忘れさせて今夜、あなたを

忘れさせてくれるお酒、いかがですか?


「わたしはひとみじゃないわ」
 めぐちゃんがナプキンで口を拭って静かにフォークとナイフを置いたあと、そう言った。
「もちろんそうだよ。めぐちゃんはめぐちゃんだもの。なんでそんなこと言うの?」
 ぼくは内心ドキマギしながら答えた。その名前が出たこともさることながら、めぐちゃんの声が明らかに怒っていたから。まるで噴火前の火山だ。
「たっくんが言ったからよ。ひとみちゃん、おいしいねって」
 しまった。うっかり思っていたことが出た。ここは前にママと来たことがあるグランドホテルのレストラン。今では恋人達が集まる評判の、しっとりとした雰囲気になってしまったけど。
 ついそれの時のことが頭をよぎってしまった。なんてこった。
「それ、ぼくのママの名前だよ。あれ?浮気でもしてると思った?」
 ぼくはあえて軽い調子で言った。
「知っているよ、それは」
 めぐちゃんはつららみたいに冷たい視線をぼくによこした。思わず背筋が伸びる。
「たっくん。今日はわたしの誕生日と付き合って一年のお祝いの日よね?そんな日にママの名前は出てこないわ。普通の男性なら」
「でもめぐちゃんが一番なのは変わりないよ。だってさ」
 ぼくの取り繕う言い訳をめぐちゃんは首を横に振って遮った。
「おかしいとは思ったのよ。たっくんみたいな男性がわたしと付き合うなんて。どうせ遊びだったのよね、お見合いパーティーに来たのもわたしに声をかけたのも」
「違うよ、めぐちゃん。ぼくは」
 言いながらジャケットの内ポケットから指輪ケースを取ろうとした。ぼくの気持ち。給料3ヶ月分。
「ねえ、たっくん。どうしてわたしと付き合うことにしたの?たっくんは25歳よ。大人の男性よ。なのにわたしに甘えてばかり。まるで子どもみたい。わたしはたっくんの頭を撫でるためにいるんじゃないのよ?」
「そんなことわかっているよ。だからぼくは」
 内ポケットに入れた右手がめぐちゃんを見て止まった。めぐちゃんの右目から一筋の涙がつたったから。
「わたしはたっくんのママじゃないわ」
 そして大粒の涙が堰を切ったように流れ出した。
 ぼくはそれを見て胸が打たれた。なぜならめぐちゃんがとってもかわいく見えたから。そう、めぐちゃんは泣きたくなるほどぼくが好きなのだ、きっと。
 だからついぼくは心配になってめぐちゃんにこう言った。
「めぐちゃん、そんなに泣くとお化粧が崩れちゃうよ?」
「バカッ!」
 めぐちゃんの怒りのマグマが噴火した。次の瞬間、ぼくの顔に溶岩ならぬお冷やの氷が直撃した。もちろん、水も一緒に。

