溢れる想い

 胸騒ぎがした。台風が来そうな空を見つめ続けているような、嫌ではなく、どこか待ち遠しい感覚。
 入学式は滞りなく進行した。おれ自身もそうだが、多くの人は知り合いがいないようで、よそよそしさが静けさを演出していた。これが卒業式のときどうなっているか、とても興味のあることだ。
 高校一年生になるため、入学式は通算三回目。小学校から中学校に上がるときはほとんどが知り合いで、校舎と先生が変わるくらいしか変化がなかったから、中学生になる、という実感がイマイチだった。先輩も、進級してから来る後輩も知った顔ぶれが多く、本当に実感がなかった。
 でも、今回の入学式は違う。受験を経て同じ高校の生徒になったおれたちは、学力が近い人がだいたいで(そのはずなのに、すごい人もいて、抜けている人もいた。一概に学力が近いと言い切ってはいけない)、出身中学もバラバラだ。それが面白くもあり、一般に言う運命だとか、一期一会だとか綺麗な言葉で飾られるものだ。
 おれと中学が同じ人は両手で数えられるほどしかいないが、その中でも、特に仲のよかったやつが一人いる。一人であろうと、気心の知れたやつとまた同じ校舎で過ごせるのは、恵まれていると思う。それに、気持ちにも余裕ができる。知り合いの少ないこの状況の中で落ち着いていられるのも、その親友の存在のおかげだ。
 
 教室にて、初日から頑張って知り合いを増やそうとしている同級生たちを横目に、おれはそそくさと帰ることにする。真新しい学生鞄を背負って、誰にも何も告げずに教室を出る。
 おれの親友さんは、別にクラスが違ったわけではなく、全くもって同じクラスだった。彼は、おれと違って、周りの人に気さくに話しかけるのに忙しそう。一緒に帰ろうかと目論んでいたが、諦めることにした。あの中に入るのは、面倒だし。
 下駄箱で靴を履き替え、まだ日が高い位置にある空の下に出る。
 校庭を歩いて、校門を抜ける。都会の公立校だから期待してはいけないとはいえ、狭い校庭は寂しい。
 まあ、校庭の広さ云々は気にならない。部活はまたバレー部に入るつもりだから、気になるのは体育館。明日にでも見に行こうかな。とりあえず、今日は帰る。
 バレーボールは、小学校の高学年から始めた。週一回しかやらないクラブだったが、おれはその面白さにはまった。テレビでバレーを見るようになり、鋭いスパイクに飛びつく姿や、無人のスペースにボールを叩き込む姿に見惚れた。
 特に憧れを抱いたのは、セッターというポジションだった。セッターとは、スパイクを打つ選手のためにトスを上げる役割のことだ。サッカーで言う司令塔に当たる、大事なポジションだ。
 中学三年間は、ずっとセッターを務めていた。ただ、スパイクを打てる人がそう多くなかったので、自分で打つこともあった。
 高校では、セッターに専念したいと思っている。だから、強いアタッカーがいることを切に願う。おそらく、いるはずだ。この高校はバレーの強豪校として有名だから。それを知っていて、選んだのだ。
 ぽん、と誰かに肩を叩かれて、思考を停止させた。
 親友のあいつだと思って振り向くと、そこに立っていたのは、柔らかい微笑みをたたえた女子だった。ぱっちりして、黒目がちな瞳。透明感のある頬には、うっすらと赤みが差している。
 全く知らない人だった。同じ中学の出身ではない。
「すぐ帰っちゃうんだね」
 そう言って、おれの隣に肩を並べた。そして一歩、二歩、歩き出していく。おれは何となくその歩幅に合わせる。
「みんな頑張って友達作ろうとしてるのに、余裕だね?」
 名前を明かしてこないから、おれも明かさずに話を進める。
「面倒なだけだよ。――あんたこそ、一人で帰っていいの?」
「私はいいのよ。同じ中学の友達が何人かいるし、焦って作った友達で失敗したくないから」
 話を聞いている印象として、頭がよさそうだと思った。いわゆる、優等生タイプ。おれの苦手なタイプだったが、彼女にはとっつきにくさがあまりない。
「わっと」
 いきなり、何もないところでつまずいて、転びそうになった。
 おれは反射的に動いて、肩を持ってやった。
「大丈夫かよ」と、声をかけると、おれの顔をじっと見つめていた。ドキッとして、慌てて肩を放す。
「背、高いんだね」
 何を言うかと思えば、身長のことだった。バレーをやっているくらいだから、身長はそれなりに高い。でも、そう言う彼女も、低い方ではない。
「ありがとう。私、よく転ぶんだよね」
 何のてらいもない笑みを向けられ、おれは笑みを返す。
「何にもないところだったぞ」
「そう、何にもないところで転ぶの、いつも」
 優等生タイプだと思っていたのに、何だか抜けている一面もある。不思議な人だ。
 左右に開けた道に出た。
 おれは左に曲がろうとする。
「あれ、染井の方に住んでるの?」
 どうやら、彼女は反対側のようだ。ここでお別れらしい。名残惜しい気もするけど、明日から嫌でも会えるだろう。
「ああ」
「じゃあ、さよならだね。――あ、そうだ、自己紹介がまだだった」
「別れ際に自己紹介すんのも、変な話だな」
 おれが言うと、彼女は「そうね」と笑った。
「でも、名前も言わないで別れるのも変じゃない? それとも、あえてそうする?」
「いいよ、名前くらい教えるって」一つ、間を置いた。「A組の水野尚輝です」
「A組なの? 一緒だ。私は、前田怜奈。明日からよろしく」
「こちらこそ」
「じゃあ、またね」
 手を振り合って、別れた。
 前田怜奈、か。心を奪われた、とまではいかないけど、常ならぬ感情を抱いたのは確かだった。

 翌朝、友達と話している前田の姿を教室で見つけた。なるほど、ちゃんと友達がいるのだな。まあ、あの容姿と性格だったら、放っておいてもできるだろう。
 おれは自分の席に座って、手持ち無沙汰のまま、ぼんやりとしていた。
 そこに、登校したばかりらしいあいつが来た。島津大志が。
「よお、尚輝」
 明るい笑顔を向けてくる。朝から元気なやつだ。
「よっ。同じクラスだったんだな」
「そうだよ、お前、いつの間にか帰ってやがって」
 昨日のことを言っているのだろう。かわいい女子と帰った、なんていう自慢は、したくてもしない。
 ふと前田の方に視線をやると、たまたま彼女もおれの方を見ていた。気まずくなって、どちらからともなく視線を外す。
「それより、部活見学つきあってくれよ。バレー部、見たいから」
 ああ、はいはい、と島津は手短に承諾した。
「分かってるよ。その代わり、おれにもつきあってくれよな」
「大志、高校でもサッカー部?」
 と言うと、大志は頷く。
「まあな。……と、そろそろチャイム鳴るな。じゃ、よろしく」
「おう」
 大志は真ん中の列の、前方の席に着く。出席番号が真ん中辺りの大志と、終わりから二番目のおれは席が遠い。
 改めて周りの席を窺うと、みんな知らない人ばかりだ。まあ、焦らず、そのうち親睦を深めていこう。

 早雨。「はやあめ」ではない。「さっさ」と読む。我がクラスの担任の苗字だ。かなり珍しい苗字だそうだ。確かに、早雨という苗字の人と初めて会った。
 彼女は(女の先生である)、まだ三十台前後のようで、若い。担当教科は日本史、部活はバレー部の顧問だという。
 バレー部に入るつもりのおれは、ちょっと気になったけど、正直、誰でもよかった。顧問のためにバレーをするわけじゃないし、むしろ、頑固な鬼顧問よりマシだ。
「高校生にもなって、と思うかもしれませんが、皆さんのことをまだよく知らないので、一人ずつ自己紹介をお願いします」
 教室内が、少しざわつく。あくまで、少し。――思ったけど、このクラスは案外、大人しいクラスのようだ。
「じゃあ、出席番号順で、会沢君から」
 指名された会沢は、「ええーっ、いつもこういうとき最初なんだよなー」と、不満を言った。それで、笑いが起こる。
「仕方ありませんよ。そういう苗字で生まれてしまった、宿命みたいなものですから」
 会沢は、不承不承ながら、手探りの自己紹介を始めた。
「相沢陸です……。――えっと」

 昼休み、おれは屋上へ向かう。
「立ち入り禁止だったかなー。そしたら、どうするよ?」
 大志とともに。
 おれと大志は、中学三年間ずっと屋上で弁当を食べていた。それが、気持ちいいからだ。他人の介在の余地がなく、風景も楽しめる。
 ただ、高校では立ち入りが可能かどうか確認していなかった。はたして、どうだろう。
「そうだな、教室に戻るしかないかな」
「それはだるいな」
その思いは、おれも同じだ。
 屋上まで辿り着くと、立ち入りは禁止されていなかった。
「よっしゃ」
 重い鉄の扉を開けて、三百六十度広がる外の風景と出会う。
「おおっ。中々、いい眺めじゃないか」
「だな。早く食おうぜ」
 お腹がとても空いていた。
 しかし、しゃがみこもうとするのを、大志が制する。
「まあ、待てよ。購買部でコーヒー牛乳、買って来ようぜ。うまいって有名らしいよ」
 おれは顔をしかめた。「何で今、言う? 階段を上る前に言えよ」
「だって、屋上が入れるか分からなかったじゃん」
「じゃあ、明日でいいだろ」
「嫌だよ。おれは今日、コーヒー牛乳を飲めることを楽しみにして、学校来たのに」
 お前の楽しみはそんなことか。――でも、何だかおれも飲みたくなってきた。
「じゃあ、ジャンケンして、負けた方が買いに行く」
「いいね、そうしよう」
 最初はグー、ジャンケン……負けたのは、おれだった。
「くそっ、仕方ないな」
 大志は満面の笑み。「よろしく頼むわ。あ、本数に限りがあるから、ダッシュでね」
 これで買いに行って、手ぶらで帰ってくるのも癪だから、言われた通り、急いで購買部に向かった。

 階段を下りて、角を曲がろうとしたところで、いきなり誰かとぶつかった。向こうも走っていたようで、かなり勢いがあった。そのまま、おれを下にして、互いに倒れこむ。
 胸の柔らかな感触と、短いスカートから露わになっている太ももの感触が伝わる。間近にある顔を見て、その女子が知っている人だと確認する。同じクラスの松井えれなだ。
「ごめんなさい。……あれ、水野君」
 と思ったら、彼女もおれの名前を知っていた。憶えられているとは、思っていなかった。
「松井さん、だよね? 同じクラスの」
「う、うん。知ってるんだ、私の名前」
 忘れたくても、忘れられない。インパクトが強すぎた。
 高校生離れした豊満な胸に、自分でやったのか、全く故意ではないのか、短すぎるスカート。クラスの男子全員の注目を一身に浴びていた。
 柔らかそうだ、とついさっき思っていたら、こんなに早くその感触を確かめることができるとは。でも、ちょっと重いかもしれない。
「そっちこそ、よくおれの名前覚えてたね」
「うん、何か覚えてた」
「何か、ねえ。……あの、そろそろ離れない?」
 ぶつかって倒れこんでから、ずっと体を密着し合っていた。嬉しい状況だけど、他の人に見られたら何て言われるか分からない。
「あ、ごめん、ごめんね」
 慌てて起き上がる。おれも続けて、立ち上がる。
「あ、私、急いでたんだった」
 松井は思い出したようにそう言うと、中途半端な別れの言葉を残して、走り去っていった。
 ひらひらと揺れるスカートをぼんやりと眺めながら、その後ろ姿を見送った。
「あ、おれも急がないと」
 独り言を呟いて、購買部の方へ走り出した。
 コーヒー牛乳が売り切れていなければいいが。

「遅かったな」
 コーヒー牛乳を差し出すと、大志はとっくに食べ始めていて、あらかた食べ終わっていた。待っていてくれたっていいじゃないか、買いに行ってやったのだから。そう思ったが、強いて言わなかった。
「ちょっと、手間取った」
 言ってから、さっきあったことを思い出す。柔らかな感触。よく考えたら、おれってすごい状態だったのではないだろか。でも、とても言えそうにない。
「まったく、購買部くらい覚えといて損ないぞ」
 学校の見取り図を把握していないと思われたようだが、訂正する必要はないだろう。
「しかも、お前の分は? いらなかったん?」
「売り切れてた。それ、最後の一本」
 と言って、大志が飲んでいるコーヒー牛乳を指差す。
「え、そうなのか。やっぱり人気なんだな。……あ、飲む?」
 好意はありがたいが、そこまで強い意志ではなかったから、遠慮しておいた。学校は、今日から始まったばかりだ。ひょっとしたら、明日から飽きるほど飲むようになるのかもしれない。
 その後、大志となんてことない会話を交し合ったけど、正直、半ば上の空だった。
 あんなに衝撃的なことがあったのだ。それもただの女子ではなく、松井えれなだった。何とも、刺激が強すぎる。
 どうしよう、これから彼女と普通に接せられなくなるかもしれない。まあ、まだろくに話したこともないけど。

 授業は先生の話で終わるものがほとんどだった。ただ笑っているか、隙を見て眠るか、いずれにしろ気楽な時間が続いた。
 そして放課後には、おれは大志を連れ立ってバレー部の練習を見学しに行った。見る前から入部を決めているようなものだが、ちゃんと見ておくに越したことはあるまい。
 体育館には、コートの床を打つボールの音と、男女入れ混じった掛け声が響いていた。レベルはそこまで高くないようだが、男女ともに仲がよさそうで、楽しそうだった。レベルが高ければやりがいもあるけど、楽しくなきゃ部活の意味はない。
 問題なさそうだ。
 改めて、入部を決めた。明日にでも、入部届けを出そうと思った。顧問は、担任の早雨さんだし。
 一つ気になったのは、同じく見学に来ていた人たちの中に、前田怜奈がいたことだ。入学式の日に、一緒に帰った彼女だ。友達と二人で見に来ていたけど、もしかしてバレー部に入るつもりなのかな。実力はどうだろう。あのすらっとした体格なら、綺麗なスパイクが繰り出されそうだ。
 二人は、おれたちよりも先に体育館を後にした。それから少しして、おれたちも体育館を出た。
 付いて来てくれたお返しに、サッカー部の見学に付き合った。大志もよっぽどのことがない限り、サッカー部に決めている。ただ、やっぱり見学はしておきたいらしい。
 サッカーは見るのは好きだが、プレイする方は得意ではない。でも、休み時間に友達とやることも度々ある。上手いやつらを見ると思うのは、足でボールを思い通りに動かせるのがすごい、だ。おれには難しくて、できそうにないから。
 我が高校のサッカー部にも、そんな人たちがたくさんいた。みんな、足先で器用にボールを操っている。
 大志もそんな人たちの内の一人だ。経験が長いから、やはり友達らでやるときは、格の違いを見せつけられる。
 ふと、サッカーコートの反対側にいる二人組の女子に気付いた。あれ、また前田だ。
 どうやら、おれたちと同じ立場らしい。どちらかがバレー部に入ろうと思っていて、どちらかがその逆。
 どっちだろう。見た感じ、もう一人の方も上背があるし、どっちがバレー部でも不思議じゃないが。まあ、その内に分かるはずだ。
 向こうも気づいたのか、手を振ってきてくれた。柔らかな微笑みを添えて。おれも手を振り返す。
「え、いつの間に仲よくなったんだ?」
 隣で大志が驚いた声を上げた。「今日、まだ二日目じゃん。どうしたの、手出すの早くね?」
「そんなんじゃねえよ。昨日、たまたま帰る方向が一緒だっただけだよ」
 大志は軽くのけ反る。「ええーっ、声かけたのか? 尚輝が?」
「向こうから話しかけてきたんだよ」
「……マジか。もてるんだな、意外と」
 意外とだと、失礼だな、と言い返しがてら蹴り真似をした。でも内心、気分は悪くなかった。
 ただ、大志が思っているようなのとは少し違う。前田は、男に言い寄るようなタイプではなさそうだし、あの日話しかけたのも、きっと、自分と考えを同じにしていた人を見付けた嬉しさが動機だと思うから。
 ただ、あくまで推測に過ぎない。だって、彼女とは出会って間もない。詳しくは存じ上げない。
 だけど、最初に覚えた印象は大事にしたい。

 階段の途中で、聞き慣れた声に振り返った。
「誰かと思った。おかえり」
 こっちこそ、誰かと思った。
「おかえり。早いね」
 野間さんだ。
「いつもどおりさ」
 野間さんはサラリーマンだ。まだ若いのに、比較的いつも定時に仕事を切り上げてくるらしく、帰りは一般的なサラリーマンよりも早い。それを不安に思うときもあるけど、母さんに愛想を尽かしていない証拠だとも、ときどき考える。
 おれが鍵を開けて、野間さんのためにドアをおさえた。「ありがとう」と言って、通り過ぎる。おれも続いて、ドアを閉める。
「おかえり。……あら、一緒だったの」
 母さんが野間さんの背後に隠れていたおれに気づいて、声を上げる。
「学校まで迎えに行ったのさ」
 野間さんはくだらない冗談を口にする。でも、母さんはそれで楽しそうに笑う。
 野間さん、野間さんと言っているが、いったい誰かというと、母さんの今の夫だ。
 おれの父さんは別にいる。小さい頃、母さんと父さんが些細ないさかいの積み重ねから離婚し、おれは母さんに付いていった。おれが選んだわけではなく、親同士の話し合いで決められた。おれはどっちがよかった、という強い意志はないし、きっと選べなかったと思う。
 そして、母さんは年下の野間さんと再婚した。再婚したことによって、我が家に野間さんが住まうことになった。
 時期をほぼ同じくして、父さんも年下の女性と再婚した。二人とも、もてる要素が少なからずあるのだと思った。
 野間さんは、真面目な好青年だ。おれに好青年と思われていたら、あんまり気分のいいものではないだろうけど、まさに「好青年」と呼ぶにふさわしい人なのだ。
 しかし、いまだにおれとの会話はぎこちない。母さんは陰で、難しい年頃だからよ、とおれの方に責任があるようなことを口にしていた。でも、その原因は野間さんにあると思う。野間さんは、身構えすぎているのだ。一緒に暮らしているのだから、もっと肩の力を抜いて欲しい。母さんは、その本質に気付かない。
 ただ、野間さんが必ず肩の力を抜くときがある。それは、酒が入ったときだ。好青年然としているのに、野間さんは酒好きだ。
 母さんも酒好きだ。二人が再婚してしばらくした後、この二人が意気投合したのは、酒のおかげではないかと推測した。
 そんな二人だが、強さには差がある。母さんは飲んでも、いつもと調子が変わらないけど(少し涙もろくなるかな。ドラマを見ているときに、目を潤ませていることが多くなる)、野間さんはすぐに酔っ払う。ぐったりしちゃって、その辺で横になってしまうこともしばしばだ。そんなときの野間さんは、おれに脈絡のない話をぶつけてくる。
 肩の力が抜けたのはいいが、抜けすぎて、話に全くまとまりがない。正直言って、おれはそんなときの野間さんに付き合うのは、面倒でならない。
 そんな野間さんと、お腹の中からずっと一緒の母さんと、おれは三人で暮らしている。おそらく、あと数年はこの形で暮らしていくのだろう。そんなことを漠然と考える。

「聖徳太子? 意外だな。まあ、確かに飛鳥・奈良時代あたりをやって欲しい気持ちはあるが」
「だろう? おれも聖徳太子は、主役としてどうなんだと疑問に思う」
「だからといって、誰を主人公にする? 聖武天皇か? 天智天皇か? 天武天皇か?」
「天皇ばっかりだな。このご時世に、天皇を主人公にできるのか」
「できたとしても、魅力が感じられないな。どう魅せるのか興味はあるが」
「藤原不比等、吉備真備、阿倍仲麻呂。彼らのほうが面白そうだ」
 一見すると、歴史トークが繰り広げられているように思えるけれども、これは一人の人間によって繰り広げられている。
 独り言に忙しいのは、蔵本結人。宿題に追われている会沢陸の横で、邪魔でもするかのように朗々と語っている。察するに、NHK大河ドラマの主人公は誰がいいか、をテーマに据えているらしい。
「うるせえな! 英語の宿題やってんだから、隣で日本史を唱えるんじゃねえ!」
 しびれを切らした会沢陸が怒鳴り声を上げる。
 それでも蔵本は「ほう、今のが日本史ネタだと分かるのか」と、小ばかにしたように返す。
「そんくらい分かるって」
「なるほど、見くびっていたよ。そんな簡単な宿題に手間取っているとは思えないな」
 蔵本が指差した英語の宿題は、前回の授業で出された、高校最初の宿題だ。最初なわけだから、難しいものではない。というより、中学の復習みたいなものだから、とても簡単だ。
 おれは二人のやり取りに面白さを感じて、気まぐれに近付いてみた。
「朝っぱらから修羅場だな。まさか、この宿題を朝休みにやってる人がいるとは思わなかったよ」
 二人はおれに気付くと、少し戸惑いの色を表情に浮かべた。
「悪い、突然。楽しそうだな、と思って」
 弁解するように、言った。「おれ、水野」
「おれは蔵本だ。水野――というと、水野忠邦の子孫か?」
「いや、違うけど」
 水野忠邦はおれの弟だけど、という言葉は飲み込んだ。
「だろうな。一応、聞いてみただけだ」
「おれは会沢。初対面でばかにするとは、失礼なやつだな」
 文句をたれているが、全く腹立たしそうでない。
「すまん。でも、それが難しいようじゃ、これから苦労するぞ」
「大丈夫、どうせこいつは苦労するんだ。中学も三年間、朝からうんうん、呻ってた」
 会沢本人の代わりに、蔵本が答える。
「うるせえやい」
 会沢は頬を膨らませる。おれは楽しくて、笑った。
「ただな、こいつには一つだけ美点があるんだ」
「へえ、美点」
 純粋に興味を持って、聞き返した。
「こいつはばかなのは間違いないが、人の助けを借りないで、自分の力でやるんだ。分からなくても、時間がなくても、絶対に自力でやり遂げようとする。――まあ、できないで終わるのがほとんどだけど。そこが唯一の美点だな」
「おお、それは偉いな。――将来、大物になるんじゃないか」
「そうかもな」
 すると、会沢は頭をかいた。「何だよ、気持ち悪いな。褒めるなよ、照れるじゃないか」
「いいから早くやれよ。チャイム鳴るぞ」
 会沢はそうだった、と言ってテキストに向き直る。
 おれはまた笑った。
 無情にも、チャイムはそのすぐ後に鳴った。

 ボールの音を聞いているのが楽しい。ボールの行方を追っているのが心を弾ませる。忘れていなかった、この感覚。
 部活に出るようになって、一週間が経つ。おれをはじめ、新入生たちもバレー部の雰囲気に馴染んできて、練習に精を出していた。
 部活見学に来ていた前田怜奈ともう一人の女子――結局、バレー部に入ったのはもう一人の、名前も知らない方だった。彼女は、上野薫子という名前だった。中学からバレーをやっていたそうで、まだ練習段階ではあるけど、その実力は他の一年生に比べ、群を抜いていた。スパイクのフォームが綺麗で、放たれるボールのスピードが周りとまるで違っていた。早くも、次期エースの呼び声も高い。
 一方の前田は、サッカー部にマネージャーとして入部した。それを残念に思う気持ちが心のどこかにあることに、驚いた。
 サッカー部ということは、大志と同じ部活ということである。あいつの性格ならすぐ仲よくなるだろう。何となく不安になる自分に、また驚いた。
 前田は上野といつも一緒に帰っていた。どちらかの部活が長引いても、校門の前で辛抱強く待って、遅くなったほうは走って駆けつけ、待たせたことを詫び、ともに帰った。おれと大志のように、長い付き合いらしい。
 今日は、前田が校門の前で待っていた。無言で通り過ぎるのも悪いから、片手を挙げて挨拶した。
「よっ、おつかれ」
 また明日、と続けようとしたが、前田の言葉に遮られる。
「薫子、もうすぐ来る?」
 立ち話をするつもりはなかったが、答えるために立ち止まる。隣に並んで、校庭を見据えながら話す。
「ああ、練習はさっき終わったし。でも、女の着替えは時間がかかるからな」
「水野君は、誰かと一緒に帰らない主義なの?」
 皮肉とかではなく、純粋な興味として聞いているのが窺えた。
「別に、帰ってもいいんだけど……家、近いしな。まあ、そのうち帰るメンバーが決まってくるだろ」
「初めて話した日も、一人で悠々と帰ってたね」
 入学式の日のことを言っているのだと分かる。思い出さなくても、前田に会うと、あの日のことを真っ先に思い出す。
「そっちもね。――そういえば、サッカー部に入ったんだな」
 話題を急に変えたことに対してか、前田はくすりと笑った。
「そうだよ。何部に入ると思ってたの?」
 バレー部に期待交じりで入ってくれると思っていた。背もすらっとしているし、運動もできそうだったから。でも、それを正直に言うのは、何となく気が引けた。
「何だろう……バスケかな」
「ええー、適当に言ってない?」
 前田は口の前に手をやって、笑った。
「適当じゃないって。なんか、中学三年間やってました、って感じがする」
 前田はまだ少し笑っていた。「へえ、そう思われてたんだ。――私は、水野君がサッカー部に入ってくれるかな、って思ってた。というか、入ってくれたら嬉しいな、って思ってた」
 おれの反応に、わずかな間があったと思う。――入ってくれたら、嬉しい?
 でも、薫子と同じバレー部とはねー。でも、そっちの方が合ってるかも。おれの様子には全く気付かないで、前田はすらすらと続ける。
「あ、あのさ」おれはやや動転していた。「サッカー部の一年に、大志――島津大志ってやつがいるから。そいつ、おれのダチだから、よろしく頼むよ」
 嬉しさのあまり、言わずもがなのことを言ってしまった。
 それでも、前田は明るい笑みとともに頷いた。「分かった、憶えとく」
 そこに、ちょうどいい頃合いで上野が来た。
「おまたせー……あれ、水野君」おれに気付いて、目を丸くした。「なに、二人とも知り合いだったの?」
「まあね」前田が胸を張るように答える。
「そうだったんだ。というか、水野君なんて気安く呼んだけど、面識なかったね」上野はおれに向かって頭を軽く下げた。「上野薫子です。同じ部活同士、よろしくね」
「水野尚輝です。こちらこそ、よろしく」おれも頭を下げ返した。
「じゃあ、帰ろうか。――またね、水野君」
 前田が促して、二人は連れ立って歩いていく。おれも帰ろうと思っていたのに、なかなか足が動かない。
 遠ざかる前の、手を振る彼女の笑顔が本当に眩しかった。

