カマイタチ BITT

俺は一線を、超えた。

 
夢だということは、わかっていた。
「ねえ、パパ。起きようよ」
 隣で寝ていたあすみが起き上がり、俺の体を揺らす。立春は過ぎてもその足音はまだ遠い朝、俺は首だけ持ち上げて眠気まなこで壁掛け時計を見た。時間を見て大袈裟にため息をつく。
「あすみ、まだ六時だよ?起きるのは早いよ。せっかくの日曜日なんだから、パパもう少し寝てたいよ」
 三十五歳になり、寄る年波というものをひしひしと感じている俺はくるりとあすみに背を向ける。
「いいじゃん、起きてよ。今日は仮面ライダーでしょ?録ってほしいの」
 あすみはその小さな両手で俺の背中を押す。
「おい、やめろって。落ちちゃうよ」
 文句を言いつつ俺は渋々ベットから下りた。夜明け前の薄暗い寝室は空気まで凍りついているように冷える。まったく、なぜ子どもは休みになると早起きするのか。その向こうで狸寝入りを決め込む同い年の妻の恭子を横目に身震いをしながら内心愚痴った。
 七時半からのボウケンジャー、八時からの仮面ライダーカブト、八時半からのふたりはプリキュア。日曜朝のこの時間帯は四歳になるあすみにとってゴールデンタイムなのである。
 特に仮面ライダーカブトの水嶋ヒロは大のお気に入りで録画させて何回も観る。テレビの前に陣取るあすみは毎度恭子から叱られているのだ。
パパが一番好きって言ってたのにな。
 一人前に女の移ろいを見せるあすみに、俺は複雑な思いにかられる。
「でもあすみ、まだテレビやってないよ?一時間以上早いもの」
「一時間?」
 あすみはまだ「時間」というものがよくわかってない。
「だからもう少し寝させてよ」
 そう言って俺はすばやくベットに潜り込んだ。
「あーっ。ずるい。寝ちゃダメ」
 あすみは俺の頭をポカポカと叩く。
 そう、これは絶対に夢だ。だから覚めないでくれと俺は願う。俺は夢の中でしかあすみに会えないから。愛しい我が子。あすみはずっと四歳で時間を止めていた。
 繰り返される「起きて、起きて」と言う声がやがて近くに聞こえてきた。   
 

