Sposiamoci
「たぶん一緒にいても幸せにはなれなくて、このままずっと不幸なままだと思うけど、でも世界でいちばん好きなので**しましょう」
◆
という、いわばお互いを壊し合う恋愛が、情緒が、そして結婚が、ほんとうの人生には必要で、そういった美しいみずみずしい諦観を、運命の恋というのだと、私の王子様は言った。
「――とはいえども」
私は呼吸の出来ない泥濘のなかを進む。なぜ視界がはっきりしているのか分からないほど濃い、土が、砂が、指の合間や髪のうちがわに入り込んで、おまけに肌はぴったりと細かい粒子を吸いつけている。粘土のような色をしていたが、それは軟泥だった。
もうすこしと呟いて、やっと見つけたシルバーリングを手繰り寄せると、妖精はそんなもの捨てちゃえばいいのにと笑った。そうもいかないのと小さな友達をなだめて、私は重たい泥の沼から這い上がる。午前二時半頃、知らない沼のほとり、風の音だけが強い。冷気のなか、私は一人ため息をついた。
指で強く掴んでいたリングを、ころんと手のひらの中へ落とす。転がった愛の誓い。汚れながらもきらりと光る金色を見つめる。
「こんな筈じゃ無かったんだけどなぁ」
小さなころ、幸せになるために自分は生まれてきたのだと、信じて疑わなかった。それ以外の目的が人生にあるのだとは思わなかったし、誰も教えてくれなかった。幸せは、加齢に伴って勝手についてくるキャンペーンのようなものじゃなくて、努力の末にようやく掴み取れる淡い蜃気楼のようなものだとは、どの絵本にも描かれていなかった。
読み聞かせで知った、白雪姫もシンデレラも眠り姫も、みな当然のように王子と結婚する。決められた粗筋に沿うかのように、定められた運命を達成するかのように、一点の曇りもない自然さで彼女らは結婚する。
それが人生の目的であるかのように。
私はもう一度、リングを見つめる。これは結婚指輪だった。永久の伴侶の誓いを下した証、二人が愛し合った四年間の痕跡、そして、生涯互いを縛る恋の呪縛となるはずだった。
『だから、やめちゃえばいいのにって言ったのよ!』
小煩い妖精がそう叫ぶから、キンキン声に私は耳をふさぐ。
結婚ってなにかしら、と思うようになったのは最近のことだ。
お姫様に生まれなくても、王子様に愛されなくても、友人たちはみな当然のように恋をして結婚した。恋愛とは、色恋とは、傾慕とは、女の子の人生のなかの必須要素として登場する。その延長戦上には必ず、指輪と赤い薔薇があって、六月の美しい季節に白いウェディングドレスを着るのだ。
「――とはいえども」
何度目かになるその接続詞を口にしながら、手のひらの上でひとつ、指輪を躍らせる。そういえば、これはもちろん、結婚指輪なのだから、カップルの証なのだから、永遠の愛の誓いなのだから、ペアになっているはずだ。彼の分はどうしたのだろう?
その時ザクリと、地面を刻むような音が鼓膜を裂いた。なんでもない音が、私の心を大きく動かす、これが魔法だ。
来た。
私は背後から響く乾いた足音を聞いていた。一定のリズムで枯葉を折るその音が、ひどく懐かしい。
振り返ると、彼がいた。あまりに自然な立ち振る舞いだったから、私はすべての因縁を、禍根を、未だにくすぶる余燼を、尾を引いている恋心を、かかえている火種を、残っているわだかまりを、すべてがすべて、忘れた。
「久し振り」
そう呼びかければ、あんなにも愛した彼の唇が動く。
「うん、ひさしぶり」
◆
彼の声はいつも、ひらがなになって聞こえる。
ひとつひとつの言葉が音になって響き、文章に聞こえない。何かの呪いを吐かれているかのように、変えられない占いの結果を告げられているかのように、一文字一文字が強調され、まるでまじないのよう。
「どうしたの、めずらしいね」
彼は、懐かしむように小さく首をかしげた。文字通り泥にまみれた私は、うんも、いいえも、なにも言えなかった。
やがて三秒ほどしてから、
「珍しいかしら」
とだけ言った。(彼はその間、じっとこちらを見ていた)
「こんな所で何をして居たの? ふらふらと出歩くなんて、其方こそ珍しいじゃない」
「うん、なんかさいきんじかんがあって。きみはむかしからさんぽがすきだったね」
時間があるなら私と**してくれればいいのに。と思いながら、彼を傷つける方法を考える。