「昨日の部活でさ、前田さんに話しかけられたんだよ、突然。水野君のお友達なんだよね、って言いながら」
 ぶっきらぼうな口調で、大志が話している。今日も、おれと大志は屋上で昼ごはんを食べている。口調のわりに表情が明るいのは、誰の目にも明らかだ。
「ああ、おれが紹介しといたんだよ。よろしく、って感じで」
 おれは何でもない風を装った。でも内心、言わなければよかった、という後悔があるらしい。いい気分ではない。
「ってか、前にも言ったけど、いつの間にか仲よくなってたんだな。高校生になってから手を出すのが早くなったか?」
「ならねえよ」
 冷やかす大志を一蹴し、手に持ったコーヒー牛乳をあおる。最初は飲み損なったコーヒー牛乳だったが、それ以降は毎日欠かさず飲めている。人気があるだけあって、本当にそれはおいしかった。
 コーヒー牛乳を見て、松井えれなの胸の感触を少し思い出した。だけど、もう遠い昔のことになりつつある。
「早雨さんはどうよ?」
 早雨さんは、我がクラスの担任であり、バレー部の顧問だ。
「どうよ、って?」
「バレー部で、どんな感じ?」
 おれは斜め上を向いた。
「うーん、別に普通かな。いい意味で」
「いい意味で普通って、すごいな」
 大志は笑った。
「だって、去年も顧問やってたわけだし、学生時代にずっとやってきたみたいだから知識もあるし、問題ないよ。まあ、統率力に難があるけど、それは若いからしょうがないだろ。生徒の人気だってあるし、わりと恵まれてる方じゃないか」
「若いし、美人な方だしな。生徒の人気もあるわな」
 結論付けて、大志は伸びをした。
 空が青い。春の陽気のよさは、油断すると堕落に繋がる。梅雨の時期を前に、いかに自分を律することができるかが鍵となる。
 まだ高校生活は始まったばかりだ。三年なんて長いように思えて、絶対にあっという間だ。それに、高校の中のそれぞれの学年は、それぞれ一度きりしか経験できない。後輩のいない一年と、先輩と後輩を持つ二年と、後輩しかいない三年は全く異なる。
 でも、気にしすぎても仕方ない。日々を楽しく、時間を有意義に使えればそれで充分。
「あ」おれは思い出した。「体育祭って来月だっけ?」
 高校生の最初の行事は、体育祭だ。スポーツ好きにはたまらないイベント。
「六月の初めだろ。気が早いって」
「楽しみじゃねえの?」
「楽しみに決まってんじゃん。惜しむらくは、お前と同じクラスだってことかな」
 大志は不敵な笑みを浮かべた。
「まあ、一年のときくらい大人しくしとこうぜ」
 言い終わってから、おれは立ち上がった。「そろそろ戻ろう」

 座れない人がいないくらい空いている電車に揺られて、横浜へ運ばれていく。聞き取りにくい車内アナウンスに耳をすまして、慣れない乗り換えに備える。
 隣のおじさんは新聞を広げ、ときどき舌打ちをする。こっそり紙面を覗いたら、スポーツ欄で、阪神が巨人に逆転負けしたことが大きく報じられていた。どうやら、おじさんは阪神ファンらしい。野球には詳しくないが、今年は巨人が首位を独走していることだけは何となく知っている。
 正面には、大学生くらいのカップルが座っていた。うたた寝をしている彼女は、彼氏の肩に頭を預けている。一方の彼氏は文庫本を読んでいる。タイトルは分からなかったが、鮮やかな黄色の表紙が印象的だった。
 おれは電車の中で特に何もしない。慣れていない電車というのもある。というか、それ以外に理由が浮かばない。普段は音楽を聴いているわけだから。
 とりあえず今は、携帯を開いたり閉じたりして、時間を潰している。あとは、外の風景を眺めている。
 やがて、電車が目的地に達した。ここは、東京に次ぐ大都市である横浜。大きなホームに、たくさんの人が立っている。おれが降りると、そのたくさんの人が電車に乗り込んできた。その電車は、折り返しで東京に行く。
 どうして横浜に来たのか、それにはちゃんと理由がある。週末で暇だから気まぐれで来た、なんてことはない。
 横浜には、おれの父親がいる。野間さんではなくて、おれと血が繋がっている本当の父親。まだ小さかったときに母さんと離婚し、横浜に引っ越して、間もなく年下の女性と再婚した父さん。
 駅の傍に止まっている大きめの車を見つける。停車してはいけない場所だが、おれを待つために停まっているのだからしょうがない。あの車には父さんが乗っているはずだ。
 近寄っていくと、スライド式の窓が開いた。父さんがそこから顔を見せた。
「よう、尚輝。よく来たな」
 豊かなヒゲを蓄え、サングラスまでしているナイスミドル。こんな中年になりたい、と思う人が何人もいそうな身なりだ。
「父さん、久しぶり。わざわざありがとう」
 助手席側に回って、車に乗り込んだ。ひょっとしたら後ろの座席に佳子さんと忠邦が乗っているかもしれないと考えたけど、後ろには誰もいなかった。リュックサックが一つあるだけ。
 車が発車された。横浜の繁華街を慣れた感じで走っていく。
「最近どうだ? 元気にしてたか?」
 運転しながら、おれに軽く話しかける。
「元気だよ」
「母さんたちも元気か?」
「元気だよ、何一つ問題なし」
 世の中には、離婚した後にどちらかの親に会えなくなってしまう子どもたちがきっといるだろう。それらに比べたら、おれは恵まれている方なのではないか。だって、こうしていつでも会えるし、母さんも父さんに会うことは許している。野間さんだって、何にも言わない。
 駅から父さんの家までは、車だとすぐに着いてしまう。だから、ほとんど話すこともできず、目的地に辿り着いてしまった。
 車から降りて、なかなか大きい家を見据える。

「いらっしゃーい、尚輝君」
 玄関先で、父さんの再婚相手である佳子さんが迎えてくれる。その佳子さんに抱っこされているのは、二人の唯一の息子、忠邦だ。生まれて一年にもならない、まだ足元もおぼつかない、かわいい義理の弟だ。
 忠邦、という名前にしたのは響きと字面で選んだそうだ。後になって指摘したのだが、苗字が水野だから、「水野忠邦」になり、それは江戸時代に天保の改革を断行した水野忠邦と同姓同名だった。てっきり、それを狙ったのかと思ったのに、何と二人は水野忠邦を知らなかった。佳子さんは高校時代、世界史を学んでいたため、日本史が分からず、父さんは不真面目な生徒だったため、学んだことを全く憶えていなかった。意図的なものではなく、偶然だったことに驚きを覚えた。これは将来、日本を改革するために立ち上がってくれるのではないかしらと、勝手に期待している。
「忠邦、お兄ちゃんですよ。こんにちはー」
 佳子さんは忠邦の体を傾かせて、頭を下げるしぐさをさせた。
 それにしても、大人になったらさまになるだろうが、赤ちゃんで忠邦という名前だなんて、ちょっと重い気がする。現代では珍しい名前ということもあるのかな。
「かわいいな、やっぱり。赤ちゃんって」
 笑いかけると、おれの目をじっと見つめてくれる。その眼差しは淀みがなくて、この場の誰よりも綺麗に思えた。

「高校でもセッターやるのか」
「ああ。やっぱ、おれはセッターがポジションの中で一番好きだしね」
「まあ、それはよく知ってるけどな。でも、身長も低くないだろうに、もったいない気がしないでもないんだ……」
「言いたいことは分かるけどね。でも、背が高いからってセッターをやっちゃいけないってこともないし、背が高いからこそ見えてくるものもあるし」
 おれがバレーについて最も身近で話せるのは、父さんだ。こう言っちゃ悪いけど、野間さんはバレーの知識が薄いから、とても話せたものではない。こうして、溜まりに溜まった話したいことを喋りにくるのが、毎度の横浜来訪の理由になっている。
 父さんもバレーをやっていた。父さんはずっと背が低い方だったらしいけど、ボール反応のよさを買われて、リベロをつとめてきた。リベロは相手サーブのときだけ入る守備専門のポジションだ。日本女子バレー代表のリベロ、佐野優子選手なんかは、世界トップクラスのリベロとして有名だ。背が低い選手でも活路を見出せるように、バレーにはそういった寛大さがある。
 父さんはおれにバレーをやれとは一度たりとも言わなかった。自分の意志で、自分の本当にやりたいことを選択することを望んでいた。それでも、結果としておれがバレーを選んだとき、父さんは嬉しそうだった。
「そうか……」父さんは笑顔で何度か頷いた。「だったら、頑張れよ」
「うん」
 大会は近いのか、と続けて父さんは尋ねてきた。学年の変わる前の三月に大会が行われたばかりなので、次の大会は八月までない。
 おれと父さんは、大会でどのくらいの結果を残せそうなのか話し、昔と今の大会の違いについて話し、父さんの過去の実績について話した。まあ最後のは、もう知り尽くしているくらい知っているけど。

 恋とかはしているのか?
 そういう類いの質問は、父さんの口から出てこなかった。おれ自身、それを訊かれたいのか、それとも訊かれたくないのかよく分からなかった。ただ、もし話すのであれば、と考えたときに頭に真っ先に浮かんでくるのは、前田怜奈の顔だった。
 高校生になるまでに好きな人の一人や二人はいたものの、こんなに出会ってから好きになるまでの時間が短いことはなかった。正直、戸惑っている部分もあった。
 それがいいのかとも思った。好きになるって、もっと奥深い感情なのではないだろうか。でも事実そうなのだから、この感情は本物だろうと、胸の内で反芻する。
 ちらっと、松井えれなの顔も浮かんだ。前田と違って、松井を思い浮かべるときは、あのときの胸の感触や、女の体の柔らかさも自然と思い出されてしまう。
 松井も魅力的なのは間違いないし、それは認める。でも、おれの好きなのは前田怜奈、その人なのだ。
 父さんの話に相槌を打ちながら、そんなことばかり考えていた。でも、それを披露する機会は結局なかった。

「水野君って、足速い?」
 部活の休憩中、上野薫子がいつの間にか隣にいた。最近ではけっこう打ち解けて、色んなことを話すようになっている。
「なに、突然」
「や、もうすぐ体育祭じゃない。だから、同じクラスとして、何となく気になった」
 そういや体育祭が近いのか、と頭の中で思いながら、隣の上野を観察した。彼女は速そうだし、普段の練習を見ていても、スパイクの体勢に入るまでの瞬発力は群を抜いているから、おそらく事実なのだろう。
「どうだろ。あんまり足の速さを意識したことないな」
「中学校とかで、リレーの代表ってなかったの?」
「あったよ。あったけど、クラスの中で一人しか選ばれなかったから、おれは三年間、同じやつに負け続けて、選ばれなかった」
「同じやつに。へえ」
 おれは小さく笑った。「まあ、ひょっとしたら高校でも、そいつのせいになるかもな」
「また同じクラスなの?」
 おれは頷いた。「ああ……ほら、島津っているだろ。サッカー部の。あいつ、やっぱりずっとサッカーやってるだけあってさ、ほんとに速いんだよ」
「ああ、怜奈と最近仲いい子か」
 驚きと戸惑いを感じたけど、それを言葉にしないでこらえただけでも、おれは自分を褒めたかった。
 前田と、大志が。仲よくなったんだ。まあ、同じ部活だしな。
 自分でも気にしすぎだと分かった。自分から大志をよろしくって、言ったのに。それに、普通に話すだけかもしれないのに。どうしてこんなに胸が騒ぐ。それも、嫌な感じで。
「あ、休憩終わりっぽいよ」
 上野に呼びかけられて、曖昧な返事をしながら立ち上がった。そして、その曖昧さをかき消すように、無理に元気よくコートまで駆け出した。呼吸を速くすることで、胸が騒ぐのを解消した。
 それでも、その後の練習はあんまり集中できていなかったと思う。

 どんな風に決めたのかもう憶えていないけど、ウチのクラスの学級委員は小野瀬凛、という女子だ。男子も相方としているのだけど、あまりに小野瀬の存在感が抜群すぎて、陰に隠れてしまう。
 小野瀬がどんな女子かというと、一言で言えばまじめだ。背は低いけど、名前のとおり凛、としている。黒縁の眼鏡の奥の眼差しは、いつもきりっと前を見据えている。学級委員を引き受けていなくても、「委員長」というニックネームがつけられていそうな彼女は、今、実際にそのニックネームで呼ばれている。
「では、これから体育祭の種目を決めていきます。順番に種目を読み上げていきますから、やりたい種目があったら、挙手をしてください」
 声もそんなに大きい方ではないのだが、クラスの中は静寂に包まれている。そうさせる雰囲気が彼女にあるからだが、楽しい雰囲気に少しでもしよう、という気は起こらないらしい。粛々と、進んでいく。
 中学までの印象だと、体育祭の種目決めは、わいわいがやがやと騒いで行うものだと思っていた。でも、さすがの小野瀬でも、体育祭当日をこの雰囲気にすることは不可能だから、種目決めのときくらいいいのか。
 滞りなく進み、あまりに滞りがないため、先生の仲介を一度も挟まずに、最後のリレーの代表決めまできた。
 おれはごくりと、唾を飲み込んだ。リレーの代表をこれから決めるといっても、もう決まっているようなものなのだ。先週の体育で50メートル走のタイムをクラス全員が計り、誰が速いのかもう知れている。代表の枠は男女各二人ずつなのだが、男子は一番速い大志と、次に速いおれになる。またも大志には勝てなかったわけだが、枠が一人増えたおかげで初めて代表になれた。
 女子は、別に計っていたから実はまだ誰か分からない。つまり、女子は男子の代表が誰か知らないのだ。ここで名前を呼ばれて、すっくと立ち上がれば、いい印象を与えられるだろう。――まあ、大志に負けたけど。
「女子は、夏希と薫子でいいのかな?」
 小野瀬がそう言ったことで、女子のトップ2が明らかになる。夏希さんは誰か分からないけど、薫子は上野のことだ。そうか、人に訊いてくるだけあって、足の速さには自信があったのだな。
 二人は、少し照れるようにして立ち上がった。
「男子は?」
 小野瀬がクラス全体に問い掛けた。それに答えたのは、会沢陸だった。
「織田信長じゃね」
「あほ、そんな名前のやついねーだろ」
 ツッコミを入れたのは、彼と仲のいい蔵本結人。タイミングがタイミングだっただけに、クラスは笑いに包まれた。
 ただ、小野瀬だけはその表情を崩していなくて、その笑いもあっという間におさまってしまった。
「おれと、尚輝だよ」
 大志がいつの間にか立ち上がって、軽く右手を掲げていた。自分から言うんだ、と思いながら、おれも続いた。
「ということは、ウチのクラスのリレー代表は、蒔田さん、上野さん、島津君、それに水野君の四人ですね」
 小野瀬がまとめて、体育祭の種目決めはあまりに平和に終わった。
 ちらっと、前田の方を見てみた。彼女も速そうだったけど、リレーに選ばれるほどではなかったのか。考えてみれば、マネージャーをやっているくらいだから、当然といえば当然の話かもしれない。

 疲れた体を引きずるようにして家に辿り着くと、いつもは点っている中の明かりが、暗いままだった。あれ、珍しいなと思って、ドアを開けると、人の気配がやはりなかった。
「ただいまー」
 言うべき相手がいなくても、いつもの習慣だからおのずと出た。もちろん、返事はない。
 リビングの電気を点けて、テーブルの上にある書き置きを見つけた。ドラマの見すぎか、母さんと野間さんが離婚でもしたのかと思ったが、実際はそんなことなかった。「今日は友達と会ってくるから、遅くなる。ご飯、一人で食べてね」と、記されている。それに合わせて、野間さんも同僚と飲み会にでも行っているらしい。それとも、二人の共通の友達かな。いや、それならおれを一応は誘うか。などと考えながら、ソファに腰掛けた。汗をかいていたけど、疲れているときにソファがあったら座るだろう。
 事実、おれは両親の離婚を一度経験している。とはいえ、幼い頃だったから、正確な記憶はほとんどない。でも、一つだけ憶えていることがあるとすれば、二人がお風呂場で口喧嘩をしていたことだ。子どもがいることも気にしないで、激しく口論していた。何を言い争っていたのか、どうして風呂場だったのか、詳しいことは全く憶えていない。理解できていなかったのかもしれない。それくらい、幼い頃だった。
 近くの定食屋にでも行くか。
 また出かけるために、シャワーを浴びた。

 おれの感覚だと近い場所だが、その定食屋は学校の向こうにある。家から高校まで歩いて、同じ距離をまた高校から歩く。それだけ歩いても平気なくらい、そこは安くておいしくて、さらに店内の雰囲気が落ち着いている。だから、一人でご飯を食べるときは、かなりの頻度でそこを選択する。
 さっきも通った学校までの道、人通りはまるでなくなっていた。部活はとうに終わっている。だから、堂々と歩ける。夜の学校も覗ける。
 しかしこの日は、学校の目の前で見知った顔を見つけた。
「あれ、水野君」
 校門の前で、お尻のラインが見えそうなほど短いスカートを履いている松井えれなが、所在なげに立っていた。制服のままということは、まだ家に帰っていないらしい。
「どうしたの、こんな時間に?」
「それはこっちの台詞だよ。松井こそ、何でまだ帰ってないの?」
 こんな夜遅くに、魅力たっぷりの松井が一人でいたら、襲われかねない。そうは思っても、口には出さなかった。
「うん……なんか、ぐずぐずしてたらこんな時間になっちゃって……。部活は、とっくに終わったんだけどね」
 声も表情も明るいから、何か嫌なことがあったわけではないようだ。
 そういえば、松井は何部だったか忘れた。
「こんな夜遅くに一人でいたら危ないって」下心のない、親切心で言った。「送ろうか? 途中まででも。帰りは電車? 徒歩?」
「電車」
「じゃあ、駅まで送るよ」
 松井は目を輝かせた。「え、いいの?」
「いいよ、ぜんぜん」
「ありがとう。優しいね、水野君」
 おれが歩き出すと、すぐ隣に並んだ。てくてくと、夜の住宅街を進んでいく。

「さっき思ったんだけど、松井って部活、何だったっけ?」
「テニス部」
「テニスか。上手いの?」
「下手だよ。だって、高校から始めたんだもん」
「へえ、何でまた」
「何となく。ホントに。部活は何でもいいから、何かやらなきゃなー、って思って」
 少しの間を置いて、「水野君は、バレー部だよね?」と尋ねてきた。
「ああ。よく知ってんね」
 松井は頷いた。「見たことあるから。あれだよね、ボール上げるポジション……」
「セッター」
「そう、セッター、だよね。かなり上手いよね」
「そりゃ、どうも」
 あ、ちょっと待って、と言って、松井はいきなりしゃがんだ。「靴紐がほどけた」と続けて、それを結び始めた。
 おれも立ち止まって、ちらりと彼女を見た。
 彼女の短すぎるスカートは、しゃがんで靴紐なんかを結ぶと、意味をなしていなかった。パンツが丸見えになって、おれは凝視できなくなった。
 彼女は分かってやっているのか、それとも分かっていないのか。どっちにしても、おれは困ってしまう。パンツ見えてる、とも言えない。悶々としながら、目を逸らしているしかない。
「ごめんごめん」ようやく結び終えて、立ち上がった。「長いの?」
 おれは質問の意味を全く理解できなかった。
「え……何が?」
「バレー」
「ああ、ああ、長いよ。小学校からやってるから」
「そうなんだ」
 駅までの道は、まだまだ続く。

「そういえば訊いてなかったけど、水野君はこんな時間に何してたの?」
 松井に問われて、おれは本来の外出の目的を思い出した。思い出して、空腹を感じた。
「なんか、親が不在で、どっかに飯でも食べに行こうとしてた」
「あっ、そうだったんだ。ごめんね」
「謝らなくてもいいよ」
 すると、松井は何かを考え出した。
「だったらさ、私も一緒に食べてもいい?」
「え?」
 松井は慌てて手を振った。「ううん、嫌だったらいいよ。――ただ、私もたぶん一人で食べるだろうから、誰かいた方がいいかな、と思っただけ」
 家庭の事情ってやつかな、とは思ったけど、深くは踏み込まなかった。
「別に、嫌じゃないよ。おれも一人よりは、誰かいた方がいいし」
「え、じゃあ、いいの?」
「ああ」
「やった、ありがとう! どこに行くの?」
 行きつけの定食屋の名前を上げた。女の子と行っても問題ないだろうから、予定通りにすることにした。
 本当に、嫌ではなかった。ただ、不思議だった。たまたま会ったクラスの女子と、そのまま夕飯を一緒に食べることになるとは――。
 ただ、不思議だった。

「昨日、松井えれなとご飯食べたん?」
 屋上で昼食を摂っているとき、前振りもなく、大志は尋ねてきた。
 おれはコーヒー牛乳を噴き出しそうになった。
「な、何でお前が知ってんの……?」
「本人に聞いた」
「マジ?」
「嘘」
 大志は不敵に笑った。「んなわけないじゃん」
「じゃあ、どうして……」
「見たんだよ、たまたま。部活の後に夜遊びしてたからさ」
「誘えよ」
「お前こそ、飯に誘ってくれてもいいじゃん。何で松井を誘ってんだよ」
「誘ってねえよ。偶然会って、成り行きで一緒に食べに行っただけ」
「偶然、ねえ」
 おれは言葉に力をこめた。「本当だよ」
 大志はニヤニヤして、勝手に頷いていた。勘違いしたままだと思うけど、これ以上の抵抗は不可能だと諦めた。
「それで、何かしたの?」
「何かって?」
「決まってんじゃん」
「決まってねえよ。残念ながら、何もしてないから」
 大志は大げさに残念がった。「何だよ。せっかくのチャンスだったのに」
「あのなあ。話すの、昨日で二回目くらいだぞ」
「二回もあんの。おれなんか、一回も話したことねえよ。あの見た目だと、迂闊に近寄れないよな。刺激が強すぎる」
「まあ、確かに」それは否定できない。
 何もしていない。それは事実だ。パンツが見えちゃったけど。ブラジャーがちらっと見えたけど――。
 食事中、口に入れようとしたコロッケを、松井は箸からぽろりと落とした。それが制服の胸元辺りに当たって、おぼんに落ちた。胸元辺りにはシミができて、松井は「嫌だなー、もう」と呟いて、急に制服の上のボタンを外し始めた。
 その行動が理解できなくて、おれは固まってしまったが、どうやら裏までシミができていないか確かめたかったらしい――と、しばらく後になってから気付いた。
 おかげで、ブラジャーがその姿を現し、真っ白な胸が目に飛び込んできた。――でも、すぐにボタンを留めなおしたから、少しの間だけだったし、それ以外に何もなかった。
「でも、よかったな」
 てっきり見られたことを指摘されたのかと思ったが、そんなわけないと、その考えを打ち消した。
「何が?」
「見られたのがおれで。変な噂にならなくて済むじゃん」
 まあ、確かに。またおれは頷いた。

 梅雨のジメジメした空気を吹き飛ばして余りあるくらい、体育祭当日はよく晴れた。雲ひとつない青空の下、それぞれがそれぞれの競技で全力を尽くしていた。
 とはいえ、ありきたりな言葉で体育祭を片付けたくはない。それなりに記憶に残る事件は起こってくれるもので、それは当人たちにしか、その重大さや価値の大きさは分からないものだ。
 男子が大いに喜んでいたのは、午前中の最後の方に行われた徒競走だった。それも、女子の。走る前から期待の視線を一身に浴びていた張本人は、松井えれなである。あのはち切れんばかりの豊かな胸が、走ったらどれだけ男子の心を満たしてくれるだろうか。――おれは特に期待していたわけではなかったが、男子の中では公然の事実みたくなっていた。
 そして、何の気のない風を装っている男子たちの注目の中、松井が走り出した。すると、やはりその胸は揺れる、揺れる。走るたびに上下に激しく揺れ、まるで服の中に生き物が潜んでいるかのようだった。
 おれはどうしても、一緒にご飯を食べたときのことを思い出した。いや、正確には、あの日に見たブラジャーと、生の胸を思い出していた。――あの真っ白で柔らかそうな胸が、あんなに激しく揺れている。
 なんだか、理性までおかしくなってしまいそうで、やがて見ていられなくなった。手元にあったプログラムに目を落として、松井がゴールするまでそうしていた。それでも、男子たちに漂っているいやらしい雰囲気がはたと消えることで、松井が走り終えた瞬間は分かった。
 やっと顔を上げると、苦しそうに顔をゆがめて、息を切らしている松井の姿が目に入った。後続が一人もいないのを見ると、どうやら最下位だったらしい。まあ、あんなに重そうなものを身につけていたら、速く走るのも大変だろう――。
 ダメだ、変なことしか考えられない。

 お昼ご飯は、教室に帰って食べた。土にまみれ、汗ばんでいる体操服を着ているおれたちは、いつものように席について食べることを避け、床に揃って腰掛けた。教室内に、男子と女子の円が二つできた。
 おれは大志の隣にいた。大志の反対側には、会沢陸と蔵本結人が並んでいる。
「いやあ、この世のものとは思えなかったな」
「まあな。あそこまで激しいものだとは、想像以上、期待した以上だった」
「んだんだ」
 二人で何やらニヤニヤしながら話している。
「お前ら、何の話してんの?」
 おれが首を突っ込むと、
「ああ、見ただろう? さっきの松井さんの走り」
 と教えてくれた。
 そういうことか。こいつらはバカだから、そういうことで容易に盛り上がれるのだろう。でも、ひょっとしたら人のことを言えないかもしれないが。
「ああ、あれか。見たよ、ちょっと」
「ちょっと? それはもったいない! おれは最初から最後まで、ずっと目を離さなかったよ!」
「うるせえよ。聞こえたらどうすんだ」
 興奮気味の会沢の頭を、蔵本がはたいた。
「なあ、歴史上で巨乳って言ったら誰になんの?」
 蔵本が歴史に詳しいことを思い出して、そんなことを訊いてみた。
「さあ……あんまり、そういうことで特筆されることは少ないからな。でも、細川ガラシャとかは豊満な胸をお持ちだったんじゃないかな」
「ガラ車?」
「ガラシャ」明らかに違う発音を改めさせた。「玉だよ」
「多摩?」
 蔵本は大げさに落胆してみせた。「はあ……お前に言ってもしょうがなかったな。水野君、君は知ってるよな?」
 おれは眉毛を掻いた。
「えっと、細川忠興の妻だっけ? 関ヶ原の前に自殺した」
「おお、さすがだな。――ほら会沢、けっこう知られてるもんだぞ」
「知るかよ。へえ、自殺したんだ」
「石田光成の魔の手から逃れるためにな。でも正しくは、自殺じゃない。ガラシャはクリスチャンだったから、自殺は禁止されていた。だから、部下に殺させたんだ。豊かな胸元を開いて、そこを部下に槍で突かせた」
 そう言って、蔵本は得意気に笑った。ドヤ顔ってやつかな。
「へえ……その部下、羨ましいな。おっぱいを突けるなんて」
 会沢がそんなくだらないことを真顔で言うものだから、おれは噴き出してしまった。

 息を吸ったり吐いたりしてもほぐれない緊張を、どう解消すればいいのか持て余していた。足元が気になって、屈んで靴紐を結び直した。
 もうすぐ、最後の競技であるクラス対抗リレーが始まる。クラスの代表は、四人しかいない。その四人がクラスの思いを背負って、他のクラスと対決しなければならない。そんなに壮大なものではないことは分かっているけど、いや、分かっているつもりだったけど、でも、こんなにも緊張する。
 選ばれるのは、残酷なことだ。クラスの代表として選ばれることも、選ばれなかったことも。公平で平等な選択なんて存在しない。選択自体が、そもそも残酷さを含有しているものだから。
「水野君、緊張してるの?」
 思考の間隙を破って、前田の声が聞こえた。隣に屈み込んでいる。
「緊張してるように見える?」
 前田は頷いた。「見える。だって、なんだかぼんやりしてるよ」
「正直、してる」おれは否定しなかった。「リレー、初めてだし」
「そうなんだ」
「ああ」
 周りが、少しずつ騒がしくなってきた。そろそろ時間だ。
「速いのにね」
「あいつの――」目線で島津を指した。「あいつのせいで、ずっと選ばれなかった」
 前田は島津を捉えて、「へえ。――じゃあ、島津君を頼っちゃえばいいんじゃない?」
 前田の顔をよく見ると、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。おれもつられて笑顔になる。
「なるほどね」おれは立ち上がった。同時に、呼び出しのコールがかかる。「そうさせてもらうよ」
 おれがスタート地点の方に向かおうとすると、後ろから「がんばってね」という、前田の透き通るような声が届いた。
 振り向き直って、「ありがとう」と返した。
 がんばれる気がした。いつも以上の力が発揮される気がした。

「お、尚輝じゃん」
 目で確認するまでもなく誰の声か分かった。振り返ると、やはりそこには大志がいた。
「よお、サッカー部も今終わったんだ」
「ああ、そうそう。せっかくだし、共に帰ろうじゃないか」
 断る理由も、何らの用事もないので、「ああ、帰ろうぜ」と快諾した。
 バレー部とサッカー部は、他の部活に比べたら最後まで残っている方だ。それでも、学校で部活の時間が決められているから、いくら粘っても、それには限界がある。
 校門の前は人で溢れ返っていた。体育祭が終わって、夏休みに大会が控えている部活が多いため、練習がしんどくなっている時期でもある。足を引きずるようにして歩く人もいる。
 そう――体育祭が終わった。
 クラス対抗のリレーは、ウチのクラスが見事に勝つことができたが、全体の得点としては負けてしまった。けれども、おれからしたらリレーで勝てたことが何よりも嬉しかった。
「おつかれー、水野君」
 突然、目の前に現れたのは松井えれなだった。――その隣には、リレーでメンバーの一人だった蒔田夏希がいる。後から知ったことだが、この二人は中学からの友達で、部活も同じテニス部に入っている。蒔田は派手さはないがかわいらしくて、性格もどちらかというと大人しく、親しみやすい印象だった。
 二人それぞれに「おつかれ」と返すと、蒔田はニッコリ笑った。大人しいわりに物怖じしない性質で、真っ直ぐにこちらの目を見つめてくる。
 その物怖じしない性格はリレーでも発揮された。彼女は一走者目だったのだが、少しも緊張を感じさせない堂々たる走りで、トップで次走者のおれに繋いだ。
 おれは前田の応援でいつも以上の力を出せると意気込んでいたけど、一人に抜かされてしまった。それでも、二位で上野薫子にバトンを渡した。
 蒔田とは対照的に、バレー部女子の新エース上野は、柄にもなく緊張していた。走りに力が入りすぎて、中盤で一人に抜かされた。最後に何とか追いついて、二位タイでアンカーの大志に託したけど、ほぼ三位に等しかった。
 おれは叫んだ。
「お前にかかってるからなー! 負けたら全部、お前のせいだぞー!」
 大志はあっという間に駆け抜けていき、二位タイから二位になり、先頭を行く走者の背後にぴたりとついた。そしてカーブに差し掛かったところで、外側から一気に抜き去っていった。振り返ると色々な駆け引きがあったけど、見ている限りでは一瞬だった。
 いいところ持っていきやがって、とこぼしてしまった。大志は両腕を掲げて、トップでゴールテープを切った。――ちょっと、嫉妬した。これは誰の目にもかっこよく見えてしまうだろうから。
 少し話した後、松井と蒔田とは別れた。おれと大志はまた、二人でくだらないことをくっちゃべりながら、夕陽色の道を進んでいった。

 夏とはいえ、体育館はあまりに蒸し暑い。大会が近いために夏休みも練習が欠かせないのだが、この異常な暑さでは支障が出る。体調を悪くしかねない。
 誰もが口々に、暑さに対して文句を言っていた。それでも、練習を休む人は皆無だった。
 せめてマシな時間帯にと、早朝から練習を行っているけど、あまりいい打開策ではない。
「暑いね、ホント。クーラーとは言わないけど、大型の扇風機くらいつけてほしいわ」
 自前の団扇を動かして、上野薫子が不平を言っている。
「だよなー。誰か倒れたら、学校も動いてくれるんじゃないかな。あ、おれも扇いで」
「いやよ。水野君も持ってきてるんでしょ。自分で扇ぎなさいよ」
「へいへい」おれは仕方なく、鞄の近くの団扇に手を伸ばした。
 汗をかいている分、風を送ると涼しくなる。
「大会で結果を残したら、学校も言うこと聞いてくれるかもな」
「たしかに!」上野は顔を輝かせた。「優勝したらさ、絶対に言おう。体育館に扇風機つけてください、って」
 ようし、やる気になってきたぞー、と上野は笑顔を作った。
 やる気になってくれるのはいいけど、そんなモチベーションでいいのだろうか。
「それにしても、」上野がしみじみと呟く。「私たち、毎日顔合わせてるね」
 それはおれも思っているところだった。部活が連日あるということは、それだけバレーをやっているということだし、それだけバレー部のメンバーと会っているということだ。
 上野の顔も、忘れようとしても忘れられないくらい見ている。
「いやになった?」
「さすがに新鮮味がなくなったかなー」
 冗談めかして笑っている。
「しょうがないだろ。顔は変えられないんだから」
「いや、変えなくていいよ。親しみを持つようになった、ってことよ」
 どこまで本気で言っているのかわからないけど、おれは上野の顔を見飽きたなんてことはない。むしろ、愛着が湧いてきた。本人の言うところの「親しみ」、か。
「休憩終わりにするよー。最後に試合形式でやるからねー」
 バレー部顧問の早雨先生の透き通る声が体育館に響く。それに反応して、めいめいがすっくと立ち上がる。のろのろと面倒くさそうにする人はいない。文句をたれることもあるけれど、何だかんだ言ってみんなバレーが好きなのだ。
 暑さは勘弁してほしいけど。

 それとはまた別の日。
 練習が終わり、更衣室に引き上げてから携帯を開くと、着信履歴が一件表示されていた。大志からだった。
 急いで着替えを済ませてから、椅子に座って電話をかけた。なかなか出てくれない。呼び出し音をぼんやりと聞いていると、なんだぁ、女かぁ、と先輩にからかわれた。男ですよ、と返したタイミングで、大志の「もしもし?」が聞こえた。
「おう、大志? さっき電話したみたいだけど、なんか用だった?」
「部活終わった?」
「質問に質問で返すなよ。終わったけど」
 少し間があった。
「じゃあ、一緒に飯でも食おうぜ。今夜、暇なんだ」
 お前なんか用あった? という言葉が続く。
 おれは少し考える振りをした。用などないし、大志とご飯を食べるのも悪くない、むしろいい。でも、考える振りをした。
「まあ、いいよ。どこで待てばいい?」
「まだ学校だろ? すぐ行くから、校門の前辺りで待っててくれよ」
「了解」
 じゃあなと、どちらからともなく電話を切った。
 電話をしている間に、更衣室にいる人はおれ一人になっていた。鞄を肩にかけて、息を吐きながら更衣室のドアを開けた。

 校門前のさびれたベンチに座って待っていた。たまに携帯をいじって時間を潰したけど、基本的にはぼんやりしていた。
「まだ残ってたんだ」
 横から声が聞こえて顔を向けると、上野が一人で立っていた。いい? と言って、おれの隣を指差す。おれが頷くと、隣に腰を下ろした。
「お前こそ。しかも一人で」
「うん、さっき怜奈からメールが来ててさ。一緒にご飯食べようー、って」
 名前が出ただけでも、おれは緊張した。夏休みに入ってから一度も顔を見ていない。名前を聞いたのすら久しぶりだ。
「なんだよ、おれと同じじゃん。おれも大志に誘われた」
「えっ、そうなの? 奇跡的なタイミングだね」
 二人で笑った。笑いつつ、おれはある考えを思いついた。今なら、自然な形でご飯に誘えるのではないだろうか。大志がいるけど、それでもいい考えに思えた。上野がいれば、少しは話しやすいし。
「なあ、どうせだったら、四人で食べない?」
 何気ない風を装った。でも内心、上野がどう答えるか、その口元を注視せずにはいられなかった。
「いいね、それ」上野は、でも、と続けた。
「でも、ごめんね。今日は、二人でなんか話したいことがあるんだって。さっきのメールにそう書いてたから、ごめんね。また今度、行こう?」
「そうなんだ」何気なさを装え、おれは自分に言い聞かせた。「それじゃあ、しゃーないな。女子ってそういうのあるんだろうな。二人で話したいこととか」
 上野は小さく微笑んだ。
「たぶん、そうだと思う」
 男子はないのかな、という呟きは小さすぎて、すぐに聞き取れなかった。
 校門の前に、見慣れた男子の姿が現れた。大志だ。ラフな格好をしている。おれの隣にいる上野を見て、目を瞠る。
「よお、大志」片手を上げて、ベンチから立ち上がった。「じゃあ、上野、また明日」
 上野はうんと、頷いた。「また明日」
 行こうとすると、「あ、待って」という呼び止める声がした。
「今日は無理だけど、大会が終わったらさ、四人でおつかれさま会でもしない?」
「四人って――」おれの声は少しだけ間抜けだった。咳払いでごまかす。「おれと大志と――」
「私と怜奈。ね、いいでしょ」
 いいに決まっている。すごくいい。
「でもどうせ、おつかれさま会はバレー部の打ち上げがあるだろ」
「名目は何でもいいのよ。とりあえず、四人で集まらない? 楽しいと思うよ」
 大志がじれったそうに立ち尽くしいる姿が目に浮かんだ。こうやっていたら、そのうちに前田が来るかもしれない。久しぶりに会えるかもしれない。でも、意図的に狙うのはどうかな。
「そうだな、楽しそうだ」おれは改めて大志の方に向かった。「また連絡するよ。前田にも伝えといて」
 はいよ、という声がした。おつかれと、背中越しに叫ぶと、間延びした「おつかれ」が返ってきた。
「待たせたな」
 おれと大志は並んで歩き出した。夏の陽はまだ沈まない。街灯も点かない明るい道。
 その日には前田と会えなかったものの、会える約束ができただけで、その日は満足だった。

 学校から歩いて行ける距離に大会の会場があるため、当日の集合は学校の前になった。休日の学校は静かに息を潜めていて、人が揃い始めても静けさを保っていた。まるで、別の建物みたいに感じる。
 部員が時間通りに揃って、二列に並んで会場へ出発した。ボソボソと話している人たちもいたけど、ほとんどの人が無言で歩いていた。緊張している人もいるのだろう。考え事をしている人もいるのだろう。集中しようとしている人もいるのだろう。それぞれ、色合いの違った沈黙ができ上がっている。
 おれはそんなに緊張していなかった。考え事も特にはしていなかった。ただ、黙っていた。気分が高揚するのに浸っていたのかもしれない。その表現が一番近い。
「おはよう、水野君」
 今にも欠伸を漏らしそうな声で近寄ってきたのは、上野だった。緊張している気配は微塵もない。
「おはよう」
「大人しいね。緊張してるの?」
 おれは笑った。
「おれが? まさか。集中力を高めてるんだよ」
 上野はニヤリとした。
「へえ、かっこいいね」
「お前こそどうなんだよ。余裕そうだけど」
「余裕ではないよ。でも、少し緊張してる」
 おれの見た限りでは、彼女はとても楽しそうだ。バレーの試合をするのが楽しみでしょうがない、というように見える。
 それから、二人で並ぶ形になったけど、しばらく会話はなかった。
「優勝したいね」
 上野がぽつりと言った。声の調子が儚げで、妙に切実な響きを持っていた。
「どうだろうな」
「体育館に扇風機を入れてもらうためにも」
 おれは呆れた。上野に対してじゃなくて、自分に。心配する必要なんてなかったじゃないか。
「そういえば、そうだったな」
「忘れてたの?」
「今思い出した」
「それ、忘れてたって言うんだよ」
「じゃあ、扇風機のために必死になってがんばるよ。命に関わるしな」
 上野は真面目くさった顔で頷いて、
「ホントよ。よく今年、死人どころか、練習中に倒れる人がいなかったもんよ」
 ふと、心が軽くなっているのに気付いた。緊張していないつもりだったけど、多少はしていたらしい。それが、上野とくだらない話をすることでほぐれたようだ。
 くだらない話なんていったら、上野は怒るかもしれないが。
 そして、会場に到着した。初めて見る建物なのに、なんだか懐かしい感じがした。

 誰が応援に来てくれるかはけっこう期待してしまうものだ。他の人からしたら何でもない一日かもしれないけれど、プレーする側からすると重要な一日だから、当然、たくさんの人に来てもらいたくなる。
 期待はしても、ある程度の諦めも持っている。所詮、まだ区大会だから。これが全国とかになったら、学校を挙げて応援に駆けつけてくれるだろうけど。
 野間さんは、休日も仕事があるから無理だと言っていた。母さんも学校の先生ではあるけど非常勤だから、だいじょうだと言っていた。あとは、大志。大志は、暇であれば必ずおれの試合を見に来てくれる。おれも大志の試合を見に行くくらいだから。今日もいるだろう、観客席のどこかに。
 前田が来てくれるのかは気になった。おれのために、ということはないだろうけれど、仲よしの上野のためになら来るのではないだろうか。上野のためでもいい、来てくれれば、おれはそれだけで色々と満たされてしまう。
 一方で、父さんはどうだろうな。横浜からわざわざ、と思ってしまう。仕事とか、家族の事情とかもあるだろうし、あんまり期待できないかな。まあ、全国に行って、他の予定を全部断ってでも来てもらえるようにしよう。
「尚輝ー」
 おれの名前を呼ぶ声が、観客席の方からした。予想通り、大志が来ていた。手を振り返そうとして、少し唖然とした。
「水野君ー、がんばってねー」
 隣に、前田がいた。見慣れない私服で、にこやかに手を振っている。
 来てくれたのは単純に嬉しかった。上野の応援だということは分かっていても。大志の隣にいるのも、たまたま居合わせただけだろうから、そこまで心配になることはないのだ。
 でも、不安になってしまう。だって、おれの好きな人だから。しかも、それがよく知っている大志だから。不安になってしまう。
 なんとか手を振り返して、ウォーミングアップに戻ることにした。変に考えてもしょうがない。試合に集中しよう。これから試合だ。とりあえず、勝つことだけ考えて、他のことは意識の外に追いやろう。
 しかし、おれはこれに失敗した。

「あんまりこういうこと言いたくないけど」
 自動販売機の隣の椅子に座ってボーっとしていると、上野が現れた。お互いに、汗をかいている。
「水野君、なんていうか、プレーに身が入ってないっていうか、集中し切れてなかった気がした」
 ちょっとだけそう思っただけだから、そんなことなかったら、ごめん、と付け加えた。
 おれは苦笑いを浮かべた。「合ってるよ。上野の言うとおり」
 認めるしかなかった。申し訳なかった。でも、理由は絶対に言えなかった。
「そっか……」
 上野は声を落とした。失望させてしまっただろうか。
 男子は、セッターのおれとアタッカーの呼吸が合わず、ちぐはぐな攻撃になってしまい、一回戦は突破できたものの、二回戦でストレート負けを喫した。普段の、チームとしての実力を発揮できていれば、おそらく倒せただろう、という相手校だった。それだけに、おれは試合が終わってから後悔した。目が覚めるのが遅すぎた。
 それに比べて女子は、午前中に行われた三回戦まで順当に勝ち進み、午後の準決勝に駒を進めた。
 おれは、決めた。午後はせめて、女子を全力で応援するしかない。
 前田にも格好悪い姿を見せてしまった。

「残念だったね」
 試合に敗れた男子は観客席に回って、女子の応援に備えていた。女子はあと二つ勝てば、都大会へ歩を進める。学校の期待は、上野を中心とした面々に注いでいた。
 前田は開口一番に、「残念だったね」と寂しげに笑った。その隣には、大志がいた。何ら違和感のない形で、二人は並んで座っていた。
 ――お前のせいで。
 危うく、そんなことを言ってしまいそうになる自分に嫌気が差した。人のせいなんかにするな、集中し切れなかった自分が悪い、実力の内だ。分かっている。反省している。誰かのせいにするなんておこがましい真似は、おれにはできないはずだ。
 でもやはり、二人がこうして並んでいると落ち着かない。
「期待に、応えられなかったな」
 おれは当たり障りのない言葉で逃げた。
「ま、勝負事だから、勝つ日もあれば、負ける日もあるって」
 大志は励ますように言った。実は困惑気味のおれを、落ち込んでいると心配しているらしい。
「女子、応援しよう。薫子がやってくれるよ、きっと」
 おれの目を覗き込んでくるように、笑いかけてくる。その眩しさの隣に、おれは大人しく腰掛けた。
 思い出して母さんの姿を探してみた。保護者席の中に、その姿を見つけた。他の保護者方と話していて、おれがここに来たことに気づいていないらしい。おそらく、おれの試合も見ていたのだろう。母さんの目には、息子がどれだけ情けなく映ったことか。

 全力の応援と必死の奮闘も虚しく、女子は準決勝で競り負けた。でも、ほんとうに手に汗を握ってしまうくらいの接戦で、これからの成長次第では、都大会もそう遠くないと感じた。
 男子も、おれたちも負けていられない。ちゃんと、後悔しなくて済むような試合をして、結果を出さなければ。
 試合終了後、すぐ観客席から席を立って、下のフロアに向かった。控え室の前で、待っていた。
 やがて、汗だくの女子部員たちが戻ってきた。
「おつかれー」
 おれは一人ひとりに声をかけながら、目で上野を捉えた。みんなが控え室に入っていく中、彼女はおれの前で立ち止まった。
「上野も、おつかれ」
「うん」
 気落ちしているようでもあったが、かすかに満足気でもあった。何か掴んだものがあるらしかった。強豪校と戦える手応え――おれたちには、なかったもの。
「だいぶ、後悔してる。女子の試合観てたら、ますます深まった」
「それで、」上野は涼しげに微笑んだ。「どうしてくれるの?」
「次は、絶対にあんな情けない様は晒さない」
 力強く、彼女の目を見返した。
 上野は、控え室に入るために、おれに背を向けた。「期待してるよ」と、最後に残して。

 大会が終わってしまうと、部活の練習日程は緩やかになる。夏休みが明けるまで、数えるほどの回数しかない。
 おれはそれを利用して、秋田と横浜に行くことにした。横浜はもちろん、父さんたちに会うためだ。一方で秋田には、おじいちゃんとおばあちゃんがいる。母方の方だ。二人は昔から農家を営んでいて、山に囲まれた土地に、老人二人には広すぎるほどの家を構えていた。都会でいつも暮らしていると自然を求めてしまうもので、おれは長期休みの度に遊びに行っていた。二人の顔を見ると安心するし、向こうもおれに会うと、心から喜んでくれる。
 新幹線で数時間揺られ、秋田駅に降り立った。秋田も夏は暑くて、じめっとした空気がおれを迎えてくれた。日差しが、眼前に降り注ぐ。
 この前来たのは春だった。春はまだ涼しかった。冬になると、雪が降る。震えがやまないくらいに寒くなる。家から外の雪化粧を眺めているのは幻想的で、壮観なのだが、歩くのには難儀する。
 冬を思い起こしてみても、暑さはどこかへ行ってはくれなかった。
 それでも、汗が噴き出しはじめた頃、見慣れた車が一台、向こうからやって来た。おれは足元の荷物を肩にかけた。
 運転席を確認しなくても分かる。
「おおい、久しぶりだな」
 顔を覗かせた声の主は、おじいちゃんだ。
 顔は歳相応の皺が寄ってきて、着実に老人への歩みを進めているはずなのに、二人の働きっぷりは若々しかった。
 おれを乗せた車が宅に到着すると、冷たい飲み物やらアイスやらでもてなしてくれた。それでも、久しぶりの再会に長く浸ることはなく、二人は慌しく田んぼへと出かけた。家にいても暇を持て余すだけだろうと思い、一緒に連れてってくれるように申し出た。
「見てるだけだから。仕事中は、おれに構ってくれなくていいよ」
 軽トラックの荷台に乗って、陽炎の立ちこめる道を、田んぼへと向かった。
 農作業というものは、力を必要とするものだし、体力を求められるものだ。若い頃ならこなせていても、二人はもうこんなに大きな孫がいるくらい歳を取った。それでも、二人は無駄のない動きで、彼らの領土を機敏に動き回っている。その清々しいまでの連携は、彼らの絆の深さを感じさせた。
 おれはほんとうに見ているだけだった。見ていて、なかなか飽きなかった。目線の先の背中に橙色の光が降り注ぐ頃になって、ようやく、おれは田んぼから少し離れた。鬱蒼とした雑木林に沿って歩き、見晴らしのいい小高い丘に出た。左右に萌黄色に染まる木々をたたえた山が聳え、その間に、さっきまで見ていたものと同じような田んぼが伸びている。
 時間の経過が遅く感じられる。たまにこうやって触れることで、普段、無自覚に張り詰めていた心を和ませてくれる。
「帰るっぺ」
 背後で呼びかける声がした。
「今夜はごちそうだべ」

 母さんは野間さんとの再婚に伴って、二回目の苗字変更があった。彼女が生まれてから最初の結婚をするまでは、おじいちゃん、おばあちゃんと同じ苗字であった。指原、という。
 おれは母さんの再婚でも、苗字を変えなかったために、生まれてこの方、水野だ。婿養子にでもならない限り、おそらく水野のままだろう。
 おれのおじいちゃん、指原栄二は、それほど多くを語る性格ではない。だが、大好きな酒が入ると、打って変わって多弁になる。
「坂本は腰が高いんだぁ。素質はあるんだっぺした、ちゃんと教えてやれば、こりゃ、たいした選手になるべ」
 今日もテレビで野球中継を見ながら、目に付く選手について熱く語っている。おれが野球にそんなに詳しくないにもかかわらず、反応の少ないおれを気にしない。
 顔が、赤らんでいる。普段も飲んでいるのだろうが、孫が来て、いつも以上に飲んでいるのかもしれない。
 隣で、おばあちゃんがニヤニヤしている。
「お父さん、嬉しそうだなぁ」
 おじいちゃんは指摘されると、ムッとしたようにちょっと黙るが、しばらくするとまた喋りだす。
 おばあちゃん、指原徳子も、お酒が大好きだ。加えて、彼女は酒に滅法強い。そう簡単に酔わないし、表情の変化も容易には認められない。夫婦で酔いつぶれてしまうような気がかりは無用だ。
 おれはまだお酒を飲まないことにしている。もう高校生だし、隠れて飲んでいる人はいるだろうけれど、おれは飲まない。今はバレーのことしか頭にないし、少しでも、その妨げになるようなものは避けたいと思っている。
 テレビの斜め上に目をやった。達筆な字で「燦然と輝く」と書かれた書道半紙が貼ってある。おばあちゃんが書いたものだ。おばあちゃんは書道が得意で、この「燦然と輝く」で、県から表彰されたほどだ。
 その腕前は、母さんにも受け継がれている。高校の非常勤講師である母さんは、行事のときにその腕前を遺憾なく発揮している。表彰状の文字、立て看板、プログラム――本人はそんなに好きでやっているわけではないようだが、学校から重宝されている。
 おれは世代的にも書道があまり好きではないから、当然、得意ではない。世代のせいにするつもりはないが、触れる機会も少ないし、上手く書けるように努力したことはない。
 おじいちゃんが大人しくなったと思ったら、目が眠そうだった。おばあちゃんもそれに気づいて、「お父さん、寝ますか?」と声をかけた。おじいちゃんは言葉にならない返事をして、立ち上がった。お風呂に入って、寝るらしい。
 おばあちゃんも立ち上がって、食器の後片付けを始めた。おれも手伝おうかと思ったが、「尚くんは座ってていいからね」と言われたので、そのまま大人しくテレビを見ていた。テレビは野球中継がいつの間にか終わって、バレエティ番組が放送されていた。東京でも秋田でも、同じものがテレビの中に映ることが、なんだか不思議な感じがした。

 毎日、暑い日が続いた。夜になってもなかなか気温が落ちてくれず、寝苦しい。おかげで眠りが浅くて、早朝のメールに起こされた。
「む……。誰だよ、こんな時間に……」
 寝ぼけまなこで差出人を確認すると、クラスメイトの会沢陸だった。あの、歴史に詳しい蔵本と仲のいい、剣道部員のバカだ。いったい何ごとかと文章を確認する。彼には似つかわしくない、ずいぶん改まった文体だった。どうやら、おれだけではなく、大勢に向けられた内容らしかった。
「納涼海水浴のお誘い……って、なんじゃこりゃ」
 どうやら、みんなで海に行って、夏をエンジョイしようぜ、という誘いらしい。しかも、男だけではなく、クラス全員にこのお誘いメールを送っているようだ。
 女子が、これを見て行きたいと思うのだろうか。そもそも、男子もどのくらい集まるものか。
 会沢の、計画性のない、いかにも思い付き感満載のイベントだ。だが、そんな彼に呆れながらも、おれは面白いかもしれない、と思っていた。もしこれで、クラスのみんなが集まって、それで、バカ騒ぎができればきっと楽しいだろう。
 秋田から昨日帰ってきたばかりだし、少し様子見を決め込もうかと思ったけれど、会沢の気まぐれに賭けてみるのもいいかもしれない。
 おれはすぐに、参加のメールを返した。

 翌日の深夜、再び会沢から、改まった口調のメールが届いた。決行の日取りが定まったことと、参加者がだいたい25人くらいになりそう、という内容だった。
 クラス全員とはやはりいかなかったが、夏休みの一日に25人も集まるなんて、めったにないことである。他の人たちも、おれと同じように面白いと感じたのかもしれない。なんだか、ほんとうに楽しみになってきた。
 そういえば、前田は来るだろうか。前田の水着姿もお目にかけることができるのだろうか。いやいやと、首を振る。そんなこと考えてもしょうがない。期待しすぎると、その分失望が増す。
 大志は来るな。長い付き合いだからか、確認しなくても分かる。
 海水浴の日まで日程に空きがあった。その前に横浜にも行っておこうかな、と考えた。

「お前、今日暇?」
 前触れもなく電話をしてきたと思えば、どうして他でもない、数少ない予定の入っている日を選ぶのか。大志には、そういう才能というか、嗅覚みたいなものがあるのではないだろうか。――そう、大志から電話がかかってきた。
「残念ながら、暇じゃないかな。これから横浜に行くから」
「横浜? なんでまた」受話器の向こうの声は、少し気落ちしていた。
「父さんに会いに行くんだ」
 大志の相槌が途切れた。今の言葉だけで、意味を理解したようだ。大志には、両親の離婚のことを話してある。かいつまんだ説明だけだけれど。
「なあ、おれも行っていいか?」
 しばらく黙していたかと思えば、予想の範疇を超えたことを口にした。
「はあ? 本気で言ってんのか?」
「本気だよ。いいだろ、友達が一人増えるくらい」
「まあ、問題は全くないけど……」友達の親戚の家に遊びに行って、楽しいだろうか。おれだったら楽しくはない。
「じゃあ、決まりだな。どこ行けばいい? 渋谷で乗り換えか?」
 よく知っているな、と思いながら、「そうだよ」と答えて、手短に待ち合わせ場所を決めた。
「そうだ」最後に、ふと思い出して訊いた。「お前、海水浴行くのか?」
「ああ」大志はそれだけ言って、電話を切った。

 お互いの最寄り駅で待ち合わせて、電車を乗り継いで横浜へと向かった。父さんには事前に、今回は友達と一緒だと伝えておいた。
「向こうは父さんと、再婚相手の佳子さん、それに生まれたばかりの赤ちゃんがいる。名前は忠邦」
 一応、訊かれていないが、説明しておいた。
「あれ、そのお父さんは尚輝と同じ苗字だから――」
 大志は早くも気付いた。
「そう、水野忠邦だよ」
「へえ、かっこいいな」
「そうか?」
 自分がその名前だったら、と想像してみるけれど、あまり嬉しくはない。まあ、父さんたちは知らなかったわけだけれども。
 歴史好きの蔵本を思い浮かべた。彼なら、きっと喜ぶだろうし、同じように「かっこいい」と褒めるだろう。
 蔵本も海水浴に来るだろうな。企画者の会沢と一番仲がいいわけだし、先に二人で予定を合わせているだろう。
「海水浴、どうなるんだろうな」
 思いつきで呟いてみた。
「楽しみだな。20人ちょい集まるらしいぞ。しかも、女子の水着姿が見られるし」
「そうだなー、ほんと楽しみだ。まあ、クラスの期待を最も集めているのは、おそらく松井だろうな」
 松井の水着姿を思い浮かべようとしてみたとき、廊下でぶつかったときの胸の感触、定食屋で見た下着姿が思い出され、慌てて妄想をやめた。
「だよな。あれは、超高校級だぜ。その日の主役は彼女だろうね」
 大志も頷いた。
「ってことは、来るのか?」
「らしいよ。というか、女子はだいたい来るらしい。委員長の小野瀬さんも来るらしいから」
「えっ、マジで、委員長も?」
 おれは驚きながらも、別のことを考えていた。女子はだいたいってことは、前田も来るって考えていいのか。気になったけれど、訊かなかった。なんとなく。
「いや、しかし、」大志が感慨深そうに言った。「会沢、面白い企画考えたな。ほんと、天晴だよ」
「ばかのほんの思い付きだろ」
 二人で笑い声を上げた。
 電車は、目的地へ向かって進んでいく。順調に。

 不意の来訪者である大志を最も熱い眼差しで迎えたのは、佳子さんに抱かれた忠邦だった。あまりに無防備すぎるその表情は、やはり赤ちゃん特有のものだろうと思った。
「やっぱり歳が近い方が、親近感を覚えるんだろうねー」
 と、佳子さんは分析した。
 それなりに歳を重ねたつもりになっていたが、よく考えたらまだ父さんたちの半分にも満たないくらいなのだ。それを、忠邦によって思い知らされた。
 大志はすぐに家族に溶け込んだ。
「ぼく、尚輝と中学からの友達なんですよ。部活は違うんですけど。え? サッカー部ですよ。たいしたことないですけどね」
 それにしても、こうして大志が一緒である以上、いつもと過ごし方が変わりそうだ。秋田同様、ここでものんびり羽を伸ばすつもりだったけれど、何かして遊ぼうかな。
「大志、何かするか? ボールはあるけど、一通り」
 大志は明るい表情で頷いた。
「お、いいじゃん。何かしようぜ。サッカーしようぜ」
 自分の得意な方で提案するとは、と言いたいところだが、二人でバレーをやるのは面白味に欠けるだろう。サッカーの方がいいアイデアであるのは認める。
「そうだな。近くに公園あるから、ちょっと体動かしに行くか」
 すると、言い終わったタイミングで、父さんが入ってきた。
「じゃあ、おれも行こうかな」
「え、父さんも?」
 おれは素直に驚いた。
「ダメか?」
「ダメじゃないですよ」否定したのは大志だった。「人数は多い方が面白いですから」
「でも、父さん、サッカーできるの?」
「できないぞ」即答された。「でも、人数が多い方が楽しいらしいじゃないか。それに、たまには運動しないと」
 そうして、三人でサッカーをすることになった。
 バレー一筋の父さんがサッカー、か。
 ああ、そうか、おれも似たようなものではないか。人のことを言えた口ではない。

 大志には、何か楽しいものがあるのではないか、と人に思わせる力があった。目には見えない、その他者を惹きつける魅力は、おれにはないものだ。ほんの少しだけ、気にしていることだ。
 父さんも、その力に引き寄せられたのかもしれない。
 そして実際、楽しかった。
 三人でどうやるのかと思ったら、ようは単純に実力差を考慮して、大志一人と水野親子二人でミニゲームをしただけだった。
 試合は、後から振り返ってみれば大志がコントロールしていた。ボールの扱いが一人だけずば抜けているし、こっちもあまりに鮮やかにかわされると、むしろ快いくらいだった。
 おれと父さんは数的有利を生かして、なんとか対抗した。試合は、それなりに形になった。汗びっしょりになって、日が暮れるまでやっていた。
 何度も目にしてきたことだが、大志はやはり上手い。二本の足を巧みに動かして、取りに来る相手からボールを逃がした。たまにボールを浮かせて、おれたちの頭上を通り越させる、なんて芸当も披露した。おれが真似してやってみようとしたら、思うほど浮かなくて、大志に直接当ててしまった。たまたま急所付近に直撃し、父さんは子どもみたいに笑っていた。
「お前、上手いんだな。やっぱ」
 帰り際、大志にそう投げかけた。
 大志はかすかに笑みを見せた。「なあに、尚輝のバレーの実力に比べたら、たいしたことないって」
「いやいや、謙遜することないぞ」
 そう言ったのは、父さんだった。久しぶりの運動で、機嫌がよさそう。「サッカー選手みたいだったなー。上手い人と一緒にやったのは初めてだ」
 父さんはおれと違って、休み時間にサッカーをやることもなかったのだろう。四六時中、バレーのことばかり考えていたのだろうことが、容易に想像つく。息子だから。
「サッカー選手の上手さはこんなもんじゃないって」
「そうですよ。でも、言ってもらえるのは嬉しいです」
「今度はバレーをやりたいな、一緒に。バレーだったらそれなりの実力を披露できるのだが」
「おお、いいですね。尚輝のお父さんもバレーをずっとやってたんですよね。親子のプレー、見てみたいです」
「……ったく、父さん――」
 おれの苦笑いが、家への到着の合図だった。

 少し時間を遅らせて集合場所に着いたのは、意図的なものだ。どんな雰囲気なのか観察してから、そこに混ざりたかったからだ。
 夏の日差しが、緑色の葉を繁らせた木々に降り注いでいる。その木に隠れる形で、学校の近くにある駅を窺った。
 当然だが、みんな私服だ。制服姿しか見ていない人たちが、それぞれの個性を表わす格好をしているのは、不思議な心地。一人ずつ顔を確認していく――会沢、蔵本――大志ももう来てる――上野に松井、そして委員長、蒔田。本当にたくさんいる。
 唐突に、誰かに肩を叩かれて振り向いた。振り向いた先にいたのは、前田だった。
「様子を窺ってるの?」
 早くも魂胆を見抜かれて、おれは大人しく頷いた。「そう。だって、なんか未知数じゃない? これだけ集まって、どうなることか」
「確かに、不思議な感じよねー。会沢君、すごいこと思いつくよね」
 成り行きで、おれたちは肩を寄せ合って、観察していることになった。久しぶりに、彼女を近くに感じることができた。いつまでもこうしていたいと思った。
 でも、いつまでも、とはいかない。
「さて、そろそろあの集団に加わるか」
「そうね」
 おれたちは並んで、駅へと歩いていった。あ、遅いぞー、二人とも。仕切り役を担っている会沢がこっちに気づく。周りの視線が、おれたちに集中する。みんな、勘違いしてくれたらいいのに。偶然そこで会ったなんて、誰も思わなければいいのに。大志も――。
 そう考えて大志の方を見やると、大志はニヤニヤと笑っていた。
 そうだ、あいつはいつもそうだ。いつでも余裕そうで、いつでも明るい衣を纏っていて――。
「おし、全員揃ったなー。出発するぞー!」
 会沢の掛け声に、元気な声が応える。みんな、楽しそうだ。これは本当に面白いことになりそうだ。

「おつかれさま会、やってなかったね?」
 行きの電車の中で、上野と近くになった。人数が人数だけに、無理に同じ車両に乗らず、ある程度バラバラになって乗り込んだ。
「ああ……」
「忘れてた?」
「いや、忘れてはいない」
 夏の大会前に、上野と約束した「おつかれさま会」のことは憶えている。前田と、大志を加えて四人で集まろうと言っていたのだ。
「じゃあ、そんなに乗り気じゃなかった?」
「いや、そうじゃなくて――夏の大会で、おれ、情けない結果に終わったから、おれから言い出しずらい気がして」
 前田と大志が原因になったし、とは言わなかった。
「へえ」上野は感心するように目を見開いた。「水野君、そういうところ気にするんだ」
「そりゃあ、するだろ。でも、開催するなら喜んで参加するよ」
 上野は柔らかく微笑んだ。
「だったら、夏休みの最後の日に開催しようか。その日は部活ないし。サッカー部もないって言ってた」
「ああ、いいんじゃないか。大志に伝えとくよ」
 上野は頷いた。
「私も、怜奈に言っておくね」
 今日の海水浴もこうして楽しめているのに、また心弾むような予定ができるとは。今年の夏休みは、おれにはもったいないくらいに充実している。
 でも、大志がいるのか。前田がいるのは嬉しい。上野がいるのも、気が休まる。だけれど、あいつは親友だからこそよく知っている。おれが前田を好きだと思う分だけ、あいつは不安要素になる。
「何しようか? 水野君、考えておいてよ」
「ああ」
 おれは半ば上の空で相槌を打った。

 他の車両の興奮が増していることが、確かめなくても伝わってきた。車窓から望める眺めは、青々とした海に変わっていた。見ているだけで涼しさが胸に染み込んでくる。
 たぶん、みんな「海だー!」って叫びたくなっている。会沢なんかは、抑え切れずに叫んでしまって、蔵本か委員長あたりに頭をはたかれているのではないだろうか。
 そして、じりじりと到着を待った一行は、目的地の駅に至る。各車両から続々と降りてきて、それぞれは顔を見合わせて「海だー!」と、やはり叫んだ。
 降りてから、大志を見つけた。嬉しそうに笑んでいる。
「尚輝、海だぞ、海」
 おれも笑った。
「海だな。やばいな」
 そして、せーの、で呼吸を合わせた。
「海だー!」
 二人の声に、終わりの方で会沢の声も重なった。
 会沢は蔵本にぶたれた。「アホ、お前はさっき電車の中で叫んだろ」
「もう、恥ずかしくてしょうがなかったわ」
 委員長が心底呆れた風で、ため息をつく。
「って、委員長は他人の振りしてたじゃん。冷たいよなー」
 そのやり取りを見ながら、おれはくつくつと笑っていた。おれだけではなかった。大志も、上野も、みんな笑っていた。
 まったく、序盤から飛ばしすぎじゃないか。かえって心配になる。

 先に着替えを終わらせた男子が、砂浜に出てきた。波打ち際に向かって走りながら、聞き取ることが不可能な言葉を叫んでいく。
「おお、水野も島津も体格いいな」
 会沢に褒められて、なんとなくおれたちは互いを見やった。おれは自分ではそう思わないのだが、でも、大志はその通りだと思う。不要なものがなくて、引き締まっている。
「お前は痩せてんな。剣道部、ちゃんと活動してんのか?」
 大志が冷やかした。
「うっせ。蔵本を見ろって。あいつは違うから」
 言われて、後方の蔵本に視線を向けた。しかし、蔵本も会沢と大差なかった。
「なんだよ、人の顔見て、なんで笑ってんだ」
 話が読めない蔵本は、不満気だった。
 おれは前方に目を向けた。波が寄せては返している。海で泳ぐのは久しぶりだ。これだけ暑いのだから、入ったらきっと気持ちいいだろう。
「おい、まだ入らないのか?」
「まだだよ。女子が来てから」
 一応、待つのだな。
「女子の水着姿が楽しみだなー、マジ。本命は松井で決まりだろう」
「いやいや、巨乳だけが魅力じゃないぞ。上野さんの美脚も捨てがたい」
「なんのなんの、大人しい蒔田さんが大胆な水着で来たら、萌えるぞ」
 萌える、って。
「それでいったら、委員長も気になるな。あの鉄仮面が恥じらいを浮かべたら、精神がどこかへ行ってしまいそうだ」
「ああー、早雨先生の水着姿も見たかったなー。大人の魅力も欲しい」
「それは贅沢ってもんだろ。これだけ揃っていれば、もう十分だって」
「そうだなー」
 こいつらは――おれは大げさにため息を漏らした。本人たちがいないことをいいことに。
 そうは言っても、女子の水着が楽しみじゃない男なんていない。おれだってご多分に漏れず、だ。そして、おれの本命は――
「みんな、おまたせ」
 前田の声がして、振り向いた。そこには、様々な柄の水着を身に纏った女子たちがいた。それは目が眩むような光景だった。

 蔵本の強打したビーチボールが、委員長の頭に直撃した。
「わ、申し訳ござらぬ。切腹をもって償いをば」
 蔵本は慌てふためいて、詫びにかかった。
 背が低いながらも、捉えたものを射抜くような冷たい視線で、委員長は睨んでいた。
「ま、まあまあ、蔵本もわざとやったんじゃないんだし。そんなに怖い顔をするなって」
 おれは恐るおそる仲裁に入った。
 彼女は魅惑的な体型ではなかったが、肌をあまり露出させない普段からすると、その水着姿は新鮮だった。透き通るように白い肌は、焼くことなどめったにないのだろう。たまに恥ずかしがるように、足を内股気味にする。
 男女入り混じって、おれたちはビーチバレーをしている。暑さから逃れようと海に入ってすっきりすると、今度は遊び場所を砂浜に求めた。準備のいい大志が持ってきたビーチボールで、子どもみたいにはしゃいでいる。
 こうやってはっちゃけることができるのも、この海岸が人の少ないところだからだ。ほぼ、おれたちの貸しきり状態。会沢が家族旅行の際にこの穴場を見つけて、今回の海水浴企画を思いついたそうだ。
「よーし、いっくよー」
 松井えれながサーブの構えを取る。テニス部に入っている彼女だが、とても運動が得意とは思えない。
 それにしても、揺れる、揺れる。ボールを追うたびに、走るたびに、今にもこぼれそうな胸が激しく揺れた。豊かな尻は、水着が食い込むことでその姿を露わにしていて、とにかく、魅力があり余るほどだった。
「ほら、水野君もボーっとしてないで、こっちにおいでよ」
 魅力を振りまきながら、おれの方へ近づいてくる。
 と、その瞬間、さんざん動き回って疲れていたのか、足がもつれて、おれに見事なまでに倒れ掛かってきた。
「のわー!」
 おれは背中をしたたかに打ちつけ、その上に松井が乗っかっていた。彼女の胸が、おれの胸にしっかりと乗っている。裸の感触が、全身で感じ取れる。柔らかい。女の体は、こんなにも柔らかいのか。
 おれはおかしくなりそうだった。まともに考えられなくなる寸前だった。
「ん……ごめんね、水野君。重かったでしょ」
 ようやく起き上がりかけた松井が、耳元で囁くように言った。当然だが、顔も近い。彼女の頬がかすかに赤らんでいる気がした。
「いや、大丈夫」
 おれは努めて冷静になろうとした。
「おい水野、羨ましいなー」
「幸せそうだなー、この野郎」
 男子から冷やかしの声が飛んできたが、その表情は冗談とも取れなかった。本気で言っているように思える。
 松井に続いておれも起き上がった。そのとき、正面にいた前田と目が合ったが、彼女は照れるように俯いてしまった。
 まったく、松井はなんてことをしてくれたのだ。

「どうせなら、バレー部の二人に本気の技を見せて欲しいな」
 大志がそう言ったので、おれと上野は顔を見合わせた。
「どうする? あいつ、あんなこと言ってるけど」
「じゃあ、見せてあげよっか」
 上野は打ち真似をした。「私がスパイクするから、水野君、上げてよ」
「オッケー」
 頭の中でなんとなくコートのラインを思い浮かべて、おれたちは位置に付いた。反対側には、大志に無理やり立たされた会沢がいる。
「な、なんでおれが受けるの?」戦々恐々としている。
「そうだぞ、大志。言い出しっぺはお前じゃないか。お前が来いよ」
 大志は片手をひらひらと振った。「おれは普通に返せると思うから、先にいいところを見させてあげようと思って。配慮だよ、配慮」
 相変わらず強気だ。
「言ったな。痛い目に遭わせてやる」
「お手柔らかに」
 おれは上野とアイコンタクトを取った。準備はできている。
 まず、会沢が適当にこっち側へボールを上げる。それを一回目は上野がレシーブして、彼女は前に出る。二回目はおれが、スパイクを打ちやすいボールを上げる。
 見事に、タイミングが合っていた。おれのトスしたボールを、彼女がジャンプして打ちつける。何度見ても思う、綺麗なフォームだ。水着だったから、いつもより体の反らし具合がよく分かった。
 ボールは、会沢の顔面に直撃した。
「いってー!」
 会沢は叫びながら、派手に倒れた。
 周囲からは、賞賛の拍手が湧き起こった。
 そんな中、おれは上野とハイタッチする。「さすがだな」
「水野君こそ。でも、ビーチボールだと上手く力が伝わらないね」
 いや、そうだとしても、威力は十分だったと思う。
 会沢がようやく起き上がった。「上野、わざと顔面を狙わなかったか……?」
「えー、そんなひどいことしないわよ。たまたまよ、たまたま」
 上野がかわいい子ぶってごまかすので、周囲は笑いの渦が起こった。
「じゃあ――」おれはその方を見た。「次は、大志だな」
 大志は腕組みを解いて、ゆっくりと歩み寄ってきた。まだ、余裕が窺える。今のを見ても、まだ虚勢を張れるとはね。
「上野、もっと強いの打っていいぞ。かましてやれ」
「う、うん」
 再び、さっきと同じ位置に立ち、正面には大志を見据えた。
 大志がボールを放ってくる。上野が最初に打って、おれは打ちやすいように調節する。その繊細な操作がかちりと噛み合ったとき、上野の強烈なスパイクが炸裂した。本当に、さっきよりも強くて、速かった。
 これも、大志の体に当たるかと思った。思ったのだが、大志は何でもないようにレシーブした――わけでなく、避けた。大口を叩いたくせに、予想以上の威力に恐怖したのだ。
「おい、大志。なんで避けてんだよ」
「てへっ」
 大志は手を頭の後ろにやって、ふざけた。
「余裕かましてたじゃねーかよ」
「いや、まさか上野さんが本気出してくるとは思わなくて。全然見えなかった」
「だって、水野君が強く打っていいって言うから……」
 上野は唇を尖らせている。あんなスパイクを見せ付けておいて、今さら女の子ぶってどうする。
「いや、さすがだね、二人とも。完敗だよ、完敗」
 大志はあっさりと負けを認めた。
 でも、笑いは取れてるぞ、大志。

 かき氷タイムにしよう、と言い出したのは、例によって会沢だった。彼に疲れは見られず、高いテンションを今も維持している。この日をどんな風に過ごそうか、ずっと考えていたのだろうな、ということが容易に分かる。――あいつ、夏休みの課題に手をつけているのかな。
「じゃあ、そう言う会沢君が人数分を買ってきてよ。お金、後で払うから」
 すげなくそう言ったのは、委員長だった。いつも以上に口調が辛辣なのは、ひょっとしたら楽しんでいる表れかもしれなかった。まあ、本人は否定するだろうけれど。
「え、おれが一人で?」
「そう」
「それは――物理的に不可能では? いや、気持ちの上では喜んで買ってきたいけど」
 言い終わってから、おれたち男子の方を振り返った。「そうだ、蔵本は一緒に行ってくれるよな」
「蔵本、ご指名だぞ」おれは彼の肩に手を置いた。
「なんでおれが? 一人で往復してくればいいじゃん?」
 だが、蔵本も冷たい。
「そんなこと言うなよー。親友だろう、おれたち」
「時と場合による」
 足にしがみついてきそうな勢いの会沢を、蔵本は巧みにかわした。
「でも、さすがにかわいそうだから、一人くらい付いて行ってあげたら? ジャンケンでもして」
 助け舟を出したのは、蒔田だった。
 彼女に言われて、それもそうか、と男子たちは単純に頷いた。男子みんなが集まって、激しい掛け声でジャンケンが始まった。
 結果から言うと、負けたのは蔵本だった。
「ほら親友よ、おれたちはこういう運命だったのだ」
「お前と運命共同体とは、光成と家康が仲良くなるくらいありえないな」
 最後まで愚痴をたれていながらも、二人は人数分のかき氷を買いに出かけた。というか、20人以上もいるのに、どのみち二人では全員分は無理なのではないか、と気づいたが、黙っていた。

 遠くの海に浮かんでいる小さな頭を見つけて、よく見るとそれが前田だと分かった。姿が見当たらないと思ったら、一人で何をしているのだろう。かき氷も来ることだし、おれは彼女を呼びに行くことにした。集団から、そっと離れる。
 泳いで近寄っていくと、彼女はこちら側に背中を向けて、波の流れに漂っているのが分かった。のんびりしているのか、まだ彼女の表情が見えないため、その目的は判じられなかった。
「前田、どうしたんだ?」
 やっと近くまで辿り着いてから呼んでみた。
 前田はびっくりしたように、首だけこちらへ向けた。そのとき、彼女の背中に違和感を覚えた。
「あ、水野君……」
 声が、少し上ずっていた。
 何かあったのだろうか、おれがもう少し傍へ行こうとすると、「来ないで!」と、制された。
「え、どうして……?」
「いいから、それ以上近寄らないで」
 そこでおれは、彼女の態度と、背中の違和感の正体を合わせて、大変な事実に気づいてしまった。
「前田、ひょっとして、水着が流されたとか――」
 前田の顔が目に見えて紅潮した。当たってしまった。
「うそ、マジかよ」
「普通に泳いでたんだけど、紐が何かに引っ掛かっちゃって――」
「この辺?」
「たぶん。でも、もう流されて、遠くに行っちゃったかも……」
 ということは、彼女は今、上半身が裸なのか。今頃になって、心臓の鼓動が速まった。
 おれが探してみようかと思ったが、見付かる可能性は低いと思った。それよりは、代わりの水着を持って来てやった方がいいだろう。
 そう思ったとき、前田が短く悲鳴を上げた。
「え、どうした? 大丈夫か?」
「水野君、助けて――足、攣っちゃった」
 なんとも間の悪いこともあったものである。でも彼女は、しっかり者に見えて、その実、何もないところで転ぶこともあるのだ。
 おれは溺れては一大事と、彼女を助けようと焦った。焦って、体を抱えてやったのはいいが、後ろからしっかりと胸を掴む形になってしまった。
「あっ……」
 柔らかい感触が両手に広がる。松井ほどではないにしても、彼女のそれも思う以上に大きかった。
「ちょ、ちょ、ちょっと。どこ、持ってんのよ」
 前田は耳まで真っ赤だった。
 そして、強い力に腕を振り払われたと思うと、電光石火の張り手が頬を襲い掛かった。
「ご、ごめんなさい! 助けようと焦ったら、そんなことに」
「それにしても、もっと他に持ちようがあったでしょ」
 だが、おれが腕を放したのにも関わらず、彼女は平気で浮かんでいた。
「あれ、もう治った?」
「え? あ――」言われてから気づいたようだった。「今のにびっくりしたら、治ったみたい」
「なんだよ、それ。じゃあ、おれのおかげ――冗談です」
 再びビンタをお見舞いされそうだったので、おれは言い切るのをやめた。
「違うわよ。いいから、代わりの水着、取ってきてよ」
「分かった。大人しく待ってろよ」
 おれは泳いで、浜辺に戻っていった。
 幸い、かき氷はまだ届いていなかった(やっぱり、二人で人数分を運べなかったようだ)。おれが女物の水着を新たに買うわけにもいかず、上野にだけ事情を説明して、彼女に買わせて、届けさせた。
 無事に戻ってきた前田は、真っ先に感謝と、頬を張ったことの謝罪を口にした。
 おれももちろん、詫びた。

 目が醒めて、飛び上がるようにして起きると、窓の外はすでに日が高く上っていた。疲れていたからだろう、ずいぶん長い間、深い眠りに就いていた。
 期待を大きく上回って楽しかった海水浴から帰り着き、おれは泥のように眠った。おそらく、他の多くもそうであったろう。
 ぼんやりした思考のまま、ベッドの脇のカレンダーに目をやる。夏休みの終わりが近づいていた。今までになく、盛りだくさんだった。幸いにも、宿題も終わる目処がついている。
 残すイベントは、例の「おつかれさま会」だ。おれと上野、それに前田と大志を加えた四人の集い――。
 自然な記憶の作用として、前田の胸の感触を思い出していた。期せずして訪れた事故とはいえ、あんなにしっかり揉んでしまうとは、今思えば、よくやった、と自分に言いたい。
 おれは慌てて首を左右に振った。それはないだろう。そんなことを思うだけでも、前田に失礼だ。
 なんだか、少しだけ不安になってきた。彼女を目の前にして、今まで通りに接せられるだろうか。余計なことを考えたり、思わぬことを口にしたりしそうだ。
 それでも、会いたいと思った。

 夏休み最後の日曜日、約束どおり四人が集まった。結局、お昼ごはんを一緒に食べて、その後はカラオケかボーリングに行こう、ということになった。
 学校だと目に付くので、集合場所は街中のファミレス前にした。そこでお昼を食べるからだ。
 最初に着いたのはおれだった。別に、一番乗りで行って、前田に時間を守るところをアピールしよう、という目論見があったわけではない。なんとなく早いめに準備を始め、し終わったら出かけ、その結果として一番乗りになっただけだ。
 ただ、少し気分が浮ついている部分もあったと思う。だから、午前中は何も予定がなかったのに、午後からのことをボーっと考えて何もしなかった。
 ぽんぽん、と肩を叩かれた。誰か来たのかな、と振り向いた。
「おっす。早いな」
 大志だった。
「お前も早いな」
「おれはいつも早いって。あれ、なんか今日の格好、気合入ってね?」
 おれは白地のTシャツの上に、薄手のチェックのシャツを羽織って、下はデニムを履いていた。休みの日はいつもこんな感じだ。
「入ってないだろ。普段から着てら」
「あれ、そうなんだ。でも、なんかいつもと雰囲気が違うね」
 おれは無言を貫くことにした。どういうつもりで言っているのか分からなかったし。まあ、たぶん何気ないつもりで言っているのだろうが、もしかしたらこちらの想いを見透かしているかもしれない。大志はそんなに洞察力のあるやつでもないけれど、何よりおれたちは付き合いが長いのだ。長すぎるのだ。秘密は案外、ばれやすい。
「水野君、島津君、おまたせー」
 明るい声がしたと思うと、上野が手を振りながら歩いて来ていた。隣で、前田も軽く手を振っている。なんだ、一緒に来たのか。
「いや、今来たところ」
 大志がさらっとそういうことを言う。確かに、お前は来たばかりだけど、おれはちょっと待っていたけど――でも、そんなことを言ってもしょうがない。
「じゃあ、まずはご飯にしようぜ。おれ、お腹空いちゃってよ」

 大志がいなければ、と思うと同時に、でも大志がいてくれてよかった、という矛盾した感情も存在する。
「おれ、びっくりしたよ。てっきり、尚輝が高校生になってから、積極的に女子に絡むようになったのか、ってさ」
「そんなわけないじゃん。あれはたまたまだったし、話しかけてきたのは向こうだし」
「怜奈って、たまにそういうところあるよね」
「え、どういうところ?」
 甘いジュースをストローで吸っていた前田が、パッと顔を上げる。
「普段は大人しい優等生なのに、意外な、というか、大胆な行動に出るよね」
「そうかなー。いつも、私は同じ私だけど?」
 本人は自覚ないらしい。
「まあ、でもさ、」大志が執り成す。「おかげで前田さんと尚輝が仲よくなって、おれたち四人でこうして会えるようになったんだから、よかった」
「まあ、そうねー」
 上野が語尾を延ばして、同意を示した。
 大志は見た目以上に内面はもっと明るい。容姿からクールな性格だと思われることもあるけど、本当は自由奔放としていて、いつでも前向きだ。今も、大志がいるおかげでより楽しい会話になっているし、おれも気後れすることがない。
 だからかもしれない、おれは彼を親友に選んだ。話しやすいとか、一緒にいると安心するとか、何でも相談できるとか、それも重要な要素だけど、根っこではない。
 人は、自分に足りないものを持っている人に惹かれるものだから。
 それがときに、妬みに変わる瞬間がくるかもしれない。そんなことをときどき考える。特に――。
 ちらと上げた目線の先に、柔らかく笑う前田がいた。好きな人が絡んでくるとき、おれは大志の明るい部分を羨み、妬むかもしれないのだ。
「水野君、どうしたの?」
 視線に気づいた前田が、おれに呼びかけてきた。
 おれは心の中のもわもやを笑い飛ばした。今そんなことを心配してもしょうがない。
「いや、ちょっと。――それより、この後どうする? カラオケにするのか?」
「そうね、どうしよっか。私は何でもいいけど」
 上野が委ねてくる。
「そうだな、時間もあるし、この人数だし。カラオケだけで一日終わることはないだろう。ひとまず、カラオケに行ってみようぜ」
 大志が決定を促す。
「いいよ。私、久しぶりに歌いたいし」
 前田も賛成なようだ。
「よし、」おれは立ち上がった。「じゃあ、決まりだな」

 いつか、と考える。いつか、おれはこういう風に前田と気軽に会える関係になるのだろうか。今日みたいに四人ではなくて、二人きりで。
「おれ、ちょっとトイレ」
 大志が立ち上がって、部屋から出て行った。今、おれたちはカラオケに興じている。
「私、飲み物のお代わりに行ってくる」
 上野も立ち上がった。飲み物はドリンクバー制になっていて、お代わりが自由だ。
 二人がふらりと部屋を出て行ったことで、残されたのはおれと前田になった。もし、この状態がスタートだったら。つまり、二人だけのデートだったら。
 そんなことを考えていたら、前田の、形の美しい唇を横から見つめてしまった。ほんのり赤みが差していて、心が何か鋭いものに貫かれた気がした。ずっと見ていると、動悸が激しくなる。でも、いつまでも見ていたいと思った。
 それは、衝動だった。彼女の唇に自分の唇を重ねたい、という。おれは自分の唇を舐めた。彼女は、許してくれるだろうか。むしろ、待ち望んでいたりするだろうか。それはないか。でも、悪い気はしないのではないか。
 ああ。おれは何を考えているのか。
「水野君」
 パッと、彼女はこっちを向いた。おれは気まずさから一瞬、目をそらした。
「次、何にする? 水野君も島津君も上手いよね」
 曲を選択するための機械とにらめっこしている。
 今、二人きりなのだし。後ろからそっと腕を回して、突然の行動に戸惑う唇にキスしたい。
「あの、前田は――」おれは、何を訊こうとしている。「前田はさ――」
 そこで、部屋のドアの開く音がした。飲み物を手にした上野が戻ってきた。
「あれ、まだ曲入れてなかったんだ」
「うん、迷っちゃって」
 二人は、隣の男の考えに気づく素振りもなく話す。
 自分が嫌になりそうだった。だけど、好きになってしまったのだ。好きになったら、望んでしまうものがあるのだ。どうやっても思考の部屋から立ち去ってはくれない。
 人が、人を好きになるってどういうことだろう。この感情は、想いは、どこからやってくるのだろう。

 八月いっぱいで夏休みは終わり、学校は二学期に入った。二学期最初の行事は、文化祭である。九月の終わりが開催日で、だから、この一ヶ月はほとんどを文化祭の準備に当てる。
 ウチのクラスが何をやるかは、一学期の終わりにすでに決められていた。「焼きそば屋」だ。手作りの焼きそばを提供する。
 準備に当たっては、クラスは二分される。調理班と接客班。調理班はもちろん、よりおいしい味を目指して、当日まで練習していればいい。一方の接客班は、教室の装飾に精を出す。雰囲気を出すための装飾。
 おれはどっちでもよかったのだが、大志が料理はできないと言うので、一緒に接客班に入った。
「思うにさ、松井を接客班にしたのは正解だったな。いい客寄せになりそうだ」
「人をパンダ扱いするなよ」
 そう言いながらも、ちらりと松井を見てしまう。夏服で、シャツ一枚の彼女の胸はパンパンだ。そして相変わらず、スカートが短くて困る。
「でも、あんまり忙しくなりすぎるのも考えものか」
 大志はすぐに考えを翻した。
「忙しいくらいが充実した文化祭になるだろ」
 だけど、遊びに回れなくなったら、おれも嫌だな。
 接客班は、放課後の時間、教室で簡単な装飾作業をしている。中心になっているのは、小野瀬の陰に隠れがちな男子の学級委員。だから小野瀬は、調理班を統率している。料理が得意なのだ。他にも、蔵本や会沢も調理班。基本的には女子が多い。
 教室に目を向ける。それでも、こちらが男子ばかりである感じがしないのは、目立つ女子が多いからかもしれない。松井だけじゃなく、前田も上野も、蒔田もいる。
 松井に寄せられる客もそれは多いだろうが、前田だって看板娘の筆頭だ。――って、おれは何を言っているのか。大志の毒に当てられてしまっただろうか。
「水野君、手が止まってるようだけど」
 噂をすれば何とやら、前田が隣にしゃがみ込んできた。「ちゃんと作業してる?」
「してるって。ちょっと、休憩中」
 ふーん、と彼女は信じていないような声を出す。
「水野君は、部活をやりたくてしょうがないだろうからね。そりゃ、集中できないかもね」
 前田とは反対の側に、上野が座り込む。
「ああ、めっちゃ部活やりたいなー。なんで文化祭前はできなくなるんだか」
「と言っても、本番の一週間前だけでしょ。それくらい、我慢しなさいよ」
 自分もやりたくてうずうずしているはずなのに、上野は大人なことを言う。
「やあやあ、みなさん。お揃いで」
 気づかぬうちに他の集団に顔を出していた大志が、戻ってきた。
「あれ、この四人が揃うなんて。この間の面子だね」前田が笑顔を浮かべる。
 夏休みの終わりに、遊びに行った四人。
「また行きたいね」
「今度は、何の会?」
「文化祭おつかれさま会、とかにする?」
「それはクラスで行くだろうからなー。他に口実ないかね。まあ、何でもいいけど」
 行くことが目的だから、と大志が言うと、二人も頷いていた。
「水野君、いい口実思いつかない?」
 前田に振られて、少し考えてみる。
「この中でさ、誕生日が一番近いのって誰だろ?」
 おれがそう口にすると、めいめいが顔を輝かせた。
「誕生日会、ってこと?」
「それ、すごくいいかも」
 思ったよりもいい反応だ。
「それで――誰が近いんだろ。おれは五月ね」周囲を窺ったのは大志。
「え、とっくに過ぎてたんだ。私は二月」と、上野。
 残ったおれと前田が顔を見合わせた。先に、前田が口を開く。「私は十一月」
 お、と大志が声を上げる。今のところ、一番近い。――こいつ、憶えてなかったのか。
「じゃあ、おれなのか。十月」
 ちょっと、照れくさい気がした。自分で案を出しておいて、自分が比較的すぐ、誕生日とは。祝ってほしいと訴えているみたいだ。
「あれ、そうだったっけ」と、大志。やはり忘れていた。
「えー、水野君、最初から自分を祝ってほしかったんじゃないのー?」と、上野。やっぱり、そうなるよな。
「でもさ、」前田が口を挟む。「これで決まったね。次に集まる口実が」
 明るい笑顔は、締め括りに相応しい。照れくさいと思っていたけど、祝われるのは嬉しいものだ。それなりに楽しみになってきた。
 ――しかし、この約束が果たされることはなかった。

 また一人、また一人。騒がしかった教室は、空席が増えるごとに生気を失っていく。水を与えられなかった花のように。しぼんでいく、枯れていく。
 文化祭を直前に控えたタイミングで、校内に新型のインフルエンザが流行した。しかし、校内といっても、被害のほとんどはおれたち一年生に集中した。各クラスの半数近くが罹患し、出席停止を余儀なくされた。罹った人が戻ってくるのと入れ替わりでいなくなる人もおり、教室の人数は開催日前日まで回復しなかった。
 おれはすっかり寂しくなった教室を見渡す。ちょっとだけ、虚ろな眼差しで。空席を、一つずつ確認していく。
 最初にウチのクラスで罹った人は、学校全体で最初に罹った人だった。つまり、根源。それは上野だった。おれは驚いたけど、その後、こんなに大きく広がるとは思ってもいなかった。
 次に罹ったのは、蒔田夏希。ほぼ同じタイミングで、彼女と親しかった女子数人の席も空席となった。続けて、ある男子が罹り、連鎖的にクラスの何人かに広がった。同時進行で、隣のクラスも、そのまた隣のクラスも罹患者を大勢出した。小規模だが、他の学年にもその余波が押し寄せた。
「幕末にコレラが流行したときも、こんな惨状だったんだろうな」
 そう言っていたのはもちろん蔵本だ。そんな彼の席も、今は空席。
 文化祭の開催が危ぶまれた。外部の人を招くのはさらなる流行に繋がるのではないか、と。でも、上級生が反対した。ここまで準備してきた日々が無駄になってしまう。何より、三年生にとっては最後の文化祭だ。
 結果、万全の体勢をとって、予定通り開催することとなった。入口や校内の各所に消毒液を設置すること。生徒たちは必ずマスクを着用すること。体調が少しでも悪いと思ったら、すぐに保健室へ向かうこと。などを条件に。
 おれは、もう中止にしてもよかったのではないかと思う。だって、マスクをみんな着用してるところに、人が来たがるだろうか。それに、焼きそば屋をやっているなんて、最も避けられそうではないか。
 クラスの士気は下がっていた。担任の早雨先生も、なす術もなく佇んでいる風だった(ちなみに、先生方は誰一人としてインフルに罹っていなかった)。ずっとクラスを引っ張ってきた委員長、小野瀬もいない。
 そんな沈みきった雰囲気を変えたのは、大志だった。
「みんな、せっかく開催されるんだぜ。参加できない人たちの分まで、おれたちで楽しもうぜ」
 決して熱い口調ではなかったけれど、そのシンプルな言葉はクラスのみんなの心に染みた。
 おれは意外だった。大志は人の中にあって、その抜群のバランス感覚で居場所を作れる人だけど、中心になったり、先頭を切ったりするタイプではないと思っていたから。
「大志の言うとおりだ」おれも立ち上がった。「しけた面並べて焼きそば売ってたって、それこそ客がこないよ。楽しい雰囲気を出していこうぜ」
 あちこちから、賛同の声が上がった。息を吹き返すようにして、目に見えて士気の上昇が認められた。その渦の中心で、おれと大志は笑みを交し合った。青春かな、と思いながら。
 二番煎じ――おれはただ悔しさしかなかったけれど。前田の、大志に向けられた視線に気づいてしまったから。

「いらっしゃいませー」
 客入りはまあまあだった。一日目、ぽつぽつと焼きそばを食べにきてくれる人はいた。でも、まあ、大入りだったとしたら、人手の足りないおれたちは対応できなかっただろうけど。
「おい、なんか男性客ばっかりじゃないか? 気のせいか」
 大志が、嬉しそうにおれに耳打ちする。
 それはおれも気付いていた。
「そりゃ、彼女のおかげだろうな」
 目線の先で、松井がきびきびと客をさばいている。女性の魅力たっぷりのその容姿で、たくさんの男性客を引き寄せている。マスクをしていなければ、もっと大盛況になっていただろう。
「ほんとだよなー。MVPは決まりだな」
 大志は、こほん、と咳を一つして続けた。
「正直、クラスに発破かけた張本人のおれが一番不安だったと思うんだけど、予想以上に客が入ってよかったよ」
「お前、珍しいよな。あんな風に前に立って、声を張り上げるなんて」
「――なんか、嫌だと思ったんだ」
 大志は俯きがちに呟いた。
「嫌?」
「ああ。だって、やる前から絶望してたんじゃ、もったいないじゃん。つまんない後悔したくなかったしさ」
 おれは、違うな、と考えていた。それは後付けの理由だろう。大志はもっと直感的なところで動かされたんだ。おれには分かる。
「どう? 人、来てる?」
 調理班の会沢が覗きに来た。答えを聞く前から、「お、けっこういるじゃん。嬉しいな」
「やったな。委員長がいなくても、いい焼きそば出せてるじゃん」
「へっ、おれたちだって、やればできるんだよ」
 委員長の遺志はしっかり受け継いだぜ、と会沢は胸を反らす。勝手に人を殺すなよ、とおれと大志でツッコミを入れる。
「しかし、蔵本と仲のいいお前がインフルに罹ってないのが不思議だな」
「確かに、なんでだろう?」
 そりゃあ、と会沢は口を開く。
「バカは風邪を引かない、って言うだろ」
 自分で言うなよ、と再び二人でツッコミを返す。笑えた。
「ちょっと、水野君と島津君も働いてよー」
 一番最初に罹患して、しかし、文化祭のタイミングで戻ってきた上野の声が飛んでくる。自分のせいでは、と落ち込んでいた彼女だが、今は明るい表情だ。
 よかった。おれは安心する。彼女には、笑っている顔がよく似合っている。

 お昼どきを乗り越え、だいぶ落ち着いてきた時間帯になった。自由時間を迎えたおれは、同じく自由時間の大志と、他のクラスの出し物を回りに行くことにした。
 しかし、周囲を見回してみても大志の姿が見当たらない。おかしいな、さっきまでいたのに。
「なあ、大志、見かけなかった?」
 遊びに行こうとしていた前田と上野を捕まえて、尋ねてみたが、二人は首を振った。
「ううん」
「そういえば、見かけないね」
「……そっか」おれは二人から離れた。「ありがとう。他、探してみるわ」
 次に向かったのは、調理班の戦場、調理室だった。忙しそうだったら申し訳ないので、先に顔をそっと覗かせて、様子を窺った。幸い、書き入れ時(文化祭でこの表現は正しくないけど)は避けられたようで、室内は静かだった。
「蒔田さん」
 ドアの近くにいた彼女に、大志を見かけなかったかと訊いてみる。
「いいえ、見てないけど」
「……そっか」
 それでも、不安に感じることはなかった。子どもではないのだし、何か姿を消す理由があったのだろう。
 そう考えていたら、背後から騒がしい足音が迫ってきた。ぎょっとして、おれは振り返る。
「お、おい、水野ー!」
 会沢だった。うるさいやつめ。
「どうしたんだよ、騒々しいな」
 会沢は息を切らしながら、
「水野が、保健室に行ったらしい――」
 それだけで、その意味は汲み取れた。この時期に保健室へ自分から行くことの意味。
 体調が少しでも悪いと思ったら、すぐに保健室へ向かうこと。
 文化祭開催の条件の一つ。大志は、どうやら体調を崩したらしい。まったく気づかなかったが。それはつまり、インフルエンザかもしれない、ということだ。
「会沢、保健室に行こう」
 言うが早いか、おれは小走りでその場を立った。
「お、おう」
 会沢も続いてくれる。
「私も」
 蒔田も付いてきてくれた。三人で、保健室へと駆けていく。
 最初の角を曲がったところで、人影が目の前をよぎった。突然で避けきれず、ぶつかってしまう。予想を遥かに上回る柔らかい感触を顔面で感じる。――松井、か。
「わ、びっくりした」
 半端なく柔らかい胸の持ち主が、口を半開きにしておれたちを見ている。
「ごめん、急いでるんだ」
 おれはまた駆け出した。
「夏希、どうしたの?」
「保健室に向かってるの。島津君が、体調を崩したらしくて」
 後ろで、二人の会話を確認する。背中越しで、どうやら松井も加わったことが分かった。悪目立ちしそうだな、と意地悪いことを思った。

 当然ではあるけれど、保健室に辿り着いたところで、中に入らせてはもらえなかった。インフル患者を隔離しているからだ。だが、先生から大志の状態を訊くことができた。――高熱があるようで、病院に行ってみないことには判断できないが、おそらくインフルエンザだろう、ということだった。
 さっきまで、普通に話していたのに。少し、きつかったのかもしれない。おれは、そのサインにまったく感づけなかった。
 今回の文化祭、沈んでいたウチのクラスに発破をかけたのはあいつだった。その大志が、まさか一日目の前半で戦線離脱してしまうとは。
 その後の日が暮れるまでの時間は、おれにとって、あってないようなものだった。だから、文化祭一日目の終了を、おれはぼんやりとしたまま迎えた。
「水野君」
 余韻なんかに浸ることなく、真っ先に帰途へ就こうとしたおれを、優しい声音が引き止めた。
「松井――」
 松井だった。
「蒔田は? 置いてきていいのかよ」
 そんなおれの問いには答えずに、彼女はいきなりおれの手を掴んだ。そのためらいのなさにおれはドキッとする。
「ま、松井?」
「水野君、喫茶店に行かない? 私がおごってあげるよ」
「え、なんだよいきなり……」
「いいから、行こう」
 言葉の強さと同じくらいの強さで手を引かれた。逆らう理由もないので、されるがままに任せた。女子の手ってこんなに柔らかいものかと考えていた。

