アナスタシア

そこは不用意に覗いてはいけない禁断の世界

　彼女を見た瞬間、電流が走ったように全身が痺れた。つかの間、心を奪われた。そのくらい、彼女は美人だった。絶世の美女というフレーズは彼女のために作られたとさえ思った。
　肩までの黒髪は滑らかな艶に満ち、肌は透き通るように白く輝き、顔は俺と同じものがついているとは思えないほど、それぞれが形良く、絶妙なバランスで配置されていた。スタイルは女神像のように神秘的だった。
　つまり俺は彼女に一目惚れした。
　彼女との出会いは駅の切符売り場だった。桜前線がやって来たある日、そこで路線図と機械とをせわしなく視線を動かし、戸惑っている、というか途方に暮れている彼女に、その後ろに並んでいた俺は溜まらず声をかけたことがきっかけだった。
「ごめんなさい。私、買い方がわからなくて」
　電流を受けた俺は身じろぎできず、その小鳥のさえずりのような声に聞き入り、桜色の頬に見とれていた。
　あの、という彼女の声に我に返った俺はズボンのチャックが開いていたかのような慌てぶりで彼女に切符の買い方を教えた。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
　往復切符を手にした彼女は深々と頭を下げた。是非お礼がしたいという彼女に「そんな、滅相もございません」などと時代劇のフレーズを口にした俺だが、このまま会えなくなってしまうのは忍びがたく、耐えきれず、名刺を彼女に渡した。
「アナスタシア。素敵なお店の名前ですね。今度伺います」
　そう言って彼女はそよ風のように改札を抜けた。本当は俺も彼女と同じ電車だったのだが、それを言うのは野暮だった。そのくらい、彼女は去り際も美しかった。
　翌日。本当に彼女はやって来た。俺は理容師で、三十路になった今年、思いきって美容室を開業した。駅郊外の、薬局と携帯ショップに挟まれた小さな店だ。店の名前『アナスタシア』はシンデレラの意地悪な姉からとった。俺はそこに女性に対しての皮肉と、逆説的にお客がシンデレラであることを込めた。そこに彼女はやはりそよ風のようにやってきた。お客がいなくて助かった。カットをしていたら手元が狂って飛んでもないことになっただろう。
　有名な高級洋菓子店の紙袋を俺に手渡した彼女は狭い店内を物珍しそうに見て「今度はお客さんできますから。来週の水曜日の午後三時、予約お願いします」と言って呆然とする俺に「ごきげんよう」と微笑みかけ、店の前に停めてあった黒塗りの高級ミニバンの後部座席に乗り込んだ。
　紙袋には一粒五百円のチョコレートが二箱入っていた。
　それから半年間、彼女は第一水曜日の午後三時に必ずやってきた。ほんの少し毛先を切るだけなのに。俺に会いに来ているようなものだった。そこで俺は彼女のことを知っていった。
　俺と同い年の彼女は良家のお嬢様だった。具体的なことは言わなかったし、聞くのもためらったが、会話の中から明らかに一般人でないことはわかった。
　幼稚園から高校までの一貫した私立女子学校に通っていたこと。家系図があり、十代前まで遡れること。複数の家政婦さんがいること、一度も開けたことがない部屋があること、貴金属などは外商が来て、すべて家紋の入った特注品であること、などなど。
　それでなくても彼女が醸し出す雰囲気や言葉使い、またその顔立ちは上流階級のそれであり、洗礼されていた。最近になって初めて自分の財布を持ったことや、祖先に宮家がいるなどの信憑性もそれが証拠と言えた。
　冒険談を聞くように、心が踊った。彼女がいるだけでこの狭い店がパーティー会場のように華やいだ。軽やかなメロディが奏でられているみたいに自然に鼻歌が出た。俺はそんな彼女に自分の夢を語った。腕一本で勝負して店を大きくする、俺の店をブランド化する、と豪語する俺を、彼女は目を細めて聞いてくれた。
