〈Never〉

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序幕

 序幕

  1



 乾ききった風の哭く音が、雲の多いわりによく光る月と共に、カイアスの感覚に触れて来た。
嫌な予感がする。
風の知らせ、とでもいえばいいのだろうか。使い古された言い回しだとしても、そうとしか表現できない、奇妙な感覚だった。
 だからなに、というようなことではなかった。カイアスは今、小さな傭兵団に雇われるしがない用心棒にすぎないのだ。もう一年は優に超すほど長い付き合いになるとはいえ、所詮は雇用者と雇用主である。こちらからは何も主張しないということは、カイアス自身が決めた線引きの一つだった。
 そこかしこでたむろしながら獲物を観察していた傭兵たちが、頭目の号令の下ぞろぞろと動き出した。獲物を包囲しようとしているらしい。
魔術による結界はおろか、城壁や土塁すらも無く、木の柵で囲われただけの、孤立した村。それが今日の獲物だった。
冬の足音に追い立てられて前の戦場を後にし、動乱の噂に釣られて山を抜ける間道や桟道を伝ってこの国――この最果ての国『マグノリア』へとやってきた傭兵団の目の前に、突如現れたその村は出来過ぎなほどにお誂え向きな獲物だった。そして、傭兵たちは獲物に飢えていた。
文字通りハイエナのように闇に紛れて動く傭兵たちに背を向け、カイアスはいつもそうするように獄車の屋根に飛び乗った。今は中身が少なかったが、無理をすれば中に十人以上の『商品』が詰め込める獄車である。長すぎるほどに長いカイアスの得物を持ち込んだとしても、一人でくつろぐには十分なスペースがあった。おまけにここを見張り台にしようとした奴がいたらしく、屋根の上には東屋のようなものまで造られているのだ。下から聞こえる怯えたような物音にさえ耳を塞げば、ここは最高の休憩スペースだった。
少しして、村を包囲していた傭兵たちが動き出した。
月が雲に隠れてあたりが闇に沈んだのを見計らって動く場慣れしたやり方で、数人前の断末魔が闇を裂くまで大した時はかからなかった。
村のすべてが停止し、何もない、すべてが止まったような静寂が訪れる。
勿論(もちろん)、それを破るのも傭兵だ。
手近な家のドアを蹴破ってリビングまで押し入り、彼らは必ずこう言うのだ。
「冬の心配をしなくて済むようにしてやるよ」
瞬く間に、静寂のすべては混沌へと引き擦り戻された。
錯乱した村人が逃げ惑う姿も、目についた人間を遊ぶように殺す傭兵たちの姿も、略奪の光景はいつも寸分も変わらない。傭兵の騒ぐ声は獣の鳴き声でしかなかったし、女の悲鳴は人間の声でしかなかった。
恐慌の前線は見る間に村の中心へと移っていき、角を曲がってカイアスの視界から消えた。後に残された抜け殻は、もはや家と呼ぶにはふさわしくなくなっていた。断続的な悲鳴だけが仕事が順調に進んでいることを告げている。今夜の稼ぎも上々だろう。苦々しい気分でカイアスは思った。
「勘が外れたのが悔しいのかな」
 殆ど寝そべるような姿勢のまま誰にともなく呟いた声は、口から出るよりも早く風の哭く音に呑まれて消えた。
カイアスは、略奪というものが嫌いだった。
無論否定する資格などない。或いは嫌いということすら許されないのかもしれない。
それでも嫌いなものは嫌いなのだ。それは理由も根拠もあいまいな想いだったが、九年もの間カイアスを律し続ける程度には強い想いでもあった。だから、自分で略奪をやることはない。
それでいいとカイアスは思っていた。
どれほどの時間がたったのか。カイアスが気まぐれに立ち上がったのと、それは同時だった。
音が消えた。
風に、騒乱の全てを吹き飛ばされたかのように、消えた。
一拍遅れて帰って来た騒乱は、もう全く別のモノに姿を変えていた。
何が起きた。それを考えるより先に体が動いたのは、それが生業だからなのか。
自分でも解らないまま、カイアスは空を舞っていた。
 着地したのは、村の入口だった。
転がりながら進むことで着地の衝撃を殺し、起きる勢いでそのまま曲がり角を駆け抜けた。
広場に飛び込んだ時最初に感じたのは、鼻に刺さるような血の匂いだった。
両手に剣を持った男を取り囲むようにしている傭兵たちが見えた。
カイアスは得物のヅヴァイハンダーを担ぐようにして構え、包囲の輪に割り込んだ。
ほとんど同時に月が雲を抜けたのは、或いは必然だったのかもしれない。
村の中心の、猫の額ほどの広場。
血の海と、そこら中に転がる屍体。
中心、独り立つ、二刀流の男。
全てが赤く、そして黒い。
血で、染め上げられていた。
目が()った。
赤黒く、長い前髪の隙間。
赤黒く染まった顔。
蒼い瞳。まるで別のもののように、美しく澄んでいた。
不意に放たれた殺気が、カイアスの肌に突き刺った。
「ちっ」
圧力に抗うように小さく舌打ちをして、カイアスは考えを巡らせ始めた。
得物は重く長いヅヴァイハンダー。
一対一では不利。
相手は、同じ長さを二本使う二刀流。
確実に手数型。
不利に不利が重なっていた。
そして、この殺気。
間違いなく手練れだった。
あるいは自分以上の遣い手かもしれない。
どうするのか。
焦りを悟らせないように、カイアスはヅヴァイハンダーを握る手に力を込めた。
迷う間に、傭兵たちが後ろへ集まってきた。
数を数える余裕こそなかったが、結構な人数がいるような気がする。
何よりも、一年以上共に戦った戦友だった。次に彼らが何をするのかはなんとなく読めた。
カイアスの思った通り、傭兵たちは槍衾を造り始めた。
それなりの人数が生き残っていたようで、槍衾は敵を牽制するのには十分な厚みになっていた。
これならいける。カイアスはそう思った。
如何に強くても所詮は独り。
槍衾に突っ込んでくるようなマネができるはずがない。
敵の圧力が一気に軽くなったのを感じながら、カイアスは半歩後ろに下がった。
敵は動かない。いや、動けないはずだ。
このまま陣形を維持しつつ下がっていけば敵は攻撃してこない。
その確信が警戒を緩ませるのを自覚しながら、カイアスはもう一歩後ろに下がろうと脚を動かした。
その動きに合わせて、槍衾もじりじりと後ろに下がり始める。
 それを見てとってのことなのか、小さく息をついた二刀流が、突然奇妙な構えをとった。
右腕を大きく後ろに引き、体を大きくひねり腰を落とした構え。
まるで、何かに変身しようとするかのような。
その奇妙なポーズのままで、あの蒼い瞳だけが、カイアスを射抜くように見据えていた。
また、嫌な予感がする。
カイアスは何がどうとは言えない嫌な予感の正体を探ろうと、足を止めて敵を観察した。自然、槍衾も後退の脚を止めた。
深く引かれた右手に持った剣。
あからさま過ぎるほどに、『この剣で斬りますよ』という気配を放っている。
フェイントや小細工を弄する気など毛ほども感じられない。
逆に、左の剣はおとなしい。
ともすれば隙とも見えるほど、静かに、自然に構えられている。
無論、それは隙ではない。誘いだ。それには、乗らない。
何を狙っているのか。
何かを待っているのか。
それが肝心だった。
いくら月が明るいとはいえ所詮は夜で、どんな剣なのかがよく見えない。
それでも、その剣に派手な装飾のようなものが一切ないことは十分に見て取れた。
魔導具の類とは考えにくい、シンプルでありふれた形状の、剣らしい剣である。
そもそも魔法の気配すら、いや、それどころか魔法の源である、大気中の〝エル〟がそよぐ気配すら感じられないのだ。
魔法であるはずがない。
ならあの構えは何を。
読めない。
カイアスは、いつの間にか肩で息をしている自分に気が付いた。
どれほどの時間、対峙しているのか。
右の剣が咲いたのは、あまりにも唐突だった。
咲いた。そうとしか言いようのない動きで剣が変形し、蒼いオーラが噴き出した。
一瞬前まで静まり返っていた大気中のエルが、渦を巻いて剣だったもののところへと集まっていく。
何が起きたのか。
理解する間もないままに、カイアスの躰は動き出していた。
 虚空を斬る。そのはずだった手に残ったのは、金属を斬ったような重い感触だった。
斬ったらしい。
何を?
カイアスがそれを認識するより早く、エルの塊同士がぶつかり合う独特の爆発音が、あたりに響いた。
爆風と共に突っ込んで来る、影。
左の剣。
舞のような、流れるような動きで、剣らしい剣のまま、それが閃いた。
カイアスは、静かに目を閉じた。
暗い世界で、誰かが何か短く唱えるのが聞こえた気がした。
死んだ。
……と、思っているということは死んでいない。
そう気が付いたのは、強烈な爆風に晒されてからだった。
たまらず目を開けると、目の前にいたのは二刀流とは別の男だった。
「味方だ。君の」
 目の前に立つ乱入者が言ったということは、混乱気味の今のカイアスにも理解できた。しかし、それが誰なのかはわからない。
不意に別の影が三つ現れ、二刀流に飛び掛かった。
それを確認したのか、乱入者は二刀流に背を向けた。自然、正面にいるカイアスと目があう。
「逃げるぞ」
 言い終わらないうちに、乱入者は動き出していた。
ほとんど反射でカイアスも振り向いた。が、一歩目を踏み出すより早く足の動きが止まった。
放心した数人の傭兵、その左右、二つのひき肉の山。
それが何だったのかを理解するより速く、真横から半ば殴りつけるような勢いで頭をつかまれた。
不意を突かれ一瞬反応が遅れる。
抵抗するより早く、全身の力が抜け去った。
抗いがたい睡魔の隙間に、大きな舌打ちが聞こえた。乱入者が術をかけたことだけは、それでなんとなくわかった。
勘は、やっぱり当たっていたのか。薄れ行く意識の中で、カイアスはそう思った。


