鬼
今日は節分。
私はそういった行事がある日に生まれがちな微かな高揚感を胸に、生徒たちの待つ教室の戸を開いた。本当は歴史の授業なのだが、急きょ昔話をすることにしていた。節分の鬼にまつわる話だ。私が最も得意とする、お気に入りの話である。教科書は順調に進んでいるから、一回分くらいどうということはなく、なにより「話したい」という胸の内の衝動を抑えることはできそうになかった。
チャイムの余韻がかき消えると同時に、私は口を開いた。
「今日は節分ですから、節分にまつわる話をしましょう。皆さんは」
「先生ぇ」
近藤君が私をさえぎった。彼は私が苦手とするタイプの子だ。都会からの転校生にありがちな、古い文化を馬鹿にするような態度が鼻につく。
「俺ら中学生っすよ。なんでいまさらタルい話なんか聞かなきゃなんないんすか。豆まきならわかるけどさぁ」
ちょっと近藤君、と隣の及川君がたしなめたが、彼はまったく意に介していないようだ。へらへらと笑いながら周りの子に「だろ?」と同意を求める。彼の取り巻きらが同調してざわめいたが、私は予想していた質問だったので落ち着いて答えた。
「もちろん、わかっています。でも、とても面白い話ですから聞いてくれませんか。もし嫌なら寝てもいいですよ」
後悔しないなら、と付け加えると数人分の忍び笑いがもれた。
私は気を取り直してまた語り始めた。
皆さんは、昔話などに出て来る鬼を知っていますよね。今日お話しするのは、人食い鬼の話です。
人食い鬼というのは、武士が台頭する以前からすでに人々の間で怖れられていました。暗い夜道を一人で歩けば、鉈や包丁なんかの刃物、もしくは鋭い爪で引き裂かれて生き血をすすられ、喰われるのだと。
当時は「百鬼夜行」という言葉に表されるように、たくさんの妖怪がいると考えられていましたし、暗闇というのは、人にありもしないモノを見せますから、そんな鬼の話が生まれても別段、不思議ということはありません。けれど、火の無い所に煙はたたぬ。何もないところから、ひょいと人食いの話が生まれるでしょうか。そんな恐ろしい発想、実際に見でもしなければ考えつきもしないものです。……何が言いたいか、もう分かりますね?
そう、本当に人食いはいたのです。
動物でさえ共食いをするのですから、人間がしてもおかしくはありません。人食い鬼の話が全国的に広まっている事を考慮すると、広範囲にわたって「鬼」と呼ばれる者たちが存在していたのでしょう。
彼らは元々、ごく普通の農民たちでした。しかし度重なる飢饉で飢えのあまり、死んで間もない骸に手を出し始めました。もちろん宗教的にも許されないことですし、人道的にもおぞましいことですから、彼らにしてみれば一時的な緊急の措置だったわけです。暖かくなって作物が育てられるようになるまでの。ところが、一部の人々は暖かくなっても死肉漁りをやめようとはしませんでした。贅沢な肉の味を覚えてしまった彼らは、次第に新鮮な血肉を求めて民家を襲い始めました。知人が、息子が、一夜にして敵に転じます。増え続ける犠牲者と、裏切られる恐怖に、人々はやがて固く門扉を閉ざし、震えながら一日を過ごすようになりました。
さて、その頃、ある村に一人の長者がおりました。長者には三人の息子がいましたが、末の息子だけは何をしても失敗ばかり。性格も頭も悪いもので、しょっちゅう問題を起こしては、引きこもりがちな村人を困らせていました。いたずらに評判を下げる末息子が腹にすえかねた長者はとうとう十五歳の誕生日にその息子を勘当してしまいました。
しかし、何不自由ない暮らしをしてきた末息子は、食べ物をどうやって手に入れるのかわかりません。ほとんどの民家が人食いを恐れて締め切っているせいで、食べ物を分けてもらうことなど不可能でした。しかたなく山の洞窟を根城に決め、食べ物を探して歩く生活を始めました。
