ここが世界の果てなら

限りなく透き通った水の中に沈んでいくような、そんな鈍い感覚のまま生きている。
傷付けることも傷つくことも出来ずに、「自分」の形を見失い続け、やがて周りと同化して透明になっていく。
鮮烈な刺激を求めているくせに、どうしても傷つくことだけ怖くて仕方なかった。
私の中の柔らかな部分にナイフを突き立て深く抉ってくれる存在。
世界は私の味方ではない。
同じ顔がきちんと整列する教室の中で、ただ鈍感なまま在ろうとした。
だってそれが一番だと思った。
世界に傷付けられたいわけではない。
ただ一人、この心にナイフを突き立てていいのはただ一人だ。
――それが彼女であるなんて、思いもしなかったけど。



白木の床の上、砕けた硝子ペンの破片が空を吸い込んで水色に輝いている。

「いたっ」

囁くよりも小さな声で彼女は言った。
指先で玉になっている赤色が、硝子の破片の一つを同じように赤く染めている。

「……大丈夫?」

見かねて私は声を掛けた。
隣の席でありながら、彼女と声を交わしたのはこれが初めてのように思える。

「……ええ、大したことないわ」

そう言って切り揃えられた黒髪を揺らした。首を片側に軽く傾げるようにして私に頷いてみせる。

「良かったらこれ使って」

机にしまったままの小さなポーチを開けて絆創膏を一枚抜き取ると、彼女へ渡す。
彼女はしばし驚いたように目を瞬いたが、目だけで薄く笑って指先から絆創膏を受け取った。

「あなた、意外に親切なのね」

その歯に衣着せぬ物言いに面食らって思わず固まってしまった。
少しして、滲むような失望が胸に広がっていくのが分かる。
……ああ、やはり「こういう子」だったのか。
噂ぐらいは知っていた。
無愛想で失礼なことを平気で言える子、関わり合いにならない方がいい子、なんだか影では散々言われ、実際彼女を「いないもの」として扱う同級生も多かった。
誰かとつるむこともなく、話に花を咲かせて笑い合う友人もいない。
いつもぽつんと教室に一人でいて、そこだけ切り取られているような、見えない壁があるような、そんな印象だった。
席は隣同士だったものの、寮では部屋が離れていて、彼女がどうしているかはあまり知る術がなかったが、この調子では恐らく寮でもこうなのだろう。
彼女の人柄を受け入れがたく、思わず眉根を寄せてしまった。
絆創膏を差し出したまま静止していた手を引っ込めて、素早く前に向き直る。
心の奥がざわつくのが分かった。
悪戯に爪を立てられ、引っ掻かれたような。
それでいて悪びれていない、彼女。
顔が熱い。
別に間違ったことをしているわけではないのに、無性に自分が恥ずかしく腹立たしかった。
反対側で彼女が絆創膏を開けている気配がした。
包装材をめくって中身を取り出す乾いた音がする。
どうにか気分を変えたくて窓の外に目を向けた。
窓の外では空模様が変わり、今は雨が降っている。
規則的なペースで降る人工雨。
光の射し込まない、そもそも恒星の光すら届かないこの星の上で、特殊な分厚いドームに守られ私たちは暮らしている。
さっきまでは人工の恒星がドームの上を通過していた。
今は雲に遮られて姿を確認することは出来ない。
もう少しで夏季休暇だ。
休暇に入ってもほとんどの同級生は帰ることなく寮に留まる。
時折学校側の企画であるサマーキャンプに参加する子もいたが、稀だ。
このドームの中は学校と寮があるだけで、別の都市に行くのには特殊な手続きを踏まなくてはいけない。長期休暇においては大量の宿題が出ることもあり、それも帰省の足を鈍らせているのかもしれない。
ホームシックになるような子も少なく、ただ無為に休みを消化していくことが恒例となっていた。
私も、この学校に入学したのはなぜだったか時々思い出せなくなることがある。
親の写真すら持っていないし、電話をかけようとしても端末に番号が登録されていない。
まるで最初から「何もいなかった」ような気すらする。
この同級生がいる狭い世界だけが真実で、かつて両親と過ごした時間は幻だったのではないか。
私だけでなくそう考える同級生は多かった。
教師たちへなぜかと問うつもりは特にない。
「疑問」ですらないからだ。
チャイムの音で一斉に女の子たちが立ち上がる。
教壇のモニターが切れたのを見て、私も同様に立ち上がって帰り支度を始める。
隣の彼女は割れた筆記具を片づけ終わったようで、どこかあらぬ方向を見ていた。
視線の端でそれを確認して、私はプリーツスカートを翻し教室から出ていく。
彼女と関わり合いになるのはもうやめよう。
戒めのように心の中でそう呟いた。