     1
「起きてください」
 目を開けると、見知らぬ男性の顔が間近にあり、俺は思わず後ずさった。
「なっ、何だ、君は。人のうちに勝手に上がり込んで」
 指したそのひとさし指が拳銃にでも見えたのか男性は両手を上げて「ちっ、違いますよ、落ち着いてください」と慌てて言った。
「違うって何が違うんだ」
 言いつつ俺は馴染みのない雰囲気に憤る声を尻すぼみさせられた。そして間の抜けた声で男性に訊ねた。
「ここはどこだ?」
「わかりません」
 男性は大きく首を横に振った。
 ここはコンクリートでできた空間だった。
 かびとほこりの臭いが鼻につく。部屋着のジャージであぐらをかいた尻の下が固く冷たい。靴下の足裏には細かい砂利がついていた。くぐもった冷気でくしゃみが出た。少し頭痛がする。直にコンクリートの上に寝ていたから背中が痛い。一本の蛍光灯が手が届きそうなほど低い天井にぶら下がり、点滅していた。それが照らすここは独房のような狭さだ。窓はない。男性の向こうにドアが見える。そして『足』が見えた。
「おっ、おい。なんだ、あれ」
 俺はうわずった声で男性に訊いた。
「落ち着きましょう、ね?」
 立ち上がる俺を制した男性を払いのけ、その足の主を目の当たりにした俺は「うわっ」と言ったあと言葉を失った。
 その体のラインは女性だった。肩までの黒い髪は艶なく広がり、ドアの方に頭を向けてうつ伏せで倒れていた。顔は見えない。いや、恐ろしくて見る気も起きなかった。焦げ茶のパンプス、肌色のストッキング、クリーム色のパンツ、そして同じ色「だった」ジャケット。その背中にナイフが柄まで深々と突き立てられ、生地は赤黒く染まっていた。
 どう見ても他殺死体だった。不謹慎にもその迫力に目がくぎ付けになる。
「し、死んでいるのか?」
「おそらく」
 その落ち着いた物言いに俺はカッとなって男性に怒鳴り散らした。
「なんなんだ、これは!ここはどこだ?君は誰だ?あの死体は何だ?よくそんなに落ちついていられるな!君が殺したのか?一体何が目的だ!」
 詰め寄る俺に男性も声を荒げた。
「し、知りませんよ、僕だって!僕もさっき起きたんです。そしたら全然知らないところで、人が二人倒れていてしかも一人は死んでいた。どうなっているのか訊きたいのはこっちです!」
 男性は声を震わせながら必死に訴えてきた。
「君も?じゃあどうやって、誰がここに連れてきたのか、わからないのか?」
「知りませんよ」
 そう言って男性は腰が抜けたようにへなへなとその場に座り込んだ。俺は腕を組んで唸った。
「ホントなんだな?」
「嘘ついてどうするんですか」
 その顔は嘘をついているようには見えない。
「だったらその前の記憶はあるか?ここに来る前はどこにいた?」
 目を赤くした男性は俺を見上げると「会社帰りに知人と食事をしていました」と消えそうな声で言った。なるほど、今さら気づいたが男性はスーツ姿だった。そして今日は金曜日だったと思い出した。
「それから?」
「タクシーでうちに帰りました。夜の九時くらいだったと思います。そこから記憶がないんです。あなたは?」
「俺は家にいた。メシを食って酒を飲んで横になっていた。たぶん時間は君と同じくらいだと思う。で、気づいたらここってわけだ」
「どうなっているんでしょう?」
「俺が訊きたいよ、それは」
 ですよね~、と力なく言った男性は膝を抱えてうつむいた。
「おい、しっかりしろ」
 俺は男性の前に座り、遭難者を助けるように肩をゆすった。間近で見る男性は自分よりもずいぶん年若く、髪にも肌にも若草のような潤いに満ちていた。俺は体とは逆に細くなってきた髪を撫でながら訊いた。
「君、名前は?」
「鈴木といいます」
 顔を上げて鈴木が言った。少し面長だが俳優のような整った顔立ち、目元は少し下がっていて気弱な印象だが、知的そうで学歴の高さが伺えた。黒い髪は短く清潔に整えられていて、眉毛も切り揃えられている。紺色のスーツは素人目でも高級品とわかる仕立ての良さで、袖から出るワイシャツの長さも計算されているようだった。手足の長さから自分よりも十センチは身長があり、五頭身でドングリ型の自分とは百倍モテそうだとこんな状況でもひがんでしまう。
「俺は佐藤だ。よろしくな」
 笑顔を作ったつもりだったが歪んだようにしか見えなかっただろう。
「よし、鈴木君。なんでここにいるのかわからんが、とにかくこの状況はヤバい。助けを呼ぼう。警察に電話するんだ。君、ケータイ持っているだろ?」
「ないんですよ」
 それこそが最大の災難だ、というような絶望的な顔で鈴木が声を震わせた。
「ない?落としたのか?」
 鈴木は大きくかぶりを振った。
「違います。僕、ケータイはいつもズボンの右ポケットに入れているんです。落としてもすぐわかるように。目が覚めた時、最初に確認しました。どこにもありません。きっとここに連れてこられた時、盗られたんです」
 まるで身ぐるみはがされたように鈴木は身を縮める。
「なんてこった」
 俺は天を仰いだ。押さえつけるような無機質なコンクリートが不安を、頼りなく点滅する蛍光灯が危機感をあおってくる。
「佐藤さんは持っていないんですか?」
「ないよ。残念だが」
 そうなんですか、とまた鈴木は途方に暮れたような声を出した。
「しっかりしてくれよ。ないものは仕方がないだろ?とにかくここを出なくちゃ」
 俺は膝を叩いて立ち上がり、ドアを見た。いやでも女性の死体が目に入ってくる。口の中が渇いてきた。
「あのドア、何か変じゃないか?」
「何がです?」
 鈴木はドアでなく、俺を見た。
「見たとこは鉄製のドアみたいだが、ドアノブがない。そこに液晶パネルがある」
「液晶パネル?」
 鈴木は怪訝そうにドアを見て、顔を歪めた。死体が目に入るのだろう。液晶パネルは小型のタブレットくらいの大きさだ。
「ちょうつがいが見えるから内側に開くんだろうがあのパネルが妙だ。どうやって開けられるんだ?」
「ホントですね」
 鈴木が首をかしげる。
「頑丈そうだから体当たりでも壊れそうにないな。かと言って他には窓らしきものもないし、道具もなさそうだ」
 俺は周囲を見回し、自分の真後ろにあるテーブルに気づいた。
「おい、何だ、あれ」
 スチール製でサイズは学習机ほど、椅子はなく、その上には十五インチサイズのノートパソコンが開いた状態で置いてあり、そしてその隣にはノートパソコンとほぼ同じ大きさの水槽があった。水槽には緑色の液体で満たされ、その中央にウキのようなテニスボール大の白いボールが浮かんでいた。水槽の下部からケーブルが伸びていてパソコンと繋がっている。
「なんでしょうね」
 鈴木は電化製品と水が隣り合っているというアンバランスさを不思議がっているように見えた。二人で恐る恐る腰を引きながら近づくと暗かった画面が急に明るくなり、「ひえっ」と二人揃って情けない声を上げた。
「おっ、脅かしやがって」
「対人センサーですかね?人が前に立つと起動するんです、きっと」
 まじまじと鈴木はパソコンを見た。
「仕組みなんてどうでもいいだろ」
 さっきの悲鳴に体裁が悪くなった俺はつい、大きな声になる。画面を見ている鈴木は、その目を泳がし始めた。
「さっ、佐藤さん。見てくださいよ、これ」
 緊張感みなぎる鈴木の声に「なっ、なんだよ」と及び腰の俺も画面を見た。そして大きく目を見開いた。そこには『罪深き者達よ』という文字が画面一杯に写っていた。
「なんだよ、これ」
「わかりません」
 眉をよせて顔を見合わせる俺達をどこかで見ているようなタイミングで画面が切り替わる。
「パワーポイントのスライドショーか何かでしょう」
 そう言った鈴木に俺は、出てきた文章に目が釘付けになり返事ができなかった。
 画面にはこうあった。
『君達はある重大な罪を犯した。それによって一人の人生を大きく狂わせ、そして壊した。その罪は重い。よって君達は罰を受けなくてはならない。報いを受けなくてはならない。償いをしなくてはならない』
「罪?なんのことだよ。それで僕達を拉致して監禁したっていうのか?」
 憤る鈴木の声は、やはり俺の耳には半分も届いていない。胃が鉄球でも入れられたように重く、心臓が誰かに鷲掴みされているように痛む。
 罪。あれは俺の罪なのか。それが家族の幸せを粉々に砕いたというのか。
「あっ。次のページになりましたよ」
 鈴木に促され、俺は強く拳を握り、画面を見た。
『君達は同等の報いを受けなくてはならない。君達も破壊されるべきだ。その水槽に満たされている液体は爆薬だ。しかし即死はしない。爆薬の量を調整したからだ。が、命の保証もない。君達は塗炭の苦しみに耐えながら死ぬことになる』
「なんだって?爆弾?」
 鈴木は普通の皿だと思っていたものが実は国宝だった、というような反応を示した。俺は黙って水槽を凝視する。そしてまたページが変わった。
『忠告しておくがその爆弾はとてもデリケートだ。浮いているボールは水平を保っていてそれがセンサーになっている。少しでも液体が揺れたらその瞬間に爆発するからそのつもりで。なお、ドアも同様だ。無理矢理開けようとすれば君達はそのドアからとてつもない反発をくらう。彼女のようになりたいのならご自由に』
 鈴木の「ゴクリ」という生唾を飲む音ですら、起爆のきっかけになるような緊迫感に包まれた。またページが切り替わる。
『ただ、死の平等性が生を担保しているというのがわたしの持論だ。だから君達にチャンスを授けよう。死に場所を選ばせてあげよう。そこから脱出するヒントを与えよう。しかし君達は犯した罪を消すことはできないし、罰から逃れることはできない。わたしから逃れることはできない。なぜならわたしは「カマイタチ」だから。君達の魂の緒に、わたしのカマはすでにあてがわれている』
 ページはそこで止まった。どうやらこれで終わりのようだ。
俺は息苦しさを感じて大きく呼吸をした。極度の緊張で無意識に息を止めていたらしい。
視界の端で何かが揺れていると思ったら鈴木の体だった。ここが冷凍庫と勘違いするほど震え、顔は青ざめている。
「おっ、おい。鈴木君。どうしたんだよ?」
 鈴木は瞬きもせず俺を見て「カマイタチですよ」と聞かれてはまずいことのように声を潜めた。
「カマイタチ?」
「知らないんですか?殺し屋カマイタチですよ。今、ネットで有名なんです。殺人予告のメールを受け取った人は確実に三日後カマイタチに殺されるっていう」
「バカバカしい」
 鼻で笑う俺に対して、鈴木は頭を抱えた。その様子に俺の顔は強ばっていく。
「ホントだったんです」
「なんのことだ?」
「実は僕、カマイタチからメールが来ていたんですよ。三日前に」
「なんだって?」

