雷神の門
豊臣秀吉朝鮮出兵の動乱期、ひとりの伊賀者・甲山小太郎と様々な思惑を抱いた人間たちの物語
【第一章】
伊賀者
戦国の稲妻はこの男の頭上にも落ちた。
戦乱の世に生きる者たちの定めは、時の勢力をくじくか屈服するか、さもなくば世俗から離れ、世捨て人のごとき生きるより仕方のない、弱肉強食の理不尽さにあがきながら生涯をおくることである。しかし若さは、その定めなる境遇を認めようとはしない。ある者は一国一城の主を夢見、またある者は武学を磨き立身出世の大志を抱く。そしてこの男もまた、ある宿敵を倒そうと躍起になって働いていた。それは若さからくる世の中への不満とか希望とかとは少し違うかもしれないが、戦乱が招いた境遇といえばそれに違いなかった。
ところが、生まれ育った伊賀の国を滅亡させた織田信長という悪鬼が死んだと聞いたとき、男は目的を失い、それまで激しく心に燃えていた復讐の炎がふつと消えるのを感じた。
目的地を失った船は大海原を漂流するしか道はない。この男はまさにいま、そんな心境の中で、余るほど身につけた忍びの術をもてあそばせながら、草むらに潜伏する鍬や鎌などを握った極度に土臭いみすぼらしい農民たちの中にうずもれていた。
時を訊ねれば天正十五年(一五八七)になったばかりの冬―――。処を訊ねれば……、
はて?どこであろう。
とにかく故郷というものを失ってから各地を転々と歩き回っていたから、いまどこにいるかも定かではないが、おそらく尾張を経って信州方面へむかっていたから美濃のあたり、山奥の小さな村にいることに違いはないだろう。
黄昏からあたりは急に暗くなった。空気が冷たい分、空の星の色は冴え、木枯らしの夜風は積もった雪の粉とともに体温をも奪って吹き抜けた。
それにしても草むらにたむろする農民たちの熱気はそんな寒気をものともせず、その目にはどれも狂気じみたするどい光があった。その光の数は数百にものぼろうか。それもそのはず、この殺気立った集団は、これから目の前の屋敷にむかって一揆を起こそうというのであった。
この頃、農民一揆というものが盛んに発生していた。特に一向一揆は一向宗という宗教を媒体にして起こり、加賀で起こったそれなどは、守護大名を粉砕し一国を支配するに至るのである。宗教による結束の恐ろしさを見た織田信長は、一向宗への見せしめもあったのだろう、京都の比叡山延暦寺の焼き討ちという前代未聞の虐殺劇をおこなった。更に信長は、一向宗信徒に対しても殺戮をおこない、それによって各地の一向一揆は次第になりを潜め、ついには鎮圧されていく。しかしその農民主体で行われた一揆の本質をさぐれば、単に宗教上や政治上の問題ではなく、生活苦を強いられた社会的弱者の権力に対する憤りがあったと見るべきで、こと下克上の世にあっては、農民暴動への一触即発の緊張がたえずあったに違いない。
「まったく妙なゴタゴタに巻き込まれてしまったな……」
いきり立った農民の中で、さきほどの男がぼつりとつぶやいた。この男の名を甲山小太郎という。いわゆる彼は伊賀忍者である。
年の頃なら二十歳。いや正確には十九である。が、身に着けた派手な紫色の陣羽織は、暗闇を暗躍する忍びと呼ばれる類の者とは一線を画しているし、土で汚れたボロをまとった農民とはあきらかに違う風貌をして、これから勃発するであろう領主と農民との血の戦いに対してなどまるで歯牙にもかけていない様子で、隣でガタガタと身体を震わせている青白い表情の同じ年頃の男に、
「お主がつまらん正義心など燃やすからいかんのじゃ!」
と、鼻くそをほじった。話しかけられた見るからに気の弱そうな男は、
「す、すまん……」
と答える。この村の通りがかりに、しくしく泣く童と出会い、今晩暴動で命を落とすかもしれないその童の父の話を聞いて、どうにも素通りすることができなくなった経緯を、いまさらのように後悔したその男の名を、百地末蔵といった。二人は紀州伊賀上野で生まれ育った竹馬の友である。
小太郎の方は、忍びの世界では名の通った甲山太郎次郎の倅で、幼少より忍びの者としての術を教え込まれた。伊賀においては下忍の身分ではあったが、父の名を名乗れば誰もが一目おく忍術の達人である。一方末蔵の家は伊賀焼の焼き物職人で、上忍の百地三太夫がその職人の娘に懸想して産ませた子であった。伊賀焼といっても当時はまだ芸術的域には達しておらず、窯で焼くものといえば茶碗や皿などの日常品で、伊賀焼が日本六古窯の一つに数えられる名品を作り出すのはこれより少し後のことである。
わずか八里四方ばかりの伊賀の里は、東に鈴鹿、西に笠置、北に甲賀を境とした山々に囲まれた小国だった。しかもその国に入るには七〇もの険しい砦を通過しなければならず、いわば国自体が城塞ともいえた。その中に、二人の故郷である伊賀上野はあった。
いずれ忍びの者として、どこかの武将に雇われて諜報業務を仕事とするはずだった小太郎は、その地で鶯の鳴き声を聞き、蛙を追いかけ、野山に実る木の実を喰っては、雪が降れば忍び道具を作ったり手入れをしたり、忍術を身につける以外は、一般の農民と同じ生活を送るごく平凡な幼少期を送った。一方末蔵の方はもっぱら焼き物に夢中で、近年上層階級で流行の茶の湯などに心酔しては、自分の作る壺や碗の研究を重ねていたが、性格は対照的な二人はなぜかよく気が合い、暇を見つけては野山をかけめぐって遊んだものだった。
古くから中央権力の支配を受けず、小さな豪族たちの集合体によってゆるやかな政治的な結びつきをなしていた伊賀の里には、『伊賀惣国一揆掟書』という約定があり、一種独特な風気が存在していた。伊賀に忍術という諜報能力にすぐれた人材を輩出してきたのも、そうした地域性や政治のしくみがあったからだが、この土地の人間は、本職に加えて自分の得意な能力を磨くことを怠らなかった。例えば視力が優れた者や聴力が優れた者など、諜報工作に必要となればその能力が買われ、伊賀者同士の協力体制ができあがっていたのである。末蔵などは良い例で、彼はいっぱしの忍術などまるでできなかったが、声色という誰にも真似できない特技を持っていた。動物や鳥や虫の鳴き声はもちろん、薬売りの佐吉とか猟師の権三やら染物屋の孫六とか、身近な男のものまねは端から、女では女郎の梅桜とか金物屋のお上さんとか、老若男女を問わず声や音の出るものならあらゆるものをそっくり真似た。その特技が実の父親である百地三太夫の目に留まり、彼の家では末蔵だけが百地姓を名乗ることを許されていた。
話が飛んだが、いわば戦国時代においては伊賀全体が諜報機関の人材派遣的役割をなしており、服部家や百地家や藤林家といった上忍が仲介となって、全国の大名や諜報を必要とする組織に伊賀者を派遣するようなことを生業としていたのである。
ところが今から六年前にその悲劇は起こった。小太郎十二歳、末蔵十四歳の秋のこと。いわゆる後に天正伊賀の乱と呼ばれる事件である。
その発端は天正七年(一五七九)にまでさかのぼる。
破竹の勢いで近隣諸国を征服していく信長の世にあって、伊賀はその勢力に従うことなく、国主というものを持たない独立国家ともいうべき特異な自治共和制を保っていた。当時それを面白く思わない信長の次男織田信雄は、伊賀隣国の伊勢を支配していたが、その信雄と密通していたのが伊賀衆の下山甲斐という男である。
「ただいま伊賀の結束が衰え出しております。落とすなら今かと……。それがし道案内をつとめましょう」
と、その言葉を真に受けた信雄は九月、信長に無断で一万近くの兵を引き連れ、伊賀への侵攻を開始したのであった。
ところが土地勘もあり従来からゲリラ的戦法をお家芸としていた伊賀忍び軍勢は、夜の暗闇に紛れてわずかな勢力でそれを粉砕し、たった数日のうちに信雄の侵略を抑え込んでしまったのだった。
このとき戦略会議を部屋の廊下で眺めていた小太郎は、あざやかに作戦の指揮を執る百地三太夫の姿をはじめて見た。別称丹波守正西なるこの人物は、どこか人目のつかないところに隠棲していたのか、あるいは日ごろから何かに扮して人衆に紛れていたか、生涯ほとんどその姿を人前に現さなかったと言う。小太郎の隣にいた実の子であるはずの末蔵でさえ、実際それが父との初対面だった。
「お主の親父殿はすごいのう!流石じゃ!」
小太郎は興奮気味に末蔵の肩を叩いたが、一方で三太夫の傍らで片腕となって働く父甲山太郎次郎を、神を崇めるがごとく誇らしく思っていた。
その戦いで生き残った信雄勢は当初の半分以下の四千程度だったと言われる。無残な敗報を受けた信長は激怒した。これがいわゆる第一次天正伊賀の乱である。そして信長は伊賀に対して激しい憎悪を燃やしたのだった。
それ以後小太郎は、父甲山太郎次郎になろうと、また、百地三太夫になろうと、それまで以上に忍びの技を磨いていたが、悲劇はちょうどその二年後に起こったのだった。信長が総勢四万四千という大軍を率いて大津波のごとく伊賀に攻め込んできたのである。これが第二次天正伊賀の乱である。
当時の伊賀の人口が老若男女あわせておよそ十万というからには、とても相手にできる数ではない。そのうえ織田勢は、前回の苦い教訓から伊賀に内応者を作り、内部の詳細な情報を得ていたのに加え、軍には鉄砲隊や砲隊まで備えていたというから、いっぱしの有力大名相手に戦を挑む周到さである。
対して伊賀勢は、戦闘要員が五千程度だったと言われている。多勢に無勢、これではいくら忍びの達人だったにせよ、歯が立つ相手ではなかった。伊賀は四方より攻められて、織田軍の徹底した焦土作戦と兵糧攻めに苦しめられた。しかも、夜も昼のごとき松明を焚き続けたものだから、闇を味方につける忍者の術も、その動きも身を潜める場所もすべて封じ込められてしまったのだった。
信長軍は比叡山延暦寺で行った放火、破壊、殺戮を、この伊賀でも行った。それでも伊賀勢は女子供も武装して、必死に応戦して耐えたが、わずか半月という歳月を持ちこたえるのがやっとだった。
そして小太郎の故郷、伊賀は滅んだ。
父も百地三太夫も死んだ。
更にまだ若かった母も、信長軍の荒くれ足軽に犯されて殺された。
小太郎は、目の前の現実を理解できないまま、そこかしこに煙を吹く荒野を必死で逃げた。途中、欠けた焼き物を手にして呆然と立ち尽くす末蔵をみつけた。
「末蔵、ゆこう!」
「どこへじゃ?」
「どこへでもじゃ!」
小太郎は末蔵の手を引っぱって走り続けたのだった。
この戦で信長に寝返った伊賀者もいる。また生き残った伊賀者たちも全国各地に散り々々になった。以来伊賀者は集団で行動するより、単独で行動する一匹狼的な忍びとして腕を売り、力ある武将に仕官するようになったのである。
「旦那、頼みましたぜ」
一揆を主導する若い農民が小太郎のところへ来て言った。
「ああ、任せておけ!じゃが約束を忘れるな!」
「へえ、十人斬ったら金一枚、二十人斬ったら金二枚……」
「百人斬ったら?」
「金十枚でございます」
「お主ら百姓にそんな金があるのか?」
「なあに、あのお屋敷さえ制圧すれば、二十枚だろうが百枚だろうが金庫に隠し持っているに決まってます。そしたら即、耳をそろえて払いますよ。いままで俺たちからさんざん搾り取ったんだ。とにかくばっさばっさ斬ってください」
忍びは暗闇でも目が効く。小太郎はその表情に嘘がないことを読み取った。やがて一揆の主導者は興奮しきった士気を眉間に表すと、いよいよ「討ち入りだ!」と言わんばかりに農民の集団の中に紛れていった。
「どうも気が乗らんなあ……」と、小太郎は再び鼻くそをほじった。
「すまんのう……」と、末蔵はいま一度謝った。
そして中途半端な形をした月が雲に隠れたとき、「行くぞ!」という大きな声があがった。すると、草むらに身を潜めていた百名ほどの農具を握った痩せ男たちが立ち上がったかと思うと、まるで獣のように一斉に屋敷に向かって走り出した。
「小太郎、ゆくぞ!」
腹を決めた末蔵も、それに従って草むらを半歩飛び出した。が、肝心の小太郎は屋敷とは反対方向へ向かって走り出していた。
「小太郎、どこへゆく!屋敷はあっちじゃ!」
「やめた!」
「なにを申す!」
「こんなくだらんお遊びに付き合うのはやめた!」と、小太郎はそのまま走っていく。
「おい、待て!小太郎!」
末蔵も小太郎の後を追うしかない。その後の農民一揆の顛末は知る由もない。暗い木枯らしの中、二人は行く宛てもなく走り続けていた。
「俺はもっと大きなことをしたい!」
走りながら小太郎は叫んだ。
「大きなこととは何じゃ!」
「わからん!だが、国を動かすもっと大きなことじゃ!」
小太郎が乞うまでもなく、彼らを巻き込む風雲がすぐそこまで来ていたことは、この目的のない若い二人はまだ知らない。
贄川の宿
一日歩き通した二人は、御嶽山の頂に沈む夕陽を見た。どうやら中山道を進んで、いつしか信州は木曽谷にたどりついたようだった。二人は歩みを止め、夕日で色を紅く染めた深い雪が降り積もるだだっ広い平地に、そのまま身体を投げ出し一番星が輝く空を見上げた。
「空は広いのう……」
小太郎が言った。
「これから俺たちは、どうするつもりじゃ?」
末蔵は疲れ切り、肩で息をしながらつぶやいた。
「上田にでも行ってみようかな……?」
信州上田には真田昌幸がいた。去る天正十三年(一五八五)、徳川家康と北条氏直は真田氏の制圧を図って信州上田に八千の兵を送り込んだ。ところが、それに対して昌幸は、わずか二千にも満たない兵力で迎え撃つが、実に四分の一の勢力をして徳川軍に圧勝したのである。この上田合戦を機に、真田氏の名は全国に知れ渡っていた。
小太郎には〝小能制大(小よく大を制す)〟の美学がある。信長の伊賀攻めにおいても、あれはけっして勝てない戦ではなかったと本気で思っていた。ただ信長の謀略に敗れたのだと信じて、それさえ読み切っていれば絶対に勝てたと、小太郎の根拠のない自信は、若さと無知からくる青年の特権だったろう。
「真田は信玄についていた頃から、忍びの者を大事にしていると聞く。ひょっとしてわしの忍術も高く買ってくれるかもしれん」
「真田かあ……。でも信長系の武将じゃないか。俺たちの仇じゃ」
「信長は鬼じゃ。だが、その傘下の武将も鬼だとは限らん」
「妙な理屈じゃの。しかしお主はいいよ、忍びの術ができるから……」
末蔵は羨ましそうにつぶやいた。
「お前だって声色ができるではないか」
「いや、俺は忍びには向いとらん。根っからの焼き物職人じゃ」
「ならば朝鮮にでも渡るか?あの国は陶芸が盛んだというではないか。わしにはちっとも理解できんが……」
小太郎は馬鹿げた話だと言わんばかりに末蔵に背を向けた。ところが末蔵ときたら「朝鮮か……」と、まんざら夢物語でもないかのように笑った。
そのとき小太郎の腹が「ぐうっ」と音をたてた。
「腹が減ったのう……」
「贄川の宿場まで行くか?あそこには湯が湧いていると聞く」
二人は突然なにかを思い出したように起き上がると、童子が鬼ごっこでもするように、中山道をそのまま東上していった。
木曽の山間を縫うように走る中山道の宿場町は、すべて木曽川に沿ってある。小太郎たちが向かった贄川宿は、美濃から向かえば木曽路最後の宿場で、そこを越えればもう塩尻だった。
古くは温泉が湧いていたため『熱川』とも書いたとされるが、現在はすでに枯れてその形跡はなく、また『贄』とは、諏訪神社の供物に土地で獲れた鮭や鱒などを供進したことから付けられたとも言われるが、江戸時代には女改めの関所として、また、木曽で伐採された檜などの材木の密移出を取り締まる白木改めの関所として、木曽谷北側の重要な役割を担ってきた。
女改めとは江戸幕府が始めた制度であるが、参勤交代で江戸にのぼった大名の妻子が国元へ逃げ出すことを警戒したもので、女手形には通行人の数や乗物の有無、その他出発地と目的地のほかに、禅尼、尼、比丘尼、髪切、小女の区別を明記することが義務づけられていた。そして関所には改め女という者がいて、そこを通る女性を取り調べるのである。
贄川の関所にもこんな記録が残っている。病気の母親を見舞うため、娘を男装させて国元へ連れ帰ろうとした男が、この関所で見破られて断首されたと。いずれにせよ小太郎たちがいた時代にはまだそんな決まりはなかったろうが、女性の旅自体まだまだ非常に珍しいことだった。
すっかり夜も更け、贄川の宿場にたどりついた小太郎と末蔵は、いくつか立ち並ぶ旅籠の一軒に、すっと迷わず「宿をお頼み申す!」と入り込んだ。
「なぜここにした?」
と、旅籠の入り口に入って末蔵が小声で聞くと、
「女よ。ほれ、女物の草履があるだろう」
見れば客人用の下駄置きに、薄紅色の鼻緒の草履がきれいに置かれていた。真冬の旅である。男連れには違いなかろうが、女の旅姿は目の保養にはなる。
「まったくお前は目ざといのう」
「あわよくば……」と勝手な想像でにやける二人は今、青春まっさかりなのだ。
「さっ、どうぞどうぞ」と中から女将らしき中年の女が出てきて、給仕に二人を部屋へ案内させた。
「とりあえず飯をくれ!食ったら湯に浸かりにいく!」
小太郎は腰の刀を抜くと、そのまま畳の上に大の字に寝転がった。
「お隣さんは女連れかい?」
末蔵がすかさず聞いた。「それよ!」と、小太郎は耳をそばだてた。
「はい。なんでも善光寺さんにお参りに行った帰りだとか」
「女は若いか?」と続けざまに、上半身を起こして小太郎が聞いた。
「は、はい」
「器量はどうじゃ?」と、今度は二人口をそろえて聞いた。阿吽の呼吸とはまさにこのことだ。
「そんなこと知りません。ご自分でお確かめになれば?」と、給仕は「へんな客ね!」とは言わなかったが、「ただいまお夕飯をご用意します」と、そのまま不愛想に部屋を出た。
二人は隣部屋の女がどういった容姿か気になって仕方がない。そこである作戦を講じた。末蔵に先ほどの給仕の声色をさせ、女を部屋の外に呼び出して確かめようというのである。さっそく小太郎は音もなく、部屋の廊下から死角になる物陰に隠れ、末蔵は廊下と女の部屋を隔てる引き戸の前に立ち、寸分たがわぬ給仕の声で、
「お連れの女の方に甘菓子をお持ちしました」
と言って、すかさず小太郎のいる物陰に一緒に潜んだ。
しばらくすると中から「はい」という透明感のある女の声がしたかと思うと、引き戸が開き、そこにこの世のものとは思えないほどの美しい女が顔を出した。年の頃なら二十歳前後、浅葱色の小袖を着た身体は細く、袖からのぞかせたか弱そうな二本の腕は真っ白で、二人は思わず生唾を呑み込んだ。女はそこに誰もいないことに首を傾げ、すぐに戸を閉じて引っ込んでしまったが、俄然、小太郎と末蔵の気持ちは躍った。
ところが末蔵には女より食器の方が気になるらしく、間もなく用意された川魚の膳を食いながら、しきりに器の漆器をほめたたえていた。そして食事を終えた二人は食休みもそこそこに、「湯に行こう」と手拭いを借りて宿を出た。
贄川の湯は今となってはその効能を知る由もないが、寒い木曽の冬、長旅の疲れを癒すには十分だった。二人は気持ち良さそうに、小太郎は隣部屋の女のことを、末蔵は先ほど食べた膳の料理に使われていた赤と黒の漆器のことをそれぞれ考えていた。そして、
「それにしてもあれは綺麗じゃった……」
と、ぽつんとつぶやいた末蔵の言葉は、小太郎の競争心をあおるに余りあった。
「おい、お前!ぬけがけは許さんぞ!」
末蔵は驚いた顔で小太郎をみつめたが、すぐに誤解であることを領解した。
「お主、なにを妄想しておる?俺が言ったのは先ほどの膳の器じゃ」
「阿呆め!たかが茶碗や皿に、〝綺麗〟なんて言葉を使うものか!わしは……」
小太郎の言葉をさえぎって、末蔵は器の美について語り始める。こうなったら止まらない。
末蔵の語るところによれば、吸い物の入っていた椀の曲線が特に美しかったという。そして米を盛った椀の握り心地といい、漆を重ねて出した黒色と紅の色合いといい、あれは熟練の職人が作り出した芸術だと興奮気味である。木曽漆器が全国に出回るようになったのは江戸中期以降のこと。しかし良質な檜をはじめとする木材や漆の木が育つことから、木曽谷では当時から陶器より漆器を用いることが多かった。焼き物職人の末蔵にしてみれば、それはカルチャーショックでもあり、「俺もあんな茶碗を焼いてみたい」と盛んに言った。小太郎は欠伸をしながらその話に付き合うが、茶器や食器などの器の話になると、どうにも手が付けられない末蔵であった。
と、その時、二人しかいない温泉に、無造作に入り込むひとりの男があった。
暗い上に湯煙があがっていてよく見えないが、それは背の低い猫背の、きゃしゃな割に隆々とした筋肉を持つ、どちらかといえば人間というより山猿に良く似た顔の男であった。小太郎にはすぐに分ったが、昼間に彼を見たならば、その顔は酒を飲んだように真っ赤だった。咄嗟に小太郎の野性的な勘は、
「ただ者でないな……」
と思わせた。それは男の右肩から左腹部にかけて、大きな刀傷があることを見逃さなかったからだ。しかし、水蒸気を吹き出すような音の息をゆっくり吐き出しながら、気持ちよさそうに全身をお湯に浸かる男の隙だらけの仕草を見て、すぐにその考えを打ち消した。〝赤猿〟とは、そのとき小太郎が付けたあだ名である。
最初その赤猿に気をつかい、漆器の話を中断していた末蔵だったが、やがて湯に一人増えた雰囲気にも慣れてくると、再びその漆器談義を得意げに語り出した。そうして暫く話していると、途中から赤猿が親しげに話に割り込んできた。
「木曽漆器に興味をお持ちでござるか?」
顔からすると四十代とも六十代とも想像できたが、声から判断すればまだ二十代後半の精悍な青年のようだった。そして赤猿の芸術に対する知識も豊富で、末蔵さながらに漆器や陶器や磁器の美しさの違いなどを理論的に述べたかと思うと、末蔵にむかって、
「ならば京の本阿弥光悦先生に一度会うといい」
と、さも旧知の友人でもあるかのように本阿弥光悦を紹介したのだった。途端、末蔵の目の色が変わった。いくら片田舎育ちでも焼き物職人のはしくれ、文化の最先端をゆく彼の名くらい知っていた。
「そなた、本阿弥光悦先生のお知り合いか?」
「いや、知らんでござる……」
一瞬の期待を裏切られた末蔵の語気は荒くなり、世の中の光悦の評判を知りうる限り並び立てた後、「所詮雲の上の人だ。俺なんか到底相手にしてくれまい……」とつぶやいた。
「見たところまだお若いのに実に惜しい!そんなに志が低いようではすでに将来も見えておるぞ。お主も青年ならば大志を抱け!光悦など雲の上から見下ろす大きな人間を目指したらどうでござる?」
赤猿のその言葉は非常に穏やかであったが、図星の末蔵の癇に触れた。思わず「なに!」と、柄にない怒声を発して立ち上がったが、赤猿は末蔵の股間のモノを見て「まだまだ子供だの」と声高に笑った。
先ほどから話に入り込めず、湯に浸かったまま無言で夜空を見上げていた小太郎だったが、いつにない末蔵の剣幕に、「落ち着け!」と後ろでなだめ、話題を変えようとして「貴公はどこの宿にお泊りか?」と聞いた。赤猿は相変わらず穏やかな口調で、
「木槿屋といったかな?」
と答えた。木槿屋といえば先ほど飯を食った宿も同じ名である。
「ならばわしらと同じではないか!」
「ほう、そうでござったか。なあに善光寺参りの帰りよ。木曽に入った途端に日が暮れ、冬の旅路、女連れゆえあそこに宿をとったでござる」
と聞いて、小太郎と末蔵は顔を見合わせた。
「とすると、貴公はあの娘の親父さんか?」
「娘……?おお、菖蒲のことでござるか」
「アヤメ?あの娘、菖蒲というのか!」
「なかなか綺麗なおなごでござろう?だが拙者の娘ではござらん。嫁でござる」
「なにい!」と、今度は思わず小太郎の方が「こんな部細工な赤顔の男と、先ほど垣間見たあの可憐な娘が夫婦なんて信じられん!」とばかりに、ショックを隠し切れずに勢いよく立ち上がった。赤猿は小太郎の股間のモノを見て、末蔵のときと同じように笑った。
ふいに恥ずかしくなった二人は再び湯の中に身体を浸すが、ばつが悪いというか、険悪な雰囲気というか、両者の間に作られた溝は、しばらく冬夜の静寂な空間を生み出した。しかし話す相手がいるのに何も話さないというのは、どちらかというとお喋りな小太郎には耐えられない。いつもの人懐っこさで、
「ところでお主のその身体の刀傷、いったいどうされた?」
と聞いた。赤猿は、
「なんじゃ、見られていたでござるか。ずいぶん目ざといの……」
と、少し警戒したように、「冬になるとこの古傷が痛み出して仕方がないのでござる」と、その訳を淡々と語り出した。赤猿の話は埒もない。なんでも今の嫁は去る豪商の家に奉公していた町娘で、そこに出入りしていたこの赤猿といつしか恋仲になったが、そこの若旦那が密かにその娘をものにしようと企んでいた。そのことを知った娘に「恐い」と打ち明けられた赤猿は、いわゆる駆け落ちをしようと手を携えて逃げ出した。しかし、追っ手に追いつかれてばっさり斬られたのだと、昔の武勇を誇らしげに語った後、
「その娘が菖蒲でござる」
と、さも幸せそうに哄笑した。そういう出来過ぎた物語を聞くと、話の筋に嘘がないか、また、矛盾がないか、必ず検証するのが小太郎の忍びとしての癖というより性だった。
「しかし追っ手に斬られたのなら、傷は背中にできるはずじゃないか」
「拙者も必死だったゆえ、よく覚えておらんのでござる。咄嗟に菖蒲を守ろうと敵に正面をむけたのであろうな」
「それに斬った相手は左利きだな。右利きならば傷は左肩から右腹部にかけてできるはずじゃ。お主のは逆じゃ。左利きの使い手はそう多くはない。それにそんな深手を負ってよく生き延びることができたものじゃ?」
と言いながら、小太郎は自分の父が左利きだったことを思い出した。
「運よく通りがかりのお侍さんに助けられましてな……」
「お主も侍ではないのか?さっきから〝ござる、ござる〟と言うておる」
赤猿は「やけにしつこいな」という表情を作り、
「拙者はしがない商人でござる。しかし今は戦乱の世、拙者にとていつ侍になる機会がめぐってくるやもしれんでな。豊臣秀吉様だってはじめは信長様の草履取りだったと言うではないか。今から侍のように振る舞っておかねば、その時になって困るでござる。人間いくつになっても大志を抱いておらねばな!」
そう言うと赤猿は「菖蒲がさみしい思いをしておるといかん」と、高笑いを残して湯からあがっていった。小太郎と末蔵は、湯煙に消えていくその小柄な姿を見送った。
甲賀の飛び猿
さて、温泉を出て久かたぶりの布団に入ってはみたものの、小太郎の脳裏には夕食前に見た菖蒲という名の女のことばかりが浮かんで、すると、なにやら股間がむずむずとしていつまで経っても寝付けない。おまけに風呂で出会った赤猿が、あの女の亭主と聞いたからには、隣の部屋で二人がいま何をしているのか気がかりで仕方がない。しかも隣部屋に通ずる襖の向こうからは、いつまで経ってもこそこそ話が途切れないのだ。
「末蔵、寝たか……?」
「いいや……、お隣が気になって眠れん……」
「わしもじゃ」と、小太郎は物音をたてずに布団から抜け出すと、襖に耳をあて、赤猿たちの会話を盗み聞きしようと試みた。ところがその襖からだと距離があるらしく、忍びで鍛えた聴力をして聞き取ることはできなかった。
「こりゃ天井に上がらんと聞こえんぞ」
「そのうち〝ナニ〟がはじまるな……」
すでに鼻の下を長くした小太郎と末蔵は、「覗き見に行くか?」と思い合わせたように、自分たちの部屋からこっそり天井裏へ忍び込んだ。天井裏に身を隠すのは遁術の〝いろは〟で、そんなことなら末蔵にもできた―――。
果たして赤猿と菖蒲は、ちょうどいま小太郎たちの真下にいる。
ところが会話の中身といえば期待していたものとは程遠く、世の中の情勢に関わる複雑な話をしているようで、二人が夫婦でないことは、赤猿が菖蒲に対して平伏していることからもすぐに判った。小太郎と末蔵は首を傾げた。
「拙者は伏見までしかお伴できません。その後、駿府に参らねばなりませんから。いやいやご心配は無用、拙者の手下どもが菖蒲様をお守りしてそのまま大坂まで届けてくれます」
「承知いたしました。飛猿は駿府ですか。何用で?」
〝飛猿〟と聞いて、小太郎の脳裏にはひとりの甲賀者の名が浮かんだ。
甲賀飛猿―――。
その名は忍びの者ならおそらく知らぬ者はないだろう。
『身軽なことムササビの如く、刀を握れば九郎義経の如し。蟇を家来に従え、毒蛇を自在に操る。走ればひと夜で百里の道をゆき、水土に遁ずること七日間。雲霧に潜んで瓢箪の如く現われ、雷雨を起こして風の如く消滅する―――』
この例えは買い被りの比喩に違いなかろうが、その忍術の巧みさは日本一との噂である。小太郎はいくら忍びでもそんな馬鹿なことができるものかといつも鼻で笑っていたが、当の飛猿は今、信州は真田家に仕えていると聞く。
「あの赤猿め、甲賀飛猿に相違あるまい―――」
いわゆる甲賀は伊賀の北側に位置する隣国である。伊賀と並んで全国に知れ渡った忍びの産出国であるが、伊賀の乱のような悲劇がなかった分、当時人材も多く活躍の場も広かった。その昔は互いに知り得た情報を交換しあい、両国繁栄のための協力体制もしっかりしていたが、こと織田信長の勢力が台頭するようになってからというもの、手柄の奪い合いや嘘の情報を流すような勢力争いが頻繁に起こり、そのうち互いの存在を警戒するようになっていた。
甲賀も伊賀同様、国主というものを持たない〝惣〟と呼ばれる政治的組織を形成しており、信長台頭以前、その勢力は南近江の大名六角義治の傘下にあった。ところが永禄十一年(一五六八)、六角氏が信長に滅ぼされると、甲賀の立場は微妙なものとなる。信長にとっては敵対関係であり、伊賀同様の怪しい組織形態はけっして見過ごすことはできなかったはずである。いわば甲賀においても伊賀の乱同様の事件が起こってもおかしくはなかった。
しかし地形がそこに住む人々に与える影響というのもけっして無視できない。甲賀の人々は国境から二里も行けば、さして地形的な障害もなく、日本一の広さを誇る琵琶湖に達した。豊富な水と湖で獲れる食の恵みを受けられるその影響からか、四方を山で囲まれる土地の人間より人柄もおおらかで人当たりも良かった。要するに外交能力に優れていた。加えて甲賀出身の滝川一益という武将は信長の重臣に取りたてられており、それゆえか伊賀の乱では甲賀は織田家に従属して派兵までした。以来両者の犬猿の仲はますます深刻なものとなり、信長もついには甲賀を攻めることはなかった。
組織が大きい分、甲賀忍者は集団諜報術を得意とした。また甲賀には伊賀のように上忍、中忍、下忍というような身分はなく、地侍の五十三家と、特に六角氏傘下以来の二十一家が中心となってその組織全体を束ねていた。家つまり領主とその土地に住む住民との関係はあっても身分はない、諜報活動においてはいわば甲賀飛猿のような技能有能者こそ、その親玉的な存在になり得たのである。飛猿の出現は小太郎の闘争心に、俄かに燃え上がる炎を点した。
真下の会話は続いている―――。
「大きな声では言えませんが、昌幸様の書状を家康に届けねばなりません」
「昌幸様の?では、いよいよ……」
菖蒲の声はどこまでも透明で、その中に腹の座った気丈な覇気が隠されている。「ただの女ではないな」と小太郎にはすぐに分かった。
「左様。三月あたりには昌幸様は家康と会うことになるでしょうな。それにしても武田家が滅んでからの昌幸様のご心痛といったら見てはおれんでござる。いくら小さな大名とはいえ、徳川、北条、上杉の三者に睨まれ、おまけに大坂からは幸村様を人質に出せと言ってくる。昨年は昨年で家康の奴め、また懲りずに上田に攻め入ろうとするし―――。今は表面上、家康の配下にはなっているが、しかしそれは昌幸様の本心ではござらん。家康は煮ても焼いても喰えんぞ。いつ秀吉に反旗を翻すか知ったものではない。小国の定めとはいえほんとに辛いお立場でござる。だから今の真田家は近隣に愛想を振りまき、どっち付かずの均衡を保つことが肝要でござる。それゆえ菖蒲様の任務も相当重要ですぞ」
「分っております」
「まあ幸村様が大坂におりますので、首尾よく取り計らってくれましょう。菖蒲様は秀吉の近くに身を置き、その動きを逐次ご報告くだされば良い。ご苦労をかけますがご容赦ください」
「わたくしの定めでございます」
「くの一か!」と、小太郎は思わず声をあげそうになった。菖蒲は続けた。
「ところで隣部屋の男連れですが、わたくしの顔を覗きに来たようでしたが……」
小太郎は「しまった!勘付かれたか?」と末蔵の方へ目を移せば、末蔵は寒さのために体をがたがたと震わせている。天井裏に忍び込むまでは良かったが、どのような環境下であれ、長時間同じ場所に潜むという術を、この男はまだ会得していないのだ。
「なに?隣の?菖蒲様のお顔を……?」
「はい。少し気になったもので……」
「なあに心配には及びませんでしょう。拙者も風呂で会いましたが、一人は陶芸の熱狂者で、もう一人の方は非常に勘繰り深い剣士のようでしたが、どちらもまだ毛が生えたばかりの青二才、おおかた物見遊山の道中でありましょう」
とその時、末蔵がくしゃみをしそうになった。小太郎は慌てて口をおさえたが、そのかすかな音は下の会話をぴたりと止めた。「しまった!」と思うと同時に小太郎は盛んに猫真似をする。末蔵に猫の声色をせよというのである。末蔵はすかさず猫の鳴き真似をした。が、会話は再開されることはなかった。続いて小太郎は口元で鼠の声色をせよと伝えた。猫と鼠の争いを演じろというのだ。末蔵はすぐに了解した。それはまさに天井裏で繰り広げられる猫と鼠の死闘の争いだった。やがて猫は鼠を追いかけてどこかに行ってしまうというシナリオだが、ここが演芸場ならば拍手喝采を浴びる迫真の演技である。
これなら騙せたと安心した時、薄い天井板を貫いて、小太郎の眼前に刀の刃が突き刺さった。その一突きでバランスを崩した小太郎と末蔵は、そのまま天井板を破り砕いて真っ逆さまに飛猿の前に落ちた。
「何者だ!」
驚いたのは飛猿と菖蒲である。飛猿はすかさず戦闘の構えを取ると「貴様らか!」と叫んで、「どこの忍びだ!家康か!北条か!」と付け加えた。そのすさまじい殺気に「斬られる!」と思った小太郎は、
「ここはわしに任せろ!末蔵は逃げろ!」
と、力任せに末蔵を押し出し、障子を破って外に逃がした。末蔵は闇に紛れて命からがら逃げて行ったが、気付けば菖蒲までが小刀を片手に構えていた。
「話を聞かれたからには生かして返すわけにはいくまい。残念だがお命あきらめろ」
飛猿の剣幕はただならなかった。おそらく天井裏に忍ぶ気配に気付くのが遅かったことに自尊心を痛めたのだろう。と小太郎は思った。
「聞かれてはまずい話だったのか?ふん、たいした内容ではなかったぞ!」
から元気の小太郎は腰の太刀に手をかけた。が、右手は空を掴んで愕然とした。まさかこのような展開になるとは思わず、部屋に太刀を置いたままなのにそのとき気付いた。小太郎の額や脇下からどっと冷や汗がにじみ出た。
「貴様、伊賀者だな?」
飛猿は早くも小太郎の正体を見破った。戦闘に入る直前の体位には、剣術においては各流派、忍術においても各派それぞれに特徴があるものである。あくまで闇の中にて任務遂行にあたる忍びの者にとって、相手に自分が何者か知られることは、本来あってはならないことである。それは少なからず戦意をくじく。しかしここで臆してはならない。
「そうよ!よく分ったな!甲賀飛猿!」
と、その上をゆくはずの科白を小太郎は吐いた。
「ほほう、さっきの会話で拙者の名を知ったか」
「一度立ち会うてみたいと思っていたぞ!」
相手の挑発を誘って油断を引き出す戦法だったが、さすがにそんな甘い手に乗る相手でない。
「なにを抜かすか青二才め!貴様なんぞは片腕だけで十分でござる」
と、すかさず飛猿は予告通りに片腕だけで、山猿のような素早さで小太郎めがけて真一文字に斬りつけた。大抵の人間ならこの時点ですべて終わるところだが、小太郎はひょいと刃の軌跡より一尺ほど高く舞い上がったかと思うと、着地しざまに懐に隠し持っていた幾つかの〝小くない〟を飛猿めがけて放った。さすがの飛猿も「まさか!」と思ったのであろう、忍び刀を両手で握り直し、闇に光った火花とともに、それらをかろうじてはじき飛ばした。
「ほう―――、なかなかやるではないか。名を申せ」
今度は飛猿の方が感心したふうな言葉をかけて油断を仕掛けた。しかし小太郎もその手には乗らない。
「阿呆!剣術使いではあるまいし、自分から〝何の某でござい〟などと名乗る間抜けな忍びもおるまい」
「そりゃそうだ」と言いながら万全を期したのであろう、飛猿は小太郎からけっして目を離さずに、菖蒲に逃げるよう合図した。頷いた菖蒲は、そのまま廊下へと姿を消した。
「お前の嫁さんもとんだ喰わせ者じゃ。くの一とはのう」
さっきから強がってみせてはいるが、刀なしでは小太郎に勝ち目がないことは彼自身よく知っていた。先ほどから逃げるタイミングを見つけてはいるが、この飛猿、なかなか隙を与えてくれないどころか、睨めば睨むほど威圧感が大きくなるばかり。一方、飛猿には余裕があり、いつでも斬りかかれば容易に小太郎を仕留めたに違いなかった。
ところがふとした拍子に、飛猿には妙な興味が湧いていた。それは小太郎の戦闘態勢の構えを見たときで、目の前の伊賀者の名を急に確かめたくなったのである。というのは彼の過去と深く関わりのある、彼にとってはちょっとした賭け事遊びに似ていた。そんなことに興じてみようと思ったのも、飛猿には小太郎をいつでも斬れる自信があるからだった。
「実は拙者、伊賀者には多少の恨みがござってなあ」
「そんなことは俺には関係ない!勝手に恨んでおればよい!」
「それがそうはいかんのじゃ。毎年冬になると思い出す。お前さんも風呂で見ただろう、拙者の胸の刀傷。冬になるとこいつがしくしくと痛むのよ」
「良い医者を紹介してやってもいいぞ!」
「まあ人の話を聞け。この傷、追っ手に斬られたのではない。この傷を作ったのは、一人の伊賀者よ!」
普通だったら日本一との噂の忍者を斬った同郷の忍び、「誰じゃ?」と困惑を招くところだが、小太郎に流れる忍びの血は、咄嗟に次の算段を導き出していた。
「伊賀の術は貴様ら甲賀の術の及ぶところではない!当然じゃ!」
と言いつつも、まだ幼い頃、父が右手首に深手を負って帰ってきた時のことを思い出した。そのとき確かに父は言っていた。
「わしが右利きだったら確実にやられていた。恐ろしい奴よ、甲賀飛猿―――」
と。途端、「もしや猿を斬ったのは我が父甲山太郎次郎?」という閃きが頭をよぎったその隙を、飛猿は確実に読み切っただろうが、彼は攻撃を仕掛けてこなかった。今の彼にとっては、小太郎を斬ることより、小太郎の名を言い当てることの方に興味があったのだ。
「お主のその護身の八方構え、いったい誰に習った?」
と、含み笑いで飛猿が叫んだ。
「知らん!」
「ほう、知らんでござるか。ならば拙者が教えてやろう。この傷を付けた奴も今のお主と同じ構えをしておった。その名は、甲山太郎次郎―――」
寸分程の精神の乱れを生じる言葉を、小太郎は聞くまいとして更に警戒心を強めた。飛猿は続けた。
「ついでに冥土の土産にお主の名前も教えてやるよ。甲山太郎次郎の小倅、甲山小太郎!どうだ、違うか?」
飛猿は左の頬に不敵なしたり笑みを浮かべた。小太郎はそれに乗じて僅かにうろたえの仕草をつくった。
「図星だな……」
と言った瞬間、飛猿は先ほどの自分にかせた賭けに勝った満足感と優越感で、ほんの一瞬の隙を見せた。それこそ咄嗟に浮かんだ小太郎の作戦のチャンスの時だった。うろたえの仕草は意図的であり、飛猿に隙を作らせるための手段だったのである。
まさにその一瞬の隙をねらって、小太郎は口中いっぱいに含んでいた胃液と唾液の混合液を、霧状にして〝ぷうっ!〟と飛猿の顔めがけて吹きかけた。これは父に習った遁術だ。胃袋の周りの筋肉を使い胃袋を絞って中の胃液を口に運び、同時に梅干しなどの酸い食物を思い出して唾液を溜めるが、それも鍛錬によって大量ににじみ出させることができるのだ。そうして口の中いっぱいに溜めたその液体を、鼻から吸い込んだ空気で一瞬間のうちに噴出するのである。辺りは白い靄に包まれた。まさかの霧の発生にさすがの飛猿も怯んだ。と思った次の瞬間、小太郎は懐から二寸ほどの煙玉を投げつけた。そして、またたく間に濛々と立ちおこる煙の中に既に小太郎はいなかった。
ふいを付かれた飛猿は既に時遅し―――。煙玉に含有されていた唐辛子やら山椒やら胡椒などの成分でくしゃみは出るし目は沁みる。おまけに芥子なども含まれていたから、意識が朦朧としてくる。そこで深追いをしてしまったら、小太郎が去る時に撒き散らしたはずの撒菱の餌食となるところである。案の定小太郎はその遁術の常套手段を忘れていない。飛猿は逸る心を自重した。
やがて煙はおさまり、飛猿は小太郎が撒いた撒菱の一つを拾い上げ、悔し紛れに思い切り地面に投げつけた。
「くそっ!」
と叫んだ声は、贄川の宿に休む何人もの目を覚まさせるほどだった。飛猿は赤い顔を更に赤くさせ、じだんだ踏んだ。
豊臣の世
さてこのあたりで時代背景を述べておかねばなるまい。
―――天正十年(一五八二)六月、明智光秀の謀反により、本能寺で織田信長が死んだことはすでに多くの読者も知るところであろう。
そのとき豊臣秀吉は―――もっとも当時は羽柴秀吉といったが、信長の家臣として備中高松城を攻めており、毛利輝元の家臣で城主の清水宗治との戦いの真っ最中だった。信長急死の知らせを受けた秀吉は、後に中国大返しと呼ばれる大転換でただちに軍を京都に取って返し、山崎の戦いでまたたくまに明智光秀を討ち取った。そして京都における支配権を奪取した彼は、そこから天下統一への道を拓いていくことになる。
秀吉の出生を探れば農民の子であるとか足軽の子であるとか、あるいは大工とか鍛冶職人とか行商人の子であるとか諸説あるが、いずれにせよ貧しい下層階級の出であったことに違いはないようで、中には公卿の血を引いているといったものまであるが、これは後に関白になって以降の身分を汚さないための贋作だろうと考えられる。
人の人格は、その幼少期に形成されるものであるとすれば、後に巨大な権力を手に入れ、現在では侵略といわれる朝鮮に対する蛮行を行った秀吉にしても、その衣をはぎとっていけば、最後に残るものは貧しい幼少時代の経験が基になっているに違いない。その人間味臭い人柄は、正妻ねねや身内に宛てた手紙の内容からも推察することができるが、いわば秀吉とは、巨万の富と巨大な権力を運よく掴むことのできた、一介の田舎育ちの庶民であった。
信長が死に、尾張の清洲城で行われた後継者と遺領分割の割り振りを決める清洲会議では、織田家筆頭家老柴田勝家の意見を跳ね返し、秀吉は信長の嫡孫であり織田信忠の長男であった三法師(後の織田秀信)を信長の後継者にと推し進めた。ところがこのとき三法師は若干三歳。勝家は大きな難色を示すが、秀吉には光秀征伐の戦功もあり、また山崎の戦いで秀吉とともに戦った池田恒興や丹羽長秀らの後押しもあり、結局、幼少の三法師の後見人として、勝家が推していた信長の三男信孝を推する妥協案で丸め込まれてしまったのだった。
また遺領分割においても、柴田勝家が秀吉の領地だった近江長浜の十二万石が与えられたのに対し、秀吉は明智光秀の旧領であった丹波や山城、更には河内を与えられて二十八万石の増となったのである。織田家筆頭家老の勝家にとっては当然面白くないだろう。賤民出の草履持ちが、自分の意見を覆し、更には自分より大きな大名になったのだから―――。そこから旧信長勢力を二分する両者の対立が始まるのである。
その頃までの秀吉の成長を見てみると、彼は単に運の良さだけで成り上がってきたわけでないことが分る。草履取りで信長ほどの人物の歓心を獲得した人心を掴む巧みな言動といい、一夜城や高松城の水攻めやなどの既知にとんだ発想力といい、その率先力で得た戦場での数々の功績、中国大返しに見られる時を逃さない敏捷さ、そして三木の干殺しや鳥取城の飢え殺しなどの残忍さを見せながらも、その頭の良さと的確な行動は、下層階級育ちの生きるための知恵が媒体となって培われた能力だったろう。
秀吉と柴田勝家の対立は、やがて後に言う〝賤ヶ岳の戦い〟に発展していく。その発端は秀吉が山崎に宝寺城を築城したことにはじまる。
山崎と丹波で検地を実施しながら、私的に織田家諸大名と友好を結んでいく秀吉の動きに不信感を募らせた勝家は、滝川一益や織田信孝と同盟して秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。それに対して秀吉は、信長に違背ないことを示すため、信長の四男にあたる養子の羽柴秀勝を喪主に立て、盛大な信長の葬儀を行なうのである。そして天正十年(一五八二)十二月、織田信孝が三法師を安土に戻さないことを理由に五万の兵を挙げ、宝寺城から佐和山城へ、そして柴田勝家の養子にあたる柴田勝豊が守っていた長浜城を手中に収め、さらに兵力を増強しながら美濃に侵攻して加治田城を落とした。やがて岐阜城に孤立した信孝は、三法師の引き渡しと生母および娘を人質に出すことで和議を結ぶ。
翌年三月、ついに勝家は前田利家の息子利長を先陣として、自らも三万の大軍を率いて近江で秀吉に対峙した。当初、秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣の寝返りや織田信孝の再挙兵に加え、大岩山砦と岩崎山砦では重臣佐久間盛政の奇襲の成功で勝家優勢に見えた。ところがそのとき美濃にいた秀吉は、戦場まで五二キロの距離をたった五時間で移動して、戦況は一気に逆転する。これが世にいう美濃大返しであるが、その勢いに押されて前田利家は戦わずに居城の府中城に単身逃げ戻り、勝家も越前に撤退することになる。
打倒柴田勝家の秀吉はそのまま北上を続け、途中、前田利家の府中城に立ち寄ることになるが、当然利家とて籠城戦あるいは攻め殺されることを覚悟していただろう。が、そのときとった秀吉の行動が意外である。奇行と言ってもいいだろう。単身で城に乗り込んで来たかと思えば、
「おみゃあが頼りなんじゃ!」
と、秀吉の科白がこうだった。この一言で利家は秀吉に寝返ることになるが、前田利家は、その後平定された加賀と能登を与えられ、これが加賀百万石の礎となると同時に、豊臣の五大老に数えられる豊臣政権の中枢大名になっていく。
一方、柴田勝家は北ノ庄城に追い詰められた。そして、落ち行く城の天守閣九段目に登った彼は、
「わしの腹を切り割く様を見て後学のために役立てよ!」
と叫び、正妻のお市と侍女たちを一突きにした後、自らの腹を十文字に割いて自害して果てたという。
そして織田信孝を自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。ここまでが所謂〝賤ヶ岳の戦い〟である。
こうしてかつての織田家の実力者たちを葬った秀吉は、信長家臣第一の地位を確立し、表向きは三法師を持ち上げつつも、実質的には織田家中を牛耳ることになる。
この頃の秀吉には勢いがある。勢いに乗りつつもタイミングをけっして見逃さない強かさと、相手の気持ちを察し先手を打つ名人、〝人たらし〟とも呼ばれた彼天性の才本領発揮の感がある。天下統一もこの頃になると現実のものとして捕えていたに違いない。
ところが天下を狙う秀吉にとって、目の上の瘤だったのが東国一の大名徳川家康である。
天正十二年(一五八四)三月、かつての織田家臣たちをことごとく配下に置いてしまった秀吉に対し、信長の次男である織田信雄が宣戦布告をする。このとき彼に加担したのが家康だった。それに伴って四国の長宗我部元親や紀伊雑賀衆なども決起した。
対して秀吉は、関盛信(万鉄)や九鬼嘉隆、織田信包といった伊勢の諸将を味方にし、さらに美濃の池田恒興(勝入斎)を味方につけて、恒興は尾張犬山城を攻略し、また、伊勢においては峰城を落とした。世に言う〝小牧・長久手の戦い〟の緒戦は秀吉優勢に見えた。
一方、家康と信雄の三万の連合軍は、羽黒の戦いで森長可を破り小牧に陣を敷き、大坂から犬山城に入った秀吉軍十万の兵と、そこ小牧で睨み合いの膠着状態を続ける。
そんな中、先の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興が、秀吉の甥にあたる三好秀次(豊臣秀次)を総大将にして三河奇襲作戦を開始した。ところが家康の張った監視兵の網にかかり、徳川軍の追尾を受けてあえなく二人は戦死する。この長久手の戦いによって家康の強さが証明されたわけだが、数の上では圧倒的な兵力であったにも関わらず、相次ぐ戦況悪化で秀吉は自らが攻略に乗り出すことを余儀なくされたのである。
しかし信雄も家康も、秀吉の財力と兵力には圧倒されていたことは事実で、その後も秀吉は美濃における諸城を次々と攻略していく。そして信雄の自領も次々と落とされ、ついに十一月、信雄は伊賀と南伊勢、そして北伊勢の一部の割譲などを条件に、家康に無断で秀吉と単独講和に踏み切るのだった。
この時点で家康も、秀吉と戦う大義名分を失い、しかも単独では事実上秀吉と対等に戦うことなどできなくなった。家康は講和の代償に次男於義丸を秀吉の養子に差し出した。養子とは聞こえはいいが、つまり人質である。ところが秀吉にとって家康は、けっして敵にはまわしたくない存在だった。それどころか、なんとしても従わせたい存在だった。
そして家康獲得のために考えた苦肉の策が、妹の朝日姫を家康の正室として送り、さらには母の仲(大政所)をも人質として家康のもとに送ることだった。そしてそれと引き換えに、配下として上洛するよう家康に促すのである。
このあたりの秀吉の判断をどう見るべきだろう?