食堂で夕飯を摂った後、寮内のアトリウムをぶらついていた。
硝子の屋根の骨組みの間から、ちかちかと星が光る様子が見える。
インク瓶を丸ごと沈めたような濃紺の空の上で、ぽつぽつと白い輝きが明滅するさまは、作り物であっても、美しかった。
アトリウムの両端の壁にはそれぞれ寮の窓がびっしり並んでいる。
白く滑らかな床が続くアトリウムには植物園のように間隔を置かず多くの木が植えられ、それでも伸びた枝が屋根を突き破らないよう、時々剪定されているようではあった。
等間隔で設置された散水機が、設定されたタイマーの通りに動いては木々に水をやる。
これだけ人工のものに囲まれていて、この緑だけ自然なのが何だか逆に不自然だ。
木々の間や側には、ぽつぽつとまばらにハンモックやベンチが据えられていた。
私はハンモックの上にゆっくりと横たわる。
右に左に不安定に揺れながら、屋根の向こうの夜空をじっと見つめた。
水に濡れた草の青い匂いが、私の鼻先をかすめる。
さわさわと風が頬を撫でて、ともすれば心地よさに寝入ってしまいそうだった。

「サイダー水飲まない?」

突如降ってきたのはかすれた声。
閉じかけていた瞼が驚きに開かれる。
彼女だ。
改めて言うことではないが、はっきり言って、綺麗な子ではなかった。
鼻がぺちゃんこで、頬はそばかすだらけだし、脚がストンと同じ太さだ。
緩急がなくて人形みたいな脚をしているのに、指定のスカートを膝の下で揺らすから余計に不格好に見える。
正直なところ、頭も別段よくはなかった。
それなのに、どうしていつも自信に満ちた顔をしてるんだろう。
一人ぼっちでいても平気な顔をしている。
まるで自分はトクベツだと知っているみたいな、そんな顔をしていつも澄ましている。

「どうして? 私、今日初めてあんたと話したけど、合わないって思ったわ」
「知ってる」

そう言いながら腕を突き出してくる。
手に持った透明なガラス瓶から、嗅ぎ慣れた爽やかな香りがした。

「あ、ミントの匂い」
「このフレーバーが好きなの」
「……私も」

彼女の顔は見ないまま話を続けた。
人影のないアトリウムの中で、不思議と彼女の声は穏やかに響く。
続く言葉がなかったのに気付いた私は、仕方なく半身を起こして彼女の手からソーダ水の瓶を受け取った。
私をじっと見つめる真っ黒で丸い瞳。

「ねぇ、あんたさ」

瓶を傾けて一口ソーダ水を飲んだ。
ミントの香りが浮かぶ泡と共に弾ける。

「みんなと同じようにしてた方が仲良くなれるのに、どうしてしないの?」
「必要ないもの」

いやにはっきりと、間髪入れずに返ってきた答え。

「私ね、あなた一人と仲良くなれたらそれでいいの」

同じソーダ水をもう一本持っていたようだ。
ハンモックの下の地べたに座って、瓶の口に唇を寄せている。
散水機の水でスカートが濡れるのはあまり気にならないらしい。
確かにそういうことに頓着しなさそうではあったが、何となく憚られて私はハンモックから降りた。