 ライブドア事件が世間を騒がせていたその年のバレンタイン前の日曜日、俺達家族はショッピングモールにいた。地上二階建て、広さ三万六千㎡の巨大な施設には百五十以上のテナントが並び、そこはバレンタイン商戦の真っ只中だった。恭子が来年度、あすみが通う幼稚園の保護者会の役員になったため、スーツを新調しに来たのだ。園の行事だけでなく会合や講演の出席なども多く、必要に迫られてのことだ。二十代に買ったスーツが着れなくなっていた、というのは口が裂けても言えない。
 恭子が買い物をしている間、俺とあすみは施設内のゲームセンターにいた。あすみは出来もしないのにゲームセンターが大好きで、お菓子のクレーンゲームに真っ先に向かった。
「パパ、これ取って」
 賑やかな店内に負けじとあすみが大声を出した。指したのは巨大なポッキーだ。
「無理だよ、こんなの。やめようよ。それよりあっちでジュースでも飲もうよ」
 少ない小遣いがゲームで消費されてしまうことに納得できない俺はジュースであすみを釣ろうとした。
「えーっ!いいじゃん、一回だけだから」
 と、散々に文句と駄々をこねられ、結局財布を出すはめになった。俺は娘に甘い。店内は雑多な人で溢れ、子どもの奇声とゲーム音とボタンを叩く音が渦になっていた。
 財布を開けると小銭がなかった。近くにいた若い店員に両替機の場所を訊き、俺はあすみを連れて向かった。両替機は店の端に申し訳なさそうに設置してあった。千円を入れると百円玉が十枚落下した。それを握り、「どうせここで使っちゃうんだろな」とため息をついて振り向くとあすみがいなくなっていた。クレーンゲームのところかと戻ったがそこにもいなかった。店内を見回すが見当たらない。さてはもよおしたかとトイレに行き、しばらく待ったが誰もトイレからは出てこない。不安が墨汁のように広がり、手の中の百円玉が手汗で濡れていった。俺は血相を変えて店内を探しまわり、ついには「あすみ!」と大声で叫んでいた。回りの人間が怪訝な表情をよこしたが気にも止めなかった。
 なぜなら金では買えない宝物が消えてしまったのだから。