政略のためとはいえ、庶民感覚の彼が、産みの母親と幼少期に苦楽を共にした実の妹を人質に出すとはどうしたことだろうか?
秀吉は、家康ほどの器量ならば、むやみに自分の身内を粗末に扱うことはないだろうと考えたに違いないし、配下に従わせるためには、自分の一番大事なものを差し出せば、家康の慈悲の心にも訴えかけることができるだろうとも考えたろうが、それは一世一代の大きな賭けには違いない。身内を賭けの道具に使うとは、言い換えればこの時点で秀吉は、庶民の象徴的美徳である家族愛と、権力の象徴的悪徳である社会支配力とを交換したことになる。ここに筆者は覇権の欲望に囚われた人間の恐ろしさを見るのである。
案の定、家康は秀吉への臣従を誓う―――。
時の流れに乗ったとでもいうか、天を味方に付けたとでもいうか、その後の秀吉は一種のカリスマ性を孕んで突き進む。
その後、紀伊を平定し、次は瀬戸内海を渡って四国へ総勢十万ともいわれる大軍を送り込む。それに対して四国の長宗我部元親は果敢に応戦するが、圧倒的な兵力の差で降伏を余儀なくされた。しかし元親は土佐を安堵されることで許されるが、これこそ秀吉の真骨頂なのだ。
その後はほとんど戦うことなくして越中を治め、その勢いは飛ぶ鳥が如くである。
その間、石山本願寺の跡地に、当時最大の要塞と言われた大坂城を築き、その絢爛豪華な姿は「三国無双の城」とも称えられ、難攻不落の城とも言われた。
そして一介の貧しい庶民から、日本最大の武将に成り上がった秀吉は、天正十二年十一月には従三位権大納言に、翌年三月には正二位内大臣に叙位され、驚くことに朝廷の仲間入りを果たすのである。更に同年七月には関白にまで上り詰め、天正十四年十二月、つまりこの小説の書き出しにあたる少し前、彼は太政大臣に就任して豊臣姓を賜った。このとき遂に、名実ともに日本という島国に豊臣政権が確立したわけである。
―――さて、時代背景はここまでにして、物語の本筋を戻そう。
飛猿の手から辛くも逃れた小太郎は、そこから一番近い一里塚に向かった。兼ねてからの末蔵との申し合わせで、もしはぐれたら一里塚の袂に文を埋めて居場所を知らせるという手筈だった。
果たして着いたところが文を掘り返すまでもなく、そこには黒い末蔵の影が立っていた。
「おお!小太郎!無事だったか!」
末蔵は小太郎を強く抱きかかえ、目にはたくさんの涙を浮かべているようだった。
「恐ろしい奴じゃったのう。生きて帰れて何よりじゃ」
甲賀飛猿の出現は、末蔵にとっても脅威だった。いくら小太郎が伊賀流忍術の達人だったとはいえ、実戦経験の少ない彼に飛猿を負かすことなど百に一つもないと半分諦めていたのだ。
「それよりこれからどうする?大事な刀を宿に置いたままじゃ」
小太郎は口惜しそうに言った。
「明ければ奴らは発つじゃろう。暫く待って昼ごろまた宿に戻ってみよう。宿賃も払ってないしな」
そのあたり、末蔵は律儀だった。このまま宿代を無心して、どこかにとんずらしてしまおうかとも考えていた小太郎は苦笑いを返したが、そこが末蔵を憎めないところであり、好きなところではあった。
時刻は丑三つ時だろうか。大気はますます冷え、宿に帰るわけにもいかず、その夜は近くにあった観音寺という寺の境内で休むことにした。野宿というものにはすっかり慣れっこで、屋根があれば上等なのだ。文無しの彼らが贄川の宿場に泊まろうとすることができたのは、先の農民一揆に加担する前金を、ほんの少しばかりせしめていたからである。今晩こそは温かい布団にくるまって眠れるところだったが、俄かに起こした助平根性のために、とんだ大損をした気分である。幸い境内の一か所に藁が積んであるのを見つけた。藁は布団がわりになる。
いつもならどんな寒空の下でもすぐに寝付いてしまうところが、今晩に限ってなかなか寝付くことができなかったのは、飛猿のことが頭を駆け巡り、いらぬことを次々考えずにいられなかったからである。それは二人とも同じであった。しかしそれが二人の人生の進む道において、あきらかな方向付けを決定していくとは思いもしない。
両手を枕に、眼を開いたままの小太郎は、ついさっきまで目の前にいた飛猿の体から放出される威圧感のことを考えていた。それは今まで経験したことのない恐怖とも呼べるもので、「父太郎次郎は、奴を相手にどのように戦ったのだろうか?」と、小太郎の興味はそれである。仮にあのとき太刀を持っていたとして、自分はどのようにしてあの危機を乗り越えたろうか?考えれば考えるほど悍ましい結果が見えて体を震わせた。
一方、末蔵の方も飛猿のことを考えていたが、小太郎がすっかり無事で帰って来たことに安心したためか、その内容は温泉で言われた彼の「将来も見えておる」そして「大志を抱け」という言葉の意味だった。あのとき返す言葉も見つからず、感情に任せて怒ったまま我を忘れる自分がいた。怒ることなど滅多にない自分の憤りに彼自身が驚いたほどで、その原因の正体をつきつめているうちに、伊賀の乱が起こる前まで、のどかな里の窯で陶器を焼きながら、いつか上層階級の人間たちが自分の作品を競って買い求めて来るような茶器を作ってやろうと、そのことばかりを考えていた平和な夢を思い起こした。そして目的もなく放浪するような今の自分に疑問を抱きはじめ、それが不安となって大きく成長していくのを感じた。
「今のままではいけない―――」
そう思うのは小太郎も同じだが、末蔵の方が二つほど年上な分、加えて今は乱世、その気になれば小太郎の働き口などいくらでもあるはずで、末蔵にとってはいっそう深刻だった。そんな事を考えているうち、いつのまにか朝が来た。
寺の住職が起き出し、少し騒がしくなったのを合図に二人は上半身を起こし、そのまま寺を後にした。そして木曽川を探し、水で顔を洗った。刺すような冷たさは、寝ぼけ眼をいっぺんに目覚めさせ、着物の袖でふき取った二人は、そのまま近くの大きな石の上に腰を下ろす。空を見上げると、雪でも降り出しそうなどんよりとした雲があった。
「小太郎、このまま上田に行くのか?」
末蔵がぽつんとつぶやいた。
「いいや、まだ決めとらん。あの赤猿と同じ主君というのは気に入らん」
すると、小太郎の言葉がまるで耳に入っていない様子の末蔵は、突然思い出したように大声を張り上げた。
「実は昨晩、ずっと考えていたんだ。俺は京に行こうと思う!」
「京に?なにしに?」
「京に行って本阿弥光悦に会う!」
小太郎は馬鹿げた話を聞いたといったふうに笑った。
「なんじゃあ?風呂で言ってた赤猿の口車に乗せられたか?」
「いや違う!じゃが奴の言っていたことには一理ある。俺は目的もなくこのまま旅をしていていいのかとずっと考えていた。そしてあいつに言われて思い出したのだ。俺が本当にやりたいことを。俺は陶芸の道を究めたい!陶芸がやりたいんじゃ!本阿弥光悦なら今おのれが何をすべきか、なにか糸口を教えてくれるかもしれん!」
小太郎は己の為すべき道を見つけた末蔵を祝福してあげたかった。反面、いまだ宙ぶらりんの自分の行く末を思わずにはいられない。
「そうか……」
「小太郎、お前はどうする……?」
小太郎は言葉を詰まらせた。
「どうすると言われてものう……」
「俺と一緒にゆかぬか?どうせ確たる目的などないだろう?京へゆけば人も大勢おるし、きっと何か見つけることができるかもしれんぞ!」
「京ねえ……」
と言いながら、昨晩の赤猿と菖蒲の会話を思い出していた。末蔵に付き合って京に出たところで、彼には陶芸をやる気などさらさらない。しかし大坂になら、秀吉の下に集まる武将を相手に、自分の技を売り込むこともできると考えた。何より今世間で噂の、大坂城というのをいっぺん見てみたいとも思った。
「そういえば、昨日の菖蒲とかいう女、秀吉のところへ行くと言っておったな。ひとつわしも、大坂にでも行ってみようかな?」
「女か……。まあこの際、女のケツを追い回すのもよかろう。そうじゃ、そうしろ!犬も歩けば棒に当たると言うではないか。真田のような田舎大名に仕えるより、豊臣の方が将来なにかにつけて有望じゃ!秀吉の近くにいれば、きっと仕事にもありつけるぞ。国を動かすような何かができるかもしれんな!」
小太郎は末蔵の能天気な解釈に「ふん……」と苦笑いを作ったが、かくして末蔵と小太郎の二人は、一路上方へと向かうことになった。
聚楽城
二人は中山道を西に、美濃、近江を経、京都は山城国三条大橋に着いたのが、贄川を出て五日目の朝だった。江戸時代の記録によると、江戸日本橋から京都の三条大橋まで、男の足でおよそ十四日から十五日、女連れなら十八日から二十日程度かかったそうである。贄川宿は中山道のほぼ中間点に位置するから、小太郎たちの歩みは一般の旅よりかなり速かった。小太郎だけならばもっと早く到着しただろうが、末蔵と一緒ではそうもいかない。しかし末蔵も末蔵なりに早足で、京での夢に期待をふくらませ、疲れなどほとんど見せなかった。おそらく途中のどこかで菖蒲たちも追い抜いたはずなのだが、女連れのそれらしき姿を見かけることはなかった。
三条の鴨川の河原で連れ小便をしながら、「これからお主はどうする?」と小太郎が、すでに瞳をらんらんと輝かせている末蔵に聞いた。
「とりあえず本阿弥光悦がどこにおるのか探してみるさ」
と、生きる目的を見出した末蔵は水を得た魚のように、その言葉はとても楽しそうである。
「お前は?俺に付き合うか?」
「いいや。ちと、わしゃ休む。しばらくは〝吉兆〟に逗留するつもりじゃ。もし身の振り方が決まったら連絡してくれ」
「わかった!」と、末蔵はまるで好いた女でも待たせているかのように立ち去った。
〝吉兆〟とは〝吉兆屋〟という店の名称で、三条通りにある煮売り屋のことである。煮売り屋とは現在の居酒屋のような役割を担った店で、昼は蕎麦やうどんや団子やお茶、夜になれば煮魚や煮物や吸い物や、あとは酒などを出して、町民や旅人たちの腹を満たしていた―――とは表向きで、実は伊賀者たちの情報交換の拠点である。玄関の脇に据えられた赤い番傘と長椅子、紺に白字の〝吉兆屋〟の文字がある大きな暖簾をくぐれば土間が広がり、一尺ほどの段差がある座敷は八畳ほどで、障子の衝立でいくつかに仕切られていた。そして同じ土間には調理台と釜台があり、壁際の棚にはいくつもの皿や丼や椀や酒など、下には櫃が整然と並べられて、天井からは魚や鳥なども吊るされている。そこは要するに客をもてなす空間で、奥には店主や料理人や賄い達の休憩所と居間があった。一見なんの変哲もない平屋造りの店舗であるが、居間にある床の間の掛け軸の裏を覗けば、そこに一本の縄が釣り下がっていた。引けば天井から隠し階段が下りてくる仕組みで、つまり店舗の屋根裏は、伊賀者たちの情報交換や密談の隠れ家だったのである。
三条大橋といえば東海道や中山道の始点、終着点でもあり、加えて古来、酒のある店には様々な情報が集まってくるものだ。伊賀の乱以前には月に二、三度、各地に散っている伊賀者たちが密かに集まり、忍びの隠語で〝市〟と呼ばれる定期的な集会を開いていたが、近年はとんとその噂も聞かない。小太郎も幾度か父に連れられては、そこで美味いめしを食わせてもらったが、その間父は二階の部屋でその会議に出席していたのだろう。
今は誰が店主を務めているのか、だが、伊賀者であればおそらく、無条件で快く受け入れてくれるはずだった。小太郎は六、七年振りかにその吉兆屋の暖簾をくぐった。
「主人はおるか?拙者、甲斐の国より参った浪人でござる。ちと道をお尋ね申す」
諸国の浪人がいきなり店に入り、道を尋ねるのにわざわざ店主の所在を確かめるとは不審であるが、伊賀者同士にとってこれは暗文なのである。甲斐を反対から読むと〝イカ〟となる。つまり伊賀の浪人が参ったぞという意味なのだ。朝も早く、まだ客などいない店内で、暇そうに掃除をしていた賄いの女が「へえ」と言って、奥の部屋に向かって「旦那様、お客様どすえ!」と言った。おそらくその女も伊賀者だろう。
間もなく店に顔を出したのは、小太郎も顔見知りの男である。思わず、
「なんじゃ!才の字じゃねえか!」
と小太郎が叫んだその男の名を、服部才之進といった。彼らは伊賀にいる頃から忍びの技を競い合ったいわばライバル同士で、本名を呼ぶのもなんだが癪に触って、小太郎は彼のことを〝才の字〟と呼んでいた。才之進も少なからず驚いた様子で、
「小太郎、生きておったか」
と、無表情の上、無感情な抑揚でそう言った。
「お前、吉兆の店主をやっておったか!」
「柘植殿は今はおらん」
柘植とは店主の名であろう。才之進は続けて、
「店先でそんな大声を出されたのではかなわん。来い」
と、小太郎の手を引いて近くの雑木林の中に連れ込んだ。
服部といえば伊賀では上忍クラスの忍びである。しかし才之進は分家の子で、伊賀の乱では百地三太夫とは別部隊で戦っていた。小太郎とは幼な馴染みだが、昔から喜怒哀楽の感情というものをどこかへ置いてきてしまったかのように、笑顔を見せたこともなければ悲しい表情も見せたこともない。忍びとしては得な性質であるが、彼が何を思っているかは目の動きと言葉の抑揚で探るしかなく、時に感情の起伏が激しい小太郎はやきもきして、二人はよく喧嘩もした。またある時は、どちらが伊賀一の忍びか決めようと果し合いをしたこともあるが、その時は両者の親に見つかって、「伊賀者同士優劣をつけるとは何事か!」と、こっぴどく太郎次郎に叱られた。そんな生意気な才之進でも、伊賀の乱以降生き延びていたことを知って小太郎は嬉しかった。ところが久しぶりに会ったその彼の最初の一言が、
「何しに(京に)来た」
だった。それも腫れものを触るような抑揚で、小太郎はカチンと頭に血が上ったが、ライバルの手前、「いまだ無職で、末蔵に誘われるまま何となしに」とも言えない。
「大坂にちと用があるのじゃ。京へは何か有益な情報がないか、ついでに寄ったまでよ」
ととぼけた。
「大坂に?するとお主、秀吉に……。誰の使いじゃ?」
と、早くも勘繰りをはじめた才之進だったが、「それはまだ言えぬ」と小太郎はお茶を濁してごまかした。
「才の字の方はどうなんじゃ。今は誰の手下になっておる」
「手下になどなっとらん!だが、加藤清正公の下で働いておる」
「ほう、何とかの七本槍に数えられる槍遣いか」
「俺が言ったのだから貴様も言え!」
伊賀者同士には情報交換の義務がある。それが例え自分が仕える主君に不利な情報であったとしても、伊賀に有益な事柄であれば同郷の者として伝えなければならなかった。少なくとも伊賀の乱以前は。それは今でも風習として残っているはずなのだ。
「だから今はまだ言えん!」
「ほう?」と才之進は目に嘲るような笑みを浮かべ、「ひょっとしてお主まだプー太郎だな?京には仕事を見つけに来たのだろう」と、滅多に見せない笑いを浮かべた。
ほぼ同じ実力の忍び同士である。一方は既に働き場所を見つけて活躍しているというのに、一方はいまだ生きる目的すら見い出せず、各地を彷徨う放浪人。その現実は小太郎にとって屈辱だった。人間、図星な事を言われるとつい腹が立つ。小太郎の眉間に表れた僅かな怒りの感情を読み取った才之進は、見下したように再度目だけで笑った。
「なんとも気に入らん奴じゃ」と小太郎は思ったが、己と他人を比較して、片や優越感に浸り片や劣等感を覚えるとは、まだまだ二人は子どもであった。
「まあ、せっかく京に来たのだから見物でもしていけ。そうじゃ、御所の近くに秀吉邸が完成したようだから後学のために見に行ったらどうじゃ?俺はじきに九州へ行くことになるが」
才之進はそう言うと、笑顔ひとつ残さず吉兆の方へ戻っていった。小太郎は「ちっ!」と舌打ちをした。
才之進が言った秀吉邸とは、秀吉が九州平定後に聚楽第、または聚楽亭あるいは聚楽城と呼ぶことになる豊臣秀吉の京都における邸宅のことである。
大坂城の完成を見、関白となった秀吉は、すかさず京都に政庁の役割を果たすための聚楽第の建設に着手した。御所の西側約一キロ地点、当時は内野と呼ばれていた平安京大内裏跡地の北東部分、『聚楽』とは『長生不老の楽(うたまい)を聚(あつ)むるもの』という意味で、これは秀吉の造語らしい。
その規模、北は一条通りから南は下長者通りの北、東は大宮通りから西は裏門通りに囲まれた区間で、濠を廻らせたところまでの敷地面積がおよそ二六万八千平方メートルというから、京都御所の約三分の一近くの広さを誇っていた。その内部は本丸、北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸とに別れ、本丸の北西角には金張りの屋根瓦で五層の天守閣がそびえていたことは、現在残されている屏風絵と、発掘して出てきた瓦の破片から知ることができる。それは邸宅とか政庁というよりまさに城郭だった。
その建設工事は昨年(天正十四年)二月から着工され、小太郎たちが京都に着いた頃には建物自体はほぼ完成しており、庭園に使う石材の搬入が始まっていた。そればかりでない。秀吉はそこ聚楽第を日本一の城下町に仕上げるべく区画整理をし、周辺には譜代の大名屋敷を置き、大坂の堺や畿内有数の商人や文化人、芸術家たちを集め、一大文化商業都市を築こうとしていたのである。記録によると大坂城建築に関わった人員が延べ七万から十万人とされているが、聚楽第建設にはそれとほぼ同規模かそれ以上の動員があったと推測されている。それも僅か一年半あまりで完成させようというのだから、その頃の京都の街はお祭りのような忙しさでごった返していた。
さて聚楽第に天守閣はあったか?―――とは研究者の間でしばしば話題になるところである。現在残されている三井記念美術館所蔵の『聚楽第図屏風』や、近年発見され上越市立総合博物館で公開された『御所参内・聚楽第行幸図屏風』には、その姿がはっきりと残されているものの、その絵図自体、実際に聚楽第を見て描いたものなのか、後年資料に基づいて描いたものだとか、あるいは描かれている建物は天守閣に似てはいるが天守閣の条件を満たしていないとか、様々に疑問視されている。その否定論を唱える最も重要な手掛かりは、当時諸国の大名の家臣やインドの使節団一行など、聚楽第の見学をした者たちの文献に、その天守に登ったという記録がないことである。さらに二度の聚楽第行幸に関する史料においても見当たらない。
本来、己の権力と財力を満天下に示すため、その象徴でもある天守閣は、例え訪問者が遠慮したとしても見せたがるところである。現に大坂城の天守閣には、秀吉自らの案内で、積極的に見せて回っているのである。
もう一つは、聚楽第跡地に天守を支える天守台があった痕跡が少しもないという地形的根拠である。ここまで話すとどうやら聚楽第には天守閣はなかったと思えてくる。
しかし逆に、天守閣はあったとする文献も存在することに、この議論はイタチごっこの感を呈するのである。
先に挙げた屏風絵は視覚的証拠として最たるものであるが、当時、周辺の大名達は、聚楽第へ行くことを〝登城〟と表記していることである。そればかりでない。もっと信憑性があるものとして、吉田神社の吉田兼見という神主が残した日記に、豊臣秀吉の側室で前田利家の三女、後に加賀殿と呼ばれる摩阿姫のことを〝聚楽天主〟と呼び、彼女のお祓いをした記録があると言うのだ。〝聚楽天主〟とは聚楽第の天守閣の主、つまり、摩阿姫は天守に住んでいたのだと言う。また、秀吉の家臣である駒井重勝や公卿の山科言経の日記にも〝殿主〟の言葉が見られ、これは紛れもなく〝天守〟のことを指しており、そこで後の聚楽亭主豊臣秀次から黄金を見せられたり、床の間の高価な織物を見せられたりしていると言う。
これらを総合的に推理してみると、どうやら聚楽第には確たる天守閣はなかったものの、天守閣に似た、あるいは天守閣に相当する建物があったように思われる。だとすれば、浪費を惜しまない絢爛好きな秀吉にして中途半端な建造物ではある。それを立証するには、天皇の存在と、秀吉の朝廷に対する認識を考慮しなければならないだろう。
時の天皇は後陽成天皇である。しかし長引く戦乱の世の中で、朝廷の権威は地に落ちていた。しかし日本書紀に始まる天皇の存在は、けっして消えることのない性として日本人民の血に流れ、その血は日本社会の下層階級で育った秀吉の中にも厳然と流れていたに違いない。
当時の秀吉といえば既に日本国土の半分以上を手中に治め、政治的にも関白という地位を得ていたことは前述した。つまり全国の諸大名に対しては絶大なる権威を示しつつも、京都所司代に対しては朝廷の一機関という地位を明確にしておく必要があった。そのためには結婚披露宴で友人が新婦より派手で艶やかな衣装を身に付けてはいけないように、御所より立派な建造物を建設してはいけなかった。合わせて聚楽第は公卿達との社交場にもなるはずで、〝城〟という武家の代名詞のようなものでは朝廷には相手にされない。つまり逆の言い方をすれば、支配の権威として関白の位を利用するためには、天皇を尊重し、朝廷の威信を回復する必要があったといえる。
その点、自身を神格化し、朝廷をも滅ぼそうとしていた嫌いがある織田信長に対し、秀吉は朝廷に対しては至って日本人的発想を持ち、紛れもない日本人民の一人であった。
しかし筆者は先に聚楽第のことを「金張りの屋根瓦で五層の天守閣がそびえ」「それは邸宅とか政庁というよりまさに城郭だった」と書いた。それはそれで間違いはないと思っている。時の秀吉の勢力は、おそらくこの言葉だけでは語り尽くせるものでなく、等身大のものでも肥大して見えてしまう近寄る者たちの委縮感であり、それこそ周囲を圧倒する当時の秀吉のカリスマ性なのだ。この項の題号を『聚楽城』としたのもそのためである―――。
小太郎は話の種に行ってみようかとも思ったが、それより今はとにかく眠い。ひとまず寝ようと吉兆に戻った。
「なんじゃ、また来たのか」
と、吉兆二階の隠れ家に上ってみれば才之進がいる。
「とにかくわしは寝るからお前は黙っていてくれ」
と小太郎は布団を敷いて横になった。ところが才之進ときたら脇でいろいろ独り言のように喋り出す。
「いま大坂へ行っても仕官の口などないぞ。関白は九州征伐のため全国の大名を大坂に集めてはいるが、諸侯は出陣の準備に追われてそれどころでない。今日あたり宇喜多秀家が第一軍として出発しているはずじゃ。わしも今夜には大坂に戻る―――」
彼は彼なりに小太郎のことを心配しているのだ。小太郎は目をつむりながら、その話を子守唄のように聞いていた。遠のく意識の中で才之進は秀吉の九州征伐について話していた。
本州、四国を制圧した秀吉最後の目標は九州平定に違いない。ところが九州においてはいま、大友氏や龍造寺氏を制圧した島津義久の勢力が拡大していると言う。それを押さえきれない大友宗麟が、秀吉に助けを求めてきたのが昨年の話、ついこの間のことである。それに対して関白となった秀吉は、朝廷権威をかざして島津義久と大友宗麟に停戦命令を発したが、九州平定を目前にした島津氏はこれをあっさり無視したのである。これによって秀吉には九州征伐の大義名分ができた。
昨年十二月、秀吉は長宗我部元親、信親親子と、十河存保といった四国勢を豊後の援軍として派遣するが、戸次川(現大野川)において行われた合戦では、軍監仙石秀久の失策によって長宗我部信親や十河存保が討ち取られ、思わぬ大敗を喫してしまう。その報を聞いて激怒した秀吉は、三十七ケ国の大名に大坂集結を命じ、自らが二〇万ともいわれる大軍を率いて、いま本格的な九州侵攻を開始していると才之進は言うのであった。
「小太郎、場合によってはお前を加藤清正公に紹介してやってもよいが……、どうする?」
小太郎は小さな鼾をかきながら、「お前の世話にはならねえよ……」と寝言のようにつぶやいた。
本阿弥光悦
当時本阿弥光悦は、一条戻橋あたりに居を構え、足利尊氏の時代から代々続く刀剣の鑑定や研磨、浄拭を業とする『ほんなみ』という店を父光二と一緒に営んでいた。当時二十九歳の青年ではあったが、父の仕事柄、幼少の頃から工芸万般に接する機会に恵まれたためか、今ではその眼力は父をも凌ぎ日本一だと専らの評判で、当代随一の目利きであり、また芸術家であり、現代的にいえば文化コンサルタントともいうべき青年実業家として名を馳せていた。
刀剣を扱う店にして芸術とは少し異な気もするが、刀には鞘や鍔などのように刀身以外の部分に使われる部品があり、その製作工程には木工や金工をはじめ、漆工、皮細工など様々な工芸技術とも密接につながっている。それに関連して今では漆器や陶器や磁器、また蒔絵や染織や螺鈿など、仕事の巾は刀剣関連ばかりにとどまらず、様々な工芸芸術にも関わるようになっていた。光悦の芸術的眼力はそうした仕事を通して培われたものに違いなく、幅広い職人や文化人との交流の中で、自らも和歌を詠み、書を書き、漆器や陶器までも手掛けるアーティストでもあった。
末蔵がそんな彼の居場所を探すのに雑作もなかった。街中で一人、二人に声をかければ、
「光悦先生なら一条戻橋の〝ほんなみ〟という店におる」
と、口をそろえたように教えてくれる。そのたび末蔵の鼓動は高鳴った。
さて、ちょうどそのころ光悦は、自分の書斎に閉じこもったまま、墨をすり、真剣な表情でひとつの書物の書写をしていた。それは本阿弥家の菩提寺である本法寺の住職日通に依頼されたもので、光悦はその内容に読み入り、深い思索をしているようでもあった。
もともと菩提寺の本法寺は、鎌倉時代の日蓮に淵源を求める法華経寺系の日蓮宗の寺で、開祖である日親が永享八年(一四三六)に建立した。法華経寺とは、日蓮の檀徒のひとり富木常忍から派生した寺である。
日蓮が時の権力者北条時頼に、自らの書である『立正安国論』を提出し国主諫暁したことに習い、本法寺の開祖日親もまた、時の将軍足利義教に「立正安国論」を献じ諫言した。ところがこれが将軍の忌諱に触れるところとなり、日蓮が打ち首を免れ佐渡へ流罪されたが如くに、二度に渡る投獄と、焼鍋を頭にかぶせられ、更には寺までも焼き払われるという大きな難に遭う。しかし嘉吉の乱で義教が死ぬと赦免され、その精神が時の天皇の感銘を得ることとなり、四条高倉辺りに本堂が再建された。その後、幾度かの移転をした末、天文年間には一条戻橋、現在の晴明神社あたりに移転されていた。
本阿弥家と本法寺との縁は深く、その関係は寺を創建した日親の時代にまでさかのぼる。それは光悦の曾祖父に当たる本阿弥清信が、今の店を経営していた時の話である。
当時清信は将軍足利義教に仕えていた。ところが、鑑定を誤ったか刀の研ぎが甘かったか理由は定かでないが、ある日、将軍の怒りに触れるという一家において重大な事件が起こった。清信は投獄されてしまうが、その獄舎で出会ったのが日親だった。
清信は日親に身の上を話すうち、日親が語る日蓮の教えに深く感動し、やがて赦免されて出獄した暁に、日蓮の教えに帰依して本光という法名を授かった。以来本阿弥家はその信徒となって現在に至っている。
そんな家で育った光悦も、日蓮のことを親しみを込めて〝日蓮御坊〟と呼ぶほどの熱心な信徒であった。寺から頼まれ事があると、いつも喜んでその仕事に打ち込んだ。つい最近にもこんなことがあった。秀吉が聚楽第を建設することになった時、本法寺があった区域は区画整理の対象となり、替地として与えられた寺之内に移転する際、父の光二と私財を投げうち、その再建に尽力したのである。今はまさにその引っ越しの真っ最中で、光悦は後に『三つ巴の庭』と呼ばれる庭園づくりに骨を折っていた。
そんな光悦のところに末蔵が訪ねて来たのは、ちょうど昼時、聚楽第建設に関わる職人たちが休憩を取り始める時分だった。光悦の部屋の襖の外で、奉公の女が、
「光悦先生にお目にかかりたいという方がいらっしゃいますが、いかがいたしまひょ?」
と言った。
「すまぬが今は手が離せん。日を改めて来てもらうよう丁重に帰しなさい」
「へい」と女奉公人は行ったようだったが、暫くたって再び、
「あのお、光悦先生にお目にかかるまでは帰らないと申しております……」
と言いに来た。
「だから今は忙しいと言うておる」
「でも……、光悦先生にお会いできなければ腹を切ると申して聞きません」
「物騒なことを申すな。では、手がすいたらこちらから尋ねるゆえ、住所を聞いておきなさい」
「へい」と再び引き返したが、暫くすると三度やって来て、
「どうにも物分りの悪いお方で、待たせてもらうと、店先でお座りになってしまいました。あれではお客様のご迷惑になってしまいます。どうしまひょ?」
「まったく!これでは集中して書写もできん」と光悦は筆を休ませ、「仕方がないから通しなさい」と迷惑そうに言った。
こうして書斎に通された末蔵だったが、光悦はほんの一瞬彼の顔を見ただけで、
「申し訳ありませんが、これが終わるまでそこでお待ちください」
と言ったきり、末蔵をそっちのけに再び書写に没頭しはじめてしまった。末蔵は「これが噂の光悦か……」と、最初はいかにも緊張した面持ちで横顔を眺めていたが、一時間経っても二時間経ってもいっこうに終わる気配がない。ついに「あのお……」と声をかけたところが、「もうじき終わります。声をかけないでくださいませんか!」と怒られた。
その間、部屋に飾ってある漆器や陶磁器を眺めている中に、妙な美しさを持つ黄土色の素焼きの茶碗に目にいった。感激で思わず声を上げそうになった末蔵は立ち上がり、そろりそろりと近寄って手に取って見た。そうなると一時間でも二時間でもまったく苦にならない末蔵である。
「さて、ようやく終わりました……」
と、光悦は筆を置くと、正座して素焼きの茶碗をじっと凝視する末蔵に、「お待たせしました」と言った。ところが今度は末蔵の方が鑑賞に夢中で、光悦の声に気付かなかった。
「お気に召しましたかな?」
末蔵は「はっ」として、その茶碗をあったところに戻した。
「この茶碗は、いったい誰が作ったのでしょうか?」
光悦はやや嬉しそうな表情をして「ほう?貴方にその茶碗の良さが分りますか?」と言った。
「なんというか……、素焼きのせいか、非常に素朴な中に、生きる力というか、あがきとでもいうか、苦しみの中で輝く純粋な光を感じます。これを作った人は相当苦労したのでしょう」
光悦は末蔵を驚いたように見つめると、笑みを含んだ顔で、
「それは朝鮮国で作られた沙鉢というものです」
と教えた。
「朝鮮国……」
「大坂の千利休が、輸入されたばかりの珍品じゃと言うて送ってきましてな。しかし私には、どうも悲しみばかりが伝わってきて好みません。朝鮮ではその茶碗は観賞用ではなく日常の食事で使っているというが、素焼きのうえ歪でつくりも荒く、どう見ても完成品とは思えません。まあ、そこがいま流行の〝詫び寂び〟に通じるといったところでしょうが、貴方はどう思いますか?」
「俺は伊賀で陶芸をしておりましたが、この茶碗には力強さを感じます。確かに悲しみも伝わってきますが、その悲しみに負けるものかという強い生気を感じる……」
「ほう。よろしければ差し上げましょう。私より貴方が所持していた方が、その茶碗にとっても仕合せでしょう」
「ええっ!よろしいのですか?」
光悦は惜しげもなくその茶碗を末蔵に与えてしまうと、
「ところで御用は何ですか?」
と聞いた。末蔵は思い出したように正座をしなおし、背筋を伸ばすと、
「不躾ながら、本阿弥光悦先生に教えていただきたいことがあって参りました!」
と平伏した。
「はて、なんでしょう?」
「俺は生涯、陶器づくりに命を懸けたいと思っております!」
それは、それまで溜めてきた思いを一気に投げつけたような強い語気だった。ところが光悦ときたら、そよ風をあびるような涼しげな声で「それはよろしいお考えで。そうなさい」と言ったきり、筆具を静かに片付けはじめるのだった。末蔵は続けて、
「将来、俺は日本一の陶芸家になろうと思う!」
「それは頼もしい。ぜひ、そうなさい」
末蔵にしてみれば、何かしらのアドバイスをもらえると期待していただけに、光悦の素っ気ない「そうなさい」という言葉は、不満を隠せないばかりか、逆に呆気にとられて次の言葉が見つからなかった。さらに、暫くの間を作った光悦は、
「それで?」
と淡々と言う。末蔵はすっかり面食らった。
ところが末蔵が何の返答もできないのを見てとると、
「貴方はわざわざそんなことを言うために、私の仕事の手を煩わせたのかい?」
と、光悦はむくむくと笑い出した。
「違います!陶芸に命を懸けるため、日本一の陶芸家になるために、何かしらのご教示を賜りたいと思って来たのです!」
「私に教える事なんて何もありません。貴方がそうしたいのなら、そうすればいい。でも貴方は迷っている。だから私のところに来たのでしょう?」
光悦は今まで書いていた書を、「これを見なさい」と言うように末蔵に手渡した。
本阿弥光悦といえば後に近衛信尹と松花堂昭乗に並んで〝寛永の三筆〟に数えられる書の達人でもある。見れば流暢な漢文のようだが、末蔵にはさっぱり意味が分からない。「これは?」と聞くと、
「いまさっきまで私が書いていた、日蓮御坊の〝立正安国論〟の写しですよ」
と答えた。そして光悦は、子供に諭すような優しい口調で続けた。
「日蓮御坊の教義に〝因果具時〟というのがある。因すなわち原因と、果すなわち結果とは、同時に具わっているという意味です。貴方が日本一の陶芸家になると決めた瞬間、すでに貴方は奥低では日本一の陶芸家なのですよ。問題は今の貴方の一念です。しかしさっき貴方は〝なろうと思う〟と言った。〝思う〟ではいけません。〝なるのだ!〟という決定した一念に変えなければ、貴方は一生かかっても陶芸の道を究めるどころか、陶芸家にもなれないでしょう」
「ここにはそんなことが書いてあるのか?」
と、末蔵は立正安国論の文字を追ってみた。ところが難しい漢字ばかりで、やはり読むことができない。
「そこには書いてありませんよ。そこには世の乱れの根本原因と、その打開策が書いてある」
と、光悦はひと仕事終えた余裕からか静かに笑って、立正安国論の概略を説明しはじめた。
光悦が語るところによれば、世の乱れは人の思想の乱れが根本原因だと言う。そして日蓮御坊の時代においては、根本法の当体である日蓮御坊を苛めたがゆえに正嘉の大地震が起こり、自界反逆難たる北条家の二月騒動が起こり、さらには他国進逼難たる元寇が起こったのだと言う。仏法では衣正不二と説くところから、主体たる人間と客体たる環境とは不二であるから、人間の思想の乱れはそのまま環境の不調に影響するという論理である。
「思うに今の世を見よ。日本という小さな島国で、どんぐりの背比べの武将たちが、我先にと天下を治めようと殺し合いをしておる。なにも国を治めるのに戦などする必要はないと思わぬか?茶でもすすりながら話し合いをすればすむ事ではないか?私はどうも今の世が好かん。どうやら生まれてくる時代を間違えたようだ」
光悦は遠くをみつめるようにつぶやいた。末蔵は「意味が解せぬ」といった腑抜けた顔で光悦を見つめ返した。
「おお、ところでまだ名前を聞いてませんでしたね」
末蔵は襟を正して、
「申し遅れました。百地末蔵といいます」
「旅客きたりて嘆いていわく……。日蓮御坊とは次元が異なりますが、いま正に貴方は自分の行く末を嘆いて私のところに来たわけだ」と光悦は笑った。
「どうも俺には先生の申される意味がよくわかりません……」
「今は分らなくても、陶芸の道に精進しぬけば分かる時が来るでしょう。そうだ、その道を究めようというなら、貴方によい働き口を紹介しましょう」
と、光悦は長次郎という男を紹介したのだった。聞けばその男、「聚楽焼」の創始者であると言う。後に楽焼と呼ばれるようになるそれは、素焼きした後、加茂川から採取される黒石から作られた鉄釉をかけて陰干しし、乾いてから再び釉薬をかけるということを十数回繰り返した後、およそ一、〇〇〇度の窯で焼成する。そして焼成中に釉薬が溶けたところで窯から出し、急冷すると黒く変色する。その色合いから黒楽茶碗とも言われるが、その新進気鋭な作風は、これから本格的に陶芸を学ぶ者にとってはぴったりだと光悦は言うのだった。
こうして末蔵は、紹介状と長次郎の窯の場所を教えられ、
「またいつでも来なさい」
と本阿弥光悦に見送られながら彼の店を後にした。
妖艶~梟の闇
さて、末蔵が吉兆屋に着いたとき、小太郎は二階の座敷で高鼾をかいていた。
「小太郎!光悦に会ってきたぞ!」
小太郎は「そうか……」と言ったきり寝返りを打った。忍びは熟睡はしない。いや、半分の脳はすっかり熟睡していても、もう半分の脳は絶えず周囲を警戒しながら気配を感じとっている。だから今の小太郎も、半分の脳で鼾をかき、もう半分の脳で末蔵と会話をするといった特技ができる。
「俺は今から、長次郎という聚楽焼の窯元で修行をすることにした。お前はどうする?身の振り方は決まったか?」
と、末蔵は少し興奮気味に話を続けた。
「そう簡単に決まるわけがなかろう……」
小太郎は寝言でそう答えた。口の中で唾液を転がす「むにゃ、むにゃ」という音が寝言であることを物語っていた。
「どうする?俺といっしょに行くか?」
「むにゃ……、阿呆、わしに泥んこいじりをしろと言うのか……?むにゃむにゃ……」
「ならばこれにて暫しのお別れじゃ。俺は東山の清水寺の近くにおる。用があったら長次郎という焼き物職人を尋ねてこい。じゃあな!」
「あいよ……。むにゃ……。おお、そういえば才之進に会ったぞ……」
「服部才之進か?どこじゃ?」
「今晩、大坂に行くと言っとったから、まだそのへんにおるじゃろ……?」
「そうか!生きておったか!」
末蔵は同郷の友の生存にすっかり喜んで、そのまま部屋をとび出した。
「まったくせっかちな奴じゃ……」と、小太郎は目を覚まして上半身を起こすと、異常に喉が渇いていることに気付いた。すると手の届くところに茶瓶があったので無造作に取って、注ぎ口をくわえようとしたところが、ふと、末蔵の手荷物の風呂敷包みの隙間に、ほどよい素焼きの茶碗を見つけた。
「おや?光悦大先生殿の手土産かな?」
小太郎はそれを取り出して水を数杯ついで、がぶがぶと喉に流し込んだ。そこへ「すでに大坂に発ったそうじゃ」と言いながら戻って来た末蔵は、「じゃあな小太郎、俺はいくぞ!」とせわしなく飛び出して行った。
「ったく、いつからあんなにせっかちになったんじゃ……」
と、手元の素焼きの茶碗に気付いた小太郎は、
「おい!忘れものじゃ!」
と叫んだが、末蔵はすでに吉兆屋を出た後だった。追いかけるのも面倒に思った小太郎は、「また届ければいいか……」と、さして気にする様子もなく、茶碗を枕元に置いて再び高鼾をかきはじめた。
すっかり夜も更けて、ようやく目を覚ました小太郎は、吉兆屋の店内で大根と小魚の煮物を食いながら、何気なく三条通りを行きかう町人や旅人の様子を眺めていた。陽も暮れたというのに、人通りが多いことに驚いていると、そこに酒の入った銚子を持ってきた賄いの女が、
「お代はきっちり払っておくれよ」
と言いながら、やや乱暴に小太郎の前に置いた。
「それが仕官のない惨めな浪人様に言う言葉かい?伊賀者同士、困っている時は助けあうものだろう?」
「それと食い扶持代とは別さ。こっちだって商売なんだからね!」
女の名をお銀といった。もっともくの一としての俗称もあり、そちらの方は空蝉といった。小太郎がここ吉兆屋に来て初めて声をかけたのが彼女で、地獄耳の空蝉といえば京界隈で活動する忍びで知らない者はないほど京の情報に精通している。男勝りの口を聞くが、すっかり幼さも抜けた女盛りの年代で、今朝方突然訪れた十ほども若い小太郎とはすぐに冗談も通じ合うほど馬が合った。
「おや?変わった趣味の湯のみだね?」
お銀は手酌で酒を注ぐ素焼きの茶碗を見て言った。
「わしの連れのモンじゃ。清水寺の長次郎とかいう窯元の所に届けにゃならん。知ってるか?」
「長次郎っていえば聚楽第専属の陶器職人だよ。あんたの連れってさっき来た末蔵とかいう男だろ?長次郎んとこで働くとは、まったくうまいことやったもんだね!」
「そんなに有名なのか?」
「有名もなにも元々は瓦職人の棟梁さ。なんでも秀吉が聚楽第の屋根瓦を見てさ、『この瓦と同じ茶器を揃えたい』なんて言ったもんだから千利休が張り切っちゃってさ、その長次郎さんに頼んで屋根瓦と同じ土で茶碗を作らせたって噂だよ。今じゃ天下御免の秀吉お抱えの流行作家さ!」
と、そのときふいに小太郎が勢いよく立ち上がった。
「なにもそんなに驚くことはないじゃないかい?」
「お銀さん、ちょっと出てくる!」
見れば小太郎の顔は紅潮している。そのまま太刀を腰にさして出ようとしたところを、
「小太郎ちゃん、忘れ物だよ!相方んとこ持ってくんだろ?」
と、飲み残しの酒を一口に呑んだお銀は、そのまま素焼きの茶碗を投げた。小太郎はそれを受け取ると、懐にしまいこんで吉兆屋を飛び出した。
「なんだい、慌ててさ!」とお銀は、走る小太郎の先を歩く女の旅姿を見つけてにやりと微笑んだ。
小太郎の目に狂いがなければ、それは贄川の宿で出会った菖蒲に違いない。二人の旅姿の男と連れ立って、女の旅装束姿が吉兆屋の前を通り過ぎたとき、小太郎の目に飛び込んだその女の気配には、贄川で見た冷たい殺気と同じものが隠されていた。小太郎は気配を消して一行の後をつけた。
ところが闇が深まり梟の啼き声が聞こえ始めたというのに、一行の歩みは止まらない。やがて九条の東寺をつっきると、羅城門をくぐって西国街道を進み始めた。
「こりゃ大阪まで行く気かな……?」
そう思った時、梟の声が俄かにやんだかと思うと、小太郎めがけて数羽の黒い小鳥が襲い掛かった。すかさず腰の剣を引き抜いた小太郎はその鳥を払いのけると、闇の中にいくつかの火花が散ると同時に、甲高い鉄がはじける音が響いた。それは鳥ではなく、手裏剣、あるいはクナイに相違なかった。
「お主、三条あたりから我らをつけているようだが、何用か?」
気付いた時には小太郎の背後に一人と、前方には菖蒲を護衛する恰好の一人の男に取り囲まれていた。
「旅の宿で出会ったその御嬢さんに、ちと御挨拶でもしようと思って後を付け申した。そっちこそいきなり武器を投げつけてくるとは物騒な挨拶じゃないか!」
護衛する男が「お知り合いですか?」と菖蒲に聞いた。
「知らぬ。斬れ」
表情ひとつ変えない冷酷な菖蒲の言葉に、男は小太郎の背後のもう一人に「やれ!」と目で合図すると、二人の男はほぼ同時に小太郎に斬りかかったが、一瞬消えたかに見えた小太郎は、またたくまに彼らの延髄に一太刀あびせて、後は剣を納めて菖蒲の正面に立って笑った。
「こんな腑抜けた護衛では心もとなかろう。どうじゃ、わしを雇わんか?」
菖蒲はその小太郎の笑みを少し驚いた表情で睨んだ。少なくとも今やられた二人の男は、甲賀でも腕の立つ忍びの者だったはずなのだ。
「なあに心配はいらん。峰で打っただけじゃ。二、三日もすればひょっこり目を覚ますさ。わしは目的のない殺しはせん」
「何ゆえ私をつけていた?」
一度、贄川でも聞いたその声と、透き通るような肌の容姿は、やはり女神のように美しく小太郎の目に映った。
「理由などない。お主が気になって後をつけただけじゃ」
「伊賀者の言葉は信用できぬ」
「それより菖蒲殿ひとりになってしまわれたぞ。大坂へはまだ遠い。わしを護衛に雇え。こんな夜中に女一人では山賊に襲われる……」
そのとき菖蒲の表情に、ある種の閃きが起こった微妙な変化を、小太郎はけっして見逃さなかった。それは小太郎を殺めるための算段ができたことを示す変化だと直感した。
しばらく何も答えなかった菖蒲は、やがて「分りました、雇いましょう。で、いくら欲しいのか?」と聞いた。
「わしは女からは金は取らん」
商談が成立したところで、菖蒲は気絶している二人の男に近寄って「大丈夫ですか?」と声をかけた。
「無駄じゃ、抛っておけ。そのうち勝手に目を覚ます」
こうして菖蒲と小太郎の二人は、会話もなく再び西国街道を歩き始めたが、東寺を出て最初の山崎宿まではまだ距離がある。おまけに少し進んだところで、行く手を桂川がさえぎっていた。
「菖蒲殿、こんな夜更けでは渡し舟は出ませんぞ。そのへんの民家で宿をとりましょう」
幸いそこには渡し舟の待ち合い所と、周辺には一、二軒の茶屋を営む民家がある。小太郎はそのひとつの玄関の戸を叩くと、
「すまぬ!旅の者じゃ!一晩の宿を貸していただけぬか!」
と叫んだ。中から出てきたのは一人の老婆で、二人の姿恰好をじろじろ見つめると、不審そうに「どこの者じゃ?」と言った。
「伊賀じゃ。実は駆け落ちして逃げておる」
と、小太郎は口から出まかせの言葉に、菖蒲を恋人にしてしまった図々しさに内心笑いながら、贄川の宿であの赤猿も同じような事を言っていたことを思い出した。菖蒲には、嘘でも自分の嫁にしてしまいたいほど男の心をそそる怪しい美しさがあるのだ。
老婆は「ふ~ん、駆け落ちかい?」と、ぶつぶつ言いながら二人を家の中に招き入れた。それでも気をきかせて四畳半ほどの小さな部屋に二人を案内すると、行燈を点し火鉢に火を入れ「めしはまだだろう。あまり物しかないが持ってきてやるよ。風呂も奥にあるから勝手に使いな」と、旅人の扱いにはずいぶん慣れている様子だった。
やがて老婆は部屋を出て行ったが、菖蒲はいっこうに口を聞こうとしない。小太郎は呆れて、しばらくは菖蒲に背を向けて手枕で寝転がっていたが、やがて老婆が大根の入った粥のような食事を茶碗に入れて持ってきた。
「こんなもんしかないが食べなさい―――。まあ、若いうちはいろいろあるからね。あたしだって今はこんなババアになってしまったが、昔は色ごとの一つや二つ、あったものさ」
老婆は本当に二人が駆け落ちした者同士と思い込んでいる様子だった。
「ほう……、面白そうだね。ひとつ、聞かせてください」
悪乗りを始めた小太郎の言葉に、
「あの……」
と菖蒲がさえぎった。
「先にお風呂をいただけませんか?」
「そうかい、先にお風呂かい。まあ、今晩はゆっくり休みなさい」
と、老婆は菖蒲を風呂に案内しようと一緒に部屋を出て行った。
狭い部屋に一人残された小太郎は、大根粥を腹にかき込むと、ものの数分もしないうちに寝てしまった。まったくこの男、よく眠れるものである。つい夕刻まで吉兆屋で寝ていたはずだが、半日も経たずに、もう高鼾をかいている。小太郎いわく、これを〝寝だめの術〟というらしいが、休める時に休むというのが幼少からの癖らしい。しかも片側の脳だけ熟睡して、もう片方の脳は周囲の殺気を常に意識している。
どこかで啼いている梟の声に心奪われていると、やがて部屋の襖がサーッと開く音がした。次の瞬間、小太郎の嗅覚をついたのは、怪しい妖艶な麝香の香りだった。小太郎は背中で菖蒲が戻ってきたことを知った。荷物の中から櫛と鏡でも取り出したのだろう、やがて髪を整えはじめる気配を読み取ったが、髪に櫛を通すたび、その身体から香る甘い匂いは、ほのかな風に乗って小太郎の欲情を刺激する。
髪に櫛を通す音と麝香の薫り、そしてかすかな息づかいとたまに物と物とが触れる音―――。しばらくは官能的な空間の中で股間をむずむずさせていた小太郎だったが、彼女が小さな咳をした拍子にたまらずひょいと跳ね起きた。
「はよ、めしを食え。すっかり冷めてしまったぞ」
と、菖蒲に視線を移したところが、視覚に飛び込んできたのは、うなじから肩に襟を落とし、いま少しで乳房が見えんばかりの妖艶な女の姿だった。
菖蒲は「はっ!」としたように襟元を整え、次にあらわになっていた白い足のふくらはぎを裾で隠した。
「す、すまぬ……」
小太郎は慌てて顔をそむけて背を向けた。
「いいえ……」
菖蒲は正座をしなおして、再び髪に櫛を通しはじめた。
それにしても狭い部屋なのだ。二人とも背を向けて座っている形になっているが、その間隔は畳一畳分もない。小太郎にしてみれば、彼女を抱こうと思えば雑作もない距離である。ところが話すに言葉もみつからない小太郎は、
「わしゃ寝るぞ!」
と言って、再び横になった。とはいえ贄川の宿で出会った一目惚れの女が、今はすぐ近くにいるのである。寝つこうにも寝つけるはずがない。
しばらくして、菖蒲は髪結いを終えたようだった。ところが、次に彼女がとった行動は、それまでの彼女とはまるで別人の、男にしてみれば性本能が願っていたとおりの事だった。突然、小太郎の背中にすりよせるように身体を横たえたかと思うと、菖蒲はその柔らかい女の手を、男の襟から胸へと忍ばせてきたのである。更にはその男の首筋に、かすれた声のような甘い吐息を吹きかけ、その小さな気流の乱れは、小太郎の嗅覚をかすめた。
「抱いてください……」
と、確かに菖蒲はそう言った。そして、小太郎の身体を静かに仰向けにすると、彼のはだけた胸にその美しい顔をうずめた。
強い麝香の匂いは思考力を麻痺させ、目前には美しい女体があった。そして軟らかい肉体の感触は、もはや理性の支配するところではなくなり、小太郎はおもむろにその身体を抱き寄せた―――。
「菖蒲殿……」
小太郎は彼女を優しく抱きながら、
「お主、まだ男を殺ったことがないな……」
と、ふいにケラケラと笑い出した。
「やめじゃ、やめじゃ!ヘタな芝居はこれまでにしよう!」
途端、豹変した菖蒲は、着物の内側に隠したはずの物をしきりに探し始めて戸惑った。
「合口ならここにあるぞ」
見れば小太郎の右手に、先ほど身体にひそめ隠したはずの短刀がかざされている。「いつのまに?」との表情を隠し切れず、菖蒲は観念したように顔をそむけた。
「わしを殺しそこねたか?残念だが、そなたの腕ではわしは殺せん。第一、その惚れ薬はなんじゃ?そんな匂いをプンプンさせて部屋に入ってきたら、何かしようとしている下心が見え見えだ。それどころか、薬の成分まで相手に教えているのじゃ。麝香は良いが、中に蜂の蜜と芥子の実を混ぜているだろう。蜜は惚れ薬に使われ、芥子は意識を麻痺させる。そんなものが混じっていれば誰でも警戒するさ。男を落とすなら、もうちと控えめにせにゃ。それに、今の今までほとんど口を聞かなかった女が、いきなり『抱いて』はなかろう。猿芝居もここまで真面目に演じられたのでは、わしもどう対応してよいか迷ったぞ」
相手が小太郎でなければ必ず仕留めていたに違いない。現に菖蒲は香水や惚れ薬など使わなくても、男を惑わせるには十分すぎる容姿をしていた。それは彼女にも自信があったし、小太郎もそう思っていたに違いない。ただ、相手が悪かった―――、菖蒲は悔しそうにしたまま動かなかった。
「なぜ、まだ敵か味方か分らん者を殺そうとする?赤猿のとき然り、先ほどの二人の甲賀者しかり、そして今の菖蒲殿しかり。三たびも命を取り損ねてさぞ悔しかろうが、わしは殺すには惜しい忍びじゃ。味方につければきっと大きな仕事をいたしますぞ。その方がそなたにとっても得だと思うがの?」
小太郎の言葉に、菖蒲は荒い口調で言い返す。
「密談を聞かれたからには排除するしかございますまい。我ら甲賀者は、もともと伊賀者が嫌いなのでございます。それとも忠誠を誓い、私どもと行動を共にすることができるとでも言うのですか?」
「忠誠……?誰にじゃ?」
「それは申せません」
「海のものとも山のものとも分らぬ者に忠誠など誓えん。だが……」
菖蒲は小太郎を見つめた。
「菖蒲殿になら誓ってもよい」
「なぜ命を取ろうとした私に、忠誠など誓えましょうか?」
「惚れたからよ―――。いかんか?」
「…………」
小太郎は妙な成り行きになっていることを感じながら、先ほど彼女から取り上げた合口の鞘を引き抜くと、刃を自分の方へ向けて菖蒲に持たせた。
「さあ、殺したければ殺すがよい」
菖蒲は小さく震えながら小太郎を睨みつけた。いま小口を突き出せば、先ほど仕損じた伊賀者の命を、いとも簡単に奪うことができるのだ。が、しばらくすると、菖蒲は力なく腕を降ろした。
「大坂までは私の護衛をする契約です。殺すのはその後にいたしましょう……」
菖蒲は乱れた着物を整えると、やがて背を向けて横になり、間もなく小さな寝息をたてはじめると、遠くで啼く梟の声が聞こえた。
伴天連の寺
翌朝、桂川を渡った菖蒲と小太郎の二人は、そのまま西国街道を進み、天王山を眺めながら山崎宿を経て、京と大坂のほぼ中間に位置する摂津高槻は芥川宿にたどり着いたのが昼前だった。そこまで来ると一つの旅籠で休息をとったが、菖蒲はふいに立ち上がり、
「私はちょっと行くところがございますので、戻るまであなたはこの宿で休んでいてください。それと……、絶対に後を付けてはなりませぬ」
と、足早に高槻城方面へ向かって行ってしまった。付けてならぬと言われれば、なお付けたくなるのが心情で、また一人で休めと言われても、暇を持て余すだけの小太郎は、すっかり彼女の行き先が気になって、そっと後を付けはじめた。
高槻城に近づくに従って、なにやら普通の農村とは違う、言うなればどことなく異国の空気を孕んだ不思議な雰囲気が漂ってきた。小太郎は農作業にいそしむ一人の農夫を捕まえて、
「このあたりはいったい誰の所領かのう?」
と聞いてみた。
「二年前までは右近様の所領だったが、明石に国替えになってしまってからは、関白秀吉様の直轄領だよ。まあ、右近様が細かなところまで心を砕いてくださったから、今のところワシたちも安心して暮らせるが、本当にありがてえお方だった……」
「右近とは誰じゃ?」
「お、おめえさん……、高山右近様を知らねえのか?」
「高山右近……?そんなに偉いのか?」
農夫は驚いた表情で小太郎の顔を覗きこんだ。
「偉いもなにも、あんなに清いお方がこの世の中にいるもんか!このへんの教会やセミナリオ(神学校)だって全部右近様が建てたものだし、遠い異国からはド偉い宣教師の先生方を連れてきてくださって、五、六年前なんかは全国の伴天連信徒がこの地に集まり豪勢な復活祭が行われたのさ!美しい天使の歌声、ありがてえお話……、そりゃ見事なものだったよ!あの頃は良かったなあ……。それに城下で天国へめされる人が出るだろ?するとあんた、右近様みずからが棺桶を担いでお墓に運んでくれていたものさ。あんなもん賎民の仕事だろ?思い出すだけで涙が出てくるよ。ほんと、あんなスゲエお方は他にこの世におらん―――」
「なんじゃ?右近とは伴天連大名か」
「そんな言い方をしたら罰が当たるぞ!ウソは言わねえから、あんたも高槻城の教会に行ってごらんよ。そこにパイプオルガンという楽器があるから、死ぬ前に一度は聞いとくといいよ。この世のものとは思えないまっこと見事な音色に、魂が吸い込まれちまうから……、アーメン」
農夫は熱心なキリスト信者だった。現に高槻には当時一万八千人ものキリシタンがいたという。しかもそのほとんどが高山右近と、その父飛騨守友照の導きによって、実に領民の七割近くがキリストの洗礼を受けていたという事実は、この時代にしてまさに驚愕に値する。
右近の父飛騨守友照はもともと熱心な仏教徒だったが、大和の沢城主だった時、キリシタンを論破するつもりで招いたのが、琵琶法師でイエズス会員だったロレンソ了斎という人物だった。ところがこのロレンソ、日本に最初にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルの直弟子で、友照は論破するつもりが逆にキリストの教えにいたく感銘し、ダリヨという洗礼名を授かって入信したのが始まりだった。それと同時に家族と家臣を洗礼に導くが、このとき嫡子右近は十二歳、ジュスト(重友)という洗礼名を拝したのである。
その後、紆余曲折を経て、友照が荒木村重の家臣として高槻城主になったのが天正元年(一五七三)のこと。そして齢五〇を過ぎた時その父は、晩年をキリシタンとしての生き方をまっとうするため、城主の地位を右近に譲る。このとき右近は正義と情熱に燃えた二十一歳という若さの青年だった。
ところが、この親子による布教活動が激しかった。領内の神社という神社、仏閣という仏閣を次々と破壊し、神官や僧侶に迫害を加えてこの地を去らしめ、天正四年(一五七六)には待望の教会を建設し、天正十一年(一五八三)には修学寮を建て、領内に二十箇所もの礼拝堂を次々と建設していく。いわば高山右近という人物は、キリスト教徒にとっては名君だったかもしれないが、神道や仏教徒にとっては暴君以外の何者でもなかったわけである。ともあれキリスト教徒たる領民に慕われていたという点においては、評価すべき人物であったろう。
天正六年(一五七八)、右近が与力として従っていた荒木村重が、織田信長に謀反を起こすという事件が勃発した。このとき右近は村重の有岡城に、妹や子を人質に出して誠意を示しながら、謀反を阻止しようと尽力したが失敗に終わる。
村重討伐に動き出した信長にとっては、摂津の要衝こそは高槻城で、ついに右近に対し、
「従わねば畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにし、教会を壊滅させる」
と脅迫してきた。村重と信長の間で葛藤する右近は、イエズス会京都地区修院長であるオルガンチノ神父に助言を求めた。
「どちらが正義か、神に祈って決断しなさい」
と、これが神父のアドバイスだった。ところがイエズス会の京都地区修院長といえば京都地域全体の責任者である。当然信長とも通じていた。信長はオルガンチノ神父を高槻城に派遣し、開城を求めたのである。
高槻城内は、信長との徹底抗戦か開城かで意見が真っ二つに割れた。徹底抗戦を唱える父の友照は、
「村重のところへ人質に出した娘と孫の命はどうなる!信長と和平を結ぶくらいならこの場で切腹する!」
と、オルガンチノ神父を軟禁してしまう。そこに至って深い苦悩にさいなまれた右近は、思いもよらない行動に出た。髷を切って突然城主を辞退したかと思うと、オルガンチノ神父を救出し、刀を捨て家族をも捨てて、神父を伴い紙衣一枚のみすぼらしい姿で、信長の面前に出むいたのである。
信長はその姿に一驚し、
「太刀を帯びよ!」
と命じた。ところが右近はそれを拒否し、
「どうか、このままの姿で追放してください!」
と願い出た。城主自らが「城を追放してくれ」とは全てを放棄するということである。高槻城を好きなようにしてよいという実質的な開城の意でもある。右近は続けた。
「しかし、一つだけ願いをお聞き届けください。今日よりはこの高山右近、すべての身分を捨て一介のキリシタン信者になり申すが、何卒、高槻城の家臣と領民、そしてキリシタンを保護するとお約束下さいますよう平に、平に御頼み申し上げます!」
このとき彼は殉教を覚悟していたのだろう。ところが信長は、
「申したな、伴天連沙弥(修行僧)めが……」
と鼻で笑ったかと思うと、喜色をあらわにして、自らが着ていた小袖を脱ぎ、床の間に飾ってあった名刀「吉則」とともに右近に与えのである。更には、
「この者に早鹿毛を褒美にとらせ!」
と、秘蔵の名馬まで贈るのであった。
結果的にこの右近の行動は、荒木村重の敗北につながる。そしてこの功績に対して信長は、再び彼を高槻城主とした上に、石高も二万石から四万石へという異例の報酬を与えたのだった。
この際、徹底抗戦を指示した友照は、急いで荒木村重の有岡城へ走り、右近の非道を嘆きながら改めて忠誠を誓ったが、そのためか、村重が高山氏の人質を殺すことはなかった。しかし信長の荒木氏に対する処罰は厳しく、 六〇〇人もの一族を惨殺することになる。一方友照に対しては、右近の功によって死罪を免除し、北荘(福井県)への流罪という処罰にのみにとどめた。
この高山氏と高槻村を救った体験は、右近にとっても信仰心をますます燃え上がらせる要因になったに違いない。
その後、本能寺の変で信長が没した後は、豊臣秀吉の忠実な家臣となって現在に至っているが、天下完全統一を図る秀吉が、いよいよ九州制圧に動き出した時、西国進攻に向けての人事で右近に対し、高槻から播州明石への石高増の国替えを命じたのが二年前の天正十三年(一五八五)のことだった。
それまで親子二代にわたって強力に布教を推進し、領民の大半をキリシタンに改宗させてきた右近にとって、高槻を離れる淋しさはいかばかりであったろう。それでも移転に際し、秀吉に対して高槻に残る信者の保護を約束させて、新たな使命の地、明石へと旅立つ。右近三十三歳の夏の出来事である―――。
さて小太郎は、道草を食いながら歩いているうちに、すっかり菖蒲の姿を見失った。仕方なく高槻城を目指して進んでいると、そのうちに今まで聞いたことがない不思議な音が遠くから聞こえてきた。規則正しい旋律だから音楽には違いないだろうが、笛でもない、笙でもない、琴でもない、琵琶でも三味線でもなく、まして太鼓や鼓でもない、それはまったく不思議な音だった。それが先ほど農夫から聞いた〝パイプオルガン〟という楽器であることに気付くのは、音が漏れてくる異国様式の建物の扉から中を覗いた時で、そこでは農民姿の人々が正面を向き、一心に中央の白い像に手を合わせている光景の脇で、不思議な音を奏でる四角い楽器らしき物体を見たのだった。
「なるほど、これが伴天連の寺か……」
そう思いながら小太郎は、教会の入り口の扉からその怪しげで不思議な光景を暫く眺めていた。
このパイプオルガンは先ほどの農夫が語っていた天正九年に行われた復活祭で使用するため、遠くヨーロッパから運ばれてきた日本で初めて設置されたものだった。宣教師達はこのほか携帯用の小型オルガンを持ち歩き、行く先々で演奏しながら布教活動に使用していた。その音色を初めて聞く日本人達は、またたくまに魅了され、宣教師たちの間では、
「オルガンさえあれば、日本人信者などいくらでも増やせる」
と噂していたくらいだった。
ふと、農民姿の聴衆の中に、一点、艶やかな旅姿の女がいた。菖蒲である。小太郎は「何故こんなところに?」と首を傾げながら、音楽が終わって、黒ずくめの服装をした片言の日本語を話す南蛮人の講和を聞いていたが、〝主〟やら〝愛〟やら、言っている意味はほとんど理解できなかった。やがて全員で「アーメン」と言ったかと思うと、参列者たちは黒ずくめの講和者のところへ順番に並んで、何やら色とりどりの鮮やかな小さな粒状の物を受け取り、受け取った者から順に外へ出てきた。ところがそのうちの数人は、懐かしそうに菖蒲のもとに集まって、手を取りあい親しげに話しをはじめたかと思うと、やがて脇の扉から奥の部屋へと入って行った。
「なんじゃ?それは?」
小太郎は外に出てきた一人を捕まえて、手にした粒状の物を指してそう聞いた。
「主の恵みであるコンフェイト(金平糖)という南蛮菓子です」
「そんな色の菓子があるのか?ちょっとわしにもくれてみろ」
「駄目でございます!これは私がいただいたのですから!」
「うまいのか?」
「うまいもなにも、もう、ホッペが……。欲しければ神父様にいただけばいい」
小太郎は慌てて行列の最後尾に並んだ。神父の手元には小さなガラス瓶と、中には赤や黄色や白や青のコンフェイトなる粒状の南蛮菓子がキラキラと輝いているように見えた。やがて小太郎に順番がまわってくると神父は、
「神ノ恵ミアレ、アーメン」
と言いながら手のひらに一粒だけ置いた。小太郎はそれを無造作に口中に抛り込んで、カリカリと歯で砕いてみたら、それが甘くて非常に美味い。思わずいま一度手を出して「もう一個くれ」とねだった。
「一人一粒ガ、キマリデス。夜マタ、ミサ、アリマス。来テクダサイ」
と、神父はガラス瓶に蓋をしてしまうと、何も言わずに脇の扉から去ってしまった。
「なんじゃあ!ケチじゃのう!」
小太郎は不服を吐くと、正面の子を抱く母の白い像を見つめた。いわゆる聖母マリア像である。
そして、この南蛮菓子こそ、宣教師達が布教の手段に使用しているもう一つの武器だと小太郎は思った。それは「カステラ」や「有平糖」、「ボーロ」など、それまでの日本には存在しない、小麦粉や砂糖や卵を原料とする甘い未知の食品だった。人を思い通りに操るには五感を制することが鉄則なのだ。小太郎は父太郎次郎からそう教わった。昨晩の菖蒲も香水で小太郎の嗅覚を制し、女体で視覚を制し、手を胸に忍ばせて触覚を制して男を操り、やがてはあえぐ声で聴覚を制し、したたる汗の味で味覚を制して自分を殺そうとしたに違いない。同様に宣教師たちは、その白い肌と青い目で視覚を制し、オルガンを使って聴覚を制し、南蛮菓子を使って味覚を制し、ミサに人を集めて福音香の甘い香りで嗅覚を制し、その特殊な雰囲気で触覚を制し、更には日本人には理解しえない聖書の話をさもありがたく語って聞かせ、第六感をも制しているのだ―――と、小太郎は考えた。
「いったい奴らのたくらみは何じゃ?本当に、純粋にキリストの教えを広めようとしているだけなのか……?」
初めて出会う得体の知れない新興宗教に思いをめぐらせながら、ふと、菖蒲の事を思い出した。
「あの女、くの一でなくキリシタンだったか……?」
と音もなく、ひそかに屋根裏に忍び込んだ。
南蛮装飾で飾られた部屋では、テーブルを囲んで菖蒲を取り囲むように、先ほどの神父と数名の武家の男らしき信者が座っていた。胸に十字架をあしらった首飾りをさげていたので、すぐにそうと知れたのだ。
「右近様がいなくなって、布教の勢いはすっかり衰えてしまった」
と、一人の若い武士らしい男が言った。
「いや、菖蒲様が戻ってきてくれたのだ。いよいよこれからぞ」
と別の男が言う。
「申し訳ございません。私にはまだ別の仕事が……。たまたま通りかかったもので顔を見せに寄ったまで。いましばらくは戻ることはできません」
菖蒲の言葉に、落胆したような空気が流れた。
「ところでオルガンチノ先生、秀吉に不穏な動きは見られませんか?」
菖蒲は黒装束の男をオルガンチノ先生と呼んだ。
「今ノトコロ、ソウイウ情報入ッテキマセン。デモ秀吉ハ、我々ヤ、ポルトガル商人ノ動キヲ、探ッテル。近イ将来、何カ起コルカモシレナイ」
オルガンチノと呼ばれた牧師は、少し周囲を警戒するような小声でそう言った。するとすかさず男の一人が「大きな心配ごとがひとつある」と話を続けた。
「秀吉の九州征伐に備えて、九州の諸大名が武器、弾薬を手に入れるため、盛んにポルトガル商人と人身売買の取り引きをしていると言うのです。島津はともかくとして、中には有馬晴信や大村純忠等、キリシタン大名の名も含まれている。秀吉にしてみれば宣教師も南蛮商人も一緒なのだ。我らキリシタンに影響を及ぼさねばよいが……」
「人身売買ですか……」と、菖蒲の声は悲しそうだった。
「コノ件ニツイテハ、以前、バチカンカラ人買イスルナノ通達キテル。デモ、ダメ。ポルトガル商人、金モウケ第一ネ。イツマデタッテモ切レマセン」
「それともうひとつ……」と、別の男が続けた。
「右近様もそうでしたが、私たちは布教のために土着の神社仏閣を破壊しすぎた。秀吉はそのことについても面白く思っていないはずです」
「アナタ、ソレハ違イマス!」
と話をさえぎったのはオルガンチノ神父だった。
「私タチ、日本ノ人々救ウタメ来マシタ。人ハ懺悔ニヨリ神ノ道ニ入レマス。主ハ逆ラウ者ニ遠クイマスガ、従ウ者ノ祈リヲ聞イテクレマス。ソシテ、主ハ言イマシタ。傲慢ナ者ノ家ヲ根コソギニシ、ト。神ニ従エナイ者は、ミナ獣デス。異端ノ者ハ殺シテモ良イノデス」
屋根裏で小太郎は身震いした。人を救うためと豪語しているキリシタンの教義は、実は人のための教えではなく、神のための教えなのだと直感した。
「こんな低俗な教えを日本に広められたのではたまったものではない……」
と小太郎は思った。少なくとも戦に明け暮れている各国の武将でさえ、末の太平の世を目指して戦っているのだ。―――と、まだ若い小太郎は単純にかつ純粋にそう考えている。中には名聞名利のために戦う者もいようし、覇権者になるために戦っている者もいよう。しかしそれらは自分であったり、身内であったり、狭小ではあるが目的が人であることに違いはない。ところがいるかいないか分らない「神」といった抽象的なもののために行動するなど、小太郎には考えも及ばないことだった。
「これはまず、菖蒲殿を救わねば……」
と、小太郎は屋根の隙間から射し込む陽の光をみつめた。
大坂城
高槻を発った二人は一番近くの淀川沿いの舟着場から、そこからは水路を使い、夕刻には大坂城下町の八軒家舟着場に到着した。そこから大坂城まではもう目と鼻の先である。舟を降りれば行きかう人々の活気は気のせいか、「ここは天下一の城下町や」とどこか誇らしげにも見えた。
「御苦労でした。あなたの勤めはこれで終わりました。さあ、お行きください」
と、菖蒲は厄介払いでもするかのように言ったが、
「真田幸村のところへ行くんじゃないのか?そこまでお伴つかまつる」
と、勝手に彼女の後をついて歩く小太郎であった。遠くには大坂城の天守閣が見え、彼にとって初めて見るその勇姿はまさに圧巻で、「あれが秀吉の大坂城か……」と、口を半分開けたまま、町人に幾度となくぶつかりそうにもなった。
近づくにつれ、その絢爛豪華な姿をはっきり認められるようになり、夕陽に照らされて目を射るまばゆい光はすべて黄金で、五重にそびえる天守を包む黒漆と屋根瓦の黒が、一層、装飾部の金色を引き立たせていた。世人が口々に言う如く、まさにこの世のものとは思えないほどの美しさである。
やがて、菖蒲は京橋口の門まで来ると、番の男に、
「信州尼ヶ淵城主真田安房守昌幸の使いで参りました。真田幸村様に面会願います」
と告げた。門番は証拠の書状を求めると、「しばらくお待ちください」と言って、それを事務処理の男に手渡した。そうして菖蒲と小太郎は、脇の待合所で待つことにした。
「なんじゃ?幸村は城の中におるのか?」
菖蒲は何も答えず、じっと藍に色を変える天を仰いでいた。
当時、幸村は秀吉の人質として大坂にいた。そのころ豊臣と真田は敵対関係にはなく、家康はじめ四方を敵に囲まれた真田にとって秀吉は、むしろ友好的に事を運ばせたい存在であり、秀吉にとって真田は、徳川に付かせるにはあまりに危険な存在で、合わせて真田の天才的な戦略術に対しては、自分の手中に収めておきたい武将の一人であった。そのため幸村は、人質とはいえ形式上で、別段どこかに幽閉されるわけではなく、生活を拘束されるわけでもなく、実質は秀吉のお膝元で不自由なく暮らす居候のような生活を送っていた。事実この期間の幸村に対して秀吉は、京の伏見に邸宅を与えていたくらいなのだ。もっとも今は、九州征伐の準備に伴い、大坂城内の西の丸の一角に蟄居を命じられてはいたが、することもなく、暇をみつけては大坂城下町やその周辺の散策をするような、至って自由気ままな日々を過ごしていた。
「それにしても大坂の街は京に劣らぬ賑やかさじゃ。ちと、そのへんを歩いてみんか?」
小太郎の言葉に菖蒲は相変わらず何も答えない。
「なんともつまらん女じゃのう……」
と、そのとき二人の前を、数人の怪しい人影が取り囲んだ。見ればそのうちの二人は、京を出たとき襲ってきた菖蒲を護衛していた甲賀者に違いない。
「虎之助、蜻蛉……」と菖蒲の口からその二人の名がもれた。小太郎は面倒くさそうに、
「おいおい、負けた腹いせの仕返しか?それにしてもずいぶんお目覚めが早かったじゃないか。もう少し寝ていても良かったのだぞ」
と言いながら、腰の刀に手をかけ、ゆっくり立ち上がった。見れば全部で四人、否、物陰に息を潜めている者を含めれば十人いる。
「ちょっと顔を貸してもらおう」と虎之助と呼ばれた男が言った。
「わしはお前たちの替りに菖蒲殿をここまで送り届けてやったのだ。感謝こそされ無礼を受ける覚えはないぞ」
「黙れ!伊賀者!」と今度は蜻蛉が言った。
「ここは城門、できれば余計な騒ぎはおこしたくない。ついて参れ!」と虎之助。
「騒ぎなど、わしの方はいっこうにかまわんぞ。迷惑をこうむるのはお前たちの主人だ。さしずめ真田幸村といったところか?悔しかったら刀を抜いてみろ!」
と言いながら、小太郎は腰の刀を引き抜いた。いきり立った虎之助は「やむをえん」と刀に手を伸ばしたところが、そこに、パカパカと馬の蹄を鳴らせながら、騒ぎを横目に大坂城内に入って行く大名らしき十数名の一行があった。その最後尾を走って追いかける男の姿を確認した時、思わず小太郎は「才の字じゃねえか!」と叫んだ。なるほどそれは京の吉兆にいた服部才之進である。とすれば前方の馬に乗った大名は、彼が仕官をしていると言った加藤清正に違いない。
才之進は一瞬立ち止まって、びっくりしたように小太郎を見た。
「こ、小太郎……。なぜ大坂に?俺の後をつけて来たか?」
「そんなんじゃない!それより、こいつらをなんとかしてくれ!」
と、誰が見ても喧嘩が始まりそうな尋常でない空気の中で、周囲を取り囲む怪しげな甲賀者集団を指さした。
「知らん、いま忙しい―――」
と才之進は、路上に捨てられた紙屑でも見るように、そのまま一行を追いかけて城内へ入ってしまった。
「まったく薄情な奴だ!」と、小太郎は助っ人を諦めて、刀を構えたまま相手の出方を待つことにした。そこへ、
「お待たせして申し訳ない」と先ほどの門番がやってきた。と、気付いた時には、甲賀者たちは風のように消えていた。
「そこもと、高山飛騨守友照の娘、菖蒲と申す者に相違ないな?」
「はい」と菖蒲は清廉な声で答えた。
「真田幸村の侍女として迎え入れるようにとのお達しだ。城内に入ってよし!」
高山飛騨守友照と聞いて、小太郎は「なにい?」と驚きを隠せず彼女の顔を見た。高山友照といえば、先に立ち寄った高槻村の元領主、高山右近の父親の名ではないか。とすれば、菖蒲という女は右近の妹ということになる。小太郎は、
「それで高槻城に立ち寄ったのか?」
と思いながら、門番に連れられて城内に入ろうとする彼女の後をつけたが、「お前は駄目だ!」と別の門番に差し押さえられ、「わしはその女の護衛だ!」と盛んに叫んではみたが、すでに閉門時間を過ぎた扉は、ガチャリと固く閉ざされた。
「ちっ」と舌打ちをした小太郎だったが、考えることもあって、その日は大坂城内の旅籠に宿をとることにした。
宿の座敷で腕を枕にし、横に末蔵から拝借した素焼きの茶碗に酒を入れ、それをちびりちびりとやりながら、小太郎の思考はめまぐるしく回転していた。
高槻の宿場に着いた時、菖蒲は「絶対に後を付けるな」と言って出て行った。本当に付けてほしくないのであれば、行くことを控えるか、あるいは小太郎の目を盗んで密かに行くべきなのだ。それをわざわざ「付けるな」と言ったということは、高度な忍びの技を持ち、菖蒲に好意を抱いている小太郎に対しての言葉であるなら、逆に「付いて来なさい」と言っているのと同じである。そうだとしたら、
「なぜ、あの教会のことをわしに知らせようとしたのか?」
小太郎の勘繰りはいよいよ真に迫っていった。
あそこで彼が知り得た情報は、菖蒲がキリシタンであるという事と、秀吉がキリシタンに対して抑圧を加える可能性があるという神父との密談の内容の二つである。仮に前者が目的だったとして、彼女にはどんなメリットがあるだろう。あるとすれば、彼女がくの一ではなく実はキリシタンだったという困惑を招き、小太郎を動揺させようとしたものか。しかしそれをしたところで無意味だし、もっと踏み込んで、「わしを洗礼に導こうとしたのか?」とも考えたが、いくら彼女が敬虔なキリシタンだったとしても、現在の二人の関係においては飛躍しすぎている―――。
「いったい何を伝えたかったのだ……?」
と、横になったまま酒をちびりと口に含んだ時、脳裏にひらめくものがあった。それは、先ほど知った菖蒲が高山友照の娘であり、高山左近の妹であるということが頭をよぎった時だった。
昨晩、菖蒲は小太郎を殺め損ねた。しかも殺すことについては三度の失敗が重なり、少なくとも彼女は小太郎の忍びとしての実力を思い知ったに違いない。そして「契約」を口実に彼を従えたが、そこで彼のその力を利用する別の思惑を思いついた。それは神父との密談にあったとおり、万一、キリシタンが秀吉に迫害を受けるような事態になった時、兄である右近と父を守ってほしい……という彼女の淡い願いだという勝手な想像である。
小太郎はアンテナの方向がピタリと一致したように、その心のメッセージを読み取った気がした。
「かわいい女だ―――」
と、小太郎は自分の推理を信じた。すると「よし、決めた!」と、突然むくりと起き上って茶碗の酒を飲み干したかと思うと、
「わしは高山右近に仕えよう」
と独り言をつぶやいた。
ちょうどそこへ、宿の女中が部屋の障子を開けて顔をのぞかせると、
「お客様、申し分けございませんが、お一人、相部屋でもよろしいですか?」
と言った。
「わしゃかまわんが」と答えて、同じ部屋に入って来たのが色黒い行商の男だった。男は恐縮しながら重そうな荷物をおろすと、「よろしゅう願います」と言いながら荷物にこびりついた雪を払い落した。小太郎は気にせず再び茶碗に酒を注いでいたが、すると、「おお……」と言いながらその男が無造作に近寄ってきた。
「あ、あんた、この茶碗をどうしなはった?」
「これか?これがどうした?」
ゴミの中に宝を見つけたような顔をしたこの男の名を甚兵衛といった。その語るところによれば手に持ったこの素焼きの茶碗、朝鮮国で作られた沙鉢という名品ではないかと興奮気味だ。なんでも千利休とも取り引きがあるとかで、一度彼のところに行ったとき同じ物を見たことがあると、目をらんらんと輝かせた。甚兵衛は主に大名相手に日常雑貨を売り歩いているから焼き物類の扱いも専門なのだと、「わしの目に狂いはない」と言い張った。更に詳しく聞けば、大名や上流階級の間で流行っている茶の湯の席では、いま、朝鮮産の焼き物のことが専らの評判で、欲しい人間は五万といるが、肝心の品が手に入らないのだと金の匂いを漂わせた。
「その品は、千利休さんと茶会をしたって、関白様に献上したって、目をまん丸くして驚かれる名品中の名品や。いったいどこで手に入れなはった?」
「そんな高級な茶碗なのか……?」と、小太郎は信じられないといった目つきで、末蔵が光悦のところから帰って来た時のことを思い出した。
「ど、どこってそりゃ、お前……、光悦大先生からのいただき物だよ……、多分……」
「光悦って、あの本阿弥光悦先生か?」
そう呟いた甚兵衛は、いよいよ本物であることを確信したのだろう、
「盃がわりに使うなんてとんでもない話しやで!そんなんに使うなら、ひとつわしに譲ってくれへんか?」と、手持ちの商品と有り金の全てを小太郎の前に並べ、「これと交換というのはどや?」と小太郎の顔色を覗き込んだ。小太郎にしてみれば悪い気はしない。この茶碗がそんなに値打ちのある物なら、ここはひとつ価格を吊り上げられるだけ吊り上げてみようと、口から出まかせを語りはじめた。
「馬鹿を申すな。それっぱかじゃこの茶碗は譲れん。なんといっても朝鮮国でも一、二を争う名匠が、天皇の依頼で十年の構想の末、丹精を込めて作り上げた逸品じゃと光悦大先生が申していた。焼き上がったとき、その匠は精根尽きて、その後数年間は土をいじれなかったそうじゃ。こんなガラクタとあぶく銭を並べたところで、一緒にしてもらっては困る」
「ほな、なんぼならお譲りいただけますのか?」
「そうじゃのう……、金十枚といったところかな―――」
すると甚兵衛は少し考えた後、
「分りましたわ。それで手を打ちまひょ」
と、嬉しそうな表情をつくった。
「でも、生憎いまは持ち合わせがありまへん。明日、堺のわての店で、耳を揃えてお支払いしますさかい、明日一緒に堺に参りましょう」
小太郎は呆気にとられて、「もっと高値を言えば良かった」と早くも後悔した。
翌日、昨夜の申し合わせの通り、行商人の甚兵衛に連れられて堺の町に向かった小太郎だったが、歩いているうちに、沙鉢という高級茶碗が知り合ったばかりの強欲そうな商人の手に渡ってしまうのが惜しくて仕方なかった。それよりなにより、経緯は知らないがその茶碗は末蔵の物なのだ。売ってしまったことを知ったら一体どうなるか?