ずっと俺は彼女の薬指にある家紋の彫られた指輪を、見て見ぬふりをしていた。
　俺は恋におちた。彼女を、一時でもいいから自分のものにしたかった。きっと彼女もそうだったに違いない。だからどちらが先に食事に誘ったのか、そこは曖昧なままだ。過ぎ行く夏があがいているような残暑厳しい半年前のあの日、彼女と俺は店のあとレストランで待ち合わせをして食事をともにした。上質な紺のワンピース姿で現れた彼女の薬指に、指輪はなかった。
　その晩俺は、彼女を抱いた。
　彼女は人妻。いけないことだとはわかっていた。でもそれが余計に彼女への恋を燃えさせた。彼女の身体に溺れた。耽美な時間に浸った。
それから半年間が過ぎていた。今年も桜前線がやって来た。俺たちは店のあと、肌を重ね続けていた。いつものように能面のような男の運転で彼女は待ち合わせのホテルにやって来て、彼の運転で帰っていった。
　俺たちは別れ際、次の夜への予告のキスをする。
　背徳の夜に、酔いしれながら。
　そして今夜も俺はいつものホテルの地下駐車場に車を止めて彼女の待つ部屋に急ぐ。車を降りると黒のミニバンが通過した。選挙が公示された街はどこかの候補者が声を張り上げて何かを訴えている。
　痺れるような快楽がそこにある。俺はエレベーターに向かって速足で歩いていると、首筋に本物の電流が不意に襲い、意識を失った。

　首筋の痛みで目が覚めた俺は何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。俺は座っていた。いや、座らされていた、だ。しかも裸で。肌にぴったりくっついてくる感覚で本皮のシートであることがわかった。目の前に座席があり、その向こうにはフロントガラスが見える。ここは車の中、俺はその後部座席にいた。広い室内はミニバンクラスだ。それもグレードの高い。もちろん俺の車じゃない。周囲を見る。後ろはコンクリートの壁、両隣に車がとまっている。天井には蛍光灯が等間隔で並び、窓に貼られたスモークフィルムで薄暗い車内を灯す。見覚えがあるからたぶんホテルの地下駐車場だ。
　股間の違和感に俺はゆっくり下を見て、「ひえっ」と情けない声をあげた。
　俺の局部にステンレス状のカバーがはめられ、腰にまかれたベルトに繋がっていた。ベルトとカバーはご丁寧にへその下で南京錠の鍵がかけられていた。
「な、なんだ、こりゃ？」
「貞操帯ですよ」
　急に前から声をかけられ、またも俺は「ひっ」と情けない声をあげた。その声の主が運転席からゆっくりと振り向いた。
「あっ」
　月に一度必ず会う、店の常連とも言っていいその人物に俺はさらに混乱した。
「か、彼女の運転手じゃないか。何のマネだ？これは」
「それはあなたが一番よくわかってらっしゃるのではないですか？」
　いつもと変わらぬ能面のような顔と同じく平坦な声で運転手に言われ、俺は言葉に詰まった。
　もしや彼女の家族に不倫がバレて俺にこんなものを？脇から汗がにじむ。
「もう想像がついていることと思いますが、それは性交、自慰行為を強制的に禁止、そして管理する器具です。鍵がなければ外すことはできません」
「なんだと？」
　俺は目をむいて股間の貞操帯を見た。
「それほど怖がらなくても大丈夫です。通常の状態ならばまったく痛みはありませんから。あなたのモノがステンレスの部分に触れないような設計になっています。通常の状態ならば、ですが。カバーは上下に可動しますし、先端の穴から用も足せます。格子状ですから通気性も確保されていますし、ベルトの部分も裏がガーゼになっていますから肌荒れも起きにくいです。多少衣類や行動が制限されますが、日常生活には支障は起きません。安心してください」
「何が安心だ！ふざけるな！」
