9.無限の零
0エネルギー
昼休みで騒がしい三階建ての白い学校舎の二階。そのちょうど真ん中の教室で、二人の女子高校生が机を二つくっつけ、向い合い座っていた。
「まいこ、今から掛け算の勉強しよう!」
昼 休みの喧騒を切り裂く可愛らしい声を出したのは、茶髪のショートヘアに活発そうな顔を笑みを浮かべた小柄な女の子だった。
その女の子は向かい側に座る"まいこ"へと唐突に声をかけた。
"まいこ"と呼ばれた、綺麗な黒髪を後頭部で束ねたポニーテールが特徴的な女の子は返事をする。
「どうしたのみっちゃん。今度こそ変なものでも食べた?」
茶髪のショートヘア、"みっちゃん"へといつものように冷静にそう返した。
まいこはメロンパンとあんぱんを袋から取り出し、机に置く。
瞬間、メロンパンはその前方より伸びてきた右手に強奪された。
「私が食べてるのはこのお兄ちゃんお手製のお弁当と! このメロンパンだけだよ!」
みっちゃんは笑顔だった。笑顔で左手で青い布に包まれた三段重ねの大きな空のお弁当箱をトントンと叩き、右手で強奪したメロンパンを見せる。
「あの、みっちゃん、おかしいよね。それ私のメロンパンだよね」
無表情でそう言ったまいこは、左手に巻きつけてあった釣り糸を引っ張る。
「あ! ごめんごめんついうっかり!」
すると、苦し紛れの言い訳と共に、みっちゃんの手からメロンパンが放たれた。
「そんな堂々としたうっかりがあるか」
まいこが冷静につっこみ、メロンパンを自分の体の方へと寄せあんぱんを開封。
「あ!」
みっちゃんが思い出したかのような大声を出す。
「次は何? どうしたの?」
いつものことと言わんばかりにそう言い、あんぱんを頬張ろうと口を開こうとした。
「掛け算の勉強しよう!」
「あ…、うんいいよ」
みっちゃんの提案にまいこはあんぱんから口を離す。
「はい! じゃあ3×3!」
みっちゃんは右手と左手の人差し指、中指、薬指をそれぞれ立てて三を表現し、まいこへ問題を出す。
「9」
即座に答えは返ってきた。
「正解正解! じゃあ次はー! 7×2!」
開いた左手の掌の中心に、右手の人差し指と中指を翻し七を表現し、即座に右手を翻し二を表現する。
「14」
そんなみっちゃんの高いテンションとは裏腹にまいこは淡々と答える。
「おやまた正解! 8×2」
「16」
「やるね! 1×3」
「3」
「9×1」
「9」
「9×2」
「18」
「9×3」
「27」
「9×4」
「36」
「9×5」
「45」
「9×6」
「54」
「9×7」
「63…、はーいちょっと待って待って、ストップストップストップ」
さすがに我慢の限界が来たのか、まいこはストップを掛けた。
「何?」
きょとんとするみっちゃんに質問を投げかける。
「なんで九の段ばっかりなの?」
「そりゃ!」
「「九の段はボスラッシュっぽくてカッコイイ!」」
まいことみっちゃん、ほとんど同時に答えた。
「…! 先読み…!?」
みっちゃんが大げさに驚いてみせるが構わず、
「いやいや、それぐらい言いたいことわかるよ…。で、何がしたいのみっちゃん」
呆れ返るまいこ。
「いや! 掛け算ってすごいよね!」
「話聞いてる!?」
そんなことは無視してみっちゃんは話を続ける。
「例えば9瓶のイチゴジャムが2セットあった場合、18瓶になるよね!」
「…そうだね」
「チャーハンを4個頼んで更に6回おかわりしたらチャーハンが合計24個!」
「うん」
「42987個のりんごが199484箱あったら8575218708個!」
「よく計算できたね、偉いよみっちゃん」
まいこは右手でみっちゃんの頭を撫でる。
「っ、えへへ…! って違う違う! そう! お話はここからなんだよまいこ」
「うん」
予想外の褒め言葉と共に頭を撫でられ太陽のような笑みを嬉しそうにまいこへと向けるが、その手を振り払い、口を開く。
「例えばさっき言ったように4万2987個のりんごが19万9484箱あったらりんごの合計は85億7521万8708個だよ。世界中の人にくまなく配っても大丈夫なぐらいの膨大で途方もない数だよ!」
「じゃあここでまた掛け算の問題を出すよ!」
「いいよ」
「はい、100点満点のテストが0枚あったら?」
「100×0で0枚だね」
「うんうん、じゃあ、76億人が住む地球が0個あったら?」
「76億×0で0」
「ほら…! 0ってすごくない!?」
「どういうこと?」
「0に何を掛けても0なんだよ! 例えばさ、さっきのりんご! 85億7521個のりんごが0ダースあったらどうなる? そう! 0なんだよ!」
「0ダースイコールは存在しないってことだしね」
「違うよ! 今は掛け算の話してるの! バカ! まいこバカ! バーーーーカ!」
「えっ、あー…、うん、そうだね、ごめん」
理不尽な罵声の嵐に思わず謝ってしまったまいこを傍目に、みっちゃんの熱はヒートアップする。
「このとき85億7521個という数字はどこかに消えちゃってるんだよ!」
みっちゃんは立ち上がり右手の人差し指を天高く突き上げる。
「例えば100000000000000000000に0を掛けてみると答えはなんと…!!!」
そして、その指を素早くおろし大げさにまいこへと向けた。
「え、私? "0"だね」
あんぱんを食べ終わったまいこは答えた。
そしてみっちゃんはその答えを貰い、さらに笑顔になった。
「そう! 0になっちゃう! スゴイ! 不思議!」
「"0"が1つによって20個もの"0"と1個の"1"が一瞬にして消えちゃった」
「うん、消えちゃったね」
ほとんど興味を失い、メロンパンを頬張るまいこを見つつ、みっちゃんは尚もまくしたてる。
「これは大発見だよ! だって、これを0は掛ければ相手がなんであろうと0にしちゃうんだよ!?」
「つまりこれって!!」
「消えた数字は"0"に飲み込まれたか、打ち消されて消滅しちゃったと考えるのが妥当なんだよ!!」
「0には無限のエネルギーが秘められている!!!」
「だから私は今から家に帰って、お兄ちゃんにこれを教えてくるね!」
みっちゃんはここまで早口でまくしたてると、お弁当箱の包みを目にも留まらぬ速さで鞄へと収納、流れるような動きで華麗なターンを決め教室後方の扉へ一目散に走りだす。
「いや、みっちゃん? 何言ってるの!? ちょっと!」
まいこはそう言ってメロンパン左手に立ち上がったが手遅れだった。言い終わる頃にはみっちゃんは消え、
「うわーーーーー! 0のエネルギーを感じるーーー!!」
声が廊下にただ鳴り響いているだけだった。
「…あーあー、行っちゃった」
みっちゃんの突然の奇行ですっかり静かになった教室で、
「0のエネルギーって感じるものなの…? どういうこと?」
呆れるような疑問の言葉がまいこの口をついた。
それから程なくして、賑やかな昼休みの校舎を昼休みの終わりを告げるチャイムが駆け巡った。
五時間目の授業が始まった。
科目は数学、先週行った定期テストの返却日が今日だった。
「それではテストを返却する。呼ばれた者は返事をして取りに来るように」
銀縁の格調高いメガネをかけた長身痩せ型の数学教師が呼びかけ、名前を呼ぶ。
「相澤佳奈。前回よりも点数は伸びている。もうひと押しだ、頑張れ」
「はいっ、頑張ります!」
相澤佳奈と呼ばれたツインテールの女の子がにこやかに敬礼しながらテストを受け取る。
「はい次、秋川圭吾。いつも惜しいところまで行くね、満点まであと少しだな」
「はーい」
髪を茶髪に染めただらしなさそうな男子、秋川圭吾はだるそうにテストを受け取り、ゆっくりと席へ戻る。
「伊藤舞子。お見事、今回も満点者は君一人だ」
直後に呼ばれたまいこの名前に少し不機嫌そうな顔を浮かべた。
「はい、ありがとうございます」
そんな秋川の顔を見ても尚、まいこは謙遜するでも誇るでもなくテストを受け取り、淡々と席へ戻った。
「伊東未来、…君はちょっと後で職員室だ」
呆れた様子で数学教師がみっちゃんの名前を呼ぶ。
数学教師の声だけが響く教室。待っていても当然返事はない。
そして教壇から見渡すが、どこにもみっちゃんの姿は見えなかった。
「ん? 伊藤未来は居ないのか」
疑問を投げかける数学教師の質問に静かに手が挙がった。
「あーみっちゃん、…じゃないや、伊東未来さんなら(頭の)調子が悪くて早退しました。放課後に私がお見舞いに行くので渡しておきます」
まいこは手を挙げ立ち上がり、無表情でゆっくり言いながら教壇へと歩を進めた。
「ああ、そう。よろしく頼む」
一ミリの心配もなく、数学教師はみっちゃんのテスト用紙をまいこへと手渡した。
次の生徒の名前が呼ばれる中、まいこは返されたみっちゃんのテスト用紙を見る。
解答欄に半ば殴り書きされた大きな赤い"×"マークがあり、そのテスト用紙の上部左側の名前欄に"伊東未来"と可愛らしい丸文字で書かれていた。
そのすぐ右横に採点者の呆れを体現するかのように書かれた適当な文字の"0点"。その二文字を見つめ、ため息混じりに
「0」
そうつぶやいた。
実はまいこはテストの数日前にみっちゃんに勉強を夜通し教えていた。にも関わらずこの見事な点数。
もはや呆れを通り越し、感心した様子でこう言った。
「なるほど確かに、みっちゃんは0のエネルギーを感じてたんだね」
「あはは、こりゃ一本取られ…」
「てないよ!!」
まいこの大きな怒号によって、次の生徒の名前は虚空へと消えた。
9.無限の零