「へえっくしょん!」
 ぼくはホテルのラウンジで盛大にくしゃみをした。めぐちゃんに水をかけられて体と肝が冷えたからだ、きっと。
 あの後めぐちゃんは椅子をひっくり返して立ち上がり、「わたしはたっくんのママじゃない」と念押しするように言って店を飛び出してしまった。
「あっ、待ってよ、めぐちゃん!」
 もちろんぼくはすぐにめぐちゃんを追いかけて走り出す。
 はずだった。
 ぼくはめぐちゃんの前にテーブルの伝票が目に止まった。
 ぼくは急いで伝票を持ってレジへ行き、勘定を済ませた。しかし焦るあまり、おつりの小銭を床下に落としてしまった。そうこうしているうちにぼくはめぐちゃんを見失い、ラウンジのソファに座り、途方に暮れているのだった。
 めぐちゃんに電話しても当然出ない。メッセージを送っても返事がない。既読すら表示しない。どっちも一分おきにしてるのに。
 絵文字がまずかったかなぁ、と考えているうち、なんだか悲しいような腹立たしいような、やるせない気持ちになってきた。だからポケットの中のケースが、晴れの日に持つ傘みたいな存在にも感じてきた。
「酒でも飲もうかな」
 ぼくは天井をあおいで呟いた。こんな時は酒でも飲むに限る。それも居酒屋とかじゃなくてバーがいい。薄暗いなか、カウンターのすみっこでバーボンなんかをちびちび飲むのだ。それが男の哀愁だ。
 よしっ、と言ってぼくは膝をたたいて立ち上がった。幸いここは有名ホテルだからおしゃれなバーがあるはずだ。ぼくは足早にエレベーターへ向かった。
 ここのホテルは五階から上が客室で上にいくほど値段も上がる。三階と四階が式場なんかに使うフロアで二階がフロント、一階がレストランとラウンジ、地下一階が駐車場だ。エレベーターの案内にもそのように貼ってある。
 はて、バーはどの階かと指でをおううち、ぼくの指が止まったある階で止まった。
 それは地下駐車場のB1の下のB5だ。そこに『マウントクロウ』という名前があったのだ。
 ここに地下五階なんてあったっけ?
 ぼくが首をかしげているとエレベーターがやってきてビジネスマン風の男性が降りた。エレベーターは開いたままだ。
 よくわからないけど『マウントクロウ』なんて言う名前なんだからきっとバーだろ。違ったら戻ればいいだけさ。
 ぼくはあっさり判断し、エレベーターに乗って迷わずB5の階を押した。

 まるで不思議の国の入り口みたいだ。
 エレベーターを降りたぼくはそう思った。
 そこは直径が3メートルほどの部屋になっていて、円状だった。床と壁はコンクリートの打ちっぱなしで、天井はドーム型、そこにシャンデリアが吊られていて部屋を幻想的に照らしていた。そしてドアは2つあり、右が白、左が黒で、両方とも年季の入った木製だった。
 さて、どっちのドアが入り口だろうか。どこからも物音はせず、看板もない。
 しかしぼくはピン、ときた。クロウ、カラス、黒、か。
 何となくここが店だと直感したぼくはおそるおそる近づいて、やはりおそるおそるドアを開けてみた。
「こんばんは」
 中に入ったぼくは男性の声で挨拶されたけど、驚きで声も出なかった。
 だってここは外だったから。
 確かにバーのようだった。左側にはカウンターがあり、スツールが5脚並んでいて、そこに白のワイシャツを着た男性がぼくに微笑みかけている。その男性の後ろの棚にはお酒のビンがズラリと並んでいる。砂浜に。
 そう、ここは海岸だった。
 足元は白い砂浜、目の前には青い海、見上げれば抜けるような空はまさにスカイブルーで、太陽の光がさんさんとふりそそいでいる。波の音が聞こえ、遠くで海鳥が鳴いていた。実に開放的な南の島といった感じだ。
 目をまさに白黒させているぼくに男性はこの光景にふさわしい笑顔で「どうぞ、お掛けください」と、正面のスツールに促した。
 ぼくはドアを閉め、スツールに向かって歩いた。革靴を履いているけどわかる、本物の砂の感触だった。スツールに座り、ドアを見た。砂浜に立つドアはまるでドラえもんのどこでもドアみたいだった。
「何かお飲みになりますか?」
 都会にきたおのぼりさんみたいにキョロキョロするぼくに、男性は親切で人の好い商店街の店主の雰囲気で訊いてきた。
「あ、あの」
 ぼくは質問の答えになっていない答えを言って男性を見上げてまた驚いた。
 男性はめちゃくちゃイケメンだった。まさに『カクテル』における『トム・クルーズ』そのまんまに見えた。女性なら「お酒の前にあなたに酔いそう」とか言っちゃいそうなモテモテオーラを出している。
 でもぼくは男だからそんなことは言わない。
「あの、ここって地下ですよね?」
「ええ、もちろん。ここは地下5階フロアになります」
 質問を質問で返すぼくの非礼にも男性は物腰柔らかに答えた。完璧だ。
「でも、これって」
 ぼくは周囲を指差しながら言った。
「映像です」
「映像?」
 驚くぼくを見て男性は白い歯を覗かせ、嬉しそうに続けた。
「はい。壁と天井に厚紙ほどの厚さの有機ELディスプレイを貼り付けてあって、パソコンから映像を送っているんです。解析度が高いから本物みたいですよね。わたしもたまに海岸にいると勘違いしますから。あ、でも足元の砂は本物です。歩くスペースだけ、敷いてあるんです。広く見えますけど、すぐそこが壁ですから。気をつけてください」
 はあ、とぼくはやはりおのぼりさんみたいな感心と驚きの入り混じったため息をした。確かに、これだけ太陽が照っているのに暑いどころか過ごしやすい。エアコンが効いている証拠だ。
「でもすごいですね。まるでバカンスに来たみたいですよ」
「ありがとうございます」
 男性は丁寧に頭を下げた。
「店の名前だともっと暗い感じかと思ったけど」
「ああ、『マウントクロウ』ですからね。そう思いますよね」
 男性はうんうんと相槌を打つ。聞き上手だ。
「なんで『マウントクロウ』なの?」
「ああ、それはですね、わたしの名前からとったんです」
 男性は照れくさそうにはにかんだ。
「名前?」
「ええ。わたしの名前は『烏山有吾』といいまして。それで苗字を英語にしてみたんです」
「え?日本人なの?外人かと思った」
「ハハ。皆さんそうおっしゃいます。まあ、この顔ですからね」
 目を丸くするぼくに、烏山さんは名刺を差し出した。受けとるとモダンな名刺に『烏山有吾』とあった。
「じゃあハーフなの?」
「クオーターですね。祖父が旧ユーゴスラビア出身で。縁あって祖母と結婚して日本に来ました。だからわたしは顔は外人ですけど生まれも育ちも国籍も日本です」
「生粋の外人顔してるのにね」
「そうですね。だから英語が話せると勘違いする方が多いんです。話せないとわかると皆さん一様にガッカリされます」
 烏山さんは本当に申し訳ない、といった風に眉を下げた。
 そうなんだ、とぼくは烏山さんに同情した。その血筋のおかげで男前な烏山さんだけど、そのせいで幾度となく傷ついてきたに違いない。
 どんな不可能なミッションも可能にしそうな顔だけど、世の中映画のようにはいかないのだ。
「じゃあ有吾って名前はユーゴスラビアからなの?」
「違うと思います。兄は真吾ですから」
 そりゃそうだ、とぼくは思った。勝手な思い込みに恥ずかしくなる。
「それでお客さま。お飲み物は何にしますか?」
 烏山さんはメニューを手にずっと持って待っていたのだ。ぼくは「あっ、そうだった」と、宿題を忘れた小学生のように慌ててメニューを広げ、今度はおじさんのように「とりあえずビール」と言ってしまった。
 ここではバーボンでちびちびやる、なんて似合わない。