初めのうちは木の実やキノコ、畑から盗んだ野菜で食いつなぎましたが、そこは食べ盛りの十五歳。次第に肉が恋しくなってきました。それでも動物を狩る方法などわかりませんし、知っていたとしても捕まえられなかったでしょう。我慢するしかありませんでした。
そうして一ヶ月経ったある日、いつものようにキノコを採っていると、不意にがさりと音がして飛び上がりました。獣か、それとも盗みがバレたのか。嫌な予感ばかりが頭をかすめますが、それきり何も聞こえないので、徐々に好奇心がわいてきました。息を殺し、物陰からそっと音のしたあたりをのぞき見ると、誰かが倒れているのを見つけました。ゆっくりと近づいてみると、そこそこ若い男で、虫の息といった具合でした。しかし不思議なことに、大規模な飢饉にもかかわらず、この男は肉付きが良く、顔色が悪いのを除けば健康体そのものです。村の食料は底をついていて、贅肉を作る余裕はないはず。息子が首をひねっていると、男はうっすらと目を開け、かすれた低い声で言いました。
「おい、おめェ、誰だ」
「おれは長者んとこの末息子だ」
息子の答えに、男は小さな笑い声を上げました。
「あァ、あの勘当されたバカ息子か。その顔は、肉に飢えてるってツラじゃねェのか?」
息子が素直にうなずくと、男は震える手で自分を指差しました。
「そんなら、俺を食え。俺ァ、もうすぐ死んじまう。今まで散々、食ってきたんだ、最後に食われてみるのもいい」
思いがけない提案に、息子は唖然としました。今まで人の肉なんて食べようと思ったことはありませんし、気色悪い。しばらくどうしたものかと悩んでいましたが、その間に男は、「あばよ、バカ息子」と言って死んでしまいました。息子は気でも紛らわそうと、とりあえず目の前の死骸を物色し、男のふところからよく研いである包丁を見つけました。さらに、火打ち石まで見つけました。ちょうど近くには枯れ葉の山。ここまで用意がいいと、食べずにいるのは不自然な気がして、息子は結局、男を切り刻んで食べてしまいました。
腹が膨れると、頭も働いてきます。息子はふと、この男が噂の人食い鬼なのでは、と考えつきました。そう考えれば、包丁や火打ち石を持っていたことも納得がいきました。その人食い鬼の死は、もう鬼に怯える必要が無くなったことを意味しますから、息子はやっとまともな物が食べられると思い、村へ行って嬉々として叫びました。
「鬼は死んだぞォ、鬼は死んだぞォ!誰かおれに食い物をくれェ」
息子は嬉々として近くの民家に歩み寄りました。
「おれだ、長者んとこの息子だ、食べる物をくれよ」
するとサッと戸が開いたと思うと、罵声とともに石のつぶてが息子を襲いました。
悲鳴を上げて後ずさる息子に、人々は家から飛び出して石を投げ付けました。
「出てけ、鬼め!」
「化け物!」
「息子を返せ!」
息子は気づいていませんでしたが、髪や髭が伸びて人相が変わっていた上、男を食ったときに付いた血で服が赤く染まっていた息子は、人々にとって長い間苦しめられてきた鬼にしか見えませんでした。
事情を理解できない息子は、傷だらけになりながら山の方へ走っていきました。
村人は、ようやく訪れた平和に歓喜の叫びを上げました。
その後も鬼はたびたび現れましたが、人々はその度に石を投げつけて追い払い、ついにある年の節分を最後に二度と現れなくなりました。ほぼ同時期に、鬼と思われる屍が山で見つかったそうです。毛むくじゃらで、血で変色した服をまとったその鬼がいったい誰なのか、村人にはわかりませんでしたし、興味もありませんでした。鬼が死んだという事実があれば、それで十分でした。
彼らは、再び同じような悪夢を見ないよう、その後も石の代わりに豆をまいて、人喰い鬼の戒めを幼子に伝えていったそうです。
「鬼は外、福は内」
余談ですが、この掛け声は「鬼は家から追い出し、福の神を家に迎える」という意味で使われていますが、もともとは「鬼を村の外へ追い払うと、平和が家に来る」という意味だったそうですよ。
これで、鬼の話はおしまい。
一気に話を終え、私は深呼吸した。壁の時計を見れば、残り20分だった。