　淡々としゃべる運転手につかみかかろうとする俺の視界に、一本の白い棒が現れた。運転手の人さし指だということに気づくまで、少し時間がかかった。細く長い指だった。
「わたしがあなたの立場なら、不用意に立ち上がることはしません」
「なんだと？」
　その指がゆっくりフェードアウトしていく。
「そしてわたしの立場では、あなたの攻撃を防ぐ策を講じています。すでにあなたは体験していますが」
　電流。スタンガンか？俺はあの衝撃を思いだし、身を強ばらせた。
「結構。座ってわたしの話を聞いてくだされば危害は加えません。約束します」
「俺をどうするつもりだ」
　落ち着いた口調の運転手とは真逆の震える声で俺は訊いた。
「それはあなた次第でしょうか。ですが普通の生活を送れることはお約束できます。貞操帯をつけて、ですが」
「ふざけるな、冗談じゃない！」
　立ち上がろうとした俺は寸前で思い留まった。手が出せない代わりに矢のような視線で運転手を睨んだ。
「こんなものつけて普通の生活を送れ、だって？できるわけがないだろう！」
「できますよ。禁欲に努めればいいのです」
　運転手の口調は変わらない。表情も動かない。だがそれがかえって凄みがある。俺は背筋に冷たいものがはしった。
　性欲は本能だ。自分ではどうしようもない。それが発散できなくなったらどうなるか。想像に容易い。たとえば痒みをぎりぎりでかけないもどかしさ、悶絶。きっとそれ以上に違いない。
　奴隷。そんな単語が頭に浮かんだ。これ以上の屈辱があるか。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。確かに俺は彼女が人妻だと知りつつ関係を持った。良くないことをしたことは認める。彼女の夫の怒りもわかる。罰なら受ける。だけどこれはあんまりじゃないか？酷すぎる。彼女とはもう会わないから。頼む。こいつを外してくれ」
　俺は運転手になりふり構わず訴えた。俺だって人並みに結婚したいし、子どもだって欲しい。だいたいこんなんじゃ付き合うことだってできない。女性に触れることすらできないじゃないか。
「あなたは自分の過ちの重大さがわかっていないようですね」
　俺の訴えに眉ひとつ動かさず運転手は言った。
「わかっているよ。不倫が良くないことは。それに彼女は資産家だ。このことで何か大きなトラブルになっているんだろ？」
「なるほど。やはりあなたは何も知らないようですね」
　そこで運転手は哀れむ表情を見せた。だがそれは、道路に轢かれた動物を見ているように感じた。
　バカだな、急に道路に飛び出してくるから轢かれるんだよ、と。
　俺は一体何をしてしまったのか。少しずつ、底無し沼に引きずりこまれる感覚が襲ってきた。
「彼女の家はただの資産家ではありません。わたし達が持つ資産家の概念の遥か上にいます。だから彼女は生まれた時から『ある』ことが当たり前に育ったのです。そしてこれからも『ある』ことが確定している、そういう人間なのです」
「それは金、ということか？」
「金銭もその一部です。信じられないでしょうがこの国でのすべての商取引の価格の中に、彼女の家に納める金額が含まれているのです。この意味するところがわかりますか？」
「経済を牛耳っているってことか？」
　スケールが大きすぎて俺は疑うこともしない。
「その通り。それはつまりこの国を動かしていることと同意です。一介の理容師にはどうすることもできません。受け入れてください。直に慣れますから」
「受け入れろ？そんなの無理だ！」
「切断されなかっただけマシです。そうすることもできたんですから」
　枝毛を切るように、ためらいなく今そうする。運転手の躊躇のなさが伝わってくる。
