多国籍町内会
「ねえ、ねえ、あなたったら」
妻が少し甘えたような声を出したので、久々の休みでゴロゴロしていた大柴は、イヤな予感がした。
「うん?」
「今ちょっと手が離せないから、回覧板を持って行って欲しいんだけど」
そら来た、と思いながら、念のため確認してみた。
「で、どっちのお隣さんだい?」
「もちろん、権藤さんよ。そういう順番じゃないの」
何か断る理由がないかと、大柴は必死で考えた。
「あれっ、パスポート、どこにしまったかなあ。思い出せないなあ」
「だと思って、用意しておいたわ」
妻の手には、回覧板とともに大柴のパスポートがあった。確信犯である。
「ずいぶん手回しがいいんだな」
「じゃ、お願いね」
大柴に回覧板とパスポートを押し付けると、妻は逃げるように台所に戻って行った。不満をぶつける相手がいなくなり、大柴は回覧板に八つ当たりした。
「なんだって今時、回覧板なんていう原始的なシステムが生き残っているんだよ。この町内に、一体いくつ独立国があると思ってんだ。届ける身にもなってみろ。時代は変わったっつーの。ったくもう!」
そう、EUの失敗を契機として、世界の趨勢は国家統合から分離独立へと百八十度変わったのである。その結果、世界中で無数のミニチュア国家が乱立することになった。今では日本にも何百という独立国がある。ただし、地方自治体など地域単位の独立が多かった他の国と違い、同業者や同窓生などの人脈単位で独立した日本では、各国の領土がモザイクのように入り乱れていた。
ネコの額ほどの建売り住宅に住んでいる大柴と違い、だだっ広い庭のある権藤の屋敷は、囲碁同好会共和国という独立国の一部になっている。大柴が近づくと、竹ぼうきで庭を掃く権藤の姿が、生け垣越しに見えた。
「おはようございます、権藤総理」
すると、権藤はすこぶる不機嫌な顔で、ゆっくり門扉のところまで歩いて来た。
「我が国は、建国以来、ずっと大統領制だ」
「あ、どうもすみません、権藤大統領、えーっと何だっけ、ああ、そうか、閣下、ですよね」
近所の碁会所に集まるヘボ碁仲間で作った国家に、大統領は大げさ過ぎるだろうと思いつつ、大柴は深々と頭を下げた。
「うむ、いいだろう。で、何の用だね?」
「はっ、これをお持ちしました。どうぞ、閣下」
大柴は、念のため左手でパスポートを示しながら、右手で回覧板を渡そうとした。だが、権藤は受け取ろうとはしない。
「それはできんな」
「は?」
「まだ、貴国との外交上の問題が解決しておらん」
「えっ、何でしたっけ?」
「とぼけないでもらおう。貴国の家畜が我が国の領土を侵犯し、あまつさえ、汚染物質を放置していった事件だよ」
どうやら、一週間ほど前に、大柴の家で飼っている柴犬のマメが、権藤の家の庭でフンをしたことを言っているらしい。
「ああ、あの時はすみませんでした。あれから、マメを散歩させる時には、リードを外さないよう気を付けていますので」
権藤の顔がみるみる真っ赤になった。
「ふざけるなっ。あれほどの大事件を、一民間人の謝罪だけで済まそうというのか。当然、貴国の総理か外務大臣が出向いて来るべきだろう!」
権藤と違い、大柴はミニチュア独立国に所属してはいない。つまり、たかがイヌのフンの問題で、日本国の大臣を連れて来いと言っているのである。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、権藤さん、あ、いや、大統領閣下。同じ町内会じゃないですか」
その時、権藤の家の裏手で、ガシャンとガラスの割れる音が響いた。権藤は忌々しそうに口をゆがめ、「くそっ、ガキども!」と罵り、手の甲でシッシッと大柴を追い払うような仕草をした。
「残念だが、緊急事態が発生した。隣国のホワイトルーズソックス合衆国の馬鹿者どもが、またしても我が国に野球のボールを打ち込んだらしい。ただちに損害賠償の外交交渉をしなければならん。貴国との問題は後回しだ。ああ、そうか、とりあえず、回覧板だけは受け取っておいてやろう」
「どうも、あ、いや、恐悦至極に存じ上げたてまつりまする」
どっと疲れを感じながら大柴が家に戻ると、権藤とは反対側の隣に住む高崎家の夫人が、ネコを抱っこして玄関の前に立っていた。
「ああ、どうも、高崎さんの奥さん。何かありましたか?」
高崎夫人は、切り口上で話し始めた
「お宅のイヌの鳴き声がうるさくて、うちのミューちゃんがお昼寝できないざます。早急になんとかなさい。それから、お伝えすることがあるざます。昨日、高崎家の親戚一同は独立し、高崎王国となりました。ですから、今後、わたくしのことは女王と呼ぶように。いいざますか?」
「はあ。あ、その、かしこまりました、女王、ええと、陛下」
大柴は心の中で、どうか世界中の国境がなくなりますようにと、切に願った。
(おわり)
多国籍町内会