飛び掛かって来た、三人つの影。
三つの斬撃を、全身を捻るようにして(かわ)す。
クロードはすれ違いざま、敵の一人の頚椎に左の剣を叩きつけた。
必死だった。
首は、斬れずに折れた。
魔力が切れかけていることに、その時初めて気が付いた。
 返す切っ先に集められる限りのエルを集め、もう一人の喉元へと向ける。
血が、別のもののように噴き出した。
三人目。
右に回り込まれた。
上手く急所が狙えない。
三人御揃いだった短い剣が、鋭く突き出される。
躱した時、遂に限界が来た。
膝が崩れ、無理な体勢のまま、地面に転がり込んだ。
 視界が回る。
頬から地面にぶち当たる。
動くのは、左腕だけ。
両脚の感覚はほとんどなかった。
一撃目。
短い剣が打ち下ろされた。
這いつくばるような姿勢のまま受けた。
普通の剣よりずっと短い剣なのに、その打ち込みは今のクロードにとって鉄槌のそれよりも重かった。
二撃目。
跳ね上げるように、下からの斬撃。
受けた。が、剣が飛ばされた。
握力が切れたのかもしれない。
大きく剣を振りかぶる敵の、勝ち誇った顔が見えた。
不思議と死ぬ気はしなかった。
こんなものか。そう思っただけだ。
不意に風を切る音がして、敵が動かなくなった。
大きく振りかぶった右手に握る短い剣のわずかな重さに引っ張られ、仰向けに倒れていく。
石か何かのような音を立てて地面にぶつかった。
腕だった部分だけが折れ、別のもののように地面を滑ってクロードの目の前に転がった。
いや、確かに別のものだった。
それが氷であることをクロードが確信したのは、見慣れた、小柄な執事服が駆けよって来るのが見えた時だった。
 乱入してきた男と長剣使いは、いつの間にか消えていた。生き残った数人の傭兵も一緒に消えている。
それをどこか惜しいと感じている自分に気が付いて、クロードは少しだけ驚いた。が、その驚きは氷塊と化した腕と共に、黒いブーツに蹴り飛ばされた。
「…ご無事ですか」
相当怒っているらしい。シザリオがようやく口をきいたのは、血の海からクロードを引き上げた後だった。
 もちろんまだ立つことはできない。上半身だけ起こして背中をシザリオに支えてもらうことで、ようやく顔を血に浸けずに済んでいるという体たらくだった。
「無事だよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「立てないだけです?」
「立てないだけです」
「右腕……」
 言いながら、シザリオはクロードの右袖をナイフで切り裂いた。
「……ご無事のようですね?クロード様?」
「……相変わらずお前のジョークはいいセンスしてるよ、シザリオ」
 無事なはずもない。剣こそ元の姿に戻っていたが、クロードの右腕は内側から破裂したようになっていた。長い間まともな訓練をしていなかったのに、突然莫大なエルを操作して強大な魔法を紡ぎ、ひき肉の山二つを生み出した代償がこれだった。
ほとんど自分の腕という感覚がない。強張った手がいまだに剣を握りしめていることすら目で見るまでは気が付かなかったし、腕全体にわたる怪我の痛みすら曖昧なものだった。
「それはどうも…」
 口とは裏腹に、シザリオの動きは速かった。クロードの背を抱いたまま引きずり、適当なところに立て掛けて自力で座らせたかと思うと、小脇に抱えていた布のようなものを細く裂いて肩口をきつく縛り右腕全体からの出血を抑え、次いで回復の魔術を起動するための呪文の詠唱を始めた。
「魔法はやめろシザリオ。手当も後だ」
 クロードの命令に反応して口の動きをを止めたシザリオが、理解できないという顔でこちらを見た。
束の間、視線が合う。無言のせめぎ合いは一瞬で決着がついた。
「後だ。荷物を持ってこい」
「……承服できません」
 束の間逡巡したシザリオが、視線を合わせないように俯いたままで答えた。
「本当なら村を出ることでも反対したいところですが、今は敢えて反対いたしません。しかしクロード様、この腕は…」
「わかっている。急を要する怪我かもしれないんだろ?」
「ならっ!」
「だめだ。時間が惜しい」
「でしたらせめて簡単な血止めの術だけでも…」
「それもダメだ。敵がさっきのやつらだけじゃなかったらどうする?」
「それは…」
敵がさっきの一団だけではない可能性。それはシザリオも十分にわかっているはずだ。仮に最初の一団が見た目通りに只の盗賊であったとしても、最後のところで乱入してきて長剣使いを庇った男と、その男の脱出を援護するためにクロードに攻撃してきた三人は明らかに前者とは別組織の人間だった。
 任務があった。
それも、父である現王から直々に拝命した任務だ。
その為にこの村に来ることがあらかじめ決まっていたというようなことはなかったが、少なくとも任務の一貫としてこの村に来たのだ。
何らかの手段で敵対勢力に察知され、攻撃を受けた可能性は十分に考えられる。
そういった経緯の全てを、シザリオがちゃんと理解していることをクロードは知っていた。
解った上で、従者として主人である自分のことを心配してごねていることも。
「やはり、それでも承服できません」
 俯き加減になってたシザリオが言った。クロードは答えず、従者の次の言葉を待った。これ以上何か言えばシザリオはそれに従うということはわかりきっていた。
長くは待たされなかった。数秒、というところだろう。シザリオは顔を上げなかった。
「とりあえず今ここで手当をして、それから出立するとういうことではいけないのですか?」
「……もう俺は、これ以上冷や飯だけを食い続けるのはごめんだ。」
 クロードは、一度言葉を切った。
「この任務を果たしたところで何かが変わるというわけでもないのはわかっている。それでも何もしないよりはましだと思う。違うか?」
 それで、シザリオはまた黙り込んだ。
いつからか主従という関係になったとはいえ、幼いころからずっと、兄弟のようにして過ごしてきたのだ。シザリオは自分が何を考えているのか、何も言わなくてもわかる。そうクロードは思っていた。
「…わかりました、すぐに持って参ります」
 それだけ言うと、顔を上げずに立ち上がり、荷物を取りに走った。
月は、まだ広場をあまねく照らしていた。
クロードは広場中に散らばる屍を眺めた。今更込み上げて来た吐気は無理やり抑え込んだ。おびただしい数の屍を生み出したことに、罪悪感が湧かなかったといえば嘘になる。しかしその感覚は、クロード自身が手に掛けた綺麗な屍体に紛れ込む滅多突きの遺体を見るたびに薄れていった。
「俺は必要なことをしただけだ」
何かを捨てるような気分に後ろ髪を引かれたまま、クロードは声に出して呟いた。
「必要なことを」
 クロードはもう一度声に出して呟き、後ろ髪を引く何かを振りきるように空を見上げた。
目が遇った。
子供だろうか。クロードが背を預けている家の窓からちらりと覗いた二つの眼は、この場にふさわしくない澄んだ色をしていた。
「ねえお兄ちゃん」
 ほとんど囁くような声で言う。昔から他人の性別の判断が苦手なクロードには、それが女の子の声なのか男の子の声なのかの判別がつかなかった。
「お兄ちゃんは、セイギのミカタなの?」
「…なんで、そう思うの?」
「ワルイひとたちをコロシてくれたから」
 躰の芯に微かな痛みが走ったのは、やっと存在感の戻ってきたの右腕の伝える痛覚の所為だけではなかった。
「……そうだよ。」
 束の間、言葉を選んだ。これ以上見たくなくなって、クロードは子供を見上げることをやめた。
「俺は正義の味方。」
 頭上で子供の目が輝いたことがはっきりとわかった。
「じゃあワルイやつはもういない?」
「…うん」
「ほんと?」
「全部、俺が斬った。」
