夢よりも切なく


     一

 久しぶりに故郷に帰ろうと思ったのは、兄の夢を見たからだった。
 最近は、夢の内容は気にしていなかった。もう、そこに大きな意味はないのだから。最初は寂しく思う気持ちもあったが、今はどうってことない。
 おれの故郷は、福島県の山奥にある小さな村。田尾西村という。自然が豊かで、自然と共存していくことが当たり前の世界。都会みたいな便利さはないが、住みづらいことはない。そこにいる者にとって、それが当たり前になるのだ。
 村に住んでいる人たちはみんな親戚みたいな感じで、知らない人はいない。困ったことがあったら協力するし、嬉しいことがあったら分かち合う。
 おれの名前は、宮部昇。なんてことのない、平凡な大学一年生。ずっと村で過ごしていたが、東京の大学に出るにあたって、村を離れた。
 東京に出てから驚いたことはたくさんあるけど、特に言うなら、よそよそしさだ。他者との関わりをできるだけ避けるのが普通で、閉じこもれる環境を確保する。そのくせ、団体行動をしていないと不安になるようで、グループを作ることにあくせくしている。矛盾しているようだが、彼らにとってそれが当たり前なのだ。
 一年生の夏休みに帰郷するつもりはなかった。交通代も安くないし、上手くいっていないと勘繰られるのも面倒だから、最初の休みで帰るのは憚られた。
 でも、さっきも言ったように、兄の夢を見て帰ることに決めた。
 兄の夢、というが、こんな夢だった。
 
 おれは少し熱にうなされていて、その日はなかなか眠りに就けなかった。大げさに息を切らして、天井を睨みつけていた。まるで、そうしていれば熱が引いてくれるかのように。
 意識が曖昧になったかと思ったら、いつの間にか眠っていた。眠ってしまえば、もうこっちのものだった。苦しむこともなく、無感覚の世界に浸る。
 真っ暗で、何もない空間が目の前に現れた。微かな明かりが、スポットライトの役割を果たすように、おれの正面を照らしていた。決して、おれではなくて、おれのすぐ正面だった。
 そこに、音もなく一人の青年が姿を見せる。――兄の航(わたる)だった。
 懐かしくて、航、変わりないなぁ、と話しかけたくなった。でも、よくある夢のもどかしさで、思うように自分自身すら動かせない。ただ突っ立って、正面の航を見つめる。
 航が、おれを手招きした。執拗に、何度も。
 それでも、おれは動かない。ただ、航を見据えている。舞台を眺めている観客のように。演技者の邪魔をしてはいけない、と自制を働かせているように。
 すると、手招きの動きをやめて、航が背中を向けて去ろうとした。
 そこでようやく、おれが手だけ動かした。航めがけて、手を伸ばす。待ってくれ、と言うように。だが、その手がすくんだ。
 航は、こっちを振り向きなおしていた。その姿を見て、抑え切れないほどの恐怖心が内側から湧き上がってきた。文字通り、凍り付いてしまった。――航の顔が、恐ろしい鬼の顔に変わっていた。
 おれはそこで跳ね起きた。冷や汗でびっしょりだった。いい汗をかいたおかげか、よく寝たからか、熱の気だるさは和らいでいた。
 そして、おれは帰郷しなければならない、という使命感を覚えた。

 新幹線の自由席を取った。座れなくてもいいと覚悟していたが、お盆の時期を外したおかげで座れた。それでも、自由席はほぼ満席になった。
 新幹線だと、福島もあっという間だった。大宮、宇都宮、郡山と順に過ぎていき、数時間で福島駅に着いた。ホームで、孫を迎えに来たおじいちゃんを見た。おじいちゃんのなまりが、耳に優しく滑り込む。
 東京は嫌になるような暑さが続いていたが、福島はそんなに嫌じゃなかった。もちろん暑いし、気温も東京と大差ない。なのに、イライラを感じるような暑さじゃない。だから、福島の夏は好きだ。
 駅の近くにあるタクシースタンドで車を待つ。タクシーを待っているわけじゃない。実家から、迎えの車が来るのを待つ。吹き出る汗が顎を伝って、地面に落ちる。染みみたいに、点々ができる。ここらが、おれの汗でいっぱいになる前に来て欲しいものだ。
 しばらくして、見覚えのある軽トラックが近付いてくる。自然はあれど、都会といっても差し支えのない駅周辺で、そのトラックは浮いていた。でも、分かりやすくていい。
 おれの前で停車し、窓から顔を出す。
「おかえり、昇」
 父さんだ。半年振りだから当然だろうけど、全く変わっていない。まあ、いきなり老けられても困るけど。
 父さんの隣に乗り込んで、「ただいま」と返す。
「みんな元気?」
 父さんは前を向いたまま頷く。「ああ、航も元気だ」
 航も、か。もう力はないのだから、あくまで予想に過ぎないのに、何か兄に起こっているのではないかと不安だった。ひとまず、安心する。
「東京はどうだ?」
「人が多いよ。あと、暑い」
「ここよりも?」
「ああ。蒸し暑い」
 父さんと話しながら、外の景色を眺める。だんだんと、山が見えてくる。
「友達はできたか?」
「そりゃね」
「彼女は?」
 おれは苦笑した。「いない、いない。こんな田舎もん、相手にもされないよ」
「そうなのか? 昇は、父さんに似てイケメンなのにな」
「なに言ってんの。冗談でしょ」おれは容赦なく笑う。
「冗談だ」柔らかな笑みで応える。温和な性格の父さんは、めったに怒らない。それだけに、怒るときは必ずおれの方に非があるときだ。それが分かっているから、おれは父さんに叱られたら、素直に聞き入れる。
 航もそうだろう。
 車が快調に走る。あっという間に、住宅以外の建物がなくなっている。周りは、田んぼや畑ばかりだ。
 途中で、舗装されていない道に入っていく。田尾西村の入り口だ。この奥は別世界が広がっている。
 田尾西村は、山に囲まれている。その中で一番大きな山は、直木山という。一番大きいといっても、標高としては、たいしたことはない。ただ、木々が生い茂っていて、神秘的なオーラをまとっている。
 神秘的に思える理由として、その頂上付近に神社があることが挙げられる。三島神社、という。その神社の神主が、他でもない、今、おれの隣で運転している父さんだ。
 車は、直木山の麓で止まる。登っていくには、歩くしかない。
「そうだ」思い出したように、父さんが呟く。
「何?」
「言い忘れてた。――ウチにお面あっただろ」
 この場合の「ウチ」は、神社のことをいう。家は別にあるけど、神社も家みたいなものだから。
「お面って――鬼の?」
 言ってから、夢の光景を思い出す。――恐ろしい鬼の顔。
「ああ。ウチに代々伝わっている、あの鬼の面。……実はあれが、盗まれたんだ」
「えっ」
 鬼のお面が、盗まれた。小さくなっていた不安が、また胸を埋め尽くす。
「盗まれたって、いつ?」
「つい三日前だ」
「でも、この村に盗むような人がいるかな」
「いないだろうな。父さんもそう思った。――でも、盗まれた日の前後に、この村を訪れた人はいないんだ」
「じゃあ、村にいる誰かが盗んだってこと?」
 そんなの、考えられない。そもそも、盗んでいいことあるか? 
「分からない。――現時点では何とも言えないから、外部に漏らしていない」
「なるほど」
 とういうことは、知っているのは父さんと航だけ、ってわけだ。
 これは検討もつかないな。盗む目的も分からない。高く売れるのか? 誰かの気まぐれか? どうしてこのタイミングだった?
 神社まで続く山道を歩きながら、とめどなく考えていた。

 兄の航は、おれによく似ている。双子に間違えられることもある。でも、性格は異なる。おれが物事に熱くなれないのに対し、航は手を抜けない性分だ。言い換えれば、感情的になりやすいとも言える。
 航はすでに、父さんの跡を継いで、神社の神主にいずれなることを決めている。おれも継いでよかったのだが、長男が継ぐのが習わしだ。
 代々、宮部家にはある能力が伝わる。
 予知夢、とでも言うのだろうか。未来を予測できる。どんなことが起こるのか、夢に現れるのだ。この的中率は百パーセントで、だから村人はこの予測を心から信じる。
 その代わり、子供の頃しか使えない。十台半ばに差し掛かると、特別な意味を持つ夢を見なくなる。おれも航もそうだったし、父さんもそうだったという。
 科学的に、どうして予知できるのか、どうして成長するとできなくなるのか、証明できない。でも、そうなのだから、科学も何も関係ない。この村は、当たり前に受け入れている。
「おかえり、昇」
 航が庭に立っていた。車の音を聞きつけて、出てきたらしい。
「ただいま、航」
 おれたちは兄弟だけど、おれは航を昔から「お兄ちゃん」などと呼んだことはない。航が呼び捨てで呼ばせたのだ。どうしてか知らないが、おれもその方が楽だから、そう呼んでいる。
「元気そうだな」
「そっちもな」
 おれは荷物を玄関に置いたまま、奥の部屋に向かった。
「母さんに挨拶してくる」
 航は何も言わずに頷いた。
 襖を開けると、小さな部屋がある。おじいちゃんとおばあちゃんが生きていた頃は、二人がこの部屋で寝起きしていた。死んでからは、仏壇が置かれているだけになった。
 おじいちゃんとおばあちゃんの写真と並んで、母さんの写真もある。――母さんは、すでにこの世の人ではない。
 おれと航の記憶がまだ曖昧な頃、母さんは静かに息を引き取った。そのときも、夢で予測したらしい。二人で泣き叫んで、「お母さんが」と繰り返していた。
 母さんが死んでから、父さんは村の人たちと協力しながら、おれたちを育てた。そして、今に至る。
 仏壇の前で正座して、掌を合わせる。目を瞑って、心の中で話しかける。
 母さん、ただいま。帰ってきたよ。そっちはどう? おじいちゃん、おばあちゃんと仲良くやってる? 東京は、人が多すぎる所だよ。母さん、行ったことないよね。友達もできたよ。彼女はまだだけど。できたら、ちゃんと報告しに来るよ。
 目を開けて、立ち上がる。
 玄関に戻って、置きっ放しにした荷物を拾う。木造の階段を上がって、おれが使っていた部屋まで持っていく。
 部屋の中は、出かける前と変わっていない。少し、ほこりっぽくなっただけ。窓を開けて、外の景色を眺める。山の上にある家だから、村のあちこちが見渡せる。

