理不尽なはなし

 通勤電車は今朝も満員だった。ギュウギュウと全方向からの圧力に支えられ、立っている感覚のないまま立っている。
 電車は乗降者が多い主要駅へと近づき、ホームに入ってスピードを落とした。
 ドアが開くまであと数秒というところで、座っていた女性がバッと立ち上がると、ドアに向かって立つ、降車順を待とうという人たちを横目に、吊り革の真下をすり抜けるように歩いて、ちょうど開いたドアの前に突進すると、真っ先に電車を降りようとした。
 驚くことに、そんな行動に出るのは彼女だけじゃない。彼女の隣に座っていた人も、そのまた隣にいた人も、彼女に密着せんばかりにして付き従っている。
 今では、「またか」と冷ややかな目で彼女たちを追い、「やれやれ」と心の中で首をふるだけの私だけれど、初めて見たときには本当にびっくりして、たぶん「えっ」と大きく声を出していたと思う。
 彼女の行為は、例えればそう、席を譲ろうとして立ち上がったのに、不意に横から現れた別の人に座られてしまったときに感じるような理不尽さがあった。
 おなじようにびっくりすることは他にもいっぱいある。
 勤続十五年のお局様が入社一ヶ月にも満たない新人に社内ルールを質問しているのを目撃したときは、まだおしゃべりはできないとわかっているのに、「なんちゃいですか?」と赤ちゃん言葉を使って年齢を聞いている人が思い浮かぶし、ろくに使いもしないプリンターはすぐ導入するくせに、年に数回必要になる大型ステープラーの経費購入は許さない会計係には、あちこちの広告を見比べて、一円の安さを求めてわざわざ遠くのスーパーまで車を出す節約人が思い浮かぶ。
 そんなことを考えながら歩いていると、不意に現れる側溝に落ちたり、人の背中にぶつかったりした。
 ダメだな、こんなんじゃいつか車に轢かれる。
 注意力が落ちている自分を戒め、しっかり前をみてシャキっと歩くようにする。
 ほどなくして信号が点滅している交差点に差し掛かり、足を止めた。ここは時差式信号機で待ち時間が長く、いつもギリギリで走り込む人がたくさんいる。
 バタバタと慌ただしく移動する人の流れをぼんやり眺めていると、向こうから走ってきた男がすれ違いざまにささやいた。
「要らないんだよ、道理だとか、正しいだとか」
「えっ?」
 男を追って振り向こうとした私の目に飛び込んできたのは、迫ってくる大型トラックだった。トラックのフロントガラスが怪しく鈍色に光っていた。

  *

「青だよ」
 声をかけられてハッとする。目の前の青信号が点滅を始めた。条件反射のように走って信号を渡る。
 私は小走りのまま、高層ビル街の主要道、ビルとビルをつなぐ遊歩道へと階段を上った。
 疲れているのだろうか。信号待ちの間に居眠りでもしてしまったのだろうか。今朝はちょっとどうかしている。
 あちこちに建つ大きなビルに向かって、人の流れはまっすぐと吸い込まれていく。誰かの体調が悪かろうが、おかしかろうが、変わることのない、いつもの通勤風景だった。
 ちょっとおかしいだけじゃない。今日は激しい一日でもあるようだ。
「とにかく返金して。わざわざ電話したんだから、その分の謝礼も加算してくださいよ」
「そう言われましても……」
 出社早々、対応しろとまわされた電話から、数本立て続けにクレーム対応をした。いつものルーチンワーク、社内の調整や連絡事項の仕事に戻っても、ハッキリと言いたいことを言う人が続出して、作業は難航した。自分の意見があるのはいいことだけれど、それにしても、みんなもう少し柔らかく表現できないものだろうか。
 昼休みを告げるチャイムとともに、私は疲れた頭を休めるようにしてなにも考えずに社食へと歩き、食券機に千円札を差し込んだ。毎日食べている日替わりランチのボタンを押す。
 ジャラジャラと音を立てて釣銭と食券が下のトレイに吐き出される。五百四十円、毎日おなじだから数えずとも一目でわかるお釣りを、見るとはなしに見て手に取ると妙な違和感があった。
「あれ?」
 私の手にあったのは、100とか10とか書かれた四角い板状の物体だった。見た感じ、硬貨とおなじく銅で作られているようには見えるけれど、これはなんだろう。あたりを見回して見ても、驚いた素振りをしている人はいない。みな当たり前のように食券を買い、配膳ブースの方へと進んでいく。
 これは私だけに起こったことなのか? 誰もが周知のことだった?
「ごほん、ごほん」
 不意に咳払いが聞こえた。振り返ると私の後ろに行列ができてしまっている。慌てて脇に避けると、私はさっき咳払いをした人が食券を買う姿を観察した。
 お札を差し込み、その人も日替わり定食のボタンを押した。ジャラジャラと音がして、お釣りと食券が下のトレイに吐き出される。硬貨はやはり四角かった。
 食堂のシステムが変わって、コイン制でも導入されたのだろうか。
 どこかに案内の貼り紙でもしてあるかもしれないと、社食中を見渡してやっと、私はここがいつもの光景とは違うことに気が付いた。社食にあるすべてがまっすぐのようだった。背もたれが四角い椅子、角の取れていないカウンター。テーブルで食事をする人のトレイには大小、正方形の皿ばかりが並んでいる。
「なんだこれは? なにが起こった?」
 クラクラとめまいがしてテーブルに手を突くとピリッとした痛みが走った。テーブルの端がイヤな光を放っている。よく見るとそこは定規で測ったかのように鋭角だった。
切れてしまった手の平からポタポタと血が落ちる。床に垂れた自分の血が正方形を成しているのを見て、私は気が遠くなった。
「痛いだろう? それがキミの世界」
 ぼんやりとした頭の中で声がした。

