暴力探偵の暴力論
壱
夢……だろうか。もしこれが夢だったのなら、それはとてもありがたいのだが。
ぎゅむーっと右頬を引っ張ってみる。
「……痛い」
ジンジンとした痛みが訪れるだけで、まったく目が覚める気配がない。ということは、やっぱりこれは現実であるわけで。
途方に暮れながら、三刀屋金槌(さんとうやかなづち)は目の前に立ちはだかる憎き透明な壁を見上げた。
時刻は午前八時。
玄関直前の廊下にて立往生なう。
花の男子大学生、入学初日から遅刻決定と相成った。
「はぁぁ……」
日差しは柔らかく、風がさわやかに吹き抜けるうららかな春の日。
笑いながら脇を駆け抜けていった子供たちとは対照的に、三刀屋の周りだけ空気が重く淀んでいた。
そこだけ日が暮れて鬼火が飛んでいるかのようなどんよりっぷりである。
あまりのどんよりっぷりに、通りすがりの野良猫が三刀屋を二度見して『おい、大丈夫かにーちゃん』という顔をしていった。
結局あのあと三刀屋はいったん裏口から家を出て玄関に戻り、靴を取って大学に行ったのだが当然遅刻。
おまけに帰り道の途中、粋がったガキどもに絡まれ全力疾走で逃亡。
なんかもういろいろと不幸な三刀屋だった。
(それもこれも、全部あの壁が悪いっ!)
くそう、とこぶしを握りながら三刀屋は心の中で毒づいた。
透明な壁。
それが突然現れるようになったのは、ちょうど三日ほど前のことだった。
廊下を歩いていたらとつぜん何かに頭からぶつかり、見上げてみれば何もないという珍事態。
しかし手を伸ばせば土壁のような質感がしたので、『何もない』という訳でもなく。
ただでさえ大きくて入り組んだ家が迷宮化して、三刀屋としてはたまったものじゃなかった。
『なんだよコレ、新手のホラーですか畜生めえええ!!!』と叫んだのは秘密の話。
それでも壁がある、というだけで実害がなかったので今まで放置してきたのだが、大学に遅刻してしまった以上もう知らんぷりを決め込むわけにはいかなくなってしまった。
どうにかしなくてはなるまい。
――……のではあるが、だがしかし。
「これ、誰に相談すればいいんだ?」
大問題発生。
悲しきかな、三刀屋には霊能力者の知り合いもゴーストバスターの知り合いも、ましてやただの友達の一人もいやしない。
(まさかここにきてぼっちの才能が発揮されるとは思わなかった……!!)
ただの友達云々はともかく、変な自称霊能力者に依頼して金をふんだくられるのは避けたい。
とはいっても、本物かどうかの判断方法もわからない。
まじでどうしようと唸っていると、前をよく見ていなかったせいかドゴッと勢いよく何かに足をぶつけた。
「いったぁ……て、うん?」
凶器を見んとして足元に視線を落とすと、倒れた木製の看板が目に入った。
どうやら電柱に立てかけてあったコレに脛をぶつけたらしい。じわじわと痛みを送り付けてくる向こう脛に、こりゃ弁慶も泣くわ、と現実逃避気味に思った。
倒れた看板を立て起こそうと手を伸ばしながら、看板の内容を読むともなしに読んでみる。
「『探偵事務所、幽幻ゆうげん…浮気調査から怪現象の調査までやります。』……?」
「ん、お客さんかい?」
「いえ、ちがいます。ってうわあああっ!?」
不意に背後から掛けられた声に体がびくりと飛び上がった。
ばっとふりかえると、そこには一人の女性が立っていた。
年のころは二十代前半だろうか。顔立ちは甘さのないすっきりとした感じで、可愛いというよりは格好いいという言葉の方が似合う。
女性は以外と長身で、おそらく三刀屋と同じくらいだろうか。
「すまないな、突然声を掛けたせいでずいぶん驚かしてしまった」
「い、いえ。大丈夫です」
まだずいぶんと心臓が脈打っていたが、どちらかというと今驚いているのは声を掛けられたことじゃなくて、目の前の女性の髪がすべての色が抜け落ちてしまったかのように白かったからだ。
白。
――否、白銀か。
(アルビノ……?まさか本物を見ることがあるとは思ってもみなかった)
「お客さんじゃないなら、私はそろそろ失礼するよ」
「あ、ちょっと待ってください!!……その、ここに書いてある『怪現象の調査までやります』ってどういう意味なんですか?」
帰ろうとする女性を引き留めて尋ねる。
浮気調査はともかく、怪現象の調査が探偵の仕事とは思えない。
「そのままの意味だよ。この事務所の目的は本来探偵業をすることじゃなくて、とある怪異を見つける事なんだよ」
「怪異を見つける?」
「怪異を見つける」
「調査依頼を出せば、怪現象は無くなる?」
「調査依頼を出せば、怪現象は無くなる」
オウム返しのような問答を続けた後、しばしの静寂が場を支配した。
どこか遠くから子供の笑い声がかすかに聞こえた。
ゆっくりと目の前の女性――おそらく探偵事務所の所長だろう――が言い放った言葉の意味を咀嚼する。
細かく粉砕して、飲み砕いて――三刀屋は女性の手をはっしと握って
「僕は今あなたのお客になりました!!怪現象の調査を依頼します!!」
と、言いそうになって慌てて三刀屋は言葉を飲み込んだ。
そもそも自分が思い悩んでいたのは、信頼できる『その手の人』の思い当たりがなかったからではないか?
