星の導き
1.
うららかな小春日和ということもあり、いとも可愛らしい小便小僧がおちんちんをつまんで立つこの噴水広場のベンチには、腰を降ろそうと近づいてくる人々が後を絶たなかった。「いいえ、今日は神聖なる“運命の一日”。あなたたちに邪魔をさせるわけにはまいりませぬ」。アイスクリームを持って駆け寄って来た幼い子どもたちには、植え込みから水鉄砲を放って追い払った。バカづら下げたカップルには土佐犬をけしかけて追い散らした。おしゃべりをしながら近づいてきたママ友連中には、腐乱した鳩の死体を投げつけてやった。「すべては……すべては、星のお導きでございます」。がさりと、ほころびはじめたサツキツツジの茂みを割って、艶やかな黒髪を背で束ねた白装束の女――鈴木寿留女(すずきするめ)は、立ち上がった。ぶつぶつと口中でなにやら唱えながら、落ち窪んだ瞳から鋭い眼光で辺りを睨め回し、木製のベンチに貼り付けられた『ペンキぬりたて』の紙を素早く引き剥がした。腕に巻かれた水晶のブレスが、じゃらりと音を立てた。紙の下からは、大天使の名前を細かにナイフで刻んだ小さな二重丸の魔法陣が姿を現した。
「少し早いのでは――?」黒ぶちメガネをかけたオカッパ頭の女――木之元数子が、同じく植え込みから曇った顔を突き出した。「いいえ、もう来ます。来るはずです」寿留女はそう言って悠然と踵を返し、再び茂みに身を伏せる。その時ピーガガーと雑音を立てながらトランシーバーが鳴った。「こちら第一駐車場前、こちら第一駐車場前。内藤さん公園入りしました、どうぞ」慌ててボリュームを調整しながら、数子は植え込みに身を屈め「了解。こちらは噴水広場の木之元。報告ありがとう。引き続き追ってください――」。
でしょ、と言って寿留女は軽く片頬笑む。「どうして分かったんですか? だってまだ――待ち合わせまでに四〇分以上もあるのに」「内藤さんって七赤金星でしょ。慎重なのよ。それに今朝、山手線で停電があったじゃない? すぐに再開したけど、しばらく電車が止まってダイヤが乱れてた。石橋を叩いて渡る七赤金星が、それを見越して行動しないわけがないわ」。
「確かに。山科さんっていう同じ営業の人がいるんですけど、内藤さんは打ち合わせに遅刻したことがないって。交通機関が麻痺してても必ず時間どうりに到着してて、みんな驚いたことがあったそうなんです。だけど、恋愛に対してはそう積極的なタイプじゃないと思ってましたが……あの年で浮いた噂もないし」「卯年でしょう? 彼。元来、臆病なところはあるんだけどね、ちょっと面白いの。出身が北海道なのよ」「それが恋愛にどう関係しているんですか?」「フロンティアスピリット。つまり開拓精神のようなものが内藤さんの持つ霊気に働きかけていると思うわ」「何を――何を開拓しようっていうんですか?」「あそこを見て」。
寿留女の白い指先が、園路の東の森を指し示す。そこには、薄曇りを突き刺すようにして黄色いクレーンの先端がのぞいていた。「ちょうど今、池の護岸工事をやっているの。『開拓好き』の蝦夷男の血が、これに引き寄せられないはずはないもの」「――心がかき立てられ、はやる気持ちを抑られなかった」「そう。恋の路を拓かんとね。血は争えないというわけ」。
2.
