冬に咲く花

     一章



 人は変わる。
 しばらく会わなかった友人を偶然、街で見かけたとき、別人のように見えた。注意して見なければ、あれが友人だと判別できなかったぐらいに。
 親戚もそうだ。私には五つ下の従兄弟がいる。最初は喋れない赤ちゃんだったのが、数年ごとに会う度に当然、背が伸びて、喋れるようになって、彼自身が持つ性質を現し始める。
 時間の経過とともに、人はそれまで認識していたその人自身の姿かたちを変化させる。
 だから、身近にいる友達にも変化は訪れている。個人差はあるし、いつも一緒にいるせいでその変化に気付きにくいが、そういう観点で人を観察してみると、確かに変わった所はある。雪絵は髪にウェーブをつけているし、亜実はメガネをやめてかわいさが増した。稲田君は坊ちゃん刈りだったのが、ワックスで髪を立たせるようになった。人間関係の変化で言えば、今現在、亜実と淡路君は付き合っている。
 私も変わった。
 残念ながら、かわいくなったとか、内に閉じこもりがちな性格を直して、社交的になった、というポジティブなことではない。学校生活の中で他の誰にも知られずに訪れた、それでも私の心を締め付けるその変化が訪れたのは春先のことだった。
 今日も平凡で平和な一日が始まる、と信じて疑わなかった朝だった。と言うより、考えたこともなかった。下駄箱で上履きに履き替えようと手に取ると、ズタズタに切り刻まれていた。まず、驚いた。声は出さなかった。次に、いじめと結びつけた。認めたくなかったが、こんな徒労を施してくれるのは、いじめしかありえなかった。おとなしい私は、敵を作らないが、いじめの対象になりやすかった。小学校は男子のいたずらを誰よりも多く受けたし、中学校に入ってからも女子のからかいの標的にされたのは、私が多かった気がする。それでも、マシな方だと思っていた。物理的な行為はないし、避けられるよりは良いのではないかと半ば諦めていた。
 切り刻まれた上履きを見たとき、ついに来たか、と考える一方で、そんなはずがない、と認めたくない気持ちがあった。
 いずれにしても、私はこの事実を誰にも話さないことにした。幸いにも、相談できる友人が私にはいたが、慰めてもらいたいわけでも、犯人探しをして欲しいわけでもないから、知られるまで黙っておこうと決めた。それに、これきりで終わるかもしれない、と思っていた。突発的な行動で、もしかしたら悔いて、二度とやらないと考えている犯人のことを思ったら、ことを荒げて引っ込みがつかなくさせるよりも、ひとまず様子見をした方が良いかもしれない、と考えた。
 だが、私のこの考えは甘かった。
 その後もいじめは不規則的に私を襲った。机の中に入れていた教科書がやはり切り刻まれていたり、プラスチックのコンパスケースが粉々に砕かれていたり、とにかく持ち物が狙われた。おかげで、私は「置き勉」をやめた。毎日、重い荷物を背負って、学校に通った。
 私に直接、危害を加えることはなかった。だけど、ここまでくると、物理的な行為がないからマシだ、と割り切れなかった。私の心を締め付ける犯人が、その姿を見せないことに恐怖を感じた。その尻尾すら窺えなかった。クラスメート全員が敵なような錯覚に陥った。
 次第に学校に行くことが億劫になっていった。

 カーテンを開けると、朝日の眩しさが目に飛び込んできた。目を細めながら、窓の前で立ち尽くす。今日もまた、私の気も知らないで一日が始まる。
 本当に嫌なら、誰かに打ち明ければいいのに。両親でも、先生でも、友達でもいいから、この苦しみを伝えればいいのに。そんなこと、分かっている。それ以外に良い方法がないことは、とっくの昔に気付いている。
 家を出発した。学校へ向かう。誰にも打ち明ける気がないのなら、せめて周りに覚られないように過ごすべきだ。そう心に決めて、半年以上が経つ。日を追うごとに、そんな心が重くなっていく。
 もう限界。
 頭に浮かんだ考えを慌てて打ち消す。まだ大丈夫。我慢していれば、その内、向こうも飽きてきて、誰にも知られずに始まったように、誰にも知られずに終わりを迎える。そろそろ、終わるだろう。来月には終わっているのではないかな。学年が変わる頃には、さすがに終わっているだろう。
 学校に着いた。下駄箱から上履きを出した。見た目の変化はない。切り裂かれていないことに安心して、地面に落とすと、じゃら、と音がした。音とともに、小さな光みたいなのが見えた。
 そんなはずがない。今まで、私を傷付ける目的のいじめはなかった。でも、これは間違いなく私に物理的な攻撃を仕掛けてきている。
 上履きの中から出てきたのは、無数のがびょうだった。
 気付かなければよかった。気付かずに足を入れて、血まみれの足で助けを求めれば、この苦しみは終わったのに。そう思いながらも、まだ誰かにすがることを自分に認めなかった。
 他の人に見られないように、がびょうを慌てて集めて、制服のポケットの中にしまった。改めて靴を履き替え、早歩きで教室を目指した。何にもなかったことにしよう。気にしないで、普通の一日を過ごそう。
 廊下は、静かだった。人がいなかった。その静けさが、油断を誘ってきた。私は戒めてきた感情を思い起こしてしまった。あの頃から、これ以上の悲しみはないと決めて、何があっても悲しまないと誓ってきた。乾いた目から涙が溢れそうになって、唇をぎゅっと噛み締めた。泣くな、私。普通の一日を過ごすんじゃなかったの。
 久しぶりの感情は、ダメだと言っても聞かなかった。何より、気持ちよかったから。悲しむことは、私の苦しみを少し和らげてくれるようだ。
 泣くな、私。もう教室だ。悲しむのはまだしも、涙を流して他人に覚られてはいけない。
 教室から、人が出てきた。今日初めて、校内で人を見た。その出現に、油断が引き締まる。顔を俯かせて、その人の横を通り過ぎようとする。
「何で泣いてんの?」
 私は反射的に手で目の辺りを隠した。堪えているつもりだったが、すでに頬を伝っていたのだろうか。上目遣いに相手を窺うと、淡路君だった。
 他の人だったら、何とか言い訳をこしらえて切り抜けただろう。欠伸して、とか。うそ、全然気付かなかった、とか。
 でも、幸か不幸か、目の前で私が泣いていることを認めたのは、淡路君だった。さっき引き締まったばかりの緊張がまた緩んでしまう。涙は言い訳が効かないほど溢れてきた。
「おい、どうした石川。大丈夫か」
 いつも私の名字を遠慮がちに呼ぶ淡路君が、はっきりと呼んだ。
「……あの、淡路君」
 泣くな、私。何も言うな。
「あのね……」
「ゆっくりでいいぞ」
 やっぱり淡路君は優しかった。いつだって、私たちのことを気遣ってくれていた。だから、どう接したらいいか分からなくて、いつだってよそよそしくて、それが優しさの裏返しだと分かっていた。
「あのね、淡路君……」
 それでも、私の中で自制が働き続けていた。泣くな、言うな、私。人に甘えてはいけない。まして、彼になんてもっての他だ。
「話があるの」
 だが、すがる言葉が勝手に口からこぼれていた。

 ――裕里、ごめんね。
 どうして謝るの。私は大丈夫だよ。本当につらいのは、お母さんのはずでしょう。
 ――あの人は、とても良い人なのよ。悪いのは全部、私。ごめんね。
 お母さんはあの頃、夜一人で泣いていた。私の前で気丈な振りをしているのが、幼い私でも分かった。そんなお母さんの小さな背中が、弱々しい笑顔が、痛ましかった。見る度に胸に嫌な風が吹き込んだ。
 私は分かっていたくせに、気の利いた言葉をかけてあげられていなかった。ただ、黙って、お母さんの姿を見つめているだけだった。
 あの頃、私にできたことはいっぱいあったはずだ。湖面に、注意して見ていなければ気付かないほどの波紋を及ぼす投石が、幼い私の掌に抱かれた石で可能だった。そして今、後悔している。些細なことでも、何もしないで佇んでいるよりは、この後悔も、お母さんの悲しみも小さかっただろう。
 ――裕里、あの人を恨まないでね。
 いつから、あの人と呼ぶようになっていただろう。私と血を同じくした一般に言う「お父さん」に当たる人、今となってはどんな声で、どんな性格で、どんな顔だったかも曖昧だ。ただ、それだけ覚えていないということは、傍にいる時間が短かったこともあるけど、物静かな人だったのかもしれない。私に似て。
 世の中に物静かな人なんてたくさんいるけど、この共通点を見つけたとき、正確に言えば想像の上で思い付いたとき、私は親子の証明が完成した気がして、嬉しくなってしまった。
 お母さんにつらい思いをさせた「お父さん」を恨みたい気持ちと、それでも普通の家みたいに「お父さん」という存在を欲する気持ちが常に私の心に内在していた。
 
 放課後、淡路君に頼んで、他にも信用が置ける何人かに話を聞いてもらうことにした。彼と仲がいい二本君と稲田君、それから私と仲がいい雪絵と亜実。二本君は、にもと、と読む。
 話を持ちかけたのは私だから、当然、私の告白から始まった。普段、自分から話を切り出す機会が少ないから、手探りの感があった。
「えっと、実は――今年の春から、私はいじめにあってるの」
「えっ!」
 それぞれの表情に驚きが走り、やがて私を心配するものに変わった。いらなかったと思ってはいたものの、誰かに慰められるのは悪くない。
「誰に?」
 稲田君が私の顔を覗き込むようにして、言った。隣で雪絵が口の前に手を当てている。クールな亜実も、目を見開いて私を見つめている。
「誰か分かんない。私の持ち物がいつも狙われるの。――今日は、上履きの中にがびょうが入ってた」
「がびょう――」
 一斉に息を飲んだ。血まみれになる私の足を想像したのだろうか。
「男か、女かも分かんねーの?」
 二本君が尋ねた。私は首を横に振った。
「人数も?」
 亜実が聞いた。これにも首を横に振った。亜実の隣で腕組みしている淡路君が、ふうとため息を漏らした。「コソコソしてる、ってわけか」
「ひどい、許せない」
 雪絵が怒った口調で言った。「誰だか知らないけど、絶対に許せない」
 私は嬉しかった。その言葉と表情に、私を思いやる気持ちが窺えた。
 雪絵は、高校に入ってからの友達だったが、誰よりも私思いだった。明るくて、かわいい雪絵は、自分と対照的な私の傍にいてくれた。移動教室も一緒に行ってくれた。遊びに誘ってくれもした。笑わせてくれた。雪絵がいてくれたから、私は億劫な学校生活に光を、微かな光を見出すことができた。
 もっと早く打ち明ければよかった。
「犯人は誰だろう?」
 亜実が顎に手を当てて、呟いた。頭が良く、クールな性格に合う、派手じゃないけど美人な顔の亜実は、その姿がよく似合った。きれいな肌に、一瞬目が奪われる。
「とりあえず、ウチの学年だろうな」
 二本君が言った。淡路君が頷いた。
「ああ、それは絞れるな。ただ、クラスは限定できないな。尻尾は全然掴めていないんだろ」
「うん」私が答える。「何にも痕跡残さないし、時間も場所も、目撃されないようにすごい考えられてる」
「じゃあ、そこそこに頭のいいやつか、それか執念深いやつか」
「ねえ、執念深いんだったら、犯人は女子じゃない? 男子がこんなに長く続けるかな」
 雪絵の言葉に、私は心の中で納得した。確かに、いつも犯人を想像するとき、女子の姿を思い浮かべていた。ただ、それは単独犯だったらだ。
「でも、複数犯だったら、男子っていうこともありえると思う」
「うーん」稲田君が頭をかいた。「そうかな、おれだったら面倒臭くてやんねえけどな」
 稲田君はとても気さくな人で、周りを和ませる性格だ。彼の的外れな言動は、みんなに呆れられるけど、その分だけみんなに好かれている。彼を嫌う人は少ない。
「理人、お前の感覚を当てはめんな。あてにならん」
 淡路君が厳しく言い放った。理人は、稲田君のことだ。
「いじめの犯人なんて、常識外れな感覚を持っているもんだ」
「推理は慎重な方がいいね。推測でいくらでも犯人像を思い浮かべることはできるけど、証拠がないのに男子、女子、単独、複数を決め付けるのは早計だよ」
 二本君が言った。二本君は学校の勉強は並だが、頭の回転が早く、鋭い発言をすることがよくある。
「そうかな、絶対に執念深い女子だよ」
 雪絵は自分の想像をあくまで推していた。
「じゃあ、二本君はどんな人が犯人だと思うの?」
 亜実が微笑みを浮かべて、言った。
「え? 何でおれ?」
「推測でいくらでも犯人像を思い浮かべることができる、って言ったじゃない」
 亜実の微笑みは、美しくて少し不気味だった。彼女を敵に回したら、恐ろしい目に遭いそうだ。味方でよかった、と内心、勝手に安心する。でも、恐ろしい目といえば、いじめで充分、味わっている。
 ふと、考えの延長線上で気付いた。私は、今の自分のいじめられている、という状況を客観的に捉えられている。一人で悩んでいるときは、常に悲観的な感想しか出てこなかったが、彼ら、彼女らといると心が楽になっている。
「そうだなあ」
 二本君は照れ臭そうに笑った。みんなの注目が彼に集まる。
「明るい笑顔の仮面を被った、陰湿な女子じゃないかな」
「ほら、私と一緒」
 雪絵が笑顔になった。
「なるほどね」
 亜実はただそう言って、それ以上は何も言わなかった。

