あの日見た店の名前を僕達はまだ知らない

 吉祥寺駅の改札口で僕の姿に気づいて手を振る君は、まるで知らない人みたいに見えた。でもその笑顔は間違いなく僕を安心させるもので、僕は自然に君の名前を呼んで「お待たせ」と続けていた。季節は秋の入口で、その日は少し肌寒かった。君は白いストールを纏っていて、僕は夏気分がまだ抜けきらない薄いジャケットだった。
 お店は君が選んでくれていた。駅から五分ほど歩いたところにあるカフェレストランは洒落た造りをしていて、入口が屈まないとくぐれないほど低かった。店内はカントリー風の内装で、不思議の国に迷い込んでしまったアリスの心地。一階は女性客しか見当たらなくて不安になる。
 君が予約していた旨を店員に伝えると二階に案内される。急な階段を注意して上がり、向かい合う形で席に着く。僕の苦手な背もたれのない椅子で、テーブルの中央に置かれたキャンドルには優しい色をした火が灯されていた。心なしかいい匂いがする。
 そのお店は君が通っていた女子大の学生たち行きつけのところだったようで、君は「二階は初めて」だと言う。さっきから気づいていたが二階にはカップルしか見当たらなかった。
 僕たちはどう見えるのだろう。他愛のない話に興じながら、頭の片隅でそんなことを気にしてみる。
 その日に僕が食べたのは、タコライス。高校生の頃寮生活を送っていた僕は、食堂のメニューで最も好んで食べていたのがタコライスで、君にもそんな思い入れを話した気がする。だけど、その日に食したタコライスの味は、正直まったく憶えていない。憶えているのは話していた内容とか、君の服装とか、リップグロスの色とか、そんなようなことばかり。
 食べ終えてから外に出た僕たちは、井の頭公園まで歩いて園内をぶらぶらした。園内は広くて目的もなく並んで歩いていることがこの上なく心を浮き立たせたけれど、それはきっと隣に君がいたからだろう。
 あの日、音に聞くジンクスを気にしてボートには乗らなかったのに、それからいろいろあって僕たちは別れた。男と女はくっついたらやがていろいろあって離れてしまうものだ、なんて。
 君と吉祥寺にいた日から一年と少しを経た冬のとある日、僕はまた別の女性と吉祥寺でごはんを食べようという段になって、それならあの日のお店を使おうと、悪趣味なことを思いついてしまった。
 お店の名前が思い出せなかったので事前に出向いてついでに予約をしようと思ったのだが、記憶していた場所にあったのは別のお店だった。すっかりご無沙汰していた間になくなって、どういう経緯があったのか分からないがカレー屋が入ったようだった。僕はカレー屋の前でしばし呆然と佇んで、小さく笑みを漏らした。
 後日、約束をしていた女性とやはり吉祥寺駅の改札口で待ち合わせ、二人で赴いたところは、その新しくできたカレー屋だった。一生懸命に話す傍らの女性を愛おしく感じながら、君の笑顔が何度も脳裏に過ぎった。ひょっとしたら悪趣味なのではなくて一途なだけかもしれない、そんな気づきには蓋をするに限る。

あの日見た店の名前を僕達はまだ知らない

あの日見た店の名前を僕達はまだ知らない

一生懸命に話す傍らの女性を愛おしく感じながら、君の笑顔が何度も脳裏に過ぎった。ひょっとしたら悪趣味なのではなくて一途なだけかもしれない、そんな気づきには蓋をするに限る。

  • 小説
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  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-18

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