車椅子ひとり旅【萩編】

車椅子ひとり旅【萩編】

    ★親思う心に優る親心、今日の訪れ何と聞くらん★
                                                                                                                        
 これは、長州「萩」の松下村塾入り口にある。吉田松陰の詩です。5月10日から

15日まで。山口県「萩」と広島県の「宮島・平和記念公園に。」旅をしてきました。

         ★親思う心に優る親心、今日の訪れ何と聞くらん★
                                                                                                                        
  これは、長州「萩」の松下村塾入り口にある。吉田松陰の詩です。5月10日から

15日まで。山口県「萩」と広島県の「宮島・平和記念公園に」旅をしてきました。

  今回が、6回目の1人旅でして、明治維新・幕末と言う時代〈日本が一番揺れ動いた

時代です。)興味を持つ私は、高杉晋作・木戸孝允〈桂小五郎〉・久坂玄瑞・伊藤俊輔

(博文)など多くの維新の立て役者を生んだ町。武士の次男三男・商人・農民が主となり

戦い、国を創った土地。長州 萩に旅をしてみたいと昔から胸に秘めていました。それに

もう一つ、『萩・津和野』 (恋に破れた女の人が旅する土地だから。淡い出会いがあ

るかも?)と、かすかな期待を秘めて、 「でも期待どうりには行きませんでしたが」

   そして今回は、時間がかかりましたけど。★触れ合いを求めて、日本海周りの山陰

線を乗り継ぎ出発しました。 5月10日の昼前11:24分の特急エーデルに乗ろうと、  

園のリフト・バス(イルカ)で和田山駅まで。駅の裏道を通り抜けて3番ホームへ。 

時間があるのでホームで待っていると、何処かのおじさんが声をかけてきました。車椅

子の背中に付けたワッペンを見て、(車椅子1人旅と無線のコールを書いてるので)  

「無線をやってるのですか、」「ハイ。もう15年になります。」 「どの周波数をお使

いですか」?「主に。7mでカード交換していますが,時々21・29にも出て交信して

います。」  「私もコールを持っていましたが、もう切れてしまいました。JG3-M

JAと申します。」 「えっ、JG3-MJA!僕の友達に1字違いでJG3-WJA

と言うOMさんがいます。」「交信していた頃は、友達も沢山いまして賑やかでした。 


 
 楽しいですね。[顔も知らない人達と、いろんな話が出来ますから。」   「そうです

ね。」 「私も又無線始めようかなーぁ。その時は、お相手おねがいします。」話をして

いると駅員さんが迎えに来ました。「じゃー気を付けて、」   「ありがとう又無線で

お会いしましょう。」と言うと 「笑顔で笑ってました。」  「11:24分のエーデ

ルに乗車ですね。」  「ハイ、鳥取までお願いします。」  「鳥取駅に連絡しておき

ますけど。この列車は、発車したら。運転手と車掌の2人になります。ご用の時は、大声

で呼んで下さい。」  「ハイ。有り難う。なるべく乗客の皆さんに頼みますけど、よろ

しくお願いします。」   後ろの席の人がビックリしたような顔して聞いていました。 

  3両目の前の席に乗せてもらい。車椅子は折りたたんで座席の間に置き列車の窓から

 外の景色を見ながら。改めて出発出来るまでの出来事を思い出していました。

 ◆旅行するのは、(それも1人旅をするのは、4年ぶりです。〈どうなるのかなーと思

うと怖いような気もしますが、出発の日が近づくにつれ快感になります。(変な気待ち。  

やっぱり僕は変体なんですね。とにかくガンバラナクチャー、)          

