお礼を言わなくちゃ。
「悪いことだけじゃなくて良いことも続くんだね」
「ん?」
 わたしの言葉にたけしは首をかしげた。
「たけし、お姉さんの結婚おめでとう」
「おめでとう」ともあき君とゆきちゃんも続く。
「へへ、ありごとよ。たいぶフツツカなんだけどよ」
 たけしは鼻の下を人差し指で擦りながら照れた。
 やっぱり総理大臣になる人はえらい。
 人生に「まさか」は起こるのだ。

「ちょっといいかい?」
「どうぞ」
 わたしの返事を待ってたけしのお姉さんのゆきこさんはジッポでタバコに火をつけた。キン、という小気味よい音のあとゆきこさんは上に向かって煙を吐いた。
 わたしは今バーにいる。もちろんお酒を飲みにきたのではなく、ゆきこさんが「なんか証明できるもの持っておいでよ」と言ったので学校が終わってうちに寄り、ゲームの取説などが入った箱ごと持ってきた。学校にはゆきこさんが車で迎えに来てくれた。ここはゆきこさんの旦那様になるひとのお店なのだ。
「こういうのはさ、おおっぴらにしないもんだよ」と、ゆきこさんが妙な気を使ったためだ。
 バーはまだ開店前でお客さんはいない。お店はわたしの部屋ふたつ分くらいだけどシックな大人のお店って感じですごくお洒落だ。清潔で整理整頓されていて気持ちがいい。大きくなったらこんなところでお酒を飲みたいな、と思ってしまう。けど子どものわたしの前にはオレンジジュースが置かれ、カウンターにゆきこさんと隣り合って座っている。
「あの、ゆきこさん」
 わたしは恐る恐る訊いた。
「なんだい?」
 ゆきこさんは細く長い指でスチールの灰皿にタバコを揉み消した。なんかすごく様になっている。
「ずっと気になっていることがあるんです」
「へえ。あたしに答えられること?」
「はい。ていうかゆきこさんのことなんです」
「あたしの?なんだろ」
 ゆきこさんは楽しげにわたしを見た。
「ヤクザの事務所にダンプカーで突っ込んだって本当ですか?」
 するとゆきこさんはきょとんとした顔になり、すぐに見た目同様、宝塚の男役みたいに笑いだした。
「あんた、そんなこと気になっていたのかい?」
「はい。本当かどうか気になって」
「まあ、あそこはウワサ話が大好きな村人が多いからね」
 そう言ってゆきこさんは二本目に火をつける。
「違うよ。ダンプカーなんかで突っ込んだりしてないよ」
「やっぱり。さすがにそこまでしませんよね?」
 わたしは少し安心した。こんなことするのは映画の中だけだ。
「ダンプカーじゃなくてブルトーザーだよ」
 パチンとウインクするゆきこさんにわたしはオレンジジュースを吹き出した。
 とまあ、ゆきこさんはこういう人物なのである。わたしたちの地区では数多くの「ゆきこさん伝説」があり、それはある意味神話のようであり、ゆきこさんは百年に一度の傑物とも言えた。
「すっきりしたかい?」
 ゆきこさんは自然におしぼりをわたしに差し出した。わたしは感謝を口にしたあと、
「はい。ゆきこさんはウワサ以上ということがわかって」と言った。
 ゆきこさんはまたオスカルみたいな笑い方で「あんたおもしろいね」とわたしの肩を叩いたのだった。
「じゃあ本題に入ろうか。そろそろ店の準備もあるしね」
「はい」
 わたしはゆきこさんにゲームの取説一式を渡した。ゆきこさんはそれと自分の持ってきた紙と照らし合わせた。みるみる顔が険しくなっていった。
「製造番号、一緒だね。間違いない、これあんたのだよ」
「やっぱり」
 わたしは大喜びするのをなんとか抑えた。ゆきこさんに怒られそうだったから。
「やれやれ。うちが盗難品つかまされるなんてね。店員の教育イチからやり直しだね、こりゃ」
 その鋭い目付きにわたしまで背筋がピンと伸びた。
「あの、それでどうなるんでしょう?」
 わたしは探りを入れるようにゆきこさんに訊いた。
「返すよ、そりゃ。あたりまえじゃん」
 あっさりとゆきこさんは言ったがその目付きは鋭いままで、なにかを計算しているようでもある。
「ところであんた、このこと親父さんとかに言った?」
「いえ、まだです」
「じゃあ知っているのはたけしとともあきとゆきだね?」
「はい」
 わたしは話しの展開が読めず緊張してくる。