 クロードは胸に広がる嫌悪感を圧し殺したまま上を向き、笑顔を作ってみせた。多分、笑えていたはずだ。
一瞬だけ目が合って、子供の眼が窓の隙間から消えた。
笑えていなかったのかなと考えるより早く、家から飛び出してきた子供がクロードに小さな手を差し出した。下手くそな紐細工が握られている。
子供が立ったのはクロードから見て右側だった。感覚の曖昧なままの右手を剣から離す無駄な試みを何度か繰り返した後、クロードは無理やり左腕を伸ばし、なんとか紐細工の報酬を受け取った。
「あげる!」
元気に言う子供の笑顔が妙に眩しかった。
「ありが…」
「エイラッ!」
 悲鳴の主と思しき中年の女が、家の中から猛然と突進してきた。子供を突き飛ばすようにして勢いで抱きしめ、自身の体を盾にするべく、ほとんど土下座をするような姿勢でうずくまった。殺すなら私を。申し訳ありません。まだ子供なんです。御赦し下さい。訛りのきつい下手くそな公用語で必死に喚きたてる。
彼女が決死の覚悟で、動けない自分に向かって並べる言葉の一つ一つが、その言葉が元々の意味とは全く異なるものとなって突き刺さる。自分の思考が、酷く散漫になっていることをクロードは漠然と感じた。今頭の中で渦を巻いているのは子供の性別のことだ。顔を見ても名前を聞いても、判断が付かなかった。
我ながら。いくらそう思っても、思考は、錯乱気味の母親を落ち着かせる方向へと向くことは無かった。
まだ、喚き続けている。殺されたのか元々居ないのか、村人が広場に出てき始めても父親らしき影は現れない。
クロードは、村人たちの集団が微かな殺気を孕んだものに変質し始めたことに気が付いた。敵ももうもいないのに。そんな悠長なことを考えていられたのは、その殺気がクロード自身に向けられたものであると気付くまでだった。
クロードやシザリオの服装は、旅人の旅装の平均値よりは多少良いかもしれないという程度だった。しかしシザリオに準備させている荷物一式は、かさばるので一切ごまかしができない。
 安価な鳥馬(トリウマ)ではなく、高級品である本物の馬に引かせた屋根付きの馬車。荷物はそれだけで、中身は多くなかった。それでもある程度の金銭や銀の粒は入っていたし、そもそも論として、襲う側には中身などはわからないのだから、問題になるのは屋根のある馬車と本物の馬という外見的な情報だろう。
それの持ち主がどれくらい金を持っている人間なのかを、持ち主自身が明らかにしていない段階でも見分けることができるのかどうか、クロードは知らなかった。
だが、少なくとも屋根付き、つまり居住能力のある馬車を、体力があり移動能力も高い本物の馬に引かせて旅をしているという限られた条件を満たす旅人が、ジプシーや旅芸人や行商人など、『全財産を持ち歩いている人種』と思われうるということくらいは世間知らずのクロードにも容易に想像がついた。
つまり、クロードたちは村人たちに、それなりの財産を持ち歩いていると思われているのだ。
おまけに主人のクロードは動けず、従者のシザリオは小柄でとても強そうには見えない。
要するに、略奪で受けた被害の補填に丁度いいのだ。
馬も馬車も、ちょっと手を入れれば農耕に使えるし、そのままとしても売ってもそこそこ以上の金になる代物であることは明白だった。
集団で行動したのなら再分配の段階でもめそうなものだとクロードは思ったが、たぶん今の彼らにはそんなことは全く問題ではないのだということも、頭のどこかでわかっていた。そもそも合理的な計算をしているのかすら怪しい。
「困ったな…」
 言ってみてもどうにもならない。
さっきまで喚いていた母親も立場の逆転を察したらしく、いつの間にか静かになっていた。
村人は、血に酔っていた。素人である分だけ酔いやすい、というところはあるのだ。
何人かが、傭兵が遺した武器を拾った。
それきり誰も動かない。タイミングを計っている。最初の一発が来たら、あとは雪崩をうって続きが来る筈だ。それに、間に合うのか。
「貴様らッ!」
闇を割る、透き通った声が響いた。
村人が一番集まった所を敢えて掻き分け、シザリオが馬と馬車を曳いてきた。
威圧のつもりなのか、わざとけたたましく足音をたて、屍を蹴り飛ばし、血を撥ねさせている。
「恥を知れッ!盗賊から救ってもらっておいて!」
 再度響いた声に場が呑まれ、村人たちが怯むのがわかった。
まるでどこぞの教官と新兵のような光景だ。クロードは吹き出しそうになるのを何とか堪えた。
「貴方も貴方です!なぜ静かに待っているということもできないのですか」
 クロードの目の前、村人の集団とクロードの間に割り込む位置で馬を止めたシザリオが、馬車の横腹にあるドアを開けながらまるで子供に説教をするような口調で言う。
図星を突かれ答えに窮する間にも、シザリオはぶつぶつ小言を言いながら強張ったままだった右手を解きほぐし、握りしめていた剣を取り上げた。
「解りましたか?」
 パチン。という鯉口の音に合わせて締めくくるように言ったシザリオが、微かに得意そうな表情になった。
どうやら怒りは、とりあえずは収まったらしい。
そこに至るまでの過程を全く聞いていなかったが、とりあえず首を縦に振っておく。
剣と一緒に抱き上げられ、馬車の中に整えられたベットのようなスペースに丁寧に寝かしつけられた時にはもう、クロードは完全に抗弁する気をなくしていた。
「奴隷の癖に偉そうに!」
 今頃になって気を取り直したらしい村人の一人が、まるでシザリオのクロードに対する言動を糾弾するかのようなタイミングで叫んだ。一体なにをもってシザリオのことを奴隷と断じたのかクロードには理解し難かったが、少し離れたところまで飛ばされていた左の剣を回収していたシザリオの、よどみない動きが一瞬停止したのをクロードは確かに見た。
シザリオは怒っている。
それはさっき自分に怒ったときとは全く違う質のものだ。
それでも今は、自分の為に耐えてくれているのだろうとクロードは察した。
「けっ、男娼かなんかだろアレは」
 シザリオが何も言い返さないことに調子づいたのか、別の村人が浴びせたその罵声は、彼らの望み通りシザリオを心底怒らせるのに十分な効果を発揮することが、クロードにはわかりすぎるほどにわかった。
「…いいですか?」
 ドアを閉め、小さな窓越しにちらと顔をのぞかせたシザリオが、呟くようにして言った。表情にこそ殆ど現れていなかったが、薄く血のにじんだ唇と冷え切った瞳は、忠実な従者の心の内を明朗に代弁していた。
「やめよう。シザリオ」
「………それは、」
「違う。わかってるだろ?」
 シザリオの言葉を遮り、クロードは言った。
視線が合う。
無言のせめぎ合い。
やはり、始めから勝敗は決まっていた。
 シザリオは黙ったまま馭者台の方へ向かった。
「待ちな」
 そう言ったのは村人だったのだろうか。一瞬と開けず鈍く響いた何かを潰す音が、遮った者の末路を知らしめた。
「大丈夫か?」
 馭者台に座ったシザリオに、クロードは問うた。
馭者台は馬車のハコの外側にあったが、壁板は厚いものではない。会話くらいはすることができた。
「睾丸を、蹴り潰しました」
 壁の向こうで、シザリオが答えた。
抑制された、起伏の小さいいつもの声で。
「……そういうことを聞きたかった訳じゃないんだけどな」
 クロードの呟きが聞こえなかったのか、シザリオは何も答えず馬に鞭を入れた。馬車が動き始める。村を出るまでほとんど時間はかからなかった。
結局村を覆ったのは、先刻盗賊がもたらしたのと殆ど同じ静寂だった。
遮ったのだから、向こうが悪い。馬蹄が地面を叩く音と車輪の軋む音しか聞こえない中で、クロードはそう思い定めることに決めた。
ついさっきまで風が哭いていたことを、なぜか思い出した。