 どうして三島神社に代々、鬼のお面が伝わっているのか。これは、この村で育った人なら誰でも知っている。小さい頃から、寓話の一つとして話される。
 田尾西村は、遥か昔、鬼によって治められていた。タオニシ村――昔は違う字を当てていたらしいが、名前にオニが含まれているのは、これに由来する。鬼に貢物をすることで、村を守ってもらっていた。鬼は恐怖の対象だったが、上手く付き合っていく方法を選択した。
 しかし、そんな関係を保っていたさなか、鬼の要求が変わる。貢物だけで満足しなくなり、若い娘が欲しいと言い出した。これには、村人たちの意見は真っ二つに分かれた。差し出すのもやむを得ない、という意見と、そこまで従う必要はない、という意見だ。
 意見が一つにまとまらない中、一人の男が名乗りを上げる。
 ――おれが鬼を封じ込めよう。
 それが、宮部家の先祖。彼には昔から人知を超えた能力があって、鬼を封じ込めることができると豪語した。
 村人は、できるのならやってみろ、と彼に託した。わらにもすがりたい心境だったのだろう。期待は薄かったが、できることは何でもやってみよう、という手始めだった。
 すると、その男は本当に鬼を封じ込めることができた。半日かけて封印の言葉を唱え、鬼をお面にとじ込めた。――そのお面が、三島神社に受け継がれるようになり、宮部家は代々、それを保管する神主としての役割を務めてきた。
 それが、だ。盗まれてしまった。それはただの窃盗ではない。村の根幹を揺るがすような大変なことなのだ。安易に外部に漏らすことはできない。父さんの選択は正しかった。
 いったい、誰が盗んだのだろう。

     二

 村に帰ってきたからには、挨拶をしていかなければならない。村人たちみんなが家族みたいなものだから、面倒だとは思わない。
 まずは、直木山のすぐ近くにある家を訪ねる。宮部家と最も親交が深い家だ。正月やお盆にはどちらかの家に集まり、団欒する。
 川上家、という。
 宮部家と川上家が親しい間柄なのは、二つの理由がある。一つが、両家には子どもがいて、その歳が近いことだ。川上家には、好(このみ)、という娘がいて、おれと同い年。航も含めたこの三人以外の子どもはみんな幼く、歳が近かったおれたちは必然的に仲良くなった。
 もう一つの理由が、両家とも片親だということだ。さっきも言ったけど、我が家は母さんを早くに亡くしている。一方の川上家も、父親が同じぐらいのタイミングで亡くなっている。
 その後、宮部家と川上家が親しくなっていく様子を見ていた村人の一部は、それとなく、それぞれに再婚を勧めていた。この二人だったら、誰も文句は言わないよ、と。
 だが、二人とも断った。互いに、亡き妻、あるいは亡き夫に悪いから、とは言わなかった。それもあっただろうが、それだけじゃなかった。
 おれは、この理由を知っている。真面目な理由だと思っていたおれは正直、これを知ったとき落胆した。でも、同時に安心した。確かに、気になっていたことだ。
 再婚しなかった理由は、結婚できなくなるからだった。誰かというと、おれたちと好だ。ようするに、再婚したら、一つの家の子どもになって、おれたちは兄弟になる。そうしたら、結婚できなくなってしまうだろう、とお互いに考えて、再婚しなかったのだ。
 父さんたちからは、どっちかは分からないが、おれと航のどちらかが好と将来、結婚するのだろうと見えていたらしい。確かに、この村で一生を終えるとしたら、年齢的に近い好と結婚するのは現実的な話だろう。――現に、航は神主を継ぐから、村にずっといることになる。
 でも、おれと航のどちらかが好を嫁にもらったとしたら、どちらかは居心地の悪いことになる。おれだったら東京とかに逃げる、という手があるけど、航は逃げられない。まあ、まだ下に村の子どもはいるわけだから、その子らが大人になるのを待つ、という手もある。
 おれはたまに思う。川上家も、おれたちみたいに姉妹だったらちょうどいいのに、と。あるいは――いや、これは考えても、どうしようもないことだ。
 そんなわけで、川上家の前に立った。
 呼び鈴を鳴らそうとして手を伸ばすと、後ろから声がした。
「おかえり」
 振り向かなくても、誰か分かる。好だ。
「ただいま」
 振り返って、確認する。白いワンピースに身を包んだ好が、石の上に立っていた。ほっ、という掛け声で軽やかに地面に着地した。ふわりと、黒髪が揺れる。
 好は、村で一番の美少女だ。大したことなさそうな響きだが、東京でも充分、通用する美しさだ。おれは東京に出てから、好より絶対にかわいい、と断言できる人を見つけられなかった。
 それは認めるが、性格はイマイチ掴みどころがない。いつでもマイペースで、のらりくらりと寄る手をかわしてしまう。冗談のつもりで、おれと航どっちが好き? と聞いてみたことがある。そのとき好は、どっちも好き、と即答した。――敵わないな、と思った。
「そんなにオシャレになってないね」
 おれの傍によってきて、最初にそう言う。舐めるように、おれの全身を眺める。
「周りに影響されにくい性格なんで」
「そんなんで大丈夫? 浮いてない? 友達いるの?」
 失礼なことを、遠慮なしに聞く。
「浮いてない。友達も、いる。――好こそ、大学行かなくてよかったのかよ。村を出ないって決めたわけじゃないんだろ」
「――大学、楽しい?」
 声のトーンを落として、逆に尋ねられた。後悔しているのかと思ったが、彼女に限ってそれはないだろうと思いなおす。
「楽しいけど」
「そう。ならよかった」好は天使のような笑顔を浮かべる。笑うと、頬にえくぼができる。「まあ、大学は大人になっても行けるから、考えとくよ」
 結局、村に残るのかどうかもはっきりしなかった。上手くはぐらかされた気がする。
「入れば? お母さんいるよ」
 背中の方を指で示されて、改めて呼び鈴を鳴らす。
 すぐに好のお母さんが出てくる。
「あら、昇君、帰ってきてたのね。好には会った?」
「はい、ついさっき――」というか、真後ろにいるだろ、と思いながら振り返ると、いつの間にか姿を消していた。あれ? 消えた……。何だ、あいつ。
「いつまでいるの?」
「そう、ですね」気を取り直して、好のお母さんを見る。「一週間ぐらいかな」
「へえ、すぐ帰っちゃうのね。一度くらい、ご飯食べにおいでよ」
「はい、ありがとうございます。というか、家族でお邪魔すると思います」
「そうね。好も喜ぶわ」好のお母さんは、後ろを軽く見る。「このみーっ、昇君が帰ってきたわよ」と呼ばわると、白々しい顔をして、好が奥の部屋から姿を現した。
「おかえりなさい、昇。こっちおいで」と、手招きする。おかえりは、さっき言ったじゃないか。
 おれは苦笑した。本当に、何なのだ、あいつは。
「お邪魔します」一応、お母さんに告げる。
「どうぞ」
 靴を脱いで、好の方へ向かった。奥の部屋だと、彼女自身の部屋だ。何度も行ったことがある。半年も行かなかったことはなかった。
 好はイスに腰掛けた。おれは了解を得ないで、ベッドに座った。壁を背にして、軽くもたれかかる。
「びっくりした?」
 急にいなくなったことを言いたいのだろう。ご機嫌に笑っていやがる。呑気な女だ。
「あんまり」
「そっか、残念」全く残念じゃなさそうに微笑んでいる。「航は一緒じゃないんだ」
 昔から、おれたち三人は昇、航、好、と呼び合ってきた。航がおれに「お兄ちゃん」と呼ぶことを許さなかった理由は、これが関係あるのではないかと思っている。
「一緒の方がよかった?」
「別に。昇がいない間、何度も会ってるし」
 そりゃそうか。こんな小さな村じゃ、会わないで過ごす方が難しい。
「好、何してんの? 学校、行ってないだろ」
「遊んでる」好はまた笑った。「土遊び」
「農作業、手伝ってんのか」
 好のお母さんは――というより、田尾西村のほとんどの人が、農家を営んでおり、自給自足が成り立っている。たぶん、村が孤立しても、ほとんど問題なくやっていける。
「気が向いたときだけだけどね。あとは、散歩とかしてる」
 ふうん、とおれは感心したように相槌を打つ。東京の女たちは、いつでも忙しそうにしているのに、この差は面白い。
 おれが航を連れて来なかったのには、ちゃんと理由がある。好に会ったら、二人だけで話しておきたいことがあった。
「なあ、好。話があるんだ」
「なに、改まって。告白?」
「そんなわけないだろ」好の冗談を一蹴する。「夢を見たんだ」
「夢?」
 好が怪訝な顔をする。おれに能力があったのをもちろん知っているが、それが今はもうないことも知っている。
「……航が、鬼の顔をして出てきたんだ」
 好は、真剣な表情になった。真面目に聞いてくれているらしい。その表情が、不思議とかわいく見えて、つい見つめる。
「――鬼って、あのお面の顔?」
 好は話が早くて、いい。
「そうだ。まさに、あれだった。――それと、そのお面が最近、何者かに盗まれたらしい」後半は声を潜める。
「えっ」好は素直に驚く。「そうなの?」
 航から聞いているかもしれない、と思っていたが、そんなことはなかったようだ。外部に漏らさない、という方針を忠実に守っているらしい。
「ああ。――で、おれがこのタイミングで夢を見たのは偶然じゃない気がするんだ」
「航が盗んだってこと?」
「いや、そうとまでは言わないけど……でも、何か関係があるように思えてならないんだ」
「関係ないよ」好は、あっさりと否定した。「航があのお面を盗んで、いいことある? というか、航も持ち主みたいなもんじゃん」
「そんくらい、分かってるよ」
「だいいち、昇の能力はもうないんだよ。夢に特別な意味なんかないって。私が見る夢と、持つ意味は同じ」
「それも分かってるって」
 思わず、声を張り上げると、好は口を噤んだ。しまった、と後悔する。そんなつもりじゃなかったのに。
 何か起こる気がして、心配は尽きない。でも、何が起こるか予測もつかない。もどかしくて、気持ち悪い。
 しばらく二人とも黙っていたが、好がぽつりと呟いた。
「楓にも挨拶行くでしょ?」
 おれは頷いた。
「一緒に行こうか?」
 その問いにも、頷いた。