 きっと竜宮城に行った浦島太郎はこんな気分だったのではないかと思った。ぼくは時間を忘れて烏山さんの作るお酒に酔い、心から楽しんだ。めぐちゃんとの一件を、忘れかけていた。
 ワインクーラー、レッドライオン、ミモザ、マイアミ、ベリーニ。烏山さんは魔法使いのようにシェーカーからカクテルを生み出していった。それはどれもおいしく、またシェーカーを振る烏山さんにも酔いしれた。ぼくは男なのに。だってめちゃくちゃ様になっているのだ。
「なんかバカンスに来ているみたいに楽しいよ」
 ぼくは少しろれつが回らなくなっていた。
「ありがとうございます」
「それに貸切状態だし」
 ぼく以外、誰もお客さんは入ってこない。
「お連れ様はどうなされたんですか?」
 えっ?と、ぼくはついた嘘がすぐにバレた時のように狼狽した。
「なっ、何?突然に」
「ここにお一人で来られたので」
 烏山さんは小さな我が子を見送る親のような顔になった。
「なんでぼくに連れがいるってわかったの?」
 ぼくはあっさり肯定していた。
「顔に書いてございましたから」
「ええっ?そう?」
 ぼくは顔を撫でまくった。
「それに胸元と髪が濡れています。人にかけられないとそういう濡れかたはしませんから」
 はあ、と烏山さんの見事な観察眼に恐れ入った。人だけじゃなくて頭もいい。
「プロポーズ、だったのではないですか?」
「ええっ?そんなことまでわかるの?」
 ぼくは胸に手をやった。心臓が止まるほど驚いた、だけではない。
 それを見て目を細めた烏山さんは「これは当てずっぽうです」と、言った。
「でも正解だったみたいですね」
「なのにその相手がここにいないってキツいね」
 急に現実に引き戻されたぼくはうなだれた。
「何があったんですか?」
「だいたいわかるでしょ?プロポーズしに来て一人で飲んでいるんだから。言いたくないよ。忘れたいの」
 ぼくはカウンターについた両腕に顔をふせた。
「もし良ければ話していただけませんか?お力になれるかもしれません」
 え?と顔を上げて烏山さんを見た。その薄茶色の瞳が、妖しく光った気がした。