「私、あんたと仲良くなるつもりないわ。でもソーダ水、ご馳走さま」

アトリウム内にある寮のドアへと向かう。
お互いの部屋が離れているせいなのか、私の放った言葉のせいなのかついてくる気配はない。
それでも少し離れた頃、まるで堪らないというように笑った声と一緒に、「こわがりなのね」という声が聞こえた。
かっと背中が燃えるように熱くなる。
なぜそういうことを平然と言って私の心を波立てようとするんだろう。
一瞬で心の中が潮騒みたいにざわめいて、心臓が早鐘を打つ。
わざとなんだろうか。
振り返って言い返すような気丈さは持ち合わせていない。
無性に悔しいのに、何も言えないならそれは負けを認めるのと同じことだ。
言い返したい気持ちが心のどこかにあったような気がしたけど、そういう時に限って適切な言葉が出てこない。
もう負けでいい。
関わりたくない、関わらない、私はそう思っているのに。
きっとまた彼女から近付いてくる気がしてならない。予感と言うよりそれは確信に近かった。
何が楽しくてそんなことをするんだろう。
とにかく早く彼女から離れたくて、足早にドアへ向かう。
私のそんな様子を見て笑っていたに違いない、そう思ったけど。


変わり映えのない日々が幾度か過ぎていき、彼女と声を交わすことはもうないと思っていたある日、彼女は私の寮の部屋へ突然訪れた。
その時には既に、私が感じていた確信に近い予感はただの気のせいになっていた。
あまりに突然のことで、私は声も出ず彼女を凝視するしか出来ないでいる。

「何なのあんた……」

呆然と口についた言葉でハッと我に返る。

「あら、駄目だったかしら?」

チリッと胸の奥が苛立つ。どうも癇に障って仕方ない。
その自信は一体どこからくるのだろう。
私は自分を空虚なものだとしか思えない。
「自分」を定義づけるものは、日ごとに失われていく。書きつけた日記帳のインクは滲んで、白紙のページが増えていくような虚無感。

「あんた、自分が特別だって思いすぎじゃない?」

思わず苛立ちが声に乗る。

「……あら、自分が特別だと自覚することの何がいけないの?」
「……はあ?」

素っ頓狂な声を出して彼女を見つめた。
別段、変なことを言ってしまったというような様子は見られない。
彼女は本気で言っているのだ。

「自分がありふれた人間だと思い込んで、傷付いて落ちぶれていくよりよっぽどいいと思わない?」
「……それは」
「自分に自信がなかったら自信満々の他人を見ているのは不愉快だわ。でもそれを「自信のある他者」へぶつけることで、自身を振り返らないことを正当化したら駄目よ」
「…………」

何も返せないまま彼女を見つめることしか出来ない。
私の中の基礎が揺さぶられているのを感じて、無性に腹が立つ。
それでも彼女が間違ったことを話しているわけではないことはありありと分かり、口を噤むことしか出来ない。
私の価値観を責めている。
そう感じた。

「あら、そんな顔しないで。私、あなたと喧嘩しに来たわけじゃないもの」
「私の考えは尊重してもらえない? 私はあんたと関わりたくないの」

近付いて来ようとする彼女を制止するよう、強く言い放つ。
もうこれ以上私の内側をかき乱さないでほしい。

「ねえ、こわがらないで。違うものを受け入れるのはこわくないわ」

穏やかにそう言って、彼女は一歩二歩と距離を詰めてくる。
こわくなんかない、私は変わりたくないだけ。
内側を揺さぶる彼女に、これ以上入ってきてほしくないだけだ。

「私たち、ずっとひとりぼっちなのよ。終わるまで、誰とも繋がらないの?」

目の前に立っている彼女がベッドに座り込む私を見下ろしている。
プリーツスカートから覗く二本の脚。
目の前に影が出来て、気が付くと彼女の唇が私の唇に触れていた。
何も考えられずに、ミントの匂いを吸い込む。
何度か瞬きした後、弾かれるように顔を背けた。

「な、にするの!」

それだけ何とか言ったが、彼女は意に介さず私の肩を押してベッドに倒す。

「顔が真っ赤よ」

覆い被さられ、切り揃えた黒髪が鼻先をくすぐった。

「あんたはおかしい」

そう低く言う声を遮るように、再び唇を重ねてくる。

「やめてよ」

ひどく動揺したまま彼女を無理矢理押しのけた。
彼女はわずかにバランスを崩したが、不思議そうに首を傾げてこちらを窺っている。
私は怪訝な顔をしていたに違いない。眉根に力が入っているのが自分でも分かる。