 2


「絶対にダメです!」
 暗い森に響く少女の声を、シザリオは剣にこびり付いた血を拭いながら聞いた。
良く通る美しい声だ。寒空の下、葉を落としきった寂しい森には似つかわしくない。
「しかし…」
「ダメと言ったらダメです。このマグノリアの次期王女として、あなたの案をみとめるわけにはいきません」
 クロードの困ったような口調を遮って、もう何度繰り返されたのかわからないセリフを、何度繰り返しても変わらない懸命さで言う可憐な少女こそ、クロードに与えられた任務の、いわば本体だった。
「ですが」
「ですがもなにもありません。ダメなものはダメです。マグノリア王国の唯一の正統王家の後裔として、オーフェリアには自分の身の安全を完全に確保する責任があります!」
 まったくもってうすら寒い、気味の悪い子供だとシザリオは思った。可憐な容姿も綺麗な声も、その幼い子供に似つかわしくない造形物めいた強迫的な美しさのすべてが薄気味悪い。オーフェリア自身を嫌いとかいうのではなかった。それよりも、薄気味悪さが先に立つのだ。
シザリオは、清流のそばに熾したたき火の明かりを頼りにクロードの剣を洗っていて、クロードとオーフリアの囲んでいるもう大きなたき火には背を向けている。だから二人の表情は窺うことはできなかったが、オーフェリアが人形か何かのような固い表情をしているのが目に浮かぶ気はした。
オーフェリアが目を覚ましてから一刻(十五分)ほど経っている。村を襲った盗賊をクロードが倒し、そして村を出てから数えると、もう五刻にはなるだろうか。
その間中、オーフェリアは魔法に懸けられていた。懸けたのはシザリオだった。強制睡眠の魔法を懸けて眠らせたのだ。何かが起きたことに気が付いたクロードが「眠らせろ」と耳打ちしてきたのだ。
強制睡眠の魔法は便利だが、誰にでも使える代物というわけではない。シザリオはこの手の魔法が得意な部類に入るが、クロードは壊滅的に苦手だった。強制睡眠の魔法は麻佛散(麻酔の一種)の類とほとんど同じ原理なので、加減を間違えると対象者を死なせてしまうこともあるのだ。だから、クロードはいつも自分にやらせる。
クロードは、オーフェリアの身の安全を図る為に眠らせたのではなく、その後に揉めるのを避けようとしたのかもしれない。シザリオは今そう考えていた。耳打ちされた瞬間は、意味など考えなかった。
村を出てからは、闇の中を水の――正確には水のエルの――気配を頼りに進んだ。 これもシザリオが得意で、クロードが苦手なことだった。そういうことをすべて任されることが、シザリオは単純にうれしかった。信頼の証と思えるし、役に立てることも嬉しい。
闇の中を進んだのは、三刻程だろうか。
街道をしばらく進んだところで見つけた小径の奥から、水のエルの気配がした。
奥に進んでいくと少し開けたようになり、小さな川があった。
シザリオは、そこを野営地点に決めた。うっそうとした森というわけでもない、只の森である。小径ができているということは、しばしば人の出入りがあるということだった。それはつまり敵の攻撃の危険が低くないということだったが、シザリオは構わずそこに決めた。
敵の攻撃のリスクよりも、クロードの怪我が気にかかった。傷が膿んだりしたらもう自分の手には負えない。出血も怖いし、返り血も早く洗ってやりたかった。
適当に薪を集めて火を起こしてから、クロードを馬車から降ろして傷をみた。
深さも大きさも様々な傷が無数にあった。それは肩から手先にむかって徐々に酷くなっていき、そのすべてから血が派手に出ていたが、奇跡的に重要な筋や血管は傷付けなかったらしい。運が良かったとしか言いようがなかった。
それからシザリオは、クロードを洗うために服を全部脱がした。
服は文字通り血の池に沈めたようになっていたから脱がせるしかなかったし、倒れた時に服の内側まで血で濡れていたから、脱がすよりほかにやり様がなかった。
シザリオ自身も、上半分は脱いだ。
クロードを血の海から引き起こした時、服に血が付いたから仕方がなかった。
肌寒さは、不思議と感じ無かった。
裸を見ることに、抵抗はない。
クロードとは十年以上一緒に暮らしている。家族以上だった。一緒に風呂に入ったりすることも、少し前までは当たり前だったのだ。
そこを、見られた。
オーフェリアに、である。六刻(九十分)は確実に寝るはずの魔法を受けて、僅か三刻で目を覚ましたのは王家の魔力というやつのおかげだろう。
何をどう勘違いをしたのか、オーフェリアははじかれたように目線を逸らした。
反射的に逸らしたオーフェリアの目が捕えたのが、シザリオが今しがた脱がせた血染めの服だった。オーフェリアの顔もクロードの服も、たき火の赤い光の中でもはっきりわかるほどに赤いのだ。
それからお姫様は、クロードを尋問し始めた。無論、いい年をした二人が裸で組み合っていたことではなく、クロードとシザリオの服が血まみれになっていたことについてである。クロードは、オーフェリアを眠らせたところから、敵がオーフェリア姫を狙った刺客である可能性も含めたすべてを洗いざらい話した。
シザリオはクロードのをすることに今一つ共感できなかったが、多分彼にとっては必要なことなのだろう、ということも分かっていた。
 クロードの剣を二振りとも洗い終わった。
それで、シザリオは、現在に追いつきつつあった意味の無い回想から抜け出した。
美しい剣だ。いつ見ても、そう思う。
マグノリアを始めとする『大陸』の西北部で好まれる、十字を意識した形状の剣ではない。寧ろ東の方で好まれる作りだが、装飾はおろか刃も峰もない。
これは、魔法の剣だった。
魔法剣として戦う為以外の一切の機能を廃し、洗練され尽くしたそのフォルムは、華美ではなく、さりとて質素とも表現できない、独特の美しさを剣に与えていた。
 切断力に優れた風のエルを普通の剣の刃にあたるところに集めて、斬る。
昔クロードがしてくれた説明を、シザリオはなんとなく思い出した。刃がないから、使いたい時以外は安全なのだとも言われた。
確かに安全だ。現に、洗いながら何度も素手で刀身を素手で握ったが、痛くもかゆくもなかった。
剣を二振りとも鞘に納め、クロードのところへ戻るかどうか束の間考えた。
論戦は、まだ続いている。シザリオは、もう少し剣を洗っていることにした。
二人が揉めているのは、任務を今後どうしていくのか、ということだった。
要するに、敵の攻撃が考えられる中、任務を無理やりにでも続行するのか、それとも放棄して安全策をとるのか。そういう議論だった。
「ですから、いつまた敵が来るともしれないのでしょう?」
「それは………」
「私の聞いた限りでは、エルシノア行きは急務ではなかった筈です。なら、戻るべきだと思うのですけれど?」
「しかし、義父上からの直々の命令ですし……」
 命令は、クロードの実父であり、現役のマグノリア王であるクロディアスから、非公式の謁見に使われる部屋で、御付きのものは側近数名のみという異常な状況下で、任務を告げる事務官を介さず直々に受けた。
いくら活動的な気性で知られるクロディアス王と言えども、クロードの立場を考えればその命令の出し方の時点ですでに十分に異常と言えることだったが、クロードが声を上げて驚いたのは命じられた任務の内容だった。
任務は、皇太女であるオーフェリアを、旧都エルシノアまで送り届けるという、なんの変哲もないものだった。
ただ二点、ナヴァテアからエルシノアまでの行程と期間が一切指定されていない点と、同行者ががクロードとシザリオの二人だけである点を除けば、である。
初め、というよりは今も、シザリオはもとよりクロードにも、これがなんなのかわからなかった。一般に御幸と呼ばれるものとは全く逆の任務なのだ。任務なのか、軍務なのか、政務なのかの区別はおろか、具体的にこの任務で何を求められているのかすらいまだにわからない。流石にただ護送すればいいだけではないことくらいはわかったが、それでは何もわからないのと同じことだった。
ただ、用意された荷物の量は、ナヴァデア―エルシノア間の最短行程であるはずの四日分どころではなかった。長期の旅を想定したものだと一目でわかる分量で、それもまた、この任務が、ナヴァデアかあらエルシノアまでを最短経路で移動すればよいという任務ではないことを示していた。
それ以外のヒントは、一切出なかった。
どうしようもなかった。それで、行き先のない自由な旅をすることにしたのだ。
なぜ自分に、今更こんなことをさせるのか。それがクロードには分からなかったらしい。しきりに不思議がっていたが、それはシザリオにとっても、同じかクロードが感じた以上に不可解なことだった。
クロードは王宮に引き取られて以来ほぼ九年ものあいだ、ほとんど飼い殺しにされていたのだ。
冷や飯食い。
庶子。
それは、神託の巫女組織を源流とし、諸外国と比べても血統を重んずる傾向の強いマグノリアにおいて、他の王子や姫はおろか貴族や旗本にすら劣る、穢れた血として差別されるということと同義だった。
一定の形式上の尊敬と立場のみを与え、一切の職務を与えることなく何もさせずただ腐らせる。それが、現王家プロペスロー家の出した、彼らにとって初めて相対する『王家の庶子』というものに対する対応の結論だった。
 そのことは、まだ幼くすらあるオーフェリアもなんとなく感じていたらしい。昨日の日の出とともにナヴァテアの王宮を出発して以降も、態度は兄と妹のそれでは無く、完全に家臣と主家の姫君のそれだった。
それでも、クロードはどこかで、兄と妹という意識を捨てきれていない。
モラリストというよりは、どこか優し過ぎるのだ。甘さ、と言う方が正確かもしれない。
エルシノアへ向かおうとしていることだって、クロディアス王の命令であるからということ以上に、生まれてから今まで一度も王宮から出たことのないオーフェリアをたった一日で王宮に戻すのをあまりに不憫と思って主張していることだとシザリオは考えていた。
 もしナヴァテアに戻れば今度こそ本当に、永遠に外の世界を見ることができなくなることは明白だった。オーフェリアは今のマグノリアにとっては欠かせないピースなのだ。それを確保し続けるためなら一人の人間を生きながらの死に追い込むことくらい簡単にやる。
それをわかっているから、クロードは無理にでもエルシノアに向かおうとしているのだ。エルシノアについたところでどうしようもないということも分かりきっているが、それでもナヴァテアに戻るよりマシなはずだ。少なくともクロードは、そう考えているだろう。意識せずとも、頭のどこかでそう考えているのだ。
そういうクロードの甘さがシザリオはたまらなく好きだったが、それが愚かさと紙一重のものであることもよくわかっていた。
そして今、それは愚かさの方に出ている。シザリオはそう思っていた。
 集めた冷気で火を消す。闇の中で、シザリオは小さな溜め息をついた。


