備忘録
ある秋の日の放課後の事だった。小学校の校庭には、まだ数人の子どもが残っていた。
そこにいた子たちの名前を、今の私はほとんど思い出すことができない。たしか四、五人の男の子がサッカーに興じ、三人くらいが砂場の限界を見極めようとし、後は私を含めた女の子たちの集団がブランコを漕いでいて、その隣に一人だけ男の子が交じっていたはずだ。
その子は名前を大地くんといった。青い縁の眼鏡をかけていて、髪はやや長く前髪は眉にかかり、そして子どもなりに頬のシュッとした、どちらかといえば顔立ちの整った子だった。勉強がよくできて、先生たちにも気に入られていた言わば優等生だった。もちろん当時は知らなかったことだが、両親がなかなか教育熱心で、平日は毎日習い事に行っていたそうだ。
優等生でなかったわたしは、そんな大地くんとはあまり親しくなれなかった。三年生で同じクラスになって二年目だったのだが、別に席替えで隣になったりしたこともなく、特別何らかの印象を彼に持っていたわけではなかった。
だからその時も、わたしは大地くんに別段の興味を払ってはいなかった。隣に座る女の子たちとの他愛のない話だけがわたしの関心事だったし、彼女たちにとってもそれは同様だった。
しかし、十歳の男の子たちは実に目ざといものだった。サッカーをしていた長身のガキ大将(名前が思い出せない)は相手のシュートを受け止めると、大地くんのほうをさっと振り返ってボールを放り投げた。
「何してんだよ大地ーっ。女と遊んでねえでこっち来いよー」
ガキ大将らしからぬ可愛らしい嫉妬の文句とともに投げつけられたボールを、大地くんはわざわざ立ち漕ぎ中のブランコから飛び降りて颯爽と蹴り返した。しなやかな足が見本のような軌道を描き、ボールは綺麗な放物線を描いて飛んで行った。わたしは思わずその軌道を目で追っていた。誰も近寄れないままボールがサッカーコートの真ん中で大きくバウンドすると、小さなプレイヤーたちは慌ててその後を追いかけた。
遥か彼方で男の子たちがボールを捕まえたのを見届けると、わたしは不意に大地くんのわたしを見る視線を捉えた。体はこちらに向けず、首だけが九十度振り返ったその顔は恐ろしいくらい無表情だった。目が合っていたのはほんの一瞬のことで、すぐに大地くんは振り払うようにこちらに背を向け、コートの方へと駆け出して行った。
わたしはその目に何かを投げかけられた気がした。それは無機質で、鉄のような視線だった。怒られているのか、はたまた非難されているのかと不安になるほどだった。大地くんと話したこともほとんどないようなわたしには、もちろんそんな心当たりはなかった。それがわたしを強く惑わせた。
やがて日は落ちていき、風が冷たく変わっていった。砂場の探検隊たちはいつしか退散し、そこには掘り返された跡だけが残っていた。わたしたちもそろそろ帰ろうかと思っていた矢先、校舎から怒ると怖い担任の先生が出てきた。
「おまえら、いつまで遊んでるんだ。もう暗いし早く帰りなさい」
そうしてその日はお開きになった。女の子たちはみんな大人しく帰路につき、男の子たちは慌ててボールを片付けにかかった。
薄明りの寒空の下、一緒の方向に帰る子たちも、ひとり、またひとりと減っていく。ススキに囲まれたあぜ道に入って、ついにわたしはひとりになった。わたしはこの一面のススキと、一人の時間が好きだった。秋の道を踏みしめて、亀のような速度でわたしは帰っていった。
突然、わたしを後ろから追い越した自転車が目の前で急ブレーキをかけて止まった。暗がりの中こっちを振り向くその人は、誰かと思えば大地くんだった。自転車を降りて十数メートル向こうに立ったまま、わたしをじっと待っていた。
正直に言えば、わたしは大地くんが何を考えているのか見当もつかなかった。大地くんがわたしを待つ理由なんてないように思えた。