「ってかさあ、先生には言わねえの?」
 稲田君の疑問は当然だった。私も先生にだけ伝えて、解決を図ろうかと考えたことはある。
「いいよ、そんなこと」
 そう言ったのは淡路君だった。
「先生が信用できないってこと?」
 雪絵がいぶかしむ顔をした。
「そうじゃない。石川がおれたちに打ち明けた今、あんまり情報を広げない方がいい。それに先生に言うと、まあ無断はないと思うけど、大々的に犯人探しを始めるかもしんねえだろ」
「優しいのね」
 亜実が呟いた。冷たい、という形容が当てはまる口調だったのに、その表情は明るかった。
「何で? 優しい要素あった?」
 稲田君が、わけが分からない、といった顔をした。私にも分からなかった。
「だって、大々的になったら、それが善意の表れだとしても、裕里の気持ちは複雑でしょう」
 ようやく分かった。私への優しさが言葉の裏に隠れていたのだ。
いや、言われてみれば、隠れてなんかいない。表に出ている。
「別にいいだろ」
「あら、責めたわけじゃないわよ。むしろ、意外と気が利くんだなあ、って感心しただけ」
「ああ、まあ、詰まる所」二本君が割って入った。「先生に言わないで、おれたちで解決を図ろう、ってことでしょ。それにはさ、狙われそうな所を見張ろう」
「いや、待てよ」
 口の前に握り拳を当てて、稲田君が真剣な顔で言った。
「犯人は、この中にいる」
「はい、無視」
 淡路君が手を、蚊を払うように稲田君の前で振った。
「何言ってんだ、いるわけねえだろ」
 二本君も呆れ顔。
「いや違うよ、もし、の話。もしいたとしたら、見張りとか無意味だな、ってことを言いたくて」
「意味あるよ、絶対」
 亜実が有無を言わさぬ口調で言った。「この中にはいるわけないもん。だから、必ず意味ある」
 強い口調に、稲田はうなだれてしまった。
 見かねた雪絵が助け舟を出すように、「今のは、あれでしょ。元気ない裕里を笑わせるためでしょ」と言った。
「おお、そうそう。分かってくれたか」
 調子に乗って、稲田君は得意気になる。腰に両手を当てて、笑顔になった。
 明らかに無理のあるフォローだったが、確かに私は笑えていた。何か、久しぶりに心から笑った気がする。
「ありがとう、稲田君」
 そう言うと、「そんな曇りのない瞳で言われると、心苦しいな」と頭をかいた。私たちは、また笑った。

「見張りはどこに置けばいいかな」
 二本君が私の方を見て言った。どこが狙われるか私しか知らないのだから、私以外にこの答えを言える人はいない。私以外に答えを言えるのは、この場にはいないけど、いじめの犯人だけだ。
「下駄箱が多いけど、机の中とか、ロッカーとかもたまに」
 ロッカーは教室の後ろ側についている。
「よく半年も他の人に気付かれなかったな」
 稲田君が、感心するように言った。
「本当に、私も気付かなかったよ」
 雪絵が申し訳なさそうに言った。でも、雪絵たちは悪くない。私は誰にも知られたくなくて、必死に隠していたから。
「もしかしたら、誰か見て見ぬ振りをしているやつがいるんじゃねえか」
 淡路君はさっきから、自分のことのように憤りをあらわにしていた。私への気遣いの延長線上かもしれないが、それでも嬉しかった。
「そうね、いじめとは思わなくても、何となく見かけた人はいるかもね。何より、長期間だから」
 亜実が語尾を優しくした。私は大丈夫だと言う代わりに、小さく笑った。
「じゃあ、今日はもう帰るとして、明日の朝、学校の開く時間に全員、教室集合で」
 二本君が結論を出した。誰にも異存はなく、黙って頷いた。
「よし、犯人を絶対に捕まえてやるんだから。――裕里、一緒に帰ろう」
 雪絵が言った。
「うん」
 私は笑顔で頷く。
 全て上手くいく気がした。もう、苦しまなければならない日は、二度と来ない気がした。こんなに温かい友達がいて、私を笑顔にさせてくれる存在がいて、これ以上何を望もうか。
 もう、犯人は誰でもいいような気がした。誰だろうと恨まない。どころか、その人に感謝してしまうかもしれない。こんな大切な存在に気付かせてくれてありがとう、と。それは言い過ぎだが、私の心は昨日までよりずっと軽くなっていた。

 のんびり帰り支度をしていたら、二本君と稲田君が「明日の早朝に」と告げて、二人で帰っていった。
 顔を上げてドアの方を見ると、私を待っている雪絵がどこかを指差していた。少し離れた所で、淡路君と亜実が話していた。二人だけの世界に入っているようで、表情に周りを気にする色がなかった。声は潜めていて、話している内容は全く聞き取れなかった。
 私は急いで雪絵のもとに行って、二人に黙ってその場を後にした。
 忌まわしき下駄箱の前に着いて、今朝の悲しみを断片的に思い出したが、隣に雪絵がいることで胸の内に闇が立ち込めることはなかった。
 靴を履き替えて、ふと思った。今日でいじめが最後になるのだとしたら、私は後になって、この日をどんな風に思い出すだろうか。大切な日、記念日とでも位置づけようか。人生の分岐点とも言えるかもしれない。
 校舎から一歩出たとき、後ろから足音が響いてきた。気になって振り向くと、亜実が走ってきていた。
「待って、私も帰る」
「えっ」
 私と雪絵は顔を見合わせた。てっきり淡路君と帰るのかと思っていた。
「あれ、淡路と帰るんじゃなかったの?」
 雪絵が聞くと、亜実は手を顔の前でひらひらと振った。
「何か、寄る所があるんだって。一人で帰るの寂しいから、一緒に帰ろう」
「いいよ、帰ろう」
「大歓迎」
 そう言って、三人で歩き出した。
 空は、暗くなりかけていた。冬の日没はとても早い。学校の周りはただでさえ人通りが少ないのに、これではますます少ないだろう。
 雲が形を変えて、私たちに襲いかかってきたらどうしよう。
 そんな心配をしていた頃があった。剣になって降ってきたら。兵隊になって、一斉に攻めかかってきたら。非力な私たちは、対処のしようがないじゃないか。
 お母さんに言ったら、雲は綿菓子みたいにやわらかくて、触り心地がいいから、大丈夫よ。そういうのは、キユーって言うのよ、と笑って諭した。へえ、そうなんだ。触ってみたいなあ、と純粋な私はそれを信じた。
 さすがに今では、雲が触ってもやわらかくないことは分かる。キユーは、杞憂と漢字で書くことも。
 昔は、もっと世界が単純だった気がする。分かりやすくて、ぼんやりと過ごしていても同じ明日が来ると思っていた。だから、あの頃、何もしないで、繰り広げられる展開を静観していたのかもしれない。
 途中で雪絵だけ方向が違うため、「じゃあね、裕里。私は絶対にあなたの味方だからね」と言い残して、手を振った。
 振り返しながら、温かい友人の存在に、私の心は温かくなった。
 亜実と二人で並んで歩くことになった。彼女と帰るのは、多くはないけれど、初めてでもなかった。亜実はたまに沈黙の淵に浸かるが、他の人と違って、その沈黙は気まずさや嫌さはなかった。彼女の聡明な性格がそれを手伝った。その沈黙は、私たちなんかが思い及ぶことがない種類の考え事をしている最中だとか、あるいは頭の働き過ぎでたまに休む必要がるのだとか、勝手な解釈をしていた。
 また、彼女の沈黙は恐怖でもあった。感情を表に出さない性格だから、腹で何を思っているのか分からない。性格が悪いとは少しも思わないが、彼女が怒りを胸に抱いているとしたら、それをもし、表に出してきたら、私は恐怖で縮み上がることだろう。
 しかし、現実にそんな心配事は無用だ。これも、杞憂というものだ。
「どうして、すぐに誰かに助けを求めなかったの?」
 沈黙を破って、亜実の質問が私の耳に届いた。亜実の疑問はもっともだった。私自身、早く仲間たちに助けを求めればよかったのに、と過去の自分をなじっている。
「そうよね。どうしてだろう」
「自分でも分からないの?」
 亜実が、私の前を向いたままの目を覗いてきた。亜実の表情は、心配しきりで、励まそうとしているのがありありと窺える雪絵と違い、冷静に事実だけを捉えようとしている。私をかわいそうだと思っているが、感情的になっていても仕方ない、と思っているようだ。
 しかし、これもあくまで私の推測に過ぎないので、頭の中で全く違うことに思いを巡らしているのかもしれない。
「分からないこともないけど――上手く言えない。一つ言えるのは、すぐに終わると思っていたんだと思う。だから、表沙汰にしないで、終わるのを待っていたんだと思う」
「……優しいわね、裕里って。優しすぎるぐらいだわ」
「え?」
 ここで「優しい」という単語を聞くと思わなかったので、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「表沙汰にしないのは、自分のキョウジを守りたいからじゃなくて、いじめる人を守るためでしょう」
「キョウジって?」
「矜持は――プライドのことよ」
「ああ、そうかな。そういうことだと思う」
 違うとすれば、私は犯人を「守る」だなんて、たいそうなことをしようと考えたわけではない。ただ、犯人を面と向かって摘発する勇気がなかっただけだ。裏を返せば、結局、守りたかったのは自分自身なのだ。
「恨んだりしなかったの?」
「犯人を?」
「そう」
「あんまり。まあ、つらかったのは確かだけど」
「ふうん……私だったら、憤りをその場でぶちまけるかもしれないなあ。だって、普通そこは怒る所じゃない?」
「まあ、そうだけど……」
 私は俯いた。
「だけど?」
 亜実は重ねて聞いてきた。しかし、答える気はなかった。曖昧に笑ってごまかし、亜実も諦めて聞かなくなった。
 私には、誰かを恨んだりできない。だって、誰かを恨むことは、それこそ本当につらいことだと知っているから。
 ……――ん?
 誰かの叫び声が聞こえた。ちらっと亜実を見たが、亜実には聞こえていないようだった。
 待てよ、今の叫び声は、私の声じゃなかったか。誰かの叫び声と言ったが、まさか自分とは思わなかったから、分からなかった。でも、それは変だ。だって、私は実際に叫んだりしていない。
 それでも、聞こえたのは確かだ。
 不思議なことだ。何が何だか、よく分からない。
 そして、嫌な予感がした。今、私の知らない所で何かが起きているのかもしれない。あるいは、これから起こるのかもしれない。そんな気がした。

 机に向かって宿題を片付けていたら、次第に眠気を催して、うとうとと首を揺らし始めた。今日は何だか、疲れている。久しぶりに泣いたからだろうか。
 うとうとしているときのもどかしさは、何とも言い難い。どう抗おうと試みても、私を眠りに誘う力は強くて、とうてい敵わない。
 いつの間にか、眠っていたようだ。目が覚めた私は、イスから立って、コーヒーでも飲もうとキッチンに向かった。何となく、足が軽かった。ふわふわと、宙に浮かんでいるような。
 部屋のドアを開けると、今日、亜実と雪絵と三人で通った、あの帰り道が広がった。遠くにサッカー場が望める、ずっと真っ直ぐの道。私は制服を着て、誰かと一緒に帰っていた。
 楽しい。話していると、自然と笑顔になれた。腹を抱えて笑い、笑いすぎで目から涙が滲んだ。その涙が、一粒、地面にピシャッ、と音を立てて落ちた。涙がそんなに音を立てるとは思わなかったので、驚いて地面に目を向けると、その涙の粒が大きくなって、あっ
という間に水溜りになった。水溜りはあちこちに出来上がっていって、辺りが急に暗くなった。空が、青から灰へ変化した。
 私はびしょ濡れになったが、寒さは感じなかった。
 さっきまで隣にいた友達が消えていた。途端に、抑えようがない寂しさに襲われた。世界中で一人取り残されたような気がした。いや、気がした、ではなかった。一人だと確信していた。私以外の他の誰もこの世界には存在しない。
「助けて!」
 私は叫んだ。この恐怖から脱け出したかった。
「許して!」
 誰に何を許してもらおうというのか。私は今まで、どんな人でも許してきた。誰かを恨むのは、つらすぎると言って。でも、誰かに許されたことはない。だから、本能的に許されてみたいと感じた。
「お願い、許して!」
 私の叫び声を消すように、雨足は強くなった。次第に、自分で何を言っているのか分からなくなった。それでも、叫んだ。何かを、必死に。
 相変わらず寒くはなかった。開放されたいとしたら、ただ、寂しさから。寂しさと寒さはお似合いだと思っていたけれど、私の中ではそうではないらしい。そういえば、あのときも――。
 誰かが甲高い声で、私の名を呼んでいる。完全な孤独だと思っていた世界が、歪み始める。景色が所々、白を帯びだし、何もかもがぼやけてきた。
 そして、机からがばっと、顔を上げた。……あれ? 部屋にいる。
「裕里、そんな所で寝て。風邪ひくわよ」
 お母さんが傍らにいた。――私は、コーヒーを飲みに行こうとしたんじゃなかったかしら――そうか、あれは夢だったのか。それにしても、変な夢だった。
「私、何か叫んでた?」
「いーえ、何も。夢でも見たの」
 声を外に出していなかったことにホッとしたが、奇妙な夢を見たことに変わりはない。しかも、次第に内容が曖昧になってきた。
「……うん、変な夢、見た」
 お母さんはやわらかく微笑んだ。
「疲れてるのよ。今日は、もう寝なさい」
「うん、そうする」
 重くて、のしかかるような眠気は相変わらず続いていたので、私は布団にもぐり込んで、考え事をする間もなく、深い眠りに就いた。
 夢は、見なかった。

 あまりに気持ちよく眠りすぎて、翌朝、珍しく寝坊した。学校に遅刻する心配はなさそうだが、みんなと約束した時間には間に合わなさそうだ。
 急いで支度をして、家を出た。慌しくて、お母さんに「いってきます」と言えなかった。
 学校を足早に目指した。腕時計をちらちらと確認しつつ、急いだ。
 そして、気がついた。最近、私は学校に急いで登校していなかった。そういう年頃じゃなくなったのも、理由の一つかもしれないが、やはり、学校に行くことが億劫になっていたのが大きな理由だろう。自然と、足が重くなっていた。
 私の中で、いじめはもう区切りがついていた。まだ終わったのかも分からないし、犯人も見つかっていないのに、みんなに打ち明けただけで、もうずいぶんと心が軽くなっていた。
 そんなこんなで学校へ駆け込むと、集合場所の教室まで小走りで向かった。スカートの中が見えるのもお構いなし、階段を一段飛ばしで越えていった。
 息を切らして、教室に入ると、後ろの方で亜実や淡路君、二本君、稲田君が集まっていた。雪絵はまだ来ていないようだった。
 不思議だったのが、彼らの表情が一様に暗くて、俯いていた。教室もしんと静まり返っていた。朝の教室はわりと静かだが、この空気は静まり度合いが比べ物にならなかった。重すぎる。
 亜実が私に気付いて、はっとした表情を見せた。そして、私を見据えたまま、そっと手招きした。
「何かあったの?」
 みんなの輪に入って、それぞれの顔を眺め回した。暗くて、元気がなくて、表情のない顔だったが、何があったらそんな風になるのか、検討もつかなかった。
「朝、ニュース見なかったか」
 稲田君が呟いた。その語尾は、疑問とも嘆息ともとれた。
「見てない、急いでたから」
「石川」
 二本君が私をじっと見つめてきた。その目は、真剣そのものだった。それがまた、二本君によく似合った。
「落ち着いて聞けよ」
 このとき、私はいじめの犯人が判明したのかと思った。そうだとしたら、誰であろうと、許すと心に決めていた。
 しかし、判明したのだとしても、彼らの表情は重すぎた。普通、憤りが混じっているものではないだろうか。それに、亜実には犯人を恨まないことを告げてある。それが驚くような人であろうと、こんなに重苦しくさせはしなかったはずだ。
 しかも、その空気は教室全体に広がっている。それはどう考えてもおかしかった。第一、私がいじめられている話を知らない。
 つまり、いじめのこととは関わりないらしい。だとしたら、余計に何が起こったのか予想つかない。
「吹石が死んだ」
 二本君は話し上手だ。話を順序立てて進めるために、結論を最初に持ってきて、後から説明を加える。――え、誰が死んだの? 吹石って誰? そう思いながらも、雪絵の顔が脳裏にしっかりと浮かんでいた。
「昨日、通り魔に襲われて、殺された」
 頭の中は、混乱で何も浮かばなかった。言葉も出てこない。
「犯人は、まだ捕まっていない」
 一つずつ、二本君の言葉を紡ぎ合わせて、事実を読み取ろうとした。雪絵の死――この時点で、事実として受け入れられない――通り魔――犯人は捕まっていない――昨日――のいつ? 昨日のいつ頃だろう。夜中だろうか。
「い、いつ」
 私は妙にたどたどしい口調で、それだけ呟いた。
「昨日の夕方五時ごろ」
 代わって、亜実が答えた。
「私たちと別れた後。雪絵は――そのとき、制服姿だったそうよ」
 亜実は、殺されたとき、という言い方を避けた。
 別れた後――ということは、私たちも一緒に殺されたかもしれなかったのか。それに対する感想は色々と浮かんだが、最初に来たのは、代わりに私を殺してくれればよかったのに、だった。最初だからと言って、それが本心とは限らないが、どうやら、日頃から死んでもいいと思っていたようで、自然とその感想が浮かんだ。
 全身の力が偽りなく抜けてきて、私はその場にへたり込んだ。
 雪絵は死んだ……寂しさが……雪絵が……もう、いない……雪絵は……。
 私は、いつまでも床にしゃがみこんでいた。チャイムが鳴った。早く立って、席に着かなければ、先生に怒られてしまう。でも、先生はしばらく経っても来なかった。
 私はいつまでもしゃがみこんでいた。

 それから数日間は、抜け殻のように生きていた。学校で大事な話をされたような気がするが、何一つ頭に残っていない。雪絵のための何かをしたようだが、意識が半ば定まらない内に終わっていた。先生や友達、お母さんも何か慰めの言葉を私にかけてくれたような気がするが、どうも夢心地で正確に覚えていない。
 それでも、時間は進んでいた。空っぽな一日が、寒空の下、消化されていった。
 雪絵を失った悲しみだけが、私の胸中を占めているわけではなかった。色々な感情がないまぜになっていた。ないまぜの状態だということは分かるのに、どんな感情なのか判別がつかなかった。判別をつけようにも、頭の中は空っぽで、考え事がちっともはかどらなかった。
 犯人は相変わらず捕まっていない。
 私は今度ばかりは犯人を恨むのかな。友達の、私の大事な友達の命を奪ったのだから、さすがに犯人を憎むのだろうか。
 しかし、分からない。雪絵には本当に申し訳ないけど、それでも犯人を恨むと断言できない。私はそれぐらい、誰かを恨むことをいつからか放棄していた。
 人は変わる。良くも悪くも、生きている限り変わり続ける。
 でも、死んだ人はそのままだ。雪絵は、もう変わらない。
 私の知らない部分があるかもしれないが、雪絵は死ぬ直前までの「雪絵」で私の中に残る。それは、時とともに多少、美化されるか、印象が薄くなるかもしれないけど、本質は変わらないのだ。
 雪絵は最後、「私はあなたの味方」だと言ってくれた。心から嬉しかった。幸福な気分に満たされた。不謹慎かもしれないが、あんなに素敵な「お別れ」はないのではないか。そう、思ってしまう。
 いじめは、あれからピタッと止んだ。向こうも、学校にいる人間だから、それ所ではないと考えているはずだ。人間の心理として、どんなにひどい人でも、人の死を目前に突きつけられたら、そんなことしようと考えるわけがない。まあ、予想以上に道徳心がなくて、また繰り返す可能性もあるけど、そうしたら、私は呆れ返るしかない。
 どこかから、誰かの悲鳴が聞こえた。
 それは、またしても私の叫び声だった。
 どうしてだろう? 今思えば、あのときも、雪絵の声じゃなく、私の声だった。
 何なのだろう? 空っぽの私。人を恨まない私。許して、と叫ぶ私。悲鳴を上げる私。涙をこらえる私。
 私はいったい、何もの?