「ダメと言ったらだめです。責任があるんです」
 クロードはいい加減にうんざりしていた。
ダメ。
責任。
王女だから。
 この娘は、この三つ以外の言葉を一つも知らないのではないかと本気で思えてきた。 それほど、この三つの一点張りなのだ。
いい加減に腹が立ってきた。
右腕が痛い。全身痛むが、右腕だけは火の中に突っ込んでいるような痛みだった。
戦闘の高揚が消えた所為であることを頭ではわかっていたが、目の前で強硬な主張を続ける可憐な少女の所業のような気がしてくる。
なぜ、俺がこんなに頑固なお姫様の御守をしなくてはいけないのか。とも思った。
結局のところ御守をしている方が、ただ死んでいないだけの王宮での暮らしよりはマシなのだ。
そんなことも、頭ではわかる。しかし、そういう問題でもなかった。
「剣、洗い終わりました。どうしますか?」
シザリオが傍に来て言った。それでオーフェリアは静かになった。いくら頑固とはいえオーフェリアも一流の教育を受けた淑女の卵、ということなのだろう。
「左に」
どうしますか。というのは、左右に一振りずつ置くのか、動く左腕の方に二振りまとめて置いておくのかということの筈だ。警戒を緩める気は、無い。
シザリオは左腕のそばに二振りの剣を並べると、右腕の包帯を替え始めた。
 普段から、シザリオはクロードの身の回りのことをほとんどすべてやる。それはクロードの生活力の欠如という需要と、シザリオのそういうことの一切をやりたいという供給の一致によって生まれた悪しき習慣だったが、とはいえ今日は慣れないオーフェリアが加わった分二倍の仕事をしているのだ。いや、動けない自分の介護を計算に入れれば三倍を超えるだろう。後でなにか褒美を与えたほうがいいかもしれない。シザリオがそれを受け取らないことはわかりきっているのに、クロードは性懲りもなく考えていた。
「ねえ、」
 不意の呼びかけに思考を中断され、クロードは束の間、声の主を探して視線を泳がせた。
オーフェリアだった。
彼女らしからぬ声で、一瞬誰だか分らなかった。責任とか次期王女とかを繰り返している時の、小さい金管楽器のように張り詰めた硬質な声とは全く違う、柔らかく耳に心地よい、子供らしい子供の声だった。オーフェリアのこんな声は初めて聞く気がする。この年の離れた妹と謁見という形式以外で関りを持った記憶は、クロードにはほとんどなかった。立場が違うのだ。
「なんですか?」
 内心、驚いている。しかしここで食い気味に行けば、また態度が硬直する気がした。だから、逆に何でもないように言ってみる。
「お兄様は剣を二本使うのですか?たしか、御前試合の時は、一本だけだったと思うのですけれど」
「あっ」
 今、自分は間抜けに見えているだろう。
綺麗な声の真っ当な質問に対して、自分の声と答えははあまりにも間抜けだった。
オーフェリアのくりりとした、大きな、明るい紫色の瞳から、答えを期待する熱い視線が注がれる。
「…えーっと…確かに、御前試合では、一振りだけしか使いませんでしたね…」
 紫色の目を直視ししないように目線を逸らしながらクロードは答えた。
「ひとふり?一本のことですか?」
 無言でうなづいた。オーフェリアは細い首を何度か捻って考えるような仕草をしている。
「なぜ、ひとふりしか使わなかったのですか?あれほど大きくて、みんな必死で頑張っている大会、見たことがありませんもの、きっととても大切な大会だったのでしょう?そこで使わないのに、いったいいつ使うのですか?」
 首を捻り終えたオーフェリアが出したのは、まったく真っ当な疑問だった。
 それは、完全にアウェイである王宮内で、自分の全力を出し能力の限界を晒すことは危険すぎるからです。
本気を出して、ちゃんとした家柄でお育ちの良い王子や姫や良家の子弟子女に勝ってしまうと面倒そうだからです。
そんなことを言えるはずもない。二振りの剣を遣うことはずっと隠し続けるつもりだったのに、盗賊の襲撃に慌てて完全に意識から抜け落ちていた。
「…なんででもです」
 とりあえずで、クロードは答えておいた。
単純に、オーフェリアを納得させられるほど筋の通った言い訳を思い浮かばなかったのだ。
「なんででもって……」
「大人の事情、というものです」
 いい具合に任務の目的地のことから話がそれてきたことに気が付き、内心ほくそえみながらクロードは相槌を打った。二振りの剣のことはバレた以上仕方がない。後でオーフェリアに口止めをすればいい。
「大人の事情なんておかしいです。きちんと説明してください」
「だから、それができないのです」
「なぜですか?なぜ説明できないのですか?」
「それは……」
「納得できません!」
 また金管楽器。クロードは閉口した。
気が付いたときには遅い。
落とし穴を踏み抜いていた。
要するに、真面目すぎるのだ。その真面目さが王女という成長環境の所為で大きく助長され、頑固というところにまで至ってしまった。
クロードは、いつのの間にか憐れむような気分に包まれている自分に気が付いた。
「庶子には、そういうことが必要なのです。貴女には解らないでしょうがね。何もこっちだって好きにやっているわけじゃないんだ。」
 思わず、正直に答えていた。
声に威圧の色があることに、クロードは気が付いた。オーフェリアは、二、三度口をパクつかせたかと思うと、それきり黙り込んでしまった。俯いて膝を抱え込んだまま、ぴくりとも動かない。。
苛立ってはいない。しかし何かを逆撫でされたような気分だった。
「クロード様、狐がいましたよ狐が」
シザリオが戻ってきた。手には、干し肉の袋が握られている。
クロードは、救われたような気分になった。
オーフェリアが泣きだすかもしれないと思ったからだ。
その時、一人だとどうしたらいいのかわからない。
「それはなんですか?シザリオ」
 間髪入れずにオーフェリアも反応した。まるで助け船に乗ろうとしたかのように。
「干し肉みたいですね。肉の種類はわからないのですが」
「干し肉…ってなんですか?」
 オーフェリアの質問は、ある意味当然だった。大陸を分ける六つの大国の中で最も辺境に位置し、最も小さい国であるとはいえ、マグノリアは歴史のある国である。その正統を継ぐ姫たるオーフェリアが、干し肉というものを知っているとしたら、その方が寧ろ不自然だった。
 シザリオが、オーフェリアに干し肉というものについて説明し始めた。
シザリオはオーフェリアのことを嫌っている気配があるが、たぶんそれはオーフェリアの、あのガチガチに塗り固められた作り物臭い面が生理的に好きになれないというだけのことで、人間としての本質的な相性は悪くないとクロードは思っていた。多分、自分もそうだ。
シザリオの説明が終わったようだ。
オーフェリアが恐る恐る、干し肉の端を噛んだ。