     2
「落ち着けよ、鈴木君。メールってなんだ?そもそもカマイタチってなんなんだよ?」
 俺を見た鈴木の顔は急に老け込んで見え、その陰影はさながら幽霊のようでこの部屋の薄暗さと空気も手伝って俺は背筋が寒くなった。
「これは僕の知人から聞いたんですが」と、まるで怪談でも始めるような低く神妙な声色で鈴木は語り出した。
「まず、『カマイタチ』と言う名前は個人名ではなく、その集団名を指します。その始まりは江戸時代後期と言われていて元々は将軍家、つまりは徳川家を守る隠密集団だったんです」
 俺は城の天井裏に潜む忍者をイメージした。
「明治維新前夜のその時代、社会全体が混沌としていましたからね。将軍様とは言え、いつ寝首をとられるかもしれない。それで隠密裏にその筋のエキスパート達が集められたそうです。それは幕府の中でも極一部しか知らないトップシークレットでした」
「ボディーガードみたいなものか」
 俺は合いの手を入れる。
「ええ、そうですね。彼らの目的は、徳川家の盾であり、切り札であり、それは決して表に出てはいけない存在でした。しかし彼らは次第に幕府にとって都合の悪い人物の抹殺を手掛けるようになっていきました。命令か、自発的かはわかりませんが」
 密室という重苦しい空間にいるからか、鈴木の声もやがて地を這うように低くなっていく。
「彼らは多くの要人を暗殺していきました。その中にはあの坂本龍馬殺害にも関与したという説もあるくらいで」
「根拠はあるのか?」
「予告状ですよ」
 これが死相というものか、と思えるほど鈴木の陰影は濃くなった。
「彼らはターゲットの人物に殺害の予告状を送っていたんです。非業の死を遂げた要人達の元には必ず謎の書簡が届いていた、という証言があるそうです。ただ、現物は処分されていますけど」
「アポイントをとるとは随分紳士な殺し屋だな。だがなんで現物がないんだ?」
「そうしろ、と書かれていたからですよ。書簡を持つ者を殺しにいく、と。僕のメールにも既読後はすぐに削除しろって書いてありましたし。その時はイタズラかと思ってたんですけどね」
 鈴木は観念した罪人のような悲壮感漂う笑みを浮かべた。
「どれほど相手に警戒させても名前の通り目に見えぬカマイタチのように近づき、完璧な仕事をこなす彼らは幕府内で力を持ち始め、ついには独立した組織にまでなったんです」
「よく幕府が許してくれたな」
「それどころじゃなかったでしょうからね。歴史が示す通りです。その後幕府は解体され、明治政府が誕生しましたがカマイタチはそのまま政府に取り入れられたんです。彼らはすでに幕府に見切りをつけていて根回しをしていたんでしょう」
「いつの時代も優秀な人間は転職には困らないらしいな」
 皮肉めいた俺の冗談を「汚れ仕事だからですよ」と、受け流す。
「裏の部分、闇の部分。権力者達はそれらが深く濃いですからね。そこを受け持つ人材を求めているんです。自分達は手を汚したくないから」
 その若さのわりに妙な説得力を感じた俺は感心するよりも警戒心を抱いた。
「明治、大正、昭和、平成。時代は変わっても彼らは変わらず国家の中枢にいながらアンダーグラウンドを暗躍し続けています。国の不文律となった彼らは闇の司法と言っても過言ではないのです」
 こんなゴシップ記事にもならないようなくだらない話は誰も耳を貸さないだろう。ツチノコの方が余程信憑性があるというものだ。だいたい世論が何よりも怖い政治家や官僚達が殺し屋集団を容認しているわけがない。それこそ墓穴を掘るようなものだ。
しかし俺達は今、その殺し屋集団に拉致監禁され、さながら棺桶のような部屋の中で液体爆弾と向き合っている。
 体験は合理性や整合性の無さなど吹き飛ばす圧倒的な説得力を持つものだ。
「でも、なんでそんなやつらが君にメールをよこすんだ?君、ひょっとしてスパイか何かで国家の機密情報とか盗んだとか?」
「まさか。僕は普通のサラリーマンですよ」
 やはり鈴木は俺の冗談には耳を貸さず、真顔で答えた。そこに何か含んだものがあるように聞こえたのは気のせいか。
「検索してしまったんです」
 鈴木はそれが人を轢いてしまった、という取り返しのつかない過ちであるかのように顔をひきつらせた。
「検索?ネットの?」
「はい。最初は興味本意だったんです。怖いもの見たさというか、都市伝説みたいなものじゃないですか。知人と一緒になって面白半分に自宅のパソコンでカマイタチに関するページのリンクにジャンプしていったら偶然カマイタチのサイトの入り口に来てしまったんです」
「ちょっと待て。普通ホームページを作らんだろ、殺し屋が。だいたい偶然でそこにたどり着くなんておかしいじゃないか」
 俺は誰もが思う疑問を口にした。
「もちろん僕もそう思いました。信じてなんていませんでしたよ、これっぽっちも。だからクリックしてしまったんです」
 俺は慎重さと配慮の足りない鈴木に唖然とした気持ちになる。
「そしたら画面に十秒のカウントダウンが始まっていてアカウントとパスワードの入力を求めてきました。なんだ、これ?って二人で呆気にとられていたら強制的に別のページに飛ばされていました。そのページには大きく「警告」と表示されていて、その後すぐにカマイタチを名乗るメールが来たんです」
 身から出た錆。このことわざがこれほどぴったりとくる事例はそうないだろうと思った。
「びっくりしましたよ。僕のアドレスに直接送られてきましたから。でも知人がワンクリック詐欺みたいなものだから放っておけば問題ないって言いましたし、僕もそう思いました。だからすぐ削除してそのアドレスを迷惑メール登録したんです。それからメールはきてませんでした。まさか本当だったなんて」
 鈴木は債務者に逃げられた保証人のようにまた頭を抱えた。
「でも変じゃないか?君は警告されただけだろ?それがなんでこんな風になるんだ。だいたい俺はどうなるんだ。カマイタチなんて知りもしなかったし、関わったこともない。でもさっきの文章だと俺達は名指しされて拉致された。どういうことなんだ?」
「わかりませんよ、僕に訊かれても」
「カマイタチのことに詳しかったじゃないか」
「それとこれとは違いますよ」
 天井の点滅する蛍光灯よりも頼りなく鈴木は返事をした。まったく今時の若者は肝心なことがわかっていないし、見えていない。
 カマイタチの出自、それからいる、いないはここでは考えないことにする。とにかく俺達はカマイタチを名乗るやつから命を狙われていて、状況は限りなく切羽詰まっている。だが何としてでもここらか脱出しなくてはならない。こんなところで死ぬわけにはいかないのだ、そう俺は力強く鈴木に向かって言い、
「鈴木君。力を合わせてここから出よう。誰かが助けに来る可能性は低い。俺達が何とかするしかない。起こったことを悔やんでも始まらないだろ?こんなことあまり言いたくないが急いだ方がいい」と、続けた。
「確かにのんびりはできませんよね。いつカマイタチが来るかもしれないのに」
 鈴木はうろたえ始めた。
「それより先に俺達の頭がどうにかなってしまうよ。ここがどこかもわからん、窓がないから今昼なのか夜なのかさえわからない。下手すりゃ曜日も曖昧だ。こうなると人間の精神は狂いだす。それに蛍光灯もいつ切れるかわからん。そうなったらここは真っ暗闇だ。どうなるか想像つくだろ?」
「したくないですね」
「俺もだよ。ここであんな風になるのはゴメンだ」
 俺は死体の女性に視線を送った。
「彼女も僕達と同じように拉致されて、それで無理矢理ドアを開けようとしたんですね。じゃあどこかにナイフが飛び出してくるような仕掛けがあるんでしょうか?」
 鈴木は上へ下へ横へと視線を忙しく巡らす。
「わからんよ。わかるのはぐずぐずしてたら俺達がああなるってことだ。急いでドアを開けよう」
 ドアに向かう俺を鈴木は制した。
「ちょっと待ってください。どうするつもりですか?あのパネルは怪しいですよ。何かしたら彼女のようになりますって」
「ナイフがどこからか飛んでくるだけだろ?それがわかっていれば避けられる」
「そんな無茶な」
「じゃあどうするんだ?このパソコンで開け方を検索するって言うのか?」
 思わず声を荒げる俺に鈴木は「あっ」と何かを思いついたように手をパチンと鳴らした。
「なんだよ?」
「ヒントですよ。脱出するヒントを与えるって書いてあったじゃないですか。きっと続きがあるんですよ」
 目を輝かせて鈴木はパソコンと向き合った。しかし今度は画面が暗いままで、スリープモードから立ち上がらない。
「あれ?おかしいな」
 そう言って両手をキーボードのうえで広げる鈴木に、今度は俺が焦って制した。
「待て待て。何をするつもりだ。そのパソコンは爆弾と繋がっているんだぞ?触って爆発でもしたらどうするんだ」
 鈴木は、原始人を見るような顔で俺を見た。
「大丈夫です。スクロールするだけですから。キーボードには触りませんよ」
 子ども扱いするな、とでも言いたそうな声を出し、鈴木はキーボード下のスクロールボタンに触った。
 すると画面が明るくなり、メッセージが現れた。鈴木のホッとする表情が照らされる。
『ではヒントだ。それは君達二人に共通する六桁の番号だ。それは何か、それをどう使うか、考えるのは君達だ。ではスタート』
「スタート?」
 俺達が声を揃えるのと同時に水槽の液体が黒く変色していく。
「さっ、佐藤さん!」
「なんだ、こりゃ?」
 目をむく俺達をあざ笑うように画面は切り替わり、デジタル表示がカウントダウンしていく。時間は十分。あっという間に左端の数字が九になった。
「これってまさか」
「チクショウ!爆弾が起動したんだ!」

 なんてこった。俺はゲームセンターを飛び出してあすみを探した。混雑しているがショッピングモールの通路は広く、見通しは良い。
 ショートヘア、白のボア付きフリース、ジーンズ、ピンクの靴。俺の目に入る雑多な客の中に、あすみと同じ服を着た子どもはいない。
 誘拐。
 その単語が頭に浮かび、全身に鳥肌がたった。違う、違う。俺はそれを完全に否定しようとする。これはかくれんぼか何かだ。ゲームをしぶった俺に対するあすみのあてつけだ。びっくりさせようと思っているだけだ。
 そう思ってもくさびのように打ち込まれたその単語は、頭から離れることはなかった。
 あすみ、あすみ。どこにいるんだ。お願いだから出てきてくれ。パパが悪かった。このお金は全部ゲームに使っていいから。そのあとにレストランへ行こう。好きなものなんでも頼んでいいから。だからあすみ、出てきてくれ。
 あちこち駆けずり回り、五分ほどでゲームセンターに息を切らせて戻った。やはりあすみがいないことを確認した俺は目を血走らせてインフォメーションセンターに駆け込んだ。そして恭子に電話をし、急いで来るように伝えた。特徴を警備員に教え、店内を探してもらった。放送もした。
 それから一時間後、三時間後。警備員は警察官に代わっていた。
そして十年後。
 あすみはまだ、見つかっていない。