「遅いですね彼女――」。数子は植え込みから不安げに広場の時計塔に視線を走らせる。待ち合わせ時間はもう過ぎていた。「そう焦らないこと。どうせあと20分は来やしないわ」と、寿留女は穏やかに言い放つ。「どうしてそんなことが分かるんです?」「プラスの水。彼女の気はゆったり流れる大河の属性よ。四柱推命だとね」寿留女の顔の横で大きなピンクのツツジが開花していた。羽音を振動させ、ミツバチが寿留女の鼻頭に止まったが、寿留女はまったく動ずる様子を見せなかった。「――大きな河が、佐伯さんになにか影響を及ぼしているんですか? 実家はたしか山奥だなんて言ってましたけど」「ご両親は?」「たしか、お父さんが四国の方でしたね。地酒を貰ったことがあるんですよ。高知の土佐鶴という――」「四万十川よ。彼女の気は、父方の故郷である高知県は四万十川の悠久の流れを受け継いでいるというわけ」ミツバチが寿留女の鼻の穴にするりと入り込んだ。「なるほど。たしかに佐伯さんはおっとりとした性格で、彼女が怒っているところを見たことがありません」「仕事はどう? デキるでしよう」「はい、はい! 必ずしも仕事が早いってわけじゃないけど、着実にこなしますね。ミスがない。上司としては、彼女のようなタイプがチームにいてくれることですごく助かっています」「心の内にある柔和さは三碧木星の特徴よ。てきぱきと物事をこなし、頭の回転も高い」「だけどその柔和さが恋愛だと裏目に出てるみたいで」「未年は天性の気の弱さを持ってる。悪い男に利用されるケースも多いの。だけど、今年はすごくいいのよ彼女。特に四月に入ってからの恋愛のバイオリズムが尋常でない高さを示してる。一方で内藤さん――彼は卯年ね――内藤さんの方も、愛情運が安定期から上昇期にシフトするタイミング。ばっちりなのよ、この二人に関しては。今のタイミングを逃しては絶対にだめ」。
「だけど、さすがにそろそろ――」数子はベンチに座って退屈そうに携帯電話を弄ぶ内藤と、すっかり鳴りを潜めた手元のトランシーバーを交互に見た。「大丈夫かしら。このままだと内藤さん帰っちゃうかも……」「心配いらないわ数子さん。言っておくけどね、彼らの相性は、そんなヤワなもんじゃないわよ。文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経(もんじゅしりぼさつしょせんしょせつきっきょうじじつぜんあくしゅくようきょう)」によると――」「何ですか?」「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経(もんじゅしりぼさつしょせんしょせつきっきょうじじつぜんあくしゅくようきょう)によるとね――」「もんじゅ尻ラッキョ?」「ちがうわ。よく聞いて。文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」(もんじゅしりぼさつしょせんしょせつきっきょうじじつぜんあくしゅくようきょう)」よ」「その占星術は聞いたことがないですね」「耳にしたことがないのも当然です。あまりの的中率の高さをおそれた時の徳川幕府が秘密裏に封印し、明治まで日の目を浴びることのなかった占いですから。それによると、彼らの関係性は『友衰の星』にあたり、恋愛関係において最高の輝きを放つ関係とされているの。趣味や価値観といったフィーリングが合致し、人生の潤いを与え合うという星の巡りよ。数十年、いえ数百年に一度巡り会うかどうかという奇跡の関係。初対面から引き寄せ合うエネルギー磁場が生まれ、お互い知り合ってしまったら最後、もう二度と離れることがない、というほど」「……どうして、今まで出会わなかったのかしら!」「強烈に引き寄せ合う星同士の場合、そのあまりの磁場の強さゆえに、霊気がお互いの干渉を避けようとしたり、出会ったとしても最初はそりが合わないと感じることがめずらしくないの」「なるほど。引き寄せ合う磁場、ですか」数子は神妙そうに頷いた。寿留女は新緑に眩しそうに目を細め、不敵な笑みを浮かべて尋ねた。「佐伯さんと内藤さんのイニシャルは?」「イニシャルですか。サエキとナイトウだからSと……N――ハッ!」数子は息を飲み、咄嗟に口元に手を当てる。
「引き寄せ合う、磁石の極の如し」。
「まるで……! まるで最初から神に仕組まれていたようだわ」と数子はおののき、ガバッと空を仰いだ。巨大な魚影のようなおぼろ雲が一面に広がっていた。
胸を大きく膨らませた灰胡麻色の鳩が、グーグーとくぐもった鳴き声を上げながら、白い鳩の周りを何周も回っている。噴水広場のベンチに座る内藤がチチチと口を鳴らすも、恋は盲目。それどころではないようだ。「つがいになった鳩はね、相手が死なない限り生涯夫婦生活を共にするの。吉兆よ」藪の中で寿留女は数子に耳打ちする。結局、相手にされなかった鳩は、すれ違った小柄な鳩へと向き直し、今度はそちらに猛アピールを始めた。