小さな、柔らかそうですらある歯が覗く。オーフェリアは、歯の造形まで綺麗だった。なんとなくいけないことをしているような気分になって、クロードは視線を火に移した。火のたてる乾いた音がやけに大きく聞こえる。
すぐに手持無沙汰になり、クロードは周りを見渡した。森の奥に狐を見つけた。一匹で、たき火の灯がギリギリ届くかどうかくらいのところをうろうろしている。目が合ったが、すぐに隠れてしまった。シザリオが言っていたのはたぶんアイツのことだろう。この時期に、狐がいるのは珍しいと思えた。詳しいことは知らない。オーフェリアにいろいろ言ってはいるがクロード自身もあまり外の世界を知らないのだ。
「おいしい…のでしょうか?」
オーフェリアが、咀嚼していた干し肉を飲み込んでからそう言ったのは、かなり経ってからだった。口の中で、流動食のようになるまで噛んだのかもしれない、とクロードは思った。
オーフェリアは、不思議そうな表情で、時々干し肉を口に運んでは首を小さくかしげている。その子供らしい仕草の一つ一つが、先ほどまでの硬質な感じとのギャップで際だてられていく。そしてそれが、クロードの心の中に居座る後ろめたさに少しずつ塩を刷り込んでいく。
「まずまず、というところではないですか?」
 クロードが何も答えなかったので、シザリオが気を利かせて話を振ってきた。
「うん」
 答えたが、それきりだった。
「クロード様も食べてください」
 シザリオが干し肉をクロードが噛みやすいような位置にもってきて言った。
「好きじゃない」
「承知しています」
「普通の肉なら」
「それも、承知しています」
「今じゃなきゃダメか?」
「血を失いました。回復には、肉を食べる必要があります」
「狐がいた。あれならどうかな」
「貴方が食べたいのであれば、獲ってきますが」
「……」
「さあ」
「……あーんってやつ?」
「いけませんか?」
「姫様もいらっしゃるのに、流石にそれは……」
「じゃあ、ご自分で食べられますか?」
クロードは答えずに、差し出された干し肉を受け取ろうと試みたが、干し肉を持つどころか腕を上げることすらできなかった。
仕方なく、シザリオが持っているものをそのまま噛んだ。
それを見たオーフェリアが、また見てはいけないものを見せつけられたとでも言わんばかりに、耳まで真っ赤にして俯いた。
それを見たシザリオもまた、少しだけ眉を動かした。
しばらくの間全員で黙って干し肉を食べた。
「クロード様、一つ提案があります、姫様にも」
 干し肉を食べ終わったあと、馬車に行ったシザリオが戻ってきて言った。大きめの旅行鞄のようなものを持っている。クロードはそれに見覚えがあった。
「シザリオお前……」
 時々、この忠実で有能な従者のことがわからなくなる。
大胆なのか、それとも、狂ってるのか、がだ。
「そうですクロード様」
 少し得意げに言う。
飽きれて声も出ない。そもそもそんなものが何で積み荷にあったのかすらよくわからない。
「待ってください、なんなのですかそれは」
 疑問に耐えきれなくなったのか、オーフェリアが微かに食い気味でシザリオに質問した。
「これはプロペスロー家伝統の、諜報活動用変装セットです!」
 どこか自慢げなシザリオと対照的に、オーフェリアはぽかんとしている。
「要するに、スパイ用品ということですよ。姫」
 補足してみるが、伝わったかどうかはよくわからなかった。
クロードの主家であるプロペスロー家には変わった伝統が少なくない。
その伝統の一つに、上級将校が直接敵地に潜入して、諜報活動を行うというものがある。その家に当主―つまり、後のマグノリア王クロディアス――の息子として引き取られたクロードにも、当然その伝統を実行する準備をする義務があった。
「中身なんだっけ、それ」
 シザリオに聞いてみた。クロードは中身を覚えていない。数年前、そろそろ初陣という年齢になったので用意だけはさせられたものの、十九歳になってもまだ初陣すら飾れずに王宮の隅に押し込められて、一切使う機会がなかったからだ。
「二つありますが、持ってきたのは『路上で剣舞を披露して日銭を稼ぐ旅の芸人セット。笛吹のアシスタント付き』の方ですね」
 タイトルを聞いて、クロードは忌まわしき黒歴史の記憶と共に鞄の中身を思い出した。何とか隠滅しようにも今更遅い。
「……使えないじゃないかそれ」
「ねえシザリオ、使えないってことは、もしかして剣舞をするのって……」
「ええ、クロード様です。それはそれは美しい舞をなされます」
 オーフェリアの質問に、微かだが得意そうな声音でシザリオが答えた。迷惑以外の何物でもなかったが、とりあえずクロードは黙っていた。
「え、じゃあ、男の方二人で、夫婦ということは、どちらかが女装なされるということですよね?」
「ええ、もちろん」
 シザリオを黙らせたい。しかし四肢が動かないのではどうすることもできない。頭を抱えようにもそれすらできないのだ。
「どちらが奥さん役をやられるんですか?二人とも男の方ですけれどすごく美形だから、きっと本物の女よりも綺麗なんでしょうね?」
「ええ。私も結構自信ありますよ」
 得意になっていることがはっきりわかる声音と仕草でシザリオが答えた。
 声を上げてみようか真剣に検討した。それで止まるはずもないのでやめた。腹をくくるしかない。
「で、どちらが?」
 厳かに、オーフェリアが言う。
「………」
 息をひそめ、二人が目を合わせて、緊張感を演出している。息ピッタリだ。本当にやめてほしい。
「……クロード様です」
 わざと小声で、シザリオが言う。とても嬉しそうだ。シザリオのこんなにうれしそうな様子を見るのは久しぶりという気がする。
「まあ!」
 女子というものは、女装男子に対しての好感度の基準値がかなり高いのかもしれない。笑顔こそ無かったが、声を上げてこちらに顔を向けたオーフェリアを見てクロードは思った。
苦笑で返す以外、打つ手はない。
「そんなことできるのね兄上様。オーフェリアはそんなこと知りませんでした」
「………まあ、そういう感じの剣術流派だってだけですから……」
 言い訳にもなっていなかったが、オーフェリアは納得したらしい。シザリオが広げ始めた鞄の中身の方に目を奪われたようだ。
なし崩し以外の何物でもなかったが、取り敢えずエルシノアに行くということで決まったようだ。全く新しいイベントを次々に起こし、オーフェリアの興味をそちらへ引っ張ってなしくずしにさせたシザリオのファインプレーという他ないだろう。苦々しいが、それは事実だ。女装に限らず、人目を集めることそのものが好きではないクロードにとって、芸人などという職業は苦痛以外の何物でもなかったが、今はそれにも目を瞑るしかなかった。
クロードの心中の葛藤など知る由もないオーフェリアは、シザリオにカバンの中身を見せてもらって目を輝かせている。
頬が緩んだ。それに、クロードは少しだけ驚いた。