     3
「どっ、どうしましょう。佐藤さん」
 鈴木が俺の後ろに隠れて肩越しに叫ぶ。
 人は想定外の事態に陥った時、その人間性が如実に現れる。鈴木はこういう人間であり、こうやって生きてきたのだ。俺は冷ややかな視線を鈴木に投げた。
「落ち着け、鈴木君。こうなったらヒントから答えを出すしかない。考えよう」
 俺は鈴木を隣に立たせた。こいつの盾になるなんて、冗談じゃない。
「ほ、本物でしょうかね、爆弾」
「ここまでしておいて偽物です、なんてことあるわけないだろ?犯人はカマイタチなんだから。カマイタチの予告は完璧だって言ったのは君だろ?」
 苛立つ俺に「そっ、そうですけど」と鈴木は口ごもる。
「でも佐藤さんすごいですね、こんな時でも冷静で」
「二人で慌てても仕方ないだろ」
 俺は「こんな時」に余分な口を聞く鈴木が神経に触った。
「しかしヒントが俺達に共通する六桁の数字?何なんだ?」
「初対面なのに。何でしょう?」
「しかも六桁と指定してきた。六桁か」
「住所、電話番号、誕生日。どれも違いますよね、桁が違うし、同じってことがありえない」
 鈴木が目線を上にして思いつくことを羅列した。確かにそれらは共通しない。
「でも俺達には共通する何かがあるんだ。カマイタチはそれで俺達を拉致したんだ」
「僕達に期待させるだけだったとか?」
「それこそ意味がない。それなら彼女のように俺達はとっくに殺されている」
 俺は親指で後ろの彼女を指した。
「それもそうですよね。僕達の共通項?」
 鈴木は眉間にシワを寄せて考え始めた。俺はパソコンを見る。数字は八になっていた。つまり残り八分だ。
「鈴木君。お互いに言葉に出していこう。俺達はどこかでつながっているんだ。それがわからなければ答えは出ない」
「そうですね」
 鈴木は神妙な顔で頷いた。
「鈴木君、ちなみに歳は?」
「二十五になります」
「俺と二十も離れているのか」
 俺は思わずため息をついた。本音を言えば若くて羨ましい。
「どこに住んでいるんだ?」
 鈴木が答えた地名は俺の住む街と十キロ以上離れたところだった。親元を離れて妹と暮らしているらしい。親の方が年が近そうなので一応訊いてみたが知らない名前だった。
 だから卒業した学校もお互い違っていた。小学、中学はもちろん、高校は鈴木が進学校、俺は工業高校だから毛色から違う。
 高校卒業後も俺達は平行線を辿る。俺が地元の自動車部品メーカーに就職したのに対し、鈴木は俺でも知っている有名大学に入学、四年後にこれまた俺でも知っている有名商社に就職していた。総合職であるが、入社一年目ということで地元の支社に配属になったそうだ。今は派遣社員の俺から見れば、憎らしいくらい順風満帆な人生を歩んでいる。きっと手取りは俺の倍だろう。
 俺と鈴木は育ってきた時代も環境も違っていた。容姿ですら違う。同じなのは性別くらいなものだ。よくよく考えれば俺と恭子が付き合いだした頃に鈴木は生まれたのである。自分の子供でもおかしくない年齢差だ。
 まったく異なる人生を歩んできて、これからもそうなるはずだった俺達の共通していることはなんなのか。あれこれお互いに訊いたが、共通の知人さえいない。時間はすでに三分を経過していた。
「佐藤さん。もう時間がないです。というか僕達に共通していることなんてないんじゃないですか?考えるだけ無駄のような気がしてきました」
 落ち着きをなくした鈴木はネズミのように徘徊し始めた。首のネクタイはだらしなく緩んでいる。
「無駄?そんなはずはない。カマイタチは数字に限定した。きっと答えはある。だから考えろ。それがたぶんドアを開けるパスワードに違いない。でなければわざわざ「脱出」という言葉は選ばない。だからまだ時間はある。諦めるな」
 俺は辛抱強く鈴木を励ます。時間はまだあるが、余計なことをしゃべる時間はない。
「気休め言わないでくださいよ。もう僕達はここで死ぬんです。チクショウ!なんでこんなことに!なんで僕がこんなめに!チクショウ、チクショウ、チクショウ!」
 鈴木が髪をかきむしったその両手でスチールの机をバシバシ叩いた。
 それを見た俺は血相を変えて鈴木を羽交い締めした。
「何やっているんだ、バカ!このボールはセンサーじゃないか!爆発したらどうするんだ!」
 俺は急いで鈴木を机から離し、その間に体を入れた。
「バカって言うな!」
 鈴木は俺の右肩を思いきり右手で突いてきた。のけぞり、腰が机に当たったので慌ててボールを見た。液体は粘着性があるようで、ボールの動きは少なかった。息をついた俺は振り向き、鈴木を睨み付ける。
「何をするんだ!」
「うるさい!僕をバカにしたあなたがいけないんだ!」
 血走った目で鈴木が叫ぶ。俺はそれで頭に血がのぼるよりも逆に冷えた。これが本来の鈴木なのだ。
「そろそろ化けの皮がはがれてきたってことか?」
「なんのことです?」
「とぼけるな」
「何がですか」
「お前」
 そこで俺は鈴木を指差す。
「お前がカマイタチなんだろ?」
 たとえば、「今あなたが食べたお肉は実はひき蛙なんです」と言われた時のように鈴木は一瞬きょとん、とした顔になりそのあと俺には大袈裟とも見える驚き方をした。
「なっ、何言っているんです?僕もカマイタチにさらわれてここにいるんですよ?」
「それはこっちのセリフだ。さも自分も被害者のように見せかけやがって。一体何が目的だ?」
 俺はずいっ、と鈴木に詰め寄る。
「佐藤さん、冗談はやめてください」
 鈴木も負けじと胸を反らせた。
「真面目だよ、俺は。そして至って冷静だ。だからわかったんだよ、お前がカマイタチだって」
「佐藤さん、違いますよ」
 鈴木は大きく首を横に振った。それは出来の悪い生徒に分数の計算問題を教える小学校教師のようだった。
「違う?違うだって?それはお前が俺に言ったこと全部じゃないのか?気がついたらここにいた?暗殺集団カマイタチ?殺人予告?そんな証拠がどこにある!あのパソコンの文言なら俺にもメールがきていないとおかしい。だいたいパソコンはお前の正面にあって、最初に気づくはずだ。お前の話はデタラメだ!」
「だから僕がカマイタチだって言うんですか?それこそおかしいですよ」
「それに爆弾を起動させたのもお前だ。俺は触るなと言ったのに。自分が仕掛けたからなんだろ?」
「ヒントですよ、ヒント!ヒントを見るためです!なんで僕もここにいるのに爆弾を起動させるんですか!」
「解除方法を知っているからに決まっているじゃないか」
「佐藤さん、もう本当によしましょうよ。さっき肩を突いたことは謝りますから。取り乱してすみませんでした。さあ、早く答えを見つけましょう。もう時間がありません」
「俺を殺す時間はたっぷりあるんじゃないのか?」
「佐藤さん!」
「うるさい!」
 俺の上げた金切り声に鈴木は明らかにたじろいだ。俺はその胸ぐらを掴む。
「もういい加減にしろ!どれだけ俺の人生をメチャクチャにすれば気が済むんだ!もう十年なんだぞ!」
「さっ、佐藤さん?」
 狼狽した鈴木の顔を俺は間近に引き寄せる。
「俺は一人娘を誘拐された一番の被害者だ!犯人を逮捕できないのは警察が無能だからだ!それなのに警察もマスコミも俺を容疑者扱いしやがって。保険金目当てだって?ふざけるな!金のために子供に手をかける親がどこにいるって言うんだ!」
 鈴木の目が揺らいだ。
「佐藤さん、僕はあなたとここで初めて会ったんですよ?正気に戻ってください」
 そんな鈴木の懇願に俺は聞く耳を持たない。
「おかげで俺は仕事をなくして妻とも離婚して家もなくした。俺はずっとあの時ゲームセンターで娘の手を握っていなかったことを後悔しているんだ。それが罪だって言うのか?だからお前は俺に罰を与えるって言うのか?」
「佐藤さん、言っていることがメチャクチャでわけわかんないですよ。誰と何と勘違いしているんですか?ああっ、もう一分切りましたよ!時間がないです!佐藤さん!」
 鈴木は俺の後ろのパソコンを覗いて叫んだ。
「うるせえ!俺はこの先生きていたって何の楽しみもねえんだ!こうなりゃお前も道連れだ、このイカれ野郎!」
 俺は鈴木の首に手を回した。鈴木の首から血液の流れが濁流のように速くなっているのを感じた。
 断末魔か、それとも生への執着か、とにかく鈴木は物凄い顔で俺を睨み付けた。
「イカれているのはあんただ!」
 鈴木は俺の横っ面を殴り、俺が机に向かってたたらを踏む隙に離れ、ドアに向かって猛ダッシュした。俺は殴られた頬をさすりながらパソコンを見る。あと二十秒。
 死体を踏みつけ、鈴木は液晶パネルにタッチした。テンキーが表示された。十秒前、とパソコンから音声が流れる。
 うわああああっ、と鈴木が雄叫びを上げて数字を押していく。五秒前。
 ブザー音のあと、ガチャリ、と鍵の外れる音がしてドアが薄く内側に開いた。しかし死体が邪魔でそれ以上開かない。「チクショウ!邪魔なんだよ!このバカ!」
 鈴木は眉毛をつり上げて死体を罵倒し蹴りつける。
 三秒前。二、一、0。
 ひいいいいっ、と鈴木が頭を抱えてうずくまった。俺はそれを微動だにせず直視する。
 そして部屋は静寂に包まれた。
 放心状態の鈴木がゆっくり振り向いて俺を見た。俺は十年経ってやっとこの言葉を言う。
「あすみを返せ、この変態野郎」

