夏美

一 昭和52年

 あたし、倉田夏美。名前見て8月生まれって聞く人がいるけど残念、7月31日生まれ、しし座のO型。
今年から県立一商の一年。県立第一商業高等学校、全部書くと長くてめんどくさいよね。この学校一応は共学なんだけど、このクラス35人で男子なんと9人! 



1 4月

 入学してすぐのガイダンス。そこで色んなクラブの案内があって、それで“料理研究会”に行ってみたらびっくり。同じクラスの山崎由子ちゃんと佐久間礼子ちゃんがいたの、それでみんなで入ることにしたんだ。
中学の頃ね、あたしが料理するって言うとみんな驚くのよ。イメージに合わないって。でも、あたしはお姉ちゃんと交代で食事当番をしてる。お母さんの仕事が忙しくって、夜遅くなる日もあるし、お姉ちゃんも仕事してるから。だって、お父さんはあたしが小学校の時に亡くなっちゃったからね。
あ、暗い話でごめんね。でもそんなんで、結構料理するの好きなのよ。


 その日、礼ちゃんと由ちゃんと一緒に熊田書店に行ったの。駅前の7階建てのビルが全部本屋さん。結構ここ好きなのよね。特に7階の洋書コーナーのクックブックなんかながめるの。
商業簿記とか結構むずかしくって参考書を見に行ったの。そうしたら他校の男子が、礼ちゃんに話しかけてくるのよ。ちょっと背が高かったけど後は普通。でも、一緒にいたセントバーナードみたいな男子、ちょっといいかも…。



2 夏休みには

 夏休みの悩みの種って言ったら宿題よね。礼ちゃんにヘルプの電話したら、お母さんが出て、盲腸で入院したって言うから、由ちゃんを誘ってお見舞いに行ったの。

 見ちゃった…。礼ちゃんのベッドに関工大付属の彼が腰掛けて礼ちゃんとぴったりくっついて…宿題してる。
 あんまりお邪魔すると悪いから、すぐに帰ったんだけど、思い出した。この間のセントバーナードさんのこと聞けばよかった。またお見舞い行こ~っ。



 礼ちゃんから電話があったの“明日なんか予定ある?”って…。セントバーナードさん紹介してくれるって。やった~! 

 その日、礼ちゃんと駅前で待ち合わせして約束の店へ。結構ドキドキ…洋服、ヘンじゃないよね…。
それから4人で映画に行ってお茶して、それから礼ちゃんの彼が“牛山、送ってってやれよ”って…バス停まで送ってもらうつもりだったけど、家の住所を聞いたら県道を挟んですぐ近くなの…学区が違うから小学校が別だったんだね。それで一緒のバスで帰る時に電話番号を交換して、家の前まで送ってくれた。…電話してくれるかな…。それにね、牛山さんて大きい。あたし肩までしかない…なんか、あたしの小っちゃいのが強調されてるみたい…。

 それから何回か電話があったんだけど、なんかダメっぽい…。あんまり話が続かないの、あたしが一方的にしゃべってるみたい…。



 新学期ってなんかダル~な気分だよね。いつものバス停、いつものバス、学校。
でも…なんで牛山さんがこのバス停にいるの?
「あの…おはようございます。でもどうして…?」
「市内循環は、どこから乗っても定期同じだから。」
うわぁ~! 市内循環バス、えらい!!!! バス会社、えらい!!!! 
その日から同じバスで行くようになったの。

 それからね、牛山さんて英語も数学もすごいの。宿題も課題も…お陰であたしは…えへへ。
それにね、牛山さんのお母さんのクッキーがすごいの。歯ざわりが“サクッ”って、すっごくいいの。バターの入れ方にコツがあるんだって、こんど教えてもらうことになったの。



3 学園祭の季節

 10月の日曜日に関工大付属の学園祭があるって、牛山さんは、空手部でなんかやるみたい。もちろん行く、礼ちゃんと一緒に。

 関工大付属の学園祭って結構にぎやかなんだ。空手部の場所を探して歩くとアナウンスで、空手部の演武が始まるって聞こえた。急がなきゃ。

 演武が始まって、いよいよ牛山さんの出番。空手って分からないけど、すごい気合が伝わってくる。牛山さんの前にバットと木の板、掛け声とともにバットも板も真っ二つ。思わず「牛山さ~ん、すご~い!!!!!」って叫んじゃった。
演武が終わったんで部室に押しかけちゃったら…
「お邪魔しまぁ…」
「牛山ァ! 貴様、女連れでチャラチャラしやがって!」
えっ?! 怒られてる? あたしのせい? あっちゃぁ~。
「失礼します!」
「何だお前は?」
「倉田夏美です。女連れでとおっしゃいましたが、大山倍達さんだって、喧嘩十段の芦原さんだって結婚しています。女連れです。」
ぁ?!…雰囲気…まずいかも…。
またやっちゃった? この性格どうにかしないと…。

「面白いお嬢さんじゃないか、牛山。」
えっ?! だれ?! このヒゲのおじさん。
「よく知ってるなそんな話、空手好きかい?」
「いえ…でも“空手バカ一代”全部読みました!」

…爆笑? なんで? あたし、ヘンなこと言った?

「負けたぞ。おい牛山、案内してやってこい。ただし、道着でだ。」
「押忍!」
やった!
「はい、行ってきます。」

 それから2人でいろんなとこを見て回って、うれしくって腕にぶら下がっちゃったりした。


 学校の門で牛山さんを待ってた。礼ちゃんと彼氏さんには、先に帰ってもらっちゃって、牛山さんと帰ったの。でも、家に近づいてから気が付いた、あたし今日の食事当番だった。
「俺、1つ手前のスーパーで降りるよ。今日は両親が出かけているから、弁当でも買って帰る。」
「じゃあ、あの…牛山さん。うちで晩御飯食べていきませんか。今日カレーにする予定なんです。」
うわっ、言っちゃった…結構大胆だよね。
「いいよ…悪いから」
「大丈夫です。何人前作ったって手間なんか変わりませんから。」
言ってから気が付いたの、あたしって常識無いのかな? だって男子と二人きりになっちゃうんだよ。お母さん達が帰って来るまで時間あるんだよ。でも…。

結局、牛山さんはあたしの家で晩御飯を食べてもらうことになったの。

「出来るまで、テレビでも見てて下さいね。」

 ジャガイモは一番初めに皮をむいて、急ぐからちょっと小さめに切る、お鍋に水と一緒に入れて火にかける、下味代わりにカレー粉とコンソメをちょっと。
 ニンジンは銀杏切りにして、玉ねぎはくし切り、どんどんお鍋に入れる。ローリエのパウダーを一振り。鳥肉はカレー粉で下味をつけてフライパンで炒めてから。それと…えへへ…ハートのクッキー形で抜いたニンジンをキャセロールに入れて、カレー粉を振って水をちょっと、ふたをしてレンジでチン…煮崩れちゃったら悲しいもんね。
 最後にハートニンジンを味噌漉しに入れてお鍋の中で味を調える。くつくつ煮込む間にサラダの準備、レタスとキュウリを切って氷水で冷やしてサラダボウルへ、トマトを切って飾れば完成!

 お皿にご飯を盛ってハートのニンジンを載せる…気付いてくれるかな…カレーをかけて…
「お待たせしてすみません。何杯でも食べて下さいね。」
ハートのニンジン、かわいいって言ってくれた。作った甲斐があったよ~。
でも、途中で気が付いたの…ご飯が足りないって…2合近くあったのに…うちは、女3人だから量が少ないのかな…。
もしかして…
「牛山さん。まだ、おなか入ります?」
「うん、まだ大丈夫。」
あっちゃぁー、加減がわかんないよ~。
「スパゲッティーでいいですか?」

 給湯器の温度を最高に上げて、お湯で鍋を暖めて、鍋の底の水を拭いたらお湯を入れて火をつける。
 お湯が沸くまでに、タマネギを細目のくし切りにしてフライパンへ、ソーセージは輪切り。オリーブ油を入れて炒めて、タマネギが透き通ってきたらシメジを入れてまた炒める。
 お湯が沸いたらお塩を指3本ですくって入れて、パスタを…どの位にしよう、とりあえず200g…これって結構あるよね。

 ゆでている間にソースの仕上げ。
 手抜きモードON!…だって急いでるんだもん…レトルトのナポリタンソースを温めずにフライパンへ、ケチャップとコンソメと塩コショウで味を調えて煮込む。隠し味にお砂糖とウスターソース、おいしくなるんだよ。パスタはアルデンテの3歩くらい手前で、鍋から直接フライパンへ。ソースの固さを見て、鍋のお湯をちょっとフライパンへ足す。ソースで煮込んでアルデンテ! バジルパウダーをちょっと振って完成!
「お待たせしました。」
 …200g全部食べちゃった。でも“おいしかった”って。やったー!



