森に溶ける僕のからだ
第一章 洋一とツボミ
この森には生き物がいない。
俺は両足に力を込め、一歩一歩前へ踏み出した。地面から生えた細い草が足元に絡みついて妙に歩きづらい。
そうだな、生き物がいないというのは正確ではないか。俺の足の下でつぶれている雑草も、頭上を覆う大樹の鮮やかな緑の葉も、その幹に巻きつくツタも、確かに生きている。
それにしても、明るい。
生き物の住めない森というから、もっと陰気な場所なのだと思っていた。じっとりと湿った暗い森や、どこまでも続く荒廃。だけど、ここは違う。生い茂る葉の隙間から太陽が照りつけ、思わず目を細めてしまう。葉擦れの音を除けば辺りには音という音がなく、あまりにも静かで、降りそそぐ光の音さえ聞こえる気がしてくる。
黙々と歩くうちに、葉の間から見える太陽がいつの間にかずいぶんと高くなっていた。どれくらい歩いただろうか。森の入り口はとっくに見えなくなっている。俺は、動悸と足の疲労に耐えかねて木の根元に座り込んだ。
普段から運動不足なのは自覚している。けれどそれにしたって、どうしてこんなに疲れているんだ。今はまだ五月で、気温だって高いわけではない。だらだらと歩いてきただけなのに、心臓はまるでフルマラソンの後のように鳴り響く。俺のからだは満足に歩くことさえできないのか。
「本当に、どうしようもないな」
「どうしようもなくなんかないよ」
突然聞こえた少女のような声に、俺は身をかたくした。思わずもらした自嘲の独り言には、当然返答などあるわけがない。だってここは、生き物のいない森だ。
「こんな森の奥まで来たんだもん。どうしようもなくなんかないよ」
声は、楽しげに同じ言葉を繰り返した。ころころと響く、とても美しい声だ。まるで森全体が喋っているような、不思議に浸透する声だった。
俺は意識的に深い呼吸を一度して、体の緊張をほぐした。周囲を見回すが、声の主を見つけることはできない。
木の一本一本に目をこらしていると、俺の正面、三メートル程離れたところに立つ大木の後ろで、何かが揺れた。
それは、目の覚めるような鮮烈な赤だった。
赤い布が風に吹かれてひらひらとなびいていた。
静かな景色の中で、その鮮やかさは異様な存在感を放っている。まるで血の色だ。そう思うと、その色はますます鮮やかさを増して見えた。異質なようでいて、しかし自然とそこに存在する、生き物が流す血の色。
「あなたの名前は何?あたしの名前はね……」
姿を見せないまま、声だけが続く。木からのぞく赤い布は、おそらくスカートなのだろう。
「あたしは……」
鈴のような声が思案するかのように口ごもる。木の陰から出てくる様子はない。声もそれ以上続かなかった。
なんだか面倒なことになった。沈黙に耐えられなくなった俺は、とりあえず質問に答えてみる。
「俺の名前は榊洋一」
赤いスカートが僅か身じろぎをした。
「……あたしの名前は」
何か言葉を探すように、再び少女が口を閉ざす。風がやんでいた。森が沈黙している。自分の息と心臓の音以外、何も聞こえない。
「あたしの名前は、ツボミ」
名前を告げるその声は、今にも消え入りそうなほどか細く、しかし鮮明に耳に届いた。本当に不思議な声だ。喋っている相手との距離感も方向感覚も麻痺させてしまうような、現実味のない声。
「うん。あたしの名前は、ツボミ」
確認するかのように繰り返す少女の声には、もう迷いのようなものは感じられなかった。声は楽しそうに、再びころころと響く。
「自己紹介もしたことだし、そこから出てきてくれないかな?」
俺は努めて優しい声を出した。こんな森の中で、姿を見せようとしない少女を相手にするのは正直言って気味が悪い。
「ヨウイチがそれ以上近づかないなら、いいよ」
ツボミの声は、くるくると調子をかえる。初対面の俺を呼び捨てにする一方で、その声は慎重だった。怯えているようにも感じられた。自分から話しかけておいてなんなんだろう。顔をしかめながらも、俺は優しい声を出す。
「わかった。近づかない」
そう答えた瞬間、ひらりと、スカートが揺れた。木の幹に背中をつけて隠れていた彼女が、体をひるがえして姿を見せる。
思わず息を呑んだ。
少女の体が、血で濡れているように見えたから。
なんのことはない。それは、彼女が着ている真紅のワンピースだ。少しの飾り気もない、シンプルな半袖のワンピース。しかし、本当に一瞬、それが生々しい血のりに見えた。ぬらぬらとした、生温かい感触を思い出す。手のひらに嫌な汗をかいた。
一度、深く息を吐き出す。あれはワンピースだ。
「具合、悪い?」
ツボミが声をひそめた。心配しているというよりは、やはりどこか怯えているように見える。
俺は心の中で苦笑した。きっと自分はひどい顔をしていたのだろう。
「いや、疲れただけだよ。たくさん歩いたから。運動不足なんだよ」
彼女が、ゆっくりと首を傾ける。人形のような動きだ。見た目は高校生くらいだが、動作の端々が妙に幼い。
「普通の人間はもっと疲れるんだよ」
荒い呼吸を繰り返していたせいで、喉がからからにひからびている。
「……俺は、普通の人間じゃないってこと?」
「うん」
ツボミの頭がさっきとは反対方向に傾く。不思議そうに俺を見つめている。
ああ、やっぱりそうか。このこにも見えるんだ。俺の醜い姿が。だから彼女は隠れていたんだ。気持ちがずっしりと重くなるのを感じる。
俺は再び心の中で苦笑した。顔は無表情を装って。
彼女は、それ以上は何も言わなかった。近づいてくることも、離れていくこともない。ただ静かに、視線を漂わせていた。彼女の肌はとても白い。柔らかな黒髪からのぞく顔も、赤いワンピースから伸びる腕や足も、驚くくらいに白い。白を通り越して青く見えるほどの、不健康な肌をしている。
ふと、ツボミの足に目がとまる。彼女は裸足だった。一面に苔と草の生えた地面は、彼女の足を汚しはしないようだ。確かに、汚れてはいない。俺は目を細めた。その白い手足が妙にざらついているように見えたのだ。この距離でも確認できるざらつき。何が、彼女の肌を覆っているのだろう。
ぬるい風が、ひゅうとすり抜けていった。少女に影をおとしていた葉が揺れ、ほんの短い間だけ、彼女に強い光があたる。
その瞬間、見えてしまった。ツボミの肌を覆う無数の傷が。一つとして血を流しているものはない。ひび割れのような薄い傷。数えきれないほどの線が、彼女の体をざらつかせている。その傷までもが、とても白い。
「……ねえ」
明るい森の中、少女の白い手足は、気づかぬふりを決めこむにはあまりに露骨にさらされていた。
「それは、何かのケガの痕?」
漂っていた視線が、焦点を結ばないまま宙でとまる。ツボミは動揺する素振りは少しも見せず、ただ、少しだけ悲しそうな顔をした。
やはり突然聞いたのはまずかっただろうか。
「痕じゃないよ」
短い声が返ってきた。
「もう治らない。増えていくだけ」
「どういう、意味?」
「どんどん増えるの」
ツボミが、自分の二の腕をつまんで引っ張る。その途端、つっぱった皮膚が短く裂けた。裂ける音が、聞こえた気がした。
「これも、もう治らない」
彼女が自らつけた、真新しい白い線。そこからも、やはり血の赤は見えない。
俺の喉が、ひゅっと音をたてた。喉がひどく乾いている。
「……病気?」
少女は緩慢な動作で首を横に振る。
「違う。仕方ないの。治らないの」
「じゃあ、ええと、そんな薄着はよくないと思う」
俺は狼狽しきっていた。他に何を言えばいいのかわからない。心臓が、どくどくと不快な音をたてていた。とてもだるい。体の重さがどんどん増している気がする。
白い傷は、見てはいけないもののようで、しかし不思議に引き付けられた。立ち上がろうとする俺を見て、ツボミが一歩後ずさる。そういえば、近づかないと約束をしたんだった。
