バスケ物語
一
そのボールは、きれいな弧を描いてゴールに吸い込まれた。
「よし」
放った少年が呟く。彼が操っているボールは、バスケットボール。誰もいない朝の体育館で、自分の思うままに体を動かし、ボールを放つ。少年が放つシュートは、めったに外れなかった。
「さすがやね、宮尾」
そこに少女が近付いてきた。上下、学校で定められている体育着で、肩にかかるほどの髪を後ろで結わっている。
「今日、始業式やのに、ようやるわ」
明るい表情と関西弁がマッチしている。宮尾は、動きをいったん止めて、少女の方を見た。
「もう二年だしな。今年は勝たねーと」
「そやね。去年は散々やったし」
宮尾が時計を確認し、足元でキュッと、音を立てた。
「尾崎、いつも通り頼む」
「うん」
尾崎は頷くと、コートのゴール下に描かれた台形のラインの中に入った。
宮尾は毎朝、尾崎のディフェンス相手に動きの確認をする。尾崎は中学までバスケの経験者で、今でもマネージャーとしてバスケに関わっている。
二人は時間の許す限り練習した。
練習を終えて教室に入ると、教室内の人間はまだ好き勝手な場所でお喋りに興じていた。
男子の集団が、宮尾と尾崎の方に顔を向けた。
「おう、レイジ。今日も朝練かよ」
「ああ」
宮尾は無愛想に答えた。
「尾崎もやっぱり一緒なんだな」
別の男子が尾崎を見て、言った。
「ミヤオザキだからな」
とまた別の男子が言うと、笑いが起こった。「ちょ、ミヤオザキって何なん?」尾崎が驚いて、尋ねた。
「いつも一緒にいるから、名前がくっ付いちゃった」
また笑いが起こった。「良かったな、また同じクラスで」他の者も調子に乗って加勢した。
そこに担任の先生が入ってきたため、尾崎の反論する暇はなく、席に着いた。
そのやりとりの間、宮尾は興味なさそうに黙っていた。
クラスの中で背が高い方の宮尾は、出席番号順に並ぶと後ろになるが、前が見えないことはない。
学校の一年が三月に終わり、四月になってまた新たな一年がスタートを切る。学年が変わる、と言われただけでは本人たちに中々、自覚が生まれにくいが、これから始まる式には、自覚させるのに十分な効果を孕む。始業式とは、そんなものだ。
宮尾の周りの生徒は、さっきから転入生が来ることを話題に盛り上がっていた。ある先生が漏らしてしまったことで、生徒たちはそのまだ見ぬ転入生の姿を思い巡らしていた。
バスケが上手いやつだったらいいな。宮尾はそう思っていた。
やがて、始業式が始まった。生徒たちの不快指数を高める、校長先生の話を挟んで、転入生の紹介が行われることになった。今まで校長先生の手前、静かだったのが、ざわつき出す。式を進めている教頭先生は、構わずに転入生を体育館の中に入ってこさせた。
そのざわつきは、一瞬、静寂に変わり、やがてさっき程ではないが、またざわついた。
その転入生の姿が、目を見張るような美少女だったからである。ストレートのロングヘアー、緊張で伏せがちな目映い瞳、華奢なその体。男子の視線は、自然と集まった。
転入生のクラスは、宮尾と尾崎と同じ二年B組だった。担任は簡単に話を済ますと、転入生を教室に引き入れた。体育館は、遠くて見えない部分もあったが、教室では全身を目の当たりにされる。彼女は先程よりも緊張の色が濃かった。
「じゃあ、星野、簡単な自己紹介をしてくれ」
星野は、誰とも目を合わさないように俯いたまま、小さな声で名を告げた。
「……星野クルミです。山梨県から来ました。よろしくお願いします」
まるで声の小さな星野のために、机を動かす音も立てないで寂としていた教室が、一転して拍手に包まれた。星野はぎこちなくお辞儀をすると、担任に示された席に座った。出席番号順なので、宮尾の斜め後ろだった。といって、わざわざ振り向いて、声をかけたりしなかった。全く興味がないわけじゃなく、彼女が見るに耐えるほ
ど緊張していたから、控えたのだった。
それに宮尾の興味の大部分は、バスケで占められている。今も放課後の部活のことを考えていた。
昼飯代わりのおにぎりをくわえながら、宮尾は足早に体育館へ急いでいた。彼はいつも一番乗りで、部活前もボールに触っている。
だが、体育館に着くと、すでに誰かいた。自分より早く来るのが誰か気になった宮尾は、更衣室へ行かずに、その人物に歩み寄った。
よく見ると女子の制服を着ていて、宮尾の頭には尾崎がすぐ浮かんだ。
なおも近付くと、女子でも尾崎とは全然、違う人だと分かった。それは、今日、転入してきたばかりの星野だった。
「星野――さん」
星野の肩が小さく反応した。驚かせたかな、と宮尾は不安になった。振り向いて、宮尾を認めると、黙ったまま宮尾を見つめていた。
「どうした? 何かここに用? それとも、道に迷った?」
「……な、何でもない」
自己紹介のときよりもはっきりと、何でもないことを強調した。
「ごめんなさい」
と呟くと、小走りに去っていった。
意味を測りかねて、首を傾げたがそれほど気に留めず、宮尾は更衣室に向かった。
宮尾たちが通う都立西桜高校のバスケ部は、毎年のように一回戦で敗退している。現役の中で、勝利の味を知っている者は一人もいない。その実力のなさ以上に、くじ運の悪さで有名である。いつも一回戦から全国レベルの強豪校と当たってしまう。
また、顧問がやる気がない。顧問は現代国語を普段は教えている与謝野という男で、練習を見に来たことがない。試合には引率者として同行するが、それでも見ているだけ。指示を出したりしない。バスケに詳しくないのが主な理由であるが、同時に西桜にバスケに詳しい人がいないのが、このやる気のない顧問が顧問になった原因である。
しかし、タレントはそれなりに揃っている。
三年生で部長の村瀬光介。西桜の精神的柱で、ゲームメイクに優れている。ポジションはバスケの司令塔に当たるポイントガード。
同じく三年の佐々井多紀。シュート、パス、ドリブル全てに長け、チームのエース的存在。
二年生の平岡真治。宮尾と尾崎の幼馴染で、ずっとバスケをやっている。そのため、実力はある。
同じく二年の長谷部潤。彼はこれといった長所はないが、短所も見当たらない。試合ではオフェンス、ディフェンスと器用にこなす。
この四人に宮尾を加えた五人がレギュラー。都内でもトップクラスの技術を持ち合わせているが、試合で勝てないのには理由がある。
リバウンドが捕れない。
バスケットでは、シュートを誰かが打ち、外れたボールをリバウンドと呼ぶ。それを捕ることに秀でた選手が重宝されることも多く、そういった選手はフィジカルが強く、また身長が高くて、ジャンプ力が抜群。失点を防ぎ、次の攻撃に結びつくことから、四点分の働きと言われる。
西桜が捕れないのは、フィジカルに問題がある。背の高さは、バスケをする人たちの中では普通だが、五人とも線が細い。
でも試合の勝敗を左右するほどか、と大げさだと捉える人もいるが、リバウンドは、一時のプレーではない。試合中、数え切れないぐらいその機会がある。積み重ねが、どうやっても覆せない点差になるのである。
西桜は今年こそ公式戦勝利を目標に、始動しようとしていた。
「お願いしまーす!」
部活は、挨拶の後、ランニングから始まる。バスケは試合に出ている間、ほとんど走っている。体力は、不可欠要素だ。走り込みは、陸上部並に練習に組み込まれる。体育館が使えない日は、マラソン大会でもやっているのか、というぐらい走る。
走った後は、シュート練習に入る。しかし、基本中の基本だからそんなに時間は取らない。
部活の終盤、二つのチームに分かれてミニゲームが行われる。振り分けは部長の村瀬が決め、均等な強さになるように調整する。スタメンとベンチメンで分けないのは、両者の実力の開きが大きいからである。スタメンが一人でも欠けると、チームの力は格段に落ちる。これも西桜が、部員を多く抱えた強豪校に勝てない理由とも言える。
「レイジ、へばってんな」
腰を下ろして休んでいる宮尾のもとに、平岡が声をかけた。平岡は、宮尾と尾崎の幼馴染である。
「全然。試合用に体力温存してっから」
二人はチームメイトであると同時に、切磋琢磨し合うライバルでもある。それぞれの活躍が、それぞれを刺激する。
「違うチームだといいな」
「だな。一年の最後の部活は、シンジと同じだったし」
そこにマネージャーの尾崎が近寄ってきた。バスケ部のマネージャーは、今のところ彼女一人。
「へへん、さっき村瀬先輩が持っとったメンバー表の紙、盗み見してきたで」
「マジ? おれとレイジ、別チームだった?」
平岡が食いついた。
「うん。平岡は佐々井先輩と、宮尾は村瀬先輩と一緒やで」
「ほう」
宮尾が不敵に笑った。プレーヤータイプ的に、自分と村瀬が合っている、と思っているからであった。
平岡はそれを自分への軽い挑発と受け取って、「負けねーから」と意気込んだ。
ミニゲームが始まった。チームはゼッケンを着るか着ないかで分かれる。ゼッケンチーム(紅)は、村瀬、長谷部、一年の香村、矢部、そして宮尾。対する白は、佐々井、平岡、二年の岩田、持田、一年の長島。
ジャンプボール。宮尾と佐々井が飛んで、白にボールが渡った。白の岩田から平岡にパスされて、そのままドリブル。紅の香村をかわして、シュート。
決まった。白がまず二点。
「どーよ?」
平岡がすれ違うときに、宮尾に言った。宮尾の闘争心をかきたてる。
紅ボールからリスタート。村瀬が運んで、マークを外してフリーになった宮尾にパス。そっからスリーポイントシュート。
外れた。リングに当たって、それを紅の長谷部が拾って、またシュートを打った。
それも外れた。今度は白の長島が取って、前を走っていた佐々木にロングパスが通った。
佐々井は、スピードとキレを兼ね備えたドリブルで、香村と矢部をあっという間に抜いて、ゴール前は宮尾一人。宮尾は低く構えた。目で動きを追った。左にフェイク、右にフェイク、シュートフェイク――違った。シュートだった。
決まった。紅0―4白
紅の反撃。村瀬から矢部にパス、宮尾にパスしようとしたが、平岡がパスコースに入ったため、村瀬に戻した。
ここで絶妙なパスが出た。ゴール下でフリーになっていた長谷部に、白のディフェンス陣を掻い潜って、パスを通した。それを長谷部がシュート。
入った。紅2―4白
白の反撃。平岡にボールが渡った。ドリブルで中に切り込み、レイアップ(リングにボールを置くように放つランニングシュート)しようと見せかけて、佐々井にパス。
そこで長谷部がパスカット。紅のカウンター。長谷部がドリブルして、佐々井が来る前に宮尾にパス。宮尾はまたもスリーポイントシュート。シュートには、自信がある。
決まった。紅5―4白
「よっしゃ」
宮尾がガッツポーズを平岡に見せつけた。
――試合が終わった。紅69―70白で後半の二十分(バスケは前半二十分、ハーフタイム十分、後半二十分)が終了した。今日の練習は、ここまで。
宮尾は着替えると、家が近い平岡と帰った。
二
次の日、学校は休みだった。部活も大会前以外は、学校が休みならない。
宮尾は暇つぶしに本屋にでも行こうと自転車にまたがって、家を出た。中学二年から愛用している、青の自転車。
公園が見えてきた。バスケコートがある珍しい公園で、宮尾もよく来る。以前は不良のたまり場になっていて、付近の住民の悩みの種だったが、宮尾と平岡がバスケで勝負を吹っかけて圧勝し、それからは来なくなった。
そんなこともあったな。宮尾は小さく笑った。
思い出に浸りたかったからか、前から車が速めのスピードで来ていたからか、宮尾は無意識のうちに公園の横で止まった。そしてバスケコートの方に目をやった。
そこには、意外過ぎる人物がいた。星野がバスケットボールを持って、一人でいたのである。力ないフォームでゴールに向かってシュートを放ち、外れては取りに行って、またシュート。
宮尾はぼんやりと見つめていた。車が横を通り過ぎて、我に返った。自転車から降りて、バスケコートに入っていった。
星野はすぐ近付いてくる男に気が付いた。シュートを打つのをやめて、宮尾を目で捉えた。
「バスケ好きなの?」
星野は黙って、なかなか答えなかったが、やがてこっくりと頷いた。
「中学の頃、少しやってた」
その華奢な体型で、人形みたいな顔立ちからは想像し得なかった。
「へえ、意外だな」
宮尾は正直な感想を漏らした。
「それで昨日、体育館に来てたってわけ?」
「……うん、マネージャーになろうかと思って」
「じゃあ、何で帰ったの?」
もしかして、おれのせい? と宮尾が尋ねると、星野は首を横に振った。
「バスケは好きだけど、ちゃんと働ける自信がなかったから、迷ってたの」
「大丈夫」
宮尾は反射的に励ましにかかっていた。「おれの幼馴染の尾崎ってやつがマネージャーやってるから、色々と助けてくれるぜ」そう言ってから、まるで勧誘しているみたいで、普段の自分じゃ、こんなことはしないのにと思った。
そんなに異性を意識したことはないが、星野は性格も相まって、放って置けない気がした。
「じゃあ……入ろうかな」
「え、マジで。それはありがたいけど、よく考えた方がいいんじゃね?」
「でも、私はバスケ好きだから」
その短い言葉は、宮尾にとって何よりも頭に響いた。
「明日から――」
その日の夜、宮尾は尾崎に電話をしていた。
「星野も朝練に来ることになったから」
「ええー?」尾崎は明らかに驚いた調子で言った。まあ、驚くのも無理がない。
あの後、宮尾は自分が毎朝、尾崎と朝練をしている話をしたら、自分もバスケがしたい、と申し出た。おとなしい性格なのに、意外と大胆な所もあるんだな、と驚いたが、OKした。
「いつの間に仲良くなっとったん?」
まだ、来て一日しかたってないで。尾崎の言うとおり、この展開には宮尾自身も驚いていた。あの公園のバスケコートで話しかけるときに、こうなるとは欠片も考えなかった。
「でも、マネージャーになってくれるのは助かるわ」
「え、一人じゃきつかったの?」
尾崎がマネージャーの仕事について愚痴をこぼすのは、めったにない。
「そらそうや。これでも私は、か弱い女の子なんやで」
か弱い、ねえ。宮尾は鼻で笑った。宮尾の知っている限りでは、尾崎は弱さを人前にさらさない。強い、よりもたくましいという言葉が合っている。「あ、鼻で笑ったやろ」尾崎が電話の奥でむくれた。
「ところでさ」
宮尾は話題を変えた。
「尾崎って、大阪にいたの五歳までだろ? もう東京の方が長いけど、関西弁って抜けないもんなの?」
尾崎は出会った頃から関西弁だった。別にやめて欲しいわけじゃなく、純粋に気になった。
「……」
しかし、その質問に対する返事はなかなか返ってこなかった。
「あれ、尾崎? 沈黙、長くない?」
宮尾は不安になった。人がどんな事情を抱えているか、計り知れない世の中。たくましく生きているように見える尾崎にも、何か重い物を背負っているのかもしれない。
「――うーん」
ようやく聞こえたのは、考え込んでいるトーンだった。
「何でやろう? 子供心に個性を出そうとしとったんかな」
だとしたら、計算高い少女時代やな。尾崎は自分で言って、自分で笑った。
どうやら、深い理由はないらしい。
星野はやる気満々を窺がわせてきた。宮尾よりも早く体育館に来て、準備体操をしていた。長い髪を束ね、体操服を着ていた。
「早いな」
おはよう、のあとにそう言うと、星野もおはようと呟いた。
「あともう一人、昨日言ってた尾崎が来るから、少し待って」
と言いつつ、宮尾も準備体操を始めた。バスケは怪我が付きもののスポーツだから、それを防ぐのに余念がない。
アキレス腱を伸ばして、前を見据えていると、尾崎が入口から入ってきた。「来た来た」宮尾は準備体操を中断し、星野と引き合わせた。
「星野さんやね。私は尾崎サエ。サエって呼んでや」
尾崎をサエ――箭絵と呼ぶ人は、少ない。女子でも尾崎と呼ぶのが普通だ。本人は箭絵を浸透させたいらしい。
「星野クルミです。……クルミって、呼んでください」
「よろしゅう」
尾崎が明るく笑った。
「よろしく」
星野もつられて笑顔を浮かべた。何か、もっと笑わせたくなる笑顔だな、と宮尾は心の中で思った。
星野が中学までバスケをやっていた、というのは本当のようだった。別に彼女の言葉を疑っていたわけではないが、見た目と合わないから、直に見るまでは半信半疑だった。
基本的な動きはできている。ルールも分かっている。
ただ、尾崎には到底、及ばない。
尾崎もちゃんとしたチームに入っていたのは中学までだが、運動神経が女子の中で抜群だから、ボールを操るキレとスピードが違う。それに、今でも宮尾の朝練に付き合って、相手しているぐらいだから、実力は落ちていない。
自然の成り行きで、尾崎が先生役になって、星野に手ほどきした。
宮尾は星野と尾崎の実力を測りながら、いつも通りシュート練習を繰り返した。
今日は尾崎にディフェンスやってもらえないかもな、と思っていたら、尾崎の声がかかった。
「宮尾、そろそろディフェンスやったるで」
宮尾は頷いて、二人の方に向かった。
星野は抜けて、見学でもしているのかと思ったが、彼女もそこから動こうとしない。宮尾は怪訝な表情を浮かべた。
「ああ、クルミもやるで。宮尾のすごさを体感したいんやと」
尾崎が察して、説明した。
「いいけど、動きの確認だから、本気は出さないよ」
と言いつつ、宮尾は本気出すと企んでいた。最初の印象は大事だから、ここですごさを見せ付けておきたい。あわよくば、表情を崩して賞賛してほしい。
ハーフラインの手前からボールをついて、ドリブルで二人のディフェンスに向かっていった。普段の朝より少しだけ速く。
軽やかに抜いて、ゴール下でボードに当ててシュートを決めた。
「すごい――」
目論見どおり星野がちょっと表情を崩して、感嘆の声を呟いた。さらに何か言おうとしたが、尾崎が遮った。
「ええとこ見せようとしたんか? 本気ださへん、ゆうといて、出しとるやん。それに、ゴール下までドリブルでいっといて、何でレイアップしなかったん? 苦手克服するんが、この練習の目的やろう」
付き合いが長いと、加えて朝練習を数え切れないほど共にやってきたから、ちょっとの変化も悟られてしまう。
だからって星野の前で痛いところを突かなくたって、後で聞いたのに。宮尾は怒りを覚えたが、すぐに思い直した。非があるのは明らかに自分の方だし、かっこつけようとしたのは事実だ。せっかく時間を割いて練習に付き合ってもらっているのに、尾崎に悪いことをした。「悪かった」宮尾は素直に謝った。
朝練習が終わってから、星野がいないところで尾崎が宮尾に尋ねた。「クルミに惚れたん?」ストレートな聞き方に苦笑したが「それはない」と即答した。
「何で?」
聞き返すと、「珍しいやん。宮尾が女子にええとこ見せようとするなんて」
宮尾は何も言えず、曖昧に笑ってごまかした。
言われなくても分かっているが、自分でもあの瞬間の自分は解せなかった。「好き」まではいかないまでも、意識しているのは確かだ。
現代国語の授業中、外をポーッと眺めながら、考え事をしていた。
星野のことである。
星野は、バスケが好きだった。だから、一緒にバスケしたいと言ったのだ。そこに自分に対する恋愛感情とかが、星野の中になかっただろう。
そもそも、自分は何を期待しているのだ。宮尾は自分自身をなじった。今までこんな浮ついたことはなかったのに。別に、もう高校二年だから、好きな人の一人や二人はできてもおかしくはない。ただ、星野は二日前に来たばかりだ。まだ分からない事だらけなのに、これじゃ――ただの女好きじゃないか。
「じゃあ次、宮尾君」
急に与謝野に指名されて、考え事はどこかへ飛んでいった。
与謝野はバスケ部の形だけの顧問であり、練習に口出ししないが、決して立場が弱い先生ではなく、授業はいつも締まっている。
質問の意味が分からなかったから、「分かりません」と宮尾は答えたが、周囲で爆笑が起こった。
「教科書を読めと言ったんだが、そんなにお前にとって難読な文章だったのか?」
与謝野が不機嫌な顔をした。爆笑も、いったん収まる。
「いえ」
「ちゃんと授業を聞いているように」
うなだれると、与謝野は別の生徒を指名した。
完全に自業自得だけど、誰かのせいにするとしたら、星野のせいだ。宮尾は思った。
「やっちまったな」
放課後、部活前の掃除中、宮尾は独り言のように呟いた。掃除がある日は、さしもの宮尾でも一番乗りは叶わない。
「現国で怒られたことか?」
独り言じゃなくなったのは、尾崎が傍で聞き逃さなかったからだ。
「ああ、別に与謝野に怒られたっていいけど、クラスの前で恥かいちまったからな」
星野はどう思っただろう。宮尾は今頃になって、彼女が同じクラスだということに気付いた。不真面目なのかな、とか思ったのか? そもそも、いつも何考えているか分からない。
またボーっとなりかけると、尾崎が宮尾に顔を近づけた。
「考え事でもしてたん?」
宮尾は金縛りにあったように体が動かなくなった。「まあ、ちょっと」
「もしかして、クルミのこと?」
間近にある尾崎の顔は、意外と整っている。意外と言ったら、失礼だが。
そもそも、「ミヤオザキ」にはからかい甲斐がある尾崎に対するものと、かわいい女子をいつも同伴させている宮尾に対する冷やかしが同居している。
「ハハ、何で星野が出てくるわけ?」
宮尾は笑ってごまかそうとしたが、ひきつってしまう。
「別に、何となくや」
まるで付き合ってもいないのに、浮気を責められているみたいだ。何故か後ろめたさを感じる。
星野はおとなしくて、自分から騒動の種を蒔いたりはしないだろうが、その見た目が与える影響は大きい。それに、本人は自覚していないようだ。もしかしたら、今までの学校生活で、騒動の発端になって、加害者扱いされたことがあるのかもしれない。――なんて、出会って間もないのに、そんな分析するのもおかしい話だ。
「よし、机戻すぞ」
与謝野の呼びかけで、掃除が終わりになる。「終わりだってよ」宮尾はそれを逃げ口上に、金縛りを解いた。
背中越しに聞こえた尾崎の呟きを宮尾は聞こえない振りをした。だって、
――クルミ、かわいらしいしなあ。
心を見透かされた気がしたから。
三
朝練で一汗かいた後、三人の話題に上がったのは練習試合のことだった。
「そろそろ練習試合があるんやないかな」
尾崎の呟きに、宮尾が同調した。
「だろうな。去年の今頃もあったし、大会前に入れるならこのタイミングが一番いいだろ」
練習試合の相手校探しは、部長の村瀬がしている。顧問が形だけだから、去年も前部長が探し、真面目で頼りがいのある村瀬は手伝い、という形で携わっていた。
それだけに慣れている。去年、公式戦で無勝利の西桜と試合をしてくれそうな高校をリストアップし、その中から強いところを選んで申し込む。勝ってないとはいえ、実力はあるチームなので、懇意の間柄だったら実績差があっても受け入れてくれたり、逆に同じくらいだと公式戦前に手の内を見せることになってしまうから、断っ
たり、という見立てをする。
宮尾と尾崎であそこかな、いやあそこだろう、と相手校を挙げていると、星野が遠慮がちに呟いた。
「どうして去年は、公式戦で一試合も勝てなかったの? そんなに弱くなさそうに思うけど」
直球で聞いてきた。宮尾は苦笑いを浮かべた。まあ、別にそんなに秘密にしておきたいことでもなかったから、いいけど。
星野はその苦笑いを違う風に捉えたのか、「ごめんなさい」と後悔を表情に出した。
「ええんよ。去年は宮尾、準レギュラーやったし、そんなに気にしとらんわ」
「何でお前が答えんだよ――まあ、その通りだけど」
去年もスタメンは三年と二年の混合で、一年生だった宮尾や平岡はレギュラーにはなれなかった。だが、実力は買われていたため、試合途中から積極的に投入され、それに不平不満を言う先輩は一人もいなかった。西桜の良い所の一つだ。
一方、今年は一年にレギュラーの座を脅かすような存在は入部してこず、選手交替で不利な状況を打開しよう、という作戦はカードとして持てなさそうである。
「一言で言うなら、というかもしかしたらこれが全てかもしれないけど――」