4 お弁当

 明日から2日間牛山さんは大会、お弁当作っちゃう。でも…どの位作ったらいいのか分かんない。

 そうだ! いいこと思いついた。
 さっそくお買い物。お肉屋さんと業務食材のお店。
 お肉屋さんでカツを見たんだけど、トンカツってやっぱり高いよね、だからハムカツ。おまけしてもらっちゃった、ちょっと得した気分。

 それから、業務食材のお店で使い捨ての大きなタッパー。それで、お店の中を見て回ったら、結構安い。うちは女3人だから、こんな大きなパックでは買わないけど。
見ていたら思いついて、赤いソーセージの1kgパックと冷凍ブロッコリーの1kgパックと塩昆布と鮭フレークも買っちゃう

 夕食の片づけが終わったら準備開始。
炊飯器にお米を入れて、お塩を一つまみにサラダ油をぽたっ。こうするとピカピカのご飯が炊ける。そう言えば、一升炊くのって初めて。

 明日は7時に学校集合って言ってたから、6時半前には家を出ないと間に合わない。目覚ましを3時にセットしてお休みなさ~い。

 起きたらさっそく開始! 鍋に水を入れて、沸くまでの間に包丁で、タコさんウインナーの準備。
 新聞紙を広げて、その上にキッチンペーパーを敷く、全部キッチンペーパーじゃもったいないもんね。
 フライパンにサラダ油をたっぷり、ソーセージを入れてタコさん大軍団! 出来上がったらキッチンペーパーの上で油落とししながら冷ます。
 ブロッコリーは塩とコンソメとコショウを入れてゆでる。茹でてる間におにぎり種の準備、塩昆布と鮭フレークをお皿の上へ。茹で上がったブロッコリーはザルでお湯を切ってからキッチンペーパーの上で水抜きしながら冷ます。

 ここからが本番。おにぎりタイム!
 1升のご飯て何個になるんだろう。がんばって作ったけど、途中で…手が熱いよ~…水で手を冷やしながら作る。
そうだ!ちょっとイタズラしちゃおう。冷蔵庫からタラコを一切れ、小皿にほぐしてカイエンペッパーをたっぷり、箸で混ぜてちょっと置いて水抜き。おにぎりも最後の1コ、特製タラコをおにぎりの中へ…大当たり完成。
最後にハムカツを半分に切る。

 あとはタッパーに詰めるだけ。ブロッコリーもタコさんもいい具合。
おにぎりは、まだ暖かいから蓋をするのは最後に。

 時計を見ると6時5分前。もう一度顔を洗って髪を直す。後は着替えをして…。タッパーをラップで巻いて段ボール箱へ。昨日お店で入るのをもらって来たの。

 あっと…絶対忘れちゃダメな紙袋…おとといから大きなスポーツタオルを洗って柔軟剤しっかり、仕上げにコロン。全部自転車に積んで学校へGO! 


 揺らさないように来たから結構な時間掛かっちゃった、もう7時10分前。牛山さんを探すと、見つけた! 
手を振ったら気づいてくれて走って来てくれる。ドキドキが止まらない。紙袋を渡して。
「おはようございます。これ、使って下さい。タオルです。」
それから小っちゃな声で…
「頭に海苔の付いたおにぎりはハズレだから。絶対に食べないで下さい。」
「???」


 自転車からダンボールを降ろして、バスに向かう。
「この間はお騒がせして、すみませんでした! おにぎり作ってきました、皆さんで食べて、頑張って来て下さい!」
「ウォ~ッ!」
一斉に遠吠え?…動物園みたい…って失礼かな?

「お前ら、何騒いでんだ?」
この間のヒゲのおじさんだ。
「先日は済みませんでした。あの…おにぎり作って来ました。よろしければ、皆さんで召し上がって下さい。」
「それは…いや、ありがとうございます。」
「あの…あたし、失礼します。」
自転車で帰ろうとしたとき気が付いたの…言い忘れた事を。
「おにぎりの中に1個、アタリがありますから、気を付けて下さ~い!」



 大会どうしたかな、もう牛山さん家に着いたかなって思ってたら…ピンポ~ン! 
「夜分失礼します。牛山と申します。」
わぁっ、牛山さんだ! 玄関へダッシュ!
「これ橋田師範から、弁当のお礼だって。」
そう言って袋を渡されたの。
「それから、これ俺から」
小さい紙袋…何…
「あと…ありがとう。おいしかった、」
喜んでもらえたんだ…余計な事したかなって思ってたけど…よかった。

 橋田師範さんから頂いたのは、苺のタルト…試合に言った所は、苺の名産地なんだって。今度一緒に行きたいって…。
牛山さんのは、苺のキーホルダー、さっそく家の鍵をつけちゃう。



5 牛山さんとカレー

 英文和訳ってキライ。だから今日も…だって5ページもあるんだもん…牛山さんの家に付いて行っちゃった。
なんかお母さんが家にいるっていいな。あたしのお母さんやお姉ちゃんは働いている。だから、あたしも家事したりしてる…。

「夏美さん、良かったら夕食一緒にいかが。カレーなんだけど。」

 えっと…今日の夕飯はシチューで、ゆうべから作っておいたから、温めるだけで食べられるし、コールスローサラダは冷蔵庫で、パンもあるから大丈夫…だよね…。

「いいんですか? じゃあ、お手伝いさせて下さい。」

 お鍋はシュウ酸鍋、多分28センチ。大きいよね…なんか血が騒ぐ…なんてね。
 タマネギは、大きいクシ切り。
 ニンジンの皮はピーラーで剥いてる…そうか…大き目の乱切りにするんだ、ジャガイモも大きい。
 お肉も大きいし、豚バラだ。ニンニク…みじん切りで結構いっぱい。お肉と一緒に鍋に…片手の圧力鍋だ、欲しいけど結構高いんだよね、…お肉とニンニクにコショウ、カレー粉入れて、煮て、おツユごとお鍋へ。おいしそう、お野菜ゴロゴロでいっぱい。

「夏美さん、味見してみて。」

 一口いただくと…えっと…すっごく力強いの。一度食べたら絶対忘れられない、そんな感じ。ちょっと辛かったけど、あたしのカレーじゃ物足りなかったかな?


「ただいま。」
「おう、兄貴。」
「おう謙吾、あ…もしかして…」
「あの、倉田夏美と申します。」
「えー! 橋田師範が女傑って言ってたから、プロレスラーみたいなのかと思ってたけど、こんなに小っちゃくって、かわいいとは思わなかった。」
(小っちゃい? あたしには禁句よ…でも、かわいいって言ったから前半は聞かなかったことにしよっと。)
「あの~、橋田師範て、どなたですか?」
「えっと、ヒゲの…」

 師範って…もしかして、あのヒゲのおじさん偉いの?…でも…なんで知ってるの?
「倉田夏美って言えば、空手部じゃ有名だよ。単身部室へ乗り込んできた豪傑って。」
 話がメチャクチャに伝わってるような気がする。
「その上、地雷おにぎりで1年坊が泣いてたって。」
(やっぱり被害者いたんだ…でも、地雷って。)
 牛山さんのお兄さんは、関工大の空手部なんだって。それで、大学の人が付属に指導に行くんで、そこで話を聞いたらしいんだけど、尾ヒレが付いてない?


「浩司、謙吾ご飯出来たわよ。」
 えっ、お皿こんなに大きいの? ご飯の量もすごい、何合炊いてるんだろ…この間は、少なかったんだ…。
あたしは、小さなお皿に…それでも大きい…。食べてたらお野菜にすっごく味がしみて、お肉ホロホロになってる。

 それから、牛山さんの家へしょっちゅうお邪魔するようになったの。



 12月は、当然クリスマスだよ。この街の隠れたデートスポット、小さなデパートの屋上。夕日がきれいで、日が落ちてくると街の明かりが見える。

 あたしのプレゼントはトレーナー、袖に牛山さんの名前を刺繍した。厚手の布地に刺繍って結構大変で時間掛かっちゃったし、襟のラベルにこっそりNATUMIって入れてみたの…気付いてくれるかな。
牛山さんは練習で少し遅くなるって行ってたけど、もう日が暮れちゃう。
「夏美、ごめん。」
良かった、来てくれた。
「これ持ってるのを部の連中に見られちゃって…。とにかく、メリークリスマス。」
ずっしり重い、何だろう。
「これ、あたしからです。」


 夕日が落ちていく、街の明かりが瞬き始める。牛山さんの手があたしの肩に。もしかして…

「ダメ…こんな所じゃ…」
「大丈夫だよ…」
「だって…」

 ちょっと、そこの二人。聞こえてるよ。お陰で、こっちのムードぶち壊しだよ。
結局、牛山さんに家まで送ってもらっただけ。でも、えっと…。

 牛山さんのプレゼントは、前に間本屋さんで一緒に見たイタリア料理の本。洋書なんだよ、結構高いんだよ。いいのかな、もしかして、作れって言ってるのかな。



二 昭和53年

1 イベント

 元旦は、日の出前から寒稽古だって…ちょっと礼ちゃん達がうらやましい。でも、午後に会って初詣行ったの。この時間に来ると結構空いてるんだ…ちょっと得した気分。おみくじも大吉だったし、おそろいのお守りも買っちゃった。