 ★あれは4年前の事です。?(忘れもしません。電動三輪車(セニアカーが歩道で国道

側に転倒しまして、) 免停1年。 その間と言うのは、死んだようにおとなしくしてい

ました。◆路上テストから始まり、何度かの検定をして3回目の試験で受かり、  付き

添いが付けば外出が出来るようになりましたが、でも前のようにブラーと散歩に出られる

訳ではありません。(ペナルチィーが付きました。)それは(監視付き。)付き添いが付

き。? ◆悪い言葉で言えば罪人です。(執行猶予付です。)だから。よっほどの用事が

ないかぎり外には出られません。     

   そして1年前になりますが、居室にパソコンを買いました。先輩に教えてもらい、

何とか使いこなせるようになりました。 それで今回インターネットを使い、 旅行先の

手配や宿を調べたり、宿を調べて予約をしたり、 見学したい場所を選んで決めたりで  

 すごく便利に使うことが出来ました。 ファックスで宿泊を確認して、メールで行きた

い場所を調べたり、いろんな情報も頭に入れた上で予定を立てましたのでスゴク簡単にスケ

ジュールを立てる事が出来ました。 (車椅子での移動の不安や旅行先での不安とかあり

ましたが、(何とかなる?) とにかく外に出たくて、どこかに行きたかったのです。  

 自分で言いますが、 (水を得た魚のようでした。)    それに昨年は自治会の会

長を任されていて、自分の事が出来なかったので、初めて旅行するするようで、緊張して

いたのは確かです。  それを証拠に出発する。3日ほど前に園長に言われました。    

   「森下はん大丈夫けえ。顔が引きずっているぞ。 自分では平常心なのに顔に出た

見たいです。(性格が素直だから。) 自分を勇気づける為に。新聞社にファックスで売

り込みました。 JRに勤めている友達に頼み。乗車券も用意出来ました。これで準備完

了です。  8時間以上も列車に乗る為、  予定では列車のトイレを利用して見ようと

考えていましたが、  総務課長の吉田さんに「揺れる列車の中で用をするのはムリだ。

そこで倒れでもしたらカッコワルイ!もし、ケガをして迎えに来い、と言われても行けな

いぞと言われました。〈要心の為紙オシメをはいて〉園長にも・吉田さんにも「森下君。

事故に合うなら。山口県の萩に着いてから。起きると良いな。ワシが迎えに行くから。

鳥取までは無事に行けますように、島根か山口の萩には、まだ。行った事ないからワシが

萩まで迎えに行ったる。」と園長に言われました。    前日から。水分をひかえて、  

 列車に乗り込み。和田山を後にしました。 自由席のトイレに近い窓際の場所に座り、

外の景色を眺めていると、      3才ぐらいの男の子が息を切らして走って来て、

「おばあちゃんここ空いてるよ。早くおいでよ。」後ろから年輩の女の人が後を追っかけ

て来て、「タッちゃん走ったらダメですよ。おとなしくして座ってなさい。」 私の側に

来て座り列車の窓から外を見ていました。  突然、大きな声で。「海だ。おばちゃん海

だよ。」  「綺麗ね。ホラ。この海を越えたら外国に行けるよ。」 「お船に乗らない

とダメだよ。先生が言ってたモン。」 「そうだねえ。お船に乗らないと行けないねえ。」

車内に放送が流れ。。。 香住ー、香住ー。2分間。香住に止まります。   私は大満

足気分でウトウトと寝ていました。  何かガヤガヤと聞こえるので、 目を覚まして顔

を上げると、年輩の女の人が  「すいませんねーェ。孫がうるさくしまして、」 

「いえ、にぎやかな方が良いですから。」 「あなた何処かにお出かけですか、」 「山

口県の東萩まで行きます。」 「車椅子に1人旅と書いてありますが、車椅子で旅行され

てるのですか、」  「みんなにお世話になり、車椅子で旅してます。おばあちゃんは、

何処かお出かけですか、」子供を指さして、 「この人を浜田まで送って行く所です。」 

「浜田。そうですか、」 「子供が不思議そうな顔してジーッと私を見ています。」 

「ホラ。おじさんに。こんにちは言わないと、」  「こんにちは?」 「こんにちは、

僕、何才?」  右手の指を3本出して、大きな声で、 「3才と答えると、」  私の

車椅子を見て突然。 「おじさん歩けないの?足があるのに、どうして?」 それを聞い

ていた。おばあちゃんが慌てて「何を言うんだいこの子は、」と その子を連れて逃げよ

うとしました。「待って下さい。」 [その子に、教えてあげるからおいでよ。」

「すいませんと言いながら。」 おばあちゃんは悪そうな顔していました。  「いいん

です。僕だって、ケガもしてないのに歩けなれば変だと思います。又、足があるのに車椅

子を利用してたら。可哀相だと思いますから。疑問を持つのは当たり前です。 子供は、

素直なんですよ。」子供に向かい、「あのな.おじさんナーァ。お母さんのお腹の中で、

まだ生まれる準備が出来てないのに生まれたんだ。手や足が動く準備が出来てないのに、

生まれて来たんだよ。だから歩けないんだ。(手も上手く動かないんだよ。歩けないんだ

よ。)手が仕えないんだよ。」 「早く生まれたら。歩けないの手があるのに動かないの、

おじちゃん可哀相だね。」 「歩けなかったら可哀相か、おじさん手が使えなくても自分

で食べること出来るし。 歩けなくても車椅子に乗れば旅行も出来るんだ。自分で出来な

い事は、誰かに頼んでお手伝いしてもらえば列車にも乗って、どこでも行けるんだよ。」  

 「あのね、おじちゃん手が仕えないのに、ご飯は、どうやって食べるの?、」 

 すぐ側で聞いていた。おばあちゃんが決まり悪そうな顔して、二人の会話を聞いていま

した。「お口で食べるんだ。」 「どうやってお口で食べるの」  「首を上下に動かし

て見せて、こうやって犬みたいに、!」   「???」    すると駅員さんが迎え

に来て。「次の鳥取駅で乗り換えですから。こちらへ、」 タッちゃんに手を振り。別れ

を告げると、「おじちゃんバイバーイ、」  「じゃー又な、」 鳥取駅に着くと駅員さ

んに、エーデルから特急「おき」に乗り換えさせてもらい。  中に入ると、「おじちゃ

んこっちだよ。早くおいでよ。と言われて行くと、」 スグ後ろの席に、さっきの子供が

乗っていました。  「おじちゃん又いっしょだね。」おばあちゃんが、「又、ウルサク

してすいません。 よろしく。お願いします。」  「こちらこそよろしく、おねがいし

ます。」  駅員さんが「ご用があれば呼んで下さい。前の車両にいます。益田で乗り換

えですね。駅には連絡しておきますから。益田に着いたら。駅員が迎えに来ますのでごゆ

っくり、」   隣の席に乗っていた。 タツオ君が「おじちゃんは、どこまで行くの、

ボクは、松江と言う所に行くんだよ。」  そうか。おじさんは益田と言う駅で乗り換え

て、山口県の東萩と言う所に行くんだよ。」側で聞いていた。おばあちゃんが、「あのー

 どちらから来られたのですか?」 「兵庫県の和田山です。」 

 「和田山から山口県の萩まで1人で行かれるのですか? まあ、スゴイですね。」 

「スゴイ事ないですよ。時間は、かかりますが、自分で出来ますし。みんなにたすけても

らえますから。大丈夫。楽しいでいすよ。いろんな人と触れ合えて」  「タッちゃん。

おじさん1人で萩まで行くんだってスゴイね。偉いね。おじさん。1人で旅行してるだっ

て」、   「ボクは、おばあちゃんといっしょです。」    「タッちゃんおばあち

ゃんがいるから良いね。」   「おじさんは誰も居ないから。1人で行くんだよ。」   

「おばあちゃんいないのかわいそうだね。おじちゃん、」   「そうか、かわいそう

か、」  「隣で聞いていた。おばあちゃんがじゃー浜田までご一緒お願いします。」  

「こちらこそ、よろしく。」  次は、  湖山、 湖山、と 放送があり。 その後、  

スグ弁当はいかがですか。 弁当ー。  弁当ー。と おねえさんが売りに来たので、

「すみません。弁当2つ頂けませんか。」  「ハイ。まいど、アナゴ飯、と かに飯、

どちらにしますか、」  「両方のお弁当を1っずっお願いします。」 「まいど、あり

がとうございます。」 お姉さんに財布からお金を出してもらい。弁当のフタを空けても

らい、  列車の地べたに座り。 列車の座席をテーブル代わりに、かぶりついて食べていると、さっきの子供が来て 、「おじちゃんお箸が持てないの、犬みたいだねぇ、」

「ごめんなーおじさん手が使えないんだ。タッたちゃん達は、手が動くから。お箸で食べ

られるけど、おじさんは、手が使えないんだよ。」 「ふーんおじちゃん痛いの、お医者

さんで注射して治してもらいなさい。ぼくが岩本さんの先生に頼んであげようか、」 

「ありがとう。 もう治らないと思うけど、頼んでおくれ。」  「頼んであげるから。

おじちゃんそれまでガマンするんだよ。」  「その言葉を聞いて嬉しくなりました。」 

するとおばあちゃんが来て、「呼んで下さればお手伝いしますから。言って下さい。」 

「ハイ、有り難う。時間はかかりますが、自分で食べられらますから。。。、自分で出来

る事は自分でします。でも、自分でで出来ない事や出来ても時間が掛かる事があります。

その時は、お頼みしますのでよろしくです。」  「ハイ。分かりました。(見てごらん

タッちゃん。)おじさん自分で出来なくても一生懸命ガンバッテるでしょ。偉いねーぇ。

タッちゃんは、自分で出来るのに。おばあちゃんやお兄ちゃんを頼むでしょう。だから甘

えん坊さん。」  「ボクは、まだ小さいから出来ないんだよ。」 「そうだねネ。おじ

さんだって出来ないことが沢山あるんだよ。だからみんなにお手伝いしてもらうんだ。タ

ッちゃん。出来ない事は言うからお手伝いしておくれ、」   「言いなさい、お手伝い

してあげるよ。でも僕、小さいから。おじちゃんを持てないよ。」  「持たなくてもい

いんだよ。」  「このお弁当食べるからフタを空けておくれ、」  「ハイ。ボクが空

けてあげる。」  じーっと見ていた。おばちゃんが涙ぐみながら。「おじちゃん偉いね

ーぇ。と言いながら。子供の一生懸命手伝う姿を、」 おばあちゃんも・側にいる乗客の

人達も微笑んで見てました。」  「ありがとう。いただきまーすと、」カブリついて食

べていると乗客の一人が、「お手伝いしましょうかと、声をかけてくれましたが、」  

「ありがとう。自分で食べられますから。大丈夫です。(私に出来る私のやり方で自分の

人生を生きて行きたい、)唯それだけです。」   周りの人が不思議そうな顔をして見

てましたが、無心で食べていると、 「おじちゃん卵あげると、赤い小さなお弁当箱を持

ってきて、二人で仲良く食べました。」 私の真似をして、カブリついて食べようとした

ので、カーッとなりましたが、心を落ち着けて。「タッちゃん美味しいかい、上手に食べ

られないだろう。」 「美味しくない、食べられない、」  「タッちゃんは、手が動く

んだろう。 〈叱るように。大きな声で〉『手で食べなさい。』おじさんは、手が動かな

いから。口で食べてるんだよ。手が仕えたら手で食べたいよ。」  「ふーん。おじちゃ

ん手で食べられないの可哀相だね。食べさせて上げると、」   「自分の弁当を私の口

へ、」   「タッちゃんのお弁当が無くなるからいいよ。」    「無くなったら。

おじちゃんの食べてもいい、」   「食べてもいいよ。」 おばあちゃんが、「タッち

ゃんいけませんよ。それは、おじさんのお弁当でしょ。!」   「すみませんタツオ君

の分を私が食べたのです。 だから取り替えっこしたんだよナー。」  「そうですか、

タッちゃんおじさんを困らしてはダメですよ。 叱ってやって下さい、」  「はい、」   

「おじちゃん。 お茶、持ってないの?、僕のお茶をあげるよ。」 と自分のお茶を飲ま

せてくれました。 「缶入りのウーロン茶をお礼にあげると大喜びで、」  「おじちゃ

んお茶いっぱいになったよ。」とはしゃいでいました。   しばらくして、  浜田、

浜田、と放送があり。  (^O^)お忘れ物のないようにとアナウンスが聞こえると。

  列車が止まり。   駅に着くと若い女の人が赤ん坊を抱いてホームの向こうで手を

ふっています。 それを見るなり、「ああーママだ。」と姿を見つけるとタッちゃんは、

大喜びです。」 おばあちゃんが「タッちゃんもう着きましたよ。忘れ物ない、カバン持

った。」  「忘れ物は、ないよ。」  「おじさんにさよなら。ありがとう。言った

の?」   「まだ。言ってないよ。」  「じゃあ、言って来なさい。」  「おじさ

ん さようなら。又ね。」  「タッちゃんさようなら元気でね。」  おばあちゃんも

「それでは、森下さんお元気で、お気を付けて、良い御旅行を、」 「はい、お世話にな

りました。おばあちゃんもお元気で、」          手をふり別れました。           

  しばらくすると、益田駅で乗り換えです。 長州。山口県の萩に近づいています。    

 ★鼻歌が出ます。♪鉄橋渡るとそこは、維新の始まり、!列車の窓から外を見ると、   

 日本海です。 寄せては返す荒波と何処までも続く海。 海の遙か彼方に霞んで見える

水平線を眺めていると、改めて雄大な気持ちになりました。 《私は、独りで車椅子旅行

している。》 これが幕末150年前の維新の時代。 その時代の日本では考えられない

事ですよね。 それが現在列車に乗り当たり前に旅が出来る。それも私のような障害者が

車椅子でそれも1人で、お手伝いをしてもらいながらですが旅が出来る。良い時代です。

(本当に良い時代。この時代に生まれたことを感謝しています。 でも、私の姿を見て

世間の人は偉いと言う意見もあれば、そんなカッコウして情けない。悪いと思わんのか、  

不自由な者は家や施設で静かにしていれば良い。ただで年金をもらっているのだろう。

と言われた事も何度もあります。 重度の障害を持つ私達不自由な者は、家や施設で生き

ているのか死んでいるのか、それも分からない人生なら。私は人生なんかいりません。

死んだ方がマシだと私はかんがえます。人に迷惑かけても一生懸命生きて行きたい。  

これが私の人生で私の生きると言うことなのです。 同じ人生を生きるなら後悔したくな

から。(人が生きると言うのは、障害の有無は関係ない、自分の一生でどれだけ周りの人

と関わり合いを持って生きたかではないでしょうか?) 人に迷惑ばかりをかけ笑われて

惨めな生き方だとしても、それが私に与えられた私の人生です。   少しでも良いから

自分の好きなように生きて見たい。 それはいけない事なのですか、? 先日、家に帰り

母親に、「来月。家の近くの学校に私が車椅子で旅をした。話を講演に行く、」と話した

ら。「あそこには従兄弟のダンナも勤めているし、みながお前を見るから行くな見せ物に

なる。」と母親に言われました。   「私は、思わず大きな声で誰が俺を生んだんだ。

障害者に俺を生んだのは、アンタだよ。俺は犠牲者なんだよ。分かってるのか、」と叫び

ましたが、これが本当の気持ちです。 両親が元気な内に自分が社会に挑戦している姿を

見せい。例え障害があつても自分の生きる事を証明したいと思います。   私の周りに

いる人は、みんな・全部・統べてが元気です。 兄弟もそれぞれ結婚して子供が産まれ。 

普通に生活をしています。障害者は、僕だけです。(こんな私でも、昔は悩みました。 

なぜ、俺だけ歩けないのだ。手が使えないのだと親を恨んだこともありました。で、施設

に入所して。人と交わり、世間を知り、団体生活する中で目覚めて、考え方生き方が18

0度変わったのです。そして10年前に1人旅した事で120度。5年前漫画の主人公に

なり、(北海道まで行けた事で、)150度変わり、合計で450度変わり、現在では、