「警察には?言う?」
「えっ」
 わたしは何か良くないことが起こりそうでお尻の穴がむずむず痒くなる。
「お願いがあるんだけど」
「なんでしょう」
 それは「お願い」ではなくて「命令」と変換したわたしは緊張で張り詰めた。
「警察には言わないで欲しいんだ」
「えっ、でも」
 たけしも呼ばず、二人きりの理由がわかってしまった。
「わかるよ、あんたの気持ちは。これを警察に言えば犯人はすぐ逮捕される。あたしんとこにこいつの免許証のコピーがあるからね。モノも戻って犯人はブタ箱。万々歳だよね」
 はあ、とわたしは気の抜けた相づちを打った。
「でもね、それだとあたしの店がマズくなるんだよ。わかるかい?コソ泥のパクったもん買ったなんていい笑い者だよ。それだけじゃない、信用と信頼をなくしちまうんだ。それがなくなったら商売はできないよ。うちは真っ当な商売してるんだ。故買屋みたいなマネはもうしないんだからね」
 「もう」ということは前はやってたんですか?などと口が裂けても言えないくらいの迫力と必死さがゆきこさんから噴き出していた。
 ゆきこさんのお店は大手のチェーン店ではなく個人店だ。バイトとはいえ、ゆきこさんの性分からして実質店を仕切っているのはゆきこさんに違いなく、結婚を控え、「真っ当に」という言葉にウソはないと思った。世間に背を向け、後ろ指を指されてきたゆきこさんだからこそ、その大事さを身に染みてわかっているはずだから。
「それはわかります。でもそうすると犯人はそのままってことですよね?それだと」
「誰がそのままにするって言った?」
 ゆきこさんはわたしの言葉を遮って不適に笑った。
「あたしは警察には言わないでって言ったんだよ。それはいい?」
 わたしはもちろん頷く。
「オッケー。ありがと。あとはあたしに預けてくれない?悪いようには絶対しないから。約束する」
「え、でも」
「あたしに赤っ恥をかかせたヤツがどうなるか、実際に拝ませてあげるようか?」
 わたしはそれをウワサで充分知っているから結構です、と言いたかったが結局これも「命令」と変換してそれはご丁寧に、などと頭を下げてしまうのであった。

「おい、今日俺、サッカーの練習があるんだけど」
「ぼく、これから英会話レッスンなんだけど」
「わたし、家族でゴハン食べに行くんだけど」
 たけし、ともあき君、ゆきちゃんはそれぞれに今日の予定を口にし、助手席に座るわたしにルームミラー越しに仏頂面を寄越す。狭い車内はさらに息苦しくなる。窓の向こうには爽やかな秋晴れが広がっているというのに。
「まあまあ。いいじゃねえの。乗り掛かった舟って言うじゃん」
 ゆきこさんはそうのんきに言ってハンドルを握る。意外にも法定速度をきっちり守っている。
 今日は日曜日。朝早く、ゆきこさんは突然我が家にやってきた。父はレジェンドを目の当たりにして完全に腰が引けていた。こんなおじさんに「ゆ、ゆ、ゆ、ゆきこ」などと口ごもらせるゆきこさんは悪代官を前にした黄門様のようであった。
「あれからさ、ヘマをやらかしたうちの若いモンに二十四時間態勢でずっとコソ泥を張らせたんだよ」
「え?寝ずに?冗談ですよね?」
「あたし、笑えない冗談は言わないの」
 その冷ややかな視線は事実のみを語る。わたしはその若い方に同情した。
「で、おおかた調べはついたからさ。これから行ってみようぜ」
 くいっと親指を立ててまるでドライブに誘うようにわたしに微笑みかけた。わたしはごくんと生唾を飲み、怖いやら不安やらでつい、
「わたしだけじゃなくてたけしたちも気になっていると思うんです。誘ってみてもいいですか?」とウソをついてしまった。
 そりゃそうだよな、とゆきこさんはわたしと同じように各家を回り、親たちは父と同様のリアクションを示し、半ば拉致のように三人を連れてきたのであった。ごめん、みんな。
「でも、ゆきこさん。その調べてくれた方は大丈夫だったんですか?なんか二十四時間態勢って言ってましたけど」
 わたしは三人の冷たい視線に耐えきれず口数が増える。
「大丈夫に決まってるじゃん。三日や四日寝なくたって死にゃしないよ」
 あははは、と屈託なく笑うゆきこさん。あの、笑えない冗談は言わないんじゃないんですか?