「家、こっちだったっけ?」
気まずさが呼び起こしたわたしの問いかけに、大地くんは答えなかった。わたしが横に並ぶと、大地くんは自転車を押して、わたしに合わせてゆっくりと歩き始めた。
沈黙が続く。初めは重苦しかった静寂が、日の沈みゆくのに合わせて、次第に気にならなくなっていった。いつしかわたしは、大地くんが隣にいることさえ忘れて、いつもの、何にもない帰り道を一人の気分で歩いていた。わたしは風に揺れるススキの音を聞いて、空に見え始めそうな一番星を何気なく探していた。
「僕さ、」
夢うつつのわたしを現実に引き戻したのは、やっぱり大地くんの声だった。え、と思って左を見ても、彼は前を向いたままだった。あまりにもさりげないものだから、独り言か空耳かと疑ってその横顔を見つめてしまった。
それからずっと彼は黙ったままだった。続きを待つ間も空はずんずん暗くなっていった。彼はずっと前だけを見つめていた。このまま家に着いちゃったらどうしようとわたしはずっと考えていた。
不意に大地くんは足を止めた。わたしも引きずられて立ち止まった。振り返って目にした大地くんの顔は、やっぱり無表情のままだった。その時ふと、大地くんの顔を真正面から見るのはこれが初めてだと、わたしは気づいたのだった。
大地くんは躊躇いなく、不安な顔をしたわたしに向かって口を開いた。
「急に変なことを言うけど、ごめん。僕はきっと死ぬまで君を好きだ」
わたしは一瞬で息が詰まった。一体その時、わたしはどんな表情をしていたのだろう。大地くんは立派なもので、眉一つ動かさないままわたしの目を真っ直ぐに射止めていた。わたしはなにか言葉を返さなければいけないと本能によって直感し、焦燥に負けじと懸命に頭を働かせた。しかし、思い浮かんだのはくだらない質問だった。
「……どうしてわたしを?」
賢い大地くんは、今度も質問には答えなかった。
「その意味は変わるかもしれないけれど、きっと死ぬまで君を好きなんだ」
それだけを言い終えると大地くんは自転車に跨った。そうしてわたしが何も喋れないでいる間に、大地くんは颯爽と風にのって行ってしまった。最後の言葉を境にして、もう二人の目が合うことはなかった。
しばらくわたしはその場に立ち尽くしていた。揺れるススキの中、自転車の去った方を振り返るとそこには一番星が浮かんでいた。そのときのわたしは、へんな満足感のようなものに包まれていた。なんとなく世の中のいろんなことが分かったような、すこしだけ大人になったような気分で、その晩はうまく寝付けなかった。
翌日、教室で会った大地くんは、昨日とはうってかわって別人のようになってしまった。ふとした時に姿を探してしまうわたしの視線は、決して跳ね返ってくることがなかった。廊下ですれ違っても、まるで知らない人のようなそぶりだった。もちろん、声をかけなかったわたしの臆病さも悪いには違いない。それでも、冷酷なくらいに、彼はまさしく以前の大地くんに戻ってしまった。
じゃあ、あれは嘘だったの? わたしは裏切られたような気がしていた。これまでと変わらないはずなのに、突然孤独に突き落とされたように感じた。
その翌週の月曜日の朝、教室から大地くんの机が消えた。わたしは呆然とした。朝の会にやってきた担任の先生は、大地くんが遠くの県へ引っ越したことを淡々と告げた。
その日の帰り道、ススキの中のあぜ道で、わたしの目からは不思議な涙が零れた。その正体もわからないまま、わたしはおいおい泣きながら歩いた。
***
もちろん今となっては、これは美しい思い出だ。記憶の補正もかかっているかもしれないが、あの夕方のあの瞬間、わたしたちの心は少しだけ、けれど確かに触れ合ったと思う。あれから現在に至るまで、その感覚は唯一のものとしてずっと胸にしまってある。
それでも、あの儚さを愛しいと思えるほどには、今のわたしも大人になってはいない。
備忘録