胸を張り言えます。『障害は、私の個性です。』障害があるから私がいます。 (障害者

だから生きてこられました。)   同じく障害者の友達に言われた事がありました。 

「森下君は、幸せだよ。ご両親は元気で兄弟もいる。」と言われましたが、 若い頃に 

独り暮らしをしたいと思い、福祉事務所に相談と言うよりお願いに行った事がありますが、

その時も「ご家族。両親も兄弟がおられますね。その方たちには、面倒見てもらえないの

ですか?」  「いえ、面倒見るとか見ないとかじゃなく、たとえ人に介護を受けながら

でも自分の人生自分で決めたい、自立生活をしてみたいのですが、ダメでしようか???、

「気持は分かります。詳しく調べないと分かりませんが、家族が面倒をみれない。

理由と御両親と御兄弟の年間収入明細書。親戚の同意書・家・不動産の評価額など、その

他。を調べますのでしばらくお待ち下さい。」と言われ、それを聞いていてイヤになりし

た。「障害を持つ者が税金を使って生活するのですから。大変だと言うことは知っていま

したがこれほど難しくややこしいとは思いませんでした」空しくなり、同時に悲しくなり

ました。  生活保護を受けている者は、例えば 貯金・財産・収入があるとダメです。

生活保護のお金を貯めるのはダメで、 生きて行く為の▼生活保護金ですから。▲

  生活するた為に支給されているお金を貯金したり、貯める事が出来ると言うのは、生

活をするのに余裕があるので、給付金の額を人が最低減に生活が出来る額で良いと役所に

判断されて受給される額も減給されると聞きました。 貯金が出来たり、お金を貯めれる

と言うのは、生活保護金ではないそうです。(例えばテレビ・冷蔵庫・洗濯機以外は贅沢

品で持てないと聞きました、無線とかパソコンを使い手紙を書くメール買い物・何かを調

べたりするインターネット等のOA機器は、贅沢品だそうです。  でも、私にすれば社

会にアプロチ?する大事な必要な品物なのです。 考えてみて下さい。独り旅が出来ます

が、想像して下さい。駅から駅までは、列車で移動しますから駅員さんと乗客のみなさん

にお世話になります。駅から旅館までは、自分でなんとか行けますが、 電動車椅子では

  ありませんから。人が歩く5倍は、時間が必要です。 おまけに方向音痴ですから。

(道に迷い大変です。)だから駅に近い場所に宿を選ぶのですが、(それでも道に迷い、

行けなくて通行する人に助けてもらい。何とか目的地にたどり着く事が度々です。)宿に

着けばフロントの人やホテルの支配人さん・それに宿泊している。お客さんにも助けても

らいます。 観光地の見学はタクシーの運転手さんにお願いします。 だから偉い事でも 

・スゴイ事でもなんでもないのです。 周りに迷惑をかけるだけの自己満足の私のわがま

まの旅行ですが、私が生きている事を確信出来る。(瞬間)です。    そんなにまで

して旅行がしたいのかと聞かれたことがありますが私に出来る私のやり方で旅行してる。 

  唯、それだけなのです。  いけませか?。 生まれつき障害を待った私にすれば当

たり前で普通の事なのです。  自分で出来ない事や自分で出来ても時間のかかる事は人

にお手伝いしてもらいます。 この頃。「出来ない事を出来ないから頼むと言えるように

なりましたが、初めの頃は頼めませんでした。人が出来る当たり前のことが出来ない、」  

それを第3者の他人に頼むのですから。 人は、変われば変わるものですね。(これでも

昔は可愛いい者でしたよ。昔は人と会うのが怖いと言うのか恥ずかしい、怖い、障害を持

った自分を人に見られるのが死ぬほどイヤでした。 そして14・5年間。自分の宿命と

戦い・悩み続けて。自分の中で格闘がありまして、 25才を過ぎた頃ですか、  

 ある一つの出来事が私の生き方・考え方。そして人生を180度。変えさせてくれまし

た。 それは、前にも述べましたが、アマチュア無線と出会いと尼崎養護学校の見学もそ

うですが、テレビドラマの「おふくろシリーズで」車椅子の青年。「宮川一郎太」がいろ

んな障害者の苦難を乗り越えて車椅子で筑波大学に入学したのですが、障害があるために

自分ではなにも出来ませんが、自分への割り切りと言うのか自分は、何も出来ないから。

素直に出来ない事は出来ないから助けて下さいと周りの人達を頼み。周りの人を動かしな

がら自然に、自分らしく生きて行き。おふくろに安心させると言う。 

 ◆お涙ちょうだいのドラマでした。)それを見て感動して、自分に目覚めた。(私らし

い。単純な出来事がありまして、)  今は、ずるがしこいと言うのかアツカマしく人に

頼み。助けてもらう。  もう一人のずるい自分が生まれました。 それが今の私です。   

でも勘違いしていけないのは、自分で出来る事は自分でやり、  出来ない事や時間の

かかることは自分から人に頼む。(大事な事は、自分で頼み。やってもらうのではない、

お手伝いしてもらうのです。)そして、この人は、頼みやすいから、優しいから、親切

だから。と同じ人ばかりに、頼んでいてはダメです。長続きはしません。 介助する人の

負担にもなります。 1人の人ばかり頼まないで回りの人みんなに声かけるようにする。

で、外出の方法でも異なります。ボランティアさん一人で対処が出来ない事はともかく。

ボランティアさんがいるのに無視して周りの人に頼むのは、(ボランティアする人にも

失礼なのです。 その時々で自分で判断しなければ、難しい事ですが、やはり経験ですか

ネ。) 私は人が出来る。 普通のことが出来ません。でも、考え方・やり方を変えて、

周りの人の力を借りながら。 近づける事は、出来ます。(時間がかかります。) 難し

い事ですが、 自分をさらけだして、 本当の自分を見せなければ?周りの人達も自分を

見せてはくれません。            話しが横道にそれました。

   本筋に入ります。  「益田駅で乗り換えですね。連絡しておきましたので、お迎

えに来ますから。」 すると駅員さんが、「出口は、右ですから。こちらへどうぞと反対

の出口から迎えに来てくれました。」益田駅で乗り換えて普通列車で、東萩駅へ向かう 

予定です。益田駅で普通列車に乗りました。初めは、乗客もまばらでした。宇田郷・木与 

・奈古・長門大井と東萩駅に近づくにつれて学生で満員御礼になりました。(野球場だっ

たら大入り袋間違いなし)列車の出口に座る人やら。ドアにもたれて乗る人達で、定員オ

ーバーのギュウ・ギュウ詰め。  車椅子に腰掛けているのが悪い気持ちがしました。

  スゴイ学生の大群にあっとうされて小さくなっていました。みんな不思議そうに、 

車椅子の私を見ています。私も愛想を振りまくように、女の子にニコッと微笑む。(気持

ち悪かったかなー、)不思議な顔して、みんなこちらを見ています。私も変わっています

が? 最近の学生の変わり様にビックリしました。 男の子は、チョッキの下からワイシ

ャツを出してズボンは今にもずり落ちそうて髪の毛は色つきで耳にはピアス。(それも2

?3個です。)指輪をはめてGパーンのポケットには鎖の付いた財布と携帯電話をぶら下

げるように入れています。女の子は、と言うと短いスカートにルーズソックス姿で髪の毛

は、栗色に染めて黄色のメィシェを入れていました。顔は、焦げ茶色に黒っぽい口紅、目

から涙が出てるように涙の粒のシールを貼っています。 髪の毛をたらして片目を隠すよ

うなヘアースタイルに、マンガのキャラクター入りのリュックを背おい、携帯電話には、

(天童よしみ。)のキーホルダーを付けています 。(この子達がよく言う。子ギャルか

と?、)ビックリするやらアキれて何も言えません。  これが今の現実だと思うと、」

  なんともはや、、、。この姿を見たら。高杉晋作も吉田松陰も泣くよ。

 ■なんの為に、命を賭けて、なんの為に、、日本の夜明け。 明治維新を創り、、、 

こんな時代は、幕末の獅子達も予想しなかったと思います。  でも、これが現在130

年後の日本の姿です。おかしな時代ですが、(私は今を生きています。)何か複雑な気持

ちがします。   その時、髪の毛染めて耳にピアスをした1人の女の子が 「あのーッ

どこまで行かれるのですか、」と聞いてきたので、 「東萩まで、行きます。」 「背中

に。1人旅と書いてありますけど、全国を旅行していらっしゃるのですか、」  「行き

たい場所や訪ねてみたい土地にみんなに助けてもらいながら。一人旅をしています。」 

 「ええーッ一人で、しかも車椅子で大変、いやスゴイよ。おっちゃん、」  「すごく

ないよ。君達の方が凄いよ。」 例えば、列車に乗る時は、JRの職員さんが、ホテルに

着けば、ホテルの人が。 通行する時は、周りの人達に助けてもらえるから大変ではない

よ。  一人の方が自分の行きたい場所や好きな所に行けるから。自由な旅が出来る。」 

  「へ?ぇ、スゴイじゃんと3?4人の男の子が話に加わってきました。」  「駅員

さんを始め。出会う人達みんなに助けてもらったり、お手伝いしてもらえるから。」話を

聞いていた。   女の子に「おじさんカッコイイジャン。」と言われたので、テレなが

ら。「ありがとう。君もかわいいね、」と言うと恥ずかしそうに、顔を真っ赤にしていま

した。  しばらく話しをしていると、おばあちゃんが降りようとしていますが、ドアの

所に不良みたいな学生があぐらかいて座っているものだから声をかけられなくてコマッテ

います。 「ばあちゃん降りんの、言ってくんなきゃぁ分かんないじゃん。」 私は、思

わず。「君達を見て怖いんだよ。髪の毛染めてたり、ピアス嵌めた。 そんな姿の学生な

んか見たことがないから怖いんだよ。」    「おじさん。私達を外見で判断しないで

よ。ファッションなんだよ。 だから大人は、ダメなんだよ。  大人達には、決まりが

あるけど、今の年頃の私達に、決まりはないんだよ。」と言われて、 ハッとしました。  

  『私も初めて、この子達を見た時は、髪の毛を染めているし奇抜なカッコウして、

耳にはピアスをはめて、ズボンをズラして履いてる姿をみて、) こんな不良達に関わら

ない方が良いと敬遠した事は確かです。 世間の人も私を見て、(自分でなにも出来ない

者がどうして車椅子で旅行するのか、)と思いますが、私の障害は生まれ付きです。

私にはこれが普通です。(自分では不自由だとは思いません。生まれた時から不自由で出

来ない事が普通です。  時間はかかりますがやり方・考え方を変えたら。普通の人に近

づける事が出来ました。 そして周りの人に頼み助けてもらえます。)  今回の旅でも

そうですが、  車椅子でまして一人で旅行なんか出来ないとみんなに言われた。その時

の気持は、私か一番分かっているはずなのに、そう言う目で見た。私は、スゴク恥ずかし

い気持ちでいっぱいでした。反省しています。ゴメンナサイ。 私も見てくれで判断され

るのが、一番イヤな筈なのに、申し訳なく心から反省しています。 ごめんなさい。?!       

  初めて行く旅館では、いつもそうですが、最初に車椅子に乗った。私の姿を見て一人

ですと言うと、ここの旅館は「車椅子でご利用が出来るような設備はされていません。」

と断られた事も何度かありますが、設備は無くても少しだけ手を貸してもらえば宿泊出来

ます。 幾ら。車椅子で利用出来るように設備されていても、相手を思いやる気持ちが無

ければダメです。  ちなみに『25年間。車椅子で旅していますけど、一カ所だけ女将

さんが【御宿には車椅子で利用しやすいような設備は無いけど私がお手伝いします。 車

椅子で移動するのがムリなら私が面倒見るよ。と云われ嬉しくなりました。私は一生忘れ

ません。 あれは、福島県の東山温泉の御宿東鳳の女将さんです。私は忘れることは出来

ません。  ▼あの女将さんに出会った事が私の車椅子独り旅の原点です。▲

 (人が人を思いやる。もてなすと言う優しい気持ちで、) 宿泊させてもらいしたが、

ひと口では表せないほどのお世話になり、 この事が独り旅の原点であると云っても過言

ではありません。 ★私は、車椅子で生活している。重度の障害者ですが、 『障害者は

キライです。』自分の悪い所もイヤな所も良く分かるからだと思います。 近頃は、大体

の場所に車椅子で行けます。スロープもエレベーターもトイレも公共の場所には、ほとん

ど設備されました。  もったいないような時代です。世の中です。   何処に出かけ

ても車椅子を見るようになりました。障害者が社会に参加して共に生きています。 でも

私は、感じます。 世の中が便利になった分だけ少し寂しい気持ちになります。私だけで 

しょうか、 思いやり、触れ合い、人との関わり合いがなくなり、 便利になった分だけ

関係ない。君達、障害者もお年寄りの人も困っている人も寂しい人も勝手に生きて行けと

言う感じがするのですが、 私の思いすごしなのでしょうか???、   世の中には、

男がいる。女がいる。大人がいて、子供がいて、お年寄りがいて、 僕たち車椅子を利用

している。障害者もいれば、妊婦さん。生まれたばかりの赤ちゃんもいるのです。

 それが今の世の中です。◆私があこがれている。坂本龍馬も吉田松陰・高杉晋作も、  

◆武士・町人・百姓、上級武士・下級武士・郷士、 ◆長州とか薩摩。◆幕府とか勤王。

と昔から制度や差別や迫害がありました。外国でも白人とか黒人。ユダヤ人もそうです。

でもこれは昔の人が創り上げた制度、士・農・工・商。と位がありますが、考えてみて、

みんな人間なのです。 ▼そして障害者と健常者。▲  悪い言葉で言えば差別です。 

差別はいけませんが、私は言いたいです。人には区別する事も必要ではないでしょうか、

 なんかバカバカしいですね。そう思いませんか、歩く人がいる。歩けない人もいる。手

が使える人もいれば、仕えない人もいる。太ってる人・やせている人。メガネをかけてる

人・コンタクトの人。綺麗な女の人もいれば、それなりの女の人もいる。 そして助けを

求めている私がいて、助けてくれる人がいる。  生きている全ての者は、自分独りでは

生きて行けないと言う事です。  そしてもう一つ大切な事は、『手を差しのべてほしけ

れば、その存在を自分の意志で自分の存在を見せなさいと、』ある人にと言われ。 なる

ほどなーと納得。やはりいろんな人達と会い。いろんな体験をして、 その中で感じた事

は、みんな同じ人間なんだと云う事です。 私は障害者で健常者にはなれないけど、健康

な人はいつ障害者になるか分かりませんよ。 その為に貯蓄する気持ちはありませんか、 

古い知り合いので 「シナリオライターの根岸康雄さんが言ってましたが、森下君は健常

者になれないけど、僕らは障害者になる。可能性はある。人を助けたり。人に奉仕する事・

ボランティアする事は、老後の自分の為に貯蓄しているような物だよ。」と言われました

〈世界の人10分の1でもそんな考え方が出来る人達がいれば、〉戦争もテロも貧困で餓

死する人も減るのではと、思います。〈そんな考え方の出来る根岸さんあなたは偉いお方

です。〉俺も定年して仕事止めたら。人の為になるる事をやろうと思う。「宜しくお願い

します。」と頭を下げておきました。 いいなー。人の為になにかが出来ると言うのは、 

  私には、なにもありませんよ。    でも障害が私の個性だと、 割り切れたとき

から。自分に自信が出来ました。共に生きて自分から積極的にアピールして生きる事が私

の生き方です。               車椅子の私でも旅行が出来ました。            

   私達自身が外に出て生きる事にチャレンヅしている姿を見せなければと改めて感じ

ました。 一週間や十日なら1人でも外でなんとか生活出来ます。(自信あります。) 

でも、それが20日?1カ月となると出来ません。     話がそれましたが,

  午後17;24分東萩駅に到着しました。 列車の中で知り合った子供達5?6人と

駅員さんに下ろしてもらいました。  すると、子供達も列車から降りて改札まで付いて

来て、「おっちゃんそれじゃ元気で気を付けて行きな。」と手を振り、東萩駅のホームで

みんなで万歳三唱してくれました。私は、ビックリしたと同時に嬉しくて涙が溢れて止ま

りませんでした。今でも忘れられませんが、こんな出会いがあるから旅が出来るんです。 

「駅員さんが良いお友達ですね。」   「はい。列車の中で知り合って、友達になった

人達です。」  「へーえ、昔からの友達みたいでしたが、」お客さんこれからどちらま

で、  「はい。萩グランドホテルに行くのですが、 駅から歩いて7分だと書いてある

のですが、」 「この表の松本川に、架かる大きな朱色の橋を渡り、右に200メートル

程行くと信号がありますから。そこの交差点を右に100メートルほど行きなさい、」と 

駅員さんに教えられて、 今の時刻は、夕方の7;45分です。  辺りは薄暗く車のヘ

ッドライトの灯りが眩しいなと思いながら。車椅子で汗かき進みます。   横断歩道を

渡ろうとしていると、前の喫茶店のウュィレスのお姉さんが声をかけて来ました。「ご旅

行ですか、夜道は危ないから気を付けて下さい。」車椅子を押して渡らしてくれました。

 「あ・・ありがとうございます。すいませんお尋ねしますけど、萩グランドホテルは、

どの辺ですか、?」 「私がご案内しますから。少々お待ち下さい。」出前の途中みたい

でしたので、信号だけ渡らしてもらい。「もう大丈夫です。ゆっくりと行きますから。」  

  「そうですか、それではお気を付けて良い旅が出来ますようにお祈りしています。」    

「有り難う。ございます。」とお礼を言って別れ。  橋の上を車椅子で歩いていると、

又「大丈夫ですか、この歩道は、かまぼこ状態で進みにくいでしよう。」と今度は中年の

男の人が橋の出口まで、車椅子を押してくれました。  「急いでいますのでここで失礼

します。じゃーお気を付けて」   「ありがとうございました。」と別れました。  

  そして辺りは薄暗くなり。車椅子に乗って萩の夜の街を散策です。   

 道路が見えるうちに急いでホテルに行かなくては、疲れた腹へった。 近頃のホテルは 

携帯電話で検索するとナビゲーションと言うんでしょうか目的地や探している。ホテルの

場所が分かります。(便利な時代です。)道路を横断しようとしたら。車が急に出て来て、

急ブレーキ。「何やってんだー。危ないじゃーないか馬鹿やろー。」と怒鳴られました。

慌てていたのですね。信号は、まだ赤でした。 (ああビックリした。)健康維持の為に

毎日夫婦で仲良く近くを散歩していると言う初老の御夫婦と会い。「大丈夫ですか、危な

いなー夕方は車が多いですから気をつけて下さい。」 私達、今ジョギング兼散歩の途中

ですと言いながら 車椅子を押してくれました。「今夜のお泊まりは、どこですか、」

  「はい、萩グランドホテルですと言うと、」 案内してくれました。   玄関まで

送ってもらい。お礼を言って別れましたが、pm8:46分無事ホテル到着。  お腹ペコ・

ペコで無事チュックイン出来ました。疲れた。 昼食の駅弁を食べてから、なにも食べ」

ていません。 夕食を頼むと、「本日の夕食の注文は受けたまっていませんので、ご用意

出来ませんと言われ途方にくれていると、」 支配人さんが「この近くには食堂やレスト

ランはありませんが買い物は出来ますと、」近くのコンビニにまで案内してくれました。

車椅子を押して案内されました。  待っていられると買い物もゆっくり出来ない為、 

支配人さんに、先に帰ってもらい。帰りの道順だけは紙にしっかり書いてもらいました。 

(私は、自慢ではありませんが方向音痴です。)  店の中を車椅子で買い物カゴをぶら

下げて。ウロ・ウロして周り。幕の内弁当に・焼き肉弁当・サンドイッチにビール・コー

ラ・おつまみ、「支配人さんに部屋に備え付けのポットがありますと聞いたので、」 紙

コップのコーヒーとお湯を注ぐだけで食べられる。カッブラーメンを2?3個。購入カゴ

をぶらさげレジで精算していると、 建設工事服を着た。中年のおじさんと仲良くなり。

車椅子で1人旅をしている事や・周りの人や各地で出会う人達に助けてもらいながら体が

不自由でも車椅子で旅が出来ますと、苦労話や嬉しい事、困った事や思い出に残った事を

話し、暫く店の中で話していると、すっかりうちとけて仲良くなり、店内を車椅子押して

走り回ってくれました。突然。「おにいちゃん女の子は、好きか?」ビックリして??

「大好きですと答えると。」店の隅にある。20才未満立ち入り禁止と書いてある場所に

車椅子を押され連れて行かれた場所はエロ本やビニ本が陳列されているコーナーでした。

巨乳の女の子が載った。ビニ本を2冊選んで買ってくれ、 「頑張る君に、これ俺からの  

プレゼントだ。 部屋で夜は長いから読むと良い、」と買ってくれ。 荷物と食料をぶら

下げてホテルの前まで送ってもらい。21;40分。宿泊先の萩グランドホテルに帰って

来ました。  支配人さんに案内されて入った部屋はエレベーターの真ん前で6階の突き

あたりの部屋です。  ここで部屋の中を紹介しますと、シングルの部屋にバス・トイレ

付きで、ベッドにソファーとテーブルが置いてあり。タタミ1畳位のスペースしかありま

せんでした。    中を車椅子で移動するには、少し狭いので部屋の端に車椅子は折り

たたんで片付けて寛ぎました。   テレビのスイッチを入れてみましたが、ナイター

は、(今日、月曜で移動日。テレビ中継はありませんから。)まず腹ごしらえをします。 

さっきコンビニで買って来た。  お弁当と缶ビールにサンドイッチを平らげて満腹で、

世は、満足。 裸のまま朝までバタンキューでいつの間にか寝てしまいました。 

(疲れていたようですね。)11日朝5;30分に目が覚めて。汗ブルブルで格闘の末。

トイレに着替え洗面を終えて。 7;40分ごろ近くを車椅子で散歩に出かけましたが、

工事ばかりで歩道は通行できませんから。300メートルほど進みましたが、諦めて帰っ

てきました。帰ってみるとホテルの道路沿い玄関フロントロビーは、人間様の大群です。

 今日は、毎月2回の朝市が開かれる。今日がその日で、周り・広場。駐車場。500メ

ートル離れた場所まで道の両端に屋台。露天の店やいろんな売り場が並び。 あまりの賑

やかさに圧倒され何とか宿にたどり着いた私はロビーの隅で一休みして暫く見学です。    

  宿泊客は、本より、地元の人や観光客。その他。それに噂を聞いてやって来た。違う 

ホテルのお客さんでとにかく盆と正月が共に来た。 私が今まで見た事ないような人達で

今にも暴動が始まりそうな賑わいでした。 田舎に「氷川きよし・嵐」がイベントを開い

た。それをギャルの人達が(昔のギャル)30数年前の娘さん達。今は、俗に言う中年の

オバタリアン達の大群と子ギャルの大群が朝市の品物に群がっている。(動物の死骸に群

がるハイエナ達と言う表現をすれば分かって貰えると思います 。想像してみて下さい。 

女の人の大群に圧倒されてロビーの隅に追いやられ、そこで形相を拝見させて頂きました

。 ほとんどが女の人でしたが、女の人って凄いなーと言うのか怖くなりました。   

  普段は、綺麗でお淑やかですましておとなしい大和撫子を絵に描いたような女の人も

競っての買い物早い者勝ちとなると、人が変わるのです。 〈野生の王国です。生か死。

もう何も見えません理性が無くなるのです。) 自分が欲しいと思う品物を買う為なら。  

人をかき分けて髪の毛振り乱して、着物の裾は、めくり上がり、スカートの裾は、めくり

上がり、下着・パンツが丸見えです。   (その凄い形相を見ていて私は怖くなりまし

た。)初めは、(鼻の下を伸ばして楽しく拝見させて頂いていましたが、時間が経つに連

れてイヤになり、最後には、情けなくなりました。 これが人間の本性なのかと思うと、

寂しくなり、悲しいーナ。と独り言。  そして朝の8:30分過ぎ。朝食です。が食堂

は、4段ほど階段があり、狭い上。急で車椅子では上がれないのでボーイさんに言うと、

少し大回りになりますとフロントのお兄いさんに車椅子を押されて案内された。今年オー

プンしたばかりの新館で裏にある。 別館から続くスロープを渡り入れてもらいました。

朝ご飯は、日本食と洋食のバイキング方式でした。「すいません。私、採れませんので、

洋食をお皿に適当採って頂けませんか、」  「はい、かしこまりました。」4分ほど、

待っていると、「お待たせしました。」とパン2コ・野菜・果物の大盛り。ジュースは、

グレープとパイナップルの2種類。「おかわりの時は呼んで下さい。あそこにいますと言

われました。」  「ありがとう」  「お手伝いしましょうか、」  「何とか自分で

食べること出来ますので、出来ない用事の時は呼びますのでお願いします。」こんなに食

べれないよと独り言。    食べましたけど。  カブリついて食べている私を見て 

隣の席のテーブルで食べている人が  「お手伝いしましょうか、」と聞かれましたが、

「大丈夫です。」と1人無心で食べていると、周りでみんながブツブツ言いながら。こっ

ちを見ています。 私は、わざと大きな声で 「自分で食べれるのに、食べさせてもらう

方が恥ずかしい事だと私は思います。食べ方はどうであれ自分で食べた方が美味しいです

よ。」と独り言。  ★『男はつらいよ。』★の寅さん渥美清によく似た。』おじさんが

近づいて来て、「何処から来られましたか、」 「兵庫県です。」「へーエ背中に旅行中

と書いてありますけど。全国を旅していらっしゃるのですか、」  「山口には昨日着き

ました。今日は、萩の幕末に活躍した獅子達の生家や記念碑を訪ねてみたいと思っていま

す。」  「そうですか、もう1日早く会えたら、私もお供が出来ましたが残念です。  

  「私は、11:05分のバスで帰りますけど、お気を付けて良い御旅行をなさって下

さい。」  「ああそーですか。山口は、初めてです。方向音痴で迷いながら見学してい

  ます。萩の史跡や名所を詳しく案内したり。教えてほしかったです。」 「それは、

残念です。私も貴方のような人と見学したかったです。本当に、残念です。じゃ?、気を

付けて楽しんで下さい。 」と別れました。 旅の記念に、名刺交換しましたが、 その

名刺を後で見て、ビックリ。幕末の志士達のことを研究している。テレビでも有名な千葉

大の教授さんでした。 (幕末に関するいろんな疑問を教えてほしかったなー、)と独り

言、  その後ロビーで支配人さんに。「松下村塾に、行きたいと思いますけど、 ここ

から車で何分ぐらいかかりますか、」 と聞くと 「歩いたら1時間余りかかります。」 

 「車椅子では大変ですから。お客さんタクシーをお呼びしましょうか、」  「予算は

往復で3万あれば行けますか、」と聞くと、「それはお客様の交渉次第でございます。」

と言われ20分ほど待っていると、タクシーが来ました。  

 運転手さんは、中年の優しそうな女の人でした。  「予算は、3万で長州萩の観光と

名所巡り、出来れば吉田松陰の「松下村塾と維新の道」を見学お願いできませんかと頼む

と、「分かりましたと、早速、発射オオラーイです。「お客さん。まず初めは、松陰神社

に行きます。」と行くと、その日は平日だと言うのに。スゴイ人の数にビックリ観光スポ

ットで、小学生から中学高校の修学旅行の生徒がほとんどで、中には幾つかのお年寄りの

団体。婦人会のおばさん達。 ス?ツや背広を着た。大きな会社の社員らしい若い男女を

乗せた観光バスも何台か止まっていて凄い人の数でした。 車椅子を降ろそうと駐車出来

る場所を探そうとするのですが、   駐車場は、家族旅行の車。マイカー。有名な会社

の社員研修でのバス。あまりの車の数に駐車する場所がありません。いろんな種類の車が

何十台も駐車していて、タクシーを止める場所もありません。入り口の看板の側に、車を

 停めて運転手さんと一緒に見学しました。 運転手さんにカメラマンを頼み。 私は、

車椅子で自分のペースで移動します。まずは、松陰が投獄させられていた部屋を見たので

すが、タタミ3畳ほどの部屋に仏壇と3尺ぐらいの机が一つ置いてあり、そこで生活して 

便所以外は、部屋から出ることが許されない為、 そこで、安政3年から約2年と半年を

主に地元の若者や町人・農民。勉学したい志を持つ人々に無料で指導した。 その人達の 

多くが日本を変えた原動力になったと言っても嘘ではないと、 私は思います。とにかく

ここでの教育こそが維新の志士達を育て上げた塾で、今の日本の原点であり、新しい時代

の始まり明治維新の原動力となった。若者を育てたのです。

 その中には、維新の時代を開拓し松下村塾の門下生で吉田松陰の教えを受けた。  

 ▼高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文・久阪弦瑞・山県有明▲その他。数多くの明治の指導

者を発掘したり養成した塾です。 日本人が一番最初に文明開化へと始動した地。長州・

萩。(この塾が無かったら。今の日本は、どうなっていたかと思うと不思議な気持ちにな

り、 150年前の時代に思いがタイムスリップしたようでいろんな事を想像していまし

た。その場所に、40分ほどいましたが、不思議な気分で歴史に酔いしれていました。    

 何処かの会社の団体で旅行に来ていた。  おじさんが泥酔して。近づいて来ました。 

「よう兄ちゃん元気。どこから来たんだ。いい若者が車椅子で大変だろう。」   「ハ

イ大変ですが親切な人達に、お世話になり旅行が出来ますから。感謝しています。」   

  「そうか、でも調子に乗るんじゃないぞ。昔ならお前達障害者は、人間のクズだった

んだ。国の役に立たないから。食いつぶし・厄介者・疫病神などと言われて、(家の中や

納屋や物置で生活させて隠れて家族や兄弟・身内は隠すように面倒をみていた。)その頃

の事を思えば障害者保護法だの差別するなとか平等だとか言われているが、俺に言わせれ

ば、それこそが差別なんだよ。今のお前達は、障害者とか平等だとか言われてチヤホヤ

され、その上、まともに働かなくても年金をもらって普通に生活が出来るんだ。 だから

家でおとなしくしていれば良いものを、まだ外に出て、世間に迷惑かけるのか、」と言わ

れて、日頃は、温和な私が(ムカーッと頭に来ました。)それを察したのか、代わりに、

タクシーの運転手さん(女の人ですが) その酔っぱらいのおじさんを世話役の人と2人

で車の方に、連れて行きました。   そうです。私の田舎の方でも一昔前までは、障害

を持って生まれた。子供は世間から隠すように、育てられたと聞きましたが、 不自由で

生まれて。世の中を知らぬままで死んで行く。 それが昔は当たり前だったと来いた事が

あります、 昔の障害者の人は苦労したようです。  現在は差別用語となりましたが、

(カタワとか躄り・たれ流し。と言う言葉を私も良く言われました。悔しいけど、親に言

えば大袈裟になり家族が悲しむのは眼に見えていますから。私さえガマンすればと、夜中

に布団の中で独り泣いた事が何度もあります。今の児童虐待なんか?カワイイ物ですよ。)

 比べることは出来ませんが、今のイジメを受けている子供達と例えは違いますがにてま

すよ。自分では何も出来ない時間が解決します。自分にしか分かりませんし、それは、死

ぬほど辛い事なのです。〈自分に負けて自殺する子供もいます。それぐらい辛い事なので

す。でも分かってくれる人がいる抱きしめてくれる人がいる。それだけで生きて行けます。 
勇気が出ます。私の場合は、祖母でした。〉 『違う意味で自分にしか分からない苦痛は

言葉で表現出来ない、心の苦痛なのです』   戦後生まれの私でもこんなですから。

 軍国主義の戦前はまだスゴイ時代だったようです。   戦争が終わり復員して来た。

兵隊さんや兵士の人達9割が負傷者の為、日本を守る為に戦って負傷したのです。みんな

で力を合わせて助けて上げなければと、それが身体障害者保護法なんだと聞いた事があり

ますが、その保険法に私のような生まれ付きの障害者は便乗さして貰って居るんですか、


そんな話を聞くと、私は、良

い時代に生まれました。感謝しています。そして一つ私には、祖父と祖母がいたと言う事

と20年余りの年月が現在の私を創り上げたと言っても過言ではありません。   今の世の

中、なにが正義でなにが悪なのか分かりませんが、自分の信じた事に命を賭ける事が出来

る。それが人が輝いて見える時では無いでしょうか、 吉田松陰も城主から蟄居を申し渡

されて、その定めの中から。 それまでの歴史をくつがえす導火線に、火を点火したと言って

も過言ではないと思います。 「何か、知らないけど、土佐の高知もそうでしたけど、なにか

やらなければ、?何かが出来る気持ちにさせる。温暖な土地がらですね。山口は、」(偉い人が

が生まれる土地は、環境も関係あるみたいですね。 土地柄もですが、周りを取り巻く人達

も、 後は、本人の努力ですか???。)   しばらく松陰神社・松下村塾・松陰違墨展示

館・松陰歴史館と1時間余り見学して、今度は、車で菊屋横町を見学しました。維新の道。

左右に白壁の塀が続き、塀の中には、夏みかん今が満開で、白い花を付けています。「私、初

めて知ったのですが、夏みかんって言うのは、家の近くで栽培が出来るんですね。  山で作

る物だとばかり頭にありました。」    「時代が変わり明治となり、 武士を止めた侍が主

となって、 みかん作りを始めるようになり、  一世紀余りの年月が経過して、 昭和40年

頃まで生計を立てていました。」と運転手さんが教えてくれました。  昔の面影を今に残

す。武家屋敷を運転手さんの説明を聞きながらの観光ドライブです。    私が興味を持つ

場所では、タクシーを停めて車椅子に乗り換えさせてくれて記念写真を撮ってくれました。

 松本川に架かる大きな赤い橋を渡り、長井雅楽旧宅跡・明倫館跡・高杉晋作の生家。(と

まー誰か人が住んでいます。)  木戸孝允の生家。(幼少の頃養子に出されていて。桂小

五郎と名乗ったようですけど、4人いた兄弟はなぜか次々に亡くなり、やはり元の家に帰

り、家を継いだそうです。) 伊藤博文 (幼名は、伊藤俊輔日本初の兵庫県知事となりまし

た。)郷土博物館・民族資料館・菊屋横町・◆萩城跡 (指月公園。関ヶ原の乱に敗れた。毛

利輝元が、防長二州三十六万石の居城として築いたものである。明治7年解体され、壕と城

壁の一部を指月公園、石垣などが残っている。)  ◆菊が浜と女台場、(指月公園より鶴江台

に至る白砂青松一番が菊が浜海水浴場であり女台場は文久3年海防のため女性が主となっ

て架造した土墨で民謡「男なら」は、工事の際盛んに歌われた歌である。) ◆明倫館跡、(日

本三大大学府の一つとして称された藩学跡で日本最古のプールといわれる水練池や剣槍術

の道場であった有輪館その他の史跡がある。)  ◆大照院(東光寺と共に毛利家の菩提寺、

明歴2年〈1656年〉2代藩主毛利綱広が毛利家の菩提を弔うため立てた物で敷地内には

初代と2代からの偶数代城主の墓、墓前には500基あまりの石灯籠がズラリと並んでい

る。)  ◆藍場川。 (農業用水路のほか、庭の池や日常生活にも利用され、この川に鯉が何匹

も放してありました。) 「運転手さん人が盗んだり。猫が、食べたりしないのですか、と

聞くと、「この辺には、悪い人も悪い猫もいないようですね。」と笑っていました。  ◆

反射炉(安政5年の築造にかかり、炉は玄武岩と耐火煉瓦を以って築かれ、船鑑材料の銃砲

・刀剣の銅化で使用したもので二本の煙筒は今に旧態を存している。)◆明神池。 (笠山の

噴火によって出来た。3,400坪の天然かん水池で周囲の浴岩の割目から海水が千満に

応じて出入りし、マダイ、クロダイ、エイ、ボラ等が餌を与えると指先に群り来る天然の水

族館である。)  ■笠 山 (標高112?の火山で頂上には直径深さ共30?の小さい噴火

口があり、山中には寒暖両帯の植物が繁茂しコウライタチバナは天然記念物に指定されて

いる頂上には展望台があり跳望は規模雄大絵の如き海の公園を展望できる。) ■ 伊藤博

文旧宅。(草茸平屋建で博文十四才の時より十三年間居住し少年時代数々の物語を残す。見

返りの窓等そのままの旧宅を残している。)  ■ 東光寺 (旧藩時代は黄築宗三大叢林の一

つで毛利家歴代の墓所があり総門、山門、仏殿、鐘楼等壮大な伽藍は寺後の三峰と共に興趣

森巌を極むものがある。)  とタクシーで案内してもらい、   最後に秋芳洞に行っても

らう事にしましたが、時計を見ると、11時55分です。何処か食事が出来る店で降ろして下

さい。 と言うと『うどん』やさんの前で止まり。「お客さん。 うどんは、キライですか、こ

の店は、萩でも上手いと評判なんですよ。」   「ああー、そうですか、じゃー、宜しくお願いしま

す。」 狭い路地を抜けたと思うと、 「ハイ、着きました。」と車を止めたと思うとトランク

から車椅子を降ろしてくれました。  ここは、裏口です。「表は、階段が6段ほどあるので、

裏口から入れば、車椅子でも簡単ですから、」 と案内された場所は、少し広めの席でした。

  「ちょうど、良いぐらいに席がありましたね。」   「この頃は。ディの人や老人ホームに入

所されてる方、在宅の車椅子の方、障害をお持ちの方の優先の席なので、ゆっくり出来ま

す。」 「へーェ、こんな席と言うのか、こんな特権があるんですね。」 と言うと 「特権では、

ない当たり前のことなんですよ。唯、やらなかっただけです。世の中が不景気になり、こん

な時代だから仕方なく始めた苦肉の策なんですよ。」  「普通、障害者あると迷惑かけてまで

外に食べに出ないし、家でおとなしくして我慢してなんでも食べますよ。」そう言えば、萩

の街で、車椅子の方を見かけませんねーえ、宿泊先のホテルでも、「車椅子でお泊まり下さ

った方は、あなたが初めてなので、どう関わり合えば良いのかと聞かれましたので、」  「私

は聞いて見ました。(私は、どんな顔して宿泊すればいいのですか、)と訪ねたら困ったよう

な顔していましたが、結局。答えてもらえませんでした。」 話をしていると、「ご注文は、」

と聞かれましたので、「肉うどんとラムネ1本。  注文して運転手さんは、ネギとろうどん

を頼み。食べましたが、   みんなが不思議そうに、こちらを見て、ヒソヒソ・ガヤガヤ

と言っているのが聞こえます。(ワザと大きな声で、「運転手さん私は、食べさせてもらうよ

り、自分で食べる方がおいしですから。 自分で食べているんですが変ですか ?、     そ

れに自分で食べた方が美味いですから。 それに自分で食べられるんだったら。どんな食

べ方をしても自分で食べた方が美味しいです。  )と独り言、  〈オジサンは、ぼやきます。〉

 今の時代!何が正論で何が正義で、何が間違っているのか分かりませんが、私は自分の信

じた道を生きて行きたい。 唯、それだけです。 (私は自分で歩けませんが車椅子で自分

らしく生きて行きたいだけです。)  「スゴイ。松陰先生のような方ですね。あなたは、」

   「テレるなー。私は、そんなに偉くはないですよ。」   「食事の後に、国宝指定の(指月

公園と萩城跡にご案内します。」  「ハイ、宜しくおねがいします。」と秋芳洞への途中で

寝てしまいましたが、運転手さんの「着きました。」の声に目を覚ますと、広い牧場のよう

な場所に羊が何匹も放牧されています。なぜ、こんな所に羊がいるいのですか?」と聞くと

笑われました。 「よく似てますけど、羊ではありませんよ。 よく見て下さい。」と言われ、

改めてみると。岩が広い草原の中に沢山転がっていまして、それを羊が放牧されているよ

うに見えたのでした。 大笑いです。 そこを20分ぐらい走り回ったり、写真をとり。

  大昔の恐竜や鹿の化石が展示してある。場所を見学していると目の無い魚や肉が主食

のピラニヤの先祖や 今まで見たことのない、生き物達を10分余り見ていると、   

  運転手さんが突然、顔色を変えて 「お客さん行きましょう。」と言うので、良く見ると

大きなビンに入った。何年も前の蛇が舌を出して私達を見ていました。  それも何万年も

前から生きていると、説明書きに書いてありました。運転手さんの怖がりようと言ったら、

(女の人でタクシードライバー、男の人より凄いと言う感じの人が、蛇を恐がるなんて、、、)

   私は、息を殺して笑いました。  そんな訳で逃げるようにそこを後にして秋芳洞へ行き

ましたが凄い人です。それに入ろうと中を見ると階段が沢山あるので止めました。(運転

手さんも周りの人達もお手伝いしますから入りましようと言ってくれましたが、)止めて、

   それより高杉晋作や久坂玄瑞・木戸孝允・伊藤博文等の誕生地。菊屋横町を訪ねて

みたい、 それが今回旅の目的の2たつ目なのです。 まず、毛利家の居城。(指月公園)

毛利3代。当主輝元が関ヶ原の戦いに敗れ。防長二州36万国の居城として、  指月山

の山頂に築き、13代将軍・敬親が山口に都を移すまで260年続いた。  このお城は、明

治7年に解体され、現在は、指月公園となり、秋芳洞・秋芳台・松下村塾・松陰神社・そ

の他の有名な場所が沢山あり、萩が観光地のベスト10に数えられているのが分かります

が、とにかく場所も風土も人々の気持ちもおおらかで大望を抱かせるような土地柄でした。

  過去に、何度も旅をしましたが、土佐も会津も長崎も 男なら大きな夢を見たくなる。

〈大望を抱く〉大きな気持ちになり何でも出来る気持になります。  風土、土地柄と言

うのは凄いですね。そして水が美味い、   地ビールで維新ビールを見つけて、買い求めて

後で飲んでみましたが、水が上手いから、スゴク美味しかったですよ。  「お客さん口が

上手いね。」   「本当ですよ。だから、あこがれて萩に、はるばる兵庫から来たのです。」 

「嬉しい、お客さん、そう言われるとサービスしなくては、」と萩の名所を次々に案内しても

らいました。   好きな事をしていると時間が経つのが、早いと言いますが、時計を見る

と、午後2時前です。 5時間しかタクシーを借りていません。 でも、2時過ぎまで山

口の名所を案内してもらい、旅館に着いたのが3時前でした。  いろんな所に案内しても

らい満足して部屋に戻るとバタンキユーで寝てしまい、 電話のベルで目が覚めて、起き

ると、夜の8時前でした。大変と食堂に行き、「すみません知らない間に寝てしまいまし

て遅くなりました。」   支配人さん「6時過ぎにお伺いしたのですが、気持ちよさそう

に眠っていらっしゃったので、お声がけしませんでした。すみません。」    「疲れていた

のかナーァ、私こそすいません食事もう出来ませんか?、」  「ここは、もう出来ませんが、

前の『のん太』と言う店でお召し上がり下さい。当ホテルにお泊まりのお客様は優先的に

お召し上がりになれます。ので御案内いたします。」と言われたのですが、〈値段の高い物

ばかりで、今の私には、食えないなー、始末をしなきゃー、先はながい。(電車で回るつもり

でしたが車で回ったので予算オーバーなのです。) まだ先は、長いから我慢しなけれ

ば,、、〉   そんな訳で、昨日のコンビニに夜の町を車椅子で向かいました。行き交う車の

ヘッドライトとネオンを見ながら歩いていると、何処かで見たことある。オッサンが声か

けて来ました。 「そこの車椅子のアンちゃん何処へ行くの危ないよ。押してやるから待ち

な、」  真赤な顔しています。〈酒臭い、だいぶ飲んでいるみたいです。〉相手にしない

ようにと思い、 急いでいる。ふりをして 急ぎ足で車椅子を漕ぐと、その人も走りながら

追っかけて来ました。〈逃げる私と・追いかけるオッサンが50?程デッドヒートです。〉

しんどくなり足を止めると、捕まりました。「おい、待てよ。早いなー何処へ行くんだ。」  

「買い物です。 食べそびれまして何か食料を買いにコンビニまで行きます。」  「ワシも

つき合うと、」付いて来ました。  「大丈夫です。道分かりますから、」〈こんな酔っぱらい

のおっさんに付いてこられたら。カラまれて大変な事になる。〉もうすぐそこですから。1

人で行けます。」 と断ったのですが、無視して、付いて来ました。  店の中に入り買い物

カゴをぶら下げて30分ぐらい買い物して、勘定してもらおうとレジに行くと カウンタ

ーでお店の人とさっきのオッサンが揉めています。         話を聞くと、お酒

やビール・おつまみなどを沢山買ったのに、お金が無くて揉めていたようです。 私の顔

を見るなり、「アンちゃん頼む。ワシに金貸してエーャ、財布忘れてしもうて後で返す。」と

泣き叫びました。  変なオッサン。。。、 (俺も変なおっさんだけど、この人には負けると

アキレテしまいます。) 仕方がないので、サイフを出して5.000円貸して上げると、「に

いちゃんアンタ本当にええ人やなーぁ」と涙をポロポロ流しながらホテルまで付いて来ま

した。「もう良いですから。お金は、明日で良いですよ。」と言うと「おおきに兄ちゃん恩人

よ。アリガトウ。」と言って帰りました。 (やっと帰った。でも金返してくれるのカナー、5,0

00円は痛いなー、と独り言、、、    しばらくテレビを見ていると、さっきのおっさんが

部屋に訪ねて来ました。 「兄ちゃんいるか、入るよと、」来ましたが、夕方の酔っぱらいの

オッサンとは全然違う別人です。(伊武雅刀。)によく似た人にビックリ???ありがとう。 助

かり又とお礼を言われてお金も返してくれました。   「家に帰りまして家内に叱られまし

た。反省しまして酔いを醒まして拝借した。お金を返したくてお尋ねしました。身も知ら

ない私に、有り難うございました。」とスゴク喜んでくれました。  (みんなに、助けて

もらってばかりの私に人助けが出来たと思うと嬉しくなりました。)ありがとうございま

す。と反対にお礼を言ってしばらく玄関のソファーで話しをしていると、奥さんが迎えに

来て返って行きましたが、、、(いろんな人がいるんですねーェ、お金持ちで・地位も名誉も

あり、綺麗な奥さんもいて大きな会社の部長さんだと聞きましたが、 娘さんが2年前に家

出して、10日前に交通事故で即死したそうです。それも一人娘が、だから。寂しさを紛らわ

そうと、酒飲むうちに自分で自分が分からなくり、あんなふうに酒で気持ちを発散してい

る見たいです。)本当に人は外見では判断出来ません。いろんな問題をそれぞれ胸に秘めて

生きているんだ。と思いました。  外見で見える。 私の苦労〈障害〉なんて苦労とは言

えないのだ。  改めて自分の障害・性格に感謝しています。   ☆私は、自慢できる。

物は、何もありません。 学歴0、パソコン唯、使っているだけです。     名誉そん

なものは、ありません (自治会の会長を一年やりましたがメチャ・クチャでした。) 年齢は、今

年で46才のおじさんです。 貯金 13、000円、借金5、000円、現金 348

円。 体力きわめて健康ですが、〈時々胃が痛い ガンかも知れない???、〉だから元気な時

に自分のやりたい事をしたいだけです。〈いけませんか、〉???  