 わたしたちは市内のパチンコ屋に来た。やたらに広い屋外駐車場はほぼ一杯で、たまの休みにこんなところに来てお金を使うとは、大人というのはつくづく不思議な生き物だと思った。
 ゆきこさんは迷わずお店の入り口に車を横付けした。そこが通路であることを忘れてしまいそうな潔さだった。そこに青白い顔をした若者が立っていた。その人を目に止めたゆきこさんは車を降り、その若者と言葉を交わしている。わたしはその人が不眠の番人だとわかり、心のなかで合掌した。せめていい夢を見れますように。
「ごめんね、みんな。わたし、心細くなってつい」
 わたしは後部座席を向いて頭を下げた。
「いいよ、別に。本気で怒ってねえし。まあ、あの姉ちゃんだからしょうがないよ」
「今度は前もって言ってほしいな。スケジュール調整するから」
「いいよいいよ。ぶっちゃけこっちの方がおもしろそうだし」
 たけし、ともあき君、ゆきちゃんの言葉にわたしは目頭が熱くなった。ありがとう、みんな。
 ゆきこさんが車に戻ってきた。若い方はほっとした顔で一礼して去っていった。
「一応みんなにも言っておくよ。秘密の共有は仲間の証って言うしね」
「おどかすなよ、姉ちゃん」とたけしがおどける。
「まあ社会勉強と思って聞きなよ。コソ泥の名前は鈴木信明、四十四歳で独身、市内のアパートに住んでいる。本籍は隣の県。工業高校を卒業後就職したけど一年で辞めてる。あとは職も住所も転々として今はこの街で派遣と言う名の日雇いね。元々手ぐせが悪いヤツらしくて高校の時に万引きで補導されている。でも性格は内向的で口数は少ないらしいんだけどそのくせ朝からビール飲んで仕事に行っちゃうんだから自己管理能力ゼロの典型ね。生活パターンは単調で行動範囲はすごく狭い。アパートとコンビニと仕事とここ。パチンコはほぼ毎日。休みは開店からよ。アルコール依存性とギャンブル依存性、ついでに窃盗癖でトリプルスリーってやつね」
 ニコチン依存性のゆきこさんは窓を開けてタバコに火をつけた。露骨に顔をしかめるともあき君がルームミラーに写る。
「そんで姉ちゃんどうすんだよ、その三冠王さんを」
「こういう輩はさ、ムショ行ったってムダなのよ。結局また繰り返すんだから」
 ゆきこさんは実においしそうにタバコを吸う。それがまるで新製品のスイーツみたいに。
「じゃあどうするんですか?」と、ともあき君が訊いた。
「片付けみたいなもんだよ。食べ物は冷蔵庫、服はタンスって感じで」
「前科者の受け皿ってことですか?」
「さすがにあんたは賢いね。じゃあさ、こういうの知ってる?会社の収益の八割は二割の社員で賄われているってやつ」
「聞いたことはあります」
「うん。これはさ、集団になると全体の二割は賢くて六割が普通で残りの二割がダメなやつっていう法則なのよ。でもね、この賢い二割がいなくなっても今度は普通の六割の中から賢い二割が出てくるのよ、これが。逆にさ、ダメな二割を切ったところで今度は普通の六割からダメな二割になるの。だからさ、どうやったってダメな二割は出てくるんだからこの二割をどう使っていくかがポイントなのよ」
「下の二割の方々からすれば身も蓋もないですね」
「そのおかげで普通の六割が普通でいられる、とも言えるけどね。ま、とにかくさ、この鈴木君みたいな堕落中年でも需要があるわけよ。ちゃーんと」
「需要?」
 と、ここでわたしたちの会話は「おーい、ゆきちゃーん」という甲高い声に遮られた。声の方向を見ると、二人の男がこちらに歩いてくる。一人はスキンヘッドの大男、もう一人はその半分に満たないオールバックの小男。巨人と小人である。どちらも完璧に「ワル」を見た目で表現している。金のネックレスに白いスーツはお相撲さんで言えばちょんまげとマワシくらいのわかりやすさで「そっち系」の人を見事にわたしたちに教えてくれている。その小人の方が手を振ってやってくる。