 半年前、俺は闇サイトでカマイタチの存在を知った。カマイタチは裏社会の調査業者で、カマイタチにとっての法律とは幼児が服を汚すことに頓着しない程度のものだった。
 事件当初は蜂の巣を突っついたように大騒ぎした世間も、二年も過ぎればすっかりそれは過去の出来事になっていた。そう言えばあの子どうしちゃったのかしら?と、最近テレビで見ない芸能人の扱いのように婦人達の世間話のひとつとしてあげられる、その程度のものに。
 冗談じゃない。俺達には「あの時」なんかじゃない、「今」だと言うのに。
 俺と恭子は離婚していた。二人で同じ目的を持ち、同じ目標に向かって行くことができなくなった。その俺達を結んでいたものはあすみで、その結び目はほどけてしまったからだ。そして何よりお互い疲れ果てていた。
 遅々として進まぬ捜査に俺は怒りを通り越して嫌気が差し、自分で行動を起こしていた。ビラ配り、ネットでの情報提供、そして興信所との契約。それが非合法の闇サイトに行き着くのにそう時間はかからなかった。
 俺は目的のためなら手段を選ばないと固く誓った。あすみを連れ戻すこと、そして犯人に復讐すること。
 時間が解決するなんて嘘っぱちだと俺は気づいた。時間が経てば経つほど、二つの思いは強く、巨大になっていった。それが俺の生きる目的になっていた。その二つ以外、何も見えなくなっていた。
 狂った自分を、俺は自覚した。
 何度も危ない橋を渡り、身の危険を犯しながら俺はようやく辿り着いた。それがカマイタチだった。
 成功報酬五百万円を現金で。俺が十年前に娘を誘拐した犯人を特定できるか?という問い掛けの答えだった。
 そのシンプルな一言に絶対的な自信と信念を感じた俺はカマイタチを信用した。俺は貯金を崩し、友人、知人、親戚、クレジット、ありとあらゆるところから金を借りまくって工面した。
 そして半年後。カマイタチは俺の信用を裏切らなかった。どうやったのかは不明だが、有能な外科医が他の臓器を傷つけず腫瘍のみを切除するようにカマイタチは犯人を割り出した。
 それが鈴木だ。

