There's nothing impossible, because I love. (深海 魚)
お題「失恋」
少女漫画が嫌いだった。
好きなら好きと言えばいい。悲しいなら泣けばいい。嬉しいなら笑えばいい。憎いなら憎み、妬ましいなら好きなだけ妬めばいいのに、彼女たちはそうしない。心の内側で感情が渦を巻いて、足を取られて一歩も進めない。それがもどかしい。
遠回りは好きじゃない。私ならもっとストレートに、最短距離でゴールしてみせる。
「好きです」
「はぁ……」
人気のない放課後の校舎裏。ありきたりな場所だけど、それがいい。こんな場所で女が男に言うことと言えばたった一つしかないという、暗黙の了解があるから。おかげで無駄に言葉を重ねなくて済む。
そのはずだった。
「好きって……どういう……」
それなのに、槍ヶ崎くんはいまいち理解が至らないらしかった。誤算だ。彼は察しが良い方だと思っていたのに。あるいは、理解したくないのだろうか。
私はもう一度、相手の目を見てはっきりと言った。
「好き。私、鏡響子は三年五組出席番号三二番槍ヶ崎計一郎くんが恋愛的な意味で好き。ちなみに、恋愛的というのはいわゆる性欲と密接な関係にある通称恋愛感情に基づいた」
「わ、わ、わかった、わかったから、もういい!」
槍ヶ崎くんが真っ赤になって叫んだので、黙る。とりあえず主旨は伝わったようだ。
しかし、なおも槍ヶ崎くんは得心のいかない顔、つまりあまり機嫌が良くなさそうなしかめっ面だった。思っていた反応と違う。初心で純朴でおそらく童貞の槍ヶ崎くんならば、平均以上の容姿を持つ女子生徒ならば、誰であっても告白されて喜ぶだろうと予測していたのに。どこで認識を誤ったのだろう、それとも問題は他にあるのか。
「君さ、僕と話したことあった?」
「ない」
「同じクラスになったことは?」
「ない」
「委員会とか、部活動」
「ない」
「だろうね。ないよね。そもそも君の制服、僕の高校のじゃないし」
私は自分の身体を見下ろした。赤いスカーフに黒いセーラー服。いささか古風すぎるので私は好きじゃない。
「それが?」
尋ねると、槍ヶ崎くんがぎゅっと顔を歪めて吐き捨てた。
「それが、じゃない。ろくに会ったこともないのに好きって意味わかんないよ。妄想?ストーカー? はっきり言うけど、気持ち悪い」
「…………」
「な、なに」
槍ヶ崎くんが目を逸らして、所在なさげに学ランの裾を摘んだ。バツが悪いんだろう。自分で罵っておきながら、それが相手を傷つけてしまったかもしれないという、想像に怯えている。
「かわいい」
「は?」
「心底気味悪い女相手にも気を使っちゃう槍ヶ崎くんかわいい。未知の人間に対して人見知りする槍ヶ崎くんかわいい。私を怖がってもじもじする槍ヶ崎くんほんとうにかわいい」
「ちがっ、怖がってなんか、それにかわいくない」
「否定するポイントがいちいちズレてる槍ヶ崎くんかわいい」
「うるさい! かわいいって言うな」
「かわいいかわいいかわいいかわいい」
「それ以上、かわいいって言ったら、殺す」
「(かわいい)」
「思っても殺す!」
生まれたてのヒナみたいに、顔を真っ赤にしてぴぃぴぃ喚く槍ヶ崎くんを見ていると、心がじわじわと温まっていくのを感じる。これが母性なのだろうか。ない胸から母乳が出る日も近いな。
そんなことを考えていたせいか、うっかり笑ってしまった。
「うふふ……」
「…………」
しまった、怒らせた、と思ったけれど、槍ヶ崎くんは困ったような、焦ったような、変な顔でこ視線を逸らしただけだった。
「笑うと、ふつうに……」
「ウニ?」
「なんでもない、ばか」
ふい、と顔をそらす槍ヶ崎くん。形のいい耳が赤くなっている。寒いのかもしれない。もう11月も終わる頃だ。ぐずぐずしていると、日が沈んでしまう。
「で、槍ヶ崎くん。返事は?」
「返事……?」
「告白の。はいかイエスか承知しましたの、どれ?」
「どれでもないから!……だって、そんな、知らない人なのに」