 ぼくは烏山さんに事の経緯を全部話した。今日初めて会った人に言うべきことじゃないけど、誰かに聞いて欲しかったし、烏山さんはそれを受け止める包容力とそれに対する的確なアドバイスができる期待を抱かせる人物だったから、まさに適任だったのだ。
 烏山さんはぼくが話し終わるまで口を挟まず、腰を折らず、頷きを返事にして黙って聞いてくれた。
 ぼくは「と、言うことなんです。烏山さんはどう思います?」と、話しのバトンを烏山さんに渡した。
 烏山さんは眉間にシワを寄せて目元の陰影を更に濃くして低く唸った後、「率直に申し上げていいですか?」と訊いてきた。
「もちろん」
「失言でしたね、それは」
「やっぱりそう思う?」
 ぼくは肩を落とした。
「統計的見地から判断しても」
 烏山さんが補足する。
「統計的?」
「だいたいみんなそう思う、ということです」
 ぼくは深くため息した。『みんな』にはぼくも入っているからだ。
「女性に限らず、人はそれぞれタブーを持っています。カツラだとわかっていても面と向かってカツラ呼ばわりしてはいけないのです。お客さまは彼女とのお付き合いの中でそのタブーがなんであるか、わかっていたのでは?」
「うん。めぐちゃんが気にしていたから」
「でしたらなおのこと深刻ですね。彼女はお客さまの愛に疑問を抱くに充分でしょう」
 烏山さんは病状を説明する医師のように言った。
「ぼく、どうすればいいんだろ?」
 困り果てたぼくは烏山さんにすがった。
「どうしたいか、で変わってくると思います。お付き合いを続けたいのか、あるいはそうでないのか。後者であるならば、お力添えができるかと思います」
「何をするの?」
「キレイさっぱり別れることができます」
 烏山さんは断言した。地球は丸い、と言ったくらいきっぱりと。
「ウソでしょ?」
「わたしは人を傷つけるウソは申しません」
 次の断言には力強さが増していた。
「でもどうやって?」
「それを言う前にお客さまが進む方向を示さなくてはいけません。どちらですか?」
 ぼくはう~んと唸った。どうしたいかを悩んで、ではなく、言っていいか、を悩んで。
「ぼくも率直に言っていい?」
「もちろん」
 ぼくは相手の包容力に期待して、そして正直であれ、という親の教えに従い、思ったことを口にする。
「忘れちゃいたいんだよね、さっきのレストランでめぐちゃんに言ったこと」
「お客さまが、ですか?」
 さっきのめぐちゃんと似た表情を烏山さんはした。
「うん、イヤなことは忘れたいの。ぼくは」
 はあ、と烏山さんは脱力感たっぷりに言って頭をかいた。
「それですと何の解決にもなりませんよ?」
「イヤなことほど忘れられないんだから解決も何もないでしょ?」
 言い返したぼくに烏山さんは3度目の断言をした。
「忘れることはできます」
 今度は少々呆れた感じで。