     三

 踏みならされていった道を、二人並んで歩く。鬼が治めていた頃から、たくさんの人の足で切り開かれた道。そして、おれたちもその役割の一端を担う。本当に、微かな一端を。
 忘れられた村、と揶揄されることもある。この村を詳しく知っている人は、県内にも少ない。知っているような顔をする人たちは、最後の楽園、などと得意げに言う。そのくせ、訪れようとはしない。大げさな表現かもしれないけれど、天国の存在と同じで、どんなにいい場所だと聞いても、行くには勇気を要する。
 直木山の真向かいにある山の斜面に、たくさんのお墓が並んでいる。この村の家族の数とほぼ同じだけある。孟宗竹に囲まれていて、そこら一帯の空気を変えてしまう。部外者は足を踏み入れたが最後、恐怖で腰を抜かすことだろう。
 入ってすぐの位置に、何度も手を合わせに来た墓がある。東野家、と彫られている。これを見る度に、胸が痛む。
 おれと航、それから好の三人以外に、歳の近い者はいない。事実、今はそうだ。でも、数年前は違った。もう一人いた。
 東野楓、といった。大人しい娘で、宮部家と川上家が集まってワイワイやるとき、呼んでも、彼女は遠慮した。といっても、暗い性格ではない。笑顔は明るいし、誰よりも優しかった。
 その楓が、五年前、学校で死んだ。階段から落ちて、頭を強打し、あっけなくこの墓に直行した。穏やかな村で起きた不慮の事故に、村全体が騒然とした。
 最初、その事実が受け入れられなかった。何の前触れもなく身近な人が死ぬことが、こんなにも容易に――。航も好も、同じような心境だったようだ。
 でも当然ながら、誰よりもショックが大きかったのは楓の家族だった。悲しみに明け暮れる両親の姿が、不憫でならなかった。次第に小さくなっていく背中に、危機感を覚えた。
 それから、少しでもその悲しみを和らげようと、おれたちは受け入れて、前に進む姿勢を示すしかない、と考えた。――この判断が正しかったのか、明確な答えはない。それでも、楓の両親は少しずつ元気を取り戻していった。おれたちのおかげ、とまではいかないまでも、何もしないで途方に暮れていたら、この結果はやってこなかったと思う。
 好が姉妹だったらよかったのに――本当は、こう思う。楓が生きていればよかったのに。
 いつものように、水をかけて、花を供え、手を合わせた。好も、隣で手を合わせる。長いこと、そうやっていた。
 先に目を開けたのは、おれだった。立ち上がって、好の肩に手を置く。
 好は目を開けて、帰る? と目で尋ねる。
「帰ろう」おれは言葉にして答える。
「うん。――楓、また来るよ」好も立ち上がって、来た道を歩き出した。
 二人で歩幅を合わせて、同じ景色の下を進む。いつからか忘れたけど、歩幅を合わせるのが難しくなった。今は、好がおれに合わせてくれている。
「誰が盗んだんだろうね」
 好が、さっきの話を蒸し返す。
「さあな」
 言ってから、目を細める。山間から出現した陽光が眩しい。真っ赤な夕焼け空がきれいだ。
「部外者だったらいいのにね」
「いいってことはないだろ」
「だって、村の誰かだったら、嫌じゃない」
「――父さんの話では、盗まれた日の前後に訪れた村外の人は皆無らしい」
「でも、誰にも気付かれずに入り込んだかもしれないよ」
「まあ、犯人は置いておこう」おれは片手を、好みの方に上げた。「やっぱり、動機の方が気になる」
「気になるけど、それは予測つかなくない?」
「まあな。――でも、一つだけ言えるとすれば……」
「言えるとすれば――?」
「もし村の人が犯人だとすれば、盗んだ犯人はそれを利用して何かするつもりだ、ってこと」
「じゃあ、村外の人だったら?」
 おれは答えに窮する。「……うーん、売るのかな」
 好は呆れたように笑う。「あれって、高く売れるの?」
「まあ、文化的価値は、なくはないけど。でも、たいしたことないだろうなぁ」
「だよね」
 何か、不思議な気がした。都会の女子たちとはまともに話せないのに、好とは数ヶ月のブランクがあっても、スラスラ言葉が出てくる。
 やっぱり、長い付き合いだからな。

 残りの挨拶は明日に回すことにした。山道への入り口で好と別れ、暗がりの中を登る。歩きなれた道だから、暗くても困らない。暗い所では、視覚を諦めるのがいい。音で感じ、肌で感じ、匂いで感じるのだ。難しそうな響きがあるけど、普段から心がけていれば余裕だ。
 東京は、夜も明るすぎる。店の光や外灯がくまなく照らし、街の活動を終わらせない。それが不思議――というよりも、不気味で理解に苦しんだ。この人たちは、どうしてここまでするのだろう。
 それでも、慣れてくると気にならなくなる。村にいた頃と違って、帰りも遅くなりがちだったし、夜を一人きりで歩くこともしょっちゅうだ。明るい方が、自分には必要なくても、周りからの視線を変えられる。
 山を登りきって、玄関の扉をそろりと開ける。
「ただいま」
 と、中に向かって声を投げると、「おかえり」と、手前の部屋から航の声が返ってきた。明かりが漏れている。
 襖を開けた。航だけじゃなく、父さんもいた。寝そべって、リラックスしているが、格好は外行きだ。
「好に会えたか?」
 航が上半身を起こして、尋ねる。
「会えたよ。――一緒に、楓のところにも行ってきた」
「――そうか」
 楓が死んだとき、おれたちの中で最初にそれを受け入れたのは、航だった。だからといって、悲しくなかったわけじゃない。少しだけ、大人だっただけだ。
 航は、おれよりも母さんの記憶が残っている。身近な人を失うことは、経験済みだった。
「さっき、律さんが来て、招待してくれたよ」
 父さんも体を起こす。律さんとは、好のお母さんのことだ。
「行くだろう?」
「行こう」おれは頷く。
 男三人は立ち上がって、玄関へと向かう。おれは靴を、二人は下駄を履いて家を後にする。

「東京の話を聞かせてくれよ」
 航が言った。
「私も聞きたい」
 好も、軽く身を乗り出して、同調する。
 長方形のテーブルを、男女五人で囲んでいる。テーブルの上には律さんが作った料理が並んでいる。見た目もおいしそうだが、本当においしい。
 その律さんは、父さんと話しこんでいる。というより、父さんの話を聞いてもらっている。父さんは、お酒が入ると饒舌になる。一方の律さんは、お酒が飲めないので、麦茶。
「東京たって……人が多くて、夜も明るくて、蒸し暑い、くらいかな」
「もっとないのか」
 航が重ねて聞く。子どもの中では航だけ、お酒を飲んでいる。数え年で二十歳になるからだ。
 でも、おれも大学のコンパで飲むようになったから、ここでも飲んでもよかったが、父さんが許さなかった。そういうところには、厳しい。
「あと……髪の色が、この世のものとは思えないような人がいる」
「金髪とか?」好が柔らかく相槌を打つ。
「紫とか、緑とか、若いのに真っ白にしてる人もいた」
「気持ち悪いな」航が顔をしかめる。
「みんなそう、ってわけじゃないよ。たまに、見かけるだけ」
「大学、楽しいそうよ」好が航に言う。
「ふうん。授業も?」
「いや、正直、チンプンカンプンだし、眠くなる。――でも、面白い授業もある」
「なきゃ、学費払ってる意味ないからな」航が、現実的なことを言う。
「仲のいい女の子とかいないの?」と、尋ねたのは当然、好。
「いないって。めったに話さない」
「残念だなぁ」航が嫌らしく笑う。
 予想に過ぎないが、航だって東京に出たら、ついていけないのがオチだ。こんな奥まった村に住んでたら、都会の感覚なんて理解できない。
「――よかった」好が呟いた。「私、安心した。昇に彼女できたらどうしよう、って心配してたから」
 おれは答えに困った。好のこの種の発言は、よく聞くからだ。どこまで本気か、測れない。
「あ、でも、航も好きだけどね」言ってから、朗らかに笑いかける。好だけは、東京に行っても通用しそうな気がする。
 突然、二人同時に告白されて、おれたちは顔を見合わせた。おれもそうだが、航は無表情だった。
「ああ、そう」
 と、やっと言葉にする。

「じゃあ、川上さん、ごちそうさまでした」
 父さんが顔を赤らめて、帰りを告げる。酔っているせいか、声がいつもより大きい。でも、意識はしっかりとしているようだ。
「暗いから、気をつけて下さいね」
 律さんが優しい微笑みを返す。笑うと、好の笑顔の印象と重なる。やっぱり、親子なのだなぁ。
「バイバイ、航、昇」
 律さんの隣で、好が片手をひらひらと振っている。
 おれと航は手を振り返し、背中を向ける。こうやって別れるのは、何度もあった。今さらたいそうにやる必要はない。それだけ、心を許しているわけだ。
 父さんを先頭に、歩き出す。男三人だから、言葉をほとんど交わさず、ずんずんと登っていく。
 家に向かっていくとき、たまに考えることがある。おれの名前である昇は、この山を登っているときに思いついたのではないか。二人目の息子が生まれたが、どんな名前をつけようか悩み、うんうん唸りながら山を登っているとき、そうだ、のぼるにしよう、とひらめいたのだ。
 もちろん、想像だ。父さんに確認したことないし、するつもりもない。そんなに名前の由来を気にしていないから。
 ただ、のぼる、という響きを選んだのにはどんな理由があったのだろうかと思うときがある。わたるの次に、のぼる。
 ざわざわと、風に吹かれて木が音を立てる。都会の人工的な夜の音と違い、耳に心地良い。自然は、嫌にならない。恐怖を感じるときがあっても、憎むことや恨むことはない。
 自然が生み出す響きは、神様の声だ。おれたちに何か伝えようとしている。
 おれが、鬼の顔をした航を夢に見たのは、きっと偶然じゃない。神様が、子供の頃のように何か教えようとしてくれたのだ。
 鬼の面が盗まれたのは、夢と必ず関係ある。航が盗んだかどうかは別としても、何か起こるはずだ。せめて警戒していなければ、本当に何かあったとき、神様に呆れられてしまう。
 だから、せめて。

     四

 直木山には、まさに神社に続く道、と言える石造りの階段がある。古びているが、それがかえって厳かな雰囲気を生み出している。
 あるのは、川上家の反対側。つまり、そっちが正面入り口に当たるわけだ。だからといって、絶対に階段を使う必要はない。昔は真面目に使っていたかもしれないが、今となると他の山道を普通に使う。川上家側の道を最も頻繁に使用する。
 さて、そんな石造りの階段を、おれは下っている。
 階段は、三十五段ある。しかし、伝承によるとかつては百八段あったそうだ。どうしてそんなに減ってしまったのかと言うと、噴火で埋まってしまったからだった。直木山は、元々、活火山だった。村に甚大な被害を与えたその噴火は、その証拠を残していくように、村の中心である山の石階段をマグマで埋めた。
 どこかから来た作業着のおじさんたちによる地質調査の結果、その噴火は本当にあったようで、伝承は正しかったことが証明された。
 そういう階段なのである。
 そうそう、直木山は現在、活動していない。だから、噴火する心配はない。
 おれはこの話を知ったとき、不思議に思った。現在、活動していないことではなく、本当に噴火があった、ということが、だ。それは、直木山が噴火したなら、そこに昔も住んでいただろう宮部家の先祖は、無事じゃなかったはずだ。しかし、伝承に宮部に関する被害状況は記されていないし、神社がどうなったのかも同じく、記されていない。
 でも、おれたちはこの世に生をもたらされた。つまり、宮部家は生き残ったのだ。
 歴史は曖昧なものだ。もしかしたら、何らかの都合で作り上げられた部分があるのかもしれない。歴史の途中で歴史を書き変えた、という事実があったら、それもまた一つの歴史になる。言ってみれば、歴史も生きているのだ。時代を経るごとに変化していく。
 階段を下りきった。
 昨日の挨拶回りでは、川上親子にしか挨拶できなかった。今日は、その続きだ。むろん、いくら村の中心的な家の息子でも、村人全員には挨拶しない。親しい仲の人だけだ。
 まずは、村の寄り合いなどで使われる白塗りの建物を訪れる。一階建てで、村の祭りで使うものなどが保管されている。倉庫みたいなものだ。
 そこに、毎日やってくる人がいる。村長の重松さんだ。
 外から中を窺える。重松さんは、いつも通り何をするでもなく、何かをしていた。のんびりした村だから、基本的に村長は暇だ。
 ガラガラと音を立てて扉を開けた。
「おはようございます」
 頭を下げて挨拶すると、重松さんはこっちが恐縮するぐらい勢いよく頭を下げる。
「これは、これは、宮部家の坊ちゃん。いつもお世話になっております。いつお帰りになられたのですか?」
 重松さんは、村長という身分でありながら、誰に対しても腰が低い。おれが宮部家の人間だからではない。
 重松さんは、村長に選ばれて、村の外からやって来た。来る前は、余所者の村長なんぞ、言うことは一つとして聞かん、と態度を硬化して待ち構えていた。しかし、実物を見てみると、驚くほど控えめで、申し訳なさそうに頭を下げて回っていた。
 村人たちも、これならいいか、と態度を改め、それ以来、重松村長は不動の村長である。
 その代わり、宮部家が村の中心という構図が少しも揺らがなかった。催しものなども、村長には相談せず、宮部家を介して伝わる。つまり、飾りと言えば聞こえが悪いが、とりあえず威厳はない。
 でも、彼はその性格のおかげで村に受け入れられたと思う。理想的な村長ではないとはいえ、余所者扱いされずに済んだのだから。まあ、彼自身がこの状況をどんな風に考えているか、分からないけど。
「昨日の夕方、帰ってきました。お元気でした?」
 重松さんは右手と頭を連動させて、横に振る。振りすぎ、と思う。
「そんな、私なんぞに気を使っていただかなくとも――ですが、おかげさまで元気にやっております」
「そっか、それならよかったです」
 その後、軽く話し込んで(本当に軽く)、おれは去ることにした。
「じゃあ、他にも挨拶してくる所あるんで、失礼します」
「あ、そうでしたか。それなら、私の所は後回しでようございましたのに……。ですが、坊ちゃんの若々しい様子を見て、安心いたしました。何だか、力が漲ってきたようです」
 大げさな、と思いつつ、頭を下げて村舎を出る。

 いるかどうか確認しようと、店の入り口から顔を覗かせた。角田おばあちゃんはカウンターの向こう側に座っていた。おれに気付いて、顔をほころばせる。
「ただいま、おばあちゃん」
「おかえり。久しぶりだねえ。東京から帰ってきたんだべか?」
 イスから立ち上がって、おれの傍まで寄ってくる。その動きに、老いの兆しは窺えない。相変わらず、元気だ。
「ああ、一週間ぐらいいるつもり。どう、儲かってる?」
 角田おばあちゃんは、高らかな笑い声を上げる。「昔から言ってるべ。儲けたくてやってるんでねえ、買った人の笑顔さ見たくてやってるんだ」
 そうだった、と苦笑する。それが駄菓子屋、角田商店のモットーだ。
 おばあちゃん、といっても、おれと血が繋がっているわけはない。ただ、小さい頃から孫のようにかわいがってもらっていたから、自然とおばあちゃんと呼ぶようになった。航や好も一緒だ。
 学校帰り、よくここに寄った。どれも安いから、少ない小遣いでも充分、買えた。店の前のベンチに座って、今日あったことを話した。ベンチは煙草を買いに来た大人たちに占領されているときもあったけど。
 角田おばあちゃんは、村のみんなから愛されている。儲けの少ない彼女の家計を案じて、家で取れた米や野菜をおすそ分けしに来る人も珍しくない。いつも笑顔で、辺りを明るく照らす太陽のような存在だ。
「勉強、頑張ってる? お父さんを悲しませたらダメよ」
「頑張ってるよ、大丈夫」
「東京はテレビでしか見たことねえけど、どんな所?」
「そうだな……」キャンパス内の溢れんばかりの人が思い浮かんだが、「人が多い」と言ってはそのままなので、「かわいい子が多いよ」と言っておいた。
「そうかい」
 角田おばあちゃんはにやっと笑う。そして、小指を上げて、「どう? これはできた?」と尋ねる。
「いや、いないよ」
「本当かい? 昇君はイケメンだからね、人気者じゃないの?」
 角田おばあちゃんが「イケメン」という言葉を知っていることに少なからず驚く。
「全然、そんなことないよ」
「まあ、東京にガールフレンドでけたら、好ちゃんが悲しむべ」
 それはどうかな、と首を傾げたくなる。好の真意は、全く推し量れない。でも、とりあえず、「そうかもね」と合わせておく。
 それから二、三、言葉を交わして、角田商店を後にした。
 もっとゆっくりしてもよかったが、もう一つ行く所がある。おれが三月まで通っていた、田尾西村唯一の学校だ。

 ――航、何でもできちゃうんだね。
 楓が、柔らかい笑顔を浮かべている。風に揺らめくロングスカートが、彼女の雰囲気によく似合っている。
 ――そんなことねえよ。昇だって、このくらいできる。
 航は照れたように横を向く。見つめられて、耐えられなくなったようだ。冷めた性格だと思われがちだが、意外と照れ屋な一面もある。
 ――あ、昇、何してんの? 早く!
 好の明るい呼び声がする。おれは手を振り返して、今行く、と応じる。

 校門を過ぎた後で、かつてのありふれた風景を思い出してみた。あの頃、おれたちは緩やかな川の流れに身を委ねるように、難しいことを考えないで生きていた。この幸せを壊したくない、失いたくない、なんて思いつきもしなかった。そこにあるのが当たり前だった。
 寝耳に水、という言葉があるが、後から思い返せば、楓が突然、死んだのは、まさにそれだった。後から思い返さないとそうやって捉えられないくらい、直後は実感がなかった。
 おれは頭を振って、思考を止める。もういい、感傷的になってもしょうがない。それに、現実感のある悲しみと対話するには、時間が経過しすぎた。
 正面玄関から入って、誰にも会わずに、職員室まで辿り着く。ドアの近くにいなければ聞こえないだろうけど、礼儀としてノックをしてみる。それからドアを開けて、中を覗きこむ。
「こんにちは――あ、先生」
 目当ての人物は、すぐに見付かった。
「おお、昇君。帰ってきてたんだね」
 三十台半ばの、誠実そうな風貌の男がコピー機の前で立っている。相変わらず細身で、頬がややこけている。休みの日まで出勤して、大変だなぁ、という感想が浮かぶ。
 伊坂先生、という。
「はい。昨日、帰ってきました」
「そうだったのか」目尻を下げて、微笑む。「どのくらい、こっちにいるんだい?」
「一週間ほどです」
 答えてから、この返事を何回もしていることに煩わしさを感じた。先生には、何の恨みもないのに。
「君たち三人が卒業してしまって、学校は少し寂しくなったよ」
 三人とは、言うまでもなくおれと航、好のことだ。
「そうですか」
「二人にはいつでも遊びに来ていいぞ、って言ってあるんだけど、来てくれないな」
 苦笑いを返しながら、それはそうだろう、と思った。わざわざ学校に行かなくても、村の子どもにはいつでも会える。それに、学校に対していい思い出だけが存在しているとは限らない。
「結局、大学に行ったのは昇君だけだったな。航君は分かるけど、川上さんはどうするつもりなんだろうな、これから」
「さあ、どうなんでしょう」
 あいつの考えていることなんて、身近にいても分からない。でも、やっぱり何をするにしても村に残るのではないか。
 帰る段になって、職員室のドアの前まで行って、立ち止まった。振り返って、伊坂先生を呼びかけた。
「先生は――」だが、首を振って、中断した。「いや、何でもないです。その内、また来ます」
 先生は訝った顔を見せた後、手を振った。おれは頭を下げて、職員室を出た。
 先生は、楓が死んだとき、泣きませんでしたよね。悲しくなかったんですか?
 変なことを聞こうとしていた。悲しいに決まっている。表に出さなかっただけだ。
 校舎から出ると、蝉の声が盛んに耳まで届いた。日差しが降り注ぎ、校庭を明るく染める。風は全く吹いていない。それでも、やはり不快な暑さではない。
 蝉は、一週間という命に定められて得な面もあるのかもしれない。いつ死ぬか分からないなんて、人間は損だから。

 家に戻る途中で、好とばったり会った。学校を卒業してから、こいつは何をしているのか、と気になった。長すぎる夏休みを過ごしているようなものだ。
「好、いつも何してんの?」
 すると好は笑顔の花を咲かせる。「それ、前にも聞かなかった? 私、農作業を手伝ったり、散歩したりしてる、って答えたよね」認めたくないが、笑うと本当にかわいい。繰り返すが、認めたくないけど。
「学校もないのに暇じゃないのか?」
「昇、何か変わったね」
「え?」おれが――変わった? 気まぐれな発言かもしれないのに、おれは「変わった」と言われるのが、この上なく嫌だと思った。変わりたくない、都会の色に染まったなんて言われたくない、と密かに思っていた自分に気付く。
「私、難しいこと考えないで生きていたいだけ。この村は、狭いけど、狭くないよ」
「どっちだよ」一応、笑った。
「この歳まで生きてきたけど、この村には知らない場所がたくさんある。隠された空間も存在する――鬼の隠れ家もあるかも」
 おれは笑い飛ばしてやろうと考えたが、好の表情は真剣そのものだった。たまに、こういう顔をする。
「そうだな、お前の言うとおりだよ」
 でも、と心の中で付け加える。
 鬼の隠れ家は、目に見えるところには決してありえない。それは、人の心に巣食っているから。