「大丈夫」
色の薄い唇がそう告げた。
「あたし、大丈夫。来ちゃだめ」
消え入りそうな声が、強く釘をさす。ツボミの瞳は黒くて大きい。その瞳に見つめられた途端、体中にぞおっと鳥肌がたった。まるで、異世界に迷い込んだような錯覚に陥る。
「ヨウイチ、やっぱり具合が悪そう。暗くならないうちに帰ったほうがいいよ」
「きみは帰らないの?」
「……」
ツボミは俺から目をそらし、ふいと横を向いた。
「ヨウイチ、明日もここに来る?」
答えではなく質問が返ってくる。
「どうだろう。君は明日も来るの?」
一瞬の沈黙の後、ツボミが唐突に踵を返した。そのまま俺に背を向け、森の奥へと歩いていってしまう。呼び止める間もなかった。ワンピースの背中はすぐに見えなくなり、あっけにとられた俺は静けさの中に取り残される。
部屋に戻るなりベッドに倒れこんだが、動悸は一向に治まらない。不思議なほどに体力を削られていた。
カーテン越しに午後の日差しが部屋を照らす。このまま寝てしまおうかと目を閉じると、暗闇の中に赤いワンピースと白い肌が浮かんだ。あのこはもう家に帰っただろうか。夢にしては生々しすぎる、森の出来事。
俺は、沈んでいくような眠気の中で苦笑した。
彼女は言っていた。洋一は「普通」じゃない。普通ではない自分を蔑む視線は、嫌というほど浴びてきた。あらゆる言葉で罵られた。
自分の何が相手を嫌悪させるのかわからない。自分のどこが普通じゃないのかわからない。どうしていつまでたっても諦められないんだろう。諦めてしまえば、そんな言葉の一つ一つにいちいち落胆したり、傷ついたりしなくていいのに。
あの森は、いい隠れ場所になると思った。息がつけると思った。でもそこには少女がいた。ツボミの目が俺を見る。まっすぐに俺を見ている。
苦しい呼吸を繰り返すうち、俺は夢もみない深い眠りについた。
「おい洋一、部屋にいるんだろ!」
部屋の扉を力任せに打つ音で俺は目を覚ました。確か帰ってきたのは午後二時頃。窓の方を見ると、カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいる。まだ夜にはなっていないようだ。
俺は重い身体を引きずって行って鍵を外した。途端に扉が勢いよく開く。
「お前ふざけんなよっ。今日は講義の前に図書館行く約束だっただろうが。発表の原稿はお前が持ってんだぞ!あー、もう。直前にもう一回打ち合わせときたかったのに。何だよ。何で一切連絡つかねーんだよ。寝てたのか!」
「え……、ちょ、ちょっと待って」
今にも跳びかかってきそうな友人を押しとどめ、混乱する頭で時計を確認する。
机の上に置かれたデジタル時計の表示は午前十時。次の講義が始まるまであと三十分。
ざあっと、いっきに血が下がっていく。
「うそ……。俺、そんなに寝てたのか?」
「知らねーよ!遅刻すんなよっ。原稿忘れてきたりしたらぶっ殺すかんな!」
派手な音を立てて閉められたドアを茫然と見つめ、それから俺は弾かれたように動き始めた。
うそだろ。二十時間も寝てたのかよ……。
第二章 友広と洋一
勘弁してくれ。俺は洋一の部屋の扉を乱暴に閉めて歩き出した。遅刻なんてしたことのないクソ真面目な奴なのに、どうして今日に限って……。
洋一が住んでいるのは大学の敷地内にあるボロイ学生寮だ。図書館でいくら待っても来る気配もなく、電話すらつながらない友人にしびれを切らして、親切な俺はあいつの部屋まで迎えに行ってやったわけだ。正直、あの洋一が約束をすっぽかすなんて、どこかでぶっ倒れてるんじゃないかと少し心配した。
それにしても……。
ついついにやけてしまう。洋一を責め立てたのは半分は演技だ。待ちぼうけをくらわされた友人として一応怒ったが、本当は面白くもあった。
洋一はいつも他人の目を気にする。積極的に人と関わろうとしないし、人に迷惑をかけるなんてもってのほかだと、いつも気を張っている。