「我が家には代々伝わる秘薬があるんです」
 烏山さんはシンクで手を洗い、それからカクテルを作り始めた。それ自体が1つの曲のように、リズミカルにシェーカーを振る。
「秘薬?」
 この南の島にはふさわしくない単語をぼくは頬杖ついて聞き流し、烏山さんが奏でる音楽に耳を傾けた。
「ええ。特定の記憶を削除する秘薬です。内戦と内乱という悲劇が繰り返される歴史の中で、祖父方の祖先が作った慈悲と英知の結晶」
 ショットグラスに注いだ烏山さんは、小瓶から小豆大の黒い丸薬を取り出した。
「それがこれです」
 そう言って烏山さんはショットグラスにそれを落とした。ぼわん、と魔法の薬のように白い煙りが上がった。
 わあっ、スゴい。ぼくは無邪気に歓声を上げた。鉄板焼ハンバーグにソースをかけた時のように。
「どうぞ。忘れたいことを頭に浮かべながら飲んでください。すぐに気分がスッキリします」
 まるでヤバいクスリをすすめられているみたいだったけど、アルコールが回ってきたぼくには売人と薬剤師の区別はつかなかった。
 それでも秘薬なんて言うものはサンタクロースの存在と同じくらいのものだという判断くらいはついた。
 これはいわゆる風邪の時に飲む栄養ドリンクみたいなものだと思った。つまり烏山さんのサービスだ。サービスは受け取ってその意味を成す。自慢じゃないが、ぼくはこの手のサービスを拒否したことはない。
「ところで烏山さん。このカクテルに名前はあるの?」
「もちろん。『忘れさせて今夜、あなたを』です」
 なんてロマンチックでセクシーな響きなんだ。真顔の烏山さんが少し気になったけど、うっとりしたぼくは一気にグラスを空けたのだった。

「めぐちゃん?」
 朝目覚めるとぼくは隣にいたはずであろうめぐちゃんを呼んだ。だってここはグランドホテルのスイートルームなのだから。
 ぼくはちょっとしたプールの大きさのベッドから起きてシルクのパジャマを着たままめぐちゃんを探した。いい歳をしてまさかかくれんぼとか?
 ところがめぐちゃんはどこにもいなかった。だだっ広いスイートルームに、ぼく以外の人の気配はない。
 こうなるとこの広さと豪華さは迷子になったような不安をあおってくる。
 どういうことだ?
 ぼくはネズミみたいにうろうろしながら昨日のことを思い返した。
 めぐちゃんの誕生日をお祝いするためにこのホテルのレストランとこの部屋を予約した。確かに昨日、めぐちゃんとぼくはレストランにいた。食事もした。めぐちゃんの着ていた服も料理も思い出せる。そこでプロポーズをするつもりだった。
 プロポーズ?
 ぼくは急いでベッドに脱ぎ捨ててあるジャケットの内ポケットの中身を探った。そこからめぐちゃんに渡すはずの指輪ケースが出てきた。開けるとダイヤの指輪がしおらしく収まっていた。
 そんなバカな。めぐちゃんはプロポーズを断ったのか?そんなはずはない。あり得ない。
 ぼくはレストランでの様子を思い出そうとした。でも、どうやっても思い出せなかった。そのあと、ぼくはひとりでバーにいたことしか。なんでひとりだったのか、それがわからない。
 バー。マウントクロウ。烏山有吾。カクテル。
 あっ!
 ぼくは声を上げてその場に立ち尽くした。
 秘薬。記憶を削除する秘薬。本物だったのか?そんなものが存在してたなんて。
 ぼくにゾクリ、と寒気が襲ってきた。昨日のことも思い出せないことに、それがコントロールされたことに。
 そしてめぐちゃんがいなくなったことに。
 ぼくは何を忘れた?それがきっと原因に違いない。そしてそれを知る人物はたったひとりだ。彼に訊くのが一番の近道。
 ぼくはそう思うが早いか、部屋を飛び出していた。
 パジャマのまま。

 ぼくはエレベーターに飛び乗って地下5階に行き、円形の部屋に降りて真っ直ぐ黒いドアに向かい、ノブを回した。しかしドアはびくともしなかった。
「あれっ?」
 開くものとばかり思っていたぼくは想定外の出来事に焦った。何度もドアノブをガチャガチャと回して押し引きした。
「ダメだ、鍵がかかっている」
 ぼくは脱力して独り言を言った。冷静に考えればバーが朝っぱらから開いているわけがない。わかってはいるがぼくはドアを叩いて「すいません、烏山さん、いますか?」とまるで急病人を連れて病院にきたような切迫感溢れる声を出した。
 すると。
「なんだよ、うるせえな。何の用だよ」ととなりの白いドアが開いて文句を言いながら男性が出てきた。ぼくは思わず「あっ」と、その男性を指差した。それはぼくのよく知る人だったから。
「ちょっとあなたに訊きたいことがあって。でも烏山さん、どうして一晩で髪が白くなったの?」

