罪の季節

 雲のかかった月がきれいな夜だった。ラコステの靴音を自慢するように響かせながら、駅前をうろついた。特に用事もないけど、家に遅く帰るのが習慣みたいになっているから、なかなか帰る気にならない。稀に早く帰ると、親に怪訝な顔をされるし。口癖のように
早く帰って来い、って言うくせに。
 交番を通りかかるときに、俯きがちだった頭を上げた。夜中に出歩いていると、声をかけられるときもある。でも、堂々としてればどうってことはない。「私は大学生です」、って顔に貼り付けて、通過すればいい。
 ケータイの着信音が鳴った。愛美からだと思ったが、翼からだった。だったら後でいいか、と思って、メールの内容を見ずにポケットに戻した。
 明日から高校生になる。
 正直、そう言葉にしてみても、実感が湧かない。中学生活なんてあっという間に終わったし、仲間たちとふざけていたこと、あるいは愛美とエッチしたことくらいしか心に残っていない。
 部活はテニスをやっていた。でも、それに特別な理由はなかった。熱意も皆無だった。暇つぶしに参加していただけで、気分が乗らない日は平気でサボった。
 勉強もテスト前に適当にやって、普段は宿題を無難にこなしておいた。あんなの、コツを掴めばちょっとやっただけで平均点には達する。とりあえず宿題だけでも大人しくやっておけば、先生に呼び出されることもない。
 おれって案外、マジメ?
 笑える。
 高校も適当にやって、のらりくらりで行けばいい。別に、いい順位を取らなくてもいい。進級できれば御の字だ。
 空を見上げてみた。おれがどんなに歩いても、同じ所にたたずむ月。走ったとしても、車に乗っても、変わらずにそこにいる。あんなに小さく見えるのに。
 スーツ姿のおっさんとすれ違った。頭の中で、「全く、最近の若者は。夜中にうろつきおって」とか思っているのだろうか。
 左に曲がって、薬局を正面にして、横断歩道を渡った。渡った先で、自転車にまたがった連中がたむろしている。たぶん、おれと同い年か、少し上だろう。男同士仲良く集まって、残念な光景だ。彼女でも作れ、ってアドバイスを与えたい。まあ、パッと見た感じ、
地味すぎて無理があるかな。
 シャッターの下りた店の並びを通り過ぎて、家の前に立つ。鍵を開けて、「ただいま」も言わずにドアを開ける。

 家から歩いてすぐの歩道橋で、愛美が紺のブレザーに身を包んで、待っている。中学時代の明るい色の制服と違うから、違和感を覚えたが、新鮮だった。やっぱり、何を着たってかわいい。
 後ろから近付いて、肩を二回、叩く。こっちを振り向いて、笑顔になった。眩しいほどに、おれの胸の内を満たす笑顔。毎朝、一日の活力をもたらしてくれるカンフル剤。
「おはよう、俊哉」
 おはよう、と返して、歩き出した。付き合い始めて一年半になるが、特別な理由がない限り、二人で一緒に学校に行く。習慣と化している。
 人目を惹く愛美と並んで歩くと、他の男子の嫉妬混じりの視線を受ける。いいなあ、ずるいなあ、何でアイツが、という声が聞こえてきそうだ。優越感を少なからず感じる。
「親と行かなくてよかったの?」
 おれと違って、家族内が円満な愛美の家だから、入学式の日は一緒に行けないかと思っていた。
「いいよ、もう子どもじゃないんだし。それに、俊哉と高校最初の日も行きたかったから」
 と言って、おれの腕に自分の腕をからめてくる。笑みを交わして、そのままくっ付いて歩いていく。
 おれと愛美は、向こうの親も公認の関係だ。おれの親は、まず、おれが学校の話をめったにしないから、おそらく知らない。彼女の親に認められている、ということは、自分の容姿や評判について少しは自惚れてもいいのかもしれない。
「同じクラスだといいね」
 愛美はおれなんかより勉強ができて、賢いのに、おれの前では子どもみたいなことを言う。甘い口調で。他の人には見せない、彼女の一面を、他の誰でもないおれが独占している。
「だな。ついでに、翼と継介もいれば、なおさらいい」
 愛美がくぐもった笑い声を漏らした。
「ついで、だなんて言ったら、失礼よ」
「はは、そうだな」
 同じ制服姿の人が増えてきたので、さすがに腕を組むのは憚った。中学が同じで、知っている顔も多くあった。おれたちを見て、ああ、あの二人か、という顔で目を逸らす人、逆に冷やかしの笑いを向けてくる人がいた。
 正直、高校生になるからといって、思いが新たになることはない。学校が変わるだけ、先生が変わるだけ、もう一度、後輩になるだけ。中学の延長線上としてしか、捉えられない。知った顔が多いからだろうか。たとえ、少なかったとしても、愛美がいれば充分だ。
 真っ白な格子の校門が開け放たれて、初々しい新一年生を迎えていた。桜は寒さが長引いているせいで、まだ半ば咲いているだけ。
 校舎に目をやると、屋上から垂れ幕が下がっていた。「新入生のみなさん ご入学おめでとうございます」と大きく出ている。それなりに名の知れた私立高校だから、入学式もにぎやかな趣向が施されている。子どもと並んでいる親の顔ぶれを見ると、いかにもいいトコのお父様、お母様を任じているようで、何となく哀れな気がした。
 それに比べたら、おれの親は影が薄くて、背景と化してしまうのだろうな。
 愛美の両親は美男美女の組み合わせで、しかもそれを鼻にかけた向きもない。まさに理想的。
 校舎の入り口付近で、人だかりができていた。あの掲示板に、クラスの名簿が張り出されているのだろう。二年になったら文系と理系に分かれるため、一年限りのクラスとはいえ、高校生にとっての一年は重要だ。自分がどこで、誰々がどこにいるか、一喜一憂して、
騒いでいる。
「おれが見てくるから、ちょっと待ってろ」
 人垣を抜けていって、掲示板前まで進んだ。喜びで、飛び跳ねていた女子と軽くぶつかって、「あ、ごめんなさい」と謝ってきた。知らない顔だったが、わりとかわいかった。
 やっと目的地に辿り着いた。おれと愛美の名前を見つけた。他にも気になる名前はあったが、後ろから見に来る人は絶えないし、愛美に「ちょっと」待つように言ったから、戻ることにした。
 すると、愛美の横に翼と継介が立っていた。おれに気づいて、笑顔で手を振ってくる。
「よお、俊哉! 同じクラスだな」
 体格のいい翼が、それに見合った張りのある声を出す。
「何だよ、もう見てたのか。おれ、わざわざあの中、行かなくてよかったじゃん」
 腰に手を当てて、骨折り損のくたびれもうけだったと示す。たいした労じゃなかったけど。
「俊哉、私は? 二人ともさ、不親切にも、私がどこのクラスか探してくれてなかったんだよ」
「いや、だって」継介が弁明を試みる。「逆に知ってたら、俊哉に怒られそうじゃん。逆に」
 わざとなのか、やけに「逆に」を強調する。合わせて、「逆にねえ」と、愛美が目を細めて、笑う。
「愛美、おれと違うクラスだよ」
 と、告げると、愛美は目に見えて残念そうな顔をした。
「残念、二人とも。授業中くらい、いちゃつくのを控えろ、という神の啓示でしょう」
 継介が両手を広げ、声を上擦らせて、言った。翼がそれで、ゲラゲラと笑った。おれも笑いつつも、継介に膝蹴りを入れる構えを見せてやった。
「そう言う継介は、どこのクラスだよ」
「え、見てねえの? ひょっとして、自分と斉藤さんしか見てねえ、ってクチだな」
 斉藤は、愛美の苗字だ。
「そのクチだよ」
「うわ、友達甲斐のねえやつ」
「しょうがねえだろ、人が多すぎたんだ」
「おれも俊哉と翼と一緒だよ。よろしく頼むぜ」
 愛美と違うクラスなのは残念だが、この二人がいれば、まだマシか。気の置けない仲間がいれば、楽に生きられる。
「じゃあ、俊哉、帰りは一緒に帰ろうね」
 こんなにかわいい彼女に誘われて、断る男はいない。
「おう」
 親指を立てて、応えた。ついでに、冷やかしの視線を向けてくる翼の頭をはたいておいた。