「あなたが彼女の専属ヘアスタイリストに留まっていれば何の問題もなかったのです。淡い恋心を抱いていることも然りです。彼女は魅力的な女性ですからね。ですが肉体関係を重ねてしまったことは浅はかでしたね。倫理観、というよりも警戒心が欠如していました。あなたがいけないんです。繰り返しになりますが、受け入れるしかないのです。そう悲観することもありませんよ。慣れていきますし、何より自力で外せる可能性が残されているんですから」
「外せるのか？」
「ゼロではありません」
「ゼロだと言っているように聞こえるぞ」
「未来は白紙です。可能性を否定してはいけません」
　俺は突然の災難に放心状態になった。飛んでもない女に俺は手を出してしまった。ヤクザの女の方がこれよりまだマシに思える。でも警察に行く度胸はなかった。そんなことしたらこいつはもっと酷いことをするに違いない。ちくしょう。俺はこれからどうなるんだ。俺の一物は小便を流すホースになっちまうのか。
　俺は泣きたくなった。人生最大のピンチになぜか母の顔が浮かんだ。余計に情けなくなってきて目頭が熱くなる。遠くで候補者の名を連呼するウグイス嬢の声が通りすぎていく。
「民主主義は先人たちの流した血で生まれました」
　運転手が花を愛でるかのように言った。
「何を言っている？」
　俺は目をこすりながら言った。
「自由は与えられるものではない、権利を主張したければ戦って勝利しろ、ということです」
「俺には敵わないと言ったばかりじゃないか」
「あなたの望むものはなんですか？それを阻むものはなんですか？それが戦うべき相手ではないのですか？」
「なに？」
　俺は運転手が何を言いたいのか、つかめずにいた。
「鍵。それこそが今あなたが一番欲しいものではないのですか？」
「どこにあるんだ」
「ここです」
　運転手が手品のような動きでてのひらに鍵をのせて俺の前に突きだした。
「あっ！よこせ！」
　おっと、と運転手が手を引っ込めたので奪おうとした俺の両手は虚しく空を切った。
「言いましたよね？勝利して手に入れろ、と」
「この野郎」
　俺がギリリと歯軋りすると運転手はさらにもう二つ、鍵をワイシャツの胸ポケットから取り出し、レストランで注文するかのように訊いてきた。
「賭け事は得意ですか？」

俺は運転手の真意がはかれず、路地に迷い込んだような不安と焦りが交錯する。
「何を言っているんだ？」
「わたしと鍵を賭けて勝負しましょうと言っているんです」
「なに？」
「あなたが勝てば鍵は差し上げます。負ければそのまま。どちらにしても勝負が終われば服を着て車を降りていただいて結構です。服は助手席に畳んであります。いかがですか？」
「勝てば本当に鍵がもらえるんだな？」
　俺は探るように運転手に訊いた。
「もちろんです。そして勝負は公平に行われることを約束します」
　俺はごくりと生唾を飲んだ。どんなことをするかわからないが、俺にこの提案を断る理由はない。勝てばこの変態器具とおさらばできるのだからどう考えてもイエスだ。しかし。
「その鍵が本物だと言う証拠は？」
　一番気になっていることを俺は恐る恐る訊いた。
「あなたは中身を疑ってコーラを買ったことがありますか？それと同じことです。わたしは重く大きな看板を背負っています。その信頼を裏切ることはしませんし、その信用をなくすことはできません。これが証拠とご理解ください」
「わ、わかったよ」
　下手に突っついて藪から蛇を出すわけにはいかない俺はへつらって答えた。
「それでどんな勝負をするんだ？」
　まさかじゃんけんじゃないだろう。
「モンティホール問題、ご存じですか？」
「モンティホール問題？」
「三択問題です。ひとつが当たり、残りが外れ。あなたは三つのうちひとつを選びます。当然わたしは当たりを知っています。ひとつを選んだところで残りふたつのうちのひとつの外れをわたしは選択から外します。残りふたつ、どちらかが当たりです。ここであなたはわたしから選択の変更の権利を得ます。変えるか変えないかは自由、というものです。大抵のゲームは簡単な確率が計算できてちょっとした駆け引きで見抜けて、ほんの少しの運があれば勝つことができます。いかがでしょう？」