  *

 カサカサとかすかに動く気配を感じて目を開くと白い天井が見えた。ベージュのカーテンにぐるりを囲まれている。
 私は病院にいるのだろうか?
「目が覚めましたか?」
 カーテンの向こうから声がしたと思うとメガネをした看護婦さんが顔を出した。
「交差点で倒れられてここに運ばれたんですよ。通勤途中ですよね。会社にご連絡をされますか? すぐに先生を呼んできますね」
 ああ、そうか、確か信号待ちの交差点で頭がポーッとする感じがした。あのときに倒れてしまったのか……。そうすると、今のは夢だったのか。なんだかすごく変な夢を見た。夢の中で仕事をしていて、終わったと思ったら目が覚めて仕事はこれからだったということがよくある。それと似たような現象だろうか。とにかく私は今さっき見ていたものが夢だとわかってホッとした。
「おそらく脳貧血ですね。念のため、もう小一時間寝ていていただいて、起きたら帰っていいですよ。お仕事の方は今日はお休みをしていただいた方がいいかもしれません。軽く眠気の出る薬を持ってこさせますんで横になっていてください」
「ありがとうございました」
 簡単な診察をしてお医者さんは出て行った。
 自分では頭が少しぼんやりする以外は特に具合が悪いと感じるところはなかったけれど、医者がそう言うなら、今日は休むと会社に連絡をした方がよさそうだ。今、何時なんだろう。もしかしたらもう誰かに心配をかけてしまっているかもしれない。
 そう思ってベッドを下りようとしたところに、先ほどの看護婦さんが現れた。
「私の荷物はどこにありますか?」
 ちょうどいいと尋ねてみると、看護婦さんは屈んでベッドサイドの棚を覗き、
「運ばれてきてないみたいですね。ナースステーションかしら。確認してきますのでお薬、飲んでおいてもらえますか?」
 簡易テーブルをベッドの上に引き出し、手にしていたトレイを置くとすぐ私に背を向けた。
「お願いします」
 後姿の看護婦さんを追いかけるように声をかけると、看護婦さんはほんの少しだけこちらを振り向き、頷いた。看護婦さんのメガネがキラリと光ったような気がした。
荷物がなければ電話番号もわからない。なにはともあれ言われた通りに薬を飲んでしまおうとテーブルに置かれたトレイを確認して私は息を飲んだ。わけがわからない!
 看護婦さんが置いて行った薬のトレイには、真四角の錠剤が三つ、きっちりと等間隔で並べられていた。

-了-

理不尽なはなし

理不尽なはなし

読み終わっても理不尽なお話です。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted