時のまにま
体育館にホイッスルの音が大きく響く。その音と同時に高く宙に舞い上げられたのはバスケットボール。そして、そのボールを喰らうように見つめ、向かい合いに立つ二人。
ジャンプボール。
向き合いに立ち、対峙する相手よりも一秒でも、一瞬でも速く、その手をボールに到達させる為に、自身の最高到達点にバスケットボールが落ちてくるのを、まだか、まだか、と獲物を狩る獣のように眼光を光らせ虎視眈々。
バスケットボール自身が天に駆けられる到達点に達し、諦めたように落下を開始する。イカロスのようだ。
しかしその落下点でボールを狙う二人は体勢を変える。いわば臨戦、飛び出す姿勢だ。
そう思った矢先、弓によって引き絞られた矢のように二人がまっすぐ上方向に飛び出す。手を伸ばし、ボールに噛み付き、我が物にする、そんな小さな戦の勝利に手をかけたのは、
わたしのチームではなく相手のチームだ。わずかな差、もとの身長の差がそのまま差になった結果だった。身体能力は互角だった。
そしてこれは体育の授業で行われているバスケットボールの試合なので、こんなにも殺伐としたジャンプボールとは程遠く縁遠かったことをここに記す。
けどわたしのチームのジャンプボーラー(って呼んでいいのかな?)はバスケットボール部の子なので、
「ああぁーー~取れなかったぁ……」
って嘆いている。悔しそう侑子(ゆうこ)。授業なのに全力だなって思うけど、私の友達そうゆうこ。
「よーし、攻めるよー」
そういう掛け声の後、ボールを取った敵チームはパスを回しつつ攻めあがってくる。その掛け声は侑子もしっかり聞いていたみたいで、すぐにゴール下まで走ってきた。
「ディフェンスするよ!」
この子、とっても元気です。
とは言ったものの高校バスケ部女子とそれ以外高校生女子を比べると、ことバスケットボールという競技において、その経験値の違いから能力に雲泥の差ができてしまっているのは当たり前。それに授業体育でのバスケットボール。運動が得意じゃない女子も当然混ざっています。まぁ、わたしもそれを構成する一員なわけですが……。むしろ運動苦手女子が正しい。
話がそれてしまいましたが、何を言いたいかと言いますと、そんなわたしのような子が出したパスのボールなんていうのは侑子にとっては幼稚園生のお遊戯レベルと大差ないってことです。
河魚を捕るカワセミのようにすばやく自然な動きでパスを出されたボールの射線に飛び込み、しっかり獲物のボールを奪い取り、流れるように飛び去りました。攻守交代です。
わたしが今パスを出した子だったら青天の霹靂、何が起こったか全然わからない自信があります。
「寺坂(てらさか)、お前は手加減してやれ」
侑子、先生から注意をもらいました。「は~い」ってあまり聞く気のない返事を返す寺坂侑子。
攻撃の番になった。攻めの姿勢でわたしも敵陣地に向かって走る。けどボールを持って、敵をかわしながら進んでいる侑子の方が速いくらい。
……。頑張って走る。
気が付いたら一番奥のゴール下。最前線まで走ってしまっていた。そこで不思議なことに気が付いた。この最前線の場に侑子がいない。とっさに振り返ると少し後ろのところで侑子はブロックされていた。足を止め、必死にボールを取られまいと足掻いていた。
そこで侑子とバチリと目が合った。そして侑子は見てしまったのだろう。わたしの周りに敵が一人もいない状況、わたしがフリーの状態であることを。
「真凪(まなぎ)!」
熱の籠った声でわたしの名前が叫ばれたと同時に、敵ブロックの隙間を縫うように侑子の手からわたしに向かって、雷が放たれた。とわたしがそう感じただけで、実際に放たれたものは普通のバスケットボールである。ではなぜそう感じたのか、わたしにとっては殺人的に早く見えたからである。
そして先程も言ったとおり、わたしは、運動苦手女子です。
「ふぁ!?」
もちろんボールなどうまく受け取れるはずもなく、怖くって手でガードしようと思ったけど遅く、きれいに胸の辺りに来るはずだったボールを手で跳ね上げ、顔面で侑子のパスを受けました。それと同時に多大なダメージも受けました。
「……が運動ダメなの忘れてた」
侑子の熱は引いたようで、乾いた笑みを浮かべながらそんなことばを付け足した。侑子、ヒドイです。
バスケットボールが力なく床で跳ねる音が聞こえる。そしてわたしも力なく倒れはじめる。
「マナぁー!! 先生―!」
侑子の心配の叫びに、大げさだなぁ、と思いつつわたし、時任(ときとう)真凪(まなぎ)は意識を失った。
気が付けば布団の中にいました。
幸いというか不幸なことにというか、ケガ自体は大したことなく、顔面にボールを受けた際に鼻の頭を擦りむいた、程度の傷ができたくらいのものだ。しかし、女子高生の鼻の頭に絆創膏である。こんなかわいくないものはない。相対的に見て不幸です。
わたしは昼食の際、お詫びってことで侑子におごってもらった紙パックのアップルジュースをふてくされた顔をしながらストローでちゅーっと飲んだ。
「いや、ホントごめん。わざとじゃないんだよマナ」
横にいる侑子がそう言った。昼休み、わたしはいつも侑子と一緒にご飯を食べる。そして今は学校の中庭でご飯を食べた後、教室までの帰り道。
「怒ってないって。ゆーこしつこいよ」
彼女はわたしの名前、時任真凪から『マナ』を取ってそう呼ぶ。わたしは侑子の名前をそのまま甘めの発音で『ゆーこ』と呼ぶ。
しかし、昼休みになってからこの話ばっかりだ。
「だって、顔チョー怖いんだもん」
まぁ、絆創膏のおかげでかわいくない顔になってしまったので拗ねているのは事実である。あと、やっぱりまだちょっと痛いので若干強張(こわば)った顔になっている可能性は全然ある。もし本当に怖い顔になっているのならばそのせいだろう。
「ちょっとだけど、まだ顔が痛いからだよ。それか、ゆーこだけが罪悪感でわたしの顔が怖く見えてるだけかもよ」
うん、ジュースおいしい。そんなことを思えるくらいにわたしの心は穏やかなものである。
「ん~、そっかな~」
「そだよー」
納得はいっていないみたいです。
「そっか!」
なんか納得したみたいです。わたしの友達そうゆう子です。深く物事を考えるのが苦手でわりとパンパンと決める性格である。この件に関してはそれで正解であると思う。どんなに考えてもわたしが本当に怒っているのかどうかは、わたしにしかわからないのだから。
なので侑子のその部分はうらやましかったりもする。わたしはどちらかというとぐるぐると考えてしまうタイプだから。
「ん? あれ相田だ」
その名前にわたしの体が硬くなる。
クラスメイトの相田(あいだ)志道(しどう)君。わたしは彼の近くにいるととても緊張してしまう。
「ど、どこ?」
少し震える声で侑子に聞く。
「ほれあっち」
侑子が指差す方をわたしも見る。そこは、校舎で陰になっていて、陽の光を浴びながらご飯を食べたいと思うような季節の昼休みには不人気なスポット。つまりはあんまり人がいない場所。
そんなところにいるクラスメイトと、向かい合うようにして立つ一人の女子。その女子、なにやら少しうつむいている。
「また、みたいだね」
「そ、そうだね」
また、と言ってしまうくらいこの相田君、何人もの女子に告白されているのです!
確かに容姿端麗でかっこいいし、優しいし、頭もいい、女子から大人気の御人です。
「あ、また断ったみたいだね」
告白したであろう女子は少しうつむいた状態のまま、明らかに肩を落として相田君の前から去って行った。また、というくらいこの告白の光景を目撃するのは彼が毎回断って、誰とも付き合わないのも原因の一端。
「毎度毎度面倒だろうに、付き合っちゃえばいいのに」
「う、うん……」
歯切れの悪い返事をしてしまった。
「そうだよね、困るよね。マナも相田好きだしね」
「ぅ…、そのとおりです……」
今度の言葉はしりすぼみになってしまった。そうなのである、かくいうわたしも多くの女子の例に漏れず彼、相田志道に好意を抱いている。
「けどそうなったらそうなったで諦められるというか……」
しかしわたしは幾人もの女子たちとは違い、面と向かって告白する勇気は皆無である。なので、相田君と私が彼氏彼女の間柄になるのは天地がひっくり返ってもあり得ないくらいの確率だ。
「消極的だなぁ。シュート打たないとゴールには入らないのに」
「ボール投げても入らないものは入らないよ。わたし運動できないもん」
能力不足である。
「わからない、わからないなぁ」
「そりゃ、ゆーこはそうでしょうよ」
彼女が、この人が好きだって思ったら、次の瞬間には「好きだ」って言いに行っている姿が容易に想像できる。むしろその姿しか想像できない。
それにこの子はかっこよくてちゃんと優しい。侑子を好きな男子は必ずいるだろう。わたしなんかとは違う。わたしは不器用でどんくさいのである。その結果が鼻の頭の絆創膏でもある。
「お、相田がこっち来るよ。パスくらいしてみれば?」
平然と言ってくる侑子だが、侑子の提案にまともに返事をする精神的余裕はない。お、おおおおおお、おち、落ち着け。くらいは噛み倒してしまいそうなくらいに余裕はない。
スペックのだいぶ落ちた脳で考える。わたしにはパスとかできない、私にできることは頑張って走るくらいだ。
ここは比較的開けた場所だった。私はハッとした。
「ゆーこの後ろしか隠れられる場所がない!」
わたしは後ろ向きに頑張ることを望んでいた。
「割と真剣な顔でなに言ってんの?」
「だって……」
と情けない声を漏らしながら侑子の後ろに回った。仕方がないなぁ、というような侑子の小さな溜息がわたしの耳に届いた。
侑子の背中からほんの少しだけ顔をのぞかせていると、相田君もわたしたちに気づいたようで、小さく反応した。
「よー相田。また告白されたの? んでまたふったの?」
侑子は無遠慮に口を開いた。わたしは口をパクパクさせた。
「ははは、見られてたか」
「毎度毎度断ってさ、面倒じゃない?」
この友人、さっき言っていたことをそのまま聞いている。
「面倒ではないかな、申し訳はないけれど。好きな人がいるからね俺、仕方ない」
困った風な、弱った風な笑顔を浮かべ彼は言った。
「好きなやついるならそいつに告白しちゃえばいいのに。あんたなら大丈夫でしょ。そしたら告白してくるヤツ減って申し訳なくないのに」
「簡単に言ってくれるよね、寺坂さんは」
「え? だって簡単じゃない?」
「簡単なことじゃないよ。ねぇ、時任さんもそう思うでしょ?」
心臓が飛び上がるような音がした、気がした。けど、この鼓動の音は絶対に聞こえていると思う。そう感じるくらい心臓が早鐘を打っている。
「わたしも、相田君と、同じ」
「ほら、そういうものなんだって」
「えー、マナはわかるけどお前は違うだろ」
「違うことなんて何にもないさ、同じ同じ」
侑子はやっぱり違うと思っているようで「えー」と声を漏らしていた。
「そんなことより時任さん、ケガしてるの? 大丈夫?」
相田君は侑子に隠れているわたしを覗き込むようにしてそう言った。
「大丈夫、ちょっと擦りむいた、だけだから、気にしないで」
そして顔見ないで。お願いですから見ないでください。こんなかわいくない顔、好きな人にまじまじと見られたくないです。これがあるから逃げたかった、隠れたかったというのは大いにある。
もう恥ずかしいので穴があったら入りたい。そして埋まりたい。
「私のマナに寄るな、近いぞ」
「あぁ、ごめん」
なぜか侑子の所持品扱いされてしまったが、助け舟を出してくれたようだ。わたしの心の機微を察してかどうかは知らないけれど。
まぁ、同じクラスなのでこの顔を見られてしまうことはあるだろうけど。しかし、わたしのことなど相田君は眼中にないだろうからその確率は低い。と言ってて悲しくなってきた……。
結局見られたいのだろうか見られたくないのだろうか? とりあえず今日は見ないでほしい。
「そうか、大したことないならよかったよ」
そこで、コクンと頷きを返すことがわたしの限界であった。
「じゃあ俺、先に戻るね」
そう言って去って行く相田君の背中が遠ざかっていくと共にわたしはちゃんと呼吸ができるようになってきた。それほど切羽詰まっていたようだ、わたし。
そして意識して息を大きく吸い、吐いた。
「真っ赤だね、マナ。あはは、リンゴみたいだ」
侑子はわたしの手にあるジュースを見ながらそう言った。侑子のおごりで買ってもらったアップルジュース。
わたしはむくれて頬膨らます。ますますリンゴみたいになって、侑子は笑った。
「いいよ、もう」
わたしはそっぽを向いてジュースを飲んだ。ジュースは空だった。
閑話休題。
なのだけれど、休題というよりは急題という字の方が合っているように思う。ここからはなんの脈絡のない急なお話。
天は二物を与えず、ということばのようにわたしには二つも三つも才能はない。ただわたしには与えられた一物、たった一つの才能があった。
それは『時を止めてしまえる』という才能。才能というより能力とか力の方がしっくりくる。
そんな超能力みたいなものが、わたしに天から与えられた一物である。
ただこの能力、実に使えない。
周りがすべて停止し、その停止した世界で動けるのも意識があるのもわたし、時任(ときとう)真凪(まなぎ)だけ。この世の全てのもの、本も人も、ペンの一本、空き缶の一つだってその場に縫い付けられたように動かせない。
テコでも動かせない。
落下しているものは落下している途中で止まっているし、外を眺めても雲も太陽も動かない。
そんな物理法則も捻じ曲げて、ありとあらゆるものが静止してしまっている状態になるのだ。そしてその静止世界で動けるのはわたしだけと言ったが、きっちり正確に言うと動けるのはわたしの体だけ。そう、服を着ている状態だと全く以って身動きが取れないのである。それが実に使えない理由。
裸になって外を動き回るなんてまるで痴女ではないか。いくら誰にも認知されないすべてが静止した空間であっても痴女ではないか。普通の女子高生のわたしにはそんなことできません。それが実に使えない理由。
裸になって外を動き回るなんてまるで痴女ではないか。いくら誰にも認知されないすべてが静止した空間であっても痴女ではないか。普通の女子高生のわたしにはそんなことできません。度胸もないし、見られていないと知っていても恥ずかしくて死んでしまいたくなると思います。
なのでこの使えない能力、今はこんな風に使っています。
教室で、相田君がわたしのいる方向を見たとき、時をを止めて少し眺めます。
教室で、相田君とわたしがすれ違いそうになったとき、時を止めて少し見上げてます。
教室で、相田君が誰かが話してて、笑っている横顔を、時を止めて少し見つめています。
……。
それだけで、満足です。
…………。
そして、今日も同じように相田君とすれ違う時に時を止めて、彼を見上げた。この日、わたしの心の中にあったのは、女の子が相田君に告白をする姿。あの場面を思い出してしまう。相田君は何度も告白されているみたいだけれど、わたしは初めて見たから、その光景。
ここはわたしだけの世界。すこしだけ、欲が出てしまった。ちょっとくらいいいよね、と自分の背中を押してしまった。
「~~~っ」
恥ずかしい。顔を見たままは無理なので、目線は下の方に移した。
「わたし、相田君のこと、好きです」
顔から火が出そうである。
と、思った束の間。
「嬉しい、俺も時任さんのことが好きです。付き合ってほしい」
……。
……。
……なぜだか声が降ってきました。
顔を上げると、相田君が動いていました。周りを見ると、ことばを失ってみんな固まっていたが、ちゃんと動いていた。窓の外では鳥が飛んでいた。時計の長針がカチリと一メモリ動いた。
わたしは絶句し、わたしの中の時が止まった。凍りついた。
実はこの時を止める能力、時を止めているのにこの表現はおかしい気がするが、あまり長い時間止めてはいられない。
「あ、あははは」
乾いた笑いが、かすれるような音で私の口から漏れた。どうやら時間をかけすぎてしまったようだ。わたしの気持ちを聞かれてしまった。
急激に恥ずかしさが込み上げてくる。相田君はわたしの顔を覗き込んでいる。全身火達磨になりそうなくらいに熱い。今なら瞬間湯沸かし器にも負けない速度で水を沸騰させることができる気がする。
と、それもなのだが、相田君はわたしのことばになんて返した?
わたしのことが好――――。
「!!!!!」
容量オーバーである。思考停止、思考回路はショートである。私が機械なら、ボンッと音を立てた後に頭から煙を出していたところだろう。
「あ、あ、あの……」
まともな言葉が出てこない。当たり前である。まともに考えることができていないのだから。
「ご、ごめんなさい!」
そんな言葉を相田君に投げつけて、わたしは教室から脱兎のごとく逃げ出した。そのまま止まらず、行く先も決めず、わたしは廊下をただただ全力で走った。
どうしようどうしようどうしようどうしよう、どうしようっ!
ただ、心のどこかで、少しだけちゃんと喜んでいるわたしもいた。
(了)
時のまにま