 バレンタインデー! でも、お店で買うなんて料理研究会の名がすたる。当然、手作り。
 礼ちゃんと一緒に由ちゃんの家へ行ってチョコを作ったの。礼ちゃんは彼。由ちゃんは隣のクラスの男子。あたしは、もちろん牛山さんに。ハート型のチョコ、結構上手くできたよ。

 バレンタインデーの日、バス停でいつもどおり“おはよう”して、ラッピングしたチョコをわたす…。牛山さん赤くなってるよ…あたしも釣られて照れちゃったよ。バスの中では、何にもしゃべらずに手をつないでいた。

 夜に電話があったの。牛山さん中学からずっと男子校だったから、初めてだったんだって。なんかすっごく嬉しいよ~。



 今日はホワイトデーなんだけど、朝も夕方もバス停に来ない…なんで…べつにお返しを期待しているんじゃないけど、特別な日なんだよ。5時まで待ってたけど牛山さん来なかった…。

 7時過ぎに牛山さんから電話があって“5分したら玄関に出て”だって。でも待ちきれずに玄関へ…ドアを開けたらもう居るの。
「部の練習で逢えなかったけど、今日中に渡したくって。」
リボンのついた小さな箱を渡されて
「俺は、倉田夏美が好きです!」
ぇ、ちょっと…声が大きいよ。お母さんもお姉ちゃんもまだ帰って来てないから…。牛山さんの両手があたしの肩に…唇が重なった…心臓ドキドキ。それから“明日また”って言って牛山さん帰っちゃった。ちょっと寂しいかも…。


「ただいま。」
お姉ちゃんだ。セーフ!
もうちょっと早かったら、まずかったよね。でも、目付きが…。
「夏美、あなた場所を考えなさいよね~。」
見られた…?!
「のぞいてたの?」
「人聞きの悪いこと言わないでちょうだい。帰ってきたら玄関先で、大声であれでしょう、隠れるしかないじゃないの。…それとも、近くで見学した方が良かった?」
「…う~」
「そ・れ・よ・り。ねぇ~、ホワイトデーでしょう、何もらったのよ。」
「まだ見てない…。」
「開けてみようよ。」
「ダメ~!」
「ケチ!」

 自分の部屋で開けて見たの。箱の中にレースの布…ううん、ハンカチだ…で包まれたガラスのビン…中はキャンディー。これを買いに行った時の牛山さんを想像したら、ちょっと笑っちゃった…でも、忘れてなかったんだ…うれしいよ~。

 翌日、バス停で逢って“おはよう”って。ちょっと照れくさかったけど、バスが来るまでの間、手をつないでくれた。



4 桜舞う夜

 牛山さんは3年生、あたしも2年生になった。
 この街の南側の丘は大きな公園になってる。春は桜、それからツツジ。桜祭りの間は、ずっと出店がでてる。牛山さんと初めての夜遊び。ずっと手をつないで歩いた。あたしに合わせてゆっくり歩いてくれる。

 ライトアップされた桜の下を一緒に歩いたの。一緒におでん食べて…桜の花びらが降ってきて…急に抱きしめられて…暖かくって…唇が重なって…夏美って呼ばれて…謙吾さんって言って…肩を抱かれて…家まで送ってもらって…また唇が重なって。



 それと、中間試験も期末試験も怖くない。牛山さん、教え方とっても上手。信じられない位、点数がいいの。うれし~。



5 夏休みのイベント

 夏休みには…合宿だって…3週間も逢えないよ、それに、あたしの誕生日にも居ないんだよ。でも、その間に宿題全部片付けて、あとは牛山さんと遊ぶぞって…。
でもダメ、牛山さんは受験生なんだよ。10月は、推薦を決める大事な試験があるのに、邪魔しちゃダメなんだって分かってる。けど、気持ちがぐしゃぐしゃになっちゃう。ワガママだよね。



 合宿から帰ってきた日に電話があったの、明日逢いたいって。10時にバス停でって約束した。電話を切ってからもドキドキが止まらない。うれしい、でも受験とか大丈夫なのかな、あたし迷惑かけてない? なんか分かんない、気持ちがぐるぐる回ってる。あたしって牛山さんの邪魔してないかな。



 バス停にはもう牛山さんが来てる。3週間ぶりで、ちょっと照れくさい。でも、うれしい。
 
「遅くなったけど、誕生日おめでとう。」
 細長い箱、リボンのついた…うれしい。覚えてくれてたんだ。
「明けて見て良いですか?」
「うん。」

え゛…これって…ネックレス…でも…この赤いの、まさかルビー?
「ダメです。こんな高価な物いただけません。」
「違うんだ。OBの人に宝石の仕事やってる人がいて…夏美は有名だから…それで誕生日の話になって…7月って言ったら…合宿の時に…斉藤さんが…ルビーは女性のお守りになるって…だから…受取ってもらえないと…俺が…。」
 なんか、イメージが…。
「…ありがとうございます。あの…、OBの方にもよろしくお伝え下さい。」
 でも、いいのかな…。本当に宝石なんだよ。

 それから映画に行って、一緒にご飯食べて、夕方家まで送ってもらって、玄関の前で牛山さんの手が腰に…。
「ところで、宿題は、大丈夫?」
ムード台無し。ちょっと拗ねちゃう。
「じゃあ、明日見て下さい。」
「うん、分かった。」
いいの? 本当に?
「じゃあ、いっぱい準備しておきます。今日は、ありがとうございました。」

 明日も逢える~!!!!!



「もう、お昼ですね。お蕎麦で良いですか。」
 正直、朝からずっと英語の課題やって飽きてきたの。
でも牛山さんの集中力ってすごい。あたしは飽きっぽいから、すぐに投げ出してお茶なんかしちゃうけど、ぜんぜん休まないの。

 鍋にお湯を沸かす。お蕎麦を入れる前に、削り節を入れたパイレックスのカップにレードルでお湯をちょっと入れる。インスタントの出汁の素も少し。薬味は、ネギにワサビ、それに海苔。ネギはちょっと晒して、氷水でシャキーン。

 お蕎麦をゆでる。大きいボウルに氷をいっぱい準備して、ザルにあけたら水道の水で洗ってボウルへ入れて、氷水でしっかり冷やす。その間にだし汁に氷と麺ツユを入れて冷やす。ぬるいお蕎麦なんて、おいしくないもん。


 牛山さんて、いつもいっぱい食べてくれる…うれしい。


 食後はアイスコーヒーを準備して…だって…まだ課題やるって。
 コーヒーポット一杯に氷を詰めて、ドリッパーにフィルターをセットしたら一回熱湯ですすぐ、コーヒーの粉を普通の倍入れて、お湯をポタポタ。粉がしっかり膨らむまで待って、それからお湯を入れる。満遍なくお湯が掛かる様に、泡が粉に付かない様に、おいしくなれ~って言いながらお湯をさす。薄くならないうちにドリッパーを外したら、大きなグラスに氷を入れて、注いだら完成!

 すっごくおいしいって言ってくれた。うれしいよ~。

 課題の続き、頭の中でアルファベットがダンスしてる。顔を上げると目が合った。手と手が触れる、唇が重なる、抱きしめられる。
体が浮いた?…ベット?…また唇が重なる…いつもより長いよ…課題まだ終わってないのに…耳に、首筋に、額に、髪に、また唇に…髪をなでられる…胸の上にあった手が首筋に…ワンピースのファスナーが…でも…。

「…だめ…カーテン…」

 肩から服が落ちる…背中のホックに手が…唇が重なる…気がつくと、両腕を健吾さんの首に巻きつけてた…舌が何かに触れた…舌が触れ合ってる…唇があたしの胸に…くすぐったい、でも暖かい…体重があたしの上に…痛くない、大丈夫だよ…でも違和感…胸の先が健吾さんの胸に触れる…ひとつになったんだよね。
「夏美…」
あたしの名前…
「夏美に逢いたかった…」
「逢いたかった…です。」

 腕枕されて髪を撫でられてた。…このままずっといたい、初めてだったけど後悔してない。牛山さん…ううん、謙吾さんで良かった。
 それからちょっとウトウトしちゃった。気が付くと謙吾さん寝てる。
合宿で疲れていて…昨日は付き合ってくれて…自分の勉強もあって…あたしの宿題まで見てくれて…ゆっくり休んで下さい。