二章 1

 
 二章


  1

 
仮面に空いた二つの穴から覗く暗い深紫の双眸を、カイアスは見つめ返した。目が合ったのは一瞬で、またカイアスの周りをぐるぐると歩き回り始めた。身長は高くない。カイアスの胸より低い程度だ。髪は腰まで届きそうなほど長く生糸のように滑らかな金髪で、装飾の一切無いつるりとした仮面は白だった。時代遅れのマントを羽織り、見たことのない造りの剣を吊っている。それ以上のことは見て取れなかった。
 仮面の剣士から感じる視線は品定めをする人間のそれに近かったが、『商品』を値踏みする売人や傭兵の賃金を計算する査定官などのそれとはモノが違った。品定めというより品評に近い、とカイアスは思った。視線に一切の感情が無い。ただ純粋に点数を付けられているという気がする。
一瞬だけ見えた、あの眼の光が、カイアスの脳裏に焼き付いていた。
「うん」
 殆どつぶやくような音量だったのに、その声はよく通った。後ろから聞こえたから、声の主は仮面の騎士なのだろう。女と言われれば信じ込んでしまいそうなほど綺麗な声だった。
「合格ですか?」
 言ったのは部屋の隅でほとんど彫像のようにして突っ立っていた男だ。仮面こそしていないが、魔術学者のような帽子を目深に被っている所為で顔が見えない。部屋には十人近く座れそうな円卓が置かれていたが、今部屋の中にいるのは三人だけだった。
「ああ。ご苦労だった、ロベルト」
 小さく礼をして、男はまた彫像に戻った。今のやり取りからすると、彼はロベルトという名前なのだろう。
仮面の剣士の名前はわからない。
さっきまで反感しかなかったはずなのに、仮面の剣士の名前を知りたいと望んでいる自分に気が付いてカイアスは狼狽した。
 仮面の剣士が椅子に座った。部屋の中心にある円卓を囲んで並べられたの一つで、入り口から一番遠いところに置かれている。カイアスには、その椅子だけが少し豪華なように見えた。もしかしたら仮面の剣士の指定席なのかもしれない。
「座れ」
 仮面の剣士が言った。仕草で示されたとおりに、カイアスは仮面の剣士の正面に座った。大仰な格好には似合わない冷静な声だった。ロベルトは動かなかった。
「そうだな…」
 仮面の剣士が首を捻るような仕草をした。
「何が聞きたい?」
 予想外に問い返されカイアスは少し慌てた。今まで気にならなかったが、改めて考えてみると確かに疑問は山ほどあった。むしろなぜ今まで気にならなかったのかが不思議な程だった。
「あんたのことを何と呼べばいい?」
「私のことか。アスキアと呼べ」
 アスキア。
カイアスは口の中で小さくつぶやいた。他人のことを言えた義理ではないが、本名だとしたら変わった名前だった。言い方からしても本名という気はしない。
不思議と悪い名前だとは思わなかった。多分、死ぬまで忘れないだろう。
「種族はリントだ。厳密にいうとお前と同じ『白リント』だな。見ての通りだ」
 言いながら、アスキアは美しい金髪を掻き上げた。耳は丸い。耳たぶもあった。自称した種族はそれで証明された。
しかしそれも、アスキアの正体については何のヒントにもならなかった。
大陸には二十種以上の『人種』が存在していると言われるが、総人口の七割近くはリントと呼ばれる、尖っていない耳に耳たぶという独特の器官が付いている中型の種族だった。
当然、大陸の覇権を争う六つの大国もすべてリントが支配する国で、それは寧ろリントの生息範囲を『大陸』と呼称している――現に大陸の西端であるマグノリアより西には果てしない砂漠が続いていて、そこには飛竜と共に暮らす公用語を解さない人々が暮らしている――と言った方が正確な程だ、という程度のことはカイアスも承知していた。
リントは肌の色などの特徴で、大きく三つに分けられる。南に住む、肌が黒い〈黒リント〉と、中央から東海岸にかけての地域に住む〈黄リント〉、北部から西部にかけてすむ〈白リント〉だ。
内でも、白とかホワイトとか呼ばれる北方種は、人口こそ黄色に遠く及ばないものの他の二種に比べてかなり勢力が強く、マグノリアを含む四か国は白リントの国だった。無論その国の富の大半も白の連中が独占している。
 要するに、持ち物から考えてほぼ確実に金持ちであるアスキアが白リントであることは当然なのだ。むしろ黄色や黒といわれた方が何かのヒントになっただろう。
「結局身元がわからないじゃないか、という顔だな」
 考えを読んだかのようにアスキアが言った。カイアスは無言で頷いた。
「知らな良くていい。それから、君も名乗りたまえ。それが礼儀というものだ」
また無言で頷いてから、カイアスは自分がさっきから命令されてばかりであることに気が付いた。
それも、かなり高圧的で断定的な命令だ。気の荒い人間が多い傭兵相手にこんな命令をするなんて、普通なら血を見てもおかしく無いほどのことだった。
しかし不思議と腹がたたない。それどころか、命令されるのが当然だという気さえしてくる。
「君も名乗りたまえ」
「カイアス・マーシアス。種族はリントだ。見ての通り、白だ」
 カイアスは少しだけ自分の頭に触った。アスキアのそれとは似ても似つかない、くすんだ茶色っぽい金髪だった。今の今までずっと気にもならなかったのに急にこの髪が汚いもののように思えてきたのが不思議だった。
 アスキアは、了解したというふうに小さく頷いた。
「ここは?」
「エルシノア」
 驚いた。
エルシノアは九年前に殆ど灰になって以来、反乱勢力や地下組織が跋扈して治安が悪化しているとは聞いていたが、流石に大の男一人ほとんど拉致するような手段で捕まえてきて監禁していられる程の規模の組織が存在するなんて思ってもいなかったのだ。
ここにくるまで、カイアスは別の施設で軟禁されていた。ずっと目隠しをされていたので場所は判らなかったが、ここに連れてこられる直前に一度馬車のようなものに乗せられていたから、いくつもの施設に分散している組織なのかもしれないとも思った。
 端的な物言いだった。身なりから考えても、剣士は軍人だと思えた。それも生粋の軍人と思える。声からしても若いように思えるから、或いは軍人の家系なのかもしれない。
「今は何日だ?」
「悪いが、それはまだ教えられないな」
 答えられることとそうでないことがあるらしい。当然のことだった。
「じゃあ本題に移ろうか。ロベルト」
 ロベルトがアスキアの右隣に座り、帽子を取った。
「見覚えがあるな?」
 ぎょっとしたが、何とか平静を保って頷いた。確かに、あの夜カイアスを助けた男だった。
ぎょっとしたのは、彼こそあの夜の二刀流の男だと、そう本気で思うほど、ロベルトがあの男に似ていたからだ。
いや、よくよく見ると全く似ていない。眼も黒い。それでも似ている気がするのは、長い前髪の所為だけではないだろう。気配とか、空気とか呼ばれるものが似ているのだ。
「なぜ助けたかわかるか?」
 初めて、首を横に振った。ただの傭兵、それも単独で用心棒のような仕事をやっているようなはぐれ傭兵である自分を、わざわざ助けに来る理由などわかるはずもない。
「お前が必要だったからさ」
 微笑んで、アスキアが言った。顔の上半分が仮面の下になっているから、本当の表情は見えない。かろうじて見える口元も、動きらしい動きはなかった。それでも微笑んでいる。それがわかる、という気がする。
カイアスは、自分の中の何かが微かに熱を発したことをおぼろげに自覚した。
長い間眠っていた。それが、不意に叩き起こされた。という感覚がある。
「略奪を一切しようとしない奇特な傭兵がいる。なぜか一匹狼で用心棒のようなくだらない仕事ばかりやっているが、面白い男だから雇ってみたらどうだ?とある男に言われてね。ピンときたんだ」
「ピンときた、という程度のことで俺をわざわざ探したのか?」
「そうだ」
 毛ほどのためらいもなかった。ピンときたなどと軽い言い回しの割には、自分の判断に絶対の自信を感じさせる声音だった。
「三人死んだのは完全に予定外だったがな」
 付け足すように言った時、アスキアの声音はさっきまでの穏やかな調子に戻っていた。
 カイアスは、あの夜、眠らされる直前に現れた三人を思い出した。アスキアが言っているのはあの三人のことだろう。
 カイアスは一度口を開きかけ、そして閉じた。
ピンときた、という軽い表現が、これ以上突っ込んだ質問を拒んでいるように思えたからだ。多分アスキアは、答えたくなければ答えない。質問を変えたほうがいい気がする。
「何が望みだ?」
「仕事だ。それ以外、傭兵に対して望むものがあるか?」
「内容は?」
 回答はなかった。
アスキアの眼が、不意に異様に強い光を放った。
明るいわけでもなく、澄んでいるわけでもない。かといって一点の曇りもない。
強いて言葉に置き換えるなら、虚ろ。
それでいて、眼光だけが異様に鋭いのだ。
引き込まれるような、包み込まれるような気分に、カイアスはしばし包まれた。
夜のような、紫色の瞳だった。
「聞きたいか?」
 アスキアがやっと口を開いたのは、かなり経ってからだった。
カイアスはその間ずっと、アスキアに魅入っていた気がする。
 頷いた。本当に自然に、ただ頭が動いたという気がする。
「そうか」
 少しだけ、嬉しそうな声という気がした。
 また、沈黙。
ロベルトが一言も発していないことに、カイアスは気が付いた。
「国を奪う」
 アスキアが、ぽつりと言った。
小さな、独り言のような調子で。
 心臓が、一度大きく動いた。ロベルトがこっちを見ている。
「おまえ、本気なのか?」
「は?」
「今、やるって言っただろ?」
 そんなことを言ったのか。
自覚はなかった。ただ熱が躰中を駆け巡っているのがわかるだけだ。
 アスキアと目が合った。
紫色だ。夜より深い。
「やる」
 今度は、はっきりと自覚があった。
「どういう意味か解っているのか?」
 ロベルトだった。案外いいやつなのかもしれない。
「勿論」
「逆族の汚名を、末代まで被ることになる」
「そうだな」
「命の保証はないぞ?」
「そんなもの見たことも聞いたこともない」
「しかし…」
「俺は、傭兵だ。」
 まだ何か言おうとしているロベルトを目で制した。
「覚悟はある」
 それが一体なんの覚悟なのかは、自分でもわからなかった。ただそれが、確かに心に在ることがわかっているだけだ。
 くすりと笑った。アスキアだった。
「そうだな。そうだった」
 アスキアが立ち上がり、こちらへ歩いてきた。カイアスも慌てて立ち上がる。
 向き合った。
改めて見ると、アスキアはそれほど大きくなかった。
いや、寧ろ小さい部類に入るのかもしれない。完全に見下ろす形になった。
大柄な奴の多い白の中ではかなり小さい部類に入るだろう。頭の先まででもカイアスの胸あたりにしか届いていない。
見上げるように大きい気がする。
それくらいの、迫力があった。
無言で差し出された手を、握り返した。
全ての歯車が、噛み合った。
ただそう思った。
ずれていたという感覚があったわけではない。
ただアスキアの手を、小さく、その割には手の内側の皮の異様に厚い手を握ったとき、そう確信したのだ。
死に場所。
ずっと昔、誰かに教えられた。
それが誰だったのかは覚えていない。そんなことを覚えている暇もなかった。それでも、この言葉が頭を離れることはなかったという気がする。
死に場所こそ、本当の生きる場所だ。少なくとも俺たちにとっては。
そう言われた。
その意味が、ようやく本当に分かったという気がする。
 二度、握った手を上下に振って、アスキアは踵を返した。颯爽と、元の席に戻り、何事もなかったかのように座った。カイアスも、アスキアに倣って自分の席に戻った。
熱は、まだ躰を駆け回っていた。