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「意味がわかりませんよ、佐藤さん」
 見苦しい様を見られたことの屈辱からか、それとも単純な怒りか、鈴木は顔を真っ赤にして立ち上がり、声を凄ませた。
「何の意味だ?変態野郎か?」
「ふざけるな!」
「ふざけているのはてめえだ!このクソが!」
 コンクリートの壁がひび割れるほどの怒声を俺は発した。
「てめえが押した数字はあすみの誕生日だ!何でそれを知っているんだよ!どうしてそれが俺達に共通しているってわかったんだよ!それはてめえがあすみを誘拐したからだろうが!」
「それでこんな手の込んだマネを?僕をハメるために?」
 鈴木はネクタイを乱暴に外し、床に投げ捨てた。
「拉致された気分はどうだ?他人に命を握られた感想は?俺はあすみと同じ恐怖をお前に味あわせたかったんだよ。ふん、びびって自分から犯人ですって白状するんだから情けない限りだな、鈴木。これもカマイタチのおかげだよ」
「カマイタチ」
 鈴木は奥歯が割れるような歯軋りをした。そして、「ここはどこなんだ?」と訊いてきた。
「さあ?どこぞのつぶれた病院らしいぜ。ここは霊安室なんだとよ」
「爆弾は?」
「液体爆弾なんてあるわけないだろ?あれは水と砂糖とゼラチン混ぜたゼリーの元だってよ。腹が減ったならやるぜ」
 鈴木は血が流れるほどに目を血走らせ、槍のような視線を突き刺してきた。
「今度はてめえの番だ。俺の質問に答えろ」
 俺はゆっくりと距離を詰める。
「あすみはどこだ?」
 鈴木は一瞬視線を下にした。死体に刺さったナイフを見たに違いない。俺は狩りをする野性動物のように神経を研ぎ澄ます。
「てめえの動機なんてもうどうでもいいんだよ。そんなもん知ったところでクソよりも役に立たん。俺はあすみをうちに連れて帰りたいだけだ。それから」
 俺は全身が泡立っていくのを感じた。怒り、憎しみ、そして悲しみ。憎悪の火種で俺の殺意が紅蓮の炎となって燃え上がる。
 この男が大事に積み重ねてきた俺達の人生を一瞬で粉々にした。腕に止まった蚊のように、この男を殺すことに何のためらいもなかった。
「てめえをうちに帰さない」
 俺は鈴木に飛びかかった。鈴木は死体からナイフを抜いて切りかかってきた。鈴木のナイフよりも俺が身を屈めて腰に向かって体当たりをする方が速かった。床に転がった鈴木はナイフを手から離した。俺はすかさず馬乗りになり、鈴木の顔面を拳で殴打した。
「この野郎!あすみを返せ!あすみはどこだ?どこにいる!」
 俺はメチャクチャに鈴木を殴り続けた。ガードする腕ごと殴りつけた。鼻が折れる音、歯が折れた音。それが感触とともに拳からも伝わる。
 叫びながら俺は泣いていた。涙が止めどなく溢れて鈴木の腫れて血まみれの顔を濡らす。
 わかっている。あすみはたぶん、もう生きてはいない。それを考えると、あすみが感じた恐怖を思うと、全身がねじれるように痛んだ。
 あすみを連れて帰りたかった。あすみ「だった」一部でも、連れて帰りたかった。
 この男はあすみがどこにいるか知っている。訊かなければならない。だが俺は拳を止めなかった。俺はこの男を殺すことを優先した。憎しみを晴らす方を優先した。
 それが俺を深い悲しみの淵に落とした。
 当然鈴木殺しても砕かれた幸せは元には戻らない。あの日にはかえれない。それもわかっている。こうすることに何度も自問した。だがこれしか決着する方法を思い浮かべなかった。この日が来ることを求めていたが、本当に望むものではなかった。
 俺の望み。
 あすみを抱きしめること。
それは暗闇に射した一筋の光のように暖かく、眩しく、そして儚い幻想だった。あすみとの四年間がフラッシュバックする。
 そこに一瞬の間ができ、隙が生まれた。
 そこを見逃さず、鈴木は膝を俺の尾てい骨に叩きつけた。激痛でのけぞる隙に立ち上がり、体勢を整える。
 前屈みの俺と鈴木は再び対峙した。鈴木の端正な顔は見る影もなく腫れて歪んでいた。
「貧乏人が調子に乗ってんじゃねえよ」
赤黒い血とともに歯が数本吐き出された。
「こうなったのはお前が悪いんだよ!ゲーセンごときでケチっているからこうなるんだ!知らない男にのこのこついていく娘の教育がなってねえんだよ!」
「なんだと?」
「てめえの無能さを棚に上げて悲劇の男気取ってんじゃねえよ!離婚?失業?全部てめえが間抜けだからだろうが!娘がそんなに大事なら縄にでも繋げておけよ、俺みたいによ!」
「貴様」
 俺は奥歯が砕けるほど噛み、内出血している両手の痛みがなくなるほど強く握った。
「ムシャクシャしてた時だったからよ、ちょうどいい最高のペットだったよ。ご主人様に逆らわねえようにちゃんと調教してやったからな!」
 俺の体が煮たってきた。全身が熱い。そして極度の怒りは色彩を奪うものだと初めてわかった。
「興奮したよ。泣きながら何度も言うんだぜ、『パパ、パパ』ってよ。お前んとこの娘は根っから男好きなんだな!ひゃははははは!」
 俺の中で何かが切れる音がした。人であることを繋ぎ止める何かだ。俺は獣の咆哮とともに鈴木に襲いかかり、鈴木は笑いながら向かってきた。その腫れたまぶたの奥の瞳に狂気ではない確信めいたものを感じた俺はあることが瞬間的に頭をよぎった。
 ナイフはどこにいった?
 次の瞬間、それは俺の腹に深々と刺さっていた。
「なぜ」
 俺は腹を押さえてその場に崩れ落ちた。鈴木は狂ったように笑いながら血にまみれたナイフを高々と上げて叫んだ。
「やっぱりどいつもこいつもバカばっかりだ!お前も親も学校も警察も会社も!最後に勝つのは選ばれたエリートなんだ!それは俺だ!こんなことで俺の人生台無しにされてたまるか!死ぬのはお前だ!」
「野郎」
 そう呻いた俺はナイフを振り上げる鈴木の後ろの影が動いたのを見た。
「あたしはあんたを選んでないわよ」
 驚愕の表情で鈴木は振り返った。
 そこに死体の女性が立っていた。