「すまないねおかちゃん。呼び出しちゃって」
 ゆきこさんが車から身を乗り出して言った。親しい感じが伝わる。
「なーに、いいんだよ。こっちもコマが足りなくて困ってたんだよ」
 おかちゃんと呼ばれた男はにやにやしながらゆきこさんの肩をたたく。巨人はおかちゃんの数歩後ろで微動だにせず仁王立ちしている。コマ、とは将棋の駒ではないことは明らかで、おかちゃんからの不穏な空気にわたしは身を強張らせる。
「そのおっさんの派遣会社がウチの系列でさ、まー何つうか勤めが長くなっちゃいそうなんだけど。そこら辺クリアになっているんだよね?」
「当たり前でしょ?ていうかだからおかちゃんに頼んだんだから」
「おー怖い怖い。ゆきちゃんまともになったとばっかり思ってたけど」
「まともよ、あたしは。だからケジメつけてんじゃない」
「まったくだ」
 何がおかしいのかおかちゃんはケラケラと笑いだした。どう考えてもまともじゃないおかちゃんであることを察しているわたしたちは一様に下を向いて目を合わさない。
「じゃ、ちょっくら行ってくるから」
「新台スロットの端に座っているわ」
 毎度、と手を上げて小人は巨人を引き連れて店に入っていった。緊張から解かれたわたしたちは一斉に息を吐いた。
「おいおい、なんだよ姉ちゃん。あいつどう考えてもヤベエって」
「わたし、怖かった」
 自分が呼ばれたと思ったのかゆきちゃんはウサギのように震えていた。
「まあ、こんな田舎の街にもさ、ああいうのはいるってことよ。勉強になったでしょ?こんなの教科書に載ってないからね」
 ゆきこさんはまるで珍しい動物を説明するガイドさんみたいに言った。
「でもさすがにこれは良くないですよ。いくら犯罪者だからって人権は尊重すべきです」
 人権?とそれが蚊の羽音に聞こえたような顔で後ろのともあき君を睨んだ。
「権利を主張するなら義務を果たしなさいよ。あいつはね、パクってきた金でギャンブルするようなクズよ。そんなヤツに尊重するような人権なんてねえよ。だったら被害者の人権はどうなるんだよ。土足で勝手に入って好き放題やられて、かっさらわれた側の気持ちはどうなるんだい。物には思い出も一緒にあるんだよ。一生に一度の婚約指輪を盗られたその男の心意気と女の覚悟はどうなるんだい。世の中を何も知らねえボウヤがえらそうな口聞くんじゃない」
 今どきの若者らしからぬゆきこさんのお説教に、同じ今どきの若者のわたしはその伝説の一部を垣間見た気がした。
「でもゆきこさん、わたしもこういうのは良くないと思うんです。悪いことをしている人になら悪いことしてもいいって思えないんです。その人と一緒になっちゃうっていうか」
 ゆきこさんはわたしに「あんたは優しいね」と目を細めた。
「大丈夫だよ。悪いことじゃないから」
「え?でも」
「あの人たちは法律を誰よりも理解しているの。たぶん弁護士よりもね。彼らは合法的に仕事をしているのよ。きちんと税金と年金を納めているし健康保険にも加入している。一般の市民と同じよ。たとえば警察沙になって立場が悪くなるのは鈴木の方よ」
「それって法律に違反しなければなにやってもいいって聞こえますけど」
「いい?ぼうや。悪いことしたらゲンコツをもらう。当たり前でしょ?あたしは当たり前のことをしているだけ。ゲンコツをするのは警察だけじゃないってことよ。まあ、見ていなさいよ。そろそろゲンコツの時間だから」