「あんたが言ってた仲良くなりたいって、こういうことなの?」
「……違うわ。でも、あなたに触れてみたかったの。驚かせてしまってごめんなさい」
「……ねえ。私と同じ顔の同級生なんて何人もいるじゃない。どうして「私」なの?」

ベッドの上で制服の乱れを直しながら、諦めたように私は尋ねた。
同じ顔の同級生。
誰がいなくなっても分からない、記号と化した女生徒たち。
私もその中の一人だ。
この狭い世界は空虚で、住まう同級生は同じような顔をしている。
美醜において多少のばらつきはあったものの(例えば私と彼女の顔のタイプはまるで違うが、彼女と同じような顔の生徒はゼロではない)、私は自分と同じ顔の人間を毎日見ている。
そういうことに特に疑問も持たずにいた。
話せば生まれつきに仲がいい気もしたけど、一度離れてしまえばその子が誰だったのか、「よく似ているうちのどの子だったのか」、もはや特定出来ない。
それでいて同級生たちは、「個体差」をつけようと努力するわけでもなかった。
同じ制服を着て、同じ学校に通い、同じ寮で眠る。
毎日皆と同じものを食べ、ありふれた会話をする。

「あなただけよ、あのソーダ水を飲むの」

しばらくの間を置いて、くすりと笑いながら彼女は答えた。
ミントフレーバーのソーダ水。
以前彼女が私に一本差し出したソーダ水。

「そうなの?」
「ええ」
「……それだけ?」
「それだけよ。それだけじゃ駄目かしら」

私は面食らって黙り込んでしまった。
それと同時に何だか「私」を認識してもらえたことがとてもくすぐったく、嬉しくて、唇を噛んで俯いた。

「変なの……」

絞り出すようにそう言って、彼女を見つめ返す。

「ずっとじゃなくて構わないわ。せめてここにいる間だけでいいの」

そう言った彼女は、随分と真摯で、それでいて抗いきれない諦念とを織り交ぜた表情を浮かべていた。
私は静かに頷く。
泣きそうな顔で頷いた彼女の必死さを、恐らく私はこれから先知ることはないのだろう。
同じように他者と繋がることに必死になることはないのだろう。
そう思いながら、夜も更けた頃合いに、同じベッドで眠りについた。
静かな夜の中、人の温もりが側にあるということがこんなに心地いいことを、私はその時初めて知った。


夜空の下、彼女と二人アトリウムにいた。
何の前置きもなく、彼女は静かに囁く。

「こうして繋がっても、私たちのいくところは決まっているの。……私たちは名前もないのよ」

私はハンモックで夜空を見上げながら彼女の声に耳を傾ける。
ソーダ水の香りがアトリウムに立ち上った。
あの日と同じように地べたに座った彼女は、瓶に口をつけてソーダ水を飲んでいた。
私たちはどこからきてどこへいくんだろう。
彼女は何を知っていて、私は何を知らないんだろう。
なぜ名前も持たずにこの学校で決められた通り授業を受け、寮で暮らすのだろう。
いずれ彼女の言うように終わるんだとしても、私たちは何も知らないままだ。

「きっといつかこのミントの香りも忘れてしまうわ」

夜風が彼女の髪の毛を揺らすのを黙って見つめる。

「終わってもまた会える?」
「いいえ」
「そう……」

否定されて何の感慨もない。
彼女は確かに私の心をナイフで貫いた。そのナイフはそのままにしてある。
その方が彼女を覚えていられる気がした。
もしもここが世界の終わりで、私たちは何も紡げずに終わっていくのなら、一度だけでもいいから本物の夜空を見て彼女と笑いたかった。
そういう感傷もきっとまた、忘れてしまうのだろう。
全て忘れて全て終わってしまっても、ここに二人がいたことだけは永遠だ。
いつか終わってしまう作り物の世界で、私はぼんやりと、同じ明日がまた来ることを願った。


<了>

ここが世界の果てなら

ここが世界の果てなら

いつか終わる彼女との閉鎖的な世界で。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted