きっと全て上手くいく

     一


 船が海の表面を切り取っていくように進む。青い波が、白いしぶきに変わる。かつては、何度も見慣れていた光景が、目の深くまで染み込んでいく気がする。
 船に揺られることを苦痛に思っている人は、見当たらない。船酔い知らずの男女四人は、久しぶりの船旅を満喫している。
 島が見えてきた。記憶の姿と変わらず、背丈の高い木々が広がっていて、南国のような眩しさを目に映す。港も近くなってくる。以前は、浜辺にゴミが散乱していて問題視されていたが、今見た限りでは、きれいになっている。でも、時期とも相まって、観光客の姿はごくわずかのまま。
 おれは、その方がいいと思う。
 いい思い出も悪い思い出も詰まっているあの島に、部外者はあんまり立ち入って欲しくない。大学でできた友達に、高校の卒業アルバムを見られるようなものだ。
 おれは、あの島が好きだ。
 東京から船で三時間の所にある星新島。おれと優は中学から、古閑と宮西は高校から住んでいた。特に宮西は、高校二年の初めからだけど、充分、島の一員として認められる期間だ。
「変わってないね」
 宮西がエンジン音に負けないように声を張り上げ、そう言った。黒いTシャツ、短いGパンというシンプルな、夏らしい服装。臆面もなく出しているすらりとした足が、とてもきれいだ。顔は日に焼けているような、健康的な色。目は深みがあって、引き込まれそうになる。九年ぶりの再会だったが、美しさは保ったままだった。
「ねえ。でも、ちょっと浜辺がきれいになってない?」
 と返したのは、古閑。考えることは、同じようなものだ。砂浜みたいに真っ白なロングスカートを風に揺らめかせている。その白さに負けないくらい、肌も透明感のある白さだ。つい、見入ってしまう。古閑も変わっていない。
 二人は、よく似ていると思う。すらっとした体型で、互いに美脚。目付きが少し悪いようにも見える目も、魅力的な笑顔も同じだ。二人は高校時代、抜群の人気があった。
「暑そうだなあ。東京とそんなに離れてないのに」
 暑さにまいっているのは坂入優。九年前までずっと住んでいたというのに。
 優は、中学時代からのおれの親友だ。大学も同じくし、ついには会社も同じになってしまった、という腐れ縁。互いの性格は知り抜いているから、おれはうっかり本音や愚痴を優にこぼしてしまう。優も然り。あの日も飲み屋で会社の愚痴をこぼし合っていた。優は酒に強くないが、いつもおれに付き合って飲んでくれる。あいつも息の詰まるような仕事の不満を言い合える存在を必要としているのだろう。
 そこに、宮西と古閑が現れた。九年ぶりの再会で、すぐに二人が分かったのは、二人とも、九年前とほとんど変わっていなかったからだ。小さな飲み屋に、輝きを振りまいていた。
 二人も偶然、互いの仕事先で再会し、飲みに行こうというときだった。偶然に偶然が重なり、四人は思い出話を肴に、杯を乾した。そして酔った勢いで、星新島に旅行に行こう、と決まった。提案したのは、優だった。優は屈託なく誰とも接することができる性格で、このときも何の意図もなく、思い付いたことを言ったのだろう。
 宮西は、即座に同調した。それいい、と。
 おれはちらっと古閑を見ていた。すると、古閑もこっちを見ていた。互いに諦めたような苦笑いを浮かべた。仕方ない、この二人は何も知らないのだから。
 それに、そんなに悪いアイディアだとは思わなかった。むしろ、魅力的だと思った。星新島に行きたい、とそれこそ純粋に感じた。
「いいと思う」
「久しぶりに行きてえな」
 ほとんど同時に言った。話は、それで決まった。
 予定を調整し、ホテルなどを手配したのは古閑だった。古閑は、こういうときに頼りになる。提案者の優がすると言ったが、おれが反対した。優は賢いけど、おおざっぱな所がある。時間にルーズでもあるから、ちょっと危ない気がした。
 船が港に到着した。宮西と古閑が手を繋いで、せーの、で飛び降りた。二人は姉妹のように見える。
 似た者同士の二人だが、違いを一つだけ挙げるとするなら、それは今日の服装に表れている。宮西は黒が、古閑は白がよく似合う。


 灯台の表面のあちこちが剥げていた。今もその役割を果たしているのかどうか微妙だ。とりあえず、無人だった。
 船着場から真っ直ぐに伸びる道を、女たちを前にして歩いた。押し寄せる波がテトラポッドに当たって、しぶきを上げた。暖かい風が、気持ちよかった。都会の暑さとは違い、不快感を感じさせない。
「暑いよねー」
 優もそう感じているだろうに、しきりと暑さを嫌がっていた。こいつは暑いのも寒いのも嫌いなのだ。
 ひとまず、ホテルに荷物を置きに行くことにした。ホテルは港のほぼ反対側に位置する、この島で一番立派なホテルだ。それでも、料金は安い方だ。
 通りに出て、タクシーを捕まえた。荷物を後ろに詰め込んで、中に入ると、「どこのホテルですか?」と聞いてきた。髪の毛が真っ白の、お歳を召された運転手だった。格好からして、すぐに旅行者と分かったのだろう。それに、この島の人がタクシーを利用することはめったにない。たいがい、島中を回るバスを利用する。ただ、このバスは時間通りに来ないことが多い。それでも、島の人は気ままに待つ。
「シーサイドホテルです」
 前の座席に座った優が答えた。荷物を入れて、何の相談もなく前に座ったので、おれは黙って後ろに乗り込んだ。左端に座り、隣は古閑だった。
「かしこまりました」
 運転手さんが陽気な声音を出して、車を発進させた。
「お客さん、どちらからいらっしゃったのです?」
「東京です」
「こんな狭苦しい島に、よく来て下さいましたねえ」
「僕たち、ここの高校の卒業生なんですよ」
「ええ、そうだったんですかい」
「はい。久しぶりに、行きたいなあと思いまして」
「じゃあ、お客さん方を乗せたことがあるかもしれませんね」
「そうですね」
 優は運転手さんと意気投合して、話を弾ませている。優は誰とでもすぐに仲良くなれる。老若男女に関わらず。
 運転手さんは若い人と話せるのが嬉しいのか、話やめる気配が窺えない。おかげで、運転に集中し切れていなくて、たまに大きく揺れる。揺れる度に、剥き出しの腕の体温が、おれの右腕に触れる。古閑はそれを気にすることなく、揺れるのに任せている。だから、おれもこれ以上寄れませんよ、というように、動かずにいた。
 宮西と古閑は小声で話し合っていた。あの飲み屋で会った日に再会したのは本当だったようで、話すネタは尽きない。
 おれと優が、傍から見ても分かり易いくらい、高校時代から親友だったのに対し、彼女らはいつも一緒にいるわけではなかった。でも、今の二人の姿は、おれたち以上に親友のそれ、そのものだった。女の人間関係なんて、そんなものかな。
 タクシーがホテルに着いた。運転手さんと笑顔で別れ、入口でボーイさんに荷物を預けた。そのボーイさんも、世間一般のボーイさんに比べてお歳を召されていて、少子高齢化、という言葉が浮かんだ。
 チェックインをして、二部屋ぶんの鍵を受け取った。言うまでもないことだが、男と女で分かれるのである。
 傍から見たら、おれたち四人は恋人同士に見えるのかもしれない。まあ、ちょっと女の方がかわいすぎて、不釣合いのきらいもあるが。
 男女は久しぶりに再会したわけだから、隠れた関係がない限り、恋人なわけがない。ただ、過去に何かあったか、これから何かあるかもしれないかの違いがある。
 部屋は、入ってすぐ右に浴室があって、トイレも一緒になっている。絨毯が敷かれた床を歩み進めると、二つ、大きめのベッドがあり、向かいにはテーブルと小さな冷蔵庫。カーテンを開けると、窓から見渡せるのは「シーサイドホテル」という名に恥じない、青々とした海。
「いい眺めだ」
 思わず、そう呟いていた。優も隣で頷いた。
 ベッドをじゃんけんで決めて、おれは窓側のベッドの上に荷物を置いた。中を整理しながら、優と話した。
「これから、学校行くんだよな」
 四人が通っていた、小さな学校のこと。
「ああ、二人が最初に行きたい、って言い張ってたからな」
 壁越しに隣の部屋を指差した。
「九年ぶりだな、学校。変わってないかな」
「変わってなさそうだね。元々、古い建物だったし。――でも、九年ぶりなんだ。この頃、自分の歳が分かんなくなってきた」
 優は笑った。おれも同感だから笑った。
 おれと優は二十七になった。まだそんなものか、とも思える年齢だ。だが、女二人に当てはめると、もうそんなになったのか、と思ってしまう。不思議な感覚だ。
「優が四人の中だと、一番ここにいた期間が長いな」
「まあ、一応ね。でも、翔太と一年しか違わないじゃん」
 優は中学の初めに星新島にやって来た。おれはその一年後。さらにその二年後、古閑、その一年後、宮西と続いた。そう考えると、四人とも来たタイミングはバラバラだし、島生まれでもない。学校の中で島生まれの生徒は少なくなかったのだが、これまた不思議だ。
「そうだ、まだ島に住んでるやつがいるんじゃないか?」
「かも、ね。でも可能性は低いよ。最近は、島を出て行く人が大多数だし――現に僕らがそうだし――とりあえず、連絡を取り合ってる中で、島に戻った、っていう話は聞かないね」
「先生もいないかな」
「だろうね」
 ここに先生が長年いることは珍しかった。教師になりたての若い人か、定年前の人がほとんどだ。中には、島出身の人もいたが、そういう人でも長くいることはなかった。だから、今行っても、知っている先生は皆無だろう。
 肩にかけるバッグだけ持って、部屋を出た。おれたちの方が先だと思っていたが、女たちが外で待っていた。


 学校までは、のんびり歩くことにした。二十分程度で行ける所にあるからだ。学校に近付くにつれ、懐かしい光景が見えてきた。登下校で何度も通った坂。蛇が出ると噂された森。今でもそれが本当だったのか分かっていない。
「あれってさ、生徒を怖がらせて、近寄らせないようにするための方便だったのかな」
 蛇の話をすると、宮西がそう言った。宮西は想像力豊かで、しかも的外れな想像は少ない。頭の回転が速いのだろう、とおれは思っている。
「だとしたら、あそこに何かあるってこと?」と、おれ。
「うん。何か、生徒たちに見られたくないものがあったんじゃないの?」
「でも、先生はころころ変わってるんだよ? それが毎度、毎度、同じように言ってたのって、不思議じゃない?」と、古閑。
「来る先生がみんな納得するような、嘘をつく理由があったから、かな」と、優。
「こういうのはどう?」おれが三人の注意を向けさせる。「あんまり言いたくないけど、あそこで、若くて性欲が溜まってる先生方がやってたんじゃない? だから、生徒を近づけたくなかった」
 三人はしばらく、反応に困っているようだった。言葉どころか、表情も変えない。おれは高校時代、こういう下世話な話をしたことがなかった。優にですら、だ。優は昔から、こういう話を嫌っているのか、全くしない。
 おれにはたまにこういうときがある。場を白けさせることではなく、言わなさそうなことを言ってみたくなることだ。自分のイメージを考慮して、聞いた人が驚くことを期待するのだ。
 ただ、このときは少しばかり薬が効き過ぎた。
「なるほどね」
 やっと返事を返したのは、古閑だった。非難めいた所はない。安心すると同時に、同情されたようで、苛立たしくもあった。
「って言うか単純に、本当に蛇がいたんじゃないの? それなら来る先生も納得するし」
 優のその言葉を最後に、蛇の話はおしまいになった。


 学校はさっきから見えていた。校舎も校庭も、以前とほとんど変化が見当たらなかった。夏休み、ということもあって、生徒や先生の姿はなかった。校門は閉められていたが、警備員がいるわけでもないため、校門を乗り越えて入ることにした。中学、高校時代も校門を越えて、休みの日に遊んだことがあった。そして発覚しても、別段、怒られなかった。
 錆び付いているが、おれたちの身長以上ある立派な校門は、一人では乗り越えられない。学生時代も、肩車で一人が向こうに行って、錠を外してから入った。
 これは男の仕事だ。おれが体重の軽い優を肩車して、校門の向こうに行かせた。優は着地のときに、少し顔をしかめた。だが、すぐに開けた。
「大丈夫?」
 古閑の心配に、片手を振って「全然」と返した。
 校庭を歩いていると、色々と思い出すことはあった。他の三人も思い出に耽っているのか、無言で歩いた。
 おれが思い出すとすれば、真っ先に古閑とのことが脳裏に浮かぶ。でも、おそらく古閑はおれとのことなんて最初に浮かばない。どうせ、長峰を思い出すのだろう。あんなに仲良かったのに、大学に入ってあっさり別れるとは思わなかった。
 そのまま歩いて、校舎の前で座った。校舎の入り口は閉まっていて、中に入ることはできなかった。だが、外から教室の様子を見ただけでも分かる。あの頃と、大差ない。遠くの席から見えにくかった黒板も、誰かの名前が彫られた机も、きっと。
「ここで毎日、走ってたんだね」
 古閑の発言は、すぐにおれに向けられたものだと気付いた。そうだ、何で思い出さなかったのだろう。
「なあ、信じられない」
 おれと古閑は声を出して笑った。二人とも、陸上部に三年間所属していた。ついでに言うと、おれは部長だった。高校が始まってすぐに古閑と仲良くなれたのは、部活が同じだったからだ。
「美咲、速かったよね。かっこよかった」
 宮西が古閑を褒めた。ここで言う速かったのは、長距離走のことだ。星新島では、年に一度、島内マラソン大会が行われ、島全体が盛り上がる。
「でも、真央も速かったよね?」
「なあ。おれもそんな記憶がある」
「そんなことないよ。普通だよ。ダンス部だもん」宮西が謙遜した。
 宮西は部員の少ないダンス部に入って、文化祭や地域のお祭りかなんかで踊っていた。長い手足で踊る宮西は、ダントツで見る人の目を引き付けた。おれも宮西ばかり見ていた。
「おれとしては、卓球部で速かった優は不思議だったけどな」
 優は、陸上部で毎日走っているおれに匹敵するほど、速かった。他の運動はそれ程でもないのに、走ることだけは長けていた。
「ね。私もすごいと思った」と、宮西。
「深野、陸上部の威厳にかけても負けられない、って必死だったよね」
 おれは苦笑した。その通りだった。他の運動部に負けるなら――それも許せなかったが――卓球部に、しかもよく知る優に負けるわけにはいかなかった。
「何で坂入は、そんなに速かったの? 才能?」と、宮西が尋ねた。
「さあ。気が向くときにしか走らなかったけど。――ってか、翔太は必死だったって言うけど、僕は勝てる気がしなかったよ。結局、一度も勝てなかったし」
「よく言うぜ。優って、そうやって油断させるのが上手かったからな」
 優は笑っただけだった。
「そういえば深野、走る前に、いつも同じこと言ってたよね」古閑が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ああ、それ、僕も知ってる。口癖みたいなもん?」
「いや、まあ、言うと安心するから――ってか、古閑とかも言ってたじゃん」
「真似したんだよ、みんなで。陸上部の合言葉みたいになっちゃってたね」古閑は笑みを重ねる。
「何それ? 私、知らないかも」
 宮西が一人だけ分からないことに不満を漏らした。
「ああ、知らないかもね。……じゃあ、深野、教えてあげなよ」
「え、おれが?」
「他に誰が言うのよ。自分の言葉でしょ」
おれは頭をかいた。「いや、何か改まって言うとなると、照れくさいっていうか……」
「じゃあ、僕が代わりに言ってあげようか」坂入はまた何の意図もなさそうに、そう言う。
「ああ、いい、いい。だったら、自分で言うよ。――おれには、何か大きな――まあ、大きくなくてもいいんだけど、物事の前に口にする言葉があって」
 宮西は興味深そうにおれを見つめてくる。古閑はくすくすと笑いを噛み殺している。
「その言葉は」
 おれはわざと間を空けた。「きっと全て上手くいく」


 ホテルの近くの海に入ることになった。今日は飛び抜けて暑くて、学校に行っただけで、汗でびっしょりになった。すっきりしたいのと、微妙な空き時間の使い方を持て余していることがあって、古閑が提案した。宮西は即答で賛成した。おれは「別にいいよ」とどっちでも良さそうな返事をした。優は少し渋ったが、一人でホテルに残るわけにも行かず、全員で行くことになった。
 ひとまず、部屋に帰って、水着に着替えた。大学以来、着用していなかった水色の海水パンツ。筆記体の英語が斜めに入っている。
 優も同じようなのだった。まあ、男なんてこんなものだろう。
 おれも自慢できるほどたくましい体つきではないが、それにしても優は細すぎる、と上半身を見て思った。高校時代から細かったが、ビールを飲むようになっても、運動しなくなっても変わらない。体質なのだろう。
 適当に準備運動をして、女二人が来るのを待った。女の着替えは時間がかかりそうだ。あの二人はどんな水着を着てくるのか、正直、楽しみでしかない。
「海で何すんのかね」
 問い掛けると、優は首を捻った。
「泳ぐだけじゃないだろうね。ビーチバレーでもするんじゃない」
 なるほど、と思った。でも、そんなに彼女らの用意がいいだろうか。それとも、借りられるのかな。
 部屋に、人の来訪を告げるベルが鳴った。本当にベルという感じの音で、古風だなあ、と考えながらドアを開けた。
 二人は、着替えてはいたが、上にTシャツを着ていた。少し残念な気がしたけど、白い足が眩しかった。本当に、二人ともきれいな足をしている。
「さあ、行こう?」
 そう言う宮西は、腹の前に両手でビーチボールを抱えていた。準備がいい。
「よし、行くぞー」
 優の台詞は完全に棒読みで、女たちは楽しそうに笑った。「さすが、優」と、おれはわざと声に出して、言った。


 浜辺に人はあんまりいなかった。おれたちと同じような男女のグループと、家族連れ、それに、島の人だろうおじいさんが一人いるくらいだった。寂しい気もするが、これなら安心して遊べる。
 宮西と古閑の水着は、最近、一緒に新調したという色違いのものだった。宮西は薄い赤で、古閑は白で胸を覆っていた。案外にも、線の細い二人の胸が豊満なことに驚いた。体のラインが美しい。
 駆けていって、海に足を浸した。冷たかったが、気持ちよかった。おれが近くにいた古閑に水をかけると、「やめてよー」と笑った。宮西がおれの背後に回って、おれの背中に水をかけた。古閑も合わせておれを攻め、俺は逃げるように浜辺に上がった。
 優は浜辺に立って、その様子を見ていた。「高みの見物かよ。お前も入れ」とおれが優の背中を押して、半ばむりやりに海へ放り投げた。「つめてー」と優は叫んで、女たちの笑いを取った。そんな優にも、二人は水をかけてやった。
 打ち寄せる波をジャンプでかわして、遊んだ。
 段々と、深い方へと進んでいって、下半身が隠れる所まで達した。そこでしゃがんで、海につかった。波にゆらゆら揺られながら、笑い声とともに話した。途中で顔まで潜って、塩辛い海水を舐めてみた。
「何で海の水って塩辛いの?」
 とおれが聞くと、答えたのは優だった。
「地球ができたばかりの頃に、隕石の衝突とか、火山活動のために大気は熱かった。そのときは、空気中に塩化水素が含まれていて、それが雨になって降り注ぎ、塩化水素は水に溶けて塩酸になり、海の水は塩辛くなった。――だったと思うよ」
 優は色んな知識を持ち合わせていて、さらにその説明も、いつも分かりやすい。それに、知っていることを自慢げに言うことがないので、聞き手も引き込まれる。おれたち三人は「へえ」と感心するしかなかった。
 海から出ると、ビーチバレーをすることになった。試合形式ではなく、のんびり四人で回していこうとなった。たまに風に持っていかれたが、上手く回せていた。おれは自分の歳も忘れて、ダイビングでボールを拾った。だが、長らく運動していなかったせいで、すぐにこたえた。「もう歳だね」と、古閑に笑われた。
 しばらく楽しんでいたが、宮西が「のど渇いた」と言うと、優が「じゃあ、僕が買ってくるよ」と請け負った。宮西は買いに行かせるような気がして申し訳なく思ったのか、「私も行くよ」と、優に付いて行った。
 おれと古閑は取り残された。
 古閑は浜辺の少し斜面になっている所に座った。おれの方を向いて、おいで、と言うように手招きした。おれは従って、隣に腰掛けた。目の前にはオレンジ色の空が広がっていた。
「ずいぶん、遊んだな」
「ね。夢中だったから、時間の感覚が分かんなくなってた」
 古閑の笑顔にオレンジの光が射していた。きれいだ、と思った。さらけ出している背中も、シミ一つなかった。
「坂入は、本当に何にも知らないんだね」
 古閑と二人きりになったら、あの話が出てくるだろうと思っていた。もう九年経ったのだし、それに古閑はとっくに長峰と別れた。
「あいつには、何にも言わなかったから」
「仲良かったのに?」
「でも、恋愛の話とかしても、興味なさそうだったから」
「それもそうね」一つ、笑った。
 古閑は膝に顔をうずめて、しばらく沈黙した。おれは向こうが切り出してくるまで、黙っていることにした。黙って、海を見つめていた。たまにちらっと、隣の様子を窺った。
「もう、何とも思ってないの?」顔を上げると同時に、そう尋ねてきた。
「何が?」おれはわざととぼけた。
「私のこと」
 おれは返事に困るような笑みを浮かべた、はずだ。ぎこちないものだったかもしれない。
昔から、分かりやすい表情と言われてきた。
「何にも思ってない――よ。今は」
 正しくは、今も。
「そう」
 古閑は立ち上がった。美しい体のラインが、おれの視界の隅に映る。
「長峰とは、どうして別れたんだ?」
 古閑は一瞬、目を瞠ったが、すぐに落ち着いた顔に戻った。また、座り直した。
「それ、聞く?」
「ごめん。ずっと、気になってたから。その――あんなに仲良かったのに」
「分かんない」古閑は首を傾げて、笑った。「私は愛していたけど、彼はそんなに私に夢中だったわけじゃないみたい」
「そんな――」
 同情するように言ったが、そんなふしが確かにあった。
「本当よ。――まあ、そんなに傷付いてないから、大丈夫。深野、恋人はいないの?」
「今は、いない」
「その前は?」
「大学のとき、二人いた。でも、どっちも長く続かなかった」
「へえ、そう」
 古閑は指で足をなぞった。「じゃあ、付き合っちゃう? 私たち」
 おれは驚いて古閑の方を向いた。口角を少し上げて、おれを見据えていた。その表情から、真偽のほどは図れない。
「なんちゃって」
 舌先を出して、冗談にした。
「何だよ、ビックリしたじゃん」と、おれも合わせて、笑った。
「お二人さん、カップルみたい」
 宮西の声が背中の方から聞こえてきた。振り返ると、飲み物を両手に持って、冷やかし笑いを見せている。
「後ろから見たら、いい絵になってたよ。ね、坂入」
 優も両手に飲み物を持っていた。「うん? まあ、無きにしも非ず、かな」
「もう、そんなわけないじゃん」古閑は立って、宮西から飲み物を奪った。
 おれは座ったまま、優から受け取った。
「そろそろ、ホテルに帰る?」
 優の呼び掛けに、三人は頷いた。


 ディナーは、ホテル内のおしゃれなレストランで食べた。こういう所に合う服装も、ちゃんと持ってきている。四人とも白を基調としたフォーマルウェア。古閑と宮西は立ち居振る舞いも含めて、とても似合っていた。優は少し窮屈そうで、おかしな感じがした。
 リゾットやラタトゥイユ、ピザ、パスタなど、イタリア料理がテーブルの上に運ばれてきた。値段が少々高いこともあって、おいしかった。こんな小さな島でやっているのがもったいないくらい。
 おれは四人の談笑に混じりながらも、海での古閑の言葉を思い出していた。
 ――もう、何とも思ってないの? 私のこと。
 ――じゃあ、付き合っちゃう? 私たち。
 それは魅力的な話だ。古閑と恋人同士になれたら、誰に見せても恥ずかしくないだろう。
 でも、おれは古閑を本気で好きになったことはない。それに、古閑の方だってそうだ。昔も今も、おれをその気にさせるだけだ。
 おれは高校二年生の修学旅行で、古閑に告白した。だが、それは他の誰よりも古閑が好きだったわけじゃない。自分の周りがその頃、どんどんカップルになっていくことに焦りを感じていたからだ。おれも彼女が欲しい、という愚かしい理由から告白した。
 どうして古閑だったのか。
 その理由は簡単だ。当時、同じ部活だった古閑と一番親しくて、告白が成功するだろうと踏んでいたからだ。つまり、リスクを低くして、見返りを求めたのだ。
 だが、断られた。古閑には好きな人がいた。それが、長峰純一という男だった。学年でもトップクラスのかっこよさで、おれは到底、及ばない相手だった。古閑はおれを振った後、長峰と付き合い始めた。
 おれは振られた後、一人で泣いた。部屋のベッドに顔をうずめて、涙を流した。でもそれは、想いが報われなかった悲しさからではない。もう二度と、以前のような関係に戻れない寂しさからではない。低いリスクで勝負したのに、結局、彼女を得られなかった自分の境遇が哀れだと思ったからだ。
 おれにはそのとき、本当に誰よりも好きだった人がいた。
 それが宮西だ。
 当時、宮西は来て半年ほどで、神秘的なオーラを放っていた。それは今も変わっていない。男を引き寄せる、不思議な目に見えない膜。
 だが、卒業まで宮西に告白することはできなかった。宮西は古閑と違って、誰かと付き合うことはなかったのだが、おれが古閑に告白したことが、ストッパーとなっていた。短期間で違う人に目移りしたら、軽い男だと思われないだろうか、と危惧したからだ。おれは宮西だけをずっと想ってきたのに。
 おれは古閑を恨んでいた。
 今はこうして、何の恨みもなく接しているが。年月が、恨みの炎を消してくれた。 
 この複雑な恋愛模様が、優に分かるわけがないと思った。あんな、その日を楽しく過ごせればいい、という男になんか、分かるはずがないと思った。だから、相談はおろか、事実を伝えたこともない。
 おれは、グラスを傾けてワインを飲んでいる古閑を見た。次いで、笑顔で優の話を聞いている宮西を見た。この四人の中で、秘密を共有しているのはおれと古閑だけ。宮西には言えない。言えるときが来るとしたら、それは願いが成就したときだ。この四日間の内に訪れるかもしれない。
 何とか、二人きりになれないものか。


 ほろ酔い気分で席を立った。学生時代以来の再会だったから、ワインや酒を飲んでいる姿は、言ってみれば幻滅の域を侵していた。そう思う自分も飲んでいるくせに。
 優が一番弱いが、女二人もそんなに強いわけではなさそうだった。古閑は白い顔を赤らめていた。
 優は足取りが危なっかしかったが、言っていることは支離滅裂としていない。これがいつも不思議だった。こんなに酔っているのに、普段の調子を乱さない。むしろ、話は赴き深さとやらを増している。同じことを繰り返すこともない。
 酒はこうして一緒に飲んでいるが、女たちのタバコの方はどうなのだろうと考えた。おれと優は全く吸わない。
 今の所、吸っている姿を目にしたことはない。でも、宮西はタバコが似合いそうだ、と思った。
 それぞれの部屋の前に着くと、じゃあ、また明日、と言って別れた。何か期待していたわけではなかったが、そう言われてから失望している自分がいることに気づいた。まあ、まだ初日だ。
 優はふらふらした足取りで部屋の奥まで進むと、カーテンを開けて、次いで窓を開けた。夜の風がおれの頬まで達した。優は風に当たって、酔いを醒ましているようだ。
「優、先に風呂、入るか?」
 優は何も言わず、首を大きく縦に動かした。
「分かった。じゃあ、テレビでも見て待ってるよ」
 優は窓を閉めると、ズボンのベルトを外しながら、浴室に消えた。おれは宣言どおりテレビを点けたが、見たい番組はなかった。最初に映ったのがNHKだったので、それを見ていることにした。ニュースで、大学の入試問題が漏洩してしまった事件について報じていた。
 大学、か。高校以上にあっという間に過ぎ、中身のないものだった。あんなに必死こいて入学したのに、その熱意は一年と経たずに冷め切ってしまった。一方で優は、違う学部だったが、いつも勉強熱心で、大学院にでも行くのか、という考えを抱かせられた。でも、最終的な就職は同じ所に行き着いた。
 中身のないものだったのは、宮西がいなかったからだろうか。古閑もかもしれない。
 大学にかわいい人がいなかったわけじゃない。でも、見た目だけを追い求めていなかった。あの二人には、見た目以上に、他の人が持ち合わせていない付加物があった。何だそれは、と問われると、具体的な答えを提示できない。感覚的なものだ。そして、それは人を恋う上で案外、大事なものだ。
 古閑は思わせぶりな女だった。同じ校舎にいるときは気付かなかった。
 島にいた頃、夜にこっそり二人で会ったこともあった。ただ、話しただけだったけど。キスもしなかった。お互いに触れ合うこともなかった。二人で並んで座って、学校であったことを語り合うだけ。ヒソヒソ声で会話して、笑顔を見せ合うだけ。
 修学旅行のときもそうだった。向こうが誘ってきたから、班で行動しなくちゃいけない自由行動の時間に、二人で他の所へ行った。興味のない所に連れ回されたが、我慢した。見返りがあると思ったから。
 なのに、そのときに告白したら、頭を下げられた。
 ――ごめんなさい。私、好きな人がいるの。
 おれは拍子抜けした。何だよ、だったら、初めから思わせぶりなことすんじゃねえよ。
「翔太、上がったよ」
 バスタオルで頭をごしごしとやりながら、優が浴室から出てきた。テレビは、スポーツニュースに変わっていた。
「おう、おれも入るか」
 下着だけ持って、入れ替わりで入った。


 風呂から上がると、優はテレビを見ないで、外の夜景を眺めていた。夜景と言っても、都会みたいに光り輝いているわけじゃない。ほとんど真っ暗だ。
 おれはテレビを消した。その気配に気づいて、優がこっちを振り向いた。濡れた髪の毛が、ぺしゃんこになっていた。
「まだ寝てなかったんだな」
「もう、そんな歳じゃないからな」優はくすぐったそうに笑った。
 学生時代、優は普通の高校生や大学生が寝る時間よりも数時間早く寝る習慣だった。夜間のバイトもしなくて、朝早いバイトだけやっていた。おかげで、同じバイト先で働いたことはなかった。
「でも、もう寝るか? 明日も色々、行くし」
「そうだな。明日はどこ行くんだろうな」
「それは、色々だよ」
 二人で笑った。行動予定は、すっかり女二人、特に古閑に主導権を握られている。
 寝心地の良さそうなベッドに横になった。夏なのに、掛け布団があっても平気だった。冷房が効いているのだろう。
 ベッドの脇の小さい灯りだけ残して、あとは真っ暗にした。外が信じられないくらい静かだった。これから夜襲されるのではないか、というくらい。
 優の方を向いた。優は目を開けて、天井を見つめていた。
「優、彼女いらねえの?」
 優は表情だけで笑った。「何、修学旅行みたいにコイバナでもすんの? にしても、いらねえの、とはご挨拶だね」
「本当にずっと、彼女いないのか?」
「いないよ。欲しいとも思わないし」
 そんな男がいるのだろうか。それじゃあ、子孫を残す機能は何のためにある。人類の新種だろうか。
「女を見て、かわいいとか、思ったりしねえの?」
「それは、思うかな。かわいい、というより、いいか悪いか、という感じ」
「ふーん」おれは釈然としないながらも、話を続けた。「じゃあさ、宮西と古閑だったら、どっちがその、いい、に該当する?」
「どっちも」
「よりいいのは?」
「難しいな。甲乙つけがたい、とでも言っておこうかな」
 おれは追跡を諦めた。探っても、無駄な気がした。他の話題にしようと、頭の中で探してみた。
 すると、優から質問がきた。
「翔太は、大学のとき彼女いたんだよな?」
 優が発音する「彼女」は、特別な感情が込められていなかった。英語で言う所の、恋人を表すガールフレンドではなく、女性一般を指すシーに近い気がした。
「まあ、一応」
「最近はどうなの?」
 最近、何もないわけではない。社内でそこそこ仲のいい女性社員はいるが、付き合う、とまでは行かない。建前上、社内恋愛は御法度であるし。
「忙しくて、それ所じゃないかな」
 そう口にしてみれば、大学時代は暇だったことが分かる。優はそれ程でもなかったけど。
 その後は、話が途切れ途切れになって、いつの間にか、どちらからともなく眠りに就いていた。


 宮西がおれの想いに応えてくれるかどうか分からない。高校時代だって、彼氏はいなかったが、何もなかったわけじゃない。色々と気になる噂はあった。会っていなかった九年間だって、彼女も人並みの人生を送っていたら、色恋沙汰だってその中に含まれていただろう。
 一つだけ確かなことがあるとすれば、今は交際している人も、意中の人もいないそうだ。これは旅行の前に、本人から話の流れで聞いたことだ。
 本当にそうだろうか、と思わないことはない。あんなに周囲の目を引き付ける容姿をしていて、他の男どもが放っておくはずがない。
 でも、そんな心配をする自分を奮い立たせる。お馴染みの言葉で。
 大丈夫。
 きっと全て上手くいく。








     二


 寝心地が良過ぎて、かえって深い眠りに就けなかった。ホテルのふかふかなベッドは、マンションの狭い一室で一人暮らしをしている私には分不相応だったようだ。
 普段より早い時間に起きてしまった。朝六時。隣の真央はぐっすりと眠っている。当然だ。真央の頭の脇にある小さな机には、彼女の眼鏡が置かれている。黒縁の眼鏡。外ではコンタクトレンズだが、家にいるときは眼鏡をかけているのだと言う。高校時代はずっと目がよかったのに、大学に入ってから急に悪くなった、とも言っていた。私は眼鏡をかけた真央の顔を見たとき、ちょっとエロそうだと、失礼ながら思った。
 私は一度目が覚めると、二度寝しにくい体質なのだ。これが厄介で、こんな風に朝早く目覚めてしまうと、日中に眠気に襲われる。
 本でも読んでいようかと考えたが、せっかくの旅行だから、朝の浜辺を散歩してみようと思いついた。風が気持ちよさそうだし、何より優雅な気分を味わえると思った。
 今日、着ていく予定だった白シャツに着替えて、下はショートパンツにした。髪は軽く梳いて、結わずに部屋を出た。


 ホテルの入り口で、坂入を見つけた。屈伸をしている。これから走りにでも行くのかと思ったが、そのままスタスタと歩き出した。彼も散歩のようだ。
「坂入」
 呼びかけると、一瞬止まってから、こちらを振り向いた。眠そうに目を細めている。
「散歩? 私も行こうと思ってたんだ。一緒に行こう」
「あ、本当? じゃあ、せっかくだし、行きましょうか」
 顔は眠そうだが、声はいつもの張りがあった。お酒のときもそうだったが、いつでも意識はしっかりしているらしい。
 不思議な人だ。
 つくづく思う。高校のとき、坂入との交流は数えるほどしかなかった。でも、いい印象を再会するまで持ち続けていたのは確かだ。恋愛対象としてではなく、人として。
 二人で並んで、ゆっくりと歩いた。
「――あの種田が、って驚いたね。意外と面白い人だって、そのとき知った」
 修学旅行時代の思い出話を面白おかしく話してくれている。種田とは、同級生の女子で、名前は美羽という素敵な名前だった。学校内では大人しめだったのに、修学旅行で海を訪れたとき、美羽は他の誰よりもはしゃいだという。海なんて、島にいくらでもあるのに。
 坂入みたいな人が私には合っていたのだろうか。
 相槌を挟みつつ、そんな考えが浮かんだ。
 私は、仲良くなったらすぐに付き合う、そしてあわよくばエッチする、みたいなことばっかり考えている男が嫌いだ。そして残念ながら、世の中の男はそんなのばっかりだ。大半はそれを表に出さないで、平然と私に接してくる。そして、不可能だと悟ると、あからさまに失望する。深野だってその一人だ。隠せているとでも思っているのだろうか。
 しかも、深野は許せないことに、私を本気で思っていないのに、私に「好きだ」、と言った。これまた平然と、純粋な、人を恋う男子であるかのように。そのときは分からなかったが、後々に理解した。ああ、深野も論ずるに値しない男の内の一人であったか、と。
 深野とは部活が同じで、楽しく話せ、気の置けない存在だと思っていた。それだけに、残念だった。
 この旅行に賛同したのは、乗り気だった坂入と真央の勢いに負けたのもそうだが、私自身も面白いと思ったからだった。メンバーは誰であれ、かつて住んでいた島に行くのは、何ともそそる話だった。
 同行するメンバーは、そういう運命なのだと思った。諦めたのでも、妥協したのでもない。素直な気持ちで受け入れたのだ。あの日、真央に再会したのも、続けて飲み屋で二人に会ったのも、神様の用意した筋書き通りだったのだ、と。
 そして、実際に来てみれば、愉快な旅行だった。真央とは話が尽きないし、深野と坂入もいいコンビだった。この四人は、バランスの取れた、理想的なメンバーだと思えた。
「そろそろ、戻ろうか?」
 坂入に言われて、私は頷いた。もう真央も起きているかもしれない。いなかったら、心配するだろう。
「そうね」
 並んで、今来た道を歩いた。二人の足跡が、ホテルから続いていた。坂入は身長のわりに、足が大きいと思った。
 私と真央は背の高い方だ。踵の高い靴を履くと、坂入と同じになってしまう。深野には及ばないが。
 波の音が心地良かった。風に吹かれる前髪を手で押さえながら、その音に耳を澄ました。ザザーン、ザザーンと、一定のリズムで私の耳に届いた。


 部屋に帰ると、体にタオルを巻いただけの真央が、携帯をいじっていた。シャワーを浴びていたらしい。
「どこ行ってたの? 心配してたんだよ」
 そんなに心配していたとは、シャワーを浴びられるくらい落ち着いていたのを見ると、思えない。私が笑うと、真央もその理由に気付いたのだろう、一緒に笑った。眼鏡の奥で目がきゅっと細くなる。
「散歩。寝心地が良過ぎて、目が覚めちゃったから」
「へえ、優雅だねえ。私も行きたかったなあ」
「明日、行こう? 朝の浜辺、気持ちよかったよ。――そうだ、偶然、坂入にも会って、二人で歩いたんだ」
「え、本当に偶然?」真央は冷やかすように顎を引いて、上目遣いで私を見た。
「本当だよ。坂入は、散歩を日課にしてる、って言ってたもん」
「へえ、そうなんだ。何か、似合うね、朝の散歩」
 朝の散歩が似合う人って、何だそれは。私は面白くて笑った。今度も分かったのか、真央も笑う。


 朝食はバイキング形式だった。炒り卵、ベーコン、ウィンナー、目玉焼き、トースト、ヨーグルトやら、普通の朝食のメニュー。といっても、私は朝食でこれらを普通には食べない。休みのときとか、気が向くときとかに限られる。
 真央はコンタクトレンズをつけず、眼鏡で食べに来たため、男二人の驚きを買った。毎度あり、値段はプライスレスになります。
 一通り食べ終わると、コーヒーと紅茶を取ってきて、それを飲みながら今日の予定を話し合った。
「今日は、別行動にしない? 男だけで行きたい所もあるでしょ?」
 私がそう提案すると、深野と坂入は、うーん、と否定とも肯定ともとれない反応を見せた。真央には事前に言ってあった。
「いいと思うよ。僕は」
 深野の方を見た。私と行動したいの? それとも真央と?
「そうだな、そうするか。ちょっと、今どうなってるのか気になる所もあるし」
「じゃあ、決まり」
 本当に深野は、行きたい所があるのだろうか。私自身、具体的な場所はない。でも、あちこち歩いてみれば、色々と思い出すこともあるだろう、と思っている。


 軽く化粧を施して、出発した。
 真央の服装は襟ぐりの広いワンピースだった。左右の鎖骨が目に付く。
 真央にどこか行きたい所があるか尋ねると、島の市街地に行ってみようと答えた。島のほぼ中央に位置する、店が集中している地域だ。週末、暇なときはそこしか行く所がなく、そこに行けば知っている人に必ず会った。
 ホテルの近くのバス停でバスを待った。時間通りに来ないことは覚えていたが、東京の時間にうるさい生活に慣れてしまったので、少しイライラした。
「相変わらずだね。のんびりしちゃってさ」
 真央は私のイライラを感じ取ったのか、穏やかな口調で話しかけてきた。
「本当よ。東京に出てからさ、のんびり癖が抜けなくて苦労しなかった?」
「した、した。時間に少しでも遅れると、白い目で見られてさ。でも、最初、分かんなくて、平気な顔してたら、上司に怒られちゃった」
「私も電車が時間通りに来るのが信じられなくてさ、東京はすごいな、って思った」
 そうこうしている内に、バスがやって来た。通り過ぎようとしたので、手を上げて慌てて止めた。
「手、上げるんだっけ?」
「確か。忘れてた」
 バスの中は人がいっぱいだった。昨日はあんまり島の人を見かけなかったが、今も市街地しか行く所がないのは同じなのだろう。途中、いくつかのバス停に止まったが、乗る人ばかりで、降りる人は稀だった。そして、おおよその人が市街地の辺りで降りた。私たちもそれに続く。
 寂しくなったバスが遠ざかっていく。


 店は多いといっても、ブランド物が売っている店があるわけじゃない。そもそも、ここでそれらを求めて買い物するつもりは、さらさらなかった。東京で買おうと思えば、いくらでも買える。
 ここでしか買えないものがあるとすれば、のんびりした島の雰囲気そのままの、ゆるいお土産の類だ。島の外から来た人は、かわいい、面白い、と口々に言って買っていく。今日は、私たちも外部の人間になった気分で買おう。九年も離れていたら、充分、外部の人間だけど。
 猫のものが多かった。招き猫、恵比寿様みたいな猫、猫模様のダルマ、キーホルダーなどがあった。私と真央はそれらをいちいち手にとって、「かわいい」を連発した。見慣れていたつもりだったが、知らないものがほとんどだった。
 猫が星新島のマスコットキャラクター的な存在になっているのは、島に猫が多いからだ。ついでに言うと、うみねこも多い。
 会社の同僚たちのためのお土産も買った。日持ちのいい菓子にしておいた。実は食べたことがないものなのだが、どこのお土産屋さんでも店頭に並べているので、おそらくおいしいだろうと踏んだ。真央も同じのを買っていた。
 街の外れに、ドリームキャッチャー専門店、みたいな店があった。ドリームキャッチャーしか売っていない。こんな店、あったかしら。
 ドリームキャッチャーとは、蜘蛛の巣状の目の粗い網が組み込まれた装飾品のことだ。ビーズや羽根などで飾り付けられる。寝室のどこかに飾っておくと、悪夢から守ってくれる、という魔除けのお守りだ。
「こんなお店があったんだ。知らなかった」
「ねえ、ドリームキャッチャーって、何?」
 私は真央に説明した。真央は目を輝かせた。
「すごいね、これ。一つ買おうかな」
「いいんじゃない。私も買おう」
 二人で店の奥に進むと、詐欺師みたいな男の人が一人だけいた。私は詐欺師です、と称する人に会ったことはないけど、第一印象がそれだった。つまり、うさんくさかったのだ。店員さんだろう。歳は、四十前後かな。手をすり合わせながら、近付いてきた。その格好が似合う。
「お求めでございますか」
「お求めでございます」
 真央は丁寧な口調をそっくり返した。私は噴き出しそうになったが、詐欺師さんに悪いので、こらえた。
「どれがいいですか?」
 ドリームキャッチャーなんて買ったことがないから、判別がつきかねた。
「これなんかどうでしょう?」
 詐欺師さんは、レジ台のすぐ横にあるものを指し示した。確かに、意匠が凝らされていて、いいとは感じたが、値段が高い。たぶん、店で一番の高値だろう。
「じゃあ、それ一つください」
 真央は即座にそう返した。私は驚きで「え、高くない?」と言ってしまった。ちらっと詐欺師さんを窺ったが、ニヤニヤ笑っているだけだった。
「高い方がご利益ありそうじゃん。美咲もこれにしなよ」
 私は腕組みをして考えた。その間に詐欺師さんは薦めたドリームキャッチャーを丁寧に包装している。
「じゃあ、私もこれで」


 歩き疲れたので、喫茶店に入った。繁盛している所で、私たちが席に着くと満席になった。アイスコーヒーを二つ頼んで、小さなテーブルに向かい合って飲んだ。
 こうして買い物しながら歩き回るのは、大学時代もあった。社会人になってもある。でも、思い出すのは高校時代のこと。それも、修学旅行のこと。メンバーがメンバーだし、深野がいるからだろう。
 私は深野と同じグループだった。坂入も一緒だった。私は純粋に修学旅行を楽しんでいた。気分も高揚していた。だから、というとおかしいが、ちょっと抜け出したい気分に駆られて、そのとき誘ったのは深野だった。
 深野はほいほいと付いて来た。二人で班から離れて、行動予定にない方へと足を運んだ。興味深そうなものを手にとっては、二人で笑い合った。
 そろそろ戻ろうか、という段になって、深野が私の手を掴んだ。そして路地裏に引っ張って、狭い通りで向かい合った。彼は、私の目をじっと見つめていた。私も多少、困惑しながらも、その目を見つめ返した。
「ねえ、お二人さん時間ある? カラオケでも行かない?」
 気がつくと、若い男二人が話しかけていた。
「おれ、割引券持ってるからさ、安くなるよ」
 彼らは今時の若者の服装で、髪型もいきがっているが、高校生だろう、と分かった。
「ごめんなさい、彼氏と待ち合わせしてるから。怒られちゃうし」
 真央がとっさに嘘をついた。連れがいるのは事実だが。
「あ、マジで? ゴメン、ゴメンゴ」
 手をひらひらさせて、どこかへ去っていった。へらへらと笑っている。軟派な男たちだ。
「今のナンパだよね」
 いなくなってから、真央が言った。
「うん。こんな島にも、ああいうのいるんだね」
「しかも高校生だったよね。私らの周りで、ナンパしてる人なんていなかったよね?」
「まあ、知ってる限りではいなかったね。――私たち、同い年くらいに見えたのかな? だったら、嬉しいけど」
 真央は同感を示すようにニコッと、笑った。
 私の周りではいない、と言ったが、全くいないこともない気がする。真面目な生徒の多い学校だったが、ちゃらちゃらした人もいた。遊んでばっかりの人が。
 深野はしないだろうな、と思った。そんな勇気はあるまい。