 謙吾さんにタオルケットを掛けて、あたしはシャワーへ行こうとして気が付いたの。違和感、両足の間に…足が上手く動いてくれない、腰も、なんかギクシャクしてる。

 シャワーと着替えが終わるって部屋に戻ると、謙吾さん着替えてた。
 顔が見られない、あんなに逢いたかったのに。後ろから抱き付いた。そうしたら頭の中がグチャグチャになってきて、
「無理しないで…下さい。大事な受験が…あるって分かって…ますから。初めてだったけど…謙吾さんで…よかったって…思って…ます。だから…逢いたくっても…寂しくっても…我慢…します…から。がんばって…下さい。何にも…できない…けれど…応援…してます。試験が…終わるまで…待って…ますから。」
 何を言ってるのか、もう自分でも分からない。

「夏美、大丈夫だから。がんばって合格するから。」
「ん…ぅっく…ひっ…」
「夏美がいるから、頑張れるんだから。」
 今日、何十回目かの唇が触れた。



6 晩御飯

 新学期が始まってから毎日、謙吾さんのお弁当を作ってる。あたしに出来る応援は、これだけだから。

 10月の試験、謙吾さん頑張って来たって。これで後は、発表待ちだって。これでいっぱい逢えるんだ、うれしいよ~。

 今年の学園祭は一緒に学校に行った。変に有名になり過ぎちゃった気はするけど、あたしは間違った事してない。あたしは謙吾さんが好き。だから一緒に居たい。でも、邪魔はしない、邪魔にならない所にいる。

 それに今夜は、ご両親が法事に行くんだって。…そういえば、去年、初めて家に来てもらった時も法事って言ってなかったっけ…だから家へ晩御飯食べに来てもらうの。ご飯は炊いてあるけど、イマイチ少ないかも。チキンライスにして増量するけど、パンも準備しちゃう。

 じつは、昨日から下ごしらえしておいたの。チキンの皮を外して、包丁で形を整えて、おいしくなれ~って言いながらフォークでザクザク。お塩と胡椒とガーリックパウダーにオールスパイスとバジル。胸肉4枚…って結構な量だよね…タッパーで漬け込んでOK!!
トリ皮は、一口大に切って、切り落とした胸肉と一緒に冷蔵庫へ。チキンライスの具にするよ。



 学校終わったらダッシュ!シャワー浴びて…別になんでもないよ~。乙女のみ・だ・し・な・み…服も準備してある、エプロンもオッケー。後は、冷蔵庫の食材を出して…GO!

 お野菜もしっかりとらないとダメ。だからスープは、ミネストローネ。キャベツ、ニンジン、タマネギ、ベーコンをみじん切り、ソーセージは小口切り、それに缶詰のマッシュルーム。全部を水を張ったお鍋の中へ、コンソメを入れて一煮立ち、缶詰のトマトを入れて煮る。

 メインディッシュの付け合せを作る。
 長ネギを一口大に切って、シメジと缶詰のマッシュルーム。青いお野菜は、ピーマンとキュウリ。赤いお野菜は、ニンジンとトマト。白いお野菜はレタス。
 まずは、ニンジンをレンジに入れて下ごしらえ。フライパンにサラダ油、ネギに火を通す。焦がさないようにゆっくり、それで最後に強火で焼き色をつけて大皿へ。
それからベーコンをネギの油でを焼いて油抜き、油は炒め物に、カリカリになったベーコンはあとで使う。その油でシメジとマッシュルームを炒めたら、これも大皿へ。
 下ごしらえしたニンジン…クッキー用の形でハート形に抜いたのも少し入っている…を同じフライパンで炒めてまた大皿へ。結構メインディッシュっぽくなってくる。

 チキンを焼く、これって結構むずかしいのよ。焦がさないように、でも時間を掛けすぎちゃったらパサパサになっちゃう。その間にレタスとキュウリとピーマンとトマトのサラダ。終わったらタマネギをみじん切りにしてチキンライスの準備をする。
チキンが焼きあがる前に大皿を付け合わせごとレンジでチン。焼く間に冷めちゃってるし、お皿も暖かい方が香りが立つの。お皿に出てきた油は、フライパンへ。カロリー気になるけど、お野菜のダシの効いた油って、香り付けにもばっちり。それから、さっきのベーコンを小さく割ってベーコンクリスプ。
 焼き上がったチキンはフライパンの上でスライス。おつゆが出ても気にしない。この後で使うんだから。
 あたしの肉切包丁は、お父さんが使ってたフィレナイフ、フィンランド製って聞いた。刃が薄くって、すっごく切れる。

 呼び鈴が鳴ってる…謙吾さんだ。

 チキンを大皿へ乗せたら最後の仕上げ。ケチャップとウスターソースをフライパンに入れて、ちょっとのお水…お肉の味が濃い目だったから…お塩は少なめ、コショウと隠し味のガーリックパウダーで特製のグレービーソース。ベーコンクリスプと一緒にチキンに掛けて完成!

 あとは、火が通り易いように小さ目のトリ皮と胸肉を炒めて、みじん切りのタマネギとピーマンに缶詰のマッシュルーム。レトルトのナポリタンソースを入れて、オリーブ油をちょっと。後は、ご飯を入れて炒めるだけ。混ざってきたら、バターを入れて強火で水分を飛ばす。

 おいしいって言ってたくさん食べてくれた。ご飯はやっぱり足りなかったので、最後はサンドイッチにして…よかった、パン用意しておいて。

 残ったチキンで、サンドイッチ。
 ミネストローネも十分残ってる。サラダは、ちょっと追加して冷蔵庫へ、食器は、後でお母さん達のと一緒に洗えばいい。

「片付け終わったよ。」
テレビを見てる謙吾さんの横に座る。
「ごちそうさま。おいしかった…」
「お粗末さまでした。」

 肩を抱かれるとテレビなんか目に入らなくなっちゃう。謙吾さんの肩に寄りかかって、ちょっと休憩。
肩にかかった手に力が入る、唇が重なる。手が胸の上へ…唇だけじゃなく舌も、Tシャツの裾に手…あたしの両腕が上がる、Tシャツが、ホックが…こんな明るい所で“恋人”できないよ。でも…唇も舌も胸も触れ合ってる…離れたくない。ジーンズのボタンに手が掛かる…

「ただいま。」
 お母さんとお姉ちゃんの声…。寝坊した時みたい、二人で飛び起きちゃった。あたし達すごい格好してる。ブラ…間に合わない。そのままTシャツを着る、ブラをソファーのクッションの下に押し込む。なんかスースーする…。

「お帰り、今日はサンドイッチにミネストローネだよ。」
大丈夫だよね。ポットにお湯を沸かして紅茶の準備しよっと。

でも…ごめんね謙吾さん“恋人”できなくって…。

「牛山さん。いつも夏美がすみません。面倒かけてません?」
「い…いいえ、。大丈夫です」
「夏美も。また牛山さんに宿題お願いしてるんじゃないでしょうね。」
「え~、教えてもらってるだけだよ。」
「まったくこの子は…。牛山さん、もう放っといて下さいね。」
謙吾さん…顔赤いよ…。

 その日、謙吾さんが帰る時には、いつもより時間が掛かっちゃった。



 それからは、いつも謙吾さんと一緒だった。秋から冬になって、クリスマスも、お正月も、バレンタインデーも、ホワイトデーも。
春になって、謙吾さんは大学生になって、あたしは3年になって。桜祭りも、もちろん、それ以外の時も一緒に過ごしたの。夏の合宿は相変わらずだけど、少し遅れて2人だけでパーティーもした。

 ある日、ウインドーショッピングの途中でブライダルフェアに入ってみたの。打掛、ドレス…きれい。謙吾さんと一緒にと思った。
係の人がヴェールを被らせてくれた。謙吾さんが似合うって言ってくれた。パンフレットは貰わなかったけど、仕合せだと思ったの。
いつも、あたしに合わせて歩いてくれる、荷物も持ってくれる、大事にしてくれる。恋人であることが当たり前になった。いつも優しく抱きしめてくれる。

 そんな頃、隣のクラスの子が子供を堕したと言う噂を聞いた。雑誌に“男の子は使うのを嫌がるから、女の子から言ってみよう”なんていう記事が。でも謙吾さんは必ず使ってくれる。“夏美が大切だから”そう言って。
大切にしてもらってる、愛されてる、そう感じて日々を過ごした。



7 秋から冬

 明日、謙吾さんが家に迎えに来るって、それでお気に入りのカセットテープ何本か持ってきてって。
 車で迎えに来てくれた。謙吾さんの同級生の家が観光果樹園やってるんだって。高速道路に乗って街を抜ける。手が肩に…肩を抱かれる。腕に頭を預けて…あたしの持ってきたカセット、お気に入りの音楽、由ちゃんは“暗い”って言うけどスローな曲は好き。心臓がずっとドキドキいってる。
 途中のサービスエリアで休憩した時も顔が真っ赤になってた。今日のあたしって何か変。


 梨とブドウの果樹園なの。試食コーナーに色々なブドウが並んでる。
おいしい~、ブドウって高いんだよ。こんなに種類買ったら、家計パンクしちゃうよ。

 えっと…本当にいいんですか、タダで。
 うわぁ~!頭の上にブドウがいっぱい。種類ごとに区画が違うから、試食しておいしかった区画を探す。
…でも、手が届かないの、謙吾さんが抱き上げてくれる。周りの目が気になるけど、恥ずかしいけど、やっぱりうれしい。

