店内
一
客が立った後のテーブルの拭き掃除を終えて,カウンターに戻った男が冷たい水を出して,ごしごしと布巾を洗い,ぎゅっと絞って広げたときには,この店の常連であり,いつもそこに座るニットの男の子は,ポリエステル製のリボンを引っ張って,中途半端な長さと時間を持て余していた。カウンターの男はその店の店員でもあるから,それを見ていないフリをし,または底をついたカップにおかわり自由のコーヒーを注いで,席に座る意味を温かく作ったりして,勤しんでいた。男の子はそれを素直に喜び,受け入れ,作り置きのクッキーを頼んだりして,楽しんでいる様子を見せていた。が,短針が天辺を回り,長針が遅れて傾き始めた今となっては,男の子は不安な表情を張り付けて,苦味を売りとする飲み物とともに,かき混ぜることなく沈めていた。約束の時間は過ぎているのか?電話のひとつでも入れたらどうか?カウンターの中でソーサーを重ね,即座に思い付くアドバイスを吟味しながら,しかし男は黙ることを続けた。思い出の頁を捲って現れる,あの頃の時代の自身に尋ねると,決まって首を横に振られる。分かっていない,なんてことはないのだ。男の子は待っているのだ。偶然を装った,まさに奇跡の瞬間を。
入ってきた新規の客が音を立てて,男が視線を送った。男の子は体ごとそちらを振り向いて,姿勢を戻して,リボンを引っ張った。カウンターに対して背中を向けた男は,特に目立った動きを見せなかった。その代わりに,店内の放送が歌った。トランペットを吹いても魅せてくれそうな甘い声が,再現されて残っていた。男はそれを懐かしがった。男の子は,気持ち半分で聞いていた。
いまや男の子の手によって,丸椅子の上から引き上げられた贈り物は,とても個人的な記念日のためのもので,つまりは誕生日を祝う,心からの小さな箱であった。さっきのリボンだってその一部だったのだ。男の子は,男に中身を披露するために,それを解いて箱を開けた。一対のピアスが入っていた。決して高くはないが,センスはある。そう思った男は,そのままの事を言葉にした。話すのを止めていた男の子は,誇らしそうな笑みを浮かべた。貯めて買ったか?と男が訊いたら,男の子はすぐに頷いた。男はそれにも気付くと,男は自分の耳を指先でトンと叩いた。口角をあげて笑みを浮かべた男の子は,より分かりやすくなるように,その耳を男に向けた。誰も身に付けていない方のものと,そのピアスは色違いだった。そうか,と男はカップに一杯を注いだ。湯気が立って,感謝の気持ちが省略された。箱が閉じられて,沈黙が流れた。カウンターの向こうで男が働いて,男の子が,そこに座っていた。時間が経った。針が進んだ。
店内の客が減って,男は昔の話をした。若い頃,男はギターを持ってストリートライブをしていた。プロを目指すつもりは無かった,とは言わないが,流行りだったというのが主な理由だな,と男の子に向かって,男が言った。有名な曲のコピーは勿論,自作のものも数曲あったから,全体とのバランスを考えて,最低一曲はそれらを弾いた。自分で書いたものには,やはり思い入れがあったのだろうな,と思い返す男は,必ず目を瞑って弾いていた自作の一曲を終えて,開けた視界の中,ギターケースに入っていた紐にやっと気付いた。取り上げてみれば,それはリボンの紐だった。箱に結んで使うぐらいの長さの,ポリエステル製のものだった。そこまで話を聞いていた男の子が,それをウソだねと言っても,本当さ,と男が応じるぐらいに,本当のことだった。男は言う。それと,色は違うがな。男の子はそれを信じなかったが,続きが聞きたくて,男を急かした。男は自分に入れた一杯を一口飲んで,続きを話した。定番みたいな,男の妻との出会いの場面だ。すなわち,急拵えのプレゼントにリボンを結びたい未来の妻と,ゴミ箱代わりに使われた,と腹を立てていた男が丁度いいや,と声をかけてその紐を贈ったという,ストーリーの出だしみたいな話。実は,その紐を男の下に届けたのが,男が可愛がっていた野良犬だったという,間違いみたいな裏話が潜んでいたことまで,男は話した。飽き飽きだ,という顔を隠さなかった男の子は,勝手に取った作り置きのクッキーのセロハンを破いて,一枚を齧って割った。なかなかの味に後押しされた男の子は,実に丁寧に男に尋ねた。で,マスター,その教訓は?
その教訓はな,ボウズ,と勿体ぶった男が飲んだ一杯は,熱く香ばしいものとなって男の口を塞いだが,男はカップを持っていない方の手で,店の外を指した。眉を思いっ切り曲げた男の子は,丸椅子の上でくるり,と体ごと視界を回して,望んでいた姿をその真ん中に収めたため,信じられないぐらいの勢いで立ち上がり,駆け出し,店を出ていった。劇的な出会いだ。だろ,と言いたげな男が,置いていかれた箱のすべてを元に戻して,預かった。それから男は布巾を一度濡らして絞り,カウンターを拭いた。長い長い,そのすべてをではなく,今必要な二人分だけ。隣あった左右の席。
その話を聞けば,男が働くその店は,その日の大事な待ち合わせ場所ではなく,本当の待ち合わせ場所は,同系列の別店舗で,大通りを二つ挟んだ真反対に位置するあそこだった。その子はそこで男の子を待っていた。だからその子は呆れていた。そのお相手である男の子は,何とも言えずに笑っていた。何も言わずに,男に注文をした。男はそれを承った。
その真偽を問い続ける歌詞について,天井に備え付けられたスピーカーを通して,ヒットしている事実が伝えられた。男はそれを初めて聴いて,二人はそれを背景にしていた。
順番に,目の前に置かれた。
店内