  自慢できる物は、なにもまないけど、ハンディがあるのが、自慢出来る事でしようか、  

と言う変な性格です。それが私のモットーです。  ☆もう寝ようと部屋に帰りかけると、

  そばでで話を聞いていた。 人が「兄ちゃんアンタは幸せ者だなー、行きたい所に自分

の力で行ける。元気な者でもなかなか行けないよ。これから何処へ行くんだい、気を付け

て自分の人生は、自分で楽しみなさいよ。」  「はい、ありがとうございます。明日、広島に

行きまして、15日に帰ります。」  「いったい、何処から来てんの、」  「はい、兵庫県の

和田山と言う所です。」  「知らないなー、神戸とか明石なら知ってるけど、」  「生野金

山を知ってますか?、」  「そこなら聞いたことあるよ。」  「そこの近くです。」  「分か

らないけど、遠いな。とにかく頑張って良い旅しなさい。」  「ありがとうございます。おや

すみなさい。」  「部屋まで、送って上げよう。何階に行くんだい、」と聞かれたので、「7

階ですと言うと、部屋まで送ってくれました。」  「俺は、5階の部屋にいるから。用事があ

ればと、電話番号を教えてくれました。有り難う。」と別れ。   真生園の(山口さんに携

帯)を借りてきていたので、何かこまったら。使おうと持ち歩いてましたので、山口に着い

た時も道に迷いホテルに電話をかけるとナビゲーターで道巡が聞けて便利でしたが、)   明

日行くので 会えないかと 広島の友達に電話かけてみましたが?留守でした。腹ごしらえ

を済ませて、テレビを見ていると、さっきのおじさんが「アンちゃん1人で退屈やろう、」と

エロ本を差し入れしてくれました。 ありがとう。と(大喜びです。)こんな出来事や楽しい

事、ふとした出会いがあるから。苦労しても一人旅が止められないんだよナー、 

  1人で旅をしたことの無い人には分からないと思うけど、今晩じっくり眺めてから。

(これは園友達に土産に持って帰ろう。) 友達におみやげが出来たよ。  夜も更けて0:時

を過ぎたので、睡魔に負けて寝ました。  5月14日。6時に目が覚めたので近くを散

歩です。さすが維新へ始動の町長州萩、 大通りを抜けて横道を少し行くと砂道に川が流れ

ていて、長く続く武家屋敷と白壁に大きな古くて国宝のような門構えの家、(元、萩藩家老

の屋敷だ。)と書いてありましたが、家には、現在も人が住んでいました。  1時間余り、古

い町並みに魅せられていました。どこからかプーンと柑橘系のの甘酸っぱい香りがしてき

ました。見ると、みかんの木です。武家屋敷の大きな長い白壁に守られた。塀の中に、ミカ

ンの木が沢山植えてあり、小さく可愛い白い花と実を付けていましたが、(私、流に言うと甘

く切なく、ほろ苦い、30年前の初恋の香り、)匂いです。(私事で失礼しました。)  側にい

た。 おばさんに聞いてみました。 「お早うございます。ちよってお尋ねしますけど、ミカン

と言うのは、家の近くでも栽培出来るのですか、」   「はい、ほとんどこの辺では、屋敷の

庭で栽培しています。」   「へーェ、山とか民家の少ない、丘のような所で栽培するものだと思

っていました。」   「初めの頃、家の側で栽培なんて考えられなかったのですが、江戸時代。

世の中が平和になり、 戦が無くなり 武士の仕事が無くなり、 少しでも家計を助ける為に、

武士の手内職として家計の足しに家の庭でミカンを栽培したのが、きっかけで、栽培に成功

して山口のミカンが世に出て、有名になりました。」と教えてもらいました。   その他

いろんな事を教えてもらい、勉強になり、8:00前にグランドホテルに帰ってきて、食

事を済ませ、お世話になった人達にお礼を言って、9:30分ブラブラと車椅子で萩駅に

向かいます。大通りを右に渡ると、長い坂道を車椅子をバックで汗かきながら。進んでいる

とバイクに乗った叔父さんが声かけて来ました。 「君、何処かへ行くのかい、」   「萩駅ま

で行きます。」と言うと車椅子を押して駅まで送ってくれました。  「大変だナー、遠慮しな

いで、みんなに助けてもらえば、いいんだよ。君は人が出来る当たり前の事が出来ないのだ

から。出来る人が助けを求めるのは、当たり前の事なんだよ。出来るくせに頼むのは、いけな

い事だけど、自分の出来ない事を人に頼む事は、勇気のいる事で大切な事なんだよ。まして

ハンディを背押いながら普通の人の様に生きて行く姿は、すばらしい事なんだ。だから、

お手伝いしたくなるんだよ。」    「有り難うございます。みんなが叔父さんみたいな考

えだと 良い世の中になるのですが、難しい事なんですね。」    「君達ハンディを持った人

達が外に出て世の中を変えなければ、ダメなんだ。」と言われて、なるほどナーァと思いました。

駅まで送ってくれて、 気を付けてゆくんだよ。「困った時は、困ったと言い、 助けて欲し

い事は、助けて下さい。と頼むんだ。」と握手をして別れました。東萩駅を後にして電車で厚

狭駅まで行きましたが、3日前に新幹線が開通したそうで、 その残りか紅白の垂れ幕や

提灯がホームに残っていまして、一味違う雰囲気でした。広島までお願いします。と改札

口に行くと、駅長さんが「お客様は、この駅に新幹線が通過する様になってから。初めての車

椅子利用のお客様ですので、記念に写真をお撮りしますと言われ、喜んだのですが、なにも

貰えませんでした。」(記念品が貰えるのか、汽車賃でもタダになるのかと喜んだのに写真

だけとは、そして新聞は山口県だけ、)20分ほど新幹線に揺られて、(シルバー席に乗せら

れたのですが、誰も来ません。)隣の車両に駅長さんがいるだけです。 しばらくすると、広

島駅に着きました。 (3年経てば、何とか言いますが、方向が全然分かりません。)とにか

くタクシーで厚生年金会館まで行きましたが、大きなビルが建ち並び・道路も広く6車線で

真ん中には、電車が走るのか、線路が何処までも続いています。この電車が有名な広島の2

00円電車です。

  確か高知県にも走っていたよナー、 町の中を電車が走っていると嬉しい気持になりま

す。(オレだけなのかナー、)と独り言、 もう8年が経過してますが、長崎に行く途中で2泊ほ

ど、広島にお邪魔した事ありますが、その時の風景、景色、面影とは、全然違いました。


  大きくて高いビルが幾つも建ち並び、道順・方向も全く分かりませんので、行き先だけ

告げて運転手さんにお任せました。「お客さん何処から来たんかね、」  「はい、今の列車

で、山口県から着きまして、私の住んでいる場所は、但馬で和田山と言う所です。」  「よ

く知らないけど、兵庫県の神戸の辺り、」  「いえ、ちょうど真ん中あたりです。」  「おれ

には、よう分からんけど、兵庫県と言えば、地震は、大丈夫だったね。」 「私の住んでいる場

所は北部になりますから大丈夫でしたけど、神戸の方は、家の下敷きになり亡くなられた人

が沢山出ました。」  「そうやたねー。可哀想に、地震は、逃げる事出来んから。恐いわねェ、」

5分ぐらいタクシーに揺られて、『広島厚生年金会館』に着きました。「

     お昼過ぎに、会館に着き。 周りを見ると、前に来た時、見た風景とだいぶ違いまし

す。  左右に大きなビルが建ち並び、前にはバス停が付いて、道路も広く8年前の面影は、

まったくありませんでした。 真裏に厚生年金の新館が建てられていました。 (あそこに

宿泊したほうが良かったカナー、)と独り言、 玄関でタクシーの運転手さんに、「又、明後日帰

りの車お願いしますと言うと、」  「ここに、電話をかけて来なさいや、」と電話番号を書

いてメモをくれました。運転手さんと別れて中に入り、 「先日、予約をしました。兵庫県の

森下と申します。」 言うと 「いらっしゃいませ、今日と明日の2泊、お泊まりですね。お部屋

の準備をいたしますので、しばらくお待ち下さいませ、」  「ハイ、分かりました。荷物を預

けて、 先に、食事をしたい、」と言うと ボーイさんが車椅子を押して食堂の席に着かせ

てくれました。     いつものように、ボーイさんや周りの人にお手伝いをしてもらい少

し遅めの食事を済ませて、 車椅子で行ける所まで散歩してみました。   ♪鼻歌を歌いな

がらブラブラと100?程行くと、大きな通りがあり。 確かこの近くに平和公園が在っ

たはずなのですが、見あたりません。 (又、道に迷ったのかなー、)と思い、 通行してい

る人に尋ねてみました。「あのー、すみません。平和公園は、何処ですか、この辺だと思った

のですが、道が違っていて全然分かりません。平和公園は、」 と聞くと 「もう5年も経つ、

そうですが、戦後50年を記念して、公園を整理して、  海外の人・子供達、修学旅行で

見学に来る。日米の子供達、(外国の小学生・中学生その他。多くの外人さんを見ましたが、)

    日本のお年寄りのおじいちゃん・おばあちゃん。そしてあなた達のような車椅子の人達

にも見学していただけるよに整理しまして規模は、少し小さくなりましたが中身は、充実し

ていますので見学して、平和のすばらしさを満喫して、平和の意味を世の中の1人でも多

くの人に語り継いでもらえたら。戦争で亡くなられた人達も浮かばれると思いますよ。」と

言われ、 ★(水戸黄門じゃないけど、)あなたは、いったいどう言う御身分のお方なのです

か?、と聞くと、「観光バスの運転手をしてますと、笑っていましたが、」  「どうりで詳しい筈

だ。」と納得、しばらく話しをしましたが、いろいろと為になる。話をしてくれましたが、

時間が来て「じや?私は、行きますけど、良い旅行をしなさい。」と別れました。2時間ほど、

祈りの像を見て回りましたが、平和の願いを記した像に感動したり、怒りを覚えたりで、ピ

エロのようでした。  お昼を過ぎたので、厚生年金会館に帰ろうとしたのですが、道が分か

りません。(又、道に迷ったみたいです。)あっちでもない、こっちでもない、と30分ばか

りウロウロしていましたが近くにいた。おばさんに聞くと、車椅子を押して、宿泊先の宿ま

で送ってくれました。途中で話を聞くと、旦那さんが仕事の関係で広島に来ていてるので

付いてきていて、旦那さんは、仕事なので、昼間は、奥さん1人で広島の町を見学している

そうでして、 「1人で御旅行をなさっているのですか、とか どうして1人でとか聞かれ

て、2時前に別れて、」 お昼御飯にありつけたのが、2時過ぎでした。


    神奈川県から遊びに来たんだと言う、大学生。 男2人と女3人の人達。5人と意気

投合して仲良くなり、 午前中は、平和公園で遊び、午後には、バス・電車・船を乗り継ぎ、

修学旅行で有名な安芸の宮島に遊びに行きました。凄く楽しい一日でしたので、  少し

書きますと、旅館。(貯金会館の前から。)市バスに乗り、学生の人達に(車椅子ごと、持ち上

げてもらい、)バスに乗り込み。次は、電車に乗り、 地下の迷路のような場所を通り抜けま

したが、(やはり方向音痴の私は、道に迷い出口が分からずウロウロしていると、)心配して

みんなで迎えに来てくれました。「ありがとう。助かった。」   「叔父さんなかなか来ない

ので心配になり、みんなで迎えに来ました。」と言う言葉に嬉しくなり、グシュンとなりました

が、(冗談を言って、涙をごまかしました。カッコワルイカラ、) さあ、宮島駅に着き。フュリーに乗

ったのですが、客室には乗れず、(車椅子の為、)5人共、私と一緒に、船底の車が入る駐車場

に乗り、20分余り話をしたり、周りの景色を見たりして乗っていましたが、 船から辺り

を見ると地面が離れて行きます。 大きなビルや工場、原爆投下で焼け野原になり、何もな

い、ゼロからではない、マイナスと言うよりも私風に、言うとハンディがある所から、 立

ち上がり復興をとげて日本でも5本の指に入る未来都市となった。 広島の町が私の視界

から。ドンドン離れて行きます。 しばらくすると、島が近づくのじゃー無くて、 船がい

やフェリーが宮島に近づくのです。(実は、『島が近づくよ。』と、言って、みんなに笑われ

たのです。本当に島が近づいて来るように見えました。)   すると朱色の鳥居が見えて

岸壁に着き。 有名な安芸の宮島に到着です。  汗かきながら。大学生の5人と車椅子の

変なおじさんの珍道中の始まりです。 まずみんなで相談して。島を一回りして見ようと

話が纏まり、しばらく進むと、何処からか山羊がお出迎えです。 僕達に、いや、車椅子に付

いて来ました。(仲間だと思っているようです。)

    観光客の団体、修学旅行の小学生・中学生・高校生・専門学校の生徒、その他、の人達

で、 それに季候も良く絶好のお天気でその上ゴールデンウイークが終わった後だと言う

のに、(私を含めて日本人は、旅行が好きなんだよナァと独り言、)  周りは、幾つもの旅館・

民宿、土産物を売るお店や食堂・喫茶店、その他の店が沢山並んでいました。  そこを6

人と1匹でゾロゾロと歩きます。山羊も車椅子が珍しいのか、仲間だと思うのか、後ろか

ら付いて来ました。 しばらく進むと、 喉がカラカラ 汗ダクダクで暑い、自動販売機を

見つけて、 みんなでジュースをがぶ飲みです。    一休みの後20分程進むと朱色の鳥居

が見えました。1時間前に船から見たときには、海の中に見えたのに、今は、塩が退いて水

はおろか海の底が見えて地元の人や観光客の人達が潮干狩りをしています。 その風景を

遠くで見ていると、アリの大群が海辺で大移動しているようでした。  潮干狩りをして帰

る叔父さんに、途中で見せていただいたのですが、天然の貝ってスゴク大きく美味しそうで

した。   (みんなが我を忘れて夢中になる。筈だと、納得、)  細い道やデコボコの道を汗

かきながら車椅子で進むと、  島の一番奥に、記念碑や祠・休憩する広場があり、ベン

チや露天の店などが立ち並び。障害者トイレまであり、幾つかの団体さんが、記念撮影を

しています。写真屋さんが「兄ちゃん達、今日の記念に写真を1枚撮らないかと、」言われ

ましたので、値段を聞くと1枚。3,000円也と、高いので自分のカメラで学生さんに写

してもらいました。(写るんです。と山羊と共に2ショット、忘れられない、記念になるよ。) 山

羊に気に入られたのか、帰るまで私の車椅子の後を付いてきました。俺は、「おじさんや、お

ばさん、子供達ばかりかと思っていたら山羊にも好かれたよ。」 車椅子任せにノンビリ移

動する。私に会わせて5人の大学生もゾロゾロと最後まで付いてきてくれたので、話をし

たり、途中いろんなお店を見たり、のぞいたりで忘れられない、旅行になりました。

   それにしても、山口県の秋吉洞・松下村塾、広島県の平和公園・安芸の宮島でも修学

旅行の小学生・中学生が目に付きましたが、恥ずかしそうにしている子もいれば、私の姿を

見て駆け寄り、車椅子を押して上げると、大勢でワッショイ・ワッショイと押してくれた

り、  いろんな子供達がいました。  その反対に呼んでも声をかけても黙って逃げる

子、そんな子は、やはり何処か寂しそうでしたが、   みんな今が一番楽しい年頃なのに

やはりみんな悩みを抱えているんだろうなーと独り言、


  子供達と言えば心に残ったのは、三次市から来たと言う小学生で、その子供の中に車椅

子を利用している子供がいて、 仲良くなり。いろいろと話をしましたが、その中でこんな

話を教頭先生から。話を聞いて、ジーンと来ましたので少し書きますと、  

  「修学旅行に、行く2日前の出来事だそうですが、その子は友達と遊んでいて、高い場

所から。飛び降りた弾みに足を骨折して、全治2ヶ月で絶対安静と診断されて、」  今回

の旅行も泣き泣き諦めていたそうですが、 


   クラスの子供達が、 「先生、僕達が哲也(ケガをした子共、)の面倒をみんなで見るか

ら。クラスみんな一緒に旅行に行きたいと、陳情に来まして、 「先生達に迷惑かけない、旅

行中の世話はすべて僕達で助け合いながら旅行に行きますから。行くのゆるしてください。

お願いします。と言う子供立達の気持ちに負けまして、その子供の両親と病院の先生に頼ん

で許可をもらい、病院から車椅子を借りて、全員で旅行に来ました。   「うちの学校は、

人を思いやる心を育てる。これがスローガンです。」と誇らしそうに言う。担任の先生の話

を聞いて 私も嬉しくなりました。 (テレビ・ドラマの金八先生のような話しだよナー、)と思い

ました。今、一番日本人に大事なのは、『人を思いやる』と言う言葉だと思います。    

   気持ちだけで行動が出来る。それが本当の小学生時代ですよね。   別れるときに先

生から。こんな話を聞きました。  「生きている者は、みんな違うんですよ。 例えばこの木

だって毎年同じように葉を付け実を付けますが、その年により満開や普通いや不作の年が

あります。 天候や気候も加わり。それに良い年もあれば悪い年もあります。 作物でも 

悪い年があれば、 良い年があります。沢山の実を付ける年があります。   人も。  

 温暖な気候や土地柄も加わりますが、 子供も小さい時の環境で違ってきます。明るく

幸せな家庭で生まれても寂しい子供、貧乏な家庭で厳しく育てられても元気で成長した子

供。生い立ちや性格、環境でそれぞれ事なりますが、 その子を取り巻く周りの環境や人と

の交わりで自然に身に付き成長するのです。 小さいときは、みんな同じ子供です。 だか

ら小学時代が一番大事な年頃なのです。それは教えることは出来ませんが、(少し私には、

難しすぎて理解が出来ませんでした。) とにかく人が生きると言うことは、周りの環境

が大事なんだなーと思いました。  こんな先生のいる学校なら、イジメや登校拒否など

無くなるのではと思いました。しばらくして別れましたが、いろんなお店を見て回り時間

をかけて帰りましたが、途中大きなしゃもじの店を見つけて、普通 「自分のあこがれのス

ターとか・俳優・歌手の名前を記念に、書いてもらうそうですが、 私は、この日の日付と車

椅子一人旅と書いてもらいました。」   帰りに又、船・電車を乗り継いで駅からタクシ

ーで、 午後の6時過ぎホテル(厚生年金に、) 無事に帰ってきまして、食事をしながら一

日の出来事を話しまして、反省したり・笑ったりで、  今日の出来事は、いつまでも忘れな

いと思う。  本当に良い旅、良い出会いをありがとう。     いつまでも忘れませんよ。

  「それじゃー、みなさん気を付けてありがとうございました。」  と別れました。   「お

じさん又、何処かで逢えると良いなー、今度どこかへ旅行するとき言いなさいよ。都合が付

けて付いて行くからと言われ、」 別れました。  部屋に戻り、今日の出来事を思い出し

ているうちに疲れていたのか、眠くなりましたので、お風呂に入り、知らないうちに寝てし

まいした。

    15日。朝7;30分に起きて、10;32分の(こだま、だから。9;30分までに

駅に行けばいいと、 お世話になった。 厚生年金会館に、別れの挨拶を告げ、タクシーで

広島駅へ、)まだ時間があるので駅のデパートの中で買い物です。 狭い通路を車椅子でス

イスイと移動していると、みんなが不思議そうに見ています。和菓子の店の前で目が止ま

りまして、思わず吉備団子とあんころ餅を買ってしまいました。 『車椅子の背中に付け

た。旅行中と言うワッペンを見て、』 「お兄ちゃんその車椅子で一人旅行してるんか、どこ

から来て・どこまで行くんや、」とあれこれ聞かれて、チョットした有名人です。買った荷物を抱

え改札口に行こうとすると(お店のおじさんが改札口まで付いてきました。  「私は、トイ

レに行きたいと、」言うと付いてきて側でジーッと見てるものだから。 (出る物も出ませ

ん。)汗ダクダクで結局、出なくて改札まで行き、 おじさんに別れを告げて列車に乗り込

み。広島での2泊3日の旅に別れを告げました。

  新幹線に乗ったのですが、駅員さんが乗る隣のシルバー席で、「何かご用があれば呼ん

で下さい。隣にいます。」と言われたのですが、シルバー席のドアを閉められている上に、窓

は開かず。 前がトイレなので、臭いし・うるさい、用を足す人、以外は誰も来ません。外

の景色は見えないし、大袈裟に言うと「牢獄された。吉田松陰先生の気持ちが少し分かりま

した。(比べ物には、なりませんが、) 野山獄に閉じこめられているようです。ドアを開け

て出ようとすると隣が乗務員室なので、「もうすぐですから。ウロウロしないで姫路までそ

こでジーとしていて下さい、」と言われて何も出来ない、 それにみんな忙しそうにして

います。 丁度良い所に駅弁売りのおねえさんに、お弁当2コと缶コーヒー・コーラーを注

文してその場でフタを空けてもらい。弁当を列車の座席にセットしてもらい、 食べている

と、中年のおばさんがトイレに来て、こちらをジロジロ見ています。 初めの内は、気にして

いませんでしたが、5分も10分も見ているので、「何かご用ですか、」と聞いてみました。 

すると 「ごめんなさい。どうして食べられるのかナー、と見ていたのです。ごめんなさい、上

手いですね。」  「自分の食事ですから。 食べ方は、どうであれ自分で食べられる方法で食

べたい物を食べる。唯それだけです。」  「へーえスゴイ、小さい頃からですか、」   「7歳

までは、家族に、食べさせてもらっていたのですが、いろいろ自分の中で格闘して自分で食

べる事が出来るようになりました。」   「辛いことや悩みや絶望もあったと思うけど、自分

で築いた自分の人生 スゴイですね貴方は、」と言われましたが、 「スゴイ事なんかないで

す。 どうせ人に迷惑をかけるんだったら、アツカマしく生きようと決めました。 その割

り切りが出来たら自然に人が好きになりまして、性格が明るくなり、生き方が変わりまし

た。」  「そうですか、幸せな方ですねぇあなたは、」と話していると、岡山ー、岡山ー、と

車内放送があり。おばはんは、慌てて降りて行きました。 「さようなら。元気で良いご旅行

を、」  「どうもありがとうございました。お元気で、さようなら。」と別れましたが、(なん

だ。あのおばはんは、と独り言、) あの人にも障害者の子供がいるそうで、ハンデを持った

子供達の父兄や親子、家族が協力して小さな作業所を造る。  その相談や親睦の会が開かれ

て、あの人が代表を務めているそうで 、昨日、因島の方で、 今、話題の介護保険が作業所

に適用されたら。どうなるかと言う問題で話し合いがあり。 参加しての帰りだそうです

が、(介護保険本当にどうなるのかナー、) 

    さあもう3時間と少しで和田山へ着くと思うと安心したのか、知らぬ間に眠ってしま

いました。ハッと気づき慌てて車椅子から列車の座席に移動して安心して寝ました。   

  姫路に着き。いつものように駅員さんに連れられて荷物専用のエレベータの中を通り

抜けて 播但線に乗り換えて、車椅子を折りたたみ座席に移りますと、  前の席には、生

まれてから半年ぐらいの赤ん坊を抱いた。若いお母さんが乗っています。初めの内は、微笑

ましく眺めていましたが、なんだか気になり、 優しい気持ちになり、

   自分の幼い頃とだぶらせて思い出しました。 それは、昭和28年、12月6日、8ヶ月

の〈未熟児で生まれた。〉私は、翌年の2月が予定日でした。(生まれる前から。アツカま

しい性格でした。)生まれた時、「この子は、生まれても助からないから。覚悟しておきなさ

い、」と家族は、お産婆さんに言われたそうです。(今の医学と病院なら。何とかなったでし

ょうが、)そのころ田舎では、お産婆さんを頼み家でのお産でした。550グラムのオモチャ見

たいな赤ちゃんを祖母が湯タンポ入れたり、部屋を暖めて一週間も寝ないで付き添ったん

だと後で聞きました。だから自分で言うのも変ですが、スゴイ叔母ちゃん子でした。

    2つ違いで下に弟がいますが、私は、祖母で、弟は、母と一緒に寝るときまっていまし

た。親父の仕事は、その頃は、日雇い人夫でしたから。  祖父と祖母そして母の3人で昔よ

く言う3ちゃん農業をしていまして、冬になり農作業が暇になると、叔母さんや叔父さん

のいる。大阪とか島根県の出雲に毎年恒例のように5年ほど続けて、 私は、連れて行っても

らっていました。(この子は、大きくなっても一人では、何処へも行けないから。)小さいう

ちに何処でも連れて行ってくれました。  〈それが今、車椅子で一人何処でも行けるように

なろうとは、考えても見ませんでした。〉そのお陰ですか、船もバスも飛行機にも酔いませ

んでしたが、女の人には酔うみたいでポーッとなります。(綺麗な人にですが、性格が素直

ですから。) 話を元に戻しますが、 一番大事な物を包み込むように、子供の親は誰もそう

でしょうが、改めて、 お母さんと言う人の姿を見たような気がしました。この若いお母さ

んと赤ちゃんの微笑ましい姿をを見ていると、忘れかけていた物が見えたような気がしま

す。       昨日宮島で先生が言おうとしていた事が、  上手く言えませんが、分かった

気がします。

     人は、生まれた時みな同じです。でも、生い立ちや周りおw取り巻く環境で大きく変

わる。だから、子供の時に、優しさを覚えた子供は、多少グレても立ち直るのだそうです。

40年も教壇に立っていた。先生の口から。聞けた事で重みがありました。      

  学校に行ったことのない、私は、(大袈裟に言えば、教わる。教えてもらうと言うのは、

こう言う事なんだと思いました。) 


      性格が変わる。生き方が変わる。障害者の自分に自信が持てる。それが一番の収穫

なのです。。。私に、重度の障害があり、車椅子で一人旅が出来るのですから。これはスゴ

イ幸せなことなんです。 今の自分の性格と自分の障害の程度に感謝しています。ある人

に言われた事がありましたけど、 数年も前になりますが、年輩の人に、 「君は、本当に幸

せな方ですね。」   「ビックリして、なんで不自由で人に出来る事が出来ない僕が幸せなんです

か、」   「あなた不自由でも1人で何処でも行けて良い旅をしてますよ。」   「私は、普通に

生活していますが、一週間に2回、4時間程かけて人工透析をやらなければ、なりません。」

   「そうなんですか、お元気で御病気には見えませんけど、悩みをお持ちなのですね。」   

「先日も外で発作が起こり、蹲っていても誰1人として声かけてくれませんでしたよ。」   

「たまたま気付く人が居なかったようですね。」   「みんな見て通りすぎては、ヒソヒソと陰口を

して通りすぎるのです。(ちょっとあの人見て、気持ち悪い、あんな所でなにやってんのかし

ら。変質者かも、)気づかない振りして通り抜けましょ。」と足早に通りすぎて行きます。」  

 「助けを求めましたか、誰かに助けて下さい。と声かけて頼みましたか、」と言うと「みんな

冷たい人ばかりで腹が立ちましたので、」呼べませんでした。  「そりゃダメですよ。助けて

ほしければ助けてほしい、手を貸してほしいなら言葉にしないと、 自分の出来ない事を人

に頼むのですから。 そして幾ら人に頼んでも主役は自分なんですよ。」   「そうですね。私

の人生は、私が主役なんですね。」と言いながら。 何度も思い出しては、頷いておられまし

たので、  「偉そうに、ごめんなさい。私も外に出るようになって分かった事なのです。」

    「いえ、貴方の言うとうりだと思います。」   (何か説教したようで、顔をまともに見

れませんでした。)しばらく話していましたが、新幹線の相生駅で降りて行かれました。

    1人になり、安心したのか、疲れていたのか、知らぬ間にグッスリと寝てしまったみたいで

す。 駅員さんの「お客さん・お客さん」と言う声に目が覚めると姫路駅に着きました。 

姫路駅で荷物を運ぶエレベーターの中を(車椅子で階段が上れないので、)通り抜けて、播但

線に乗り換え寺前駅で又乗り換えて無事和田山駅に付いたのが午後4時半過ぎ、そこから

タクシーに乗り換えて。午後5;40分過ぎですか無事園に帰ってきました。

      これで5泊6日の旅も終わりましたが、体が?いえ、(先立つ物があればですが、)

1年か、2年に、一度で良いから。 知らない町を旅してみたいのです。  あてもなく触れ

あいを求めて、『人と出会う』それも知らない人と会い、一緒に観光地を周り、いろんな話

が出きる。それは誰もが経験することでしようが、 車椅子でしかも独りでボランティア

も無く、 気ままな単独旅行が、(そして自分で言いませんと分かりませんから書きますが、

アツカマしく声かけて頼みます。人を頼みお手伝いしてもらい、ふれあう事で、何かが始ま

る。  (それが私の個性であり、特権でしようか、)と自己満足?、)

     生きてるかぎり、体が続く限り(お金が続くならですが、旅を続けたいと思います。)

 来年の目標は、何年先に行けるか分かりませんが、 海外旅行を計画しています。

日本でも心配なのに、言葉も通じなくて方向音痴の私はどうなるのか心配ですが、 反面

どんな旅が出来て、どんな触れあいが出来るのか楽しみで、 今からワクワクしています。



          

車椅子ひとり旅【萩編】

 次回の目標は、何年先になるのか分かりませんが、 海外旅行を計画しています。

日本でも心配なのに、言葉も通じなくて方向音痴の私はどうなるのか心配ですが、 その反面どんな旅が出来て、どんな触れあいが出来るのか楽しみで、
 今からワクワクしています。

車椅子ひとり旅【萩編】

  • 随筆・エッセイ
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-01-29

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