 ゆきこさんがお店の入り口をアゴで指した。
 わたしは気がとがめるのと後ろめたいのとでどきどきとそわそわで落ち着かなくなった。でもこれはすごく重要で大事なことのような気がしてわたしは脳ミソのアクセルを全開にして考える。
 ゆきこさんの言っていることはわかる。ゆきこさんの立場もわかるつもりだ。でもゆきこさんは真っ当な生活をまともじゃない方法でしようとしている気がする。
 その鈴木という男は確かに憎いし許せない。だけど、おかちゃんたちが何をするのか知らないけど、ああいう人が鈴木にゲンコツをする立場でもないし、その権利もないと思う。それはただの暴力だ。
 でもわたしが迷うのはゆきこさんが言ったことは間違っていないと思えるからだ。やり返すことだって必要だろうとも思う。でもやっぱり正しくない気がしてくる。わたしはすごく迷っている。
 正しいってなんだ。
 わたしが思う正しいってなんだ。
 みんなも何やら考え込んでいるのがわかる。きっとみんな、わたしと同じ気持ちだ。
「あっ、きた」
ゆきこさんの声でわたしたちはビクッとなった。みんなで顔を見合わせる。どうしよう、と顔に書いてある。もちろんわたしも。
 しかしゆきこさんの様子がおかしい。
「あれ?あいつ一人じゃん。おかちゃんなにやってんだろ」
 見るとなにやら慌てて飛び出してきたような髪の薄いおじさんがおろおろキョロキョロしている。どうやらあれが鈴木らしい。
 その鈴木を店から出てきた大柄な男がその襟首をむんずと捕まえて「おい、どこへ行く」と店に連れ戻そうとしている。あれは。
「山田先生」
 わたしたち五人は同時に叫んでいた。

 山田先生が月に数回、パチンコをするのはわたしたちも知っていた。
「父兄に見られるのはよろしくない」という教頭先生のお小言を「アイドルだっておならもゲップもしますよ」という屁理屈で返したのは有名な話である。でもこんなところで会うとは。
「なんだ、お前たちこんなところで。おや?ゆきこもいるじゃないか。おい、ゆきこ。お前まさか俺の生徒に良からぬことを」
 そう言って捕まえている手でこっちを指した山田先生の手は当然に鈴木から離れた。
「あ」
 全員がそう言ったと思ったらその隙に鈴木はバンビのように逃げていた。
「あっ、こらっ」
 その大きな声は逆に鈴木には追い風になったようである。車の間を縫うように逃げる。
「なんで離しちゃうのよ、捕まえてよ」
 思わず怒鳴るゆきこさんに山田先生は「無茶言うなこれを見ろ」と左手を見せた。そこには山盛りになったメダルの箱があった。
 なにがなんだかわからないけどわたしも思わず叫んでいた。
「追いかけよう」
 わたしが車から飛び出すとみんなも一斉に降りてくれた。わたしたちは鈴木の逃げた方角に駆け出す。
「おーい、お前ら。どうなっているんだ?」
 先生、それはわたしが訊きたいです。

 このパチンコ屋は前に田んぼだったところを埋め立てて建てられた。何ができるのかと思ったらパチンコ屋で、がっかりしたのを覚えている。その通り沿いは電器屋やファミレス、コンビニなどが並び、裏に入ると住宅街である。わたしたちが駐車場を抜けて通りに出ると鈴木らしき男が住宅街に向かって左に折れていくのが見えた。距離は百メートルは離れていそうだ。
「いやがった」 
 一目散に駆け出すたけしの背中にともあき君が「挟み撃ちにするぞ」と声を上げ、たけしの「おう」と言う返事を待たず「ゆき、来い」と言って来た道を戻る。ゆきちゃんは「うん」と言って、ともあき君について行く。わたしはともあき君たちとたけしの背中を交互に見て、たけしの方に駆け出した。