ここまでは順調に終わった。あとは、待機しているはずの校長先生次第だ。
生徒は皆、黙っている。予想外の話に戸惑っているらしい。近藤君でさえ、軽口を叩くのはためらわれるようだ。しかしそんな空気にも頓着せず、のん気に爆睡している子もいる。
教室の戸をさりげなく窺うと、すりガラスの向こうで影が動くのが見えた。準備が整った合図だ。鼓動が早まるのがわかる。
私はわざと明るい声を出して、生徒を現実に戻した。
「どうでしたか?やっぱりつまらなかったかしら、えっと、及川君?」
近藤君の隣で、彼は複雑な表情を見せた。
「初めて聞いた話なんですけど、なんだか意外で……でも、おもしろかったですよ」
何人かが同調してうなずく。私はおもむろに立ち上がって扉の前に行き、微笑んで取っ手に指をかけた。
「それなら良かった。さて、またおもしろくないと言われそうですが………スペシャルゲストの登場です。どうぞ!!」
がらりと扉を引くと、スタンバイしていた校長先生が教室に飛び込んで来た。知った顔で、だるそうに扉を見ていた生徒たちは、校長を見てニヤニヤと笑いあった。赤い体と包丁を持った、典型的な鬼の姿だ。近藤君がわざとらしく手を上げた。
「先生ぇ、豆はいらないんですかぁ」
私は答えなかった。
校長はバカにしたように笑う近藤君を睨みつけ、獣のようなうなり声を上げて、近藤君の喉に刃を突き立て、すぐに引き抜いた。断ち切られた頸動脈から血が噴き出す。近藤君は「ぎゃあ」というような言葉を叫んで痙攣すると、動かなくなった。生徒たちは良くできたパフォーマンスだと思ったのか、近藤君をからかうような言葉を発していたが、彼の周りにいた女子生徒が、近藤君の血を全身に浴び、悲鳴を上げた。校長は間髪いれずにその女子生徒の喉をかき切って悲鳴を封じると、傷に口を当て、血をすすった。腕や足を慣れた手つきで切り落とし、血の滴る肉を頬張る。寝ている生徒は次々と狙われ、教室に地獄絵図が繰り広げられた。まるで鬼のようなそのおぞましい所業に、生徒たちは教室の隅に群れて震え、何人か気を失っていた。
いまだに事情を理解できていない生徒たちに、私は静かに語りかけた。
「鬼は今もいるんですよ。あの末息子、そして他の地域にいた鬼たちの意志は脈々と受け継がれて、人を食らうのです。ただ、彼は特別」
私は優雅な手つきで鬼と化した校長を指差した。
「数いる子孫の中で、彼だけがあの末息子の直系なんです。節分の後、末息子が人食いの欲望を押し殺し、隣村の娘に婿入りして生まれた子供達の血を受け継いでいる。もちろん、血脈だけでなく、村人に迫害された末息子の怨念もね………」
恐怖に引きつる子供たちの顔を眺め回し、私は満足感で満たされていた。
わざわざ教員免許まで取って、長年待った甲斐があった。これでまた新しい話が、語り部である私によって語り継がれていくのだ。人食い鬼の伝説はメビウスの輪のように、永遠に続いていく。
私は、不幸な子羊たちに最後の種明かしをしてやることにした。さっきから鬼の鋭い視線が、私をせかしていた。私が語り部の役目を終えるまで手を出さない契約なのだ。何人かつまみ食いはされたが、それは許すとしよう。
「あぁ、言い忘れましたが、先程の話の舞台となった村は、丁度この地域にあったんですよ。校長は、先祖である末息子の怨みを晴らすために、数年前からこの中学校に潜り込み、村人の子孫である君たちに復讐することを計画していました。勿論、私の手引きがあったのは言うまでもありませんが」
狼の微笑に怯える子羊。
本当の鬼は私なのかもしれないと、ふと思った。
だが今はそんなことはどうでもいいのだ。私はサッと手を振り、校長に合図した。瞬時に床を蹴って間合いを詰め、バネのように獲物に襲い掛かる。彼を目で追いながら、私は次の瞬間に始まる惨劇に胸を躍らせた。なんと肉厚なストーリーだろう!決して珍しいプロットではないが、私の芸術的な表現を加味すれば、かつてない恐怖と興奮を聞き手に与えることは可能だ。