 クラス編成に、出身中学が考慮されているようだった。おれのクラス、一年B組は同じ中学のやつが多め。翼、継介と同じになれたのも、偶然というわけでもなさそうだ。
 だとしたら、愛美だけ別にしたのは、この高校の先生方が、おれたちを引き離そうとした、と受け取れる。おれたちが付き合っていることを知っていて、しかも誰もが認めるほど仲の良いことも把握している先生方(主に、男)。彼らは、たぐいまれな容姿を持ち合
わせた愛美の彼氏であるおれを妬み、大人気ないことに、クラスを別々にしたのだ。全く、職権濫用もいい所だ。なんて。
「俊哉、映画見に行こうぜ。映画」
 教室に着くと、他の人たちは大人しく座っているのに、翼と継介は真っ先におれの席に集まった。そして、くだらない話をする。
 二人はおれが愛美と付き合い始めてからも、変わらずにおれの友達であり続けている。さっき言ったような妬みの感情を持たれる心配もあったが、二人はおれが思う以上に良い友達だった。愛美と親しくしても、適当な所で手を引く。おれと愛美の付き合いを阻害す
ることはない。
「誰が男だけで行くか。行くんだったら、愛美と行くから」
 こんな風に軽口を叩いているけど、本当は感謝している。正面切っては、恥ずかしくて「ありがとう」とか言えないけど、いつも思っている。
「じゃあ、斉藤さんも一緒で行こうぜ。大人数の方が楽しくね?」
 しばらく話を続けていると、教室の前の方のドアが開いた。担任らしき先生が入って来た。翼と継介は、慌てる様子もなく自分の席に戻る。
 担任の先生は、眼鏡をかけていて、ちゃんと食っているのか気がかりになるほど細かった。若い。三十前後かな。チョークを一つとり、こっちに背を向け、黒板に名前を書き始めた。司馬、とだけ。
「このクラスの担任を務めることになりました司馬です。担当教科は、科学です」
 細い体に似つかわしい、と言うと変だが、力のない声だった。この先生に叱られても、迫力ないだろうな、と思った。
「この後、入学式になるから、廊下に並んで、待機してもらえるか。出席番号順で」
 言い終わると、あちこちからイスを引きずる音がして、続々と廊下に出て行った。
 廊下に男女それぞれ一列になって整列した。並んでみて気付いたのだが、おれと翼、継介は寸断されたように、バラバラな位置にいる。おれの名字が桜井で、翼は吉橋、継介は落合だからだろう。継介なんて、先頭だ。

 校門から、たくさんの人が吐き出されていく。そんなに興味はないけど、それぞれが抱く思いはどんなだろう。中学からの友達がいれば、それなりに楽しくて、明るい未来に思いを馳せていることだろう。いなければ、不安を抱えているのかもしれない。
 人が孤独を嫌うときは、周りの人がみんな繋がっている、という事実を否定できないときだ。自分で選んだ道だとはいえ、一から友達関係を築いていくには、覆いかぶさる不安を一つひとつはいでいかなければならない。
 おれはいてよかった。まあ、いなくてもやっていけたような気がするけど。
 校舎の入り口脇にある鉄製の、腰の高さまである台に腰掛けていた。翼と継介も一緒だ。
 目的は、愛美を待つため。もちろん、本人が来たら、二人にはオサラバしてもらわなければならないが。
 同じ中学の見覚えのあるやつらが、盛大な笑い声を上げながら校庭を横切った。
 すると、重そうなカバンを肩から提げているやつが続いた。中学が同じ人がいないようで、一人でずんずんと歩みを進めていく。変な顔だが、印象は薄かった。そいつが、さっき通ったやつらに自然と追いつくと、笑い声が上がるのに合わせて、笑った。知り合いな
のか、と考えを改めたが、数人の方は全く取り合わない。あれ、違うのか。
「おい俊哉、斉藤さん来たぞ」
 翼に肩を叩かれた。
「じゃあな、また明日」
 継介が言って、二人は手を振って離れていく。
「おうっ。二人とも、サンキューな」
 手を振り返して、立ち上がる。愛美が二人の女子と別れている所だった。その内の一人は、掲示板の前でぶつかった、わりとかわいい女子だった。
「お待たせ」
「全然。あいつらもいたし」と言って、遠くなった翼と継介の背中を指し示す。続けて、顎で愛美と一緒だった女子二人を示す。「ってか、今の二人、同じ中学だったっけ?」
 愛美は首を横に振る。髪が動きに合わせて揺れた。「違うよ。でも、クラスが同じで、仲良くなった」
「へえ、やるじゃん。違うクラスだけど、心配いらなさそうだな」
 愛美は愛らしい笑みを浮かべる。「そんな、子どもじゃないんだから」
 二人で並んで歩き出す。もうすっかり、こうやって歩くことに慣れた。愛美に合わせるように、話しやすいように、意識しなくてもできている。
 視線の先で、待っているときに見かけた「変なやつ」を見つけた。集団から離れ、一人で歩いていた。やっぱり、知り合いじゃなかったのか。どうして笑いかけたのだろう。仲良くなろうとしたのかな。よく分からない。時折、重そうなカバンを持ち直していた。今日、そんなに持ってくるものはなかったはずなのに、これまた不思議だ。
 そうやって考えたのは一瞬で、すぐに頭の中は愛美と話すことでいっぱいになった。
 だから、おれがその「変なやつ」と次に出会ったとき、おれはそいつのことを覚えていなかった。

 たまに、「おれの人生、終わっている」って考えるときがある。十五そこらで悟ったような、諦念めいた、歳よりじみた考えが浮かんでしまうのは、人生が上手くいき過ぎているせいかもしれない。おれは友達にも、女にも恵まれていて、成績で先生に目をつけられ
ることもなく、家族の介入は限られたものだ。万事、安泰。
 だからこそ、考えてしまう。これで満足していいのか。このまま気ままに、楽しくやっていればいいのか。
 ゲーセンではしゃいでも、渋谷に買い物に行っても、映画を見に行っても、カラオケで歌っても、手を繋いでも、キスしても、まさぐっても、その瞬間は満足できる。でも、後になってから、ふと、「終わっている」というフレーズが頭の隅にこびり付いて離れない。
 こんなこと、翼と継介に言ったら、笑われるだけだろう。「難しく考え過ぎだって。楽しけりゃ、それでいいじゃん」と、言うだろうな。おれもそう思う。思うけど――。
 愛美にも言ったことがない。愛美は笑わないかもしれないが、分かってくれるとは思わない。それに、分かって欲しいわけじゃないから。
 また、「終わっている」を考えながら、新宿の東口で佇んでいた。
 結局、翼が見に行きたいとうるさかった映画を三人で見に行くことにした。内容が洋画の刑事もので、興味が湧いたけど、愛美と見に行くのは微妙かと思ったからだ。
 おれは待ち合わせの時間に遅れない。必ずと言っていいほど。ポリシーとして心に決めているわけではないけど、愛美と付き合ってから、習慣づけられた。彼女を待たせる彼氏なんて、最低だろう。まして、抜群の美貌の持ち主が彼女だったら、なおさらだ。
「うーす、俊哉。相変わらず早いな」
 継介だった。ツバつきの帽子をかぶっている。
「お前はギリギリでセーフだな。翼は遅刻みたいだけど」
「だな。あいつに全額、払ってもらうか」
 本気とも冗談ともつかぬ調子で言う。
「まあ、どのくらい遅れるかによるかな」
 笑って、合わせる。
「寛大だねえ」
「ところで」おれは話題を変えた。「お前、部活はどうすんの?」
 継介は中学時代、バスケ部に入っていた。たぶん、おれよりは熱心にやっていて、休みの日の練習も「だりぃ」を連呼しながらも、律儀に参加していた。三年が引退してからは、自分が引退するまで当たり前のようにレギュラーだった。
「やっぱ、バスケ?」
「バスケにすると思うよ。他にやりたいもんもねえし。一応、部活見学で見てからにするけど」
 俊哉は、という顔を向けてきた。
「おれ? またテニスにしようかな」
 正直な話、部活なんて入らなくてもいいけど。でも、入るのなら、テニス以外にないだろう。
 そこに翼が悠々と歩いてきた。
「お待たせー。いやー、電車が来なくて」
 悪気のなさそうな翼に、おれが蹴りを入れてやった。
「継介と同じ電車だろ。それで言い訳になると思ってんのか」
「ごめんね、ごめんねー。でも、映画はまだ間に合うじゃん」
 へらへらと笑っていやがる。
「さすが俊哉だな。遅れるの見越してたから、待ち合わせ時間、早くしたんだな」
 そうだ。おれは時間に余裕を持って行かないと落ち着かない。全く、早くしておいてよかった。
「よし、行こうぜ」