 そこにスカートをはいたおねえさんがいたなら、スカートがめくれて「キャア」と言ったに違いない。そのくらい、たけしの足は速い。そのめちゃくちゃなフォームでめちゃくちゃなスピードを出すたけしの走りはすでに学校の伝説にさえなっている。                                                                                   
「待て、この野郎」という声を置いてたけしはあっという間に角を曲がって見えなくなった。わたしは足の筋肉をフル稼働させて必死に走る。横っ腹が痛い。
 わたしが角を曲がるとそこは住宅街で、新しい家、古い家色々だ。たけしは今まさに追い付かんとしていた。鈴木はアゴが上がって苦しそうで、対してたけしは水の中の魚のように直進していく。
 遠くでもそれとわかる必死の形相で振り向いた鈴木は何かを投げた。それが見事おでこに命中したたけしは「痛っ」と転んでしまった。
 そして鈴木はなおも逃げようと走り出した。そこへ「ワン、ワン」と犬の鳴き声がしたと思ったらそこの家の垣根からふたつのかたまりが飛び出してきた。ともあき君とゆきちゃんだ。どうやらよその家に入ってショートカットしたらしい。二人は「止まれ」と、両手を広げて並んだ。服に葉っぱがついている。
 鈴木はわたしたちとともあき君たちを交互に見てともあき君の方に走り出した。二人ともわたしたちより背が低いので力ずくで通ろうという算段だ。
 勝ったな。
 わたしは走りながら勝利宣言した。向かってくる鈴木にゆきちゃんがすっと前に出て鈴木の懐に入り、当て身を食らわせて気絶させてしまった。ゆきちゃんは背が小さくても合気道を習っており、全国大会に出場したほどの腕前なのである。
 ともあき君がスマホを取りだし、どこかに電話している。わたしはたけしに駆け寄り、「大丈夫?」と声をかけた。
「おう、大丈夫。勢いついてて転んだだけだよ」
「そっか。でも何投げられたの?」
「これだよ」
 それは一枚のメダルだった。たぶんパチンコ屋のものだろう。
「どういうこと?」
 わたしたちは声を揃えた。

「俺はな、博打の女神にはモテるんだよ」
 事実、山田先生はギャンブルで負けたことがない。去年、競馬で大穴を当てた山田先生は他の先生たちを誘ってどんちゃん騒ぎの大盤振る舞いをしてその配当金を一晩でつかってしまった伝説を持つ。そんな山田先生の未来の花嫁さまもきっとスゴい伝説を持っているはずだ、とそれも伝説のようになっている。わたしの学校は伝説ばっかりだ。
 今日も順調にメダルを増やし続けた山田先生はメダル入れの箱が一杯になったので新しい箱を用意しようと席を立った。箱は反対側の通路にあったのだ。空箱を持って自分の台に戻ると明らかにメダルが減っていた。自分の右隣は大当たりをして賑やかだ。山田先生は左隣の鳴かず飛ばずの台に座る男を睨んだ。その男が鈴木だった。
 山田先生が生徒にするように詰問すると鈴木はとぼけた。山田先生におとぼけは通用しない。一夜漬けのテスト勉強のように。「だったらメダルを数えてみようや。俺は何枚出したか覚えているぞ」と、鬼の形相で問い詰めた。やかましい店内でも山田先生の怒号は遮れない。途中、大男と小男が声をかけてきたが「こっちが先だ、あとにしろ」と一喝するとすごすごと去っていった。そしてその一喝の隙に鈴木は逃げ出し、山田先生はメダルの箱を持って追いかけた、というわけだ。
 鈴木は警察に連行された。山田先生がメダルを数えるまでもなく、店の防犯カメラにその瞬間がバッチリとらえられていて御用となった。余罪がアカすりみたいにボロボロ出てきた鈴木はそのまま留置所行きと相成った。雑な手口のわりに今まで捕まらなかったのは鈴木に泥棒をそそのかす小悪魔が微笑んでいたのかもしれないと思った。
 鈴木が警察行きになったのはわたしたちが鈴木を追いかけている間に山田先生がゆきこさんをやはり鬼の形相で問い詰め、洗いざらい事情を白状させていたからである。往年の大横綱のような右上手をがっちりと決められ、さしものゆきこさんも土俵を割るしかなかったのである。ちなみにゆきこさんもわたしたちの学校の卒業生であり、当時新任だった山田先生の生徒でもあった。ゆきこさんはその迫力で子どもにかえってしまったのかもしれなかった。
 すべてを知った山田先生は「バカ野郎」とゆきこさんを叱りつけた。
「お前は何様のつもりだ。たとえ相手がどんなろくでなしであっても他人の人生を好き勝手にできる権利はお前にない。ないのに使ったらお前は必ずその報いを受けるぞ。借金と同じだ。お前にその覚悟はあるのか?いや、ないね。自分の見栄でこんなバカげたことを考えたお前にはな。ゆきこ、守るものと捨てられるものを一緒くたにするな。それから結論を一人で出すな。人は一人じゃ答えを出せないんだ。相談しろ。誰かを頼れ。レジェンドだってそうしていいんだ」
 ゆきこさんは目を真っ赤にして聞いていた、らしい。ゆきこさんは全面的に否定したが。でも叱る、というのは期待とか愛情の裏返しであることくらいゆきこさんにもわかるはずだった。
 ともあき君が電話したのはゆきこさんの携帯電話だった。ゆきこさんに「警察がくるからさ」と言われ、親指をハリウッドスターのようにビシッと立てた。それを見た二人もほっとしたように笑顔をみせた。でもなんとなくモヤモヤが晴れないわたしは山田先生に電話を替わってもらい、誤解を覚悟でずっと気になっていたことを訊いてみた。
 先生、正しいってなんですか?と。
 山田先生はデリカシーがないけどウソも言わないのだ。
 すると先生は「先生は学生の時、柔道の大会で優勝したことがあるんだ」と、それが懺悔であるかのように話しを始めた。
「決勝の相手は優勝候補どころか日の丸を背負ってもおかしくないほどの有名選手だった。ところが三回戦でその選手は怪我をした。勝ちはしたがね。怪我は結構深刻だったがその選手は準決勝の試合に出て見事一本勝ちをした。会場はその選手を讃えていたよ。そして決勝は俺だ。俺はその選手の怪我をしているところを中心に攻めて判定勝ちで優勝した。会場からはブーイングが起きたがね。なあ、俺のしたことは間違っていたか?正しくなかったか?」
 山田先生の声は穴の空いたバケツみたいに電話口から漏れているから、みんな自然に聞き入る。
「人には外れてはいけない道がある。越えてはならない一線がある。しかし仮にそうせざるをえなくなった時、そこに後悔しない信念があること。その覚悟を持つこと。正しいとはそういうことだと先生は思っている」
 先生の言葉は矢のようにわたしの心に突き刺さった。
「逆に訊くがお前、なんで鈴木を追いかけた?先生に訊くまでもなく、お前はちゃんと正しさを理解している証拠じゃないのか?ただ自信がない。違うか?」
「そうかもしれません」
「それこそ大きな間違いだ。そこにいる他の三人と比べているのならな。確かにお前はたけしのように速く走れない。ともあきのように頭が良くない。ゆきのように強くもない。だけどその三人を動かしたのは誰だ?その三人がお前についてきたのはなぜだ?その三人がお前を慕っているのはなぜだ?」
