たった五分

たった五分

かかりつけの病院で行う定期的な血液検査で肝臓の数値の異常が発見されるまで私は、八十歳近くになる今まで自分の身体の中に胆管という臓器があるという事を知らなかった。胆管とは肝臓と十二指腸を繋ぐ臓器で、ここに腫瘍が出来ると消化吸収の働きを助ける胆汁という液体が身体の中を流れなくなり肝臓の数値が上がり黄疸症状が出始める。胆管は長さ約十センチ程しかない。腸は何メートルもあるのに…

血液検査の異常の後に造影CTの検査を行い、明らかに胆管に異常があると医師から告げられた私はその後の内視鏡検査で胆管癌の告知を受けた。たった十センチ程の臓器に腫瘍が出来るなんて、それも悪性。なんて運が悪いのだろう。幸い手術の適応があるとの事で主治医からは手術を勧められたのだけれど、約十二時間にも及ぶ大きな手術だと聞かされた私は怖くなった。八十歳近い高齢者の私にそんな大きな手術を乗り切れる体力があるのだろうか?高齢者でも手術をする人は多くいるし、心臓が手術に耐えられれば大丈夫だと主治医は言った。

「麻酔で眠っている間に手術は終わるので、感覚的には五分もかかっていない感じですよ」

百戦錬磨の医師は何でもない事の様にさらりと言うけれど、手術が産まれて初めての人間にとっては走って逃げ出したくなる現実だ。実際私は逃げた。手術の内容を聞けば聞くほど怖くなり不安が押し寄せる。手術中に亡くなるリスクがある事、開腹して他の臓器に浸潤していればインオペラブルになる事、手術が成功しても再発や転移の可能性がある事…手術を受けても長生きするとは限らない。痛い辛い思いをしても死んでしまうのなら、今すぐに死んでも構わない。もう八十歳近い高齢者なのだから。

たった一つの心残りはもうすぐ五十歳になる独身の一人娘が、私が死んだら本当に一人ぼっちになってしまうという事だった。病気が発覚し検査入院を繰り返す私の世話をしてくれている娘を見ていると、仕事と家の事、そして検査入院中の私の世話が増えてどうしようもなく疲れている様に思えた。私は手術を受けず早く死んだ方がきっと娘の為になる、そう感じ始めていた。

黄疸以外の症状が出ていなかった私はしばらくは手術を拒否して自宅でやり過ごしていたのだけれど、ついに胆管癌が悪さをし始め、胆管炎を発症し高熱が一週間以上続いた。治療の為にまた入院を余儀なくされた私は娘の事が気掛かりで仕方がなかった。このまま死んでしまえばもう娘に迷惑を掛けなくて済む。けれどそう思う私を神様はなかなか死なせてはくれない。

絶食と点滴で朦朧とした意識から快復した私の目に飛び込んで来たのは、綺麗な鶴のかたまりだった。可愛い桃色、淡い橙色、落ち着いた緑色、綺麗な赤色のグラデーションの鶴達がお行儀良く並んでいる。千羽鶴?それにしては数がかなり少ない気がする。

気が付いた?と娘の声が聞こえた。何日寝ていたのだろう。とても懐かしい感覚がする。
「綺麗だね、鶴…」
「ごめんね、時間が無かったから百羽しかないけど。千羽鶴成らぬ百羽鶴ね。十分の一しかないけど、気持ちは十倍込めて折ったから」
鶴を一羽折るのに五分かかるとして、百羽で五百分。五百分は…何時間だろう?熱でまだぼんやりとしている今の私の頭では計算が上手く出来ない。けれどその時間の間中、娘が私の事を想ってくれていたのだという事は分かる。一羽一羽、どんな思いで折ってくれたのだろう。数は少ないけれど千羽鶴の十倍、百倍も気持ちが込もっているはず…百羽鶴を見つめていると、娘がピンクのポインセチアの鉢植えを買ったと話している。本来花や植木に全く興味が無い娘、きっと植木いじりが趣味の私の為に買ってくれたのだろう。少しでも元気が出るように、前向きな気持ちになるように。

「ピンクのポインセチア早く見てみたいわ。それまで枯らさないでよ。私、手術受ける事に決めたから。私がもし死んでも泣かないでよ」
たった五分で終わる手術くらいきっと乗り越えられるはず、今はそんな風に思える。

たった五分

たった五分

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-13

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