幸福の一歩手前


   一 市原秋美

 リビングで本を読んでいると、NHKの大河ドラマが始まった。もうこんな時間か。私は父を呼んだ。
「お父さん。大河、始まったよ」
 台所で洗い物をしていた父が、「おうおう。ありがとう、秋美」と言って、テレビの前に座った。父の楽しみの一つが、毎週日曜日の大河ドラマを見ること。放送している側にとってしたら、こういう律儀な視聴者はありがたいだろう。
 私は歴史が嫌いなわけではないけど、強い興味があるわけでもないから、本に栞を挟んで立ち上がった。
「洗い物、やっておこうか?」
 父はテレビから目を離さないで、「いや、父さんが後でやるから、置いといていいぞ」と答えた。
 私は自分の部屋に向かった。
 私の部屋は、整頓されているとも言えるが、寂しいとも言える。クローゼットは余裕があるし、机の上は勉強道具と学校でもらったプリントだけ。CDは英語のワークブックについていたものだけで、流行りのアーティストのものはない。漫画は指で数えるほどしかない。化粧品もない。雑誌もない。今時の女子高生としては、一見、
つまらない人生を送っているように思われるが、そんなことはない。私は今の生活になんら不服は感じてない。最近の流行りについていこうと思わないし、身なりをきちんと整えようとはするけど、がんばっておしゃれしようとは考えない。
 部屋の中で圧倒的に多いのは、本棚を埋め尽くす本と、引き出しの中のノート。
 昔から小説が好きで、お小遣いに余裕ができれば本を買い、お年玉をもらえば本を買った。恋愛もの、ミステリー、ファンタジー、SF。たまにライトノベルも読む。おもしろそうだ、と思ったら手にとって、その世界に没頭する。途中でつまらない、と思っても最後までとりあえず読む。日々、活字ばかりに目を通す生活。でも、視力は悪くない。勉強しないからだろうか。
 玄関の方から物音が聞こえた。母が帰ってきたのだろうと思い、部屋から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
 透き通るような白い肌、目鼻立ちの整った顔。細身だが、スタイルのいい体型。テレビによく出る人を想像するとき、私の場合はすぐに母を浮かべる。そして実際に、母は昔そうだった。
 木村時雨、という名前を母の世代から少し上のあたりまでの人は、一度は聞いたことがあるだろう。二十歳前にデビューし、その美貌と演技力で数年間、ドラマの顔として多くの人の心を掴んでいた。
 そう、母は女優だった。
 しかし、絶頂期の中、中学時代の同級生である市原昇――つまり父と結婚を突然発表し、公の舞台から身を引いた。そのときにはすでにお腹の中に子がいて、それが今年で十八歳になる私だった。
 母はもう四十代に入り、確かに顔は昔のようなぱあっと光を放って、周囲の目を引きつけるほどの華やかさは薄れているが、若さを保っており、実際の年齢より若く見られることもしばしば。そして、授業参観で学校を訪れれば、「市原のお母さん、すげえ美人」と友達は言って、もてはやす。その度に、表面上は謙遜笑いを浮かべつつ、当然だ、テレビに出るような人だったのだから、と心の中で思う。
 ――あなた、今日の夕飯、これ温めればいいの?
 今は普通に生きている母の声がした。父はテレビに集中していて、返事をしなかったのか、母がもう一度繰り返す。
 ――ああ、そうそう。あと、ついでに冷蔵庫からビール出してくれる?
 父の声が聞こえる。父はどこにでもいるような、普通の人だ。普通に頭皮が薄くなってきて、普通に中年太りして、母と釣り合う要素は見つけるのが難しい。
 二人がどうして結婚したのか、この疑問は聞きたくても聞いちゃいけない気がするし、聞いてもそんなに大した理由はない気もする。
「何、ボーっとしてんの?」
 いつの間にか部屋の入口にマサが立って、こっちを見ていた。私の三つ下の弟だ。
「小説のネタでも考えてた?」 
 と言って、笑った。笑うと弟ながら、その笑顔を爽やかだと思ってしまう。
 母の目鼻立ちの整った遺伝子を多く受け継いでいるのは、間違いなく私ではなく目の前のマサだった。母に似ている部分が多く、その容姿はこれまでにたくさんの女の子の心を奪ってきた。小学校の頃から誰か女子――たいがい、いつも違う子――と並んで帰ってくるところを見かけ、最初はおませさんだなあ、と微笑ましく思っていたが、次第に学年が上がっていくにつれて、現実的な恐ろしさを感じた。マサは、いつか女を泣かせるのではないか、と。源氏物語の光源氏みたいにたくさんの女性と関わりを持ち、手に余るほどであるマサの姿は、女優時代の母と重なった。
「違うわよ。宿題、何からやろうか考えていただけよ」
「そう?」
 マサは私に悪口を言ったり、上下関係を蔑ろにしたりすることはない。生きていて、僻みを感じることが少ないのも理由として挙げられる一つだが、もう一つ、誰にも言えない秘密を共有していることも挙げられる。それで脅したことはないけど、母も父も知らない、二人だけの秘密がある。
「先に風呂入っていい? それとも、姉ちゃん先に入る?」
「いいよ、マサが先で」
 あいよー、と言うとマサは浴室の方へ向かった。どうせ私は、まだ宿題をやっていない。日曜日の夜にまだ終えていないなんて、だらしない話だが――しかも、受験生なのに――嫌いな英語と数学の宿題だから、気が進まないのだ。しょうがない、英語は朝休みの内にすーさんに写してもらうとして、数学だけはやっておこう。

 マサが出た後、風呂に入った。数学に手間取ったため、頭は朦朧としていた。その意識のまま髪、体と洗っていき、湯船に浸かる。
 ふう、と長い息を吐くと、頭が平素の状態を取り戻してきた。また、脈絡もなく考えごとに励む。
 今どきの女子高生と少しずれている私の生活、決して不服に感じたことはない。自分らしさを抑えて生きていくより、ずっといい。
 でも、満足もしていない。これが幸福か、と尋ねられると、答えに窮する。そうだとは言い切れない。具体的にどんな人生が幸福か、私の周りの誰が幸福か分からないが、とりあえず私の人生はそうじゃないと言える。
 だから、考えてしまう。幸福って何だろう。幸福の一歩手前でたたずんでいる私が一歩踏み出すには、何が足りないのだろう。そう思いながらも、現状に不満はないから、それを維持しようとしても、努力して幸福を自分に手繰り寄せようとはしない。ただ、なりたいな、と望んでいるだけの、他力本願な私。

 数学の宿題がまだ終わってないけど、もう夜も遅いし、本を読んで寝なければ。そう思って、机の上に置いてある読みかけの本を手に取った。私は寝る前に必ず本を読む。今日みたいに宿題が終わってない日も、テスト前も。きっと、地球最後の日も。
 十ページだけと決めて、ベッドに横になって読み始める。十三ページ目に入ったところで過ぎていることに気付いて、本を机の上に戻し、電気を消す。暗闇に目が慣れる前に、いつの間にか眠りについていた。

 目覚ましの音で起きた。音を止めて時計を見ると、まさにセットした時間。部屋を出て、洗面所に顔を洗いに行くと、ダイニングの方からいい匂いがする。今日の朝ごはんは、炒り卵かな。
 マサの部屋をノックした。朝だよー、と言うと、ちょっと待って、と返ってくる。出てくるのを待つためにドアの前で腕を組む。
 ドアを開けて出てきたマサは、いきなり現れた私に少し驚いた。
「びっくりしたなあ」
「まさか、朝からあれやってたの?」
 マサは一瞬考えて、やがて理解し、「違うよ。宿題やってただけ」と慌てて否定する。
「あ、私も宿題やってなかったんだ」
「え、あれから進んでないの?」
 ダイニングに向かって歩きながら、マサはさも意外、といった表情をする。
「ちょっと進めたわよ。高校の数学は、難しいのよ」
「ようするに、できなかったってこと? おれが教えてあげようか」
「無理よ。中学の知識で解けるもんじゃない」
 と言いつつも、マサならもしかしたらできるかもしれないな、と考える。マサは学校で一、二を争う優等生なのだ。まあ、できたとしても、弟に教わるのは姉としてのプライドが許さない。
 明るい日差しが広がるダイニングテーブルの上には、予想通り炒り卵と少し焦げ目のついたトースト、昨日の残りのサラダが置かれていた。
「おはよう」
 父がエプロン姿でキッチンから顔を出す。
「おはよー」
 私とマサの声が揃い、私はイスに座る。マサは冷蔵庫から牛乳を出して、コップいっぱいに入れる。背は私より少し高いくらいで、低いことはないのだが、本人はもっと伸ばしたいようで、毎朝欠かさず飲んでいる。
「いただきます」
 トーストから食べ始める。ぼうっとした頭で考える。父がこうしてごはんを作るようになって、どのくらいたつだろう。もう当たり前になってしまった。
 父と母が結婚し、父は勤めていた会社で引き続きサラリーマンをして、女優業をやめた母は専業主婦になった。最初は子育ての楽しみがあった母は、私と三年後に生まれたマサと一日中家にいることを悪く思っていなかった。しかし、もともと生活に刺激を求める性格から、平凡な日常に飽きてきて、マサが小学校高学年になった頃には、勉強し直して何らかの職に就こうとしていた。
 転機が訪れたのは三年前、私が今のマサと同い年のとき、父は急に会社を辞めた。入れ替わりで母が大学の講師を本格的に始め、今では助教授にまで上りつめている。「専業主夫」となった父は、平凡な日常に満足する人で、日々の掃除、洗濯、料理と家事に明け暮れた。
 幸い――と言ってしまっていいのか分からないけど、父が勤めていた会社は、その後すぐに倒産し、憂き目を逃れた。父がその匂いを嗅ぎ取っていたのか、本当に偶然の産物だったのか、未だに知れない。
 食べ終えると、部屋に戻って学校へ行く準備をした。宿題は諦めて潔く鞄にしまい、服を制服に着替えた。紺のブレザーに、赤と白のチェックのスカート。地元では制服がかわいいことで有名らしく、これに憧れて受験する人もいるそうだ。むろん、私はそうじゃない。どんな制服なのか、受験で合格するまで知らなかった。
 ダイニングに向かうと、母がごはんを食べていた。母はいつも姿勢が良くて、何気ない生活の一部なのに絵になる。
 リビングで父はこれまたNHKの朝の連続テレビ小説、通称「朝ドラ」を見ていた。父はこれも欠かさずに見ている。不思議だと思うし、こんな生きがいでいいのか、とも思うけど、本人が満足しているのなら私は何も言わない。それに、朝ドラは面白いと思う。
 でも、私は見ることができない。これが始まるのは、ちょっと時間が危ない合図。始まる前に家を出ることが、毎日の必須事項だ。
「いってきまーす」
 二人に告げて、家を出た。

 世に言う受験生に当たる私は、学校に、先生を除けば後輩しかいない。といって、部活に入っていないから後輩との関わりは少ないし、先輩がいた頃と今が大差あるように思えない。ちなみに、マサも三つ下だから、受験生だ。
 私の高校は、繁華街の外れにある静かなところだ。住宅地に囲まれていて、平日は人通りが学生くらいしか見当たらない。住宅地の住人も私たちと同じように朝早く出かけて、夕方以降に帰るからだろう。
 私は自分の学校が好きだ、と考えてみたこともない。高校受験のとき、今と同じで勉強しなかったから、家の近くならどこでもいいやと、友達と同じにした。一般的に学力の低いその高校は、それゆえか、変わり者が多い。私はその中でもまともな方だと信じたいが、傍から見たら変人である可能性もあるかもしれない。
 下駄箱で靴を替え、右に曲がって、階段までの長廊下を歩く。途中で保健室があり、そこから後輩が出てきて、私に挨拶していった。私は返して、保健室を通り過ぎ、後輩は反対側に遠ざかっていく。
 のんびりと歩いていたためか、階段の途中で後ろから知った顔が追いついてきた。すーさんだ。
「おはよう、すーさん」
「おはよう、秋美。三日ぶり」
 すーさん、こと須崎里実は、とても穏やかな性格だ。私の親友の一人であり、中学から一緒だ。高校受験のとき、彼女が選んだ高校――今、通っているここ――を私も真似して選んだ。
「だいぶ、暖かくなってきたね」
 陽だまりみたいな笑顔のすーさんがそう言うと、余計に暖かく感じる。「そうだね」
「冬は、足が凍りそうに寒かったよね」
「ね。女子はスカートだから、冷たい風をもろに受けたからね」
 私たちの教室がある三階まで上がると、教室の前に紗音がいた。
「ちょっと、遅いよ。二人してのんびりしちゃって。宿題やってな
いんだから、見せてよね」
 すーさんとは正反対と言っても差し支えのない性格である彼女は、赤井紗音という。しゃのん、と読む。面倒くさがり屋で、私以上に不勉強な彼女も、私の親友だ。
「あ、私もやってない。すーさん、英語みして」
 すーさんはまたか、という顔をせずに、どうぞ、と短く言った。

 教科書の英語をスラスラと読んでいく。彼女の英語力はレベルの低いこの学校の中で突出していて、先生にも匹敵する。ちゃんと聞いたことはないが、ネイティブの話す英語はこんなだろうな、と思いながら、私は耳を傾ける。
 すーさんは、小学校までアメリカで暮らしていて、英語だけは得意。だけ、と言ったのは、それ以外は私たちと同様、不勉強な性格なので、できない方だ。日常的に使っていたのでは、私たちなんか到底、及ぶはずがない。英語の宿題は、いつもすーさんを頼る。
 彼女の顔は普通の日本人の顔で、背も小さく、外国人を思わせる要素は何一つない。その流暢なスピーキング能力がなければ、彼女とアメリカをすぐに結びつけることは難しいだろう。
 数学の宿題は終わらなかったが、授業中に指名されずに済んだ。しかし一方で紗音は指名され、適当に答えを書いて、みんなの前で恥をかいた。それでめげる彼女ではないが、その後はしきりに愚痴っていた。
「もうありえない、何なのあの先生。お前、受験生の自覚あるか、こんな簡単な問題分からないんじゃ、行く大学ないぞ、って嫌味っぽく言いやがって。しかも、みんなの前で恥かかせて。かわいい生徒のためにフォローしろって話だよね」
 昼休み、私とすーさんと紗音で机をつけて、弁当を食べながら話すひととき。紗音がひとしきり話した後で、「でも、宿題やってないのに、先生にフォロー求めるのは理不尽じゃない」とすーさんがサラッと正論を言う。紗音は嫌な顔をせず、「まあね。だから、次からは絶対にやるんだ」と言って笑う。たぶん、次も改善されていることはないだろう。
「でもさあ、間違えたら恥をかく、っていう雰囲気が良くないと思わない。誰だって間違いはあるのに、がんばって人前に出て、加えて恥かかされたら、日本人はみんな小心者の集まりになるよ」
 と私は言った。
 紗音が大げさに手を振って、「ああ、やだやだ。これだから文学少女は、すぐに話を論理的な方に持っていく」と嫌がる。
「別に、普通の話じゃん」
「アメリカは、みんな授業中、積極的だったよ。間違いを恐れないで、先生が困るくらいに積極的」
 すーさんが彼女にしか言えない経験談を語った。
「あ、そうなんだ。確かに、アメリカ人って、そういうイメージあるわ」打って変わって、紗音が興味を示す。
「うん。だから、日本に来たとき驚いた。先生に当てられるまで答えが分かってても言わないなんて、って戸惑ったなあ」
「ほら、やっぱり日本は良くないよ。誰もがプレッシャーを感じないで答えられる環境が、必要だと思う」
「私も思う。そういう部分はアメリカを見習って、変えていくべきだと思う」
「あんたら、そう言うけどさ、」紗音が割って入る。「そういう立派な意見は、ちゃんと宿題やってから言おうね」
 三人で笑った。言えてる、紗音には言われたくないけど。何よ、正しいことを言っただけよ。
 性格がバラバラな三人が親友同士な理由は、付き合いが他の人より長いのもそうだが、似た者同士だからだ。矛盾しているようだが、ニュアンスは微妙に違う。そして、その違いが、確かに私たちを繋いでいる。

 放課後、高校生にとってお待ちかねの部活の時間がやってくる。男子は走って部室まで行き、笑い声を上げながら運動できることへの喜びを表している。女子も運動部、文化部などへと仲のいい友達と分かれていく。中学から惰性で続けてきたバドミントン部の紗音も、すでに同じ部の人たちと体育館に行った。ただ、バドミントン
への熱い思いは欠如していて、なかなか上達しない。
 すーさんは卓球部に入っている。彼女も真面目に取り組んでいるとは言えず、気が乗らない日は平気でサボる。
 帰宅部の私は、図書室へ行く。得意なスポーツはおろか、少しでも興味のあるそれが私には存在せず、といって文化部は時間の無駄のように思え、それなら本でも読んでいた方が有意義だ、という理由から帰宅部を選んだ。まあ、どんなに言葉を尽くして理由付けしてみたところで、傍から見たら取り柄のない人が行くところもなく
帰宅部になった、と見るのが普通だろう。
 私は図書室によく行く。本を借りに行く、読みに行くのもあるが、司書さんと話をしに行くときの方が多い。
 司書の疋田さんは今年来たばかりだが、図書室に通っている内に親しくなった。紗音やすーさんとも面識がある。まだ、二十二歳。歳があまり離れていないからか、彼女も私と同じ本好きな人間だからか、共通の話題が多い。
 この日もカウンターの向こう側に座って、来客を待っていた。
「こんにちは、疋田さん」
「こんにちは」どこか遠慮していそうな、はにかんだ笑顔で私を迎える。「何か飲む? おいしい紅茶があるわよ」
 疋田さんは、私たちだけに特別に飲み物を出してくれることがある。本当はあまりよろしくないことだけど、図書室は人が来ないので、見つかる心配はない。
「いえ、今日はすぐに帰るんで」
「あら、そうなの。この時間、秋美ちゃんくらいしか来ないから、寂しくなるわ」
 疋田さんの向かいに腰掛け、今日、学校であったこと、最近お互いに読んだ本のこと、世間のことを話し合った。
 時間があっという間に経っていき、「じゃあ私、そろそろ帰ります」と告げて、図書室を出た。背中で疋田さんの、また明日、を聞きながら。

 家に帰ると、マサの靴が置いてあった。母はまだ仕事だろう。父は、買い物にでも行っているのだろうか。
 ――全て、無に帰そうと思っただけさ。
 ――お前、変わっちまったんだな。あんなに、正義に燃えてたのに。
 ――どうして……こんなことになっちゃったの……。
 ――うるさいな。今さら泣いても、もう遅いんだよ。
 ――決着をつけよう。
 ――もとより、そのつもりだ。
 マサの部屋の中から、声が聞こえる。まあ、いつものことだからと、私はそこを通り過ぎて、自分の部屋に入った。
 引き出しからノートを一冊取り出した。今日は宿題が確かないし、あったとしてもこれを優先しない日はない。この前の連休中もそうだった。だから、宿題が終わらなかったわけだけど。
 話の続きを書き始める。今、書いている話は、仲の良かった三人の男女が、次第に恋愛関係ですれ違うようになり、ついには一人を凶行に走らせる、というもの。あんまり、書いていて気持ちのいいものではないが、一度は挑戦してみようと思い立ち、精力的に続けている。
 小説を書くようになったのは、小学生から中学生になる境だったと思う。早過ぎるような気もするし、もっと前からやっていても不思議じゃない気もする。きっかけは、もちろん本だった。記憶のある頃から私は本を読んでいて、だんだんと自分でも綴ってみたいと思うようになった。勉強で使うと偽って買ってもらったノートに、思いつくままに話を書いていき、いつの間にか引き出しの中はノートでいっぱいになった。
 書き始めてから、本の素晴らしさを再認識した。読んでいるときは、私でもいけるのではないかと思えるのだが、実際にやってみると難しかった。話を組み立てるのも、キャラ設定も、言葉の使い分けも。これをいとも簡単にやってのけて、一つの作品に仕上げる本物の小説家たちは、すごいと思った。尊敬した。
 そして、憧れに変わった。いつかは私も、と思うようになっていった。将来、小説家になりたいと真剣に考えるようになった。
 そして、進路の岐路に立たされている高校三年生の今、私はとりあえず大学進学を希望し、将来の夢はないと言っている。何となく、他にも密かにいるかもしれないが、小説家になりたいとは、先生方に言えなかった。

 父が帰ってきた。きりが良かったのでノートを閉じ、引き出しに戻した。ベッドの上に置き去りにされた鞄から、学校でもらったプリントと本を出し、本は机の上に置いて、プリントをリビングに持って行こうとした。
 マサが部屋から出てきた。
「あれ、姉ちゃん、帰ってたんだ」
「とっくに帰ってたわよ。あんた、どうせ没頭してて、物音も聞こえなかったんでしょ」
「ちゃんと外の気配に耳を澄ましてるよ、いつも。そうしないと、父さんにばれるじゃん。姉ちゃんが静か過ぎたんだよ」
 私は何も答えず、リビングの一角に幅を利かせている丸テーブルの上にプリントを置いた。
 父は、スーパーの袋から食材をガサゴソと音を立てながら手にとっては、冷蔵庫にしまったり、台所の上に置いたりしていた。手馴れたもので、彼は頭の中で今日の献立や、あるいは明日のことまで考えている。すっかり、家事作業が板に付いてしまった。
「おかえり、お父さん」
「ただいま。二人とも帰りが早いな。おかげで安心して買い物に行けるんだけどな」
 と言って、笑った。私も曖昧に笑った。
 マサも私と同じで、帰宅部だ。いや、部活に入っていない、と言った方がいい。
 マサは勉強が何でもできるが、運動もそうなのだ。昔から、ちょっとやればすぐにできるようになるし、足も速かった。なのに、何で部活に入っていないのかというと、その理由も何でもできるからなのだ。
 マサは中学入学当初から、色んな部活からスカウトされてきた。しかし、マサは一つに絞ってそれだけに時間を費やすことを嫌だと思った。だから、どこにも属さず、その代わりどの部活の試合にも助っ人として参加する。そして、参加したからには、きちんと活躍する。そういう弟なのだ。
 私とマサの同じ立場に見えて、全く正反対の立場。消極的な理由か、そうではないかの違い。
 父の手伝いでもしようかと思い、手を洗って、野菜を手に取った。私はときに、必要以上に悲観的になってしまう。野菜を言われたとおりに切りながら思った。身近に完璧な人間がいると、自分の不満のない人生に、灰色の靄が立ち込める。そんな自分を、いつも客観的に見ている。あーあ、そんなに他人と比べなければいいのに。自分のことなのに他人事なその声は、私の自我を歪ませる。今、誰かと接しているときの私は、本当の私なのだろうか、と不安になる。

   二 市原政宗

 紗音は、私たち三人の中で疑うことなく一番かわいいだろう。私は比較対象に挙げるまでもない。また、すーさんを紗音よりかわいいと認定するには、違うかわいさで勝負しなければならない。何てことをふとしたときに思う。でも、人は見た目だけじゃないよ、中身も肝心、と私は自分への慰めを込めて結論を下す。
 ふとしたときとは、たとえば今、この瞬間。
 三人で、移動教室のため、廊下をのんびり歩いていたら、後ろから男子集団が追い抜いて行ったかと思うと、その内の一人が紗音に耳元で囁いて、二人は笑い合った。手を振って、遠ざかっていく。圧倒的なかっこよさはないけど、服装もつんつんさせたその髪型も今の若者風な彼は、紗音の彼氏だ。
 紗音は昔からもてた。やっぱり見た目は大事で、彼女にアタックする男子は、中学時代から多かった。また、彼女は熱しやすい性格で、すぐに誰かを好きになり、そしてその想いは片想いでいつも終わらず、付き合ってきた。
 熱しやすい一方で、冷めやすい。彼氏と長く続かないのも彼女の性質であり、中学三年間で三人の男子と付き合っていた。今現在付き合っている彼とは一年半続いていて、最長記録を更新中だ。
 付き合うことがどんなことか、全く知らないわけじゃない。小説の中で現実離れした恋も、普通の恋も経験している私にとって、縁のないもののはずなのに、あんまり遠いところにある気がしない。
 紗音がかわいいのを、妬ましく思ったことはない。一緒にいて引け目を感じたことはない。でも、たまに考えてしまうことがある。私が紗音みたいに誰もが認めるかわいい女子高生だったら、彼女と同じようにもてるだろうか、と。もてたいわけじゃない。性格的に、そういうのを面倒に感じるのも事実だ。だけど、一般の幸福がもて
ることなのであれば、その容姿を認められることなのであれば、私はまた一つ、幸福の材料を持ち合わせていないことに気付いてしまう。

「悲しみの夜を越えて~、僕らは歩き続ける~」
 紗音の歌声が、教室の喧騒の中に混じって聞こえる。歌うのが好きな彼女は、人前でも臆せず歌う。そして、上手い。
 チャイムが鳴った。散らばっていた生徒たちが、自分たちの席につく。先生が入ってきたと同時に日直が号令をして、挨拶をする。また席について、授業が始まる。
 授業中、誰もが真面目に先生の話を聞いているわけではない。すーさんは、折り紙を作っている。日本に来るまで折り紙を知らなかった彼女は、それを知ると、普通以上に好きになってしまい、暇さえあれば紙を使って、多種多様なものを作り出している。授業が暇な時間とは、学生の本分を忘れている証拠だが、この学校で何よりも先んじて勉強、という人は少数派で、別にすーさんが珍しいわけじゃない。折り紙をやっているのは、珍しいけど。
 紗音は、面倒くさそうに話を聞いていて、たまに思い出したように携帯を取って、いじっている。あるいは、寝ている。容姿が容姿だけに目をつけられやすく、先生に怒られることもしばしばだ。そしてその後は必ず、私たちに愚痴る。誰々も寝てたのに、あいつ、私のこと嫌ってるよね、あきらか。と。
 筧もまた、まじめに授業を聞いていない一人だ。絵を描くことが好きな彼は、板書していると見せかけて、ノートの端に落書きしていたり、ちゃんとスケッチブックに絵を描いていたりする。ちゃんと、というのはおかしいが。
 筧明は、私にとって唯一と言っても過言じゃないくらいの男友達だ。周りと強調しようとしない、自分を曲げない性格の彼は、他の誰よりも中身のある人間に思える。その他の男子だと、思うように話せなくてもどかしさを覚えるが、筧だけは別だった。彼とは自然な対応で接せられた。もどかしさとか、皆無だった。しかし、彼に恋愛感情を抱いたことはない。それに、おそらく向こうもないだろう。
 ある日、私と筧が二人で話しているところを見た紗音が、「付き合ってみたら?」と軽い冗談みたく言ってきた。冗談だったから笑って答えなかったが、真剣な問いとして吹っ掛けられたとしても、私の答えは決まっていた。そんなの、ありえないよ。
 決して、嫌じゃない。ただ、私と筧の関係をわざわざ呼称をつける必要はないと思うし、今のままでいることが、一番いいと信じている。それを壊しかねない行為は、少なくとも私からは控えたい。「恋人未満、友達以上」という言葉があるけど、私と筧はこれがふさわしいような気がする。でも、それを確認する作業はいらない。
分かっているから。信じているから。そんなに複雑なことはないから。いつ仲良くなったのか覚えていないくらい、当たり前の関係だったから。