 わたしは胸の奥がジン、と熱くなり、目から大粒の涙がポロポロこぼれた。
「答えはもう出ているだろ。さあ、電話をきるぞ。先生もそっちに行くから」
「はい」
 そう言って電話は切れた。泣いてしまったけどずっと出なかったくしゃみがようやく出たようにすっきりした。
「ハックション」
 たけしがホントにくしゃみをした。汗をかいて体が冷えたらしい。見るとたけしの鼻から鼻水が垂れ下がっていた。それを見てわたしたちは大笑いした。たけしがそれを鼻に引っ込めたものだからわたしたちは更にお腹を抱えて笑った。
 わたしたちの笑い声が高い秋の空に上っていった。

 人生のターニングポイントは過ぎてから気づくものだ。
 これはわたしが今考えた。
 鈴木の追跡騒動から一夜明けるとわたしたちはすっかり有名人になった。警察署の署長から感謝状が送られ、テレビ取材を受けたからだ。たけしが足の速さを自慢するために調子に乗って走ったらタイムが年齢別で全国トップになったから大騒ぎになった。ともあき君の偏差値の高さも明らかになり、ゆきちゃんの見た目と強さのギャップも万人受けした。足で追い込み、的確な判断で回り込み、一撃で悪人を倒した、その痛快さは全国に広まり、わたしたちは一躍時の人になったのだ。ちゃっかりわたしをふくめて。
 ゆきこさんのお店はゆきこさんが心配したことはまるで起きず、むしろ被害を受けたと同情の声さえあがった。
 あれからほどなくしてゆきこさんはそのお店を惜しまれつつ辞めた。ついでにタバコもすっぱりやめた。赤ちゃんができたからだ。
「やっぱケジメつけないとな」
 そう言い、高らかに笑うちょっとふっくらとしたゆきこさんはもうママの顔になっていた。
 おかちゃんが鈴木に何をしようとしていたのかは結局わからず終いだ。でもそれをわたしはゆきこさんに訊こうとも思わないし、ゆきこさんもきっと言おうとも思わないだろう。
 謎は謎のままでいいこともあるのだ。
「けどさ、山田のヤツ、あの時なかなかいいこと言ったよな。俺、ちょっと見直しちゃったよ」
「わたしも感動しちゃった」
「実はぼくも」
 ともあき君がそう言うのだからその評価は確実な担保を得たに等しい。しかし当の山田先生はシーラカンスのようにわたしたちのニュースのあとも変わらない。
相変わらずジャージ姿で、デリカシーに欠けていてがさつで、声が大きくて、時々、熱血が勢いあまって自分がヤケドをしている。
 博打の女神様にはモテているかもしれないが、肝心の縁結びの神様にはそっぽを向かれている山田先生の脂っ気のある顔からは女っ気はない。
 花嫁募集中を公言してはばからない山田先生は、からかわれているとも知らず、生徒に自分のアピールポイントを真顔で熱血に語っている。
 そんな山田先生にわたしは言いたい。
 安心してください、山田先生。十年後には結婚できますよ。もしその時にまだ独身だったら、素敵な女性が現れて山田先生のお嫁さんになってくれます。
 信じられませんか?でもね、普通といわれる人生を送る人はいないそうですし、その人生には三つの坂があるみたいですよ。
 上り坂、下り坂、そして。
 まさか。

おしまい


 

伝説の少女

読んでくださりありがとうございました。ご意見ご感想などお願いいたします。

伝説の少女

空き巣被害にあった普通の少女が犯人を捕まえます。どうやって?それは読めばわかります。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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