Korean Japanese
日本で生まれ育ち普通に生きる韓国系日本人のルーツに迫る大河ドラマ
prologue
バファリン
ロキソニン
ボルタレン
太田胃散
加味帰脾湯
サインバルタ
ワイパックス
症状が軽減すれば存在を忘れることもある
このところ頭痛もなく胃の位置を意識する事もなくなった
ここからは南に景色が広がり遠くの丘と家々が見える。恐らく今年が最後であろう近くの森の紅葉。午後からはベッドルームの窓に日が差す。
何かを書く必要を感じていた。ここまできて何も残さないわけにはいかない。
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子供の頃はよくこの世ならぬものたちの声を聞いた。私の名を呼ぶ大勢の声。誰もいない二階にざわざわと数人の声がして何人かが私を呼ぶ。一人でいる時間はそれほど長くはなかったはずだがあの二階には何かが住んでいたのだろうか。
覚えているのは火事の光景だ。姉と工事中の屋根に上がって眺めていた、すぐ裏の家の火事。火事場見物なぞいい趣味ではないがあの頃はみんな出てきて眺めたものだ。それからすぐその裏の敷地を買い、暫くはれんげ畑になっていた。隣の畑から蓮華、菜の花、あざみが飛んできて咲いていて幼い私は祭りのヒヨコのお墓を作ったり、蓮華の首飾りを作ったりして遊んだ。裏のおばあさんが時々紙に包んだお菓子をくれた。すぐ上の姉が交通事故で亡くなったばかりだったので、裏の空き地に行くにも誰か必ず付いてきて道を渡らせてくれたものだ。
あの頃はまだ世界は穏やかで幼児を包む透明なカプセルが私を包み込み、大きな音や衝撃から守られていたのだろう。
「あんたもボコボコにされたじゃん」
と兄は言うがそんな記憶はない。
育った家には空中庭園があり垂れの松、七竃、椿、柘榴などの木々と小さな池に鯉と金魚と亀がいた。手作りの鶏小屋には小綬鶏と十姉妹の親子。鶯は専用の竹籠に居て練り餌を貰っていた。一度縞栗鼠が逃げてしまい暫く二匹が屋敷中を駆け回り放し飼い状態だったことがある。餌を手に乗せて差し出すと運が良ければ食べてくれるが5回に2回は中指を噛まれる。それでも懲りずに手乗りにしたかったが引っ越しを機に栗鼠達は何処かへ行ってしまった。
引っ越した先にも蓮華畑が広がっていた。マルチーズの仔犬を買ってもらって近所の新婚家庭に入り浸っていた。子供のいない家で犬と私を可愛がってくれた。私はまだ10歳くらいだったろうか。
やがてまた空中庭園のある家に戻るのだが、そこからの記憶が殆ど無い。高校の文化祭などあったのだろうか?断片的な通学の記憶があるだけで友達の名前もほとんど覚えていない。カプセルが壊れた後、音が聞こえないように波の下に潜り、茫洋と聞こえてくる遠くの音にもあまり反応しないようにしていたのかもしれない。
周囲から見ればそれほど変ではなかったのだろう。健康に育ち何不自由なく大事にされているように見えていて、グレもせず成績も良ければ、まさかそんな闇が子供に潜んでいるとは思うまい。
だか私は二度程死のうとしたことがある。
九州から新潟へ
船は独特の油の臭いがする。港は食べ物の匂いでいっぱいで、長い裾を払い払いたくし上げてはタラップを渡る女たちの大騒ぎする声に満ちていた。重い雲が立ち込めたグレー一色の港を出て風が沖の潮の匂いに変わった頃うつらうつらしていたのから目が覚めた。
やっと出てこれた。これからは新しい土地で心機一転始めるのだ。故郷では大変だったけど…これからは兎も角も新しいことが始められる。ダメだったら帰ればいい。とにかく、それほど悪いことは起きないだろう。
船で子供二人を連れ夫のいる炭鉱を目指す。そんな女達はいくらもいて、日本語の怒声、朝鮮語のひそひそ声、子供の泣き声が一段落するともう港だ。釜山を出て3時間、日本の九州は済州島の次だからら、自分の国なのか外国なのかよく分からない。ただここは日本語の方が多く聞こえてくる。
半島と島国は近い関係ながら対立もしてきた長い歴史の中でこの時は占領国と植民地の段階である。
九州、佐賀県北方市 西杵炭鉱は1972年に閉山されるまで活動していた。炭鉱夫は植民地からの労働者が中心だ。人集めのために初期には拉致同様に連れてこられた者も多い。勿論自ら志願して海を渡った者もいるが聞くと見るとは大違い。給料も待遇も最底辺の労働者階級にはよくある話だ。
ダイナマイトで山を崩し狭い穴を奥まで下りて漆黒の石炭を運ぶ仕事はきつい。最も危険な場所には当然植民地からの炭鉱夫が当てられる。子供も働く。体が小さければ狭い炭鉱に入りやすいからだ。
生きない様に、死なない様に
中世の支配者搾取のモットーだ。炭鉱でもそれは適用される。逃げない程度に、でも死なない様に、酒と賭博と給金だけが繋ぎとめて重石だ。
それでも炭鉱夫に子供が生まれると金一封が出る。生まれればしばらく動けまいし扶養家族が増えればよく働くと見ての措置だが、
この十円を握りしめて夜中に出奔を試みた者がいる。
生まれたばかりの乳飲み子は男の子。産褥の女房と子供二人を連れ、夜中にそっと飯場を抜け出すと最終の夜行で福岡へ向かう。子供達は心得たもので泣かない。わずかな身の回りの物を風呂敷に包んで、いつダイナマイトで命を落とすか知れない命がけの職場を後にした。
目指すのは、
「できるだけ炭鉱から遠く、捕まらないところ」
働く場所とツテを探して逃避行が始まった。
大正15年1926年6月12日
この年の12月25日に大正天皇が崩御。年号は昭和に変わり年末までのわずかな期間が昭和元年とされる。
年が明け昭和2年の正月、一家は新潟にたどり着いていた。
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