 部活の時間。帰ろうとした私は、能瀬先生に呼び止められた。いつも怒っているような顔の彼に捕まると、真っ先に何か悪いことをしただろうか、と考えてしまう。日本史の時間、寝ないで授業を聞いていたし、それ以外の時間で校則違反に値することは、根がおとなしい私は、そんなこと進んでしない。
「君には、弟がいたね」
 話が全く予想外の方向だったので、戸惑った。「はい」嘘をつく必要はないから、とりあえず答えた。
「政宗君、だったかな」
「はい」
 マサが、何か悪いことでもしたのだろうか。あるいは、事故にでも遭ったのだろうか。だとしたらどうして、担任が言いに来ないのだろうか。と、話が進む前から際限もなく考えた。
「くれぐれも、人として間違ったことをしないように、というか、社会のルールに反するような真似は、おれの目が黒いうちは絶対に許さないぞ、と伝えてくれ」
 それだけ早口に言うと、背中を向けて、去ってしまった。
 私は理解に苦しんだ。しばらく、その場に立ち尽くしていたが、ずっとそうしているわけにもいかず、歩き出した。
 そして、思い出した。そうだ、先生の名前は、能瀬じゃないか。

 その一週間前、マサが私の部屋に入ってきた。
「姉ちゃん、ちょっと話があるんだけど」
 マサが、姉として頼りないはずの私に話を持ち込むのは、珍しいことじゃない。要は、親にも友達にも言えないが、私になら言えることがあるのだ。兄弟とは、そういうものだ。
「実は、彼女ができたんだ」
 最初、のろけ話かと思ったが、それにしてはマサの顔は暗い。
「へえ、良かったじゃない」
 私は本当に良かったと思った。現代に生きる光源氏みたいなマサが、ちゃんと一人を選んだのは、純粋に喜ばしいことだと思った。
「それがさ、付き合ってから分かったんだけど、その彼女のお父さんが、姉ちゃんの高校の先生なんだって」
「え、そうなの」
 どの先生が結婚していて、子どもがいるかどうかは、詳しく知らない。だけど、子どもが身近にいても不思議ではない。わざわざ遠くを選んで、無理に親と離れる必要はないのだから。
 でも、思い当たる先生はいなかった。
「彼女の名前は、能瀬詩織っていうんだ」
 能瀬――聞いたことあるなぁ、ああ、日本史の先生だ。あの、いつも怒っているような顔の人。
「ああ、能瀬先生、確かにいるよ」
「でしょ」
「でも、それで何か問題があるの?」
 さっきから話を進めるマサの顔は、不安を帯びている。
「その先生、彼女に聞いた話によると、その――極度の親バカらしくて……」
「親バカ?」
「うん」
 二人の間に沈黙が流れた。それを破ったのは、私の笑い声だった。だって、とても信じにくかった。あの能瀬先生が、親バカなんて。
「本当なんだよ」
 笑う私にマサは顔を緩めずに言った。
「何か、相手がどんな男なのか気になって、まあ、今回の場合、おれだけど、その男の兄弟に質問攻めしたり、しつこいくらい念押しの伝言を頼んだりするらしくて」
「分かったわ」私はまだ笑っていた。「せいぜい、気をつける」
 しかし、実際に先生が言ってくるまですっかりこの話を忘れていた。



 家に帰って、荷物を持ったまま、マサの部屋に入った。
 マサはいつも通りあれをやっていた。ベッドの上には人形とぬいぐるみがたくさん出ている。
 マサには一つの変わった趣味がある。一般的に小さい子どもがやるお人形遊びと呼ばれるものを、十五歳になる今でもやっている。自分でストーリーを考えて、父と母がいない時間帯に、遊んでいる。昔は、本当に昔は、私も一緒にやっていたが、さすがに今はやろうと思わない。なのに、マサは、これを長期間できないと、目に見えて不機嫌になるのだ。麻薬みたいに、やめられないという。まあ、麻薬と違ってかわいい話だが。
 このことを知っているのは私だけだ。マサの親友の智明君や、仲のいい女子にも言わない。というか、言えないだろう。外ではかっこよくて、勉強も運動も完璧にこなせるマサのイメージを、根本的に覆すものになるからだ。両親にまで隠しているのだから、徹底している。
「何、姉ちゃん」
 マサは恥じることもなく、やっていた遊びを中断させて、私の方を向いた。
「ごめん、ちょっと話があって」
「話? じゃあ、今日はここまでにするかな」
 マサは人形やぬいぐるみをダンボールの中に入れて、ベッドの脇にどかした。親には、私のだったが、自分の部屋に置く場所がないから、ここに置かせてもらっている、とうことにしている。
 私は物がなくなったベッドに座った。マサはイスに座った。
「今日ね、この前言ってた、マサの彼女のお父さんに伝言を頼まれて」
 マサは苦笑いを浮かべた。 
「ほんとうに来たんだ。本物の親バカなんだなぁ」
「ね。私もビックリしたよ。いきなり呼び止められて、何の話を切り出すのかと思えば、マサの名前が出てくるし」
「ごめん、おれのせいで」
「そんな、謝ることはないよ。怒られたわけじゃないんだし」
 マサは苦笑いを続けていた。彼女に言われて忠告したとはいえ、心のどこかで、まさかそんな、という気持ちがあったのだろう。
「伝言、聞きたい?」
「いいよ、だいたい予想つく。おれには接触してこないらしいし」
 これで先生関係の話は終わりだが、私は気になっていることがあった。「ねえ、彼女の写真ないの? どんな子か見てみたい」
 マサは引き出しから写真が何枚か入っている袋を出して、そこから一枚の写真を差し出した。どこかのお寺を背景に、マサと女の子が笑顔で並んでいた。修学旅行のときのだろうか。
「かわいいー」
 マサの彼女だから、ある程度予想していたとはいえ、その女の子はほんとうにかわいかった。紗音とはまた種類の違う、天真爛漫な性格を思わせる屈託のない笑顔。今まで見かけたことがある、マサと並んで歩いていたどの女の子よりも、彼女はかわいかった。
「名前、何だっけ?」
「詩織」マサの表情に明るさが宿った。「詩歌の詩に、織物の織」
「詩織ちゃんか。マサ、大切にしなきゃダメだよ。泣かせたら、私が許さないからね」
 結局、先生みたいに「許さない」を使った。先生の気持ちが、少し分かった気がする。こんなにかわいいのでは、心配になるだろう。そういえば、ぜんぜん似てない。名前が同じでも、二人を親子と結びつけるのは難しかっただろう。
「分かってるよ」
 マサは照れくさそうに笑った。

「一緒に帰ろ」
 学校が終わり、図書室に寄った後、校門で筧を見かけた。美術部に入っている彼は、火曜日と木曜日は早く帰る。帰っても絵を描いているらしいから、彼にとって部活があるかどうかは、場所が変わるだけだ。気がつけば筆を手にとって、無心で書いているそうだ。そんなに絵を描く気が起こるものだろうかと、私は不思議に感じた
が、私にとっての小説を書くこと、あるいは本を読むことに置き換えたら、納得がいった。
 一緒に帰ろう、と誘うと、筧は無愛想に頷いただけだった。彼のそんな態度に戸惑っていた頃もあったが、次第に慣れた。
「筧、大学どうするの?」
 話すのが久しぶりだったから、とりあえず、ありきたりなことを聞いてみた。
「何で進路の話なんかすんの?」
 筧は本当に嫌そうに呟いた。
「だって、もう三年生だし……」
「いいじゃん、そんなの。学校に洗脳されちゃった? 三年生は真剣に進路を考えて、受験勉強をするもんだって」
「洗脳って……」
 私は返事に困ったが、彼の言いたいことは分かる気がした。
「もしかして、不安なの? これからどうなるか、先行きが見えなくて、不安になってるとか?」
「あんまり、なってないけど。ほら、筧には将来の夢とかないの?」
 筧はちょっと黙ってから、「絵描き」と短く答えた。
「じゃあ、美大に行きたいんじゃないの?」
「まあ、そうかもな。でも、行けなくてもいいし、どっちにしろ、俺は絵描いてればいいだけ」
 私は足下に蝉の抜け殻を見つけた。踏まないように歩いて、前を見た。家がたくさんある。大きさや色に差はあるが、静かで、寂しく思えた。
「小説家って、どうやったらなれんの?」
 私の夢を知っているのは、紗音とすーさん、マサ、疋田さん、それから筧だけだ。両親には言ったことがない。気付かれているかもしれないけど、別に気付かれていてもいい。
 筧には、私から教えたわけではない。ある日、いきなり当てられた。――市原、小説家になりたいんだろ、と。ほぼ断定していた。どこからその自信が来るのか分からなかった。筧ならいいやと、肯定した。彼はやっぱりな、という顔で頷くと、それ以上は聞いてこなかった。
「さあ」
「さあ? 知らないの?」
「知らないこともないけど、新人賞を取るとか、それくらいしか思い浮かばないかな」
「じゃあ、取れなかったらなれないの?」
「自費出版とかもあるけど」
「いいじゃん、自費出版で。市原が出したら、おれが買うぜ」
 そう言ってくれるのは嬉しかった。でも、この気持ちをわざわざ言葉にして伝える必要はないと思うから、「でも、それじゃあ食べていけないよ」と言った。
 筧はまた黙った。私もちょっと黙ったが、すぐに今日あったことを話しかけた。筧は何も相槌を打たなかったが、耳は傾けているようだった。
 やがて、二人の間に沈黙が落ちると、筧がようやく口を開いた。
「大学行くとしたら、勉強すんの?」
「そりゃ、するでしょ」
「小説家になるのって、大変だな。ずっと書いてりゃいいわけじゃないんだ」
「美大だって、ずっと絵を描くわけじゃないでしょ」
 と言っても、美大のことをよく知らないから、推測でしかない。しかし、筧は続けて何も言わなかったから、たぶん、彼もよく知らないのだろう、と思った。
 私の家の近くまで来た。じゃあ、また明日、と告げようとしたが、家の前にマサと女の子がいたので、咄嗟に物陰に隠れた。筧も私に倣って、隠れた。よく見ると、その女の子は写真で見せてもらったマサの彼女、詩織ちゃんだった。
 写真でもかわいいと思ったが、少し遠いとはいえ、実物を見るともっとかわいいと思えた。彼女の全身から、輝きを放っているオーラが見えても不思議じゃなかった。でも、我が弟ながら、マサも負けていなかった。なんていうか、お似合いだ。
「あれ、市原の弟だっけ?」
 筧が言った。互いの面識はないが、何故か知っている。
「うん、弟。政宗」
「政宗? かっこいいな、伊達政宗みたいじゃん。女の子は、彼女?」
「彼女」
 筧は目を丸くした。
「ほんとうなんだ。市原、弟に負けてんじゃん」
「筧に言われたくないと思う」
 腹立たしくなかったが、一応、言い返しておいた。
 女の子がマサに手を振って、帰っていった。マサはそれを見送ってから、家に入った。
「じゃあ、私も帰ろう。またね、筧」
 筧に手を振ると、手を振り返さず、「ああ、またな」と言って、背中を向けた。

 次の日、図書室で本を読んでいたら、筧が入ってきた。図書室には他に誰もいなくて、疋田さんは私に留守番を頼んで、どこかへ行ってしまった。
「こんな広いのに、人いないな。もったいないくらいだ」
 そう言いながら、私の向かいに座った。
「いつも、こんなもんだよ。まあ、私からしたら静かだからいいと思うけど」
 私は栞を挟んで、本を閉じた。
「市原の弟の彼女、メール狂だな」
「メールしまくるってこと?」
「そう」
「そうなんだ」
 そういえば、確かにマサが携帯をいじっていることが多くなった。
「あの後、おれと方角一緒だったから、様子見たんだけど、休まずメールしてんのな。しかも、速いのなんの」
 まあ、最近の若い子なら、それくらい普通だろう。それで詩織ちゃんのイメージが私の中で悪くなることはない。認識を改めるとすれば、ますます能瀬先生との結びつけが難しくなった。
「あの子、能瀬先生の娘なんだよ」
「そうなのか」
 筧にしては珍しく、大きな声で驚いた。そうとう、驚きだったらしい。
「じゃあ、市原、言ってやれよ。先生、あのままじゃ、いつ交通事故に遭うか分かりませんよ、って」
「嫌よ。筧が言ったら?」
「おれ関係ないし。あの先生と関わるのも、面倒すぎる」
「私だってそうよ」
 突然、ドアが開いた。疋田さんが帰ってきた。
「あら、お邪魔しちゃった? もっとゆっくり帰ってくれば良かったかしら」
 ビニール袋を持った手を口の前に当てて、冷やかすように笑っていた。私は慌てて、否定した。
「そんなことありません。私と彼は、そんな関係じゃありませんから」
「そんな関係って、どんな関係だよ。指示語でぼやかしたら、誤解を招くぞ」
 何故か筧に追及された。意地になって、「恋愛関係よ」と返すと、「そんな大きな声で言うなよ、恥ずかしいやつだな」と真顔でたしなめられた。
 疋田さんはそんな光景を見ながら、「なるほどね」と納得してしまっていた。本当に誤解を招いたかもしれないと分かったが、これ以上口を開くと墓穴を掘るか、筧に余計なことを言われそうなので、むっすりと黙った。
 広い図書室に、三人だけがいた午後のことだった。

 詩織ちゃんを再び、この目で見ることができたのは、それから一週間後のことだった。
 休みの日に、隣町のわりと大きな本屋に行こうとした私は、駅で彼女を見つけた。制服で、学生鞄を背負っているところを見ると、部活帰りのようだった。朝早くから学校に行っていたのだろう。ご苦労なことだ。この前と同じく、髪をかわいく結わっている。彼女にとって、何てことのない作業なのだろうが、髪の結い方一つで、
差をつけられている気がする。まあ、私に争う意思はないけれど。
 壁に寄り掛かって、筧が言うように、ずっと携帯を手に持っていた。私の二倍くらいの速度で文字を打っているようで、それがほとんど――全部だったら、恐ろしいが――マサに送られているメールだとしたら、マサもいつか煩わしく感じるのではないかと心配になってしまう。
 電車が来た。詩織ちゃんは携帯を閉じて、鞄の中にしまった。私も隣車両に乗って、彼女の様子を窺っていた。
 電車に乗ると、また鞄から携帯を出した。本当に、息つく暇もない。見ているこっちが疲れてしまいそうだ。
 私は二つ目の駅で降りたから、その後、詩織ちゃんがどこへ行ったのか分からない。家がどこかも知らないから、検討もつかなかった。

 社会科は選択制になっていて、日本史、世界史、地理から一つ選ぶことになっている。政治・経済は必修。私は漢字の方が覚えやすいし、地理はどう勉強したらいいか分からないので、日本史。紗音も私を真似て日本史を選択しているが、すーさんは世界史。ついでに言っておくと、筧は地理。
 日本史の先生は、あの能瀬先生。授業はいつもピアノ線みたいにピーンと張り詰めていて、忘れ物をしようものなら、恐ろしいことになる。それでも、紗音は思い出したように忘れ物をする。紗音のいいところは、どの授業に対しても平等にやる気がないのだ。
 授業が終わって、見えない圧力から開放されたような気分で紗音とともに教室に帰ろうとすると、後ろから先生の声がした。
「市原、ちょっと来てくれ」
 怒られるとは思わなかった。話すことは、たぶん、あのことだ。
「紗音、先行ってて」私はそう言って、先生の元へ小走りで行った。
 先生は厳しい顔を崩さないまま、「どうだ、その後」とだけ言った。
「その後って、私の弟のことですか?」
「二人の付き合いのことだ。――そうだ、おれが言ったこと、ちゃんと伝えてくれたか」
 結局、マサがだいたい予想つく、と言っていたから伝えなかったが、正直にそう言うと、面倒なことになりそうだったから、「はい、伝えました」と答えた。
「二人はどのくらいの頻度で会っているんだ?」
「え、それは、分からないです。帰りは、一緒に帰っているようですけど。休みの日に、会っているかどうかは知らないです」
「そういう話は、しないのか?」
「はい、あんまり……」
 しても、先生にありのままに話すことはない。
「分かった。すまなかったな、帰っていいぞ」
「失礼します」
 腕で日本史の教科書らを抱えながら、頭を軽く下げた。
 外に出ると、紗音が待ってくれていた。
「先帰ってて良かったのに」
「うん、帰ろうと思ったけど、何となく魔が差して」
 私は笑った。「それ、気が向いての間違いじゃない?」
「まあ、ニュアンスは伝わるでしょ」
 紗音は、私の隣で小さく歌い出した。廊下には、数人の生徒が立っていた。それぞれ休み時間を過ごすための場所として、友達とお喋りに興じる場所として、そこを選んだのだろう。
「怒られたわけじゃなさそうね」
 歌いやめて、紗音がそう言った。
「私が怒られるようなことするわけないでしょ」
「そうよね。じゃあ、どうして呼ばれたの?」
 私は話すかどうか迷った。紗音を信用してはいるが、お喋りの性格が災いして、他の人に広まったら、言ったのは間違いなく私だと疑われて、先生に勘当されるかもしれない。
「絶対に、誰にも言わないって約束できるなら、教えてもいいよ」
 こう前置きして、紗音の様子を窺った。紗音はぶっきらぼうに、「言うなって言うんなら、黙っとくけど」と答えた。これなら、大丈夫かもしれない。絶対に言わない、と強い口調で言い張られるよりは、心配ない気がした。
「私に弟いるじゃん」
「ああ、まさ――」
「政宗」
「そう、政宗君。え、先生と関係あんの?」
「最近、彼女ができたんだけど」
「へえ、そういえばかっこよかったもんね。歳がもう少し近かったら、私も狙ってたかも」
 聞き捨てならなかったが、そこは無視した。
「その彼女が、能瀬先生の娘さんだったの」
「ええーっ」紗音は驚きの声を上げた。「うそ、すごいね。ってか、娘いたんだ」
「それでね、私に色々と言ってくるわけよ。ちゃんとした付き合いをしているのか、みたいなの」
 紗音はしばらく目を丸くしていたが、やがてすぐに、あきれたように笑った。意外と親バカなんだ、と呟いて。

   三 須崎里実

 父が夕方の時間、家にいる約二週間がある。普段は買い物をしに行って、家を留守にしているが、この二週間だけは午前中に買い物を済ませる。理由は、年六回行われている大相撲を見るためだ。
 朝ドラと大河ドラマを欠かさず見る父は、加えて相撲も見逃さない。テレビの前に座って、二時間くらい、最初から最後まで見ている。相撲を見ていると眠くなってしまう私には、そこから長時間、興味を持続させるものを見出すのが難しく思え、父が不思議でならない。
 その代わり、その二週間、不機嫌になる人間がいる。遊びを封じられてしまうマサだ。マサは家に父か母がいるときは絶対に「お人形遊び」とやらをやらない。そして、できなくなると目に見えて不機嫌になる。夕飯の間、食べながらぶつぶつ呟いたり、部屋で気味が悪いほど勉強に集中していたり、風呂で突然、叫び出したりする。父は、マサがたまに変になることを認めているが、それが相撲の時期と重なることには気付いていない。  
 この水面下の問題を解決する具体的な策はない。少なくとも第三者の私には。父に相撲を見るのをやめろ、というのは理不尽だ。といって、弟の趣味を否定して、不機嫌になることを叱責するのもおかしな話だ。この期間は、放っておくしかない。私は見て見ぬ振りをしている。深刻な問題に発展しているわけじゃないのだから、考え過ぎても仕方ない。

 彼女の机の中には、たくさんの、色とりどりの鶴が住んでいる。また一つ、彼女の手によって増えた。生みの親は、授業をまったく聞かずに、熱心に鶴を折り続けている。
 私は手先が器用でないから、折り紙は幼い頃にしかやったことがない。幼い頃にやった、というのも推測に過ぎないから、やっていない可能性もある。それだけに、あんなに簡単そうに何でも折れてしまうすーさんが、本当にすごいと思う。
 すーさんが折り紙をやらずに、真面目に授業を受けているのは、英語くらいだ。自分ができることなら、やっていて面白いようで、私にとっての現代文の授業に当たるのだろう。
「すーさん、折り紙、ちっちゃいときからずっとやってた?」
 授業が終わって、すーさんの机にいった。
「うん。幼稚園から」
 その頃やっていたことを覚えているなんて、それだけ好きだったということか。
「何々、幼稚園の話?」
 紗音もやって来た。
「違うわよ。折り紙の話」
 私が反射的に否定した。
「私、保育園だったんだよね。幼稚園って、勉強するところなの?」
 紗音はお構いなしに話を別の方向に進める。
「私はアメリカだったから、日本と違うかもしれないけど――というか、折り紙していたことくらいしか覚えてないから、何も言えないや」
 すーさんも紗音の方へ乗ってしまった。仕方なく私も乗る。
「アメリカかー。幼稚園って、英語で何て言うんだっけ?」
「キンダーガーテンだよ。ナーサリーとも言うけど。授業で習ったと思うけど」
「そうだっけ?」
 私はまったく記憶になかった。
「そうよ。そんくらい、知っときなさいよ」
「紗音も知らなかったでしょ、どうせ」
 ぴしゃりと言い放ってから、腕組みをして思いを巡らしてみた。私の幼き頃。「そういえば、私も保育園だったな」
「マジ? 何してたか覚えてる?」
 紗音が言った。
「今、思い出そうとしてみたんだけど、ご飯にみそ汁を入れられたことくらいしか覚えてないな」
「え、何それ?」
 意外にも、すーさんが興味を見せた。
「いや、一つ上のいじめっ子が、私のご飯に私のみそ汁を取って、いきなりかけたのよ。それで、私、大泣きしてさ。たぶん、いじめっ子は先生に怒られたと思う」
「何で覚えているのがそんなことなのよ」
 紗音が笑った。自分でもこの記憶は不思議だと思う。
「意外と、根に持ってたのかもね」
 すーさんも笑った。
「ああ、秋美、食べ物関係だと根に持つからね」
「持たないわよ」
 しまいには、私も声を上げて笑った。

「ねえ、幼稚園の頃のこと覚えてる?」
 放課後、図書室で出くわした筧にも聞いてみた。「やっぱり、絵描いてたの?」
「描いてたんじゃね? 分かんないけど」
「覚えてるんだ」
「絵、描いてたことくらいだけどな。あとは、何も」
 すーさんと一緒で、自分の好きなことは覚えているようだ。そうすると、私はやはり食べ物になってしまう。あるいは、いじめに対する他の人と違う強い気持ちがあったのだろうか。
「昔から、上手かったの?」
「上手いわけねえだろ。下手くそもいいトコだった。――卒園のときに、おれ、保育園だったんだけど、一番思い出に残っていることを絵に描く、みたいなので腸を描いてさ」
 言いつつ、筧は自分のお腹を指した。
「腸?」
 私も確認のために、自分のお腹を指した。
「ああ、あの長くて、くねくねしてるやつ。おれ、そんときは胃、って間違えて言ってたんだけど。――そしたら当然、先生に怒られて。それでおれは、これはみんなで行ったサイクリングコースだって言い張って、結局それ使った」
 私は口に手を当てて笑った。
「筧、そんな小さい頃から曲がった性格だったのね」
「そこかよ。まあ、あんまり協調性とかない子どもだったかな」
 筧が真面目にそう言うので、私の笑いは止まらなかった。
 筧は、用事があるから、と言って帰った。
 しばらく、疋田さんを相手に話していたが、今度はすーさんが図書室に来た。
「あれ、すーさん。部活は?」
「今日は、サボリ」
 のんびりした口調で言った。すーさんは、たまに部活をサボる。しかも、頻度としては紗音よりも高い。
「すーさん、もったいないよね。実力あるのにやらないなんて、宝の持ち腐れよ」
「知らないよー。私、早く引退したいのに」
 すーさんはカウンターの手前の、私の隣のイスに座った。
「あと少しじゃん」
「まあ、そうだけど」
 彼女は、卓球部に所属している。その実力は、全国大会に出られるほど、強いらしい。高校に入って、卓球部の顧問に誘われ、仕方なく入ったが、特別扱いされるのを嫌がり、仲のいい友達もいないことから、次第にサボりがちになった。結局、高校三年間で一度も全国大会に行けなかったが、そもそも一度もちゃんと大会に参加しなかった。
「卓球強かったら、大学に推薦で行けたんじゃない?」
 疋田さんが割って入ってきた。
「ですよね。ホント、もったいない」
「だって、推薦で行ったら、ずっと卓球していなきゃいけないじゃない」
 得意なものなら、当人にとって楽しいものだと思っていたが、必ずしもそうじゃないようだ。苦手な人からしたら、妬みの対象になりそうだけど。
「また、幼い日々の話?」
 すーさんが言った。
「そう。――そうだ、疋田さんって、高校時代、どんな女子高生でしたか?」
 疋田さんはまだ二十二歳だから、高校時代といっても、そんなに昔のことではない。
「まあ、いたって普通の高校生だったわね。でも、小説家になりたくて、ずっと家で書いてたわ」
「秋美と一緒じゃん」
 すーさんに言われるまでもなく、私は気付いていた。「それで、ダメだったんですか?」
「うん、いろいろあって。小説家は諦めて、司書の資格とって、今こうして学校で働いてる。秋美ちゃんも、小説家を目指しているの?」
「はい……」
「頑張ってとしか言えないけど、簡単に諦めちゃダメよ。後悔することになるから」
 疋田さんの目に、見たことのないものが宿っていた。そうして、気付いた。疋田さんは後悔した一人なのかもしれない。
 私は黙って、頷いた。

 期末試験があった。今までは周りとそんなに差がないと油断していたが、受験シーズンになって多くの人が勉強を始めてしまったようだ。予想以上に周りと開きがあった。実際に確かめたわけじゃないけど、自分の点数と平均点を比べてみて推測できた。
 私たち三人はいつも通りの結果だった。あの二人と一緒にいると、焦りとか不安を感じなくなる。本当は、それはまずいことだ。
 そんな私にも、得意教科が一つだけある。読書で培った読解力で、今回の現代文のテスト、学年で三位を取ってしまった。特別、勉強していなかったにもかかわらず。
「すごい、見てよすーさん、私、現文で三位だった」
 教室で全体の結果が配られた後、私は喜びを抑えきれずに、すーさんの元に行った。
「すごいじゃない。いつの間に勉強してたの?」
 すーさんはとても驚いた表情を浮かべている。
「それが、ほとんど何もしてなかったの。私自身、ビックリしちゃった」
 言ってから、ちらっと、すーさんの結果に目を向けた。
「すーさん、英語どうだった?」
 彼女は英語で学年一位を取ったこともある。
「二位だった。勉強したんだけどなあ。惜しかった」
「でも、すごいじゃん」
「まあ、他がダメダメだけど」
「あんたたち、ずるいわね。得意教科があったら、私が勝てないじゃない」
 いつの間にか横に紗音が来ていた。紗音は、いつも私たちの中で最下位になる。それが、学年の最下位だったこともある。
「あーあ。現代音楽でもあったらなあ。勉強しないで高得点が取りたい」
 紗音の嘆きは分かるが、何もしないで高得点を取るのは虫のいい話だ。私だって、人並み外れた読書量があり、すーさんは小学校までアメリカで過ごして英語力を培った。だから、他の教科もがんばればできることは分かっているが、がんばれない。勉強で努力できる才能、というものが、きっと存在するのだろう。

 学校が終わると、図書室に向かった。筧がいる気がしたからだ。
 予想通り、筧が本を眺めていた。
「筧――あれ、何これ」
 見ると、机の上にテストが散らばっていた。名前は、筧あきらと書いてある。
「ああ、捨てようと思って、忘れてた」
 筧は事も無げにそう言った。
「捨てるの? 返されたばっかりじゃん」
「だって、いい点数一つもないのに、取って置くなんて虚しくね」
 気持ちは分かる。私だって、びりびりに破いて捨てたいテストがいっぱいある。
「筧、何で自分の名前漢字で書かないの?」
 話を変えた。さっき見つけたが、筧は「あきら」と下の名前を平仮名で書いていた。正しくは、「筧明」となる。
「おれ、その名前嫌いだから」
 そういえば、前に一度、聞いたことがあった。「ああ、中国人みたいだからだっけ」
「そうだよ。筧明って、ケンメイみたいだろ。中国人みたいな名前付けやがって。絶対、狙ってるだろ」
 筧は不満たらたらだ。彼の親の真意は分からないが、彼に同情してしまう。そんなに、悪い名前でもないと思うが。
「名字一文字、名前一文字って、確か日本史で出てきたよ。えっと、平民宰相って言われた――」
「原敬だろ」
「そうそう。筧、日本史だっけ?」
「地理だよ。でも、先生に言われたことある。原敬みたいだな、って」
 筧は原敬という名前も忌み嫌った言葉のように口にする。原さんにしたら、とんだとばっちりだろうけど。
「何で地理にしたんだっけ?」
 社会科の選択肢は、日本史と世界史もあった。
「絵、描くかと思ったんだよ。でも、なかったな、普通に」
「そりゃ、ないでしょ」
「あーあ、美術のテストがあったらなあ」
 筧まで紗音みたいなことを言うので、私は思わず笑った。

 家に着いたとき、気分が高揚していた私は、その勢いでリビングまで行ってしまった。
「お父さん、見て、現文で学年三位取っちゃった」
 と言いながら入ると、珍しく母が早く帰っていた。というか、タイミング悪く。
「おお、すごいじゃないか、秋美」
 父は期待通り、褒めてくれた。
「あら、すごいわね。――それで、他のテストはどうだったの?」
 母は、笑顔を作っていたが、私は見透かされている気がした。
「うんと、まあ、いつも通りっていうか……」
「秋美」
 母がいかにも、これから説教しますよ、という声のトーンで遮った。その表情に、圧倒されそうになる。そんな、娘を叱るためだけに女優スキルを使わないでほしい。
「あなた、いつもテストの結果、見せないわよね」
 私は黙って、俯いた。やっぱり、見透かされていた。
「なのに、いい点取ったときだけ見せるなんて、ずいぶん調子のいい話ね」
「ごめんなさい」
 自分でも分かるくらい、弱々しい声だった。
「謝らなくていいのよ。ただ、もう三年生でしょう。進路のことでこっちからとやかく言わないけど、ちゃんと自分で考えて、納得できる選択をしなさいよ」
「はい」
 反論の余地なし。
「それにしても、」母がとびきりの笑顔を作った。今までの説教を帳消しにして、余りがあるほどの。「学年三位なんて、すごいわね。あなた、今日は秋美の好きなポテトサラダを作ってあげたら」
「ああ、そうするか」
 父の声を聞きながら、私は思っていた。母が私に一方的に話している間、父は一度も口を挟まなかったな、と。

 お風呂の中で、ぼんやりと考えごとをしていた。
 マサが詩織ちゃんとどのくらいのペースでデートしているのか、能瀬先生じゃないけど、気になっていた。もともと、部活の助っ人で試合に出たり、生徒会の仕事で忙しかったりするから、家にいなかったらデート、と結び付けられない。
 マサは、中学校の生徒会長をやっている。私にとって、まるで縁のないものなので、初めマサが立候補すると聞いたとき、マサの思っていた以上に驚いてしまった。対岸で決められる私の干渉の仕様がないものだと思っていたのが、いきなり川に橋が架かったのだ。自分の弟によって。
 マサはダントツの得票数で当選し、学校の運営のために、忙しく働いていた。
 思い出してみれば、もう三年生のマサは次の生徒会長に引き継いでいるはずだった。一学期の半ばに選挙があることを忘れていた。
 それに部活だって、三年生は引退しているだろうし、マサが忙しくなる理由はなかったじゃないか。自分で勉強のできるマサは、塾にも通っていない。
 そうだというのに、最近のマサの家にいない頻度が変わっていないということは、その空いた時間を詩織ちゃんと過ごす時間に当てている、とうことか。
 だとしたら、頻度は相当のものだ。今度、先生にこの間と同じ質問をされたら、うっかり「よく会ってるようです」と答えてしまいそうだ。
 私は風呂から出た。今日はのぼせなくて良かった、なんて思考の端で思った。
 二人がデートしているところを見てみたい、という考えが唐突に降ってきた。羨ましいわけじゃなく、応援したいわけじゃなく、小説の参考にするわけじゃなく、紗音やすーさんと話すときのネタにするわけじゃない。理由は挙げようと思えば、いくらでも列挙できそうだが、どれもピタリとはまるものはない。降ってきた、という表現が適切なほど、私の目の前に現れた。
 理由が不明確なくせに、意志は揺らがない。デートしているところを見てみたい。マサと詩織ちゃんがデートしているところを。
 しかし、マサの後を付けるのは徒労だ。偶然、生活している中で見られることに期待したい。

 世の中は思い通りになってくれない。期待しがちな人間という生きものにとって、結果が望みと離れていると、憤ったり、悲嘆したりする。
 でも、ときには望みとかすっているときもある。非常に近いけど、決してそうじゃないものが現れると、人は少し救われた気がする。あきれて、笑ってしまうだろう。これでいいか、と妥協するだろう。これで諦めるわけにはいかない、と奮い立たせる活力にするだろう。
 そんなに大げさな話ではない。でも、他の人と違って、ものごとをとにかく別の言葉で言い換える傾向のある私は、そんなことを考えた。なんて、他の人の頭の中を覗いたこともないくせに、勝手に私と他の大勢は違うと決め付けてみる。
 マサと詩織ちゃんが二人でいるところに出くわす偶然を望んでみたら、結果として訪れたのは、かすったそれだった。カップル二人がデートしている後ろ姿を家の近所で見つけたが、その二人は紗音と、彼女の彼氏、真田春人だった。せっかく、マサが外出していたから、私も用事を作って外に出たのに。それも、この暑い中。
 私は街中で一人、誰にも気付かれないように笑った。神様は、こんな現実を私に提供するか。そして、扱いは完全に委ねている。
 救われたような気にはなった。少なくとも、何の成果もなくて感じる疲れは免れた。
 すでに、あきれて笑った。
 妥協するか、諦めないか。その選択が最後に残されているものだ。このままあの二人の後を付けるもよし、いや、諦めるものかと、マサたちもデートしているかも分からないのに、彼らを探すもよし。いずれにしても、私のどこからか湧き上がってきた意志は、欲望は、満たされることになる。
 そして、私は目の前の二人を付けてみることにした。といって、遠くから見ているだけだ。リスクは犯さない。ばれたら気味悪がられるし、見返りも少ない。というか、本来、見返りなんてないくらいなのだ。それなのに、私はこの奇妙な行動をやめようとしない。やめようとしない自分を客観的に捉えながらも。
 二人は当然、私服だ。休みの日に揃って制服を着て並んでいたら――悪くなさそうだ。見慣れすぎて、その光景を浮かべても、違和感がない。かく言う私も私服だ。白のワンピースに、チェック柄、半袖、薄手の上着。自分で買ったものではない。母が、誕生日に買ってきてくれたものだ。母と私はファッション感覚に大きくずれが
あり、お互いにそれに気づいている。だが、私が自分であまりに服を買わないものだから、見兼ねたように母が買ってくる。その中でも、このワンピースは悪くない、と思っている。
 紗音と真田君は、色違いのナイキの靴を履いていた。紗音は、フリルのスカート。夏らしいといえば夏らしさを演出しているが、私からしたら恐怖を覚えるくらい、その足の出し具合に抵抗を抱く。真田君は、ジーンズ。髪をツンツンさせていて、いつから日本人が髪をあんなに立たせるようになったのだろう、と彼とは関係ないこ
とを思った。
 彼は、ギターをやっている。以前に紗音から聞いた。軽音楽部に入っていて、バンドを組んでいる。ライブも定期的に行っているらしい。あと、彼はロックが好きだそうだ。私はロックとか、ポップとか、メタルとかの区別がつかない。小説で出てくることがあるから、名前は聞いたことあるけど、その音楽をちゃんと聴いたことはないから、区別する前に比較対象がない。聴く気も起きない。
 裕福な家庭、というのは筧に聞いた。友達の多くない筧ですら知っているのだから、周知の事実と言っても過言じゃないだろう。自分からひけらかすようにして知られたのか、誰かに指摘されたのか。それで苦労していることがあるのか、逆に得ているものの方が多いのか。正直、他人の経済事情などに興味はないが、私は普通が一番いい、と思う。
 まさに繁華街、というところに出ると、二人は映画館のある建物に入っていった。どうやら、映画を見るらしい。デートとしては、オーソドックスな展開だ。
 何時間も待っているのはそれこそ徒労なので、私はこの辺で切り上げることにした。成果はほとんどなかったが、案外、私は満足していた。

 終業式があった。一学期が終わる。三年生にとって、勝負の夏休みに入る。自分で勝負と位置づけたわけじゃなく、話をする先生方が口を揃えて勝負、勝負と言っていた。だから、中身のない言葉だ。
 式が午前中に終わったので、私と紗音、すーさんは図書室に向かった。今日は図書室でごはんを食べよう、と思いついたのだ。
 図書室のドアを開けると、疋田さんがパソコンと向かい合っていた。貸し借りはデータでまとめられているから、それをチェックして、返却期限を守っているかどうか確認するのが司書の仕事だ。今どき、司書といえども、パソコンを使えないといけない時代になっている。まあ、とても簡単な操作だと、疋田さんは口にするけど。
「こんにちは」
 三人で声を揃えて挨拶すると、疋田さんは笑顔になった。
「いらっしゃい。もう、目が疲れちゃったわ」
 と言って、目元に指を当てた。
「おつかれさまです。大変ですね」
「ありがとう。今日は、早いのね。お昼ごはんは食べたの?」
「いえ、」私は首を横に振った。「今日は、ここで食べようかと思って」
「あら、そうなの。いいよ、汚さなければ。私も一緒に食べようかしら」
 疋田さんは、カウンターの向こうから鞄を手に取ると、弁当を出した。私たちとほとんど変わらない弁当。
「お弁当、かわいいですね。女子高生みたい」
 紗音が言った。
「まあ、これでもこの間まで大学生だったもの」
「そうですよね。――大学生か。大学って、どんなところでしたか?」
 すーさんが尋ねた。
「楽しかったわよ。高校よりもずっと自由で、明るくて」
「勉強は、難しくないんですか?」
 私が次に尋ねた。
「だって、自分で選んだことができるのよ。多少、難しいものもあるけど、私は高校の方が苦労した感じがする」
 大学のことを漠然としか知らない私、いや、私たちにとって、疋田さんの話はとても新鮮だった。
「紗音も大学行くの?」
 すーさんが聞いた。
「行きたいとは思う。行けるトコだったら、よっぽど変じゃなければ、どこでもいいかな」
「私、英語系の大学行こうかな、って思ったけど、英語ばっかりの四年間もつまんなさそうだし、普通の大学でいいかな」
 すーさんが他人事みたいに言った。
「私たち、また同じ大学になりそうだね」
 私が言うと、二人は頷いた。ってか、初めから同じところ狙おうよ。じゃあ、紗音を最低ラインに考えないとね。何よ、失礼ね。本気出せば、私だって。
 三人で笑い合った。
 窓の外は、厳しい暑さを教える強い光が、緑の葉を透き通らせていた。こんなに暑い日なのに、私たちは優雅に過ごしている。本に囲まれて、お弁当を向け合って。お腹を抱えて、笑い合って。
 話は夏休みの予定になった。
「ねえ、夏祭り行かない?」
 紗音が提案した。夏祭りには、ほぼ毎年、三人で行っている。今年は受験シーズンだから、どうかな、と思っていたが、あっさり切り開いた。
「いいよ、行こう」
「あら、勉強はしなくてもいいの?」
 疋田さんがからかうように言った。
「いいんです。たまに、息抜きを入れないと、精神的に参っちゃいますから」
 すーさんがもっともらしいことを言った。
「今年、中学校でやるんだっけ?」
「懐かしいな。三年ぶり?」
「秋美の弟、通ってるでしょ。誘ったら?」
「あのね、もう中三よ。お姉ちゃんに付いて夏祭りに行くなんて、もう卒業してるわよ。それに、彼女と行くんじゃない? 行くとしたら」
「え、彼女いたんだ」
 すーさんが驚いて、私を見た。マサに彼女がいることを意外に感じた、というよりも、私の弟からそういう浮いた話が出たことに驚いたようだった。
「とにかく、夏祭りは決まりで。空けといてね」
 紗音が強く言った。私とすーさんに異存はなかったから、頷いた。
 さあ。私は思った。明日から、夏休みだ。

   四 赤井紗音

 私の携帯が珍しく鳴った。携帯を携帯しないことがよくある私の連絡手段は、家の電話のときもあるが、そもそも電話することが少ない。遊ぶ約束は、学校でする。用事もないのに、誰かに電話したり、誰かから電話がきたりしない。
 だから、部屋にいて、携帯が鳴る音を聞きながら、めったにないことだなあ、とのんびり考えてから、電話に出た。筧からだった。これまた、珍しい。
「もしもし? どうしたの、筧」
「ちょっと、来てくんねえ」
 声は切羽詰まっているようでもあり、何でもないことのようでもあった。電話だから、判別が難しい。
「どこにいるのよ」
「学校の近くに、橋あるじゃん。下に電車が通ってるやつ」
「ああ、」それは、すぐに分かるところだった。「宮下橋ね」
「そうそう。そこで待ってるから、来てくんねえ」
 言い終わると、電話を切ってしまった。
 どうしたんだろう、と口の端を吊り上げて、首を傾げた。それでも、深くは考えずに、支度をして出かけた。
 家から橋まで真っ直ぐ行かずに、学校に寄ってから、橋を目指した。歩いているだけで汗をかくような、嫌な暑さだった。蝉の声をBGM代わりにして、一人歩いた。
 橋に着くと、確かに筧が待っていた。薄い青のリュックを背負っている。足下にダンボールが見えている。手を振ると、振り返してきた。近くまで達したとき、そのダンボールの中身が分かった。一匹の犬がいた。捨て犬だろうか。
「どうしたの、これ?」
「捨てられてた」
 筧の表情には特別な感情はなかった。変な同情とかは、窺えない。それだけに、彼がこの行動を不思議なことと認識していないことが窺える。
「どうしたいの?」
「かわいそうじゃん。拾ってあげようと思ったんだけど、俺ん家、犬ダメなんだよ」
「それで、私に押し付けよう、ってわけ?」
「いや、押し付けようって言うと、語弊があるけど……」
「私もダメだよ。お母さんが、無類の動物嫌いなんだから」
 これは、本当のことだ。以前、マサと動物を飼いたい、と言ったら激昂した。子供心にも、そんなに怒るのは理不尽だろう、と思うくらい、その怒る理由に理屈がなかった。感覚的に、母は動物を嫌っているのだ。原因は分からない。犬に噛まれたことがあるのかもしれない。飼っていた動物の死に立ち会ってしまったのが、トラウ
マになっているのかもしれない。でも、おそらくたいそうな理由はない。この母の動物嫌いのせいで、私とマサは動物園に小学校の遠足でしか行ったことがない。
「だいたい、何で飼えないのに拾ったの? 置いといて、他の人に拾ってもらえばいいじゃん」
「そうだな……」
 筧は、意外と素直に聞き入れた。ダンボールを道の端に寄せて、犬に向かって、手を合わせた。
「ごめん、犬よ。元気でな」
 そう言うと、涙を見られないようにするかのごとく、パッと背中を向けて、歩き出した。実際に、涙を流していたわけじゃないが。
「よし、帰るか」
 私の方に顔を向けて、言った。笑顔だった。変な人だ、と思った。
「ちょっと、私にも謝ってよ。暑い中、外に呼んでおいてさ」
 私もその横に並んで、歩き出す。
「いいじゃん、どうせ暇だったろ」
「暇人は筧でしょう。こんなことしてるくらいだもん。何か奢ってよ」
「はあ? 金がねえよ。牛丼屋でいいか?」
「あ、いいよ。一回、行ってみたかったんだよね。今日、どうせ家にごはんないし」
 父が風邪で寝込んでいて、我が家の家事は壊滅的な状態になっている。特に料理を作れる人がいない。
「え、マジかよ。いいって言うとは思わなかった」
「私、食べたことないのよ。女だけじゃ、入りにくい気がするからさ」
「そんなの、偏見だよ。今どき、女も普通にいるぞ」
 筧が言って、私は驚きの声を返した。

 学校から遠ざかっていくと、この前来た、映画館が見えてきた。牛丼屋は、その向かいにあった。店の外に設置された券売機で並と大盛りをそれぞれ選んで、中に入った。
 いらっしゃいませー、という元気のいい声に迎えられ、筧は奥まで進んでいく。客は時間帯的に少なかったが、女性客も確かにいた。
 筧が座って、その隣に私も座った。水を出されて、引き換えに券を差し出した。並一丁、大盛り一丁、と店員が店の奥に言う。奥から、ありがとうございます、というやはり元気のいい声が聞こえる。
「変な人よね、筧って」
「何で?」
 筧はお手拭きで、手をきれいにしていた。私もお手拭きを袋から出した。
「だって、普通、犬がかわいそうだと思っても、飼えないくせに何とかしてあげようなんて思わないよ。動物愛護団体じゃないんだから」
 動物愛護団体が具体的にどんな活動をしているのかも知らないけど、その固有名詞を使ってみた。
「最初は、絵描いてオサラバしようと思ったんだけど、お前が犬好きそうな顔してるから、一応、呼んでみようと」
「どんな顔よ。まあ、嫌いじゃないけど。それならそうと、私に電話越しで聞いてくれたらいいじゃない。わざわざ呼び出さなくても」
 筧は、ごめん、と呟いたが、まったく申し訳なさそうじゃなかった。まあ、筧に真剣に謝られても、困るけど。
 牛丼が早くも運ばれてきた。みそ汁もついていた。メニューに目をやると、生卵やサラダもオプションになっていた。どうせ奢りなんだから、頼めば良かったと後悔した。
 初めて食べる、牛肉をご飯の上に置いただけのシンプルなその食べ物は、とてもおいしかった。この安さで、これだけおいしく食べられるなら、得した気分になる。今度は、紗音やすーさんを誘ってみよう、と思った。
「ってか、絵描いたんだ」
 食べながら話を振ると、筧は「ああ」とリュックからスケッチブックを出して、私に渡した。パラパラめくって、最後の絵が描いてあるページに辿り着くと、さっき別れたばかりの犬が描かれていた。健気に主人の帰りを待っているように、前を見据えてしっかりと立っている姿だった。
「かわいい」
 私は呟いた。「ほんとうは、絵に描いてるうちに愛着が湧いちゃったんじゃないの?」
 筧は笑って否定した。「それはない。それ描いたの、ほんの数分だし」
 数分で描けることに驚いた。私なら、一時間は必要だ。
 他のページも見てみると、景色ばかりで、人の絵はなかった。生きものすら、今の犬だけだ。
「ねえ、今度、私も描いてよ」
「いいけど、そんなに自分の容姿に自信があんの?」
「違うわよ。だって、人の絵がないじゃない。どうせ、誰もモデル頼む人がいないんでしょ。だから、私がなってあげるよ」
「上から目線だな。じゃあ、暇なときにでも」
 筧はすでに食べ終わっていた。私は急いで残りを食べ切ろうとした。
「ゆっくりでいいぞ」
 筧が察して、そう言ってくれた。私はそれに従って、いつも通りのペースで食べ続けた。

 帰り際、来週が夏祭りだということを思い出した。
「ねえ。来週、夏祭りだけど、行かない?」
 筧は無表情で私の顔を見た。「二人で?」
「違う、紗音とすーさんも一緒」
「じゃあ、おれいても迷惑だろ」
「でも、紗音は途中で真田君と回るって言ってるし、ずっと一緒にいなくてもいいよ。暇だったら、見に来たら?」
「考えとく」
 筧は無愛想にそう言った。のんびりした性格のすーさんはともかく、紗音みたいな、一見派手好きそうな女子は筧の苦手なタイプなのだろう。でも、直に話してみれば分かる。紗音は中身のない女たちとは違う。
 その後、筧と別れ、どこにも寄らずに真っ直ぐ家に帰った。
 家にマサの靴があった。ずいぶん早く帰ってきたのね、と考えていると、部屋からマサが顔を出した。
「どこ行ってたの?」
 妙にニヤニヤした顔をしていた。
「別に、近所」
 そう言って、自分の部屋に入ろうとしたが、マサが手招きした。
「何で?」
「まあ、ちょっとだけ」
 理由を明らかにしない。私はとりあえず従って、マサの部屋に入った。
 机の上を見ると、教科書とノートが開かれていた。懐かしい、とも思えない記憶にない内容だった。ほんとうに、私はこれを習ったのだろうか。中学三年間の存在を疑いたくなった。
 ベッドに座って、イスに座ったマサと向かい合わせになった。
「何よ、ニヤニヤして」
 マサのニヤニヤは相変わらず顔から消えていなかった。
「姉ちゃん、男の人と一緒だったでしょ」
 ああ、そういうことか。ようやく合点がいった。私と筧が一緒にいたところを見たのだろう。
「いたけど、そういう仲じゃないよ」
「え、そうなの」マサは明らかに残念そうな顔をした。「でも、ごはん一緒に食べてたじゃん。牛丼だったけど」
「付き合っている人と、牛丼食べに行かないわよ。あれは、ただの友達。腐れ縁」
「へえ……姉ちゃん、あんまり男の人と話さなさそうだから、あんなに仲良くしてるの見て、おって思ったのにな」
 男子と話す機会が少ないのは事実だが、それをこうして言われると、しかも弟にだと、気持ちのいいものではない。
「ねえ、男の人、ってやめてくれる? エンコーしてるみたいじゃない」
 筧は不意の発言に目を丸くした。「やだなあ、そんなこと言うわけないじゃん。本の読みすぎだよ。その辺は、いい意味で汲み取ってよ」
「何よ、人がいかがわしい本を読んでるみたいなこと言って」
 私は何故か憤然として、立ち上がった。
「え、何で怒ってるの?」
 マサの戸惑いは理解できたが、私はマサに背中を見せると、部屋を出た。自分の部屋に閉じこもろうと思ったが、ドアに手をかけたところでマサに腕を掴まれた。
「もしかして、男子と話さなさそう、って言ったのがまずかった? それで、怒ってる?」
 マサの声は優しかった。マサは、姉の理不尽な態度に一度も反抗したことがない。いつでも、「いい弟」であった。そして、女性への気配りもできる人間だ。だから、もてるのだ。見た目だけで手に入れた栄光ではない。
「怒ってないって。ちょっと、疲れてるだけ」
 優しさが嬉しくても、簡単に認めるわけにはいかなかった。マサに比べて、私はなんて小さな人間なのだろう。
 突然、マサが私を抱きしめてきた。背はいつの間にか追い抜かれたが、そんなに差がないので、抱き合うにはちょうど良かった。私の体は動かなかった。抵抗もしなかった。
「ごめん、姉ちゃん。勝手に決め付けて。ただ、姉ちゃんにも素敵な恋をして欲しいな、って思ったから、早合点しちゃって」
 言外に、詩織ちゃんとの恋が素敵なのだと認めていた。それでも、内容は頭の中にあまり入ってこなかった。ただ、声の響きが胸にじんわりと広がった。
 抱かれながら、何だろうこの喜劇は、と思った。笑いたくなった。でも、現実に笑う気配はまったくなかった。心の底から、弟の温もりを気持ちよく感じていた。
 そして、気付いた。ずっと、誰かに抱きしめられていなかったことを。人の温もりを忘れかけていたことを。

 夜になって、母が帰ってきた。父は、寝込んでいる。存外、つらそうだった。
 はあ、疲れた、と言って、スーパーの袋をテーブルの上に置いた。私は読んでいた本を置き、立ち上がって中身を見た。お惣菜ものばかりだった。
「ごめんね、ごはんにしましょう」
 そう言い残すと、脱いだストッキングを手に、寝室の方へ行った。私はマサを呼んだ。返事はあったが、すぐ来なかった。お茶碗を出して、炊飯器からご飯をよそった。お米を炊いておいて、とメールが来ていたから、ご飯の用意はできていた。おかずは、買ってきたお惣菜。
 母は、料理ができない。人間だから、やろうと思えばやれるのだが、面倒くさがってしまうのだ。料理だけじゃない。洗濯も、掃除も、裁縫も、母親としての職務をまるでこなせない。母は、自分を美しく見せる技や、他人と良好な関係を持つことに長けている。外面がいい、とも言える。マサと共通する部分がある。
 我が家の両親は、他家のそれとはまるで色合いが違う。家庭の崩壊に繋がりかねないものなのに、職務を逆にすることで上手くはまっている。二人を肯定的な言葉で形容するとしたら、母は「すごい」、父は「偉い」だ。他人からしたら、平凡な父の偉大さは気付きにくい。外面だけの母では、母のすべてを知ったことにならない。
 私とマサはこの生活に不満を述べたことがない。たぶん、思ったこともないのだと思う。少なくとも、私はそうだ。
 だって、家族としての機能は果たせているのだから。歯車はちゃんと噛み合って、回り続けている。
 お惣菜はおいしかった。母は疲れているようだったが、私やマサのくだらない話をちゃんと聞いてくれた。笑ってくれた。ときに諭してくれた。
 いつも私たちのために働いてくれる母が、私は好きだ。偽りも、見栄もない。きちんと内在する、私の本当の気持ちだ。もちろん、父も好きだ。するのが当たり前と思いがちだが、家事は大変なことなのだ。毎日、文句を言わずにやっているのだから、風邪をひいたときは、労ってあげて当然なのだ。
 恵まれていると思わなければならない。これ以上を望んではいけない。幸福だと思わなければならない。そうしないと、簡単に壊れてしまうから。

 夏祭りの日は、よく晴れていた。晴れていたが、暑さが一段落して、夜風は気持ちいいくらいだった。
「愛しいだなんて、言い慣れてないけど、今なら言えるよ、きみーのーために」
 紗音はいつも以上に上機嫌だった。三人で歩きながら、喋ったり、歌ったりと、口を閉じているときがなかった。理由は、真田君と回れるからなんかじゃない。この夏祭りの雰囲気が、彼女は好きなのだ。私でさえも、気持ちの高揚は否めない。
 三年ぶりの中学校は、記憶とほとんど変わらなかった。さすがに、先生は知らない顔が増えていたが、三年次の担任と再会できたのは嬉しかった。
 マサも来ている。詩織ちゃんと来ているそうだ。これで二人のデートしている姿をお目にかかれるが、あんまり嬉しくなかった。どうやら、心では偶然を望んでいたらしい。
 筧は来ているのか分からない。誘ったとき煮え切らない態度だったから、来ない可能性の方が高いだろう。そう思うと少なからず失望し、同時に少なからず期待していたことに気付く。
「あ、綿菓子だ。あれ、買ってくるね」
 すーさんが子どもみたいに目を輝かせながら、綿菓子屋へ駆け寄った。
「私もほしい」
 私もその後に続いた。
 人々の笑い声と、正しいリズムで叩かれる太鼓の音がにぎやかに祭りの雰囲気を演出している。都会の喧騒と離れ、昔ながらの日本を感じている。人は便利を求めながらも、伝統や風習を大切にする。理性的に生きることを理想としながらも、目に見えない雰囲気や匂いを愛する。
 綿菓子の後、焼きそばを買って、設置されているテーブルで食べた。値段のわりに量が少なかったが、私たちにはちょうど良かった。食後にじゃんけんをして、負けた私がラムネを買ってきて、それも飲んだ。ラムネなんて久しぶり、と言いながら、紗音は明るく笑っていた。去年も飲んだじゃない、と私がつっこみを入れた。隣で、
すーさんも笑っている。
 太鼓の音が止んだ。代わりに、マイクで誰かが話し出した。
「続きまして、有志バンドによる演奏をお楽しみください」
 ステージに四人の男たちが現れた。少し離れたところから、歓声が上がる。歓声を上げたのはウチの高校の生徒、これから披露するバンドのメンバーもそうだ。真田君もその中に含まれている。バンド名は忘れてしまったが、紗音が言うには相当上手いらしい。その判断基準が私の中にはないから、何とも言えないが。
 演奏が始まった。アップテンポな、ノリのいい曲調だった。彼らの友達だろう男子集団が、曲に合わせて手拍子をする。紗音も手拍子をしている。知っているのだろう、歌詞を口ずさんでいた。
 演奏の最中、彼らを知らない一般客はどう思って、これを見ているのだろう、と周りを一瞥してみたら、視界に知っている顔が入った。来ると言っていたマサたちではなく、来るのか微妙な筧だった。
 私は紗音とすーさんに気付かれないように立ち上がって、彼の方に駆け寄った。
「ほんとうに来たんだ」
 演奏の音に負けないように、いつもより大きな声を出した。
「ああ、暇だったし」
 筧はにぎやかな中でも変わらず、マイペースだった。彼の周りだけ、見えない膜が張られているようだ。
 しばらく、黙って演奏を見ていた。終わらないと、話しにくいと互いに思ったからだ。
 演奏が終わって、ボーカルの、ありがとう、という声に続いて、拍手が起こった。彼らが退場していくとき、筧が話しかけてきた。
「ここ、市原の母校だっけ?」
「そうだよ」
 筧は、違う中学校だった。
「へえ、高校とあんま変わんねーな」
「まあ、そうかな」
 言ってから、見回してみた。そして、それを見つけた。「あ、でも屋上に行けるんだよ」
 私たちの高校は、屋上が立ち入り禁止になっている。理由は知らないが、昔そこで転落事故があったとか、自殺した人がいるとか、根も葉もない噂がついている。
「へえ、そりゃいいな」
「いいでしょ。中学の頃はよく行って、街並みを眺めてたな」
 目の前に紗音とすーさん、そして私の中学時代の姿が浮かんだ。三人でコーヒー牛乳片手に、くだらないことで笑いながら、見晴らしのいいそこでのんびりしていた日々を懐かしんだ。あの頃は、この時間が永遠に続くような錯覚を覚えていた。
「懐かしいな……」
 そこに筧はいなかった。なのに、彼とは昔からの知り合いのような気がする。時間の重みなんて曖昧だ。人間が正確に区切ったとしても、中身によって時間の重みは変わってくる。
「――好きか?」
「え?」
 考えごとをしていたから、筧の話がよく聞こえなかった。
「高いところ、好きか?」
「まあ、高いところというか、見晴らしのいいところは好きだけど」
 すると、筧は何も言わずに何度も頷いた。
「何で、何で?」
 私が聞いても、筧は答えなかった。その代わり別のことを言ってきた。
「じゃあ、おれ帰るよ」
「え、もう帰るの?」
「ああ、ちょっと見に来ただけだし。そんなに暇じゃないから」
 さっきは暇だと言っていたくせに。私は笑って、彼に手を振った。筧は面倒くさそうに振り返して、人ごみの中に消えた。
 ――高いところ、好きか?
 筧の問いの意図は、何だったのだろう。連れて行ってくれるというのか。そう思って、すぐ打ち消した。まさか、筧がそんな気の利いたことをしてくれるはずがない。
 私は紗音とすーさんの元に戻って、夏祭りを心行くまで楽しんだ。

 軽快な音楽とともに、朝ドラが始まる。父はすでに、テレビの前で見る体勢に入っている。
 母は、ついさっき出かけた。夏休みも助教授の仕事が忙しそうだ。
 マサは、まだ眠っている。私と違って、徹夜で受験勉強しているから、仕方ないことだ。
 いつもは、見ていたら遅刻してしまう朝ドラも、夏休みはのんびりと見られる。私は毎朝、父の隣でそれを見ている。どんな話が進
んできたのか分からないし、終盤に差し掛かってきているため、疑問符がつく場面がある。父に、見ている最中に質問するのは気が引ける。でも、何となく面白く感じる。それに、主人公の女の子がとてもかわいかった。私と同い年だという。母も、昔はこうして誰よりもテレビに映っていたのだろう、と見ながら考えた。
 今日の話が終わると、私はその場から離れずに、脇に置いてあった読みかけの本を手に取った。父は、相変わらずテレビを見続けている。風邪をひいていたときは鼻をすする音が絶えなかったが、今ではときたま、咳払いをする以前の父だ。
「なあ、秋美」
 テレビを見ていたと思った父は、いつの間にか私の方をじっと見ていた。私にもマサにも似ない、丸い穏やかな顔。いつも眠そうな目だけは、私と同じ。
「将来の夢とか、あるのか」
 私は父を見て、「あるけど」と答えた。
「そうか。いや、具体的に言わなくていい。ちょっと、聞いてみたくなっただけだ」
 父は、言葉を探しているようだった。何か、私に親として伝えようとしている。それは、めったにないことだった。父は、私にそういうことを言わない。母が口うるさく言っていても、何も口を挟まない。そういう人なのだ。
「実はな、父さんにも将来の夢があったんだ」
 長くなりそうな切り出し方だったので、本を閉じた。
「だけど、何でも中途半端で、その場しのぎの人生を過ごしていたら、夢は叶わなかった。今思えば、当然の結果だったんだけどな。そのときは、ずっと後悔してた。あのときがんばれば、実現したかもしれないのに、と自分を責めた。――だから、秋美には後悔しないでほしい。夢が叶わなくても、納得のいく人生を送ってほしい。
そう思うんだ」
 言葉を切った。「ごめんな、いきなり変なこと言い出して」
「ううん、」私は首を横に振った。「そんなことないよ」
「あと、恋はしてるか?」
 この質問には「してない」と答えた。
「まあ、まだ十八だもんな、これからだ」
 何がこれからなのか分からなかったが、私は頷いておいた。
「――また、父さんの昔の話になるけど、父さんはもてなかったんだ。でも、ずっと恋はしていた。同じ中学で、誰よりも輝いていた母さんに」
 父と母の昔の話を聞くのは初めてだった。二人がどうして結婚したのか不思議に思っていたが、心の中に留めていた。
「母さんは、おれみたいな中途半端野郎にも、他の人と同じように接してくれたんだ。だけど、この恋は絶対に叶わないなあ、って諦めてた。女優で活躍するようになって、ますます遠ざかっていくように感じてた」
 でも、と父は言った。
「でも、勇気を出して、交際を申し込んだら、母さんは頷いてくれたんだ。あのときの決断を、父さんは今でも誇りに思っている。唯一の誇りだ」
 父は笑った。私も微笑んだ。素敵な話だと思った。
「母さんと結婚できたことが、父さんにとって、たった一つの叶った夢だな」
 知らなかった。想像したこともなかった。何の生きがいもなさそうで、平凡を極めた人生を送ってきたような父が、誰よりも夢見がちで、そして実現させたことをこんなにも嬉しがっていたなんて。
「だから、秋美」
 父の言葉は続いた。この話は、今読んでいる本よりもずっと大事で、忘れてはいけない話だ。
「秋美にも、素敵な恋をしてほしい」
 どこかで聞いたことある台詞だと思ったら、マサが私に言っていた言葉と同じだ。
「これから先、あっ、この人かも、という運命の人が現れるはずだ。そしたら、ためらわずに想いを伝えてみてほしい」
 言い終えてから、父は照れくさそうに笑った。くさいかな、という呟きが聞こえてきそうだった。私はもし聞こえたら、そんなことない、と否定するつもりだった。
 私は父の言葉を、胸の中の一番大切なものを入れる引き出しにしまった。どこかへ行ってしまわないように。

   五 筧明

 学校は二学期に入っていた。
 ある日の昼休み。紗音、すーさんと教室でお喋りをしていたが、トイレに行きたくなって教室を出た。廊下を歩いて、奥にあるトイレで用を済ますと、足早に教室に戻ろうとした。
 ところが、途中で誰かに後ろから呼ばれた。振り返ると、声の主は筧だった。
「市原、ちょっといいか」


 頷いて、彼に近付くと、「付いて来い」と言って、用件も言わずに背を向けてしまった。いつも説明不足なのよね、と思いながら、その背中に付いていった。
 廊下を一度曲がって、休み時間は人通りの少ない方の廊下に出た。理科室や、音楽室、美術室が並んでいる。筧は、美術室の前で止まった。そして、扉を開けて中に入った。私も入った。
 広いスペースがある後ろの方まで行き、イスを一つ、その真ん中に置いた。
「ここ座って」
 筧はイスを指し示して、言った。
「あのさ、説明不足。いつものことだけど」
 私は両手を腰に当てて、ため息をつくようにした。
「分かんない?」
「分かるけど、絵描くんでしょ」
 夏休みに会ったとき、私の絵を描いてほしいと頼んだことは覚えていた。
「じゃあ、いいじゃん」
「……もう」
 私は後ろで結んでいた髪を撫でて、軽く身だしなみを整えた。紗音とすーさんに何も言ってこなかったが、探しに来ないだろうか。まあ、大丈夫だろう。
 少し離れたイスに座って、筧は早くもスケッチブックに描き始めていた。
「え、ポーズはこれでいいの?」
「ああ、普通に座ってればいいよ。時間ないから、急ぐね」
 すでに目が集中していた。私は黙って、彼が作業に集中できるように努めた。
 絵のモデルになるなんて、めったにないことだ。中学の美術の時間に、クラス全員が交代でモデルをやったとき以来だ。あのときは、クラス全員に見られている、描かれている、ということを圧迫に感じた。でも、今は違う。描いているのが一人だからか、それが筧だからか、緊張しなかった。ただ、楽しみだった。私がどんな風に表
現されるのか、彼の目にどう捉えられているのか。
 筧は描くスピードがとてつもなく速かった。ちょっと見ては、スケッチブックに目を落とし、またそれを繰り返した。迷いがなかった。軽快にシャッ、シャッと聞こえる鉛筆の音が心地良かった。
 時間の進みをゆっくり感じた。不思議な空間だった。私と筧しか入れない、秘密の空間。目に見えない柵で囲われていて、入ってきてほしくないという思いの大きさの分だけ、その柵は頑丈になった。
 しかし、現実にはちゃんと時間が進行していた。予鈴が鳴って、秘密の空間が消えていく。あと五分で次の授業が始まる。
「やっぱ、時間足らなかった」
 筧は悔しそうにスケッチブックを閉じて、立ち上がった。
「続きどうするの?」
 放課後か、明日にでもやるのかと思った。
「おれ、コンクールが近いから、しばらく無理だな。また暇なときに呼ぶよ」
「途中の見せてよ」
 私は手を差し出した。
「ダメダメ」筧は顔の前で手を横に振った。「完成してないやつを人に見せないのが、おれのポリシーなの」
「そうなんだ」
 私は納得できなかったが、彼を信じた。
 というか、受験近いのにコンクールに出るなんて、と思ったが口には出さず、時間も時間だったので、「教室帰ろう」と言った。筧は頷いた。

