恋と愛
めがねをこわした。
あしたになったら、あの子が帰ってくるときいた。
かわりに、この子がいなくなるらしい、とも。
(だれかが帰ってくると、だれかがいなくなるね)
(だれかが生まれると、だれかが死ぬし)
(だれかが幸せになると、だれかが不幸になるよ)
めがねをこわしたけれど、さほど、こまることはないと思った。
もともと、めがねをずっとかけていないと生活できないほど、目が悪いわけではなかった。
うしろの席からでも、黒板の文字はあんがいと読めた。
あの子の顔も、この子も顔も、あっちの子の顔も、そっちの子の顔も、判別できた。となりの家のおばさんと、コンビニのレジをやっているおばさんの区別もついたし、しらないおじさんと、しっているおじさんのちがいも見分けられた。
あしたになったら帰ってくるあの子は、わたしの恋人で、愛人だ。
かわりにいなくなるこの子も、わたしの恋人で、愛人である。
恋人と愛人のちがいは、めがねがあっても、なくても、よくわからないものだわ。
わたしにとってはあの子も、この子も、たいせつな恋人で、愛人なのだけれど、でも、あの子も、この子も、恋人であることを望んだ。
「愛人って、いやらしい響き」
といったのは、あの子だったかしら、この子だったかしら。
わたしは裸眼で夢をみながら、紅茶をのんだ。
レモンの輪切りをうかべた、レモンティーをのんだ。
あの子と、この子と、三人で、ベッドでねむる夢をみた。
恋と、愛をしながら、あの子と、この子と、白いシーツの波におぼれた。
(だれかが笑うと、だれかが泣くでしょ)
(だれかがねむると、だれかが起きるし)
(だれかの恋が実ると、だれかの恋がおわるのよ)
こわしためがねを、かけてみた。
めがねは自分でうっかり、ふんづけたのだった。
レンズはこなごなになったので、存在しなかった。
フレームも、すこしゆがんでいた。
かけ心地はわるかったが、はじめてつくっためがねなので、なんだか捨てるのが惜しかった。
あした、あの子が帰ってきて、かわりにこの子がいなくなったとしても、わたしは、あの子のことを恋人として、愛人としてたいせつにするし、この子のことも恋人として、愛人として、帰ってくるのを死んでも待つ覚悟である。
恋と愛