選曲


鏡に落書きをしたのはあの時だけだった。スピーカーから聞こえてくるあの曲の,真似をしたかった。だから絵にはしなかった。用件を伝えるメッセージにした。家の中にある鏡を見ることができる人宛で,鮮やかな色を見せていた。使った感覚はクレヨンだった。文字はクレヨンでも書ける。ボールペンとかに比べて,どうしたって太くなる。目立つ。
活気のある駅の構内の,地下にある改札口をどうにか通って,とにかく地上に出るための階段を目指して,早足で歩き出した靴のつま先で蹴飛ばした物は,直線上にあったはずの足の隙間を見事に縫って,何屋さんなのかも分からないお店のシャッターにぶつかってから,止まった。何人かがそれに気付いた。やったの誰だ?というような視線が生まれて,こっちに向けられるものもあった。おかげで,取りに行かなきゃいけなくなった。何人かの進行を妨げて,一人の女性と正面からぶつかりそうになって,お互いに小声で謝ってから,シャッターの方に寄っていき,たどり着いたシャッターに沿って歩いた。届く所で手を伸ばした。拾ったそれは,一本の口紅だった。蓋との境目に金色がある以外は,全部が黒のもので,なかなかの値段のものに見えた。クルクルと回しつつ,傷がついていないかをチェックして,目立つものがないことに安心した。時間がなかったから,駅員さんに届けることまでは出来なかった。でも,目立つ場所には置いた。近くにあった発券所の端っこだった。そこなら駅員さんが見つけてくれることも期待できるし,物がものだけに,盗まれることもないと思った。唇にあてるものだから。筆を使う,なんて思い浮かびもしなかった。けれど,その点を考慮しても,その置き場所は変わらなかったはずで,蹴って生まれた義理は果たしたと満足していた。戻って,最寄りの階段を目指して小走りになり,行き交う人たちの縫って,流れに乗って,スムーズに進んだ。六月の頃だった。午後に入って,折り畳み傘を使った。梅雨に入ったという訳ではなかった。ただその日に雨が降ったというだけだった。
雨足が強かったから,構内に入って,降水量をスマホで見ていた。濡れた足で階段を下ったら,院の先輩に遭遇して,卒論についてくどくど言われた。
「うっす。」
と繰り返して,水滴を垂らした。しばらくして,講義の時間を言い訳に使った。やっと去って行く後ろ姿に内心で舌を出して,引っ込めた。さらに階段を下りて,ニュースサイトを見直した。降水量以外の,四十年ぶりの奇跡の再会について書かれた記事をタッチした。経緯と写真には,気持ちが込められた力強い抱擁の理由があった。納得して,フリックした。有名アーティストの再来日の記事が音楽サイトから転載されていた。曲の検索をかけてから,気に入ったものだけを数曲買った。即席のプレイリストでリピートした。靴が廊下にキュッとした。キュッと鳴った。
休講,の噂が耳に飛び込んできた。イヤホンを外したタイミングのことだった。唐突に,まさかの期待と疲労が半々になって,また足早になった。教室に中に入ると,誰も居なかった。休講,と黒板にしっかりと書かれていた。タイミングよく,もう一人,中に入ってくると「えー,マジ!」というでかいひとり言を漏らしてから,すぐに出て行った。反対に,一人教室に残ったまま,スマホのアプリをタッチして,起動してからメッセージを送信して,今何処にいるのかを尋ねた。すぐそこのテーブルに荷物を置いて,傘を適当に掛けて,設置されている長椅子の一箇所に,滑り込むようにして座った。返事を待っている間に眺めたアプリでは,数分前のメッセージが流れに流れて,その中に,昼公演のチケットの落し物のお知らせがあった。その方法に今更気付いて,書いて送ろうとかとも思った。タッチして,ポインタの点滅を見て,スペースをそのまま見ていた。そのアプリを閉じるのと,返事が届いたのは同時だった。内容には,これからの時間割りと,会えるかどうかに対する返事に,空き教室なんだろう番号が,階数に続いて,三つ並んでいた。偶然にも同じ建物だった。荷物を持って,傘を取って,すぐに教室を出た。迎えに行く,の気分だった。廊下を歩いて,階段を上った。踊り場にある窓の景色が曇っていた。雨が止んだ後だった。スキップするのを忘れていた。フレーズが頭の中で繰り返されていた。知っている言葉だけが,そこになかなか追い付かなかった。
帰り道,カードの残高をチャージしようと思って,別の発券所に並ぶと,自然とその場所に意識が向いて,この時期でまず見かけない,小さい模型が袋に入ったままで置かれているのを見つけた。同じように,その場所に関心を向けた女の子からは,「落し物?」という疑問の表現がストレートに聞けた。うん,だと思うと答えた。列を一人分,前に進んだ。その子も一緒に前に進んだ。話題は別のものに変わっていって,女の子は最近,公園内のコースを走るのに凝っている。洋楽もその時によく聴いている。ガンガンなやつに限られない。
「あなたが好きなやつも聴くよ。恋する系?恋してる系?。」
「あれは後者。」
「そっかー。難しいね。」
「そっちのは?」
「あれは恋する系。ちゃんと伝わるように,歌詞でそう言ってるもん。」
じゃあ,ケンカの真っ最中にあって,捻くれた気持ちを隠さない曲は,その子の好きな曲と同じものじゃないことになるんだ,と納得できた。あの曲は恋している系,裏返せば分かる歌詞の子の気持ちは,チャーミングな葛藤なんだ。電車で向かう先にある,告げ口。列からまた一人が去って,前に進んだ。
「どこで食べる?」
隣に並ぶその子に訊いた。
「オススメのお店があるよ。」
と,その子は答えた。何処にあるの?と訊いた。その子は楽しそうに言った。
「行ったら分かるよ。案内するよ。」
前に進んだ。荷物の中から財布を取り出した。あの小さかった模型が,思った通りの形をますます見せた。雪の代わりに,雨がどんどん降り出すこの時期に見るそれは,かえって喜んでいるのかもしれないと思うと,季節外れと言い難くなるのも変に面白かった。赤い傘でも差して待ち合わせでもしたら,色々と辻褄は合うかもしれない。初夏を迎える頃の,サンタは恋人な雰囲気。半袖な格好で道を行く。
「それ,防水用?」
その子が足下を指差した。
「違うよ。普通のやつ。いいでしょ?」
「うん。悪くない。」
あと一人。列はもう長くない。
チャージを終えてから案内に従って,電車に乗った。十五分ぐらいのお喋り。降っていた雨が小休止になっていくのに,二人で安堵していた。聞けばお店までは結構な距離があるらしく,しばらく歩かなきゃいけなかったから。それから無事に着いた先,人の流れ駅を出れば,逆さまに写る街は綺麗に光っていた。水はけ悪いね,とその子が感想を述べた。そうだね,と応じた。
最後まで,楽しい日になりそうだった。

選曲

選曲

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-10

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