それに規格外で出荷出来ないって言って、ブドウと梨をダンボールの箱で頂いちゃった。


 お昼ご飯を食べて、ちょっと離れた渓谷までドライブ。渓谷の入口で馬車に乗って、行き止まりの滝まで。帰りは、渓谷沿いの遊歩道を肩を抱かれて歩いたの。足元にモミジ、何かバージンロードみたい。鳥のさえずり、川のせせらぎ、木漏れ日、歩きながら何回も唇が触れた。

 高速道路が混まない内にって、早目に出発したんだけれど、一つ手前のインターチェンジで高速道路を降りる。
どこへ行くんだろう、車は山道を登っていく。でも、途中で何台かの車が止まっているのが見えた。木立の向こうに明かりがチラチラと見える。

 頂上の駐車場に着いた。何台かの車が街灯を避けるように止まってる。謙吾さんの車も止まる。目の前に広がる…光、光、光、この街って、こんなだったんだ…高速道路、国道、県道、光の帯。そして、いっぱいの明かり。きれい…。
「すっごく綺麗…。」
「よかった。喜んでもらえて。」

 しばらくは、肩を抱かれて明かりを眺めていた。カーステレオからスローバラード…不意に“あたしから恋人してみたい”そう思った。
靴を脱ぐ…運転席に乗り出して、唇を重ねる。
謙吾さんが、エアコンを止める…車の窓が曇ってくる…舌が触れ合う。

 気付いてますか。今日、前ボタンのジャンパースカートにフロントホックなんです。こんな事を思うなんて…でも…。

 唇を重ねたまま、背もたれのレバーを手探りで引く。自分でボタンを…それから、謙吾さんのジーンズのボタンをファスナーを…あたしって、こんなに大胆だったんだ。
 一つになった…リズム…揺れてる…不意にいつもと違う感覚…中にお湯掛けられたような…体が動かない…。
しばらくしてから、のろのろと体を起こす。目が合ったら、急に恥ずかしさが込み上げて来た。助手席に戻ると、後ろから抱きしめられ…助手席の背もたれが倒れる…リアシートに置かれた、ブドウの甘い香り。また、一つになった。

 どの位の時間がたったんだろう。辺りは真っ暗で、星が出ていた。

 家に着いたら、もう8時になっていた。
 謙吾さんが呼び鈴を鳴らす。
「牛山です。遅くなって申し訳ありません。友人の実家の農場へ行って、遅くなりました。」
“これ、夏美の分”そう言ってダンボールのブドウと梨が渡された。


 それからも休みの度に逢って、色んな所へ行って、“恋人”になって…ちゃんと使ってくれて…駐車場での事は忘れてた。


 試験も何とか順調、謙吾さんのおかげです。こんないい思いしちゃって、いいのかな。
クリスマスはどうしようかな、プレゼントどうしよう、うれしい悩みでいっぱい。

 でも、就職もあるし、遊んでばっかりもいられない。ちょっと残念。
 この街では、一商出身はブランドだって。組合に逆らっても、一商出身のOLには逆らわない。腰掛けOL量産所って言った途端、大変な目にあって、左遷されたなんて言う話も聞いた。



 クリスマスイブは明日なのに風邪みたい。微熱が続くし、気持ち悪い。お気に入りのシャンプーもなんかクサいし、ご飯もおいしくない、体重も増えちゃった。普段あんまり食べないポテチとか食べちゃったせいかな…。でも、気を取り直して、明日はクリスマスイブだ!


 最悪。何回も戻しちゃった。謙吾さんと逢う約束も初めてキャンセル。ご飯の炊ける匂いが嫌、化粧品の匂いもダメ。お母さんに“夏美、大丈夫?”そう言って体温計を渡された。“風邪かしら?…微熱あるわね…大人しく寝てなさい”


 誰にも言えないけど、思い当たる事がない訳じゃない…あたし順調なんだ、ほとんどくるわないの。でも今月も2週間遅れてる…わざわざ隣町の大きな薬局に行って買ってきた。使ってみたら、心臓がドキドキして立ち上がれない。



昭和55年

1 転換

 こんな気分の初詣なんて、でも言わなきゃ。やっぱりダメだよね。もしかしたら…ううん…だって、まだ二人とも学生だから。
待ち合わせのデパートの角、初めて謙吾さんが来なければいいと思ったの、でも言わなきゃ。

 謙吾さんは、ちゃんと時間通りに来る人、やっぱり今日も来た…ううん…来てくれた。

「夏美、おめでとう。待たせちゃった?」
「ううん。明けましておめでとうございます。」
 顔を見られたくないから、左腕にしがみつく。神社の参道へ向かう、いつもどおり、あたしに合わせてゆっくり歩いてくれる。

 参拝してもお願いする事が思いつかない。おみくじを引く…大吉…でも喜べない。絵馬を買う。何を書こう…思いつかない…謙吾さんはサインペンで何か書いて、あたしの目の前へ吊るす。“ずっと夏美と一緒に”涙が出そう…。
思い切って書く、“赤ちゃんできたよ”絵馬を掛ける…謙吾さん目を見張ってる…当たり前だよね。

「夏美! 結婚するぞ!」
ぇ?なんて言ったの…わかんないよ…だってあたし達まだ…
「だめ…嫌か?」
だめな訳ないよ…涙が…嫌なんかじゃないよ…
「よし、行くぞ。」
ぇ? どこへ? 謙吾さんがあたしの手を引いて歩き出す。2~3歩して止まる。
「夏美、歩いて大丈夫か?」
「うん、ゆっくりなら…。」

 いきなり抱き上げられちゃった…謙吾さん、みんな見てるよ…。そのまま参門をくぐってタクシー乗り場へ…“どちらへ参りましょう”…え? 謙吾さんの家?
何度も見た風景が流れる…。タクシーは程なく謙吾さんの家に着いた。

「歩ける?」
「うん…」
もう何回も来た謙吾さんの家、膝がふるえる。
「ただいま。」
「謙吾?どうしたの、ずいぶん早いじゃない。」
お母さんの声だ…
「夏美、上がって。」
「明けましておめでとうございます。」
「まぁ、夏美さん。明けましておめでとうございます。お父さん夏美さんいらし…夏美さん? どうしたの、顔色悪いわよ。」
「大丈夫です。」
「早く上がって、ちょっと休んでいきなさいね。」
「す、すみませんトイレ…。」
また戻しちゃった…今日何回目だろう…。

 口をすすいでから居間へ、謙吾さんの横に座る。
「親父。俺、夏美と結婚する。」
け、謙吾さん…
「…まぁ遅かれ早かれとは思っていたが、唐突にどうした。」
「子供が生まれる。学校も止めて働く。だから…」
「謙吾! お前は、よその大切なお嬢さんになんて事を! まして結婚もしてないのに子供だなんて、一体どういうつもりだ!」
やっぱり怒られる、でも…
「親父、その話は不味いんじゃないの?」
「何だ浩司! 大事な…」
「俺、5月生まれだよな。親父が結婚したの10月じゃなかったっけ?」
お兄さんの話が見えない…えっと…7ヶ月?…普通10ヶ月…話が見えた…かも。
「…う、うるさい!…ところで、夏美さんの親御さんはご存知なのか?」
あたし、がんばる。
「まだ…謙吾さんにしか話してません…。あたし…」
泣いちゃだめ、がんばらないと、だって…。
「謙吾! 何だ! いつまで夏美さんをそんな所に座らせて! ソファーに掛けてもらえ。…それと…母さん、服を出してくれ。」
「はいはい。じゃあ、夏美さんちょっと待っててね。すぐ着替えちゃうから。気持ち悪くなったら、無理をしちゃだめよ。」

 謙吾さんのお父さんの運転する車で、あたしの家に向かう。帰りたくない、謙吾さんと一緒の時は、毎回思った。帰りたくない、今日はちがう気持ち。

 謙吾さんのお父さんが呼び鈴を押す。
「新年早々申し訳ございません。牛山謙吾の父でございます。」
お母さんが出てきた。
「明けましておめでとうございます。夏美、どうしたの。こんな所では何ですから、どうぞ中へ入って下さい。」
あたしの家、ずっと暮らしてきた家、でも…。
リビングに入るなり謙吾さんのお父さんが床に正座して。
「突然押しかけた無礼をまず、お詫び申し上げます。本来でしたら、新年の賀詞を申し上げる所ですが、この度は大変な事をお嬢さんに…」
「牛山さん。どうぞ、お顔を上げて下さい。…仰りたい事は、分かっているつもりですから。」
え、お母さん、何…?
「こちらにお掛けになって下さい。」