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「ひさしぶりね」
 柔らかくそう言われた鈴木は驚きのあまり身じろぎひとつせず、言葉を失っている。カツラを放り投げ、金髪のショートヘアーをあらわにした女性は童顔をほころばせて鈴木に近づく。
「でもひどいわ。あたしをあんなに蹴るなんて。愛してるって言ってたのに」
 微笑みを浮かべたまま女性の鞭のような蹴りをこめかみに見舞われた鈴木は吹き飛んだ。
「素敵な顔になったわね。あたしはこっちの方が好きよ」
 満足気に鈴木を見下ろす女性は息も切らしていない。鈴木はやはり、二の句が繋げずにいる。
 そう、この女性こそカマイタチだ。俺も最初は驚いた。学生のような幼さに。屈託のない笑顔を見せるその愛らしさに。堂々と姿をさらしたその度胸と自信に。そして純粋なまでのその残虐さに。
「何のことか、さっぱりわかんないって顔しているわね」
 カマイタチは楽しそうに言いながらナイフを拾った。
「あたしがカマイタチよ。あなたに教えたカマイタチのこと、全部佐藤さんが考えたウソなの。ごめんなさいね」
 カマイタチはぺろりと舌を出した。
「佐藤さんに頼まれてあすみさんを誘拐した犯人をさがしていたの。あなただってわかるまでに大した時間はかからなかったわ。何故かわかる?」
 カマイタチは背中で俺に語りかけている気がした。
「あたしが探したのは当時店内にいた不審者や目撃者じゃないわ。そんなものとっくに警察が調べているもの。あたしはその時に勤務していたゲームセンターの従業員を探していたの」
 鈴木は血だらけの口をわなわなと動かした。俺は急に視界がひらけたような感覚を覚えた。そうだったのか。
「今まで事件が解決していないということは犯人は突発的な行動ではなく、きちんと計画を立ててそれに基づいた準備をしていたはずよ。十歳未満の子供を誘拐する目的は営利を除けば概ね虐待で、女性の単独犯の可能性は極めて低い。知能が高く、独り暮らし、もしくは家族と同居していても離れなどの部屋がある男性の従業員。当時その時間に勤務していた従業員は女性一名、男性三名。その中で条件に当てはまるのはあなただったの。考えたわね。従業員なら子どもに声をかけても不自然じゃないわ。その目的でバイトしていたのかしら?」
 簡単なことのように言ったが十年前の従業員記録を手に入れることがそんなに容易いわけがない。俺はカマイタチに出来ないことはないように思えてきた。
「あとは簡単。あなたに近づいて親しくなれば良かった。あなたのように人を蹴落とすことが自分の地位を高めると信じている連中は足跡を残しておきたくなるの。それが犯罪の証拠でもね。自己陶酔している人はなおさら。あなたとの会話の中で秘密、快楽、支配、写真、日記、このキーワードを含めてみたらあなたの秘密の隠し場所がわかった。冷凍庫の一番奥。そこから一冊のアルバムが出てきたわ。裸で首輪に繋がれているあすみさんが写っていた」
「この野郎っ」
 俺は鈴木に飛びかかろうとするが足にまったく力が入らない。足元をみたら自分の血が水溜まりのように広がっていた。なんてこった。
「佐藤さんにあなたのこと報告したら絶対自分で白状させるって聞かないから。で、こんな三流映画みたいな恥ずかしい演出になったの。言っておくけどこれはあたしのアイディアじゃないからね、佐藤さんだからね。それで事前にあなたに佐藤さんが考えたカマイタチの作り話したの。でもサイトはあたしが作ってメールもあたし。あなたに薬を飲ませてここに連れてきたのもあたし。霊安室なんて洒落ているでしょ?で、佐藤さんじゃキレて墓穴掘るかもしれないから保険であたしが死体役で参加したの。まったく笑いこらえるの必死だったわ。子どもでも信じないような作り話を鈴木君が真に受けているんだもの」
 カマイタチは芸人のどっきり番組を観ているようにくすくす笑った。
「限定された空間、限定された時間、限定された選択肢。その中での人間の心理的視野の焦点は合わなくなってくるものなの。がらくたを宝物のように思い込むし、その逆もある。みんなそうなるの。あなたがバカにしている他のみんなと一緒なのよ」
 微笑んではいるが、その黒目の大きな瞳が笑っていないことに、今気づいた。
「と、いうわけよ。わかった?鈴木君。あなたが捕まらなかったのは単なる幸運よ。運は使いきったらなくなるものなの」
 欧米人がするようにカマイタチは肩をすくめた。
「あなたはあなたが思っている以上に特別な存在じゃないのよ」
 カマイタチはナイフを自分の指であるかのように動かしながらようやく体を起こした鈴木の前に膝をついた。
「それともうひとつウソをついていたわ」
 そこでナイフがピタリと止まる。
「あたし、あなたみたいな男が大嫌いなの」
 その言葉とは真逆の表情を浮かべたカマイタチは白ネギを切るようにナイフで鈴木の両手の親指を切断した。
 鈴木の絶叫がマイクのハウリングのように反響し、鈴木はのたうち回った。
「子どもに手を出すのは最低よ。何故かわかる?」
 その様を見下ろしてカマイタチは菩薩のような笑みを絶やさぬまま答えを言った。
「希望だからよ」
 希望。そう、あすみは間違いなく俺達夫婦の希望だった。立ち会い出産でその産声を聞いて俺は生まれて初めて感動で泣いた。生まれて間もないあすみが、その小さな小さな手で俺の人指し指をぎゅっと握った時、俺はこの子のために生きると決心した。
 指しゃぶりの癖が抜けないあすみ。寝る時はおむつが手放せないあすみ。ひらがなの『ね』が苦手なあすみ。
 いるだけで家が明るくなった。いるだけで家に活気が生まれた。
 子どもは、あすみは俺達の希望の光だった。
 あすみ、ごめんな。
 俺の頬に一筋の涙がつたった。
「あたし、キライな男とは同じ空気を吸いたくないの。だからあなたを落とすことにしたの。生き地獄にね。無限の絶望を教えてあげるわ」
 鈴木に背を向けたカマイタチは今度は俺に近づいてきた。
「本物のナイフを使うとは思わなかった」
 俺は息荒く、何かの講評のような文句を言った。口の中で錆に似た味が広がった。
「女は男にウソをつくものよ」
 俺に対しては能面のような顔のカマイタチはおもむろにジャケットを脱いだ。背中に発泡スチロールが挟んであった。
「でも言ったでしょ、保険だって。そういうこと察しない佐藤さんが悪いのよ」
「恭子にも同じことを言われていたよ」
 カマイタチはつまらなさそうに息をひとつ吐いた。俺は体から少しずつ何かがこぼれていく感覚がしていた。水風呂に入っているように体が冷えていく。
「そんな軽口をたたける余裕があるから助かるかしら?まあ、どっちでもいいけど。お金、もう用意してあるんでしょ?」
 俺は頷き、ジャージのポケットから震える手でコインロッカーの鍵を取り出した。場所を伝え、渡そうとしたが、目が霞んでその手は頼りなく宙をさまよった。
 その手が柔らかなぬくもりに包まれた。カマイタチが手を握ったのだということにしばらく気がつかなかった。
 優しい手をしていた。きっと女神の手はこうであろうと俺は思った。
「ブサイクな手ね。あたし好みじゃないわ」
 そう言ってカマイタチは乱暴に俺から鍵をとった。この女神は実にはっきりとした性格だ。
「あ、あすみ、は」
 俺は声を絞り出した。
「ブサイクよね。それにスマートじゃない。肝心なこと訊いていないんだもの。男っていつでもその時の感情と欲望に流されちゃう。呆れちゃうわ。鈴木君はもう痛くてそれどころじゃないし。どうするの?」
 カマイタチはおねしょをした子どもに対するように、大きくため息をついた。
「仕方ないから妹さんにでも訊いてみたら?」
「い、もう、と?」
「鈴木君、一人っ子なのに就職して独り暮らし始めたら突然妹ができたのよ。不思議よね?今年十四歳なんだって」
 俺は体の芯から全身に電流が走ったようにざわめいた。真っ暗闇の中で一筋の光がさしたような暖かさを感じる。
 まさか、まさか、まさか。
あすみ、生きているのか?
「だからその子に訊いてみて。あたしは色々忙しいからあなたにかまってられないの。ブサイクはしぶといって通説があるから、死にゃしないわよ、その程度で」
 カマイタチが犯罪者には違いない。ただ、俺にとっては絶望の中で手をさしのべてくれた女神だ。口が悪くてウソつきの女神だ。
 あすみ、今からパパが迎えに行くぞ。もうちょっと待っててくれ。少し休んだら行くから。
 夢が夢でなくなった。
 俺はゆっくりと目を閉じた。

                          了

 

  

カマイタチ BITT

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カマイタチ BITT

閉じ込められた二人の男。次第に関係が壊れていく。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-28

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著作権法内での利用のみを許可します。

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