     二章



 私ほど現実をしっかりと見据えられている人は、他にいないのではないだろうか。少なくとも、この学校には。
 私は小さい頃、人に期待するのをやめた。この世に、本当に心が真っ白な人はいない。表向きでそう見える人も、裏が絶対にあるものだから。
 だから、私は誰も信用しない。適度な距離で上手に付き合って、誰の内面にも踏み込まず、かと言って、突き放さず、いわゆる「スクールライフ」を満喫している振りをしようとした。そして、成功した。
 私はずっと、友達に困ったことはない。いじめられたこともない。いつも数人で行動し、一緒に笑ったり、愚痴ったりした。腹の中では、くだらないことだと嘲りながら、それを表に出したら学校生活は苦しいものになるからと、上手く合わせた。
 現実は、甘くない。理想ばかりにとらわれていたら、この学校という環境で幸せを掴み取ることはできない。そんな幸せ、おかしいと思うだろう。でも、そもそも今の学校とはおかしなものだ。その幸せも然り。
 私はいつもずれている発言で笑いを取る稲田君は、裏のある人だと踏んでいる。多少、自分の馬鹿さが出ているのだろうが、彼は楽しい時間を保つために、意図的にああしているのだと考えている。人それぞれ、他人からの好かれ方はある。稲田君は、笑いを取ることだと考え、それで自分を奇妙に進行する学校に遅れないようにした。
 淡路君は、あまり裏がない人だろう。見た目がかっこいいこともあり、自分勝手に生きていても周りはついてくる。彼は、揺るがない姿勢を示しているだけでその地位を保証される。他の人よりアドバンテージがあるが、学校において、いやもっと大きく、人間社会において、見た目は肝要だ。
 見た目と言えば、亜実もそうだ。亜実の冷たい、とも言えるクールな性格で万事、問題なく生きていけるのは、彼女の抜群の見た目と賢さ故である。かわいい女子は、時として攻撃される対象となるが、亜実は絶対にそうならない。彼女は、隙を見せないのだ。だから周りから一目置かれ、一目置かれている人間は、生きやすくなる。彼女は裏を作る必要がない。普段、見せているのが全てだろう。
 一方で、不器用に生きているなあ、と笑える、あるいは呆れる人も存在する。
 その一人が二本君だ。彼は変わった名前通り、彼自身も変わっている。彼は理想を求めすぎているきらいがある。彼のような人を本当の「善人」と言うのだろうが、その生き方は危うさをはらんでいる。ただ、ここまで無事に逃れてきたのは、彼にも賢さがある。この賢さは、勉強ができることとは違う。事実、二本君は勉強ができない。その賢さを自分のためだけに駆使してはいないが、上手く奇妙な学校生活を切り抜けている。
 もう一人が、裕里だ。彼女は本当に笑える。残念な人間だ。お人よし過ぎる。現実を甘く見すぎている。友情を信じて、幸せが待っていれば訪れると夢見る哀れな少女だ。上手い生き方をしている人は揺るがない姿勢を崩さないが、彼女は常に揺らいでいる。
 だから、現実を教えてやろうと思った。どうせ押し潰されてしまうのなら、私が直接、手を下してやろうと思った。
 私は日課のように、裕里の持ち物を傷付けた。誰にも知られないように、一人で。性格が悪いなあ、と客観的に思う。でも、どうせみんなそうなのだ。
 初めは裕里が私たちに助けを求めてくるまでにしようと決めていた。つまり、すぐやめようと思っていた。揺らいだ表情で、友情を信じてすがる裕里を腹の中で笑って、終わりにしようと思っていた。
 しかし、彼女は一人で抱え込み続けた。誰にも知られないように隠して、陰を表情にしのばせながらも、平然と生き続けた。正直、理解に苦しんだ。早く助けを求めにくればいいのに、そうすればそんな暗い表情をしなくても済むのに。
 そして、気付いた。そうか、彼女は病的なほど甘ちゃんなのだ。犯人を明るみに出さないで、自発的にやめることを待っているのだ。強くないくせに、心を痛めながら犯人を守ろうとしているのだ。
 私は呆れた。もう子どもじゃないのだから、と叱りつけたい衝動に何度も駆られた。
 結局、私は意地になった。そっちがその気なら、とことん現実を見せてやろうと思った。春に始めて、半年経っても終わらせず、冬を迎えても続けた。裕里も相変わらず、彼女の理想を信じた。

 いつまで続くのか、とぼんやりと考えている頃、意外な形で終わりがやってきた。
 裕里が最初に助けを求めたのは、淡路君だった。
 これは本当に意外だった。私か亜実だろうと踏んでいた。何より、裕里と淡路君が親しげに話している所を見たことがなかった。
 裕里は涙を浮かべて淡路君にすがり、やがて淡路君は亜実にも告げ、亜実は私に伝えた。私は淡路君に二本君と稲田君もどうだろう、と提案したら、彼は受け入れた。
 意外な結末ではあったが、やっぱり笑える終焉だった。裕里を思いやって、沈痛な表情を浮かべている風を装いながら、私はこみ上げる笑いを抑えるのに苦労した。
 これで思い知っただろう。

 放課後、教室に人がいなくなってから、裕里の告白が始まった。
「えっと、実は――今年の春から、私はいじめにあってるの」
 私は驚いた振りをして、掌で口を覆ったが、本当はこう思っていた。なんて、面白いことを言うのよ、と。
「――今日は、上履きの中にがびょうが入ってた」
 私は息を飲んだ振りをした。
 がびょうを入れたのは、ほんの気まぐれだった。大怪我するかもしれないが、たくさん入れたから、さすがに気付くだろうと思った。それに、私は飽きていたのかもしれない。これで終わらせようとしたのかもしれない。
「ひどい、許せない」
 私は憤りを示した。こんな演技、容易いものだ。難しいことはない。裕里を思っている振りを続けていればいいのだ。
「犯人は誰だろう?」
 亜実が顎に手を当てて、考えた。彼女は私と違って、真剣に裕里のために考えているのだろう。しかし、いくら聡明な彼女でも分かるはずがない。まさか、犯人がこんなにすぐ近くにいるなんて。
「ねえ、執念深いんだったら、犯人は女子じゃない? 男子がこんなに長く続けるかな」
 私が犯人像を思いついたように言った。当然、自分が当てはまるわけだが、わざと私から遠ざけるようなことを言ったら、逆に怪しまれてしまうだろう、と考えた。まあ、私を疑う人なんていないだろうが。
「いじめの犯人なんて、常識外れな感覚を持っているもんだ」
 そう言ったのは、淡路君だった。
 その通り。本来、常識とされている部分からは外れている。でも、今の学校の常識がおかしいのだから、私はそれに従ったわけだ。
「明るい笑顔の仮面を被った、陰湿な女子じゃないかな」
 亜実に犯人像を尋ねられた二本君がそう言った。
 大正解、と私は思った。でも、陰湿とは少し違う。現実的で、親切なだけだ。「ほら、私と一緒」私は、自分の予想が一致して、喜ぶ振りをした。

 話は、先生に伝えないのか、ということに及んだ。私は先生に打ち明けることはない、と自信を持って踏んでいた。裕里の性格からして、犯人を守るためにも、自分を守るためにも、周囲に広がるリスクを避けるはずだ。
 睨んだとおり、先生に伝えないとなったが、ここでも意外や淡路君が裕里への優しさを表した。二人の関係が不思議だった。この話し合いの中でも、直接話すことはないが、二人は予想以上に親しい間柄らしい。
「優しいのね」
 亜実が私の思いを代弁するように呟いた。
 優しくするのは、彼持ち前の正義感がそうさせるのだろうか。
「犯人は、この中にいる」
 稲田君の発言に、私は不覚にもどきりとした。でも、すぐに冗談だと分かった。全く、いつもは的外れな言動が笑いの種になるけど、こんなときにまで発揮するとは。
「もしいたとしたら、見張りとか無意味だな、ってことを言いたくて」
 なるほど、とっさに出てきた言い訳とはいえ、稲田君の指摘は鋭い。事実、見張りはまるで意味を成さない。だって、犯人は私だから。
「意味あるよ、絶対」
 亜実が強い口調で言った。
「この中にはいるわけないもん。だから、必ず意味ある」
 亜実も頭はいいが、案外、現実をしっかりと見据えられない人間なのかもしれない。でも、仕方がないことか。ここで、信頼の置けると思って集めた人たちの中に犯人がいるなんて、そんな発言をしたらひんしゅくを買うだけだろうから。

 話し合いがまとまると、私は裕里を誘って帰ることにした。こんな面白い話し合いは他にないけど、あんまり引っ張るのも不自然だ。
 裕里と並んで帰る姿を思い浮かべて、ひどく滑稽だと感じた。被害者と加害者が友達面して、仲良く帰るなんて、何とも滑稽だ。
 教室の隅で、淡路君と亜実が肩をくっ付けるようにして並んで、何やら話していた。恋人同士の二人は、二人で帰るのだろう。そう思った私は、亜実は誘わずに裕里を急かして、教室を後にした。
 しかし、校舎を出かけた所で、亜実が走って追いついてきた。
「待って、私も帰る」
 淡路君は寄る所があるそうで、私たちは三人で帰ることになった。
 三人は、しばらく無言だった。
 裕里は、いつものようにぼんやりしていた。頭の中では、おめでたいことを考えているのだろう。いい友達がいて良かった、とか哀れにも思っているのだろうか。
 亜実の沈黙は、少し恐怖だった。私は今日集まった面々の中で、真犯人に気づくのはこの亜実か二本君ぐらいだろうと思っていた。それでも、気づくのは至難の業だろうとも思った。
 ただ、亜実ならもう私が犯人だと気付いていて、その冷たいオーラを放つ沈黙は、私に自白を求めている、という場面だと考えても、不自然じゃなかった。
「じゃあね、裕里。私は絶対にあなたの味方だからね」
 お別れの段になって、私は裕里を力づけるようなことを言った。裕里は充血した目を潤ませて、明るい表情になった。
 本当に残念だ。人を疑うことを知らない世界で生きてきたのね。だから、甘いのよ。
 二人と別れてから、人通りの全くない路地に入って、私は堪え切れず、一人で笑い声を上げた。乾いた寒空に、私の笑い声が響いた。誰もいないとはいえ、気違いめいたことをしていると分かったが、抑えがたかった。
 どうしてあんなに曇りのない瞳で生きているのだろう。彼女みたいのを純粋と一般に言うのだろうか。
 汚したくなる。
 そんな生き方が通用するのは、本当に幼いときまでよ。

 私が現実に期待し過ぎないようになったのは、様々な経験の積み重ねだが、決定的になった出来事がある。
 私には中学時代、友達がいた。私は今の裕里みたいに、彼女を親友だと信じていた。
 ある日、些細なことで私はある男子に恋をした。それこそ、純粋な、混じり気のない恋心だった。その男子はわりとかっこいい方だったが、彼女がいなかった。
 私は「親友」にそれを話した。誰々が好きになったと、恥ずかしそうに、半面、嬉しそうにしながら。
 「親友」は予想通りの反応をした。まず驚いて、続けて私を冷やかした。
「コクんないの?」
 そう聞かれて、「うーん、どうしようかな。まずは、仲良くなってからかな」と答えた。
 ありきたりな、女子中学生のやりとりだと感じた。私はその男子を何が何でも手に入れたいとは思っていなかった。それよりも、この恋を通じて、友情を育みたいと思っていた。
 恋は、学校の様々なイベントを通して着実に進んでいった。「親友」に協力してもらう形で、彼の携帯番号を知り、メールするようになり、話をするようになった。「親友」は、私の背中を押していてくれていると信じていた。
 疑う余地はなかった。だから、告白をすすめられたとき、私はそれに従おうと決心した。自分のためにも、「親友」のためにも私がそうするのが自然の成り行きだと考えた。
 そして、告白した。結果は、ダメだった。
 私は結果についてあんまり思いを巡らしていなかった。告白するのをゴールと捉え、もちろん良い結果なら喜ばしい限りだったろうが、悪い結果でも受け入れるのは容易いと思っていた。
「悪い、おれ彼女が最近できたんだ」
 ただ、受け入れられたとはいえ、彼のその言葉は意外だった。普段、接していてもそんな気配は窺えなかった。でも、彼が嘘をついているとも思えなかった。彼の言葉を信じ、一つの恋が終わったと客観的に捉えた。
 「親友」は私を慰め、一方で、よく勇気出して、一歩踏み出したね、と誉めそやした。私も初めはショックで沈んでいる振りをして、彼女の言葉に元気付けられていく振りをした。振りをしなければ、内側からちゃんとした感情が湧いてこなかった。
 その後、彼とは友達として関係を保った。メールも頻度は低くなったが、ふとしたきっかけで送り、送られた。
 ところが、ある休みの日、一人で街をぶらついたとき、信じ難い光景を目の当たりにした。「親友」と彼が体を寄せ合って、まさにカップルのそれを演出していた。
 ――そのとき、全てを悟った。悪い、おれ彼女が最近できたんだ、彼の言葉が頭に響く。告白をすすめる「親友」の表情も頭をかすめる。最近できた彼女は、「親友」だったのだ。
 「親友」は私に協力する素振りを絶えず見せながら、本当は腹の中で嘲り笑っていたのだ。純粋な恋心を踏みにじったのだ。
 許せない。
 でも、私は「親友」を責めなかった。知らない振りをし、友達関係を保ち続けた。彼も責めなかった。悲劇のヒロインを演じても、得られるのは同情だけで、私は同情とか慰めとかはいらなかった。
 高校は二人と別々の所にした。忙しさを装って、二人との連絡を極度に減らした。
 二人を殺したいほど恨んだが、それは腹にしまって、代わりにそれから学んだ。現実に期待し過ぎてはいけない。人を信じ過ぎてはいけない。上手く生きなければ、現実に押し潰されてしまう――。   