 学校から一番近い喫茶店に、おれたちは入った。
「別に、おごりじゃなくていいぞ。無理しなくても」
 松井が席に座って早々、財布の中身をチェックしたから、そう言っておいた。
「ダメよ。お金ならあるから、おごられなさい」
「――分かったよ」
 それ以上反論しても仕方ないから、頷いた。
 九月に入っても残暑が尾を引いていた。店内はわりと涼しいが、ここに来るまでにだいぶ汗をかいてしまった。松井は制服のボタンを一つ外し、鎖骨の辺りを露わにした。じっとりとした汗は、白いシャツの上に下着のラインを透けさせていた。相変わらず、何を着てもエロい。
「おまたせいたしました」
 それぞれが注文した飲みものが運ばれてきた。おれはアイスコーヒー。彼女は、アイスココア。大人だね、と注文のときに彼女は感想を漏らした。
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」
 おれがストローに口をつけたタイミングで、彼女は唐突に立ち上がった。曖昧に返事をして見送った。
 なんとなく、窓の外に目をやる。ここは、学校から近い場所に位置しているけれど、登下校の際に通りかかる人は少ない。住宅街から離れ、駅へと向かっていく途中だからだ。その駅は、この間の夏休み、海に行くときに集合場所としていたところだ。
 あれから、まだそんなに経っていない。なのに、とても空白の期間ができてしまったような気がする。インフルエンザが猛威を振るったのはあっという間だったし、いつもと違う状況を受け入れる準備もないままに、今日まで来ている。
 そうだ、大志もいなくなってしまった。
 ちょっとした喪失感。大げさかもしれないけれど、意外と堪える。
「ごめん、ごめん」
 トイレから、松井が戻ってきた。――座るとき、心なしか普段より胸がよく揺れた気がする。たぷん、と。
 おれはそっと目で確認すると、汗でじっとりと湿ったシャツに彼女の胸が透けていた。まるで隠せていない。丸見えだ。
 ひょっとして、とおれは考える。トイレに行っていたのは、下着を外すためだったのかもしれない。理由は少しでも涼しくなりたいから、としか思えないが、ちょっと普通ではいられなかった。彼女を真っ直ぐに見られないし、見ようとすると、どうしてもその方に目を向けてしまう。
「はあ、アイスココア、おいしい。のどが渇いてると、余計においしいね」
「ああ、そうだな」
 これは、おれから言った方がいいのか。それとも、言ってはまずいのか。――でも、とても平然と言う勇気はなかった。
 シャツにぴったり張り付くくらい大きいのがいけないのだ。汗をかくくらい暑いのがいけないのだ。
「ねえ、水野君」
 彼女が身を乗り出したことで、その大きな二つのおっぱいがテーブルの上に乗った。より、視界に近くなる。
「明日もがんばろうね。今日と同じくらい。いや、今日よりももっと」
「今日よりも――」
 ようやく、彼女がおれを励まそうとしているのだと理解した。まあ、薄々は感づいていたけれど、喫茶店に誘ったのもそのためだったのだろう。
「塞ぎこんだままじゃ、島津君に怒られちゃうよ。だから、さ」
 おれは今にも噴き出しそうだった。なんてもったいない女なのだろう。こんなに優しい言葉を、いい言葉を言っているのに、その見た目とまるで噛み合わない。残念ながら、おれの心はまったく震えない。
 それでも、ありがとう、と声に出して返したのだった。

「じゃあ、またね」
 結局、別れ際まで下着を付け直さなかった。汗はもう引いてきたとはいえ、乳首の箇所が明らかな点となって浮かんでいる。
「……松井、下着はつけた方がいいと思うぞ。ここからは、人目も多いだろうし」
 やっと、平然とした振りで忠告できた。
 彼女は目を見開き、「うそ、ばれてたんだ」
「ごめん、なんとなく分かった」
 すぐに言わなかったことをなじられるかと思ったが、彼女はそんなことは言わなかった。
「じゃあ、今からつけるから、ちょっと見張ってて」
 両腕で胸を抱える。そんな格好しないでほしい。刺激的過ぎる。
「え、見張れって、ここでつけんの?」
「ほら、早くしてよ」
 鞄からさっと取り出したのは、ブラジャーだった。おれはそれから目を逸らして、とりあえず背中を向けて近くに立ってやり、盾を担った。これでいいのか分からなかったが。
「ありがとう」
 つけるのは、意外と早く終わった。「じゃあ、今度こそ。また明日」
 手を振って、ご機嫌な様子で遠ざかっていく彼女に、また明日、と大きな声で返した。
 そういえば、松井もインフルに罹らないな、とそのとき思った。

 背の高い女子もまた目立つ。美脚を持ち合わせていて、顔もそこそこかわいかったら、なおさら。
「あ、水野君。おはよう」
 こっちに気づいた上野が右手を挙げる。人の少ない校舎の一階ホールの中で(焼きそば屋はここに陣取っている)、彼女の姿は他の誰よりも目がいった。
「おはよう。早いな」
「まあね。意識が高いから」
 朗らかな笑みを浮かべる。朝から安心させてくれる。
「あ、怜奈も来た」上野がおれの向こうに笑顔を投げる。「怜奈、おはよう」
「おはよう」
 前田も来た。続々と、生徒が揃いつつある。文化祭二日目が始まる前の、学校にしては静か過ぎる朝。
「薫子、マスクしなきゃダメじゃない」
 そう指摘する前田は、最初からマスクで口元を覆っている。
「はいはい。まったく、これじゃ接客で笑顔を振りまいても、効果は半減ね」
「そんなことないって。ちゃんと気持ちをこめれば、相手には伝わるよ」
 おれはなんだか不思議な立ち位置だった。いつもなら、たとえば昨日なら、おれは大志とだべっていた。ホールのどこか、落ち着けるところで。
 でも今は、ほぼ中心部で、女子二人と一緒になっている。こういうところでも、今が平素と異なる状況下なのだと実感する。
 改めて、不在者に思いを馳せる。調理班を仕切ってきた委員長、蔵本、そして大志。
 すでに罹って、今は無事に戻ってきた人たち――上野と、蒔田。
 健康なまま乗り越えてきた人たち――前田、松井、会沢。それから、おれ自身。
「がんばろうぜ」
 会話の流れにそぐわない言葉を不意に投げた。だが、二人は笑顔で受け止めてくれた。
「もちろん」
「島津君の分も、ね」
 遠目で、松井が登校してきたのが確認できた。彼女なりのやり方で、おれを励まそうとしてくれた。相変わらず、環境の物足りなさは充足できないけれど、とりあえずいつも通りを心がけるのがきっと最良の策なのだろう。

 偶然というものはあるのだな、と身を持って知った。
「水野君、怖くないの?」
 隣で肩を縮ませているのは、前田だ。おれの手をぎゅっと握って。昨日の松井といい、二日続けて女子に手を握られるとは。しかも、今度はお化け屋敷という最高のシチュエーションで。
「怖くないだろ。意外だな、前田が怖がりなんて」
 内心、怖がりなのは嬉しいけど。必死におれの手にしがみつく彼女は、いつにも増してかわいらしい。
 ――そもそも、どうして二人でここに来ることになったのか。それはやはり、偶然の結果だった。
 お昼どきを迎える前の時間帯、人数はそこまで必要ではなかったから、何人かが遊びに出かけていた。残ったメンバーが、午後の開いた時間に出かける。午後組の中に、おれや前田、上野らがいた。
 しかし、今日も午後の自由時間を迎える直前で、戦線離脱するクラスメイトが出てしまった。おかげで、少し人数に余裕がなくなった。
「これだと、とても回せない。誰か一人でいいから、休憩なしで残ってくれないかな……」
 悲痛な面持ちで会沢が告げた。ほんとうに、人が少なかった。
「じゃあ、おれが残るよ」さっと、手を挙げた。迷いはなかった。
「水野、いいのか?」
「ああ」
 大志もいないし、と続けてもよかったが、あえて理由は口にしなかった。ただ、ほんとうは昨日も結局回れなかったから、少し惜しい気もした。
「ダメだよ」それを遮ったのは上野だった。「水野君が身を挺する必要はない。私が残るよ。私は、昨日回ったし」
「それだったら、私も同じだよ」前田も言った。「薫子はいいよ。私が残るから」
「でも……」
 そんな健気な三人の狭間で、会沢は幾分困っていた。「うーん。気持ちは嬉しいけど、そんなにはいらないからな――」
「じゃあさ、公平にジャンケンしない?」
 これは上野の提案だったが、この後もまた一悶着あり、最終的な妥協案としてジャンケンが採用された。
「いい?」上野が顔触れを見渡す。「負けた一人が、ここに残るんだよ。勝ったら、めいいっぱい文化祭を楽しむ」
「分かった」
 前田が力強く頷いた。
 女子には何か通ずるものがあったらしい。おれも頷いておいた。
「最初はグー、ジャンケン――」
 ――そして、こうして二人でお化け屋敷にいるということは、負けたのは上野だった、というわけだ。
 よかった、水野君が負けなくて。そうなってたら、後ろめたかったから。
 涼やかな笑みでそう言った上野は、イケメンだと思った。女子だけど。
 おれが残るのがスマートな形だったと思うけれど、でも、おかげで前田と一緒にいられるのだから、おれは喜ぶべきなのだろう。実際、心から喜ばしい。
「キャッ」
 横から骸骨の格好に扮した人が現れて、驚いた前田がおれに抱きついてきた。――やばい、冷静さがどこかへ行きそうだ。
「ごめん」
 謝って離れたが、繋いでいる手は放さなかった。もしかしたら、彼女は無意識で繋いでいるのかもしれない。
 ああ、この時間が永遠に続けばいいのに。このお化け屋敷が、出口のない、永遠に続くものだったらよかったのに。
「水野君」
 前田が、目を潤ませておれの目を見つめてくる。すがるように、真っ直ぐ。
「置いていかないでね、私のこと」
 心がとろけそうだった。

「あー、怖かった」
 永遠に終わらないお化け屋敷なんかなかった。でも、もう十分だった。
「怖がりなのに、なんで入ろうなんて言い出したの?」
 提案してきたのは前田からだった。
「それは、ほら、怖いもの見たさ、っていうか」
 好奇心が旺盛なのだろう。それは、おれがよく知っている彼女の性質の一つだ。
「ちょっと、あそこで休もう。疲れちゃった」
 彼女が指し示した先にあったのは、上級生のクラスがやっていた喫茶店だった。また喫茶店か、と思った。
 もちろん、学生がやる以上、クオリティの高さには限界がある。だが、値段は圧倒的に安いし、居心地のよさは侮れない。
 二人がけの席に、向かい合う形で腰掛けた。
「アイスコーヒー」
 前田が先に頼んだ。水野君は? と目で問うてくる。
「すみません、アイスコーヒー二つで」
 女子の先輩が頭を下げる。「かしこまりました」
 喫茶店の中は、おれたちと同じように、はしゃいで疲れてしまった人たちが多いようだった。校内で、休憩場所を提供できるのはここくらいだからだろう。
 外は、たくさんの声で溢れている。文化祭を楽しむ声、青春を謳歌する声。中止になっていたら、決して存在しなかったその声たちを、おれは聞くことができた。
「でも、楽しかったね。いっぱい叫んじゃった」
 前田が笑いかけてくる。ほんとうに、愛おしい。くどいようだけど。
「まあ、おれもけっこう楽しめたかな」
「ほんと? それなら、よかった」
「――もうすぐ、文化祭も終わるな」
「また」彼女は呆れたように笑う。「そんな寂しいことを言って」
「悪い」
 おれは詫びる。
「なんだか、不思議だね」
「何が?」
 おれが尋ねる。
「来られない人がいて、来られた人がいて。その結果として、水野君は島津君と回れなかったけど、代わりに私が、水野君と回れた」
 何にも起こっていなかったら、こんなことなかっただろうね。彼女の言葉は、まさにおれの考えていたことだった。
「ああ、不思議だな」
「おまたせいたしました」
 アイスコーヒーが二つ、運ばれてきた。
「これって、神様の悪戯なのかな?」
 愉快そうに笑みを浮かべる。
 神様の悪戯、ってことは、それは運命ってことだ。おれたちがこうして二人でいるのは、運命のお導きだった、そういうわけだ。そこまで勝手に思った。
「空からこの状況を見て楽しんでるのかもな、神様は。さて、どうなるか見物じゃ、みたいな」
 じゃ、ってなによ、と彼女は笑った。いや、なんかイメージ、とおれは答えた。
 アイスコーヒーに浮かぶ氷が、きらきらと光を弾いている。黒い液体の中で、透明感と清涼感を抱いている塊。
 二人の距離がいつもよりずっと縮まっていることを感じた。おれは目の前の好きな人から目を逸らさない。今は、じっと見つめていることに決めた。

 夏の暑さから少しずつ抜け出しつつあった。このまま冬が来ないのではないかと憂慮していたけど、ようやく解放されるようだ。
 紅葉の季節。色を変えた街の木々たちが、秋の訪れを教えてくれる。何よりも説得力のある形で。
 おれは、この日しかないと思っていた。秋の入口。木々たちの衣替え。自分の新しい一年が始まることを告げる、特別な一日の直前。十月の後半におれの誕生日がある。誕生日に四人で集まる約束をしている。でも、おれはその約束を破ることになりそうだ。
 四人じゃなくて。もう、変わりたい。おれは、自分の誕生日を、他の誰よりも好きな相手と過ごしたい。前田怜奈に祝ってほしい。おめでとう、と笑顔を見せてほしい。それだけだった。それは、たった一つの大きな願い。叶えるためには自分から動かなければならない願い。
「前田」
 昼休みに、たまたま一人で教室にいたのをチャンスと捉えた。
 彼女は窓際で、うん? と首を傾げる仕草を見せる。
「今日の放課後、話したいことがあるから、体育館裏に来てほしいんだ」
「放課後……?」
「そういうことだから。待ってる」
 今は余計な質問を挟まれたくなかったから、返事も聞かずにその場を去った。大丈夫、彼女はきっと来てくれる。おれの話を聞くために。
 運命の時間を迎えるまでは、かえって一つのことに集中できていたと思う。どんな言葉を紡いで、どんな風に今までの想いを曝け出そうか、つまり前田のことしか頭になかった。
「ちょっと、水野君。今日、なんか上の空じゃない? 大丈夫?」
 顧問の早雨先生に注意された。部活は、まるで集中できていなかった。なんとなく、今までの経験だけでボールに反応し、無為な時間だけが過ぎた。
 ただ、上野が遠くからおれに視線を向けてくるだけで、何も言ってこないのが不思議だった。いつもの彼女なら、何かあったの? と訊きにきてもおかしくないのに。

 部活が終わると、おれはそそくさと部室を後にした。待たせるわけにはいかない。絶対に、先に体育館裏に行って、彼女を待っていなければならない。
「水野君」
 部室を出て体育館を横切り、出口に達したところで呼び止められた。今度は早雨先生ではなく、上野だった。彼女はまだ、運動着姿のまま。着替えずにおれを待っていたらしい。
「何? 悪いけど、急いでるんだ」
 ちょっと言葉がきついかもしれない、と思考の端で思ったが、仕方なかった。
「私、どうして夏の大会で水野君が精彩を欠いてたのか、分かった」
 そのまま通り過ぎようとしたけど、自然と足が止まった。
「ごめんね、私、水野君が怜奈に話がある、って言ってるところを聞いちゃったの」
 廊下の角に、上野はいたのか。
「聞いたからって止めるつもりはないよ。でも、背中を押すつもりもない」
「何が言いたい?」
 うん、と彼女は頷く。「ただ、水野君の想いを知ってることを打ち明けときたかっただけ。知らん振りして、隠しているのは悪いと思ったから」
「そっか」
 おれは一歩、体育館裏へと足を踏み出した。「ありがとう」
 それから、一度も振り返らなかった。上野はどんな表情をして、遠ざかるおれの背中を見送ったのだろうか。

「おまたせ」
 前田が笑顔で現れた。髪は、結ばずに流している。入学式の日に、初めて出会った日と変わらない黒髪。ふわりと、香る。
「悪いな、急に呼んじゃって」
「ううん、いいよ」
 前田もバカじゃない。何のために呼んだのか、とっくに気づいているはずだ。だとすれば、彼女はもう答えを考えてきているのかもしれない。今だけでも、頭の中が覗けたら。そんなくだらない空想に耽った。
 結果はまだ出ていないけど、いずれにしても、二人の間が大きく変わることは確かだ。そうなったとき、おれはこの日をどんな風に振り返るのだろうか。どんな風に記憶し、それは大人になっても憶えているものだろうか。
 言おう。
「好きです」
 それを言うためにこの場を設けたのだ。ずっと、抱えていた感情を。
「ずっと、入学式の日に出会ったときから、好きでした」
 ゆっくりと、言葉を口にしていった。
 前田は、やや驚いたような顔をしていたが、まだ何も言葉を発していなかった。
「おれと、付き合ってください。お願いします」
 頭を下げた。前田が何かを言うまでは、上げないつもりでいた。
「水野君――」
 ようやく、彼女が喋りだしたから、おれは頭を上げて、その表情を窺った。
 なんだか、複雑な表情をしていた。
「ありがとう。とっても嬉しい」
 だけど、と逆説の言葉がついて出る。ああ、ダメだったのかと、おれは絶望しかける。
「だけど、ちょっと考えさせてほしい。ごめんなさい。明日、またこの時間にここで、ちゃんとした返事をするから。それまで待ってくれないかな?」
 快諾されたわけではないけれど、拒否されたわけでもなかった。宙ぶらりんの状態だったけど、おれは首を縦に振るしかなかった。
「分かった。また明日、ここで」
「うん。ごめんね」
 遠くの方で、雷の音が聞こえた。一雨、来るかもしれない。

「おーい、水野さーん。聞こえてますかー?」
 屋上から見える空は、あくまで青かった。昨夜の雨の気配を感じさせないほどに。
「聞こえてるよ」
「お前、なんかボーっとしてないか。何かあったのか?」
 大志が心配そうにおれの顔を覗き込む。今日も、コーヒー牛乳を片手に。
「……」
 おれは迷っていた。前田に告白したことを言うかどうか。結果が昨日の段階で出ていれば、言っていてもよかったのだが、返事を保留にされてしまったことで迷いが生じた。
 それに、やっぱり大志に言うのは悩ましい。彼が、前田をどう思っているのか測れないし、一方で、前田も――。
「何もないって」
「そうか?」
 納得がいっていないようだったけど、おれはひとまず、黙っておくことにした。いずれ、話す日が来るだろう。
「それより、インフルが治ってよかったな。文化祭は残念だったけど」
 ああ、と彼はため息をつく。「ほんと、クラスのみんなをやる気にさせといて、早々と戦線離脱とか、申し訳なかったわ」
「何を言ってんだよ。お前のおかげで上手くいったんだぞ。みんなもそう思ってる」
 大志は何も言わない。
「ほんと、あの頃はやばかったな。あんなに大勢、いなくなるなんて」
 ある意味、忘れられない文化祭になったな、と続けた。正直な感想だった。おれは罹っていないのだけれど。
「確かに、忘れられないな。でも、あのタイミングで罹っておけば、しばらく再発する心配はないらしいぜ」
「え、じゃあ、おれは危ないってことか。はあ、罹るときは大勢の方がよかったかもなー」
 クラスの不在者が一人だけなんて、寂しいではないか。それを考えれば、あの時期に大量の罹患者を出したのは、寂しさの点ではよかったのかもしれない。――なんて。
 ほんとうは、誰も罹らないで、平穏な学校生活を送れる方がいいに決まっている。でも、あんな普通ではない状態も悪くはなかった。そのおかげで、おれは前田とお化け屋敷に行けたのだし。
「もうすぐ、お前の誕生日なんだっけ?」
 大志が何気なく漏らしたその一言に、おれは後ろめたさを感じる。ごめん、その集まりは実現しない。おれのせいで。
「忘れてたくせに」
 でも、現実では別のことを言った。人間は、思っていることを隠して、反対のことを平然と言えるようにできている。
「悪かったな。お詫びに、とびきりの誕生日プレゼントを用意してやるよ」
「ああ、何をくれんだよ? 逆に恐ろしいな」
「何でだよ、おれがそんなに恐ろしいものをプレゼントしたことあるか?」
「――っていうか、もらった憶えがない気がする」
 そこに、昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴る。もうすぐ、午後の授業が始まってしまう。
「よし、教室に戻るか」
「ああ」
 おれたちは立ち上がる。
 階段を下りて、教室が近くなったところで、上野を見つけた。廊下に、一人で立ち尽くしている。おれに気づくと、じっと見つめてきた。明らかに、おれに用があったことが窺える。
「大志、先に行ってていいよ」
 大志と別れて、おれは上野の傍に寄った。二人で、向かい合う。上野は、無表情で唇を結んでいた。その顔も、普段と違った美しさがあるように思えた。
「返事、とりあえず保留にされた」
 切り出したのはおれからだった。
「そう、なんだ」
「今日の放課後、返事を用意してくるって」
「ふーん、そうなんだ」
「前田から、何も聞いてないのか?」
 おれが訊く。
「うん。水野君だって、島津君には言ってないんじゃないの?」
 まあ、その通りだが。
「……じゃあ、私からは何とも言えないね」
 今日、部活は休んだら? と背中を向けながら彼女が言った。なんで? と訊き返すと、
「だって、どうせ今日も集中できないでしょ? 怪我するよ」
 悔しいけれど、それは否定できなかった。

 それでも、部活には行った。ズル休みはしたくなかった。それに、体を動かしている方が、余計なことを考えなくていいのではないかと思った。あまり、上手くいかなかったけど。
 そして、また誰よりも先に部室を後にして、体育館裏へと足を向ける。昨日とはまた違った緊張感があった。結果が絶対に出ることが分かっているから。
 最初、前田がどんな表情で現れるか。それで測れるかもしれない。でも、昨日の感触だと、判じるのは難しいだろうか。
 体育館裏は、告白のスポットになっている。ウチの学校の生徒は、ほとんどがここで想いを告げている。おれは、ここで想い人を待ちわびているかつての影たちに思いを馳せた。成功した人も、ダメだった人も、心臓を高鳴らせて待っていたのだろう。おれも今、その一人になっている。
「おまたせ」
 昨日と同じ台詞で、前田が角から姿を見せた。その表情は明るい――ように見える。少なくとも、何か答えを出したようだった。
「水野君」
 二人で、向かい合う。前田は、背は低い方ではないけど、こうして並ぶと小さく感じる。やはり、女なのだと改めて知る。丸みを帯びた肩も、柔らかそうな唇も。それは女の証。
「ごめんなさい」
 前田は、ゆっくりと頭を下げた。少しの間を置いてから、顔を上げた。
「私、水野君とは付き合えない」
 前田の声は透き通るようにして耳に届き、おれの内側の深いところまで及んだ。言葉の意味が、かなり遅れるようにして把握できるようになる。
 おれとは、付き合えない。
 一瞬で、頭の中が真っ白に染まった。何もなかった。空白、空虚。答えが、浮かばない。
「でも、水野君にそう言ってもらえて、ほんとうに嬉しかった。だから、これからも友達でいてほしい」
 よろしくね。何も言わないおれに、前田は右手を差し出す。機械的に右手を出して、握手を交わした。やっぱり、柔らかい。
「また明日」
 それだけだった。言うべきことを綺麗に言い遂げると、彼女はおれに背中を向けた。
 おれは最後まで一言も発さなかった。発せなかった。
 また、雨が降ったらいいのに。おれの悲しみも全部、押し流してくれたらよかったのに。
 そんな望みも空しく、空はあくまで晴れ渡っていた。

 次の日が休日で助かった。おれは一日中、家から出なかった。ほとんどを部屋で過ごして、たまに思い出したように泣いた。泣き疲れると、眠った。眠りは深くて、目が醒めたとき、途方もない時間が経過したような錯覚に囚われた。
 考えていることは一人についてだけど、たくさんのことだった。これからのこと。差し当たり、四人で集まるという約束はどうなるのか。おそらく、白紙になるのだろう。おれのせいで。たとえ前田が「いい」と言ってくれたところで、おれは行けない。耐えられる気がしない。
 前田とは、遠い関係になってしまうのだろうか。せっかく、あんなに傍にいられるほどになったのに。積み重ねることはとても難しい。でも、それを崩すのはこんなに容易い。
 彼女は今、何を考えているのだろう。おれを振ったことをどう振り返っているのか。それとも、おれのことなんて何も考えていないかな。
 おれの想いに応えてくれなかった。つまり、彼女はおれに恋愛感情を抱いていなかったわけだ、少なくとも。そして、ひょっとしたら、誰か想いを寄せている人がいるのかもしれない、ということだろうか。
 では、どうして返事を一度、保留したのか。最初に、体育館裏に呼び出した時点で、告白されることは分かっていたのに。答えを準備する時間はあったと思うのに。なぜ、彼女は――。
 彼女に好きな人がいない、と考えてもいいのだろうか。それは性急か。
 まあ、どうであれ、おれの恋は終わったのだ。もう関係ない。諦めない、と強く言いたいところだけれど、しばらくそんな熱い感情は湧いてきそうにない。
 おれにはバレーがある。バレーに本気で打ち込もう。今までももちろん本気だったけど、もっと本気で。
 バレーがあってよかった。何も残らないところだった。

「そっか、ダメだったんだ」
 上野が部活前の開いた時間に、そう言ってきた。彼女が平気で話しかけてくるくらい、自分が回復したのだと理解する。
「ああ。分かる?」
「なんとなく。二人の雰囲気を見てると」
 というか、付き合い始めたら、もっと親密そうにしてるよね。上野はおれを見ないで言う。
「しばらく、話す機会もなくなるかもな」
「――私とは仲よくしてよね」
 口調が、寂しげだった。
「するに決まってるだろ。喧嘩別れしたわけじゃないんだから」
「うん」
 よかった、と彼女は微笑む。
「とりあえず、バレーがんばるよ。おれにはバレーがまだあるから」
「その意気よ。全国を目指してね」
「目指そう、の間違いだろ。女子も行けるって。死にもの狂いで努力すれば」
「そうね」
 頷く。
 顧問の早雨先生が体育館に入ってきて、部活が始まる、という雰囲気に辺りが変わる。
 今日から、本気。

 汗にまみれた体を引きずって、家まで辿り着いた。灯りが安心をもたらしてくれる。どんなに疲れていても、つらいことがあっても、迎えてくれる家族がいる。そういう証。
 何気なく使った、つらい、という言葉を反芻する。今の内面を埋め尽くしているものは、きっと「つらい」。想いが報われなかったのは悲しいことだ。夢見ていた分だけ、失ってしまったときの絶望感は大きくなる。それだけ好きだったという表われでもある。
「おかえりー」
 母さんの声がする。ただいま、と返して、リビングに向かう。
 テレビの前で、野間さんが眠っている。傍らにビールの空き缶がある。
「今日も眠っちゃったわ」
 呆れたような口調なのに、おれには母さんが微笑んでいるように見えた。
 野間さんはお酒が好きなのだけど、酔うと眠くなってしまうタイプで、毎夜のようにいつの間にか横になっている。静かな眠りで。
 おれは野間さんは見据えて、胸中に質問を抱く。母さんに訊いてみたい。どうして? って。どうして、父さんと離婚したの? どうして、野間さんと再婚したの? 別に、野間さんに不満があるわけではないけど。ただ、純粋にどうしてなのか知りたい。
 人を好きになる瞬間と、そうじゃなくなる瞬間って分かるのかな。後から思い返せば、あのタイミングだったのではないかと言えるものだろうか。
 おれは前田を好きになった。でも、前田はおれを愛してはいなかった。
 心の空白を埋めてくれる何かがほしい。大人はこういうとき、お酒に逃げるのだろう。一口飲んでみたくなったけれど、やめておいた。どうせまだ、味も分からないだろうから。