「我々の目的は、国家の奪還だ。先王を(しい)し、マグノリアを我がものとした非道なるプロペスロー家から、この国を奪い返す」
 ロベルトが言った。
「そういう大義を掲げる、ということか?」
「違う」
 ロベルトが言った。今度は彼が話す番らしい。何か役割分担のようなものがあるのかもしれないとカイアスは思った。
「志だよ。これは」
「ココロザシ?」
「ああ、その通りだ」至って、真剣な口調だった「国家が国家で在り続けるために、百年先も三百年先もそう在り続けるために、その国の正統たる王家の血は必要なのだ」
「あれでもか?」
「………そうか」ロベルトが答えるまでに、少し間があった「お前はこの国の出身の人間だったな。それも、レイア王にかなり近い家の」
 カイアスは答えなかった。
たしかに、自分はこの国に住んでいた。九年前のまでことだ。
父は先王レイア・ヘイスティングの側近中の側近だった。マーシアス家は代々近衛兵を率いる家柄で、その宗家の嫡男だった父はレイア王と幼馴染でもあったのだ。
 しかしカイアスはレイア王に対して、いい印象は持っていなかった。年に何度かパレードや祝祭で見かけた程度ではあったが、子供の目で見てもあのでっぷりと太った王がいい王様であるとはとても思えなかった。
当時、国はとても乱れていたらしい。野盗が横行し、飢饉が起こり内乱紛いの戦いもしばしば起きたそうだ。
九年前のある日、マグノリア東部の大軍閥、プロペスロー家を中心とした勢力がクーデターを起こした。
何がクロディアス公にクーデターを起こさせたのか、本当のところは誰にも解らない。稀代の名将としてでなく、クロディアス公は忠義の家柄として知られた家柄でもあったのだ。
クーデター勢力は王族派に比べて兵数こそ大きく劣ったが、指揮官はは稀代の名将と称えられるクロディアス公だった。流石と言うしかない手腕で、クーデター派が完勝を収めた。
彼は軍を起こすや否や迅雷の速さで進軍し、当時の首都エルシノアを強襲して王を誅殺したのだ。
防備を整える暇すらなかった。
それをカイアスはよく覚えていた。
募兵の為に開けていた城門から少数の軍が、騎馬隊を先頭にして一塊になって突っ込んで来たのだ。その姿は、まさしく一頭の怪物のようだった。最初の防衛線は濡れた紙のようにたやすく破られた。
激烈な市街戦が起きた。
その中で父は死んだ。カイアスを庇ってのことだった。
母がどうなったのかは知らない。
カイアスが、混乱の中で共に逃げた傭兵に拾われたからだ。他に選択肢はなかった。当時、自分は十歳にもなっていなかった。
 それ以来この国には一度も来なかった。国が乱れていたこととか、エルシノアを強襲したのがクロディアス率いるプロペスロー家の軍だったこととかは、全て後から人づてに聞いたことだ。
当時は、敵だとしかわからなかった
「必要だ」
 アスキアが言った。彼が言うだけで、なぜか必要だという気がしてくる。
「皆人間だ。考えが一致することなどない。だから、一致していると定めたものを創る。国民の統合の象徴と言ってもいいだろう。必要なのは、それだ」
「それにもっとも相応しいのが王家の血筋であると?」
「その通りだ。人間にとって唯一絶対の価値の基準は時間だ。その洗礼を受けた正統の王家が、この国にはある。この国にだけは」
 確かに、他の国はもうずっと昔に王家が途絶えている。アスキアの言い方を借りるなら七百年もの時の洗礼を受けて、統一帝国の血族の王家を保っていたのはこの国だけになっていた。
「確かに、リーダーは必要だ」
 カイアスは言葉を選んだ。
「そういう傭兵団をいくつも見てきた。リーダーがいるときは真っ当なとこだったのに、リーダーが死んだとたんボロボロになる団とかな。見ただけじゃない。所属していた所がそうなったこともある」
 自分が今、苦虫をかみつぶしたような顔をしていることをカイアスは自覚していた。
「ヘイスティング家と言ってもいろいろいる。今はまだな。誰を担ぐつもりだ」
「ブレックス・アイリッシュ」
「なっ?」
 レイア王の頃の大将軍である。確か王の兄妹の一人と結婚していた筈だ。今どうしているのかカイアスは知らなかった。しかし、もう高齢なはずだ。少なくともカイアスの記憶にあるブレックスは既に老齢に近い将軍だった。
「知っての通りマグノリアでは、王位継承に際して男系より女系が重視される。継承権はあると言っていいだろう」
「しかし…」
「戦は、まあ、下手ではないが上手くもない人だな」
「だったら…」
「問題ない」
 アスキアに、手で制された。いつの間にか白い手袋をしている。握手したときには手の皮が厚くごつさすら感じたのに、手袋越しに見る彼の手はむしろ華奢な程で、どこか嫋やかですらあった。
「私がいる。ロベルトもいる。そのためにお前を呼びもした。算段はすでに整っている」
「あのクロディアスに勝つ算段が?」
 一度だけ、指揮を受けたことがある。数年前のことだ。カイアスはその時彼の軍の末端のそのまた末端に雇われただけだったが、それでも指揮下で戦争をやれば、ある程度指揮官の力量はわかるものだ。カイアスの目から見たクロディアスは間違いなく非凡だった。
「そうだ」
 自信満々、という感じだった。ロベルトだった。アスキアは長い髪の毛先を見ているようだ。枝毛があるとも思えないのに、なぜそんなことが気になるのかカイアスは不思議だった。
「で、俺は何を?」
「お前には俺の後任になってもらう。まあ精々、死ぬなよ」
 ロベルトが、白い歯を見せて言った。心なしか引き攣っているようにも見える笑顔だった。
「つまり、何をすればいいんだ?」
 金髪の毛先を眺めていたアスキアが、不意に顔を上げた。
「私の副官だ」

〈Never〉

う れ そ う に な い
というよりは、売れない条件を満たしている。

〈Never〉

大小合わせて20以上の種族が暮らす『大陸』は、700年前の統一帝国の崩壊と共に無数の国に分裂し、以来長きに渡る戦乱の世が続いていた。 その西端に位置する小国〈マグノリア〉の現王の庶子として王宮に引き取られた少年クロードは、冷や飯を食わされたままに欝々とした日々をただ空費していたが、ある日突然、父であり現マグノリア王でもある簒奪者クロディアス王から直々に、不可解な命令を言い渡される。 時を同じくして、仮面の剣士がマグノリアに現れ暗躍を始めた。そして、国家の存亡を賭けた遠大なる陰謀が動き出す……… 鉄と血と剣と魔法とリアリティーが織り成すハイスピード・バトル・ファンタジー!!

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-23

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  1. 序幕
  2. 二章 1