「俺は烏山真吾。有吾の兄貴だよ、双子のな」
 そう自己紹介した真吾さんは「ほらよ」とコーヒーの入ったマグカップを放り投げるようにぼくの前の重厚な木製テーブルに置いた。
 ぼくは礼を言って口を付け、しげしげと回りを見た。ここは有吾さんの店とは真逆な雰囲気に包まれていた。和室だった。
 白木の柱、木目の天井、薄緑色の土壁、正面の床の間には日本刀が飾られ、そこに解読不能な文字の掛け軸がかけられ、和室の中央に一枚板の木製テーブル、そこに奥からマグカップを2つ持ってきた真吾さんと向かい合って座った。
 ぼくはともかく真吾さんに有吾さんはどこかと訊いた。
「さあ?寝てんじゃねえの?モグラのあいつはお日様が苦手だからな」
 そう言って真吾さんはカバみたいな大口をあけてアクビした。
「じゃあ有吾さんがどこにいるかは?」
「知らねえよ。双子だからってテレパシーを使えるわけじゃねえし」
 真吾さんはぶっきらぼうに言って鼻毛を一本抜いてふっ、と飛ばした。鼻毛も白かった。ぼくは自然体が人を不愉快にさせることを知った。
「じゃあ夜になったらまた来てみます。コーヒー、ごちそうさまでした」
 言いながら腰を上げたぼくを真吾さんは手で制した。
「まあ待てよ。困っている奴をほっとけねえのは俺も一緒さ。有吾がどこかは知らねえけど、有吾に訊きたいことは俺も答えられるよ」
「え?」
 すると真吾さんは接待を受けた取引先の課長さんみたいなずる賢い笑みを浮かべて言った。
「じいさんに魔法をかけられたんだろう?」

「どっ、どうしてそれを?」
 ぼくは浮かせた腰のまま、向かいの真吾さんに迫った。
「俺たち双子だって言っただろう?俺もカワイイ孫だからな、持っているんだよ、クスリを」
「ああ、そういうことですか」
 ぼくはストン、と腰を落として正座に戻った。
「で、ホントに忘れちまったからびっくりして有吾のとこに来たんだろう?そんで何を忘れたのか訊きに来たってとこか」
「そっ、そうなんです。真吾さん、何かわかりますか?」
「ま、落ち着けって。だとするとだな、きっと有吾はその質問にこう答えるだろうな」
「なんですか?」
「知らん、だな」
「ウソでしょ?」
 ぼくは乗った電車が方向違いだった時のように声が裏返った。
「そりゃそうだろう。君が何を忘れたいか、具体的に有吾は聞いていないはずだ。俺たちの仕事は想いを共有することじゃない、きれいさっぱりなくすことだからな」
「仕事?有吾さんの仕事はバーでしょ?」
「なんだ、知らずに来てたのか。豪快だな」
 真吾さんはククッと含んだ笑いをした。
「あれはあいつなりの客を迎える方法だよ。俺の場合は和室だ。来る客は相手に愛想つかせているからな、せめてリラックスさせようってわけだ」
「あの、なんのことかさっぱりわかんないんですけど」
「あのな、ここの地下5階に下りて来るヤツは恋人のことを忘れたいからなんだよ」
「ええっ?」
「せっかくじいさんから魔法をもらったんでな。後生大事に取っておくもんでもねえし。でも大っぴらってわけにもいかねえ。で、有吾と商売始めたんだよ、ここで。この階が俺たちの店。ドアが2つあるのは、まあシャレみたいなもんさ」
「そうなんですか」
 世の中には色んな仕事があるものだ。
「まあ、そんなわけでここは新しい恋を始めるのにうってつけってことさ。恋人たちに評判が良いってわけがわかったかい?」
「逆の意味でってことですね」
「でもないさ。見え方の違いだよ」
 事も無げに言う真吾さんに、ぼくは世の中の仕組みが見えて、深く息を吐いた。
「まあ、君が何を忘れたかは知らんが、過ぎたことをあれこれ考えるのは疲れるだけだ。どうせ思い出せないし、誰にもわからないんだからな。だったらくよくよしないで前向きになった方がいいんじゃないか?」
「でも気味が悪いって言うか。突然彼女がいなくなってて。レストランまでは覚えているんですけど」
 それを聞いた真吾さんは「ははあん」と、アゴをさすりながら謎を解いた探偵のように言った。
「もしかして、君がたっくんか?」
「えっ?なんでぼくのこと知っているんですか?」
 ぼくは白髪のトム・クルーズが怖くなってきた。
「そんなにビビるなって。聞いたからだよ」
「だ、誰に?」
「決まっているだろ?めぐちゃんだよ」
「はあ?」
 ぼくは知恵の輪みたいに頭がこんがらがってきていた。