 ――誰もいないと思っていたが、前方から地面と靴がすれる音がした。ハッとして、笑い止めて前方を窺った。電信柱に少し隠れていたけど、その顔は見えた。
 私は目を疑った。どうして、彼がこんな所にいるの? さっきまで一緒にいて、裕里の話をしていた彼が。
「**君、どうしてこんな所に?」
 平静を装って問い掛けると、彼は、ふん、と鼻で笑った。
「何がそんなに面白いんだ?」
 私は言われたことがよく分からない、という風に首を傾げた。彼はまた鼻で笑って、「今、一人で笑ってたじゃん」と言った。
「ああ、見てたの」
 私は恥ずかしそうに頭をかいた。
「いや、ちょっと思い出し笑いしちゃって」
 私が照れ笑いを浮かべたのに、彼の表情は崩れなかった。後ろに手をやって、不機嫌そうに立ち尽くしていた。
 そして、私は悟った。彼は、何か気付いているのかもしれない。
「少し、引っ掛かってた。石川から話を聞いたとき、長期的にいじめを続けて、しかも本人どころか、他の誰にも見付からずに続けるのは、とても難しいんじゃないかって」
 彼の目は虚空を睨んでいた。私を見ずに、感情のない声で話していた。
「石川の気まぐれとか、あるいは学校には日直もあるし、テスト前には早く来て、勉強するかもしれない。登校時間を予測するのは、難しいはずだ」
 彼の言いたいことは、おおよそ分かった。推理で、私が犯人だと睨んだのだろう。
 でも、私はとぼけた振りをした。問題ないと思った。彼の推理は机上の空論に過ぎない。そうだ、証拠がなければ、いくらでも言い逃れはできる。
「でも、裕里の傍にいて、彼女の予定や性格、傾向を把握している人間だったら、それが可能だと考えた」
 思ったとおりの話だった。
 それにしても、彼を目の前にして思う。彼はいつもとどうも違う。それに、後ろに手を隠して、私に会ってから一度も前に出していない。何だか、不気味だった。
「犯人は、本当に今日集まった六人、石川を除いた五人の中にいたんだ」
 ドラマでありがちなシーンみたいだと思った。きっと、彼も犯人はお前だ、と言うのだろう。ドラマなら、それで事件はおしまいだろう。
 しかし、残念ながら終わらせるわけにはいかない。ドラマでは、犯人のその後は描かれないけど、私には先がある。
「犯人はお前だ、吹石」
 私は待っていましたとばかりに、顔を歪めて、嗚咽を漏らし始めた。
「ひどい、なんてこと言うの。**君、ひどいよ。私が裕里にあんなことするわけないじゃん」
 私は嘘泣きには自信がある。涙も、ちゃんと一滴、頬を伝っていく。
 彼は動揺して私を慰めにかかるだろう、と思っていたが、彼が次に取った行動は私の予想をはるかに超えていた。
 彼は私の腹を思い切り蹴ったのだ。お腹に激痛が走る。堪え切れず、しりもちをつく。スカートの中が丸見えになって、慌てて隠したが、このとき、そんなことをしてないで、早く逃げるべきだった。
 怒りを目に宿らせて、私を冷たく見下ろす彼の手には、包丁が握られていた。
 私は何とか言い繕おうと思ったが、口は震えるばかりで、言葉が出てこなかった。
 殺される、と思った。このままじゃ、殺される。彼は本気だ。
「嘘つくな。お前しかありえない。おれは見たんだよ。さっき、六人で教室に集まって、石川が話を切り出したとき、一瞬、お前だけ薄笑いを浮かべてた。ほんの一瞬だったけど、確かにおれは見た」
 彼はゆっくりと近付いてきた。早く逃げろ、と自分に呼びかけるが、金縛りにあったみたいに、体は動いてくれなかった。動いたとしても、彼からは逃げられなかったかもしれないが。
 そのとき、「親友」の笑顔と、彼女と今も仲睦まじくしているのであろう彼の顔が浮かんだ。これが、走馬灯というやつだろうか。じゃあ、私は本当に死ぬのか。
 だとしたら不思議だった。真っ先に浮かんだのは、裕里や雪絵、あるいは家族ではなく、彼らだった。
 私はもしかしたら、本当に彼を好いていたのかもしれない。「親友」とずっと親友でありたかったのかもしれない。あの二人に憧れていたのかもしれない。
「被害者ぶるな。不幸を背負い込んでる気になるな。お前みたいなやつが一番むかつく」
 私は強い驚きとともに、彼を見上げた。彼は、どこまで私のことを知っているのだろう。内面的なことまで、読み取れるのだろうか。
 しかし、彼は私を睨み付けていたが、そのようなことは言っていなかったようだ。つまり、今聞こえたように思えたのは、私の内から溢れてきた幻聴だったのだ。それこそ、自覚していなかった本音かもしれない。
 彼の目は、恐ろしい憤怒の思いに燃え盛っていた。そしてその目に、私は、中学時代の「親友」たちを恨む私の目を重ねた。
 一緒だ。目の前の彼も、裕里を好きだったのだ。
「――死ね」
 私は勢いよく迫ってくる包丁を無抵抗で受けた。彼は刺さった刃を抜いて、もう一度私に突き刺した。何とも形容できない痛みが、声にならない叫び声を生んだ。
 私は、薄れ行く意識の中で泣きたくなった。泣いて、誰かに甘えたい衝動に駆られた。
 私は、誰よりも現実に期待していたのかもしれない。そして同時に、恐れていたのだ。
 甘ちゃんは、私だ。








     三章



 私は小さい頃から、落ち着いた子だったらしい。泣くことが少なくて、手のつかない子どもだった。かといって、いつもかわいく笑っていたわけではなかった。
 笑顔を手に入れたのは、小学校に入ってからだった。一緒に過ごす周りの人たちが奇妙な仮面を被ったように笑っているのを見て、私は彼らに同情した。かわいそうに、上手く生きるのには、あんな徒労を犯さなければならないことを知っているのだ。
 私は笑うようになってみた。相手が笑っていたら、合わせて笑った。うっかりひどいことを言ったら、笑ってごまかした。笑いの力を実感したが、笑いの疲れも覚えた。
 何も面白くない。
 気を抜くと、私は教室の片隅で無表情で佇んでいた。みんなが笑っているのに、虚ろな目をして彼らを眺めていた。
 次第に、私にはクールな女、というレッテルが貼られるようになった。勉強もできる方で、整った容姿もそれを手伝った。クール、と言われるのは楽だった。生きやすくなった。周りが私に求めるものが、私にとって無理なことではなくなってきた。
 高校に入ってから、圭佑に出会った。彼は私と似ている、と思っていた。クールで、勉強ができて、また彼はかっこよかった。私はてっきり、彼は私と同じような人生を過ごしてきたのかと思った。
 しかし、内側を覗いてみると、正反対のものが内在していた。私が内側まで冷め切っていて、それを周りに振りまかないように気をつけて生きていたのに対し、彼の内側はとても熱かった。その熱さで火傷を周囲に負わせないように、日々、抑えてきたようだった。
 彼は真面目だった。全てに手を抜けない人だった。何事にも、疎かにしている人を見つけると、彼らをときに憎しみのこもった目で捉えた。
 私は、危ないと思った。彼は将来、大きな成功を収めるか、理想とは隔たりのある腐った社会に押し潰されるかのどちらかの末路を辿るだろうと思われた。
 そして、そんな彼に惹かれていった。
 私から告白する形で、彼と付き合うことになった。

 季節に性別を当てはめるとしたら、冬は女じゃないかと思う。理由の一つとして、私が冬を好いていることが挙げられる。加えて、冬は私に似ている。冷たくて、乾いていて、透き通っていて。
 そんな好んでいる季節のさなかに、裕里の涙は訪れた。
 裕里が話を圭佑に持ちかけ、その話を共有するのに信用できる人数を圭佑が揃えた。裕里と仲のいい私と雪絵が呼ばれ、圭佑が信用している二本君と稲田君も呼ばれた。
 圭佑があの二人を信用しているのは、何となく分かる。二人とも圭佑に似ている。特に二本君は、危うさを抱いている所も似ている。
 三人とも正義感が強く、いまどき珍しい心のきれいな人間だ。表面上は、かたや頭の回転が速くて、鋭い洞察を展開するいまどき珍しい「善人」、かたや的外れな言動で笑いの中心にいる「ばか」。稲田君は無理して演じている、と思っている人もいるが、彼は本当にばかなのだ。良い意味で。だから圭佑は彼を信用した。
 普段は学年のトップグループと言われる人たちと行動をともにする圭佑だが、学校の中という縛りがなければ二人を親友に迷うことなく選んでいただろう。
 
 裕里の告白は、意外な話だった。失礼だが、裕里がいじめられるのは分かる気がする。でも、それを一人でこんなに長く抱え込んでいられるとは思わなかった。裕里は強いのだなあ、というよりも、彼女は少し変だ、と感じた。
 裕里の告白で、それぞれに怒りの色が浮かんだ。私自身、驚きの後、裕里を思う気持ちが犯人を憎む思いに変わった。
 その中で、この人は危ない、と直感的に感じたのは二人。圭佑と二本君だ。
 圭佑は持ち前の正義感の強さもそうだが、裕里に対する視線が気になった。それは愛情よりも、憐憫という印象を感じた。裕里と圭佑がどのくらい親しいのか、普段の二人からは全く読み取れないため、それは不思議でしかなかった。何か、私の知らない何かがあるようだった。
 一方、二本君は単純明快だった。彼は裕里が好きなのだ。圭佑と違って、日頃から話す機会のある彼の裕里に対する態度は、そうとしか考えられないものだ。私には分かる。
 誰かを想う力の強さは、ときとして恐ろしさを内包する。二本君は、間違いなく犯人を憎むだろう。それこそ、殺したいほどに。

「この中に犯人がいたら」
 圭佑と二人で、教室の後ろに並んで、小さな声で話した。別に聞こえないようにする必要はなかったが、二人の遊びみたいなものだ。
「いると思うのか」
 圭佑の顔は、信じられない、という顔をしていた。彼は仲間を信頼し切っている。
「例え話よ。最後まで聞いて。――いるとしたら、裕里の苦しみは計り知れないわね」
「いるわけない」圭佑は憤然とした。「お前だって、さっき言ってたじゃないか」
「ええ、いると思ってないわよ。――問題は、裕里の心のこと」
「心?」
「そう」私はお腹の前で指を組んだ。「誰が犯人にしろ、その人が裕里にとって近しい人物か、そうじゃないにしても、これだけは言える。犯人は、この学校にいる誰かで、そして、裕里は少なからずショックを受ける」
 圭佑は俯いて、何か考え出した。
「そうなったとき、彼女の心をケアするのが私たちの役目ね」
「ああ、もちろんだ」
 圭佑は私を見つめた。鼻と鼻がくっつきそうなほど近かった。ちらっと彼の唇に目をやった。薄い唇がきゅっと引き締まっていた。
 彼とのキスは、悪くない。人生に面白さを見出すことが少ない私でも、彼と唇を重ねる瞬間は心臓の高鳴りを否めない。誰かが人間に備わした、子孫を残すための感情作用は、私でさえも御多分に漏れず、と言った所か。でも、彼からキスしてくれることはめったにない。初めてのときも、私からだった。それは私を想っていないからではなく、想っているが故なのだ。軽薄な付き合いをしたくないらしい。私はそんな彼の生真面目さがおかしかった。さすが、私が好きになった人。
「おれは今日、用事があるから」
 唇が、そう動いた。私は彼の顔から目を逸らさず、「あら、そうなの」と言った。
「じゃあ、先に帰るね。――あ、裕里たち、まだいるかしら」
「まだいるんじゃないか。走れば追いつくだろ」
 私は鞄を肩にかけて、慌しくその場を去ろうとした。
「じゃあね、圭佑。また明日」
「じゃあな」
 手を振って、別れた。このときは、同じ明日が――少しの変化があったとしても――劇的では決してない明日が訪れると思っていた。
 でも、現実は予想外の方向へ動き出していた。

 人生なんて、圧倒的な退屈としか私には思えない。
 つまり、生きているとどうしても疲れる。どうして、誰もが自由気ままに生きられる世界を神様は創って下さらなかったのか。まあ、神様なんて曖昧なものこそ、私は信じないが。
 人生に期待するのには疲れた。自分を飾るのも、ありありと飾っているのが分かる人と接するのも、もう嫌だ。
 人々が不幸な話のドラマで流す涙は、嬉し泣きなのだ。人々は、テレビ越しの彼らに同情しているだけじゃない。「ああ、自分はこれより幸せな人生を送っていて、よかった」と、喜んで涙を流すのだ。
 本当に優しい人なんて、この世の中には数え上げられるほどしかいない。いても、社会に押し潰されてしまうのがオチ。ただ真っ直ぐなだけでは、上手に世間を渡っていけない。器用さがなければ。一般人は、真っ直ぐな少数派を羨み、そして妬むからだ。
 二本君と裕里なんかその典型だ。二人は、これから先、現実のドブの如く汚い部分を知るだろう。そのとき、願わくはその純白な生き方を貫いて欲しい。でも、きっと不可能だろう。前述の通り、羨望と嫉妬の下に抹殺され、社会の異端者となるか、周りに流されて
しまうのだろう。
 かわいそうに。理想の世界なら、二人は永遠に愛される存在なのに。
 二本君の裕里を見つめる眼差しを思い出した。
 二人は、とてもお似合いなのではないか。そんなことを考えた。

 身近な誰かが死ぬとき、嫌な予感というか、その兆しみたいなものがあるとよく耳にする。靴紐が切れる、マグカップの取っ手が壊れる、黒猫が横切る。そういったものだが、私には何の前兆も訪れなかった。
 犯人を捕まえる約束を守るため、私はいつもより早くに学校に行って、みんなが来るのを待つことになった。教室に着くと、他に誰も見当たらず、人の温もりを知らない教室は余計に肌寒かった。マフラーを外さずに、窓から外を眺めて待った。
 日が上がったばかりで、ほぼ正面から襲う日差しは眩しかった。日差しと反対側の方に目を向けると、隣に位置した幼稚園の校庭が見えた。先生が寒そうに身を震わしながら通ったが、それ以外は誰も見えず、ブランコが寂しそうに俯いていた。
 教室の明かりをつけて、誰かが入ってきた。
「何だよ、電気もつけないで。お化けかと思ったじゃねーか」
 満面の笑みで現れたのは、稲田君だった。彼は元気さを主張するように、この寒い冬もマフラーや手袋を一切つけずに、春や秋と同じ格好をして来る。
「稲田君、寒くないの?」
「おれ?」
 驚愕したように、大げさなリアクションを取って、自分を指差した。
「他に誰がいるのよ」
「お化けとか」
「いいから、そういうの。つまんないし」
「冷てーなー」
 稲田君はふくれてみせた。
「寒くねーんだよ、それが。ばかは風邪ひかねー、って言うしさ」
 私は笑った。
「何それ、ずいぶん自虐的ね。面白くないし」
「笑ってんじゃん」
 指摘されるまでもなく、自分で分かっている。彼の生来の天然加減は、私でさえも笑ってしまう。
 和やかな雰囲気が次第に教室を暖めた。
 その和やかな雰囲気を破ったのは、圭佑だった。
「おい、二人とも」
 勢いよくドアを開けて、大きな声で呼びかけた。その表情は、ただごとではなさそうだった。
「どうしたの?」
 圭佑、と言いそうになって、稲田君の手前、口をつぐんだ。
「何か――あった?」
 稲田君はおふざけをやめ、真剣な表情で尋ねた。彼でも、時と場所ぐらいわきまえられる。
「行きがけにニュースで見たんだけど――」
 そこで言葉を切った。言いにくそうに、言葉を探していた。そんな彼の姿を見るのは珍しかった。
「吹石が――殺されたって」
「えっ?」
 稲田君が口をあんぐり開けた。
「だ、誰に、いつ?」
 私も落ち着きを欠いていた。言葉は、たどたどしくなる。
「昨日の夕方、通り魔に襲われたって。――犯人は、まだ――捕まってないって」
 雪絵が死んだ。信じられない。ありえない。ちょっと、神様の悪戯にしては、やり過ぎだ。笑えない。ふざけるな。こんなことがあっていいのか。
 裕里が思いやられた。私よりも、彼女の方が大きなショックを受けるだろう。ただでさえ、いじめに苦しんで心が傷ついていたのに、その上、親友の死を受け入れろ、なんて。
 残酷すぎる。
 教室のドアが、再びけたたましい音を立てて開いた。現れたのは、息を切らした二本君だった。
「おい、大変だぞ」
 膝に手を当てて、教室の中を見渡した。
「石川は、まだ来てないか」
「ああ、まだだ」
 圭佑が答えた。
「それに、お前が言いたいことも分かる。今、おれが伝えた」
 二本君は中腰の体勢から圭佑を見上げた。
「じゃあ、もう知ってるのか――吹石のこと」
「ああ」
 圭佑は暗い顔で頷いた。「知らないのは、まだ来てない石川だけだ。いや、もしかしたら、石川もニュースで見るかもしれないな」
「そうか」
 二本君は相槌を打つと、一気に脱力したようにその場にしゃがんだ。走ってきた疲れが、その行動の原因とは窺えない。もっと、内面的な要因だろう。

「橋葉」
 わずかな沈黙を破ったのは、圭佑の私を呼ぶ声だった。二人のときは「亜実」と呼ぶけど、みんなの前だから憚ったらしい。冷静さはそんなに失ってないようだ。
「昨日、途中まで一緒に帰ったんだろ」
「ええ、そうよ」
 三人で会話らしい会話をしないで帰った家路を思い出した。合わせて、裕里の表情を思い出した。裕里は、犯人を恨まないと言った。彼女の優しすぎる性格が言わしめたものだろうが、支えてくれる友達の存在あってこそのものだ。雪絵の存在価値は、裕里の中で圧倒的な大きさを有していた。
 その雪絵がいなくなった。永遠の眠りに就いた。
 裕里は、それでも「犯人を恨まない」と言えるだろうか。
「何にもなかったのか」
「雪絵が最初に別れて、私と裕里はそれから少しして別れてけど、何にもなかった。怪しい人もいなかったと思う」
「――死ぬって、どういうこと?」
 稲田君の切羽詰った口調が割って入ってきた。彼に目をやると、頭を抱えていた。
「死んだ、って何だよ。通り魔、ってどういうことだよ。じゃあ、吹石は二度と現れないのか? そんなに突然、永遠の別れってくるもんなの?」
 稲田君は困惑の色を浮かべていた。彼の気持ちは、ここにいる誰もが理解できた。突然すぎる。思考の範疇を超えた出来事だ。
 それでも、これが現実だ。文句を言っても変わらない。いくら祈っても覆らない。私たちは、ひたすら受け入れ続けなければいけない。受け入れるのを諦めたら、人生を生き抜くのを放棄するか、死んだように生きるしかない。
「理人……」
 圭佑が同情するように呟いた。続けて、私の方を向いた。心配してくれているのだろう。私は頷いて、大丈夫だと示した。
 教室の人が多くなってきた。裕里は、ずいぶんと遅い。もう見張りは中止だけど、あったとしたら完全な遅刻だ。――雪絵は、永遠の遅刻だが。
 ばか。にわかに、雪絵にそう言いたくなった。ばか。雪絵のばか。簡単に死なないでよ。いきなりいなくならないでよ。
 周りは、沈痛な顔でざわめき合っていた。大方、ニュースを見た人がいて、その事実は余す所なく伝わっているのだろう。雪絵と親しかった人も、そうでない人も、同じように悲しみを顔に帯びているのは不思議だった。人間は、死の前にはそれぞれ等しく弱くなる。どんなに強がっている人も、現実を諦観しがちな人も――私が一例だ――死の前にはひれ伏すしかないのだ。
 そして、待ちに待った人の来訪を、パタパタと駆けてくる足音が告げた。
 裕里が来た。白い息を吐きながら、教室にそっと足を踏み入れた。
 私と目が合った。その目は、こんなときにもかかわらず、いや、こんなときだからこそ、無垢で、愛おしくて、美しく見えた。雪絵の死を伝えたら、この透明な瞳は、微かな染みができるかもしれない。
 裕里は何も知らないようだった。寝坊して、慌てて来たから、テレビを見る余裕がなかったのだろう。私は手招きした。
「何かあったの?」
 私は手招きしておきながら、私の口から伝えるのは気が重くてならなかった。
「朝、ニュース見なかったか」
 私に代わって、稲田君が切り出した。
「見てない、急いでたから」
 そのまま稲田君が説明を引き継ぐのかと思ったが、「石川」と、二本君の強い口調が遮った。
「落ち着いて聞けよ」
 彼だって、裕里を想っているのだから、伝えるのはつらいはずだ。
 でも、どうせ遅かれ早かれ知られることになる。
「吹石が死んだ」
 二本君の目は、裕里の目を真っ直ぐに捉えていた。でも、裕里はそれをしっかりと見つめ返せていなかった。茫然自失、といった態で、目を見開いて話を聞いていた。
「昨日、通り魔に襲われて、殺された」
 