「そうね、散歩は好き。通ったことのない道を進むのは、知らなかったメロディを歌うのは、すごく素敵なこと。新しい経験をするのも、感情をコレクションするのも楽しい。小説や詩を楽しむとき、私たちは主人公に感情移入しているふりをして、本当は昔の憐れな自分のことを思い出して泣いているのよ。気付いてる?」
「きみはどうやらふこうそうだね」
「そうね。貴方と**出来なくて、失敗したから」
そう言うと、彼はひどく失望した顔をした。泣きたいのは私のほうだというのに。
「ぼくもそうしあわせじゃない、それでゆるしてくれないかな」
「違うわ。貴方が幸せじゃないのも悲しい。もちろん、私が不幸だってことが、一番悲しいわけだけど」
「ぼくはきみをこわせない」
彼はふっと目を逸らした。そうするのが自然だとでもいうふうに。
「いっただろ、いわばおたがいをこわしあうのが、れんあいなんだって」
彼は目を合わせない。気まずいんじゃなくて、きっと、私のことをどうだっていいと思っている。
「そういったれんあいが、じょうちょが、そしてけっこんが、ほんとうのじんせいにはひつようで、そういったうつくしいみずみずしいていかんを、」
「運命の恋と言うのね」
先に口を開き、言葉を取る。”うんめいのこい”と、彼に言ってほしくなかった。彼が気を悪くした様子はない。
「ぼくはきみをこわしたいとおもわないよ。きみだっておもわないだろ」
「そう、思わない」
「ぼくがなげたりんぐをだいじにさがしてるところをみると、きみはぼくのことがすきで、きっとだいじなんだろうし、ぼくもおなじきもちだけど、でも、」
「運命の恋じゃないのね」
彼は困ったように笑った。どうしようか、どう言えばいいか、思案しているようでもあった。でもそれは表現を探しているだけで、答えを変える気は全くないのだ。
「こまったなあ」
彼のため息を聞き、少し気分が良くなった。
よかった。まだ、彼を困らせることぐらいは、私にもできる。
「私が怒ると、嫌?」
「そうだね。ほかのひとにおこられてもあまりきにしないけど、きみにおこられるのは、とてもきになる」
「それは恋じゃないの」
「これはすきってきもちだよ、いまもそれはある。きみのことがすきだってなんどでもいえる。でも、ほんとうのじんせいというのは、きみとはたっせいできないんだ」
「嘘の人生を送ることで、困ることってあるのかしら?」
「なるほど。ひょっとすると、とくにないかもしれないね」
「嗚呼、そう」
愛するということは、どうしてこんなにも辛いのだろう。
「――とはいえども」
「きみはぼくと**したい?」
と彼は聞いた。
好き過ぎて死んじゃいそう。愛しすぎて殺しちゃいそう。それなのにそんなことを聞くの。
「そうね、でも本当は、そうでも無いかもしれないわ。でもこのままじゃ何かが間違っているって強く思うの。それは悪いこと?」
「わるくなんてない。きみがわるかったことなんて、いままでいちどもないよ」
彼は笑う。微笑む。優しそうな声を出す。
でも、私とは**しないのだ。本当の人生とやらを追い求めるから。私のことを壊したいと彼は思わないから。
「きみはただしければむくわれるとおもっているんだね。でもそんなのはまちがいなんだ、それこそがまちがいなんだ。でも、まちがっていたって、きみがわるいってわけでも、きみのせいってことでも、きみがふこうになるべきってわけでもないんだぜ」
彼の言うことはいつも、半分程度しか分からない。彼は私にイタリア語でプロポーズをした。私が知っている、ただ一つのイタリア語。
「Sposiamoci?」
「ああ、したいかしたくないかといわれれば、したいかもしれない。でもしない」
『やめておきなさいって、言ってるじゃないの!』
妖精がまた金切り声をあげた。やめるもやめないも、そもそも私には選択肢がない。ここで彼との会話をむやみに長引かせたり、かろうじて彼のことを困らせることはできても、たったそれだけ。彼を愛することも愛されることもできるのに、どうしてか本当の人生を作れない。
「――とはいえども」
「ああ、それがきみのくちぐせだったね。そのことばだけが、きみのうちがわにはりついたしんじつのことばってかんじがするよ」
「真実なんて一つもいらないわ。ああ私たち、違う言葉を喋っているみたいね」
同じ次元で違う言葉を。イタリア語と日本語を。ひらがなと漢字を。私たちは交わらない、たとえ愛し合っていたとしても。
「――とはいえども」
Sposiamoci