宮尾はそう前置きして、説明を始めた。
以前も言及したが、西桜はくじ運が悪い。強豪校と早いうちに当たってしまうのが昔からよくあった。去年はその極みで、夏秋冬の三大会全てで優勝候補の一角と顔を合わせてしまった。
ただ、それを理由にして諦めていたわけではない。勝つために最善の策を施し、いずれも接戦に持ち込んだ。
結果的に、リバウンドの弱さが勝敗を分けた。ディフェンスが有利と言われるリバウンドを西桜は何度も奪われ、失点につながった。
そして、何より勝ち方を知らなかった。必死にやっているだけじゃダメで、ゲームをコントロールしないと勝ちを手繰り寄せられない。くじ運の悪さは、一年間以上の勝ち試合のブランクを生み、それも勝敗を分けるポイントになった。
「今年は勝てそう?」
星野が不安そうな顔で尋ねた。
「大丈夫や。今年の攻撃力はハンパやないから」
「だから何でお前が答える。――そう、今年は強い。全国めざして、勝ち続ける」
自信をみなぎらせた宮尾に、星野は安心したのか、頬を緩めた。
練習試合の話が村瀬からされたのは、この日の部活前だった。
「来週の日曜日、練習試合を行う。相手は――百合高校だ」
「百合高校?」
平岡がすっとんきょうな声を上げた。
「シンジ、知ってんの?」
「ああ、まあ。知り合いがいるとかじゃないけど、新設校だよ、今年できたばっかの」
「じゃあ、強くないのか」
佐々井が当然の疑問を口にした。「いや」村瀬は首を横に振って、
「決して弱くない。バスケに力を入れている所で、コーチも有名な人を招いて、部員も中学でずっとやってきたやつらばかりだ」
「よく知ってますね」
長谷部が感嘆とも畏怖ともとれるトーンで呟いた。
「まあ、ちょっとした知り合いがいるんだ」
村瀬ははぐらかした。
「待って下さい」
宮尾が話を遮った。「新設校ってことは、部員はほとんど一年生ですか?」
「部員は、全員が一年生だ」
宮尾は顔をしかめた。めざとく、「そんな顔するな」と村瀬がたしなめる。
「さっきも言ったろう。弱くないんだ。メンツは、全国レベルが二、三人いる」
「だからって、負けらんないっすよね」
と言ったのは、平岡。
「全国レベルでも、後輩にあっさり負けを譲るような真似はしたくないです。絶対、勝ちましょう」
佐々井がヒュウッと口笛を吹いた。宮尾は、くそ、言われた、と小声で言った。
「よく言った」
村瀬は快活な笑みで頷いた。
「百合高校戦、練習試合だが、勝ちにいく」
今日の体育は、サッカーだった。特に苦手なスポーツがない宮尾は、サッカー部の男子と息の合ったコンビプレーを見せていた。
休憩になって水飲み場に一人で向かうと、体育館から甲高い声と、小気味のいい羽根の音が聞こえた。開けっ放しのドアから覗くと、女子がバトミントンをやっていた。何回も続くわけじゃないから物足りない部分もあったが、楽しそうだった。
運動神経が女子の中で抜群の尾崎は、拾うのが難しい羽根を上手く拾っていた。見ていて胸がすく心地がしたが、相手の女子からしたらたまったものではないだろう。
星野もやっていた。ただ、予想通りそれほど上手くなくて、ミスをする度に首を小さく傾げた。
サーブもおぼつかない。空振りも少なくない。床に叩きつけたりもした。それでも、楽しそうに笑っていた。あんなに笑っている星野を見るのは、初めてかもしれない。
「何しとるん?」
いつの間にか隣に尾崎が立っていた。
「ボーっとして、何を見とったんや?」
どうやら時間を忘れて星野を目で追っていたようで、宮尾はばつが悪い顔をした。
「もしかしてクルミ?」
相変わらず的確な直感で当てられてしまい、図星の宮尾は正直に頷いた。
「よく分かったな。何か、あまりに下手くそで」
尾崎は笑った。「クルミに失礼やで」
「お前はつまんないほど上手いな。おれともいい勝負できそう」
「おーきに。褒め言葉として受け取っておくで」
今度は宮尾が笑った。
グラウンドの方から呼ぶ声がした。
「休憩、終わったみたいだな。じゃ、頑張れよ」
「ほなな」
二人は背中を向けて、別れた。
尾崎だけは、途中で振り返って遠ざかる背中を見つめていた。
練習試合の日。相手は新設校の百合高校。西桜は、怪我人も体調不良者もなくこの日を迎えた。
「スターティングメンバーを言うぞ」
スタメンは不動だが、練習試合だから最初から出るとは限らない。誰もが固唾を呑んで村瀬の言葉を待った。
「佐々井」
「ん」
「宮尾」
「はい」
意外ではないから、はっきりと返事をした。
「平岡」
「はい」
「長谷部」
「はい」
「あと、おれ」
レギュラー五人が普通に出る事になった。
「勝ちにいくって言ったからな、メンバーも本気でいこう。ベンチは出番が来ないかもしれんが、勘弁な」
村瀬が手に持っていたA4サイズのノートのページをめくった。村瀬のノートには、バスケ部に関することがびっしりと埋め尽くされている。相手校のデータや、自チームのコンディションなど。
「百合高校で注意すべきやつは、背番号4の宮本ナギサ」
「ナギサ? 女みたいな名前だな」
佐々井が隣の長谷部に首を向けながら言った。この人には、試合前の緊張とか皆無。
「男の名前でもよく使われますよ。確か、プロ野球選手でいましたよ」
「関係ない話をするな」
村瀬の一喝に、長谷部がとっさに首をすくめた。佐々井は平然としている。
「一人でいいんですか?」
平岡が質問した。「そうだ」村瀬は肯定した。
「他も侮れない顔ぶれだが、特に神経を傾ける必要ない。逆に言えば、宮本は絶対に神経を傾ける必要がある。一年ながらその実力はトップクラスだ。そんなに背は高くないが、ドリブルのキレ、シュート精度、状況判断が抜群に良い」
「マークは誰が」
宮尾が気になって口を挟むと、「佐々井だ」と即答した。まあ、そうだろうと思っていたよ、と言いたげな顔で佐々井が頷いた。
「佐々井にマンマークついてもらう。だから、佐々井を使った攻撃は控える。二年三人で積極的にゴールを狙え」
言い切ると、村瀬はノートを閉じた。
試合が始まる。宮尾は心臓の高鳴りを心地良く感じていた。
四
ジャンプボールでスタート。宮尾がボールを捕った。ドリブルで百合の背番号5の八木と6の山崎を抜いて、一気にゴール下ヘ。そして、レイアップ。
外してしまった。決めて当然と言われるレイアップを外して、宮尾は動揺し、リバウンドをあっさり捕られた。
攻守交替で、五人がそれぞれのマークにつく。宮尾は背番号7の青島についた。
8の宍戸から、村瀬が要注意と言った宮本にボールが渡った。西桜のエース佐々井がその前に立ちはだかる。
互いに動かないでいたが、隙を突くように宮本がフェイントをかけて、ゴール下に切り込んだ。――速い。そのままシュートの体勢に入った。
しかし、佐々井も負けていなかった。空中でカットし、それを前線に走っていた平岡にロングパスして、平岡はフリーで決めた。
西桜2―0百合
百合ボールからリスタート。八木が運んで、山崎にパス。山崎は周りを窺がって、台形の外側の宍戸にパス。宍戸はすぐ宮本に渡し、青島が佐々井をスクリーン(ディフェンスプレーヤーの通り道に立つこと)している間に、宮本がスリーポイントシュートを放った。
入った。西桜2―3百合
「あいつ、外もあるみたいだな」
佐々井が宮尾にすれ違いざまに話しかけた。
「お前も見せてやれよ」
宮尾は臆するでもなく、はいっ、と短く答えた。
村瀬が宮尾のマークを上手い具合に引きつけ、ほぼフリーでパス、シュートと流れるようなプレーでスリーを狙った。打った直後、慌てた八木に押し倒された。審判の笛が鳴る。同時に、宮尾のシュートが綺麗に決まった。
「バスケットカウントワンスロー」
八木のファウルで、三点入るとともにフリースローが一本、打てる。
シュートが得意な宮尾にとって、フリースローはお手の物。簡単に決めて、逆転した。
西桜6―3百合
シュートの調子が良いと判断された宮尾は、攻撃の中心となり、得点を重ねた。百合は宮本が厳しいマークを受けつつも果敢に攻め、こちらも得点を重ねていった。
前半終了。西桜36―33百合
三点リードしているが、予想よりも接戦。百合をただの新設校とはもう言えないようだ。実力は確かなものがある。
試合はハーフタイムに入った。
高校バスケットの試合は、前半二十分、ハーフタイム十分、後半二十分で行われる。ファール五回で退場。選手交替は自由に何回もできる。タイムアウトは一チーム三回まで。今のところ、どちらも使っていない。
ベンチで休みつつ、後半に向けての話し合いがされた。
星野は尾崎にならって、タオルや飲み物を配っていた。
「強いな」
村瀬が切り出すのが、話し合いのパターン。
「宮本は強い。でも、おれたちも悪くない。この調子で気を緩めずにいこう」
「後半も宮尾を中心に攻めるんですか?」
平岡の質問は声だけなら平素と変わりないが、表情は不満を帯びていた。面白くない部分もあるらしい。
「今日は調子が良いからな。――しかし、作戦を変えよう」
そう前置きすると、村瀬は後半の作戦を告げた。
言い終えると、ベンチの端で無表情な面持ちで座っている顧問の与謝野に声をかけた。
「先生にお願いしたいのですが」
「何だ?」
形だけの顧問と言うとおり、与謝野は基本、試合中に何も言わないし、何もしようとしない。
「向こうが4番をベンチに下げたら、佐々井と宮尾を岩田と持田に交代してください」
「分かった」
「どうしてですか?」
長谷部が疑問に思ったのか、手を上げて尋ねた。
「いちいち戦略の意図を教えないと分からないのか?」
村瀬は冷たく突き放してから、「まあ、いいだろう」と説明を始めた。
「公式戦なら、この接戦で宮本を交代させることはないだろうが、練習試合だから、どっかで温存しようとするはずだ。そして、こっちが佐々井と宮尾を代えるのは、佐々井はマークで疲労がたまっているだろうし、宮尾はまた終盤で必要になってくる得点源だからだ。以上」
村瀬の分析はいつだって的確で、誰もが信頼している。
去年、あれだけ戦略ではどうにも覆せない強豪校たちに苦汁を飲まされながらも、試合で最善を尽くすことを村瀬はやめようとしなかった。戦略を施しても勝てなかったのだから、その相手には戦略で勝ちたいと思う、そんな意地が内在している。
その裏返しとして、地力もつけてきた。負けたときの言い訳が傍らで頬杖を突いていたら、それはただの「逃げ」だ。心の一番奥の部屋から聞こえる「勝ちたい」という叫び声が本物なら、言い訳になるようなものを抱えていてはいけない。勝つことだけを考えて、勝ちにいく。
今日の試合は、そんな決意表明の第一歩なのだ。一年相手じゃなくても、負けるつもりはない。手加減するつもりは毛頭ない。全力で勝ちにいく。
後半スタートのジャンプボールも宮尾が捕った。百合のディフェンスの戻りが早かったので、ゆっくりドリブルし、ポイントガードの村瀬にボールを託した。
村瀬はドリブルで中に入る素振りを見せて宮本を引きつけ、マークが外れた佐々井にパス。
しかし、宮本はこれを読んでいた。すぐに佐々井の前に戻り、シュートを打たせまいとした。シュートフェイク。右にずれて、スリーポイントシュート。速い。そして、無駄がない。
入った。西桜39―33百合
百合の青島がドリブル。それを宮尾があっさりカットし、カウンターチャンスを得た。
いけるかと思ったが、またも宮本がすぐに戻っていた。仕方なく速攻をやめ、村瀬にパスした。
村瀬はしばらくドリブルで敵陣を窺がっているようだったが、やがて空いたスペースに走りこんだ宮尾にパスを通した。宮尾はシュートを打つ構えを見せた。慌てて青島がシュートコースを塞ぎに来る。前半であれだけ宮尾のロングを見せつけられたら、当然の反応である。
しかし、ここで村瀬の作戦が発動した。宮尾に注意を奪われたせいで甘くなったゴール下。そこで待っていた長谷部に、シュートをやめてパス。
長谷部は簡単に決めた。西桜41―33百合
百合の反撃。宮本が西桜の守備が整う前に速攻を仕掛け、遠い位置からシュートを放った。でも、ちょっと遠過ぎないか、と宮尾は直感で思った。
ボールはリングに当たった。リバウンドは百合の山崎に捕られた。背は宮尾と佐々井よりは低いぐらいなのに。山崎はそのまま、やや強引にシュートした。
西桜41―35百合
リバウンドの課題が改めて浮き彫りになったが、宮本のスリーを防いで、二点で抑えたのだからよしとしよう。
西桜は、今度は佐々井が遠距離シュートを匂わせ、相手を引きつけ、中の平岡にパス。平岡はそれをゴールに決めた。
西桜43―35百合
ここで百合は、孤軍奮闘の活躍を見せる宮本をベンチに下げた。練習試合でなければありえないことだ。西桜も予定通り佐々井と宮尾を交代させた。代わりに入ったのは二年の岩田、持田。これで試合が動くだろう。ベンチに腰を下ろしつつ、宮尾はそう思った。
はたして、エースを欠く百合は攻守で先程までの勢いを失い、西桜ペースで試合は進んだ。攻撃の中心になったのは平岡で、村瀬が上手くコントロールした。点差は開いていくばかりになった。
西桜63―39百合
慌てたのか、百合は宮本を再びコートに出した。でも、逆転は無理だろうな。宮尾は思った。たぶん、誰もが思っているはずだ。
宮本は出ていきなりスリーポイントシュートを決めた。
「おっ」
自然と宮尾の口から驚嘆の声が漏れた。この時はまだ余裕があった。
ところがそれを三本連続で決めてしまった。西桜ベンチに不安な空気が漂う。
その後もじりじりと点差を縮められていき、宮尾の焦りは本物になった。――そろそろおれと佐々井先輩を出さないとまずいでしょ。
だが、逆転されることなく試合終了の時間が来た。審判の笛が体育館に響き渡る。何とか逃げ切りに成功した。
西桜67―51百合
練習試合だが、今季初勝利。去年から続いていた連敗も止めた。
「おつかれさま」
更衣室へ行く途中で、星野とすれ違った。とっさで返しの言葉が出てこなかったが、星野は忙しそうに遠ざかっていった。何となくその後ろ姿を一瞥し、更衣室に入った。汗はベンチにいる間にひいたけど、湿ったユニフォームを早く着替えたい。
「おつかれさん」
中にいた佐々井が声をかけてきた。ユニフォームを脱ぎながら、おつかれさまです、と返した。
「お前のスリーは頼りになるな」
「ありがとうございます。佐々井先輩には及びませんけど」
「よく言うぜ。外のシュート率だったら、普通におれが負ける」
ズボンも履き替えて、汗から開放されると、疲れていることを思い出し、イスに座った。ギシギシと音がしたが、座り心地は悪くなかった。疲れているからかもしれない。
「宮本、でしたっけ、あの一年。上手かったですね」
「やばいな」
佐々井は棒読みの台詞で、本当にそう思っているのか、と彼を知らない人なら思うだろうが、佐々井は些細なことで感情をあらわにしたりしない。別に掛けてないけど。
基本、マイペースで、笑ったりたまに怒ったりするが、激しい感情を決して表に出さない。そういう性格なのだ。
「ああいうのを逸材って言うんだろうな。百合は侮れないな。今年は無理だろうけど、宮本が三年になった頃には全国レベルの学校になってるかもな」
佐々井の言っていることは、宮尾が思っていることと重なった。宮本の実力は本物だし、それはこれから試合経験をさらに積めば、ますます磨きがかかる可能性を持っている。
おれはどうだろう。宮尾は思った。これ以上、伸びるとは言える。だけど、どれだけ伸びるかは分からない。才能があるとかないとかの問題じゃなく、いつかどうにも超えられそうにない存在が現れるとき、そのとき、おれは自分に限界を感じるのだろうか。これは超えられない。きっと、そいつはバスケに選ばれた人間だから。
バスケを好きなやつは日本のいたる所にいて、言ってみれば、バスケに恋をしている。でもその恋が報われる人は、そんなに多くない。報われない人たちは確かな違いを感じ取りながらも、「打倒××!」と言って、挑み続ける。
おれはどうだろう。バスケへの恋心は叶うのだろうか。
五
教室は騒がしいことになっていた。先生がいるのに騒がしいのには理由がある。毎年、桜の面影が消えて、夏が顔を覗かせ始める頃、体育祭が行われる。この行事に対する思いは様々に錯綜していて、こと種目決めになるとそれぞれの本音が見え隠れする。
学級委員が前に出て種目を決めていくが、譲らない人が多く、かなりの時間を要していた。
そんな光景の中、宮尾は頬杖を突いて傍観者に徹していた。
宮尾が体育祭をどうでもいいと思っている、という事ではなく、希望の種目は一つに決まっているからだ。バスケで培われてきた体力が自慢の宮尾は、それを最大限に生かせるスウェーデンリレーに出たいと思っていた。スウェーデンリレーは、もちろんリレーしていくのだが、襷が渡っていくにつれて、走る距離が長くなる、とい
う特殊なリレーなのだ。一年はそんなに長くないのだが、二年男子や三年は中距離走並みに走るため、とてもきつい事で知られている。そのため希望する人も少なく、宮尾は焦らなくても出られそうなので、おとなしく傍観しているのであった。
「頬杖突いてると歯並びが悪くなるで」
宮尾の前の席の男子は、前の方に出て自分の希望を通そうとしていたから、その席は空いていた。そこに尾崎が座った。
「何それ、都市伝説?」
宮尾は歯並びが悪くなるのは嫌なので、頬杖をやめた。
「何でやねん。ただの豆知識や」
尾崎はふくれた。
「傍観しとってええんか?」
「ああ、おれはスウェーデンだから」
「何や、私と一緒やん」
宮尾は意外だと思った。尾崎は女子の中で運動神経があるけど、足の速さはそんなでもない気がしていた。同時に納得もした。どうりで、話し合いが盛り上がっている時に宮尾にちょっかいかけに来られたわけだ。
「去年はあっさり決まったのに、今年は時間かかっとんなあ。まあ、一年は入って右も左も分からんうちに迎えたから、希望も何もなかったんやな」
尾崎の分析に宮尾は相槌を打たず、ぼんやりと教室をまた眺めた。
――いつの間にかおれの周りに人が集まらなくなった。クールなキャラを気取っていた訳じゃないのに、クールというレッテルを貼られ、それに縛られている感じがする。人前でバカみたいにはしゃいだりする事がなくなった。友達はいるけど、寂しさに似た感情がたまに呼び起こされる。
それでも尾崎はおれの近くに来る。物理的な距離でも、心理的な距離でも打算なしで近くに来る。小学校、中学校、そして高校とずっと同じで、でも同じおれな訳じゃないのに、尾崎の態度は変わらない。あいつも立場が微妙に変化しているけど、おれに対する態度は一貫している。
「次やで」
席の主が戻ってきたため、尾崎は自分の席に戻った。
黒板を見ると、次に決めるのはスウェーデンのようだった。
「じゃあ、次にスウェーデンリレーに出たい人」
良かったな、スウェーデン。体育祭の度に、認知度が上がっているぜ。なんて思いながら手を上げた。
印象としてはバスケ部が多いなあ、といった所か。体力を日頃からつけているのはスウェーデンのためではないのだが、自然と人数は多くなってしまう。
体育祭はA・B・C組を縦割りにした対抗戦で、各種目で基本的に同学年で競い合う。例外のスウェーデンリレーは他学年のメンバーも重要になってくる。
宮尾らB組は宮尾と尾崎に加えて星野もメンバーに。
A組は部長の村瀬と長谷部が出る。
最後にC組は佐々井と平岡の二人。どの組も一年生バスケ部員はいなかったが、合計で七人と、部活が二十近くあるにもかかわらず五分の一を占めた。
それからもう一つ、競技の他に決めなければならない事がある。体育祭の恒例となっている創作ダンスのペア決めだ。三年生のダンス部員が作る簡単なダンスを放課後に練習時間を取って、本番に披露するもので、男女ペアで踊る。そのペアは、便宜が図られるカップル(組が同じだった場合に限る)以外はクラス内でクジによって決められ、大いに盛り上がる。ちなみに人数の関係で他学年、あるいは同性の人とペアになる場合もある。
こればっかりは希望の通しようがなく、クジに運命を託すしかない。
宮尾は仲がいい女子が少ないため、誰でもいいと仲間内で話しながらも、内心は尾崎なら楽でいいや、と思っていた。しかし言うと冷やかしのネタにされるから決して言わない。
何となしに窓の方に視線を向ける過程で、星野の横顔が目に付いた。――ああ、星野でもいいか。って、何様だよ、おれ。そんな選べるほどの立場でもないのに。
ところがクジ引きは、宮尾と星野のペアを実現させたのだった。
たった一年前のことなのに、去年は誰と踊ったのか覚えていない。まして、どんな風に練習していたのかなんて記憶の片隅にすらない。でも、今年は忘れないだろう。と思ったことは決してなく、突きつけられた事実を何となくの感情(無感情ではない)で受け止めていた。
人のことを言えた口じゃないが、客観的に見て星野は踊りが苦手な方だった。何より恥ずかしがり屋の性格故に、素振りが小さくて、表情も硬かった。しかし、宮尾にとってノリノリで踊られるのも困るから、星野は気楽でいいや、と思っていた。
ペアで手を繋ぐことが間々あり、その度に星野の柔らかくて小さな手の感触を不思議に思う。女子の手ってこんなに小さいのか、と。
宮尾は「女」という生き物を良く分かっていなかったことを思い知り、そして自分が男であることに安堵した。あんなに弱々しい手じゃ、バスケットボールを思うままに扱えなかっただろうから。
何でもバスケ中心に物事を考えてしまう自分が、いつでも確かにいた。暇な時間に家の近くを走りにいこうとする瞬間、バイキングで肉を多めに取る瞬間、何かをしようとする時、それをいつもバスケに結びつける。宮尾のマインドマップは、バスケからなら果てしなく広がる。
別にそんな性癖を悪いと思ったりはしていない。バスケバカで、勉強も恋も疎かになりがちな「自分」が本当の「自分」なのだ。
そう思っているはずなのに、たまに不安になってしまう。何か、人生にはもっとたくさん満足させるものがあるのではないか、バスケだけに興味の全てを傾けている自分は、実は損をしているのではないか、と。ふとした瞬間にそういう考えが頭をよぎる。
そんな哲学的な問いの答えは出せないだろうけど、宮尾のこの些細な「揺らぎ」は、宮尾に少しずつ変化をもたらした。
ダンスの練習中、星野と踊っていることに喜びを抱き、その笑顔を見て心は言い逃れができないほど満たされた。まだ恋とは呼べる域じゃないが、宮尾は異性に対する意識を初めて強くしたのだった。
最近、尾崎と話す機会が減った。部活とか教室で会えば挨拶代わりのやりとりを交わすけど、何か少ないと感じる。尾崎がいなくても学校生活は普通にできるし、話すことがゼロになるわけじゃないけど、調子が狂う。
傍にいることが当たり前だと思っていると、いつかしっぺ返しを食らう。そんな考えが浮かんで、真剣になってみたりする。でも、それは現実味があまりなくて、そりゃいつかは別れる日が来るだろうけど、しばらくは心配しなくても尾崎は割りと他の人たちよりも近くにいて、「ミヤオザキ」は続くのだ。
尾崎は今の状況をどう感じているのだろう。宮尾は真剣でなく、かといって適当でもなく、当てはまる形容詞がない感情でこのことを考えていた。あいつもおれみたいに、この関係がいつか終わることに思いを巡らしたりするのかな。おれが尾崎を思っているように、尾崎も何らかの感情をおれに抱いているのかな。「好き」や「愛し
ている」は相応しくないだろう。おれから尾崎へも、そしてたぶん、尾崎からおれへも。
生活のリズムが変化した原因は、体育祭のせいである。体育祭の準備期間中、放課後をダンスや競技の練習に充てるため、部活が朝練に変わっていた。当然、尾崎と星野とで毎朝、欠かさずに行ってきた朝の自主練習はなくなり、何気なく話をする機会が一つ減った。
宮尾にとって、この生活リズムは好ましくない。バスケも尾崎も、いつもと違うからやっぱり調子が狂うわけだ。
早く体育祭が終わればいい、とたまに思うこともある。でも同時に、星野が考え中の脳内に現れると、その思いには疑問符がつく。
早く体育祭が終わればいい?