お母さんの目が…。
「夏美。これ、あなたのよね。」
これって、検査薬の箱…
「ここ暫くの様子を見れば解るわ。その上こんなのが。私だって2人産んでいるんですからね。」
「今度の事は、俺が無理矢理、夏美さんに…」
「謙吾さんは、悪くない! いつも、ちゃんと使ってくれたの! あの時、あたしが急に上になって、車の中だったから、だから…」
「ちょ…ちょっと夏美、何を…」
 謙吾さんの手が、あたしの腕をつかむ。
「それより夏美、母親になる覚悟はあるの。もし、迷っているようなら早いうちに…」
「いや!絶対いや!謙吾さんと…」
「夏美さんには、承知してもらっています。」
「出来るだけ早いうちにお医者さんに行きましょう。多分4日は、開いてると思う…」
「いや! 赤ちゃんになんかするなんて、いや! 絶対行かない!」
「夏美、落ち着きなさい。本当に妊娠かどうか、診て貰うだけだから。」
「本当に…?」
「夏美、俺も付いていくから。大丈夫だから。必ず行くから。」


 情緒不安定…そんな感じ。謙吾さん達が帰る時も、しがみついて泣いちゃった。お父さん達は先に帰って、謙吾さんに髪を撫でてもらって、少し落ち着いて、でも不安で。
「何かあったら電話して、すぐに来るから。」

 三日間は、ほとんど自分の部屋で過ごした。
 気持ち悪い。煮たお餅と水しか食べられない。逢いたい、逢いたい、逢いたい。

 病院は怖い。でも、その日は謙吾さんが来てくれる。だから、来てくれる日を待ってる。


 4日の金曜日に産婦人科へ。お母さんと謙吾さんも。産婦人科って初めて、でも…。
 受付で渡された問診表に名前、住所、生年月日、最終月経日…いろいろ書く事がある…でも、書き進めるうちにボールペンが止まった…これって…『性交の経験』:【有】【無】…嘘は書けないけど…それから、『今のあなたは』:【既婚】【独身】【婚約中】―『妊娠していた場合』:【出産を希望】【堕胎を希望】【相談したい】…あたしが迷っていると謙吾さんがボールペンをあたしの手から取って、【婚約中】【出産を希望】に丸を付けてくれた…本当に…いいの…?

 問診表を受付に出すと、紙コップを渡されてトイレに。
 落ち着かない、待っていると“倉田さん、倉田夏美さん”って。診察室に入るとすぐに
「おめでたですね。今からエコーを取りたいと思います。」
ベッドに寝かされて、ゼリーみたいなのをおなかの上に塗られた。機械が当てられる。
「あぁ~いたねぇ。隠れてないで、お母さん達にお顔を見せてあげて~。」
先生、さっきまでと口調が全然違う…。テレビの様な画面に何か見える。
「ここ見えますか。赤ちゃんです。10週に入った辺りですね。」

 それからいろんな書類を渡されて、これを書いて市役所に提出すると、母子手帳が貰えるんだって、でも…
「母子手帳…正確には、母子健康手帳…は、お母さんの戸籍上の名前が記載されます。後で色々言われる方も居られますので、婚約者の方とよく相談して、今のままの苗字で交付を受けるか、入籍して新しい苗字で交付を受けるかを決めて下さい。」

 謙吾さんがずっと手を握ってくれてる。

 夕方、お母さんと一緒に謙吾さんの家に行く。妊娠している事。今、10週である事。9月の第2週が予定日である事。そして…
「今日、問診票を書く時に謙吾さんは、夏美が書きあぐねているのを見て、書いて下さいました。婚約中、出産を希望と。…こんな不出来な娘ですが、よろしくお願い出来ないでしょうか。」
 お母さん、それって…

「謙吾! 腹は固まってるんだな。夏美さんと子供を食わせていくのは、お前の責任だ、解かってるな。」
「覚悟してる。」

 …何…?

「倉田さん。息子の事は、私の責任です。どうか、よろしくお願いいたします。」

そして謙吾さんが突然…
「お願いがあります。俺の我がままです。母子手帳には、牛山夏美って書きたいです。お願いします。書かせて下さい。どうかお願いします。」
「お母さん、謙吾さんのお父さん、お母さん。お願いします。どうか、書かせて下さい。」


 結局、6日の日曜日が大安だから、その日に入籍する事が決まったの。



 6日のお昼前、みんなで市役所に集まった時に、謙吾さんのお父さんにお守りをもらった。安産のお守り…靖国神社って東京だよね。
「親父、昨日、出掛けてたのって…。」
「戦友(ポンユウ)に爺さんになる。そう言って来た。それで…な。」

 婚姻届を二人で書いた、手が震えて上手く書けない。旧姓の欄を書いた時、涙が出てきた。何でだろう、分かんないよ。謙吾さんのお父さんと、あたしのお母さんに証人になってもらった。
それに、未成年だから婚姻同意書も必要で、これも書いてもらった。

 書いて貰った書類を受け取る時、手が震えているのに気が付いたの。でも窓口に出す時になって謙吾さんが急に
「ちょっと待って。言い忘れた事があるんだ。」
そう言うと謙吾さんは、あたしの両肩をつかんだ。

「まだ、はっきり言ってなかった。夏美、俺と結婚してくれ。」
 だって…、そんな…、でも…
「…あたしで…良ければ…。」
「何言ってんだ! 夏美と結婚したいんだ。」
「はい!」
 二人で婚姻届を出した。

 窓口の人が、何か書いている。

「おめでとうございます。昭和55年1月6日、11時35分、婚姻届を受理いたしました。どうぞお幸せに。…それと私、今年定年になるんですが、ここでプロポーズされた方を初めて見ました。心からお祝いを申し上げます。」


 月曜日は、謙吾さんのお母さんと朝から市役所で戸籍謄本を取ったり、妊娠届出書や母子医療補助申請書を出しに行ったの。でも、ほとんどしてもらった。あたしは、トイレと待合室の往復がほとんど。トイレの芳香剤って、すっごく鼻に付く。今まで気にした事もなかったけど、ドアを開けた瞬間にもうダメ。

 ちょっと時間が掛かったけど、母子手帳が出来てきた。“牛山夏美”って書いてある母子手帳。



2 最後の学期
 
 明日学校に持って行く物、戸籍謄本、母子手帳。お母さんが付いて来るって言ったけど断ったの。これは、あたしがちゃんとしなきゃダメって。だって、お母さんになるんだよ。

 妊娠して初めて気が付いたの、色んな匂いがある事に。バスの匂い、駅前の匂い。
でも、みんな嫌、マスクをするとガーゼの匂いが気持ち悪い。通学の途中で戻した。

 やっとの思いで教室にたどり着いてカバンを置く。この教室ってこんなに色んな匂いがあったんだ。
「夏美、顔色悪いよ。」
「うん、ちょっと職員室行ってくる。」
「早退するんなら早くしたほうがいいよ。」
「うん、ありがと。」
赤ちゃん、お母さん頑張るからね。

「おはようございます。」
職員室のいろんな匂いが襲ってくる。気持ち悪い。
「滝沢先生、あの…」
「倉田さん、どうしたの。顔が真っ青よ。風邪? 早退するんなら良いわよ。」
言わなきゃダメ
「あたし…苗字変わりました。」
「…? あ、そうか。お母さん再婚なさったの? でも顔色悪いわよ。大丈夫?」
制服の内ポケットから戸籍謄本を出しそうとした時に限界が来た。
「失礼しま…」
職員室の中にある給湯室に走りこんで戻しちゃった。
朝食はゼリーを一口食べただけだったし、通学途中でもあったから、ほとんど何にも出なかったけど。
「倉田さん、無理して来なくってもいいのに。ちょっと保健室で休んで、早退しなさい。」
「これ…」
戸籍謄本を渡す。滝沢先生の顔色が変わる。
「これって…えっ…じゃあ…まさか…」
母子手帳を出した時に
「ちょっと、仕舞いなさい。歩ける? 保健室行こう。」
あたしは、滝沢先生に付き添われて保健室に行った。
「ここで横になってなさい。ホームルーム終わったら来るから、それから話しよう。」

 そう言えば、保健室で寝るのって初めて。消毒薬の匂いの方が、教室より大丈夫そう。なんかヘンな気分。

「倉田さん、大丈夫?」
「はい。」
 滝沢先生がイスを持って枕元に、ベットの回りのカーテンを引いて。
「さっきの、もう一度見せてもらえる?」
あたしは、戸籍謄本と母子手帳とを渡した。
「まずは、ご結婚おめでとうございます。」
え…意外…。
「読み方は“うしやま”で良いのかしら。」
「…はい。」
「でも…倉…牛山さん、私も生徒のこんな事は初めてだから、何とも言えないけれど、この後は、どうするつもりなの?」
 この間話し合った事を話した。学校はちゃんと卒業するように言われたこと、卒業してから式を挙げること、9月に出産予定であること…。
「でも、私の一存じゃ何とも言えないから、一度お母さんとお話したいんだけど、今夜伺っても大丈夫かしら。」