     五

 田舎の不思議は、夜に現れる。特別なことではないけど、おれは布団から出て、そう思った。暑い日が続いているのに、福島の山奥は、夜が涼しいのだ。布団にくるまっていないと、風邪を引いてしまうほどに。寝苦しい夜が当たり前の――熱帯夜ってやつだ――東京では、布団にくるまるなんてありえない。
 母さんがあちら側に行ってから、我が家の男たちはみんな料理上手になった。元々、手先が器用で、性格的にも家事を面倒に感じない性質なので、自然な流れではあったけれど。
 おれが東京に出るまでは、三人でローテーションして毎日、作っていた。たまに、律さんがおすそ分けしてくれることもあった。
 おれが帰ってきても、父さんと航は今まで通り二人で料理を作っていた。そんなに長くいる予定じゃないし、帰省先で料理を作らせるのも悪いから、とか何とか言って、おれは免除されていた。だが、自ら「作るよ」と申し出た。
「いいよ、明日はおれが作るよ。いつも自炊してるわけだし、かえって腕がなまっちまうよ」
「そうか」父さんは頷いた。
「東京料理をふるまってくれよ」
 ねえよ、そんなもん、と返して、おれたちは笑った。
 それが、昨日の話。おれは朝一番に起きて、欠伸をしながら台所へ向かった。電気をつけて、朝食作りの準備を始める。何にしようかな、と考えて、東京料理が浮かんだ。
 上京したからといって、おれが作るものに大きな変化が起きはしなかった。材料もこっちから送ってくれていたから、新鮮な野菜を使えた。
 ただ、大学生ともなると付き合い上、外食が増えるので、舌の感覚が変わったような気がする。味付けの濃い都会の料理を常に食べていたら、田舎の料理がおいしく食べられなくなるのではないか、と心配した。
 しかし、あくまで心配である。具体的に、おれの舌の感覚が変わった、と思う瞬間は、今のところない。どっちもおいしく感じるし、もりもりと育ち盛りのように食べている。
 結局、男だから食事なんて適当なのかな、質より量なのかな、という結論に至った。
 旧式の蛍光灯が時折、明滅した。料理の邪魔にならないぐらい、微かに。久しぶりに我が家の台所で調理していることに、心が少しだけ和む。

 出来上がる前に、父さんと航は起きてきていた。父さんは新聞を読んでいた。航はテレビでニュースを見ていた。見慣れていた光景。でも、おれが切り取られた光景。人の価値は等しいけれど、いなかったらいなかったで、その欠けたピースは穴埋めされるものだ。絶対的な存在はありえないから。
 作るよ、と申し出たものの、特別なものは作らなかった。まして、東京料理なんて。
 おれが最初の頃に覚えたものの内の一つである、チャーハンを作った。経験豊富だから、味の方には自信がある。「昇の得意料理だったな」と、父さんは言った。得意料理なつもりはなかったけれど、あながち間違いではないと思った。
「そうそう、おれも最初にこれ覚えたな」航がいただきます、の後でそう言った。朝なのに、勢いよくかきこんでいく。作った側としては、味わって食べて欲しいかもしれない。まあ、おれも人のこと言えないけど。
 それでも、航と父さんは「おいしい」を連呼した。

 食べ終わり、片付けも終えて、三人で何となくテレビを見ていた。テレビでは高校野球が映っていて、これから地元福島の代表校と、西東京の代表校との試合が始まるところだった。
「昇は、まさか東京の高校を応援したりしないよな」
 航に冗談交じりに聞かれた。まさか、と返した。
「東京にそんなに愛着ないって。それに、西東京じゃ、おれの住んでる方とは遠いし」
「そうなのか。でも、東京って狭いんだろ」
「まあ、福島に比べたら狭いけど……東京の人は、西と東は、会津と浜通りぐらい別のところだ、って考えてる」
「へえ」航は大げさにため息をついた。「だったら福島も代表校二つ出させて欲しいけどな」
「そりゃ、広さで言ったら二、三校出てもおかしくないけど、高校の数が違いすぎる。東京は気持ち悪いぐらい、あちこちに学校があるぞ」
「そうなのか」
「多すぎて、校庭のない学校とかもあるからな。でも、そんだけあるってことは、金があるんだろうな」
「金かな」航は扇風機の風を「強」から「中」にした。すぐ近くに座っているので、風を嫌ったらしい。「福島は、やる気がないだけだろ」
「いや、なくていいよ。福島はこれでいいと思うし」
「まあ、そうだな」
 そこに、玄関の戸を叩く音がした。続けて、「ごめんくださーい。重松です」という声が聞こえてきた。村長の重松さんだ。
 おれの方が近かったので、パッと立ち上がって、玄関に向かった。鍵を外して、横にスライドさせて開けた。そういえば、東京にはこのタイプのドアは少ない気がする。どうでもいいけど、東京のドアはみんな重すぎる。
「おはようございます、祭りのチラシを配りに参りました」
 必要以上に頭を下げて、チラシを手渡してきた。
 そうか、祭りがそろそろあるんだな。――鬼の面は行方知れずだというのに。
「ありがとうございます。ご苦労さまです」
 村長は毎年、このチラシを村の全ての家に直接、配りに行く。殊勝なことだが、やはり村長の威厳を低下させることになると思う。まあ、村長のそういうところが好かれる、とまではいかないまでも、憎めないところなのだろう。
 居間の方から、テレビ越しの歓声が響いてきた。「いきなり二塁打、打たれたよ。ピッチャーガチガチだな」航が、何があったのか説明をしてくれた。
「そういえば、今日一回戦でしたね」
「村長、見なくていいんですか? この試合ぐらい、見ていったらいいじゃないですか」
 すると重松村長は、いえいえ、と首を振る。
「今日中に配り終えたいので、我慢ですね。それに、今日が最後の試合と決まってるわけじゃないですから」
 たぶん、今日で福島は敗退すると思うけどな、という言葉は飲み込んだ。そうですか、頑張ってください、と妙に他人事な言葉で送り出した。
 居間に戻りがてら、改めてチラシに目を通した。だが、去年と、というかおれの知っている限りのそれ以前のものと、遜色ない。日にちと曜日が変わっているだけで、使い回しだということが簡単に分かる。
 何事にも謙虚な重松村長だが、パソコンは苦手らしく、新しいレイアウトを取り入れることができないらしい。まあ、村内だけの小さな祭りだし、このくらいのクオリティが相応しいのだろう、なんて上手くまとめてみる。
 試合は、連打を浴びて、一点失っていた。ピッチャーは、蒼い顔をしている。
 やっぱり、村長は今年の夏、見られなさそうだ。
 ――ところが、その後ピッチャーは立て直し、その一点だけに抑え、打線も相手の守備の乱れから二点奪って、逆転勝利を収めた。

 その日の夕方、涼しくなってきたから、おれは航を散歩に誘った。「夢」のことは関係なく、気楽な気持ちで誘った。
「どうせなら、角田商店まで行くか」
 航の提案に頷き、おれたちはかなりゆっくりした足取りで歩き出した。山を下ってきたけど、もうすっかり勘を取り戻して、足に疲労はたまっていない。東京では山なんてほとんどないが、長年の経験が勝った。
 道の脇の茂みが、風も吹いていないのにガサガサと音を立てた。不思議に思って、様子を窺ったが、何も見えない。
「タヌキでもいたのかな」
 航はそう言ったが、おれは不気味な感じがした。正体の見えない何者かが、おれを嘲笑っている気がした。きっとそいつは、イタズラ好きな、掴みどころのないやつだろう。
 不気味といったが、そいつほど不気味な人間はいないのではないだろうか、とおれは思う。本当に、雲みたいに握れなくて、もどかしい――。
 左肩を軽く叩かれて、おれは振り向いた。同時に右肩を叩かれたらしく、航も同じ方を振り向いていた。そこにいたのは、――やっぱり好だった。
「ほら、タヌキだ」 
 航はそう言って、笑った。
「何でよ、せめてキツネって言ってよ。牝狐とか」
「お前……牝狐でいいのか。悪賢い女の意味だぞ」
 おれが指摘すると、好は不敵に返す。「何だ、昇、知ってた?」
 それくらい分かる。ただ、好は学校の勉強は普通だったけど、他の人が知らないようなことをよく知っていた。その度に、おれはいつも「おれも知っていたよ」という仮面を被った。でも、それも剥ぎ取られて、好のペースに持っていかれてしまう。
 それが、ずっと近くにいた、唯一の同い年の女だ。
 好も一緒に散歩することになった。
 どこまで行くの?
 角田商店だよ。
 ああ、昨日も行ったなぁ。
 好は毎日のように行ってんだろ。
 まあね。いつおばあちゃんがぽっくりいくか、分かんないし。
 お前なぁ……縁起悪いこと言うなよ。
 うーん、なんかコーヒー牛乳が飲みたい気分。
 無視か。聞けって、人の忠告。
 まあまあ、角田ばあちゃんはまだ元気だろう。しばらく、健在さ。

 角田商店の前に設置されている、青いベンチに並んで腰掛けた。好は宣言どおりコーヒー牛乳を買って、おいしそうに飲んだ。おれと航も付き合って飲んだ。
 角田ばあちゃんはおれたちの来訪を歓迎してくれた。きれいな皺のラインを作って、ひまわりみたいな笑顔を振りまく。心を温かくさせるような、快い笑顔。変わらない、と思うし、いつまでも変わらないでいて欲しいと思う。
 角田ばあちゃんは好と話し込み始めた。毎日のように会っているというのに、この二人は話のネタが尽きないらしい。女はよく喋る生き物だから。本当に大人しい女はいない、それは哀れな男たちが作り出した理想の産物だ。大人しく見える人がいたら、その人は気が弱いか、バランスの取れる人か、愛想の悪い人だ。いつか、誰かが言っていた。
 航はおれと好の間で、前を見つめて黙っていた。背もたれに身を預けて、今にも眠りそうな眼差しをしている。おれも仕方なく黙っていた。平素だったら一息に飲んでしまうコーヒー牛乳を、味わって飲んだ。おいしかった。
 楓は――彼女を性懲りもなく思い浮かべてしまう。この三人が揃っているときは、特にそう。――大人しい女だった。決して愛想が悪いわけでもなく、気は――そんなに弱くなかったはずだ。彼女は、バランスの取れる人だった。おれたち三人にない役割を心得て、無意識のうちに演じていた。いや、演じていたなんて適当な言葉じゃない、担っていたのだ。
 航は、誰よりも先に楓との別れを受け入れたあいつは、本当はどう思っていたのだろう。そもそも、好だって本音を打ち明けたことはなかった。かく言うおれだって、全てをさらけ出した覚えはないから、人のことは言えないけど。
 三者三様、あの頃のことは捉え方が異なっている気がする。表面上は同じ、という設定を無言のうちにこしらえていたようだが。まあ、難しいことを考えるのはもうやめよう。また好に笑われてしまう。集中力があるのはおれの長所だが、一つのことを考えすぎてしまうのはおれの悪い癖だ。
 陽が、もうすぐ沈む。夜になる。夜の気配が忍び寄り、世界の色を変えてしまう。
 そして、そろそろ祭りだ。何かが起こる、そんな胸騒ぎがする。でも、楽観的になればすぐ払拭できるほど、大したことのないそれだった。

     六

「入っていいよ」
 好の間延びした声を聞いて、部屋の戸を横にスライドさせた。現れた声の主は、白を基調にした鮮やかな浴衣を着ていた。おれは不覚にも、綺麗だ、とこぼしてしまいそうになる。
「どう、似合う?」
 好は両手を左右に振りかざして、自慢する。毎年、この時期に目にする姿だが、その度に新鮮な印象を受ける。
「似合う、似合う」
 航が隣で、愛想のない声で褒める。
「毎年、見てるけどな」
 航のおかげで、いつもの調子を取り戻す。
「まあね。今さら褒められても、かえって困るかも」
 そう言って、好は機嫌良さそうに小躍りする。
 好が褒められて、困ったことなんて未だかつてない。想像もできない。適当にあしらわれて終わるのが常だ。何か、本当におれたち兄弟も含めて、誰も彼女を射止められない気がする。――それが魅力を増している、とも言えるが。ものは言い様だ。
「もう行く?」
 好の問いに、航が一つ頷く。「ああ、先に行って、準備しないと。もう、遊ぶ側じゃないからな」
「そうだよね。航、神主様の跡継ぎだもんね。――どうすんの、昇?」
「お前の方が心配だろ。いつまで飄々と生きてんだ。働け、少しは。律さんが泣くぞ」
「泣かないわよ、もう諦めてるから」
 相変わらず、好はしれっとしている。
 そんなやりとりを見届けてから、航が家を出発した。といっても、ここは川上家の家で、お祭りは直木山の頂上でやるから、ちょっと山を登るだけだが。

 一発の花火の音がした。続けて、心地良い囃子の音が聞こえてくる。お祭りの始まりを告げる、恒例の合図。おれと好はそろそろと立ち上がった。
 時間帯はまだ夕方だった。冬だったらとうに日が暮れているころだが、日照時間の長い夏はまだ暮れない。でも、そのうち、お祭りが進行していくうちに、辺りは夜の闇に包まれるだろう。
 田尾西村に住む人は、ほぼ十割方がこのお祭りに参加する。来られないのは、寝たきりのお年寄りくらいだ。それでも人数はたいしたことないため、直木山の山頂が東京の繁華街みたいになりはしない。
 盆踊りをリードする太鼓と笛を、村人の男と女がそれぞれ演奏している。特設のやぐらの上に登って、踊る人たちの円の中心になっている。
 正装に身を包んでいる父さんと航は、次々に訪れる村人たちの挨拶に追われている。隣で重松村長も立っているが、明らかに父さんたちの方に、最初の挨拶が集中する。これでは、どっちが村長か分かったものではない。それに、重松村長は挨拶されると、必要以上に恐縮して、ペコペコしてしまう。頭の軽い人だ、と改めて思った。
 おれは好と二人だった。去年までなら、航を入れた三人でのんびりして、たまに踊りに加わった。三人でいるしかなかった。歳の近いのが、おれたちしかいないのだから。
 航は高校を卒業してから、扱われ方が変化した。神主としての階段を、一段上ったらしい。そして、おれとの距離ができた気がする。本当に神主になったとき、この距離は途方もないものになってしまうのではないだろうか。――大学を卒業したおれは、どうすればいい? 村に帰ってきて、農作業でも手伝うか? 大学までの勉強を全て捨て去って? かといって、東京に残ってやっていけるのか?
 ――何もしなくていいんじゃない?
 話しかけられて、おれは横を向く。好がラムネをおいしそうに飲んでいる。潤された唇が、目に映える赤に染まっている。
「今、なんて言った?」
 聞き間違いかと思った。このときの耳に対する信頼度は、平時の半減だった。
「何もしなくていいんじゃない? って言ったの、私」
「何もしなくていい……」
「どうせ、航が神主になるのに、自分は村に帰ってきてどうすればいいんだ、とか、それとも東京に残るのか、とかとか、考えてたんでしょ」
 洞察力の高さは、ここまで来たか。この女の方が、よっぽど神がかっていて、神主に向いているのではないか。
「……よく、分かったな」
「ははっ、認めるの、早いね」好は人の悪い笑いを漏らす。「当てずっぽうを弾にして、銃口をつきつけただけなのに、そんなにあっさり両手上げちゃうなんて」
 はあ、どうすればいいのだろう。もし、仮にだけど、好と結婚することになったら、おれはやっていけるだろうかな。でも、おれがダメだったら、航もダメだろうから、誰も結ばれないことになる。こうなったら、三人で結婚するか。二人なら、何とか互角に渡り合えそうだ。……なんて、寝言はここまでにしておこう。
「別にさ」好が続きを引き継ぐ。「昇は昇のやりたいようにやればいいんだよ。せっかく、自由を与えられた人生なんだからさ。先行きが見えないのを恐れないで、可能性が広がっていることを喜んだら?」
「……そんなの、言い様だろ」
「そうよ、言い様よ。捉え様よ。でも、人生なんて、考え方一つで変わってくるよ」
 ――好の言葉がいつ本気か分からないけど、このときはきっと三本指に入るくらい本気だったと思う。たぶん、おれだけじゃなくて、自分自身にも言い聞かせていた言葉だったのだろう。だから、強かった。
 強く、胸に焼き付いた。焼き付いて、離れなかった。

「やあ、お揃いだね」
 座って盆踊りを眺めていると、現れたのは伊坂先生だった。村の雰囲気と不釣合いなアロハシャツを纏っている。提灯の明るい色を映している眼鏡の奥の眼差しを細めている。
「二人はまだ踊らないのかい? それとも、踊るのが恥ずかしい年頃?」
「そんなことないですよ。恥ずかしいなんて、この村でありえないでしょ」
 何を恥ずかしく思えというのだ。何もかも基本的に筒抜けの、こんな小さな村で。
「それもそうか」伊坂先生は納得して、好の隣に腰を下ろした。おれの視界から消えて、声だけが届くようになる。
「それにしても、この村のおじいちゃん、おばあちゃんは、皆さま元気だね。若いよ、本当に。若さの秘訣を教えてもらいたいね」
 そう言われて、踊りの輪の中の年寄りたちに目を向ける。快活に笑いながら、若者たちよりも前に出て、全身で踊っている。確かに、元気かもしれない――でも、決して長生きするとは限らない。現に、おれたちのおじいちゃん、おばあちゃんはとうにこの世を去っている。加えて、片親同士だし。
「毎日、のんびりと過ごしていればいいんですよ。やらなきゃいけないことなんて考えないで、気の向くままに生きることです」
 好がすらすらと述べた。その台詞は、さっきの続きとも思えた。
「なるほど、川上さんはまさに、それを実践しているようなものだね」
 おれは伊坂先生が皮肉を投げかけたのかと思った。普段、そんなこと言わないから、不意の爆弾発言に度肝を抜かれ、おそるおそる好と伊坂先生の顔を交互に観察した。
 好は肯定とも否定とも窺える笑みを浮かべて、正面を見据えていた。一方の伊坂先生は、好に向けて人懐こい笑顔を見せていた。どうやら、皮肉ではなく冗談半分だったようだ。あるいは、迂闊に漏らした失言をごまかすための笑顔だったかもしれない。
 真相は何とも言えないが、爆弾は不発に、事態は平穏のまま終わった。
「よし、じゃあ僕はひと足先に、踊りに参加させてもらおうかな」
 言うが早いか、伊坂先生は囃子の方に吸い寄せられるように、すたすたと歩き出していった。輪の隙間を見つけて、不恰好な踊りを披露し始めた。
 おれと好は、何も返さずにそれを見送った。それでも、まだ踊りに加わろうとしなかった。

 ――おれは、この日あったことを忘れない。忘れたくても、忘れられないだろう。

 祭りが終わって、何発かの花火が上がった。有名な花火大会と比べるまでもなく、規模はずっと小さい。それでも、身の丈にあったその花火は、とてもきれいだった。最後の一発の後には、ぱらぱらと拍手が鳴った。
 ぞろぞろと、人が帰り始める。帰り際にも父さんに挨拶していく人がほとんどで、父さんはそれらに分け隔てなく応える。
 おれは最後まで残って、父さんたちを待つつもりだった。好と並んで、木のベンチの脇に立っていると、航に手招きされた。頷いて、近寄っていく。好も付いてくる。
「先に戻ってていいぞ」
 まだ時間かかりそうだし、と航は言う。
「別に、構わないけど。待ってるよ」
「……好、眠そうだぞ」
 振り返ってみると、ちょうどよく欠伸をしていた。意外と、疲れているらしい。それとも、早く帰るための演技だろうか。――なんて、好を疑うことが癖みたいになっている。
「送っていってやれよ」
 一応、女なんだし、と付け加える。一応、って何よ、と好は眠たげな声で反論する。確かに、本当に眠そうだ。
 帰るか。
「じゃあ、先に帰ってるよ」
「ああ、気をつけてな」
 こうして、おれは好を麓の家まで送っていってやることにした。通い慣れた道だし、この距離で送ってやる、っていうのも変な話だけど。
 赤い提灯の光から離れると、外は真っ暗になっていた。人口の光を寄せ付けない、漆黒の林。おれはその暗闇に目をやって、見つめてみた。
 暗闇の奥に、何かいるような気がした。

 玄関先で別れるつもりだった。律さんはまだ帰ってきてないとはいえ、夜に一人でいて危険なことはないだろう。この村でそんなことはめったに起こらない。何より、好は心配ないと思ってしまう。
 だから、一緒にいて、と言われたときは戸惑った。いつになくか細い声に、何が不安なのかと訝った。
 好は、先頭に立って自分の部屋へと進んでいく。おれは黙って帰るわけにもいかず、それに、少なからず心配が湧いてきたので、彼女に続いた。
 好は部屋に入っても、電気をつけないで暗闇の中に消えた。もしかして、そのまま寝るのかと思った。おれは、その傍で見張り番でもしていろと言うつもりか。
 ますます、調子が狂う展開だったが、仕方なく暗い部屋の中へおれも入った。電気をつけようと手探りで辺りを窺った。――その瞬間、好の腕がおれの腰に回された。
 たぶん、抗おうとすれば、簡単にできたとは思う。でも、おれは無抵抗で、好にされるままに従った。好はおれをベッドに押し倒すと、その上に覆いかぶさってきた。そして、そっと唇を重ねてきた。何も言わずに。
 窓から差し込む月明かりで、少しばかりその表情が見えた。うっすらと笑みを浮かべている。薄い唇の両端を、わずかに上げている。
 気がつけば、というのも変な話だが、本当に気がついたら、おれたちは着ていた服を脱いでいた。好は、その浴衣を。体温の熱が、肌の感触越しに伝わってくる。その熱を確かめるように、互いのももを、腹を、胸を、首筋を撫でていく。
 何度も、キスを交わした。今までしたこともない両者なのに、何の迷いもなく、本能の赴くままに重ねていく。おかしな状況だった。普段だったら、想像すらありえない光景だった。それでも、その最中は全くおかしさを抱いていなかった。何ら違和感を覚えることなく、行為に没頭していた。
「……どうして?」
 ずっと無言だったが、おれはようやく口を開いた。まず、どうして? と。
「神のお告げよ」
 好は耳元で囁いた。顔をちらりと盗み見たけど、冗談を言っているような顔ではなかった。
「神のお告げ、か」
「そうよ」好は囁き続ける。「私たちは、結ばれる運命にある」
「航じゃなかったんだな。その運命の相手は」
 航の名前を出すと、好は静かになった。後ろめたさ――後ろめたいことが、あるのか分からないけど――に、言葉を失くしたのか。
「私たちは、結ばれる運命にある」
 航については言及しないで、さっきと同じ言葉を繰り返した。
「私たちは、取り残される運命にある」
 ……――え?

 ――私たちは、取り残される運命にある。

 神の、不吉なお告げだった。

     七

 悲鳴が聞こえた。律さんの声だと、すぐに分かった。おれは嫌な予感に急きたてられて、ベッドから立ち上がった。服を着て、声のした方だと思われる所へ急ぐ。好も後ろでごそごそと動いていたから、付いて来ようとしたらしい。おれはそれを待たなかった。
 川上宅を出て、直木山の反対方向を走った。田んぼのあぜ道がずっと続いているが、やがて住宅が何軒か現れる。
 声の主である律さんは、その入り口地点で腰を抜かしていた。
「大丈夫ですか?」
 駆け寄って、声を掛ける。「何があったんですか?」と続ける。
「あ、昇君」
 律さんの表情が青くなっているのは、暗闇の中でも分かった。声が、震えている。伝えようとする意志が、かろうじて理解できる言葉を届けてくれる。
「その、少し行った所に、し、死体が、死体がある」
「え?」おれは放たれた弓みたいに、パッと指し示された方へ向かった。死体なんて見たこともないのに、恐怖は感じていなかった。それどころじゃない、という根拠の不透明な推測が、おれの背中をぐいぐいと押した。
 律さんの言うとおり、確かに死体はそこに存在した。おれはうつ伏せになった体を、ゆっくりと両手で仰向けにしてやった。今思えば、触っちゃいけなかったのだろうけど、気にしていられなかった。
 顔を見て、誰であるか確認した。――多少、変形していたけど、それが伊坂先生だと判断できた。腹の辺りに、複数の刺し傷がある。
 このとき、律さんの短い、息を飲むような悲鳴が背後から聞こえてきた。振り向くと、前を指差して体を震わしていた。
 おれも、前を見た。すると、そこにいたのは――
 田尾西村に伝えられてきた姿そのままの、恐ろしい鬼だった。
 おれは全身の血の気が引いた気がした。膝立ちの状態で、その鬼から目を逸らせなかった。鬼は数歩離れた所に立っているだけで、何も言わなかったし、また、何ら行動を起こさなかった。
 いつの間にそこにいたのだろう。そして、伊坂先生を殺したのは、この鬼なのだろうか。
 だんだん、冷静になってくるにしたがって、鬼の様子を観察することができた。鬼の顔は、間違いなくお面であり、そのお面は何者かに盗まれていた、宮部家のものだった。
 わらで作った装いを纏っていて、右手には包丁が握られている。滴り落ちる血で、犯行が今しがた行われたことと、この鬼が殺人の犯人であることが推理できた。
 そうなると、次に気になってくるのは、この鬼の正体が何者かである。――でもおれには、この鬼の正体が分かっていた。
 急に、鬼が背中を向けて、走り出した。ややぎこちない走り方だったけど、速かった。あっという間に暗闇の向こうに消えた。
 おれはそれを追いかけようとした。
「危ないよ」
 だが、声に止められた。その声を発したのは律さんではなく、いつ来たのか、好だった。
「相手は武器を持ってるんだよ?」
「分かってるよ」
 おれは忠告に従うことにした。伊坂先生の死体を一瞥してから、律さんと好のもとに近寄っていく。
 律さんは相変わらずへたり込んだまま、青い顔をしていた。そして、ぽつりと一言漏らした。
「まさか、この村で人殺しが起こるなんてねぇ」
 まったくだ。その一言に尽きる、とおれは思った。

 その日の夜は、結果的に眠ることができなかった。
 殺人の事実を報告するために、まず重松村長のもとに向かった。村長は卒倒しないか心配になるほど驚きを顕わにして、それ以降、落ち着きがなくなった。腕をさするようにして、辺りをうろうろとしていた。
 おれはこの日の夜、たくさんのことを考えた。考えすぎてもいいから、とにかく考え続けた。
 人が死ぬこと。殺される人がいるときに、殺す人がいること。そしてそれが、どう選ばれるか誰も予測できないこと。
 誰が、伊坂先生が祭りの日の夜に殺されるなんて、予測できただろうか。そして、予測できたとして、いったいどうすればよかったのだろうか。
 不吉な、予言。神様のお告げ。夢を見ることで予言ができた少年たち。
 結末は――夢よりも切なく。
 夜が明けてから、おれと好は村舎を出た。どこに行くのか話していないのに、おれは家とは違う方向を目指した。好も、黙って後ろから付いて来た。
 朝から蝉の鳴き声が響いていた。足元に群がる虫たちが、何か示しているのではないかと思った。歩き慣れていた道を、自然に囲まれた砂利道を、いつもよりも、今までよりも、ゆっくり歩いていく。
 着いた先は、学校だった。

 学校の校庭の端にある、錆びついた低い雲悌――その上に、航が座っていた。虚ろな眼差しで、空の向こうをじっと見つめている。その手には、お面が握られている――あの、鬼のお面が。
 おれと好は、もう驚かなかった。考え続けていく中で、いや、それ以前に直感として、この結末は分かっていた。自分でも何故だか分からないけど、おれが村に帰ってくる前に見た夢は、この結末を照らし出していた。そして、おれはそれに特別な意味があると信じていた。
「航」
 おれは声を掛けた。いつもの調子で、呼びかけるように。
 航がこっちに視線を向けた。どんな表情をするのかと思ったが、あいつは笑った。いつもの笑顔で。
「よお、昇。それに好」
 その声に、淀みは潜んでいなかった。乾きすぎていたきらいがあったが、それでも、とても人を殺した後とは思えなかった。
 その後は、お互いに無言のままだった。どうしてここが分かった? そもそも、おれが犯人だってよく分かったな。どうして人殺しなんてしたんだ? しかも、何で伊坂先生だったんだ?
 交わされるべき言葉の数々が頭の中で反芻される。でも、何も言わなかったし、向こうも何も聞いてこなかった。
 だから、次に航が話し出したことは、殺人の動機についてだった。第三者からすれば、議論の飛躍も甚だしかったことだろう。
「夢を見る力が途切れたのは、子どもの頃で間違いないんだとは思う。でも、最後に意味のある夢を見たのは、最近だったと思う。――おれは、真実を知ってしまった。知ってしまったからには、しまい込んでおくことができなかった。……気付けば、おれは鬼の面を盗み出していた」
「何を知ったんだ?」
 おれが、話を進めるために口を挟む。
「楓の死の真相だ」

 ――みんな、大人になってもこの村にいるの?
 楓がごくさり気ない風を装って、問い掛ける。教室の片隅、窓の正面に立って。
 ――いきなりだな。……おれは絶対、村に残ると思うけど。
 机の上に座っている航が、真っ先に答える。
 ――私も残ると思う。どうせ、どこにも行けないもの。
 好が答える。諦めのこもった声音だったが、表情は明るい。感情を隠していることを、暗に示している。意図的に。
 ――おれは……わかんねえや。どうしようかな。
 この頃は、村に残る気持ちの方が大きかった。でも、前の二人があっさり残ることを表明したためか、迷っている素振りを見せた。
 三人の答えに、楓は窓の向こうを見やって、それぞれ「ふうん」とだけ返していた。
 楓の答えに注目したが、なかなか言ってくれなかった。ぼんやりとしている。いつものことだけれど、楓は本当に穏やかな存在だ。近くにいると、安心する。
 ――私は、外の世界を見てみたいと思う。
 楓の意志を聞くことは珍しかった。おれたちの表情に、無遠慮な興味が浮かぶ。
 ――まあ、なんとなく外に、っていう曖昧な気持ちだけどね。
 それらに気付いてか、楓はくすぐったいように笑う。
 ――それで、また村に戻ってくるの。
 戻ってくるのか? と航が聞き返す。
 ――そうよ。
 ――どうして?
 ――戻ってきて欲しくないの?
 ――違うよ。
 航は慌てて首を振る。
 ――なんてね。……私、この村が本当に好き。みんなのことが好き。だから、ここがどんなに素敵な場所か証明したい。
 それには、ずっとここにいたんじゃ分からない気がする、と最後を結んだ。

「楓は――言った通りいなくなっちまった。前触れもなく、最悪の形で」
 でもな、航の語調に力が入る。目が充血して、真っ赤だ。
「でもな、村に戻ってこられなかった。楓は、大好きな場所から引き離されたんだ。あの、――あの、くそ野郎のせいでな」
 もういいよ、と好が弱々しく呟いた。ゆっくり振り返ると、好の頬に幾筋もの涙の跡が残っていた。好は航の話の結末を、もう分かっている。
 そして、航と同じくらい楓を想っている。

 ある日のことだった。航は、父さんが風邪を引いたときに、挨拶回りを代行した。
 学校に行ったのは、最後だった。
 ノックをして、職員室のスライド式のドアを開けた。大きな窓から光が降り注いでいて、中は明るかったが、電気はついていなかった。――誰もいないらしい、と航は判断した。
 どこにいっているのか探ろうと、なんとなく室内をうろついてみた。学校時代、職員室をゆっくり見て回る機会なんて皆無だったため、興味が湧いた、というのもあったろう。
 そうしている内に、伊坂先生の机の引き出しが開け放されていることに気付いた。一番上の、私物を入れる場所。
 その瞬間、航は何か見えない力によって突き動かされたのか、その引き出しから順番に物を出し、奥底に眠っていた一冊の日記帳を見つけ出した。
 名前の欄には――東野楓、と記されていた。
 何で、と思いながらも、胸の内では嫌な予感が増幅し続けていた。まさか、まさか。心臓の鼓動が速くなる。
 ページをめくっていくと、後半から白紙になった。白紙になる前の最後のページを確かめると、楓が死ぬ前日だった。
 楓の整った字で綴られた、なんてことのない一日。――その下に、明らかに別人が書いたと分かるやや太い文字。「愛していたよ」と書かれていた。
 航には、それで充分だった。学校で起こった事故の真相が、それだけで見えた。

     八

 やるせない日々が続いた。鬼のお面を盗んだ航は、それに向かって毎夜、呪いの言葉をかけるように、ある名を囁いていた。もちろん、イサカ、と。
 航はずっと迷っていたという。どうするべきか、いつにするべきか。頭の中は、いつもそのことでいっぱいだった。人の考えていることは、他人からは窺い知ることが絶対にできない、と言うけど、考えすぎていたことで、おれの夢に入り込んできたのではないか、と今では思っている。
 宮部航、川上好、東野楓、そしておれの四人の関係は、分かりやすいようで、表面からは決してその実は見えていなかった。
 おれは、仲間を好いていた。その中で、「恋愛感情」と一般に呼ばれているものを寄せていたのは、好に対してだった。
 一方で、航は――楓を愛していた。死後も揺るがないほどに強く。誰にも悟られないほどに静かに。
 好は、おれを選んだ。
 楓は、今となってはどう思っていたのか、誰にも分からない。彼女は、天国でこの状況をどう思っているのだろう。自分に言い寄ってきた伊坂を、自分を想ってくれていた航が殺してしまったこの状況を。大切な仲間の一人である航が、その手を血で汚してしまったことを。
 そう、一つ言いそびれていたことがある。――楓は、伊坂に言い寄られていたのだ。

 楓は、人知れず悩んでいた。何かと、手を触れてこようとする男に。大人しい彼女は、誰にも匂わすことすらせず、一人で抱え込んだ。
 また、誠実な印象を周りから抱かれている伊坂に対して、そういった疑惑を寄せる人なんて常に存在せず、ありふれた日常の中に二人の秘密は紛れ込んでいた。
 それが、ついに爆発した。
 そう、楓が命を落とした日である。
 楓が階段から落ちたのは、足を滑らせたからではない。事故ではない。魔の手から逃れようともがいたためである。
 伊坂は、それを隠蔽した。自分がかわいかったから。加えて、楓のポケットからこぼれた小さな日記を、密かに自分のものとした。
 伊坂は、死に際して涙を見せなかった。それは、ずっと考えていたから。言い聞かせていたから。オレガ殺シタンジャナイ、アレハ事故ダ、と。

 ――私は殺されたのよ。
 航の夢の中で、楓が言う。意味のある夢の中で。
 ――あれは事故じゃなかったの。私は、殺されてしまったの……。
 
「あいつは、あのくずは、凶器で脅したらあっさり教えてくれたよ。あの日の真相を。聞いてないことまで、べらべらとな。どうせ殺すことは決めていたとはいえ、あそこまで余計なことを喋られると、殺意もしっかり湧くってもんだ」
 航は不敵に笑う。でも、少し疲れているような気がする。抜け殻みたいだ。
「航……これでよかったのかよ」
「昇、すまないな。おれは自首するよ」
「そんなの聞いてねえ! こんな結果で楓が喜ぶと思ってんのか、って聞いてんだ!」
「やめなよ、昇」好がおれを制する。後ろから、両腕を掴んでくる。
「好……」
「航は、好きな人のためにやったんだよ。それを、真っ向から否定しちゃダメだよ。――それは、航の想いを否定することにもなるんだよ」
 そんなつもりはない。航が純粋に誰かを愛することを否定するわけない。しかも、その相手が楓だったら尚更だ。
 航が雲悌から飛び降りた。手に、鬼の面を持ったままで。降り立って、おれのすぐ正面に立つ。せめて、その目に達成感の色が浮かんでいれば、救われるのだが、航の目は本当に色を失っていた。
 何が得られると思っての行動だったのだろう。それなのに、彼は何も得られなかった。それに、全てが終わってから気がついた。
「昇……」
 航は情けない面をして泣き出した。
「おれは――ばかなことした。でも、こうするしかなかったんだ。楓のことを想うと、何もせずにはいられなかった」
 声が、震えている。こんなに弱い兄を見るのは、最初で最後だった。
 おれは航を抱き締めて、背中をさすってやった。
「航、お前の気持ちは痛いほど分かる。――もう、何も言うな」
 航の鼻をすする音が、耳元で聞こえる。背後からも、好の嗚咽が耳に届く。
 どうすればよかったのだろう。本当に、こうするしかなかったのかな。
 どうしておれに、あの夢を見させたのだろう。三島神社の神様は、あれを見せることで、おれにどうして欲しかったのだろうか。おれは見えない期待に応えることができたのか。ただこうやって、航の背中をさすってやるだけでよかったのか。
 でも、一つだけ言えることがある。おれが故郷に帰ってきたのは、兄の夢を見たからだ。たぶん、見ていなければ東京で夏休みをのうのうと過ごしていた。そして、この事件を外から眺めていたことになる。
 だから、おれを当事者にしてくれたことに感謝する。
 どうして感謝かって? その理由を説明する必要は、もはやないでしょう。

 たくさん、それはもう本当にたくさん、あの日のことを思い出しては、胸にこみ上げてくる悔しさを、納得の心持ちで受け止める。予言ができても、結局、人は無力だ。
 村で殺人事件が起こっただけでも、蜂の巣を突っついたような騒ぎだったのに、その犯人が三島神社の神主の息子――それも跡取りと半ば決まりかけていた長男だったと知れ渡り、村中が異様な静けさに満たされた。
 重松村長は、絶えず落ち着きのない状態になった。彼には、村の主導権を握るチャンスとは、この事件を捉える考え方はないらしい。人がいいというか、骨の髄まで低姿勢というか。
 角田のばあちゃんは当然、驚いて、そして悲しんだ。「あんなに優しい子だった航君が……」言葉を詰まらせているばあちゃんを見ると、何だか申し訳ない気がしてきた。仕方なかったとは、とうてい言えない。
 律さんも驚き、悲しんだ。楓の事情を知って、その悲しみはますます強くなった。しずしずと涙を流している律さんの姿を見ると、何となく、よくできた話だと思った。不謹慎ではあるかもしれないけれど、そう思った。航は間違ったことをしていない、という考えがふつふつと湧いてきた。
 でも、冷静になるとその考えは間違っている。そう気付いてしまう瞬間が悲しくて、切なくて、やっぱり悔しかった。複雑に絡み合った内の感情のせめぎ合いで、毎日、悩んだ。
 父さんは、鬼の面が予想だにしない形で手元に戻ってきたことに、悲しげな表情を浮かべただけで、何も言わなかった。怒鳴り散らすかとも覚悟していたけど、父さんは怒らなかった。楓のことは言えなかった。でも、もしかしたら、少なくとも航が楓に並々ならぬ想いを寄せていたことは感づいていたかもしれない。親子だから。
 自分の息子を信頼している父さんは、――信頼しているに決まっている、跡取りと公言していたのだから――大した理由もなく人殺しなんて犯すわけない、と心の内で捉えていたのかもしれない。

 墓の中で眠る楓は、何を思い、その終わることのない眠りを続けているのだろうか。
 おれと好で、事件の後に楓のもとを訪れた。その日は、おれが帰る予定の日だった。こんな事件が起こったわけだから、おれは帰る日を少しでも先延ばししようと、誰にも言わずに考えていた。
 だが、父さんに反対された。せっかく大学に通えているのだから、真面目に通いとおさなければダメだ、と言われた。みんながみんな大学に真面目に通っているものではないけど、おれは「良い返事」を返した。
 だから、今日、予定通り帰る。楓には、しばしの別れを告げに来た。
 墓の横で、おれと好は二人並んで腰掛けた。ずっと遠くに、学校が見える。高層ビルなんてないから、視界を遮るものは何もない。
 好は分かりやすいくらい落ち込んで、ずっと大人しかった。さすがの彼女でも、今回の事件は重すぎたらしい。
「おれ――大学を卒業したら、村に帰ってくるよ」
 そう言っても、芳しい反応を見せてくれなかった。
「こうなったら、父さんの跡を継ぐのはおれしかいない。おれが神主の役目を引き継ぐしかない」
 わざと明るく、笑ってみる。
「ははっ、今から所作を学ぶのか。勘弁して欲しいな」
「昇なら、大丈夫でしょ。いつも傍で見てきたじゃない」
 やっと答えてくれた。
「……まあ、そうなんだけどさ。でも、きちんと習ったことはないし」
「――もし航が一人っ子だったら、今回の事件は起こらなかったのかな」
 おれは心の準備のないままに、鋭い槍で貫かれた。
「それって、どういう……?」
「だって、さ。航も宮部家のことを考えて、途絶えさせるのはまずい、とは認識してたと思うよ。だから、昇がいなかったら、航も実行に移さなかったかもしれないね」
 おれは背中を冷たい汗が伝っていく感じを覚えた。確かに、好の指摘も恐ろしいものだったけど、それ以上に、おれはあることに気がついてしまった。
 おれが大学に行っていることで、そのまま帰ってくることがない、と考えれば、たとえおれという弟がいても、航は殺人を躊躇した可能性がある。だって、継ぐかどうか不明だから。
 でも、おれは最初の休みで帰ってきたし、向こうに居続ける意志も示さなかった。
 それで、航は安心して――という言い方はおかしいけど、恨みを晴らしたのだ。
 だけれども、おれが帰ってきたのは夢を見たからだ。――つまり、あの夢によって航が凶行に走った、ということか。
 はあ、理解に苦しむ。それとも、やっぱり考えすぎなのかな。三島神社の神様が、おれたちをどうこうするわけないかな。――そう結論付けたいのに、腑に落ちない部分が多すぎる。
「昇」
 急に、好が横から腕を絡ませてきた。涙声で、儚く告げる。
「昇は、どこにも行かないでね」
 好の柔らかい部分が、おれの腕に触れている。おれはその感触を受け止めながら、彼女を抱き返した。やや窮屈な体勢だったが、無理して変えようとはしなかった。
「どこにも行かないよ」
 分かっている。これがおれたちの運命じゃないか。
 好、お前が自分で言っていたろう。楓が意志を示したあの日、教室で。
 ――どうせ、どこにも行けないもの。
 そうだ、おれたちはどこにも行けないのだ、きっと。

夢よりも切なく

夢よりも切なく

不吉な、予言。神様のお告げ。夢を見ることで予言ができた少年たち。結末は――夢よりも切なく。

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  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-14

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