興奮する私の二つの眼は、校長の手がのけぞる及川君の首にかかるのをとらえた。校長の目が鋭く光り、包丁が振り上げられる。だがその時、場違いなほど凜とした声が教室に響き、予想だにしていなかったことが起こった。
「鬼は外!」
校長のすさまじい悲鳴に、バラバラと何かが床に散らばる音が重なった。戸惑う私の瞳に、豆を握りしめ、肩を上下させる及川君が映った。他の生徒も皆、我に返ったようにポケットに手を突っ込むと、倒れた鬼に向かって豆を投げ付けた。
「鬼は外!」「鬼は外!」「鬼は外!」「鬼は外!」「鬼は外!」「鬼は外!」「鬼は外!」「鬼は外!」「鬼は外!」「鬼は外!」
校長は潜在的な恐怖に床をのたうちまわり、苦しげな叫び声を上げて何もかも放り出すと、止める間もなく窓を破って外へ飛び出した。一拍置いて破裂音が聞こえ、体組織が砕け散ったのが見ずともわかった。
及川君は窓のそばに落ちていた包丁を拾い、慣れた手つきで血糊を払った。いつの間にか、私の周りを生徒たちが取り囲んでいた。誰の顔もギラギラと憎しみに輝いていた。
及川君は一歩前に出て私と対峙し、子供らしさが残る唇を開いた。
「先生―――いや、語り部さん。あなたたちは失敗を一つした。鬼の意志が受け継がれてきたように、仲間を殺された村人の怨みも僕らにしっかり遺されているんだ。あなたのした話は知らなかったけど、僕らはいつ鬼に襲われてもいいよう、いつもお守り代わりの豆を持ってるのさ」
私は、何かが乗り移ったように態度を豹変させ、くるくると包丁をもてあそぶ及川君の様子に、自分の運命を悟った。
今まで鬼やその他、悪役と言われる者に加担してきた天罰だろうか。だとすれば、しかたあるまい。しかし、急激に冷めていく胸の中に、少しだけ悔やまれることがあった。私は子供たちの顔を見ながら、ゆっくりと言った。
「今日の話が誰にも語られないことが、語り部としては非常に残念で心残りです」
一度言葉を切って深呼吸すると、身体の緊張が解けて穏やかな微笑みが自然に浮かんだ。私の表情の変化に、不思議そうな顔をする生徒たちに、「ただ、」と私は最後になるであろう言葉を告げた。
「ただ、何故でしょうね。今、一人の先生としては、多くの教え子が生き残ってくれたこと……そして皆さんの強い力を見れたことが、とても嬉しいんですよ……」
目頭が不意に熱くなった。
半透明の膜の向こうで、及川君が腕を振り上げるのがわかった。私の知らぬ間に大人びた声がつぶやく。
「語り部さん。この話は、僕たちがちゃんと伝える。約束します。そして…………先生」
私は目を閉じ、耳に全ての感覚を注いだ。
「僕らは、先生が、大好き………です」
ほんの少し湿っぽくて、けれどこんなにも温かい言葉を最期に聞けるなんて。そして、自分が例え仮の姿でだったとしても、愛していた生徒たちに断末魔を聞いてもらえるなんて。
異常だと自分でもわかっていたが、私の身体は幸せに満ちていた。
『さようなら、…………さん』
彼らは誰に別れを告げたのだろう。
忌むべき語り部の魂か、それとも…
私の視界は一足早く真紅に染まり、答えを知ることは二度と無かった。
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週刊 ## 特集記事
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殺害された〇〇教諭は生徒の人気も高く、現場に居合わせた少年の一人は、
「とても、悔しいです」
と涙を見せた。
(→3、32ページに関連記事・コラム)
―終―
鬼
2007年初出と記憶しているのですが、ファイルが壊れていて詳細不明。個人サイトを閉鎖予定のため移動。
もう10年前になるのか……と切ないです。拙いのは仕方ないとしても、当時からほとんど文章力が変化していない気がしてより一層切なくなりました。
こんなものを載せていいものか迷ったのですが、生暖かい目でどうぞ、暇つぶしにでも。