まるで尾崎と星野を天秤にかけているみたいだ、という言葉が浮かんだ。苦笑いでかぶりを振り、その例えをすぐに打ち消す。決して二人を比べているわけじゃない。それは違う。全然、違う。
六
晴天の下、体育祭が始まった。開会式を経て、ハードル走や500メートル走がまず行われた。
グラウンドはいつもと姿を変えて、道路沿いに生徒席が並べられ、日差しを避けるためにテントが張られた。反対側では来賓や保護者のためのテントがあり、挟まれた広いスペースで生徒たちがそれぞれの種目を順々にこなしていく。
ほぼ全員の生徒が応援しにテントを出ていたが、宮尾だけ席にふんぞり返って座っていた。
目線の先では応援している横並びのクラスメート。その先では、やはりクラスメートが必死こいて争っている。普段は授業だるい、掃除サボりたい、暑いのはマジ勘弁、とか文句が多いやつらがあんなに必死になっているのは興味深い。何故か行事には真面目に取り組むことが当たり前になっていて、不良ぶっているヤツも(ウチには本物の不良はいない)、すぐに文句を口にする女子も一つでも上の順位を目指して全力を尽くしている。学校側としても、宮尾からにしてもこの風潮は良いことだと思うが、理由はあまり好ましくない。ここでは、親が見に来ているから、良い子ぶっているなんてことは有り得ないわけで、高校生が親以上に恐れているものは、仲間外れにされることだ。周りが一生懸命やっている以上、だるそうにやっている人がいたら、その人は白い目で見られ、はたまた非難され、最悪の場合、「ハブ」にされてしまう。大人からすれば「そんな大げさな」と嘲笑を浮かべるかもしれないが、当事者にとってみれば学校生活の重要事項だ。友達のいない学校生活は、傍から見て思う以上に苦しくて、つらいものだ。皆はそれを薄々知っていて、知らない振りをしている。
「宮尾、応援しーな」
尾崎がひょっこりと顔を出した。宮尾がぼんやりと眺めている間に、競技は障害物競走に移っていた。
「えー、メンドイ」
「何、言うてんの。応援されたかったら、他の人の応援をまずするもんやで」
尾崎は宮尾と違って応援に出ていた。二人が出るスウェーデンリレーは午後なので、午前中は団体競技だけ。
「ほら、いくで」
手を引っ張られて宮尾が立ち上がった。そのままクラスの方まで連れて行かれたが、周りに見られたらと思い、とっさに手を放した。
すると尾崎が振り返った。口を少し開けて宮尾を真っ直ぐ見据えていた。
「宮尾」
日差しが強い。汗が顎を伝って滴り落ちていく。
「ダンス、クルミとなんやろ?」
宮尾にはその質問の真意が測れなかったが、「ああ、そうだけど」とその先を促した。
「手、強く握りすぎたらあかんで」
その日差しに、夏の訪れを実感した。
午前の競技が終わると昼飯の時間になった。
「疲れたー」
「弁当、食おうぜ」
誰もがいつもより気合の入った弁当箱を手にしている。
宮尾もクラスの男子の輪の中に混じって、弁当を食べ始めた。
女子の輪の方にちらっと視線を向けると、星野の姿が目に入った。ピンク色の、男子からしたら腹の足しにならなそうな小さい弁当箱を片手に、尾崎と笑顔を交えて話している。最近になって、クラスの女子と話せるようになってはいるが、尾崎が一番、話しやすいようで、いつも一緒にいる。尾崎は気さくで話し上手なヤツだし、そ
んなに気を遣わなくてもいいから、控えめな星野にとって楽なのだろう。
そこに平岡が通りかかった。
「おっす、レイジ」
宮尾の横に腰を下ろした。
「もうメシ食ったん?」
「ああ、とっくに。それより、お前スウェーデンだろ。何走目?」
スウェーデンリレーは全学年対抗で行われるのはすでに述べた。一クラス男女、各二人ずつ出し、合計十二人でリレーする。一年女子から始まり、一年男子、また一年女子、一年男子、二年……と続いていき、最後は三年男子の二人目となる。走る距離は女子が100メートルからスタートして走順が上がっていくごとに50メート
ル伸びていく。最後の三年女子は350メートル走る。男子は150メートルから始め、同じく50メートルずつ伸びていき、アンカーは400メートル走る。
「おれは八走目。シンジは?」
つまり300メートル。
「おれも八。安心したぜ、確認してなかったから心配だったんだ」
そう言いながら、不敵に笑った。宮尾はそれを自分への挑戦と受け取った。
「何だよ、おれに勝てると思ってんのかよ」
「さあ? まあ、できれば勝ちたいかな」
何かと切磋琢磨して争ってきた二人。ここでもライバル心むき出しで、たかが体育祭、されど体育祭という一行事に熱意を燃やす。
「そうだ、長谷部も出るってさっき聞いた」
平岡は本当にプログラムでメンバーを確認していないようで、今さら誰が出るのかを話題にすることになった。
「佐々井先輩と村瀬先輩も出るよ。佐々井先輩、お前と同じクラスじゃね?」
「おお、そうそう。先輩、速いからな。アンカーかな」
「たぶんな。尾崎と星野も出るぜ。バスケ部、多いよな」
「へえ、マジかよ。……って、星野も?」
平岡は本当に意外そうな表情をした。
そういえば、宮尾は思った、今日まだ一度も星野と話してないな。
プログラムは午後の部に入る。
午前の結果、得点は一位が村瀬らのA組、以下平岡らのC組、宮尾らのB組となっており、逆転優勝をB組が狙うのなら、得点が大きいスウェーデンで勝っておきたい所だろう。
走順は宮尾と平岡が同じ八走目、二つ前を長谷部、一つ前を星野、三つ前を尾崎、二つ後を村瀬と佐々井が走る。最後の二人はアンカーではなく、共に陸上部の部員に譲っている。
空に響き渡る号砲でリレーがスタートした。一年生が抜いたり、また抜かされたりを繰り返してバトンを繋いでいった。
そして一年最後の走者から二年最初の走者――B組は尾崎――へとバトンが渡った。この時点で順位は一位C組、二位B組、三位A組。
尾崎は遅くはないが、そこまで速くない。半分の100メートルを過ぎた所でA組に抜かされてしまった。その表情からは必死さが滲み出ているが、応援しているクラスメートからは「何してんだよ、尾崎」という心ない声が上がった。
走り切って、バトンを次走者に渡した。二位に上がったA組は長谷部が走り出した。
「ごめん、宮尾、クルミ」
息を切らしながら、尾崎が待機している列まで来て詫びた。
「大丈夫、お前は頑張ったよ。絶対、抜かしてやるから、休んどけよ」
「サエ、後は任せて」
星野は尾崎の手をそっと握った。宮尾はこれが青春なのかな、と思っていた。
長谷部が一位C組を抜かして、バトンを渡した。B組は相変わらず最下位で、次の星野が走り出した。
宮尾は正直、その走りを目の当たりにするまで、星野に期待していなかった。良く言えば愛敬があった、悪く言えば醜態を晒していたバトミントンを見て、バスケを一緒にやって、星野がそんなに――少なくとも尾崎より――運動神経がない、という、できて間もない、まだゼリーみたいな固さの固定観念があったから、まさかあん
なに風を切るように走る姿は想像していなかった。
星野はダントツの速さだった。きれいなフォームで手を動かし、足を前に出した。頭の後ろで束ねた髪が、走る度に馬の尻尾みたいに揺れた。目で追っていた宮尾は、思い出したように応援した。
「頑張れ、星野!」今日、初めて自分から応援する気になった。心から、頑張れと思えた。
応援に背中を押され、カーブで二位C組をかわした。
そして終わりが近付いてきた。宮尾は立ち上がって、自分の元へ向かってくるのを待った。
「あと少しだ、頑張れ」
言っている横で一位のA組がバトンの受け渡しをした。そんなに差はない。これなら抜かせる。
星野がバトンを差し出した。宮尾は後ろを見ないままそれを受け取り、全力で走り出した。
本当に差はわずかだった。星野が追い上げたおかげであり、宮尾はそれに報いるためにも抜かしたかった。300メートルの序盤で抜き去った。スピードは緩めなかった。
そのまま一位の座を譲らず終わりが見えてきたが、後ろから猛然と追いすがってくる足音を耳にした。宮尾は直感で分かった。これは、ラストスパートをかけたのは、さっき抜いたA組のやつじゃない。同じ走順を喜んでいたシンジだ。たとえスタート時点で差があったとしても、シンジは勝ちにくる。あいつはそういうやつだ。
宮尾はスピードを落とさず、最後までハイペースを守った。一瞬でも気を抜いたら抜かされると思ったから。そして一位の座も守った。三年の女子にバトンを渡し、勝負を託した。あとは三年生の争いで雌雄が決する。
宮尾は走り終わるとその場にしゃがみこんだ。少しして平岡も倒れこんできた。
「負けた」
「スタートが違うけどな。まあ、いいや。あとは三年にかかってるな」
疲れでその場に寝転びたい気分だったが、走るのを控えている三年生の邪魔になるため、列の後ろの方にくたびれた足を引きずってさがった。
尾崎と星野を見つけると、二人の傍に腰を下ろした。
「やるやん、宮尾。かっこよかったで」
さっきほど気落ちした様子はなくなり、いつもの尾崎に戻ったようだった。
「おつかれさま」
こちらも走っている時とは別人の、いつもの星野だった。
「星野、速かったな。めっちゃ驚いた」
星野は照れたようにかぶりを振って、「そう……かな。走るのはちょっと自信があったんだ。……ありがとう」
「私は知っとったけどな」
尾崎が自慢気に言った。
「なら、教えとけよ」
「イッツ・サプライズや。クルミ、見た目そんなに速そうやないからな」
「まあ、実際、驚かされたけどな」
リレーはまだ続いている。三年生は男子も女子も一人が走る距離が長い。
「このまま勝てるといいね」
三人の思いを代弁するように、星野が小さく呟いた。
そんな願いも空しく終わった。佐々井と村瀬が走った時にB組は抜かされてしまい、そのまま最後まで抜き返せなかった。宮尾や星野らの頑張りは、報われなかった。
午後のプログラムも順当に進んでいき、残すは最後を飾る創作ダンスだけになった。
疲れはピークに達しているはずだが、最後の競技だから、という心理的作用があるのか、男女でダンスができる、という高揚感があるからなのか、誰もがはしゃいだ声を上げて、表情も一様に明るかった。
A組から披露し始めて、B組は入口で列になって待機していた。ペアで並んでいるため、宮尾の隣は当然、星野。その表情からは緊張が漂っていた。和らげようとして、宮尾は適当に話しかけてみた。
「昔から足、速い方だった?」
質問の意味を理解するのに時間がかかっているみたいな顔で、間を作った。「……まあ、速かったかな」
「山梨だっけ」
「うん」
「部活は何だった? バスケじゃないんでしょ」
「うん、女子はいなかったから。陸上部に入ろうかと思ったけど、きつそうだから入らなかった」
段々、星野の舌が滑らかになってくる。少しずつ話していけばいいってことが、最近になって分かった。
会話が続いてきたタイミングで、A組のダンスが終わった。すぐにB組の入場、披露へと移る。
星野に手を握られて、宮尾はドキッとした。そうか、一緒に踊るのだ。
湿った空気に透き通るような声が耳に届く。「頑張ろう」
今日一日で何度も聞いて、発した言葉が頭の中で反響する。その言葉にどんな意味があるのか一瞬、忘れてしまうぐらい、「声」として感じた。
手を繋いだまま、グラウンドの中央に向かって駆け出した。頑張ろう、と心の中で反芻してみる。それは明確な鼓舞であり、曖昧な指針――正確に数値化できないもの――だけど、これほどふさわしい言葉はないような気がした。
空の向こうが少し赤みを帯び始めていた。宮尾は体育祭がもうすぐ終わることに寂しさを覚えた。
七
次の練習試合の相手校が決まった。中国や台湾からの留学生を多く受け入れていることで有名な、山茶花高校という所となった。バスケ部にも留学生が多くて、スタメンの内、日本人は二人だけだという。
体育祭も終わり、夏の大会に向けて気持ちを切り替えて、また毎日の部活で汗を流した。
「この床におれたちの汗がかなり染み込んでそうですね」
練習中に、宮尾が村瀬に指で床を示しながら言った。
「何言ってんだ、いつも掃除してるだろ」
「そうですけど、新設されたばかりの頃と比べたら、ちょっと色褪せているだろうし、これだけたくさんの汗を落とされてますから」
新設された頃を知らないけど。
「そう考えると気持ち悪いな。平岡の汗とかもあるし」
佐々井が真顔で冗談を言った。彼を良く知らない人だと、本気で言っているのかと勘違いしてしまう。
「何でおれ何すか? 先輩の方が汗っかきでしょう」
平岡が対抗したが、佐々井も負けていなかった。「お前の方が臭いだろ」
「かわいい後輩にひどいこと言うなよな。さすがに人権侵害だぞ」
村瀬が仲介に入ると、少し笑いが起こった。
宮尾はまじまじといつもキュッキュ、鳴っている床を見つめた。ここに自分の汗がどのくらい滴り落ちたことだろう。この上でどのくらい飛んだり走ったりしただろう。
これからどのくらいお世話になるだろう。たくさん、としか今は言えない。
朝練も再開された。宮尾・尾崎・星野の三人体制でまた朝の時間を過ごしていく。
練習試合の三日前、いつものように練習を終えて体育館から教室を目指しながら話した。
「クルミ、夏休みは田舎に行ったりしたらあかんよ」
「夏の大会があるから? その期間は大丈夫だよ」
「ちゃうねん。その前に、夏休み入ってすぐに合宿があるんや。まあ、宮尾らは地獄の日々かも知れんけど、私らはええ思い出を作る機会になるで」
「おいこら尾崎、他人事みたいに言いやがって」
「へえ、合宿があるんだ」
星野は目を輝かせた。
「まだやるか分かんなくね」
「やるやろ。去年もやったし、毎年やってるらしいで」
合宿は確かにきついが、レベルアップに繋がるし、勉強漬けにされるよりもましだ。
「でも、思い出になるのは確かかもな」
「何で?」
星野が尋ねた。
「きもだめしやるんだよ。面白いぜ」
「ああ、せやな。今年の一年はおとなしいのが多いから、震え上がってくれそうやな」
「……私はちょっと苦手かな」
「星野も怖いの苦手なのか?」
「うん」
宮尾は星野と暗闇の中を並んで歩く様子を思い浮かべた。物音がする度に驚いて、肩を吊り上げる姿がかわいらしく想像できた。
「あ、でも合宿って言うても――」
尾崎が大事なことを付け加えた。
「場所は学校やけどね」
夏の大会前の最後の対外戦、山茶花高校戦の日を迎えた。
控え室ではすでにスタメンが発表され、前回と同じメンバーになった。そして、これから相手のデータを基に、村瀬がマークマンを告げていく。
「相手の注意すべきやつは三人、台湾出身の林超水と呉偲雲、韓国出身の李輝孫だ。三人とも体格が良いし、リバウンドが強い。ゴール下のシュートで得点を量産する。外はないから、警戒しなくていい。
マークは、佐々井が林、平岡が李、宮尾が呉だ。背番号は順番に4、5、6。残り二人の松下と松本は長谷部が松下、8番。おれが松本につく。とにかく、相手はゴール下が強いから気をつけろよ。あと、つまらないミスをすんな」
「はい」
ベンチのメンバーも声を揃えた。
「じゃあ、行こうか」
ジャンプボールで試合が開始された。山茶花側にボールが渡る。
「一本じっくり」
山茶花は松下と松本がボール運びをし、留学生三人を使って攻めるのがパターン。
松下から松本にパスされた。松本は受け取るとすぐに、中に入っていた呉に速いパスを出した。
「宮尾、マーク!」
言われた時にはもう手遅れだった。あっさりシュートを決められ、先制点を許した。
つまらないミスをしない、とさっき言われたばかりなのに。宮尾は唇をかんだ。
その後、西桜の攻撃は思うようにいかず、一方的に林・李・呉にやられまくり、前半を終えて44―6とビハインド。
「完全に向こうのペースだな」
佐々井が言った。村瀬が応じた。
「ああ、リバウンドが弱いこと、フィジカルで劣っていることを良い様に狙われている」
宮尾は責任を痛感して、黙っていた。最初のミスで勢いを与えてしまったし、実はまだ一本もシュートが入っていない。
「だが、相手の土俵で闘う必要はない。西桜の強みは何だ、言ってみろ宮尾」
俯いていた宮尾は顔を上げた。村瀬の表情は、全てを見透かしているようだった。責任を感じて暗くなっていることを悟っていた。
「……外が強いことです」
「そうだ。おまえもいるし、佐々井もいる。後半は二人を中心に攻めよう。平岡と長谷部はヘルプに徹しろ」
「最後まで諦めるなよ。どっかの名言じゃないが、諦めたらそこで試合終了だぞ」
「はい!」
宮尾は掌で顔を叩いて、気合を入れなおした。
後半、仕切り直しを図る。
西桜ボールで後半がスタートした。平岡が運んで、前を走る佐々井に判断良くパスした。佐々井も迷わず、スリーポイントシュートを放った。そして、ネットを揺らす心地良い音を鳴らした。
西桜9―44山茶花
山茶花ボールでリスタート。コートの外から松本が松下に投げた。ここで上手く気配を消していた佐々井がパスコースに現れ、カットした。ドリブルして、わざわざスリーポイントラインまでさがり、そっからシュートを放った。一瞬のプレーだったが、佐々井にとっては落ち着ける間があったようだ。見事に決めた。
西桜12―44山茶花
山茶花の反撃。ボールを運んできた松本から林にボールが渡った。林はシュートフェイクで佐々井をかわし、カバーに入ろうと平岡が立ち塞がったが、マークが外れてフリーになった李にパスされ、点を取られた。
西桜12―46山茶花
「くっそ」
平岡が悔しそうに声を漏らした。
「ドンマイ、切り替えていこう」
村瀬が明るい調子で手を叩いた。
前半よりは格段に西桜の勢いが増していた。それに二点取られても、三点取り続けていけば差は絶対に縮まっていく。願望的な話だけど。
長谷部がドリブルで仕掛けて、適当なタイミングで宮尾に預けた。宮尾はすぐにシュートを放った。だが、リングに当たって外れた。
幸いにもこのリバウンドは平岡が捕って、シュートを決めた。
西桜14―46山茶花
「サンキュ、シンジ」
「次は入れろよ」
宮尾と平岡がハイタッチを交わした。
「ゾーンプレス!」
村瀬の指示で宮尾と長谷部、佐々井の三人が相手からボールがスタートするタイミングで前に出た。
ゾーンプレスとは、攻撃の前線と守備の最終ラインの間隔をつめ、相手を囲い込むようにしてプレッシャーを与える戦法のことである。要するに、前に出て相手からボールを奪うわけだ。
囲まれた松下の苦し紛れのパスを宮尾がカットし、少しさがってスリーを打った。
また外してしまった。リバウンドを長谷部が捕って、後ろの佐々井にパス。ここでもスリーポイントシュートが出た。今はひたすらスリー。
そのボールは、きれいな弧を描いてゴールに吸い込まれた。
西桜17―46山茶花
「ゾーンプレス!」
再び同じ三人が前に出た。ひたすらプレッシャーをかけて、ボールを奪えばいい。
今度は佐々井がカットして、ディフェンスを引きつけて、ギリギリのタイミングで宮尾にパスを出した。宮尾は佐々井が身を挺して渡してくれたボールに信頼を感じた。それに応えたかったが、みたび外してしまった。
松本が捕って、前にいる林にロングパス。
それを読んでいた村瀬が華麗にパスカットし、長谷部に繋いだ。長谷部は佐々井に渡す振りをして中に切り込み、松下を抜いてレイアップシュート。
西桜19―46山茶花
じわじわと追い上げてきた。何より相手の攻撃を完全に封じているのが大きい。しかし、前半で生じた差が大き過ぎた。
「ゾーンプレス!」
また前に出た。だが今度はロングパスを許してしまい、二点奪われた。
西桜19―48山茶花
ここで西桜はタイムアウトをとった。いったんベンチに下がる。
残り時間はあと三分。さすがに、もう逆転できない。
「――ここまでだな。全員、交代だ。香村、持田、岩田、矢部、長島、用意しろ」
「はい」
村瀬も不本意そうだが、試合を諦めたようだった。
それにしても、練習試合で救われた。負けたとはいえ課題を浮き彫りにしてくれたし、これは本番に繋がる。
やがて試合終了の笛が鳴った。23―50、ダブルスコアという屈辱的な敗戦となった。
試合の日は疲れも考慮してすぐに解散した。次の日は学校が休みだったが、学校で集まって反省会を開いた。西桜の弱い点をとことん突き詰めた。
リバウンドが弱いことは分かっていた。それを改善させることは大事なことなのは間違いない。そして、それも相まってディフェンスが弱いのは、何とかできる道があると村瀬が言った。
「中が弱いのなら、相手を入れさせないようにすればいい」
「つまり?」
佐々井が聞き返した。
「ゾーンディフェンスですか?」
村瀬が言う前に、宮尾が口を開いた。村瀬は頷いた。
「その通り。いつもはマークを決めて、人に対してディフェンスを敷いていたが、これからはゾーンを決めて、場所を守る」
ゾーンディフェンスを説明すると、ゴール下の台形を五人で守るため、それぞれの守備担当場所を決めておき、協力する防御法のことをいう。長所は中に敵の侵入を許しにくくなり、リバウンドを争わずに捕れること。一方で短所は、外からのシュートが防ぎにくくなる。とはいえ西桜には、ゾーンの方が向いているのかもしれない。
これからの練習でゾーンディフェンスを試していき、大会に間に合わせることに決まった。
その日の夜、宮尾は小腹が空いてコンビニに行った。
すっかり暑くなった外の空気を感じつつ歩き、コンビニに着いて、人間の営みの素晴らしさと恐ろしさを胸に抱いた。まるで違う世界に一瞬でワープしたみたいだ。
おにぎりとスポーツドリンクを買って外に出ようとしたら、ちょうど入口の所で尾崎と鉢合わせになった。
「あれ、尾崎じゃん」
尾崎は短パンにTシャツ一枚という、カジュアルな格好だった。
「宮尾やん。偶然やね」
目を丸くしていたのが、嬉しそうな笑顔に変わった。
「何しに来た? おれは夜食ね」
買った物を見せながら尋ねた。
「雑誌、買いに来た」
入口で立ち止まって話をしていたため、自動ドアが開いた状態が続いていた。それを嫌そうに見てくる店員の視線を感じ、「ほな、買ってくるわ」尾崎は中に入った。入れ違いで宮尾は外に出て、待っていることにした。