幼少の頃一度、末蔵が「京の焼き物が手に入った」と、美しい色彩の京茶碗を見せてくれたことがる。それを手に取った小太郎は、ふいに出たくしゃみで落とし、ものの見事に割ってしまった。そのとき末蔵は三日三晩泣き続け、ついには「もう生きてはいけない」と、身投げして死のうとしたほどなのだ。
それを思うととても売ることなどできない。否、末蔵のことはともかく、この茶碗は金百枚にも二百枚にも化ける代物なのだ。使いようによっては仕官の道が決まるかもしれない。それなら末蔵も喜んでくれるに違いないと自分を納得させ、もっと有効な使い道があるはずだと欲が出た。
そうして判断をしかねているうちに、やがて堺の町に入った。
かつてこの地は、摂津、河内、和泉の三国の境に位置しているところから「さかい」と呼ばれるようになった。戦国以前は漁港として発達したが、戦国期を迎えるにつれ西日本の海運拠点として使われるようになり、やがては明や南蛮などとの海外貿易の港として大きな発展をとげてきた、まさにその頃が堺の黄金時代だったといえる。
その頃の堺は、会合衆と呼ばれる商人独自の自治体制を形成していたが、織田信長がこの地を統治してからは、町には堺奉行の前身たる堺政所が置かれ、少し前までは石田三成がその代官を務めていたが、現在は堺の薬問屋の豪商小西隆佐という男が務めていると言う。隆佐は小西行長の父親にあたる。
秀吉が大坂城を築いてからは、城下町の方へと多くの堺商人が移住させられているため黄金期ほどではないが、貿易商として巨万の富をなした納屋助左衛門や、日比屋了珪といった豪商や、町には鉄砲を作る鍛冶屋が立ち並んでいたり、あるいは千利休や今井宗久や津田宗及などの文化人の存在もあり、その活気はまだまだ健在だった。
二人は紀州街道から大小路筋を曲がったところで、大きな屋敷が目に飛びこんできた。玄関に続く門の壁には十字をあしらった紋様がある。
「これは誰の邸宅か?」と小太郎が聞くと、
「ここは堺政所代官の小西隆佐様のお屋敷だ」
と甚兵衛が言った。小太郎は「ふ~ん」と答えたが、それにしても賑やかな町なのだ。
「いま、各地の諸大名が大坂に集められておるやろ。そうでなくてもこの正月に、関白様が大坂城で茶会なんか開いたもんやから、それにあやかってこの堺におる千利休さんのところにも人がわんさと集まっておってな、毎日、あちこちで茶会、茶会の騒ぎやねん」
「そんなに茶ばかり飲んでおって何が面白いのか?」
「まあ、我々庶民には理解できない世界があるってことや。ほれ見てみい、あれは小西行長様に違いない」
と、甚兵衛は馬に乗って辻を曲がる武士らしき男を指さした。
「おおかた屋敷の茶室に客人を招いて、茶会でも開くのやろ」
「小西行長……?誰じゃ?」
「ほれ、代官の小西隆佐様の次男坊や。幼少の時に備前の魚屋に養子に行ったんやが、その後、宇喜多家に気に入られて家臣になり、そのまま織田信長様に従ったって話やで。そんとき関白様に頼まれて水軍を率いるようになったんや。つまり日本水軍の大将といったところやな」
「水軍ねえ……。しかし代官の息子ということは、そいつもキリシタンか?」
「よう知っとるなあ!」
「さっきの屋敷の入り口に十字の伴天連の印があったからな」
「なるほど。きっと高山右近さんも一緒なんやろな。仲がよろしいそうですからな。とすると、日比屋了珪とか千利休さんも来ているかもしれまへんな」
小太郎ははたと立ち止まった。
「いま、何と申した?」
「わて、なんと言いましたかいな?千利休さん?日比屋了珪?」
「いや、その前じゃ」
「高山右近でっか?」
「そうじゃ!高山右近じゃ!いま、堺におるのか?」
「おそらくやけどな。それが何か……?」
「すまん、わしゃ用を思い出した。茶碗を売る話はなかったことにしてくれ」
「そんな殺生な―――!金十枚でっせ!絶対おトクやないかい―――」
甚兵衛は必死に引き止めようとしたが、そのとき既に小太郎の姿は煙のように消えていた。甚兵衛は狐にでもつままれたような顔で、あたりを見回した。
招かざる客
馬にまたがる小西行長の前に、突然現れてひざまずく黒い影は小太郎である。行長は慌てて馬を止めて「危ない!何者じゃ!」と叫んだ。
「小西行長様でござるな?」
「さようだが。いきなり無礼であろう!」
「これから茶会を開くと聞いたが、拙者もぜひお招きいただきたい」
「浪人の分際が顔を出すようなところではない。お引き取り願おう」
「ぜひ小西様の客人たちにも見せて、自慢したき品がござる」
小太郎は懐をごそごそやると、懐にしまっていた沙鉢を取り出した。途端、行長の目つきが変わると、
「お主、それをどうした?」
「茶会の席で申しましょう」
行長は少し考えた後、「ついて来なさい」と言った。
こうして通された小西隆佐の屋敷に設えられた四畳半の茶室には、薄茶色の小袖に浅葱色の裃を身に着けた凛々しい男と、黒ずくめの僧尼姿に茶人帽をかぶった六十も過ぎたであろう壮年が正座して静かに談笑していた。裃の男の胸には首から吊るされた銀の十字架が光っており、黒ずくめの壮年は手慣れた手つきで茶をたてている。一人は高山右近、もう一人は千利休である。やがて小西行長は小さな茶室の入り口をくぐるようにして中に入ると、「お待たせして申し訳ない」と謝りながら右近の隣に正座し、
「来る途中で変な男に会いましてな。面白い茶器を持っておったので連れて来た」
と笑い、少し高邁な口調で「入れ!」と言った。
「なんとも狭苦しい部屋じゃのう!」
作法どころか礼儀すらわきまえない小太郎は、鼠のように素早く茶室に入るなり空いている空間にでんと胡坐をかいた。
「突然のお招き感謝いたす。拙者、仕官の口を探して放浪しておる甲山小太郎と申す者―――」
“甲山”と聞いて、右近の視線が一瞬小太郎の方へ向いた気がした。
この高山右近という男、キリシタンである前に人徳の人として知られ、牧村正春、蒲生氏郷、黒田孝高など、多くの大名が彼の影響でキリシタンとなっていた。その人徳故に、キリシタンに好意的な大名も多くおり、どんなに酒を飲んでも羽目を外さず、その真面目な人柄は秀吉も大いに評価した。茶道においては利休十哲と称されるうちの一人に数えられ、別の一人織田有楽斎は『清の病いがある』とまで言わしめるほどの高潔ぶりだった。
宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』の中でこう記す。
「ジュスト(正義)の名にふさわしい城主(右近)と交わったことほど、ヴァリニァーノ神父を満足させ驚嘆させたものはない。彼はまだ二八歳の青年だが、信長の最も勇敢な武将の一人であるにも関わらず、教会や神父に対しては謙虚であり従順であり、召使いのようである」
と、キリスト教に対しては一層その人間性は際立ち、それが右近の武器でもあった。
小太郎はその高潔な双眸に吸い込まれそうな感覚になりながら、
「巷を歩いておったら小西様の館で茶会があると聞き、そこに高山右近様がおられると聞き及び、こうして参った次第」
と言い、右近の方へ面を向け「高山右近様とお見受け申した」と言うと続けざまに、
「拙者を雇っていただけぬか」
畳に額をすり寄せるように平伏した。小西行長は高笑いを響かせながら、
「いきなり何を申すかと思ったら仕官願いか。そんな話は後じゃ、ほれ、例の茶器を見せてみろ」
と場をつくろったが、当の右近は至極真面目な顔付きで小太郎の生まれを問うた。
「伊賀は上野にござる」
「忍びか?」
「雇うて損はさせぬ」と、小太郎は不敵な笑みを浮かべた。
「なぜ私のところで働きたいのか?」
「実は……」と、小太郎は大坂に来る道中高槻に立ち寄り、そこで見聞きした右近の人徳に感銘したのだと、菖蒲のことは省いたところでまことしやかに嘘を並べた。その話を信用したしないかは別として、右近は話をそらすように正面に置かれた重厚な茶碗を小太郎の正面に置くと、静かに、
「まずは一服いかがかな?」
と淹れたての茶を勧めた。作法などまるで心得ない小太郎は、ぶっきらぼうに「頂戴つかまつる」と右手で鷲掴みに一気に飲み干した。小西行長はその姿を見て苦笑いを浮かべたまま。
「茶菓子もどうぞ」と右近は手前の菓子置きも勧めた。見れば高槻の協会でひと粒だけ食べたコンフェイト(金平糖)に違いない。小太郎は大喜びでふた粒ほどつかみ、口中に放り込むとカリカリと噛み砕いて「うまい!」と言った。
「ときに、そなたの父の名は何と申しますかな?」
右近の言葉は小太郎の全てを見抜いているかのような落ち着き払った声だった。そして「当てて進ぜましょう」と続けざまに出た「甲山太郎次郎ですな?」と的中させた右近に対して、小太郎は大きな警戒心を抱かずにはおれない。
「こやつ、何者か?」
と一瞬眼光に現れた懐疑の色を見てか知らずか、右近は穏やかな口調で続けた。
高山右近は天文二十一年(一五五二)、摂津の国高山(現在の大阪府三島郡)の城主の子として産まれた。高山の姓はその地名を冠したものとも言われるが、もともとは、その先祖を探れば近江は甲賀の出であり、甲賀五十三家に高山家があるが、その始祖高山源太左衛門こそ祖であると、「私もそなたと同じ忍びの血を引いております」と右近は笑った。
それは右近の父友照の親、つまり右近の祖父は重利と名乗る摂津高山の土豪であるが、もともとは近江南部を中心に勢力を奮った守護大名六角氏の傘下にあった。室町幕府による六角征伐、世に言う鈎の陣(長享・延徳の乱)では、後に甲賀流忍術の中心となるこの甲賀五十三家が巧みなゲリラ戦法で大活躍をする。ところが戦国時代の様相が深まると、近畿地方の勢力争いの混乱の中で、父友照は三好氏の勢力下にあった松永久秀の配下となり、永禄三年(一五六〇)大和国の沢城主を任される。
高山親子の転機は永禄六年(一五六三)に訪れた。
イエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラが大坂堺で布教活動をすることを知った僧侶たちが、時の領主松永久秀に宣教師追放を願い出たことが発端だった。キリスト教と仏教の教義対決をさせた上で追放しようと考えた秀久は、公卿の清原枝賢を仏教側論者に立て、当時仏教に造詣の深かった友照らを審査役に抜擢して議論をさせたのである。キリスト側の論者はロレンソ了斎であったが、そのとき友照はすっかりキリスト教に傾倒してしまい、この年、ヴィレラ司祭を沢城に招き、ダリヨという洗礼名を受け改宗したのである。
それに伴って翌年、右近もジェストという洗礼名を受ける。まだ十二歳の少年であった。同時に右近の母も洗礼名マリアとなり、妹も含め一五〇名ほどの家臣達がキリシタンとなったのであった。“妹”と聞いて小太郎の目付きが輝いた。
「その妹、今はどうしておる?」
右近は一瞬不審の色を表情に映したが、やがて悲しそうに、
「可哀想なことをいたしました。和田惟政に嫁いでいましたが“白井河原の戦い”で荒木村重に敗れ人質に取られてしまいました。そして九年前、村重が信長に謀反を起こし、結局信長に殺されました。あの時、高槻のキリシタンを守るために私は信長に従うしかありませんでした。結果的に妹を売る形になってしまいましたがね」
小太郎は「何の話だ?」と首を傾げた。聞きたいのはそんなことでない。
「殺された? 妹は一人だけか? もう一人いなかったか?」
「さて?テレジアのことでしょうか?」
「テレジア?」
小太郎は今まで“菖蒲”だとばかり思っていた魔性の女が、“テレジア”と呼ばれたことで聖女にでも出遇った新鮮さを覚えた。一方右近の方は、洗礼を受けた時は産まれたばかりの赤子だった彼女を思い浮かべながら、
「まだあの子が四、五歳だった頃でしょうか? 沢城から芥川城に移る際、戦に巻き込まれてしまう身の上があまりに不憫で、高山家の縁者を頼って甲賀の山奥に隠し置いたのです。高槻城にいた頃はよく遊びに来ておりましたが、よほど甲賀の里が気に入ったとみえます。明石に移ってからは会ってはおりません。もう二十歳を過ぎておりましたかな……」
「そろそろ婿を考えてやらねばなりませんな。はやり嫁ぎ先はキリシタン大名でしょうな?」
脇から行長が口をはさむと、右近は「無論」と言うように笑った。
「それよりテレジアを知っているのですか? どこでお会いになりました?」
小太郎は話すのをはばかった。この鼻に付くほど丁寧な口調な男に、彼女が“くの一”であることを言うべきか否か迷ったのである。おそらく甲賀の縁者に預けたということは、それなりの末路を考えてのことだろうが、一大名の娘が忍びになったなど、武士にとってはあまり喜ばしいことでないはずだ。暫く沈黙を保っていると、
「そなたが仕官をしたいと申しますから、私は家の話をしております。主従関係を結ぶのでしたら、隠し事はなしにしようではありませんか? それとも、誰かの依頼で私を探りに来たのでしょうか?」
右近は優しげな口調を翻して、
「だから伊賀者は信用ならぬと噂が立つ―――」
とぶっきらぼうに吐いた。伊賀忍者の悪口にカッと血をのぼらせた小太郎は、
「誰がそのような事を申した!」
すると右近も行長も利休も、そのケツの青さに思わずプッと吹いた。小太郎は右近の挑発だったことに気づいて観念した。
「テレジアというのは知らんが、高山飛騨守友照の娘で菖蒲と名乗る女なら、信州の真田安房守に仕えて今は大坂城内におる真田幸村のところにおるわい!」
「真田? あの喰えぬ男として名高い天下のひねくれ者を、洗礼に導こうというのかな?」
右近は楽しげに笑い声を挙げた。
「あの女の目的は、真田昌幸をキリシタンにすることか?」
菖蒲のことをいろいろ勘ぐっていた小太郎は、拍子抜けするほど単純な結論に思わず声をもらした。右近は続けた。
「真意は彼女に聞いてみなければ分かりませんが、あの娘の中にはキリシタンの血と忍びの血の両方が流れております。どちらを選ぶも、また、どちらに流されるも、テレジアの自由であり運命でしょう」
小太郎は、あの妖艶な乳房を思い浮かべながら、菖蒲の躰には悪女と聖女が同居しているのだと納得した。
「ところでそなた、コウヤマ小太郎と申しましたな。テレジアのことを教えてくれたお礼といってはなんですが、小太郎さんの先祖のことを教えて進ぜましょう。コウヤマとは漢字でどう書きますか?」
「亀の甲の“甲”に野山の“山”じゃ」
右近は「やはりな」と含み笑いを浮かべると、
「“甲”の字は昔、“高い”の“高”の字をあてていたと推察しますがいかがでしょう?実は当家も以前は“タカヤマ”ではなく“コウヤマ”と読んでおりました。つまり小太郎さんの先祖と私の先祖は同じ甲賀五十三家のひとつ高山家ということになります。これも何かの縁でしょう、仲良くしようではありませんか」
小太郎は自分の血の中に甲賀の血が混じっていることを聞き虫ずが走った。伊賀者としての誇りを至上の名誉として生きてきた彼には、あの赤猿と同類であるなど許せない。しかし以前(織田信長という男が台頭する以前)は、山を挟んだだけの集落同士、甲賀も伊賀もなく情報を共有していたという話を思い出す時、「さもあらん」と納得してしまうのであった。
「私は小太郎さんを仕官させてもかまいませんが、ひとつだけ条件があります」
右近が言った。「なんじゃ?」と小太郎が言うより早く、
「デウス様の洗礼を受けて下さい」
「俺にキリシタンになれというのか?」
「条件はそれだけですが、いかがしますか?」
小太郎は高槻の伴天連の寺で目の当たりにしたキリシタンの妙な儀式と、屋根裏で盗み聞いた彼等の怪しげな密談でキリスト教に対する大きな不信感を抱いたことを思い出した。キリスト教の教義は“人のため”の教えでなく“神のため”の教えなのだと達観していた彼は、俄かには即答することができなかった。
「私は近いうちに秀吉様に伴って九州へ立つことになります。それまでにお考えください」
右近はそう言うと茶をすすった。現に彼がいま堺にいるのは、九州征伐において秀吉から前衛総指揮官の役目を命じられたからであった。
「すっかり冷めてしまいましたな。淹れなおしましょう」
利休は右近の茶碗を戻し、飲みかけの茶を捨て、先ほどからチリチリと小さな音をたてて沸いている茶瓶の湯で手際よくすすぐと、再び抹茶を立てはじめた。
妙な息苦しさを覚えた小太郎は、「出直して参る、ごめん!」と言ったと思うと、煙の如く姿を消した。そして消えたそこには彼が忘れ置いた沙鉢があった。
「おい! 忘れ物だぞ!」
行長が大声を張り上げたが、小太郎は戻って来なかった。「どうしたものか?」と首を傾げた行長から沙鉢を手にした利休は、面妖な顔付で呟いた。
「これは以前、わしが京の本阿弥光悦殿に差し上げた朝鮮の器に違いない。見ず知らずの妙な男によって再び戻されるとは不思議なことじゃ。およそ真に高貴な物は、自らを得るに相応しい持ち主を選ぶものか? 仕方ない、暫くわしが預かっておくことにしよう」
茶室に招かざる客が去り、三人は落ち着きを取り戻して静かな談話を続けた。
大航海時代の中の島国
小さな島国である日本国内が戦乱に明け暮れていた頃、世界はどうであったか?
『大航海時代』という言葉が象徴するとおり、それは羅針盤がヨーロッパに伝わったことと、造船技術の発展がもたらした、海を股にかけた地球的規模の新しい時代の到来であり、それは欧州西南のイベリア半島から興った。
国でいえばヨーロッパ最西端に位置するポルトガルであり、またスペイン(イスパニア)であり、およそ海に突き出す半島や岬のような地形が文明の起点になったり、先駆者を輩出する傾向があるのは、海には人の夢とロマンを駆り立てる力があるからかも知れない。世界初の『航海学校』を創設したポルトガルのエンリケ王子が移り住んだのも、そこイベリア半島南端に位置するサグレス岬であった。長い間イスラム勢力からの圧力を受けてきたこの両国は、まだ見たことのない海の向こうの世界へと飛び出したのである。
十五世紀半ばのヨーロッパとアジアを結ぶ交易は、地中海が大きな役割を担っていたが、その制海権はオスマントルコが握っていた。その高い関税から逃れるためには、ヨーロッパ諸国にとっては新しい交易ルートの開拓が不可欠だったのである。
そのころポルトガルにおいてはエンリケ航海王子、スペインにおいてはカルロス一世の出現により、ヨーロッパ諸国に先駆けて中央集権型の国家が確立しており、イスラム勢力に対抗し得る力を蓄えつつ、北アフリカ沿岸への進出を果たし、やがては競い合って大海原へ乗り出すようになっていく。すると未知の国から得る利益で一夜で巨万の富を得るような者達も現れ、ついには一大航海ブームを巻き起こしたのである。
一四八八年、ポルトガルのバルトロメウ・ディアスはアフリカ南端の『喜望峰』を発見し、その十年後には同じポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは、『喜望峰』を経由しモザンビーク海峡を通ってインドに到達する。そしてインドから胡椒をはじめとする香辛料を持ち帰った。ヨーロッパで香辛料は古代から貴重品だったのである。
十六世紀に入り、ポルトガルの軍人フランシスコ・デ・アルメイダは、国王の命により遠征艦隊を率い、インドのディーウ港の近くのアラビア海でイスラム勢力に勝利して、インドとの直接交易を獲得するに至ると、その勢いでマレー半島、セイロン島と次々東南アジアの国々を掌握せしめ、一五五七年にはマカオに極東の拠点を築きあげた。
日本の種子島に鉄砲が伝来したのも一五四三年というからちょうどその頃で、その時渡ったたった二丁の鉄砲は、三十二年後の長篠の戦いでは織田信長の手により、槍や刀に替わる戦闘兵器へと変貌を遂げるのである。
一方、ポルトガルに少し遅れをとっていたスペインは、航海探検家のコロンブスを雇い、彼が提唱していた「地球が球体であるならば、西に進めば東端にたどりつく」という西回りインド航路の開拓に乗り出した。コロンブスはもともとマルコ・ポーロの『東方見聞録』に記された黄金の国ジパングに強く惹かれていたというが、一四九二年、スペインのパロス港を大西洋へ出航した彼は、皮肉なことにアメリカ新大陸の発見という思わぬ結末を見る。
アメリカ大陸には豊富な金銀があった。新たな交易品を得たスペインは、やがてかのアステカ帝国やインカ帝国をも植民地化し、ついには滅ぼしてしまうのである。
アメリカ大陸の発見により大航海合戦は、今度はスペインが先んじた。するとポルトガルは、一五〇〇年にブラジルに到達して植民地とし、原住民に母国語を強要し、かつ富を奪っていく。
対してマゼランを擁したスペインは、一五一九年、西回りで東南アジアのモルッカ諸島へ向けて航路開拓に出る。そして南アメリカ南端のマゼラン海峡を通過し、広大な太平洋を横断して、ついにグァム島に到達、一五二一年にはフィリピン諸島に至る。ここで住民の争いに巻き込まれたマゼランは殺害されるが、部下エルカーノが率いるビクトリア号は一五二二年、見事世界一周を成し遂げて、地球が球体であることを実証したのである。出航の際は五隻の船に二六五名いた乗組員は、このとき残された一隻の船には一八名が乗り合わせていただけだったという。一五七一年、フィリピンはスペインの植民地となるが、そうした権利をめぐって、スペインとポルトガルはしばしば摩擦を起こすようになった。ちなみにフィリピンという名は、当時スペイン王子であったフェリペ(後のフェリペ二世)にちなんで付けられた。
新航路開拓と海外領土獲得競争がいよいよ白熱化してくると、両国間に激しい紛争が発生するのは必然だった。特に香辛料の一大産地であるモルッカ諸島の奪い合いは熾烈を極め、加えて他のヨーロッパ諸国の海外進出も重なり、独占体制を脅かされるようになった両国は、ローマ教皇に仲介を求める。
こうして締結されたのが一四九四年のトルデシリャス条約である。つまりヨーロッパを除く地域で、西経四六度三七分を境に東側の新領土をポルトガルに、西側をスペインに属することが定められた。ところがマゼラン艦隊が世界一周を成し遂げた際、「地球が丸いのであれば、もう一本線を引かなければ意味がない」ということになり、一五二九年、東経一四四度三〇分の子午線を第二の境界としたのである。これがサラゴサ条約で、この際アジアにおける地位を保全してもらう代償としてスペインに賠償金を支払ったポルトガルにはマカオにおける権益が承認され、子午線の西側にあるフィリピンもまた、例外としてスペイン領として認められた。
ところがこのサラゴサ条約が島国日本においては、一層複雑な状況を生み出す結果となった。現代の正確な地図でいえば、東経一四四度三〇分の子午線は北海道の摩周湖あたりを通ることになり、それより西にある日本列島のほとんどはポルトガル領有権内になるはずなのだが、当時のおおざっぱな地図によれば、日本は東西真っ二つに分断される形になった。つまり日本は極東であると同時に、スペインとポルトガルの衝突地点ともなり、両国の人種が入り乱れて日本の末をどう料理するか、虎視眈々と狙う格好の標的だったわけだ―――。
総じて要約すれば『大航海時代』とは、ポルトガルとスペインが我がもの顔で世界を凌駕するやりたい放題の時代であり、きれいな言葉を使えば“海外貿易”であるが、その内実を問えば、未文明地帯の資源や源産物の略奪であり、原住民の奴隷化であり、汚い言葉を使えば“世界侵略”なのである。
侵略される側から見れば、東南アジアや南米の原住民達は、なぜいとも簡単に彼等の奴隷となってしまったのか? それについては、それまでアジアを支配した封建主義や、南米に見られた神君主義が人々の精神を無気力にしていたという見方である。つまり命令されたり、服従することに慣れ切ってしまっていた原住民たちの前に、突然現れたポルトガル人やスペイン人は、見かけは非常に紳士的で、金持ちな上に頭も良い。そんな人間たちが技術革新で得た見た事もない珍しい品々を目の前でちらつかせ、おまけに彼等は驚嘆するほどの巨大な船でやって来た。最初から抵抗できるはずがないと諦めた原住民たちは、ヨーロッパの人々を“新しい主人”として容易に受け入れた。あるいは他者を受け入れる大らかな精神的土壌があったのだろう。
それにしてもヨーロッパ人の世界進出には非道極まりない面が目に付き過ぎる。ここから白人至上主義というヨーロッパ人特有の傲慢さが生まれたのだと思うが、彼らにとって白人以外の人種は動物であり、人間ではなかった。白人種こそ世界に最たる霊長類であると過信した彼らの蛮行は、略奪や侵略はもとより、奴隷化した原住民達を人身売買の“物”にまでしてしまうのである。
本来そうした人道を正す役割を果たさなければならないのが宗教のはずだった。
ところがヨーロッパの宗教(カトリック教会)はといえば、大航海時代とほぼ時を同じくし、ローマ教皇を頂点とした巨大ピラミッド型の組織は強大な権力を持って形骸化していた。聖職者であるはずの牧師たちはその権威をかざし、迷える信徒を救うどころか、免罪符を売って金儲けの道具にしていたのである。
その腐敗ぶりに立ち上がったのがドイツのマルティン・ルターであった。彼から始まった改革運動は、カトリックに対抗するプロテスタント諸派を誕生させながら、またたくまにヨーロッパ全土に激しい宗教革命の波を起こしていったのだ。
そもそも『大航海時代』自体、ポルトガルとスペインによって開かれたようになっているが、実は当初、国家や商人が大航海に乗り出すためには、カトリック教会の長たるローマ教皇の許可が必要だった。ヨーロッパ諸国に先んじてポルトガルとスペインは、このローマ教皇からその大義名分を得ていたわけだ。
しかもである、ローマ教皇は航海の許可を与えていたばかりでなく、先住民の奴隷化を認め、キリスト教徒に対しては征服戦争への参加を呼びかけた上に、加担者には贖宥(免罪)まで与えていたという事実を知れば、一体宗教とは何であろうかと誰もが首を傾げたくなるはずだ。少なくともカトリックには、白人至上主義という危険なイデオロギーを抑制する力がなかったばかりか、それを助長する働きを作り出したのである。
そもそもキリスト教は一神教であり、世界はその神なる一人の手によって創られたと説く。ローマ教皇はその神の名代であるならば、世界はすべからくローマ教皇に従うべきだという論理は彼等の教義の上では成り立つかもしれないが、本来宗教の使命とは、一人の人の幸福を実現するために布教するものであり、原住民を蹂躙し、富を得るために布教するのではない。宗教の正邪を見極める一つの方法として、その宗教に属する人達の考え方や振る舞いを見ることは、大きな判断材料であるだろう。
次々とプロテスタント諸派を生み出した宗教革命の嵐は、ヨーロッパ諸国で連鎖的に立ち起こっていた。
そんな中、プロテスタント勢力に対抗するように創設されたのが『イエズス会』である。一五三四年のことだった。イグナチオ・デ・ロヨラを筆頭に、パリ大学の学友だった七名の同志は、パリ郊外モンマルトルの丘中腹のサン・ドニ聖堂に集い、清貧、貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが無理なら教皇の望むところ何処へでもゆく」という誓いを立てるのである。その中には日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルもいた。
そして『モンマルトルの誓い』を立てた一行はイタリアへ赴き、一五四〇年、正式にローマ教皇から修道会としての認可を得たのだった。極東の日本にキリスト教が伝来したのは、それからわずか九年後のことである。
プロテスタントの増幅に危機感を抱いていたカトリック教会にとっては渡りに船だった。海外での新たな信者獲得のため、カトリック教国でもあるポルトガルとスペインが獲得した領土へ、使命感あふれる彼等を宣教師として派遣するようになったのである。
つまりローマ教皇自身が海外侵略を強力に後押ししつつ、世界的な布教活動を開始する形になった。いわば原住民たちを蹂躙する暗黒の大航海時代の黒幕こそ、当時のローマ教皇と言われても仕方がないわけだ。
年代と事柄を若干前後させながら記してきたが、大要はさほどずれていないと思っている。
さてそんな大航海時代の中にあった島国日本の方へ目を移そう。
天下統一を目前にした豊臣秀吉が、否が応にもその世界の動向に対峙しなければならない立場に置かれていたことを知るのは間もなくである。
四国を治め、九州さえ平定できれば実質的な天下統一を果たすことになる秀吉は、最後の抵抗勢力である九州の島津氏討伐のため、八万の軍勢を率いて大坂城を発ったのが天正十五年(一五八七)三月一日のことだった。
山陽道を下り、同月二十五日には本州側関門海峡の袂、赤間関に到着した彼は、異父弟の豊臣秀長と軍議を交わし、二十八日には海を渡っていよいよ九州に上陸する。更に小倉城を経て翌日には豊前馬ヶ岳(行橋市大谷)まで進軍を続け、四月一日には島津氏に味方していた秋月氏の守る、豊前一の堅城と言われていた岩石城をわずか一日で陥落させ、その後は筑後高良山を経由して同月十九日には肥後八代(熊本県八代市)に到着した。
ここまで来れば島津氏の本拠地である薩摩はもう目と鼻の先、加えて秀吉軍は総計二十万の圧倒的な兵力を擁しており、もはや島津氏の降伏は時間の問題だった。
そんなとき秀吉の前に現れたのが、ガスパル・コエリュというポルトガル人である。
彼はイエズス会の宣教師であり、一五七二年(元亀三年)に来日し、九州地方における布教活動に当たり、イエズス会日本支部の準管区長も務めた。実はこのとき秀吉に謁見するのは二度目で、一度目は昨年(天正十四年)三月、九州地区の責任者として畿内の巡察を行った際、大坂城において日本における布教活動に対し正式な許可を得た時だった。
そのときコエリュは秀吉にこう述べた。
「日本全土がキリスト教に改宗した暁には、いよいよ次は中国でございます」
これを通訳がどう訳したかは知らないが、秀吉は、
「その折はそなた等の大型船を予に貸してくれるかな?」
と言った。
「それはもちろんでございます!」
大いに気を良くした秀吉は、その見返りに布教の許しを与えたという経緯があった。
日本全土を改宗した際には日本人を尖兵として、広大な中国に攻め入るという構想は、サラゴサ条約によって中国の領有権を持つポルトガルを祖国とした多くの宣教師達の共有認識だった。コエリュは肥後でもこれと同じようなことを述べた。
「九州を抑えれば中国への道は開けます。神にご武運を祈りましょう、アーメン……」
すると秀吉はコエリュの腹を探るように、
「天下統一を果たした上は、まずは秩序立てた国を安定させ、大量の船を作って二、三十万の兵を率いて“唐入り”しようと思う。お前らポルトガル人はこれを喜ぶや否や?」
と付け加えた。“唐入り”とは中国に行く事である。当時中国は明王朝であるが、仏教をはじめ中国が唐の時代に日本に流入した多くの文化の影響だろう、広く中国のことを“唐”の字を当てていた。するとコエリュはこう答えた。
「大坂に凱旋される際は、ぜひ長崎にお立ち寄り下さい。関白殿下が驚かれる物をお見せしましょう」
「帰りは博多に寄るつもりじゃ」
「承知いたしました。ではそちらに」
当然秀吉は、彼等が提供してくれるであろう大型船を思い浮かべた。ルイス・フロイスの『日本史』には、中国征服をほのめかせた秀吉の言葉を聞いたポルトガル人らの答えを聞いた時、「関白は無上にご満悦の様子だった」と記している。
秀吉にとっての“唐入り”の構想は、このときに初めて降って湧いて出たようなものではない。「唐入り」という構想自体は既に織田信長が抱いていたことは、フロイスの証言するところであるし、信長のそれは家臣たちの割譲を目的としたものであった。
秀吉が信長のその構想を聞いていたとするのは想像に難くなく、彼が初めて「唐人り」の意思を言明したのは、天正十三年(一五八五)九月三日付けの一柳末庵に宛たの朱印状の文面の中でである。そこには、子とも思う作内(加藤光泰)に要の城である大垣まで任せたのは、「日本国は申すに及ばず、“唐国”迄仰せ付けられ候心に候か」とある。つまり「唐人り」を子飼いの部将のために命じるのだと言っている。
九州平定に自ら足を運んだのも、この「唐人り」のための重要拠点となる九州を、一刻も早く統治しておきたかったからとも取れ、少なくともこの時点でポルトガル人と秀吉の利害は一致していた。
九州平定の方は、その後迅速な速さで薩摩国内に進軍した秀吉が、陸と海からの攻撃を開始し、島津方は女、子どもを巻き込んで善戦したが、五月八日、島津義久の剃髪をもって終結する。
そして島津氏の降伏を見て帰途につく秀吉であるが、その翌日の九日には正室寧々の侍女である“こほ”という女性に宛てた書状の中で、戦勝報告と合わせてこんなことを言っている。
「かうらい国(高麗国)へ御人しゆ(衆)つか(遣)はしかのくに(国)もせひはい(成敗)申つけ候まゝ、其あひた(間)はかた(博多)にとうりう(逗留)申へく候事。」
高麗国とは朝鮮のことで、「朝鮮へ人を遣わして成敗を申し付けたままなので、暫くは博多に滞在する」と。更に熊本から本願寺に宛てた六月一日付けの朱印状には、対馬の宗氏の朝鮮との交渉状況を窺わせる内容が記される。
「高麗国の事、対馬の者(宗氏)からは、いろいろ御調物を備え、重ねて人質を進上すると聞いている。懇ろと言えども申しておくが、調物などという気遣いは無用であると我が国は思っており、高麗国王が参内するという言葉が聞きたいのである。もし滞るならば、かの国へ人を送り追究したうえで成敗するつもりである。」
天下統一を果たした直後の秀吉は、かなり上機嫌で有頂天になっていたに違いないが、続けざまに朝鮮のことを気にしているのは、次に成すべきことが朝鮮に関係していることを示す手がかりではないか。しかもこの内容から読み取れるのは、秀吉にとって朝鮮は、従わせるべき相手であって攻撃対象ではないことだ。つまり何のために朝鮮を従わせるのかが問題である。
人の思考や思惑といったものは、言動に顕われるよりも、増して手紙で文字に記すよりも、遥か先の事を、しかも深く考えているものである。既に秀吉の頭の中では、ポルトガルの威光と文明力を後ろ盾にして、唐入りを果たす道筋のイメージがすっかり出来上がっていたに相違ない。それが戦国時代に天下人となった英雄の性であり、責任でもあった。
宣教師とポルトガル商人
その頃小太郎は長崎にいた。
高山右近の臣下となるためにはキリスト教への改宗を条件に突き付けられた彼だったが、どうしても神の存在というものが信じられず、返答をうやむやにしたまま「九州討伐が終わったら結論を出す」と、秀吉に従軍する右近に伴って九州まで来ていたのである。
「長崎はこの国におけるキリスト教のメッカですから、そこで洗礼を受けるのも良いでしょう」
と、右近は小太郎の随行を気にする様子もなかったが、彼の言う通り長崎にはキリスト教信者が多い。というのもここは日本初のキリシタン大名と言われる大村純忠の領地で、ポルトガルとの貿易のために長崎港を開いた彼はバルトロメオという洗礼名を受けてより、宣教師ルイス・アルメイダやガスパル・ヴィレイラのもと積極的な布教活動をしてキリシタンの一大拠点を作りあげていたからである。仏寺を改造してトードス・オス・サントス教会を設け、一時は信者数六万人を越えていたとも言われ、その数は全国にいる信者の約半数を占めるほどの、右近にとっては尊敬に値する人物だった。
ポルトガルの通商責任者であるドミンゴス・モンテイロという男もイエズス会日本本部におり、秀吉が薩摩で九州平定を成し遂げると、ひと足先に帰路に付いた右近は、その足で長崎に赴いたというわけだった。そこには熊本で秀吉に謁見したコエリュもおり、右近に少し遅れて小西行長や黒田孝高(官兵衛)も合流する手はずだった。
「おお小西殿、薩摩での水軍の活躍、噂が聞こえてきましたぞ」
行長の顔を見るなり、右近は嬉しそうに出迎えた。このたびの薩摩の戦い(平佐城の戦い)では、先鋒を任された小西行長が平佐城を激しく攻め込み、島津氏降伏の最後の決定打を放ったのである。
「なあに、大したことはないさ」
行長は満面に笑みをたたえて答えたが、ふと右近の近くにいた小太郎に気付くと、
「なんだお前、なぜここにおる?」と馬鹿にしたように笑った。一、三〇〇程の兵を率い、進軍先で秀吉本陣を必死で守っていた右近の近くを、助けるでもなく守るでもなく全く意味もなくただ追い回していた小太郎は、
「いちゃ悪いか!わしだって戦陣に加わっておれば、義久と義弘の首など二つ揃えて右近殿に献上しておるわい!」
と行長の功績に当て付けるように言った。その強がりに呆れたように「なんだ、まだ入信しておらぬか?」と行長はまた嘲た。
「なかなか頑固な男でのう」と右近もあきれ顔で言うと、
「官兵衛殿はどうした?」と、行長は小太郎を軽くあしらったまま話題を変えた。
「日向国方面から薩摩攻めを行ったから、博多で落ち合うつもりだろう。我々だけで参ろう」
右近と行長が向かったのは大村純忠の邸宅であった。九州平定において大村は秀吉に従ったが、すでに病床にあり出陣すること叶わず、二人はそれを見舞うつもりもあったのだ。
大村の凄さというか無謀さは、キリスト教やイエズス会に対する一途さにある。天正遣欧少年使節をヨーロッパへ派遣したのも彼だが、自分の領地であった長崎港周辺と、天草湾側の茂木地籍をイエズス会に寄進してしまうという敬虔さである。生来住み慣れた自分の土地とはいえ、もとをただせば日本の国土、独断で国外の者達に譲ってしまうのはどうか? そうなるとポルトガル商人にとってはやりたい放題で、硫黄や銀、海産物や、刀や漆器はもちろん、やがては日本人を奴隷として買い取り海外へ売りはじめた。それがヨーロッパ人のいつもの手段であり、じわりじわりとその国を植民地化していくのだ。
屋敷に着くと、右近は小太郎に「ここで待っていなさい」と命じた。ところが、どんな話をするのか気になって仕方がない小太郎は、いつもの通り屋根裏に忍び込んでこっそり会話を聞いてしまおうと考えた。
床に就いている純忠は二人の姿を認めると、「本来ならばお迎えに出なければならぬところを……」と言いながら気怠そうに上半身を起こし、二人をそばに手招いた。枕元には鳥かごに飼われたメジロが一羽、止まり木の間をはねている。
「そろそろ私も死ぬようじゃ。さて、私はデウス様のもとへ行けようか?」
既に精気も薄く、純忠の死はすぐそこまで迫っているようだった。
「バルトロメオ様が天国に召されないようでしたら、なだまだ未熟な私どもは一体どうなってしまいましょう。どうかお気持ちを安らかに」
右近は純忠の手を握った。
「たびたびヴィレイラ神父に来ていただき、来世の話をしてもらうのじゃ。それによると魂が肉体から離れた瞬間に審判があるらしい。それは人生の善行と罪の差し引きではなく、心の奥底が自分だけのための人生だったか、神と隣人のための人生だったかが判定対象になるそうじゃ。恥ずかしい話、私はこの審判が怖くて仕方がない。私の人生はどうであったかと自分でもわからんのだ」
屋根裏の小太郎は、「神の顔色を伺いながら生きる人生などまっぴらだ」と思った。また「神に裁かれるより、己が満足して死ねる生き方の方が幸福だ」とも思った。屋根裏に聞こえる純忠の声は弱々しく続く。
「最後の罪償いに拘束している捕虜達を釈放してあげようと思う」
そして枕元のメジロをしみじみ見つめながら「こいつも籠から出して自由にさせよう」と呟いた。
「小鳥といえどもデウス様が作られたものですからなあ。きっとその思いは通じるでございましょう」
と、今度は行長が言った。このわずか後、大村純忠は静かに息を引き取る。
純忠を見舞った右近と行長は、ポルトガル通商責任者モンテイロに会うためイエズス会日本本部に向かった。現在の長崎県庁がある場所にそれはあったと伝わるが、二人を出迎えたコエリュは握手を交わすと、さっそくモンテイロに二人を引き合わせた。二人の要件は、
「豊臣秀吉関白殿下が日本国を統一された。されば南蛮貿易を代表する貴方は関白殿下にご挨拶に行かねばならない。その際、この度の戦で荒廃化してしまった博多の復興を願い出て、我々キリシタンにとって布教しやすい都市計画をご提案するのだ」
であった。
「もっともだ」という話になり、数日後、モンテイロを伴った右近と行長は、コエリュと一緒に長崎湾を小型帆船に乗って、秀吉の逗留予定地である筑前博多は箱崎湾に向かって出航する。初めて南蛮船に乗る機会を得た小太郎は大いに喜んだが、「家臣でもない小太郎殿を乗船させるわけにはいかぬ」と右近に差し止められ、願い叶わず陸路で後を追いかけるはめになり、「チッ!」と舌打ちをしたものだ。
コエリュが小型船を選んだのは博多周辺の港は浅瀬や暗礁が多く、大型船の出入りには不向きだったからである。しかし小型帆船とはいえフスタ船と呼ばれるそれは、当時にして最新型の船で、風を受けるマストが二つあり、左右合わせて二十二本のオールによって人力で進む。船底も合せて詰め込めば二、三百人は乗れようか、漕ぎ手は奴隷や囚人を使っていたが、複雑な地形や不安定な風向きの場所に非常に強く、小回りも利くから言うなれば戦闘向きの船だった。しかも数台の最新型の大砲を積み込んでいたから、思わず右近も行長も目を丸くした。
「これを秀吉様に献上すれば、関白殿下もたいそうお慶びになるでしょう」
その言葉を聞いたコエリュは不思議そうに、
「献上?」
と言って首を傾げた。
「とんでもございません。そんなことをしたら我々は大損です」
このコエリュという人物、宣教師である前に商人だった。
実はこの頃日本にいる宣教師達の間では、キリシタン領主に対して過度の軍事援助は慎むようにとの方針が打ち出されてた。これはイエズス会東インド管区巡察師ヴァリニャーノが決めたもので、彼は日本における宣教方針として“適応主義”を取っていた。つまり自国の習慣にとらわれず、日本文化に適応させたやり方で布教を進めるやり方である。そのためか織田信長とも非常に良い人間関係を築いたわけだが、この頃彼は日本にいない。コエリュはこれを無視して軍用船を売り込む腹でおり、もしこのときの折衝人がコエリュではなくヴァリニャーノであったなら、日本の歴史はまた違った形になっていたかも知れない。
右近と行長は顔を見合わせたが、「南蛮人の流儀というものもあるだろう」と、そこは荒立てずに黙っておいた。
秀吉が筑前箱崎の筥崎八幡宮に到着したのは六月七日のことである。
そこで秀吉は、今回の九州征伐における業績を加味しながら、さっそく九州の国割りの沙汰を言い渡す。それによると、小早川隆景に筑前・筑後・肥前一郡の約三七万石を、黒田官兵衛には豊前の六郡約一二万五、〇〇〇石を、立花宗茂に筑後柳川城一三万二、〇〇〇石を、毛利勝信に豊前小倉約六万石をそれぞれ与える。また大友宗麟の子義統には豊後一国を安堵し、対馬の宗氏も安堵と決める。そして肥前の所領の沙汰を言い渡すとき、思わず声を挙げたのが長崎の所領を持する大村純忠の子喜前であった。このたびの島津氏討伐においては、病床に伏す父の替わりに秀吉に従って出陣している。
「恐れながら申し上げます。ただいま長崎の一部はイエズス会に寄進してございます。万が一にも国替えなど仰せつけられましたなら、長崎の宣教師はじめキリシタン達は路頭に迷うことに相なります。何卒、何卒、安堵の沙汰を!」
このとき秀吉の目つきが変わった。
「どういうことか?」
と、その言葉はあまりに穏やかで、喜前は恐ろしさのあまり言葉を失った。
「長崎の地を南蛮人に与えたと申すか?いったい誰の許しを得たのか?」
喜前の額から大きな脂汗が光って見えた。
「この日本の国土を誰のものと心得る? 純忠のものではないし、わしのものでもない。増して南蛮人のものでもない、この国の帝たる天皇のものぞ! 貴様は天皇を穢す気か!」
秀吉はカッと頭に血をのぼらせた。浅はかな一人のキリシタン大名は、己の魂をキリストに差し出したばかりか、国土まで彼等に差し出してしまったのである。加えて彼等の、日本各地で信者達を煽動し、土着の寺社を破壊し僧侶らを追い出す蛮行も知っていた。そして大村純忠や高山右近のようなキリシタン大名が、破竹の勢いで増殖している現状が、かつての一向宗の反乱と重なって空恐ろしくなった。当然宣教師等の日本への出入りに伴って、貿易も盛んになり利をもたらすことも存知の上で、このとき秀吉の中でキリスト教が日本にもたらす害毒の大きさを思い知ったのである。
「ただちに大村純忠を呼べ!」
「父はいま病床にあり、明日をも知れぬ身の上。拙者が承ります故なんなりと」
秀吉は刀を抜いて立ち上がった。喜前は命を観念した。
そのとき秀吉の脳裏に浮かんだのは熊本におけるコエリュの言葉だった。
『関白殿下が驚かれる物をお見せしましょう―――』
ぐっと憤りを鎮めた秀吉は、刀を鞘に収め静かに言った。その“驚くモノ”を見てからでも遅くないと思い返したのだ。
「今日のところは安堵とする。追って沙汰を言い渡す。さがれ!」
こうして血を見ることは免れたが、翌年(天正十六年)教会領であった長崎は没収され、秀吉の直轄領となる。
一方、敵対した島津氏には、義久には薩摩、義弘には大隅、家久の嫡子豊久にはそれまでの土地をそれぞれ安堵し、同盟していた秋月氏や高橋元種は移封という極めて温情ある処分を下したのだった。
ともあれこの日の諸大名の関心は、今回の九州平定によって日本国内にはすでに分け与えられる土地がなくなってしまったということだった。一国一城を夢見て戦ってきた者たちにとっては一種の失望感が生まれ、泰平の世というものを知らない戦国の武将達は、
「これからは卒なくしていれば安泰じゃ」と言ったり、
「関白様のことだから次の手を考えていなさるに違いない」と、口々に噂した。しかし当の秀吉は、六月十五日には対馬の宗義調とその養嗣子である義智に対し、朝鮮国王を上洛させるための使者を派遣するよう命じる。すでにこのとき次なる展開に向けて、彼は実質的な手を打っていた。
モンテイロとコエリュを伴った右近と行長が箱崎浜に到着したのは、秀吉が筥崎宮に入って間もなくのことだった。一行はさっそく秀吉に面会を求め、モンテイロは天下統一の祝賀を述べるとともに、今は焦土と化している博多の復興案を持ちかけた。
「それは予も考えているところじゃ、申してみよ」
するとコエリュは、すでに復興後の博多の町を見ているかのような顔で、
「港をポルトガルとの貿易港とし、市内にはキリシタンを多く住まわせます。いま市内にある寺院と神社は排斥し、替わりにイエズス会の教会を建設させるのが良いかと存じます。関白様が支那に進出するにしても、我等の文明はなにかとお役に立ちましょう」
すると秀吉は、
「それはよき考えじゃ、そうするがよい」
と鼻で笑ったことに、あまりに簡単に要求が通ったコエリュとモンテイロは、拍子抜けの顔を見合わせた。ところが次の言葉を聞いたとき、モンテイロは蒼白になった。
「ただし、その代わりに長崎は返上してもらう」
「ちょっとお待ちを!」
思わずモンテイロは叫んだ。長崎開港の歴史は浅いとはいえ、ようやく外国人居住地もでき、イエズス会の日本本部も近年できたばかりなのである。その上、教会も次々と建っており、ようやく日本の拠点として機能しはじめているというのに、「長崎を返上して博多に移れ」とはそれまでの苦労が水泡に帰す。モンテイロの慌てようを弄ぶように秀吉は続けた。
「大村純忠が長崎をそちらに寄進したというのは本当のようじゃのう。長崎を奪っておいてなお飽き足らず、博多まで奪ってどうするつもりじゃ? お主らは何を企んでおる?」
「奪うなんて滅相もありません。私達は博多に理想の世界を創りたいだけなのです」
「理想ねぇ……」と秀吉は呆れた表情を作った。
「私達に野心などございません」と今度はコエリュが続けた。
「そもそも博多の港は浅瀬が多く、我々の大型船は入ることができないのでございます。純粋に布教をしたいだけでございます」
「お主はさきほどポルトガルとの貿易港にしたいと申したばかりではないか」
コエリュは墓穴を掘った。
「これはあくまで私達のご提案ですので忘れてください」
モンテイロはすっかり貿易のための博多開港案を取り下げた。
ともあれ博多の町割りは進められる。当初秀吉の計画では、九州統治の要として、また対・明、対・朝鮮のための政治的軍事都市を構想したが、博多湾の性質から新城建設は取り止めとなった。そして秀吉の直轄都市としてそれまで通り商業を中心とした復興を目指し、石田三成をはじめ五名の町割奉行を任じる。その中に小西行長も加えられた。その時の『定め書き』によれば“楽市楽座令”をはじめ侍が住むことを禁じるなど、その後博多は一大商業都市として発展していくことになる。
「ところでコエリュ殿、肥後八代においてわしに見せたきものがあると申していたが、いかに?」
「それは後日改めて……」
「楽しみにしておるぞ」
秀吉はコエリュを威嚇するような笑みを浮かべ、
「今宵は九州平定の戦勝祝いじゃ。お主らも存分に楽しんで参れ」
言ったと思うと農民育ちの無作法な態度を露わに、
「女を呼べ!じゃんじゃん酒を出せ!町中の女を集めて今宵は大騒ぎするぞい!」
と高らかに声を挙げた。その上機嫌な秀吉に、一緒に居合わせた右近も行長もほっと胸を撫で下ろしたものである。
ところが―――
酒はすぐに振る舞われたが、いくら待っても女が来ない。さすがにしびれを切らせた秀吉は、「女はどうした、女は!」と不機嫌な声を荒げた。すると、
「町に女が一人もいない」
と、ある家臣の一人が言う。筥崎宮からほど近い立花山城主で、このたびの戦でも先陣切って大活躍した立花宗茂を呼んで尋ねてみても、「知らぬ、分からぬ」の始末で、ついに、
「一人もいないとはどういうわけじゃ!梅干し婆さんでも何でもいいから連れて来い!」
ということになった。そして家臣たち総出で町に繰り出し状況を調べると、次第に町の様子が見えてきて、どうやらいないのは年頃の女性ばかりでなく、働き盛りの若い男性の姿も見えないようだと―――異常な事態に右近と行長も顔を見合わせた。
「何か起こっているようじゃな?」と行長が言う。
「あいつを使ってみましょうか?」と右近が応えた。
そうして呼び出された小太郎はすでにほろ酔いの目をして、「いよいよオレを雇ってくれる気になったのか?」と右近に聞いた。
「約束はたがえません。洗礼を受けたら雇いましょう。ただ、いま町から女性がいなくなっているらしいのです。その訳を小太郎君に探って来てほしい、明朝までに。できますか?」
「容易いことだが、雇われてもないのに忍び働きはできぬ」
「お礼は存分にいたしましょう。なんならテレジアの秘密をお教えしましょうか?」
菖蒲の洗礼名テレジアの名を聞いて、小太郎は途端にやる気を出して、
「そういうことなら仕方があるまい」
言うが早いか風のように姿を消した。
「いいのかい、あんな約束をして?」
「なあに、秘密といってもあの子が五歳の頃の秘密しか知らんよ。おねしょをしてたとかね」
右近は笑って筥崎宮の中へ戻って行った。
南蛮船
なぜこの町には若い女性がいないのか?
その訳を探れと言われても、小太郎に宛てがあるわけでない。ひとまず仲間を集めて知恵を借りようと思った彼は、懐から“呼び笛”を取り出した。呼び笛というのは伊賀に伝わる二寸ほどの竹でできた細い笛で、吹いても音は鳴らない。否、鳴らないのではなく一般の人には聞こえない音域の超音波を発する。これは仲間を招集する時に使われるが、鍛えても聞こえるようになる者は伊賀の中でも限られており、それでも薩摩遠征が終わり、筥崎宮周辺に集められた大名の中には、伊賀者を雇っている者もいるだろうと、呼び笛を吹きながら既に夜の帳が下りた民家の周辺を走って回った。その聞こえない音は「手を貸してほしい」という意味で、音を感知して同意する者は、互いの主君への忠誠の壁を越え、伊賀者同士で無条件の協力体勢を作る暗黙の了解なのだ。無論互いの立場やその時の状況もあるから強制力はないが、そのゆるやかなつながりは、同郷の者同士で助け合おうとするごく自然な母国愛の一種なのである。
すると間もなく二、三の伊賀者らしき男達が集まってきた。見ればその中の一人は、京都の吉兆屋で会った服部才之進である。加藤清正に雇われたとかで大坂城でも会ったが、その時は取り込み中でろくに会話もしていない。
「なぜお前がおる!」
思わず小太郎は声を挙げた。
「それはこっちのセリフじゃ。大坂にいたのではなかったのか。何の用じゃ?」
才之進は独特な抑揚のない口調で言ったが、ライバルである小太郎の招集に乗ってしまった上に、「なぜいるか」といてはいけないような一声を投げかけられて、内心かなり気分を損ねている。
「わしにもいろいろ事情があるのじゃ」
小太郎は集まった男達の顔を一瞥した。その伊賀者たちは、それぞれ竹島与左衛門の下忍新堂小猿、伊賀玉滝の五郎助、千賀地保長の下忍野村孫八と名乗った。小太郎は「わざわざ呼び出して申し訳ない」と謝った後、
「拙者、百地三太夫が下忍、甲山小太郎と申す」
と名乗った。すると才之進以外の者は「もしや、あの甲山太郎次郎殿のご子息か?」と口々に驚いた。それが才之進にはまったく不愉快で、早くも「帰る」と言い出した。
「まあいいから聞け」
と、小太郎は右近から請け負った捜索事由を、「関白秀吉自ら命じられた大事な任務である」と誇張して伝えた。瞬転、才之進は動揺を悟られまいとした口調で、
「お主、秀吉に仕えておるのか? どのようにして取り入った?」
と、いまや天下人となった秀吉に仕えていると言う小太郎に対しての嫉妬心を隠しながら、再び「俺はやらん、帰る」と冷たく言った。しかし他の者達は「甲山太郎次郎殿のお子とあらばさもあろう」とひどく感心した様子で、すっかり乗り気である。
「やらぬのは自由だが、この任務遂行の暁には、関白秀吉からがっぽり褒美をもらえるに違いない。場合によっては仕官への推挙をしてやってもよいが……」
小太郎はすました顔で才之進に目をやって、相変わらず感情というものをほとんど表情に出さない才之進の目が、僅かに泳いだのを見て楽しんだ。
才之進は考えた。この憎たらしい小太郎よりも先に情報を入手して秀吉に報告してしまえば、こいつを蹴落とし、自分が秀吉直下の諜報衆として雇ってもらえるのではないかと。
「仕方がない、やってやろう。今回は貸しだ」
才之進は心の中でほくそ笑む。
「すまぬがよろしく頼む。期限は明朝日の出までじゃ。鳥居の脇に大きな楠がある。知り得た情報はその木の根元に埋めておいてくれ」
そうして五人の伊賀者は、それぞれ闇の中に消えたのであった。
小太郎たちがてんでに捜索を続けている頃、秀吉のところにはその家臣たちによって次々と新しい情報がもたらされていた。「この町周辺では昔からしばしば神隠しが起こるらしい」とか「十六歳の少女が拉致されるのを目撃した人物がいる」とか「これほど若い男女がいなくなったのは近年のことで、さらわれた者はどこかに売られている」とか「それはさらわれたのではなく、自ら売られに行ったのだ」とか「どうやら黒幕はポルトガル商人だ」と、その実態が徐々に明らかになっていく。要約するとこうである。
少し前、この辺りは九州屈指の大名大友宗麟が治めていた。彼は博多の海路の便を活かしアジアとの貿易で大きな利益を得たが、キリスト教の進出に伴いポルトガルとの貿易にも乗り出し、更なる富を築きあげることに成功する。ところが本州側からは毛利氏、南からは島津氏の勢力が強まってくると、強大な軍備の必要性が生じ、「自分はキリスト教を保護する者である」と言って、ポルトガルから鉄砲の火薬の原料である良質な硝石を輸入するようになった。ちなみにこの頃の宗麟はまだキリシタンではない。
軍備というのは金食い虫である。しかも当時のことだからポルトガルは取り引きにべらぼうな価格を提示した。ついに金策に困った挙句、ポルトガルが要求してきたのが人身による取り引きだった。彼等はどこの国でも同じような事をして自国の富を築いていたのである。宗麟は承諾せざるを得なかった。そんな中ひと役買ったのがもともと商才に長けた当時の博多の商人たちだった。そして人身もポルトガル人達に売れば金になることを知り、すっかり味を占めたのである。
その後宗麟の力は、天正六年(一五七八)の耳川の戦いで島津氏に大敗して急速に衰えていく。キリスト教の洗礼を受け、「ドン・フランシスコ」と名乗ったのはその直後のことで、島津氏が秀吉に降伏する直前に病死したとされるので、この時はすでにこの世の人ではない。
その島津氏との争いの舞台となった博多は前述したとおり焦土と化していたわけだが、この土地の者はこの土地で生きていかなければならなかった。知恵のある商人は、その後もあの手この手で働き盛りの男女を集めてはポルトガル商人に買い取らせていたり、生活に困窮した農民の中には、自らの人身を売ることで家族を守る者もいた。そんなことを何年も続けていくことで、すっかり若者がいなくなってしまったということらしい。
日本における人身売買の歴史はこの頃に始まったわけではない。古くは日本書紀の中にもその記述は見られるが、中世以前からの律令制の下では、誘拐や人身売買は流刑などの厳しい処分対象であった。しかし飢饉や疫病などで政情不安が生じると、「人買い」は闇の商売としてしばしば文献にも登場するが、それは一面、貧しい農民たちが生き延びるための苦渋の手段でもあった。いずれにせよ人身を物や道具のように売り買いの対象にするなど許せるものでなく、しかも秀吉にとっては自国の国力である国民を、外国人の金儲けの道具にしているばかりか、海外に流出させている事実が許せない。そして大友宗麟の名を聞いたとき、
「またキリシタンか!」
と激怒した。遠目に酒飲みに興じるコエリュとモンテイロの姿を見れば、その白い肌の色や金髪や、高い鼻筋や青い目が、統一したばかりのこの日本を征服せんと企むサタン(悪魔)に見えた。秀吉は上機嫌な態度を装って「日本の酒はお口に合いますかな?」と、二人の盃に酒を注ぎに近寄り、
「わしに見せたき物とはいったい何じゃ? もったいぶらずに早く教えてくれぬか?」
とコエリュに迫った。もっとも秀吉にはそれが何か薄々勘付いている。今彼が最も欲しい物とは、南蛮技術により造られた最新型の船なのだ。優秀な船さえあれば、唐入りなど容易に果たせると考えていた。しかもそれを献上してもらえるものと思い込んでいる。
一方コエリュは秀吉を不機嫌にさせてしまうのも本意でないので、
「関白殿下にはかないませんなあ。船でございます。“フスタ”という最新型の戦闘船でございます」
と答えた。秀吉は「ほう」と言って目を細めると、
「明日、わしをその船に乗せろ」
と高みから言った。
「明日はちょっと無理でございます」
「なぜじゃ?」
「実は明日、箱崎浜から長崎へ運ばなければならない大事な荷がございまして……。一日、二日中には戻って参りますので、どうかそれまでお待ちください」
「わしより大切な荷とは何じゃ?」
コエリュは言葉を詰まらせた。すかさず隣のモンテイロが目配せをして首を横に振るのを見て、
「関白殿下のお頼みとあらば仕方ございません。では明日、乗船していただきましょう」
コエリュは苦笑いを浮かべてそう言うと、自分の盃を飲み干して秀吉に返盃した。コエリュは日本のそうした作法をすっかりわきまえている。
ちょうどそこへ加藤清正がやって来て秀吉に耳打ちをした。すると「伊賀者?」という言葉が秀吉から洩れた。続けて「お前が替わりに聞いておけ」と命じたが「直接でないと申せないと言いますもので」と、清正はすまなそうに答える。秀吉は面倒臭そうに「信用のおける者か?」と聞けば、「私に仕える忍びでございます」と答えるので、仕方なく筥崎宮に設えた陣所に移動した秀吉は、清正が連れて来た伊賀者と対面した。
「面を上げて手短かに申せ。予は忙しい」
顔を上げたのは才之進である。
「申し上げます。関白様より承りました女人消失の件につきまして、重要な情報をお持ちしました」
「前置きはよい、はよ申せ、結論からじゃ」
「はっ!」と才之進は珍しくやや緊張した面持ちで、
「人身売買が行われております」
と誇らしげに言ったが、終わらぬうちに「もうよい、下がれ!」と秀吉は、一喝して不愉快そうに立ち去った。才之進の情報収集にかかった時間は確かに早かった。しかし秀吉はそれより早かったのだ。蒼白になったのは清正で、「恥をかかせおって!」と、才之進は暫くの謹慎処分を言い渡される。
さてその頃小太郎はといえば、おおよその人身売買の事実を知って、さらにはその証拠を見つけ出そうとしていた。そして一番怪しいと睨んだのが長崎で乗り損ねたあの最新型の南蛮船で、その船の中を探ろうと筥崎宮からほど近い箱崎浜にやってきた。
暗闇ではあるが半分くらいの月明かりと篝火のおかげで、忍びの者にすれば動くにまったく支障はない。浜から海の方へ長くのびる波止場の脇には、南蛮船と地元の漁師たちの小さな和船が所狭しと並んでおり、長崎で乗り損ねたその船は暗闇の中で重厚な威厳を放っていた。
波止場の入り口に据えられた粗末な建物は、乗り組み員達の休憩所になっているに違いない。その建物の入り口では松明が炊かれ、門番であろう、日本人にはとても見えない上半身裸の大きな体つきの男が、椅子に座って腕組みをしている。小太郎は夜中に海辺を散歩する住民の風体でその男のところへ寄って行き、
「わしは異国というものに非常に興味があるが、あの南蛮船はお主らの物かの? ちと中を覗かせてもらえんか?」
と、何食わぬ顔で波止場の方へ乗り出した。すると男は慌てた様子で立ち上がり、怒鳴るような異国語を発したと思うと、小太郎の前に立ちはだかったのである。
小太郎はギクリと我が目を疑った。
眼前にはややぽっちゃりとした男の腹部があり、少し見上げれば筋肉隆々とした男の胸板が脂で光っていた。更にその上にあるはずの顔は分厚い胸に隠れて毛むくじゃらな髭しか見えず、次の瞬間丸太のような両腕が、小太郎の子供のような体を掴もうと動いた。
咄嗟に後方へ飛び退けた小太郎はその男の全貌を見た。身長二メートル以上はある猪のようなごっつい体つきをした巨大なポルトガル人だった。
こんな男に掴まれたらひとたまりもない―――。
小太郎は誤魔化しの笑みを浮かべながら「南蛮船を見せてくれ」と交渉を続けたが、男は訳の分からない言葉をくり返すだけで全く会話にならない。しかしその大男の怒り狂ったような剣幕と、身振り手振りのジェスチャーから、
「出て行け! ここはお前の来る所ではない! 言うことを聞かなければ殺すぞ!」
と言っているのが解かった。
仕方なく正面突破を諦めて、海の中から船に近づくことにした小太郎は、竹筒を出して海に潜った。身体を水中に潜め、竹の先端だけ外に出して息継ぎをしながらじっと隠れたり水中を移動するいわゆる水遁の術であるが、父から聞いた話では、ある城に忍び込もうとした忍者が、掘の水の中でチャンスを待って、五日間絶え抜いた者がいるそうだ。今の小太郎でさえ半刻も潜っていればあっぷあっぷなのに、そんなに長い間水に浸かっていたら、身体は水ぶくれになるだろうし、第一何も食べないで五日もいるなど絶対不可能だと、あの時の小太郎も反発したが、父は「いるのだから仕方がない」と答えたものだ。
難なく右近たちが長崎から乗った南蛮船の脇にたどり着いた小太郎は、鉤縄を投げて船べりにひっかけ、そろりそろりと登って甲板の上を覗きこんだ。そこには見張りであろう三、四人の男達がランプで照らされた机を囲み、ガラス製の透明茶碗で赤い飲み物を口にしながら、何やら薄い札を使った遊びに興じているようだった。赤い飲み物はワインで、薄い札とはトランプであろうが小太郎は知らない。
先程の大男と比べれば皆痩せ男だった。とはいえ小太郎と比較すればひと回りも二回りも大きな西洋人であるが、「これなら倒せる」とヒョイと甲板に躍り出て、瞬く間に腹部や延髄を蹴り飛ばし、トランプが机から落ちる間に全ての者達を気絶させてしまった。
「南蛮人などたいしたことはないのう」
小太郎はそうつぶやくと、さっそく船の上を詮索し始めた。
二本のマストからは無数のロープが垂れ下がり、その多さだけでも驚くというのに、舳先は前方に鋭く突き出し、錨を巻くろくろは黒い怪物に見えた。更に驚くのは船首楼甲板に備え付けられた二門の大砲で、砲口を左右に向けた光景はあらゆる者を征服せんとする野望の塊のように感じる。左右のヘリに沿って整然と並ぶのは漕ぎ手の艪櫂席で、今は収められた長いオールが斜めに立てかけられており、甲板の中央には主屋形があって、前方には小さな机と先ほど気絶せしめた数人の西洋人が倒れている。
小太郎は船の後方に移動した。そこは二階建ての豪華な操舵室で、中に入れば大きなポルトガル国旗が目に飛び込んだ。見たこともない美しい装飾の机や椅子や燭台や、棚には西洋食器が所狭しと並べられ、いくつもの樽と、鍵がかかって中には行けないが、奥には更に部屋が続いているようだった。たいていのことには驚かない小太郎も、これには感嘆のため息を漏らさずにいられない。
ふと「ゴトリ」と、床下から何か物が落ちる音がした。小太郎は甲板に戻って足元の床にそっと耳を当てた。
「誰かいる―――」
それは無数の人間の、何か悲嘆に暮れる息づかいだった。どうやら床下にはまだ部屋があるようで、小太郎は拳の関節で数度床を叩いてみると、途端にその人の気配は消えてしまった。
「誰だろう?」
今度は一種のリズムを形成した音で、同じ床を叩いてみた。
トン、トン、ト、トー、トーン、ト、トン、トー、トー……
実はこれ、伊賀に伝わる情報伝達手段のひとつである。いわゆるモールス信号のようなものだが、そのリズムの意味は同じ伊賀者の間でしか通じない。無論船底にいるのが誰かは分からない。ポルトガル人かもしれないし、伊賀者である可能性などは皆無に等しい。しかし音の規則性に気付く者があるとすれば、何らかの反応が返ってくると思った彼は、『誰かいるのか?』と何度か信号を送った。
すると船底から反応が返ってきた。ところが、ある規則だったリズムを形成しているのに、意味が全く読み取れない。小太郎はすぐに思った。
「伊賀のものではない―――」
と。とすれば、このような情報伝達手段を持っている者があるとすれば、彼には甲賀者しか思いつかなかった。
それにしてもその反応は必要以上に激しく、まるで助けを求めているように何度も何度も繰り返される。「きっと船底へ通じる入り口があるはずだ」と思った彼は、甲板の上を探し始め、やがて主屋形に入ったところの床の一部に、人の出入りができるほどの大きさの戸口のような箇所を見つけた。ところが取っ手は頑丈な鎖で何重にも巻かれ、西洋の大きな錠前で堅く閉ざされている。錠前破りなど忍びの“いろは”であるが、
「こんな錠前は見たことがない」
とつぶやきながら、懐から持ち合わせの忍び道具を取り出した。そして様々な形状をした針のような物を鍵穴に差し込んでは、錠前を開けることに専念し始めた。
どれほどその錠前と格闘していただろうか―――突然赤い松明の光が彼の背中を照らしたのだ。「ハッ!」と振り向いた時にはすでに遅く、彼の頭上に巌が落ちて来たとも思える激しい衝撃が走った。錠前を破ることに夢中になり、まったくの不覚である。遠のく意識の中で、波止場の入り口で門番をしていたあの大男の姿を認めたきり、小太郎はその場に泡を吹いて倒れた。
船上の稲妻
「おい、目を覚ませ!」
暗闇の中、男勝りの荒い囁き声は女のものだった。
「ううっ……」とうめき声を吐きながら深い眠りから覚めた小太郎は、おぼろげな視界に写し出された女の顔に焦点が合った時、ガバリと上半身を起こして思わずに「菖蒲殿……」と声を挙げた。見間違えるはずもない、それは大坂城で別れて以来、ずっと脳裏にこびりついて離れない、美しいあの女の泥に汚れた怪しげな表情である。
「ここはどこじゃ? なぜここにおる?」
小太郎はうずくように痛む頭を押さえて暗い周囲を見回した。すると細長い倉庫のようなところに、泥で汚れた農民姿や町人姿をした若い男女が二、三〇名ほど、鉄製の手枷・足枷につながれ、うずくまるようにしてじっと息をひそめて眠っている光景を見たのであった。
「南蛮船の船底じゃ。私らは奴隷としてこれから長崎に運ばれる」
菖蒲は他人事のように言うと、「あんなデカいだけの男にやられるとはお主も頼りにならぬの」と吐き捨てた。その言葉で小太郎は、錠前を開けようとしている最中に、ポルトガルの大男に脳天を殴られたことを思い出した。そして「あの信号は菖蒲殿であったな。“木叩き信号”が甲賀にもあるとはのう」と感心したように呟いた。
「そんなことよりこの鉄の重りをはずしてくれ。動きずらくて仕方がない」
幸い小太郎は足枷もされず、縄で縛られていただけだったので腕や肩の関節をはずし、縄抜けの術ですぐに自由になったが、忍び刀を押収されたらしく、鉄を切る道具といえば“しころ”と呼ばれる楕円形をした携帯用の鋸しかなかった。本来は家屋などへ侵入する際に邪魔な木材を切るための道具で、左右両側に刻まれた刃は粗びきと細びきになっており用途によって使い分けるものである。
「このシコロはな、伊賀一の鋸職人だった湯本爺さんに作ってもらった特製じゃ。鉄だって切れるぞ、信長に殺されたが―――」昔を思い出すようにしみじみ言うと、「手と足、どちらから自由にしてほしい?」と聞いた。
「逃げるには足が先じゃ、早よしろ!」
泥で汚れてはいるが、美しすぎる脚線を見て生唾を飲み込んだ小太郎は、その柔らかいふくらはぎを遠慮がちに握って足枷の鉄に切り込みを入れた。
「まだか?ひとつ切るのにこんなに時間がかかっていたら、とっくに日が昇ってしまうぞ。日が昇ったら船が出る。そしたらここにいる者達の脱出する機会は失われてしまう。早くしてくれ」
「ここにいる者らを逃がすつもりか?」
「当たり前じゃ!この者達は、何も知らずに南蛮へ売られようとしておるのじゃ」
菖蒲は人が変わったように感情的になった。
「およそ耶蘇たちが考えそうなことじゃ」
「違う! これは欲深い商人どもの仕業なのだ」
「キリシタン達もその片棒を担いでいるではないか」
「違う! デウス様はそのような事はなさらない」
「テレジア……」と呟いたのは、罪もない哀れな若者を救おうとしている菖蒲が、神から遣わされた天使のように見えたからである。しかし彼女のその目は、信じる宗教を否定された憤りからか、泣きそうな真剣さで小太郎を睨みつけるのであった。
「右近に会ったぞ」
小太郎が静かに言った。「兄上に……?」と、菖蒲の鬼のような目つきが俄かに郷愁を帯びたものに変わると、「達者でしたか?」と付け加えた。鉄を切る手を動かしながら、大坂城で別れてから現在に至るまでの経緯を話しているうちに、ようやく片方の足枷がはずれ、もう片方の作業に取り掛かった小太郎は、着物の裾からはだけるなまめかしい彼女の太腿を見ていた。
「菖蒲殿はなぜ博多になんぞおる? 大坂城の真田幸村のところにおったのではないか?」
以前感じたような鋭い殺気は潜めているのか、目の前の菖蒲は妙にしおらしく、静かに身の上を語り始めた。その内容に嘘は感じられない。
幸村の侍女として大坂城に入った菖蒲は、間もなく九州討伐の秀吉護衛を命じられた幸村に随行して九州まで来たのだと言う。もう一つの動機は、九州におけるキリシタン大名の良からぬ噂の真意を確かめたかったのだと、「お主も高槻の教会で盗み聞いていたであろう?」と付け加えた。「やはり知ってたか。喰えぬ女だ」と小太郎は思った。北九州から薩摩へ向かった軍を離れた彼女は、博多で人身売買の実態を探るため逗留するが、ついに奴隷の一時収容所を発見したところで、例のポルトガルの大男に拉致されて「このありさまじゃ」と珍しく笑った。そして、
「どうしてか分からぬが、監禁されている間中、お前が来てくれるのではないかと思えて仕方がなかった」
と言った。彼女のしおらしさは、どうやらそれが現実となった小太郎に対する信頼の芽生えからきているようである。小太郎は、
「わしはお主に惚れておるからのう」
と、以前も漏らしたような戯れを口にした。それは本当でもあり嘘でもあった。小太郎自身よく分からない感情なのである。
「早くしろ、もう日が昇る」
暗い船底の木の隙間から、ほのかな光が入り始めていた。
さて日が昇り、秀吉を引き連れたコエリュがフスタ船の乗り場にやって来た。そこにはモンテイロや秀吉の側近はもちろん、高山右近と小西行長も居合わせた。
「本当は“ナウ船”という大型船をお目に入れようと思ったのですが、この港は遠浅のため乗り入れることができませんでしたので、やむなくこの“フスタ船”をご覧にいれます。小型ではありますが人力で動きますので小回りがきき、最新の大砲も積んでございますので必ずやご満足いただけることでしょう」
コエリュはこう言うと、門番の大男に目配せをした。大男は小太郎を船底の倉庫に押し込めた例のポルトガル人で、船上の乗り組員達に「partida !!」と叫ぶと一行を船に乗せ、自らも乗り込んだ。こうして穏やかな湾内のクルージングが始まったのである。
風を受ける二本のマストのロープを巧みに操る乗組員たちはみなポルトガル人だったが、何より目に付くのは船の両サイドで号令に合わせて必死にオールを漕ぐ痩せこけた男達の様子であった。よく見れば真黒に日焼けした彼等はポルトガル人ではなく明らかに日本人で、それを問い質そうとする秀吉の関心をそらすようにコエリュは操舵室を案内したり、船首と船尾に据えられた最新型の大砲を見せ、使い方など説明して回るのであった。
「いかがでございましょう?」
と、自慢げに言うコエリュに向かって秀吉が聞いた。
「船を漕ぐ者達はみな我が国の民のようじゃが、いったいどうしてここにおる?」
近くにいた右近と行長は焦燥して秀吉の顔色をうかがった。
「この者達はみな罪人でございます」
コエリュは平然と答えた。秀吉はその強かな顔を見て、
「船底が見たいが」
と言った。
「船底は倉庫になっているだけです。今は長崎への積み荷で乱れ放題の有様。とても関白殿下にお見せできるような状態ではございません、どうかご勘弁を」
「かまわぬ、見せよ」
「私に恥をかかせないで下さいませ」
「見せよと申しておる!」
コエリュは言葉を失った。モンテイロは「逆らってはまずい」と彼を促した。
船底といってもいくつかの部屋に区切られており、奴隷として売り渡す者達を監禁していたのはその中でも一番奥のスペースであった。さすがにそこまで案内しなければ良いと判断したコエリュは、
「こちらでございます」
と、甲板中央の主屋形の中へ秀吉を案内したのであった。その厳重に封鎖される戸口の鎖を見た秀吉は「随分と用心深いのう」と皮肉を言うと、「ええ、貴重な物ゆえ盗まれたら一大事です」とコエリュは何食わぬ顔で答え、例の大男に錠前の鍵を開けるよう命じた。
やがてジャラリジャラリと鎖が外された時、戸口を開くよりも早く、いきなり中からムササビのように飛び出した大きな黒い物体があった。それには一同驚愕して、大声を挙げて全員尻餅をついた。
一同正気に戻ってその黒い物体を確認すれば、女を抱えた男が一人、こちらを睨んで身構えているではないか。言わずと知れた小太郎で、抱えられている女を見て、右近が「テレジア」と呟いたのを行長が聞いたのと同時に、小太郎は「兄上」と呟く菖蒲の声を聞いた。
小太郎は右近の姿を確認すると、
「驚かせて済まなんだ。右近殿、日の出にはちと間に合わなんだが、この南蛮船は奴隷輸送の船である。船底の奥に南蛮人に拉致された者達がおるぞ。直ちに救出してやるがよい!」
と叫んだ。そのうち戸口の中から、手枷・足枷をしたままの若者たちが、一人二人と地面から湧くように姿を現し、秀吉が「どういうことじゃ?」とコエリュに問い質すと、
「みな犯罪人でございます」
と白を切る。
「どのような犯罪を犯したのか、一人一人の罪状を説明してみよ」
コエリュはカッと頭に血をのぼらせて、「あの不届きな密航者を殺せ!」と大男に命じた。小太郎は菖蒲を抱えたままひらりと甲板に躍り出たが、次に聞こえたのは大男が放った大きな銃声だった。見れば髭を蓄えた大男の両手には、当時海賊たちが使っていたのと同じ、いわゆるラッパ銃が握られている。
「昨晩の仕返しをしてやろうと思ったが、飛び道具とは卑怯ではないか!」
小太郎は挑発するように叫んだ。すると大男は二発、三発と乱射した。ところがこのラッパ銃、至近距離においては恐るべき威力を発揮したが、揺れる船などで容易に弾込めができるよう発射口がラッパのように広がっている分、命中率が非常に低い。しかも一発放てば弾を込めるのに時間が必要で、通常は何丁ものそれを腰に巻いて戦うのである。案の条、発砲された弾は全てあらぬ方向へ飛んでいき、全て打ち尽くしてしまった大男は銃を捨て、今度は朝星棒を取り出した。
朝星棒とはモーニングスターとも呼ばれる西洋の金棒のようなものである。二尺ほどの棒の先端に金属球があり、その金属球の周りには無数の尖った金属や刃物がついた打撃殺傷の武器である。しかもこの大男が手にしたのは、その身体の大きさに合わせた朝星棒だったから、長さはおよそ三尺ほどで、先端には二、三〇キロはあろうと思われる棘付きの巨大な鉄球がついていた。それをまるで扇子でも扇ぐようにして、軽々とブルンブルンと音をたてて振り廻し始める。むしろ大男にとっては銃より得手だったのだ。
あんな巨大な鈍器に当たったりでもしたら、頭はかち割られ、骨は粉々に砕けて即死である。小太郎は菖蒲を舳先の船首楼に控えさせ、「ちと待っておれ」と言ったと思うと、トビウオのように大男の前に立ちはだかった。
「ほれほれ、腕力だけで振り廻しておったらまったく力が無駄であるぞ!武器というのは腰で扱うものじゃ!」
とはいえ小太郎は何も武器を持っていない。次の瞬間、大男の金属球が小太郎の脳天めがけて振り下ろされた。が、砕けたのは南蛮船の分厚い床で、その衝撃で船が大きく傾いだ。「どこに消えた?」とキョロキョロ周囲を見回す大男だが、当の小太郎は男の大股の間を潜り抜け、反対側にいた右近の腰の刀を「ちと拝借」と言って引き抜いたと思うと、すかさず大男めがけて斬りかかったのである。しかしそこは大男も負けてはいない。向かってくる刀の芯をめがけて朝星棒を振り下ろせば、玄界灘に響く鈍い金属音は、右近の刀を真っ二つに砕いていた。小太郎は折れた刀を見て目を丸くした。
「右近殿! もうちとましな刀はなかったか?」
すると秀吉が「これを使うが良い!」と、小太郎に自らの太刀を投げて渡した。それを受け取った小太郎は、鞘から刀を引き抜いて、その刃渡りをしみじみ見つめた。
「これは見事な太刀じゃ……一生かかってもお目にかかることはなかろう」
まさにいま隙だらけの小太郎目がけて、大男の朝星棒は左側から襲って来た。と、小太郎の姿が夢か幻の如く消え、次の瞬間轟いたのは、大男の怪獣のような叫び声だった。そのとき既に小太郎は、秀吉の前にひざまずき、鞘に収めた太刀を返納していた。
その一瞬の間に何が起こったのか肉眼で見た者は一人もない。ただ、大男の左足の上に、朝星棒から切り落とされた先端の金属球が、痛々しく足に突き刺さっていたのを見ただけである。
小太郎は風のように菖蒲の待つ船首楼に戻ると、身体を抱き上げ、
「ごめん!」
と言い残して海に飛び込んでしまった。
船上の者たちは暫く呆気に取られていたが、やがて秀吉は苛立ちを隠せない様子で「今すぐ船を岸に戻せ!」と命じた。
その様子をつぶさに見ていた右近と行長は、すっかり蒼白になってコエリュに言った。
「このままでは秀吉様は、どのような沙汰を下されるか考えただけで恐ろしくなります。一刻も早くご機嫌を回復させるには、どうだろうか、このフスタ船を今すぐ秀吉様に献上してはくれまいか?」
右近の言葉に行長も続いた。
「あの剣幕だからそれだけでは足りんだろう。大型のナウ船を二、三隻ほど……」
「バカを申すな」とコエリュは笑った。
「そのような高価なものを、本国の許可なしで私の一存だけでできるわけがないだろう」
「大村純忠様はあなた方のために、長崎を寄進したのですぞ!」と行長は続けた。
「信者が神のために献納するのは当然だろう」
行長がカッとなってコエリュの襟首を掴んだのを、慌てて右近が押し止めた。
「お主はどこまでお人好しなのじゃ!」
行長は右近にそう吐き捨てると、掴んだ襟首を払い、そのまま二人を睨んで立ち去った。
さて筥崎宮に戻った秀吉は、早々にコエリュを呼びつけて詰問を開始した。
「先程、船底に積まれ、鎖につながれていた者達は、奴隷として南方へ連れて行こうとしていたのではないか? また、あの櫂を漕いでいたのも囚人でなく、お前たちが奴隷とした者達であろう」
秀吉はきっちり裏を取った上でこの話をしている。現にこの時代、ヨーロッパ方面へ売られた女性を主とした奴隷の数は五〇万人にも及ぶとする説もある。一五八二年(天正十年)にローマへ派遣された少年使節団一行も、世界各地で多くの日本人が奴隷として扱われている光景を見て驚愕したという記述が見られる。「行く先々で家畜同然に売られる日本人を親しく見たとき、激しい念に燃え立たざるを得なかった」「実際、あれほど多くの男女や童が、世界中の多くの地域で売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか」―――と。秀吉は続けた。
「わが国では人買いは禁止しておる。お前たちは何故それほどまでにキリスト教を熱心に布教し、日本人を買って奴隷として船に連行するのか?」
するとコエリュはこう答えた。
「ちょっとお待ち下さい。ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人の方から売りつけて来るからではありませんか」
その屁理屈についに秀吉は激怒した。そのうえコエリュは、
「我々宣教師の後には、ポルトガル王国はもちろん、あの無敵を誇るスペイン艦隊がついていることをお忘れなく」
と威圧をかけてきたのである。この翌年、スペイン艦隊はイギリスによってアルマダの海戦で敗れることになるが、もはやこのとき、秀吉の堪忍袋の緒は切れた。
伴天連追放
筥崎宮から博多湾沿いを西へ二里ばかり行ったところに姪浜があった。そこは当時キリシタンの町があり、右近はそこの小さな教会に陣を張っていたが、小太郎が菖蒲を伴って姿を現したのは間もなくの事である。
妹との久し振りの再会に右近は顔をほころばせたが、それも束の間、遠くを見るような目で深いため息を落とした。
「気分がすぐれないようですが……いかがされました?」
菖蒲はその目の奥に潜む大きな不安を見て、ただならぬ事態が起こっていることを察した。
右近は「コエリュ神父がのう……」と言いかけたが、「いや、テレジアが知ったところでどうなるものでもない」と、今度は隣の小太郎に目を向けて、
「そうじゃ、関白様がそちに褒美を取らすと申して、この刀を拝受した。大切に使いなさい、“正宗”だそうです」
と、南蛮船の上でポルトガルの大男と闘った際に秀吉が小太郎に投げ渡したあの太刀を手渡した。忍び刀としてはやや長いが、名刀『正宗』と聞いて小太郎の心は踊った。
「さすが関白秀吉じゃ、気前がいいのう!」
と遠慮の微塵も見せずに受け取るが、
「そろそろ洗礼を受けてはどうか?」
と迫るので、「用があったらまたお呼び下され」と、そそくさと小太郎はその場を立ち去った。
「兄上も妙な男を雇ったものですね」と菖蒲が言えば、
「まだ雇ってはおらぬわ。お前が目当てで仕えたいと来たのじゃ。だから洗礼を受けたら雇うと言うた。まあ入信も時間の問題だろうが、お前からも誘ってやりなさい」
「なかなかの曲者ですよ」と菖蒲は小太郎の後姿を見送った。
それから暫く菖蒲は右近のところに留まることになる。暇をもてあそぶ小太郎は、しょっちゅう彼女のところに顔を出しては、贄川で会った赤猿のことや、なぜ真田に仕えるようになったかなどを執拗に聞き出そうとしたが、そのたび適当にあしらわれ、やがて話す事が尽きてしまうと埒もない世間話をするようになった。その時も庭の野草を摘んでいる菖蒲を見つけて、「何をしておるのじゃ?」と近寄り、開口一番、
「百合の花か。菖蒲殿も割としおらしいところがあるのう」
と冷やかした。
「これはマドンナリリー、純潔の花じゃ。キリスト教では聖母マリア様の花と言う」
と、菖蒲はその純白の花を優しく手に包み込み、そっと上品な鼻先を近づけた。
「わしは花菖蒲の方が好きじゃ。良い香りがして邪気を払う。菖蒲殿の花じゃ。ほれ、あそこにもある」
小太郎はそこに行き摘み取ろうとしたが、花の盛りは既に終わり、萎れて枯れた花びらを残すのもわずかだった。すると菖蒲が言った。
「私は嫌いじゃ。黒だか紫だか分からぬ霞がかった色をして。いっそ真っ黒に咲いてくれれば少しは諦めもつこうに。私はこの真っ白なマドンナリリーになりたかった……」
その悲しげな横顔は、彼女の中に潜む闇の部分を映しているように見えた。その視線に気づいた菖蒲は、
「どうじゃ、少しは洗礼を受ける気になったか?」
と話をそらす。
「またその話か」と呆れた小太郎は、このところ毎日、菖蒲ばかりでない右近にも同じことを言われ続けているのだ。
「お主は私に惚れておるのではないのか?」
菖蒲はまた、以前彼に迫った夜と同じ妖艶な表情を浮かべて、怪しげな色香を漂わせた。
「惚れておるが、それとこれとは話は別じゃ」
「ではあれは嘘か? お前は以前、私に忠誠を誓うと申したではないか」
「嘘ではない」
「ならば私の言うことに従え」
「うむ、分かった、従おう……」
「では今日にでも洗礼を受けるぞ」
「仕方がない。菖蒲殿にそこまで言われたら従うしかあるまい」
小太郎はそれまで拒み続けてきた頑なな心が、いとも簡単に融けていくのを感じながら、本気とも冗談ともとれる口調で呟いた。
とそこへ、
「右近はおるか?」
馬を飛ばした小西行長が血相を変えてやって来た。
「兄上なら中に。それより小西様、たった今この小太郎が入信の決意を固めてございます。これより教会へおもむき―――」
「なんじゃお前、まだいたのか?」と菖蒲の話もそこそこに、行長は小太郎を一瞥してぶっきらぼうに言ったまま、
「そんなことより右近はどこじゃ。えらい事になってしまったわい!」
と、馬を飛び降り、陣所になっている建物の中へ走って行く。菖蒲も尋常でない様子に肝を冷やし、その後を追いかけ右近を呼び出した。
「小西殿、そんなに慌てていかがなされた?」
私服姿の右近が姿を見せると、息せき切って行長は、懐から一通の書状を取り出した。
「これは?」
「秀吉様がコエリュ神父に宛てた詰問書じゃ。これからわしは、これを神父に届けにゃならん……さて、困った、困った……」
右近は書状を手にし、「ちと、よろしいかな?」と中身を確認すれば、その表情がみるみるこわばっていき、やがて身体がワナワナと震え出すのが見てとれた。その内容はこうである。
一、汝ら耶蘇衆は何ゆえ仏僧のように寺院内だけの説法にとどまらず、全国の者まで煽動するのか? これより伴天連は下九州に留まり、今までのような布教はしてはならない。もし不服とあらばマカオへ帰りなさい。
一、汝らは何ゆえ牛や馬の肉を喰らうのか?
一、これまで商人たちが奴隷として連行した日本の民を本国に連れ戻しなさい。
一、もしこの要求が受け入れられなければ、すぐに伴天連衆を追放する。
それは詰問書というより命令書だった。行長は右近の顔を伺いながら、
「もうじきお主のところにも、これと同じような詰問書が来るはずじゃ。それまでに考えを整理しておけ……と言っても無理じゃろうが、覚悟はしておいた方がよい」
と、深いため息を落として立ち去った。
その夜、行長が言った通り、右近のもとに秀吉からの使者が来た。その使者とは右近の茶の湯の師でもある千利休で、彼は秀吉の九州征伐に同行して博多にいた。右近は菖蒲に茶を立てるよう命じると、利休を応接用にあてがっている小さな部屋に案内し、
「さて、突然利休様がかような所にいらっしゃるとは、いかがな赴きでしょうや。ご覧の通りの仮住まい、ろくなおもてなしもできませんが、ただいま茶を立ててございますので、暫くお待ちください」
と対座した。無論用向きの察しはついたが、使者に秀吉側近の利休を使うとは、秀吉にとっての右近の重要さを物語っている。利休はやや神妙な面持ちで、
「実は右近殿にとっては、あまり良くない知らせをお伝えしなければなりません」
と言った。そこへ襖が静かに開くと、茶を持った菖蒲が現れ、利休は右近を気遣って話すのをやめたが、当の右近は、
「妹のテレジアににございます。お気兼ねなく」
と続けると、菖蒲に向かって、
「今、この時の私をよく見ておきなさい」
と静かに言った。すると今度は天井を気にかけた利休は、
「天井裏にもネズミが一匹いるようですが……」
案の定、天井裏には事態を重く感じた小太郎が、いつものように盗み聞きしようとじっと息を潜めていたのであった。勘付かれるなど思いもよらない小太郎は、「ハッ」と天井板から耳を離し、利休の感の鋭さに舌を巻く。右近は小さく笑うと、
「きっと私に仕える忍びの者でございましょう。害を加えることはありませんので、こちらもお気兼ねなく」
と言った。利休は静かに頷くと、ようやく秀吉から託された右近宛の詰問書を取り出し、やがてゆっくり話し始めた。要約するとこうである。
『予は右近の説得で身分ある武士や武将たちの間に伴天連の教えが広まっていることを非常に不快に思っている。兄弟でもない者たちの団結は、天下に累を及ぼすに至ることが案ぜられるからである。加賀国をはじめ全国各地で反乱した一向宗の習いが隠しようのない事実であり、本願寺の僧侶には天満の地に寺を置くことを許しているが、一向宗には許したことはない。ましてや国郡や領地を持つ大名が、その家臣達を伴天連に帰依させようなどありえないことである。 高槻、明石の者をキリシタンにし、また寺社仏閣を破壊したことは理不尽極まりない悪行である。よって今後とも大名の身分に留まりたければ、直ちに信仰を捨てよ。』
覚悟はしてはいたが、右近は次の言葉は見つからなかった。そして脇に単座する菖蒲もまた、何か言いたげな様子で右近を見つめているだけで、利休も、
「関白様にはいかにお返事をお伝えいたしましょうか?」
と言ったきり、暫く無言の時が流れた。
ようやく右近が口を開いたのは、菖蒲の入れた茶がすっかり冷めてしまった頃である。
「前にも一度、武士を捨てる覚悟を決めたことがございます。私が高槻にいる頃、あの時は織田信長様でございました。高槻のキリシタンを守るためには、そうするより仕方がないと考えたのでございます。確かに私は高槻や明石の家臣たちをキリスト教に導きましたが、だからといって関白殿下を侮辱した覚えは全くございません。それでも信仰を捨てよと言うのであれば、例え全世界を与えられようと承諾いたし兼ねます。デウス様のこと、及びその教えに関する限りは、一点たりとも変えるわけには参らぬ故、私の身柄、封禄、所領につきましては、関白殿下のお気に召すようお取り計らい下さい」
利休はその潔さに感服したが、これほどの人物を失う損失を惜しんだ。
「どうだろうか? 今の言葉をそのまま関白様にお伝えしたのでは、怒りを買うのは目に見えています。ここは表向きだけでも関白殿下の意に沿うようご返答されては? 私の見たところ、関白様はそうお望みの節もございます」
「意に添うとは信仰を捨てることでございます。口先だけの嘘など申せません」
屋根裏の小太郎は、菖蒲の色香にほだされて、洗礼を受けると言った自分を顧みて苦笑した。
「本当にそのままをお伝えしてよろしいのですな?」
「はい。よろしくお願い申し上げます」
と、右近は深々と頭を下げたのだった。
ところがそれから暫くして、再び利休がやって来て、新たな秀吉の言葉を伝えた。それは、
「所領は没収するが、熊本に転封した佐々成政に仕えることを許す。それでなお信仰を捨てないのであれば、今日本にいる宣教師と一緒に外国へ追放する」
というものであった。つまり信仰さえ捨てれば武士でいることを許すと言うのである。
しかし右近は、必死の利休の説得をも拒み、
「この信仰が、師である利休様や、君である関白秀吉様の命令より重いかどうかは分かりませぬが、武士というのは一度志した事は曲げるものではないと存じます。たとえ師君の命と言えども、志を変えるのは不本意にございます」
と、毅然と言い放ったのである。それを聞いていた小太郎はひどく感心し、利休が帰ったあとで右近の前に跪くと、
「拙者、胸を撃たれ申した。我ら忍びの世界に武士の義などはございませんが、やはり右近殿は、キリシタンである前に武士でござったか!」
と言った。すると、
「あれは利休様を納得させるための便宜です。人の基が魂であるなら、武士などただの飾りにすぎません。人の真価は着ている衣を全てはがして、ようやく見えてくるものではないかな?」
小太郎は己にとっての衣とは何か、魂とは何かを考えた―――。
こうして天正十五年(一五八七)六月十九日夜、フスタ船で眠っていたモンテイロとコエリュのもとに、世にいう『伴天連追放令』が届けられたのである。日本にキリスト教が伝来してよりおよそ三〇年、まさに晴天の霹靂とも言える事態であった。
定
日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
已上
天正十五年六月十九日 朱印
おおよその大意はこうである。
一、日本は神の国であるから、キリスト教は邪法であり布教してはならない。
一、大名は天下の法律に従うべきで、一時的にその領土を治めているだけなのだから、土地の民を信者にし、寺社を破壊することはあってはならない。
一、キリスト教の信者を増やそうと考えるのは日本中の仏法を破ることになり、日本にキリスト教徒を置いておくことはできないので、宣教師は今日から二十日以内に自国へ帰ること。キリスト教徒でありながら違うと言うのはけしからぬことである。
一、商売をする貿易船の出入りはこれとは関係ないので今後も続けること。
一、これからは国法を妨げるのでなければ、商人でなくとも日本に来ることは問題ないので許可する。
この布令により一夜にして高山右近は国賊になった。己にとっては一信仰者の信念を貫いたわけであったが、ただひとつ心残りなのは、ここまで自分について来てくれた家臣たちの今後の身の上である。中には信仰の日もまだ浅い者もおり、眠れぬ夜を過ごした彼は翌朝、家臣達を集めてこう言った。
「私は我らの主なるデウス様の名誉と栄光のために、長年待ち望んでいた苦しみを味わえる機会が与えられたことは返って喜ばしいことである。皆の者が危険に身命を捧げて私に尽くしてくれたことに感謝するが、それに報いることができない身の不甲斐なさに悔いるのみである。それは全能なるデウス様の偉大な御手に委ねるしかないことを分かってほしい。皆の者は主の教えをわきまえているだろうから、来世においてはその報いとして無限の栄光と財宝を与え給うだろう。どうか勇気をもって信仰に励み、自ら範を示し、良きキリシタンとして生きることを望む。皆の者には妻子や家族もあろう。私の友人の中には、皆の者を喜んで迎え入れてくれる武将もいるだろうから、これからはその者を頼っていくがよい」
右近の突然の言い渡しに、呆気にとられる者も、理解できない者も、泣き出す者もおり、中には「死ぬまでお供仕る!」と髻を切り落とす者もいたが、この日をもって右近の家臣団は解散した。
やがて小西行長はじめ黒田官兵衛、その他右近と親しくしていたキリシタン大名達が次々と彼のもとに訪れ、口々に「考え直せ」と言った。しかし右近の固い決意を知ると、「これからどうするつもりじゃ?」と心配に変わった。しかしそれは彼自身が一番知りたい事であり、
「こうなった以上、もうここにはおれぬことは分かっていますが、かといってどこに身を潜めて良いかも分からぬ。どうしたものだろうか?」
と呟いた。
「ならばここからも見えるあの能古島に暫く隠れていてはどうか?」
と黒田官兵衛が提案したのに続き、
「それはいいかも知れん。わしはいま博多町割り奉行の仕事が忙しい故、そちらが落ち着いたら淡路島へ行こう。それまでそこにおれ」
と行長も賛同して、右近は従うことにしたのであった。そうして菖蒲と二、三名の家臣を引き連れて、その日のうちに小船に乗り、追われるように姪浜を後にする。小舟が浜を離れようとする時、
「小太郎君、雇ってやれずに申し訳なかった。こういう訳だ。でも私より立派な大名はたくさんいます。良い仕官先が見つかるよう祈っています」
と、右近は最後に小太郎にそう言った。その悲しげな目を見たとき、思わず小太郎はその小舟に飛び乗った。
「お伴つかまつる!」
小太郎にも分からなかった。右近はもはや大名ではなく、社会的に見れば一介のキリスト教信者に成り下がったのである。そんな男に仕えたところで、立身出世の夢はおろか、身につけた忍びの術を活かせる場さえないことも知っていた。それでも小舟に飛び乗ったのは、右近の隣に寄り添う菖蒲の、無機質とも思える透明な瞳を見たからであった。
この後、右近は小西行長を頼り、彼の所領であった小豆島に身を隠す。更に翌天正十六年(一五八八)には、旧知の前田利家に引き取られ、加賀藩の客将として金沢で過ごすことになる。
高麗茶碗
さて読者は、小太郎の竹馬の友である末蔵という男を覚えているだろう。
話は少し遡るが、彼は本阿弥光悦に紹介された聚楽焼の窯元長次郎のところへ行く途中、光悦からもらった高麗茶碗がないことに気付き、慌てて吉兆に引き返す。ところが小太郎は既におらず、まかないのお銀に聞けば、
「なんか慌てて出て行ったよ。あんたんとこ行ったんじゃなかったのかい?汚らしい古びた茶碗持って行ったから」
末蔵は、小太郎が持っているならすぐに手元に戻って来るだろうと、その日は諦めて長次郎に弟子入りするが、修行を始めて三日経っても七日経っても小太郎が現れることはない。逃した鯛は大きく見えるもので、末蔵の頭の中では、あの沙鉢という素焼きの茶碗が一生かかっても作り出すことのできない幻の最高傑作となって輝き出し、それが自分の物であるにも関わらず手元にないことが激しく悔やまれた。やがて「小太郎め、どこにおる!」と修行にも身が入らず、ひと月ほど経ってついに、
「きさま、やる気があるのか!そんなことじゃあ一生かかっても“モノ”にならねえぞ!」
と、師の長次郎にどやされ、末蔵も苛立っていたから、
「こんな所にいたって所詮高麗茶碗など作れない!俺は高麗物の沙鉢が作りたいんじゃ!」
とついつい言い返してしまった。すると長次郎の顔がみるみる赤くなって、
「なんだその口の利き方は!高麗茶碗が作りたいんだったら朝鮮へ行け!こっちは貴様などに用はないから即刻出ていけ!」
と、早々に聚楽焼窯場を追い出されたのだ。
末蔵は小太郎を恨みながら路頭に迷うが、とどのつまりは本阿弥光悦に再び会って、全ての事情を正直に話して頭を下げることしか思いつかない。
「困った御人じゃ」
光悦はそう言いながらも、目の前に困った人がいれば抛っておくことができない性分だった。
「一丈の堀を越えぬ者、十丈・二十丈の堀を越うべきかと言う。一事も全うできぬお主が、どうして陶芸の道を成就できようか?本当に一流の陶芸家になる決意があるのかい?」
と、くどいほど聞き返した。すると末蔵はこう答えた。
「光悦様から戴いた沙鉢を失くしてはっきり判ったのです。私がやりたいのは聚楽焼でなく高麗焼なのです!私は高麗国へ渡り、本場の窯で修行を積みたいのです!」
その言葉の中に、ようやく燃えるような若い情熱を認めた光悦は、
「大阪の堺に高麗茶碗を扱う商人を知っていますので、一度彼に相談してみるとよいでしょう」
と紹介したのが、日朝貿易で巨万の富を築き上げ、今は南蛮貿易も行い栄華を極め尽くした博多の島井宗室という豪商だった。宗室はもともと博多で酒屋や金融業を営んでいたが、大友宗麟に見い出されてより主に明や李氏朝鮮との貿易を中心に利益を挙げ、やがて豊臣秀吉の保護を得るようになってから、博多を拠点に畿内はもとより対馬に至る貿易航路を築き上げた人物である。
光悦の紹介状を握りしめ、末蔵が堺に来たとき宗室は不在であったが、やがて戻って来たのは、ちょうど小太郎が右近に従って博多湾の小島能古島に移ってから数日後の事だった。宗室は見慣れぬ若者を接待用の部屋に通すと、
「関白さんが伴天連追放令を出して今博多は大騒ぎじゃ。だからわしは武士とキリシタンには絶対になるなと申しているのだ」
と言いながら、奉公人に連れられ対面に座った末蔵を気にする様子もなく、本阿弥光悦からの紹介状を読み出した。このとき島井宗室五〇歳、その堅実で抜け目のない鋭い視線がやがて末蔵を睨んだ。
「光悦殿の紹介と言うから会ってみたが、見ればなんの取り得もなさそうなただの若造。ほんにあの方は人が良すぎる。申し訳ないがわしも何かと忙しい身でな。お引き取り願おう」
と、端から相手にする気もなさそうに軽くあしらった。話も聞いてもらえず帰るわけにもいかない末蔵は必死であった。
「取り得ならございます!」
するとどこからともなくウグイスの声がしてきた。宗室は不思議そうに周囲を見渡し、
「はて、もう夏だというのにウグイスとは珍しい」
と、季節外れのその声に耳を傾けた。すると今度はキジバトの声が聞こえてくる。
「さて、朝でもないのにキジバトが啼き出したぞ。ほれ、お主にも聞こえるだろう」
と思えば今度はホトトギスが啼き出した。
「これはどうしたことか?山でもないのにホトトギスが啼いておる。キツネにでもつままれておるようじゃ」
と宗室は目を丸くした。やがて末蔵が、
「私でございます」
と平伏すると、宗室はしばらく意味がのみ込めないといったふうな顔をしていたが、それらの鳥の声がみな末蔵の声色であることを知り、「面白いやつじゃ!」とすっかり感心して笑い出した。伊賀で鍛えた声色の技が、まさかこんなところで役立つとは思ってもない末蔵だが、こうして宗室の懐に見事飛び込むことに成功したのである。
「で、わしに相談とは何じゃ?」
「私を高麗国へ連れて行ってください!」
「高麗国へ?行ってどうする?」
「高麗茶碗の作り方を学びたいと存じます!」
「高麗茶碗の作り方……?学んでどうする?」
「日本に持ち帰り、陶芸の道を究めたいと思います」
「極めてどうする?金が欲しいか?それとも名声か?」
「それは……宗室様がご商売をするのと同じでございます」
「わしと同じ?では金儲けがしたいのだな?」
「宗室様がそうであるなら……」
このようなやり取りには末蔵は慣れていた。相手の質問に乗りつつ、いつしか逆の立場に転じる話術である。小太郎などは巧みなもので、彼との付き合いの中で自然と身についたものと思われる。
「勘違いしないように言っておくが、わしが金が好きなのは裏切らないからだ」
「私もそうです。技術は裏切りません」
宗室は少し考え事をしているふうだったが、やがて、
「確かに日本の陶芸技術は李氏朝鮮国と比較すればかなり遅れているといえようが、お前は朝鮮がどんな国か知っておるのか?」
「存じませぬ」
「ならば教えてやろう、あの国は差別の国じゃ。国王のもと、両班といわれるひと握りの特権階級の下に、あらゆる職業の人間が虐げられ、お前の目指す陶芸職人などは奴隷同然の扱いをされておるのだ。それでも朝鮮へ行きたいか?」
「それは日本も同じでございましょう」
「どうしてそう思う?わしは一介の酒屋の倅じゃ。しかしこうして豪商と呼ばれる地位を築いたぞ。それにあの関白秀吉様などは土まみれの農民の出じゃ。それに側近の石田治部様も、もとは小さな寺の小姓だったと聞いておる。日本という国は、己の力量、才覚次第で天下人にもなれる国だと思うが」
「そんなことはありません。光悦様から戴いた沙鉢には、計り知れない力強さが宿っておりました。あれは奴隷などには作れません」
末蔵はそう答えた瞬間、沙鉢を受け取った時の本阿弥光悦の言葉を思い出した。「悲しみばかりが伝わってきて好まない」「歪でつくりが荒く完成品とは思えない」という。
「もしかしてお前が見た力強さとは、虐げられた人間たちの苦しみのあえぎ声かも知れぬのう。確かにあの妙ちくりんな形状は器ではあるが、雑とも取れるし、無作為とも取れる。それがたまたま大陸から伝わった高度な焼き窯の技術によって洗練された陶器に生まれ変わっているのかも知れぬ。利休殿などはあの高麗茶碗の中に、人の生命を感じているやいなや。つまりそれが詫び寂びというわけか」
宗室は光悦と同じようなことを言った。そして、
「まあ、わしも聞いた話で、実際に朝鮮で暮らしたわけではないからのう。それよりどうじゃ、金儲けが目的なら良い芝居小屋を紹介してやるぞ。お前ほどの声色ができれば一躍人気者になれるに違いない」
と笑った。
「どうする?それでも高麗国へ行きたいか?」
「行きます。行かせて下さい!」
末蔵は、どんな苦しい境遇に陥ったとしても、あの沙鉢を作る技術を習得したいと思った。
「よし分かった、連れて行ってやろう。だが旅費はあるのか?」
「旅費?」
「当たり前ではないか。人一人を異国へ連れて行くのだ。船賃は勿論のこと、食費もかかる。まさかただで行こうなどと思ったか?」
「出世払いでお願いします」
「それは駄目じゃ。そんな宛てにならぬものに金は賭けれぬ。こういうのはどうか?」
宗室が提案したのは末蔵の声色を金に換える法である。何せ商売の性質上全国のあちこちに拠点があったから、「わしに伴い港、港で声色興行を行え」と言うのである。忍びの術は忍び仕事を成就するためのものであり、それ自体を仕事にしたり金儲けの道具にしてはならぬとは伊賀にいた時くどいほど言われたが、この際仕方がないと思った末蔵は承諾する。こうして間もなく堺を発つが、皮肉なもので声色興行は各地で大絶賛され、旅費どころか大きな利益を生んだ。そうなると手放すには惜しくなった宗室は、
「いっそ陶芸など諦めて、このままわしと一緒に各地を回らぬか?贅沢な暮らしもできるぞ」
と引き留めたが、末蔵の決意は変わらなかった。
そして彼が対馬に到着したのは、堺を発っておよそ半年後の冬の事だった。
この頃(天文十六年)の対馬の守護大名は宗義調である。
彼は二十年ほど前、一旦は家督を養子である宗茂尚に譲り隠居するが、茂尚が早世したため、その弟である義純に家督を継がせた。ところがこれも早世したため、更にその弟である義智を当主としたが、秀吉の九州征伐に伴って再び当主となっていた。その戦いに参陣した義調は本土を安堵されることになったが、もっとも地理的に古代より日本と大陸との海上中継地となってきた対馬は朝鮮との関係も非常に深く、秀吉にしてみれば今後の情勢を考える上で特に重要な位置にある人物だったわけである。
居城である金石城に末蔵を伴った島井宗室を迎え入れたのは前当主の宋義智で、
「いつものことながら船旅ご苦労である。ごゆるりと過ごされよ」
と一行を城内の一番良い部屋に案内した。対馬という小国は、朝鮮や大陸との人脈はあっても、物資を流通させるためには商人の力が不可欠で、島国を治める宋氏の繁栄は、そうした貿易によるしかない。このとき義智は、まだ二十歳の凛々しき青年である。
「当主はどうされた?」
いつもなら真っ先に出迎えるはずの義調の姿がないことに、宗室は首を傾げた。
「朝鮮国王を上洛させよと、関白様から無理難題を押し付けられましてな。その交渉に気を病み、このところどうも床に臥せりがちなのだ……」
「あの気丈な義調様がなあ―――」
そのはずであった。当時より少し前、対馬海峡沖には倭寇と呼ばれる海賊船が頻繁に出没し、密貿易をするため朝鮮南岸を荒らし放題に荒らしていた。“倭”とは朝鮮から見た日本を指す言葉で、“倭寇”とは直訳すれば“日本からの侵略”であるが、実際倭寇の船に乗る海賊たちはそのほとんどが中国人だったと言われ、一部に朝鮮人や日本人、あるいはポルトガル人がいたと言う。一五一〇年の三浦の乱以来日朝関係は徐々に国交を回復していたが、そのピークとも言える事件が一五五五年に勃発した乙卯達梁倭変と呼ばれるものである。七〇隻余りの倭寇船が朝鮮の全羅道南部の達梁浦を襲撃し、大被害を与えたばかりか達梁城を落とし城将らを殺傷拉致したのである。その首謀者が中国人の王直という密貿易商で、彼らは肥前の五島列島を拠点としていた。事件を受けて李氏朝鮮は倭寇討伐に乗り出すが、それに協力したのが義調だった。海賊の取締りを強化し、その情報を朝鮮側に提供したのである。その功績により義調は朝鮮との貿易拡大に成功し、宗氏の貿易における繁栄をもたらしたのである。いわば義調にとって朝鮮は恩人ともいえる大のお得意様であり、良好な友好関係を継続することこそ宋氏繁栄の命綱だったのだ。それを秀吉が、
「一年以内に朝鮮国王を従属させ上洛させよ。もし交渉に失敗したら朝鮮に出兵する」
と言うのである。対馬は朝鮮の港を借りて貿易をしているだけの関係なのに、いきなり日本に服従せよなど筋違いも甚だしい。しかも拒めば戦争をしに行くなど、どこの世界にそんな道理があったものか。苦渋の末、秀吉の本意を伏せて使者を派遣することにした。
「日本統一を果たした新国王を祝賀する通信使を派遣してほしい」
と、朝鮮国王上洛要求を通信使派遣要請に変えたのだ。事態をできる限り穏便に収めようとする義調なりの配慮ではあったが、万一露見でもされたら宋家など一巻の終わりである。昨秋九月に日本国王の使者と偽って派遣した柚谷康広という家臣はいまだ帰って来ない。五六歳の義調は命をすり減らすほど肝を冷やしながら首を長くしている訳なのだ。
「朝鮮と戦争などされたら、我々の商売あがったりです。今宵はそんな暗い話は抜きにして、大いに飲み明かしましょう。面白い男を連れて来ましたゆえ」
と、宗室は義智に末蔵を紹介した。無論この時点では宗室も義智も、まさか日本が朝鮮と戦争をするなど夢にも思っていない。
「面白い男?裸踊りでも見せてくれるのかな?」
義智は笑いながら同じ年頃の末蔵に目を向けた。
こうしてその夜は酒宴が催され、さっそく末蔵は笑いの種にされる。始めは宗室に聞かせたような鳥や動物の鳴き真似から、やがて波の音や船の音を真似て見せ、ついには料理や酒を運ぶ給仕の女達なども即興で真似れば、会場は大爆笑の渦に飲まれた。気を良くした義智は、末蔵を近くに呼び寄せ、
「褒美をとらせよう。なんなり申せ」
と言う。ここぞとばかりに末蔵は、
「高麗国へ渡りとうございます!」
「朝鮮へ?行ってどうする?」
すると宗室が「この者、陶器の技術を学びたいのだそうです」と言葉をはさみ、義智は不思議そうに末蔵を見つめた。
「行くは容易いが、言葉も分からぬ国でどうやって技術を学ぶつもりじゃ?」
末蔵は今さらのように気づいた顔をして「それは行ってから考えます」と答えた。
「朝鮮への入り口は釜山浦という港だ。そこに倭館と呼ばれる日本人居住区がある―――」
と義智は教えた。この倭館、以前は朝鮮南岸の三ヵ所に存在しており全盛期には数千人もの日本人が居住していた。ところが李氏朝鮮による規制に反発した日本人が起こした“三浦の乱”により一旦はすべて閉鎖されるが、釜山浦の一か所だけは復活し、以来そこが唯一の朝鮮への窓口となっている。
「そこに朝鮮語ができる者がおるから、付き添いをするよう命じよう」
「有り難き幸せにございます!」
末蔵は思わぬ好意に平伏した。こうして彼は、対馬から出港する船に乗り、日本の輸出品とともに朝鮮半島へ渡るのであった。
儒教の教え
対馬の最北端に位置する鰐浦から朝鮮南岸まで、直線距離にしてわずか四九キロ余り、その日の風向きにもよるが大抵五時間もあれば釜山浦に到着してしまう。石積みの防波堤から桟橋が延び、そこに係留した貿易船を降りた末蔵は、これから待ち受ける未知の世界に足をすくませた。
すると岸の倉庫らしき建物から数十人のみすぼらしい服を来た老若男女が船の方に押し寄せて来たかと思うと、高官らしき男の指示に従って、船に乗り込み積み荷を運び出し始めた。高官らしき男は荒々しい朝鮮語で、その言葉の意味は理解できないが怒っているようでもあり、見るからに重そうな積み荷を落とすような者がいれば、その痩せ細った身体を容赦なく棒で叩き付ける。その光景に末蔵は目を丸くした。
「驚くことはない、いつものことだ。彼らは奴隷なのさ。そして、この日本から持って来た胡椒や硫黄や生薬などが、帰りには高麗陶器に変わっているって寸法さ。ほれ、あそこに見えるのが倭館だ」
渡航中の船内で仲良くなった乗組員が教えた。
末蔵は防波堤の中央あたりにある番所へ行き、欠伸をしながら鼻毛を抜く朝鮮の圖書役人に渡航手形を見せると、そのまま倭館へ向かう。そして倭館の入り口にある警備用の建物で滞在査証を受けるのだが、ここの文引役人もまるで働く気がない様子で、末蔵の顔をチラリと見ただけで難なく中へ入ることができた。穏やかというか平和というか、朝鮮の検察の警戒心の薄さにホッと緊張した胸をなで下ろす末蔵である。
倭館の役人詰所に来た彼は、さっそく宋義智に書いてもらった書状を渡し、すると中から倭館詰め宗家家老を名乗る男が出て来た。義智直々の書状を手にして何事かと慌てた様子であったが、末蔵の特に偉そうでもない身なりを見た途端、安堵の色を浮かべ、
「陶器の窯場の視察か?若殿がそちに通訳の者を付けよとのことじゃが、あいにく皆漢城の方へ行っており今ここには適当な者がおらん。むかし通訳をしておった恒居倭の孫六爺さんがおるからあの人に頼んでみよう」
と、さげすんだ目で言った。およそ外見だけで人を判断するのはいつの世も常であろうか。現に偽造の国書を持った柚谷康広に伴って、通訳達は皆出払っていた。倭館詰め家老が言う恒居倭とは、朝鮮に渡ったまま帰国せずに永住するようになった者達のことである。
「老いぼれてはいるが耄碌はしておらん。朝鮮を知る生き字引じゃぞ」
と揶揄するような笑みを作りながら、一人の役人を呼び寄せ、その老人の家まで案内するよう言いつけた。
その老人が住むという粗末な家は龍頭山と呼ばれる丘の麓にあり、この辺り一帯が倭館の敷地なのである。日本人居住区とはいえ敷地内に住む朝鮮人も多く、両者は持ちつ持たれつの関係を保ちながら、特に貿易に関係する仕事においては、時には親兄弟よりも密接に結び付き、利益を共有する強固な自治体を形成しているのである。
「孫六爺さん、仕事だよ!」
役人の声に呼ばれて、やがて中から七〇も過ぎたと思われる腰の曲がった老人が姿を現した。孫六爺さんと呼ばれたその老人は、凄みのある目付きで末蔵をじっと睨み、家の入り口際に無造作に置かれた壊れそうな台に座らせると、「おい、お茶!」と叫んで自らも座った。末蔵を案内した役人は孫六爺さんと顔を合わせているのが苦手な様子で、末蔵を日本から渡って来た者であることを簡単に伝えただけで、「拙者は仕事がある故これで失敬」とそそくさと帰ってしまったが、やがてお茶を持って屋内から姿を現したのは、末蔵と同じくらいのうら若き美しい女であった。末蔵は暫くその容姿に見とれていたが、お茶を置いて家の中へ入ってしまうと、
「お美しいお孫さんですねぇ」
と、老人の顔色を窺いながら聞いた。すると老人は気分をそこねた様子で、
「孫じゃねえ、オレの細君だ。手ぇ出したら承知しねえぞ!」
末蔵は呆気に取られて皺だらけの孫六爺さんの顔を見つめた。
「もともとは白丁だ。売られて暴行を受けているところをオレが助けて嫁にした。朝鮮の婢はいいぞぉ、泥と糞にまみれておるが、丁寧に磨けば女になる」
白丁とはいわゆる賤民と言われる者の中でも最下層のレッテルを貼られた被差別民のことである。それはもはや人間とは認められず、姓を持つことも結婚も許されず、日当たりのいい場所や瓦屋根の家に住むことも禁止され、職業といえば屠畜業や食肉商、あるいは皮革業や骨細工などをしなければならず、文字を習うことも公共の場に出入りすることも、死んでなお常民より高い場所に墓を作ったり墓碑を建てることも許されない。この頃の朝鮮にはそうした差別意識が当然のように存在している。
「おいおい勘違いするな。オレだって十年前までは日本から連れて来た女房がいたんだ、病気で死んだが。奴婢を嫁にするようになったのはそれからだ。あいつで三人目。なあに飽きたら売ってしまうだけさ。ここは女の使い捨てができる国だぞ。どうだ最高だろう?」
「絶倫ですね……」
末蔵は老人の股間を見つめて開いた口がふさがらない。
「ところで仕事とは何だ? オレもすっかり高麗人になってしまったわ。働くのが億劫で仕方がないわい」
儒教思想の影響だろう。朝鮮の上層階級の者達は、学問に勤しみ、秩序と体裁を重んじる意識が非常に強く、日常的な煩事にとらわれない生き方が美徳とされていた。よって働く事を卑しむのである。すっかり高麗人になったとはその意で、それでも久しぶりの仕事が嬉しいらしく孫六爺さんは破顔一笑したが、そんなことを知らない末蔵は、見るもの聞くことが驚くばかりで、一種の拒絶感を覚えずにはおれなかった。
「私は日本から高麗茶碗の作り方を学びに海を渡って来ました。ところがいかんせん朝鮮語が分かりません。そこで通訳をお願いしたいのです」
末蔵は懐から一握りの銀貨を取り出して孫六に渡した。それは対馬を離れる際に島井宗室から「これだけあれば向こうへ渡っても二、三年は暮らせるだろう」と餞別として受け取ったものである。この頃の李氏朝鮮での取り引きは主に布を貨幣代わりに使っており、銀貨はあまり一般的でないが、孫六爺さんは明国へ行けば大変な価値になることを知っていた。何食わぬ顔をして受け取ると、「三島茶碗ならうちにもあるぞ」と、日本での価値を知っているぞとばかりに見せてくれたのが紛青紗器と呼ばれる茶碗である。“三島茶碗”というのは当時の日本の茶人達が伊豆国の三嶋暦の文様に似ていたところから名付けた高麗茶碗の別称であるが、末蔵にしてみれば、今にも倒れそうな掘っ立て小屋のような家から、まさか日本では屋敷が一軒でも二軒でも建ってしまう最高級の器が、これほど無造作に出て来るとは思わない。ギョッとしながら手に取って、それをしみじみ見つめてみれば―――薄鼠色の地に箆や櫛で紋様を付けた粘土に白土の化粧土を塗り、最後に透明釉を掛けて焼成した姿はこの世の物とは思えない美しさである。
「まさにこれだ……。俺が作りたいのはこれなんだ……」
末蔵は感嘆のため息を落とした。
「陶器を焼く窯ならこの辺にもあるが、その等級の陶磁器を作りたいのなら漢城のある京畿道の方へ行かねばならんだろう。広州に分院窯がある。そこに知り合いがいないわけではないが、どうする?」
分院窯というのは官窯のことで、主に宮廷内で使われる陶磁器を製造する国営の陶窯場である。末蔵は目を輝かせた。
「行きます!連れていってください!」
孫六爺はさりげなく「少し遠いから金がかかるぞ」と付け加えると寒空を見上げ、
「ではもう少し暖かくなったら行くとしよう。それまでうちにいるがよい」
季節は冬である。春になるまで末蔵は、孫六爺さんの家で世話になることにし、その間朝鮮語の勉強や、文化、風習などを学んで過ごすことにした。
それにつけても孫六爺の博識なことに驚かされる。最初はただの助兵衛なだけな爺さんかと思ったが、その話の内容を聞いていれば、井の中の蛙であった末蔵は恥ずかしくなるほどだった。
もともと対馬の宋氏に仕える文官をしていた孫六爺は、やがて対朝貿易に関わる仕事を任されるようになり、一五四七年に朝鮮と対馬宗氏との間で丁未約条が結ばれたときに朝鮮に渡って来た。これは朝鮮への来航者を取り締まるための規則だが、それまでも朝鮮と対馬の間では倭寇がらみの紛争がたびたび起こっている。しかし孫六爺さんに言わせれば、李氏朝鮮は一三九二年の開国以来およそ二〇〇年の間、宮廷内のいざこざはあっても国内を揺るがすような大きな戦争は一度もない平和な国なのだと誇らしげに教えた。なるほど戦乱に明け暮れる日本では考えられないことだが、末蔵も戦争の世より平和の方が好きである。
なぜか―――?と孫六爺は問う。
それは、李氏朝鮮は明国の王に認められた国家であり、明国の冊封国つまり従属国であり、巨大な明国の力に絶えず守られているからだと自問自答した。
「しかしそれだけでは平和な国家は作れない。外からの侵略は防げても、内部からの紛争は抑えることができないからだ。そこで内部統制を図るため朝鮮が導入したものがある。何だか分かるか?」
無論末蔵に答えられるはずがない。孫六爺はそのポカンとした顔を嘲るように、
「儒教じゃ」
と言った。
「儒教とは孔子の教えであろう。“君子危うきに近か寄らず”とか、君子の徳を説いたアレじゃ」
そのくらいなら末蔵でも答えることができた。
「そんなお粗末な知識では一生かかっても科挙に合格することはないのう」
科挙とは朝鮮の官僚登用試験のことであるが、孫六爺はその浅はかな知識に高笑いすると、やがて儒教について語り出した。
そもそも彼の話によれば“儒教”とは“経世済民”の教えであると言う。すなわち読んで字の如く『世を経(治)め、民を済(救)う』ことであるが、その心は、武力による覇道を嫌い、仁・義の道を実践し、上下秩序の分別を弁えることである。体系的に言うならば―――、
第一に『長幼の序列』である。つまり正統な権威を守ることで社会秩序を得ようとする考え方で、正統な権威とは大きく君主、祖先、父親、先輩の順に連なる上下関係を言い、ここから厳然とした儒教カーストともいえる身分制度が生まれた。すなわち当時の朝鮮では、頂点に君臨するのが国王であり、その下に国王の結縁関係に当たる王族や貴族が存在し、その下に官僚、役人としての両班と呼ばれる階級がある。さらにその下には中人と呼ばれる階級があり、これは低い官職者や比較的家柄が高い者達である。彼らには科挙を受ける資格が与えられ、財力さえあれば学校に通うことも許されるが、両班に対しては絶対服従で、たとえ試験に合格して官僚になったとしても上級官職に昇格することはない。さらに中人の下には常民という階級がある。これはいわゆる一般庶民層で、彼らは農業や商工業を営んでいたが、学ぶことが禁止されていたので科挙の受験資格はない上に、衣服は白のみ身につけることを許され、家屋には門を作ることが禁止されていた。更にその下には賤民、つまり最下層となる奴隷階級がある。
「お前が目指す陶器職人などはこの賤民の部類だぞ」
と孫六爺は付け足した。人口の比率でいえば両班以上の役人階級は全体の一割にも満たない程度で、以下中人、常民階級が五割、残りの四割が賤民階級だと言う。いわば李氏朝鮮とは、奴隷がいなければ国自体が存続できない奴隷制国家なのだ。
「本来儒教とは“済民”を目的としているはずなのに、上下秩序を重んじるあまり、返って真逆の民を苦しめる形を作ってしまうとはなんとも皮肉な話だろう」
と、孫六爺は他人事のように笑った。
第二に『父親孝行』である。家庭の中においては父親の権限が絶対であるということだ。祖父はそれ以上の権威を持ち、それは祖先崇拝にもつながる。つまり上下関係を明確にすることが家の秩序を守ることになり、そこで形成される忠孝や献身、儒教教義の骨格である五常つまり仁、義、礼、智、信といったものが社会秩序である『長幼の序列』を支える裏付けになっているのだと孫六爺は語る。
第三には『形式や学問の尊重』である。これは感情や思い付きに頼るのではなく、“四書五経”等のような先師らの儒教経典に基づく行いをしていく事である。すなわち「論語」「大学」「中庸」「孟子」の四書と、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」の五経を深く学び、それを実践することを怠らない。
「こういうことを言えば儒教とはまるで立派に聞こえるが、実はこの教えにはぬぐいきれない決定的な欠陥があるのじゃ」
と、末蔵が聞く聞かないに関わらず、孫六爺は自分の世界に入り込んでしまったかのように続けた。
「儒教とはなべて男に対する教えであり、そこに女は登場しないということじゃ。つまり―――」
第四には『男女の有別』である。すなわち男性と女性の性別の違いで、社会における役割を厳然と区別したことである。それは『内外区分』とも言う概念であり、男性は“外”の役割を果たし、女性は“内”の役割を果たすことが本来の秩序と説く。つまり女性は家庭内の事だけをしていれば良く、公的な領域へ出てはならないという考えだから、結果的にそれが極端な女性蔑視の性格を持つに至るわけだ。
孫六爺さんは若々しい妻を抱き寄せると、末蔵の見ている目の前で、その豊満な胸を揉み出した。末蔵は目のやり場に困り、思わず「やめてください」と声を挙げた。
「おお、すまん、すまん。あんたにはちと刺激が強すぎたかな?」
孫六爺さんはすました顔で話を続けた。
例えば両班の家であっても、嫁いだ女性は外に出ることを許されず、他の男と話をすることも見ることさえ禁じられ、ひどい話になれば他の男に触れた日には腕を切断されたり、家を追放されることもあった。とにかく女性は男児を産むことに専念させられ、しかも随母主義といって生まれてくる子は母親の身分を引き継ぐことになっていたので、賤民の子は一生賤民として生きるしかない。女性は女房でも娘でも奴隷同然の扱いをされ、もっと悲惨な話を挙げれば、娘を嫁に出す時は、妊娠できる身体かを証明するために娘を強姦し、妊娠させた状態で嫁入りさせる“試し腹”という行為まであると言う。つまり儒教で定めた女性の“内”の役割とは、いきつくところ男子を産むことが最終的な目的であったため、いつしか女性の人権など認めない社会へと発展してしまったのだと、これが孫六爺の分析である。
奴婢の女性になればまだひどい。それは人ではなく物品で、常に売買、略奪、譲与、担保等の対象である。彼女たちはただ主人の財産であり、殴られても犯されても売り飛ばされても、ついには殺されても、主人には何の罪も課せられない。少し容姿が美しければ、たちまち性の道具にされて、巷には年頃の娘の遺棄死体を見かけることも珍しくない。
「それを思えばオレの女房など幸せな方じゃい」
孫六爺は再び妻を抱き寄せた。その美しい女の体を見つめながら、なるほどそういう事情があるのならそうかもしれないと末蔵は思った。
「戦争のない世が平和と言うなら、今の李氏朝鮮は平和といえよう。しかし平和を保つためにはどこかにしわ寄せが行くものじゃ。儒教による差別社会はその平和の歪なのだろう。それが人の社会の業というものか? とどのつまり儒教とは、国を統治する者の側の教えであり、万人の教えではないということだ」
末蔵はもともと正義感の強い男である。織田信長に伊賀を滅ぼされ、ゆく宛てを求めて小太郎と旅をしていた時も、行く先々で困った人を見かければ、力もないくせに救いの手を差し伸べなければ気が済まなかった。またそういう人とも出会って来た。本阿弥光悦然り、島井宗室然り、宋義智然り、皆こんな自分のために力を尽くしてくれたのである。その正義感に根拠はなかったが、孫六爺の話を聞いて、眼前に李氏朝鮮という巨大な敵が出現したような気がした。しかしこの時の末蔵は、そんなものを相手にしている余裕はない。
「一日も早く高麗茶碗の技術を身につける―――」
こうして三ヶ月ほど経ったあるうららかな日、一頭の馬を借り、そこへ孫六爺さんを乗せた末蔵は、一路漢城のある京畿道へ向けて出発したのであった。若さに満ちた彼の心は、一流の陶芸家になるべく前途洋々たる希望に燃えていた。
両班と山賊
釜山を発った末蔵は、東莱、機張と経由して、梁山では右手に早春の千聖山を眺めながら、その雄大な姿に胸を膨らませてゆっくり北上した。
村と村をつなぐ交通といっても当時のことだから、うっすらと窪みのあるようなところを辿る野歩きのようなもので、まだ残雪のある道は果てしなく続く。街道沿いの宿泊場所といえば藁ぶき屋根の簾で囲っただけの“酒幕”と呼ばれるそれで、居酒屋を兼ねた日本で言う旅籠屋の役割をなしてはいるが、それも歩いても歩いても稀に見るだけで、運悪く通り過ごしてしまえば野宿で一夜を明かすしかない。
そうして五日ばかり歩いて密陽という農村に到達した。大きな屋敷を見つけた孫六は、
「今晩はあそこに泊めてもらおうじゃないか。毎晩野宿では身体がもたん」
と、まだ太陽が西に傾いてもいないのに、とっとと屋敷に向かって歩いて行くので、仕方なく末蔵もそれに続いた。孫六は屋敷の庭にいた官人と思われる男をつかまえ、流暢な朝鮮語で「漢城府へ向かう倭国の者だが、今晩泊めてはもらえまいか?」と交渉を始めた。すると間もなく家主である朴氏を名乗る在郷の両班が出てきて、ニコニコ笑いながら二人を屋敷内に招き入れた。その会話の内容は、三ヶ月ばかり朝鮮語をかじっただけの末蔵には理解できなかったが、後で孫六に聞いたところでは、
「対馬の使者がたびたびここを通る時よく宿を提供しておるそうじゃ。なんでもそのたびに気前よく支払いの褒美をもらうとかで、わしらも大歓迎してくれるようだぞ。今晩は久しぶりに酒宴にありつけそうじゃな」
と嬉しそうに鼻の下を伸ばした。その意味は更に後になって分かることだが、末蔵はとりあえず風呂に入りたいと思った。思えば対馬を発ってより、風呂というものを見たことがない。孫六は朝鮮には風呂に入る文化がないのだと教えたが、家主に頼めば二人の休む座敷内に“モッカントン”という木で作られた丸い浴槽を用意してくれ、その中に下女達がお湯をなみなみと入れてくれた。
「さあ入れ」と孫六は言ったが、彼や下女達にじろじろ見られていてはさすがに入りずらい。「むこうを向いておれ」とお願いし、丸裸になって湯に浸かれば、途端に孫六と下女達が笑い出す。
「な、何がおかしい?」
「この国では真っ裸で体を洗うのは賤民だけじゃ。両班達は服を脱がずに必要な部分だけを洗うのが流儀じゃ」
とはいえすでに二人の下女が、末蔵の腕や背中を優しい手で洗ってくれている。末蔵は顔を真っ赤にして恥ずかしさに耐えるしかない。
そうしているうちに屋敷の大広間に案内されると、驚くことには宴の準備がすっかり整っており、赤や青や黄色で彩られた部屋には涎が出そうな料理と酒が並べられ、脇には美しく着飾った女達が、おのおの琴や二胡や笛や太鼓などを持って座っているではないか。主賓席に座らされた末蔵は恐れ多くなって、「これはいったいどうしたことだ?こんな歓待を受ける覚えはないが」と脇に座った孫六に聞くと、
「日本でも郷に入りては郷に従えというではないか。これは彼らの真心なのじゃ。素直に受け入れるのが礼儀というものだ」
とすまし顔で言う。間もなく姿を現した家主は、連れて来た二人の男を「私の息子達だ」と自慢げに紹介し、いきなり、
「さあさ、遠慮なくやってくれたまえ!」
と朝鮮語で叫べば、やがて楽器が鳴り出して、これまた赤や黄色や紫の衣装で美しく着飾った五、六人の若い女達が部屋に入って来たかと思うと、音楽に合わせて歌や踊りを舞い始めた。
呆気にとられた末蔵に、「これが妓生じゃ」と孫六が教えた。彼の説明によれば、妓生とは宴会などで楽技などを披露し客人を歓待するための女性達であると言う。「歓待といってもいろいろあるがな」と孫六は笑ったが、そのほとんどは賤民階級に属し、その中でもやはり身分が存在し、高い者になれば宮中や両班を相手にできるが、低い者はいわゆる奴婢で、「今ここで踊っている女たちは、みな家主の財産だろう」と孫六は言った。末蔵にはよく意味が分からなかったが、主人や息子たちに次々と酒を勧められ、ほろ酔いの中で全てが楽しく、また美しく見えるようになっていた。孫六はといえば主人や息子達と楽しそうに酒を酌み交わし話し込んでいるが、言葉が分からない末蔵はただ笑って答えているだけだった。
ふと、妓生が歌い出した音楽に、末蔵は吸い込まれるように聞き入った。
날좀보소 날좀보소 날좀보소(私を見て、少しでいいから私を見つめて)
동지섣달 꽃본듯이 날좀보소(冬咲く花を見るように、ずっと私を見てください)
아리아리랑 스리스리랑 아라리가 났네(アリアリラン、スリスリラン、アラリガナンネ)
아리랑 고개로 넘어간다(アリラン、峠を越えてゆく)
정든님 오시는데 인사를 못해(愛しいあなたに私の手は届かない)
행주치마 입에물고 입만방긋(前掛けくわえてにこりと笑う)
아리아리랑 스리스리랑 아라리가 났네(アリアリラン、スリスリラン、アラリガナンネ)
아리랑 고개로 넘어간다(アリラン、峠を越えてゆく)
「これは何という曲じゃ?」
末蔵が孫六に聞くと、孫六は主人に聞いて教えてくれた。
「この地方に古くから伝わる“アリラン”という民謡だそうじゃ」
「どういう意味の歌じゃ?」
孫六は再び主人に聞くと、
「主人もよく知らぬようだが、筒直伊が身売りで峠を越えて行く歌ではないかと言っておる」
筒直伊というのは婢女のことである。およそ人権も認められていない一人の奴婢の娘が、身分の高い男を好きになり、その切ない思いを伝えられないまま遠い国へ売られていく情景を歌っているのだと末蔵は思った。
「もう一度歌ってください」
末蔵は何度も何度も歌ってもらった。酒の力もあったのだろう、そのうちとめどなく涙があふれ出した。驚いたのは孫六と主人たちである。
「いったいどうして泣いておる?」
と問い詰めれば、
「同じだ、同じなのだ―――俺が本阿弥光悦様から戴いた沙鉢の茶碗を手にした時の気持ちと!この切なくもあり、力強くもあり、美しくもあり……、俺の心を揺さぶるこの力はいったい何か……?」
末蔵は目の前に置かれた盃の酒を涙と一緒に飲み干した。するとすかさず息子の一人が「まあ飲め飲め!」と酒を注ぎ足す。酒と一緒にそのやるせないような気持ちを飲み込んでいるうちに、急に酔いがまわった末蔵は「アリアリラン、スリスリラン……」と呟きながら、そのまま鼾をかいて眠ってしまった。
どれほど眠っていたか知れないが、「おい、そろそろ寝るぞ」と孫六に膝をつつかれて目が覚めた時には、すっかりお膳も片付けられて、主人も二人の息子達もいないかわりに、目の前には十六、七の鬼もほころぶ若い娘が俯きがちに座っていた。
「この娘は誰じゃ?」
と孫六に目を向ければ、彼は三〇くらいの美しい女性を抱き寄せて接吻しているではないか。
「おお、やっと目を覚ましたか。部屋を移してもう寝るぞ」
「寝るって……?この女達は誰です?」
「お前の方は長男の娘さんじゃそうだ。で、わしの方は次男の嫁さんじゃ。最初家主は自分の妻はどうかと勧めたが、さすがに六十の婆さんはのう……」
と「郷に入りては郷に従えじゃ」と言いながら、孫六は女を連れて大広間を出て行ってしまった。
まったく意味がのみ込めない末蔵は酔いも醒めてしまい、暫くは言葉の通じない娘を相手におろおろしていたが、やがて娘が手を引いて立ち上がるので、連れられるまま案内された部屋に入った。そこには既に布団が敷かれており、娘が「どうぞ」と布団の脇に座るので、仕方なくその布団で寝ることにした。ところが横になった途端、娘が添え寝するように入り込んで来たかと思うと、いきなり末蔵の股間に手を伸ばしてきたのであった。
「なにをする!」
驚いた末蔵は跳ね起きた。驚いたのは娘も同じで、何かいけない事をしてしまったかというおののいたような目で見つめ返すと、今度は上半身の服を脱ぎ、小さな乳房を露わにして末蔵にすり寄った。これまた末蔵も驚いて、
「離れよ!」
と娘を突き飛ばすと、そのまま部屋の外に追い出した。
「いったいこの国はどうなっておるのじゃ……」
末蔵はそのまま眠れない夜を過ごした。
翌朝、眠い目をこすりながら早々に両班の屋敷を発った末蔵だが、「もう二、三日ゆっくりしていきましょうや」と言う孫六は、昨晩は相当いい思いをした様子で名残惜しそうに言う。
末蔵は両班の屋敷を出るときに支払った謝礼のことを思い出して不機嫌だった。あのとき家主が催促するような目付きで「昨晩はいかがでしたか?」と聞いて、「いやあ、大変に満足であった」と答えた孫六が「謝礼を渡せ」と言うのだ。とはいえ宿代の相場も知らない末蔵は、懐から路銀の入った袋を取り出し戸惑っていると、孫六はその袋の中に手を突っ込んで、無造作に握りしめた銀貨を主人に渡してしまったのである。それがどれほどの価値になるかは知らないが、受け取った主人は満足げに快く二人を送り出したのである。
「あんなに路銀を払ったのでは、目的地に着くまでにすっからかんになってしまうわ!」
「えらくご機嫌斜めだな?」
「当たり前だ!なんだ昨日のあの娘は、いきなり無礼であろう!」
馬上の孫六は驚いたように「末さんはあんなに可愛い娘を抱かなかったのかい?」と言う。いつのまにか末蔵のことを末さんと呼ぶようになっている孫六が言うには、
「あれは客妾というこの国のおもてなしの形なのだ。郷に入りては郷に従えと何度も言ったではないか」
「金を払うのは俺だ! もう二度と両班の家には泊まらん!」
末蔵はそう吐き捨てると、話すのも嫌になって密陽から大邱へと続く峠道を、孫六を乗せた馬の手綱を引いて歩いた。その頭の中では昨晩妓生達が歌ってくれた“密陽アリラン”の明るくも物悲しいフレーズがいつまでも鳴っていた。
♪アリアリラン、スリスリラン、アラリガナンネ……
「婢女の娘はどんな思いでこの峠を越えたのだろう?」
と思いを馳せながら―――。
大邱を過ぎて尚州に着いた時である。
この辺り一帯を包括しているのであろう大きな両班の屋敷の前に、ものものしい姿をした馬が十数頭つながれていた。
「王族か貴族かなにかの旅行かな?」
孫六はそう呟いた。尚州はこのころ慶尚道(嶺南)有数の政治的中心地なのだ。
「両班の家になど泊まらぬぞ!」
末蔵は見向きもしないで通り過ぎようとしたが、
「おおっ!」
と声を挙げた孫六に思わず足を止めた。見れば豪勢な馬の鞍に、対馬宋氏の家紋隅立て四つ目結が刻まれているではないか。
「少し前に対馬の柚谷康広という使者が、国書を持って漢城に向かったと聞いておる。もしかしたらその帰りかもしれぬぞ!」
まさかこのような場所で同郷の日本人に会えるとは思っていない孫六は、馬を飛び降り年に似合わぬ速さで屋敷の方へ駆けて行く。末蔵はため息をつきながらその後を追いかけた。
下人に呼び出されて中から姿を現したのは柚谷付の通訳の一人で、孫六の顔を見た途端「爺さんではないか!」と驚きの声を挙げた。何年か前まで一緒に仕事をしていた同僚のようだ。孫六は自分がここにいる事情を末蔵を紹介しながら説明すると、国書の顛末などそっちのけで「ここの家には良い女子はいるか?」と聞いた。
「おるにはおるが、美人はみな柚谷殿が独り占めして、おかげでこっちには余り物しか回って来んさ」
と苦笑した。その柚谷康広という男、頭は切れるが傲岸な性格で、「我は日の本の国代表の使者である!」と言わんばかりに、行く先々で朝鮮人を馬鹿にしたような言動を積んでいた。しまいには漢城において国王たる宣祖昭敬王の面前で、
「お前達の槍はなんと短いことか。弓も刀も子供の玩具かと思ったわい。こんな武器では国は守れまい。我が国に服従せよとは言わんが、このたび日本国王となった関白秀吉様に、せめてお祝いの言葉くらい伝えておいた方が身のためだと思うが」
と高邁に言い放った。この時の柚谷の態度を朝鮮の史書である『懲毖録』には「挙止倨傲=立ち居振る舞いが驕り高ぶっている)」と記す。当然宣祖も腹を立てたに相違ない。
そんな事情を気にする様子もなく、日本国使者を笠に着た一行は、尚州在郷の両班の屋敷で帰路の宿をとっているというわけである。
「ちっ、今晩はおこぼれに預かろうと思ったが、それではつまらんなあ」
孫六が言った。
「相変わらず性欲が強いのう。どちらにしろ我々も明日発つ……」
「爺、もうよいだろう。早くゆくぞ!」
柚谷付の通訳の言葉をさえぎって末蔵が言うと、そのまま孫六を置いて歩き出した。
「どうも朝鮮の風紀になじめぬようじゃ。まだまだケツが青いわい。では、またのう」
孫六は末蔵の後を追いかけた。
「おい、この先は聞慶鳥嶺の峠だ。山賊や虎が出るから気を付けろ!」
柚谷付通訳の忠告に手を振って応えた孫六は、体を重そうにして再び馬にまたがった。
二人がこれから越えようとする聞慶鳥嶺の峠とは、慶尚道と漢城を結ぶ街道の最大の難所と言われる地点である。小白山脈の鳥嶺山の“鳥”の“嶺”とは、鳥さえも休まずに越えることができない峠という意味で、南の地方から漢城で行われる科挙の試験を受けるために、どれほどの者がこの峠に行く手を阻まれたろうか。
そんな話をしながら今日中に峠を越えてしまおうとする二人の前に、突然熊や虎などの獣の皮や薄汚い麻の衣服をまとった真っ黒な男たちが、手や手に剣や槍を持ってゆく手を遮った。数える暇などなかったが二、三十人はいるだろう。孫六は恐れおののき、
「まずいぞ末さん、山賊だ」
と言った。
厳格な階級社会の上に成り立つ李氏朝鮮の最下層で苦しむ白丁出身者の中には、世を恨み、復讐を抱きながら生きるいわゆる賊になる者もいた。それは世の常ともいえるだろうが、完全に社会システムから切り離された彼らは自由ではあったが、ひとたび役人に見つかれば捕縛され、命を絶たれる大きなリスクも背負っていた。だから通常彼らは行政の目の届かない山奥や、ほとんど人の住まない僻地などに徒党を組んで生活し、武闘の技術や力を鍛え、普段は猟や盗みなどして糧を得て、時にこうして財産のありそうな者を襲っては追剥をして生きるより仕方がない。半分野生化している分、理性を持つ人間には空恐ろしい存在で、彼らには道理も儒教の教えも通用しない、力だけが正義の輩である。それはすなわち朝鮮儒学の序列至上主義が生み出した負の遺産でもあったわけだ。だからその存在を知っている人は、旅をする時は必ず有能な護衛を頼むか、あるいは大勢でまとまって移動するのだが、末蔵たちのように身軽な旅人は彼らの格好の標的だった。
気付けば二人はすでに周囲を取り囲まれて、賊の頭と思われる大熊のような男がカラスのような気味の悪い声で何か叫んだ。
「着ている物、持っている物、そして馬……全て差し出せば、命だけは助けてやると言っておるが……末さん、どうする?」
孫六はぶるぶる怯えながら山賊の言葉を通訳した。
「できるわけがなかろう!」
末蔵も叫んだ。
「ダメじゃ、そんな事を伝えたら殺される……」
「では、どうすればよい?」
「ここは奴らに従うしかないじゃろう!」
山賊達は真っ黒な顔に黄色い歯をのぞかせながら、やがて手にした武器を振り回し始めた。武器にしてはなんとも華奢に見えたが、人を殺傷するには十分そうだ。
末蔵は考えた。このまま路銀まで奪われてしまったら、たとえ生き延びたとしても路頭に迷うだけである。今大切な物は、命の次に金なのだ。と突然、
「ううっ!」
と叫んで腹を抱えてうずくまった。驚いた孫六は「どうした?」と馬から降りて背中をさすると、末蔵は苦しそうにこう訴えた。
「持病の腹痛が出た。今すぐ薬が飲みたい!と奴らに伝えろ。交渉はその後だ!」
孫六は末蔵に言われるままその言葉を山賊達に伝えた。すると、
「いいだろう」と山賊の頭が答えた。どうやら山賊にも山賊の一分があるらしい。
末蔵は懐から薬を取り出す振りをして一粒の路銀をつまみ、銀貨だと分からないように口に含むと、目をつむってゴクリとのみ込んだ。そして二粒目を取り出して同じようにのみ込むと、
「医者から症状が出たら、この薬を二十粒ほど飲めと言われておる。伝えろ!」
孫六がそう山賊に伝えれば、山賊達は「早くしろ!」と急かした。
これは伊賀で習った咄嗟の時に大事な物を隠す技である。小太郎はよく「呑み込みの術」と言っていたが、のみ込んだ物は排泄物と一緒に外に出す。実は末蔵がこの術を使ったのは今が初めてで、異物を喉に通す違和感には耐え難いものがあったが、それでもようやく銀貨を二十粒ほどのみ込んだ。路銀はまだたくさん残っていたが、ここで命を落とすわけにはいかない。残りは潔くあきらめて、
「おお、ようやく楽になったわい。で、条件は何じゃ?」
と言ったものの、結局身ぐるみ全てはがされて、路銀と馬まで奪われて、丸裸にされてなんとかその窮地を乗り切った。
末蔵もそうだが孫六も哀れな姿で、まだ三月の凍てつく峠道を進むより仕方ない。特に孫六は年も祟って歩くのもおぼつかず、幸い熊や虎などの獣達はまだ冬眠しているのであろう遭遇することはなかったが、末蔵は、そのみじめな老人を負ぶって歩くしかなかった。
奴婢の娘
峠を越えて最初の村で、とりあえず二人は衣服を手に入れた。衣服といっても奴婢が着るような、目の粗い麻でできた薄汚れた白のパジ赤古里だが、ふんどし一丁姿では寒い上に人目も気になるからないよりましだ。胃袋におさめた二十粒ほどの銀貨も野糞をして取り戻したが、奪われた路銀のことを思うと悔やんでも悔やみきれない。
忠清道の中心として栄える忠州まで、普通の人の足なら三日ほどで着くところを、孫六を背負う末蔵は六日かけてようやく到着するのであった。
「分院窯のある広州まではあとどのくらいかかるのかのう?」
末蔵は半分やけくそになって、背中の孫六にこう嘆く。
「漢城府の手前だから、あと五日といったところかな? でもこの速さだから十日はくだらんだろう。ほれ、もうちと早く歩け、歩け―――」
口ばかり達者で、自ら歩こうとしない孫六の態度に頭にきた末蔵は彼を抛り投げた。
「いたたたた……こら、何をする! 老人を労わらぬ狼藉者は朝鮮を追い出すぞ!」
「この助兵衛じじいめ、老人が聞いて呆れるわい!」
と、そこに突如として女の泣き叫ぶ声がした。
何事かと目をやれば、一軒のあばら家から、まだ年端もいかない十五、六の薄汚れた小娘を強引に連れ出す、道袍や中致莫を着た官人らしき数人の男たちが出て来た。その後を追いかけるように白い赤古里を着たこれも汚れた中年の女が飛び出して、何か叫びながら官人の足にしがみつく。すると別の官人が容赦なくその女を蹴りつけた。
「オンマ!オンマ!」
と泣き叫ぶ小娘の様子はやはり尋常でない。官人も大声で何か怒鳴っているが、中年の女は同じ言葉をわめいて頭を下げるだけで、道行く者は見て見ぬ振りをして通り過ぎるだけだった。
「何をもめておる?」
末蔵は孫六に聞いた。孫六は先ほどの官人の大声から、すっかり事の概要を掴んでいる。
「紅い衣を着た男がおるじゃろ?あいつは両班じゃ。どうも屋敷の屋根の修繕をしたらしい。その修繕費を払わなければならないので娘を連れて行くと言っておるな。この娘なら容姿が良いから高く売れるとさ」
孫六は他人事のように言った。
「家の修繕費のためにあの娘を売るつもりなのか?」
「あの母親と娘はおそらく白丁だろう。あの両班の所有物だからどうにもならんよ。さあ、行こう、触らぬ神に祟りなしじゃ……」
孫六が歩き出したとき、更に甲高い娘の悲鳴が鳴り響いた。官人の一人が刀を抜いて、母親の首を斬りつけたのだ。おそらくあの様子では即死だろう、娘は両班の腕を振り切り母親の背中にしがみついて「オンマ!」と泣き叫ぶ。
「白丁を殺しても罪にはならぬ。可哀想なことだ……」
そう呟く孫六の脇を、風のように駆け抜けたのは末蔵であった。
「バカっ! やめろっ!」
と言った時には、体当たりで両班を突き飛ばし、末蔵は娘を守るような格好で構えている。突然なにが起こったか分からない官人達も、おのおの刀や護身用の武器を手にして身構えた。
「あの馬鹿め! 厄介を起こしやがって」と孫六は迷惑そうに騒ぎの方へ寄って行った。
末蔵は泣き叫ぶ娘に「よいか、逃げるぞ!」と言った。そこへやって来た孫六が、
「いやはや、すみませんねえ、こいつはアホな倭国の男で、この国の習いを全くわきまえません。娘は返しますのでどうかご勘弁を」
と朝鮮語で弁解したところが、着ていた服が悪かった。完全に白丁と誤解された孫六は、刀を持った一人に頭をかち割られて激しく血しぶきをあげ倒れた。
驚いた末蔵は「孫六爺!」と叫んだが遅く、既に孫六は息耐えた。末蔵は刀を持った男をキッと睨みつけると、刀を振り下ろすより早く懐に飛び込んで頭突きをかませば、男は後方へ吹っ飛んで、その隙に娘の手を強引に掴んだと思うと、そのまま韋駄天の如く逃げ出した。両班の男は真っ赤な顔で激怒して、
「逃すな!ひっとらえろ!」
と叫ぶと、瞬く間に周囲は捕り物帖さながらの大活劇が始まった。
驚くのは先ほどの騒ぎは見向きもしないで通り過ぎた者達が、まるでゾンビにでもなったように襲ってくる事である。およそ褒美を目当てに両班に加担する中人、常民階級の者達であろう。末蔵はそれを押しのけへし分け、辻を曲がった深い藪の中に娘もろとも逃げ込んだ。
「どこへ行きやがった?」
という朝鮮語が、潜む藪の中に聞こえた。
「この藪の中に紛れたんじゃないか?」
末蔵は息をひそめ、まだ泣き止まない娘の口を押さえ、敵を欺くために咄嗟にコオロギやキリギリスの鳴き真似をした。冷静に考えればこの時季に鳴くはずのない虫だが、そのあまりのリアルさに疑う者はいない。
「虫が鳴いているぞ?」
「人がいれば虫は警戒して静まるはずだ」
「ここにはいない、あっちだ!」
と、なんとかその場を切り抜けたのだった。末蔵はほっと溜息をついた。
「いま動くのは危険だ。暗くなるまでここで待とう」
末蔵は小さな声で言ったが、日本語が通じるはずはない。
娘はひどく怯えている。さもあろう、いきなり両班に連れ去られようとしたばかりか、目の前で母親を殺され、挙句にどこの誰だか分からぬ男に拉致されたのである。恐怖と悲しみと不安の感情がごっちゃになって、気が動転して泣くしかないのだ。
末蔵は孫六に教わった片言の朝鮮語を思い出した。
「ケンチャナヨ?(大丈夫か?)」
すると娘は、泣き腫らした透き通った両目を末蔵に向けた。その怯える瞳からこぼれ落ちる涙の通り道は、痩せた二つの頬を土で真っ黒に汚していた。末蔵はにっこり微笑むと、腰の竹筒に入った水を自分の赤古里の袖にしみ込ませた。
なぜ竹の水筒を持っているかといえば、山賊に襲われ丸裸にされた後、峠道を歩きながら黒曜石や珪質頁岩、あるいはチャートやサヌカイトやガラス質の安山岩などの石を探して、割って刃物の換わりにし、次に竹林を見つけた時に、その竹を切って作ったのである。これも伊賀で習ったサバイバル術だが、水で湿らせた袖を雑巾の換わりにして汚い娘の頬の土を拭き取れば、次第に若さ特有のきめ細かな白い肌を覗かせて、頬に続いて鼻や額や耳などの泥も拭きとってやれば、すっかり綺麗な生娘の顔になった。
末蔵は瞠目した―――。
以前孫六が「婢女は磨けば女になる」と言ったのは本当だと思った。その幼さの残る表情に楊貴妃のような美しさを見たのである。
「密陽……」
と思わず呟いたのは、あの密陽の峠を越える時、ずっと頭の中で鳴っていた密陽アリランに詠われた奴婢の娘のイメージが、たったいまさっき母親を殺され、まさに売られようとしていた目の前のこの美しい娘と重なったからだった。
「水、飲むか?」
「…………イェ(예)」
不思議と言葉が通じた。娘は、末蔵が敵でないことを知り、竹筒の口をそっと唇に添え、その桜のような唇から静かに水を含むと、小さな音をたてて飲み込んだ。すると突然なにかを思い出したように、
「어머니의 곳에 가지 않으면」
と呟いたと思うと、藪の中から飛び出そうと体を起こした。言葉は分からないが、母親のところへ行こうとしているのだとすぐに察した末蔵は慌てて抱き止めた。
「いま出て行ったら捕まって売られてしまうぞ。暗くなるまで待て」
暫く娘は末蔵の腕の中から抜け出そうと暴れていたが、そのうち無理だと諦めると、やがて彼の腕に顔をうずめて再び泣き出した。末蔵はその生娘の細い身体を押さえつけるように抱いたまま、名前も知らないその娘をいつしか“密陽”と呼んでいた。
やがて日が暮れ夜の帳が降りると、藪の中から顔を出した末蔵は密陽に「いくぞ」と言った。密陽は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「母のところへ行くのではないのか? 俺も孫六のことが無念でならぬ」
密陽の手を引いて路地に出た末蔵は、周囲を警戒しながら昼間騒ぎがあった現場へと向かった。町中は忠清道在住の捕盗庁の役人と思われる武装した男達が出歩いており、密陽と末蔵を血眼になって探していた。この様子では既に京畿道へ通じる国境沿いも封鎖されているに違いない。末蔵は建物や雑木林に身を隠しながら密陽の家の前へ近づいたが、そこにも二人ほどの捕卒(警官)が見張っており、死体は既に片付けられていた。
すると密陽が末蔵の手を引き走り出した。連れられて着いた場所が死体置き場である。そこには既に白骨化したものから腐って異臭を放つもの、およそ理由もなく殺された白丁達の墓場に相違ない。その中に無造作に投げ捨てられた孫六の死体を見つけた末蔵は駆け寄って「助けてやれずにすまなんだ」と黙祷して合掌すると、隣には同じく密陽の母親が捨てられており、密陽は死体に抱き着いて号泣した。
「これからどうする?」
末蔵は密陽の肩を叩いて言ったが、密陽は「逃げてもムダよ!」とまた泣いた。不思議なもので、特定の言葉を引き出すような特別な状況もあるのだろうが、彼女の話す朝鮮語が末蔵には解かった。
すると背後が俄かに明るくなったと思うと、松明を手にした五、六人の捕卒が「いたぞ!」とばかりに現れたので、咄嗟に密陽の手を引っ張って逃げ出した末蔵だが、一瞬遅く、二人はその捕り物役人達に取り囲まれた。
「わしらをどうするつもりじゃ!」と末蔵が叫んだ。
捕卒達は聞いたこともない言葉に首を傾げて顔を見合わせたが、やがて「言わずと知れたこと!」と言うように刀を引き抜いて末蔵めがけて襲う。末蔵は観念して密陽をかばって顔を伏せた―――。
そのときだった。
刀を振り下ろす捕卒の腕に、閃光のような矢が突き刺さったのは。捕卒は悲鳴を挙げてうずくまったが、振りむいた末蔵が次に見たのは信じ難い光景だった。忘れもしない聞慶鳥嶺の峠で遭遇したあの山賊達と同じような格好をした盗賊団だったのだ。盗賊団と思ったのは、みな明らかに役人とは思えない服装をしており、かといって賤民のようなみすぼらしい格好をしている訳でなく、何より刀や弓などを手にした二、三十人ほどの男達は、徒党を組んで捕卒達を取り囲んでいたからである。
五、六人の捕卒達は恐れをなしたように後ずさりし、逃げようとしたところを盗賊団に取り押さえられた。盗賊団の中から姿を現したのは、顎髭を蓄えた四十前後の逞しげな男である。しかしその鋭い眼光には何かに情熱を傾ける憎しみにも似た悲しい気配が宿っていた。筆者は朝鮮語が分からないので、ここからはセリフを日本語に翻訳して続けるとしよう。
「私は林巨正の嫡子、林百姓と申す! 白丁の民を苦しめる横暴を見るに見兼ねて参上した!」
その名乗りを聞いた盗賊団は、申し合わせてでもいるかのように、捉えた捕卒達の武器や服を根こそぎ奪い取ると、林百姓と名乗った男の足元にその戦利品を積み上げた。
「さっそくこの品を布に換え、貧しき者達に分け与えるがよい!」
「はいっ!」
と、部下の数人の盗賊はそれらを抱えて闇の中へ消えてしまった。
さて、この林百姓という男であるが、いわゆる義賊と呼ばれる者の類である。日本にも石川五右衛門や鼠小僧次郎吉、近年ではルパン三世といった善を成す盗賊がいるように、李氏朝鮮にもそれに当たる英雄がいる。先ほど林百姓は、自分の祖父は林巨正であると名乗ったが、彼こそがその一人である。
林巨正は白丁出身の盗賊で、一五五九年というからこの小説の三十年ほど前、貴族や政府の圧制に苦しむ農民以下の下級層を組織して反乱を巻き起こした英雄である。いわゆるこれが林巨正の乱と言われるものだが、反乱は黄海道を中心に京畿道、平安道、江原道へと拡大したが、やがて官軍の大規模な討伐により鎮圧され、最後は捕らえられて処刑される。
また洪吉童がいる。
彼は実在の人物ではなく、一六〇七年ごろ許筠という文人によって書かれたハングル文字最古の小説と言われる『洪吉童伝』の主人公である。設定は、貴族の家には生まれるのだが、母親がいわゆる奴婢の女中であったため身分が卑しく、やがて家を捨て“遁甲法”という怪しげな術を覚え、山賊団を束ねて“活貧党”の首領となる。そして貴族や役人達を懲らしめ、奪った金品を貧民に分け与えるのである。自分を捉えに来た刺客を惑わしたり、八人の分身を作ったりする法術は忍者にも似たようなものがあるが、空を飛ぶに至っては赤い顔をした孫悟空も真っ青だ。
さらに時代を進めれば張吉山である。
彼は十七世紀後半の実在の人物であるが、面白いのは普段は旅芸人であるが、裏の顔が剣契と言われる賤民達の秘密結社の頭というから“必殺!仕事人”を彷彿とさせる。芸人職は当時は賤民階級であり、やはりこの英雄も最低の身分でありながら権力に立ち向かうという構図は他の二人と同じで、この三人がいわゆる“朝鮮三大盗賊”と言われる。
やがて、林百姓と名乗った男は末蔵を一瞥し、
「命は大切にされよ」
と言い残して立ち去ろうとした。
「お待ちください!」
末蔵は林百姓の足元へ駆けていき、お礼を述べて続けた。
「私の名は百地末蔵と申します。高麗茶碗の作り方を学ぶため、日本から海を渡って参りました。ところが釜山から広州の分院窯に行く途中、賊に襲われ身ぐるみ剥がされ、この町に着いたところで、この娘が身売りされ泣き叫ぶのを見かけました。我慢ならずに助けたところがこの有様です。通訳の爺さんも殺されました。どうか私を広州まで連れて行って下さい!」
無論、言葉が通じるはずもない。林百姓は「誰か、この男が言っている意味が分かる者はおらぬか?」と盗賊団の者達に言ったが、異国語が分かる者などいるはずもない。
林百姓は、今度は密陽に向かって「この男はお前の何だ?」と聞いた。
密陽は末蔵を見つめると、
「母が殺され、私も殺されかけたところを、この男に命を助けられました」
と答えた。
「この男はなぜ、白丁であるお前を助けたのか?」
「分かりません……ただ、この方は朝鮮の民ではありません」
「朝鮮の人間ではないとするとどこの国の者だ? 明国か、それとも倭人か?」
“倭人”という単語に末蔵は反応した。孫六から日本人のことを“ウオジェン”と言う事を学習していたのだ。
「そうだ! 俺は倭人だ! 海を渡ってここに来た!」
林百姓は「倭人?」と呟くと、末蔵の顔をじっと見つめた。朝鮮人にとっては軽蔑する存在ではあっても敬う対象ではない。林百姓は再び密陽に向かってこう言った。
「両班に逆らったとあらばもはや生きてはいけぬぞ。これからどうするつもりだ?」
密陽は何も答えず再び末蔵の顔を見つめた。その瞳がどうすれば良いか聞いていた。
「とりあえず今はこの人に匿ってもらうしかなかろう」
末蔵の言葉を理解したのかは分からないが、密陽は静かに立ち上がると、
「どうか私たちを匿ってください」
と頭を下げた。
こうして末蔵と密陽は、林百姓が率いる盗賊団に伴って南漢江を渡り、およそ京畿道と忠清道と江原道の堺が交差する原州の雉岳山は、人目の届かない山奥のアジトに身を隠すことになったのであった。そこはちょっとした集落になっており、女もいれば子供もいた。なので密陽は林百姓の妻が住む家で預かってもらうことにし、末蔵は一角に小さな家を建ててもらい暫く住むことにしたのだ。ここで朝鮮語を覚え、一刻も早く広州の分院窯へ行かねばならないと考えた。
陶芸家を目指すつもりの末蔵の命運は、こうして思わぬ方向へと導かれていくのであった。
小田原攻め
さて、末蔵が林百姓に匿われているころ小太郎はというと、加賀は金沢城主前田利家の賓客として暮らす高山右近のもとで、することもなく広い庭園の石畳の上に寝そべって流れる雲をボッと見つめていた。時に天正十七年(一五八九)、季節は晩秋である。
「暇じゃ……まるで暇じゃ。こうも暇では体がなまる」
菖蒲はすでに信州上田は真田の城に戻ってしまったし、小太郎の話し相手といえば庭園の池を泳ぐ錦鯉か、さもなければ聖書とやらの日本語翻訳に没頭し、時たま息抜きで世間話をしにやって来る隠棲の右近くらいである。このときも暇そうな小太郎を見つけた右近が寄って来て、
「このまま私のところにいてもする事など何もないぞ。お前が入信しないから正式に雇ったわけではないが、こういつまでも近くにおられては私の方が申し訳なく思えてくる。前から言っておるが、小西行長殿のところで働いてはどうか? 新地の南肥後に赴いて以来、統治にもなかなか苦労しておる様だからね」
「わしはどうもあの男が分からぬ。仕えて信用に足る人物なのか?」
と、小太郎は気のない返事で答える。
博多で伴天連追放令が発布されたとき、右近は全てを捨て自らの信仰心を貫いたのに対して、行長の方は自分がキリシタン大名であることをうやむやにし、肥後の領主であった佐々成政の失政に乗じて、肥後の南半分を領することになったのが昨年七月のことである。当初、西岡台(中世宇土城)に居住していた行長は、小さな山城を別の場所に新しい城を建設しようと国人衆に普請したが、それを拒んだのが天草の国人衆だった。それだけなら首を傾げることもなかったが、天草の地にはキリシタン信者が多く、城の普請要求を拒否した筆頭の志岐鎮経はじめ五人衆はことごとくキリシタンなのである。
「なぜ同じキリシタンでありながら、行長は天草五人衆に受け入れられず、また、天草五人衆は行長を受け入れなかったのか―――?」
小太郎の疑問はそれで、それを言うと右近は、
「小西殿は私のようなキリシタンを庇護するために、あえて悪役を演じているのだ」
と答える。現に右近は彼に庇護されながら金沢に流れて来た訳だった。
「まったく右近殿はお人好しじゃのう」と呆れるが、小太郎の見解は、
「小西行長はキリシタンの面を被る商人じゃ」
である。さしたる志を持つでもなく、そのくせ己を有利な立場に導く駆け引きには長け、それはまるで商人の本質と同じに見えるのだ。もともと大坂堺の商家の出であるから仕方のないことかもしれないが、商人ならば己の利益にだけ固執していれば良いものを、行長の場合、秀吉の忠臣かといえばそうも見えず、キリシタンかといえばこれもまた頷けるものでなく、ただ少しばかりの海運術を笠に巧みに世渡りをする成り上がり者にしか見えない。それをあえて口にすることはなかったが、認めなければいけないのは、その才において一介の商人から今や南肥後十五万石の大名へと成長を遂げた事実だった。ちょうどそのころ肥後では天草国人一揆が起こっていた。右近はここにいるよりそこで働いた方が「お前の技術を活かせるだろう」と言っている。
小太郎が乗り気になれないのにはもう一つ理由がある。行長が南肥後の領主となった際、北肥後を領すことになったのが加藤清正である。秀吉の意図は図れないが、そんなゴタゴタしている最中の肥後になど行ったら必ず、
「また才の字に遭う―――」
清正のところには同郷の服部才之進がいる。博多の一件以来、腹を立てているに違いないことを思うと、
「今度会ったらただではすむまい―――」
であった。怒った時の彼の恐ろしさはよく知っていた。一度伊賀で技比べをした際、手裏剣投げの勝負で勝ったことがあるが、その勝因は投げる直前に彼の手裏剣に細工を施したからだった。
「おい、何か妙な細工などしてないだろうな? ちょっと見せてみろ」
と検査をする振りをして、見えないように彼の手裏剣に鼻の油をたんまりすり込んだ。手裏剣の扱いにおいては才之進の方が上手だったはずで、同じ的をめがけて同時に投げた時、才之進の指先が僅かに滑り、その分小太郎の方が正確な位置に突き刺さったわけだった。手裏剣投げに絶対の自信を持っていた才之進はすかさず、
「おい、何か塗っただろう?」
と、憤慨を隠して小太郎を責めたが、知らぬ顔でとぼけた小太郎に才之進はいきなり飛びかかり刀で頸動脈を切りつけた。もし小太郎でなかったら確実に死んでいたろうが、すんでのところで身をかわし、
「油断した才の字の負けじゃ!」
と負けん気で言えば、
「卑怯な手を使い、今のは負けたうちに入らん!」
「忍びの世界に“卑怯”という言葉などないんじゃ!」
と取っ組み合いの喧嘩が始まった。その時の才之進の血走った目が尋常でなかった。感情を表に出さない分、狂気がほとばしり、およそ「忍びの者は冷酷非情であれ」とは伊賀の上忍であった百地三太夫の教えであったが、その教えに忠実すぎる才之進に恐怖を抱いた。それは野生というより無機質な冷めたい感情とでも言おうか、心というものを持たない殺人鬼だった。小太郎はそのとき初めて、
「殺される―――」
と肝を冷やしたわけだが、その彼に会うことには何とも気が引けた。
話は変わるが、小太郎が行くまでもなく肥後の天草国人一揆の方はその後まもなく鎮圧させられる。それは同じ肥後を分かつ小西行長と加藤清正の確執を産む原因にもなった。そもそも事件の発端は行長が国人衆に築城普請をしたことにあるから行長の問題ではある。天草五人衆の拒絶を受けて十月、行長は一揆の中心者である志岐鎮経と一戦交えて志岐城を攻略するが、それを知って援軍を出したのが清正だった。
「同国の一揆ゆえ助太刀いたす」
すると行長はこう答えた。
「お気遣い誠に痛み入るが、此度の戦、当方の問題にて援軍は無用である」
ところが清正にも引けない理由があった。というのは天草諸島は、秀吉の唐入りにおいては海上における重要拠点でもあったからだ。天草を掌握することは、小西だけの問題にあらず、日本国の問題であるというのが清正の論理だった。一揆鎮圧の手柄を自分のものだけにしたい行長は出陣を思いとどまらせようと説得するも清正は引かず、結果的に両人で一揆を制圧した形になった。行長にしてみれば何とも腑に落ちない勝利である―――ともあれこの二人は後の朝鮮出兵において大きな役割を演じることになる。
その頃秀吉はというと、九州征伐により従わせた島津義久に琉球王朝の服属を命じ、武力による討伐をちらつかせた求めに屈した琉球は九月、「天下統一の慶賀」という名目で王使を上京させた。更には名胡桃城をめぐる真田氏との争いを惣無事令違反と見なし、北条氏に対して宣戦布告の陣触れを発したのが十二月の事。惣無事令とは大名間の領土紛争などにおいては全てが豊臣政権が最高機関として処理に当たることを定めたもので、九州征伐を終えてなお、北条氏政・氏直親子はじめ東北の伊達政宗等、いまだ上洛要請に従わない大名は目の上のたん瘤だった。名実共に天下統一を世に知らしめるには小田原征伐こそが最後の仕事であった。とはいえ、兵力の上では圧倒的な差があることは歴然で、秀吉にしてみれば無駄な戦などせずに済ませ、次なる戦い、つまり明国入りしたいところであった。
小田原征伐の命を受けて、俄かに小太郎の周囲も騒がしくなった。前田利家の出陣に右近が同行することを知ると、
「ほれ、肥後になど行かんで良かったわい」
と、小太郎は活躍の場を得たことに小躍りして喜んだ。
「我らは北国軍として東山道で信濃を経由し、上杉と真田と合流して碓氷峠から関東に入ることになった。つきましては小太郎君はどうしますか?」
と右近は聞いた。真田と聞いて菖蒲を思い浮かべた小太郎はますます喜んで、
「どうするもないわ。行くに決まっとる!」
こうして天正十八年が明ける。
前田利家が軍を整える時間も惜しい小太郎は、「出立はいつじゃ」としきりに右近に迫ったが、ついに待ち切れず「偵察のため先に参る!」と言って加賀を飛び出したのが正月の半ばの事だった。行く先は菖蒲がいるはずの信州は上田城に違いない。久しぶりに再会できることを思うと心をはずませながら東山道を進む小太郎である。この頃中山道はまだ成立しておらず、近畿から東北方面へ行くには律令時代からの東山道を用いており、この道はその昔信濃国府が置かれていた上田を経由している。塩尻から上田に入ったところでふと歩みを止めたのは、一瞬いやな殺気を感じたからだった。と、次の瞬間、行く手に立ちはだかっていたのは見覚えのある、刀を手にした赤い顔をした男であった。
「上田に何をしに参った?」
忘れもしない、それは贄川の宿で出会った甲賀の飛猿に違いない。小太郎は咄嗟に身構えて、
「ちと待て! 今回は味方同士じゃ。うぬとやり合う理由はない」
飛猿は不審そうな目付きで小太郎に戦意がないのを見定めると、静かに刀を鞘におさめた。
「味方同士とはどういう意味じゃ?」
「秀吉の小田原攻めよ。わしが仕える高山右近殿が、このたび前田利家軍に参戦することになった。ほれ、お主の主君真田安房守と仲良く進軍することになっとるじゃろう? わしはそのための偵察に来たのだ」
「高山右近?」
飛猿は何かを察知したように含み笑いを浮かべ、
「菖蒲なら上田にはおらぬぞ」
図星の小太郎は察しの良すぎる赤猿に舌打ちをした。ごまかしのきかぬ男である。
「上田でないならどこにおる?」
「幸村様に伴って先に小田原方面へ向かったわい」
「また幸村か!」と小太郎は嫉妬に似た感情を抑えながら「ではわしも向かうとしよう」と言って、関わりたくない相手から逃げるように飛猿の脇を通り過ぎた。
「同じ相手を敵にするなら、どうじゃ、今回のみわしらと手を組まぬか?」
意外な飛猿の言葉に小太郎は引き留められた。
「手を組む? 組んでどうする?」
「北条家には厄介な忍び集団がおる」
「風魔党か?」
小太郎は昔どこかで聞いてすっかり忘れていた風魔党忍者の存在を思い出すと、久しく眠っていた闘争心が湧いて無性にうずうずしてきた。それは父太郎次郎から聞いた北条家に仕える忍びの者の話である。
相模は足柄山の麓、風間谷に忍者集団が住むという。足柄峠の金時山に伝わる金太郎伝説はその祖先で、北条早雲に仕えてより諜報活動や巧みな攪乱の術で北条家の繁栄をもたらしたと聞く。その日本人とは思えない大きな体格は、中近東方面から大陸を渡って来た異民族が土着したものか、馬を巧みに乗りこなし、集団的な攪乱術を得意とし、特に火を操る技にかけては伊賀の術より上手かも知れぬと太郎次郎は言っていた。
ある時は敵陣に忍び込み敵将を生け捕り、またある時は敵の馬の綱を断ち切りその馬を意のままに操って夜討ちをかける。はたまたあちこち放火したかと思うと、四方八方に紛れる者達が同時に勝ち鬨を挙げ敵をさんざん攪乱し城を攻略した。
その頭は襲名制で、今は五代目風魔小太郎が一団を従える。
身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し―――
「まるで化け物じゃ」
と、風魔小太郎の風貌を話しながら太郎次郎の豊齢線が深い溝を作った。その名を知ったとき、自分と同じ名前であることに闘争心がむらむらと湧いたのを覚えている。確か第二次伊賀の乱が勃発する少し前だったと思う。武田勝頼と北条氏との黄瀬川の戦いにおける風魔忍者の噂話が伊賀にまで伝わってきたのだった。闇夜に紛れた攪乱により目覚しい戦果を挙げたこと、大雨強風で黄瀬川が荒れる中、騎馬で川を渡って武田陣営を奇襲した話、武器、食料の略奪はもちろん、大きな体で手当たり次第将兵を生け捕り、なぶり殺し、陣馬の綱を片っ端から切って火を放つと、鬨の声を挙げて敵の戦意を恐怖に陥れた。そんな戦法を毎夜のように続けた。
「力だけで敵をねじ伏せるなど忍者とはいえん」
とまだ子供だった小太郎は反駁した。
「いや、そうでもないのじゃ」
と言って教えてくれた話が印象に残った。
ある夜、武田方の忍者十名ほどが一矢報いようと風魔党の中に潜り込んだ。武田といえば忍者を巧みに使う武将としても有名である。ところが、風魔小太郎がある合言葉を言ったと思うと、おのおの松明を灯して互いに声を出し合い立ち座りの動作を始めたのである。当然そんな申し合わせを知らない武田忍者はすぐに見破られ、ことごとく斬られたというのである。これは“立ちすぐり・居すぐり”という風魔流の紛れ込んだ敵を見分ける術で、その話を思い出して、
「さては赤猿め、風魔忍者に苦手意識を持っておるな?」
と、「手を組もう」と言った飛猿を見つめて小太郎はほくそ笑んだ。
「風魔など伊賀の手にかかれば取るに足らん。しかし甲賀にとってはしぶとい相手と見える。手を借りたいというのであれば協力してあげてもよいが」
小太郎の本心は、あの噂に聞いた風魔忍者と戦ってみたくて仕方がない。その高邁な言いように今度は飛猿の顔に「相変わらず子供だのう」という嘲けた笑みが漏れた。
「ついて来い。安房守様に引き合わせよう」
飛猿が言った。
「その必要はない。協力はするが真田の家臣にはならん。いずれ会うこともあろうからな」
「しかし風魔の戦術の事前知識も必要だろう?」
「必要ない。おおかた察しがついておる」
小太郎は「先を急ぐ」と言い残すと、そのまま歩き出した。
「鼻っぱしの強い小僧だ……」
飛猿はその後姿を見送った。
調略の準備
小田原城は、戦国最強の武将と恐れられた武田信玄をして、また、軍神と崇められた上杉謙信をして落とせなかった難攻不落の城である。関東統一を視座に入れて勢力を広げてきた北条氏は、この城を拠点に無数の支城をはりめぐらせ、特に重要地点には一族の者を城主に据え、各支城との迅速な情報伝達を実現するため伝馬制度を充実させていた。鉢形城や滝山城もそのひとつで、永禄一二年(一五六九)に武田信玄が小田原攻めを行った際も、この二つの支城は落ちなかった。もっとも滝山城の方は陥落寸前にまで追い込まれたが、その戦いで防御が不十分であることを思い知らされた城主北条氏照は、「滝」には「落ちる」という意味があることも嫌い、更に急峻で攻めにくい地形を求めて八王子城を築いた。そしてその八王子城こそ、関東の西を護る小田原城最後の砦であった。
前田利家をはじめとする北国軍は、かつて信玄が経由した街道をたどり小田原へ進軍する予定であるが、一足先に偵察に出た真田幸村は、菖蒲と二、三の忍びの者を引き連れて、碓氷峠から上野国の松井田、箕輪、平井を経、武蔵国に入って鉢形を過ぎた。やがて一行は八王子城と目と鼻の先にある阿伎留神社に到着すると、おのおの人目を忍んで物陰に身をひそめて旅装束を着替え、やがて互いの恰好を確認し合うように集まった。彼らの風貌は織物商人を装い、幸村と菖蒲はさながら夫婦で、そこに荷物運びの奉公人に扮した甲賀者と、もう一人はそれを護衛する修験者を装っている。一行は諜報活動のためにそんな変装を松井田城下、鉢形城下でも繰り返してきたのだ。
「八王子城には北条家きっての強者、北条氏照がいる。用心して参るぞ」
修験者の男が言った。北条早雲にはじまる後北条家の現在の当主は第五代氏直であるが、家督を譲っていたとはいえ実質の権力はその父親である四代氏政が握っていた。氏照はその氏政の弟であり、“北条一の弓取り”との噂は、豊臣秀吉が最も警戒した人物の一人であるとも言われる。その意味からも八王子城の攻略は、今回の小田原攻めにおける肝とも言えた。
「なあに、まさかその城内に上杉に通じる間者がいるとは夢にも思っておるまいて」
今度は荷物運びの一人が言った。見覚えのある顔──そうだ、菖蒲が京から大坂に向かう途中、小太郎を襲った二人の甲賀者に違いない。修験者に扮している方は虎之助と呼ばれていた男であり、もう一人は、
「蜻蛉、声がでかい!」
そう、蜻蛉。菖蒲はきつい目付きで「聞かれていたらどうする」と周囲を四顧して彼を戒めた。この二人、どうやら以前より菖蒲護衛の任務を任されているようだ。もっとも修験者に扮した虎之助は甲賀者でなく、信州は戸隠の山奥で忍術の修行を積んだ戸隠流の使い手であった。信玄の時代から真田家に仕え、忠義心においては誰よりも熱いものを持っている。その様子を幸村は静かな笑みを浮かべて見守っていた。
上杉の家臣に藤田能登守信吉という男がいる。またの名を用土源心と言った。戦国の世にあって生涯主君を渡り歩くが、こと上杉家に仕えていた時の彼は、調略をもって城を落とす名手である。上杉家に謀反し対立した一連の新発田重家討伐においては、天正一三年(一五八五)に新潟城と沼垂城を落とし、天正一五年(一五八七)には赤谷城への救援部隊を阻む功績を挙げて赤谷城攻略の立役者となり、更には新発田勢の重臣五十公野信宗が篭城する五十公野城を落城させ、内乱終結に大きな功績を残した。しかもその城落としの常套手段はいずれも調略によるもので、五十公野城攻略の時は城を包囲すると、家老の河瀬次太夫や近習の渋谷氏などを寝返らせ、城門を開かせ総攻撃で城主信宗を討ちとった。
しかし、もともと源心が調略の策士であったかといえばそうではない。彼に調略の味といろはを教えたのは、何を隠そう幸村の父真田安房守昌幸なのである。
用土源心はもともと武蔵国の生まれで北条家の家臣であった。天正六年(一五七八)五月に上杉謙信が死去して家督争いが勃発(御館の乱)すると、上野国沼田城は北条氏の支配下となり、このとき猪俣邦憲が城主となり、少しして城将を任されたのが源心である。地理的に関東と越後、そして信濃を結ぶ軍事上の重要地点としてこの城は、上杉氏と北条氏と武田氏の争奪劇を繰り返していく。
その後まもなく上杉景勝と武田勝頼が同盟関係になると、勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命じた。天正七年(一五七九)九月、昌幸は沼田城周辺の名胡桃城と小川城を攻略し、両城を拠点に沼田城攻撃を開始する。そのとき源心は、
「いつのまにか情勢が逆転しておる!」
と、驚きを隠せなかった。沼田同様北条支配下にあったはずの名胡桃城代の鈴木主水重則と、小川城主の小川可遊斎が俄かに寝返っていたのである。その時は援軍が駆け付けたため沼田城は落ちることはなかったが、その危機が昌幸の調略によるものであると知った時、大きな敗北感とともに、昌幸への羨望が目覚めたのであった。
翌年閏三月、真田昌幸は再び沼田城への攻撃を開始した。そして五月、ついに沼田城を無血開城することに成功するわけだが、その際、城主の猪俣邦憲は小田原へ逃れたが、用土源心は降伏して昌幸の臣下となったのだった。
「このたびの沼田攻略の一件、まっこと見事でござった。ひとつ安房守殿の調略の勘どころ、この源心めにご教示下さらぬか? きっとお役に立てましょうぞ」
源心が昌幸に問うたとき、昌幸は源心のしたたかさを見抜いてこう答えた。
「わしのような弱小武将が城を落とそうとしたなら、まず人を落とすのが鉄則じゃ。城の要となっている人物を見つけ出し、その者の弱点を見極める。大抵の人間は“利”で落ちる。”利”を用いて駄目なら”情”を用い、”情”で落ちずば”義”を用いる。”義”の中でも最も効果的なのは”恩義”というものじゃ。調略とはそういうものぞ」
「ならば安房守殿は何を用いて落ちるか?」
「そうよのう……」と昌幸はしばらく考えたあと、
「信玄公の命とあらばこの命惜しくない」
と答え、続けて、
「源心殿、わしがかような手の内を敵とも味方とも知れぬそこもとに教える心が解るかな?」
と言った。その鷹のような眼光に源心は震えあがった。昌幸は「今わしは、お前に”恩”を売ったのだ」と言っている。その”恩”を恭順で報いるか謀反で報いるか、「お前の人間性を最期まで見届けてやるぞ」と、それは脅迫にも似ていた。
その後、武田氏支配下に置かれた沼田城は、引き続き用土源心が城代を務めることとなり、加えて目付役の意味もあったのだろう、真田家縁故の海野幸光、輝幸兄弟らが城代に据えられた。ところが天正九年(一五八一)、元沼田城主の庶子である沼田平八郎景義が、北条氏の援助を得て沼田城奪還の狼煙を挙げる。源心はその闘い(田北の原の戦い)に敗れたが、昌幸は偽の起請文で景義を沼田城内に招き寄せ、城内で刺殺し沼田氏を滅亡させた。
天正十年(一五八二)三月、織田信長の勢力拡大によって武田勝頼が自害し武田家が滅びると、主君を失った昌幸は行き場を失う。そのとき源心は昌幸にこう問うた。
「武田家が滅びたいま、安房守殿を動かせるものは何か?」
と。すると昌幸は軽くあしらってこう返した。
「何もなくなった」
昌幸は信長の武田討伐で戦功を挙げた滝川一益の傘下に降り、沼田城主は滝川氏にとって代わった。そして六月、本能寺の変で信長が没すると、滝川一益は明智光秀を討つため京へ向かうが、その機に乗じた北条氏直は、関東最大の野戦と言われる神流川の戦いを演じ、結果的に敗れた一益は本拠地伊勢に逃亡し、その隙に昌幸は沼田城を奪還して北条氏に臣従した。その後も昌幸は徳川家康に臣従したり、天正一三年には上杉景勝に臣従して人質として幸村を越後へ送る。わずか三年の間で武田から織田、織田から北条、北条から徳川、徳川から上杉とあざやかな転身振りを発揮するが、それは戦国時代の様相を浮き彫りにするものでもあろう。
その間源心も上杉景勝を頼って越後へ逃れ、以後彼は上杉家臣として活躍していたのである。
その源心は武蔵七党の一つ「猪俣党」の出であるとも言われ、幼少を過ごした武蔵国には旧知の有力者も多かった。八王子城で普請奉行を務める平井無辺という男もその一人で、今回秀吉から小田原征伐の命がくだったとき、源心は真っ先に昌幸と連携を図った。
『こたびは上杉と真田、前田に従い、共に小田原を攻めることに相なり申した。しかるに吾輩は上杉の家臣でもあるが昌幸様の臣下でもある。武蔵国は我が故郷にて友人も多く、調略は吾輩の役目と深く決意しているところだが、故郷を離れてより幾星霜、旧知の友も心変わりしているかも知れない。ついては昌幸様の諜報力を持って網を張っておいて頂きたく、平にお願い申し上げ候』
と、以下に調略対象となる者の名がつらつらと書き記してあった。昌幸は、
「あやつめ、たった二言三言のわしの教示で、調略の要領をつかんだとみえる。したたかな奴よ」
と舌を打った。諜報力で網を張ってほしいというのは昌幸子飼いの忍びの者達を各支城に潜伏させておいてくれという意味で、源心旧知の者達に背信の可能性はあるか、あるいは弱みはないかなど、探りを入れてほしいと言うわけである。無論言われなくとも手を打つつもりであった昌幸だったが、謀反を起こす可能性のある具体的な人物の情報を得たことは大きな収穫だった。こうして幸村を偵察に向かわせたわけなのだ。
古来武蔵国を流れる多摩川沿岸では麻や絹織物の生産が盛んであった。稲作や生糸づくり等の大陸文化を持ち込んだ高麗人が帰化した場所だからとも言われるが、西行法師がこの地を通った際、
浅川を渡れば富士のかげきよく桑の都に青嵐吹く
と歌ったことから、江戸時代に入ると八王子一帯は「桑都」とも呼ばれるようになる。
北条氏照が滝山城に入った際、八日市、横山、八幡の三宿を開いて城下町を形成するが、拠点を八王子城に移すと三宿をそのまま移転させて同じ城下町を作った。それが現在の元八王子である。八日市ではその名の通り、毎月八の付く日に市が開かれ、天正年間(一五七三~九二)の詩歌には、
蚕飼う桑の都の青嵐市のかりやに騒ぐ諸人
と歌われるほどの大賑わい見せていた。特にこのころ現れた『紬座』という絹織物を扱う座は大人気で、幸村一行が織物商人を装ったのもそのためだった。
「おい、貴様ら! いったい誰の許可を得てここで商売をしておる!」
八王子城下を見回る二人組の役人が、見慣れぬ顔の商人の市座を見付けて、ひどい剣幕で叱り付けた。そこでは幸村と菖蒲、そして修験者姿の虎之助がへらへらと笑いながら織物を売っていた。蜻蛉ともう一人の甲賀者はどこかに身を潜めているようだ。秀吉が小田原征討令を発してよりここ八王子も、みな神経をピリピリとがらせているのだ。
「へえ、けっして怪しい者ではございません。あっしらは桐生の織物を扱うしがない商人でございます。八王子の紬座の人気を聞きつけて、こうして桐生よりはるばる売りに参った次第。許可が必要とは存じませなんだ」
威厳も風格も感じないただそそっかしいだけの言い訳は幸村が吐いた台詞である。役人の一人は「桐生?」とつぶやくと、もう一人は「桐生といえば由良国繁殿の所だ。先日、北条氏直様と共に弟の長尾顕長殿を引き連れて小田原城に入ったと聞いておる」とささやいて、やや不審をやわらげて再び幸村たちを睨みつけた。
「お前は店主か?」と問うと幸村はすかさず「へえ」と答えた。
「この女は?」
「あっしの妹でごぜえます。兄の口から言うのもなんですがね、なかなかの器量よし。ひょいとこの織物を身にまとえば百人力の売り子に早変わりって寸法ですわい。しかしこいつにしてみれば旅先でよい嫁入り先を見付けるっていうつまらぬ欲望を抱いているみたいですがね、それほど世の中は甘かないって話しでさぁ! はっはっは」
役人は菖蒲の姿をじろじろと見つめた後、ひと回り大きい図体の修験者に目をやった。
「この入道は用心棒でございます。追剥から身を守るために雇っております。なあに見かけは強面ですがね、根はやさしい奴なんでさあ」
二人の役人は申し合わせたように、
「まずは平井様に報告だ。素性が知れるまで一の櫓にでも放り込んでおけ」
と、お縄をかけたような乱暴振りで、三人を城の方へと引っ張って行った。
風魔猪助参上
櫓に押し込められた幸村と菖蒲と虎之助は、手筈通りのシナリオに目を細めた。こうしていればやがて身元改めの奉行との対面となるはずである。用土源心からの書状によれば、八王子城の奉行は平井無辺という男が就任しているはずであり、八王子城築城の際、普請一切を任されていたから城の構造を知り尽くしているという。今回のミッションは平井無辺の調略であり、第一段階として菖蒲を城内に潜入させることだった。
ふと虎之助が柔和な表情を険しい目つきに変えて、小窓のある方をきりっと睨んだ。
「どうした?」
菖蒲の言葉に首を傾げた虎之助は、不思議そうに、
「気のせいか? 人の気配を感じたのだが……」
とつぶやいた。
暫くして三人は、先ほどの役人に連れられて御主殿と呼ばれる敷地内の会所に通された。すぐ隣には政務が行われる主殿があり、そこは城主氏照の居住区域でもあり、今は小田原城へ登っているため横地監物という老臣が城代を務めている。やがて平伏する三人の前に、上級官僚らしき人の良さそうな中年の男が姿を現わした。
「八王子奉行平井無辺と申す。面を上げよ。その方ら、城下にて無許可で桐生織の反物を売っていたと申すが誠か?」
「へえ、滝山紬や横山紬の評判を聞きつけましてな。あっしらの桐生紬もひとつあやからせてもらおうと思いやして。しかし知らぬとは恐ろしいことで、なんとも申し開きようがございません……」
幸村の芝居も板についたものである。
「知らなかったのでは仕方あるまい。しかしこの城下にはこの城下の決まりがある故、従ってもらわねば困る。決まりでは異国の者があそこで商売するには、粗利益の八割五分を上納していただくことになっておるが、異存がなければ約定にご署名ください。その方らの身元が確認でき次第、自由にご商売なさるがよい」
「八割五分!……そりゃべらぼうじゃありませんか、四公六民が相場じゃございませんか?」
「異存ならば別へ行きなさい」
幸村は菖蒲と虎之助と相談するような芝居を打ったかと思うと、
「ひょっとして戦が起こるんですかい?」
と鎌をかけた。
「なぜそう思う?」
「そりゃあ、場所代が高すぎるからです。巷じゃもっぱらの噂ですよ、関白秀吉様が小田原をお攻めあそばすんじゃないかって。桐生からの道中、そこかしこで耳にしましたからな。しかし戦をなさるのはお侍さんの勝手ですが、あっしらのような民、商人がとばっちりを受けるのはいただけませんな」
「口を慎め!」
脇に控えた役人が声を荒げた。
「まあよい。お気に召さんのならお引き取り願おう。私もその方らの相手をしているほど暇ではないでのう」
無辺が立ち上がろうとしたところを、「ちとお待ちください」と幸村は引き留めた。
「分かり申した、手を打ちましょう。旅の路銀にもならんがこれも後学のためじゃ。よいの、百合!」
と幸村は菖蒲の肩をポンと叩くと、菖蒲は「お兄様!」と白々しい声を挙げた。
無辺は座りなおすと「それではこれより身元を改める」と言うと、最初に生まれと名を聞いた。幸村はうそぶく様子もなく、
「生まれは武蔵国寄居の郷、名を小野弥八と申します。今は上野国仁山田の郷にて小野屋と申す織物の商いをしております。そしてこちらは妹で百合と申します」
「これなる小野弥八の妹、百合にございます」
菖蒲は三つ指をつき慇懃に頭を下げた。続いて虎之助が、
「拙僧は足利養源寺の修行僧で虎無斎と申す。腕にはちと覚えがございますれば、こたびは弥八殿に旅の護衛を頼まれて同行しておる」
無辺は「お主はよい」というような顔をしてから「父の名は?」と聞いた。
「太之助だか巳之助だか……よく存じませんが、用土家の足軽農民だったと聞いております。なにせ幼少の時ゆえ覚えがなく、父が武田信玄と戦い三増峠の戦いで討ち死にした時、この百合は母のお腹の中にいたそうです。母のことはよく覚えております。名を福といいましたが、その母もこの子を産んで間もなく死にました」
『寄居の郷』『用土家』と聞いて、一瞬無辺の目付きに変化が生じたのを幸村は見逃さなかった。それより横で話を聞いていた虎之助の方が、「可哀そうな話です。だから弥八殿はほおっておけないんです!」と突然おいおい泣き出した。
「では誰に育てられたか? 商売の仕方はどこで覚えたか?」
「はい。あっしが七つの時に用土新左衛門様に拾われまして、以来小姓として雇われました。その間百合はお館様のご配慮で、用土家の遠縁に当たる上野国仁山田の小野家に預けられたのでございます。商売の手習いは御館様の元で覚えた次第です。そう、用土新左衛門と名乗る以前は藤田重連であったと聞いております。ご存知ありませぬか?」
「知るも知らぬも、藤田重連殿といえば北条氏邦様の義理の兄君ではないか!」
無辺は目を丸くした。北条氏邦はこの八王子城主北条氏照の実弟である。まさかそのような突拍子もない話が、八王子城下に紬を売りに来た商人の口から飛び出すとは思わない。そして『城主』の『実弟』の『義弟』の『小姓』という、近いようで遠い関係に惑わされながらも、話しの筋に何の矛盾も見い出すことができなかった。むしろ目の前の織物商人の機微ある言動の中に、この男の幼少期の非凡な才覚を見抜いたであろう藤田重連の姿が脳裏に浮かび、少年期、藤田兄弟とは顔を合わせるたびにとても気が合った懐古の思いがよみがえっていた。幸村の声には、そう直感させてしまう重みがあった。
「沼田の一件ではさぞ無念であったろう……」
無辺は気の毒そうにつぶやいた。
沼田の一件とは、天正六年(一五七八)五月に上杉謙信が死去した越後の内紛状態の隙に、北条氏が沼田城を占領したときの事である。当初その城将に据えられたのが藤田重連であるが、それを不服とした北条氏邦は、こともあろうに義兄弟である重連を毒殺してしまったという事件である。領土問題や勢力格差において二人の間に大きな確執があったようだが、北条領内においては口にするのもはばかれる事件なのである。用土源心が沼田城将となったのは、その兄の後釜としての棚からぼた餅的な起用だったわけである。
「主人を失ったあっしは行く宛もなく、妹を頼って小野家の商売を継いだというわけでさぁ」
「そうか、辛い思いをしてきたようだな」
無辺はしみじみと弥八の顔をみつめた。
「まあ、辛い生活には慣れっこです。たまにお館様の弟さんが気遣って、越後の日本海で採れた乾物など送ってきてくれますし、ありがたいことでさぁ」
「弟? 弟とは藤田信吉殿のことか?」
「よくご存じですねぇ! 用土能登守源心様でさぁ。あの方もご苦労なされて、今は上杉の家来になっているようですがね──おっといけねえ、口がすべった。上杉は北条様の敵ですからねぇ。今のは聞かなかったことにしてくだせえ、商売の妨げになっちまう」
無辺は苦笑いを浮かべた。
こうしていくつかの尋問を重ねて身元改めが終わり、約定に署名をし終えた三人は、さも名残惜しそうな様子を作りながら会所を出ようと立ち上がった。すると無辺が我慢しかねたように呼び止めた。
「待たれ。藤田兄弟と縁故のある者と知って手ぶらで帰すわけにはゆかぬ。あの世の藤田重連殿に申し訳が立たぬし、なにより坂東武者の名が廃るわい。この八王子城下にいる間、何か一つだけ望みを叶えてやるゆえ、なんなり申せ。いつまでここにおる?」
「へえ、次の市まで逗留しようと思っております。身に余るお言葉で急には思いつきませんゆえ、次回上がり高をお持ちする時までに考えて参ります。それまでお待ちいただけますか?」
「よかろう」
幸村たちにとっては渡りに舟だった。これからどのように菖蒲を潜入させようかと算段を練る予定であったが、向こうから寄って来たのだ。喜びを無表情の奥に隠しながら、三人は御主殿を後にした。
「それにしても尋問の最中、ずっと人の気配を感じなかったか?」
戸隠の山奥で鍛えた敏感にして鋭い感覚の持ち主である虎之助は、数間離れたところの鼠や蛙の呼吸さえ聞き分けた。その虎之助が歩きながらそう言った。
「いや、何も感じなかったが……幸村様は?」
菖蒲は幸村の顔を見た。
「いや、別に。しかし小田原には北条早雲の時代から風魔党忍者が陰で動いていると聞く。もしかしたら先ほどの話、どこかで盗聴されていたかもしれんな」
菖蒲は歩みを止めて振り返った。
「捨ておけ」
「しかし」
「用土新左衛門の小姓だったなどという話、今となっては調べようもない。死人に口なしとはこのことだ。それに仁山田の小野屋の方には既にくノ一を潜り込ませておる」
「さすが幸村様じゃ」
虎之助は感心しきりにつぶやいた。
御主殿からその三人の後姿が見えなくなった頃、平井無辺の前に風のように現れた黒い影がひざまずいた。
「どうした猪助」
その黒い影は小田原あたりでは乱波と呼ばれる風魔党忍者であった。名を二曲輪猪助、またの名を風魔猪助と言う。
「あの者達、怪し過ぎます。話が出来すぎております」
床下に忍んで、先ほどの会話を全て聞いていたのである。
「なあに、心配はいらんだろう。藤田重連殿の小姓をやっていたと聞いて驚いたが、話を聞く限りおかしなところはなかった」
「そこが怪しいのでございます。どうもあの女と入道、拙者と同じ匂いがするのです。上杉、あるいは真田の乱波かと……」
「そんなことはあるまい」と言いつつ、無辺は俄かに心配になった。
「手下を上野国仁山田の郷に向かわせ、小野屋なる織物商が本当にあるか調べさせます。拙者はあの者どもに不審な動きがないか引き続き見張ります」
「まあ時期が時期ゆえ、用心するに越したことはないの。うむ、わかった、そうせい」
猪助と呼ばれた乱波は、そのときすでに姿を消していた。
こうして十日が過ぎ、次の八の付く日の市で商売を終えた幸村と菖蒲は、虎之助に帰り支度と、十日の間に城下に放っておいた二人の甲賀者からの情報を整理させるために残し、二人で御主殿へと赴いた。迎え入れた平井無辺はひどくご機嫌で、「儲かりましたかな?」と上がり高の清算を終えたのだった。
「なにか良いことでもございましたか?」
幸村が上がりの一割五分を受け取りながら聞いた。
「その方らが思いのほかたくさん売り上げてくれたので、なんとも嬉しくてたまらんのじゃ」
無辺がご機嫌なのはそんなことでない──。先日派遣した風魔猪助配下の乱波が、仁山田の小野屋に関する情報をもたらしたのだ。それによれば、
『確かに小野屋なる織物の店がございました。そこの女中に確認したところ、ひと月ほど前、確かに店主の弥八と妹の百合は、八王子に紬を売りに行くと言って出たそうでございます』
という事実確認が取れたのである。無辺にしてみれば、ひょんなところから現れた紬売り商人の言葉が嘘でなく、旧知の藤田兄弟有縁の者に会えたことが嬉しくて仕方ない。
「ところで弥八、わしは望みを一つ叶えてやると申したが、何か考えてきたか?」
と満面の笑みで聞いた。すると幸村はモジモジしたふうを装って暫く口にするのをためらった。
「どうした?」
「考えるには考えて参りましたが、どうにもこうにも恐れ多くて……」
と菖蒲の方に目をやった。
「なんじゃ、もったいぶらずになんなり申せ」
「はあ……」と弥八は戸惑いながら、「実は……」と当初からの腹積もりを申し訳なさそうに話し出した。
「このたび妹の百合を同行させたのにはもう一つ別の訳がございまして……」
「嫁入り先を探しているという話か? お主らをひっ捕らえてきた役人から聞き及んでおるわ」
「いやはや! ご存じでございましたか! さすが天下の八王子のお奉行様だ!」
「で?」
「誠に申し上げずらく僭越な望みなのですが、このたび平井無辺様とお近づきになれたのも、亡きお館様のお引き合わせではないかと勝手に感じ入りまして……そのお、なんといいますか……この百合をご城下のお女中として奉公させてあげることはできないものかと……いや、すんません、つまらねえ兄心です、忘れてくだせぇ!」
無辺は「その気持ち、よーくわかるわ」といったふうに大きく笑った。ますます利発で情深い弥八という男が気に入ったと見える。
「さようなことか、容易いことだ。この城におれば、勇ましく、かつ、粋な坂東武者を選り好みできるだろうからな」
「え? で、では……」
「今すぐにでも召し抱えよう。わしとて藤田殿と縁故ある者を近くに置けば、なにもしてやれなかった重連殿の供養にもなるじゃろうて。なんならわしの側妻に迎えてもよいぞ」
無辺と藤田兄弟との間にどのような人間関係があったかは知らないが、その高笑いの中に、百合を側妻にしてもよいという言葉がまんざらでない中年のいやらしさを確認した幸村と菖蒲は、心の中で「しめた!」と手を打った。
触発の炎
上田で甲賀の赤猿──いや飛猿と遇って、菖蒲を追いかけて来たものの、どうした行き違いか会うことはなく、あちらの支城、こちらの支城とさんざん探し回った挙句、ついに小田原城下まで来てしまった小太郎である。
秀吉の小田原攻めに対抗する準備のためか、小田原城に続々と入場する家臣たちの兵で溢れ、町は少し前に見た大坂城下さながらの賑わいを見せていた。このまま何もせずに引き返すには惜しい小太郎は、せめての慰みに物見遊山でもして戻ろうと、口中清涼、臭い消しに効くと噂の相州小田原『透頂香』とはいかなるものかと、その薬を扱う宇野藤右衛門の屋敷を探してみたり、今宵は小田原の女と遊んでいこうと金の心配をしながら色町はないかと方々を歩きまわっているうちに、ある質屋の前を通りかかったところで、
「小太郎ちゃんじゃないか!」
彼を呼び止める女の声がした。見れば京の三条通りの煮売り屋〝吉兆屋〟で、賄いの女中をしていたお銀ではないか。
「お銀さん!」と思わず小太郎は大声を挙げた。
「あんた一体どこにいたんだい? ちょっと出て来るって吉兆屋を飛び出したっきり、全く帰って来ないから熊にでも喰われちまったんじゃないかってずいぶん心配してたんだ。あの後あんたの連れが『小太郎はどこにおる!』って大騒ぎして大変だったんだから!」
「おお末蔵か。相変わらず土いじりをしておるか?」
「そうそう末蔵っていったね。それが長次郎さんとこ飛び出して姿を消しちまったままなのさ。ほれ、光悦さんから紹介された聚楽焼のおっしょさん、いただろ」
「そういえばそんな事を言っておったなあ」
「のんきだねえ、うらやましいよ。早く茶碗を返してあげなよ」
小太郎は大坂で高山右近を見付け、その茶会の場に忘れて来てしまった茶色い古びた茶碗のことを思い出して苦笑いした。まさかそれが今は千利休の手元にあることは知る由もない。
「なくしちまったのかい? 知らないよ、末蔵さん、あんな剣幕だったから、もしかしたら死ぬかも知れないな──」
「おいおい脅かさないでくれよ──」
「それより女は見つかったか?」
「おんな?」
「あれ? 女のケツを追っかけて〝吉兆屋〟飛び出したんじゃなかったのかい?」
小太郎は目ざとい女狐だと閉口しながらも、今もまた同じ女を追いかけて小田原くんだりまで来てしまっている自分を顧みながら、その成長のなさに情けなく肩を落とした。
「お銀さんこそこんな所で何してんだい?」
「動乱の起こるところ伊賀者あり、ってね」
「仕事か? どんな仕事だ、何を探っとる!」
「目の色を変えたところを見ると、相変わらず職に飢えているな。まあ小太郎ちゃんには関係ないことよ。それより今晩この店で〝市〟が開かれるんだけど顔出していかないかい? 何か耳寄りな情報が得られるかもよ」
〝市〟とは忍びの隠語で、立場や仕官先への忠義を越えて行われる伊賀者同士の情報交換の場のことである。伊賀の乱以降、機能しているいないは別として、京の〝吉兆屋〟のような、表向きはなんの変哲もない店舗や家屋が全国に点在していると聞いている。小田原には質屋の孫六という伊賀者が町人になりすましており、いままさに通り過ぎようとしていた〝質〟と掲げた看板の店がそれだった。主人の孫六は三十半ばの男で嫁も子もあったが、彼が忍びであることはつゆほども知らない。市の日は、決まって「仕事仲間の寄り合いがあるから」と言って女房子供を城下町を囲う土塁の外側にある実家に帰らせていたから、今は店内には孫六とお銀がいるだけだった。
「孫六さん、仲間だよ」
と言ってお銀は小太郎を紹介すると、孫六はむすりとした表情で一瞥しただけだった。
「根は悪い人じゃないから気にしないで」
お銀はそう言うと奥の土間で、市で振る舞うのであろう大きな鍋の、作りかけた煮物の火加減を調節しながら味見した。小太郎は狭い店内を見まわして、
「それにしても小田原城下のど真ん中によくこんな会所があったものだ。風魔にでも見つかったら一巻の終わりじゃないのか?」
と感心すると、すかさず、
「孫六さんは伊賀者でもあるけど風魔党でもあるんだよ。下手な忍びよりよほど信用できるって風魔の間でも評判なのさ、ね、孫六さんっ」
と替わりに応えるお銀はなんとも先ほどからお喋りな女であるが、そうして相手からうっかり秘密を聞き出す、それが京で鳴らした彼女が〝地獄耳の空蝉〟と呼ばれる所以である。
「ふん、諜報の傍ら別の職業をする話なら巨万と聞くが、流派で二足の草鞋を履いた忍びなど聞いたことがないわ」
孫六は小太郎を睨みつけると、
「やることは一緒じゃ」
と、質入れのあった刀の手入れをしながらぶっきらぼうに呟いた。
一息つく間もなく、お銀は京を出てから現在に至るまでの経緯を根掘り葉掘り聞くものだから、小太郎は高山右近の所で暇をもてあそばせながらなんとなく仕えていることや、キリシタンになれとしつこく誘われていること、そして、今回の北条攻めでは菖蒲を追って小田原まで来たとは言えず、少し話を盛って偵察に来ていることなど、適当にあしらいながら答えた。
「高山右近ていったら博多の追放令に逆らって左遷されたキリシタン大名だろ? それじゃ今回小太郎ちゃんは前田利家の下で働くわけだ。とりあえず仕事があって良かったじゃないか」
「良いものか! あんなお人好しの伴天連主君に仕えていても体がなまるだけじゃ。俺はもっと大きな仕事がしたいのだ」
お銀はその強がりを見抜いて腹を抱えて笑った。
やがて夜の帳が降り、周囲の家の明かりも一つ二つと消えていくと、どこからともなく闇に紛れて音もなく、一人二人と黒い影が質屋に集まってきた。それが十ばかりになって暫くしたとき、「嘉兵衛はどうした?」と誰かが言った。
「どうも昨晩、城内に忍び込んだところを風魔に見つかって殺られたようだ」
「小田原城内に? また無茶なことをする」
「あいつは宇喜多秀家に仕えていたな? よほど切羽詰まった事情があったのだろう」
と、口々に話し出すと、それはもう市の始まりだった。
「まあこれを食いながらおやりよ」と、お銀が振る舞った椀の煮物をすすりながら、まずは風魔党忍者のことが話題となった。小太郎は何も言わずに耳を傾けていただけだが、大方話の内容は次の通りである。
現在風魔党忍者を束ねているのは五代目風魔小太郎という男で、その配下の乱波の数は二〇〇人とも三〇〇人ともされ、その基本的な行動は一組四〇名から五〇名からなる集団によるもので、それぞれの組が城の警備や諜報の任務に当たっているという。主だった人物としては二曲輪猪助だとか太田犬之助とか風間主水正とか妙円斎とかの名が挙がったが、個々で行動する伊賀者に対して団体で襲撃を仕掛けてくる風魔は非常に厄介で、ひとたび目を付けられたらもはや逃れることはできないだろうと、その存在は市に参加する者たちの脅威でもあるようだった。
なるほど考えてみれば、北条家は昔から諜報活動といえば風魔党を使っていることは小太郎も知っていたから、北条側に仕える伊賀者など数えるほどしかいない。なので忍びの者の立場から見れば、今回の北条討伐は、北条風魔党忍者対伊賀はじめ甲賀その他諸々の忍びという構図が出来上がっているわけだ。その北条家に仕える貴重な伊賀者の一人が、市の場所の提供者である孫六であった。口数が少なく、いつも場所を提供するだけで会話にはほとんど口をはさまないその孫六が、この日珍しく口を開いた。
「どうやら北条は籠城して関白を迎え撃つつもりだ」
そして淡々と続けるには──
現在北条家内部は、当主が秀吉と謁見して戦を避けるべきとする穏健派と、戦うべきだとする主戦派に分かれていると言う。ところが実質的な権力者である当主氏直の父氏政は徹底抗戦を主張しており、どうにも秀吉に屈服するのが嫌であるらしい。北条家は代々武家の名門であるのに対し、秀吉はもとを正せばただの農民出の成り上がり者である。兵や財力ではとても及ばないと知りつつも小田原城の堅固さを過信している節が見られる。かつてその城を手にした北条早雲の時代より防衛の拡張工事を着実に続け、その護りの堅さは今や大阪城をも凌ぐものになっていることを自負しつつ、実際に過去の戦でも落ちたことがないという話を神話のように持ち出した。確かに町全体を含む巨大な惣構えの中には耕作地もあり、籠城しても数年は持ちこたえることが想定できるのに対し、秀吉は何十万もの兵を動かして来るわけだから長期戦に持ち込めば秀吉軍の兵糧も尽きるに決まっているという算段である。加えて北条家には東北の伊達家が付くし、今は秀吉になびいている徳川家康とて、婚姻関係は裏切れないと見て必ず北条に味方すると信じている。客観的には数に勝る秀吉有利に見えるが、その勝利への道筋が北条氏政の口から出ると、まことしやかに聴衆を信じ込ませる力があるのだと、孫六は静かな口調で話し終えた。
小太郎は一言も言わないまま話の成り行きを見守っていたが、突然、
「この戦、もし北条が勝ったら天下はどうなる?」
と声を挙げた。その愚問に、参集者の視線はその見慣れない若僧の顔に集まった。
「おお、紹介が遅れたが、こいつは甲山太郎次郎さんの倅で小太郎ってんだ」
お銀が言うと、不審な空気が一瞬にして尊敬と羨望に変わった。小太郎にしてみれば、いまだ父親の威厳に守られていることにいい気持ちはしない。「誰に仕えている?」とか中には太郎次郎との思い出を語り出す者もいたが、小太郎は一蹴して、
「北条が勝ったら天下はどうなるか教えてくれ」
と繰り返した。
「それは十中八、九ありえんな」と誰かが言った。
「そんなことは聞いておらん。勝ったらどうかと聞いておる」
「そりゃお前さん、戦乱の世に逆戻りだな。ようやく関白さんが天下統一を果たしたのに、次の覇者をめぐって再び大混乱になる」と他の誰かが言った。
「それがなぜいかん? わしらはそれで飯を食ってるんじゃないのか」
「いかんとは言ってないさ。ただ、また死人が大勢出る」
「死人がなんだ! わしらの里はあの信長に滅ぼされたのだぞ! それが天の報いなら、天は戦乱を望んでおるのじゃ!」
議論の趣旨を著しくたがえるその激しい発言に、
「小太郎ちゃん、やめときなよ。そんな事を言ったって仕方がないじゃないか」
とお銀はさえぎったが、小太郎の心に暫く眠っていたやりどころのない信長に対する憎悪の炎は、再びメラメラと燃え始めたのだった。それは、高山右近に伴って、九州征討から今に至るまでの平穏すぎる日々に慣れてしまっていた伊賀者の血が、同じ里の者と接触した際に発火した化学反応かも知れなかった。小太郎は我を失って、
「わしは北条に付く!」
と叫んだ。その行為が右近に対する裏切りになることなど全く考えていないどころか、小太郎の脳裏には菖蒲さえもいなかった。。
思わず孫六も小太郎を見つめる。
「孫六さんといったな。天下をひっくり返すためならおれは何でもする。北条家の重臣と引き合わせてくれぬか?」
「小太郎ちゃん本気で言ってるのかい?」とのお銀の驚きを横目にして、孫六は小太郎の目をじっと見つめ、
「ならばあのお方が良かろう」
とボソリと言った──。
翌朝、早々に目通り叶ったのが八王子城主の北条氏照である。孫六が小太郎を紹介するのに氏照を選んだ理由は、現在北条家内で分裂する主戦派と穏健派の内、この氏照こそが抗戦論を牽引する中心人物であるからだった。彼は評定のため今は小田原城内にいる。目通りといっても城内の屋敷内で引き合わされたわけでなく、忍びが主君と話をする時は、大抵庭先とか廊下とか床下や天井裏などに隠れて、けっして目立たない場所で密かな言葉を交わすのが通例である。
この時も寝起きの厠を出た氏照をつかまえて、「お話しがございます」と、孫六は廊下を歩く彼を引き止めた。
「なんじゃ、孫六か。手短かに申せ」
「実は北条家に仕えたいと申す伊賀者がおりまして」
「伊賀者? だめじゃ、伊賀者は信用おけぬ」
「それが、関白秀吉に恨みを持つ者にて、何でもするから雇ってくれと乞われまして」
「〝何でも〟……?」
忍びの言うところの〝何でも〟とは〝刺し違えても〟という意味である。氏照は表情ひとつ変えず、
「会おう」
と言った。孫六は呼び寄せる手招きをすると、そこに風のように一人の男がひれ伏した。
「伊賀の甲山小太郎と申す。お見知りおきを」
「裏切ったらどうなるか知っておろうな?」
「無論」
氏照はしばらく小太郎の小気味よいしたたかな顔を凝視すると、「猪助はおるか!」と声を挙げた。すると、これまたつむじ風のようにいま一人の男が現れて、同じ場所にひれ伏した。風魔猪助であった。
「この者を預けるゆえ自由に使え。伊賀者じゃそうな。もし違背の兆しが少しでも見えたら即座に斬り捨てよ。──甲山小太郎、それでよいな?」
「御意!」
氏照はそう言い残すと、何事もなかったかのように寝所へ戻った。
http://www.takaramushi.com/e_books/manju/index.php?gphplog=raijinnosora
雷神の門