 それから、数日が経った。絵の続きは描けていない。筧は本当に忙しいようで、図書室で会うこともなくなった。疋田さんがそれをいぶかしんで、「喧嘩でもした?」と聞いてきた。「いえ、別に。そんなに、頻繁に会う必要のある関係じゃありませんから」と言外に恋仲であることを否定したが、疋田さんは別に解釈を捉えたのか、ただ笑うだけだった。会わなくても、通じ合っている、とでも捉えたのだろうか。これだから、文学少女は想像力豊かで困る。
 その日は、学校が休みだった。私は暇つぶしに本屋に行こうと思い立ち、出かける準備を始めた。
 ついでに、マサのお使いでもしようかしら、と思い、マサの部屋の前に立った。今日は両親ともに出かけていて、マサはドアを閉めて、心行くまで趣味を楽しんでいる。
 ――やっぱり、行けない。
 ――どうして。おれじゃ物足りないのか?
 ――そんなことない。ただ、私には……ごめん、言えないわ。
 ――分かったよ、もう無理に誘ったりしない。ただ、おれの気持ちはちゃんと知っていてほしい。
 以前までは、アクション系のストーリーが多かったが、最近は恋愛ものにシフトしている。付き合い始めたことが影響しているのだろうか。
 マサと詩織ちゃんは上手くいっているようだ。夏祭りのときも、二人で仲良く過ごしていた。笑い合っていた。手を繋ぎ合っていた。詩織ちゃんの浴衣姿、かわいかったな。
「コンコン」
 自分で声を出しながら、ノックした。「はあい」と間延びした返事がドア越しに聞こえる。
「私、買い物に行ってくるけど、何か買ってきてほしいものある?」
「ああ、ルーズリーフ買ってきて。7ミリの」
 分かった、と言って、私は玄関に向かった。靴を履いて、家を出る。
 うだるような暑さはどこかへ飛んで行ってしまったようで、何だか、寂しい、という形容詞をつけたくなる空が広がっていた。木々は、透き通るような緑の上着を脱いで、紅や黄、紫という色鮮やかな上着に衣替えし始めている。もう秋なのだな、と思う。秋――私の季節だ。
 街に出る前に、筧と犬のことで会ったあの橋を通った。あれから、犬はどうなったのだろうか。ダンボールを置いた場所を見ると、ダンボール自体がなくなっていた。誰かに拾われたようだ。よかった。
 街に出た。映画館がある。牛丼屋がある。駅がある。交番もある。交番の向こう側に、本屋と文房具屋が入っているデパートがある。そこで今日の用事は足せる。
 左手側にあるパチンコ屋に沿って歩き、デパートの正面まで来た。そこで、私は思わず足を止めた。ちょうど、能瀬親子――能瀬先生と詩織ちゃん――が一緒に入っていくところだった。
 意外だと思った。一緒に買い物に行くような親子には思えなかった。詩織ちゃんは中学三年生だし、そろそろ父親を嫌に思う年頃だから、話すらしなさそうだと勝手に想像していた。そう、女子は父親を嫌がる時期が訪れるものなのだ。同じ洗濯機で洗いたくない、お父さんが入った後のお風呂に入りたくない、とりあえず臭い、な
どなど、心ない言葉を発してしまうそうだ。紗音はそれが顕著で、紗音のお父さんかわいそう、と同情を寄せたくなった。私には、そういう時期はなかった。話したら、紗音に信じられない、っていう顔をされたが、本当にそうだった。父に、興味がなかったとも言える。それは語弊があるが、あんまり不快に感じることはない。あの性格だからだろうか。
 能瀬親子は、エスカレーターで地下に行った。私の目的地は上の階なので、これなら大丈夫、と私もデパートの中に入った。
 三階の文房具売り場で、マサに頼まれたルーズリーフを買った。ついでに、インクが少なくなっていた気がしたので、赤ペンを買った。
 私はノートにあまり色を使わない。重要な箇所を表す赤と、それ以外はシャーペンで書いている。また紗音だが、彼女にそれを見られたら、女子高生じゃないみたい、と言われた。紗音は色をふんだんに使い分けて、彩り豊かなノートにしている。でも、授業中寝ていて、ところどころ抜けているノートより、実用的なノートなのは
私の方だろう、と自負している。いくら見やすくても、中身がなければ意味を成さない。と、偉そうなことを言うが、成績は大差ない。
 文房具屋に隣接した本屋に足を向けた。雑誌はおろか、漫画コーナーにも目をくれず、文芸書の方へ真っ直ぐ向かった。
 こうして本に囲まれると、何故だか安心してしまう。故郷に帰ってきたような、心安らぐ世界。
 新刊を一通り見て、一冊手に取り、それ以外の本を順に目で追って、まだ読んでいないもの、面白そうなものを二冊選んで、それを今日は買うことにした。お小遣いには、いつも余裕がある。使い道が限られているからだ。お金ない、と言って嘆く人が周りにいるが、私にはその感覚が分からない。そんなにお金をあっという間に費やすほど遊びたいものなのだろうか。でも、たぶん、私が少数派なのだろう。それくらい知っている。
 本を買い終えると、早く読みたさに、今にもスキップしそうな足取りでエスカレーターに乗った。
 一階に着いたとき、偶然にも下から能瀬親子が上がってきた。私は本に夢中になっていたせいで、彼らの存在を忘れていた。不意打ちをくらったみたいに、驚いた顔で二人を見てしまった。
「おう、市原じゃないか。買い物か」
 先生が言ってきた。私と初対面の詩織ちゃんは目を見開いて先生の顔を見た後、恐る恐るといった感じで私を見た。
「こんにちは。市原政宗の姉です」
 と名乗ると、詩織ちゃんはやっぱり、といった顔になって、「こんにちは」と頭を下げた。
「親子でお買いものですか?」
 二人が一緒にいることが不思議だったので、つい尋ねていた。先生は頷いた後、「今日、娘の誕生日でね。ケーキを買いに来たのだよ」と持っていた袋を掲げた。――すごい、奇跡だと思った。私と一日違いだ。それは口に出さず、「あ、そうなんですか。おめでとうございます」と愛想よく言った。
 その後、二人は上の階に行ったので、私は心置きなく帰った。
 詩織ちゃん、今日が誕生日だったのか。それなのに、マサと過ごさないなんて、誕生日は家族と祝わなければならない、という決まりでもあるのだろうか。先生、そういうところ、頑固そうだからな。
 だから、マサは父と母が出かけるや否や、あれを始めたのだろうか。一緒に過ごせないことにもどかしさを抱いているのかもしれない。まあ、メールでお祝いの言葉はいくらでも伝えただろうけど。そういえば、先生といるときは、詩織ちゃん、一度も携帯をいじってなかった。親にうるさく注意されてしまうのだろうか。
 家に帰ると、二人に会ったことをマサに告げた。
「今日、詩織ちゃん誕生日なんだってね」
 すると、マサは苦笑いを浮かべ、「彼氏が彼女の誕生日に一緒にいられないなんて、笑えてくるよね」と自嘲気味に言った。マサに責任があるような口ぶりだったが、私が思っているような事情とは違うのだろうか。
 それでも、それ以上は詮索せず、自分の部屋に行って、さっそく買ったばかりの本を読み始めた。途中でトイレに二回行ったが、それ以外は本の世界に没頭し、気がついたら日が暮れかけていて、両親ともに帰ってきていた。今日一日、無駄に過ごしたかもしれない、という一般的な考えは浮かばず、ああ、充実した一日だった、という感想を抱いた。
 リビングに行くと、マサがテレビを見ていた。父が楽しみにしている大河ドラマまでの時間は、マサがほとんどテレビを占拠する。
 私は興味のある番組じゃなかったが、マサの隣に座って、テレビを見てみた。バラエティー番組のようで、名前は知らないがテレビでよく見かける人が関西弁で喋っていた。
「姉ちゃんの誕生日は一緒にいられるからよかったよ」
 マサがテレビから目を離さずに行った。また、そういうことを言う。
「私と詩織ちゃんが逆だったらよかったのにね」
 健気な弟をからかいたくなって、そう言うと、マサは私の方に顔を向けた。
「そんなことないよ。できれば、どっちも一緒にいられたらよかったとは思うけど」
「それにしても、」私は言った。「一日違いだったんだね、私と詩織ちゃん」
「ああ」マサは笑った。「最初、聞いたときはビックリした」
 今頃になって、先生に、私と一日違いですよ、と言ったらどうなったかと考えた。まず、驚くだろう。詩織ちゃんも驚いて笑顔になるだろう。そうしていれば、彼女のかわいい笑顔を間近で見られたかもしれなかったのに、と後悔してみた。

 私が秋美、という名前なのは単純に秋生まれだからだ。「美」に親からの期待を感じるが、今のところ、応えられていないさそうだ。
 十八回目の誕生日の朝は、雲一つない爽やかな空だった。秋晴れ、という言葉が浮かんだ。
「お誕生日おめでとう」
 朝、父に言われた。隣で母も微笑んでいた。「今日は、外に食べに行くからね。マサ、なるべく早く帰ってくるのよ」と言い添えて。はあい、とマサの返事が遠くから聞こえた。
 今日の空みたいに曇りのない心で、学校に出発した。
 鳥のさえずりが、そこかしこから聞こえる。その日、その日を生きることに精一杯な彼らの言葉にならない声は、悩みや不安を少なからず抱える心を軽くする。
 静かな住宅街に、私の足音が響く。姿の見えない車のエンジン音が耳に届く。家を隔てた向こう側を走っていたのだろう。道路と歩道を区切った白線と平行に歩く。電信柱がある度に、その平行は崩れる。
 道を右に曲がった。同じ制服の後ろ姿。正面から見なくても誰か分かるほどに見慣れた背中。紗音だ。駆け寄って、軽くその背中を叩く。
「おはよ」
 紗音は私を認めて、「おはよ」と眠そうな顔で呟いた。
「あ、誕生日おめでとう」
「ありがとう。眠そうだね」
「眠いよ。月曜の朝は、キツイね」
 会社員みたいなことを言うので、笑った。
 後ろから誰かが走ってくる音がした。振り返ると、すーさんだった。走るごとに、スカートがひらひらと揺れる。
「おはよ、すーさん。元気だね」
 紗音が力ない笑顔でそう言った。
「おはよ、二人とも。秋美、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
 誕生日を覚えていてくれる人が、家族を含めてこんなにたくさんいる。これを幸福と言わずして、何を幸福と言う。一日限定ではあるけど、ささやかな喜びに浸った。
 その日の朝は、三人で登校した。普段、中学時代から通じてバラバラに登校していて、たまに会うことがある、という程度だった。だから、それが私の誕生日に巡り合わせてほんとうによかった。
 ふと、筧は私の誕生日を覚えているだろうか、と思った。何で筧にそんなことを期待するのか不思議だった。別に、覚えてなくても悲しくも何ともないが、覚えていてくれたら嬉しいな。去年は、どうだっただろうか。去年の今日は――ああ、そういえば、そうだった。

 放課後、机の中の招待状に従って、目的地へと急ぐ。そうだ、私は忘れていた。
 ――市原、誕生日おめでとう。
 彼の声が甦る。あのときの声だ。今と変わらない、よく知っている声。
 ――これ、内容分かんないけど、表紙のイラストがいいと思ったから……やるよ。
 ――え、何それ。表紙で決めたの? 筧らしいね。
 私は忘れていた。筧は、去年、私の誕生日を覚えていた。プレゼントまでくれた。彼の優しさの大きさが、あのときは分からなかったけど、今なら分かる。
 ――高いところ、好きか?
 ――見晴らしのいいところは好きだけど。
 この招待状を出したのは、彼しかいない。あのとき、何気なく言った一言をちゃんと記憶していたのだ。だから、私をあの場所に呼んだのだ。
 階段を上まで上がって、誰にも気付かれないように、立ち入り禁止の柵を越えた。鉄製のドアの前に立った。鍵がかかっていると思ったが、ドアノブを回すと、開いた。
 初めて足を踏み入れる場所だった。中学は普通に立ち入り自由だったから、高校もそうだと踏んでいた。しかし、実際は立ち入り禁止で、私たちのくつろぎ場として選べなかった。
 ゴム製の、緑色の地面が広がっていた。周りを膝ぐらいまでの高さしかない塀が囲んでいて、フェンスはなかった。見晴らしは良過ぎるほどだが、同時に危ないと思った。立ち入り禁止にするのも頷ける。
 横から、人の動く気配がした。続けて、クラッカーの音がした。
「誕生日おめでとう、秋美」
 今回はずいぶんと手が込んでいる、と思いながら、驚きと喜びで、自然と笑顔になれた。紗音とすーさん、それに筧が現れた。
「市原、やるよ」
 ぶっきらぼうに差し出したのは、一枚の絵だった。イスに座って、制服を着ている少女――私の絵だ。この前の昼休みに描いていたものだ。あのとき、筧は終わってない、と言ったのに。
「完成してたんだ」
 と言うと、筧はこっくり頷いた。
「ああ。この日に渡そうと思ったから、嘘ついたんだ」
「あのポリシーも、コンクールの話も嘘?」
「そう、嘘。見せないために、忙しそうなふりをして、続きを描く機会を作らないために」
 私は渡された絵をまじまじと見つめた。手を膝の上に置いて、背筋を伸ばしている姿。あのとき、表情を作らなかったのに、絵の中の私は微笑んでいた。私の知らない、ほんとうの私を見せつけられた気がした。自分のことなのに、かわいい、と思えた。そして、細かいところまで筧は目を配っていた。あの短い時間じゃ、こんなに捉え切れるはずがない。平素から、私をよく見ている証拠だ。
 私はずっと、幸福の一歩手前でたたずんでいると思っていた。一歩踏み出すのに何が必要なのか、哀れにも探し続けていると思っていた。
 でも、そうじゃなかった。幸福は、すぐ傍にあった。探し物をしていたら、それがポケットに入っていたように。自分で入れたことを忘れていた。普通の家と両親の役割が逆だけど、普通の家よりも温かい愛情に満ちている私の家族。くだらないことで笑い合えて、いつも一緒にいてくれる友達。そして、筧。彼を何と表現すればい
いのか、判断に困る。恋人と言うには言い過ぎのきらいがある。友達に含めるのも違和感を覚える。ならば、筧は筧でいいだろう。彼も、私にとっての幸福の一端を担ってくれているのだから。
 喜びとか、感動とか、安心とか、愛とか、色々な感情が胸の中で混ざり合っていた。私は絵を抱いてしゃがみ、頬に一筋の光が流れるのを感じた。
 あきれるくらい、気持ちのいい秋空の下で。

幸福の一歩手前

幸福の一歩手前

幸福って何だろう。幸福の一歩手前でたたずんでいる私が一歩踏み出すには、何が足りないのだろう。

  • 小説
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  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-09

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