やがて尾崎は手ぶらで出てきた。宮尾を認めると驚きの声を上げた。
「うそ、待っとったん? ――ああ、雑誌は欲しいのがなかったんや」
二人は並んで歩き出した。
「信じとるから」
いきなり、そう告げられた。
「私、今年こそ西桜が全国に行けるって、宮尾が連れて行ってくれるって、信じとるからな」
宮尾は冗談にしたくて笑ったが、尾崎の目が真剣なことに気付いた。言おうとした「無理だろ」という言葉は、喉の手前ですごすごと引き下がった。
「まかせとけ」
宮尾はなるべく真剣な声音になるように言った。
「おれが連れて行ってやるよ」
誰もが夢に見、それに向かって努力する。汗を流す。筋肉が悲鳴を上げるまで、精神の限界を認めるまで。
簡単な道のりではない。でも宮尾は目指そうと決めた。大好きなバスケで本気になって、頂点を見ることにした。
八
「お前、枕持ってくんなよ」
夏休み初日から五日間の予定で合宿がスタートする。場所はいつもと同じ学校。でも、家には帰らない。共に食し、共に臥す。そうすることで結束を高めることが狙いだ。
というのは表向きで、部長の村瀬をはじめ誰もが合宿という魔法のような言葉を聞くと、甘酸っぱい匂いを感じる。高校生の合宿は、たとえどんなに練習がきつくても、必ず良い思い出になるものだ、と不思議と信じている。
「おれ、枕が変わると眠れないんだよね」
平岡が笑顔で答えた。そこで笑顔になられても、と宮尾は苦笑した。
たまたま道すがら、二人は出会い、一緒に学校まで行くことになった。宮尾は最低限の荷物を背負って。平岡は枕を抱えて。
学校に着くと、ほとんどの部員が揃っていた。その表情は、いつもよりも心なしか明るい。これも今日が終わる頃には、疲れ切った表情に変わるだろう。
少しして、全員が揃った。村瀬が合宿にも来ていない与謝野の代わりに責任者となるため、練習の前に注意事項を簡単に読み上げた。
終わると練習が始まった。午前中はいつもの基本メニューを時間かけてじっくりやり、午後は紅白戦を行う。
ひたすら、基本的なことをした。ドリブル、パス、シュート、リバウンド、オフェンス、ディフェンス。強い高校ほど基本に忠実だし、基本を疎かにしている高校は弱い高校とイコールで繋ぐことができる。
休憩時間をあまり取らず、集中して黙々とただバスケットボールを扱い続けた。
季節は夏。蒸し暑い体育館は、吹き抜けで風通しが良いが、激しい運動をしている彼らの体力を容赦なく奪っていく。汗はとめどなく流れ落ち、時たま疲れに顔をしかめた。
マネージャーの二人は、そんな彼らに飲み物やタオルを差し出し、見守っていた。去年も見ている尾崎はともかく、星野はその光景に圧倒された。――私が逃げた世界だ、と心の中で呟いていた。
午前の練習が終わり、昼食の時間だが、その前に部屋を決めることにした。
「部屋は学習室に畳を敷いてもらったもので、一部屋二人だ。自由に組んでいいぞ」
村瀬が説明すると、平岡が手を上げた。
「じゃあ、女子と組んでもいいんですか?」
笑いが起こった。村瀬は平岡の頭をはたいた。
「ちなみに、組むとしたらどっちにするんだ?」
佐々井が平岡の隣に行って尋ねた。
「調子に乗るな、佐々井。お前の部屋なしにするぞ」
「えー、そりゃきつい。村瀬、組もうぜ」
三年二人は順当に同部屋になった。
結局、平岡は宮尾と組み、女子二人は二人で組んだ。
昼食も終えると、午後の練習に移る。午後はミニゲームをいつもより多くやる。
「最初は三年と一年対二年でやってみよう」
「えー、マジすか」
思わず長谷部が声を上げた。しかし宮尾は、意外といい勝負になるのではないかと思っていた。三年は村瀬と佐々井を擁するが、平岡と長谷部、宮尾のスタメン三人組で充分、対抗できると思った。
三・一年チームは村瀬・佐々井・香村・矢部・長島の五人。二年チームは宮尾・平岡・長谷部・岩田・持田の五人。交代メンバーはなし。審判は尾崎。
宮尾と佐々井のジャンプボールで試合が始まった。村瀬が捕って、そのままスピードあるドリブルでゴールまで一直線。レイアップで軽やかに決めた。
0―2
宮尾は相手のディフェンスが戻らないうちに速攻を仕掛け、香村と矢部を抜いて、佐々井と一対一になった。両手で持って、シュートにいくと見せかけて、ゴール下の平岡にパス。平岡は的確に入れた。
2―2
相手の反撃。村瀬が歩きながらボールをつく。
「ゾーンディフェンス!」
宮尾が叫んだ。新たに西桜でやろうと言っていたものを、二年で試してみようと思ったからだった。中を固めた。
引き換えに外が甘くなる。佐々井にフリーでスリーを決められた。
2―5
宮尾がボールを運ぶ。一人で敵陣まで上がって、シュートの構えを見せた。長島が引っかかって、それを防ぎに来る。それによって空いたスペースにボールを投げ、拾った長谷部がゴールに沈めた。
4―5
守備に戻ろうと相手ゴールに背中を向けたら、岩田が歓声を上げた。何が起こったのかと振り向くと、平岡がシュートを決めていた。パスカットしたらしい。
「ナイス、シンジ」
宮尾が声をかけると、平岡は親指を立てて応えた。
村瀬が来た。宮尾がその正面に立った。しばらくはその隙を窺がっているようだったが、両手に持ち替えた。
「パスだ!」
宮尾が叫ぶと、長谷部と持田が同時に佐々井についてしまった。村瀬は冷静に判断し、フリーの香村にパス。香村は宮尾のプッシングに遭いながらもシュートした。
「ファール宮尾。バスケットカウントワンスロー」
審判の尾崎が告げた。バスケ経験が長いため、見逃してはくれない。
香村のフリースロー一本、入った。これで合計三点、相手に加わる。
6―8
その後は、守備に難がある西桜の部内戦だけに点の取り合いになった。前半終わって、60―64というハイペース。
ハーフタイムをいつもより長く取って、意見のぶつけ合いを兼ねて休憩した後、試合を再開した。
しかし後半八分で宮尾が5ファウルとなり、ミニゲームだが罰として退場。十三分に膝に違和感を訴えた矢部もゲームから抜け、四人同士で試合は続行した。
宮尾はそれを悔しそうに見つめていた。見ているだけじゃ、面白くない。不用意になっていた自分が歯がゆい。次から気をつけないと。
ファウルでスタメンの五人が一人でも欠けると、選手層の薄い西桜は強豪校と渡り合えなくなる。余剰な意識で動きが小さくなるのは良くないが、欠かせないプレーヤーとしての自覚と責任を持ってやらなければ。
試合終了の笛が鳴る。92―128で三・一年チームの勝利。前半は接戦だったが、宮尾が抜けた後半は少し差が開いた。
その日の夜は誰もが泥のように眠った。
合宿二日目。前日と同様のメニューがこなされたが、その後にとっておきのイベントが用意されていた。
夜、全員が体育館に集められた。
「よし、揃ったな」
村瀬が前に出た。そしてどこかへ駆けていって、しばらくして学校の全ての電気が消えた。一年に動揺が走る。
「え、本当に何も見えない」
「これでやったら危なくないか」
皆、これからなにをやるのか知っている。――きもだめしだ。
宮尾も辺りを見回した。近くにいる平岡の表情が分からない。
懐中電灯の灯りと共に、村瀬が戻ってきた。
「では予告通り、きもだめしをしよう。――まあ、バスケ部としての意義を付け加えるなら、精神面を強くすることだな」
場に笑いが起こった。怖がっている人は、今のところ見当たらない。
「まずはくじ引きでペアを決めよう。1から6の番号が書かれたくじがある。同じ番号の人がペアだ。じゃあ、どんどん引いていけ」
村瀬の近くにいた人から次々に引いていく。
「じゃあ、残ったのはおれのだな。――1番から聞いていこう。1番の人」
手を上げたのはそう言った村瀬自身と、一年の長島だった。
「次、2番」
宮尾が手を上げた。もう一人上げたのは、なんと星野だった。
「またかよ、レイジ。お前らダンスもペアだったじゃねーか。仕組んだろ」
「仕組まねーよ、ってか仕組めねーよ」
うろたえる宮尾を村瀬がフォローした。
「心配ない。おれが公平に作った。……それにしても、すごい偶然だな」
宮尾も自分でも驚いていた。まさかまさかの連続ペア。星野の表情を窺がってみたが、暗くてイマイチ読めなかった。
その他のペアもどんどん決まっていき、平岡・尾崎、岩田・矢部、持田・香村、佐々井・長谷部とそれぞれ組むことになった。
「それでは、ルールを説明しよう」
村瀬がもったいぶった口調で語り出す。毎年、内容は部長が考えていて、去年は学校から近くの神社までの道のりだったが、見慣れた風景だったこともあり、不評だった。
「今年は校内を巡ってもらう。スタートとゴールはここ」
体育館の床を指差した。
「ここからどういう道順でもいいから、三階の奥にある理科室まで行って、おれが置いてきたバスケットボールを一つ取ってきてくれ。ペアには懐中電灯を一つ、渡す」
村瀬は笑顔を作って、周りを見回した。
「簡単だろう?」
一組目の村瀬と長島が行っている間、灯りを失った待ち組みは、体育館の中央で固まって座っていた。そこから動かないように厳命されている。
また、佐々井には別の指示が出されていて、待っている人たちに即興の怪談話を聞かせることになった。村瀬がいくつか用意していたのだが、いない時は佐々井に代わりを頼んだ形だ。
佐々井の話は、怖くなかった。先が読める展開だし、何より語り手自身に怖がらせようという意志が欠けている。抑揚のない話し方は、緊張していた面々をリラックスさせ、時に笑いを催した。
次の組が行くのは、前の組が行ってから三十分たつか、その前に前の組が帰ってくるかである。宮尾たちは後者だった。
企画者の村瀬がいたためか、予想よりも早く帰ってきた。しかし、長島は隣で疲れ切った顔をしていた。何か、仕掛けが施されているのだろうか。宮尾は思った。
村瀬の指示で宮尾と星野は手を繋いで出発した。体育祭の匂いが甦る。あの時と違って、二人の手は汗ばんでいなくて、掌の感触を確かめるのには充分な落ち着きがあった。
懐中電灯の灯りで、微かに星野の表情が目に映った。不安そうで、怖いのが苦手だと言っていたことを思い出した。
「大丈夫?」
星野はゆっくり首を縦に動かした。
「うん。ちょっぴり、怖いけど」
「まあ、暗いけど見慣れた学校だし、脅かす役もいないし、大丈夫だろ」
言ってから、長島の疲れ切った表情が浮かんだ。あれは、どういうことだろう。長島がただの怖がりなのか、それとも何かがこの先に待っているのだろうか。
「――でね」
星野が何か呟いたようだったが、語尾しか聞こえなかった。「ごめん、何?」と宮尾は聞き返した。
「先に行ったりしないでね」
その声から、彼女の潤んだ、訴えかけるような瞳を思い浮かべた。本当に涙目になっているのかもしれない。
「心配すんな。そんなことしねーよ」
コツコツコツ。足音だけが学校に響く。普段、歩き慣れているはずなのに、違う世界にいるように錯覚する。
三階に上がり、理科室へ真っ直ぐ伸びる廊下のスタート地点に立った。あと少しで往路が終わる。
教室の前に掃除用具を入れたロッカーがあった。通り過ぎようとしたら、いきなりほうきの束が激しい物音とともに倒れてきた。
宮尾は叫んだ。これには驚いた。暗くてよく見えないが、何か仕掛けがあるようだった。これが長島の表情を変えた要因だったのか。宮尾は驚きの後に納得した。
ふと、星野の気配が消えたことに気付いた。ほうきが倒れたときも、彼女の声が聞こえなかった。宮尾の叫び声にまぎれたのかもしれぬが。
足元を見ると、星野がしゃがみこんでいた。
「星野、どうした?」
ライトを軽く当てると、恐怖に顔が歪んでいた。
「ごめん……立てなくなっちゃった」
その声は弱々しさを極めていた。
九
腰が抜けた星野を約束上、置いて行く訳にはいかない、と考えた宮尾は、星野の腕を肩に回して背負う形で進んだ。
理科室に辿り着くと、入口の脇にボールが並べられていた。よく見ると、黒板の前にいつもより多くガイコツが整列していて、これも驚かすための物だろうな、とこの時は冷静に捉えた。
ボールと星野を抱え、宮尾は復路を歩み進めていった。もはや恐怖を抱く余地はなく、真っ白な頭で足を前に出した。
途中、ボールが手からこぼれた。弾む音がしてどこか見えないが転がっていった。
落としたのがこれじゃなくて良かった、と思いながら懐中電灯で周囲を探した。
だが、懐中電灯で見つけるより先に、自分の足がそれを認めてしまった。上に足を乗せてしまい、片手を突いて転んでしまった。当然、抱えていた星野も一緒に倒れた。
二人は抱き合うようにして地面に着地した。重なり合っている部分が熱く感じる。宮尾の目の前には星野の瞳が二つあった。
すると、星野が宮尾の唇に自分の唇を重ねた。柔らかい感触が広がり、思考は混乱を極めて停止する。とても長い時間に感じたが、実際は一瞬の出来事だっただろう。
その後、どうやって体育館まで帰れたのか記憶が曖昧になっている。ボールを持っていたからちゃんと見つけたようだし、星野は普通に歩けていた。転んだ時に落とした懐中電灯も無事だった。ただ、星野と何か言葉を交わしたのか覚えていない。終始、無言だった気もするけど、何かとても大事なことを言ったか、言われた気がする。
全ての組が終えると、村瀬は電気をつけた。久しぶりに見る明かりが眩し過ぎて、しばらくは目を細めるしかなかった。
「これできもだめしは終了だ。部屋に戻って、ゆっくり休んで、明日の練習に備えてくれ。寝坊するなよ。じゃあ、解散」
疲れていたことを思い出したのか、言われなくても、という感じで皆は部屋へと戻っていった。
宮尾はちらっと星野のことを見た。向こうもこっちを見ていたようで、目が合った。見なければ、見られなければ、見つめ合うことはない。
「その……」
星野の頬は目に見えて赤く染まっていた。
「ごめんなさい」
そう言い残すと、星野は尾崎を追いかけて走っていった。
ごめんなさい――か。謝る必要はない、と言うつもりもないし、その謝罪をただ受け入れるつもりもない。自分でも今の気持ちが分からないけど、星野に対して悪い感情を抱いてはいなかった。
部屋に帰ると、平岡がすでに布団の中の人になっていた。
宮尾も電気を消してから、隣に敷かれた布団にもぐり込む。暗闇の方が今は目に楽だった。
蝉の声が聞こえる。儚い命を全うする蝉が、とても哀れに感じた。
隣の部屋から笑い声がした。長谷部と岩田の部屋だ。きもだめしのことを振り返っているのかな。
「レイジ」
平岡はまだ起きていた。「何だよ」と宮尾は聞き返す。
「あのさ……単刀直入に聞くけど、お前と――星野、キスしてたよな?」
宮尾は平岡の顔がまともに見られなかった。動揺を隠せているとは思わなかったから。
よく考えれば迂闊だった。宮尾らは時間がかかっており、次の組が出発する三十分は経過していた。あの場面を次の組である平岡と――尾崎に見られていたとしても不思議ではない。
平岡が見たということは、尾崎も見たわけだ。宮尾は何故か後ろめたさを覚えた。
「――ああ。見てたのか」
「あれって、星野からしたの?」
宮尾は少し考えた。ここでありのままに言っていいものか。しかし、とりあえず事実をそのまま言うことにした。
「そう」
「へえ、やるなあ。おとなしいやつほど、大胆な行動に出るもんだな」
平岡は笑ったが、冗談で済ませる気分はなかった。宮尾は笑わなかった。
星野はどうしてあんなことをしたのだろう。それともあれは、事故だったのだろうか。それこそ星野に謝る必要はない。
「シンジ、あのことは誰にも言うなよ」
「……そりゃ、言わねーけどさ」
宮尾は平岡に背を向けて、眠る振りをした。平岡もそれ以上は追及してこなかった。
たぶん、尾崎は口止めしなくても大丈夫だろう。
宮尾は眠りについた。
合宿も中日を迎えた。この日は誰もが良い気分ではなかった。何故なら、体力トレーニングの日と銘打たれているからだ。
「今日はバスケットボールを触れないと思っておけ」
村瀬が高らかに宣言していた。そんな、陸上部じゃないんだから、と平岡は嘆いていた。
午前中はとにかく走る。長距離、短距離の順番でしゃにむに下半身と肺を鍛える。
長距離は、学校の周り2・5キロを四周、つまり10キロ走る。それだけで体力を使い果たしそうだ。
バスケ部で長距離が滅法強いのは、佐々井と宮尾。いつもこの二人が一位を争う。
スタートラインに立って、尾崎の合図で一斉に駆け出した。
前に出たのは宮尾と村瀬、それに平岡。佐々井は少し後ろで様子見の態をとった。
半周ぐらいで急に一年の香村がとてつもない速さで先頭集団を抜いていった。驚いたが、焦ってペースを変えたりはしなかった。やがて香村のペースが急に落ち、ずるずると後退した。
一周が過ぎた。タイムを尾崎が言ってくれたが、久しぶりの10キロなもので、平素より遅めだった。
三周までは順位の変動がなかったけど、ラスト一周に入って佐々井のペースが上がった。宮尾もついていった。平岡と村瀬は置いていかれた。
ゴールが見えてきた。見えてきただけで、ここからが結構、長い。佐々井と宮尾は横一列に並んで、互いを牽制し合いつつ、ペースをさらに上げていた。一位争いはこの二人に絞られた。
結局、佐々井が一歩の差でゴールを駆け抜け、宮尾は僅差で負けた。初めはいつもより遅いと思っていたタイムも、最終的に自己ベストを更新した。
三位は平岡、四位に村瀬。
宮尾は座って休んでいると、尾崎がお茶の入ったコップを渡しに来てくれた。
「はい」
「ありがとう」
尾崎も昨日のことを知っているはずなのに、いつもと変わった所は見当たらなかった。
そういえばと、星野の方を目の端で捉えたが、こちらも落ち着いていた。
最後の二人が帰ってきた。香村と長島で、香村が猛スピードで最後の直線を駆け抜けていった。
そんなに最後、頑張れるなら、最初からペース考えて走れよ、と思った宮尾は先輩として後輩を指導しに行こうと腰を浮かしたが、村瀬がそれに先んじた。走り終わったばかりの香村に、一言二言、話しかけている。
村瀬が頼りになる部長だということは、周知の事実だ。
いったい、自分の代では誰が部長になるのだろう。宮尾は思いを巡らしてみた。平岡、長谷部、宮尾の三人の内の誰かだろう。決めるのは村瀬の役目だが、誰に西桜バスケ部の舵取りを託すのだろうか。
合宿四日目。宮尾は早起きして体育館に向かった。筋肉痛は否めないけど、バスケをしたい気持ちが勝った。ボールを持って、早朝練習を始めた。
「おはよーさん」
尾崎が現れた。
「尾崎、早いじゃん」
「宮尾こそ、どないしたん? 合宿中やのに、元気やな」
「うーん、何か早くに目が覚めたら、バスケやりたくなってよ。筋肉痛がやばいけど」
宮尾は笑った。尾崎も笑った。「付き合おうか」
「頼む」
普段と同じようになった。シュートを放ち、尾崎が拾って、宮尾にパス。また打っては、それの繰り返し。ディフェンスをやってもらい、それを抜いてレイアップシュート。
適当に汗を流した後、壁に寄りかかって小休止の体勢をとった。尾崎も隣に腰掛けた。
やっぱり蝉の声が聞こえる。夏の風物詩はおれだと主張しているようにやかましい。
「なあ、宮尾……」
尾崎が口ごもった。宮尾はちょっと覚悟した。まさか――。
「何だよ?」
「……何でもない」
しかし、尾崎は言わなかった。
微妙な空気が流れた。いつまで続くとかと不安になった。
それを打ち破るように明るい声が耳に入った。
「お邪魔しますわ」
関西弁の男の声。誰だろうと首を向けた。
「あれ、リョウ君」
尾崎が立ち上がった。リョウ君?どうやら知り合いらしいが。
「おお、サエやん。すぐに会えて良かったわ」
尾崎を名前で呼んだ。二人は親しい間柄のようだが、まさか付き合っているのかと宮尾は推測した。
「そちらさん、サエの彼氏か?」
そしたら反対のことを聞いてきた。「ちゃうわ、ただの友達」と尾崎がすぐに否定した。
「はじめまして、宮尾レイジです」
歳が分からないから、敬語で名乗った。
「知っとるで。スリーがよう入るやつやろ。おれは金子リョウ、睡蓮高校のバスケ部二年や。よろしゅう」
金子は宮尾の手からボールを奪うと、「せっかくやし、勝負せえへん?」と言った。
宮尾はそれに応じた。
十
睡蓮高校は都内最強の高校と言われ、毎年のように全国大会に顔を出している。
金子がそこのバスケ部と名乗ったから、宮尾は興味を覚えていた。どのくらいの実力があるのか。自分との差は大きいのか、小さいのか。
数分間の勝負だったが、その実力は分かった。スピード、ドリブルのキレ、シュートの正確性、隙のないディフェンス、どれをとっても格の違いを痛感させられた。それでもスコア的には差がつかなかった。それは金子が本気を出してないからで、それぐらい宮尾も分かっていた。
「ふう、ええ汗かいた。おおきに、宮尾。サエもまたな」
尾崎がそろそろ部員たちが来る時間だと告げると、そう言って金子は帰った。
「強いな、あいつ。睡蓮のスタメンなの?」
言ってから、そうじゃなかったら絶望的だな、と思った。
「そうやで。二年ただ一人のスタメン。まあ、一年も一人おるんやけど、彼は特別やし」
尾崎は言葉を切った。
「全中ではMVPにも輝いて――宮尾も名前は聞いたことあったんちゃう?」
つまり、宮尾の世代のナンバーワンプレーヤーだったのだ。おそらく、今も。
「尾崎との関係は?」
彼氏でないことはさっき明らかになった。
「幼馴染み。五歳まで同じ幼稚園で、お互いにこっち来てからも、ちょくちょく会っとったんや」
ということは、宮尾や平岡よりも付き合いが長いことになる。彼が関西弁で話していたことも頷ける。
以前、関西弁で今も話す理由を宮尾が尋ねた時、尾崎は特に理由はないと言っていたが、彼の存在がそうさせていたのかもしれない。
翌日、合宿の全日程が終了した。
そして数日後、夏の大会東京予選の組み合わせ抽選会が行われ、西桜の初戦の相手は睡蓮となった。くじ運が悪い、というジンクスは未だに健在だった。
初戦から決勝みたいなものだから、勝てば全国が見えてくる、と部員たちは意気込んでいた。
その心の内は、違うかもしれないけど。
控え室でスターティングメンバーが発表された。
「まず、おれ」
村井光介、背番号4。
「佐々井」
「ういっす」
佐々井多紀、背番号10。
「宮尾」
「はい」
宮尾怜司、背番号6。
「平岡」
「はい」
平岡真治、背番号7。
「長谷部」
「はい」
長谷部潤、背番号8。
「お前ら、表情が硬いな。睡蓮戦だからって、気負うなよ」
宮尾は周りを盗み見た。スタメンもそうだが、ベンチの面々も硬くなっている。
「今日はゾーンディフェンスを試す」
練習で形にしたゾーンディフェンス、実戦で試す最初の機会が睡蓮相手とは。
「それから、注意すべきやつだが、スタメン全員だ」
佐々井が苦笑した。これは冗談ではない。強豪の中の強豪に、死角はない。
「三年エースの植松。こいつが基本、ボールを運ぶ。自分で攻めることもあるし、他を上手く使うこともある。
三年の残り二人、飯岡と清水はゴール下が強い。山茶花の林や呉タイプだな。
二年の金子、一年の草野も上手い。植松と比べても遜色ない。草野は去年の中学バスケ全国大会決勝で、百合の宮本と競り合って勝っている」
宮本でさえ凄さを感じたのに、それと同格かそれ以上とは、宮尾は試合前から天を仰ぎたくなった。
「でも、さっきも言ったが気負うな。自然体でいこう。声出していこう」
「おうっ!」
気合が入った。それぞれの表情に力がみなぎる。
西桜の夏が始まった。
試合は一方的な展開となった。
村瀬が切り込んでも、あっさりカットされた。
佐々井のドリブルでも抜けない。
平岡のゴール下シュートも、何度も飯岡と清水に阻まれた。
長谷部が粘っこくディフェンスについても無駄だった。
宮尾のスリーポイントシュートも放つ機会が簡単に作れない。
反対に睡蓮は得点を重ね、金子が前半で十八得点をあげ、チームトップ。
西桜19―45睡蓮
水をあけられている展開に、西桜は意気消沈していた。
ハーフタイム中、宮尾はトイレに向かう途中、金子と廊下で鉢合わせになった。
「宮尾、拍子抜けやな。こんなもんか?」
余裕の笑みを浮かべていた。宮尾は悔しさを噛み殺すように押し黙っていた。
「おれはバスケしに来たんや。ちゃんとバスケしようで」
遠ざかっている靴音を背中で聞きながら、ついには何も言わず、宮尾はその場を離れた。
胸が敗北感で埋まりそうになっていた。まだだ、一矢報いるチャンスは残されている。そう言い聞かして、宮尾は折れそうな心を奮い立たせた。
後半開始。金子の手に渡った。金子は真っ直ぐに宮尾の方に向かい、正面に立った。片手でボールをつき、もう片方の手で手招きした。宮尾を挑発している。
宮尾はそれを取りに前に出た。金子はいとも簡単にそれを抜き去っていく。しかし、罠を張っていた。後ろに佐々井が潜んでいて、油断した所を奪い取った。
佐々井はドリブルで攻め上がり、スリーのライン手前で止まって、迷わずシュート。一度リングに当たり、ネットを揺らした。
西桜22―45睡蓮
エース植松がゆっくりボールを運んできた。
「一本じっくり」
反撃ムードが高まった西桜の気勢を削ぐように、嫌らしいほどゆっくりと。
じりじりと台形に迫ってくる。清水がゴール下に入った。その瞬間、平岡と長谷部の間を縫うようにしてパスを通した。清水も事も無げに決めた。
西桜22―47睡蓮
だが、西桜も負けていなかった。ボールを受け取った村瀬が虚をついて高速ドリブルで一気にシュートまで持っていった。
だが、一年の草野が追いついた。後ろから手を出してシュートを止めたが、同時に笛も鳴った。どうやらファールだ。
フリースローが二本、打てることになった。ここはきっちり決めておきたい所だ。幸い、村瀬はフリースローが苦手じゃない。
一本目、大きく息を吐いた。静寂に包まれている会場が、彼を見守る。そして放った。――決まった。村瀬は胸に手を当てて安堵のポーズ。
二本目、またも息を吐いた。プレッシャーは相当あるに違いない。その精神的な作用が、手元を狂わせた。放ったシュートは外れた。リングに当たってリバウンドとなる。
平岡と飯岡が競って、ボールは台形の外へと流れる。
そこにたまたま宮尾がいた。ボールを拾うと、一歩さがって、スリーポイントシュート。ためらいは微塵もなかった。
入った瞬間、大歓声が上がった。宮尾はガッツポーズし、村瀬がその背中を叩く。
西桜26―47睡蓮
金子が再びボールを持った。睡蓮はいつも村瀬が運ぶ西桜と違い、ガードが植松・金子・草野の三人で回している。草野はまだ一度しかやっていないが、金子は植松と同じぐらいやっている。
「来いよ、金子!」
宮尾が叫んだ。西桜の勢いが増してきた今、さらにと目論んだ。
金子はその挑戦を受けた。宮尾の方に行き、右手でボールをつきながら左手はボールに触れさせないように宮尾を防いだ。
宮尾は一瞬の隙をついてボールを取りにいった。しかし、その隙は誘うための見せかけだった。パッと反転し、そうかと思ったらまた反転して宮尾の左側をきれいに抜いた。宮尾はまったくついていけなかった。
金子はそのままゴールまで行って、ダンクをかました。リングがギシギシと鳴る。会場が湧く。宮尾はそれらが聞こえないように無表情で立ち尽くしていた。
「宮尾」
金子が耳元で囁いた。
「お前、ダンクしたことないやろ」
「――ない」
試みたこともなかった。
「背は同じぐらいやのにな」
勢いをつけるどころか、引導を渡された。
もう言い訳がきかない。宮尾の心は敗北感が支配した。
睡蓮は手を抜かなかった。得点源が外からのシュートと分かると、佐々井と宮尾にマンマークを付けてそれを封じた。
中に攻め入っても、全国屈指のディフェンスラインが立ち塞がって、なす術がなかった。
結局、時間潰しされる形で、西桜の初戦敗退が決まった。
西桜の夏は、蝉の命よりも儚く散った。
悔しいけど、虚脱感とでも呼ぶものが在って、帰途の宮尾たちは無言だった。
「なあ、平岡の家、行かへん?」
尾崎が無言を破って提案した。
「何で?」
「皆、呼んで反省会やろうで」
平岡に目を向けると、俯いていた顔を上げた。「いいけど」
「じゃあ、呼ぶで。先生は呼ばへんけど」
与謝野は大敗した生徒たちに励ましの声をかけたりはしなかった。でも、仕様がない部分もある。彼は、負ける姿を見るのに慣れ過ぎた。
百合戦のあと、絶対に超えられない壁がいつか現れるかもしれない、と考えたが、睡蓮の植松や金子は充分、当てはまった。バスケに愛されているやつらは、やはりいたのだ。
まだ日中なのに、真っ暗闇の中にいるように感じた。マグリットの絵は、確かこんな風じゃなかったっけ。
最初に来たのは長谷部だった。
「さ、社長どうぞこちらへ」
平岡がソファーをすすめた。
「ウム、悪くないな」
長谷部も合わせた。ウムって何だよ、社長が言ってそうじゃん、と二人は笑い合っていた。
宮尾もその光景を見ながら笑った。
次に来たのは村瀬だった。真っ先にソファーに座って、腕組みをしたまま何も言わなかった。傍から見ても悔しそうだと分かった。
そうか、宮尾は思った、先輩は「悔しい」のか。
それから二年の岩田、一年の矢部と長島が来て、それぞれ持田と香村が来ないことを伝えた。村瀬は咎めなかった。
星野も来た。冴えない表情をしていた。こんな表情にした要因は、おれたちにある、と宮尾は思った。
尾崎の隣に座ったため、宮尾と隣同士になった。きもだめしの一件から二人はまともに話していなかった。
「おつかれ」
宮尾が声をかけると、普通の声で、おつかれさま、と返ってきた。
「見ててどうだった? 今日の試合」
「惜しかった――」
星野は自分の手元を見つめたまま答えた。
「と思うよ。流れはどっちに傾いてもおかしくなかったし」
でも、と星野は続けた。
「でも、金子君がダンクを決めてから、流れは向こうにいった感じがした」
最後の「感じがした」でようやく宮尾の方を向いた。
あそこが分岐点だったのか。たぶん、金子も試合を決めようと狙ってやったのだろう。ただがむしゃらにやっているだけじゃ、勝てないことを宮尾は思い知らされた気がした。
十一
佐々井は来ない、という連絡がなかったので彼をずっと待っていた。もう始めようか、という時になってようやく姿を現した。
「遅いぞ佐々井」
村瀬が睨んだが、怯まなかった。
「悪い、途中で自転車に乗ってた女子高生が転んで、見過ごせないから彼女の家まで送ってたら遅くなった」
「ウソつけ、そしたら今頃、お前は警察から表彰されてるよ」
つまり、いつも言い訳に使っているということか。沈殿していた雰囲気が、笑いが起こって上昇した。佐々井の性格は場を和ませる。
反省会で論じられたことは、攻撃面が中心になった。攻撃のバリエーションが少ない、もっと中で勝負しよう、それより攻撃の時間を長くしよう、確実性を上げてリバウンドが捕れないのをカバーしよう、話し合いは多岐にわたった。
初めは真面目に話し合っていたが、酒を飲んでいたわけでもないのに次第に酔いが回り始めたように騒ぎ始め、結局、宴会状態になった。いつもなら村瀬が収拾しそうなものだが、この時は鬱憤を晴らしたかったようで、一緒になって騒いだ。
宮尾はベランダに出た。外の空気を吸いたくなったからだ。すると、平岡も出てきた。
「悪いな、シンジ。こんなに騒いじまって」
平岡は首を横に振った。
「レイジが謝らなくていいって。楽しいし、気分も晴れるから」
「そっか……」
日が暮れかけていた。頭上で弧を呆れるぐらいゆっくり描いている陽が、一日の仕事を終える。こうして世界を照らすことを黙々とこなし、律儀に一日もサボらない。そんなあの光が今さらのように立派に感じた。
「今日の試合さ」
平岡が呟いた。「全然、敵わなかったけど、負けるとは一回も考えなかった」
「勝てるは?」
「それもなかった。勝てる確信も逆もなかった」
なるほど、と宮尾は納得した。それは言えるかもしれない。だが、同調はできない。自分は試合中、諦めたから。負けると考えてしまった。
何となく足を上げると、裸足で出てきたから砂がついていた。手で払ったが、どうせまた下に下ろすから意味がないことに気付き、自分で自分を嘲笑った。
おれは、諦めた。おれは敗北者だ。嘲笑うしかないじゃないか。
日が暮れるとぞろぞろと帰っていった。宮尾と長谷部、岩田はそのまま「お泊り」することにし、帰る人たちを見送った。
宮尾は、結局、星野と最初に話しただけでほとんど話さなかったことを何となく後悔し、それでも部活で会えるからいいか、と思い直した。
残った四人は疲れを無視するように夜更かしをし、恋愛話に発展した頃に誰からともなく眠りについた。
翌日は昼頃に起きて、そのまま家に帰った。試合の疲れを癒さないと、明日からまた部活があるため、支障をきたす。宮尾は帰ってからもまた眠った。
夏休みが過ぎていった。
二学期がやって来た。
夏の大会は終わった。次は十一月の秋の大会。
その前に学校では行事がある。九月下旬にある文化祭だ。西桜の一文字を取って「桜蘭祭」と言われる。
皆はりきってクラスの出し物や部活の出し物の準備に励んだ。
宮尾のクラスでは縁日を教室の中で開くことになっていて、ヨーヨー釣り、線引き、輪投げ、射的などを放課後、製作していた。
宮尾はこの行事が嫌いで、表面上は黙って働いているが、本当は思いっ切りバスケがしたい、という鬱憤が溜まっていた。こんなくだらない作業、時間の無駄じゃないか。
ちなみにバスケ部は一般客相手に三対三の勝負をする。開催する二日間、フルタイムで行う。部員でローテーションし、午前と午後をそれぞれ二つに分ける。ローテーションは次の通り。
一日目 午前(先)佐々井・持田・矢部
(後)宮尾・香村・長島
午後(先)佐々井・平岡・長谷部
(後)村瀬・持田・長島
二日目 午前(先)宮尾・平岡・長谷部
(後)村瀬・矢部・香村
午後(先)宮尾・岩田・持田
(後)佐々井・岩田・長島
初心者から他校のバスケ部員まで実力差に開きがあるので、手加減が難しい。
「桜蘭祭」の準備が進んでいた。
体育祭同様、部活が朝になり、放課後は準備時間なため、宮尾もおとなしく教室にいるが、積極的に作業しているかと言ったら、そうではない。
見かねた尾崎が世話を焼いた。
「宮尾、おればええわけやないで。ちょっと手伝ってえな」
宮尾もいつもなら尾崎の近くにいるのも厭わないが、合宿のことが引っかかっていた。平岡は見た。尾崎も見ただろう。だとしたら、何をどんな風にどのタイミングで言われるか分からない。
それでも暇を持て余し過ぎていた。宮尾は立ち上がって、尾崎の横に立って、教室の装飾作りを手伝った。
黙々と作業が続いていた。尾崎は以前と変わらない。ただ、静かなだけ。
宮尾は別に何も煩わしいことはありませんよ、という顔を作っているが、心中穏やかじゃなかった。
「なあ、宮尾」
だから尾崎が重い口を開いた時、宮尾は驚いて「えっ」と情けない声を上げそうになった。
「変なこと聞いてもええ?」
尾崎が宮尾の横顔を真っ直ぐに見つめている。宮尾は見つめ返せない。
「変なこと? 何だよ、何でも言ってみろよ」
宮尾は無意識にとぼけた振りをした。
「――きもだめしの時、クルミと――キスしてたやろ」
周囲を意識して、小さな声ではあったが、はっきりした口調だった。物怖じの欠片もない。ずっと話す機会を窺がっていたのかもしれない。
宮尾が黙っていると、尾崎は続けた。
「宮尾は、クルミのこと好きなん?」
「分かんね」
否定はしなかった。ただ、肯定もしなかった。無難な言葉を選んだと、自分で自分を褒めた。
「クルミは好きやで、きっと」
でも、これには何も返せなかった。尾崎の目が、獲物を狙っている鷹のように宮尾から離れなかったから。
尾崎にいつも星野のことで後ろめたさを感じるのは、尾崎に想いを抱かれているかもしれないからだ。本人からそんな話、聞いたこともないし、態度からそれを読み取るのは難しい。でも、これだけ一緒にいて、何もないはずがない。
もしその仮説が正しければ、尾崎を傷付けている恐れがある。密かに、ゆっくりと。
宮尾自身、尾崎に何の感情も抱いていないかと聞かれたら、すぐには答えられない。「分かんね」としか言えないだろう。胸の奥の複雑な感情を言葉にしても、伝わるのは飾り付けをされた言葉だけ。どうせ自分の都合の良いようにしてしまう。
宮尾は最後まで尾崎の視線を見つめ返すことができなかった。
「桜蘭祭」の二日目。
宮尾は午前の最初から三対三が入っていた。同じ時間の平岡と長谷部を呼んで、体育館に向かった。
やっぱりバスケットボールに触れられるのは嬉しいもので、宮尾は着いてすぐにドリブルしたり、シュートしたり動き回った。「おい、やる前から疲れちまうぞ」と平岡に言われるまで。
「おはよーさん、宮尾」
そこに意外な来訪者が現れた。睡蓮の二年生レギュラー、金子涼。後ろに二人、ただ者じゃなさそうなやつらが並んでいた。
「遊びに来たで」
合宿中に来たり、今回もぶらりと現れたり、随分身軽なやつだ。
「そちらさん二人は、お友達?」
金子は後ろをちらっと見た。「ああ」
「睡蓮の準レギュラーや。おれと同級生の」
睡蓮の準レギュラーじゃ、その実力は他校なら普通にスタメンだろう。侮れないし、確かにただ者じゃない。
「ごたくはええから、はよう始めようや」
チャレンジャーボールからスタート。金子が運んでくる。三対三はコートの半分しか使用しない。カウンターとか奇襲はないが、個々の実力がもろに反映される。
宮尾が前に立った。腰を低くして、片手を上げる。
金子のドリブルのキレは、佐々井を上回る。しっかり動きについていこうとしたつもりが、いつの間にか背後に回られていた。信じられないほど速い。それに本気だ。
あっさり先制された。
宮尾は平岡と長谷部に目配せをした。「おれたちも本気でいこう」と伝えた。伝わったようで、二人の目に静かな闘志が宿った。二人も金子のプレーを見て思う所があったようだ。
平岡から長谷部、宮尾と台形の外側でボールを回し、平岡が上手くスクリーン(人でついたてを作って、生じたスペースを利用すること)して、長谷部が攻め上がった。
だが、金子に読まれていた。長谷部は止まった。
ところが、後ろを見ないでボールを投げた。そこには宮尾が待ち構えていた。スリーポイントラインの少し後ろで。
ボールはリングにかすりもしないで、心地良いネットの音を演出した。
「へえ、やるやん」
金子に言わしめた。連係も、最後のシュートも思い通りにいった。
「よくスリー決めたな」
帰り際、平岡にそう言われた。金子たちとの試合は、あの後すぐに終わった。金子にもう一度入れられたが、一度にとどめた。
「これで一矢報いることが――できた?」
「できたっしょ」
長谷部が頷いた。
「秋の大会、楽しみだな」
平岡の台詞は、三人全員の気持ちだった。
「桜蘭祭」は大盛況で幕を下ろした。
十二
学校は平凡な毎日に戻った。ほとんどの人が多かれ少なかれ寂しさを覚えていた。例外は、宮尾みたいなバスケバカ。バスケを当たり前にできる毎日が、行事期間中の学生だけが体験できる特別な、輝きを帯びた毎日よりもずっといいのだ。
「――おい、レイジ。起きろ」
目を開けると、天井の代わりに空が広がっていた。肩に触れている腕の先を追うと、自分を起こしている平岡がいた。起き上がると、尾崎と星野の姿も目に入った。ああ、そうだ、思い出した。
朝休み、気分的に屋上に行きたくなった宮尾と尾崎は、星野を誘って、途中で平岡を拾って、ここに至った。何気ない話に興じていた。すると、宮尾がいつの間にか眠っていて、初めは放っておいたが、それを平岡が起こした。
「あれ、もう時間?」
「まだ。それより、今日、転入生が来るらしいぞ」
それで起こしたのか、と宮尾は少し肩透かしをくらった気がした。
転入生といえば、星野もそうだ。四月に来たから、もう半年ほどになる。あっという間だった。色んなことがあった。
「二年生なの?」
「そうやで」
尾崎が答えた。「クラスは人数的に、Cやろな」
「じゃあ、おれと同じじゃん」
平岡が嬉しそうに言った。
「男子か女子か分かんねーの?」
「知らんわ」
尾崎が肩を吊り上げた。
星野は黙ってやりとりを聞いていた。頭の中で、ここに来た日のことを思い返しているのだろうか。
「ってかさ」
宮尾が思い出したように言った。「そもそも、何で知ってんの?」
平岡と星野が尾崎を見た。情報の出所は、尾崎のようだ。
「そら、職員室の雰囲気を肌で感じて、推理したんや」
「ああ」
宮尾は納得したように笑った。「盗み聞きってやつか」
尾崎は正解、と言う代わりに満面の笑顔になった。
平岡はC組の教室に戻った。教室は転入生が来ることも知らないようで、小声でお喋りをしている女子グループ、宿題を写している男子、といつもと変わらない光景だった。
やがてチャイムの音で、それぞれの席についた。同時に先生が入ってきて、日直の号令とともに立ち上がって礼をする。
「今日はこのクラスに転入生が一人、加わります」
生徒が席に座ると、先生は開口一番にそう言った。
教室は絵に描いたようにどよめいた。え、マジ、かっこいいかな。微妙なタイミングだな。おっしゃ、空いてるのおれの後ろじゃん、かわいい娘、カモン。その中で平岡は澄ました顔で続きを待っていた。早く、どんなやつなのか見たい。
先生が入ってくる時に閉めたドアを開けて、転入生を導いた。
入ってきた瞬間、男子が息を呑むのが分かった。ふわっとした肩にかかるぐらいの髪、パッチリした目、自分でやったのか、他の女子よりも短めのスカートから現れている白い足、星野に続いてまたも美少女が転入してきた。
「三浦マコトです。親の仕事の都合で来ました。分からないことがたくさんあるので、教えてくれると嬉しいです。よろしくお願いします」
拍手が起こった。拍手に包まれながら、後ろのほうの自分の席に向かった。
星野と違って、口調ははきはきしていて、明るい性格を窺がわせた。
三浦の隣は持田だった。
「あのさあ」
三浦は持田に話しかけた。
「君、バスケ部?」
「そうだけど」
持田はいきなり話しかけられて緊張していたが、表に出さないように努めた。
「ホント? じゃあさ、佐々井先輩ってバスケ部にいるよね?」
「いるけど、どうして――」
知ってるの? と続けようとして、「ううん、それだけ。ありがとう」と遮られた。言葉とともに眩い笑顔を作った。
持田は心を奪われてしまった。
放課後、部活の時間。宮尾は一番乗りで、シュート練習を始めた。この時間までの授業中、バスケがしたくてうずうずしていたのだ。
次に来たのは横目で女子の制服だと分かったが、尾崎か星野だろうと思って、練習を止めなかった。するとその制服が近付いてきて、話しかけてきた。
「あの、バスケ部の方ですかあ?」
「はい、そうだけど」
初めて見る顔だった。これが転入生か、と宮尾は朝の話と目の前の女子を符合させた。
「私、今日、転入してきた三浦マコトっていいます」
「マコト? 男みたいな名前だな」
「はい、よく言われます。真実の真に、楽器の琴です」
「なるほど。それで?」
「バスケ部のマネージャーになりたいんです」
マネージャーがまた増えるとは、宮尾は驚いた。去年の終わりには尾崎一人で、来年大丈夫かよと心配していたが、気がついたら三人目か。
「分かった。じゃあ、部長が来るまで待っててくれる?」
「オーケーです!」
「ところで入部届けはある?」
「はい! もう書いてきてます」
ずいぶんと用意が早い。やる気があるのかもしれない。
「そういえば、お名前をまだ聞いてなかった。お名前は?」
「宮尾レイジ。二年」
「ああ、あなたが宮尾でしたか。夏の大会で見ましたよ」
夏の大会といえば、睡蓮にボロ負けした試合だ。宮尾はあんまり良い気持ちじゃなかった。
そこに尾崎と星野、そして村瀬が来た。「あれ部長ね」と指し示すと、三浦は物怖じせずに村瀬の正面に立った。
「先輩、二年の三浦マコトです。バスケ部に入部したいです」
そう言って、入部届けを差し出した。
村瀬はたじろぎを少し見せて、それを受け取った。
「へえ、また微妙な時期に――転入生? なるほど、それで。おれは部長の村瀬だ。よろしく」
「よろしくでーす」
頭を下げると、尾崎と星野の方を向いた。
「三浦マコトです。一緒に頑張りましょう」
彼女の名前は今日で覚えられそうだ、と宮尾は思った。このやりとりの中で何回も出ているから。
「尾崎サエです。よろしゅう」
「おー、関西弁。サエちゃん、よろしくね」
「……星野クルミです。よろしく」
星野は明るさを振りまく三浦に圧倒されているようだ。
「クルミちゃん、よろしく」
バスケ部がにぎやかになりそうだ。
異性と並んで歩くのは難しい。歩幅が違うし、こっちが合わせているつもりでも、向こうも合わせようとしていた、なんてことはよくある。宮尾のように並んで歩く異性が限られている人でも知っていることだから、きっと多くの人が知っているのだろう。
「あの転入生」
帰り道、尾崎と並んで歩き、互いに思いついたことを脈絡もなく話していた。
「佐々井先輩のファンらしいで」
「ファン?」
「あんまし好きっていう感じやあらへんかった」
宮尾はふうんとも、ほうともつかない相槌を打った。
宮尾を知っていたのもそうだが、三浦は西桜バスケ部のことをよく知っている。夏の大会を見たのだと言っていたが、そこで佐々井の「ファン」になったのか、それ以前からだったのか、いずれにせよ彼女はバスケに関わりを持つほど興味を抱いていることが窺がえる。その大小は別として。
「そういや、今日、先輩いなかったな」
「講習やないの? 受験生なんやし」
補習の間違いじゃないのか、と言い返そうとしてやめた。確か、佐々井は性格のわりに勉強はできる方だった。
「私らも高校生活の半分、もう過ごしたんやなあ」
語尾のなあ、に古典の授業でならった詠嘆を感じた。まさにこれが詠嘆だ。時の移ろいの儚さを嘆いている。
「目の前のことを一つひとつやっていくしかないな」
「そやね。そしたら、次は練習試合やな」
秋の大会前の調整試合に、夏の都大会準優勝校、寒椿高校が予定されている。
寒椿のエース、三年の小松俊平。彼は中学時代から、かなりの実力者として全国的にも名を馳せていた。
睡蓮のエース、植松達とはかつてのチームメイトだった。二人で無名だった秋桜中学校を全国優勝に導いた。しかし、MVPは――どちらがなってもおかしくなかったが――植松だった。
そして高校進学の際、二人は寒椿高校に入る約束をしていたにもかかわらず、植松は掌を翻すように睡蓮行きを決めた。多額の裏金が譲渡された、という噂が流れた。
二人は別々の高校になり、それ以来、都大会で激しく火花を散らしてきた。犬猿の仲ぶりは、多くの人の知る所となり、注目を集めた。
今ではすっかり和解している。過去のことをなかったことにしたのだ。真相を確かめない代わりに、そのことについて少しも触れたりしなかった。次第にライバルという呼称がふさわしくなり、夏の都大会決勝では、息の詰まるような点の取り合いを展開し、観衆を湧かせた。
「――小松」
一人で遠くを見つめている小松に、島田が話しかけた。
「次の練習試合、西桜に決まったぞ」
小松は島田に向き直った。小さな笑みを口の端にこしらえていて、無垢な光が目に見えるようだった。
「あの、いつも序盤で強豪校と当たって、すぐに消える、運の悪いところか」
「何だ、知ってたのか」
島田は意味もなく頭をかいた。
小松は西桜と睡蓮の試合を観戦していた。
言うまでもなく、村瀬と佐々井が中心人物だが、二年のスリーポインターも侮れない。金子には歯が立たないようだったが、彼の中に無限の可能性を感じた。まだまだ強くなる。
それでも、負けるとは思わない。寒椿の強さを見せつけてやろう。次代を担う一人だろう、名前も知らない彼に。
練習試合の日、相手が都内ナンバー2ということで、緊張はいつもの練習試合の比ではなかった。実力がどこまで通用するか、胸を借りる立場としての気持ちと、挑戦者として果敢に、貪欲に勝ちを掴もうとする気持ちが胸の中に宿っていた。二つの気持ちは押し合って止まず、時に熱く、時に不安になった。
寒椿のメンバーが現れたときは、熱い気持ちで占められていた。睡蓮戦の惨敗を思い出し、もっと強くなりたいと願った夜を思った。
挨拶をし、それぞれのベンチに別れてから、先発が発表された。いつもと同じ五人だった。
「相手のセンターポジションの島田は、日本一と言っても言い過ぎじゃないくらい、ゴール下に強い。体格だけじゃなく、上手いし、状況判断に長けている。だから――平岡、長谷部」
村瀬は二人を真っ直ぐ見据えた。
「二人で島田にマークついてくれ」
「はい」
声を揃えた。
「キツイな」
佐々井の呟きに「ああ」と村瀬は頷いた。
「でも、しょうがない。臨機応変に、三人で四人に対応しよう」
「何で小松のことは触れなかった?」
ボールの跳ねる音がかしこから聞こえる。試合前のウォーミングアップで、分かれてシュートの練習をしている。
佐々井が指摘したのは、島田については念入りにデータを伝えたのに、エース小松については何も言及しなかった。いつもの村瀬らしからぬ、手落ちとも言えることだった。
しかし、小松は手落ちで言いそびれることがあるはずがない存在だった。あえて言わなかったとしか思えなかった。だとしたら、理解できなかった。
「あんまり試合前から脅かしても、硬くなるだけだからな」
村瀬は抑揚のない口調で答えた。何だそんなことか、というように。
「どうせ試合になったら、別格の実力に驚いて、嫌でも意識することになるぞ」
「佐々井」
村瀬は言葉を切った。
「ウチが苦手なのはゴール下に強いやつだ。他にどんな速いやつや、遠くからのシュートが上手いやつがいても、どうせ手が回らない。今日の試合から、そういうやつらを意識し過ぎない練習をするんだよ」
「そんな悠長な――」
「まあまあ」
普段と逆だった。のらりくらりとしている佐々井が突っ掛かって、村瀬にかわされていた。
「練習試合で試せるものは、試してみようじゃないか。もし逆効果だったら、本番ではしないから」
佐々井はそれ以上、言わなかった。
ボールの音が体育館に響く。
十三
両校先発の十人が、コートの中に立った。
「佐々井先輩、頑張ってください!」
三浦が声援を送ったが、集中している佐々井は見向きもしなかった。
三浦の声を最後に、体育館には声という声が掻き消えた。誰もが、今まさに始まろうとしている試合に神経を向けている。
宮尾と島田のジャンプボールで始まった。身長差から予想できたが、島田が勝った。しかし捕ったのは佐々井で、佐々井は迷わず攻め上がった。寒椿から先制点を奪えたら、大きな価値がある。
だが、そう簡単にいかない。小松がすぐに詰める。
佐々井はレイアップのように飛んで、背中にボールを回し、パスを出した。そこには宮尾がいて、きっちりとシュートを決めた。
西桜2―0寒椿
「油断するな、すぐ来るぞ」
村瀬が注意を喚起した。すぐにディフェンスに戻って、ゾーンを作る。
寒椿のボール運びは小松。外側には三年の高井、永田、中村の三人、島田は中を窺おうとしている。スタメンが全員三年生なため、チームワークがいい。
島田が中に入った。平岡と長谷部がマークするが、その上をパスが通り、やや強引にシュートした。
西桜2―2寒椿
村瀬はプレーを止めずに攻めに転じた。ボールを受け取ると走って、敵陣深くまで達した。小松と一対一になり、ようやく止まった。
左に一歩でて、反転して右から抜いた。しかし、後ろで永田が待っていた。いわゆるシャドウディフェンスでカットして、前線に走る中村にロングパス。
佐々井が中村の正面に立った。中村は後ろを見ずにバックパスを出し、受け取った高井がフリーの状態でシュート。
西桜2―4寒椿
諦めない。宮尾は村瀬からボールを貰うと、外から打たずに中へ切り込んだ。
いきなり目の前に山が現れたようだった。島田が立ち塞がった。フェイントを仕掛けてから、ジャンプシュートを放ったが、読まれていた。空中ではたかれて、ボールが転々とする。
まだ終わらない。平岡がそれを拾って、ディフェンスが来る前にシュートした。壁に当たって、ネットを揺らした。
西桜4―4寒椿
宮尾と平岡がハイタッチ。
小松が来た。まず、村瀬を鮮やかに抜いて、宮尾がカバーに入ったが、これも簡単に抜かれてしまう。
佐々井と向かい合うと、ボールを両手に持ち替えて、ゴール下の島田に山なりのパスを出した。パスだと思ったから、小松から離れて、島田についた。
ところが、直接シュートだった。見事に引っ掛かった。
西桜4―6寒椿
今度は小松と島田がハイタッチを交わした。
寒椿の連係プレーは穴がなかった。一人ひとりの実力が傑出している睡蓮とは違う強さだった。
次第に点差が離れていき、後半残り十分となっていた。
西桜49―65寒椿
それでも西桜は最後までくらいついた。流れを変えようと、色々と試みた。
村瀬が普段通りボールを運ぶが、ここでパスを出さずにロングシュートを放った。
ゴール下で待っていた佐々井がそれを空中で捕って、ダンクシュート。アリウープという技の一つだ。練習でごく稀にしか成功しないのに、本番で見事に決めた。
村瀬がロングを打たない、という固定観念を打ち砕くものだったが、状況の打破には少し足りなかった。
残り時間七分。
西桜55―69寒椿
中へ果敢に突っ込んだ宮尾が、相手のファールを誘った。フリースローを得て、宮尾は二本とも決めた。
プレーをいったん止めたことで流れが変わるかと期待したが、寒椿は一糸も乱れない。
残り時間四分。
西桜59―80寒椿
平岡がドリブルで攻め、何人かに囲まれながらも、粘っているところで、審判の長い笛の音が鳴った。残り時間なし。試合終了だ。
西桜69―99寒椿
何とか百点ゲームにされずに済んだが、やはり実力の差は明白だった。
――大丈夫かなあ
誰かの声で台詞が降ってきた。誰もそんなこと口にしなかったが、雰囲気からそれが出てきてもおかしくなかった。それぞれが抱える表情に明るさはなかった。
秋の大会まで一ヶ月を切っている。
後から振り返れば、言い訳は何とでもできる。だけど、それで過去が戻ってきたりしない。過去と名付けられた瞬間、人間には干渉できないものになってしまう。悲しかったとか楽しかったと過去の上に冠を被せても、捉え方が微妙に変化するだけで、その形が本当に変わることはない。
だから明るい未来を望んでいるだけでは駄目なのだ。次々にやってきて現在に変わる未来を大切に、真剣に取り扱わないと、絶対に後悔することになる。
宮尾たちは全力を尽くした。現在を蔑ろにしなかった。でも、報われなかった。また一つ、終わってしまった未来が過去になった。
秋の大会、西桜高校は一回戦を突破した。一回戦の相手は、五月の練習試合で対決した新設校の百合高校だった。宮本渚の実力を改めて思い知らされることになったが、レベルアップを図ってきた西桜の前に膝を屈した。
意気揚々と次の試合を待ったが、またも厳しい現実を突きつけられた。二回戦の相手校は、またもや睡蓮高校だった。
それでも早々と白旗を揚げる彼らではない。必死にくらいついて、最後まで折れそうになる心に鞭打って、勝利の二文字を掌に収めようとした。
しかし、及ばなかった。
試合後、悔しさのあまり、村瀬が周囲の目もはばからずに、声を上げて泣いていた。宮尾はもらい泣きしそうになったが、こらえた。自分に泣く権利はない。そう戒めた。
……――それから一週間がたった。
本格的な冬に入ろうとする中、西桜高校ではある行事が始まろうとしていた。それは球技大会である。
種目は、バスケ・サッカー・バレーボール・卓球。そこから一人二種目を選んで、クラス対抗で争う。
西桜はバスケ部員が各クラスに上手い具合に散らばっているため、秋の傷が癒えぬとはいえ、白熱した試合が期待された。
午前中に女子のバスケの試合がまず行われた。準決勝で、女子バスケ部員がいるクラス同士、つまり尾崎と星野がいるB組と、転入生の三浦が加わったC組が当たった。
三浦は中々の実力者で、他の運動部員たちを嘲笑うようにドリブルですいすいと抜いていった。ただ佐々井目当てでバスケ部に入ったわけではないと証明するのに充分な説得力があった。昔からバスケには携わっていたようだ。もしかしたら、女子バスケ部のある学校で、プレーしていたのかもしれない。そう思うと、宮尾は彼女に親しみを覚えた。
尾崎も負けていない。元々、球技大会の女子バスケでは彼女の独壇場になっていたから、三浦が対抗馬として現れたのは、良い刺激になっていた。
「クルミ」
試合の終盤、尾崎が星野に話しかけた。
「私がマコにマンマークでつくから、クルミが攻めてや」
星野は普段の彼女らしからぬ力強い返事をした。
残り時間わずか。その星野にボールが渡った。――一瞬、宮尾は視線を向けられた気がした。そうかと思った刹那、スリーポイントラインから両手でシュートを放った。
ボールは高々と上がった。そして気持ち良いぐらい、きれいにゴールへと突き刺さった。
「ナイッシュ!」
尾崎が背中を叩いた。星野は上気した顔で「ありがとう」と答えた。
その点差を守りきり、B組は決勝進出。
さらに決勝も勝利し、女子バスケ優勝を飾った。
「星野かっこよかったな、あのスリー」
球技大会の日は、どこで昼食をとってもいいため、宮尾は尾崎に誘われて、平岡と星野を加えた四人でグラウンドの隅に弁当を持ってきていた。
星野は照れながら頭をかいた。
「自分でもビックリした。宮尾君みたいなスリーが打ちたいなあ、と思って、練習してたけど、あそこで決められるなんて思わなかった」
宮尾君みたい、というフレーズが頭に残った。そういえば、朝練で練習している姿を見かけた。宮尾は嬉しさのあまり、二の句が継げなかった。
「ちょっと宮尾、私も褒めてや」
その微妙な間を縫うように、尾崎の言葉が入った。宮尾は我に返って、いつものように軽口を叩いた。
「ああ? だって、今さらって感じだしなあ……何てな、三浦を上手く抑えてたじゃん」
と言うと、尾崎は得意気に胸を張った。
「そやろ? マコ、上手いかも、とは思ってたけど、予想以上やったわ」
「ただの佐々井先輩ファンじゃなかったな」
と言ったのは平岡。
「――ところで、宮尾と平岡は、当たるとしたらいつや?」
尾崎が話題を変えると、「決勝」と口を揃えて答えた。
「そうなん? できるとええね」
「シンジ、上がってこいよ」
「お前こそ、一回戦で負けんなよ」
冗談っぽく言ったが、一回戦負けは現実的な話だった。一回戦の相手は、佐々井がいる三年C組。トーナメント表が張り出された後、佐々井はウチのくじ運の悪さはお前のせいじゃねえか、と悪態をついたが、宮尾もこれでおれらが勝ったら、先輩のせいですよ、と言い返した。
宮尾は星野の方をちらっと見た。笑顔で尾崎と話していた。
試合中のわずかに向けられた視線は、気のせいだったのだろうか。確かめるわけにもいかないが、そうしたらもう一つ、もっと大事なことを確かめたい。合宿のこと。そして星野の想い。
頭の中が覗けたらなあ、と考えた宮尾は、心の中で苦笑した。それができたら、知りたくないことまで知ってしまいそうだ。
十四
結果から言うと、宮尾は佐々井に負けた。くじ運の悪さの責任を押し付けられたが、それ以上に負けたことが純粋に悔しかった。
その後も期待に応える形で、白熱した試合が続き、その熾烈な優勝争いを勝ち上がったのは、九クラス中で唯一、男子バスケ部員が長谷部、岩田と二人いる二年A組だった。
こうして、球技大会も終わった。
宮尾の心には、また悔しさが積み重なった。もっと強くなりたい、そう願った。
寒さが身に堪える時期になった。吐く息が白く、手がかじかむ。風に吹かれると耳が痛くなり、唇は乾燥している。
学校は冬休みに入った。バスケ部は一月の冬の大会に向けて、寒い中も体育館に通った。
そんなある日の部活の帰り道。
「ねえ、クルミは好きな人おるん?」
不意の質問に、星野は答えに窮した。無表情を装っている尾崎からは、その質問の真意が掴めない。
「いきなり、そんな……」
「お、否定せえへんな。おるっちゅうことやな」
星野は反射的にかぶりを振ったが、言葉が出てこない。
「そろそろクリスマスやし、誰かに想いを伝えよう、とかはないんかなー、と思ってみたりして」
「な、ないよ、そんなことは」
否定の仕方が必死過ぎて、かえって墓穴を掘っているような気がした。
否定する星野の頭の中に、宮尾の顔が浮かんでいた。想いを伝えたら、どんな答えが返ってくるだろう? そもそも、どうやって想いを伝えよう? 誰かに想いを伝えたことがない。
「サエはいるの?」
何とか言葉が出た。それに、これはいい返しだ、と自画自賛した。
何の気なしに言った言葉だったが、ちらりと横を見ると、尾崎は意外にも真面目な顔をしていた。
「私は、おるよ。――クリスマスイブに、コクろうかと思うとるんよ」
宮尾は少し後悔していた。部活で疲れていたからか、親友相手で必要以上に気を許したのか、原因を探せばいくらでもありそうだが、事実は変わらない。
宮尾は平岡に好きな人を伝えてしまった。予想通りだったのか、聞いてもあんまり驚かなかった。それが心なしか癪に障ったが、交換条件として、平岡の好きな人を知れた。
これは意外だった。でも考えてみれば、何ら不思議な話ではなかった。その可能性は十二分にあったのに、誰も指摘したことがなかった。
平岡は尾崎のことが好きだった。
そして宮尾は、初めて誰かを好きになったことを明確にした。気がついたら、その想いは芽生えていた。理屈じゃ説明できない感情が、確かに存在していた。あの愛おしい笑顔を自分のものにしたい。華奢な体をそっと抱き締めてみたい。芽生えた感情は少し前まで想像していないものだったが、ほっこり暖かい。
宮尾は星野が好きになっていた。
星野は西桜に来てすぐ、宮尾と尾崎がお似合いのカップルみたいだと思った。息が合っているし、くだらないことでも話すし、幼馴染みだし。互いに意識し合っていても不思議じゃないと認識していた。
それだけに怖かった。尾崎の口から宮尾の名が出てきたら、そう考えただけで自分の恋心は今にも消えそうな灯火になる。勝てる見込みがないと思った。心を通わせた時間が違いすぎるから。
「……クルミ、本当はおるやろ?」
何でこんな話をしているのだろう、と星野は思った。尾崎は何かに終止符を打とうとしているのか。
「私はちゃんと言うから、クルミも教えてや。……その、同じ人やったらあれやし」
もしかして、尾崎も自分と同じことを考えているのかもしれない。
星野は、この際、自分から打ち明けようかと考えた。先に言われて、下手にごまかして胸にやりきれない思いを溜め込むより、逃げないで現実に向き合いたい。
「私……宮尾君が好き」
今、自分の頬は赤く染まっているだろうなあ。星野は言ったきり、俯いて顔を上げなかった。勝負に出たが、やはり正面きって尾崎の今の表情を見ることはできない。
「そうやったんや」
まだどちらとも取れる返事。耳を澄まして、次の言葉を待った。
「良かったわ、違うて。クルミ、宮尾が好きやったんやな。あいつ、幸せもんやな、こんなかわええ子に好かれて」
一瞬、ごまかされているのかと思ったが、このときになってようやく彼女の表情を見て、その考えを打ち消した。本当に、安堵を浮かべていた。
「え、じゃあ、サエは誰が好きなの?」
自分は言った後だからと、催促してみたら、尾崎は微笑んだ。
その笑顔は、いつもよりずっときれいに感じた。恋をしている少女だけが見せる、儚くて美しいものだ。
「私が好きなんは、平岡や。ずっと、ずっと前から」
冬だと思い出させられるような冷たい風が、二人を包んだ。
尾崎はずっと平岡が好きだった。
好きだったから、意識し過ぎて、かえって近寄るのがためらわれた。気がつけば宮尾と一緒にいることが多くなり、周りからもそういう認識を持たれた。それが嫌だったわけではない。宮尾も大切な友達だし、嫌だったらそもそもの話、一緒にいることを、たとえ平岡に近付くため、という腹積もりがあったとしても、選んだりしないだろう。
合宿のきもだめしでペアになれたときは、本当に嬉しかった。くじ引き前にそうだったらいいなあ、と願っていたが、実現したときは喜びを全身で表現したい気分になった。いるのかも知れない神様に感謝の言葉を書き連ねた手紙を届けたくなった。
宮尾と星野がキスしている瞬間、驚くと同時に、羨ましいと思う自分がいた。無理矢理にでも、平岡の唇に自分のそれを重ねてみたい衝動に駆られた。
星野が宮尾を好きなのも頷けることだと、尾崎は思った。
夜中、宮尾は平岡と電話で話していた。
「お前、マジで尾崎にコクんの?」
平岡は尾崎に想いを告げる覚悟を決めていた。
「ああ、もう決めた。――レイジもしろよ。後悔するぞ」
「実行して後悔する可能性だってあるだろ」
宮尾は明るく笑った。そこまで差し迫ってねえよ、というように。
宮尾は心に芽生えた感情を認めたが、冷静に考えるとこれが報われるかは極めて微妙だった。だいいち、星野のことを知っているようで、知らない。日常生活で垣間見える表面的な部分は知っていると言えるが、もっと隠れている内面的な部分、例えば恋愛沙汰におけること。恋愛経験があるのか、全く男を知らないで育ってきたのか、それに対して抱いているのは恐れか快感か。
「――まあ、正直、迷ってる」
「おいおい、スリー打つか打たないか、ってとこだよ。得意のスリー、かましてやれよ」
「上手いこと言うなよ」
宮尾はまた笑った。悟られないだろうか?笑いの裏に潜む感情を。
「男ならスパッと決めろよ。おれだけ憂き目に遭わせる気かよ」
「勝算ないのかよ」
言いながら、宮尾は考えた。どうしよう。この選択は、テストの分からない記号問題を選ぶときとは重みが違う。未来を変え得るものだ。
「……分かった、やるよ」
結論を出すより先に、口をついて出た。
「マジ? 決断したのか?」
「ただし、絶対とは約束できない。努力してみるけど、最終的に判断するのはおれだから」
「そりゃそうだな。分かった、それだけで充分だ。お互い頑張ろうぜ」
平岡はきっと実行するだろうと思った。自分は、どちらとも言えない気がした。まだ揺れが止まらない天秤みたいに、ほぼ均等に左右に傾いている。だが水平になることはない。
これはちゃんとした恋愛だろうか。ただの真似事になっていないだろうか。
宮尾は昼前に起きた。今日が何の日か、カレンダーを見なくても分かる。世に言うクリスマスイブ、十二月二十四日だ。
服を着替えて、ズボンの後ろポケットに財布だけ入れて、家を出た。予定も決めず、しばらく外を彷徨っていることにした。誰かに会ったら、それがカップルだったら尚更、日が日だけに嫌だという考えが脳裏をよぎったが、まあいいやと腹をくくった。
朝ごはん兼昼ごはんを食べるために、ファーストフード店に寄った。
セットを一つ注文して、それを持って席を探した。昼時には少し早いのに、一階の席は混んでいた。仕方なく二階に上がった。
二階に上がると、最初に視界に入った人が、見覚えのある人だと思った。三浦だった。
「あれえ、宮尾君じゃないすっかあ?」
眩しい笑顔を向けてきた。屈託のない、一種の武器になりそうな笑顔。
「おう、一人なの?」
「一人。イブなのに、寂しいよね」
宮尾は意外だと感じた。でも、そういえば佐々井に想いを寄せているのだった。
「どう? そっちも一人でしょ? 一緒に食べよう」
「まあ、いいけど」
断る理由も無いから、向かいの席に座った。
座って、食べるより先に三浦の顔をこの際だからと、まじまじと見てみた。甘えたり媚びたりすることがない性格だが、顔は幼い作りになっている。パッチリ見開いた瞳は、簡単に人の信用を買い取ることができるのだろう。
「ん? 何か顔についてる?」
頬張っていたハンバーガーを置いて、手の甲で頬を撫でるように触った。
「いや、人間観察」
三浦はちょっときょとんとしたが、「えー、何それおもしろーい。意外とお茶目なトコあるんすねー」と笑った。
「結果、聞きたい?」
「うん、判定お願いします」
少し考えてから、「とてもかわいいと思うよ」と言ったが、どこか口説いているみたいだったから、「食べ方が」と付け足した。
「食べ方ですか! まあ良い評価、ありがとうございまーす」
会ったときから感じていたが、彼女の性格は尾崎や星野と比べるとまるで種類が違う。いつも砕けているようで、自分のペースを崩さない。よく笑い、不平不満も口にするが、感情の起伏は激しくない。だから本気で怒ることはないが、そうなったら怖そうだと密かに宮尾は思っている。
来てすぐに佐々井が好きだと公表し、部活中もしばしば声をかけているが、反応は芳しくない。それでもめげることはないし、思い詰めているときもない。人前で見せないだけかもしれないが、あまりそういう姿は想像できない。
「今日イブだけど、佐々井先輩を誘ったりしないの?」
「いやいや、そんな恐れ多い。それに誘ってもお断りされるのがオチだろうし」
現実的な推測に少し驚いたが、考えてみれば当然とも言えることだった。普段の態度からしても、佐々井が三浦の呼びかけに喜んで応じるのは、明日、地球が滅びる可能性と同じぐらいだ。極めて低いけど、いつくるか分からない。なにしろ気まぐれだから。
「告白しようとは思わないの?」
星野のことが頭にあったとはいえ、踏み込んだ質問だったかもしれないと表情を窺うと、変化を見せずに、「でも、告白がゴールっていうわけじゃないし」と答えた。語尾が少し上がっていた。
宮尾は自分の決心が揺らいだ気がした。そこまで堅固なものじゃなかったから、微弱な震度で倒壊しそうになった。
「なんてね」
そんな心を見透かしたかのように、三浦が付け加えた。
十五
行くあてもなく街中を彷徨っていた。本屋でマンガを立ち読みし、CD屋で好きなアーティストのジャケットを眺めた。コンビニでホットコーヒーを買って、歩きながら飲んだ。思いつくままに行動して時間を潰し、あっという間に日没を迎えた。
今日一日、無駄に過ごした気がしないでもなかった。遠い昔の人だったら、もう一日が終わっている。明日に備えて寝るだけだ。それでも、まあたまにはこんな日があってもいいかと思った。
偶然にも平岡と鉢合わせた。
「おう、レイジじゃん」
「シンジ――奇遇だな」
忘れていたわけではなかったが、改めて今日の目的を思い知らされた。
「もうした?」
平岡が尋ねるのはもっともだった。もしかして、すでに平岡は実行したのかもしれない。
「まだだけど――お前は?」
「おれもまだ」
お互いに安堵のため息が聞こえてきそうだったが、現実には聞こえなかった。
「じゃあ、これから行こうぜ」
平岡も勇気を出して一歩踏み出すのが、ためらわれているようだ。赤信号みんなで渡れば怖くない、の精神が宮尾への言葉に隠れている。
「そうだな、今から行くか」
宮尾は気前良く返した。心の中で、前も言ったけど、最終的に決めるのはおれだけどな、と付け足しながら。
「じゃあ、吉報待ってるぜ」
「そっちもな」
宮尾と平岡は片手を上げて別れた。
宮尾は携帯を手に取った。まずは、言ったからにはやろうとしてみなければ。
メールが便利なご時勢だが、告白をメールでするのはありえないと思った。ちゃんと直接、顔を見て伝えなければダメだ。だから、電話でも同じ。
登録されている携帯番号を上から順に目で追っていった。すぐに尾崎が目に付いた。
尾崎がおれのこと好きだったら。
突然、宮尾の頭の中にそんな言葉が浮かんだ。前にも一度、考えたことがあるが、星野に想いが傾いていく一方で、尾崎が自分をどう思っているのかが気になった。何もなければそれまでだが、平岡がコクろうとしている今、もしその通りだったら、非常に微妙な関係に陥る。幼馴染みを傷付け、親友を失うかもしれない。
でも、そんなこと分からない。それに、その考えは逃げだ。それを言い訳にして面倒なことを棚に上げようとしている。そんなのダメだ、本当に好きなら、きちんと向き合わなければいけない。
星野の番号でまた止めた。そして迷わず電話をかけた。検討する猶予を自分に与えないように。
「もしもし、星野――ああ、その……今から会えない?」
夜も更けてきたが、街を彩るイルミネーションが幻想的で、今日の夜は無限に続く気がした。
駅前で星野と待ち合わせた。電話越しの声は特別、驚いた様子もなく、「いいよ」と呟いた。どんな状況で電話を受け取ったのか気に病んだが、今さら乗りかかった船も同然、やるしかない。
先に着いて心を落ち着かせる余裕が欲しかったが、星野はすでに来ていた。白いマフラーに口元をうずめて、小さな鞄を持った両手を寒そうにさすっていた。宮尾に気がつくと、小さく手を振って微笑んだ。
「早いな」
宮尾の声が白い息に変わって、星野に届く。「たまたま、近くにいたから」
どんな状況か、少し解けた。とりあえず、外出していたようだ。
「そうだったの? 一人だった?」
「ううん、さっきまでサエと一緒だった」
また一つ解けた。女友達同士仲良く、イブの夜を過ごそうとしていたわけか。そういえば、毎年、尾崎はこの夜をどう過ごしていたっけ。やっぱり友達とだったかな。というか、それなら三浦も誘えば良かったのに。でも、三浦が見栄を張ったのかもしれない。あるいは一人を望んだだけかもしれない。後者の方が三浦らしい。
そんなことより、と考えを中断させた。これから目の前の少女に告白するのだ。そのために寒い夜に、こうやって待ち合わせたのだ。星野は呼び出されたことをどう思っているのだろう。尾崎に何と言って別れたのだろう。先に平岡に呼び出された尾崎が、別れを告げた後だったのか。そして、どうやって愛の台詞とやらを切り出そう。バスケだったら、即座に判断がつくのに、経験値のなさはどうしようもない。
星野と目が合った。見つめ合っていると、星野はいつもみたいなはにかんだ笑みじゃなく、きれいな笑みを返してきた。その瞬間、途方もなく目の前の彼女を愛おしいと思った。
すると、三浦の一言で崩れかけ、平岡と出会って息を吹き返した決心は、音を立てて崩れていった。
その笑顔を失いたくないと思った。想いを告げてダメだった後、今まで通りに接せなくなるのが、死ぬほど嫌だと感じた。この笑顔が見られるのなら、今のままでいい。
宮尾は告白の言葉を切り出さず、ファミレスでごはんを食べようと言った。
二人は何でもない話をしながら、聖なる夜を一時だけともに向かい合った。
そして和やかな雰囲気を保ちながら、別れを告げた。
家に帰り着くと、携帯にメールが届いていたことに気付いた。星野に会っている間中、サイレントモードにしていたから分からなかった。
「上手くいった! そっちはどうだった?」
平岡からだった。胸が何かの呵責に苛まれた気がした。そして、やはりあのとき星野に伝えれば良かったと、今頃になって後悔した。
平岡と尾崎が付き合うことになる、理解はできるが、実感が全く湧いてこなかった。ニュースで近所が映されたときみたいに、それだと分かるのに、イマイチぴんとこない。
尾崎がおれのこと好きかもしれない、という考えは逃げじゃなくて、杞憂だったわけだ。そうだと知ると、自分が自信過剰で哀れな人間に思えてくる。
「できなかった。おれの負けだな。簡単に別れんじゃねーぞ」
いつも通りの応答をした。メールが便利な所以はこれもそうかもな。
これから日常が微妙に変わる。どうすればいいのだろう。果たして耐えられるだろうか。宮尾は一人、悶えていた。
星野は二人きりで宮尾と会ったとき、実は想いを伝えようと心に秘めていた。自分から言い出せなくて、逆に向こうから誘ってきたこのチャンスを逃すまいと思っていた。
しかし、相手の気を引くために作った笑顔が、それまでの宮尾の様子を変化させた。気のせいだろうと、意に介さないこともできた。だけど、神経が過敏になっていたあのときは、無視できなかった。
作り笑いなんかしたから、慣れないことをしたものだから。星野は別れた後ずっと悔やんでいた。
色んな人たちの想いが詰まったクリスマスが、今年も終わった。
そして、新年を迎えた。
村瀬と佐々井にとって、残された時間はほんのわずか。
一月が始まって一週間もたたないうちに、冬の大会が到来した。
西桜のバスケ部が、会場に乗り込んだ。
すでにトーナメントが発表されていて、西桜の相手は山茶花高校となっている。あの台湾、韓国人留学生を擁する所だ。練習試合で対戦したときは、23―50で敗れている。宮尾たちは雪辱に燃えていた。
「何より相手は」
村瀬が控え室でいつも通り話している。この光景も、敗れた瞬間に、見納めになってしまう。一試合でも多くバスケがしたい。少しでもたくさん村瀬の話を聞きたい。
「フィジカルが強いから、ゴール下が強い。防ぐためには、最初からゾーンディフェンスを仕掛けよう」
「体力的にきつくないか」
佐々井が肩をゆっくり回しながら言った。
「当然きつい。でも、勝つための最善を尽くすしかない。それにきついのは向こうも同じこと。走り込みで鍛えてきた体力を見せつけてやろう」
部員とマネージャーを交えて、円陣を組んだ。「気負わず、平常心でいこう」村瀬が第一声を上げる。
「絶対勝つぞ!」
「おお!」
内側から心地良い感情が湧きあがってくる。緊張にならないように、胸に手を当てて静かな闘志に変換を試みる。
コートに出た。冬の大会が幕を開ける。
試合開始早々、宮尾がスリーポイントシュートを挨拶代わりにぶち込んだ。西桜に主導権を持ってくるには、インパクトが強い方がいい。
次に魅せてくれたのは、西桜の押しも押されもせぬエース、佐々井。ドリブルで二人かわして、空中でシュートのタイミングをずらし、ディフェンスの腕をかいくぐって決めた。この華麗な技に、観客席から賞賛の声が上がった。
平岡は山茶花の留学生たちにゴール下で果敢に挑み、幾度かリバウンドを捕った。
長谷部はパスカットを連発。さらに上手くマークを振り切って、得点に貢献した。
そして精神的支柱である村瀬は、キラーパス、ゲームコントロールの冴えが遺憾なく発揮された。
西桜は実力を余す所なく見せつけ、四十点差で快勝した。
西桜98―58山茶花
「ありがとうございました!」
冬の大会、一回戦を突破。
西桜は着実に成長していた。個々の力もそうだが、五人の連係も春先から見違えるようなレベルに達していた。また、試合に勝ったことで自信もついて、次の相手が東京都ナンバー2の強豪、寒椿にもかかわらず、精神的に落ち着けていた。
昼休みを挟んで、午後にその試合が行われる。
軽い昼食やストレッチなどで昼休みを費やすと、また控え室に集まった。全員揃うと、村瀬が今日二回目の話を始めた。
「一回戦、おつかれさま。もう分かったと思うが、おれたちは強くなった。寒椿が相手でも引けを取らない。だが、驕れるなよ。まだまだ定着していない。勝ち続けることで、少しずつ確かなものになる。
今のおれたちには勢いがある。これを利用しない手はない。前半はガンガン攻めて、後半は打って変わって守りを重視する」
「前半でリードされてもか?」
一回戦と同様、佐々井が質問した。村瀬は首を横に振った。
「いや、されない。前半は命懸けで攻めて、必ずリードして後半に繋げる。リードできなかったら負けだと思え」
村瀬の作戦は積極的だった。勝つことを本気で考えている。桶狭間の信長も顔負けの、わずかな希望を見出す作戦だ。
「じゃあ、また円陣を組もうか」
立ち上がって、近くのやつと肩を組んで円を作る。
「絶対勝つぞ!」
「おお!」
ふと、星野と目が合った。だが星野はすぐに目をそらして、飲み物やタオルの準備を忙しそうに始めた。宮尾は何も言わずにコートへ出て行く仲間たちに続いて、控え室をあとにした。
十六
寒椿といえば、睡蓮のエース植松の好敵手、小松を軸に、今大会ナンバー1センター島田、そして高井、永田、中村とスタメン全員が三年生のチーム。彼らにとって最後の大会だから、懸ける気持ちは強い。
一方、夏秋と涙を呑んできた西桜も、村瀬と佐々井にとって最後の大会であり、彼らの思いも小松たちと同等にある。
試合が始まった。先にボールを手にしたのは長谷部。素早いドリブルで、ゴール近くまで達した。そこに小松が立ち塞がる。
「ここまでだ」
静かに告げた。
長谷部はひるまずに飛んだ。といって、シュートではなく、背中越しのパスを平岡に通した。平岡は落ち着いてそれを決めた。
西桜2―0寒椿
攻めが前半のテーマだが、攻守が入れ替わるバスケだから守りもおろそかにできない。
小松がボールを持った。全身に緊張が走る。ドリブル、ゆっくりしている。村瀬の前まで来て、突如スピードアップ。簡単に振り切って、宮尾と一対一に。宮尾は片手を上げて構えた。シュートを打つのか、ドリブルで抜かしに来るのか見極めようとした。
ところが、小松がとったのは予想外の行動だった。反転して、ゴールに背中を向けたままシュートを放った。ふざけているのかと思っても仕方がないプレーだったが、それが見事に決まってしまった。
観客がどよめいた。どこかで見ている植松も驚いているかもしれない。
西桜2―2寒椿
西桜の面々は舌を巻かざるをえなかった。
それでも西桜の攻めの姿勢に衰えが見えることはなく、得点を重ね続けた。前半でリードする、という試合前の目標は達成できそうだった。
そんな中、ゴール下で島田に対する佐々井のディフェンスがファールを取られた。
「ファウル! バスケットカウント、ツースロー!」
フリースロー二本、与えた。
島田はセンターとして高い評価を得ているが、フリースローにはやや難がある。
一本目はエアーボール、つまりリングにすら当たらずに外れた。
「おいおい、頼むぜカイ」
小松が島田の名を呼んで笑った。
「分かってら、次は入れてやるよ」
島田も仕方なく苦笑い。
二本目は本人の言ったとおり、ボードに当たってゴールに入った。
それと同時に前半終了の笛が鳴った。
西桜45―30寒椿
前半が終わって十五点差もつけられた。あとはこのリードを守れば良いわけだが、それには一つ問題があった。
「まずいな……」
ハーフタイムに入ってから、村瀬が開口一番そう言った。
「何がですか?」
宮尾が聞き返す。
「ファウルが多過ぎる。リードを奪うことに専念し過ぎて、そこまで考えが回らなかったな」
「村瀬、おれいくつ?」
佐々井が尋ねた。「お前は四つ。あと一つで退場」
「マジかよ……」
「先輩、おれは?」
不安になったのか平岡も尋ねた。
「平岡は三つ。長谷部が四つ、宮尾は――あれ、なし? お前、ディフェンスちゃんとやってたか?」
「やってましたよ!」
場に笑いが起こる。
つまり、問題とはスタメンが欠ける恐れがあることで、選手層に薄い西桜にとって、一人でも欠けたら守り切るのが大変になる。
それでも守り切るしかない。
後半がスタートした。守り切るために、攻撃時もカウンターに備えて平岡が常にディフェンスに残っている。
小松がドリブルで切り込んで、ゴール近くで高井にキラーパス。高井はもちろん打ちにいった。
それを佐々井が防ごうとして手を出したが、ボールではなく手を叩いてしまい、後半早々にファウルを取られた。再びフリースロー二本。
そして五つ目となったから、佐々井は退場。恐れていたことが、現実となった。
「そんな、先輩が……」
思わず宮尾は呟いてしまった。
「すまねえ、後は頼んだぞ」
佐々井は背中を向けたままそう言って、ベンチに下がった。
佐々井のバスケットにおけるテクニックは群を抜いているが、フィジカルが弱いことが玉にキズとも言えて、相手に強く当たれなかった。そのため怪我を恐れることもあって、ディフェンスに必ずしも積極的ではなかった。
そんな彼を親友の涙が変えた。秋の大会二回戦で、悔しさに涙を流した村瀬を見て、決心した。これからは、もっとディフェンスでも貢献できるようになろう、と。
そして一回戦の山茶花、今の寒椿戦で実行した。ただ、不慣れなことだったため、失点を防ぐには防げたが、ファウルがどうしても多かった。それでも最後まで躊躇しなかった。勝つために、親友のために。
代わりに岩田が入って、試合が再開した。
高井はフリースローを二本とも決めた。
西桜45―32寒椿
攻めは宮尾のスリーが中心になった。だが、直後のプレーでいきなり外してしまった。
そして、寒椿は逆襲に転じる。小松のパスを永田が入れた。
西桜45―34寒椿
今度は村瀬が運んで、また宮尾にパス。シュートと見せかけてから、長谷部に渡した。長谷部は中に入ろうと、中村を肩で強く押した。反動で中村は倒れた。審判の笛が鳴る。長谷部はボールを持ったまま、青い顔で立ち尽くした。
ファウルだった。長谷部も退場を宣告された。これでスタメンが二人も欠けてしまい、点差を守りきれるか不安が胸をかすめた。
持田が交代で入った。この持田と佐々井の代わりで入った岩田は、三年生が抜ける次の大会からスタメンになる可能性が高いので、ここで経験が積めると考えれば悪くない。
しかし、相手は文句がなさ過ぎる。あっさりと小松にレイアップを決められ、また点差が縮まった。
西桜45―36寒椿
その後、宮尾のスリーなどで突き放しにかかったが、小松と島田の勢いを止められず、気がつけば二点差まで迫っていた。
西桜54―52寒椿
残り時間は少し。少しなのに、とても長く感じていた。しかし――と宮尾は思っていた。勝つしかない。ここまで来たんだ。寒椿相手にも互角で渡り合えるようになったんだ。まだ終わりたくない。強いチームが勝つんじゃない、勝ったチームが強いんだ。
西桜の五人は必死で守ろうとした。そんな必死さを嘲笑うように、小松がこの試合二度目の後ろ向きシュートを決めた。
西桜54―54寒椿
同点――。
「一本、入れてこう」
村瀬が冷静に叫んだ。けれども声とは裏腹に、表情は疲れが見えた。
珍しくパスカットされた。取ったのは小松。
ディフェンスにはカウンターに備えていた平岡しかしない。
「止めろ、シンジ!」
宮尾は走りながら叫んだ。
しかし、簡単に抜かれ、シュートが無情な音を立てて入った。
西桜54―56寒椿
さっきまでは時間があと少しなことを安心の材料としていたが、一転して目の前に突然、現れた壁のごとく思えた。早くしなければ、試合が終わってしまう。焦りが生まれた。
宮尾の頭に金子の顔が浮かんだ。負けを意識したとき、浮かんできたのは金子の顔だった。そして、金子を思い浮かべている間、妙に集中できた。生まれてきた焦りは、どこかへ消えた。
パスをもらって、ゾーンプレスをしてくる高井、永田、中村を気持ちいいぐらいきれいに抜かして、敵陣に躍り出た。スリーポイントラインを確かめてから、小松が来る前にシュートを放った。
――そのボールは、きれいな弧を描いてゴールに吸い込まれた。
「よっしゃあ!」
宮尾は拳を硬く握り締めて、喜びをあらわにした。
そして、試合終了の笛。村瀬、平岡、岩田、持田が宮尾に手荒い祝福を与えた。
冬の大会二回戦は、辛くも強豪寒椿を破った。
「最後よく決めたな」
終わってから、小松が宮尾に話しかけた。敗戦が悔しそうではあるが、息が詰まるゲーム展開に満足した様子でもあった。
「ありがとうございます」
「次は睡蓮だぞ」
「え、そうなんですか?」
「ああ。今の西桜ならいけるぞ。勝ちにいけよ」
「はい、頑張ります」
そして、別れた。
次いで待っていたのは、佐々井だった。
「ホントに、すまなかったな。先輩がこのざまなのに、後輩に尻拭ってもらうとは……」
「このまま終わったら悔やんでも悔やみ切れなさそうなんで、雪辱の機会を用意しましたよ。明日の試合、期待してます」
宮尾は笑った。佐々井も笑い返した。
「ありがとうよ」
会場は大接戦の熱気が未だ冷めず、方々から興奮した話し声が聞こえた。それを演出した宮尾は、ゆっくりとコートから去っていった。
その夜、西桜一同は事前に予約してあったホテルへと向かった。
「とりあえず、一泊分は予約しといたから」
と言うのは顧問の与謝野。
「それ以降は追加式ね。――いや、にしても勝ってよかった」
響きが損しなかったことに対するものだとはっきり窺えた。共に汗水流していないから、勝った本当の意味を分かっていないのだ。失望を感じながら、宮尾は来年こそはバスケに真面目な顧問をと切望した。
ホテルに入ると、まず部屋割りがされた。疲れも癒えて、いつもの調子を取り戻した部長、村瀬が仕切る。
「先生含めて十四人だから、女子は三人でじゃんけんして、負けた人が一人。先生は無条件で一人です。残り男子十人は、組みたいやつと適当に組んで」
部屋割りでどうしても合宿を思い出してしまい、そこから星野とあったこと、そして告白できなかったことに思いが一瞬で巡った。宮尾にとって、たとえあれらを良い思い出と位置付けたとしても、今の関係にあの頃と変化が訪れていないため、できれば避けて通りたい所であった。
それには平岡といつものように組むのは憚られた。尾崎と付き合っている、というあの頃から唯一の変化の所有者であり、あれらのことを全て知っている存在だけに、彼と組んだら避けられないと思った。
そのため何とかと適当な理由をこしらえて、宮尾は一年の矢部と組んだ。平岡は長谷部と組んだ。尾崎はその光景を不思議がっているようだったが、口には出さなかった。
岩田と持田、香村と長島、村瀬と佐々井、と他は順当に決まった。
女子はじゃんけんの結果、尾崎と三浦が同部屋、負けた星野は一人となった。
十七
夕食はホテルのバイキング形式だった。来た順に席についていっ
た。宮尾の隣には平岡が座った。
「よお、レイジ」
「おっす」
少なからず後ろめたさを感じ、平素のように振舞った。
「星野、一人部屋じゃん」
やはり避けられなかった。それでも、みんなの前だけに、込み入った話はできないだろうと踏んだ。
「だから何だよ」
「会いに行けよ」
「無理だろ。ばれたら面倒だし」
「大丈夫、みんな疲れてるから、すぐ寝るって」
それは星野も同じだろうし、見つかったら一番まずい与謝野はあんまり疲れていないから、その推測は的外れだ、と思いながら、平岡の顔を見た。ニヤニヤと笑っていた。どうやら冷やかしの方向で進めるらしい。
「ニヤニヤしやがって、本当はお前が尾崎に会いに行きたいだけなんじゃねえの?」
と話題をそらすと、平岡はそれに乗っかった。「まあな、どうだろうな。やっぱ無理かな」
「さあ? でもいつでも会えんのに、リスクを犯す必要はないと思うけど」
そこに村瀬が現れて、話は中断した。
「おつかれさま」
「おつかれさまでした!」
「寒椿に勝てたのは本当に嬉しい限りだ。この後はミーティングなしで、すぐに解散とするから、早く寝て、疲れを癒すようにしてくれ。じゃあ、いただきます」
「いただきまーす!」
子どものように、料理の方へと早歩きで向かった。
場は和やかな雰囲気に包まれた。
部屋に戻ってから、やることもないから、持ってきていた音楽プレーヤーを横になりながら聴いて、目を瞑った。このまま眠れれば、と目論んだけど、目はさっきから冴えていて、眠れそうになかった。
しばらくすると、宮尾が眠ったと思ったのか、矢部は電気を消して、隣のベッドにもぐり込んだ。疲れていたのかすぐに眠って、その証拠にいびきをかいていた。
宮尾はまだ眠れそうになかった。そして喉の渇きを覚え、ひとまず外の自動販売機で何か買って来ることにした。
上着を着て、部屋の外に出た。
外は冬なのに寒くなくて、宮尾は上着がなくても良かったと思った。廊下の明かりはついているが、人気がなく、物音すらしないため、もう夜遅いことに今さら気がついた。
曲がり角の所で、いきなり星野が現れた。
「あ、星野」
反射的に名前を呼んだ。
「宮尾君」
星野は立ち止まって、そこで立ち話をする形となった。
「どこ行ってたの?」
「自販機」
よく見ると、缶を手にしていた。
「宮尾君は?」
「おれもこれから自販機に行こうと思ってた」
「へえ、奇遇だねえ」
本当に奇遇だった。こういうでき過ぎた偶然が、過去にもあった。その度に喜んで、そして二人の関係に進展をもたらしたが、神様の与えてくれるチャンスに応えられず、依然として二人の間に特別な呼称がつこうとしない。
「宮尾君、今日かっこよかったよ」
「おれが? 最後のスリー決めたとこ?」
「それもあるけど、試合での必死さがよかった。勝ちにいこうって、最後まで諦めない姿勢がかっこよかった」
星野は宮尾の目を見つめながら微笑んだ。「初めて見た」
「明日も見してやるよ」
宮尾は周りを考えて小さな声だが、力強く言い切った。
「睡蓮に明日こそ勝つから、応援よろしく」
「――うん」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
互いに背を向け合った。
もっと他に言うことがあったのだろうか。また、与えられたチャンスをふいにしてしまったのだろうか。頭の中でそうだとも、そんなことないとも考えて、どちらでもいいやと落ち着いた。
今はバスケのことだけに没頭していればいい。それが本来の自分なんだから、そう言い聞かせて、宮尾は夜の廊下を寂しく歩いた。
昨日の影響か、ちょっと腰と太ももが痛い。宮尾は朝起きてからそのことに気付いた。まあ、気のせいだと言える程度なので、アドレナリンがカバーしてくれることを期待し、出発する準備を始めた。
それに、痛いだの眠いだのと言っていられる相手ではない。今日の相手は睡蓮高校。今年すでに二度、対戦している。三度目の正直となるのか、二度あることは三度あるのか、このホテルで夜を迎えることができるのか、宮尾の思考は巡り続けた。
西桜の調子は上向きだ。春先からの成長もそうだが、今大会は勢いがある。運もいい。くじ運は相変わらずだったけど、それを跳ね返せるほどだ。
宮尾は頬をぴしゃりと叩いた。気合を入れて試合に臨まないと、また負けの意識に飲まれてしまう。自信を持って、勝ちにいこう。
そんな決意表明の第一歩として、そろそろ時間だというのに起きない矢部の鼻をつまんで、無理矢理起こした。
会場に入った。そのまま控え室に直行。
早速、ミーティングが開かれようとしたが、宮尾は急に尿意を催した。
「あ、すんません。ちょっとトイレ行ってきていいですか?」
「ああ? 仕方ねえな。早くしろよ」
「はい」
言うが早いか、控え室を出て、駆け出した。
「はー、すっきりした」
トイレを済ますと、外に出た。また走らなければならない。
そこに金子が立っていた。宮尾は立ち止まった。
「よう、ご無沙汰やな」
その表情からは、余裕が窺えた。緊張とかプレッシャーを知らないような。
「久しぶりだな、金子。今日は勝たせてもらうぜ」
「へえ、言うようになったな。まあ、昨日の試合は見事やったで」
「――試合、見てたのか」
「ああ、寒椿戦な。勝った方と当たるわけやったし、寒椿が勝つと思うとったけど――」
金子が西桜の実力を少し認めているような態度が、宮尾には嬉しかった。やっと同じ土俵に立てた。
「言っとくけど、まだまだ強くなるぞ、西桜は」
「あー、怖い、怖い。発展途上のチームは、末恐ろしいわ。――ま、軽く潰したるけどな」
金子は不敵に笑った。
「あ、あかん。ミーティングの途中やった。すぐ戻らんと」
急に慌てて走り出した。
「あ、おれもだ。じゃあ、試合でな!」
宮尾が叫ぶと、金子は片手を上げて応じた。
宮尾も反対側に走り出した。
待っていたのは村瀬の怒号だった。
「遅い! もう終わったから、一言で作戦言うぞ」
「はい、すいません」
「全力を出し切れ、以上」
ちょっと拍子抜けした。睡蓮戦なのに、具体的な策なし?
「あの、それだけですか?」
「以上って言っただろ」
「あ、そうですよね」
村瀬は呆れたようにため息をつくと、「よし、円陣を組め」と言った。
部員十三人で円を作った。誰もがこの試合に同じ思いを抱いている。誰も欠けてはならない。スタメンじゃなくても、欠けていい人なんてこの中にはいない。支えてくれるマネージャーもそう。十三人が一つとなって、ここまできた。
「絶対、勝つぞ!」
「おお!」
勝つしかない。勝つ意外に何もない。
ジャンプボールで運命の試合が開始された。まず拾ったのは睡蓮の飯岡。すぐに植松にパスした。かと思っていたら、目にも留まらぬ速さでシュートした。完璧なフォームに、高い打点。防ぐのは容易くない。
西桜0―3睡蓮
いきなり見せつけられても、今の西桜は怯まない。村瀬がボールを運んで、佐々井に絶妙なパスを出した。佐々井はフェイントを使って、植松を抜いた。しかし、すぐ後ろに一年の草野が待ち構えていて、カットされてしまった。
草野は前線に走る金子に投げて、金子はドリブルで一気にゴールに迫った。
「ダブルチーム!」
その前に宮尾と平岡が立ち塞がった。
ところが金子はあっさりボールを横に流して、草野がそれを捕った。草野はスリーポイントラインより後ろから打った。
西桜0―6睡蓮
「まだまだですね、先輩方」
草野が生意気にも、すれ違いざまにそう言った。
やられたら、やり返すしかない。西桜は再び攻めたが、長谷部のシュートが外れ、リバウンドも清水に捕られ、さらにカウンターをくらい、最終的に金子がスリーを決めた。
西桜0―9睡蓮
三者連続スリーポイントシュートに、会場はどよめいた。
試合中、宮尾は目の前のことに没頭しながらも、今までのことが断片的に頭に浮かんだ。
この一年間、色々なことがあった。星野が転入してきて、新設校の百合と対戦し、体育祭で星野とペアになり、留学生のいる山茶花に負けて、合宿で星野とキスして、金子に出会い、夏の大会で一回戦負けして、練習試合で寒椿に実力の差を見せつけられ、秋の大会で村瀬が悔し涙を流し、平岡が尾崎と付き合い始め、宮尾は――。
冬の大会一回戦、山茶花に圧勝して確かな成長を感じ、二回戦で寒椿相手に奇跡の大逆転勝利を収め、三度目の睡蓮への挑戦権を得た。
まだ終われない。
宮尾は心の中で静かに告げた。
――見てろよ、星野。
村瀬からボールが渡された。目の前には金子。宮尾は抜くしかない、と心に決めた。
目で四人に合図を送る。宮尾が動き出したら、四人が相手の他の四人を防いで、ゴールへの道を開けるように。これは、簡単なことでは決してない。体格で上回る清水と飯岡、技術で凌駕する植松と草野、長く抑えることは不可能だろう。
一瞬でいい。一瞬で、宮尾はゴールまで飛んでやると誓った。
そして、動いた。
まずシュートフェイクをして、次に左から抜こうとし、一度止まって、体を回転させて、右から抜こうとした。
しかし、読まれていた。どうしても完全に抜けそうにない。これが金子涼。
「どないしたん? 疲れとるんか?」
「次は抜いてやるよ」
強がって言い返すが、金子の言うとおり疲れはある。
ここは、意表をつく以外に方法はないと考えた。正攻法で敵う相手ではない。失敗するリスクもそれ相応に伴うけど、勝ちにいくには、それしかない。負けないための消極的なバスケより、勝つための積極的なバスケが西桜のバスケだ。
宮尾はスピードをつけて、金子に突っ込んでいく形でドリブルした。そして、手前でボールを右側に投げ、宮尾は左側に抜けて、金子の後ろでボールと合流した。遊びでやったことがあるが、試合で使うとは夢にも思わなかった。
あとはゴールに入れるだけ。
――お前、ダンクしたことないやろ。
かつて金子に言われた言葉が、ふと頭に浮かんだ。そして考えるより先に体がそうしようと動いた。
「宮尾!」
尾崎の叫び声が聞こえた。その声に後押しされて、一気に踏み込む。
ところが、植松がマークを振り切って、目の前に立ちはだかった。一瞬、怯む。
「宮尾君!」
今度は星野の声が聞こえた。初めてと言っていいぐらい、聞いたことがない彼女の叫び声。応援する、という口約束を彼女は果たしたのだった。
怯んだ気持ちが引き締まる。
植松に構わず、ボールを片手に飛んだ。
ボールはリングの中に収まった。
バスケ人生初のダンクだった。
*
……――尾崎が通う大学の近くにある、とある焼肉店。尾崎は金子と二人で会っていた。
「大学はどないや? 楽しいもんなんか?」
「うーん、ぼちぼち。サークルに入ったら、もっと楽しいやろうけど」
尾崎はもう大学一年生になっていた。
「リョウ君も、大学行けたら良かったのにね。そしたら、みんなとバスケできたのに」
「リョウ君はやめてや」
金子は照れ臭そうに笑った。
「じゃあ、何て呼べばええの?」
「……何やろな」
「他にないんやから、ええやん」
金子は苦笑いして頷いた。
「今まで、親に散々、わがまま聞いてもらってきたんや。これからは、恩返しせな。それにバスケは続けとるし」
尾崎は何も言わなかった。昔からの付き合いだから、互いの家庭の事情はよく知っている。
「……それより、サエの彼氏も今日、来るんか?」
「来るで」
今日、ここで西桜バスケ部の同窓会をやることになっていた。
「宮尾も?」
「もちろん……何か、あの頃が遠い昔みたいに感じられるわ」
「歳とったんやな」
「――うん、高校が終わって、一気に老けた気がするわ」
二人は妙にしみじみとしてしまい、思わず笑い合った。
二年前の冬の大会、西桜は結局、睡蓮に勝てなかった。それでも最後まで競って、彼らは敗れても満足感を得ていた。とはいえ、悔しかったのも事実だが。
翌年は三年が抜け、新一年生が加わった。夏はベスト8、秋はベスト4、冬はベスト16と結果を残し、宮尾たちは引退した。
金子が立ち上がった。
「ほな、ぼちぼち帰るわ」
「え、みんなに会わんでええの?」
「ええわ。部外者は、大人しゅう帰ります」
荷物を取って、そそくさと去っていった。
最初に来たのは、岩田と持田だった。
「おお、久しぶり尾崎」
岩田が笑った。
「岩田に持田やん。懐かしいわあ」
「変わってねーな、見た目も、関西弁も」
「えー、かわいくなった、とか言うてや」
「大丈夫、お前、元からかわいいから」
持田が冗談っぽく、サラッと言った。
「あら、おおきに」
三人に笑いが起こる。
そこに村瀬と佐々井が到着した。
「盛り上がってるなあ、と思ったら、まだ三人か」
と言ったのは、村瀬。
「先輩方、お久しぶりです」
二人は声を揃えて、軽く頭を下げた。
「腹へったー。先に食ってようぜ」
佐々井は相変わらずのマイペースぶりをいきなり発揮。
「そろそろ来るだろ。少し待とう」
村瀬があの頃と同じようにたしなめる。
時を経ても、あの頃と変わらないものがある。
当時、一年だった香村と矢部が次に来た。少しして、平岡と長谷部も到着した。
そして、三浦は一人で来た。
「ごめんなさーい。遅くなりましたあ」
すると、そこには以前よりかわいさが増した三浦がいた。変化に戸惑った男子は、言葉を失った。
「何か、マコ、かわいくなったなあ」
彼らを代弁するように、尾崎が言った。
三浦は親の仕事の都合でまた転校が決まり、三年生になる直前に西桜を去っていた。そのため、彼らには約一年半のブランクがある。
「ホント? ありがとう、サエ」
三浦は佐々井の方を向いた。
「先輩、お久しぶりです! 元気にしてました?」
「ああ、まあ……」
佐々井ですら、たじろぎ気味。これは、遠くない内にくっ付くか、と尾崎は一人笑った。
これで来ていないのは二人だけになった。ちなみに与謝野は呼ばれていない。
「でも、クルミもかわいくなったで」
尾崎がまだ来ぬ人の名を挙げた。
「あとはあの二人だけか」
平岡が呟いた。言い終わると同時に、店のドアが開いた。
宮尾と星野だった。
「すいません、遅れました」
宮尾は開口一番に謝った。隣で星野も軽く頭を下げる。
「やっと来たか。これで全員だな」
佐々井が早く食べたそうに言った。
「お二人さん、昼間からアツアツだな」
「肉が焼けそうだな」
平岡と長谷部が冷やかした。
「うるせえよ」
宮尾は照れ臭そうに笑った。
宮尾たちが二年の冬の大会の後、すれ違いとまではいかない間の悪さで、なかなか付き合わなかった二人だったが、宮尾が星野に想いを伝えて、決着がついた。今では同じ大学に通い、時間を共有している。
村瀬が前に立った。あの頃みたいに、話をしようとした。
「今日は同窓会ってことでわざわざ集まってもらったわけだけど、昔を思い出しながら、楽しい時間を過ごそう。――個人的なことを言うと、今でも大学でバスケを続けている。だが、まだスタメンじゃない。それでも、腐らずに頑張っていこうと思っている」
村瀬のバスケに懸ける情熱は、まだ衰えていなかった。
「まあ、おれの話はこの辺にして、おれの次の代の部長に、続けて話してもらおうか」
そう言うと、視線が一斉に長谷部に集まった。それに促されて、長谷部が立ち上がった。
「村瀬先輩の後を継いだ、部長の長谷部です。――正直な所、僕が部長になるとは思っていませんでした」
――二年前の冬の大会後、村瀬と佐々井は当然、引退した。
村瀬は与謝野に退部届けを手渡した後、二人っきりで話がしたい、と言って、体育館に長谷部を呼んだ。
「長谷部、お前にバスケ部部長を引き継いで欲しい」
長谷部は驚かずにはいられなかった。
「え、僕にですか? どうして、宮尾や平岡じゃないんですか?」
長谷部からしたら、実力が劣る自分に部長の役は回ってこないだろうと踏んでいた。性格的に、平岡が適任じゃないかと意見として持っていた。ところが、目の前の村瀬は、自分に部長を託すと言っているのである。
「……宮尾、今年一年で伸びたと思わないか?」
この言葉に異存はなかった。遠くからのシュートに頼りがちだったスタイルが、中に切り込むようになったし、冬の大会ではダンクを決めた。
「それはな、ライバルの存在があったからだ。たとえば、金子。ウチの中なら平岡」
長谷部にはまだ何の話しをしたいのか判然としなかった。この話が、どうやって部長のことまで繋がるのか。
「宮尾は外からの刺激で一気に成長するタイプだ。平岡もそうだろう。だが、お前は違う。内からじわじわと湧き上がってきて、ゆっくりと、しかし確実に成長するタイプだ」
村瀬は鼻をさすって笑った。「まあ、おれの分析だから、絶対ではないが」
「つまり、どういうことですか?」
「宮尾が一気に覚醒したように、平岡も覚醒させたい。あいつにはその可能性がある。それには、宮尾を目標にさせるのがいいと思うんだ。そのためには、同じ立場の方がいい。他に煩わせないで、バスケだけに集中できる方がいいと思うんだ。
こう言うと、お前を軽んじているみたいだが、決してそんなことはない。お前なら部長の任を果たしながら、確実に成長を遂げてくれると思うからこそ、長谷部、お前に託したいんだ。だからって、おれの分析を過信するなよ。練習は絶対に怠るな。部長は口だけじゃ示せない部分がある。背中で模範とならなければダメだ。次の代
は新入部員が多そうだし、誰よりも練習して、西桜を引っ張ってくれ」
長谷部はようやく理解した。人員配置の意図、自分への期待、部長としての役目を。
「どうだ、やってくれるか?」
「分かりました。全力を尽くしましょう」
村瀬は笑顔になった。
「ありがとう、これで心置きなく引退できる」
そして、結果的にこの村瀬の人事が功を奏し、長谷部の代は好成績を残した。
「……じゃあ、僕の次の部長にも話してもらおうかな」
今度、視線が集まったのは矢部だった。咳払いして立ち上がった。
「現部長の矢部です。まあ、僕も部長になったのは驚きだったです。
でも、長谷部先輩と違って結果を残せてないので、申し訳ない気がします」
一年前の冬の大会後、同じように部長を選ぼうとした長谷部は悩みに悩んだ。飛び抜けた存在がいないため、宮尾や平岡にも相談した。
最終的に性格が真面目な矢部に任せようとなり、矢部は受諾した。
しかし、結果は散々で、夏とつい最近の秋の大会で一回戦負けを喫し、強豪校への階段を上っていた西桜は大きく後退した。
「冬は勝てよ。目指せ、ベスト16」
宮尾が言った。周りもそれに乗っかった。
「そうだよ、せめて一勝」
「部員減らしてくれるなよ。せっかく増えてきたんだから」
OBたちは当事者の苦しみを知らないため、言いたい放題。長谷部と違って、矢部は肩身が狭そうにしていた。
「まあまあ、その続きは後にして」
村瀬はその間に入った。
「とりあえず、食べようじゃないか。もう焼けてるだろ」
「いただきまーす」
佐々井が真っ先に取りにいった。遅れまいと、他の部員も続いた。
場は和やかな雰囲気に変わった。
一時間ほど経っていた。外の空気を吸いに行くのか、宮尾が誰にも告げずに店を出た。それに気付いた星野は、自分も外に出ようと思い、立ち上がった。
「あんまり、ゆっくりしたらあかんで」
尾崎が小声で言ってきた。
「ちょっと様子見てくるだけだよ」
星野はそう言って、そっと店から出て行った。
宮尾は店の正面にある、緑と白のガードレールに座って、ぼんやりとしていた。星野に気付くと、目を丸くした。
「どうしたの?」
星野が尋ねると、「ちょっと疲れたから、休憩」と答えた。人と積極的に関わろうとしない宮尾にとって、気の置けない仲間たちとの時間はこの上なく楽しいが、息切れしてしまうようだ。
星野は宮尾の隣に座った。そこから店の看板が見えて、楽しそうな笑い声が聞こえた。遠くの空は青く澄んでいて、寒い季節の到来を予告している。
「星野」
宮尾がぽつりと呟いた。
「おれと一番、最初に話したとき、自分が何て言ったか覚えてる?」
「自分がって、私が?」
「そう」
星野は思い出そうとしてみたが、転入当初の記憶は曖昧だった。正確に覚えているのは、公園で宮尾に会って、朝一緒にバスケをする約束をしたことだけだった。それが初めてではないのだろうか。
「分かんない。はじめまして、じゃないの?」
「だったら、聞かないよ」
星野はさらに考えたが、これという言葉は出てこなかった。
「じゃあ、正解を教えて上げよう。――ごめんなさい、だよ」
「え、本当に?」
「本当に。転入初日に、体育館を見てる星野に話しかけたら、そう言ったんだよ。何でもない、ごめんなさい、って」
「いきなり謝ったの?」
「ああ。よく分かんなかったけど、緊張してたんだな、たぶん」
「私もよくわかんないと思う」
二人は笑った。
「――告白の返事が、そうじゃなくて良かった」
星野は宮尾を見つめた。宮尾も自分を見ていて、とても優しい眼差しをしていた。
「ありがとう。これからもよろしく」
いつから彼に恋をしていたのだろう。バスケが好きだったように、いつの間にか、当たり前の感情として胸の中に宿っていた。恋した相手が彼でよかった。こんなにも優しくて、愛おしいのだから。
枯葉を舞わせる秋風の中、どちらからともなく、キスをした。
バスケ物語