槍ヶ崎くんはスニーカーのつまさきで、地面に何か書いている。煮え切らない態度。思ったより悪くない反応だ。
「知らなくないよ。私は槍ヶ崎くんの身長体重座高、生年月日好きな食べ物嫌いな教科前回の模試の点数まで全部知ってる」
「だから、なんでっ……もう、いいけど……そうじゃなくて、僕が君を知らない」
「これから知っていけばいい」
「でも、僕三年だし」
「私もだよ」
「だったら、なおさらだろ! こんなことしてる場合じゃないんだ。もっと、ほら、勉強とかしないと。受験に失敗したくない」
「ふーん」
これはきっと嘘。だって今日の授業はもうそろそろ始まっている頃だ。本当に勉強がしたいなら、私のことなんかさっさとほっといて塾に行くはず。そうしないということは、槍ヶ崎くんが本当は勉強なんかどうでもいいと思っているってことだろう。
私は不安げにさまよう白いスニーカーを目で追いながら、ありったけ気持ちを込めて言った。まるで祈るように、あるいは追い詰めるように。
「私、槍ヶ崎くんが好き。ほんとにほんとに好き」
「うるさいな、それはもういいよ……」
「だから私、槍ヶ崎くんのためならなんでもする。槍ヶ崎くんの欲望を片っ端から叶えてあげる。槍ヶ崎くんの生きやすいようにすべてを変えるの。私にはそれができる」
「うそだ」
槍ヶ崎くんが苦しそうに呟いた。つま先で書いたなにかを、諦めたように乱暴にかき消す。
「君はこどもだ。僕も。なんの力も持たない。なにもできない……」
「できる」
「どうして!? 何を根拠にそんなことを言うの? 出来もしないくせに偉そうなこと言うなよ、くだらない。だから馬鹿は嫌いなんだ……」
「できるの」
「できない!」
「できる!」
大声に驚いたのか、槍ヶ崎くんはびくりと肩を震わせた。恐る恐るといったふうに、こちらを伺う。その姿は弱くて、愚かで、とっても卑屈だ。
「槍ヶ崎くんは、ずるいね」
黒い大きな瞳が揺れる。今にも零れそうに。
「ずるくて、甘ったれで、卑屈。うじうじしてて、言いたいことは何一つ言えない。しょっちゅう周りを見て、ご機嫌伺って、自分でできることと言ったらつま先で砂をいじるのがせいぜい。いつも誰かの言いなりだから、都合の悪いことも全部周りのせい。プライドだけは高い幼稚園児。それが槍ヶ崎計一郎の本性」
「なんだよ、それ……」
「そんなだから、好きでもない勉強を毎日やらされて、満足にご飯も食べられないで、クラスではひとりぼっちで、毎日死ぬほどつまらない思いする羽目になるんでしょ。嫌じゃないの? みじめじゃないの? それとも、もうわかんないのかな」
「黙れ」
「限界までやりたいことも、叫びたいほど伝えたいことも、泣き喚くほどの感情も、君にはないの。だって槍ヶ崎計一郎は出来の良い人形だから。周りの期待に答えるだけの、都合のいい藁人形。でもそれで満足なんでしょう、だって槍ヶ崎計一郎には自分なんてないんだもの飼い犬くらいが丁度いい、そうでしょう?」
「黙れ、黙れ黙れ」
いつもと違う低い声。制服の襟を掴む手は以外と骨ばっている。男の手。
「殺すぞ」
力任せに校舎壁に叩きつけられる。強かに頭を打つ、星が飛ぶ、地面が揺れる。
「殺す……」
細くて白い槍ヶ崎くんの指が喉に食い込む。気道が潰れ骨が軋む。脈打つ血管、破裂しそうな頭、霞む視界、そのすべてが、私に向けられた槍ヶ崎くんの真心。
「やりがさき、」
「お前に何がわかる」
槍ヶ崎くんは怒りに爛れた目で自分の手元を見ていた。
「毎日毎日朝から夜まで勉強漬け、親も教師もクラスメイトも顔を合わせれば成績と志望校の話。やってもやっても終わらない課題。比べられ続ける競争の人生。だけど降りられない。そうだよ、もううんざりだ、だけど僕にはそれしかないから……!」
今、彼は泣いているだろうか。自嘲っているだろうか。あるいはどちらも正解なのか。
「嫌だなんて言えない、もうやめたいなんて言えない、勉強をやめたら僕には何も残らない。誰にも認めてもらえない、そんなの嫌だ。消えたくなかった! だから、ずっと、ずっと、すっと……」