 夕方、部屋に帰った。日中、ずっと歩き回っていたから、汗をかいていた。シャワーを浴びて、すっきりしよう、となった。じゃんけんをして、私から浴びた。
「なるべく、早くしてね」
 真央は片手を顔の前で動かしながら、部屋の涼しさを集めていた。
 水の張っていない大きな風呂に足を入れて、シャワーを浴びた。最初は冷たすぎたが、気持ちがいいのでそのまま浴びた。その内、適温になった。
 深野は、私のことが好きだ、と言った。真摯な振りをして。
 あの瞬間はちょっと嬉しかった。当然、驚きもあった。まさか、深野にそう言われるとは思わなかった。心の許せる男友達だと思っていたから、二人きりで会っても、恋愛感情を抱かなかった。そう思っていたのは私だけだった。向こうは違った。深野は、自分が私の中で特別な存在となされている、と考えていたのだ。


 あなたを想っている時間が惜しい。


 驚きと嬉しさの次には、そんなフレーズが頭に浮かび上がった。何かの歌の歌詞だったろうか。歌詞の意味を取り違えているかもしれないが、私は深野を想おうとする時間が無駄なのだと捉えた。つまり、何とも思っていなかった。
 だから、断った。
 今でも思い出せる。あのときの深野の顔。一瞬だったが、憎しみのこもった光を目に宿らせた。すぐに悲しそうな顔になったけれど。
 ――そっか、残念だ。
 隠し切れない本音、というのはあるのだな、と思った。本当に好きな人に、そう簡単に憎しみを抱くだろうか。深野が私を憎んだ理由はいたって簡単、単純明快なことだ。
 好きじゃないから。


 夜の帳が降りる頃、ディナーを食べに行った。
「今日、ナンパされちゃったんだ」と、真央。
「え、本当に? この島にそういうのいるんだ」坂入。
「しかも高校生よ。ビックリしちゃった」私。高校生というのは、推測だが。
「へえ、高校生が」坂入。
「で、何て断ったの?」深野。
「彼氏と待ち合わせしてる、って真央が」
「機転が利くね。さすが宮西」坂入。
「昔、街でナンパしてる人なんていた?」私。
「……さあ? いなかったと思うけど。少なくとも、おれと優はないよ」
 でしょうね。後半は予想していた。
「ナンパするにもかわいい人いないし。二人みたいに旅行で来た人を狙うしかないでしょ」
 深野がさり気なく私と真央がかわいいことを認める。
「まあ、ナンパの話は置いといて」真央が話題転換を試みた。
「そういえば、宮西、今はコンタクト?」
 坂入が違う話題を提供したが、あまり広がらなさそうだ。でも、彼ならできるかも。
「そう。すっかり悪くなっちゃったから、裸眼じゃ何も見えない」
「どっかで聞いた話だけど、風邪気味の男と視力の悪い女は魅力的なんだよ」
「へえ、何それ」
 本当に何それだ。
「江戸時代のことわざだったかな。正しくは、視力が悪いんじゃなくて、目を患ってることを指すんだけど――目を患ってる女は、うるんだ瞳が色っぽく見えて、ちょっと風邪気味で控えめな男は、粋な風に見えるから、らしいよ」
 説明を受けてみれば、どこかで聞いたことがある気がする。
「へえ、まさに宮西じゃん。ナンパされるくらいだし」
 深野はナンパされたことを名誉みたく言う。
「でも、病気じゃないし」
「確かに距離間隔が曖昧な女はそそられるかな。――あ、一般論として言っておくけど」
 言い訳しなくても、深野自身の意見だということは分かっている。少なくとも、私は。
「深野も風邪気味くらいだと、ちょうどいいのかもね」
 と言うと、深野は私を見た。怒っているのかと思ったが、笑っていた。冗談として受け取ったようだ。まあ、深野と険悪になりたくはないけど。
「そういえば、優ってたまに風邪気味だよな」
 そうだったかしら、と九年前を思い出してみる。マスクをして、だるそうにうなだれている坂入が思い浮かぶが、事実としてあったかどうか定かでない。
「まあ、たまにね」
「健康的な生活送ってるのにね」と、真央。坂入は早寝早起き、朝の散歩が日課だ。
「ああ、ちなみにさっき言った風邪気味の男と目を患った女が魅力的、っていうのには前提条件があって――」
 坂入に注目が集まる。彼は、間合いを上手く置く。長すぎず、短すぎず。
「どっちも、いい男、いい女じゃなきゃいけないんだ」


「三年の初めにさ、地震あったよね。結構、大きいの」
 私がふと思い出して、言ってみた。震度6はあったように思うが、正確なことは誰も覚えていなかった。
「ああ、やばかったな。授業中で、必死に机の下に隠れて」深野。
「午前中だったかな。――先生、冷静だったよね。机の下に隠れろ、って叫んで」坂入。
「私、内職してたから、必要以上にビックリしちゃった」真央。
 内職とは、授業中に他の科目の宿題とかをすることだ。真央はよく内職をしていて、しかも発覚したことがなかった。
「あんとき、これで色々ぶっ壊れて、連絡手段とか絶たれたらどうしよう、って思ったな」
「そう、それ」
 深野を指差して、言った。
「それ?」
「私もそういうこと考えてた。島が崩壊して、人口が半分くらいになって、外部と隔絶された孤島になったらどうしよう、って思ってた」
 小さな島に住んでいると、孤島に変わったら、と思いを巡らしてみることがある。地震のときにその考えが現実味を帯びた。
 私は、そうなって欲しかったのかもしれない。複雑なものを全部取り払って、シンプルな社会を求めていたのかもしれない。
「孤島」
 坂入はそう呟いて、考え込んだ。「食料は困らないだろうね。農家もあるし、魚だって獲れる」
「現実的だな。人口半分、って言うけど、おれは学校だけ生き残ったらどうなるだろう、って思った」
「学校だけ?」
「そうしたら、勉強どころじゃなくなるじゃん。全員で生き残るために協力する。自然と繋がりが強くなる」
「楽しそうね」
 真央があまり感情のこもってない声で、言った。
 学校だけだったら、大学進学で島を離れる人がいなくなり、生活を営むために、学校内で結婚相手を選ばざるを得なくなるだろう。子孫を残していくために。孤島だけど、唯一の生活拠点である島を守っていくために。
 そういう状況下だったら、私は長峰と別れずに済んだだろうか。なんて、相変わらず引きずっているなあ、私。
 地震の起こった頃、私と長峰純一は付き合い始めて数ヶ月が経っていた。お互いに近しい友人にしか明かさなかったのに、その頃には多くの人に知られていた。学校内で隠し事は難しいものだ。
 深野は近しい友人たちの次に早く、その情報を知っていた。私は、彼に伝える必要はないと思ったし、彼と長峰は親しい間柄ではなかった。
 深野がそんなに早く知れた理由は、私たちのデートしている瞬間を偶然、見かけたからだ。初デートのときだった。狭い島で見付からないでデートするのは骨が折れるが、深野に最初に見付かるとは予想外というか、神様の悪戯としか思えなかった。
 ――お前の好きな人って、長峰だったんだな。
 澄ました顔で、部活中、二人きりになったときを狙って、私の耳元で囁いた。私はごまかすまでもないと思い、黙って頷いた。深野もそれ以上、聞いてこなかった。
 その後も昔話を肴にお酒を飲んで、大人の夜を過ごした。


 部屋に帰ると、ベッドに倒れこんだ。酔いが気持ちいい。隣のベッドに、真央が真似して倒れこんだ。二人で目を合わせて、笑った。
「今日も飲んだねえ。仕事の付き合いでも、こんなに飲まないよ、普段」
「私も」
 それだけ、心を許しているのだろう。あの二人に、プラス、懐かしい島の雰囲気に。
「旅行、来てよかった」
 心からそう思えた。
「でしょ」
 真央は得意気に返した。言ってから起き上がって、テレビを点けた。ニュース番組で、天気予報の終わりのようだった。気象キャスターがこっち側に向かってお辞儀した。私もお辞儀し返してしまった。
「酔ってるねえ」
 真央が私をみて、笑っている。めざとい。
「うん、もう寝ようかな」
 テレビに一瞬、日本列島と白い雲の渦が映っているのが分かったが、何を意味しているのか理解できなかった。
「化粧、落とさないと」
「そうね」
 ふっ、と声を出して、起き上がった。化粧を落として、ローションを顔に塗る。不純物がたまったくぼみをきれいな膜が覆うのをイメージしながら、肌になじませる。もはや習慣と化しているが、自分の見た目には気を使う。女性なら、ほぼ全ての人がそうだろう。私は生まれつき悪くない見た目だったから、それをむざむざ失うことはないと思った。でなければ、見た目のよくない人たちに対して失礼だ。それに、私をこの世に生み出した神への冒涜だ。なんて。
 やることをやって、さあ寝るぞ、とベッドに入った。柔らかい感触に全身を包まれる。枕に首を預けると、今にも眠りが襲ってきそうだった。早く眠れるのはいいけど、慣れるまで必要以上に早起きになるのは勘弁だ。
「そうだ、明日はみんなで散歩行こうね」
 甘えるような声になった。眠いからだ。ベッドの中で愛を育んでいる男女が交わす声はこんな感じなのだろう。
「行こう、行こう。深野と坂入に言ってなかったね。起こしても大丈夫かな」
「坂入は起きてるんじゃない。ってか、私たちが起きれるか分かんないよ」
「そうだね。じゃあ、早く寝よう」
 真央は宣言どおり会話をやめて、眠りに集中した。私も目を閉じて、心臓の鼓動が落ち着いていくのを数えた。
 そして、いつの間にか眠っていた。


 私には坂入のような人がいいのかもしれない。
 でも、それだと長峰の二の舞になるかもしれない。私は愛の過程を大事にしたいと考えているが、それでも愛は生まれたら、その後も続く。本当に私を想っている人とでなければ、続かない。
 あなたを想っている時間が惜しい。
 いつの間にか長峰にそう思われていたようだ。私は彼を愛おしく感じていたのに。
 彼が私に飽きたとか、私を嫌いになったとか、そういうことはなかった。義務的に付き合いを続けることは可能だった。
 でも、彼と触れ合う度に、言葉を交わす度に、見つめ合う度に、分かってしまう。彼にとっての何よりの一番は、私じゃない。
 彼は他の女に目移りしない代わりに、自分の趣味にいつでも没頭している。知的な彼に似合う、高尚な趣味。初めは没頭している彼がとても愛おしく感じたが、次第に心の距離を表す象徴のような気がした。
 私がほぼ四六時中、彼を考えているのに。一方で彼は、頭の中の考え事の優先順位において、私が一番じゃない。
 不公平だと思った。
 これ以上、付き合いを続けるのは不可能だと思った。別れるしかないと思った。別れないと、あんなに大好きだった人を罵倒する日が来てしまうかもしれない。
 疲れた、と言って別れた。彼は二つ返事で了承した。
 誰かを想っている時間が欲しい。
 本当に心から愛せる人を。何よりも私を愛してくれる人を。
 きっと全て上手くいく。深野の好きな言葉を借りてみる。次こそ、全て上手くいけ、私の恋。









     三


 中浜の言葉が聞こえる。
 ――おれと一緒に来てくれないか。
 やっと私に振り向いてくれたと思ったのに、一筋縄では一つになれない。恋は障害が多いほど燃え上がると言うけれど、こんなに多くては嫌になってしまう。でも、確かに、彼を想う気持ちは変わらない。
 ――まお、まお。
 私を呼ぶ声がして、目が覚めた。ああ、夢だったのか。
「真央、起きて」
 中浜の顔に代わって、美咲の顔が目の前にある。いつ見ても、雪のように透き通る白さだ。
「おはよう、美咲。散歩?」
 私は上半身を起こして、目をこすった。頭はまだぼんやりとしているが、散歩のことは覚えていた。
「うん、行くよ。深野と坂入も行くって。外で待ってる」
 美咲は着替えを済ましていた。私待ちだったようだ。急いでベッドを離れ、鞄から着替えを出した。今日は、私も美咲もショートパンツ。理由は、今日の予定にある。
 眼鏡をかけて、美咲に続いて部屋を出ると、深野と坂入が立っていた。
「散歩するんなら、昨日、言ってくれよな」
 早朝に起こされた深野にとって、寝耳に水だったろう。でも、文句を言っているが、どこか嬉しそうだ。アイディアとしては、いい、と思っているのだろう。
「四人で行くことになるとは思わなかったなあ」と、坂入。寝癖が気になる。
「いいじゃない、健康的で。早起きは三文の徳だよ」美咲。
「さあ、行こう」
 私が促して、出発した。
 ホテルのロビーに、私たち以外の宿泊客は全くいない。受付の人も日中より少ない。
「おはようございます」
「おはようございます。お散歩ですか?」
 四十前後の男性が応じる。背筋をピン、と張っている。
「はい、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
 挨拶を交わして、笑顔で送り出された。
 いい気分だ。早朝の雰囲気は快い。早起きは三文以上の徳がありそうだ。


 誰の足跡もついていない砂浜に、四人で異なった軌跡を描いていった。少し靄がかかった空も、吹き抜ける風も、風で揺れる木々も、全てが愛おしく感じる。そんな午前六時。
 先に立って歩くのは、男たち二人。何かぼそぼそ話している。内容は聞き取れないが、時折、盛大な笑いを挟んでいる所から、楽しそうだと思った。いい意味で、くだらないことを言い合っているのだろう。
 美咲は目を細めて地平線の方に目を向けていた。長いまつ毛が艶っぽい。彼女は波の生まれる先に、どんな思いを寄せているのだろうか。
 適当に歩いた所で、「では、引き返しましょう」と坂入が告げた。深野は「え、早くね」と言ったけど、私はちょうどいいくらいだと思った。充分、堪能した。嫌な出来事にしないために、疲れない程度で切り上げた方がいい。
「深野。陸上部でさ、朝練したよね」
 美咲が深野に、背中越しに語りかけた。深野は首をちょっと後ろにやって、「ああ、大会前とかな。懐かしいな」と答えた。
「懐かしいね。でも、そのときは、こんなにいい気分じゃなかった気がする」
「ってか、雰囲気が暗かったよな。大会まで練習もきつかったし」
「それを明るくするのが部長の役割でしょ」
「だって、おれ、そういうの面倒くさいんだよね」
 いつの間にか二人の身内話になって、二人は前に並んで、歩いた。坂入は後ろになって、私と並んだ。
 坂入とは、高校時代、まあまあ親しかった。もちろん、深野と彼の関係には及ばないけど。美咲よりも話す機会が多かったのではないだろうか。彼は面白いし、色んなことに詳しい。特別な感情を抱いたことはないけれど。
「坂入、卓球部は朝練しなかったよね?」
「まあね。そんなに大きな大会もなかったし」
「ダンス部もなかったなあ。まあ、部活外でも踊ってたけど」
 私たちは、学生時代の話をほとんどする。会社の話は一切していない。前もって、禁句事項にしたわけでもないのに、不思議だ。誰も話そうとしない。私も話す気にならない。
 美咲と偶然、再会したときも、お互いに仕事のストレスで疲れきった顔をしていた。一目で分かった。美咲も分かっただろう。顔にありありと浮かんでいた。
 深野と坂入も、声の主が彼らだと判別がつく前に聞こえてきたのは、仕事の愚痴だった。後から思えば、主に深野だった。
 四人は仕事で少し参っている。だから、この旅行はいい企画だと思った。ストレス発散。気分転換。煩わしいことは全部忘れて、のんびりしたこの島に負けないくらいのんびりしようと決めた。


