友人Y
わたしの友人のYは、大変な小説好きである。どれくらいの小説好きかというと、小説好きが高じて自分で小説を描き始めるほどの小説好きである。しかし、書き始めては破って捨て、書き進めては破って捨てで、一度もきちんと完成させたことはない小説書きでもあった。Yは、小説に関する持論をいくつももっており、酔っぱらうとその持論の一端をわたしに披露するのが常だった。
2月のある日のことである。久方ぶりに会ったわたしとYは、懐が寂しいこともあり、三千円で飲み食いできるというのが売りの、なにがし横丁とかいうつまらない飲み屋に入っていた。「一応、ビールの色をしております」というような安酒を三杯ばかり腹に入れ、程よく酔いが回ったころ、いつものようにYが奇妙な持論を主張し始めた。
「どうも、近頃の小説好きは、小説に対する意識が低すぎる」
金時の火事見舞いのように顔を赤くしたYは、ちゃちなテーブルにビアジョッキを叩きつけながらそう言った。
「口を開けばヤレ誰誰のどの小説が面白いだの、イヤあれは駄目だつまらないだの、ぺらぺら喋れば自分の格が上がるとでも思っているのか」
耳の痛い話であった。ヤレどの小説が面白いだの、イヤあれはつまらないだのと、ペラペラ喋り倒す悪癖がわたし自身にあったからである。
「いや全くその通り。困った話だ」
つい先日、読みもせずにつまらないと断じたYいち押しの小説、あれはなんという題だったかなどと思いつつ、わたしは神妙に見えるよう注意深く相槌を打った。
わたしの見事な相槌に気をよくしたのか、Yは話を続けた。
「偉そうに批評もどきをしているだけの人間の、どこが小説好きと言える。およそほんとうの小説好きであるならば、読むだけでなく、自ら創作していくべきだ。そうでなければ小説好きとは言えないのだ」
Yは口角泡を飛ばす調子でそう言ったかと思うと、とうに泡のなくなったビールをぐいと飲み干した。
「なるほどねえ」
わたしはテーブルに据え付けられた端末で新しいビールを注文しながら、曖昧に返事をした。
「でもそれじゃ何かい、小説を書かない人間は、自分が小説好きだって言っちゃいけないってことかい」
向き直ったわたしがそう質問すると、Yはちょうどわたしの分のビアジョッキに手をかけているところだった。
「そうだ」
ぐびぐびとわたしのビールを飲んで、盛大にげっぷをした後に、Yがそう断言した。
わたしはいささか驚いた。別段Yの主張に衝撃を受けたわけではない。Yがこの主張をするのは、今回が初めてというわけではなかった。Yにはどうも、同じ話を何度も繰り返す悪癖がある。わたしが驚いたのは、普段、そう深酒をしないYが珍しく人の酒をかっぱらうほどに飲んでいたからだった。
「小説が好きなら、自ら書いて小説という文化に貢献すべきなのだ。担い手になるべきなのだ。ただ漫然と消費するだけならば、豚でもできる。それは豚の生き方だ。いや、もっと悪い。のみ、しらみ、寄生虫だ」
そう言うYの目は焦点が合っていなかった。
わたしはというと、自らが寄生虫と断じられたことよりも、Yが帰路道中でもどしはしないかといったことを心配していた。
「そうだろうか」
「いや、そうだ」
Yはそう断言した。
結局、Yは道中でもどし、わたしのジーンズはあわれ、廃棄されることとなった。
次にYと会ったのは二ヵ月後、Yが狙っていた新人賞の応募期限が過ぎて、ひと月ほど経ったころだった。前回の反省を踏まえて、というよりも、また吐瀉物で服を駄目にされるのは困るということで、わたしとYは喫茶店に入っていた。
二、三、近況の挨拶を交わしたわたしとYは、それぞれにコーヒーを頼むと、椅子に腰かけていつもの如く雑談を始めた。
「どうだい、小説の方は」
煙草を取り出し火をつけたわたしは、安っぽいプラの灰皿を手前に引き寄せながら、そう尋ねた。
ところが、これまで喋りすぎるくらいに喋っていたYがどういうわけか沈黙し、返事を返さない。表情も、どことなく暗い。
「おい、新人賞、送るって言ってたじゃないか。どうなったんだい、あれ。なあ」
わたしは先ほどよりも大きな声で、もう一度尋ねてみた。聞こえなかったかと考えたわけでなく、単にわたしの性格の悪さの発露であった。
Yは今気づきましたと言わんばかりの態度で、「おう、新人賞ね………新人賞」と返事をした。なんとなく、「ああ、そういったものもございましたね」というようなYの調子であった。Yはしどろもどろに続けた。
「いや、それが、なんというかね、結局送らなかったんだよ。いや、中途半端な出来になるのは嫌だからね。良い物を書こう、良い物を書こうと頑張ってるうちに、締め切りが来てしまって。いや、自信はあったんだけどね、やっぱり、完成度は高めたいじゃないか。なんというかね、ウン」
どうにも要領を得なかったが、概ね想像していた通りのYであった。
「へえ、そりゃなんというか、残念だったね」
馬鹿にしてしまえば良いのだろうが、なんとなく、そういう気分にもなれなかった。むしろ、わたしの胸中には後ろめたい思いすらあった。つい先日、部内誌に提出する予定だった原稿を落としてしまった際に、Yと同じ台詞を使ったばかりだったからだ。無論、わたしのそれは言い訳であった。
「そういうこともあるさ、ウン」
ようやく運ばれてきたコーヒーを逃げるように啜りながら、わたしはそう答えた。
「おれは寄生虫なのだろうか」
しばらくコーヒーに手を付けず、真っ黒い表面をじっとを見つめていたYが、ぽつりとそう言った。
「この間言ってたことに照らせば、そうなるね」
わたしの言葉――というより、自らの言葉にYはいささか傷ついたようで、「うん、そうか」とだけ呟くと、やはりコーヒーには手を付けないまま、ぼんやりと天井を見つめ始めてしまった。わたしがしばらく、ああまずいことを言ったかしらん、こいつは面倒になったぞと思案していると、Yは勢いつけてわたしの方へ向き直った。そして、「いや、しかし」と幾分強い調子で言った。
「小説家だって人間だから、飯は食わなきゃならん。小説を買って読む人間は金を払って読んでるわけで、その金は小説家のところへ行くわけだろう。小説家はその金で飯を食って、また小説を書く。小説を書かなくたって、立派に小説という文化に貢献していることにならないか」
Yは一気にまくしたてると、自身満々といった様子で鼻息を吐いた。わたしはコーヒーへの逃避に没頭したかったが、Yは返答を求めているようだった。
「そうだろうか」
「いや、断じてそうだ」
そういうことらしかった。
それから丸一年ほど経ったのだが、今でもYはよい物を描こうと頑張り続けている。一年間も完成度を高め続けていることになるので、きっと今頃各出版社の新人賞を総なめできるほどの大傑作ができているはずなのだが、どういうわけか、いまだにYが新人賞に応募したという話は一度も聞いていないのである。
(了)
友人Y