「お誕生日おめでとう」
 休み時間。背中から声がしたかと思うと、いきなりそう言われた。振り返らなくても誰か分かった。上野だ。
「ありがとう。よく憶えてたな」
「まあね」
「でも、手ぶら?」
「そうよ。プレゼント、欲しかった? 欲しいなら何か買ってくるけど」
 おれは首を横に振った。「いや、いいよ。気持ちだけで十分嬉しい」
「――あのさ、やっぱり四人でまた会うのは、無理かな?」
「上野って、」おれはごまかすように笑った。「けっこう蒸し返してくれるな」
「ご、ごめん。そんなつもりじゃ……」
「分かってるけど。――まあ、無理じゃないかな。もう、あんな風に会うことは」
「そう、だよね」
 どうして、上野は正直なのかな。そんなに寂しげに俯かれたら、罪悪感を覚えてしまう。
「まあ、おれたち二人は関係ないから、普通に会えるだろ」
「――うん」上野は何度も頷いた。「うんうん、そうね。そうだよね」
 それならよかった、と彼女は笑みを浮かべる。
 そうやって笑っている顔がほんとうに似合うよ。そんなことを考えていた。
 そのまま、屋上へ向かった。いつものように、フェンスに腰掛けた大志が片手を挙げる。
「よお、遅かったな」
「悪い」
 近づいていくと、小さな袋に入った何かを投げられた。咄嗟に受け取り、中身を確認する。どこでも売っているようなお菓子の箱だった。
「何これ?」
「あれ、食べたことない? めっちゃうまいよ」
「そうじゃなくて。どういうつもりかってこと」
 今日、誕生日だろ、と大志は平然と答えた。前は忘れていたくせに、今回はちゃんと憶えていたらしい。
「くれんの?」
「やるよ、そんくらい」
 安かったし、と続けたのは照れ臭さもあったのかもしれない。
「サンキュ。これで一週間くらい生き延びられそうだ」
 大志が笑った。おれも笑った。
「――なんか、よく分かんないんだけどさ」
「ああ」
「微妙に、周りの雰囲気が変わったよな」
 何も聞かされていない大志も、少なからず感じているものがあるようだ。おれと前田の距離感が変わったことに。
 当分は大志に話さないでおこうと決めている。その前にばれてしまうかもしれないけれど、それでもよかった。とにかく、自分から言うつもりはない。
「そうか? なんだよ、周りの雰囲気って」
 だから、今はこうしてとぼけておく。

 ただ、嬉しいって言ってほしかっただけだった。「嬉しい」しかいらなかった。想いを打ち明けられて口にする答えが、「嬉しい」だけなら――「ごめん」とか「でも」が続かなければよかったのに。
 彼女と一緒にいられた時間があんなにあったことを、おれは喜ぶべきかもしれない。それだけでも満足していいのかもしれない。だから、自分から動いて失った、きらきらした日々を惜しむのは間違っている。永遠など存在しない。
 でも、もうあの日以上の衝撃はないと思っていたのに。どういうことなのか問いただしたい。誰に問いただせばいいのか分からないけれど。
 なんか教室が騒がしいと思ったら、みんなが窓際に群がっていた。外を窺って、興奮気味に言葉を交わしている。
 おれも興味本位で窓の方へ寄った。何があるのか気になった。窓に片手を当てて、外の様子に目をこらす。クラスのみんなの視線の先にいたのは、大志と前田だった。体育館の方へ歩いている。
 校庭をゆっくりと突っ切って、体育館裏へと消えていく。消えたところで、周りから歓声みたいな声が上がった。体育館裏へ行くことの意味は、よく知っている。おれだって、あそこで告白をしたのだから。
 つまり、大志と前田がこれから告白の瞬間へと誘われるのだ。どちらが想いを告げるのかは分からないが、少なくとも何かが変わろうとしている。
 おれと違って、二人は人目の多い昼休みを選んだ。こんなに注目されたら、結果が容易に知られてしまうではないか。それでも構わないのか。それとも、もう二人の心は決まりきっているのか。だからああして体育館裏という「聖地」に行くことは、儀式みたいなものなのか。
 だからって、なんでだ。なんで、あの二人なのだ。他のよく知らない男女二人だったら、たとえ振られたばかりでも、微笑ましい気持ちで眺められたと思うのに。大勢の注目を浴びているのは、おれの親友である大志と、片想いしていた前田なのだ。
 こんなことって、普通にあるものだろうか。
「水野、君」
 いつの間にか、隣に上野が立っていた。おれを心配しているのが、その表情からよく分かる。
「大丈夫だよ」
 おれは強がった。
「本当に?」
「本当だって。あの二人、付き合うのかな。完全に予想外だったけど、全くの他人よりはよかったのかもしれない――な」
「水野君……」
 おれは窓から離れた。
「ちょっと、腹が痛くなってきたわ。食べ過ぎたかもな。先生が何か言ってたら、保健室に行ってるって伝えといて」
 そのまま、教室から逃げた。そう、逃げたのだ。自分に突きつけられた現実から。

 保健室になど行かなかった。最初は本当に行こうかと考えたけど、でも、もっと逃げたかった。少なくとも、学校から離れたかった。だから、そっと校門を抜けて、適当な方向へ走り出した。
 寂しかった。切なかった。誰かを本気で好きになるってことは、こういうことなのだ。あんな状況を見せ付けられたら、平気でいられない。
 駅が見えてきた。夏休み、海に行くためにここで集まったことを思い出した。あの日、遠くから面々を窺っていたのは、おれと前田だった。
 海に行こう、と決めた。海を見たら、少しは気分が晴れるかもしれない。風が運んでくる潮の匂いを嗅ぎたい。ちょうど滑り込んできた電車に乗った。
 ぼんやりしていると涙が溢れそうな気がした。それでなくとも、あれこれと考えてしまうのはまずかった。邪念を振り払うために、一心に外の風景を見つめた。無心になるための努力をした。
 街が、やがて見えてくる山が、海が流れていく。空と海の青、そのコントラスト。秋空の綺麗な青は、世界で最も大きな鏡に照らされてきらめく。
 ずっと外だけを眺めていた。時間の経過も曖昧になるくらい。おかげで、目的地に辿り着いたときはあっという間に感じた。降りて、周囲の匂いを体内に入れようとする。予想以上に、気持ちがいい。
 海岸まで下っていく。砂浜を突っ切って、テトラポッドに向かった。あそこに座って、気の済むまで海を見つめていよう。
 誰かと一緒に来たかった。――誰と? 二人で並んで眺めたかった。手を繋ぎ合って、たまに微笑みを交わして。――おれは何を言っている。どうしたと言うのだろう。嫌なことを忘れるためにここへ来たのではなかったか。どうして、誰かといたいなんて考えてしまうのだ。
 まったく吹っ切れていなかった。かなり引きずっていた。おれは膝を抱えて、顔をうずめた。嗚咽が漏れそうになるのを懸命に堪えた。頭の中で、切ない、切ない、が盛んに繰り返された。
 切ない、切ない。寂しい、寂しい。実体の伴わない虚しさは、人の心をひたすらに悲しませる。
 刹那、背後でかすかな足音がしたかと思うと、いきなり抱き締められた。視界の左右の端に、白い誰かの両腕が伸びている。背中に感じる胸の柔らかい感触から、おれはまかさ、と思った。ひょっとして、今おれを抱き締めているのは――
「水野君」
「――松井?」
 その声は、確かに松井だった。どうしてここに。まだ学校は終わっていない。付いてきたのか。わざわざここまで?
「松井、どうして――」
「いいの」松井は腕に力を加えた。胸の感触がより強くなる。「何も言わなくていいよ。勝手に付いてきただけだから」
 戸惑いもあったけれど、彼女が来てくれてよかった。一人になりたくてここまで逃げてきたが、潜在的に人の温もりを求めていた。実体の伴う確かな温もり。
「おれ――」言葉が零れ落ちてきた。「おれ、前田が好きだった――。だから、告白した。だけど、その想いは報われなかった。でも、それはなんとか乗り越えられそうだった。――なのに、前田は、大志と――。きっと、前田は大志が好きだったんだ。だから、おれを選ばなかったんだ。幸か不幸か、おれのよく知っている大志だったんだ」
「分かってる」
 松井の声は、あくまでも優しい。隙間だらけのおれの心に染み入る。
「全部、分かってるよ」
 さらに、私は、と続ける。
「私は、水野君が好きだった」
 ――え?
「初めて出会ったその日から。今日まで、ずっと。学校から出て行く水野君を偶然見かけて、私は必死で追いかけた。その背中に危うさを感じたから。でも、駅までは追いかけられたんだけど、電車は一本差で乗られなかった。どこに行くのか考えたら、きっと、夏休みに行った海じゃないかな、って思った。そうしたら、当たった」
「――おれの、ことを」
 好きなのか?
 松井が頷く気配がした。依然、彼女はおれを抱き締めている。その圧倒的な触れ心地に、理性が吹っ飛びそうになった。
「松井、ありがとう」
 おれは両腕を外して、互いが向き合うようになった。すぐ近くに、松井の顔がある。何度も見てきた、よく知っている顔。なのに、このときはいつもよりもかわいく映った。
「ありがとう」
 そっと、唇を交わした。最初は長く、その後は味わうように幾度も。口の中に甘く広がるのは、愛しいという溢れる思い。
 初めてのキスだった。

 冬休みは忙しくなるね、と笑顔で語りかけてきたのは上野だった。おれでなくとも、バレー部の人ならその意味は測れた。
「そうだな、絶対に忙しくなる」
「男子も女子も、ね」
 嬉しそうなのは自信の表れなのかもしれない。でも、自惚れでは決してないだろう。女子は。そう、女子は。
 上野は男子に対しての奮起を促している。前回の情けない敗戦を引っ張ってくるまでもなく、おれたちに寄せられる期待には応えられていない。
「分かってるよ、上野」
 もう、心の懸案事項は解決した。むしろ、好転した。おれはバレーに本気で打ち込める精神状態を保てている。
 おれが無断で学校を早退した日から、上野はその関連について尋ねてこなくなった。意図的に話題にすることを避けていた。おれも積極的に話したいわけではなかったから、その態度はありがたかった。
 前田が大志に想いを告げ、二人はくっ付いた。その裏で、おれと松井が密かにくっ付いていた。大っぴらにするつもりはなかったのに、こういうものは不思議と広まるものだ。なんとなく、周りに認知されていた。きっと、上野も知っている。
 まあ、過去に色々あったことは消えてくれない事実だが、残った現実が生きていく居場所だ。前向きに生きていこうと思う。もう、そう思えるようになった。
 バレーの冬の大会は、十二月の頭から地区予選が始まる。激戦を勝ち抜いた高校が、県大会に出場し、年明けに全国大会が行われる。冬休みが忙しくなるということは、県大会も全国大会も出場する側に立つ、というニュアンスだ。
 夏、女子はあと一歩だった。県の手応えも掴んでいた。男子も負けていられない。何より、自分の実力を充分に発揮できないのが悔しい。結果もそうだが、満足のできるプレーをせめてしたい。

「おまたせ」
 頭の上に胸を乗せながら松井が現れる。一緒にいることが多くなっても、彼女は刺激の強すぎる存在だ。なんだか、常にむらむらしてしまいそうで。
「おう」
 そっと頭を外すけれど、そのままでもよかった。なんて。
 誰もいない美術室で「密会」のような遊びをしている。誰かが来るかもしれない環境で二人きりでいることは、これまた刺激的だ。
 机の上に座るおれの正面に、彼女も腰掛ける。すぐ、目の前に。短いスカートから白い足が伸びている。手を伸ばして腿に触れる、揉む。
 二人で、くすくすと笑う。
 制服のシャツにも手を伸ばす。手に余るくらいの胸を揉んで、その快感に酔いしれる。ボタンを一つずつ取っていき、脱がしてしまう。下着だけになった彼女の胸に顔をうずめる。剥き出しの背中に手を回す。彼女も、おれのことを強く抱きすくめる。
 ふと、遠くから駆けてくる足音が聞こえてきた。何かを喚いて、はしゃいでいる様子が窺える。確実に、こちらへ近づいてきている気がした。
 おれたちは焦った。誰であれ、この状況を見られてしまうのはあまりよろしくない。咄嗟に、机の下に隠れた。なんとなく、松井を庇うような形で寄り添った。
 幸いにも、彼らは美術室の横を通り過ぎたものの、中に入ってくることはなかった。喧騒が遠ざかっていく。
 ホッと、一息つく。本当に安心した。二人で目を合わせて、声を上げて笑い出した。
「あー、びっくりした」
「ほんと、見付かるかと思った。――でも、面白いね、これ」
「何を言ってんだよ」
 悪戯っぽく笑う彼女の唇を、自らのそれで塞いだ。愛しいこの瞬間が永遠に続けばいいのに。

 二学期の期末試験のことは気にしないのが、この時期のバレー部員かもしれない。毎年、部員たちが軒並み成績を落として、苦しんでいるのだろう。でも、それでしょうがないと諦めている。学生の本分を打ち捨ててでも全力で取り組めるものが、おれたちにはあるということなのだ。それはきっと、幸福なことだ。
 冷え込みが厳しくなってきた頃、地区大会が始まった。待ち遠しかった。目標どおり、ここを通過点とするのなら、これから長い冬が幕を開ける。
「緊張するとお喋りになるタイプっているよね」
 上野が、隣で呟く。
「上野がそうだと思うけど」
「私? 私、そんなにお喋りになるかな」
「普段に比べれば、ってことだけど」
「水野君はいつもと同じだよねー。ほんと、緊張しなさそう」
 それなりに緊張してるんだけどな、と心の内で返す。というか、試合で緊張しない人なんかいない。どんなに実力のある人でも、実力の分だけプレッシャーもあるだろうから。意外と緊張は平等なのかもしれない。
「これから、卒業するまで何度も大会を経験するだろうけど、一年の頃ほど気楽なものはないかもな」
「気楽ではないよ」
 上野が反論する。
「もちろん、全くの気楽じゃない。先輩方に比べたら、ってこと。後輩たちを率いるのもあるし、最後の大会となったら、あれこれと考えちゃうものだろ」
「あー、まあね」
 大会の会場が見えてくる。いったん、横断歩道を渡るために列が立ち止まる。
「私たち、順当にいけば男女の部長になるよね」
 列が動き出したタイミングで、上野が聞き取りにくい声で言った。
「さあ。まだ分からないだろ」
「――でも、もしなったとしたら、無様なプレーは見せられないよね」
 おれはパッと隣を見た。「なんだよ、おれへの当て付けか?」
 上野は慌てて手を振って、
「あ、ごめん。そんなつもりじゃなかった。ただ、背負うものとか出てくることを考えると、気楽な学年のときに、思い切り暴れたいよね、ってこと」
 おれは頷いて、
「それは同感。まあ、夏のこともあるし、おれは大暴れしないと清算できないな」
 会場に辿り着いた。列の先頭から、中へと吸い込まれていく。まだ静かであろうコートは、しばらくしたら歓声に包まれる。
 その歓声の中心で魅せているのは自分自身だろうか。いや、だろうかではダメだ。魅せてやるくらいの意気込みでなければ。

 夏とは内面の状態がまるで異なることを自覚している。その原因は、観客席の顔触れの違いが大きい。今回は母さんだけではなく、野間さんも父さんも来ていて、ひょっとしたら、ややこしい感じだった。まあ幸い、周囲から説明を迫られることはなかったけれど。
 そして、クラスメイトがずっと多い。蔵本と会沢が来ていて、やかましいほどに声援を送ってくれる。さらに、委員長や蒔田も来ている。彼女らは上野の応援がメインだろうけど、嬉しいことだし、期待の大きさを窺わせる。
 もちろん、松井もいる。松井はおれの応援がメインだろうと信頼している。
 前田もいる。上野の親友なのだから、応援に来るのは当然だろう。だけど、その隣に大志はいなかった。
 前田が大志に告白したあの日から、おれは大志と一回も口を利いていない。屋上で昼食を取ることもなくなった。お互いがお互いを意識していない風を装い、すれ違いの日々が続いていた。だから、おれは大志のサッカーの試合を見に行かなかった。今まではどんな試合でも見に行っていたのに。
 それを思えば、ここに大志がいないのは、いくら前田がいるとはいっても当たり前の話だ。
 いつまで冷戦状態が持続するのか定かではないが、そう簡単に元通りになるほど、ことは単純ではない。それだけは言える。それはきっと、おれの家族の問題よりもずっと複雑。現時点では。
 頭が湧くくらい考えに考えた結果、前田が答えを一日保留した理由がようやく分かった気がする。彼女は、気づいてしまったのだ。身近な人に想いを告げられたことで、自分の本当の気持ちがどういう形をしていたのか、深く理解したのだ。 
 それまで強く意識していなかったこと――彼女は、誰よりも大志を愛していた。それを、おれの告白がきっかけとなって気付かせた。
 でも、そんなこともあったと思えるような精神状態に今はある。大会のことで頭がいっぱいだった。
 もうすぐ最初の試合が始まる。どんなトスをアタッカーに上げようかイメージする。ほどよい緊張が波打つ。

 控え室を出て、トイレに行くために小走りで廊下を過ぎた。角を曲がる瞬間に、誰かとぶつかりそうになって立ち止まる。
「すみません」
 咄嗟に謝ると、向こうは何も言わなかった。こちらを窺っている様子だ。よく見ると、それは前田だった。
「ごめん」
「いや、こっちこそ」
 話すのは久しぶりだった。大志と関わりを絶っているとはいえ、前田とはそんなつもりはなかった。ただ、なんとなく話しづらさはあって、今日まで上手く距離を測れずにいた。
「おめでとう」
 前田がにっこりと笑みを浮かべる。おれの好きだった、眩しい笑顔。
「ありがとう」
 彼女が祝ってくれたのは、男子が県大会出場を決めたことだ。ついさっき行われた決勝でストレート勝ちし、目標を達成した。また女子も、夏は辿り着けなかった決勝で圧勝。男女ともに県へと駒を進めた。
 その興奮も冷めていなかったからかもしれない。彼女と接するときの気兼ねがなくなっていた。
「でも、これからが勝負だと思ってる。最終目標は全国だからな」
「へえ、なんかかっこいいね。自信に満ち溢れてる感じがする」
「やっぱり、夏の悔しさがあったから、意気込みが違うんだな、っていうのが自分でも分かる」
「そっか。やっと、実力を発揮できたわけだね」
 その後も、自然と言葉が続いた。それまでの空白期間があったことなんて感じさせないくらいに。ふと冷静になったときに、不思議さを胸に抱いた。
「あ、」ところが、急に思い出したような表情をして、「私、もう行くね」
 おれがその理由を訊くよりも早く、彼女はそそくさと去ってしまった。違和感を覚えていると、後ろから腕をとられた。
「わっ……松井?」
 何も言わないまま、上目遣いでおれを見やっている。
「どうしたんだよ?」
「今、怜奈と話してた?」
 そういうことか。彼女は、おれが前田に告白したことを知っているのだ。それが二人きりで話していたら、自分から気持ちが離れているのではないかと不安になるに決まっている。
 そして不安にさせたのは、紛れもなくおれだ。
「もしかして、不安だった?」
 こくりと頷く。
「大丈夫だよ。おれが好きなのは松井だけだから」
 といって、人目も憚らずに抱き締める。
「よかった」
 すぐ目の前で、安心したように微笑む。「キスして」
「ここで?」
 彼女は頷くだけ。
「今?」
 再び、頷く。
 おれは、分かったよ、と言って、短い口付けを交わす。ほんのりと赤みが差した頬を捉えて、愛おしさを覚えた。

 おれは間違っていなかったか。正しい選択をしたのか。ときどき、自分で自分が分からなくなる。本当に好きだったのは前田ではなかったのか。そうだ、前田だった。でもそれは、過去の話だ。想いに応えてくれなかったことで、一つの恋が終わった。そして絶望の淵から救ってくれたのは、松井だった。
 今は松井が好きだ。これは確かな真実。彼女が誰よりも愛おしいし、一番傍にいて欲しい存在だ。
 だけど、おれは何をもやもやと考えている。考えてしまってはダメだ。間違っていない。完璧な答えなんて人は選べない。だから、その場の答えを、過去の自分を尊重しなければならない。肯定しなければならない。
 頭の中で、大志と前田がどんな風に愛し合っているのかを夢想する。勝手に妄想するのは自由だ。人間に与えられた権利だ。二人の愛し合う姿は、おれがかつて、前田を相手に妄想していたもの。気持ち悪いと人は誤解するかもしれないけど、誰かを好きになったらそういう思考が働くに決まっている。知らないなんて言わせない。
 現実でおれを優しく包み込んでくれるのは、松井ただ一人だけだ。彼女はおれをずっと好きだった。こんなおれを好きでいてくれたのだ。それが心から嬉しかった。だから、だから――。
 もうすぐ、クリスマスか。恋人たちの特別な日、とやらだ。今年は、おれにも特別な意味を有する。松井と一緒にいたい。それだけで充分だし、それがきっとおれたち二人の特別だ。

 県大会の日を迎えた。学校はまだ冬休みに入っていない。冬休み中もバレーで忙しくするためには、全国大会に出場するしかない。
 意気込みは、他校に負けているつもりは微塵もなかった。それでも、冷静に自分たちを分析することも忘れなかった。他校の地区予選の結果や、去年のデータを見比べる限り、県で優勝する確率は決して高くない。だけれど、不可能ではないと言っても過言ではなかった。
 特に、女子は。男子も女子もレベルアップを図れたけど、男子は激戦が必至だった。一方で女子は、実力を出し切ることができれば、全国も夢物語ではなかった。
 とはいえ、試合は生き物だ。始まってみなければどうにも分からない部分が多々ある。どんなアクシデントが起こるか分からないし、ちょっとした心理状態の乱れで崩れるかも分からない――それは、おれか。
「会場の大きさからして違ったけど、観客の数も比べものにならないね」
 一通りのアップを終えて、体育館内を眺めていたおれの隣に、上野が寄り添う。
「おれ、中学のときに県大会を観戦したんだ」
 だから、憶えている。試合中の熱気も。選手たちの汗と涙も。
「そうなんだ」
「ああ」
 おれは一歩、前に踏み出す。「あの頃は、ここは憧れの場所でもあったけど、同時に夢の中みたいだった」
「現実感がなかった、ってこと?」
「そう」
 頷き返す。「実は今、これは夢なんじゃないかって思ってる」
「夢じゃないよ。現実だよ」
 くすくすと、愉快そうに笑う。頬っぺた、つねってあげようか、と言われたので、丁重にお断りしておいた。
 全体のアップ時間が終わる。選手たちが、ぞろぞろと一旦引き上げていく。
「あーあ、もうすぐ女子の試合だよー。一試合で終わったら、それこそ夢だったんじゃないかって思いそう」
「弱音を吐いてる場合かよ。全国まで行くんだから、こんなところで敗退されちゃ困るぜ」
 言葉ではつい弱音が漏れた上野だが、そう言うと元気よく駆け出した。

 しかし、女子は危惧したとおり一回戦で敗れ、全国大会は「夢」に終わった。一方の男子も、二回戦でフルセットの末に敗れて、涙を呑んだ。忙しい冬にしようと目論んだのに、その目標は儚くも潰えた。
 手応えはあった、確かに。そうでなかったら、前に進めない。
 二学期の終業式を終えて、ホームルームをするために教室に戻ってきた。ぼんやりと窓の外に目をやりながら、県大会の回想に耽る。
 回想を中断させる影がよぎる。松井を想った。当人を探して、周囲を見渡す。後ろの方で、蒔田と立ち話をしていた。おれの視線に気がつくと、片手で手招きした。
 おれは動物か、と苦笑を浮かべながら彼女の方へ歩みだすと、そっと蒔田が離れた。二人きりにするための配慮。
「もうすぐ、クリスマスだよね」
 魅惑的な赤を帯びた唇が、艶かしく動く。
「そうだな」
「もちろん、デートするよね」
 デート、という単語で、おれの胸は彼女への愛で溢れる。
「しよう」
 最後はただ、頷き合うだけ。共犯者めいた笑みを交わして。
 デート、というか、二人だけの世界に没頭することは、何よりの快感をもたらす。毎日でもデートしたいと思う。それは、麻薬みたいなものだ。その快感を知ってしまうと、何度でもと求めるようになってしまう。
 ふと、視界をずらした先で、最初に前田を見つけた。誰かと話しているな、と思ったら、傍らにいたのは大志だった。二人も、彼らだけの世界に入っている。
 やっぱり、クリスマスにデートをするのだろうな。その約束をしているのだろう、きっと。でも、おれには関係のないことだ。

 信頼関係を築き上げていくのは時間がかかる。一朝一夕で為せるものではない。そのくせ、簡単に壊せてしまう。人はそれを儚い、と言うのだろう。完成させるのに幾星霜を要した建造物を、支柱を外して一瞬で崩壊させてしまうような、儚さ。
 おれと大志はたくさんの積み重ねがあった。たくさんのことを共有してきて、他の誰よりも一緒にいる時間が長かった。親友を挙げるとしたら、以前のおれなら真っ先に大志を挙げた。大志も絶対に、おれの名を告げた。
 でも、それがいつの間にかなくなっていた。名残惜しさも感慨も抱かせないほどに刹那的で、戸惑ういとまもなかった。二人の絆は自然消滅した。
 これからも、高校を卒業するまでずっとこの状態が続くのだろうか。続いてもおかしくないと感じる。けれど、あっさり解決しても違和感はない。
 きっかけだと思う。お互いに、きっかけを窺っているはずだ。ひょっとしたら、どちらかの恋が上手くいかなくなることかもしれない。行事が何かをもたらすかもしれない。
 ――やっぱり、おれは元通りになることを心のどこかで望んでいた。おめでたいやつだ。ほんとうに、おめでたい。
 病院に向けて走っている。走っているつもりだったが、意識が混濁していて、自分の体をちゃんと動かせているか分からなかった。地面を蹴っても、風を切っても、実感が薄かった。
 正面玄関のところで、前田と上野を見つけた。前田はしゃがみ込んで、どうやら涙を流しているらしい。
「水野君」
 おれに気づいた上野が声を上げる。
「た、大志は……?」
 上野は部屋番号を告げる。
「とりあえず、そこに行って。私も、後から怜奈を連れて行くから」
 もつれた足取りで、言われた部屋へ向かおうとする。思考も正常に働いてくれなくて、最短距離で辿り着かなかった。ただでさえ複雑な病院内の構造が、迷宮並みに分からなくなる。
 それでも、何とか目的地まで至る。ノックもおざなりに、部屋の内へと足を踏み入れる。
 ――が、すでに手遅れだった。思考がぶっ飛んでいても分かる。白い布が顔にかけられた人は、もうこの世の人ではない、ってことくらい。無残にも、原形をとどめていない体の持ち主は――大志は、大志は――。
 死。
 分かっている。見れば、理解するには充分だ。頭では分かっていても、だからといって、はいそうでかと受け入れられるわけではなかった。
 頭を抱えた。次の瞬間、部屋中におれの絶叫が響いた。

「また、海に行くの?」
 あれから、何日が経過したのか。いつの間にか自分の家に帰っていて、でも落ち着かなくなって、どこかへ行こうと準備していた。
 家を飛び出たところで、松井に呼び止められた。ずっとそこにいたのだろうか。疲れ切った彼女の表情に心臓を射抜かれたような心地がした。きっと、おれの顔は彼女よりも疲労の色が濃いだろう。
「嫌なことがあると、海に行くんだよね」
 半ば、決め付けていた。だけど、彼女の推測は当たっていた。まさに、海を見たいという衝動に駆られていた。
「私も付いていくよ」
 彼女がおれの手を取る。軽く頷いて、ゆっくりと歩き出した。
 手を握り合っていても、いつもみたいな、安心感を覚えさせる温もりはなかった。世界も、色を失ったみたいに無感動だった。全ての感覚が曖昧だ。これでは、海を見ても何も解決しないのではないか。よく考えればそうだった。だけれど、無根拠な確信があった。海を見れば、何かが変わる。何かがよくなる。
 頭は常にぼんやりとしていたから、海に着くまでの過程は記憶になかった。通り過ぎたはずの過去は、どこかへと遠ざかる。
 そして、海に出ると、おれは周囲の目も憚らずに走り出した。砂浜まで下りていって、不恰好に走った。波打ち際でこけて、膝が濡れた。
 海を見た感動が、次第に全身の感覚を呼び起こさせる。まず、膝先が冷たいと感じた。冬の海なのだから、当たり前だ。そして、潮の匂いがした。
 次に、隣まで追ってきた松井が目に入った。おれの傍にいてくれる彼女に、この上ない愛おしさを覚えた。力強く、抱き締める。彼女もおれを抱き締め返す。
 時間も忘れて、ずっとそうしていた。放したら、何もかも崩れてしまいそうで、不安だった。怖かった。
 やっぱり、大志はおれの親友だった。交通事故で命を落として、おれの前から、何も言わずに消えたあいつは、おれの親友だったのだ。
 なのに、あの日からずっと口を利かずにいた。激しく後悔している。どうして、と。どうして、おれはあんな風に大志を拒絶してしまったのか。子どもみたいだ。大人になれとは言わないまでも、善後策はいくらでもあった。高校生のおれにもできるようなことが。
 これから、どうなるのだろう。前田は、恋人を突然の事故で失った彼女は大丈夫だろうか。いや、平気でいられるはずがない。しばらく、心の状態が回復するまで時間を要しそうだ。
 おれが、松井の抱擁がないとダメなように。

 目の前で倒れそうになったから、反射的に両脇を支えてやった。
「大丈夫か?」
 廊下を歩く彼女の後ろ姿を見たときから、誰か分かっていた。
「う、うん……」
 前田はあれからずっと元気がない。それでも、学校に来ているだけマシなのかもしれない。
「あのさ――」
「なに?」
「二人で話さないか?」
 おれたちの間には色々あった。それをちゃんと整理したい。前から考えていたこと。
「――うん、いいよ」
 じゃあ、とおれが先導していった先は、屋上だった。風がまだ冷たいかもしれないが、あそこはおれと大志にとって特別な場所だったから。前田と向き合うには恰好の地だろう。
 おれは定位置に腰掛ける。隣の、大志の定位置には前田が座る。二人で並んで、しばらくは黙って空を見上げていた。不自然な間とかではなく、生じるべくして生じた沈黙の折り。
 どちらからともなく、互いの顔を見た。それが合図だった。
 前田の顔が、今までで一番醜く歪んで、続けて嗚咽を漏らし始めた。両手で顔を覆って、喘ぐような声で何かを言おうとする。でもそれは言葉にならず、訴えを理解するには至らない。  
 その代わり、愛おしさが募った。
 そっと近寄って、彼女を抱き締めてやった。
「おれがついてる」
 耳元で囁く。
「上野もいるし、みんなもいる。大丈夫だから。もう誰も、お前を一人になんかしない」
 優しい言葉をかけてやると、ますます彼女の感情が激しくなってくるようだった。いつまでも泣いていた。
 だからおれも、ずっとその弱々しい肩を抱き締め続けていた。

「――水野君に好きって言われたときは、ほんとうに嬉しかったよ」
 しばらく時間がかかったけど、ようやく彼女は話を始めた。
「でも、私、考えちゃったの。ほんとうに好きなのは誰なのか。水野君と付き合えたらしいだろうし、理想的だったけど――一番じゃなかった」
 今さら理由を聞かされてもつらいだけだ。だけれど、黙って聞く。
「一番は島津君だった。彼が好きだったことに気づいて、私は彼に想いを伝えなきゃいけない、そう思ったの」
「それで、大志に告白した」
 小さく頷く。「そうしたら、想いが通じた。晴れてカップルになった」
 真に理想的だったのは、その二人だったのだ。おれと、ではない。なのに、大志は――。
「水野君は、どうしてえれなと付き合ったの?」
 事情を知らない前田側からすれば、確かにおれたちのカップルは不思議だったろう。振られた直後に、他の女子に手を出したと誤解されてもしょうがない。
「まあ、手短に説明すると、好きな人に振られて、しかもその人が親友と付き合うことになってしまい、心に傷を負っていたある少年がいた。その少年を、包容力のある少女が絶望の淵から救った、ってわけ」
 少しの間を置いてから、なるほどね、と頷いた。
「じゃあ、えれなは水野君のことを好きだったんだ」
「まあ、うん」
「それで、水野君の方もまったく気がないでもなかった」
「そう、だな」
 へえ、と感心したような声を出す。おれはなんとなくおかしくて笑った。
 こうやって経緯を洗いざらい吐き出せる日が来るなんて、少し前の自分は想像すらしていなかった。それだけ、大志の死は大きかったし、衝撃的だった。時計の針を一気に押し進めたような。
「お願いがあるんだけど」
 と、彼女がおれを真っ直ぐに見る。なんとか、目を逸らさない。
「もうすぐ、薫子の誕生日なの。だから、一緒に祝ってくれない?」
「三人で会う、ってこと?」
 そう、とかすかな呟きで返す。
 よかったな、上野。大志はいないけど、またあの頃に戻れるぞ。
「いいの? おれがいたら、邪魔にならない?」
「そんなことないよ」
 と、否定する。「三人がいいの。きっと、薫子もそう思ってくれる」
「――分かったよ」
「ありがとう」彼女は指を差し出す。「じゃあ、約束」
 おれも指を差し出す。指切りをするなんて、いつ以来だろう。

 休みの日、松井と映画を見に行った。恋愛もので、主人公たちは自分たちと同年代だった。それなりに楽しめたし、さりげなく暗闇の中で手を握り合ったりした。
 帰り道、電車に揺られていた。席がたまたま空いていたから、並んで座った。肩の触れる感触が心地よかった。他人が隣のときは絶対にありえない、相手を信頼しきっているがゆえの寄りかかり。
「映画、面白かったね」
「ああ、けっこうよかったな。あれ、小説が原作なんだっけ?」
「そうだよ。私は読んだことないけど、夏希が、小説もよかったって言ってた」
「へえ。蒔田って、読書が好きなんだよな。今度、何かおすすめしてもらおうかな」
「いいと思う」
 正面の窓から、オレンジ色の日差しが差し込んでくる。眩しさに目を細める。だいぶ、陽が落ちてきているようだ。冬の日暮れは早い。
「もうすぐ、二年生になるね」
「松井は進級、大丈夫なのか? 留年とかするなよ」
「そんなにできない子じゃないよ。ちゃんと、二年生になれる」
 冗談めかして言ったつもりだったのに、松井はあんまり笑ってくれなかった。
「なんか、ほんとにあっという間だよな。こないだ入学したと思ったのに、もう学年が変わるんだぜ」
「ね、あっという間。気がつけば、こうして水野君とデートできるようになったし」
 嬉しいな、と甘えるような声で、彼女はおれに倒れ掛かってくる。人の目がなければ、彼女を全力で愛してやれたのに。
「でも、水野君とは、もう同じ教室で授業を受けられない」
 オレンジ色の車内は穏やかだった。ゆっくりと時間が過ぎていくように感じた。感じていたけど、彼女が言った言葉で止まったのではないかと錯覚した。
 もう同じ教室で授業を受けられない?
「それって、どういう意味? 松井、クラス替えがどうなるか知ってるの?」
 松井は俯いて、何も答えなかった。さっきから、少し表情に陰りがあるように思えていたけれど、どうやら気のせいではなかったらしい。何か、ある。
「なあ、松井? どうしたんだよ?」
 しかし、その答えよりも先に、電車が駅に着いてしまった。仕方なく、ホームに降りる。
 松井は降りてすぐのところにあるベンチを指差した。それに従って、並んで腰掛けた。
「ごめん、本当はもっと前から分かってたことなんだけど――」
 滔々と、語りだす。
「でも、島津君のこととかあって……それに、やっぱり言い出しづらかったから」
 私、とおれの方を向く。決意を秘めた表情をしていた。
「私、今学期いっぱいで転校するの」
「て、転校――」
 なんだか、さっき見た映画のストーリーみたいだった。嘘であって欲しかった。映画みたいな、作り話であって欲しかった。
「だから、同じ教室で授業は受けられない。それどころか、デートもできなくなる。話は、電話くらいはできるだろうけど、顔を合わすことはできなくなる」
 ごめんね、と彼女は謝る。彼女が感じなければならない責任は皆無だろうに、心から申し訳なさそうだった。
 おれは内心の動揺と上手く対峙できなくて、気の利いた台詞の一つも出てこなかった。
 やっぱり、これは映画ではないのだ。現実は、こういうときに上手く言葉をかけてやれなくなってしまう。台詞も台本も用意されていない。

 今年は一回も雪が降らなかった。都会育ちだから、雪を見ないで冬を越すことも珍しくないけれど、少しだけ寂しい気もする。おじいちゃんとおばあちゃんのいる秋田に行けば、容易に見ることはできる。
 雪がない、といっても、それなりに寒いことには変わりない。吐く息は白いし、外で待たされていると凍えそうになる。
 待たされている、と言っても、約束の時間はまだだ。勝手に早く来てしまっただけだ。街中の広場にある時計の下で、前田と上野を待っている。上野の誕生日を祝うためだ。
「え、水野君。早くない?」
 横合いから、白いマフラーを首に巻いた前田が現れた。この前まで、寒いからと言って、髪を少し伸ばしていたのに、また元のショートカットに戻った。だいぶ、吹っ切れてきたらしい。
「そう言う前田こそ、早いね」
「私は約束の時間くらい守れる人だから」
「でも、夏に、海に行ったときは少し遅れてなかった?」
「あれは、様子を窺ってたから――というか、水野君も一緒だったじゃない。人のこと、言えないわよ」
 明るく、笑顔も見せるようになった。完全に吹っ切れたとは思わないけど、笑えるようになったのならよかった。事故直後は、顔から表情が失われていたから。
「聞いたんだけどさ」
 前田は話題を変える。
「うん」
「えれな、転校するんだって?」
 どう答えるかためらった後で、うん、と短い言葉で肯定した。
「本人に聞いた?」
 前田は、ううん、と首を振る。
「夏希に聞いた。えれな、他には誰にも話してないらしいよ」
「みたいだな」
 おれも、聞いてから誰にも言っていない。
 親の都合で転校する、と彼女は言っていた。元々、あちこちを転々としてきたらしい。一年で引越ししなければならないことも、珍しくないそうだ。
 そんな家庭事情、付き合っていたのに知らなかった。まあ、積極的に話すことでもないか。
「寂しくなるね」
 おれはふうと、息を吐いた。
「そうだな」
「ちゃんと、見送ってあげなよ」
「当たり前だよ」
 そう言うと、彼女は安堵の表情を浮かべた。笑うだけではなくて、表情の変化も見られるようになってきた。いい兆候だ。
 約束の時間から五分遅れで上野が来た。

 終業式の日、全校生徒の前で転校する人が紹介される。その数少ない生徒の中に、松井はいた。名前を呼ばれて、深々とお辞儀をする。女としての魅力を存分に放つ彼女は、やはり注目を集めた。彼氏であるおれも思い浮かべられていただろうことも、想像がつく。
 松井が転校すると分かってから、できるだけ一緒にいる時間を作った。あちこちに遊びに行った。学校の行きと帰りは、二人で肩を並べて。何でも話した。どんな些細なことでも、お互いの中身をさらけ出すように。自分のことを明かしていくことは、真に理解してもらうこと。逆も然り。おれはこの短期間で、松井を深く理解した。
 帳尻を合わせるように、タイムリミットまで愛を確かめる作業にあくせくした。その最中は彼女の不在がちゃんとイメージできていなかったけど、こうやって周囲の注目を浴びている姿を見ると、ああ、遠くに行ってしまうのだな、と感慨深くなる。
 改めて、寂しい。
 教室に帰ると、松井はまたもみんなの前で挨拶をした。今度は言葉を発して。終わると、女子たちはみんな、彼女に駆け寄った。抱き合いながら、泣いている子もいた。その騒ぎの中で、松井はちらりとおれに視線を投げてきた。おれは真っ直ぐに見つめ返すことで応えた。
「おい、最後にキスでも見せてくれよ」
 おバカな会沢がそう耳打ちしたから、ヘッドロックをお見舞いしてやった。
「ちゃんと、最後まで一緒にいてやれよ」
 蔵本がさらっと殊勝なことを口にする。
「何様だ、お前」
「いいじゃん、このくらい言っても。こちふかば、匂ひおこせよ、梅の花、あるじなしとて、春をわするな」
 身振り手振りを交えて、何かの歌を詠む。
「何だっけ、それ?」
「知らないのか。菅原道真が左遷されたときに詠んだ歌だよ」
「――なるほどね」
 まあ、左遷とは違うけれど。でも、いい歌だ。今だからこそそう思えるのかもしれない。
 遠距離恋愛、という言葉が浮かんだ。ありふれた言葉だけど、いざ目の前に突きつけられると、そんなに安易に口にできるものではない、と分かる。この寂しさは、切なさは埋められない。物理的な距離が二人の間に立ちはだかる。
 どうなるか不安だけど、それでも、と考える。それでも、おれたちならきっと、上手くやれるはずだ。

 学校に残っている人はもうわずか。おれと松井は屋上にいた。風に吹かれる度に、松井の短いスカートから下着が覗く。お尻に食い込んでいて、豊かな体つきが内心を確かに興奮させる。いつまで経っても、慣れるものではない。
「もっと早く言えばよかったかな」
 空に向けて、歌うように彼女は言う。青いバックに音符が浮かぶ。
「転校することを?」
「そう。今はそう思う。もっと時間あると思ったんだけどね。あっという間だった」
 寂しさを、切なさを埋めるようにあくせくしてみたものの、やはりそれらはやってきた。胸を締め付ける、確かな感情。
「私、ずっとあちこちを転校してきたんだ。色んな人に出会ってきた。けっこう、自分では友達に恵まれている方だと思う。ここでも、夏希に出会えた。怜奈も薫子も最高の友達だった。委員長は、女子には優しかった。宿題を助けてもらったこともあるし。大好き」
 大好きな理由が宿題を助けてもらったことかよ、と口を挟みたくなった。だが、黙っていた。彼女が本当に言いたいことはそういうことではないだろう。
「せっかく積み重ねてきた絆が壊されるのは、何度経験してもいいものじゃないね。また、一から始めないといけない。本音を言うと、少し怖い。私、よくも悪くも目立つじゃない」
 悪戯が見つかったみたいに笑う。はち切れんばかりの胸をちらりと見やる。目立つのは事実だが、悪いことはないと思う。
「でもね、今回はそんなに怖くないんだ。なんでか分かる?」
 ようやく、言いたいことを察した。だけれど、とぼけた振りをした。
「さあ? 分からない」
 また、彼女は笑う。いつもよりニコニコしている。溢れてきそうな別の感情を抑えつけるように。
「水野君がいるからだよ。私、水野君ほど好きになった人は、他にいないの。だから、遠く離れてしまっても、水野君が私を見守ってくれるなら、やっていける気がする」
 大丈夫、自分の声が自分のものではないみたいに響く。
「おれが見守ってるよ。遠くから。離れてしまっても」
「絶対だよ?」
 また、笑おうとした。しかし今回は失敗した。目に涙が浮かび、顔が歪んだ。堪えるように下唇を噛むけれど、溢れてくる感情は抑えが利かない。
 愛おしさを覚えながら、優しく抱き締めた。
「絶対。約束する」
 胸元に顔をうずめる松井が、何度も頷く。頷きながら、ありがとうと呟いた。消え入りそうな「ありがとう」を、おれは懸命に拾った。

 春の到来を待つことなく、松井はこの街を去った。
 そして、そんな一人の不在に感応するように、桜が盛大に花を咲かせた。春が来たことを、何よりも説得力のある形で教えてくれる。始業式が行われる学校まで、桜の並木道を歩く。綺麗だ、と毎年のように思う。この花に心を満たされるのは日本人が筆頭だろう。他の追随を許さない。
 風で花びらたちが舞っている。手のひらを掲げて、その上に乗せたい衝動に駆られるけど、高校生男子がやっても絵にならないだろうことを悟った。黙って、感傷に浸るだけでいい。
 目の前に、絵になる少女がいた。実際に手のひらを水平に掲げて、あわよくば乗せようとしている。その横顔には、かすかな笑みが見てとれた。
 前田だ。
 おれは歩調を速めて追いつき、背後から声をかけた。
「子どもみたいだな」
 絵になる、という感想とは別のことを口にした。ストレートに誉めるのは柄に合わない。
 前田は急に我に返ったように身を引いて、その咄嗟の動きで転びそうになった。
「わっ」
 おれは考える間もなく両腕を伸ばし、彼女の体を支えてやった。そのため、抱き締めるような格好になってしまった。顔が近い。見つめ合う互いの顔が紅潮しているだろうことが分かる。少なくとも、前田がそうなのは視認できるし、自分がそうではない自信がなかった。
「なんで、何もないところでこけんだよ」
 ようやく体を離し、照れ隠しみたいに言った。
「水野君が驚かすからだよ」
「花びらを取ることに集中しすぎだろ」
「あ、そうだよ。せっかく乗りそうだったのに、水野君が話しかけるから」
「悪かったな、話しかけたりして」
 ひとしきり言い終わった後、どちらからともなく笑い出した。そして、
「おはよう」
 と、彼女は言った。天使みたいな笑顔で。おれはこの笑顔が好きだった。
「おはよう」
「今日から二年生だね」
「そうだな。一年経つのって、つくづくあっという間」
「ねー。後輩ができるんだよね。部活にも入ってくるし」
「どんな後輩が入ってくるか楽しみだな、おれは」
 バレー部は今年こそ全国、とやはり意気込んでいる。
「私だって。できれば、マネージャーがもう一人欲しいかな」
 前田は、大志が死んだ後もサッカー部のマネージャーを務めている。といっても、大志がいたことが入部のきっかけではなかったわけだけど。
「もう一つ言うなら、かわいい子がいいな」
「へえ。でも、しっかりしろよ。さっきみたいに何にもないところで転んでたら、舐められちまうぞ」
「あー、そうね。あの癖ばっかりは治ってくれそうにないから、見られないようにしないと」
 治る見込みないのか、と内心で愉快になる。表面上はしっかりしてそうなのに、意外なところでドジをやらかす。
 入学式の日を思い出す。あの日も、前田は今日と同じことをやっていた。変わらない、と思う。そして、一年が矢のごとく過ぎ去ったことを改めて実感する。
「――ちゃんと、えれなと連絡取ってる?」
 しかも、これから向かう学校に松井はいない。
「取ってるよ。当然だろ」
「男子って細かい気配りができないから、おろそかにすると愛想を尽かされるよ」
「おれはそんなことないって」
 角を曲がって、校舎が大きく見えてくる。気のせいだろうか、いつもより華やいで見えるのは。
「ほら、遅刻するよ」
 前田が先に行こうとする。時間はまだあると分かっていたけど、彼女に遅れまいと急いだ。
 校庭にも桜の花びらが舞っていた。

 おれの本当の気持ちが自分でも判断つかない。自分でも分からないくらいだから、他人からしたらもっと困難を極める解読なのだろう。
 分からないとしても、嘘はつけないと思う。どう変化するか予測ができず、しかもあまりコントロールできないそれならば、目の前に提示されたときはちゃんと受け入れるべきだ。
 迷いはなかった。ためらいもなかった。ただ、間違ってはいないと判断した自分を信じただけだ。揺らいでなどいない。始めから、ずっと一貫していた。
 前田が、大志の誕生日にお墓参りに行こう、と誘ってきた。大志の誕生日は五月で、その頃には新しい学年にも慣れつつあった。お互い、環境の変化に対応することに忙しかったため、あまり交流はなかった。それだけに、その誘いは唐突に感じた。
 でも、断る理由もなかった。二人で電車に乗って、大志の実家の方まで運ばれていった。お尻が痛くなるくらい、かなり長い時間をかけた移動だった。その間、会話はもちろんあったけど、それほど多くもなかった。それぞれ、色々と考えることもあったと思う。
 上野は誘わないのかと思った。思っただけで、訊くことはしなかった。なんとなく、訊いたらいけない気がした。なんとか平衡を保っている状況が、その一言で瓦解するのではないか。そんな不安を感じていた。
 ひょっとしたら、おれだけを誘ったことに特別な意味はなかったのかもしれない。だけど、この後に起こったことを踏まえると、そこには必然性があった、と言える。
 駅に降り立つと、穏やかな田園風景が広がっていた。心が洗われる。大志は、ここでどんなことを感じたのだろう。風景を見て、自然に触れ、どんな感情を抱いたのだろう。それを確かめる方法は、もはやない。
 なだらかな山道を少し登った先に、お墓がたくさん並んでいた。前田は初めて来る場所ではないのだろうか、先に進み、すぐに「島津家」のお墓を見つけた。
 大志に、手を合わせる。胸の奥で唱える言葉は、言葉にするとありふれたもの。でも、それを言わせる心情は決してありふれたものなどではない。そうは言わせない。
「水野君」
 前田がしゃがんだまま、先に立ち上がったおれを見上げる。
 付き合ってくれて、ありがとう。
 なんだか優しい響きで、おれは彼女が誰よりも大志を愛していたことが、改めて分かる。その陰のある笑みを、白すぎる頬を、愛おしいと感じた。
 かわいそう、ってこういうこと。可愛そう、という漢字を当てるとよく分かる。愁いを帯びた彼女の表情は、平素のそれよりもずっと愛らしく映る。ひどい思考かもしれない。でも、正直にそう思った。
 そして、気づいてしまった。人を好きになる感情はそう簡単になくなるものではないし、変化するものではない。おれは前田に振られて、彼女が大志と付き合ったことで、心に穴ができた。その穴を埋めてくれたのが、松井の包容力だった。もちろん、松井には感謝をしているし、付き合っていた時間はとても貴重だった。
 だけれど、離れてみて、そして、再び前田を近くに感じてみて、認識を新たにする。おれが、本当に好きだったのは――。
「前田」
 しゃがんでいる彼女の手を取って、立ち上がらせる。向かい合って、その瞳をじっと見つめると、戸惑いの色が浮かんでいた。
 お墓の方をを見ないで、おれは大志に話しかけた。――ごめん、いや、ごめん、なのかな。おれはやっぱり、自分に嘘をつけない。大志なら、分かってくれると思う。だって、おれたちは親友だろう? 少なくとも、おれはそうだと信じて疑わなかった。お前もそう思っていてくれただろうことを、願っている。許してくれ、とは言わない。応援してくれ、なんて口が裂けても言えない。ただ、遠くから見守っていてほしい。結果がどうであろうと、どんな未来が待ち構えていようと。
「ずっと、おれの想いは変わらない」
 もう、覚悟を決めた。口を開いて、万が一にも聞き漏らされることがないように、はっきりと発音した。
 あなたのことが、やっぱり好きです。

溢れる想い

溢れる想い

もう、覚悟を決めた。口を開いて、万が一にも聞き漏らされることがないように、はっきりと発音した。あなたのことが、やっぱり好きです。

  • 小説
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  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-16

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