(まだこの人が信頼できる業者と決まったわけじゃないし、慎重にならないと)
「あー、その。手を離してもらってもいいかい」
「えっ、あ、すみません」
女性に言われてようやく自分がまだ手を握っていたことに気が付き、あたふたと三刀屋は手を離して謝罪の言葉を口にした。
別にいいよ、とひらひらと手を振る女性に恐縮する。
「ふむ。ひょっとして君は何か怪現象に悩まされているのかな?」
「えっ」
「でも私が信頼できるかどうかが分からないから依頼できない……違うかな」
「な、何でわかるんですか!?……ひょっとして推理したとか?」
驚いた。
三刀屋の考えたことを見事に言い当てられた。
半ば呆然としながら三刀屋が尋ねると、女性はふんとつまらなそうに鼻を鳴らして
「ただの知識だよ。怪現象の調査をしてもらえる、って知ったお客さんは大抵同じ反応をするからね」
「やっぱりそうなんですね……」
「ああ。まあそんなものだろう」
実績が気になるなら中に入れという女性に従って三刀屋は『幽幻』へと足を踏み入れた。
まるで古旅館のような佇まいの事務所は、その外観にたがわず内装も純和風だった。
綺麗に磨かれた板張りの廊下を歩くと、応接間らしき部屋へと通された。
「茶を入れてくるから少し待っていてくれ。その間にそこに掛かっている額縁の中身でも見ていてくれ」
そう言いおいて女性は姿を消した。
残された三刀屋は、彼女の言葉に従って壁に掛けられた額縁を見ることにした。
黒檀でできた重厚感のある額縁には、賞状のようなものが入っていた。
曰く。
「感謝状……警察庁からの!?」
「そうだよ。そいつだけじゃ足りないというならまだあるが、必要はあるか?」
「いえ……ていうかこれ、本物なんですか?」
「偽物を飾る趣味はないよ……感謝状を飾る趣味もないが」
いつの間にか戻ってきた女性は、まるで紙屑を見るかのように感謝状を一瞥した。
本人によると、そこら辺に投げ捨てていたのをうっかり依頼に来ていた警察の人間に見つかってしまい、ずいぶんとどやされたらしい。
この額縁も自分で買ったものではなく、後日警察庁から届いたものだという。
(きっと配達した人もびっくりしたんだろうな。なにせ警察庁からだし)
三刀屋はそっと心の中で青と白のストライプが特徴の某配達員に手を合わせた。
さぞや戦々恐々としながら届けたことだろう。
「それで、君は私に依頼をする気になったのかな?」
「――……はい。依頼をさせてください」
三刀屋の欲している条件をこの女性は……探偵はすべて持っている。
たとえば、信頼のできる実績とか。
その判断を下してからは、随分と事はとんとん拍子に運んだ。
依頼書に解決してほしい怪現象について事細かく書き。
料金の見積もり――意外と少なくて貧乏学生の懐でも大丈夫だった――を立て。
夕暮れのころには調査日が決まった。
「ふむ、こんなものかな」
「当日はよろしくお願いします」
そう言ってぺこりと頭を下げてから、三刀屋はふと気づいた。
『あれ、僕この人の名前まだ知らなくね?』、と。
「あの、ところで所長さん。お名前はなんと……?」
「ん、肝心の自己紹介を忘れていたか」
一瞬だけやっちまったという顔になってから、すっと女性は真剣な顔つきになった。
切れ長の瞳が三刀屋を射抜く。
「私の名は黎明(れいめい)。暴力探偵だ」
暴力探偵。
耳慣れない言葉に首を傾げる三刀屋に、黎明と名乗った女性は意味深に笑った。
そのうち分かるさ、とこれまた意味深なセリフを黎明さんが呟くのを三刀屋は聞き逃さなかった。
だが、そのフラグ臭いセリフについて聞く暇は見つけられず、結局三刀屋はそのまま『幽幻』を去った。
(なんとなーく、黎明さんにはぐらかされたような気もするけど……まあいっか)
少々もやっとするものがあったが、そんなことより今はあの壁と決別できることを喜ぶ気持ちの方が大きかった。
今日は祝い酒ならぬ祝いサイダーでも飲もう。
スーパーに向かう三刀屋の足取りは軽やかだった。
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