「わかった。やろう」
　クイズみたいなものだと少し安心した俺は即答した。
「よろしい。では始めましょう」
　そう言って運転手はまた手品のようにてのひらに三つの鍵を出現させた。小指ほどの小さな銀色の鍵が手首から指に向かってきれいに並んでいる。
「上か真ん中か下か。選んでください」
　運転手は静かに言った。俺は緊張で呼吸が早くなる。目を皿のようにして鍵をひとつひとつ凝視する。
　どれだ、どれが本物の鍵だ。見た目はどれも同じに見える。ちくしょう。見えることでかえって迷いが強くなる。
「大丈夫ですよ。あとで一度だけ変えられますから」
　対して運転手は諭すように俺に言った。こちらに半身に振り向いたまま、やはり表情も動かない。
「真ん中、真ん中にする」
　意を決して俺は宣言した。
「いいでしょう。では偽物の鍵のひとつを明らかにしましょう」
　運転手は左手で手首側の鍵を取り俺に見せた。
「これが偽物の鍵のひとつです。これは外します」
　俺は運転手がその鍵を左手に握り混むまでじっとそれとふたつの鍵を見比べた。
　色。形。厚み。絶対に何か違いがあるのだ。運転手はどこを見て判別している？
「酷なようですが見た目ではあなたに判別は難しいです。わたしがさっき言った言葉をお忘れですか？その三つが勝利への鍵、ですよ」
　運転手の声がほんの少し高揚した。
「さあ、ここからが本番です。あなたはさっき真ん中の鍵を選びました。ですが今なら変えることができます。どうしますか？ここが運命の分かれ道です」
　俺は落ち着きなく爪をかじり始めた。ちくしょう、どうする。変えるか、変えないか。こういう場合、変えると損するパターンではなかったか？いや違う、逆か。俺は考えが堂々巡りになる。今度は頭をかきむしった。落ち着け、落ち着け。俺は自分に言い聞かせる。さっき運転手はなんと言った？そう、勝つには確率と駆け引きと運、だ。
　確率。俺は試験終了三分前の受験生のように必死で頭を使う。
　今確率はいくつだ？１/２？いや、違うぞ、元々１/３の確率だったじゃないか。ということは変えないと１/３のままだけど、変えた方が２/３になって確率が上がるのでは？そう、きっとそうだ。
　俺は視界が開けた感覚がした。しかしそれでは確実な勝利とはいえない。俺はさらに頭をひねる。変えても１/３の確率で負けるのだ。確率を上げるには、そう、駆け引きだ。
　俺は前のめりになり運転手を見つめた。運転手は一転して顔をほころばせた。
「いい表情ですね。そんな格好なのが実に惜しいですよ」
「させた本人が言うセリフじゃないな」
　俺はあえて余裕の発言をした。駆け引きに弱気は禁物だ。
「少し誤解があるようですが、まあ概ね正しいですね」
「あんたも大変だな、運転手なのにこんなことまで」
「これも少し誤解があるようですね」
　俺はしゃべりながら必死で運転手から正解を探る。俺は鍵の区別にひとつ思い当たった。感触、もしくは重さなのではないか、と。なんとか鍵を触ることができれば大きな収穫になる。だが何かの罠があるから動くことはできない。どうする？
「念のため言っておきますが触るのはルール違反です。それではゲームになりませんからね。緊迫感も失われてしまいます」
「触れば当たりがわかる、と聞こえるぞ」
　内心俺は舌打ちする。くそ、先手を打たれた。
「さあ、どうします？あえて制限時間は設けていませんが時間をかけても氷が溶けるように問題は解けませんよ。決めてください。変えますか？それともこのままですか？」
　せっついてきた。焦らせる算段か。事実俺は焦り、汗で背中と太ももの裏がべったりとシートにくっついている。なぜかこんな時に一物が鎌首をあげ始め、俺はさらに焦る。
　どうする？変えた方が当たる確率は高い。でもそれで外れたら？その方がショックが大きい気がする。ああ、くそっ！わからん！俺はいっそ狂ってしまいたくなる。
「迷いますか？それはそうですよね。あなたは何もわからないのだから」
「なに？」
「だからあなたの誤解を解いてあげます。そうすればすぐに選ぶでしょうから」
「誤解？最初からそんなことを言っていたな。俺が何を誤解しているんだ」
「見てください」
　そう言って運転手は左手を出した。
「なんだ？さっき外した鍵がどうかしたのか？」
「違います。あなたは大事なものが見えていない。薬指ですよ」
「薬指？」
　運転手の薬指には指輪がはまっていた。こいつ結婚しているのか。何気なく指輪を見て俺は戦慄した。体の震えが止まらなくなった。
　この指輪。そこに彫られた模様。家紋。彼女の家紋。これは彼女と同じ指輪じゃないのか？なんで運転手が？
「気づきましたか？わたしは彼女の夫です。婿ですが」
「なっ、ななななな」
　俺は混乱で二の句が繋げなかった。
「彼女は運転免許を持っていませんからね。そもそも車を運転するという概念がない。だからわたしが運転していたわけです。あなたが勘違いするのも無理からぬ話ではあります。もちろん専属の運転手はいますけどね。ですがあなたに会いに行く時はわたし、と決まっていたのです」
　夫が妻の浮気相手のところに送り迎えしていたのか？そんなバカな。ありえない。何を考えているんだ？正気の沙汰じゃない。
「わたしもこんなことはしたくないですが、やむにやまれぬ事情がそうさせたのです」
「じ、事情？」
　俺はやっとその単語だけおうむ返しできた。俺は運転手、いや夫の言葉が頭をぐるぐると回る。決まっていた？誰に？まさか彼女か？俺は得たいが知れない恐怖で選択するどころじゃなくなっていく。
「それも見た方が早いですね。立ってそこから運転席を見てください。ああ、大丈夫です。さっき言った策、というのは嘘です。あなたをそのときは座らせておく必要があったのです、ゲームの前までは」
　俺は騙されたことに怒ることも忘れてそっと運転席を覗いた。それを見た俺は「ぎゃああ」と今度こそ悲鳴をあげてシートにへたりこんだ。夫は上だけ服を着ていて下は裸だった。その股間には俺と同じものが銀色に輝いていた。
「そ、そ、そ、それは、お前」
「そう、わたしはあなたと同じなんです。直に慣れると言った意味がわかりましたか？」
「だ、だ、だ」
　俺は驚きで思考と発言の回路がショートする。
「誰に、ですか？もちろん彼女です。そしてあなたも、ですよ」
　俺は思いきり頭を殴られたような衝撃を受けた。
　嘘だ、嘘だ、嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ！
「驚かれたでしょうね。でもよく考えればわかったはずです。その貞操帯はあなたに合わせて設計されているとわたしは言いましたよね？あなたのそのサイズを計れる人物は直近で彼女しかいませんから、簡単な推理です。ただ、海外でオーダーメイドになりますので時間がかかるのです。値段も十万円以上するんですよ」
　夫の話は聞こえてはいたが、高等な数式の答えを聞いているようにまったく理解できなかった。彼らは俺の許容範囲を越えていた。混乱で視界が歪む。
「な、なんでこんなことを？」
「愛、でしょうかね」
　怯える俺をなだめるように夫は言った。
「あ、愛？」
「そう、彼女からの愛です。愛する人には自分だけを見ていて欲しい。その人のすべてが欲しい。すべてが知りたい。誰かを好きになれば普通に抱く感情ですから」
「ふ、普通？普通だって？異常だぞ、こんなの」
　悪寒が足の爪先から脳天に走り、全身に鳥肌が立った。
「多少愛情が深く、強いのは認めます。でも彼女にはこれが普通で当たり前なんです。そして彼女は感情を行動に移す権限がある。権利は行使してこそその意味を成します」
　わからん。俺にはこいつの言っていることは洗脳された新興宗教の信者の布教活動に聞こえる。わかるのは。
　俺はヤバい女に手を出したってことだ。
「わたしは彼女の愛を受け止めました。指輪と同時に貞操帯をはめられました。彼女の許可がなくては射精も欲情も禁じられてしまいましたがこれも彼女に永遠の愛を誓うということなのです」
　俺は夫の目がガラス玉のように見えた。意思が感じられない。俺は思う。こいつが誓ったのは愛じゃない、従順だ。こいつは彼女のペット、ロボットだ。こいつは男が男であることを奪われた。自由を奪われた。だからこうなったんだ。
「く、狂っている」
「純粋な愛の核は狂気です」
　夫はまったく冷静にしゃべり、右手は鍵をのせたまま静止している。
「ちょっと待てよ。それがなんで俺までこんなものはめられるんだ」
「彼女は上流階級に生まれた高純度のセレブです。金で買えるものはすべて手に入れてきました。ですがそんな彼女にも買えないものがあることに気づいたんです」
「質問の答えになってない」
　夫は聞く耳持たず、続けた。
「運命の出会い、です」
「なに？」
「それに気づいた彼女は早速行動しました。自分が人妻であることも彼女にとっては好条件でした。困っている彼女に手を差しのべるような優しい、そして人妻であっても恋をしてくれる男性を彼女は探し始めたのです」
　俺の胃が鉛のように重くなる。まさか、まさか。
「そんな時の彼女は実に初々しかった。ある時は繁華街を歩きわざとハンカチを落としてみたり、またある時は地図を持って道に迷ったふりをしてみたり、そしてまたある時は駅で切符の買い方がわからないふりをしてみたり」
　悪い予感が俺の心臓を射抜いた。ショックで一瞬呼吸が止まる。
「その駅で一年前、声をかけた男性が現れました。男性は彼女に一目惚れしました。彼女も男性に好意を抱きました。それから半年後、二人は男女の関係になりました。彼女が男性に何をするか、おわかりですよね？」
　俺は街を全力疾走してきたように呼吸が荒くなる。そんなバカな、最初から仕組まれていたのか？
「そこでわたしは彼女にある提案をしました。彼が本当に運命の男かゲームをして確かめてみないか、と。そしてわたしが彼女の夫にふさわしいかどうかも確かめてみよう、と。彼女は了承してくれました。こういう遊びが大好きなんです。それに単純なゲームにこそ、その人の真価が問われるものですから」
　俺は完全に退路を絶たれた気がした。俺は彼女に声をかけた時点で、負けていた。
「実はこのふたつの鍵のうち、ひとつはわたしの鍵なんです。もちろん残りはあなたの鍵です。あなたがわたしの鍵を選んだら、わたしは戒めを解くことができます。彼女とイーブンな立場になれます」
　夫の青白い顔にうっすら赤みがさした。俺はまた誤解していたことに気づく。こいつは男であることを諦めていなかった。わずかなチャンスを虎視眈々と狙っていたのだ。
　ゲームに勝つには確率と駆け引きと運。それでこいつは彼女とのゲームに勝ってここに来た。それに比べれば俺など、横綱がわんぱく相撲の土俵に上がるようなものに違いない。
つまり、相手にならない。
「あなたはわたしにとっても運命の人、というわけです。わたしの話は以上です。さあ、決めてください。変えるか、そのままか」
　夫が迫ってくる。俺は力なくこのままでいい、と言った。
　その瞬間、夫の顔は花が開いたような満面の笑みになった。

　おわり

読んでくださりありがとうございました。ご意見、ご感想お待ちしております。