酸素の足りない頭で、私は想像する。槍ヶ崎くんは、小さい時から大切にされてきたんだろう。愛されてきたんだろう。期待されてきたんだろう。小さな身体には重すぎる期待を背負いながら、それでも必死に答えつづけて今日まできたのだ。
槍ヶ崎くんにとって、愛とは期待されること。愛されるとは、期待に応え続けること。そして槍ヶ崎計一郎は期待を絶対に裏切らない「良い子」。それが彼なのだ。それしか知らない彼は、でも、そろそろ限界なのだろう。
「えらいね」
痺れる腕を持ち上げて、槍ヶ崎くんの丸い頭にそっと触れる。さらさらの髪を指先で賺すと、夕日にさらされた髪がきらきら光った。
「どうして……」
槍ヶ崎くんの手が、力を失う。
「どうして僕なんかを好きなの」
「好きだから」
「それじゃ、答えになってないよ」
槍ヶ崎くんはかすかに笑った。首に絡んでいた手が、縋るように私の肩を掴む。可愛そうなほど震えていた。
「ごめん……」
小さく吐き出された謝罪には、自己嫌悪の色が混じっていた。結局のところ、不器用で繊細な槍ヶ嶺くんには、他人を責めることさえ上手にはできないのだ。
「いいの。気にしないで」
私は冷たい校舎の壁にもたれながら、槍ヶ嶺くんの頭をそっと撫でた。槍
私は小さく丸まった学ランの背中をいつまでも撫で続けていた。泣き虫な彼が泣き止むまで、ずっと。
「おはよう槍ヶ崎くん」
「か、鏡……」
槍ヶ崎くんが世界の深淵でも覗き込んだような形容しがたい顔で私を見ている。なかなか気分がいいものだ、好きな人の視界を独占するのは。
「あれ、槍ヶ崎君は鏡さんのお知り合いですか」
「恋人です、先生」
「違います! 知りません、こんな非常識な女……!」
槍ヶ崎くんが顔を真っ赤にして全否定するが、手遅れだ。クラスはさざ波のようにざわめき、槍ヶ崎くんと私を交互に見やっては何事か噂している。初日の印象操作としては、上出来。
「みなさん、静かに。この時期ですが転校生を紹介します。鏡響子さんです」
「第二胡霖高校から、父の仕事の都合で転校してきました。鏡響子です。どうぞよろしく」
頭を下げると、おざなりな拍手。伏し目で見渡したクラスは一見、品行方正なロボットの寄せ集め。しかし、実態は複雑に、剣呑に絡み合っていることだろう。
これから面白くなりそうだ。無論、槍ヶ崎くんがいるからこその話だが。
「じゃあ、鏡さんの席は……」
「槍ヶ崎くんの隣で」
「やめてください!」
槍ヶ崎くんが悲鳴をあげたが、残念、このクラスで空いている席はそこしかないのだった。窓際から二番目、一番後ろのハイクラスシート。私だけの特等席。
嬉しさに胸を反らして、堂々とクラスの真ん中を歩く。途中、いろいろな顔が私を見ている。中には面白そうなのもいくつか。
そして、私がいよいよ席に着くと、槍ヶ崎くんは思いっきり顔をそらした。あまりにも子供っぽい。が、それもまた可愛いのだ。
「今日からよろしくね、槍ヶ崎くん」
「…………」
「槍ヶ崎くん?」
「…………」
「身長159センチ体重51キロ座高ーー」
「わかったから、個人情報流さないでよ! ああもう、よろしく。これでいい?」
不服そうな顔、声、目線。でも私にはそれでよかった。これでようやくスタートラインに立てる。もう、陰から眺めているだけの不毛な期間は終わり。
「うん、ありがとう」
精一杯の笑顔で、私は応えた。普段ほとんど笑わないのであまり良い出来ではないだろうが、無表情よりはいくらかましなはずだった。が、槍ヶ崎くんはまた、ぷいとそっぽを向いてしまった。やはり不自然だったようだ。今日から早速、表情筋ストレッチを開始しなければ。
「だから、ふつうに……」
「ウニ?」
「……なんでも」
槍ヶ崎くんの好物に、ウニを付け加えておこう。
There's nothing impossible, because I love. (深海 魚)
ᐠ( ᐝ̱ )ᐟ