「たしか何度かニアミスはあるんですけどね彼ら。もちろん、仕事でですけど。ただ営業と総務なんで、働いている階も違うし。直接顔を合わせるのは今回が始めてのはずです」木立の間を春風が吹き抜け、落葉が数子の額を掠める。寿留女はくすくすと笑いながら「びっくりしたわ。あなたが私の館にはじめて来たとき――」「社史制作プロジェクトの編集の人に、いろいろと調べ物を頼まれたんですよ。それで、これまでの取引先登録用紙とか、古い議事録の原本、社員名簿のファイルを整理してて」「ものすごく大きな綿埃を頭に乗せて来たから、何ごとかと思ってウフフ」「その前に、何時間も倉庫を引っかき回してたんです。棚の荷物を上げたり降ろしたり。お恥ずかしい」「ただね、驚くかもしれないけれど、実はあの日のあなたのラッキーアイテム。それが綿埃よ」「そうだったんですか!」「しかも、ラッキーカラーはダークグレー。まさに、そのものズバリね。あなたが綿埃を従えて訪ねてきたとき、私にはすぐにそれが何か福音の前ぶれだと感じたの」「それも星の導きによるものだったんですね。なんてことかしら!」「西洋占星術だと、あなたは金星の影響が大きいの。人に尽くすのが好きな星よ。数子さんらしいわ」「いえ、そんな」と数子はメガネを曇らせるほど頬を上気させて俯いた。「面倒見がいいのよ、あなたは。後輩の恋の行方を占いたいだなんて」「おせっかいですよね。しかもその顛末を、こんなとこでこそこそ隠れて見届けようなんて」「いいえ。そんなことないと思うわ」寿留女はモナリザのように僅かに微笑んだ。「ただ、サエちゃんの恋愛が――彼女あんなに尽くしていたのに――つらいことが続くのが不憫だと思ったから」「あなたは天秤座。もともと恋のバランスを司るキューピッドの素質があるの。だからあなたが館にやって来たとき、社員名簿を持ってたことも偶然じゃないのよ」「残業ができない日だったから、家で名簿の整理をしようと思ったんです、それがまさか……こんなことになるとは」「すべては暗示されていたのよ。この世のありとあらゆることは星の導きなの――あ、来るわね」寿留女は白装束の胸元から水晶玉を取りだした。水のように透きとおるクリスタルは植え込みの花々を映し込みぼんやりと桃色に発光していた。その直後、無線機が受信音を鳴らし佐伯範子が公園前の交差点に姿を見せたことを告げた。
3.
「――どうしよう、寿留女さん。せっかくここまでこぎ着けたのに」数子は目を潤ませ、口を一文字に結んだままうなだれ、何度も頭を振った。「うーん、やはり北口はちょっとまずいわね。死門が巡っているから」と言いながら、眉間に皺を寄せ寿留女は手元で素早くタロットカードを弾く。——いかずちに打たれ炎上する塔。濛濛と立ち上る煙と悲鳴を上げ落下する人々。「THE TOWER」。まったくこんな時に……。「こちら噴水広場。噴水広場。なんとか彼女をもう一度東口へ戻せないかしら? どうぞ」数子はトランシーバーに向かって押し殺した声を上げる。「寿留女さん、アタシどうしたらいいか……。二人を引き寄せたのに、こんなことで台無しになったら……」落ち着きなさい、と寿留女は数子の肩を抱く。「ここまで来たら運命に従うしかないわ」。
「こちら公園東口、こちら東口。今、佐伯さんを追いかけていますがちょっと――」荒い呼吸と幹線道路の騒がしい雑音がスピーカーを振動させる。「――このままだと、北口から入っちゃいますね。東口を塞いでいる工事車両ですが、まだしばらく動きそうにありません。どうぞ」。
「東は入れない。北は鬼門。いったいどうしたら――」「数子さんちょっと指を出して」黒い眉をきりりと真っ直ぐに結び、寿留女は懐から小さなペンダントを取りだした。三センチほどの菱形の輝く透明な石と、赤紫の丸い石がチェーンで繋がれている。「これは?」「水晶とアメジストのペンデュラムよ。アメジストは愛の守護石。ヨーロッパでは愛を招き寄せる石とも呼ばれているの」「すごく……きれい」「まずリラックスして。そして、静かに潜在意識を開くの。表出する顕在意識や雑念を取り払って。いい? 気持ちは分かるけど、あの二人をどうにかしてやろう、という気持ちを鎮めて。ゆっくり深呼吸して――そう、それでここを持って持ち上げてみて」青ざめた表情で大きく息を吐き出しながら、数子は細い鎖の真ん中あたりを抓んで持ち上げた。「そう。ゆっくり、ゆっくりね。あなたの潜在的なエネルギーを信じて」ペンデュラムが微かに震えをみせる。寿留女はそれを、そっと包むように手で覆う。数子の額から滴り落ちた汗が、息を潜める藪の暗がりにほとりと吸い込まれた。「真実を、我に――」寿留女がペンデュラムに囁きかけ、覆っていた手をゆっくりと放していく。ぴく、と反応したかと思うと、ゆらり、ゆらりと、と水晶が弧を描きはじめた。小さく、徐々に大きく、その半径は広がり、勢いを増していく。糸を引き、ヒュンヒュンと空を切る音を立てながら、目にも止まらぬ早さで――。