 結局あたしだけじゃやっぱりだめ。
 滝沢先生が夜、家に来て。お母さんと話して帰った。卒業式の前までは倉田の姓を使う事。妊娠に関しては、他の生徒への影響を考えて話さない事…ただし噂が絶えないだろうけれど、それは承知しておく事。体調が悪い時は、無理をしない事。
退学しなくってもいいんだ…安心した。



 3学期は、ずいぶん休んじゃった。登校した日もほとんど保健室で、あんまり授業に出られなかった。学校でも1日に何回も戻しちゃうし、あっという間に噂になって1年生まで見に来るし、何か動物園の動物になった気分。男子は、遠巻きに眺めてるだけだけど、女子のほうが…。


 最後の定期試験も最悪、…特に理科の金沢先生、キライ。引っ掛け問題作るんだよ。
でも、明日から試験休み、それで…明後日は…母親学級なの。



 それでも今週は、良い事が一杯あったの。
 まずは、謙吾さんの就職が決まったの。橋田師範さんが推薦してくれたんだって。商工会議所の事務の仕事。なんでも空手部のOBの方が居られるって“今風のカタカナ商売じゃないから人気なくってな”って。それで、即日採用だって。

 それから、あたし達の結婚式が決まったの。早目が良いって、5月5日の月曜日。カレンダーを見たら大安だよ。商工会議所の人達が探してくれたんだって。桜の公園の近くのホテルで午後3時からって…。

 あたし…涙が止まんないよ。感謝って言葉が分かったような気がする、縁(えにし)って言葉が分かったような気がする。みんなに助けられているんだって分かった、有り難いって…今だけ泣いてもいいよね。
赤ちゃん、泣いてるのはうれしいからなんだよ、心配しなくっていいんだからね。みんなあなたのために一生懸命になってくれているんだからね。

 それとね、指輪。考えてもいなかった、そんなこと。謙吾さんが、お姉ちゃんのところへ電話して指輪のサイズ教えてもらったって。そういえば、心当たりが…でも、こんなに贅沢していいのかな。謙吾さんまだ働き始めたばっかりなんだよ。ダイヤモンドだよ…本当にいいの?


 でもね、後で聞いたの…大安の祝日に式場が取れた訳を…式場のキャンセルが有ったって。キャンセル、あたしは皆が応援してくれるのに、こんなに仕合せなのに…すごく申し訳ない気がする。こんなに贅沢でいいのかな。



 その日の朝、お母さんとお姉ちゃんは、いつもどおり仕事に。あたしは、一人で母親学級でもらったテキストをながめていた。

 みんな一所懸命働いてる、謙吾さんも謙吾さんのお父さんも。礼ちゃんは信用金庫、由ちゃんは証券会社に就職って。
 あたしは一人で何やってるんだろう。仕合せだと思ってた。でも、あたしの仕合せって誰かの優しさの上に成り立ってるんじゃないの。
あたし一人、何にもしてない。この頃は、気持ち悪いって、ご飯も家事もしてない。あたし一人だけで良い思いをしてる。人の努力を食い物にしてるだけ。
あたしって自分勝手で、我がままで、謙吾さんに全部押し付けて、みんなに押し付けて、何にもしてない。どうしよう…。もしかしたら、あたしが居ない方がみんな楽なのかな…。
式場だって、大安の日なんか、ずっと前から予約しなきゃ取れない。でもキャンセルって、あたしが横取りしちゃったみたい。あたしだけ一人でズルイ事してる。
あたしの仕合せって、寄生虫みたいなもんなんだ。誰かを食い物にしなきゃ生きられない。あたしがみんなに迷惑掛けてる、甘えてのうのうとしてるだけ。助けてもらってるんじゃない、助けてもらう資格なんか無い。

 気が付くと謙吾さんの家の前にいた。
 なんでここに居るんだろう。来る資格のない場所、ここの家には迷惑ばっかり掛けている。赤ちゃんだって、あたしが変な事しなければ、いつもと同じに謙吾さんに愛されていれば…愛される資格なんかないんだ。お母さんにも言えなかったのを助けてもらって、仕合せだと思い込んで、みんなを食い物にして。ごめんなさい。
「夏美さん?!」
「ごめんなさい。もう二度と来ませんから、許して下さい。」
「ちょっと、どうしたの。」
「みんな一生懸命になっているのに、あたしだけ、それを食い物にして、勝手に仕合せだと思い込んで…」
「泣いてないで。訳を教えてちょうだい、ね。」
「だって…みんな…一生懸命…あたしだけ…甘えて…仕事…家事も…何にも…」
「夏美さん! あなた、自分の仕事が分かってるの! あなたの仕事は“母親”なのよ。」
「 … 」
「いい? 今、おなかの中で赤ちゃんを育ててるの、他の誰にも出来ないの、代われないの。それから、その赤ちゃんを産んで。でも、それだけじゃない。それからもあるのよ、一人前に育てるの。最低でも18年の大仕事なの。分かる?」
「 … 」
「ね、夏美さんは“母親”って言う仕事を始めたばかりで、ちょっと慌てちゃっただけなのよ。だから安心して。お母さんが泣いていたら、赤ちゃんだってびっくりしちゃうわよ。」
あたしは、また泣いた。

「それにね、母親の仕事が全部無くなったら、人類なんてあっという間に滅亡よ。男には逆立ちしたって出来ないんだから。」

 あたしにの仕事は“母親”なんだ。ごめんね赤ちゃん、お母さん仕事しっかりするからね。もう大丈夫だから安心して。

 夕方にお母さんが迎えに来てくれるまで、謙吾さんの家で過ごした。
帰り道に
「心配かけて、ごめんなさい。」
「落ち着いた?」
「うん」
「あのね、マタニティー・ブルーって聞いた事ある?」
「うん、そう言えば、母親学級で言ってた…」
「それよ、今日のは。なんとなく不安になっちゃうのよね。特に初めての時は。」
「お母さんも?」
「それはそうよ。知り合いもいない町に引越しして、頼れるのはお父さんだけ。でもお父さんも留守勝ちで、不安だったわよ。」
「そうだったんだ。」
「だから夏美、今はゆっくりしてて良いわ。赤ちゃんが生まれたら大変よ。」
「何で?」
「夏美は、特にそうだったのよ。今と違ってクーラーも無い、夏の暑い盛りだから、ミルク上げても2時間持たないの。夜も昼も無かったわ。その上、哺乳瓶が大嫌いで。」

そうか、お母さんもそうだったんだ。何か安心しちゃった。



 最後の登校日、試験の答案が帰ってくる。どれもギリギリ…理科…38点!?…こんなに大きく書かなくってもいいじゃない…追試決定。あれっ…何か小さく書いてある…結婚祝い2点、出産祝い20点、計60点…。金沢先生、大好き!

 職員室へ行く途中、金沢先生と会った。
「おい、旧姓倉田。子供は、すぐに“何で?”って聞いてくるぞ。答えてやれる様にしっかり勉強しろよ。それまでは“貸し”だ。」
「はい、ありがとうございました。」
やっぱり、みんなに心配掛けてる。でも、その分、しっかり“母親”します。ありがとうございます。
滝沢先生に結婚式の日取りを伝えて…肩の荷が少し下りたの。後は卒業式だけ。



4 卒業式

 久しぶりにジーンズはいてみたの…ファスナーが…。あわてて制服のスカートを…もうすぐ卒業式だよ…なのにスカートが入らない…。
「お姉ちゃん、制服のスカートって取ってある?」
「どうしたの?」
「おなか…ちょっと…入らない…。」
 お姉ちゃん、笑い事じゃないよ!でも、箪笥から制服を出してくれて、ちょっと大きいけど、ホックを付けてウエストを何回か折れば何とかなりそう…って鏡に向かったら…だめ~、おなかがすごく目立つよ。でも、卒業式だけはどうしても行かなきゃ。



 卒業式の日。教室では何人か泣いてる。自分の席に座ったら…あたしもちょっと…このごろ涙腺が弱いんだよ。
最後のホームルーム、出席が取られる。えへへ、“牛山夏美のデビュー”って思ってたら、倉田さんって。今日から牛山夏美で良いって言ってたのに。滝沢先生どうしちゃったのかな。
 ホームルームが終わってから先生の所へ。
「滝沢先生、今日からあたし牛山で…」
「お楽しみは、後でね。」
 何で? 納得がいかないまま体育館で卒業式。あたしが入ると、体育館がザワザワ。やっぱり、おなか目立つかな。3学期になってから変に有名になっちゃったし。

 式が始まった。もう学校ともサヨナラ…いっぱい色んな事があったなって…国歌斉唱、式辞、来賓祝辞、褒賞授与、送辞、答辞と続く。

 ブラウスの下には、チェーンで指輪。こっそり取り出して指に。唯ちゃんが気付いたみたい。でも、もう大丈夫。今日から正式に牛山夏美のデビューなんだから。後は、卒業証書授与だけ。