「翼は部活どうすんの?」
 映画を見終えて、今、近くのゲーセンに足を運んでいた。
 映画は二時間弱で終わった。タイトルの長いわりに、内容は簡潔にまとまっていた。英語名が元々長くて、おまけに日本語のサブタイトルがついているため、見終わった人のほとんどがその名をそらんじることは不可能だろう。でも、面白かった。見に来てよかった、
と思えた。
 クレーンゲームに熱中している継介を横目に、翼に部活について聞いてみた。翼はおれと一緒にテニス部に入っていた。
「テニスしかなくね? 俊哉もそうするだろ? それとも、斉藤さんと同じバスケ部に入ってみるか?」
 おれは苦笑した。活発な愛美は、練習の厳しいバスケ部で汗を流していた。高校でもやるそうだ。あんな激しいスポーツやって、怪我でもしたらどうするのだ、という過保護な保護者みたいな心配も湧かないでもない。といって、本人の意志を尊重させない気は、毛
頭ない。
「バスケ部、楽しいぞ」
 いつの間にかクレーンゲームを諦めた継介が会話に入ってきた。捕れなかった、と笑う。
「そりゃ、バスケは嫌いじゃねえよ、体育でやるくらいならな。でも、部活となると、メンドイかな」
「確かに」
 翼が同調する。語尾の「に」が「し」に聞こえた。
「それ分かる。おれバスケ部だけど、その気持ちよく分かる」
「何だ、そりゃ」
 話しながら、場所を移動する。奥の方に進んで、バスケのゴールを見つけた。デジタル式の時計がゴールの隣にあった。時間内に何回シュートできるかを競うゲームなのだろう。
「お、これやろうぜ」継介が喜ばしげに、それを指し示す。
「いいね。継介の実力、見せてくれよ」
 翼の発破を受けて、腕まくりして請け負う。おれはからかうように笑い声を上げた。できて当然だよな、という意地の悪い思いを含ませて。
 だが、継介は上手かった。やはり練習量が違う。「本物のゴールと違うから、やりづれえ」とぼやいたが、ほとんど外さなかった。今日の最高記録を塗り替えた。

「なあ、炊飯器が五千円って安いの?」
 日が暮れて、駅まで向かっている途中で、翼が不意に言った。彼の視線の先を見ると、電気屋の店先に「大安売り!」と冠された炊飯器が並べてあった。パソコンとか、デジカメが店先に並んでいる光景は、よくお目にかかるが、炊飯器はあまりない。だから翼も、
興味を持ったのかもしれない。
「さあ? ものによるんじゃね?」
「おれは高いと思うけどな」継介は反対のことを言う。「だって、たかだか炊飯器に五千円も払うんだぜ。だったら、いい靴買った方が得だろ」
「おれたちからしたらな。でも、主婦からしたら、長年使う炊飯器に五千円は妥当なんじゃねえの」
「ってか」継介は腹を抱えて笑いを漏らした。「何でこんな話してんだよ。マジ、うけんな」
 おれと翼も周りの喧騒に負けないような笑い声を上げた。くだらねえ、学生らしくねえ、と。
 駅に着いた。後は電車に乗って、帰るだけだ。ありきたりな一日がもうすぐ終わる。
 駅の構内で、女の人に声をかけている男の横を通り過ぎた。離れてから、「ナンパしてたな」と、翼が言った。継介も見ていたらしく、頷く。
「いたな。かっこよかったけど、もういい歳だったよな」
「しかし、女も女だよな。めっちゃ短いスカートはいて、ありゃ誘ってるとしか思えない」
 言ってから振り向くと、女は承諾したらしく、二人で歩いていた。
「俊哉、目移りすんなよ」
「そうだぜ、斉藤さんに言いつけるぞ」
 おれは一蹴した。「ありえん。愛美以上にかわいい女なんて、この世にいねえよ」
「言うなあ、俊哉」
「かっけえ。それ、本人に言ってやれよ」
 おれは少し照れくさくなりながらも、「いつも言ってるよ」と、調子を合わせた。
 電車が二人と違うから、改札で別れた。
 階段を上って、ホームで電車を待った。自分の暮らす街までおれを運ぶ電車を、虚ろな眼差しで待っていた。

 休日を挟んで、本格的に高校生活がスタートした。小学校みたく、校舎内を先輩に案内してもらうことはなく、自然と授業も始まっていく。「もう子どもじゃないんだから」と、言われているようだ。
 部活も然り。早くから決めていた人は、初日から入部届けを出して、練習に参加し、それ以外も部活見学に出向いている。おれは後者の一人だ。
 翼とテニスコートへ行って、練習風景を眺めていた。男女比で言うと、女子の方が多い。また、顧問の先生の姿はない。後で知った話だが、テニス部の顧問は忙しい身の上で、週に一度、見に来るかどうか。おかげで部の雰囲気も自由で、和やかで、居心地がよさそ
うだ。
 見学をした次の日、忙しいらしいテニス部顧問に揃って入部届けを提出し、高校でもテニスをやることに決まった。
 継介と愛美は、おれたちより早くにバスケ部に入部した。たまに、風通しを良くするために開け放されている体育館を覗くと、二人とも絶えず走っている。尊敬の念を込めて、激励の眼差しを送った。
 教室で机に座って、ぼんやりしていた。今は休み時間で、翼と継介が購買部に行っているため、一人で待っている。おれも誘われたが、何故か行く気にならなかった。
 校庭を見るともなしに見ていた。先輩が制服を汚してサッカーをしていた。その向こうに新築のマンションが建っている。学校の近くなんて、うるさくて敵わないだろうなあ。生徒だったら、遅刻しなくていいけど、確か、そこに住んでいる人は聞いたことがない。
「よお」
 変なアクセントをつけて話しかけてくる男子に気付いた。誰か分からなかった。馴れ馴れしいやつだ、と眉をひそめた。
「桜井、どうしたの? 一人で」
 誰か分からないままだったが、同じクラスの生徒だからぞんざいに扱うのも気が引けた。
「いや、何かボーっとしたくなって」
「ああ、ははは」
 妙に納得した後、一人で笑った。本当に誰だっけ。見たことがある気がする、この笑い。
「それで、お前って部活、何だっけ?」
 自分でも何が「それで」なのか分からなかったが、それ以外に話すことが見当たらなかった。
「おれ、サッカー部。中学からやってたから。正直、そんなに上手くないから、高校では大人しく文化部に入ろうかと思ったけど、練習見てたら、やりたくなってさ。まあ、レギュラーは難しいけど、とりあえず頑張ってみようかな、って感じなわけで」
 後半は全く聞いていなかった。教室の入り口付近で、愛美が手招きしていたからだ。
「悪いな」
 と、おれは片手を上げて、その男子から離れた。
「何、どうした?」
 愛美は一寸ばかり、さっきの男子に目を向けていたが、すぐに笑顔でおれを正面から見た。
「明日、ウチに泊まりに来ない? 親がいないから」
 小声で囁いた。共犯者めいた笑みを頬に浮かべている。
 愛美の家に泊まりに行くのは初めてじゃない。おれの家に愛美が来たことはないが――というか、来させられない。
「いいよ。じゃあ、翼と継介に協力を要請しないと」
「いつも悪いね、二人に。今度、何かおごってあげなよ」
「そうする」
 そこに、購買部から戻ってきた二人に居合わせた。
「じゃあ、よろしく」
 愛美はそれを待っていたかのように、踵を返した。
「どうした俊哉、密会か」
「絵になりますねえ、お二人さん」
「バカ言うな」おれは、にやついていただろう。「そうだ、二人に頼みがある」
 と言っただけで、二人は心得顔に変わった。
「そういうことか」
「今度はおれの家でいいか。桜井君と吉橋君はおれの家にお泊まりにきてまーす、ってことで」
 当然、まだ高校生の男女が寝泊りするなんて、常識的に許される話ではない。おれの親なら泊まり先に連絡するようなことはないだろうけど、万が一ということがあるから、予防線として、翼か継介の家に泊まっている、と嘘をつく。今回は、継介になりそうだ。
「悪いな、ホント。今度、何かおごるよ」
「マジ? 俊哉がおごってくれるなんて珍しいな」
「期待しないで待ってるぜ」
 肩を叩き合いながら、教室に入っていった。
 たまたま、男子の輪の外側で笑っている、さっきのサッカー部に入ったという男子が目についた。そして、その光景を見て思い出した。そういえば、入学式の日に同じ光景を見かけた。

 坂を少し上って、乱れた息を整えてからインターホンを指で押す。やや間を置いてから、愛美の間延びした声が聞こえてくる。
「はあい。今、開けるね」
 数秒して表に出てきた愛美はエプロンをしていた。何か作っていたようだ。
「よっす、愛美」
「よっ」片手を上げて、無邪気な笑顔を作る。
 玄関に足を踏み入れるとき、一応、小声で「おじゃまします」と告げた。
 愛美に続いて、リビングに通じる廊下を渡る。勝手を知っているから、今さら驚くこともない。でも、毎度、まさに理想のマイホームだ、と感嘆する。
 甘い匂いがしていた。どうやら、お菓子を作っているらしい。見た目だけであらゆる女子に勝っているというのに、愛美はお菓子作りが得意なのである。これなら、結婚してからは、毎日おいしい料理を咀嚼できそうだ――気が早いか。
「いい匂い。何、作ってんの?」
「ブラウニー」愛美は得意気な表情を向ける。「たまには、おもてなししないとね」
 愛らしい彼女の健気さに感動しながら、リビングのソファに腰掛けた。テレビと向かい合っているが、何も見る気はない。代わりにと、窓越しに外の世界を見ると、この家と似たような一軒家が坂の下に続いている。この辺は、別世界だ。おれの家からそんなに離れ
ていないのに、どうしてこんなに違うのだろう。
 立ち上がって、キッチンを覗いてみた。料理の本やら、ボール、泡だて器、砂糖入れ、牛乳などが出ている。
 愛美はオーブンを中腰で見つめていた。おれはそんな彼女に後ろから抱きついた。
「ちょっと、危ないよ、キッチンで」
 そう言いながらも、おれから逃れようとしない。くすぐったそうに笑い声を上げる。
「あと、どんくらいでできそう?」
「二十分くらいかな」愛美はリビングの方を指差した。「ほら、あっちで待ってよ?」
 二人で犬みたいにじゃれ合って、ソファまで辿り着いた。他に誰もいない、二人きりの世界。おれの行動はいつもより大胆に、愛美の声は甘えるようになる。
 隣り合って座り、申し合わせたようにキスをした。味わうように、深く、長く。放すと、愛美はおれの胸に顔をうずめる。髪の毛のいい匂いが鼻先に伝わる。頭を撫でてやると、くぐもった笑い声で応える。
 しばらく、二人で無言のまま寄り添っていると、オーブンのタイマーが鳴った。愛美は立って、足音をパタパタさせてキッチンに戻る。
 数分して、切り分けたブラウニーを満面の笑みで運んできた。香ばしい香りに反応して、つばが湧いてくる。これは、おいしそうだ。
「どうぞ、召し上がれ」
 一つとって、口に持っていった。柔らかい。甘い。おいしい。感想を聞かれ、「超おいしい」と答える。
「店に出せるくらいおいしい」
「大げさよ。これくらい、誰でも作れるわ」
 謙遜したが、まんざらでもなさそうだ。両頬にえくぼができる。
 もう一つ、食べた。何個でもいける気がした。口の中いっぱいに甘い香りが広がっていく。
 至福を感じるひとときだった。

 シーツの感触が地肌に直接、伝わる。隣で重なり合うようにして横になっている愛美は、下着だけ身にまとっている。かく言うおれもトランク一枚。
「ねえ、手を組んだとき、どっちの指が上になる?」
 指を組み、上に掲げて、愛美が尋ねてきた。おれは実際に組んでみて、「左手」と返した。
「へえ、私と一緒だ」
「これって、利き腕の問題じゃないの」
 おれと愛美はともに右利きだ。
「違うよ。この組み合わせって、生まれてから最初に組んだ組み合わせと同じなんだよ」
「え、じゃあ、左手を上にして最初に組んだってわけか。おれも、愛美も」
「そうよ」
 あどけない笑みをおれに見せる。「運命だね」
「右手を上にすると、何か違和感ある」
「そうだよ。だって、そっちは最初じゃないから」
 おれは手を解いて、そのまま愛美の頬に滑り込ませた。透き通っていて、みずみずしいその肌を手の甲で感じる。ゆっくりと愛撫して、手を裏返す。指先で軽くつまむ。すると、愛美は笑う。
「痛いよ」
 と言って、おれの頬をつまんでくる。その温もりに、不覚にも心臓の動悸が速まる。
「俊哉」
 媚びるような、人前では絶対に出さない声でおれの名を唱えた。おれはその瞳を見つめてやる。互いの瞳に、それぞれの顔が映っている。
「好きだよ、俊哉」
 たとえば、終わっている、と考えることがあっても、いつもその結論の先で待ち構えているのは、愛美の存在の大きさだった。おれの中で、他の何よりも、他の誰よりも目映い輝きを放つ。彼女がいれば、何も望むことないじゃないか。与えられるものは、彼女で全
てじゃないか。
「おれもだよ」
「ちゃんと言って。好きだよ、って。愛してるよ、って」
 おれは腕を回して、愛美を抱き寄せた。
「愛してるよ、愛美」
 そして、唇を重ねた。幸福を分かち合うように、何度も。唇に残るブラウニーよりも甘い感覚を、確かめるように指でさすった。自分の指先で、相手の唇を。
 とろけそうな時間の中で、その余韻に浸りながら、徐々に目を閉じた。そして、夢よりも夢みたいな現実から、眠りの世界へと意識を飛ばした。

 朝、目が覚めると、愛美は体育着姿で歯を磨いていた。バスケ部の早朝練習があるのだ。休みの日も練習なんて、おれの愛美を縛りつけようとしているのか。
「あ、おはよう。起こしちゃった?」
 おれは首を振った。
「サボっちゃえよ」
 愛美は洗面所に消えていた。でも、声は届いているだろう。
 やがて、姿を現した。
「無理よ。後輩のうちは、簡単に休めない」
 タオルで口元を拭いながら、そう言った。表情は見えない。おれの甘えを咎めているのだろうか。それとも、「しょうがないな、もう」という、嬉しさと呆れの混ざった表情だろうか。
「親が夕方には帰ってくるから、それまでに帰ってね。ベッドとか、そのままでいいから」
 それと、と愛美は思い出したように付け加えた。
「それと、分かってると思うけど、痕跡残さないでよ。親にばれたら、終わっちゃうからね」
 愛美との関係が終わることほど、今のおれにとって絶望的なことはない。それが続くためなら、何だってする。痕跡を残さないくらい、楽勝だ。
「飛ぶ鳥あとを濁さず、ってやつか」
「そう。お願いね、鳥さん」
 悪戯っぽく笑った。朝から眩しい。
「二度寝しないでね」
「しない、しない。昼前には帰るよ」
「うん」
「他の人に見咎められないで帰るよ」
 一応、変装道具は用意してある。サングラスと、普段かぶらない帽子のみだが。
「気をつけて」
 愛美はバッグを肩にかけた。
「いってらっしゃい。頑張れよ」
 愛美はこっくりと頷く。手を振って別れて、ドアの閉まる音を聞いた。ベッドから下りて、着替えた。昼前に帰ると言ったけど、朝のうちに帰ることにした。