 ホテルに戻った。部屋には行かず、そのまま朝食へと向かった。人はまばらだったが、一日が始まりかけていた。バイキングで優雅なお姫様心地に浸って、心の許せる仲間たちと食べた。
 食後のコーヒーのときになって、昨日と同じように、美咲が今日の予定を提案した。おそらく、それで通るだろうから、提案というより、通達かな。
「今日は、四人揃って山に行こう」
 星新島には小高い山がある。一応、山となっているが、「山っていうか、丘だろう」と深野が指摘するように、平べったい。その代わり、広範囲に広がっていて、島の中心部をほとんど、その自然で埋め尽くしている。美咲が言うのは、その自然豊かな所を巡ろう、ということだ。
「いいね、今日はとことん歩こう」
 坂入の寝癖は直っていないが、眠そうな顔ではなくなっていた。
「朝も歩いたのに、会社人にはこたえるな」と、深野。
「いいじゃない。遊歩道があって、目の保養にもなるわよ」
「中学、高校でさんざん行ったし。まあ、懐かしいから、いいか」
 私も大賛成だった。深野はさんざん行った、と言うが、私は島へ越してきたタイミング的に、みんなで行く機会がなかった。美咲が提案してくれたのは、私のためでもあるのだ。
 今日の予定が決まると、また他愛もない話をした。
「そういえば、深野と坂入は、昨日、どこに行ってたの?」
 私が尋ねてみた。私たちの行った先は、ナンパの話の前にした。彼らの話は聞いていなかった。
「とりあえず、学校のある方にまた行って、で、奥まった海岸近くにあるバスケコートを見に行ってきた」
 答えたのは深野だった。
「へえ、バスケコート。そういえば、深野、いっつもバスケしてたよね」
 美咲が懐かしむように笑う。頬紅で染まる横顔が、笑顔を形作る。
「そうそう。ちょっと、今どうなってるか気になって」
「僕も一回だけ行ったことがあったから、じゃあ行こうか、ってなって」
「で、どうだったの?」私が質問を挟む。
「変わんなかった」深野は呆れたように微笑む。「砂混じりのコートも、ぼやけたラインも、ネットが垂れ下がってるゴールも。あの頃と同じだった」
 深野以外は黙って、聞くことに専念している。彼は続けた。
「そしたら、中学生がバスケしててさ、これまた昔のおれと変わんねーな、って思った。だから、まぜてくれよ、つって、一緒に遊んだ」
「え、一緒にやったの?」
 美咲が感心一割、呆れ六割、驚き三割といった声を上げた。私の勝手な分析だけど。
「そう。まあ、ずっと運動してなかったから、体力が持たなくて――中学生は元気だな、本当」
「えー、陸上部部長だったんだから、負けたらダメじゃない」美咲は快活に笑う。
「無理だって。優の方が体力はあったよ。やっぱ、散歩が日課だから、その差が出たな」
「そんなことないよ。翔太の方が断然、上手かった。高校のときから上手いと思ってたけど、実力は落ちてなかったね」
 互いに褒め合って、頷き合う。男ってこういう生き物だ。
「それで、ずっとバスケしてたの?」
 私が尋ねると、深野は何でもないことのように、首を縦に動かす。私は美咲を真似て、呆れたように笑ってみた。
「男って、不思議ね」
「不思議だね」
 美咲と顔を見合わせて、笑う。
「女も不思議だろ、買い物で時間を費やすなんて」
「別に、普通じゃない」
「まあまあ、お互い様だよ」と、とりなして、坂入は腕時計を見た。
「部屋に帰って、準備しようか」


 四人の男女は、揃ってTシャツに半ズボンといういでたちだった。たくさん歩いて、大量の汗をかく覚悟の現れ、ともとれた。履物も靴で揃った。こじゃれたサンダルでは、足手まといになるだけだ。
 だが、出発してみて、今日はそんなに暑くないことに気付いた。灰色の雲が空にかかっていて、風が不気味な音を響かせながら、私の髪を揺らして通り過ぎた。今にも雨が降りそうだ。
「ねえ、天気、大丈夫かな」
 心配そうな声で美咲が呟く。正面を向いたまま、誰とも言わず、問い掛ける。
 答えたのは、坂入だった。
「ちょっと怪しいね。天気予報、確認してくるべきだったね」
「みんな、傘持ってきてる?」
 思いついて、口にしてみると、まず自分が持ってきているか不安になった。だが、旅行の前にオバサンじみた花柄の折り畳み傘を、しょうがないか、これしかないし、と独り言を言って、鞄に入れたことを思い出した。
「持ってきてるよ」
「おれも」
「――あった、私も」
 美咲が鞄を外側から探って、全員が携帯していることが確認された。何とも、優秀な面々だ。
 あいにくの曇り空だったが、景色は美しかった。踏み鳴らされた道を歩いていると、足元から草花が広がっていくのが分かる。樹木と、枝の葉を透かして見える海のコントラストが、映画のワンシーンみたいに目に映る。まぶたを一瞬閉じても、ちゃんと残っている。
 私たちの足取りは軽快だった。今にもスキップしそうなほど。会話は途切れ途切れだったが、それで充分だった。この空気を感じるのに、多くの言葉は必要ない。見て、聴いて、触って、嗅いで、全身で感じた。
 しばらく歩いてから、レンガ造りの階段を見つけた。数段で終わり、屋根付きの小さな広場に続いている。広場には、こけが生えたような木製のベンチが置かれていた。
「一応、ここが星新島で一番、標高の高い所です」
 片手をかざして、深野が告げた。
「ここが?」
 思わず、そう言ってしまった。なるほど、確かに山と呼ぶには低すぎる。
 でも、港もホテルも市街地も見渡せるから、悪くないと思った。昔の人からしたら、このくらいの高さが物見台として適当だろう。高層ビルは高すぎる。
 ベンチに座って、休憩をとることにした。感動の連続だったから疲れを意識していなかったが、確実に体は疲労を感じていた。肩と腰が少し痛む。運動不足は、深野だけではない。
 その深野はだらしなくベンチに寝そべっていた。陸上部部長の見る影もない。美咲は腰に手を当てて、寝そべっている深野に話しかけていた。
 坂入は私の隣に座って、水色のハンカチで汗を拭っていた。その姿を見て、かつて甲子園を沸かした「ハンカチ王子」が重なった。この中では彼が一番、余裕を残している。
 雨が降ってくる前に、予定通り遊歩道の途中にあるレストランに入った。客が来なさそうな場所にある。私たちが入ったときは、誰もいなかった。そのせいか、値段が法外なほど高かった。でも、途中にあるのはここしかないから、諦めるしかない。
 メニューを見て、真っ先に飲み物を注文した。夜に取っておこうと、アルコールはやめておいた。
 オーダーした料理を待つ間、続々と客が現れた。今までどこに隠れていたのか、一人も漏らさず歩いていた風体だった。そして、あっという間に席は埋まった。意外と繁盛するものだ。
 料理がきてから、深野が唐突に言った。
「なあ、人はいつか死ぬ、ってことを理解したのがいつか、思い出せる?」
 誰も即座に返せなかった。深野はたまに予測不能な発言をする。でも、これは、そんなにおかしな話ではなさそうだ。
「どうしたの、いきなり」
 美咲がやっとそう言って、笑った。
 坂入は真面目な顔をして、黙っていた。男って不思議だ。
「いや、ちょっとね。おれ、今でも覚えてんだけど、小学校一年生のときにさ、どういう話をされたのか分かんないんだけど、学校の帰り道、ずっと死について考えたときがあったんだ。そしたら、ついには人目もはばからず泣いたんだ。――どうしてだと思う?」
「死にたくない、って思ったからじゃない?」
 私が答えると、「そう」と、深野は頷く。
「死を嫌だって、思ったわけ。でも、自分じゃない。子どもの頭でも、死ぬ順序は年老いた人からだ、って分かってた。だけど、知らない人や、遠く離れた田舎に住むおじいちゃん、おばあちゃんに感情移入はできない。身近な人で、歳をとった人――親がいつか死んでしまうのが、とてつもなく悲しいことだと思えた」
「親」
 坂入はその二音を大切に呟いた。
「特に、母親だった。父親よりも、母親が死ぬって考えたら、途方もない絶望だと思った」
「何で母親だったんだろう。どっちも悲しいもんだけどね」
 美咲が首を傾げた。
「おれだって、どっちだろうと悲しいに決まってる。でも、子どもは自分の感情に正直だから、どっちがより悲しいか、選び取ってしまうんだ」
「子どもって、ときに残酷だからね」
 私がしみじみと言う。何か経験があるわけじゃないが、何となくそう思う。
「父親には敬意を抱くけど、母親には親しみを覚えるのが子どもだからだよ、きっと」
 坂入の言葉になるほどなあ、と大いに納得する。父親には敬意を、母親には親しみを、か。でもそれは、大人に近付くにつれて変化していく。家事を当たり前のようにする母親の偉大さに、だんだんと気付いていき、母親に敬意を抱くようになる。年頃の娘に話しかける材料がなくなってきて、まごついている父親は、表向き疎んじながらも、畏怖が薄らいで、親しみに変わる。
 親を捉える感情が変わったとき、私たちは大人になったと言えるのかもしれない。
「私、覚えてない。いつの間にか、人が死ぬってことを知ってたなあ」美咲がなあ、と語尾を延ばして、言った。
「僕も。普通はそうだろうね。でも、こういうことを考えたことない?」
「どういうこと?」
 私は興味を持った。彼が何を語ろうとしているのか。
「死んだらどこに行くんだろう、ってこと」
「あ、ある」
 深野が食いついた。死にまつわる考え事は、一通りしてきた人らしい。
「魂が抜けて、天国なり、地獄なりに行くって聞かされても、実際に死んだ人に教えてもらうことはできないじゃん。本当に死んでも、形のない存在として精神はあるのか。それとも、死んだら、意識は全くの無になるのか」
「そう考えると、怖いね、死ぬのって」
 そう言いながら、美咲はうっすら笑っている。本当に恐れているわけではなさそうだ。
「だから、死は何よりも脅迫になり、ときに、何よりも安らぎになる。人を脅したかったら、銃を突きつければいい。人生に絶望しかない人は、自殺して、その苦痛を絶てばいい」
 死――。人が死ぬときに抱くのは後悔か、安心か。抗うのか、受け入れるのか。考えると尽きない。
 それにしても、坂入はただ明るい性格なのだと思っていたが、その明るさは汚れのない真っ白な明るさではないらしい。黄や赤の絵の具でキャンバスいっぱいに塗りたくった明るさだ。
 食事は進んでいたが、場の雰囲気は朗らかなものではなかった。それを和らげようとしたのか、美咲が笑顔で言った。
「何か、今日の話、哲学的だね。大学の講義を思い出す」
 私もそれに乗っかって、笑った。


 私の恋路を説明するには、三人の同級生を登場させなければならない。二人でもいいのだが、人間というのは自分にとっていい出来事を明かしたいものなので、ご容赦願いたい。
 まずは、いいことから。高校生のとき、私を想っていてくれている人がいた。お喋りで、彼が私を想っていることは色んな人が知っていて、みんな、彼を応援していた。彼は、渡瀬啓太といった。
 私は知らない振りをしていた。別に、渡瀬が嫌いだったわけではなかった。渡瀬は面白いし、一緒にいて楽しい。でも、それだけだった。彼を好きになるには、それだけでは不十分だった。
 それに、私自身、好きな人がいた。
 中浜瑛太といった。口数は少ないが、音楽が、ロックが好きな人で、ギターとベースの両刀使いで、かつ、かっこよくこなしていた。島のお祭りなどのステージで、彼は他の誰よりも輝いて見えた。次第に、接する機会が増えてきて、仲良くなっていった。いつか、彼と恋人同士になりたい、と自然に思っていた。
 そう思っていた矢先、修学旅行があった。
 私は自由行動班が同じだった渡瀬と、いつの間にか二人きりになっていた。周りが彼のために仕向けたのだろう。私は一人でいるよりはいいと思い、彼とそのまま巡った。
 すると、彼は私の両肩を掴んで、正面に向き合わせた。キスでもするのかと思ったが、彼は正面を向かせたら、パッと手を放した。
 ――その、なんつーか、す、好きです。付き合って下さい。
 一部の女子は、彼をちゃらい、軽い、と揶揄していた。でも、そのときの彼は、言葉のわりに真剣な眼差しをしていた。ああ、本当に私を想っていてくれているのだろう。もし、私に想い人がいなかったら、彼の申し出を了承していたかもしれない。
 でも、彼の告白を聞いた瞬間、どんな感情よりも言葉よりも先に中浜の顔が浮かんだ。そしてそれが、私の頷きそうな首の動作に歯止めをかけた。代わりに、上半身を折り曲げさせた。
 ――ごめんなさい。
 しばらく頭を下げていたから、言われてすぐの彼の表情は見えなかった。どんな顔をしていたのだろう。気になったが、とても見られなかった。怖かった。寂しさを滲ませていたら、と考えるだけで胸が痛んだ。
 ――そっか、そっか。
 声に応じて頭を上げると、彼は鼻をすすって、笑顔になっていた。無理して笑っていると、明らかに分かった。
 ――いや、いいよ、そんな。おれが勝手に……ねえ!
 笑い声も上げた。私も彼のために笑ったが、申し訳なさで泣きそうだった。


 こうなったら、私が想いを遂げないと、彼の新しい恋に向けた踏ん切りがつかない、そう考え、中浜に告白するタイミングを待った。
 ところが、待っているさなか、彼に関する噂を聞きつけた。私は中浜を想っていることを友達の誰にも明かしていなかったので、その話を興味なさそうに聞いた。でも、心の中では、動揺でたくさんだった。文字通り、私の心は揺れ動いていた。
 中浜が種田美羽に告白して、振られたのだという。
 種田美羽は、私も仲のよかった友達で、大人しい性格だが、修学旅行先の海で誰よりもはしゃぐような、お茶目な一面もあった。
 中浜が美羽を好きになっていたなんて、予想外すぎた。しかも、美羽は断ったという。
 その後、表面上は今までと変わらない日々を送った。けど、内心、どうすることもできないもどかしさが渦巻いていて、気持ち悪かった。吐き気がした。渦巻いている想いを言葉にして、学校中に響き渡るように吐き出せたらどんなにいいか、と卒業するまで何度も考えた。
 中浜に正直に想いを打ち明けられなかったのは、彼が引きずっているようなふしを窺わせていたからだ。彼はたまに、思い出したように遠くに目をやるときがあった。その視線の先に美羽がいたときもあったし、誰もいないときもあった。私が見た限りでは、後者の方が多かった。
 この場合、誰が最も望みから外れた位置に飛ばされたと言えるのだろうか。渡瀬か。私か。中浜か。実は美羽か。誰とは一概に判決を下せない。でも私は、私だと思った。思いたかった。そうじゃなきゃ、報われない。
 人を好きになったりしなければよかった。
 そう思っていた時期もあった。だから、高校を卒業してからは、恋を忘れて生きた。普通に大学に通って、友達と遊んで、街で男に声をかけられても無視して、四年で大学も卒業して、行きたい気持ちが希薄な会社に就職した。
 会社でも普通に生きていた。そろそろ無難そうな男を見つけて家庭を築こうかしら、そう思っていた折に、中浜と再会した。美咲と会う二週間前に。
 会った瞬間、私の中で眠っていた恋心がふつふつと湧き上がってきて、あの頃とまんま同じ気持ちになった。やっぱり、好きだ。
 近況を話しに話して、また会うことを約束した。私は忙しかったから、すぐに実現しなかったけど、三人と再会する前にはもう一度会えた。
 彼はラフな格好で、タイトなスケジュール下で暮らしていなさそうなので、何の仕事をしているのか気になった。聞いてみると、彼は音楽関係、と短く答えた。へえ、夢が叶ったんだ、と喜んでみると、彼は真剣な表情で私を見つめてきた。
 ――仕事でオーストリアに転勤することになったんだ。
 私は率直に驚いた。すごい、とはしゃいだ声を上げた。すごいのか分からないが、海外に行くなんて、並の人間が可能なことだとは思えなかった。
 彼は高校のときから英語が得意で――言わなくてもいいかもしれないけど、それ以外はからっきしダメだった――大学ではそれに加えて、ドイツ語を学んでいたそうだ。ドイツに短期留学もしたそうで、転勤の話が舞い込んできたわけだ。
 ――おれと一緒に来てくれないか。
 それは、プロポーズだった。私の思い続けていた人が、やっと振り向いてくれたのだ。人生で五本指に入るぐらい嬉しい出来事だった。でも――。
 ――嬉しい、本当に嬉しい……けど、
 逆接の言葉を言うと、彼はひどく残念そうな顔をした。誤解を与えてしまったと気付き、慌てて否定した。
 ――違うの。交際するのは、よろしくお願いしますなんだけど、でも、オーストリアに行くのは正直、不安かな。
 結局、答えは保留してもらうことにした。期限は明後日の夜。旅行の終わった次の日。私はこの四日間、精一杯楽しみながら、一人で悶々と悩んでいた。