 いよいよあたしのクラス。“相川郁江”…3年間ずっと出席番号1番だったね。“飯村みどり”…ずっと図書委員で、“上村恵子”…バレー部のキャプテンで…名前が次々に呼ばれていく…“串田唯”次だ…“牛山夏美”…涙があふれてくる…体育館がざわめく。歩けずにいると唯ちゃんが手を引いてくれた。こんなときにも助けてもらってる。卒業証書が渡される時に校長先生が小さな声で“二重いや三重におめでとう”って言ってくれた。こんなにも祝福してもらってる。なんで、本当にいいのかな、迷惑いっぱい掛けてるのに。ありがたい、もったいない、そんな言葉じゃ表せない。国語の成績悪くなかったんだよ。でも、知っている言葉じゃ表せない。



 卒業式の3日後、また迷惑を掛けた。
 いつもどおりに夕食のお買い物。ここしばらく調子良いんだ、戻すことも無いし。でも、商店街で転んじゃった。おなかが急に痛くなって起き上がれなくなって、救急車で運ばれて、母子手帳ってこんな時に役に立つんだ…持ち歩きなさいって言われた理由が良く分かった…経過観察で一晩入院して。みんなに心配かけて、お母さんに怒られて、謙吾さんも顔が怖い。でも、赤ちゃんは無事だって。本当にごめんなさい。

 それで、前の事もあったし、昼間一人じゃ心配だって言って、牛山さんのおじいちゃん達が使っていた部屋に泊めてもらう事になったの。どうせ近くだし、旅行トランク1コとスポーツバックで引越し完了。

 夕食が終わって、お風呂頂いて…この部屋で休むんだけど、謙吾さんが部屋に来てくれた。一緒に居てくれるだけで安心する。

 抱きしめられて…唇が触れてから気が付いた!
もう“恋人”じゃない、“夫婦”なんだ。
夜は、一緒に眠るんだ。朝も一緒に起きるんだ。ずっと一緒に暮らすんだ。


 そうだ、言い忘れていた。
「不束者ですが、幾久しく宜しくお願い申し上げます。」
 謙吾さんテレてる。


 次の日の朝、目が覚めた時にはまだ謙吾さん寝ていた。朝食の支度でも…って思ってキッチンに行って気が付いたの。勝手にしたらだめだよね…。
ちょっとお水をもらって…
「あら夏美さん、早いのね。」
「おはようございます。」
「いつもこんなに早いの?」
「家では、ご飯作ってましたから…あの、何かお手伝いさせて下さい。」
「じゃあ、手伝ってもらっちゃおうかな。でも、その前に着替えて来てね。そんな格好見たら、お父さん卒倒しちゃうかもしれないから。」
 あ、パジャマのままだ…。
「夏美さん、走っちゃダメよ、ゆっくり歩いて。」

 お茶碗を…すっごく大きい…テーブルに並べて、お箸を配って、朝ごはん。
みんな、すっごく食べるんだ。

「きゃっ」
「夏美!」「夏美さん!」「どうした!」
「赤ちゃんが動いて…ちょっと、びっくりしちゃって。…すみません。」
 みんなの拍手、初めて動いたんだもんね、感動しちゃった。


6 結婚式

 ドレス選びは、お母さんと一緒に行った。なぜかお姉ちゃんも付いて来たけど。

「倉田夏美様でございますね。この度は、本当におめでとう御座います。倉田様の担当をさせて頂きます、山下と申します。今日は、ドレスの試着と…」
 あれ、視線がお姉ちゃんに…
「あの、私じゃなくって、この子なんです。」
雰囲気が一瞬にして凍り付いたように見えた。
「大変失礼をいたしました!」
それからが大騒ぎ、責任者の人は来るし。でも、あたし忘れられてない?

 ドレスって結構サイズが準備してあるんだ。それにマタニティー用まで。
 結構簡単に決まったの。かわいいんだよ。でも、おなかのサイズが変わるから、式の3日前にもう一度調整をしてくれるって。

 招待者のリストも出来た。身内だけでって言う事だけだったけど、礼ちゃん達は、縁結びの神様だから来ていただいて、福の神の橋田師範、空手部の方と由ちゃんと滝沢先生も。



 結婚式の前の晩は家で泊まった。お母さんとお姉ちゃんとご飯食べて…
「夏美、なに泣いてるの。」
「…お母さん、お姉ちゃん、今日までありがとうございました。こうして式を挙げられるのも、お母さんとお姉ちゃんのお陰です。本当にありがとうございます。」
「ちょっと夏美、すぐ近所じゃないの。二度と会えないわけじゃあるまいし。…でも、この歳で“おばあちゃん”て呼ばれるとは、思わなかったわ。」
「私は、絶対にお姉ちゃんって言わせてよ。…でもね、絶対に仕合せにして貰えるって。玄関先であんな事する度胸があるんだから。」
「お姉ちゃ~ん。」
「何それ恵美、初耳ねぇ。」
「一昨年のホワイトデーだっけ。“倉田夏美が大好きです”って御近所中に聞こえるような声で言うんだもん。」
「すごいわね…プロポーズの時もすごかったけど。」
「何、何、プロポーズの時って、教えてよ~。」
「だって…ねぇ~夏美~。」
「もぅ~、お母さんもお姉ちゃんも、知らない。」



 結婚式の日、朝から大変。お母さん達は美容室、あたしは着付けもあるから早く行かなくっちゃならない。
シャワーの時に転ぶと大変って言って、お母さんと一緒に。でも、一緒にお風呂なんて何年ぶりだろう…。

 タクシーで式場に向かう。2人の礼服やあたしの着替え、結構な荷物。

 あ、この間の山下さんだ。まだ謝ってる。別に気にしてないのに。それからの準備がすごいんだよ。もう徹底的にって感じ。

 それから着付けかなって思ったんだけど、サンドイッチが出されて、“式の最中はあまり食べられないから、今のうちに何か食べた方が良いって。


 式の前に控え室で親族の紹介があって、それから親族は先に会場へ。2人で残されて、ちょっと照れくさいよ。

 静岡のおじさん…お父さんのお兄さん…にエスコートされて式場へ。
ぶつぶつ言ってる…“あのバカが、娘のこんな綺麗な姿も見ないで…”

 誓いの言葉、指輪の交換、そしてヴェールが上げられる…



 披露宴で初めて知ったの、空手部の人達がこんなに面白い人達だったって。
礼ちゃんと由ちゃんのデュエット、ありがと~。
滝沢先生、新婦恩師って紹介したんだから、もっと褒めてよ~。


 披露宴が終わって、退場の時に道着の人達がいっぱい出てきて…あ、ヒゲ橋田師範さんもいる。
「寿(ことぶき)の道を~開ァ~くゥ~!」
何枚もの板が前を塞ぐ様に出される。
「牛山ァ 征け!」
謙吾さんが手で足で板を割るたびに声が掛かる。
「ひと~つ!」
「ふた~つ!」
…何枚あるの?
「なな~つ!」
そして最後の8枚めの板を謙吾さんが割る。バキッって言う音が響いたとき…
「末~広がりィ~、開ァきィましィ~たァ~!」
橋田師範さんの声…相変わらず大っきい。
「おめでとうございます! 押忍!」


 式場を出てブーケトス。ちょっと気合が入り過ぎちゃって、シャンデリア直撃。でも礼ちゃんの手に…頑張ってね。


 その後の2次会も色んな話が聞けたの。

 誕生日に謙吾さんから頂いた、ルビーのネックレスの斉藤さんが、6年は付き合う。だから毎年、誕生日・クリスマス・ホワイトデーの3回とエンゲージリングにマリッジリングで稼げる、だから無料で提供したのに、早々と結婚したのは、撒餌だけ取る詐欺だって。え~と、ごめんなさい。

 地雷おにぎりを食べると彼女が出来る伝説。地雷おにぎりに当たった人は、彼女ができたって。今日も出せばよかったかな。

 橋田師範に伺った板の話。“八”は“末広がり”って読んで、縁起が良って。それを新郎が開いて…割るって言っちゃだめ…門出を祝うんだって。聞いてから涙が出てきたの。ありがとうございました。
 

 そうして結婚式は無事に終わった。新婚旅行は、おなかの子に影響があるといけないから近くの海辺のホテルで2泊。それで最初の夜に気が付いたの…二人だけで泊まる旅行は初めてだって。…あ、ごめんね。赤ちゃんも入れて3人だったね。

 謙吾さん。赤ちゃんもあたしも仕合せです。

 今年のおみくじ、大吉だったのを思い出しちゃった。当たってる~!




エピローグ

 昭和55年9月12日、午前11時35分、3120g

 命名 「和美(かずみ)」 

 和美と一緒にいられるのは、たくさんの人のお陰なんだよ。一緒に感謝しようね。



夏美

夏美

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-14

Copyrighted
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