 学校近くのファーストフード店に翼と継介を呼んだ。偽装「お泊まり」を手伝ってもらったから、お礼としておごるためだ。
「マジでおごってくれんの?」
 愛美と同じバスケ部の練習を終えたばかりの継介が尋ねる。汗で髪形が落ち着いている。
「ああ、ジュースなら」
「ジュースだけかよ!」
 ウチはそんなに裕福じゃねえんだよ、という言葉は飲み込んだ。不景気な話してもしょうがない。
「じゃあ、一番高いのにしようぜ」
 翼が提案する。おれに呼ばれるまで、継介の家で眠っていたのだろう、目がしょぼしょぼしている。
 一番高いの、と言ったところで、そんなに不安になることもない。たかだかファーストフード店の飲み物だ。
 おれの分も含めて、飲み物を三つ買ってきてもらった。多めに渡したお金のおつりを返さないので、殴る素振りで取り返した。二人が高いのを頼んだため、おれは一番安いコーラにしておいた。炭酸がのどを通る度、快感を得る。水分を欲していたようだ。
「斉藤さんとやったの?」
 翼がニヤニヤしながら尋ねてきた。本当のことを言ってやってもいいが、「さあ、どうでしょう」とはぐらかしておいた。
「斉藤さん、足きれいだからなあ。胸はないけど」
「そんなことなくね。まだまだ、これからだよ」
「えーっ、もう高一だぜ」
「いやいや、女は底がねえから。どんどん色っぽくなるって」
 二人で勝手に話を進める。愛美に関しては、言うとおり、足はきれいだが、胸はそんなに大きくないと思う。でも、これからだとも思う。
「――そういや、俊哉と斉藤さんって、どうやって知り合ったの? どうやって付き合ったかは、知ってるけど」
 告白したときのことは、二人にある程度、説明した。キーワードは、「雨の日」と「ベンチ」である。この二つの言葉から、どんな展開だったかご自由に想像してもらいたい。
「そうだな……」
 中学から、愛美も含めておれたちは一緒だが、おれが加わったのは中学二年からだ。だから、出会ったのもその頃になる。ちなみに、付き合ったのもその頃。
「学校の近くにコンビニあったろ」
「うんうん」
 二人は興味津々で頷く。
「学校始まって数日経ったぐらいのとき、そこに寄ったんだよ、一人で」
「うんうん」
「で、コーヒー牛乳だか、カフェオレだかが飲みたくなって、手を伸ばした」
「うんうん、それで」
「すると、誰かと手が重なった――と、思って横を向くと――」
「斉藤さんだったわけ?」
 おれは頷く。「そういうこと」
 二人はゲラゲラと笑い出した。「そんなマンガみたいなことあるかー?」「できすぎだろー」「いや、本当にあったんだって。で、そしたら――あ、ごめんなさい、って笑顔で言うわけだよ」
「それでぐらっときちゃったわけだ?」翼が肘で突く格好をする。
「そう、きちゃったわけよ」
「その後は」継介が言う。「斉藤さんと話したの?」
「ああ、一緒に帰った」
「はや! そりゃ、付き合うのも早くなるわな」
 継介はしみじみと首を縦に上下させる。
 話は別な方に移った。翼と継介が、有名なロックバンドについて議論を交わしていた。おれはガラス窓越しに、通り過ぎる人たちを眺めやっていた。その中には、練習を終えて帰途につくバスケ部の部員もいた。女子はわざわざ制服に着替えている。短いスカートが
風に合わせて、踊るように揺れている。
「なんでさ」おれの視線の先に気付いたように、翼が呟いた。「女子って、パンツが見えそうになるまで、スカートを短くすんのかね。見せたいのかな」
 おれは改めて制服姿の女子バスケ部の人たちを見た。丈は、太ももより上までしかない。あんなの、階段やエスカレーターなんかで簡単に見られてしまう。
「見せたいやつなんていなくね? 流行りだろ、単に」
 翼が容易く請け合う。流行りと言ってしまえば、全てそうだ。
「ある女子に聞いた話だけど、スカート短くすんのって、パンツ見せるためじゃないんだとさ。当たり前だけど」
「じゃあ、何のために?」
 おれは両腕をテーブルから離して、胸の前で組んだ。組んだとき、ベッドの中で愛美とした話を思い出した。手を組んだとき、どっちが上になるか、だ。腕組みも同じじゃないだろうか。
「かわいく見せるため」
「かわいく?」
「だって、長いよりも短い方がかわいいじゃん」
「まあ、そうだな……なるほど」
 継介は納得した。「スカートを短くするのは、パンツを見せるために非ず、かわいく見せるためにある、ってところか」
「だから、その女子が言うには、スカートは短くしてるけど、パンツを見られたくはないんだとよ」
「って、言ったって、見えちゃうのはしょうがなくね? わざとじゃなかったら」
「まあ、そりゃな」
「俊哉」翼がまたニヤニヤしながら、身を乗り出す。「今の話って、斉藤さんがしてたの?」
 継介が嬉しそうな顔をした。「あ、ある女子って、そういうことかよ。ベッドの中でした話かあ?」
 この話をしたのは、愛美ではなかったが、「さあな」と、また笑って、はぐらかした。

 入学式の日、それからその数日後に会った「変なやつ」は、馬場彰という名前であることが分かった。同じクラスで、友達がいないことも分かった。何とかどこかのグループに加わろうと努力を重ねているようだが、外側で笑っているだけで、入れているとは言えな
い。みんなも、おれと同様に馬場を「何か変だ」と、捉えているらしかった。
 授業中、彼はよく船を漕いでいる。ただ、居眠りに厳しい先生にすら発見されにくく、ひとりでに眠って、ひとりでに起きる。
 休み時間、会話に入ろうと寄ってくることもあるが、ほとんどはゲームをしていた。何のゲームをしているのか、誰も覗き込みに行かないため分からない。一つ、分かることがあるとすれば、彼は一般に言うオタクなのではないか、ということだった。ゲームをして
いるだけでオタク、と思うのは早計かもしれないが、彼の外見がその印象を手伝っている。ゲームをしているイケメンをオタクとは、すぐに判ぜられないように。
 それでも、おれは特別な感情を抱かずに彼と接している。と言うと語弊があるかもしれない。来たら、人並みの対応を心がけるが、おれから彼に接触を試みることはない。つまり、友達とは言い難い距離関係が存在するわけだ。
「休みの日、何してたの?」
 決して好感の持てない笑顔を貼り付けて、彼は近付いてくる。
「いや、お泊まりだよ。友達と」
 友達と、って言い方はおかしい。他の人たちにだったら、名前を出して、そこから話を広げていくものだ。別に、愛美の家に泊まっていたことが後ろめたくて、そう言ったわけではない。後ろめたさがあっても、馬場に対して感じる必要はない。
 まるで、お前は友達じゃない、と突きつけたみたいで、心配になって彼の顔を拝んだが、笑顔のままだった。
「へえ、いいね。おれもね、秋葉原、行ってたんだ。欲しいものはなかったんだけど、ぶらぶら歩くだけでも楽しいからさ、あそこは。桜井も今度、行ってみなよ」
 おれもね、の「も」に違和感を覚えた。何と何を関連付けて、彼の中で「も」を使おう、という判断が下されたのだろうか。彼の話すことは所々、変だ。そりゃ、言い間違いは誰にだってある。舌が回らないときだって、おれにもある。でも、目の前の彼は頻度が普
通じゃない。
「そうだな、気が向いたら」
「俺が案内するぜ。いつでも言ってくれよ」
 と言って、笑い声を上げる。高らかに、一人で。他の笑い声と調和することはない。ここで言う他の笑い声を出せるのは、おれ以外にいないけど。
 その後も適当に合わせていた。おれの相槌が気だるそうになったのを感じ取ったのか、彼は中途半端なところで切り上げて、自分の席に戻った。そして、机の中からゲームを出す。イヤホンもする。ゲームの雰囲気を味わうためか、いつもゲームに繋がっているイヤホンで耳を塞ぐ。