 曇り空は晴れそうにない。むしろ、さっきより暗くなった。夜みたいに。雨はまだ降ってこないが、風が強くなった。音を轟かせて、過ぎ去る。
 私たちは早歩きでホテルの方に戻っていた。傘を持っていても、この風の強さでは横殴りの雨に負けてしまうだろう、と危惧したからだ。
「雲の動き、速いな」
 深野が空を睨んでいた。彼の言うとおり、どんよりとした空に浮かぶ雲は、いつにも増してせわしない。
「普通の悪天候じゃなさそうだ。天気予報、ちゃんとチェックしてくるべきだったな」
 坂入が言う。あ、と美咲が何か思い出した。
「そういえば、台風かも」
「台風?」
「天気予報で言ってたの?」
 美咲は首を横に振る。
「ううん、ちゃんと見てないんだけど、そんな感じだった」
 言われてみれば、そんな感じだった気がする。でも、正確には覚えていない。
「だったら、早く帰らないとね」
 坂入の言葉に、足が走り出しそうなくらい、また速まる。
 レストランで見かけた人たちは大丈夫か、気にかかった。彼らも天気予報を見損なったのかもしれない。でも、島の人間かもしれない。家が近くて、心配ない可能性だってある。
 ホテルに辿り着いた。雷鳴が響き始めていた。まもなく、勢いのいい雨が降ることだろう。
「危なかった」
「セーフだね」
「今日はホテルでゆっくりしてようか。この悪天候じゃ、どこにもいけないし」
「そうね」
 四人で言葉を交し合っていると、私は足の付け根あたりに感じるはずの感触を感じないことに気付いた。あれ、と足を不自然に上げてみる。ポケットに手を突っ込んで、確認する。――ない。
「やばい、ない」
 私が思わず呟くと、三人が振り向いた。
「どうしたの?」
「何か落し物した?」
 坂入の問いに無言で頷く。
「何を?」
 深野に聞かれて、「ライター」と一言で返した。
「え、タバコ吸うの?」
 深野は好奇心を表情に浮かべている。
「私は吸わない。貰い物」
「ああ……」
「それより、どの辺か心当たりある? ライターの大きさじゃ、見つけるのは大変そうだよ」
 坂入の指摘は的確だった。道の途中で落としたのなら、見付かる可能性はゼロに等しい。
「たぶん……あのレストランじゃないかな」
 イスに座るとき、ポケットからこぼれるライターを思い浮かべてみた。しっくりくる想像だ。あながち、的外れでもなさそうだ。
「レストラン?」
「たぶんだけど」
「じゃあ、四人でレストランまで行ってみよう」
 深野の誘いに、今にも出ようと足を踏み出す。
「待った、待った」
 坂入が片手を上げて、止める。
「必要のない荷物は置いて行こう。役に立たないかもしれないけど、傘だけで行こう」


 雨は信じられないくらい強くなっていた。傘は全く意味をなさず、逆に危ないから差さないで行くことにした。冷たい雨を全身に受けても、寒いとは感じなかった。足元を探すのに必死だった。レストランにあるかも、と言ったのはあくまで推測だから、途中で落とした可能性もある。歩いた道を辿って、四人は腰をかがめて捜索した。
 夢中になっていたから思わなかったが、後になってから申し訳ないと思った。私のせいで、ずぶ濡れになって探すのを手伝ってもらうなんて。
 道を外れた草むらの中を足先で探った。何の感触もない。
 と、次の瞬間、視界に広がる茶色い地面が灰色の空に変わった。人間の限界を超えた風景の転換に戸惑ったが、背中をしたたかに打って理解した。足元を滑らせて、転倒したのだ。
 転倒するだけでも厄介だったが、このときの場所が最悪だった。緩やかな下り坂になっていて、私は滑り台を滑るように、下へと流されてしまった。
「真央ー!」
 雨の音の合間を縫って、美咲の叫び声が届いた。私は声を捕らえるように手を伸ばしたが、何にも掴めないで下れる所まで下っていった。
 意識が少し飛んで、次に目が覚めたときには、私は木にもたれかかっていた。ここが下り坂の終着点だったらしい。腕も足も擦り剥いていて、全身びしょ濡れで、めちゃくちゃだった。汚れに汚れていた。最悪の日だ、と思ったが、すぐにどうでもよくなった。何だか、今は自分がどうなっていようとどうでもよかった。まるで、これから死んでいくかのように。
 ――死は、ときに、何よりも安らぎになる。
 坂入の言葉が浮かんだ。死んだら、私は全てから解放されるだろう。
 そう思ってから、中浜の顔が浮かんで、死を考えの枠外に弾き飛ばした。せっかく、一つになれそうなのに、死にたくない。
 恋は障害が多いほど、燃え上がる。ライターも彼からの貰い物だった。この試練も、一つになるために神様から与えられたものだ。
 坂を滑ってくる音とともに、深野が現れた。私の後を追って、同じように坂を下ってきたようだ。坂入や美咲が続いてこないようだったので、彼は独断で駆け下りてきたのだろう。土の汚れは見られない。きれいに滑り落ちてきたようだ。
 ああ、助けが来た。
 安心して、胸を撫で下ろした。
 すると、彼は傘を捨てて、私を抱き締めてきた。何がどうなっているのか、と不思議に思って、抱かれるままにされた。冷えた体が、体温で少し温まった気がした。
「冷えるから、冷えるから」
 彼はそう繰り返した。慰めるように、甘えるように、言い訳するように。
「冷えるから、冷えるから」
 そして、一つの確信が芽生えた。彼も私のことを愛してくれる一人だったのだ。私の背中に手を回す彼の腕には、愛が込められていた。
 でも、渡瀬のときと違って、少しも嬉しさを覚えなかった。ただ、傘に早く入れて欲しいと思った。
「冷えるから、冷えるから」
 彼はまだ繰り返した。私は抱き締め返さず、腕をだらんと下げていた。抱き締めるだけの彼に、何も言わず、黙って過ごした。


 四人ともひどい状態でレストランに辿り着いた。心配を顔に張り付けたウェイターさんが迎えてくれて、事情を話すと、タオルを持ってきてくれた。さらに、ライターもあると言う。
「本当ですか?」
「はい、床に落ちていたので、レジの方で預かっておりました」
 私は安堵のあまり、床にへたり込みそうになった。緊張が解けて、全身の筋肉が緩んだ。
「よかったね、真央」
 髪が濡れて、分け目が見えるようになった美咲が言った。その声には、安心がちりばめられていた。
「うん、みんな、ありがとう」
「まったく、これで見付からなかったら、骨折り損のくたびれもうけだったよ」
 坂入が笑顔で言った。私も感謝を込めて、笑顔を返した。「本当にありがとう」
「救われたわね」
 深野は一人で押し黙っていた。イスに座って、疲れ切った表情をしている。彼の沈黙の理由は分かったが、私は知らん振りをした。
「雨が止むまで、ゆっくりしていって下さい。他にお客様もおりませんし」
 と言いながら、ウェイターさんが温かいお茶を運んできてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
 ウェイターさんは笑顔でお辞儀すると、姿勢よく歩き去っていった。
「紳士だねえ」
 見えなくなってから、美咲が感嘆を漏らした。
「この調子じゃ、ここで厄介になるしかないね。お言葉に甘えて、止むのを待とう」
 坂入が言って、私と美咲が頷いた。深野は相変わらず、口を閉じたまま、窓の外を眺めていた。
「深野、お茶飲んだら? 体冷えてるでしょ?」
 美咲がすすめると、「ああ」と呟いて、一口飲んだ。だが、また外に目を向けたまま、黙ってしまった。
 深野を放って、三人で盛り上がるわけにもいかず、私たちも、たまに言葉を交わしはしたが、基本的に黙っていた。
 映画の中の世界みたいに、強風が木々を揺らし、大粒の雨が間断なく降り注いでいた。外にいるときは厄介この上なかったけど、内から見ると何だか胸がすく。
 そうかと思っていたら、稲妻が走って、一秒も経たない内に雷鳴が轟いた。私はビクッと体を泳がせて、美咲を見た。美咲も私を見ていた。
「今の近かったね?」
 私は何度も頷いた。


 雨がすぐに止んでくれず、レストランに居座り続けた結果、夕食もそこで食べることになった。おいしいことはおいしいし、親切されたことにお礼もしたかったので、値段の張ったことは気にしないで食べた。
 その頃には、深野の沈黙は終わって、四人の談笑はいつもの調子を取り戻した。笑い声の合間を取り持つように、フォークやナイフが皿に触れる音がカチャカチャと入った。グラスを傾ける度に光と重なるワインの色が美しかった。
「暗いので、足元に気を付けて」
 ウェイターさんがそう言って、見送ってくれた。
「お客様、大丈夫ですか?」
 顔を赤らめ、足取りが怪しい坂入を示して、言った。私も最初は驚いたが、今ではすっかり慣れてしまった。
「大丈夫です、いつものことですから。彼、ああ見えても、意識はしっかりしてるんで」
 意識がしっかりしている証拠に、坂入がワリカンの計算を進んでやっていた。
 雨は小降りになっていた。風も弱くなった。これなら帰れる。
 ふらふらの坂入を先頭に、私たちはホテルに戻った。


 部屋に戻ってから、テレビを点けた。天気予報を待ったが、ニュースを報じるばかりで、仕方なくそれを眺めていた。政治の汚職、年金問題、デパ地下の特集などが次々と流れる。アナウンサーは、さっきまで憂いを帯びた顔をしていたのに、話題が変わると、掌を返して満面の笑みになった。逆にずっと暗い顔をしていたら不自然だけど、私は、本当に憂いていたのか、疑問に思ってしまう。
 番組の終盤になって、気象キャスターの出番となった。待ってました、とばかりに、日本地図を駆使して雄弁に語る。それによると、台風は太平洋へとそれたため、本州から外れたそうだ。ただ、明日の天気も思わしくないらしい。
「明日も雨かあ。どこも行けないね」
 美咲がため息をつく。本当に。最終日だというのに。
「ホテルでのんびりするしかないね。プールでも入る?」
 シーサイドホテルには、屋内プールが設置されている。どうして、こんなに見晴らしのいい所なのに室内にしたのだ、と訝っていたが、確かに雨のときにはありがたい。台風じゃなくても、この島は雨の多い場所だから。
「そうね……それもいいけど、部屋でのんびり、トランプしてもいいんじゃない? 四人でトランプする機会なんて、めったにないだろうし」
「ああ、いいかも」
 この旅行が終わったら、私たち四人が揃うことはしばらくないだろう。こうして楽しい時間を過ごせた事実を確認する作業は、有意義かもしれない。
「朝の散歩は無理そうね」
「ああ――坂入、雨の日はどうするんだろうね。諦めるのかな」
 まさか、傘を差してまで日課をこなしはしないだろう。早起きはしそうだが。天気に左右される気まぐれな散歩も、彼の雰囲気にとても合っている。
「私、お風呂入ろうかな」
 美咲が立ち上がった。
 時間が経ったからすっかり意識の外に行っていたが、タオルで丁寧に拭いたとはいえ、私は泥まみれになったのだ。汚いに決まっている。
「美咲」
 浴室に行きかけた彼女を声で止めた。私が先に入る、と言うためではなく。
「オーストリアって、どんなイメージある?」
 美咲はきょとんとした後、首をかしげながら、「ウィーン、モーツァルト、ベートーベン?」と三つ並べた。
「なるほど。それよね」
「どうしたの、いきなり。唐突ね」
 私は笑った。私も真っ先に浮かんだのは、音楽の都という一面。それ以外は浮かんでこなかった。今現在、どんな国なのか全く知らない。
「何でもない、ちょっと聞いてみたくなって」
 美咲は得心がいっていない顔だったが、笑い返して浴室に消えた。
 ウィーン、モーツァルト、ベートーベン。口に出して、呟いてみる。ウィーン、モーツァルト、ベートーベン……語呂は悪くないかもしれない。
 私はおかしくて、笑った。


 オーストリアに行くことについて、もっと能天気に考えてみるべきだった。不安材料ばかり挙げていては、ますます不安が募るだけだ。ポジティブ思考で、いいことに思いを馳せてみよう。
 海外での生活は大変かもしれないけど、いい経験になるだろう。人生の財産になるだろう。日本にはない、ヨーロッパ風の美しい街並みを毎日、お目にかかれるだろう。何より、中浜がいる。
 私は恵まれている方だ。この世の中には、望んだ人と恋ができない人だっている。理想ばかり追っていたら、本質を自らの手で捨てかねない。万事上手くいくと思っていたら、それは甘い考えだ。
 生きていくには、多かれ少なかれ妥協しなければならないときがある。未練いっぱいに、小さい方を選ばなければならないときもある。でも、それを大きくできるかは自分次第だ。
 きっと全て上手くいく。
 今回の旅行で初めて知った、深野が大切にしている言葉。本当に全ての人が上手くいっていたら、そんな言葉を口にする必要はない。上手くいっていたら、努力する人は一人残らずいなくなってしまう。
 彼のその言葉には、できれば上手くいってほしいが、そうならない可能性だってあることを暗に認めている。
 だから、私はその言葉にすがらない。不安いっぱいでも、私の道は私にしか切り開けない。










     四 


 雨はいまだ止まない。昨日に比べたら、視界はだいぶ開けているけど、依然として灰色の空と向き合える。両手を腰に当てて外を眺め、かゆみを感じたから片手で背中をかいた。
 今日は、散歩はなしだな。
 僕が散歩を日課にするようになって数年経つ。初めは気分転換だったり、健康が動機だったりした。習慣となってからは、やらない日があると気持ち悪くなってしまう、と言っても過言ではない。
 しかし、雨の日は仕方ない。傘を差していくような愚を冒すほど、分別のつかない歳ではない。何より、雨の日に散歩に行ったことがないから、しょうがないと容易に割り切れる。
 今日でこの旅行も終わる。
 何度振り返っても、この四人で旅行に来たなんて奇妙なことだ。しかし、楽しかった。久しぶりに心の平安を得た心地がする。
 昨日、曇り空の下、歩いた山に目をやる。木々が鬱蒼と生え茂っている。どうしても、あの頃に見慣れてしまった、燃えるような山の赤を思い出してしまう。夕焼けがかかっていて、これから自分が何をしに行くのか忘れさせた。
 日が沈む頃、学校で立ち入りを戒められている森に、誰にも気付かれないように入っていく。そして、約束の時間を待つ。どうして始めたのか、何で続けたのか、今もってはっきりした答えを持ち合わせていない。また、よく明るみに出なかったものだ、と感心もしている。
 灰色の背景の山を、想像の中でむりやり燃やしてみる。案外、上手くいって、灰色の空は立ち昇る煙のようになる。山は、生き物のように音を立てて燃える。
 あの頃と同じ。