あいつはもっと適当に生きるべきなんだ。寝坊だってたまにはすればいいし、俺に迷惑をかけたっていいんだ。まあ……、今回はちょっと、非常に困っているが。
「友広!」
背後からばたばたと足音がして洋一が追い付いてくる。俺はちらりとその姿を見て、わざとぶっきらぼうに言った。
「原稿、ちゃんと持ってきたか?」
「ああ、大丈夫。本当にごめん」
「まっ何とかなるだろー。後で飲み物でもおごれよー」
にやりと笑って顔を覗き込むと、洋一は心底すまなそうに俺の目を見返す。
「ああ、好きなものおごるよ。本当に、ごめんな」
「だーかーらー」
俺は大げさに呆れてみせた。
「俺は許すっつってんの。今お前が考えるべきことは俺のご機嫌じゃあない。いかに発表本番を乗り切るかだ。それに、俺が今までどれだけお前に迷惑かけてきたと思ってんだよ。たまには仕返ししてもらわないと、さすがに良心が痛む」
「……ごめん」
だからお前は、何に対して謝ってんだよ。つい強くなってしまいそうな言葉を飲み込んで、洋一の肩を軽くたたく。今回は迷惑をかけられただけでも良しとしよう。
洋一の住んでいる寮がいくら大学の敷地内にあるとはいえ、これから向かう講義室は敷地のほぼ反対側。広いキャンパス内をつっきるにはそれなりに時間がかかる。講義室に着いたのは授業が始まる五分前だった。
ほとんどの席が埋まった講義室を見わたし、空席をさがす。普段は半分も埋まれば良い方だが、今日は単位がかかった発表日だけあって、いつになく出席率が良い。
「あ、あの真ん中のとこ空いてる」
洋一をひっぱって教室の中央の席まで連れて行く。こういう人混みでは洋一はまったく役に立たない。人の顔を見渡すことができないのだ。つまり教室全体を見渡すことができないわけで、当然空席も見つけられない。
隣で必死に原稿を確認している洋一を横目で見てから周囲を見回す。右後方に目をやった瞬間、しまったと思った。
そこには林田という男が座っていた。引き締まった身体で短めの黒髪を自然に流した、スポーツマン然とした爽やか青年。認めたくないが、俺より少しだけイケメン。
俺は自分の赤茶に染めた髪をかき回し、小さく舌打ちした。どうして最初に気づけなかったんだ。洋一の様子を伺う。頼むから後ろを見るなよ。
林田の方は洋一にすぐ気が付いたようだった。さっき俺が後ろを向いた時、林田は射るように洋一の背中をにらんでいた。普段の好青年ぶりからは考えられないような冷たい目で。
俺が初めて洋一と会ったのは去年。大学の入学式の翌日だった。その日はオリエンテーションが午前中で終わり、一人暮らしのアパートに帰る気になれなかった俺は、キャンパス内を散歩することにした。
俺としては、うららかな午後の日差しを受けながらノートなんかを脇に抱えていかにもな大学生をやってみたかったのだが。あいにく大学はサークル勧誘の只中にあり、道は人でごった返していた。一度だけため息を吐いてから気をとりなおす。これもまた大学生活の醍醐味だ。
そう思って歩き始めたのだが、三十分とたたないうちに俺は音を上げた。一歩進むごとにやたらテンションの高い上級生に捕まり、まともに歩けない。何度も興味のないサークルのテントに連れて行かれ、メールアドレスを書かされた。きっとそのうち勧誘メールが山ほど来るんだろう。
本日二度目のため息を吐き、不本意ながらも活気溢れるキャンパスから退散することにした。
とりあえずこの人混みから逃れようと、建物の間の路地のような道に入る。ここをまっすぐ抜ければ裏門のあたりに出るはずだ。その道は両側にそびえる建物に日差しをさえぎられて薄暗く、大人二人が並んで歩くには少し狭かった。雑草が伸び放題で歩きづらいことこの上ない。先程までの喧騒が急に遠ざかった気がして、俺は身震いをした。足が自然に速まる。
森に溶ける僕のからだ