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一
卵が出てくる話だった。お母さんに頼まれたおつかいとして,男の子が買ってくるのだ。そして男の子はそれを全部割ってしまう。転んだか,ぶつけたか,何かで。
それを知ったお母さんの対応が素敵なもので,割ったからこそ作れるオムライスを男の子の前に出してくれる。それを見た男の子は泣いてしまう。男の子はその理由が分からない。悲しくて泣いているのか,嬉しくて泣いているのか。割ってしまったことを後悔しているはずで,割ってしまったことを怒られる覚悟もしていたはずだ。なのに,怒られることは無かった男の子は,予想と現実の間にできた隙間の中で,色んな気持ちを学ぶことになった。温かい優しさのようなもの,安堵に負けそうな悔しさ。発想の大きな違いは、アットホームな感覚を伴って,男の子の話の最後をオープンなままで終えていた。短い話だった。覚えるのに苦労しない。印象も残りやすい。
この話が書かれた本が今は手元にない,ということにさっき気付いたのは,それを書かれた方の別の本を本棚から引っ張り出して,改めて読んでみたところ,この本のどこにも載っていないことを確かめたからである。好きな話が載っている本だからこそ,手放している訳がない,なら,この話はこの本の中にある,と安易に思い込んでいたのだ。喪失感が大きかった。別の本がダメだ,ということではなく,手放した方の本が今は絶版になってしまった上,中古でも手に入れにくいものになっていたからだった。ネット検索をかけても,在庫自体が見当たらない。そう簡単に見つからない。あの本は,あのお話は,再び読むことが叶いそうにない。手放した当時の自分を責めたくなる,というのは正直なところではあるけれど,しかしながら整理整頓の必要性があったことも事実で,当時の判断として,手放す本の一冊として選んだのにも理由はあった。理屈っぽくなりたくて,論じているものばかりを残していこうと決めた。だから理屈っぽくないものは,床に平積みされていった。その一冊はすぐに選ばれた。理屈じゃなかったからだ。その本を好きになった理由が。ダメになる,とどこかで思っていたのかもしれない。何がダメになるのか,ということを考えることもなく,ただ決めた。実にいい加減な話だと思う。
言うまでもないと承知していても書かずにいられないのは,記憶を信じ切るのは危うい。頭の中でごちゃ混ぜになって,ないはずのことがあったり,あったはずのことがなくなっていたりすることは,記憶の中では普通にある。このことにまつわる失敗談も尽きない。話題だから,と深夜営業のレストランに車で向かい,迷いに迷って遭難しかけて,通りかかった車に助けられたところ,その運転手が当該レストランのオーナーとコック長の夫婦であったことから,何かの縁と特別に次の日の予約が取れたところまでは良かったが,肝心の場所を聞くことを忘れてしまって,再度調べても分からず,深夜のディナーは頂くことは終ぞ無かった,というのは作り話だとしても,似たような経験をされた人は少なくないと想像する。記憶どおりに登った先の,坂道のどこにもお目当てのお店はなく,てっぺんに行くまでに何度も往復して,下った先,道行く人に尋ねてみたら,件のお店はてっぺんに上がったさらに上の,坂道の途中にあることが判明した。記録更新の夏日のことである,と付け加えれば,その結末だって容易に知れると個人的に思うのである。
卵の話だって,その例外じゃない。卵が割れた時には,男の子はもう泣いていたかもしれない。その原因だってきちんと書かれていたかもしれない。何個かの卵は助かったのかもしれない。お母さんが作ってくれたのはオムライスじゃなくて,オムレツだったかもしれない。男の子はそれを完食したのかもしれない。お片付けを手伝ったところまで描かれていたかもしれない。そして会話も。記憶の中では,誰も話してはいないから。
手元にある別の一冊にも,男の子のことを思い出す,女の子の話があった。思い出が綴られていて,せつない気持ちが表れている。その一つひとつが明晰なのは,主観的な思いにブレがないからで,しっかりと集められた砂鉄のイメージに近くて,粘土遊びのようには思えないから,なのだろうと思う。それらが書かれたもの,という事実を勘定しても,今は手元にない一冊を書いた人と同じ人が書いたものという事実を加味しても,憧れの念を抱いてしまう。同じようなものが収められたその一冊は,本棚には収めにくい,変わった形をしている。整理整頓という観点からは,最初に候補に上がりそうなそれを今も持っているし,これからも持っておくつもりなのは,ウソにならない記憶のおかげである。代わりになることはない,個人的な思い入れのおかげである。
記憶で繋げられる本なのである。だから詳細を知りたい。その印象をより明らかにしたい。何度でも読みたい。男の子が卵を買ってくるのだ。女の子が思い出を綴るのだ。どちらも好きな話で,忘れていない。
帰宅途中にある古本屋に寄っている。色のある背表紙を探している。タイトルも特徴的だ。単語が並ぶ。
ひらがなが結ぶ。フライパンと,バターの音が聞こえてくる。だからきっと,あと一つ。
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