「おはよう、優」
 翔太が起きた。そのときには、僕は本を読んでいた。本から目を離して、「おはよう」と返す。
 翔太は昨日の夜、大人しかった。本人はいつも通りを貫けていると思っていたのだろうが、何か言いかけて、すぐ口を噤んだ。僕を捉えているようで、実は虚ろな眼差しで関係ない方を見ていた。
 その原因は、分かっている。大方、宮西に一方的な求愛をする、という昔と変わらない失敗を犯したのだろう。そんな翔太が僕は好きだが。
 昔から、彼は僕に直接話してくれなかったが、僕は知っていた。翔太が古閑に告白したこと。そして、振られたこと。
 翔太もそうだったが、高校時代の友達は僕に恋愛関係の話をしてこなかった。それは、相談相手として役不足、と思われていたからではない。僕がそういう浮いた話を嫌っている、と思われていたからだ。
 それは誤解だったが、あながち的外れでもなかった。確かに、僕は翔太たちの惚れた、腫れたに興味はなかった。それは事実だ。でも、女性に興味がなかったかどうかは、周りの認識と違っている。
 まあ、彼らが知らなくてもしょうがない。一度も言わなかったし、何より言えないこともあった。
「相変わらず、早起きだな」
 頭をぼりぼりとかきながら、ベッドから下りた。
「翔太こそ、早起きできないで、よく無遅刻で済むね」
「そりゃ、毎日のメシが懸かってるからな。死にもの狂いで起きるさ」
 そう言って、ベッドの正面のテーブルから腕時計を取って、つけた。これで三度目の朝だが、彼は毎朝、この動作を一番にする。よほど、高いのだろうな。でも、女性からの貰い物ではないだろう。
「それ、高いの?」
 腕時計を指して、尋ねてみた。前にも聞いたことがあるかもしれないが。
「これ?」翔太は腕を上げる。
「そう、それ」
「高いよ。二十八億」
「それは高いね。国家予算に組み込まれそうだ」
 二人で朝一番の笑い声を上げた。翔太は、真面目そうな顔をして、たまに変なことをさらっと言う。もう慣れっこだけど。
 翔太は口笛を吹きながら、時計を覗き込んでいる。高校時代は、いや、大学時代も時計なんて何でもいい、というスタンスだったのに、いつの間にか選り好みするようになってしまった。人は変わるものだ。
 それが歳を取るということだろう。


 僕に人並みの恋をする資格はない。
 気が付けば、いつからかそうやって自分に言い聞かせるようになっていた。僕は最低の男だから。優しさで人助けをしている振りして、本当は優しさを押し付けていた。
 ――私と死んで。
 習慣的に彼女たちの欲求不満を埋めておきながら、永遠の繋がりを打診されたとき、困惑した。何で? どうして僕なの? でも、予想できることだった。とぼけていただけだ。
 最終的に逃げた。今までの優しさの積み重ねを一気に崩すような、冷たい言葉で。そうするしかなかった。他の人でも、きっと翔太でも、同じ立場だったらその選択しか余地はないだろう。
 その代わり、同情の余地もない。誰が同じ立場でも、と弁解を並べようとした所で、現実にしたのは僕だけだ。
 学校の近くの森が「蛇が出るから」という理由で、近付かないように言われ続けていた。実際は蛇など出ない。あれは先生たちの一部から広がっていった噂が発端だ。
 真相は、初日に翔太が言っていたことに近い。あそこで若くて、性欲の溜まった若い先生が秘密の場所として活用していた。ただ、先生同士ではない。先生と生徒だった。それに、先生は複数人いたけど、生徒は僕一人だった。
 誰とでも仲良くなれる性格、とよく僕は評される。それは、友達に限らず、先生方とも深い仲に短期間でなれた。夜遅くまでテスト勉強で残るときがあって、たまたま帰りが先生方と同じ時間になったとき、勢いでやったのが始まりだった。終わってから、何てことをしてしまったんだ、と後悔したが、うやむやにそれは進行していった。
 二度とやるまい、森には行くまい、と頭では分かっているのだが、学校が終わると、自然と足がそっちへ向いた。女性の体を求めていたわけでもないのに、機械的に甘い言葉をかけ、愛撫した。
 義務的に続けている、と思っていたが、性器はいじられている内に勃起していたから、全く無感動ではなかったようだ。よく子どもができなかったものだ。できていたら、言い逃れのできないことになっていた。
 やった先生たちは、みな若かった。島に来る先生は島出身の人が多かったが、それ以外は先生になりたての人がほとんどだった。僕と秘密の関係を持っていた人たちも若かった。
 彼女らは、秘密を秘密にしておくために、噂を撒いた。初めに職員室内で広がったのは、そこで最近、殺人事件があった、というものだった。死体は首、胴体、手足とバラバラにされていて、犯人はいまだ捕まっていない。その犯人は、たまにそこでうろついているらしい。という内容だった。
 事実、殺人事件が島内で起こっていて、死体がバラバラにされているのも事実だったが、犯人はとっくに捕まっていた。ただ、この事件に対する正確な知識は、多くの人が持ち合わせていなかった。それは警察が秘匿捜査を行ったためで、ニュース、島の新聞、掲示板のどれにも報じられなかった。
 正直、噂で森に近づかせなくするのは、かえって興味を持たれて危険ではないかと思っていたが、噂のセレクトはいいと思った。
 やがて、先生たちの不安が募っていく。生徒をあそこから遠ざけようとする。しかし、殺人が行われたのが森かどうかは定かではない。だったら、別の理由で森から遠ざけよう、となった。そこで学校側から発表されたのは、「人体に危害を加える恐れのある毒蛇が森で確認されているため、生徒たちは決して近寄ってはいけない」というものだった。
 この発表はおかしな話だったが、あまりに真剣すぎる先生たちの剣幕に押されて、生徒たちは誰も近付かなくなった。加えて、僕と無関係な先生をも遠ざけた。
 場所に対するイメージは大事だ。設備にたいして差はない所どうしで、評判によって大きな差が出ることはよくある。昔からの老舗を悪く思う人は少ないし、不祥事のあった会社の製品は敬遠されてしまう。これもその一例で、事実とは言い切れなくても、殺人があったと聞いたら、イメージは最悪になる。
 おかげで、真夜中の密会の進行に拍車をかけた。


 朝食後、部屋に戻る途中で、翔太が宮西に何か話しかけていた。
 女子二人の格好はずっとおしゃれだった。四日間通して、ラフな格好を貫いていた僕らと違って。
 今日の宮西は、黒のタイトスカートで、細長い足を強調していた。
 部屋に着くと、翔太は僕らの部屋じゃなく、隣の部屋に入った。宮西も続いた。何やら、二人での話し合いを持ちかけたようだ。
 古閑は困ったような笑みを浮かべて、「外で待ってて、って言われちゃった」と言って、僕らの部屋に入ってきた。
 幸い、帰る準備を進めていたから、着替えが散乱していることもなく、入れても恥ずかしくなかった。古閑は翔太のベッドにすとん、と腰を下ろし、僕は正面に座った。
 古閑は、胸元のくつろいだ服に、サルエルパンツを合わせていた。白くて眩しい胸の膨らみが目に映る。
 ついつい、部屋で二人きりだということを意識してしまう。ベッドに押し倒して、あの胸に手を伸ばしたら、古閑は抵抗するだろうか。
 だが、僕には実行する資格はない。これ以上、罪を重ねるわけにはいかない。何度も自分に言い聞かせてきたことだ。


 ――勉強してない。テスト、本当にやばいかも。
 古閑と初めて言葉を交わしたのは、一年の終わり頃だった。同じクラスだったのに、何となく話す機会に恵まれなかった。違うクラスだった翔太の方が話していた。部活が同じだったとはいえ。
 彼女は面識の浅い人にも、屈託のない笑顔で対応する。誰にでも等しく優しくて、これは勘違いしてしまう男子も多いだろう、と感じた。
 ――坂入、応援してよ。
 もしかしたら、僕も勘違いした一人だった可能性もあるけど、彼女に恋をした。誰にも言えない秘密を抱えながらも、本当に想っているのは彼女だけだと思っていた。
 ――がんばれ、古閑。がんばれ、がんばれ。
 彼女は翔太といい感じなのかと思っていたけど、付き合っていたのは長峰だった。翔太に同情を寄せたが、だからと言って、僕と同じだとは思わなかった。
 いずれにせよ、僕は傍観者でいるしかなかった。どうせ、この状況では人並みの恋はできない。はがゆかったが、どうしようもなかった。
 ――ありがとう、やる気出てきた。坂入、面白いね。
 あの日。飲み屋で偶然、再会した日、これは神様が与えてくれた最初で最後のチャンスだと思った。古閑が長峰と別れたことは知っていたし、まだ人妻になっていないことも一目で分かった。
 もしかしたら、恋心が報われるかもしれない。
 僕は思い付きを装って、四人で旅行に行こうと言ってみた。


 翔太には感謝しなければならないようだ。彼の目的が何か知らないが、僕と古閑を二人きりにしてくれるなんて。こんな機会、ひょっとしたら二度と訪れない。
 古閑は俯いて、何か考えているようだった。隣の二人を思っているのだろう。友達として。過去の共有者として。
「あの二人、何の話してるのかな」
 やっと顔を上げて、僕を正面から見た。
「分かんないよ、全然。想像もつかない。翔太、何も言ってなかったから」
「そういえば、昨日、深野がちょっと元気ないっていうか、しょんぼりしてたよね。真央を助けた後くらい」
 翔太は分かりやすい性格だ。宮西が何もなかったかのように過ごしているのに、彼は目に見えて引きずっている。大方、真っ先に救いに行って、それを好機だと思って想いを打ち明けたのだろうが。
「確かに、不機嫌そうだったね」
「うん……」
 古閑はまた考えに沈んだ。笑顔も魅力的だが、真剣な顔も似つかわしい。
 おそらく、彼女も深野のことはよく把握しているだろうから、昨日、何があったか想像できているだろう。それに加えて、心に引っ掛かっていることがあるようだ。
「まあ、考えたってしょうがないか。でも、気になるね。真央に聞くわけにもいかないし」
 僕は笑って、頷きを返した。
 窓の外から雨の音が聞こえなくなってきた。ちらっと目をやると、確かに止んで、青空が覗き始めていた。これなら、帰る頃には気持ちよく晴れ渡って、船ではデッキの外に出られるだろう。
「それにしても、成り行きとはいえ、坂入と部屋で二人きりになるとは思わなかったな。何か、緊張する」
 それは、ひょっとしたら爆弾発言だった。大人の男女がホテルの一室に身を寄せ合ったら、思うことはあるに決まっている。思っても、わざわざ口にするかしないかは大きい。
 古閑が口にしたのは、何の意図もなくこぼれた言葉だったからか、それとも僕に対して信頼を抱いているからか、あるいは僕を誘っているのか――いずれとも判じがたい。彼女の表情を注意深く観察してみたが、何の色も示さない。少なくとも、誘っているわけではなさそうだ。
「古閑」
 美咲、と心の中で付け加える。古閑美咲。胸の内で、堕落する自分を叱咤するときに何度も思い浮かべた名前。何度も唱えた魔法の四文字。
 古閑は何? と首をかしげて、微笑んでいた。僕なんかよりずっと純粋で、透明で、尊い笑顔。僕には資格がないことは分かっている。でも、いつまでも抑えていられるほど、無感動な人間ではない。
「僕は、ずっとあなたが好きでした」
 古閑の微笑みが解けた。上げていた唇の端を下ろして、口を「え」の形で開いている。当惑している。突然の告白に、言い返す言葉に窮しているようだ。
「高校時代から、ずっと」
「私のことを……?」
 やっと声を出したが、そこから続かなかった。仕方なく、僕が引き続き話した。
「でも、告白できなかった。正直、再会するまでは諦めてた。もう、無理だろうって。――だけど、また会えた。僕はこれが最後のチャンスだろうと思ってる。だから、古閑、もしよかったら、僕とお付き合いして下さい」
 僕は古閑を真っ直ぐに見つめていた。古閑も視線をそらさなかった。古閑の瞳に、僕の顔が映っている。
「恋愛に興味なさそうな僕に言われて、驚いているかもしれないけど、本気です。本気であなたを想っています」
 僕には資格がない。でも、あなたとならやり直せる。
 ――もう応えてくれないなら、せめて、私と死んで。
 脳裏に浮かぶ、あの声を、泣き顔を必死で振り払う。
「ありがとう」
 古閑は泣いていた。頬を伝う涙を目で追うと、ゆっくりと笑顔になるのが分かった。
「嬉しい、ありがとう。坂入、こちらこそよろしく」
 そう言ってから、僕の手を取った。小さくて、握られてもちっとも痛くない柔らかい掌。優しい掌。僕は握り返した。
「ありがとう、古閑。言ってよかった」
 見つめ合ったまま顔を近づけて、軽く唇を重ねた。互いの名前を呟いて、腕を体の後ろに回した。肩に頭を乗せると、彼女の髪のいい匂いが鼻いっぱいに広がった。
 義務的じゃなくて、自分の望んだ恋。平べったい快感じゃなくて、心を満たしてやまない喜び。
 僕たちは、しばらく抱き締め合っていた。永遠にも感じる長い時間かけて。こんなに上手くいっていいのだろうか、と疑いたくなるくらい幸せを感じた。これから始まる新しい関係に、胸がときめいた。本当に時間がかかったけど、ここまでこられた。大切にしなければ。謙虚であらねば。
 僕は、心の中で固く誓った。


 翔太は、浮かない顔をして戻ってきた。聞かない方がよさそうだから、何も聞かなかった。どうやら、上手くいかなかったようだ。僕が古閑と付き合うことになった、と彼に言うのは、もう少し先になりそうだ。
 その後も、部屋でのんびりすることにした。テレビを見ながら、適当に言葉を交わした。昨日と違って、ダンマリになってしまうことはなかった。でも、吹っ切れてはいないようで、時折、顔を陰らせていた。
 昼前になって、チェックアウトした。四人で、「楽しかったね」と笑顔を交わし合った。翔太も、平素どおり振舞っていた。最後だから、いい形で終わらせようと、彼も配慮したのだろう。
 ボーイさんに促されて、待っていたタクシーに乗った。行きと違って、翔太が前に乗り、僕は古閑の隣に座った。乗り込むときに、共犯者めいた笑顔を一瞬、浮かべた。
 運転手さんは、あのおじいさんじゃなかった。若い男の人だった。島の出身だろうか。若い人がここに戻ってくるのは、いいことだ。
 風景が流れていく。海も、丘も、木々も、空も。何もかも。
「また来たいね」宮西が言った。
 古閑が相槌を打つ。「そうだね。今度は、同窓会やりたいね、ここで」
「ああ、いいかも」
「そしたら、幹事は優で決まりだな」翔太が言って、笑いが起こる。
「ええ、僕が?」
「じゃあ、会計は深野がやったら?」と、古閑。
「おれ、理系じゃないし。そこは古閑だろう」
「足し算、割り算ができれば文系でもできるわよ」
「加・減・乗・除だっけ。懐かしいなあ」宮西がのんびりしたことを口にする。
「高校で習った数学なんて、ほとんど日常で使わないね」
「まあ、あれはその道に進む人のために教えてんだろ。だから、理系と文系にも分けるし」
「でも、やってるかやってないかの違いは大きいと思う。そういう考え方があるのか、って知っただけで、物事の捉え方も柔軟になるだろうし」
「言うねえ」
「そうだね。全くの無駄じゃなかったとは言えるね」
「あれが無駄だったら、何のためにテスト勉強してたんだか、分かったもんじゃないわ」 
 また、笑った。
 同窓会もいいかもしれないけど、またこの四人で来るのも悪くない。でも、二度とないだろう。
 さようなら、星新島。