 それから、数日が経っても季節は冬だった。寒い日が続いている。学校は、いっそう寒かった。心まで冷やされるような寂しさが、校内の雰囲気を占領していた。一人の死が、重くのしかかっている。
 裕里は、表面上は何ら変わりない。受け答えもきちんとできて、時折、笑顔も覗かせて、周囲を安心させた。
 でも、と私は思う。裕里は以前の裕里と全く異なっている。表面は、くたびれた感じを見せないけど、中身は空っぽだ。彼女は、生きている実感がないのではないか、そう考えても不思議ではない。目は落ち着きを含んでいるが、本当は何も見えていないのではないか。何も映らない、全てに意味を見出せない、繰り返される同じ世界を生きているだけなのではないだろうか。
 分かっている。
 それでも、傍にいることしか私にはできない。
 本来の裕里が戻ってくるまで、傍らで見守っていることしかできない。
 私は無能だ。いくら賢くても、彼女の心をきれいに洗い流すようなことはできない。もしできたら、どんなにいいか。それこそ、全知全能の神に取って代わりたくなるぐらい、そう思う。
 二本君と圭佑も、そして稲田君も同じような気持ちを抱いているのが、見ていて分かる。その気持ちの大小の差があるにしても、裕里を心配する眼差しは、私と同じだ。
 でも、何もできないもどかしさも同じ。私たちは、どうすることもできない、哀れな人間たちだ。
 
 その日も無味乾燥の一日を終え、裕里と学校からの帰り道を歩いた。最近、一緒に帰ることにしている。圭佑には悪いが(もしかしたら、二本君にも悪いが)、優先順位が裕里の方が圧倒的に上だ。今は、彼女の観察を怠ると、心配でたまらない。鏡に映る自分を叩き割るように、自分で自分を壊しかねない。
 私は、あくせくしている。
 そのくせ、何の成果もあがらない。
 いつも通り、表面上は何もないように話して、分かれ道で別れた。
「また明日」
 裕里は微笑んでいた。嘘偽りのないそれは、私を困惑させた。
「またね」
 彼女につられるように、私も微笑んだ。
 お互いに背中を向け合い、何歩か歩いた所で、私は振り返ってみた。裕里の背中は、遠くなっていた。小さくなっていた。でも、そこから哀愁だとか、疲労の色だとかは窺えなかった。表情はどんなに作れても、背中は隠せない、という話を聞いたことがあるが、裕里の背中からそれらは感じ取れなかった。
 と言うよりも、何も浮かんでいなかった。
 やっぱり、空っぽなのだ。彼女は中身のない毎日を送っている。何かのため、誰かのために生きているのではなく、生きるために生きている。
 私は泣きそうになった。私でも泣くことがあるのか、と自分で自分に驚いた。
 一人で足元の舗装されたコンクリートの道を見ながら、歩いた。止まれ、スクールゾーン、白線。それらに目を落としながら、俯き加減に歩いた。
 冷たい風が、びゅっ、と吹いた。私はマフラーに口までうずめて、寒い、と思わず呟いた。
 歩きながら、二つのことを頭で考えた。色々と考えることは、時が時だけにたくさんあるけど、ひとまず最重要課題として二つを頭に持ってきた。
 一つは、雪絵を殺した犯人のこと。私は、犯人は通り魔なんかじゃないと踏んでいる。そして、雪絵が殺されたことは、裕里がいじめられていたことに関係している。
 推理を後押しする根拠も証拠もないけど、私はこの考えに自信を持っている。
 現に、雪絵が死んでからいじめははたと止んでいる。
 それに、タイミングができ過ぎている。あんな相談をした後に、通り魔に襲われるなんて、たとえ雪絵が襲われる運命だったとしても、他にいくらでも適当なタイミング――適切でない形容表現は、大目に見てもらいたい――があったはずだ。
 もう一つ、さっきから、私は誰かに後をつけられている。今も電信柱にその身を隠して、私をじっと窺っている。ばれてないと思っているのだろうが、私には簡単に分かる。
 そして、そのつけている人は、あの話し合いをしたメンバーの一人と一致するし、雪絵を殺した犯人と一致する。
「ねえ、そこにいるんでしょう」
 私は立ち止まって、話しかけた。影がゆらりと動いて、あっさりと出てきた。
「やっぱり、あなただったのね。――圭佑」
 その影の主は、圭佑だった。

 私と圭佑の距離は、かなり離れていた。お互いに近付こうとせず、その距離のまま話し始めた。人通りは少なく、騒音もないので、聞き取るのに苦労はしなかった。
「何でおれだって分かった?」
 圭佑は落ち着き払っていた。いつもと変わらぬ、私の彼氏としての圭佑だった。
「あなたが殺したんでしょう、雪絵のこと」
 私は単刀直入に尋ねた。逃がしてはいけない。問い詰めねば。
「はは」
 圭佑は短く笑うだけだった。肯定も、否定もしない。
「裕里をいじめていたのは、雪絵だったんでしょう」
 圭佑の笑いが止まった。
「どうしてそれを」
 言外に、自分が犯人だと認めていた。――ここでも、残酷な現実を呈するか。
「実は、薄々、感づいてた。長期間に渡って、本人に見付からずに続けるには、裕里のことをよく知っている人じゃないと無理なんじゃないか、って」
 本当に思っていた。断定したくなかったが、雪絵がいじめの犯人というのは、私の中では自然な考えだった。
 ただ、動機は全く分からなかった。
「それは、おれも思ってた」
「あともう一つ」
 私は話せるだけ話そうと、彼に反論の隙を与えなかった。
「あなたと裕里の間に特別な関係があることも気付いてた」
 圭佑は、目を見張って私を捉えた。何でそんなことが分かるんだ、と言いたげだった。
「侮らないで。これでも、あなたの彼女よ。誰よりも、あなたを観察してきたわ」
 ただ、といったん言葉を切った。
「その関係が、恋愛感情が少しもないことも分かった。もっと深いような、それでいて浅いような……」
「あいつは、おれの家族だから」
 今度は私が驚かされる番だった。彼の発言に衝撃を受けた。
 家族?
 彼は、私に何を隠していたというのか。
「深いようで浅い、というのは言い得て妙だな。お互いを知り過ぎているが故に、改めて関係を一瞥する作業を必要としない」
「家族って、どういうこと?」
 私は説明を求めた。
「――腹違いの兄弟、ってやつかな。同い年だけど」
「腹違い?」
 思わず、裕里の顔を浮かべて、眼前の圭佑の顔と見比べた。あんまり似ていない。考えてみれば、似ていると思ったことはない。
「父親は同じなんだ。――石川は、親父の浮気相手の子どもだ」
 彼は淡々と話すが、その複雑な事情を受け入れるのには時間がかかったはずだ、と想像した。
「――浮気相手?」
「母親が浮気したんなら、それもごまかせたかもしんねえけど、お腹はごまかせねえからな。――おれの母親は、石川の母親を憎んだ。その憎悪を全力でぶつけた」
 圭佑の表情には、うっすらと青い筋が浮かんでいた。彼が怒りを覚えているとしたら、母親だろうか、父親だろうか、それとも雪絵だろうか。
「初めは、親父が生活費を援助しようとしたらしいが、母親が許さなかった。親父は罪の意識があるわけだし、母親に従うしかなかった。後ろめたくはあったけど、援助は全くしなかった。――おかげで、石川ん家は苦しくなった。石川は、ずっとぎりぎりの毎日を送っていた。……まあ、知ったのは数年前なんだけどな」
 彼はどうやって知ったのかな。父親を問い詰める彼の姿が浮かばれる。父親は、どんなに後ろ暗いことだったろうか。
 裕里の純粋さは、平穏な日々から培われたものだとばかり思っていた。けれども、その純粋さはすでに経験した絶望が後押ししたものだったのか。彼女は、上手に生きる術は、それしかないと感覚的に身につけたのだろう。
「同じ高校になったときは、驚いた。全くの偶然だったんだからな。家はそんなに遠くないと知っていたが」
「裕里とは、そのことについて話したの?」
 私がようやく口を挟んだ。
「いや、ちゃんと話したことはない。――おれはてっきり、恨まれるかと思ってた。おれを認めたあいつは、おれを睨んで、一言も交わしてくれないかと思ってた」
「でも、違ったんだ」
 裕里なら、間違いなくそうだろう。
「おれを認めたあいつは、小さく微笑んだんだ。飾り気のない、無垢な笑顔で」
「裕里はそういう人だよ」
 そろそろ、話を戻したくなった。雪絵を殺したのが圭佑なら、その動機を明らかにしなければならない。
「圭佑、雪絵を殺したのは、裕里のため?」
 圭佑は黙りこくった。視線をどこかにやって、口を真一文字に結んでいた。
「答えないの? じゃあ、私が言ってあげようか」
 私は自分の推論に確信はなかったが、強気に出た。
 すると、圭佑が口を開いた。
「石川のためだ。あいつは、石川をいじめて、嘲笑っていたんだ。楽しんでいたんだ。許せないと思った。――初めは、殺すつもりはなかった」
「包丁を持ち出しといて、それはないんじゃない?」
「だから、脅して終わらせようと思ってた。――でも、まあ、思い返してみると、冷静さを欠いていたかもな。内側から湧き上がる衝動に駆られてた」
 圭佑は、初めて後悔をその表情に浮かべた。
「……はは、やっぱ後をつけてよかった。気がつくとしたら、亜実ぐらいだろうな、って踏んでたから」
「私も殺すの?」
「ああ」
 圭佑は、鞄の中から包丁を出した。血がついている。あれで雪絵を殺したのだろう。警察が血眼になって捜している、あの凶器で。
「私のこと、そこまで好きじゃなかった?」
「いや、愛してたよ。でも、事情が事情だし――それに、自分の愛する人間を自分の手で葬れるなんて、素敵なことじゃないか」
 危険な思想を抱いている。本気で言っているのだろうか。
「あなたのしたことは、間違ってる」
 私は心底、恐怖で足が震えそうだったが、怯えを見せなかった。強気の姿勢を貫いた。
「ああ、自覚してるよ」
 彼が一歩ずつ、一歩ずつ近寄ってきた。ゆっくりと、私に死の恐怖を味あわせるように。
 私は彼を睨み続けた。逃げても、どうせ追いつかれる。叫んでも、死ぬのが早くなるだけだ。動じず、彼の改心を祈り続ける。この状況で改心を待つなんて、私はどうかしている。
「さよなら、亜実」
 ついに一歩前に立って、包丁を振りかざした。
「ありがとう」
 彼の声が震えていた。顔には涙は見えないが、心の内側が泣いている気がした。
「死んでくれ」
 私はようやく、死を覚悟した。

「そこまでだよ」
 圭佑の後ろから、彼の手首を押さえた人がいた。いつの間に来ていたのだろう。
「雄哉」
 圭佑が目を見開いて、後ろを振り返っていた。現れたのは、二本君だった。
「二本君――」
「危なかったな、橋葉」
 圭佑は二本君から離れようとしたが、二本君は強く手首を握って、それを防いだ。
「あっ」
 さらに、痛みのためか包丁を掌から落とした。二本君は素早くそれを拾い上げて、私の前に立ち、圭佑から守るように片腕を出した。
「話は全部、聞いてた。だから、事情は飲み込めてる」
 二本君は血のついた包丁で、圭佑を牽制しながら、私に話しかけた。
「だったら、早く出てきなさいよ。死ぬかと思ったじゃない」
 圭佑は呆然と立ち尽くしていた。狂乱しそうな気もするが、気勢を削がれたようでもある。
「いや、話をできるだけ聞いてから、と思って。――それに」
「それに?」
 二本君は、圭佑を直視した。「圭佑が橋葉をすぐに殺すわけない、って思ってたから。むしろ、殺すわけないとも」
 圭佑はうなだれた。そして、両手を広げて、短く笑い声を上げた。
「参ったな。雄哉がここで出てくるなんて。――負けを認めるよ」
 負け――。これは、彼にとってゲームだったのだろうか。雪絵を殺せたのは「勝ち」で、私を殺せなかったのは「負け」なのか。私は少し怒りを覚えたが、ひとまず彼の言うのにまかせた。
「もう、終わりにしようぜ」
 彼は、笑っていた。達成感か、徒労感か、本当の感情は見えない。
 冬の冷たい風が、三人の間を縫って、駆け抜けた。

