伝言
一
コルクボードに吊るしておいた紐付きの茶色の靴下には鍵が入っていた。見たことのある一本。あまり使われている感じがしない。でも新しくない。確かめたくて,私は寝室に戻った。記憶ではそこに置いたはずだったから。けれど姿は見当たらず,それで,別の部屋を開けて,入って見つけた。私のキーケース。鍵束を包んでいる革製品の留め金を外して,無くなったものはないことが一目で分かった。その上で,見つけたかった一本を見つけた。近付けて,並べて,重ねた。この家の玄関のものだった。私はため息をひとつ吐いた。
寝癖を直しに洗面所へ向かった。顔を洗って,タオルで拭いて,歯を磨いて,口をゆすいで,コップを使ってうがいをして,タオルで拭って。タオルを交換して。
脱衣所で寝間着を脱いで,体重計になんて乗らずに,朝のお風呂を済ませた。ドライヤーで髪を乾かして,時々,送風口を鏡に向けて,そこに登場した私の顔で格好つけた。切ったばかりのニュースタイルは似合っているって自賛した。濡れたタオルを放り込んだ。『スタート』ひとつですべてが始まった。ぐるんぐるんとドラムが回った。準備のゴングが鳴った気分だった。
テーブルは焼き立ての匂いで占められた。クロスが一色に染まっていた。さくさくのパンの欠けらが落ちて,それらを指にくっ付ける私が座っていた。点けている映像には,お昼に近い街の景色が中継されていた。綺麗だった木々が通りに並んで,足を止めた人たちが,過ぎた思い出を語っていた。昨日にでもあったようなことだった。お皿の野菜を刺した。ブロッコリーを頬張った。紫蘇のドレッシングが最高だった。コーヒーを二回に分けて飲み干した。あとは片付けをして,ステキな仕上げを済ませるだけだった。
コートを羽織る。いや,ポンチョだ。首を出す。カバンを簡単に持つ。
花屋さんに寄った。前から育てたいと思っていた多肉植物を探して,鉢やカップや缶に植えられているものを一つずつ持って,店員さんのアドバイスを手がかりに何個か買った。月美人とか,オトメゴコロとか,サブリギダ。本当に育てやすいと店員さんが言って,持って帰る途中で折れたりしないように,気を付けますと私が言った。清算が済まされて,私は店員さんと別れた。先を進んだ。
一直線だった。立ち止まる必要がない。鍵は閉めてきた。買い足す物は,特にない。
靴下は実用的なもの,だからあのサイズはわざわざ編んで,ピンで引っ掛けた。日数を費やして頑張った。期待の分だけ大きかった。ジャストサイズを教えて欲しかった。網の目の苦労は細かかった。溢れたりなんて,きっとしなかった。
はためくノボリが店頭にあった。突風が前から吹いていた。結び直そうとしていたマフラーが手から逃げて,目の前にいる人が苦戦していた。その人に,声もかけずに近付いていった。手元,首元に夢中になって,何ひとつ気付けない人だ。どこまで行けるか確かめてやろう,と思うと気付かれる塩梅だった。原因は,その人か私か,二人にあった。交わし出す会話。
「それ何?」
「多肉植物。」
マフラーが巻かれる。
「ちゃんと気付いた?」
「だからこうして,ここにいるんです。」
マフラーが巻かれる。
「あれ,怒ってる?」
マフラーが巻かれる。
「手が混み過ぎ。サイズが合わない。編んだ苦労を返して。」
ごめんごめん,そっか,という身振り手振りが繰り広げられる。言い訳が多い証拠だった。レシートを渡して,代金を請求する。
「なんで?買ったのそっちだろ。」
「購入の原因を作ってくれたから。あなたのせいで買ったんです。」
なんでよー,という不満が発せられるのを,マフラーを解いて中止させた。寒いよー,という抗議が取り返そうとするのを制して,顎で示しながら,私は指摘した。
「今,中に入るんでしょ?」
彼は気付いた。
「あ,だね。」
そっか,と納得を漏らす足取りは,私を早く促して,そこにある店内の自動ドアを二つに分けた。迎えられる声が聞こえた。すぐに席に促された。接客の男性が何かを取りに行ったタイミングで,私は隣の彼に訊いた。「もう場所は決めてるの?」。彼は「うん」と言って答えた。
「日当たりが良い所。それのためにも。」
取って付けた理由に,条件としては広過ぎたために,私が具体的なものを加えていった。そのうちの何個について,彼と短い話し合いを行なって,向こうに提示する内容を決めた。さっきの男性が戻って来た。お待たせしました,とその人が言った。彼と一緒に丁寧に,それに応じて話し始めた。これらに合う所を探してます,と。
「ありますよ。」
と示された間取図のドアが,外に向かって開いていた。覗き込むように何もない部屋を見ていた。
伝言