 足を踏み入れた瞬間、大きく揺れた。体勢を保とうと、近くにいた翔太の腕を掴む。
「揺れたなあ、タイミングよく。大丈夫か?」
 船に両足を入れてから、答える。
「ありがとう。僕って案外、体重、重いのかも」
「ねえよ、それは。その細さじゃ、冗談としても言えねえから」
 翔太が手を振って、否定する。
 船室に入って、四人がけのイスに腰掛けた。白い鉄製のイスで、最初は冷たかった。だが、すぐに温まってしまった。
 僕と翔太で並んで、向かいに古閑、宮西の順で座った。こうやって、四人で話す機会も最後かもしれない、と考えると、やはり寂しい。何か記憶に残るようなことを言っておきたいが、そういうときに限って、ありきたりなことしか浮かばない。
 本当に優れた人は、いいことを言えるし、しかも、それをこれ以上にない最高のタイミングで言える。凡人は、いいことを言おうとして、肩に力を入れると、言葉というボールを叩きつけてしまう。あるいは意識して脱力することを心がけると、力のないボールになってしまう。
 選ばれた人はいる。言えるか、言えないかの違い。
 どうでもいいけれど。
 飲み物と簡単な食事が運ばれてきた。お昼時のサービスだ。彩り鮮やかなサンドイッチ。ハムやタマゴ、レタス、トマトが挟まっている。
 しばらくは、言葉少なに食べた。船を利用している客は僕たちだけで、船内には波と風の音ばかりだった。
「ねえ、お見合いってしたことある?」
 あらかた食べ終わった頃、宮西がテーブルの上に腕を置き、身を乗り出すようにして、そう言った。そこで談笑モードにスイッチが入り、めいめいが語りだす。
「結婚前の、お見合い? 誰もしたことないんじゃない? 真央はあるの?」と、古閑。
「それじゃなくて、学校の席替えのお見合い。みんな、やったことない?」
「ああ、知ってる。やったこともある」と、翔太。
 僕も知っていた。聞いただけだが、何でも、男子か女子のどちらかが教室の外に出されて、残った方は好きな席を選ぶ。目が悪ければ前に、景色が見たければ窓側に。休み時間、すぐに遊びに行きたければ廊下側に。決まったら交代して、外で待っていた方も座りたい席を選ぶ。終わったら、全員が決定した席に着いて、隣の席が誰か判明する、という形式だ。時間はかかるかもしれないが、楽しめる度合いで言ったら、他の席替え方式を凌ぐ。
「あれって、面白いよね。誰が隣になるか、ワクワクしながら待って、で、分かったら大騒ぎになって」宮西。
「そうそう。好きな人と隣になりたくて、予測してる人もいたよね。たいがい、そういう人ほど望みどおりいかないけど」古閑。
「欲張らない人が報われるんだよ」僕。
「ってか、カップルは話し合って決めておけば、簡単に隣になれるよな」翔太。
「でも、他の人と重なったりしたら、計算が狂ってきちゃうじゃない。事前に決めておく方が、かえって遠ざかることもある」古閑。
「言い合いになる人もいたわね。それで絶交したりして」宮西。
「子どもって、簡単に絶交、って言うよね。仲直りもすぐだけど」古閑。
「大人になったら、友達作るのも大変だからな」
 翔太がしみじみと言う。
 この歳になると、子供のときのような友人関係は築けない。シンプルに繋がることが理想だと分かっていながら、どうしても損得勘定が絡んでしまう。ある意味、学生時代の友達が大事だと言うのは、そういう事情が言わせているのだろう。
「今絶交したら、仲直りするにはメンドクサイ過程を経ないといけないからね」僕。
「相手によったら、仲介役が必要になるし」宮西。笑っている。
「職場でハブられたら、つらすぎて、働いてらんないわ――あ、私は大丈夫だけど」古閑。手を振って、否定した。
「いや、逆にそう言われると、心配になるんだけど」翔太。
「本当にないって。私の職場は、円満よ。これ以上にないくらい。――上司はセクハラしてくるけど」
「そうなの? そんなやつ、ぶっ飛ばしてやれよ」翔太。
「どこにでもいるもんだね、そういう人は。いい上司に巡り会えるかどうかは、運とタイミング」僕。
 宮西は遠くに目をやっていたが、向き直ると、「ねえ、ハブって何?」と尋ねた。
「仲間外れにされることよ」古閑が答える。
「それは分かってるけど、語源は?」
「村八分からきてるんじゃないの?」翔太。僕もそうだと思っていた。
「じゃあ、村八分って、どうして八分なの?」
「さあ……優なら分かるんじゃね?」
 僕は頷いた。「分かるよ。ご説明しましょう」
 指を二本立てて、三人を順に見回す。
「昔、村で掟を破った者がいたら、当然、仲間外れにしたんだ。その場合、交わりをほぼ絶つけど、全てじゃなかった。火事のときと、葬式のときは例外とされた。つまり、二分」
 指を下ろして、腕組みをする。「どうしてだと思う?」
「ここで聞くのかよ」
「私、分かるかも」古閑が片手を掲げた。「家事は、燃え広がるからでしょ。消さないで放っといたら、燃え移ってくるかもしれないし」
「正解。葬式は?」
「お葬式しないと、幽霊が出るから。昔の人って、今よりそういうの信じてたじゃない?」
「まあ、それも言えるかもしれないけど――」僕は宮西に目を向けた。「宮西は? どうしてか分かる?」
「それも、放っといたらダメってことじゃない? 腐臭がする。または、伝染病とか」
「さすが宮西。その通りなんだよね。あと、精神的にも、死んだら全てを許される、っていう思想があったかららしいよ」
 死んだら、全てを許される。
 僕が許されるには、死ぬしかなかったかな。でも、死んだら、それは逃げにもなる。生き恥さらしてでも、罪を償う道だってあるはずだ。
 あのとき、一緒に死ぬことを求められて、色々な理由は浮かんだが、とにかく死にたくないと思った。拒絶して、手を下さずに殺してしまう結末が待ち受けている可能性もあった選択だったが、僕はそれでも生を選んだ。結果は、最悪のそれを避けた。
 今、どうしているだろう。会いたくないけど、気になる。
「いやー、なるほどね。勉強になりました」
 翔太がおどけて、僕たちは笑った。


「この世の中って、お見合いみたいだと思わない?」
 宮西がお見合いに話題を戻した。どうやら、言いたいことがあるらしい。
「どういうこと?」
「同じ島で出会えたか、出会えなかったか。同じ大学に進んだか、そうじゃないか。飲み屋で再会したか、しなかったか。雲のずっと上から見てる神様からしたら、お見合いの席替えが日々、行われているのよ」
「運命ってやつか。どんなに相性が抜群の二人がいても、出会わなければ不遇の生涯で終えるかもしれない」翔太。
「目が悪ければ前の席を選ぶしかないように、身体的な条件で進む道は変わる。窓際か廊下側を選ぶように、好みや対人関係でも変化をきたす」僕。
「そう考えると、面白いわね」古閑。
「だからさ、私、考えたの。誰かと繋がっていられるのは、当たり前だと思ってるだけじゃいけない。いつ、また席替えが行われるか分からない。隣になりたかったら、せめて事前に約束しておかないと、どんな形で遠く離れるか予測がつかない」
 それで、と宮西は言葉を切った。
「それで、みんなに報告があります」
 真剣な彼女の表情に、三人の視線は自然と集まる。
「私、オーストリアに行くことになりました」
 驚きが、それぞれを走る。特に翔太は、顔にありありと出ている。口をだらしなく開けて、続きを待っている。
「私には好きな人がいて、その彼がオーストリアに付いて来て欲しい、って誘ってくれたの。私、この四日間、返事を考えたんだけど、行くことに決めました」
 だから――。宮西は笑顔を作った。
「だから、お別れです。この四人で星新島に行けて、本当によかった」


 夢から覚めた後みたいに、どうしてここにいるんだろう、と自分の居場所を疑った。タクシーに乗っていた。隣には、翔太が座っていた。
 そうだ、もう旅行は終わったのだ。名残惜しさは尽きなかったが、僕たちは別れた。家が近い僕と翔太は同じタクシーで、女子二人を見送ってから、家を目指した。古閑は、明日以降、連絡するという。これから、僕たちの新しい関係が始まるのだ。
 とにかく、今日は帰って休もう。
 翔太は外をぼんやりと眺めていた。
 僕も反対側の景色を見つめた。見慣れていた高層ビル群。住宅地。自然豊かな島を見てきたからか、何だか寂しい気がした。人工物が文明の発達を主張しているようだが、今の僕には空虚感しか抱かせない。まあ、その内、特別な感情も抱かなくなるだろうが。
 宮西がオーストリアへ一緒に行くというパートナーは、中浜瑛太のことだった。久しぶりに聞いた名前だなあ、と懐かしさを覚えた。そうか、二人が一つになれたのか。何だか、自分のことみたいに嬉しい。
 鼻をすする音が聞こえる。ちらっと横を見ると――翔太の頬に涙の筋が浮かんでいた。泣いている。どうして、と思って、宮西のことだと分かった。
 翔太は情熱的な人間だ。僕の知っている限りでは、最上級に。恋愛を上手く割り切れない。プライドも高くて、理想も大きくて、それでいて純粋で。
 翔太、と心の中で語りかける。愛は見返りを求めてはいけない。愛は憎しみに変換されやすいと言うけど、応えてくれなかったからって、その人を恨んではいけない。
 僕が言えた口じゃないが。
 きっと、翔太の理想に叶った恋愛が訪れる日が来る。世の中はお見合いの連続だから。考えすぎて、予測しすぎて、隣に恵まれなかったかもしれないけど、待っていれば、いつの日か、陽の目を見る日が来る。
 彼は今、胸の中で唱えているのだろうか。彼の胸にいつもある言葉を。
 きっと全て上手くいく、と。


 誰にだって、忘れたいことがある。一方で、忘れたくないこともある。僕は、その二つは同じ引き出しの中に保存されているのではないかと思う。忘れたいことも、忘れたくないことも。印象が強くて、無意識のうちに記憶から抹消できない。忘れたいことは、本当は忘れたくない。忘れたくないことは、本当は忘れたい。
 だから、相性はいいのだろう。片寄せ合って並んで、ご主人様の思い出すのを律儀に、残酷に待っている。
 高校時代の思い出は、忘れたくないと思っている。今日までの旅行も然り。
 森であったことは忘れたいことだと思っている。
 何だかんだ言って、どちらも大きくなったり、小さくなったりしながら、残っている。
 本当だろうか?
 僕は何か大事な記憶が抜けている気がしてならない。あの頃のこと。忘れたくなくて、忘れたい頃のこと。
 あの先生は、僕に死を求めた彼女は、本当に死ななかったのだっけ。知らず知らずのうちに、僕の都合のいいように記憶の改ざんが行われてはいないだろうか。忘れていないと思っているだけで、何も覚えていないのではないか。
 きっと全て上手くいく。
 そうだ、その通りだ。上手くいく。もう、やめよう。これから、やっと耐え忍んだ末に与えられた幸せを抱けるというのに。生まれ変わった、新しい坂入優の日々が始まるというのに。

 翔太の、あのいつも口にする言葉は、それまでの積み重ねを確認して、それを自信に変換するための言葉ではない。そうだとしたら、彼は全てを掌中に収めていたはずだ。今の彼には、何も残っていない。
 内心、彼は恐れていたのだ。誰よりも自分が、上手くいかない未来を知っているから。積み重ねをいとも簡単に突き崩すような、決して明るくない未来が待ち構えていることを知っているから。
 だから、彼があの言葉を呟くのは、願掛けみたいなものだ。彼は、見えない誰かに自分の行く末を委ねている。
 お願い、お願いします。この通りですから、と。
 寂しいな。真実は、いつだって無情だ。知らないときは、知りたいと思うのが人間の心理だ。でも、知ってから、ああ、知らない方がよかった、ということはたくさんある。
 生きることは、考えものだ。死んで解放されることがあるから。いつか言ったけど、ときに、死は何よりも安らぎになる。
 眩しい。光が僕に向かって降り注いでいる。あれに向かって歩いていけばいいのかな。
 まあ、いいや。辿り着いてから考えよう。まだ、そこまで行けるかどうかも分からないのだから。


 後日談を少し。
 僕と古閑は仕事の合間を縫ってデートをした。小説が原作の、話題になっていた映画を観に行った。穏やかな男女の日常を切り取ったもので、俳優たちの言葉よりも雄弁な表情が見事だった。愛を育みはじめたばかりの僕たちにとって、相応しい内容だったのではないだろうか。
 それから、ディナーを共にした。特に予約していたわけではなく、たまたま見つけて入ったところだ。導かれるようにそこへと吸い込まれ、静かな空間でとりとめのない話をした。これまでのこと。これからのこと。
 上手くいくだろうと感じた。お互いに抱えている過去は存在するにしても、僕たちはそれがあるからこそ、強く想い合えるように思う。そう、信じている。
 ――私、あなたと再会できて本当によかった。
 瞳を潤ませて言う。その目を優しく捉えたまま、そっと頬に手を伸ばす。透き通るような白い肌を、陶器を扱うように慎重に撫でてやる。何よりも愛しい、この瞬間。
 いずれ、結婚するだろう。そうしたら、子どももできるだろう。きっと、こんな僕でも、幸せな家庭を築くことができる。彼女となら。


 驚くべきことに同窓会が実現した。星新島で集まった。呼びかけたのは、つまり、幹事を務めたのは僕だった。これまた、驚くべきことに。まあ、古閑――この頃には、とっくに美咲と呼ぶようになっていた――の協力を煽いだのだけれど。旅行の計画を立てたときのように、その辣腕がおおざっぱな僕を助けた。
 会計は翔太――ではなかった。そもそも、同窓会に参加しなかった。宮西に気後れしたわけではない。仕事が忙しくて、どうしても休みが取れなかったのだ。
 あの日、タクシーの中で涙を流した翔太は、あっさりと立ち直った。同僚の女性といい感じになって、付き合い始めた。しかも子どもができたそうで、来月には籍を入れるという。翔太は度々、僕を誰ともでも仲良くなれると評したが、彼自身は同世代の女性の懐に入るのが上手い気がする。子どもじみた自意識は、母性本能をくぐるのだろうか。
 何にせよ、幸せを掴んだのなら喜ばしいことだ。僕の大切な親友なのだし。
 それで、同窓会は大成功だった。予想以上に多くの同窓生が集まり、空白の時間を埋めるように盛り上がった。僕は何度も、集まってくれた面々に感謝を述べた。その度にお酒を飲まされたのには閉口したが。


 宴もたけなわ、僕は美咲と宮西を連れ立って、こっそり会場を抜け出した。近くの海へ向かうためだ。あの、四人で朝の散歩をした浜辺。
「宮西、オーストリアからわざわざ来てくれてありがとう」
 僕が笑顔を向けると、宮西もまた笑った。
「ううん。本当に同窓会を開催してくれるとは思わなかった。ごくろうさま」
「いやー、美咲がいたから、なんとかなったよ」
「美咲、か」宮西は悪戯っぽい笑みを浮かべた。「あなたたちが付き合うなんてね。でも、とってもお似合いじゃない」
 僕たちは照れたように顔を赤らめた。その様子を見て、再び宮西は楽しげになる。
「深野、来られなくて残念だったね」と、美咲。
「会計を任せる気だったのに」僕。
「深野のために、また四人で旅行しに来ようよ。ここに」宮西。
「でも、真央――いいの?」美咲。表情が不安げだ。
「うーん、やっぱりもうちょっと時間を置きたいかな」
 そう言いながらも、なんてね、と冗談めかす笑いを漏らす。「それでも、四人で来たいじゃない!」
「そうね」
「そうだね」
 なんとなく、海の果てに視線をやった。僕たちはまたこの景色を目の当たりにする。そのときには、ちゃんと翔太もいる。
 偶然の再会がきっかけの、あの四日間を忘れない。強く焼き付いている。
 大丈夫、再び問題なく集合できる。きっと全て上手くいくから。

きっと全て上手くいく

きっと全て上手くいく

社会人になってから再会した四人の男女は、彼らがその青春時代を送った小さな島にまた行こうと計画を立てる。お調子者の深野翔太、高校のときから付き合っていたカレと別れてしまった古閑美咲、密かな片想いを抱えていた宮西真央、マイペースな坂入優――それぞれが異なる思いを込めながら、かつての合言葉を胸の内で呟く。「きっと全て上手くいく」

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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