「君の彼女は君を忘れたくてここに来た。まあ、最初からそのつもりだったんだろうね。でも彼女は優しい。君にチャンスを与えた。だから一緒に食事をした。しかし君はそんな彼女の変化に気づきもせず、チャンスを不意にしてしまったんだな」
 真吾さんはあの苦いコーヒーをおいしそうに飲みながら言った。
「あの、ホントにわけがわからないんですけど。めぐちゃんがここに来たんですか?」
「そうだ」
「どうして?」
「君のことを忘れるためさ。彼女は薬を飲んだよ」
「なんで?」
「君が嫌いになったから」
「どこが?」
 そこで真吾さんは大きくため息しながら肩をすくめた。
「どうして、なんで、どこが。自分で考えようとせず、人に頼る。で、行動は当てずっぽうだ。俺だってイヤになるよ」
「でもめぐちゃんはそれが嬉しいって」
「それが女の本心だってホントに思っていたのかい?」
 真吾さんの目が鋭くなる。
「そもそも君は彼女が好きになって付き合っていたのか?」
「当たり前じゃないですか」
「あたしはたっくんのママじゃない」
「え?」
「彼女がそう言っただろう?君はめぐちゃんにママになって欲しかったんだ。ママはもういないから」
 その言葉がハンマーのようにぼくを打ちつけた。ショックで景色が歪む。
「一回忌が済んだそうだね。母一人、子一人だったからその悲しみはわかるつもりだよ。君は深くママを愛していたんだからね」
 そう、ママは死んでしまった。ぼくを置いて死んでしまった。でもいつもそばにいてくれる。骨になったママがいつもそばに。
「でもめぐちゃんにその代わりを求めてはいけないよ。ママと年格好が同じでもめぐちゃんはママじゃない。君が年上の女性が好みなのはママを求めているんじゃないか?」
 ぼく達はいつも一緒だ。でもいくらママにしゃべりかけても返事をしてくれない。あの優しい声は聞こえない。だからぼくは声が聞きたいんだ。ママの声を。ママ『みたい』な声を。
「めぐちゃんは君を忘れたよ。でも君は覚えた方がいい、恋人はママにはなれないということをね」
 そんなことわかっているよ。他の誰にもママの代わりなんてできるもんか。ぼくは口に出さず反論した。
 ぼくはママが大好きだ。何もかもが大好きだ。今でも目を閉じればママがいる。姿も思い出も覚えている。
「あっ」
 ぼくは思わず叫んだ。とても大事なことを思い出せないからだ。
「なんだよ、どうした?」
 真吾さんが怪訝な顔でぼくを見た。
「忘れたみたいなんです」
「そりゃそうだろう。だからここに来たんだろ?」
 ぼくは大きく首を横に振って「違います」と泣きそうになりながら言った。
「ママの名前が思い出せないんです」
「君はめぐちゃんに何を言ったんだ?」
「それはぼくが知りたいのはそんなことよりママの名前です」
 ぼくは忘れて、忘れるという絶望を覚えた。

おわり

忘れさせて今夜、あなたを

読んでくださりありがとうございました。ご意見ご感想お待ちしております。

忘れさせて今夜、あなたを

イヤなことは忘れたい。そんなお酒、あります。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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