「ひゃあっ」と突然小さな叫び声を上げ、数子がペンデュラムを投げ出した。「どうしたの」「ごめんなさい、急に――急に怖くなっちゃって」「そうか。だけど、ウン。大丈夫よ」「大丈夫って、何が……」「見て」草むらのクローバーとハルジオンの間に落ちたペンデュラムの水晶の先端が、矢じりのように西北西を指していた。「“水脈”を探し当てたわ。数子さん」「水脈?」「もともとこのダウンジングという占いは、地下の水脈を探し当てるためのものだったの。この公園は暗渠の上に建設されてる。そして彼女はプラスの水の気を持っている。これだけの暗示があれば真実の扉は自ずと開くというものよ」「西口に?」「ええ」「だけど、だけどどうやって西口に彼女を。だいぶ遠回りになりますよ。もう佐伯さんは北口から入ろうとしているんじゃあ――」「流れに身を任せよ。それが、水の精霊からの教えよ」と寿留女はウインクをした。
トランシーバーから、佐伯範子が北口を迂回して西口へ向かっているという報告が入ったのはその数分後であった。なぜか。辺りをきょろきょろと見回すような素振りを見せていた範子は、北口の門の前で水玉模様の服を着せた犬を連れた水商売風の婦人をつかまえて、道を尋ねた。水色のセーターを着たその婦人は、西口の方を指さした。範子はぺこりと頭を下げ、その後、北口から踵を返して足早に西口へと向かったという。――公衆トイレのある西口へ。“水の精霊”に導かれるようにして、そう、彼女はその時、「偶然にして」尿意をもよおしたのであった。
4.
かくして間一髪で鬼門を避け、福運をもたらすという西口から公園入りを果たした佐伯範子は、公衆トイレから出ると足早にサイクリングセンター脇の林道を抜け、噴水広場へと出た。彼女を見つけた内藤が、弾かれたように立ち上がる。少し緊張した面持ちで、女に向かって手を振る。ごめんなさい、と何度も頭を下げながら、佐伯範子は男に向かって駆け寄った。
ごぶり、と草葉の陰で数子は大きな大きな息を飲む。一歩、また一歩と近づく二人。少し、表情が硬いわ二人とも。もっとリラックスして、ほら、佐伯さん、いつものように、微笑みかけてみてよ。内藤さんも、なんだか怖い顔しちゃって、なによ。そんな顔して近づいたら、怒られるみたいで、女の子は萎縮しちゃうじゃない、笑って、ね、もっと笑って。ねえ、お願い、笑わんかいドアホ!
汗ばんだ手のひらをしっかりと握りしめ、知らず知らずのうちに数子は悲鳴のような声を発していた。寿留女は白い紙垂を挟んだ長い竹棒――大幣(おおぬさ)を激しく振り回しながら、粛々と祝詞を唱えはじめる。工作員として彼らを尾行してきた総務課の新人社員らも、あるものは林道のケヤキの影で、あるものはパーゴラに絡む蔓植物の中に身を潜め、あるものは池の水面から筒を出して――遠巻きに固唾をのんでその様子を見守っている。
呑気に首を動かしていた鳩が、羽を撒き散らし慌てて飛び立った。互いの距離が3mを切ったあたりで、突然、範子の足がもつれた。引き寄せ合う星と星の強烈な磁場に巻き込まれたのか、つんのめるようにして前へ倒れる。水色のヒールが脱げて、ふわりと宙に舞った。あっ、と声を上げた内藤は、踵を強く踏み出し、彼女に長い腕を差し出した。銀翼の引いた白い雲が青空にまっすぐに伸びていた。小便小僧の小便が、キラキラと陽光に輝いた。なぜ、ここでドラマチックなBGMが鳴らないのかしら? 数子はふとそんなことを思った。今もその時の様子が、スローモーションのようにはっきりと思い出せるという。
次の瞬間、二人はディープ・キスをしていた。
電光石火の出来事だった。立ったまま、互いの腰に腕をまわし、身体をぴったりと密着させ、たった今デビューしたばかりの超高校級カップルは、すべてを貪りあうが如くべろーん、べろろろろーん、べろろんちょ。と、あまりにも、あまりにも肉感的な口づけを交わしていた。待ちきれないとばかりに互いの内部へと浸食をはかろうとする舌と舌は、ドリルように捻れ合ってツイストし、卑猥な音を立てながら果てなく絡み続けた。
やがて日は落ち、また昇り、沈んではまた瞬いて、うんとこしょ、どっこいしょ、と皆でどれだけ引っ張ってみても舌を固く絡みつけたままそこから離れなくなった二人はその格好のままカチンコチンの岩となり、今では恋愛が成就する『ディープキス地蔵』として公園に祀られているそうな。それほど、めでたくはない。
星の導き