「どこから話、聞いてたの?」
 私が二本君に尋ねた。
「だから、全部だって。橋葉の後つけてる圭佑を見つけて、その後を追ったんだ」
「気付かなかった」と言ったのは私。 
「分からなかった」と言ったのは圭佑。
「でも、吹石が石川をいじめてたなんて、予想外だったなあ。――そればっかりは、圭佑と共感できる。許せねえもん」
 二本君は、何でもないことのように言った。でもそれは、自分が圭佑と立場が逆だった可能性を暗に示している。
「でも、殺すのはもっと許せない。そこは、共感も理解もできない。悪いのは、お前の方だ」
 圭佑は俯いたまま、黙っていた。静かに、罪の重さを噛み締めているようだ。
「……圭佑」
 そんな彼に、私は優しく語りかけた。そうだ、もう終わりにしよう。そんなことを思った。
「私、季節の中で冬が一番好きなんだ。それと、冬に咲く花も好き。何でだと思う?」
 圭佑が、少し顔を上げた。口が半ば開いて、何の話をしたいんだ、と言いたげだった。構わず、続けた。
「冬の花ってさ、寒さに耐えて生きなきゃいけないんだよ。だから、とても強い。でも、見た目は鮮やかな彩りを見せている」
 だから、と言葉を切った。
「だから、冬に咲く花は、強さを内側に秘めてるの。私の言ってること、分かる?」
 圭佑はゆっくりと頷いた。
「あなたの裕里を思う気持ちが強いのは、理解できる。だからって、簡単に外側で爆発させちゃ、それでおしまいだよ」
「そうそう」
 二本君が継いだ。
「解決方法は、他にもあった。それが根本的な解決にならなくても、殺すよりは絶対にマシだった」
 圭佑は、目に涙を浮かべていた。「分かる」と一言呟いて、その場にしゃがみこんだ。
 裕里のしゃがみこむ姿と重なった。改めて、二人が兄弟だということを考えてみた。やはり、似ているらしい。

「近くに警察署あったよな」
 泣き終えた圭佑が立ち上がって、そう言った。「連れて行ってくれないか。自首するから」
「そっか」
 私は素直に受け取った。罪を償うのは、当然のことだ。
 しかし、二本君が待ったをかけた。
「待って。ちょっと考えてからにしよう」
 私は耳を疑った。
「何を考えるの? もしかして、圭佑を匿おう、とか言うつもり?」
「まあ、結果的にそうなるかもしんないけど――石川のことだよ」
「裕里?」
 ここで裕里が出てくるとは。
「いじめてた張本人とはいえ、それを知らない石川にとって親友の吹石を失って、その上、異母兄弟の圭佑を失ったら、あいつの落ち込みようが増すじゃん……」
 二本君の言いたいことは分かった。裕里を思って、せめて圭佑だけでも事件と無関係で終わらせようと言うのだ。
 頷ける話だった。警察の調査でいつか発覚するかもしれないが、裕里のためには一人でも欠けない方がいい。今ですら、彼女は空っぽな毎日を過ごしているのだ。
「それは、そうだけど」
「だろ? だから――」
「だからって、人を殺しておいて知らん顔するなんて……私には、できない」
 これから、何食わぬ顔をして学校で共に生きるなんて、想像しただけでつらい。重い。いくら愛する圭佑でも、いや、愛する圭佑だからこそ、ちゃんと罪を償って欲しい。
「いいって、雄哉。おれは自首するよ」
「圭佑――でも、」
「言ったろ、終わりにしようって。終わらせるには、けじめをつけないと」
 彼の表情には、本来の清々しさが戻っていた。
「それに、石川はお前が支えてやれ」
「えっ」
 二本君は間抜けな声を上げた。「おれが?」
「おまえが。もちろん、亜実も。――こんなことしといて、偉そうなこと言う権利ないけど――雄哉がおれの代わりに、石川の傍にいて、見守ってやれ」
 付き合えとは言わないから、と最後に付け加えた。
「偉そうなこと言いやがって」
 二本君は照れ臭そうに笑って、「分かった、おれに任せとけ」と言い切った。
 ありふれた日常に戻ったのかと錯覚した。圭佑が殺人犯なのも、私が看破したのも、二本君が第二の殺人事件を防いだのも、そういう設定で、私たちはそれを演じて楽しんでいるだけではないかと思った。
 現実から目を逸らすな。
 そんな声が聞こえる。誰の声でもなく、私の声で。圭佑が人を殺したのは紛れもない事実だ。そして、私の前からいなくなるのも然り。
「圭佑」
 私は首輪を外された犬のように、勢いよく圭佑に抱きついた。
「亜実……」
 圭佑は悲しそうな表情で受け止めた。
「本当に、ばかなことして。裕里のためにあんなことするんなら、私のために思いとどまってよね」
「――ごめん」
「待ってるから」
「えっ」
 圭佑が戸惑った顔をした。
「ちゃんと罪を償って、帰ってくるのを待ってるから」
 圭佑は言葉を失った。隣の二本君も戸惑いを覚えたようだ。抱きついているのを見ないように、明後日の方向を向いていたのに、私の言葉に反応して、こちらを凝視した。
「こんなおれを……待っていてくれるのか?」
「待ってるよ。ずっと、待ってるから」
 そうだ、彼を待つことを生きる目的にしよう。生きがいにしてもいい。そんなことを考えた。
「……ありがとう」
 圭佑は涙声で、それだけ漏らした。また、泣くのか。彼の涙をこんなに見るのは、今までなかった。これからもないのではないか。
 圭佑は、警察署に出頭した。私たちも事情聴取された後、解放された。
 もう日が暮れていた。太陽はおいとましてしまった。また明日、お目にかかれるだろう。
 でも、圭佑にはしばらく会えない。

 凍える手を擦り合わせながら、階段を一段一段、登った。廊下の大きめの窓から降り注ぐ陽光が、わずかに癒しを与えてくれる。窓側を歩いて、教室に向かった。
 教室に辿り着くと、同じクラスの人たちがあちこちに数人の集団を作って、他愛のない話に興じていた。その光景は、事件以前のそれ、そのものだった。
 圭佑が逮捕されて、二週間が経った。学校は、被害者と加害者が校内の生徒だということで色めき立ったが、それもすぐに収まった。
 今では、事件について口にする者は一人もいない。まるでなかったかのように扱われた。おかげで、加害者の恋人である私は気が楽だった。
 ニュースで知ったことだが、圭佑は雪絵を殺した動機を、言い争いになって、カッとしてやった、と供述しているそうだ。いじめのことは口をつぐんでいるらしい。裕里のためだろう。番組のコメンテーターは、最近の若者は救い難いものがありますね、たいした動機もなく、殺人を犯すなんて、理解に苦しみますよ、と憤りを顕わにしていた。私はそれを見て、鼻で笑った。あんたなんかに、何が分かるのだ。理解しなくて結構だ。
 圭佑が悪者として扱われる一方で、雪絵は悲劇のヒロイン扱いを受けた。彼女の過去を紹介し、友達のコメントを添えた。「雪絵は、本当に明るい子でした」「私の相談に、いつも親身になって乗ってくれました」ありきたりな、同情を誘う魂胆ありありのものであった。
 所詮、メディアは彼らの都合のいいようにしか扱わない。圭佑の本当の部分も、雪絵の本当の部分も、知らないくせに知ったような素振りをする。
 相変わらず、寒い日が続いていた。冬の出口は見えない。冬が好きな私でも、そろそろぽかぽか陽気が恋しくなってきた。
「ねえ、亜実」
 裕里が近寄ってきた。最近、彼女の空洞が埋まり始めていた。圭佑が犯人だったことでショックを重ねて受けたが、それでもようやく笑顔を見せるようになってきた。空っぽの笑顔でなく、彼女の無垢な笑顔を。
「何?」
「雪絵が死んだのと、いじめがなくなったのって、関係あるのかな?」
 私は愕然として、彼女を見つめた。
 その表情には、認めたくなかったが、暗い陰が存在していた。本来、彼女が持ち合わせていなかったもの。
「何言ってるの、関係あるわけないじゃん」
 私は笑って、ごまかそうと試みた。
「そうだよね」
 裕里も笑った。「最近、変なこと考えちゃってさ。まだ事件のショックから立ち直れてないみたい」
 私は圭佑の言葉を思い出した。裕里の傍にいて、支えてやれ、見守ってやれ、と彼は言っていた。
「大丈夫。乗り越えるのよ。裕里は、これからも生き続けるんだから。――雪絵の分も、生きるのよ」
「うん」
 裕里はこっくりと頷いた。
 そのまま、自分の席の方に去っていった。

「石川、あんなこと考えてたんだな」
 昼休み、二本君が話しかけてきた。
「聞いてたんだ」
「ああ、おれは耳ざといから」
 私は呆れた。圭佑の後をつけたときもそうだが、彼は犬のようだ。こうまで嗅ぎ付けるとは。
「裕里と付き合わないの?」
「な、何でだよ。それは、まだ時期尚早っつうか」
「冗談よ。真面目に答えないでよ」
 二本君はふくれた。その様子がおかしくて、私は笑った。この調子では、二人が付き合うのは待たされそうだ。
「色々、あったな」
 二本君がしみじみと言った。
「本当よ。あり過ぎたわ」
「ついこの前、六人で話し合っていたのに、二人いなくなって、石川は塞ぎ込んで……」
 裕里だけじゃない。二本君も、私自身も事件を経験して内面の変化が訪れた。変わっていないのは、詳しい経緯を知らない稲田君だけ。でも、彼は変わらない方がいい。話すことは、二度とないだろう。
「二本君と私は、こんな風に話すようになって」
「それもそうだな」
 二本君はふう、とため息をついた。ため息をつくと幸せが逃げると言っていたのは、誰だったろうか。圭佑か、裕里か――雪絵だ。
 彼女が裕里をいじめた理由は、今では推測でしか考えられない。でも、彼女にも何か事情があった気がする。いじめようと思ったきっかけも、裕里を対象に選んだのも、私たちの知りえない、彼女の内面の問題が起因している気がする。
「人間関係って、」
 二本君がそう切り出したので、彼を見た。真剣な面持ちで、正面を見据えていた。
「人間関係って、こんなに壊れやすいもんなんだね。時間かけて、強くさせといてさ」
 私は再び笑ってしまった。そうだ、彼も圭佑に劣らず生真面目な人だった。
「それ、誰に文句言ってるの? 神様とか?」
 私がそう言うと、彼は正面を向いたまま、口の端を吊り上げた。
「さあ? でも、神も社会も人が作ったものだから、結局、人は人しか恨めないんじゃない?」
「人かあ」私は感心した。「語るねえ」
 二本君は満面の笑みになった。
「語るよ。――今回で、身にしみたね。人の真理に近づいた気がするよ」

 私は、私でしかない。他の人生を送ることは不可能だ。裕里も二本君も、与えられた現実をこなしていくしかない。
 圭佑と雪絵もそうだ。彼らは、そういう運命だったのだ。逃れることはできない。
 そう割り切るしかない。
 残念ながら、生きる目的を見つけてしまったため、私は現実から解放されることはしばらくない。何だかんだと理屈をこしらえて、過去と決別し、生きていくしかない。
 好ましい現実も、嫌な現実も、等しい速度で私たちは消化していく。これからも、私は現実を消化し続ける。
 誰でもない、私自身で。

冬に咲く花

冬に咲く花

そんな彼に、私は優しく語りかけた。そうだ、もう終わりにしよう。そんなことを思った。「私、季節の中で冬が一番好きなんだ。それと、冬に咲く花も好き。何でだと思う?」

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-13

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