 部活は、とうに過ぎ去った春の街中みたいにまったりしていた。顧問の先生がたまにしか来ない。先輩もそんなに厳しくない。本気でやりたい人たちからしたら、憤懣やるかたなしだろうが、おれや翼にとって、この空気はやりやすい。皮肉なことに、おれの部活の
出席率は中学時のそれよりも高い。居心地がいいからだ。
 だいぶ、他の中学出身の人たちとも仲良くなってきた。テニス部にも数名いて、その人たちとは真っ先に親しくなった。おれは誰とでも仲良くなれる。
 仲良くなれるのは、女子も例外ではない。愛美がいるから、他に目移りすることは絶対にないが、友達になっておいて損はないだろう。女を敵に回すと、面倒であるし。
 先輩もまた然り。おれは上下関係をきちんとするから、いくらだるくても先輩の言うことには従う。話すとき、タメ語は使わない。
 その日の部活中、一人の先輩が一年の女子を連れて近寄ってきた。三年生で、中学は同じではなかったはず。明るい茶色に染めた髪をポニーテールに束ねている。
「どっち?」
 おれと翼を前にして、ポニーテールの先輩は後ろに付いてきた一年に尋ねる。一年は、こっちです、とおれを示す。何の話をしているのだろう?
「へえ……かっこいいね。これなら、分かるわ」
 と呟いて、笑った。一年も合わせて笑う。
 結局、何か明かさずに、ポニーテールの先輩は去ってしまった。残った一年に真意をただす。
「今の、どういうこと?」
「ごめん」彼女は、まず謝った。「先輩と愛美について話してて、彼氏、テニス部にいますよ、って言ったら、見てみたい、って」
 おれは納得した。こういうことは、よくある。あれだけ人目を引く容姿をしていれば、その彼氏がどんな男なのか、多くの人に興味を持たれる。おれは興味の対象となるわけだ。往々にして、おれの評価は悪くない。まさに、これなら分かる、だ。
 その一年がいなくなってから、翼が呟いた。
「今みたいに言われるの、正直どうなの?」
 分かっているくせに、とおれは思う。
「別に、悪い気分じゃない。おれをけなすこともないわけだし」
「でも……逆のことはあんの?」
 つまり、愛美がおれの彼女として評価の対象になることだ。直接、聞いたわけではないけど、めったにないだろう。もしかしたら、一度もないかもしれない。
 だからといって、どうってことはない。
「あんま、ないんじゃね。でも、それでもいいよ。現実に、愛美と付き合ってんのはおれだし、それだけでおれは充分」
 望み過ぎると、持っているものまで失いかねない。二兎を追うもの一兎をも得ず、という諺もある。
「そっか……」
「暗えな。おれが気にしてるとでも思った? 全然」おれは手を横にやった。「まあ、心配してくれんのはありがてえけど」
 先輩の呼び声が聞こえた。練習が終わりだ。片付けに入る。
 おれは歩き出しながら、校舎を見上げた。予想通り、夕焼け空が窓いっぱいに映っていて、とてもきれいだった。

 部活の練習が雨で流れた。室内で筋トレにならないあたり、部のやる気の程を窺える。部員は包み隠さず、喜びを表に出して、スキップしそうな足取りで帰っていく。
 おれは翼と教室にいた。部活がなくなっても、愛美と帰ることはなくならない。翼も継介を待っている。バスケ部が終わるまで数時間はあるけど、苦にはならない。
「よくやるな、サッカー部。この雨で外練かよ」
 窓際にもたれかかって、翼がこぼした。おれも窓際に行って、グラウンドを見下ろした。サッカー部員十数名が、試合形式の練習をしている。誰もがびしょ濡れで、泥が跳ね返っていた。当たり前かもしれないが、顧問の先生は傘を差して、指示を出していた。
「試合が近いらしいじゃん。サッカーは、雨でもやるからな」
 雪でもやる。他のスポーツに比べたら、サッカーの過酷さは群を抜いているかもしれない。でも、天候に左右されずにできるのが、全世界で親しまれている要因かもしれない。世界には、天候が変化しやすい国があるから。
「お、一人だけパスもらえないで、オロオロしてるやつがいるな。――馬場だっけ」
 おれも気付いていた。まぎれもなく、馬場だ。体育の授業じゃないのに、ボールにろくに触れない人がいるなんて。あいつ、部内では友達がいないどころじゃないみたいだ。
「馬場だな」
「でも、たまに笑ってるな。たまたまか」
 たまたまじゃないだろう。彼は、一人でもよく分からないタイミングで笑う。それで、自分は仲間外れにされていないぞ、というアピールをしているのかな。だとしたら、可哀相だ。終わっている。
「先生、気付いてんのかね」おれが翼の横顔に質問を投げた。
 翼はおれの方に首を向けた。
「先生もたまたまって思ってんじゃね。ポジショニングが悪いやつだな、くらいにしか思ってないんじゃない」
「そうかもな。――気付いても、気付かない振りをするかもな」
 先生だって、人間だ。一人の悲劇を救うのに、大勢に立ち向かうのは並外れた勇気がいる。たいがいの人は、大事になるまで動かない。
 大事になってからでは、遅いのに。
 そう思うなら、自分が動けよ、桜井俊哉。
 そんなの無理だろ。正義ぶったって、ヒーローにはなれないのだ。正しくったって、勝たなきゃ正義じゃない。生き残った方が正義なのだ。そういう世の中だ。
 そもそも、おれはそれほど無力感を覚えてはいない。彼に関して深く考えることもないし、これらのことは漠然と頭の隅にあるだけだ。
 それに、彼は少なくともまだ笑っている。だから、憂慮すべき事態は近くにない。保護観察とは違うけど、様子見でいいだろう。

 新しい環境に慣れようと必死だった人たちも、一学期の終盤に差し掛かってくると周りが見えてくる。どんなグループが形成されていて、対人関係はどうで、出身中学はどこで、部活は――といった諸々のことが分かってくる。
 慣れてくると、待ち構えているのはいじめだ。言動がおかしなやつは、簡単にいじめの対象になってしまう。誰かをいじめることで、そのグループの繋がりを確かめることだってある。
 我がクラスのその対象となったのは、やはり馬場だった。最初は、構ってもらえないだけだったのが、あからさまに避けられるようになった。陰の悪口も横行した。
 だって、休み時間に一人でゲームばかりして、変なところで笑って、会話が噛み合わないのだ。よほど寛容な人たちの集団でなければ、彼をいじめずに過ごせない。
 それに、体臭が臭い、というレッテルも貼られてしまった。おれは、言われてみればそんな気がする、とは思ったが、言い募るほどのものではないと思った。次第に、風呂に三日に一度しか入らない、汗かいても着替えない、臭いがきついことで著名な軟膏を体中に塗っている、という憶測が、あたかも事実のように言い合われた。
 馬場はそれでも笑っていた。

「俊哉、馬場と仲良くしてるの?」
 部活後の帰り道、愛美に突然そう聞かれた。
「いや――話しかけられたら、答えるだけだけど」
 そう、と愛美は呟いた。どこか、思案顔だった。おれのことを案じているようだ。
 というか、まず愛美が馬場のことを知っているのは驚きだった。クラスが違うから、接点のまるでない彼を愛美が知る機会はないだろう、と思っていた。でも、知っていた。ということは、友達との話の中で知り得たのだろう。そして、その会話の延長線上で、おれ
が馬場と普通に接している光景について言及する者があって、愛美は不安になったのだろう。
「言っとくけど、愛美。おれ、あいつと全然なんでもないよ。おれから話しかけることはないし、あいつの趣味とか一つも知らない」
 ことさらに、語気を強めた。何だか、浮気を疑われて、その言い訳をしている感覚にとらわれた。
「ホント?」おれの目を覗き込むように、首を傾げる。
「ああ、本当に」おれは頷く。「でも、どうして?」
「同じクラスの友達に聞いた話なんだけど――彼、オタクなんでしょ」
 オタク、か。その通りだろう。馬場はゲームオタクなのだろう。
 だけど、人は誰もがオタクである気がする。誰だって、何かしら没頭するものが存在するはず。それが、馬場はゲームだったのだ。まあ、彼の場合、周りから敬遠される理由はそれだけに限らないけど。
 それに、そんな風に考えたのは一瞬だった。一般的な高校生は、友達のいない人、というか避けられている人から離れようとするのは当然のことだ。身近な人がその近くにいたら、手を振り払って遠ざけるのは当然のことだ。
 愛美は、避けられている対象である馬場のことを、とりあえずその大なる原因である「オタク」であることから、「オタクなんでしょ」と言ったのだ。
「ああ、休み時間いつも、ゲームしてる」
「マジで?」愛美は小さく笑った。
「それで、その友達に、おれが仲良くしてるかもしれない、って聞いたの?」
 愛美は素直に頷いた。「うん。わりと普通に話してるとこ見たことあるって」
 おれは安心させてやるように笑った。「大丈夫だよ。たぶん、その頃、おれが馬場のことあんま知らなかったんだよ。今は、接する機会ゼロに近いし」
「なら、いいけど。……仲良くしたら、一緒にいじめられかねないから、気を付けた方がいいよ」
「はは、おれがいじめられると思ってんの?」
「考えられないけど」
「でしょ? まあ、あいつとは話さないようにするよ」
 おれが言うと、愛美はやっと安心したように満面の笑みになった。
 その後は、別の話題になった。今日あったこと、テレビで見たこと、部活のこと、愛読している雑誌のこと。どの話題に転じても、愛美は心をとろけさせるような愛らしい笑顔を浮かべていた。おれはその笑顔に心を癒されながら、相槌を打った。
 恵まれた日々を、決して劇的ではない日々を送っている。これまでもそうだったし、これからもそうだろう。

「俊哉く―ん。まだー? トイレ、長くねー」
 だらだらと潔くない。やっと終わって、おれは手を洗って、外で待っていてくれた翼と継介と合流する。
「何でそんな長いの?」
 そう言って、翼はおれに教科書とエプロンを渡す。次の授業は、家庭科室で調理実習だ。
「知るかよ。最近、長くなってきた。不思議だなあ」
 三人で並んで、家庭科室へと進んでいく。
「老化の始まりじゃね?」
 継介が思いついたように、言った。いや、本当に思いついたのだろう。
「老化?」
「だって、年寄りとかオッサンって、おしっこ長いじゃん。年取ると、だんだん長くなる――」
「はー、マジかよ。老化? 超ヤダな、それ」
「俊哉がオッサンになるとか、想像できねー!」
「いや、想像すんなよ。高一でオッサンとすぐ結びつく人なんかいないだろ」
 三人でゲラゲラと笑い声を響かせながら、いくつかの教室を通り過ぎていく。
 チャイムギリギリで家庭科室に着いた。
 家庭科の席は、事前にクジ引きで決められている。黒板を見て、自分の名前を見つける。
「俊哉、馬場と一緒じゃん」
 継介が耳打ちする。言われるまでもなく、気付いていた。すでにその席に座って、同班の女子と一つのテーブルを囲んでいた。女子たちは嫌そうだ。
 馬場の隣に座る。女子たちに、「よろしく」と声をかける。「よろしく、桜井」と、わりかし明るい声が返ってくる。
 馬場には何も言わなかったら、向こうから話しかけてきた。
「よろしく。おれ、料理苦手だから。桜井、得意そうだな。はははっ」
 最後にまた、一人で笑う。
 おれは彼の顔を見ることもなく、すなわち無視した。愛美にわざわざ忠告されたのだ。愛美にその話を持ち込んだ誰かの考えを改めるためにも、素っ気ない対応を見せつけておかないと。
 同じ班の女子たちは、クスクスとこらえるような笑い声を漏らしている。
 調理が始まった。おれは一緒にふざける相手もいないから、黙々と作業をこなすことにした。
「桜井、さっき華麗に無視してたね」
 人の悪い笑顔を浮かべて、女子が話しかけてきた。塚本昌恵だ。中学から同じで、気心はわりと知れている。思ったことを何でも口にするタイプで、声も大きい。ついでに、バンドのボーカルをやっている。性格はいいとは言えないのだが、顔は悪くない。それに、
仲良くしておけば問題はない。
「ああ、馬場のこと? 何か、あいつうざいんだよね」
 塚本は楽しそうに手を叩く。
「分かる、ってか臭いよね」
 彼女はもう、声を潜めていなかった。馬場にも聞こえるように、臭いことを強調した。他の女子もクスクス笑っている。馬場は――と窺ってみて、驚愕した。彼は、どういうことか分かっていないのか、そのときも笑っていた。まるで、楽しいことを仲間同士で共有
したかのように。
 さすがにおれは、彼に対して薄気味悪さを感じた。
「料理が不味くなりそう、って感じ」
 塚本は調子に乗って、重ねて言う。
「もう、マジ勘弁して欲しいよね。自重して下さい、って感じ」
 考えるより先に、そんな言葉が口をついて出る。塚本と共犯者めいた笑いを交わす。
 彼を疎外する雰囲気は、完全に定着していた。もう、誰もそのことに異を唱えなかった。学校の中では、みんなが正しいと思ったら、常識的にどんなに間違っていることでも「正しい」に変わってしまう。こうして、いとも簡単に。

 最近、席替えをして、窓際の席を得た。しかも、継介と近い。おかげで、翼は不満そうだったが。
 外を見ているのは飽きない。人がいてもいなくても、何となく見ているだけで充分だ。天気も関係ない。晴れ渡っていても、どんよりと灰色の物体が覆っていても、大雨でも構わない。
「……すぐそこなんだが……いじめが……」
 司馬先生の話し声が途切れ途切れに耳に届く。そうだ、今はホームルームの時間だった。近所の学校でいじめがあったらしいことを語っている。
「まあ、ウチの学校の生徒はみんな、人のことを考えられる人たちだからな。いじめなんかないだろう。いやー、こう言っちゃ何だが、おれは恵まれていたな」
 クラス内で笑いが起こる。先生は顔を赤くして、片手を頭の後ろにやっている。重ねて、みんなが囃したてる。
 先生は何にも分かっていない。この学校どころか、あんたのクラスでいじめが起こっているよ。恵まれてなんかいない。気付いていないだけだ。おれは呆れた。でも、表面上は笑っていた。
 席が遠いせいで、馬場の表情が窺えないが、きっとあいつはまた笑っている。
 たとえばだが――たとえるのは、現実としてはありえないと思うからだ――司馬先生が本当はいじめに気付いていて、それに対して自己解決を促す意味で、「いじめなんかないだろう」と白々しいことを言ったとする。でも、その言葉で罪悪感や後ろめたさを覚える
人はこのクラスにいない。おれ自身、覚えない。感じた人がいたとしても、行動に移す人はいないだろう。だから、仮説だとしても、その解決方法は不適当だ。
 この一連のいじめの全容を把握している第三者がいたら、お前たちは間違っている、と言って、馬場以外のおれたちを叱りつけるだろう。でも、おれたちは間違っていることに考えが及ばない。別に、当たり前のことだからだ。それが、いじめっていうものだからだ。
 いじめを押し進める真の犯人は、いつも一人じゃない。数人、またはクラス全体の人たちが自然にその雰囲気を作っていく。率先していじめを断行する人がいても、見て見ぬ振りをする人がいたら同罪だ。いじめに関わっている人たちは、等しく同じ罪を負っている。
 だから、特定の一人を裁くのが難しい。担任の先生の責任だ、と声高に、正義感を振りかざして言う人もいるだろう。監督不行き届きだ、と続けるだろう。でも、先生も同罪だ。いや、もしかしたら、生徒より罪は軽いかもしれない。
 そして今現在、おれたちが作り上げた雰囲気が、馬場を確実にいじめていた。

 図書館で、愛美とおれはテスト勉強をしていた。テスト二週間前になったら、学校帰りにこうして一緒に勉強するのが、中学時代からの習慣となっている。隣に並んで、それぞれがやりたい教科の問題を解き、たまにおれは愛美に教えてもらう。愛美はおれよりずっ
とマジメだし、成績もいい。
 高校受験のときも、こうして教えてもらったおかげで、同じ高校に進めた。
 でも、おれはいい点数を取りたくて愛美と勉強するわけじゃない。愛美と勉強したいのだ。正しくは、こうやって二人で静かに並んでいたいのだ。普段、時間を共有できないときがあると、不安になる。他の男にちょっかいを出されないか。あんなにかわいくて、性格もよかったら心配になるのは当然だ。
 だから、こんな風に誰の干渉を受け付ける余地もなく、二人きりでいられることに、おれは満足する。彼女とおれは一つであることを実感する。
 機械的な放送の声が、図書館の閉館時間になったことを告げた。これを聞くと、寂しくなる。ああ、もうこの時間はおしまいか、と。
「帰ろう」
 愛美は天使のような笑みで囁く。おれはただ、頷く。
 外に出ると、日がまだ暮れていなかった。まだ夕方と言える時間帯だ。図書館は、もっと時間を延ばしてくれてもいいのに。
 愛美と、ありきたりな会話を交わす。その言葉の中に特別な意味は必要ない。そんなものなくたって、おれたちは特別な何かで結びついているから。
 笑う度に、輝きを増す。歩く度に、短いスカートが優しく揺れる。首を傾げる度に、胸がきゅっとつままれるようになる。見つめ合う度に、心を全て見透かされているような心地になる。
「また、明日も勉強しよう。一人じゃ、なまけちゃうから」
 言われなくたって、そのつもりだ。
 そうだ、明日がある。二人でいられる時間は、日が沈んで、また昇ったら訪れる。それを待っていればいい。
 劇的なことは起こらない。明日はちゃんとやってくる――。

 昨日の夜、ケータイを確認して戸惑った。馬場から電話が来ていた。愛美と図書館にいた頃で、サイレントモードにしていたから気付かなかった。
 馬場と番号を交換したのは、高校が始まってすぐのことだ。向こうから言ってきた。おれは特に何とも思わず、交換してやった。おれから電話をかけることはめったにないだろうな、と思っていた。事実、一度たりともなかった。彼からもかかってくることはなかっ
た。
 何だろう、と少し気になったが、その後、一回もかけていないようだから、大したことではないのか、と考え、放っておいた。
 そのことを、愛美と登校して、教室の前で別れて、馬場の席を見たときに思い出した。そのときまで、馬場から電話が来ていたことをすっかり忘れていた。
 馬場はまだ来ていなかった。登校するのは、いつも遅い方だった。遅刻するときも数回あった。朝に弱いらしい。
 その日は、翼と継介だけでなく、他のクラスの男子と一緒になってだべった。成り行きでそうなったわけだが、おかげでクラス内はテスト前とは思えないほど騒がしかった。眉をひそめている女子がいたかもしれない。
 チャイムが鳴る前に、自分の席に戻った。ぼんやりと外を眺めて、チャイムが鳴るのを待った。
 だけど、いつもはチャイムの前に教室に入ってくる司馬先生がなかなか来なかった。鳴っても来なかった。ひそひそと、訝っている声が交わされ始めた。何かあったのではないか。
 もう一つ、馬場が来ていなかった。こちらは、遅刻だろうと暗黙のうちに、認識が統一されていた。おれもそうだろうと思っていた。
 やがて、顔が青ざめている司馬先生が教室に入ってきた。少しざわついていた教室が、一瞬で静まり返る。
「……今日は……」
 先生は言葉を探しているようだった。スラスラと言葉の出てくる人ではないけど、こんなに言いよどんでいる姿を見るのは、初めてだった。
「……授業……なしにします」
「えっ」
 誰もが驚いた。続けて誰かが「どうしてですか?」と尋ねる。
 司馬先生は、青い顔を俯かせて、言葉を紡いでいったが、言い逃れをしているみたいで、明瞭としなかった。
 謎は残ったままだったが、仕方なくおれたちは下校した。

 真相が分かったとき、おれたちは言葉を失った。目の前が真っ暗になった。今度ばかりは、罪悪感や後ろめたさを覚えない人は皆無だった。
 だって、一人の死を突きつけられたのだから。
 馬場は、いじめを苦にして、自分の部屋で首を吊って自殺した。首を吊って死ぬなんて、今でもあるのか。
 馬場は笑っていたけど、心の中で傷付いていたのだ。毎日、重々しいカバンを肩にかけて登校する学校で、陰口を聞いて、避けられた。そんなの、わざわざいじめられに行くようなものじゃないか、と思いつつも、彼は学校に来ることをやめなかった。笑うことをやめなかった。
 おれたちは、彼が自ら命を絶ってから、自分たちの過ちを思い知った。悪いのは他の誰でもない、おれたちだけだ。
 クラスの女子の中には、白々しく泣いている人もいた。泣いたら許されると思っているのか? お前も同罪だよ。見知っていて、知らぬ素振りをしていたのだから。お前はあいつのために泣いているのではない、自分のために泣いているのだ。そう言ってやりたかっ
た。だけど、おれにそんなことを言う資格はない。
 そして、電話が来ていたことに思い当たった。おそらく、あれがクラスの人たちの中で、馬場から電話を受けた最後だっただろう。その後、彼は悩みに悩みぬいた末、死を選んだのだ。
 どうして、おれに最期に電話をかけた?
 分かっているくせに。本当は、分かっているのだろう、桜井俊哉。
 馬場は、おれに止めて欲しかったのかな。あいつの中で、賭けたのかもしれない。おれがあいつにとって、どういう存在だったのかを思い知った。おれは当初、わりと普通に接していた。それだけで、彼の心の支えになっていたのかもしれない。それを、おれは愛美の忠告を受けて、あっさりやめた。無視するようになった。
 心の支えを失ったあいつは――死を現実のものにした。
 おれが殺したようなものだ。おれだけが原因ではないけど、最後にとどめを刺したのは、おれだ。

 おれは、立ち入り禁止になっている外階段でうらぶれていた。段差に背を預けて、虚ろな眼差しで遥か遠くの空を捉えていた。
 探していたのか、愛美がドアを開けて現れた。安心したように吐息を一つつき、おれの傍らに腰掛けた。
「探した」と、一言。
 おれは黙っていた。全身の力を抜いて、真っ白な頭であれこれ考えた。
 愛美もそれ以上は何も言わなかった。彼女も罪を――忠告という遠因を与えたことに対する罪を――感じているようだ。
「おれ」やっと言葉を見つけて、切り出した。愛美はおれの目を見つめた。「最期に――馬場から電話を受けたんだ。あいつ、おれに何て言いたかったんだろう……何て言って欲しかったんだろう……。愛美」
 愛美はおれの手を握る。いつもより、冷たい。
「おれが……おれがあいつをころ――」
「違うよ」
 愛美はおれを抱き締める。赤ちゃんをあやすように、背中を撫でる。
「違う、悪いのは俊哉だけじゃない。私だって、そう。誰か一人の責任にすることはできない」
 涙声で、おれの耳元で囁く。
 おれはその温もりを感じながらも、頭の中の空虚感は消えなかった。ずっと、同じことを繰り返し考えていた。
 当然のように、「終わっている」が浮かんだ。おれの人生、今まさに終わっているじゃないか。そうだ、上手くいってなんかいなかった。おれは楽観視していた。「終わっている」を考えているうちは、まだよかった。現実に「終わっている」の湖に身を浸しているときは、その冷たさに身を震わせてやまないだろう。
 二度と、出られないかもしれない。

 最後に馬場から電話を受けたことで、警察から少し事情を聞かれた。そうは言わなかったが、彼らはおれをいじめの主犯格と捉えていたのかもしれない。そう思われても、仕方ない。
 話の行きがかり上で知ったことだが、おれはその事実にますます罪悪感を覚えた。
 馬場は、首を吊りながらも、最期まで笑っていたそうだ。
 実際に見ていないから、どこまで信憑性があるか分かったものではない。たまたまそういう顔になったか、発見者にそう見えただけかもしれない。
 でも、おれは笑っていたと思う。
 縄に首を巻きつけ、苦しみながらも必死で笑顔を浮かべようとする馬場の姿が思い浮かぶ。その笑顔は、何よりもおれに期待していた証拠で、何よりもおれが抱く罪の重さを大きくするものだ――。

罪の季節

罪の季節

その笑顔は、何よりもおれに期待していた証拠で、何よりもおれが抱く罪の重さを大きくするものだ――。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-10

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